時の器

軒下瑞燕

「わたしが死んだらうちにある長持(ながもち)のこと、考えてみて。偶に、でいいから」
 千歳(ちとせ)にとってはその遺言が重たい。長持なる突拍子もない小道具が飛び出しただけに、半年前は冗談としか捉えていなかったが、今となっては笑いようもない。事実、月子(つきこ)は死んだ。子供の頃からよく風邪をひく友人で、中学に上がる頃、生まれつき難病に冒されていると聞かされた。十五になる頃、いよいよいけなくなり、入院したが、その運命については本人が誰よりも分かっていた。
 冷たい風にあてられた山々がようよう色褪せてゆく秋、その一日。両親が一度、自宅に帰したがった。亡き骸は古びた屋敷に運び込まれた。
 雑木が茂る丘の麓になだらかな坂がある。沿って築かれた石垣は高いところでも一メートルぐらいか。その上で母屋や別棟などを白壁の塀で囲っているのが月子の自宅で、広い門扉の横に通用口がついている様が金と権力のにおいを漂わせている。本家として屋敷を引き継いでいるに過ぎず、然程、財産があるわけでもないが、千歳にとっては憧れの住まいだった。
 礼服代わりのセーラー服に身を包んだ千歳が坂の手前に立ち、何気なしに見上げていると脇の民家に人影が差した。障子戸の裏から縁側に出てきたので、挨拶をする。
「ゴン爺、寂しいことになったね」
「これから挨拶に行くのか?」
「そう」
「わしも後から。ちょいとやらなくてはいけないことがあってなぁ」
 ほうれい線がやけに深く、鼻の幅が広い割に顎が弱々しい。顔全体が歪んで見える。
 ゴン爺は矍鑠(かくしゃく)とはしていたが、何かにつけて信仰と迷信、加えて自説を混同する。本気と冗談の区別さえつけられそうもなく、何かを指摘されても、無視されても、泰然とそこにいた。
 苦手とする人も多いが、生前の月子とは不思議な縁があった。二人して縁側に座り、話し込む。春や秋など、過ごしやすい季節はとりわけで、少女と老人の感性が交われば花鳥風月の有様から、桃源郷を垣間見られるかもしれない。
 千歳は故人の思い出話に浸りたがった。しかし、ゴン爺には別の考えがあるらしい。庭に揃えてあったサンダルを履き、裏の畑に向かう。
 立ち尽くしている暇はなく、千歳は月子の自宅を訪れた。
 仏間に寝かされた亡き骸の側に壇がこしらえられていて、強いかおりを含んだ煙が香炉から立ち昇っていた。仏壇のロウソクに点った火が微かに揺れもする。
 父親と母親、二人の兄弟が車座になっていた。千歳が隣の八畳間に入ると揃って膝の向きを変える。誰も泣いてはいなかったが、父親が小刻みに手を震わせている。指にかけた数珠を壊してしまいそうだった。
「この度は」
 と、千歳が背伸びをした挨拶をすると深く頭を下げた。
「手を合わせてやってください」
 白布が掛けてあったので、月子の面持ちは分からない。もっとも、看護師や業者が化粧を施しているだろうから醜くはないだろう。
 元々、整った作りでもある。思春期における美の結晶、性の象徴。大きな黒目で他人の存在、その根底に潜む魂を捕らえて離さない。病弱なだけに腕や脚、腰回りこそ細かったが、胸の膨らみや尻の丸みはそれなりにあった。測ればより豊かな生徒が何人かいるが、対比の所為で際立っていたのが、千歳にとってはうらやましい。小太りで、男子から侮られがちな女子生徒にとって、美しい月子は少々の劣等感を抱かせかねない友人だった。
 胸のポケットから数珠を出し、拝んでから切り出す。
「あの……不躾ですけれど」
 ぎこちなさが伴うが、中学生である。遺族も極度の礼儀を求めない。まず、母親の登紀子(ときこ)が、
「はぁ、何か?」
 弔いに相応しい黒い洋服の肩がやけに丸いのは肉付きがよいからで、一見、月子とは似ていないが、健康面で差がある。それを踏まえた上で言えば、やはり母娘(おやこ)だった。黒目が同質の光を帯びている。
 千歳は真正面から受け止めた。
「月子ちゃん、入院してからはどんなふうだったんでしょうか? 何度か、お見舞いにいきましたけれど、あまり話をしなかったので」
「それは、失礼しました。この子、こうなるって分かっていたのかもしれません」
 登紀子は娘の亡き骸を見遣る。
「小説というか、日記というか、ノートにものを書きつけてばかりいましてね。わたし達にはよく分からないようなことも。貴女、ああ、いえ、こんなことをうかがっては変に思われるかもしれませんけれど、あの子から長持の話、聞いてはいませんか?」
「如何いうことです?」
「色々と書いてあったんですよ。ちょっとした想像ならいいんですけれど、本気にしているようなところもあったので、お友達なら何かご存知ではないか、なんて」
 予期せずして月子の遺言と結びついた。慣例からして長持を棺桶代わりに出来ないのは千歳も理解しているが、肝心なのは友人が望んでいたことで、切実な願いがあったのかもしれない。
 現実と幻想の垣根を取り払った感覚を持つことは、若くして黄泉路に向かわなければならない宿命を受け入れるのに必要だった。健康であれば視野に入れるべき学歴、職歴は月子にとって夢物語でしかない。しかし、周りはそれなりに実現していく。そこに絶望の沼が広がっている。呑まれないようにするのに月子は自らの世界を構築し、拠り所にしたのだろう。長持はその小道具だった。
「そのノート、読んでみたいんですけれど」
 と、千歳が頼んだのは、友人の真意を掴みたかったからである。
 それについて登紀子は家族と目を合わせ、賛否を訊ねた。あえて隠さなければならない理由はない。また、月子の友人である千歳に片棒を担いでもらえば、真相に近づけるかもしれない。
「ここではなんですから、こちらへどうぞ」
 登紀子は千歳を応接間に案内する。丸と四角を組み合わせ、意匠とした中東風の絨毯が八畳間に敷かれていた。椅子とテーブルが揃いなのは、ゼンマイのように丸まった脚の先を見れば明らかで、年代はいかほどか。フェルトで覆われたクッションが硬い。
 片側の敷居に立ててあった四枚の障子戸の内、二枚が開いた登紀子は縁側に出、ガラス戸のねじ込み錠を抜いた。屋内に秋のそよ風を招く。
「お茶をお持ちします」
 との登紀子を待ちながら千歳は庭を見た。軒先に(かえで)が生えている。まだ、紅葉には至っていないが、黄色い染料が数滴だけ落とされ、広がったような風情がある。筋となった雲の間から下り、裏山の斜面を滑る涼やかな風を受け、囁き始めた。奥に生えた松は強靭で、かさを落とすにしてもまだ早い。常緑の葉が剣山か、と。裏にあるのは分厚いしっくいの壁で、屋敷を囲む塀の一隅に二階建ての土蔵がある。共に座禅中の雲水めいた沈黙を守っていた。
「ちょっと薄いかもしれませんけれど」
 戻ってきた登紀子が漆塗りの盆からテーブルの上に移す。麦茶が入ったコップだった。接客用の高級品で、カットの仕方に工夫が見られた。円を成した菱型が光を屈折させている。
 千歳がコップを空にしている間に登紀子は肝心のノートを持ってきた。簡素な大学ノート二冊分だった。千歳はとりあえず表紙を捲る。罫線に沿い、整った文字が並んでいる。よく本を読んでいたからか、月子は文章の作法を心得ていた。内容ごとに段落を設け、適度に空行も入れてある。
「他のお客さんもお見えになるでしょうから、わたしはこれで。何かあったら呼んで下さい」
 と、断って、登紀子が下がると千歳はノートを読み始めた。
「長持の外と内、どちらが世界か。繋がっているのか、ブツリと切れているのか。蓋が下ろしてあるのではっきりしない。錠を外して開けると焼きものや書画の箱が入っているのだけれど、本当にそれだけだろうか? 蓋に光を遮られ、闇に閉ざされているだけなのだろうか?」
 そんな文言が一ページ目にあった。月子が長持について特別な観点を持っていたのはたしかだろう。ただ、やけに幻想に寄っている。本人が書くところによると、長持は境で、潜った先にも世界があるらしい。
 しかし、通じているのは蓋が閉まっている時だけで、開けると何らかのスイッチがオフになり、次元間のトンネルが消えてしまう。その言葉については月子が表した通りで、空想科学小説から引っ張ってきたのかもしれない。珍しくもない想像で、千歳も似たようなことは出来る。例えば、今、頭の上にあるチューリップ型の電灯に重大な秘密が隠されていたとすれば面白い。
 もっとも、月子の書き方はその手の冗談とはかけ離れていた。
 千歳は椅子を離れ、縁側に立つ。ノートの記述を読む限り、その長持は屋敷の土蔵に納められているらしい。
 四角い空間の一隅、冷たげな電灯の光に照らされているが、ニスは禿げ、四方を固める金具も酸化している。艶はない。くすんだ蓋の表面に流れを生む木目に目玉に似た模様があり、巨大な髑髏(どくろ)と化して側に立つ者を見上げる、と、月子は書いていた。
「スイッチが壊れて、次元間のトンネルが繋がったままになっていたとしたら、そこには何があるのだろう?」
 ある日、月子は蓋を持ち上げた。むろん、境を越えられはしない。下ろしてから板敷に膝をつき、指を這わせる。
 周囲には行李と箱が積み上げられている。棚には壺やガラス器が納めてある。三本並んだ柱には小面(こおもて)(うば)般若(はんにゃ)と三枚の能面。頬あての髭が広がった紺糸縅具足(こんいとおどしぐそく)鎧櫃(よろいびつ)に乗せてもあった。
 正式な名称で述べられても千歳の頭の中では像を結びにくい。しかし、月子は旧家の娘だけあって知識があった。また、ノートの内容は手記に近い。読み手に一々、説明する必要はなく、衣食に関することがほとんど書かれていないのも当然だろう。
 月子は長持の蓋に胸の膨らみをあてた。覆うものはない。潰れ、広がれば若さの証たる弾力が際立った。体温と木材の冷たさが混ざり、互いの存在が重なり合う。月子は丸襟のブラウスと若草色のスカートを気に入っていたから、常識からすれば飛躍した想像でしかない。しかし、ことは記述の内である。罫線の間に現れた霊魂が千歳の感を刺激した。
 学校でよく、
「次の時間、体育……嫌だね」
 と、言っていた月子。参加するにしても、見学するにしても、体操着には着替えなければならない。セーラー服を脱ぎ、スカートの留め具を外して簡素な、それでいてゴム周りにリボンをあしらった少女らしい下着を露わにした。そこに秘められた肉体の部位は一年目の春は目立たなかったが、徐々に膨らんで、二年目の夏頃には美しい丸みを描いた。
 水泳の実技があれば、紺のスクール水着に着替える。ふだん、隠されている真実が示される。上向いた頂のほんのりとした彩りの際がぼやけていること、細い脚の付け根が作り出した狭間、一方で無限にも近い広がりに落ちた影のことまで千歳は覚えていた。一年目は産毛が密になっているだけだった。二年目となれば範囲こそ狭いが黒々としてくる。それまで剥き出しだった深淵への道は半ば隠された。それは少女の体が大人に近づいている証だったが、結局、死によって覆された。子供と大人の狭間にある肉体は葬式が済めば火葬場に運ばれ、灰となる。

 千歳は二冊目のノートを開いた。書かれていたのは運命が定まった後の心情だったが、今になってみると然程、体調が悪化していない時から月子の言動は予兆に満ちていた。
「千歳ちゃん、子供欲しくなったことある?」
 日差しが斜めにならんとし、片側の斜面が暗くなった土手を歩いていて、ふいに月子が囁いたのは昨年度の終わりがけのことである。
 保健の授業は受けているから意味こそ通じたが、千歳にとっては綺麗な話ではない。
「別に。誰か気になる男子でもいるの?」
「正直、そこは誰でもいいんだけれど、わたしがここにいるのは如何してかって」
 校則に従い、髪を留めていたバンドを外した月子は川沿いに植えられた桜の枝を見上げた。
 まだ、裸の枝が寒風に揺れていた。蕾は膨らんでいる。
 山間の町では数少ない観光スポットで、三月の中旬にもなれば薄桃色の花が咲き、雲のようになっては川面に映る。散った花びらが流れに落ちては無数の舟となり、掉さして下流へと向かう。
 四月の中頃、伸びて広がる葉の下で、千歳はあの遺言を聞いた。間もなく、月子は外出しなくなった。引き籠りとの噂が流れたが、身内と学校関係者の間では話がついていたのだろう。千歳に簡単な連絡を頼んだ時、担任の口振りにはある重たさがあった。
 伝えに行くと月子は一見、健康そうだった。しかし、病魔であったか、憂鬱が形を成したか、それとも諦念の類か、千歳には正体を見抜けない無数の触手を絡みついていた。目の奥には深みがあった。周りの筋肉を動かさず、ただ、整った鼻の下の唇を薄く色付いた三日月の形に変える。
 そうした日々の記憶とノートの記述の影響か、千歳の精神は友人と重なり、赤裸々な行為を意識した。白き裸体、黒き髪、月子は長持の蓋に片膝を乗せる。芯に到る道は熱く、心まで溶かしてしまいそうだった。(くう)卵子(らんし)が浮かぶ子宮も異界の入り口たるトンネルと繋がればことわりを流し込まれる。受け取った卵子が空と海に別れる。海底から現れた大地には森が出来、獣や鳥が生まれ、人の姿もまた。村、町、都市を発展させ、大いなる文明を築き、やがては空の果てを目指そうとするが永遠に行きつくことはない。広大無辺の外郭。それこそが月子の子宮だった。
「ただ、わたしはここにいる」
 文末の一文を読み、千歳はノートを閉じる。応接間を後にする。現実と幻想の境があやふやになっていた。月子の見解は極端ではあるが、眩暈(めまい)さえ引き起こしかねない魅力を含む。それを登紀子に伝えるべきかは迷うところで、上手く説明する方法がない。
 広い屋敷とはいえ城や御殿程ではないから、考えごとをしていても、廊下を歩いていればじきに仏間に着く。襖の陰からうかがうと登紀子達遺族がゴン爺の相手をしていた。
「それじゃあ、月子ちゃん、また」
 老人が遺体に別れを告げると登紀子がたかつきに手を伸ばし、モナカを取る。挨拶に来た人々への返礼で、しわの寄った浅黒い手が掴む。
 玄関に向かう老人の背は小さい。さきの言葉の意味を捉えかねたか、月子の父親と兄弟が顔を見合わせる。自らの命数について、縁起でもない想像を巡らせ、諦めなのか理想なのか、後を追うつもりでいるとするのが現実的な見方だろう。しかし、あまりに理に適っているだけに、かえって現実性を欠いている。老人は別れそのものが意味をなさなくなる程の真実を見抜いたのかもしれない。
「ゴン爺」
 千歳が呼ぶと上がり框に掛け、履きものに爪先を通していたゴン爺はたたきに立ってから振り向いた。七福神が浮き彫りにされた衝立の陰で、八柱目の神が現れたような風格がある。
「何かな?」
「月子、今、何処にいるの?」
 現実性がないばかりか、漠然としているが、ゴン爺は達観している。過度の教育に毒された脳では到達出来ない境地で、俗に無学な愚か者とも呼ばれるが、科学の矮小さを証明する曖昧な何かについて語らせれば、その知性に底はない。
「外だな。内でもある」
 そして、ゴン爺は格子戸を開け、軒の影を踏んだ。その先がやけに赤いのは日が暮れかけていたからで、逆光の為に西の山々が黒ずんでいた。秋の一光景でしかなくとも、月子の死が独特の雰囲気を漂わせていて、白髪の先まで染め上げられた老人に超人の姿を与える。爪先こそ上がり切らないが、来客の為、開放された門を抜ける様も堂々としていた。
 千歳がまじろぎもしなかったのは、どれぐらいの間か。時を忘れそうになるのは、その奔流に浸かり切っていたからだろう。月子の幻想に潜んでいる真実、その端緒。掴みかけてはいるが、一貫した論理性を持ち得ない事柄だけに、今、別のことに関われば、観点は純粋さを失い、その切欠は永遠に失われかねない。
 踵を返した千歳は仏間で登紀子に頼んだ。
「小母さん、蔵の中、見せてもらえないでしょうか?」
 唐突で、月子の遺族は皆、戸惑ったが、
「ノートのことで、ちょっと」
 と、言われれば、提案を受けている手前、断れない。登紀子が応じた。
「今なら鍵、開いていますから」
 月子の通夜葬式は業者の会館でやるにしても、旧家であれば弔いに際してしきたりがあり、運び出さなければならない道具が幾つかある。千歳も地域の住民だけに逐一、理由を訊ねはしない。玄関から庭に回り込んだ。
 庭木に止まっていた小鳥が二羽、足音に驚き、小枝を揺らして目の前を横切る。裏の木立に羽ばたいたのを見送ってから、千歳は蔵に近付く。
 一段、上がると格子に網が嵌め込まれた戸が僅かに開いていた。右手を差し込み、滑らせると手の平にその重みが刻みつけられるかのよう。敷居の溝とこすれ合う、鈍い音が響きもした。内に土間がないので、その場で靴を脱がなければならない。板敷を踏むと靴下越しに冷たさが伝わってくる。
 灯りが消えていたが、スウィッチの場所は何処であっても概ね同じで、左右の壁を見ると古い、丸型の機械が取り付けてあった。摘みに指を掛け、下ろすと明るくなったが、裸電球である。煌々とはしておらず、完全に闇を追い払う力はない。それはものの陰をぼんやりとさせ、隙があれば踊り出してきそうな勢いを持っている。
 千歳は床板を軋ませ、長持を探した。月子の記述にあった能面を目印にすると小面(こおもて)の下にあった。
 月子が寄りかかっている。裸で、揺らした尻のくぼみに熱く、濃密な影が落ちている。一瞬だけ浮かんだその幻影に感情を重ねるべく、千歳は長持の蓋に触れた。指を通じて真理が流れ込んでくるのを期待したが、やすやすとはいかない。冷たかった。カンナやヤスリがかけてはあるが、微細な摩擦が神経に伝わる。あの遺言やノートの記述がなければ、旧家の家財道具以外の意味を持ち得ない。
 長持の神秘は月子の想像、ゴン爺の達観によってのみ成立する。それについて二人がどのような見解を交わしたか、千歳は知らない。縁側に並び、囁き合う少女と老人の姿が脳裏に浮かんだが、そうした出来事がなかったとしても無言の共感がある。目配せさえしなくとも、横にいるだけで影響を受ける個人がいる。
 そうだとすれば、あのゴン爺の回答こそが、月子の真意に到る標だろう。
 月子の子宮が世界を包み込んでいる。そこに外と内の定義を与えるならば、すべてはあの卵子(らんし)の分裂を起源としているに違いない。この場合、外とは肉体に他ならない。もっとも、それだけで解決する程、単純な事柄ではない。ゴン爺の言葉に従うならば、月子は世界の内にも存在している。
 それだけでならば、お手上げだっただろうが、千歳は長持に関する月子の見方を把握している。ノートに記されていたように、蓋が閉ざされている間のみ次元間のトンネルが繋がるのだとして、その先にはどんな世界が広がっているのだろう。剣を手にした騎士が巨大な竜と戦う殺伐とした世界、空想科学小説めいた過去、未来、あるいは現代と平行した世界。捨てきれない可能性はもう一つある。
 人生の最期にあたり、月子は気付いたのかもしれない。だからこそ、あの一文をノートの末に残した。次元間のトンネルが捻じ曲がり、長持の底に繋がってしまったとしたら外にも内にも存在出来る。積み重なる想像に千歳は圧し潰されそうになった。蔵の扉が開き、名を呼ばれなければ、正気を失っていただろう。
「ああ、登紀子さん」
「ぼんやりとして、如何されたんです?」
「御用ですか?」
「夫がね。ご夕食、差し上げたらって申したものですから。こちらの都合に付き合わせてしまったので、せめてものお礼に。お(うち)には後でお送りします」
 応じるか否か、千歳は決めかねたが、この先、蔵に居続けても何が変わるでもない。登紀子の後について表に出る。
 日はすっかり暮れて、空には無数の星が輝いていた。恒星は千歳達がいる地球より遥かに大きい。光の速さで何万年という果てしない距離によって小さく見ているだけである。月子の子宮が本当に世界の器となったのだとすれば、その広大さは人知の及ぶところではない。理屈の上では少女一人の死によって世界は無に帰さなければならない。しかし、この際、時間を考慮すべきだろうか。もし、人としての月子と世界が運命を共にしているならば、年長者がそこにいる事実を説明しきれない。しかし、子宮と世界の関係性に霊性がきらめいているとすれば、空間や時空が歪むのではないか。いや、それは人間の主観でしかなく、本来は絶対の摂理として宇宙を成り立たせているのではないか。
 そこで、あの遺言が意味を持ってくる。月子は自分が宇宙である事実、また、宇宙を孕む事実と向き合っていた。数少ない友人である千歳に伝えようとしたが、科学的に証明しようもないだけに奇妙な話になった。
「わたしが死んだらうちにある長持(ながもち)のこと、考えてみて。偶に、でいいから」

時の器

時の器

少女と宇宙、時間にまつわる物語。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-12-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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