Nelumbo nucifera



 ごぷん、と音を立てて沈む。照明すら落とした浴室は棺桶みたいだ。浴槽ぎりぎりまで入れられたお湯は溢れて排水溝へと流れていき、私は瞑目する。
 人は水と酸素と塩があれば生きていけるというのなら、私は此処でだって生きていける。僅かに塩味を感じる泥が沈んでいて、酸素がたっぷりと溶け込んだ水中で易々と息をすることができた。伸びた髪が海藻みたいに踊っているものだから、私は人間ではなく水棲生物なのかもしれない。
 地上は呼吸がしづらい。排気ガスは濃いし煙草を吸う輩は多いし、二酸化炭素が蔓延しすぎて街路樹なんかでは清浄しきれない。いよいよ肺が潰れてしまうから、私は此処で何処かのエラでも拾ってきて呼吸するに限るのだ。
 水温は四十度。熱いような温いような絶妙な温度の湯の中で、脚を折って沈んでいる。部屋は狭くていい、だがバスタブは広い方がいい。私のような体躯の男が適度に沈み込めるような広さがあれば、子どもみたいに頭からすっぽりと浸かっていられるのだから。
 たった一分という体感時間に永遠すら感じる。以前魚の鱗が生える病に罹ったことがあったが、こんな時にあの鱗があれば、水がより良く似合ったことだろう。しかし私は人間であるから。等しく肉の塊になれたとしても魚と人では体の構造が違う。酸素があれば生きられる、という単純さで生きられるほど世界は優しくないのだ。

(世界は私に優しくないさ。世界は平等で、枠は一定数ある。幸福な人間、不幸な人間、秤で釣り合うように均等に分けられている。不幸には慣れたが、私は詰まりそっち側の人間ということ)

 自分がこのような体質になった原因は把握している。しかし自分には止める術がなく、止めたいかと問われたら素直に首肯できない歳になってしまった。この体が何かに蝕まれるまで寄生され続けるであろうし、最近では『彼』に気付かれぬように息を殺してまで身に潜むものもいる。
 例えばそう、これとか。

「出ておいで」

 水中で囁けば、二酸化炭素混じりの泡が徐々に濁り出す。何の変哲もなかった肉体からは指の先ほどの穴がぽこぽこと開き、ひとつだけ点在していた穴はふたつ、みっつと数を増やした。不揃いの穴はどんどん増えて私の体は蜂の巣のように穴が集結してしまった。
 小さな穴からは脈に合わせて茶褐色の何かが吐き出され、クリアだった視界はあっという間に閉ざされていく。透明だった湯は見るも無残な汚水へと変わり果ててしまった。
 穴という穴から排出されたものに触れるとねとりとしており、しかし粒子は細かくさらりとしている。だがたまに大きな塊なんかもあったりして、少々ヘドロのような臭いも溶け込んでいた。
 泥だ。私の中の澱が汚泥と化して浴槽を汚している。水底に沈む泥はどんどん浴槽を圧迫していくのに、自分の全身は収まりきらぬどころが更に底へと沈んでいくのだ。浴室の底が何処かの底なし沼へと繋がっているのだろうか、私の枝のような脚すら折り曲げずとも収まるし、伸ばしても水面から先が出ることもない。そうして私はどんどん沈んで、沈んでいく。

(幸せである必要とは、何だろう。これほど生きて答えが見い出せないのに、残りの人生で理解できるものなのだろうか)

 私が思考すれば思考するほどに、泥は体内から流れ出た。泥の成分は自身の老廃物を元にしているのか、それとも食事の残滓でも吐き出されているのか、毎度感じるが寄生の習性や構造が理解できない。
 そもそも寄生するものたちが生物なのかすら疑わしくもあるが、全てが判明したところで私は何もしない。取り憑きたいのなら好きにすればいい、特に長生きも望まなければ命乞いする気もない。
 ただ、彼らは私とリンクしている。呼応する、音叉のように私が鳴けば彼らも鳴く。それだけに過ぎないが、親近感がないわけではない。美しいものが嫌いである私だから彼らは肉体を望むのだ。

『好きなものは何でもあげよう』
『あなたはお利口さんね』

 ぞくりと寒気がする。脊髄に氷水を流し込まれたかのような震えが全身を襲った。鳥肌が立つ代わりに穴から丸い物体が突出し、そこから何かが這い出していく。それが何かは見なくても解る。
 芽が伸びる。遠くなってしまった水面へと長く細く伸びたかと思うと、丸い葉が水面へと顔を出した。そこから更に茎が伸び、蕾が姿を現し、そして今か今かと花咲くのを待っている。

「…………まだお前が咲くには穢れが足りないだろうさ」

 それは頷いた。見えずとも蕾を携えた細首がこくりと縦に動くのを感じる。だから彼らはまだ咲かない。その代わり何時でも花を咲かせられるように私の体内に巣食っては、どの寄生にも邪魔されるように愛を構えて待ち望んでいるのだ。
 ――この体を愛し尽くして殺して、崇めるために。

『だから君をくれたらいいよ、そうしたらずっとずっと、誰よりも幸せにしてあげる』
『私たち、一緒に幸せになりましょう』
『貞春は誰よりも綺麗だから』
『春ちゃんは本当に綺麗な子ね』
『愛してるよ』
『ねえなんで』

 ごぷりと音を立てて、また水が濁る。記憶の引き出しにしまい込んでも、曖昧な記憶の断片は時に意思を持って引き出しをこじ開ける。そして都合の悪いシーンばかりを切り取っては眼前へと突き付けるのだ。
 嘘を吐け、垣間見せた永遠は呆気なく消え失せた。欲しかった幸福は彼方へと消し飛んだ。愛などまやかしに過ぎなかっただろう、どの口が言う。
 どろりと泥が溶け出して、穢れどんどん広がっていく。そして穴から伸びる植物は比例して増えていくばかりだ。

『貞春、花は好きかい。花言葉を覚えておくといい、女の子はそういうものが好きだから』
『たかが石ころだなんて思わないで。石は神秘の塊なの、だから春ちゃんに見合う石もいつか見付かるわよ。そうね、黒曜石なんてエキゾチックでいいかもしれないわね』
『蚕蛾ってのは家畜と看做されてる虫だ。ひとりじゃ生きていけない、可哀想な生物だ。だから人がいる、生かして殖やす、そして殺す。そうして絹糸を得る』
『春ちゃん、ほら。美しいでしょう』

 ヘドロ臭は悪化するばかりだった。鼻につく匂いが肺を冒し始め、吐き気が止まらない。胃には何もないのに汚泥がぐるぐると腹の中を掻き回しているようで苦しかった。
 汚泥が四肢を掴んで離さない。過去の執着がみっともなく自分に向けられて、自分を甚振り続ける。初めから逃げ場なんてなかった。救いだってなかった。『あの日』から自分は『あの人』のものなのに、その人は一生自分のものにはならなかった。『あの人』もそう、求めた温かな視線は永遠に得られなかった。延々とした無情が胸に巣食って齧られて、そうやって内面が磨り減っていく。

「嘘つき」

 ごぼりと一際大きな泡が口から逃げていくと、とうとう呼吸ができなくなった。苦しいのに光が遮断されて光の在り処すら解らなくて、酸素が遠過ぎて、ぬくもりも鼓動も此処にはなくて、只管に汚水が凍てついて身を重くさせるだけだった。
 泣きたい、しかし涙は奪われてしまった。笑い方も忘れて泣き方も思い出せなくて、脚は変形し始めて長く長く伸びては節ができる。真白く伸びるそれは降り積もった汚泥へと突き刺さり、軈ては根付いた。

(りん)

 独り善がりな少年が脳裏を過ぎった。寄生が体を襲うようになった頃に彼と出会った生徒。いつの間にか私の寄生を剥がすようになった。私を変なものに仕立てるのが上手い子であったし、あの子のせいでこんな目に遭っていると疑いつつも、それでも。

「燐」

 あの子だけは隣にいてくれるから。欲しいものをくれずとも、辛うじて人の形を保てているのは彼のお陰でもあるから。
 だが、そろそろ。

「お前の望む終わりはもうじき訪れるさ」

 終焉が花開く頃、私は一体何になるのだろう。私も何かに変貌してしまうのか、それとも養分となり成分となり、個を消失させて消えるだけなのか。
 それはきっと、『神様』のみぞ知ることだろう。
 燐、りん。私の春がもう、遠いんだ。
 いつか私の春が死ぬとしたら、お前は看取ってくれるかい。そうしたら『あの人』の代わりに名前を呼んでくれるかい。



 その時は話をしてあげよう。私が愛してやまなかった『神様』のことを。愛してほしかった『聖母』のことを。そして天上に在す神は無慈悲な愛しかくれないことを。
 そして、私が背負う十字架のことも、みんな。
 だから今はそうやって私に騙されていなさい。嘘つきな大人に成り果てた私に、嘗ては少年だった私に、今だけは。そして終わりが来たらどうか、『私』を終わらせてほしい。
 誰にもなれなかった私の、最後の我が儘。

Nelumbo nucifera

Nelumbo nucifera

2019.1.22発行「パラサイト・イン・ザ・アートルーム」より

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-12-01

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