絵具 Temperare

衣更絲子


「先生はどの季節が好きですか」
 そう尋ねたことがある。どうせ答えないだろうと高を括っていると、「夏……」とぽそりと洩らした。タイミングよく鳴き出した蝉は先生に従順だ。夏にも愛されているのかもしれない。

「俺の誕生日は夏なんですよ。もうすぐ十七になるから何かください」

 そう得意げに語ったら流石に聞き流されたが、吹き込む青い風に髪を靡かせながら理由を話してくれた。
 季節が一巡する。季節が殺し殺され、そうやって生まれていく。夏は生命の匂いがしないか、熱気に紛れて土やアスファルトから立ち込めて、命を焼き尽くす。陽炎の先に頭を垂れた向日葵や、乾涸びたミミズがいると生きた心地がする。蝉が腹を見せて命を終える姿には情緒があると私は思う。垂れる汗が地に吸い込まれて跡形もなくなろうとも、命はそこにあって巡るのだ。そして皆、死んでいくのだ。お前も、私も、と。
 そう言いながら彼は花壇の花を一本だけ手折る。枯れるのを待つだけとなった花を撫でたのは彼だった。花びらの流曲線を象り、花の一生を人差し指にて慈しむような光景に息を呑んだのを覚えている。彼が触れたら花はたちまち姿を失い、新たな生命として生まれ変わるのではと期待したが、彼のこめかみからは汗が垂れるだけだ。
 真っ白なシャツに汗じみが広がる。湿って肌が透けそうなのに、彼は元来より血色が悪い。最期に纏う装束らしいオフホワイトはゆっくりと藍色に変色を始めていた。

「たまには私のことでも教えてやろうか」

 彼は誰かに話し掛けるのを嫌っていた。花壇荒らしをする彼に声を掛けた時もこの世のすべてを恨んでやるといったような顔をされた。(鬼の形相とはあれを言うのだろう。あの顔は一生忘れないだろう)こうして部室以外で落ち合えば頑なに声を発さない。眼の前で喫煙をしていようが、至近距離で顔を覗き込んでいようが、全然動じない。
 彼は冬生まれなのだという。本当は三月中旬に出産予定で、春に生まれるから貞春と命名されることも決定していたのだが、思いの外出産予定日が早まったらしく、名前もそのまま当てられた。危うく冬彦という名が付けられるところだったらしい。
 冬が大の苦手で寒がりなのは言わずもがなだったが、彼はいつか訪れる冬が嫌なのだという。そして次にやってくる春が生まれるだけの季節でしかないからもっと嫌いなのだと。
 何かと理由をつけて非難するきらいがある彼だったが、好きという単語に反応するのは珍しいように思う。もっと突っ込んでみたかったが、下手に煽って閉口されるのも困るので、土が付着した彼の指先の行き先を見守っていた。黄色の花に執拗に触れるばかりで頭を上げようとはしない。

「嫌いなら嫌いなままでいいでしょ。俺は先生の話が聞けて満足です」

 手向けに煙草を一本取り出し、ライターを点けるとたちまち先端が赤く燃えた。向かいでは彼が小さく咳き込みながら、細く揺蕩う煙に見入っていた。子どものくせに、とごちた低声には敢えて耳を傾けず、黄色く小さな、何とも地味な花へと灰を落とした。
 誰が植えたわけでもない花を彼が殺した。誰が悲しむでもない弔いを自分がしてみせた。甘く香る髪は夜光に濡れ、ひどく艶めかしい。そうやって変わり映えしない秘匿を更新し続ける。

「卒業までは先生の隣にいますから。それが俺の役割だから」

 秘密はそうやって芽吹き、成長を遂げている。だのにお互いのことは何も知らないのだ。教師と生徒だけではいられないのに、それ以上にならないふたりはきっと生きてもいないし、死んでもいない。

「私が終わるまで、の間違いだろ」

 烏が夜を啄んでいる。俺たちもあんな風に意味もなく鳴けたら良かったのに。だのに彼は一度だって鳴いたことがないのだ。



 絵心なんて簡単に育ちはしないと諦めていたのが去年の話。今年はパレットを片手に油絵の具を練り合わせている。溶き油を混ぜて伸ばし、ナイフで下絵に塗り広げていく。
 パンにマーガリンを塗るのが好き。焼きたてでカリカリのトーストの上を、熱で柔らかくなったマーガリンが滑り落ちていくのに似ていた。だから楽しいのかもしれない。
 文化祭まであと一ヶ月、夏休みを返上してまで美術室に赴いて作品に着手している。テスト期間と日曜以外はほぼ活動をしており、今回も数で稼ごうと、部活前に描き溜めたデッサンに加えて油絵も製作していた。テーマは動植物。しかし静止画だけでは面白くないと、静物と掛け合わせたものをデザインし、着色している。
 今はくらげとキャンドルというモチーフで描いており、くらげの下塗りには赤を使用した。ナイフでぺったりと塗り付けると、鮮やかな赤が深海の青に咲く。
 くらげを冷たい印象にはしたくないと相談したら、暖かみを持たせたいのなら敢えて派手な暖色を用いるのも手だと、教壇に向き合っている顧問が教えてくれた。
 顧問は仏頂面もやる気のなさも通常運転だったが、聞けば何でも教えてくれる。油絵に挑戦したいとダメ元で志願すると、道具を揃えて渡してくれたのが彼だった。面倒だと連呼しながらも、油絵の具の特性や溶き油の種類、筆やナイフのことなど事細かに伝授してくれたため、不恰好ながらも油絵の作品は少しずつ数を増やしている。

(先生みたいにできたら最高なんだけどな)

 彼が此処の卒業生だと判明したのは去年の文化祭のあと。正確に言えば貝殻の件以降に知った。不気味な絵に気を取られていたが、自分が油絵を齧り始めてやっと彼が相当な才能の持ち主であることを再認識したのだ。
 まさに油絵の手本。絵の具のみで表現される生々しさに嫉妬すら覚える。果実から瑞々しい芳香が漂い、花から開花の力強さを覚え、動物は紙と塗料のあわいで躍動し、人は指先から呼吸してみせる。そんな人が美術を仕事としての価値にまで陥れ、生命の強く美しい姿を毛嫌いするだなんて一体どうしたというのか。しかし本人が嫌なら認めるしかない。多様性とはそういうものだろう。
 それを証明するように自分には後輩ができない。入部を希望する生徒もいたらしいが、彼が募集を拒否したとのことだった。一時期自分と先生の間で変な噂も立ったが、煙は四十五日もしたら消えた。先生に近付きたかったという下級生もいたが、聞かなかったことにした。

「せんせー、今日はいつまで残っていいの」
「あと三十分。私が早く帰りたい」
「そうですよね、俺もお腹空いたし」

 赤が不格好な楕円を形成し、そこから線があちこちへと伸びる。キャンドルの炎も点々と色付け、オレンジや黄色を足す。蛍光灯の下では乾ききらぬ塗料がゼラチンのようにてらてらと照っており、不意に窓へと顔を向けた。
 夕闇が窓から顔を出している。夏が枯れたようなひんやりとした風を連れて。虫除けにと何故か蚊取り線香が設置されており、煙は喉の粘膜を燻すだけで来訪者を追い払おうとはしない。来るのは蛾ばかりで、光を求める虫たちがばたばたと翅を羽撃かせていた。
 自分の誕生日は既に遠く。当日に彼本人からの贈り物はなかったものの、鉱石の寄生に遭遇したためにそれを貰った。ペリドット、というらしい。マスカットみたいに瑞々しい輝きに顔を綻ばせていたが、彼はその日すごく不機嫌で、ことある毎に当たってきた。たまに起こすヒステリーほど面倒なものはなかったが、有難くピアスにされてもらった。今日も彼の石を付けている。
 先生の好きな季節は過ぎ去ろうとしている。彼の言葉を借りるなら秋の手で殺められる季節。此処はまだ夏がしがみついていて、カーディガンを羽織るには肌寒さが足りない。暖色の絵の具が目に飛び込めば尚更、秋は遠い。夜が訪れても蝉の残党が鳴いているのだから、日本の四季はずれてきているのかもしれない。

「うん、いいんじゃないの」

 一通り色を乗せ、あとは乾燥させるだけだ。今は赤い物体がキャンバスに浮遊するだけだが、これから海を照らす海月となるのだ。完成が待ち遠しい。
 キャンバスを慎重に部屋の隅へと移動させ、手首を掴んで上方に伸びてみせる。背骨をポキポキと鳴らし、窓に反射する自分と対面した。アイボリーだった無地のエプロンは色を重ねて前衛的な絵画と化している。
 当初は彼に迫ることが目的であったのに、美術にのめり込むようになった自分がいる。バスケは今でも好きなので休み中に嗜みはするが、勧誘は一切受けなくなったし、自分も必要以上に関わらなくなった。入部拒否を抜いても顧問が曰く付きなので、再度変な噂を立てられそうになったことはあったが、そんな時は彼を盾にして逃げたのは気にしている。彼がもうどうでもいい人ではなくなってしまった証だ。
 本人はというと、一年生が夏に描いたという写生画をまとめて何かをノートに記している。こんな時に彼を『先生』だと再認識する。大量にある紙の一枚一枚に向き合い、何分も凝視する。それからノートに記入してはまた絵と対面する、そんなやり取りを延々としているのだが、手を滑らせた途端に画用紙がさらさらと机上を滑走した。大量の水溶けの色彩が散乱し、絵を取り零した先生はいつものように不機嫌さを全面に押し出して画用紙を拾っていた。
 まだ半袖のシャツを着用している自分に対して、彼はシャツの上にグレーのケーブル編みのカーディガンを着ていた。見ているだけで汗が噴き出しそうだが、彼は涼しい顔をしてサイドの髪を耳に掛け直し、絵を整理していく。だが教壇の隙間に入り込んだ画用紙の角に触れられない。彼から向かってちょうど左側。

(まだ治らないんだ)

 自分の道具を片付けて彼に歩み寄り、残りの絵を掻き集めてやったが、ありがとうの一言もない。だがじっと見詰めて数回瞬きをしてくれた。結晶を残した瞳は瞬きの明暗で色を変える。コンタクトを嵌めても大して視力の矯正にはならないらしい。片目があるからと、視力の低下については周りにも言わないで、視力の落差に慣れないと洩らしもせず、光の明滅を覗かせていた。
 自分だけが覗くことができる光はまさに秘宝だ。反面、視力の件は医者に診てもらえばいいのにと思う。現に提案したこともあったが、彼は話を飲もうとしない。『人』としての彼は苦手だ、話しづらい。だがお節介を焼かずにはいられなかった。

「やっぱり戻らないんですか、それ。逆に悪化してません?」
「悪化してるからどうしろと? どうして五体満足でいなければならない?」
「だって不便でしょ」
「お前にそんなことを言った記憶はないがな」

 たまに思う。この人は美術でなく倫理を扱うべきだったのでは、と。ふらつくのはよくあることだし、左側にいる者に気付かないこともある。先程のように視界に入らないと見落としたままの時もある。(もう少しあたりを見渡せば見付かったといえばその通りなので、杜撰といえばそうなのだが)
 だが不便だと言ったことは一度もないし、日常生活は通常運転だ。少し変わっただけで、彼はなんてことなく日常を過している。だからだろうか、正論を突き付けられて柄にもなく拗ねてしまった。

「それもまた人生、というものだろう。保存してバックアップを取って、都合が悪ければ過去のバックアップを開くだなんてことはできないから」
「何すか、それ。俺のフォローか何かなの」
「だから言ってるだろう。お前のことなんかどうでもいいと」

 絵をまとめて机のものを片付けると、仕事用の椅子ではなくヴェルヴェットの椅子へと腰掛けて体を伸ばす。ぱき、と関節が鳴ると靴が滑り落ち、いつものように膝を抱えて丸まった。
 慣れたように彼の向かいへと座り込む。視界には彼の足元しか飛び込まないが、今は顔を見たい気分ではなかったので黒い靴下を凝視していた。魚の刺繍が入っているが、何の魚かはわからない。お腹が空いた。

「先生の毎日って、なに」

 間を持たせたかったのだと思う。早く片付けて帰宅して胃を満たせばいいのに、彼が先に踵を返してくれないと腰すら上げられない。疑問にもならない質問に返すのは夜風だけで良かった。黒い風が彼から引き離してくれる。

「カメラのシャッターを切る、あれに似てる」
 
 だから返答が来るなんて思いもしなくて、墨を零したような空から目が離せない自分は、今更彼と向き合えるはずがない。
 だが彼の言葉は続いた。詩的に繰り出された言葉は四角い夜空に並べられていく。フォントも大きさも色までも空に反映されるかのように、彼の発音はくっきりとしていた。

「日常は不変の連続だ。そこに大きな変化があり、日常を揺らしたところで変化もまた日常に馴染む、当たり前になる。毎分シャッターを切るように、ボタンを押せば写真が記録されるように、なだらかに続いていく。何も変わらない、何も得ない、私たちは連続の狭間に生きることを許されない。なだらかに均した連続を渡り歩くだけ。蕾が花開くこと、蛹が殻を破り羽化すること、それも大きな変化に見えて、実は日常に過ぎない。そういうもの」

 突風が吹き抜け、肩ほどまで伸びた髪が煽られていく。寄生を剥がした痕は美しい面立ちを蝕んでしまった。褐色の痕が目元や頬骨のあたりを侵食し、首筋にも同じものが見受けられる。
 それだけではない。荊の棘の痕も薄くはなったがまだ引き攣って残っているし、背中には蚕蛾の翅の痕跡もあるかもしれない。こんなにも傷が絶えないのに、治りだけは異常に早かった。だから数日もすれば傷パッドは外れて瘡蓋も取れている。髪の伸びだって早い。
 ……たまに人ではない者なのではないかと疑いたくもなる。

「先生は連続の中で生きてるんだね」
「お前もそうじゃないのか」
「大きな変化もないからね、よくわからないけど」

 いや、彼に出会ったことが大きな変化か。生き物に寄生される人間なぞ彼以外に見掛けないし、彼がそんな体質だというのは誰も知らないだろう。しかし非日常的な日常が連続するなら、それは特別でもなんでもない。平坦で穏やかな日々でしかない。
 夜の湖面のように靡く髪を見詰めていたら、自分以外にあの髪に触れた人物を思い出した。キスは構わない、それ以上も互いが懇意であるならお好きにどうぞ、といったところなのだが、自分でも意識していない妄執が心臓の中を荒らす。大波が自身を飲み込むくらいには。
 思い出すだけで胃のあたりがムカムカする。嫉妬か、と問われたら全力で拒否したいが、彼と自分という連続を一瞬だけ割った存在に眉根が寄るのを感じた。モブの一部でしかない人間が箱庭を荒らしたことが今でも憎らしい。可憐な少女相手に黒炎を燃やす自分は相当な盲信を捧げているらしいのだが、この時の自分には「ただムカつく」という平凡な形容しかできなかった。

「……先生、髪触らせて」
「気持ち悪い……お前、調子に乗りすぎじゃないか」
「ならなんで触らせてくれるの? 嫌って言えば俺は止めるのに」

 立ち上がると照明効果で黒艶の髪が波打った。左目の結晶が一段と煌めき、虚像を映し込む。椅子のクッション部に膝を置き、そのまま前のめりになると髪の匂いが立ち込めた。
 体臭は然程ない。マネキンを思わせるほどに無機質なのに、頭部に差し掛かると人らしい匂いが充満している。僅かな皮脂や汗の匂いも混じって、シャンプーの芳香にも負けぬ匂いがくらりと酩酊させていく。指通りもよく、荒れた指にも引っ掛からずに毛先が逃げていく。
 温度も薄くて、空気に混ぜたら彼はいなくなってしまうだろう。頼りなくて生きた心地のしない人間の鼓動を感じるには心臓に直接触れるしかない? 薄くも厚くもない胸板に手を宛てがっても果てのない無しかないのなら、辿り着く術はある? 細い髪をやんわりと食んでも彼は押し退けない。端から拒否の意などないと主張するように、折り畳んだ脚を腕で囲っていた。
 違う、彼は自分の全てを拒んでいるのだ。祈るように一切を投げ捨てる。救うように誰かを踏み付ける。他の根を掻き分けて枯らしてまで咲く花と変わらない。美しさは凶器だ。誰かの肉を断たねば安心して眠れない突端。迎えられない常夜。
 つきんと古傷が痛む。飴玉みたいな甘露な痛みが手中で蘇るのに。同じ傷を持つ人は小さく縮こまったまま何も返してくれなかった。

「本当は触られるのが好き?」
「慣れっこだから」
「え」
「お前だけじゃない」

 ずきんと貫く痛みに息を詰まらせて手のひらを返したが、あるのは荊の痕だけ。氷のように溢れた台詞は自分の体液を全て凍らせていく。この時ばかりは彼と同じ体温になったかもしれない。手を置いた肩がさっきより冷たく感じない。
 代わりに笑いもしない人が口角をゆるりと上げている。これから我が子に夜伽を読み聞かせる父親のような、綿の繊細さが覗いていた。
 こんな笑い方をするのか。眉間の皺に癖付けている男は淡く、解けたリボンのように笑みを湛えているのに、優しく縊られたようで嫌な気分になる。興が醒めて手を解こうとしたのに、エプロンを引っ張られて身動きが取れない。髪の匂いがより濃厚になっている気がした。

「お前は自分が特別扱いされていると勘違いして有頂天になってないか。悪いがそれは思い上がりというやつだ。それにお前、蛇の時もそうだったな」

 彼が自身の腹を撫でてみせると、自分が直に触れられた心地になる。あの時の記憶が殆どなく、気付けば朝だったので、どう帰ったかも家で何をしたかもわからない。バイトには行ったらしい。
 先生が何か発してから逆鱗を刺激された気がして、それから、何も。あれから何があったか教えてくれなかった。こうして含み笑いしているということは酷いことをやらかしたのかもしれない。
 お気に入りの黒髪がひとりでにうねり出した気がした。毛の束が蛇の大群になるのかと身を強張らせたが、所詮は空見だった。髪は髪でしかない。だが目を合わせ続けたら石化してしまいそうだ。

「私の髪を好く輩はいるものだよ。お前に切られて嘆いた人もいた」

 これ以上聞いたら倒れるだろうな、と鼻で笑われた。この人は有閑マダムにでも飼われているのだろうか。

「あれは……荊のせいだ。あの時はアンタのことはこれっぽっちも知らなかったし、兎に角助けなきゃって思って」

 恐る恐る毛の束を摘んだが噛み付かれることはなかった。髪の芯まで染み込むような香りだけは自分を甘やかしてくれるのに、他人のものなら撫ぜる意味なんてあるのか。
 裾は引っ張られたままだった。近付けば手は緩み、僅かに空間を作れば布地は張る。当たり前のことが磁石に換算される。引っ張る彼の手を解こうと小指を掴むと、指の側面は真っ黒に汚れて文字が転写されていた。

「まあ、お前に髪を切られたのは好機だった。呪縛に縛られる癖が抜けないから」
「呪縛……」
「他愛もないことだ」

 リボンで雁字搦めにされる先生が浮かんだ。次に生花のように花がアレンジメントされた彼の姿も。血管がぼこぼこと浮き出て、皮膚を突き破って咲き誇る花たち。彼の肉を媒体に命を得て這い出し、飛び立つ生き物たち。
 それさえ誰かに見られてないならいい、自分以外に剥ぎ取らせないならもう、何だっていいじゃないか。これが所謂独占欲と呼ばれるものなのに、自分の異常性に気付けていない。彼の異常を日常と捉えるように、自分の感情もありきたりなものと勘違いしている。
 小指の形や骨の硬さ、皮膚の柔らかさが保たれるように、ふたりの関係も小道のようになだらかで平坦だ。乱されなければ終わることはない。

「燐は私のことが知りたい? いつか私が終わるとしても」

 小指が曲げられ、親指が絡め取られる。甘やかな行為というよりは、ハエトリソウが虫を捕獲する時の酷さに似ている。風が囁くように終末をちらつかせ、小指に力が込められる。ぎりぎりと軋む音がする。上では蛾がばたばたと蛍光灯に集っているところだ。

「おれ、は」

 ミステリアスという装飾が似合う男だ、甘い水なら毒でも飲み干したい。だが即答できなかった。呑まれる現実に直面した途端に頭の中で情報の洪水が起こった。脳内で彼が氾濫する。素直に首肯すれば何もかもを奪われる恐怖感が支配する。
 知るということは内密にし続ける必要があるのでしょう。秘密の重要さなんてなくした消しゴムと同じくらいだと軽視できた子ども時代は終わった。やめてと足掻いても秘密を何度も塗り替えされて、脚が潰れて腕が折れてまで重くなったものを抱えられるのか。
 誰と付き合った、誰とキスした、誰と×××したと可愛らしくラッピングできないのだ。だってそんな話を持ち掛けられたとは思えない。
 言い淀むしかなかった。彼はまだ笑みを張り付けているものだから、仮面でも付けているに違いない。こんなに笑うところを見たのは初めてだ。

「なに、みんな私のことなんか知らないさ。お前は詳しい方、じゃないのか」
「そう思いますか」

 図に乗らせたところで彼に何の恩恵があるのだろう。寧ろまだ自分を追い出したいのではないか。攻防戦が終わってないのだとすればこちらにも意地があった。見届けたい、その終わりを。神の成れの果てを見たいだなんて欲望、持っていても罰は当たらないだろう。何の手も下さなければ、きっと。
 自分で髪を弄る手も奪えば、僅かに目が大きくなる。くっきりとした二重の奥では紫の微光が嘲笑っている。ならば自分も彼に倣うしかない。目一杯の笑顔を向けて、負けじと小指の根元を握り込んで。

「知りたい」

 堕ちる前に落とせばいいだけだろう、なあ、先生。

「アンタを知るのは俺だけでいい」

 神様を独占できた人間は歴史上実在したのか。いたとしても死人に口なし、誰も知らない、あっても誤魔化せる。みんな独り占めしたいくせに信心深いと良い人の皮を被って聖典を斉唱するしかない。生憎バイブルなんてないし、教えは絵の技術だけ。目の前の偶像に捧げたものは自分の時間と心だけ。信仰の名のもとに彼を傷付け奪うだけ。
 それでも許されるなら止めることはないだろう。帰り道なんてあの日から塞がれてしまった。荊に踏み入れたら赤い靴を履いて、切り落とされるその日まで踊るしかない。そう、ふたりで。自分はダンスの心得すらないけれど。

「それは何から来たものなんだろうな、燐」
「名前を付けてくれたら大事にするよ」
「ならそのままでいればいい。誰がお前のなすがままにされるというんだ」

 椅子がぎしりと悲鳴を上げた。ジジ、と低い音がしたが誰も面を上げようとしなかった。無論、指も離れない。気を緩めたらどちらかの指がへし折られるかもしれない。緊迫した空気の中で一声を発したのは先生の方だった。
 指を引き抜いて自分を押しやると、椅子から退いて横一列に並ぶ机へと腰掛け、そのまま寝転んでしまった。祭壇に供えられた供物みたいだった。緩やかなウエーブの髪を垂らし、脚をだらりと投げ出し、横たわる。左手が手招くので誘われるがままに近寄ると、「パレットを持って来い」というので、絵の具がべったりと付着したパレットを片手に彼の側へと立った。
 蛍光灯の一本が切れ掛かっている。彼の顔面が白くなったり藍色になったりを繰り返していたが、パレットを受け取るなり絵の具を直接練り合わせている。固まっていない絵の具は彼の指先を容易く自分の色へと染める。彼はモノトーンか青系以外の色は身に着けない。だがひとつぴったりな色を知っている。
 一年半も見届けた赤。錆臭い朱殷に何度塗れたことだろう。当然のように塗りたくられる赤にぞわぞわと鳥肌が立った。寄生を剥ぎ取れる、だが今日は何もない日なのだ。植物も動物も昆虫も鉱物も姿を現さない平穏な日だというのに、赤がない日を日常と取れないまでに侵食しているのに気付けなかった。

「燐に問題だ。私が『園貞春』であることを証明してみろ」

 彼が何を言い出すかと期待していたのに、逆に質問が飛び込んで拍子抜けしてしまった。眼前にいるのはどう見たって『園貞春』なのに、今更何を証明しろというのか。これだけ引っ張っておきながらまた揶揄われたのか。頭を掻き毟ってみせると、笑っていたはずの彼の表情がいつもの仏頂面に戻っていた。

「先生は先生でしょ。免許証はあるか知らないけど、保険証とか住民票とか、そういうものがあるなら証明できるでしょ」
「たかが紙に私の何がわかるというんだ」

 指が自身の頬をべたりと彩る。鮮やかな色が彼に命の巡りを与える。不格好に塗られた塗料が彼をただの人へと落としていく。だのに浮いた鮮明に翻弄されないのも彼だった。黒や青と肌へと乗せられていくと、彼そのものが絵画になったような錯覚を得る。
 作者も題名もわからない絵画はごまんとあるが、記憶にこびり付く不気味な絵というものがある。夜中にネットで見付けて、悪夢に反映される、タチの悪い作風のものが。絵の具まみれの彼にはそれを彷彿とさせた。

「じゃあ別の問題だ」

 彼は尚も顔を化かしていくが、油絵の具が付着しているのが気が気でなかった。物によっては毒性が含まれる顔料もあるらしいので、こんな時は彼の容態を心配せずにいられないのだが、何ともないのなら問題ないのだろう。
 適当に頷いてしまったが、彼は自身の髪を撫で付けながら靴下の片方を器用に脱ぎ落とす。髪に色が付くのが気に食わなかった。

「私の体には『園貞春』ではないものが複数ある。それを見付けてみろ」

 鼻腔に髪の香りがこびり付いている。罪のように張り付いた香りはいつでもあの日を呼び起こした。そしてうねる髪が触手みたいに伸びて首に、咽喉に絡み付く錯覚すら覚えるほどに。
 まずは背毛がすべて逆立った。それから背骨を剥き出しにされて蜘蛛や百足などの気味の悪い節足動物が湧いて這い寄るような、そんな恐怖が支配した。
 揶揄っているだけだ、そう頭で理解しても説得に及ばないのは、彼に宿った数多もの影の集合体が記憶から離れないからだ。あれ以降寄生以外のものと出会っていないし、影もあれきりだ。自分が疲れているから惑わされる、そう信じられないのは誰のせいだ。彼のせいではないのか。

「お前は私に興味があっただろう、いい機会じゃないか。その気があるなら探してみればいい」
「……触っていいの」
「いつものことじゃないのか?」

 そうだ、確かめたらいい。何も見付からなければいいだけの話じゃないか。傍らに立つと、垂れる髪を両耳に掛けて指通りのいい黒糸を梳いた。髪と髪のあわいからは花を手折る時の妖しさが蘇る。陰鬱としながらも朝露が蒸発したよう清涼さも込められていて、指先で掻き混ぜてやると匂いは一層色濃くなった。
 派手な塗料の下は月の蒼白と、閉じた森林の腐葉土を一緒に閉じ込めたような肌色だった。艶を堪能した指先を顔に滑らせて、次は引き攣った傷口へと触れた。再生した皮膚は厚くてかてかと照っていて、下降させるとアーモンド型の瞳は虹彩の花模様を散らす。片方は六花の華やかさと人体にあるまじき煌めきを放っている。
 すっと通った鼻梁も、空気が循環する唇も、どう見たって彼のものじゃないか。答えのない間違い探しに不安が掻き立てられ、ぞわぞわと襲う悪寒が冷水のように広がっては指先が強張っていく。だのに手が止まらない。熱に触れて芯に触れて暴きたい。神の領域を荒らし晒せるのは今しかない。

「どうだ」
「先生でしかないよ。俺の神様だ」
「神に触れるなんて相当な罰当たりだな」
「そう思うよ。俺が最初で最後の人間じゃないかな」

 もしかして人との接触に飢えて詭弁を述べているのでは、というのはよぎった。だが彼は腕を降ろしてされるがままであったし、焦点が自分に当てられていない。肩越しの宵闇が瞳に飛び込むばかりで人の形すら映そうとはしなかった。
 虚ろな球体だった。眼球はこちらの焦りを反映させるだけの鏡であり、接触すればするほど自分の虚像は歪んでいく。これか、これが彼の言う『園貞春』にあらざるものなのか、それなら指を突っ込んで引き抜いてやるのが彼のためではないのか。
 深呼吸するには風が強すぎて、結果噎せた。五ミリほど突き出た爪を近付けても彼は無反応で、突出したものは球体ではなく、実は限りない深淵ではないだろうか。確かめさせることによって俺を穴に突き落として、どうかしてやりたいのではないか。そんな思惑があってくれたら良かった。彼は静寂を厳守するばかりで、こちらの汗が絹のような静けさを裂いていくようで辛い。
 居た堪れないのはどちら。

「私はどこだ」
「此処じゃ……此処じゃないの、ねぇ先生」
「本当に?」

 遊びたいなら付き合うさ、基本は誰でも受け入れるし、去るなら追わない。遊びならきっと救われた、冗談でも何でもないと。笑ったのはちかちかと明滅する蛍光灯だった。窪んだ眼孔に一層影が落ち、顔の傷痕が指差して馬鹿にする。
 もう突き放してやりたいのに手が吸い付いて離れない。彼に寄生したがるように諸手が彼の頬に密着して剥がれない。彼に魔性の引力があるからか、自ずと深みに嵌りたいのか、ふたりは絶望的に寄り添っている。
 汗が彼を濡らしたとて、絵の具は落ちないし睫毛は揺れない。視線が鋭利すぎて脳味噌に穴が開きそうだ。逃げたかった、初めて彼に畏怖している。特殊な人間だからか、それとも中途半端に崇めているからか、それとも化け物じみた眼光を浴びせに掛かるからか。

「燐、お前が触れているのは誰だ。仮に私だったとしてもこれは私の顔だろうか。お前がご執心な髪も果たして私のもの? この声は、指は、目は、心臓は、骨は、全て私のものだという証拠はあるのか」
「な、なあどうしたのさ、なんでこんな。先生は先生じゃダメなの、園先生」
「お前もかつては私にしただろう。別に責めたいわけじゃない、だが、なぁ。お前は近すぎるし遠すぎるんだ。わかるか、私の葛藤が。このジレンマが」
「わかるかよ、俺はアンタのことなんて知らないし、それにアンタだって俺のこと!」
「そのピアス、私の歯から作っただろう」

 え、と洩らしたのを彼は聞き逃さなかっただろう。出来上がったピアスホールが低音の響きに連動してちくりと痛んだ。覚えてないと言ったのは彼だった。自分に噛み付いたのも、鉱石化した歯が抜けたことも、全部忘れたと言ったのは彼だった。
 痛みは軽微なものから穴を拡げるような疼痛へと変化する。震える指で口角へと触れるとうっすらと口が開いて、真っ白なエナメルへと導かれる。件の犬歯は、ある。生えてくるなんて在り得ぬことなのに、間違いなく歯茎から生えている。
 どうしてと聞けば、何もかもが終わる予感がした。ふたりの関係性という生易しいものではなく自分の漠然とした、だが核の奥にあるものが叩き壊される気がして、口を噤むほかなかった。
 ファム・ファタールが運命を再構築しに掛かっている。踏み込んではいけなかったというのか、なら触れさせた。それが彼の望みなのか、なら先生の望みとは、何。

「なんてな、カマを掛けただけだ。私はお前のことなんてこれっぽっちも知らないんだ。当たったとか外れたとかもどうでもいい」
「…………やめてよ、怖いこと言うなよ」
「お前があまりに絡んでくるからお灸を据えたに過ぎない。良かったな、私は私だよ」

 引き抜いた指が凍て付いていた。唾液で濡れた指先が風で冷えただけなのに、当たり障りのないことを呪いにしたがる。オカルトを盲信する人の心理もこんな感じなのだろうか。力が抜けた指先は顎を伝い、肩へと引っ掛かった。

「……ああ、うん。先生は、先生だよね」
「子どもが大人を揶揄うとこうなるってことだ。お前はちょっかいを出しすぎるから」

 背中が汗でびっしょりでシャツが張り付いて不快なことこの上ない。このまま体を預けて眠ってしまえたらどれだけ楽だろう。額を胸に乗せたが、彼は動かずに体を明け渡してくれた。
 微睡を誘う低声も、脳の奥まで染み渡る匂いも、骨張った手の甲も、紛うことなき先生の一部。逆に言えばどれが欠けても彼として成り立たない。深く息を吸い込むと、彼の成分が溶け込んだ空気が肺を冷やしていく。
「こうしてていい」と尋ねると「誰かに見られていいなら」と素っ気ない声が降った。あと三分もあれば落ち着くだろうから、借りられるものは借りることにした。
 彼にも心臓があり、血が巡る。その証拠に耳からは鼓動がしっかりと伝わり、ゴウゴウと筋肉の収縮すら聞こえる。人だけど神様、神様だけど人。ニットに遮断されて熱までは届かなかったが、落ち着きを取り戻すには充分だった。

「でも、何処までが嘘なんだろうな」

 影が蠢いた、と思ったが錯視によるもので、影は彼の真下に滑り込んでいるのでに伸びることはない。ニットにしがみ付くとささくれた爪が繊維を毛羽立たせ、毛糸が網目より伸びていく。
 叱られるなら後でこってりといびられたらいい。不用意に彼を覗き見たら悪いことが起こってしまいそうで顔を上げられなかった。

「何でもいいよ、もう……心臓に悪い。もう懲りたから、はい。ごめんね先生」
「賢明だな」

 今日は随分と笑うらしい。それだけ彼は自分にストレスを感じていたということなのか。くつくつと笑う彼を想像できないのに、声がやたらと反響するものだから目の奥が捩じ切れそうだった。
 もう帰って、ご飯を食べてシャワーを浴びたら眠ってしまいたい。何もしていないのに重度な倦怠感が全身を苛んでいた。体を支える二本脚も僅か十分ほどでガタがきているので、先ずは起き上がろうと彼の肩を掴んで押した。

「あ」

 その時、ささくれ立った爪が彼の皮膚を引っ掻いてしまった。しっかりとした感触が残っており、ぽつんと吐かれた彼の声で一気に血の気が引き、眩暈が残る頭で即座に起き上がった。手を離していたら不幸中の幸いだっただろうに、何の因果か伸びた爪が追い打ちを掛けるようにもう一度傷を重ねてしまった。
 これはいけないと傷の在り処を探した。少なくとも彼の顔面ではないらしいが、そこで安堵できるものでもない。絵の具ではない真紅が爪に付着しているということは、彼の何処かに擦過傷を残したことになる。

「ご、ごめん先生! 今すぐ手当てするから……!」
「いい、何てことはないから離れろ」
「でも血が出てんだろ! 待って、探すか、ら…………?」

 今思えば彼の優しい忠告だったと思う。彼の言うことを素直に受け止めていれば良かったのだ。
 傷は首筋の、耳の下から幾分か離れたところにあった。ピンクの蚯蚓腫れの真ん中から血が滲んでおり、ひりついた痛みを共感させた。だが傷としては大きいものではないので、薬と絆創膏で事足りるだろう。「いいから早くどけ」と制する言葉を遮って他の傷を探さなければ良かった。
 自分がつけた傷はそれきりだった。だが傷以上に不可思議で異様なものが彼にあった。軽い違和感で済ませられなかった自分を、これほど恨んだことはない。目敏いと鬱陶しげに言われたことはあったが、全く以てその通りだった。自分のことは好きな方だが、目敏くて得はしない、多分。

「何これ」

 顎骨のちょうど下、影になるところに見えた継ぎ接ぎ。土気色の顔と蒼白い首筋に明らかな境界線が見て取れた。それは耳の裏にまで及んでおり、触ると微かな凹凸が指紋を掠めた。
 爪が引っ掛かったのは不運でしかない。縁から捲れるなんて嘘であってほしかった。膜のようにぺろりと捲れたそこにはゾッとするほどの純白が覗き、真紅の粘液が皮膚の間で糸を引く。錆臭さが一帯に広がり、眠りこけていたはずの畏怖が途端に心臓の中で目覚めた。
 私は私と彼が言う。先生は先生だと自分が信じた。だからこれが悪夢の続きであれば、あとは覚めるだけで良かった、のに。
 夢は何故覚めない。接着剤みたいに粘っこい粘液が爪の先に引っ掛かり、耳の下の捲れた皮膚が口のように真っ赤に開き、顎の下まで蒼白がお披露目された。真っ赤な戦慄が顔と首の境界で滴った瞬間、重そうに下垂していた目蓋がぱっくりと開き、濡れた眼球がこちらへと転がった。B級ホラー映画のようなえげつない演出、そう、演出ならおどけていられたのに神は許さなかった。石が潜んだ虹彩が不気味に点滅して、どろりと赤く変色する。

「りん」

 逃げなければというのは本能だったが、捕まえるのも本能だとすれば向こうが優勢だった。引いた腕より掴む手の方が早く、だが逃げ惑う腕ならこちらが強く、体勢を崩してふたり諸共床へと叩き付けられた。だが先制したのは彼の執念だ。痛みに唸る自分を転がし、馬乗りになって首へと手を掛けた。
 細枝の指が喉に絡み、爪が喉仏の下を恐ろしい力で突き立てていく。死すら覚悟した。彼の何気ない問いがリフレインして、気道を抉られる痛みにすら抗えない。影が指す顔からは無特有の凪いだ空気もなく、ひどく優しい声音から滲む怒気に肌が痛んだ。

「何を見た」

 先生が取り乱す姿なんて見たことがない。どんな状況でも冷静沈着だった彼が獣のように息を荒げて、ぬめる指を更に押し込んでいく。彼は手際がいい、でなければ顔にぎゅうと熱が集約し、全身に痺れが及ばないだろうから。
 このままいくと喉を突き破られるかもしれない。そんな危機感が息苦しさとともに押し寄せているのに、体を蹴飛ばせばすぐにでも逃げられるのに、行動しないのは自分の意思だ。逃げたらいけないと矛盾した警鐘が鳴り響く中、彼の顎下のそれはいまだ捲れ掛かったまま。
 剥がせるかもしれない。彼ではないかもしれない何かが『顔』だというのなら、暴くのは今なのかもしれない。

「燐、何を見た。答えろ。場合によってはお前を」
「おれ、は」

 みみずがのたくったような指が今一度、彼の顎の下を擽る。血腥い怒りは沸騰寸前で、熱すぎる熱が皮膚の柔らかな箇所へとどんどん食い込んでいく。捲れた皮を摘むと、引き攣った彼の息が洩れ、歯ぎしりがした。
 剥がすのが先か、酸素が尽きるのが先か。自分の役割は何、寄生を剥がすことだろ。なら彼の顔に張り付いたのは寄生だろう、そうじゃないのか。自分が彼を救うのだろう。……それなら何故彼の終焉を望む必要がある? こうなれば矛盾のイタチごっこだ。自分が先に終わるかもしれないのに、なんて悠長なのだろう。
 剥がしたら彼は彼のままでいてくれる? もしそうじゃないなら――選択の正しさに失うのは何だ。自分が欲しいのは彼の何だというんだ。それすらわかってなかったじゃないか。

「先生しか、……貞春さんしか見てないよ」
「はぐらかすな! お前は今……っ」
「だか、ら。貞春さんしか見てない。あなたしか見えないよ」

 最初からあなただけ。顎下の皮を丁寧に貼り直して指でなぞると、急激に脱力した腕が落下したが、痺れる手で拾い直して自分の首へと導いた。今度は彼が怯える番だった。ペイントされた赤と対比する蒼白が人工光の下でよく映えた。
 野暮な詮索はしてはいけない、そう悟った。暴いたところで何になる、仮に皮の下に彼の秘密が潜んでいるとしても、此処にいるのは彼でしかない。自分は彼の傍にいて寄生を剥ぎ取るだけ。いつか彼の身の丈に合うものが肉体を侵蝕するのなら、黙って行く末を見届けるだけ。それでいいじゃないか。思考停止で何が悪い、開き直らないと彼の隣にいられそうになかった。
 境界線に滲む赤を舌でひと舐めすると、腐った鶏肉のような刺激臭と痺れる苦味と塩味が全身を駆け巡った。止めろと制する諸手はあまりに頼りなく、もう自分の首も絞めれやしない。かたかたと微震する手を掴み、無理矢理頬へと移動させた。
 乾きかけの絵の具が顔に塗りたくられる。此処では自分までもが美術室の一部になれた。誰もが平等に美術品になれる。自分もそう、白きに顔を染める彼もそう、限定的な生すら剥奪されて、恒久的なカタチを手に入れる。硬直して体温を忘れるほど、静かに、ゆっくりと。

「俺、あなたのことを知らなくていいや。きっと貞春さんのためにならないよ」
「なん、だって」
「怖いだろ、なあ。怖かっただろ、貞春さん。暴かれるのが怖いんだよ俺たち。だからもう止めよう。俺は美術部員、貞春さんは美術部顧問、それ以上にもそれ以下にもなっちゃならない。俺たちが俺たちでいるためには、それしかない」

 悪い癖なんだ、人類の。些細な事象にも意味や名前を付けたがる。自分は彼に抱く想いを『信仰』と呼ぶのも、もしかしたら便宜上であり、開けてみれば中身はないかもしれない。あってほしいと願うのが人の悪いところ。願って期待して裏切られたと思い込んで、持ち前の凶器で傷付けなければ気が済まない、粗野な生き物。
 彼を知り、要素や知識、主観を取り入れたらこの関係も不定形に変形する。先生と生徒というシンプル極まりない関係を複雑化したいと、謂わば進化などと聞こえのいい言葉で装飾するのは支配と主従でしかないのでは。神と信者でも飽き足らず固有名詞をでたらめに並べたところで、神経衰弱するには該当する名称には巡り会えないだろうに。
 自分も彼も期待してしまった、期待の温度に手を伸べられる距離が地獄より近いと精神を弛緩させてしまった。それはきっと悪いことではないし、赤色で揃えられた子どもと大人の滑稽さを笑う人もいない。
 でも変えたらいけない。自分、或いは彼のどちらかが耐えられなくなるか、壊れてしまう。前者は自分で後者が彼だろう。ふたりで人の形を、アイデンティティを存続させたいならきっと、のめり込んではいけない。そうしたら『ふたり』でいられない。個に分かたれているからこそ、自分は隣という概念を覚えて、彼の輪郭をなぞれたのに。

「この瞬間が一番美しいなら、連続の隙間に到達できるなら。俺たちの時は動かしちゃならないんじゃないかな。……ファウストだっけ、忘れちゃったけど」

 時はどうせ止められやしないけど、箱庭が枯れずにいられるなら、あなたの畏れになるものは焼却炉に捨ててしまおう。何も見てないよ、何も思ってないよ、ただ美しい輪郭を無造作に掻き乱したい。俺があなたお手製の運命に翻弄されていればいい、巻き込むなら髪の毛一本も置き去りにしないでほしい。
 それが執着だと人が呼ぶなら何とでも。どうせ怖いだけだ。崇める人が別の何かだなんて、考えたくもない。……彼は着実に変化し、水が液体から個体ないし気体になるように流線形の中で生きているのに。許せないのも、きっと自分だけだった。

「大丈夫、寄生はいつも通り剥ぐよ。約束は守る、これは絶対。隣にもいる。あなたのことは誰にも言わない。俺は変わりやしないよ、簡単にさ」

 アーモンド型の瞳からは杏仁の甘ったるい匂いが零れ落ちんとしている。人の眼球にしては夾雑物が見当たらない。表面を舐めたこともあった。甘くもしょっぱくもない球体はあの時石ころでしかなかった。今舐めたらどんな味がするのだろう。
 吠える犬だったなら彼は噛み付けただろうに、辛うじて持ち上げられた両の手は羽撃きも墜落もしない。翼が燃えた鳥、羽毛もなく肉と骨で構築された生きるだけの塊。首に幾度も誘っても、空中に留まるだけの手を降ろしてやると、彼の息が急激に吸い込まれた。幼子が泣き出す前兆みたいな息の仕方だったが、泣かれてもハンカチもトラブルシューティングもポケットに仕込まれていない。
 だから彼が押し黙っていることが、実は上手い間の持たせ方だったりする。勿論、ふたつの球体が雫を生成することはなかった。

「なんか言ってよ」

 ジジジ、と一段と大きく唸ったかと思うと蛍光灯の明かりが落ち、ふたりの真上から差す白色光は途絶えた。自分の方の影になって彼の面立ちは雲隠れする。頬の顔料はいくら指で拭ってやっても花を咲かせることはなかった。傷を隠すことも、命の色を拡げることも叶わない。
 あ、と小さく洩れた。本当に小さくて、彼が実際に音を発したかも怪しかったが、唇がぽっかりと開いたのなら伝達の意思はあるはずだ。
 聞き逃さないようにと耳を傾けて唇の側へと寄せた。湿り気のある吐息が耳殻を擽ったが、一向に音は滑り込まない。だが急かしはしなかった。彼が発する音なら、この際何だって良かったが、最良の形が五十音で届いたのは奇跡だ。此処にはバベルの塔なんてないという証明でもあった。

「……私はこのまま、此処にいていいの」

 彼らしからぬひどく穏やかな口調が外界の存在を思い起こした。淀む空気を入れ替えるようにそれ風が教室を旋回し、窓より連れ攫われる。幼く丸い発音が掻き消されなくて良かった。これが届かなかったらふたりの関係性は今日で潰えたかもしれないから。
 紙面でも証明されなくて、人たる所以も四十六億年経った今でも明らかにされなくて、自己がないと人で在れない、人でいないといけない強迫観念を背負うなんて、十字架より重荷ではないか。たかが十七年しか生きてない輩に問うて返答を求めるなんて、それこそナンセンスだ。首肯も反対もできないのも自己故だった。
 なんで曖昧な荷物を抱えて死ななければいけないのだろうね。アメーバだったらもう少し自由に浮遊できたかな。たとえ真四角の小さな水槽が世界の全てでも、世界の歴史の何の礎になれなくても、多分マシだった。勝手に生きづらくしているのは自分たち。明日を手折って手を合わせて踏み躙って、命が絶えず生まれる花壇みたいに優しい未来は用意されてないのに。人生は針金や粘土みたいに有意義にできてない。

「あなたが誰でもいい。貞春さんにとって俺が消耗品であっても、大事に使えとも言わない。でもあなたは俺の世界じゃ『園貞春』でしかないよ」
「でも『神様』なんだろう。神は死んでいても神だ、みんな死体を有難がって手を合わせる」
「うん、俺もそう。きっとあなたにとって優しくないよ」
「なら私が消耗品じゃないか」
「俺は貧乏性だからずっと大事にするよ」

 残酷さは子ども故か信仰故か。彼を壊しかねない台詞だと他人行儀に感じていた。頭を撫でたって彼が喜ぶわけでもないのに、撫でてしまうのは自分のため。彼に与えられる厚意はいつだって自分に矢印が向いている。
 指通りのいい髪が好き。いい匂いのする髪が好き。彼への好意は一度も向けられない。自分にだって前向きな感情はぶつけられないのだからおあいこだ。そっぽを向く者同士が対面している事実はなんと奇妙なのだろう。
 ならば彼の素直さは諦念だ。彼は自身が無意識に首の下をまさぐっていることに気付いているだろうか。繋ぎ目は綺麗さっぱり消えていて、凹凸も見当たらない。色の区別も付かないのに、彼はそうやって自己に縋る。自己性愛者でも此処まで自身に触れるだろうか。愛しげに、しかし思い余って斬り付けそうな乱暴な心情に。

「お前は変わった。これから何度でも変わる。不変を誓っても既に変化しつつあるのに、燐は自分の証明ができるのか」
「できるわけないよ、貞春さんができないなら俺には無理」

 ああ、そう。俺は変わってしまったのか。然程ショックは受けなかった。それでも視界に彼を収める癖は直らないだろうし、美術室の扉を開ける手は止まることはないだろう。そこに彼の姿がなければ準備室にも潜り込むし、眠っていたら叩き起こす。寄生されようがされまいが、彼が美術室にいる限り、いくらでも彼を呼ぶ。
 それが自分。髪を切り落とした悔恨も、寄生を剥がす高揚も、彼が縋る恍惚も、美術室以外にいる彼を見て見ぬ振りをする残酷さも全て此処にある。嘘は一切ない。だから狡いと思われて当然であるし、嫌われても仕方ない。
 だけど想う手が止まらないんだ。どんな形にもなれる手が常にあなたに伸びてしまう。あの日から運命はそう定められていたのだから、あなたがいれば自然と反応する。自分がひとりなら知ることのなかった他の存在。一度知ってしまえば忘却できない。自転車に乗れるようになってしまえば、二度と乗れなかった時代が復元できない、あの感覚。

「でもあなたが燐と呼び続ける限り、俺は『燐』だよ」

 声ある限り燐は『燐』でいられる、主観でしか生きられない不確かな証明。同時に『園先生』『貞春さん』が相対的に存在できる証拠。裏を返せばいつだって覆せる、喪失してしまう、自分は何処にもいなくなる。自分という生き物は他者に生かされ殺されてしまう、か弱い生き物。
 それでも想うしかない、想わずにはいられない。なんと言われてもそれが習性と言い切るしかなくて。本当はいちいち揺らいで不安定でシーソーは傾いてばかりなのだけど、許してほしい。罰は受けるから。
 襟が伸ばされ、カーディガンも顎まで持ち上げられる。唇すら見えるか見えないかのあたりで「悪かった」と聞こえたのは果たして幻聴か。首を撫でられたのは幻覚か。彼が能動的に慰撫することはないのだが、確かめるように引き寄せられる手はひんやりとして現実味に遠い。だからこそ現実だった。
 垂れる髪を一房掴んでも拒絶されないのは一匙ほどの謝意からか。痛みも痺れもないのに、彼はずっと喉仏の下に触れている。こそばゆかったが、たまにはこんなことがあってもいい。そう思える自分は楽天的すぎだろうか。母にもよく言われる。自分だって首を引っ掻いてしまったのに。

「ああ……でもひとつ、どうでもいいことを言わせて」
「私への呪縛でも植え付けたいか」
「ごめんね、そんな大層なのは持ってないよ。――でも」

 俺、明日も部活に来ますから。それだけを続けて口にすると、目の前の柳眉がハの字に下がり、口唇が戦慄いた。彼はこんな情けない顔ができてしまうのだ。だけど落胆しなかった。こんなに綺麗に顔を歪められるのだから、やはり彼は自分だけの神様だった。
 腕で絡め取ったら重罪だろうか。誰も戒めてくれないなら抱擁くらい。躊躇する手を彷徨わせていると、首の傍に頭を寄せたのは彼だった。髪の匂いがより濃くて窒息しそうだ。目を瞑れば春の湖畔に突き落とされたような浮遊感に陥り、二度と帰って来れない危機感すらある。
 もし瞑目する間に顔の違う誰かがいたり、目も当てられぬほど醜悪な化け物がいても、空で彼の輪郭が描けるような何かがあってくれたなら。髪の甘い匂いでも、アーモンド型の瞳でも、浮き出た肩甲骨や背骨でも、何だっていいから。
 手の先には彼の感触、骨の形、肉の柔らかさ、染み付いた生活臭、何でも揃っていた。これが全てではないのに、全て無くしたら『それ』は『それ』でなくなるのに、彼の残滓を見付けたがる自分がいる。なんと勇ましい固執。全部が彼ならいいだなんて烏滸がましいことだ。だが世界を、神を欲した瞬間に人は一番我が儘で傲慢に成り果てる、のかもしれない。

「……明日休んでも授業の評価は下げない。無理はするな」
「ありがと。でもバイト休んだらお金は入らないし、貞春さんに会えないのも寂しくてさ」
「……本当におかしな奴だな」

 ジジ、と唸る。蛍光灯ではなく、この辺では滅多に見掛けない大きな蛾が火に炙られたいと懇願する。最古であり最初の発見である火はそこにはないのに、蛾は光を盲信した。焦がれたい想いは線香が成就した。虫を殺す煙が虫を天まで運ぶだなんてロマンの絶頂ではないか。
 体を捨てた蛾は軈て墜落する。明日には箒で掃かれてゴミ箱行き。……ああ、それでも蛾は火に還れる。たとえ業火が魂ごと燃やし尽くしても、蛾にとっては火はぬくもりであり、光だった。羨望するに至らないが、何処かの誰かもそんな感じなのかもしれない。誰とは言わないけど。
 秋は何もない。静かに色付き落ちて、褪めるだけの季節だ。夏が終わっても生き残れる自分たちは来年も同じように生きて、それから何もなくなる。
 いつかの春に終わってしまう関係に名前は付かない。変わらない、何も。最初からふたりを彩る色彩もない、たったそれだけの話。



「ねえ、神様にも罪が生まれて、嬉しいと思うことも罪ですか」

 近年、よく雪が降る。寒いのが苦手な彼はコートに埋もれて一言も発さない。花壇には降り立った六花が土にうっすらと積もるだけで、生命の息吹は途絶えているように見える。来年もチューリップが咲くのは目に見えていたが、埋まる球根は掘り返さないらしい。あくまで花を嫌うスタンスは頑なだ。

「それじゃあ神でもなんでもない、ただの罪人だ。想像も排他もできやしない」
「じゃあ共犯ですね、俺たち」
「お前と一緒だなんて御免だ」

 人は絵の具でキャンバスを飾ることも、クロッキー帳をびりびりに破いてしまうこともできるのに、神様は世界や人類、有象無象を想像できるのに、身も蓋もない話は体を暖めてくれやしない。
 冬に吸う煙草は美味しい。澄んだ空気があたたかな毒と混ざって肺を満たしてくれる。彼は頻りに咳をしていた。今思えば喫煙する度に咳き込んでいたので、もしかしたら彼は気管が弱いのかもしれない。身体的な調子のことだけは知るべきだったが、喫煙を拒絶されたことは一度もない。教師としてそれはどうかと思うが、そもそも彼を教師として認識したことがない。『先生』なんて記号に過ぎないし、彼もそれは自認していた。
 美術室以外では他人だった。花壇では共犯だった。相変わらずそれ以外の進展も関係性も見当たらない。外で寄生に遭遇することは滅多にないのだが、今が二月だからか、彼の真っ赤な手の甲にはアメジストが薄く張り付いている。肌理すら透ける透明度だった。聞けば一週間前から根付いてるらしいが、十円玉ほどの大きさのままで増殖を止めたそうだ。
 飴細工みたいで美味しそうだった。グレープシャーベットが食べたくなったが、この季節じゃチョコレートアイスが主流だ。乾く喉と口内に舌なめずりしたが、唇はあまりに苦い。ポケットには煙草とライターとスマートフォン以外何も入っていないので、この後店に立ち寄っても何も買えやしない。財布を置いてきたことを後悔した。

「燐」
「うん?」

 吐息か紫煙か、区別のつかぬ白が雪に同化する。彼の髪は胸元まで伸びていた。無関心な人が大多数なものだから、彼のちょっとした異変にも気付かないし突っ込まない。

「私の孤独なんて愛さないでくれ」

 吐息のように吐かれた告白は摺り合せた手の間で揉み消されていく。氷点下に近い気温は皮肉にも彼に鮮やかな血の色を与え、健やかに見せていく。鼻先も赤くて、思わず自分のマフラーを巻いてやったが、どうしたって彼に暖色は似合わない。
 だけど今日は別だ。チェリーレッドのマフラーは黒一色の格好をする彼によく映えていた。似合うなんて言えばマフラーを花壇に投げ付けるだろうから黙ることにした。

「あなたの孤独は殺すよ、だから大丈夫」
「私はあらかじめ独りじゃなかった。孤独は不幸じゃない、でも……」

 変わらないと誓ってから彼は僅かに変わった。嫌悪より憂う色が目立っている。眉は中央に寄るものではなく、ハの字に下がるものになってしまった。首のことを彼なりに気にしてるらしく、残ったものなぞ親指の爪痕くらいで痣も何もない。自分は彼に傷ばかり残してきたのだから、本来なら自分が気に病むべきなのだが。

「その時までふたりだよ、残念だけど」

 慰めが彼の顔に花咲かせる日は来ない。来年度は自分も三年生になる。別れは着実に近付いていて、彼は今日も何かに寄生され、愛される。そして自分が阻止する。惰性とも取れる日々が今日まで続いた。そして連続からなる日常にもカウントダウンが要される日も近い。
 狂った神が創造した世界は歪なのだろうか。それでもいいと思えるのは自分が世界の歪みだからなのかもしれない。けれどあれ以来彼は狂わないし、自分も狂信的になれなかった。だけど寄生される彼がこの世の何よりも美しいのは不動だ。明日も綺麗で明後日もきっと綺麗。そうやって地球の自転に踊らされて、今日も生きていく。

「先生、取ってあげようか」

 何にだって終焉が齎されるのならば、最高の終わりが訪れますように。想い出だけに留まらぬ永遠が自分を縛ってくれますように。あなたがあなたのままで、何かに成り果てますように。

「ああ。……お前くらいだ、物好きな奴なんて」

 それでもあなた、やっぱり鳴きはしない。寄生の美々にすら染まれぬ彼は今日も密やかに血を流す。疲れたら眠っていいと言ってあげられたら良かった。美しい容貌の下でだけ泣かせてあげられたら良かった。でもそんなに優しくなれないのは、自分の欲望だけ叶えてほしいから。
 ごめんね、剥がした結晶は粉々になってしまった。雪はあなたの赤いぬくもりで穢れていく。ごめんね、あなたに愛は似合わない。そうやって『あなた』を強制させる自分は何処までも悪い子だった。

絵具 Temperare

絵具 Temperare

2019.1.22発行「パラサイト・イン・ザ・アートルーム」より

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-12-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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