Kuuma
影が青く、色濃く肌に這い寄る。午前中の美術室は陽も差さず、夏が届ける濃厚な湿度が辺りを占領している。開けた窓からは風のひとつも入らず、汗がだらだらと溢れて肌を不快に汚す。
「せんせぇー。暑いですねぇ」
部屋が暗いと水彩画全体の彩度が落ちてよりくすんだように見える。数日前に校舎裏の林の写生をして着色しているが、ただでさえ鬱蒼とした場所を選んでしまったせいで、夏らしい爽やかな緑とは程遠い。
色が濁りつつあるパレットにうんざりしながら筆に色を含ませるが、そういえば顧問からの返事がない。元から人の返事に応えるような人間ではなかったが、他の生徒よりは親交を深めたつもりでいたので、期待を胸に目線だけを上に上げた。
「せんせ………………あれ、」
さっきまで椅子の上で小さく丸まっていたはずの先生がいなかった。伸びかけの髪を女生徒から貰ったというクリップで留めて、裸足をぶらぶらとぶら下げて遊んでいた気がしたのだが。
そういう人だ。ある意味で自由で気ままな人なので、生徒がいようがいまいが授業を抜け出すことも厭わぬ人だし、部活中は寝こけて過ごすことが大半なので、今更憤慨することもない。いつものことだと思い、髪の内側に溜まる湿気を振り払うように髪を掻き乱すと、ふと美術室の扉が開いた。
「…………あれ、先生」
「なんだ青島。まだいたのか、早く帰れ」
「せんせぇーまだ部活中だから。そもそも先生何処行ってたの」
「お前に関係のあることか?」
殊更に自分には辛辣なのも彼だった。夏でも長袖のYシャツを着る彼は、うっすらと汗を滲ませつつも暑苦しさを微塵にも感じさせない。長い腕にはレジ袋が下げられていて、ヴェルベットのみすぼらしい椅子に腰掛けると、中から何かを取り出した。
「あー! ずるい! 先生ずるい、俺にも頂戴!」
「私は朝ご飯がまだなんだ……。お前の声はうるさい、頭に響く。帰りに買って食べたらいいだろう」
「いやいや……ご飯をアイスで済ませようとしないでくださいよ」
青緑の大きなカップを取り出すと、蓋を開けてゴミ箱へと投げ付ける。すとんと入る蓋をよそに木の匙を袋から引き抜き、大きな塊を掬った。
チョコミントだな、という直感。最近発売された期間限定のカップアイスだ。周りはチョコミントの流行りに乗って、誰もがチョコミント味の食べ物を求めた。でも自分はほろ苦いレモンの味がした氷菓子が食べたかった。それかグレープフルーツ味の氷。
「先生って流行りものすき?」
「……興味がない」
「言うと思った」
「でもこれは甘いと聞いたから」
だから、多分好きな味かもしれない。そういうなり毒々しい色をした塊を口へと一気に放り込み、舌で溶かした。
彼は――園先生は人に心を開かず、他人の干渉を一切許さない、そんな人だ。彼から誰よりも好かれてないであろう自分にだけ、甘いものが好きだと教えてくれた先生は無防備にアイスを掬い、口に入れては舌なめずりをひとつして見せた。
ああ、あんな色も水彩に使えるかもしれない。そう思い立って淡い翡翠色をパレットに生み出すと、ぽたりと汗がひとしずく、吸い込まれていった。
「ああ、もう……」
拭っても拭っても垂れる汗を前腕で拭うと、乾いたビニールの音が前方から飛んできて、見事額へとヒットした。
「いてっ」
握っていた筆は手から滑り、折角作った色へとダイブしてしまった。綺麗に混ざった絵の具は他の色と混ざり、見るも無惨な色合いになり、不貞腐れながら原因の元を手にすると、眩しいくらいのレモンイエローが目を刺激する。
レモンミントのアイスバー。氷菓の表示がついた袋と、これが飛んできた方向を交互に見やると、先生は黙々とアイスを食べ進めている。当然こちらのことなんて興味がないのだと言いたげに。
「なーに、これ」
「見て分からないのか」
「分かりますけど、なんでアイスを投げて来るかなぁって」
あっという間にアイスを平らげたのか、カップを上にして傾けると、ぽたぽたと溶けたアイスが垂れて、伸びた舌に落ちる。毒を食らわば皿までという言葉があるが、紙皿まで食わん勢いの彼は横目でじとりと睨み付けている。
食え、と言いたいのだろう。ああ、食べてやるさ。封を開けてみれば、溶けたアイスはすっかりと緩んでいて、しかも粉々に砕けていたが。
「要らないなら返せ」
「要らなくないです、食べます、いただきます」
半ばヤケだった。大口を開けて飛び込む氷菓は甘ったるくなく、ミントの青臭い匂いがむしろ心地好いくらいで、渇いた喉と汗だくの体を瞬時に癒した。
先生は横目で見届けると、カップもゴミ箱に放り投げ、また袋から細長いカップを取り出して蓋を開けた。もう溶けているだろうに、彼は躊躇せず溶けたバニラを匙で掬い、口へと含んでいる。
青い影が充満する美術室はどこかカビた匂いがする。フローズンドリンクを流し込みながら、アイスを食べる先生を見ていたら、濁った絵も色が混ざってしまったパレットも、汗臭い体も気にならなくなってしまった。
夏なんてこんなものだ。特別なことはないけれど、勝手に感傷的な思い出に昇華されてしまう。べとついた手で顔を仰ぎながら、彼の丸い背中の輪郭を辿る。
彼の背後には、妙に背の高い花の面影がぬらりと顔を出していた。頭を下げる大輪の花は光を探し彷徨うが、此処に差す光はまだ向こう。寂しげに首を垂らす花をどう剥がそうか、そればかりを考えていた。
「先生」
「うん……」
「向日葵、綺麗だね」
「そういう主観は好きじゃない」
指についたバニラ液を舐めながら、彼はやはり興味がないのだと言いたげにカップに直接口を付けた。そして溶けたアイスを一気に飲み干すと、向日葵にぶつけようとカップが投げられる。
カップが花にぶつかることはなく、白を散らせるだけのカップは虚しく床へと転がった。
Kuuma