木通 Akebia quinata



 痛む腹なんて破れてしまえばいい。生まれるものなんて何もない、なにもない。奇妙な痛み方をしてみせる腹を撫でながら、どうにか痛覚を追い出せないかと深く息を吐く。酸素が肺の底が尽きるまで。逃げるのは空気を汚す二酸化炭素だけだったが。
 ついでとばかりに背中も痛かった。また何かの植物が求愛とばかりに根を張り巡らせているのだろう。肉を掻き分け血管をまさぐる愛撫には慣れた。一方的なアプローチは熱烈すぎて気が遠くなる、読んで時の如く。

(私は彼らの愛し方がわからない)

 背中に背負うものが十字架なのだとしたら、自分は何故このようなものを背負う羽目になったのか。知識として神の一切を頭に詰め込んでいたとしても、神が自分を救ってくれる偶像だと思ったことはない。それなら今すぐに背中の異物を除去してくれるはずだ。
 しかし神はいないのだと身を以て思い知らされる。背中のものが愛たる象徴だとして、その者は啓示のひとつも寄越さないのだから、いたとしても不遜の塊か何かだろう。
 ワックスが剥げてきた冷たい床に伏し、背中の上で転がる何かに感嘆した。植物は厄介だ。鱗は削げばいいし、羽根は毟るなりちぎればいい。だが植物は根を張るので、たとえ芽を出すことがなくとも神経を冒された気がして、意識した途端に鈍痛が走る。
 どんな姿をしていようが寄生は寄生でしかなく、肌から剥がされた瞬間に命は途絶えてしまう。今までも毟られたら、それ以降同種が『愛して』くることなんてなかったのだが、それにしたって植物に取り憑かれるのは嫌いだ。花が嫌いだから。
 やたらと服が張るので脱いでしまいたかったが、何時誰が訪れるかも知れぬ状況で肌を晒す真似はしたくない。床に体温を奪われるのを覚悟でぴたりとくっ付いていると、背中の物がまたひとつ成長したのか、ニットの布地が更に押し上げられていく。
 自分で取ればいいのではないか、確かにその通りだ。体は硬くないし、刃物があれば断ち切ることくらい造作ない。しかし取ってしまえば、何処かの誰かが膨れっ面をするのが目に見えていた。
 一年も馴れ合ってしまったことが不覚だが仕方ない。それは何処かの誰かのせいだから。いつの間にか脳裏に滑り込むようになった誰かの面影を象っていると、その誰かはやって来た。
 控えめに戸が開き、ぺたぺたと足音が鳴ったかと思うと頭部の真横で止まる。髪が邪魔して見えなかったが、後頭部をくしゃりと撫でる手付きで本人であることが解る。蝋燭のように白い指が髪を掻き分けて、こめかみの傷痕を撫でている。こそばゆさに握り拳を作ると、拓けた視界の先で見慣れた――見慣れたくもなかった端正な小顔とかち合った。

「こんな所で寝てたら風邪引きますよ」
「青島が遅いからだろう」
「掃除当番だったんだから仕方ないでしょ」

 マスタードイエローの猫っ毛がふわふわと揺れる。西に傾きつつある陽光で明度を増した毛先は光と同化しつつある。同じ色をしたカーディガンは肘辺りで捲られており、剥き出しの腕に寒気を覚えた。
 こちらに幼さの残る笑みを向けると、背中の物に気付いたのかニットの端を摘んでは捲ろうか捲らないかとわざとらしく躊躇している。じとりと睨んでやると「だって桜も終わったのに、こんな厚いニットを着てるだなんて」と半笑いでニットから手を離し、自分の傍らにしゃがみ込んだ。

「油絵の描き方を教えてくれるんじゃなかったんですか? 先週も先生がサボるから部活できなかったんですけど」
「なら私のことなぞほっといて描けばいいだろ」
「見てくれる人がいなきゃデッサンも油絵も意味がなくなるでしょ」
「今日はだめだ」
「じゃあ背中のを取ったら教えてくれるでしょ? ダメ?」

 だめではない。現に背中が重くて起き上がるのにもバランスが取れずにいたので、本来ならすぐにでも取れと吐き捨てれば、彼は二つ返事で背中の異物を剥ぎ取ってくれることだろう。しかし目敏い反応をされると触られたくなくなるもので、わざとそっぽを向いてやった。溜め息が大袈裟に吐かれ、自分の側より足音が離れていった。諦めてくれたならそれでいい。それならば自分は眠るのみだったし、背中も腹も痛いのでどうしようもない。
 油絵を教えたくないというわけではない。先週も腹痛に見舞われていたからできなかっただけだが、彼に弁明する気もなかった。ちなみに市販薬も処方箋も効かなかったし、ストレスと診断されただけなので、通院代が無駄になった。
 油絵がだめなら勝手に水彩画でも描いてくれたら良いのに。水張りから何から覚えて、それなりに形にできるようになったのだし。青島の潜在的な素質なのか、根性と努力の賜物なのか、一年で人前に晒せるほどに腕を上げたのだから、自分なぞいなくとも勝手に進められるはずだ。
 相変わらず床に体温を奪われたままであったが、床を暖色に染める光の温さに目蓋が重くなり、重力に逆らうことなくそのまま目蓋がを下垂させた。
 鉛筆の音がカリカリと画用紙に擦り付けられている。諦めてデッサンでも始めたのだろう。軽やかな音が意識までもを削ぎ落としていく。腹は引き攣ったままだったが、このまま手放したっていいのだと諭されているようだった。



 美しいものを嫌うようになったのはいつの頃だっただろうか。先天性のものか後天性のものかすらも朧げであったが、兎角嫌悪するようになっていた。
 当て付けのように寄生されたのは去年のこと。この学校には中庭があり、女生徒の溜まり場となっていた。中でも荊のアーチが人気なのだが、黄色い声で犇めく中庭も、愛らしい花を付ける荊も気に食わなくて人知れず花を毟ったら自分の体にびっしりと生えてしまった。
 しかも蔦が皮膚から突き出しては棘があちこちに刺さり、生えてくる間も傷口を広げるように棘が抉ってくるものだから、自分から中庭に赴くことはなくなった。しっぺ返しなんて御免だと思いながらも、花壇への執着は断ち切れていない。

(あの日からあいつがいた)

 腰のあたりまで伸びていた髪を切り落とされた。髪なんて勝手に生えてくるのに、罪のように離れず、罰のように引っ付く少年と邂逅してから、体は傷で彩られるようになった。顔の件でお岩と馬鹿にする生徒もいたが、多分本家に呪われたのかもしれない。随分と学校を休むことが増えたように思う。
 あれから色んなものが身体を蝕んだ。蔓花茄子が背骨を伝って生えて翼のように形作るものだから、誰かさんがデッサンをしたがって危うく死にかけた。真珠貝の欠片ごと小指を噛まれたりもした。宝石が皮膚や爪だけでなく眼球にも侵食したため、片目の視力は落ちたまま。蛾の翅の付け根だったところは完治しても体が冷えると痛むしで一見すると満身創痍のようだが、慣れてしまうと『いつものこと』として処理するようになる。だから剥ぐ側もそれが当たり前だと習慣化してしまう。何の疑問も持たずに。
 あと何回取り憑かれたら気が済むのだろう、何が私の体を奪っていくのだろう。最早頭痛しか起きないし、腹は相変わらず痛い。

『いつでも助けてあげますからね』

 体を奪われそうになる度に青島がいた。血を見て倒れた彼はもう何処にもおらず、寧ろ寄生されると何かしらの好機として捉え、命じられるがままに寄生物を剥がしていった。
 寄生を剥がした痕跡は綺麗さっぱり消えたものもあれば、こめかみや首筋、手の甲といったように痣として残ったものある。力づくで引き剥がせば寄生物は恐れ慄くのか、体外の寄生は僅かな残留物すら残さずに後日数日で消えてしまう。虹彩に残ってしまった結晶は除くとしても、必ず彼が手を尽くしてくれたし、そんな彼の手に甘んじている自分すらいた。
 だがふと、彼こそが寄生動物ではないかと疑うこともある。秀でて美麗な顔立ちというわけではないが、苦手な顔立ちの部類である。できることなら傍にいないでほしい、周りをうろつかないでほしい、本当はこんな顔の人間を美術部になんて入れたくなかった。しかしどうしたって彼は隣にいる。ライトブラウンの丸い瞳が、色素の薄い肌が、ほんのり色付いた唇が、少女の造形をした彼が私の何かを責め立ててくる。
 ……それが何かすら思い出せないのに彼は自分が忘れた何かを的確に抉っては引き剥がそうとする。だから手元に置かざるを得ないし、監視していないと自分が何をされるか堪ったものではない。人懐っこい猫のような笑みがいつか自分を噛み殺してくる、そんな気がして。

『そんなに気になるなら噛み殺してあげようか』

 ぽつりと灯された声に体を強張らせるが、声の主は何処にもいない。暗澹たる空間の中で糸を引くような甘ったるい声が耳元で反響して、悪寒がふつふつと肌を覆った。暗黒に塗りたくられた空間に浮かぶ双眸が猫目の光を宿しており、それに見入られた瞬間に体の筋肉という筋肉が一斉に硬直し始めた。

(それも悪くはないな)

 声と瞳だけがぽっかりと浮かぶ空間の中で自分の関節が逆方向に曲がり、プレッツェルようにぽきりと容易く折れてしまった。しかし痛覚は訪れず、裂けた切れ目からするすると何かが這い出した。例えば荊であったり、秋桜であったりと見慣れた草花が目を出して茎が伸びていく。何処を目指すでもなく、当て所なく伸びる茎の先には二つの目があり、爛々とした光に当たることで葉が一気に広がり、蕾が現れては花弁が一枚一枚捲れて花と化した。
 皮膚は鱗や貝殻へ。剥き出しの肉からは果物がたわわに実って零れ落ちていく。血液は鉱物となって闇に吸い込まれ、意識は湯に溶ける紅茶のようにゆっくりと広がり溶けていく。睨み付ける瞳から逃れられる術は知らず、取り敢えず手を延べてみたが手の甲からはぷつりと皮膚に穴が開き、草や花が生えるばかりだった。

『ああでも、それじゃ勿体ないよね。俺があなたを神様にしてあげる。先生はそういうの嫌いなんでしょ、でも素敵だよ。誰も触れられやしない崇高な人になれるんだから、先生は幸せ者だよ』

 宇宙人だとかが言った、誰もが同意した。歩く死体だと誰かが言った、やはり誰もが手を叩いた。つまらない異名を付け嘲笑する集団の中に彼も含まれていた。集団かつ思春期の人間なら輪からはみ出さないようにと必死だ。普段の青島もつまらない類の人間でしかない。
 しかし此処では違った。物好きな少年、年相応に好奇心が旺盛で信仰の意味すら理解していないような、覚えたての言葉を使って背伸びしたがる少年、どうしたってそんな様にしか見えないのに、彼は私を盲信した。不快な言葉を充てがって楽しむというだけの、インスタントな信仰心で。
 だが信仰というものはたったひとりでは起こり得ない。神と名付けられた対象者、或いは対象物と信者がいて初めて成り立つもの。ひとりぼっちでは人は人でしかないし、神は神ではない。ふたりいで起こしてしまった過ちなんて誰も正しようがなかった。私が神にさせられて大人しくしているのは、私が彼を狂わせてしまった自覚がほんの少しあるから。しかし私が悪いのか、アレがいけないのか、あの子と出逢ってから、私の体はどんどんおかしくなっている気がする。

(誰もが無関心でいてくれるのは嬉しいが、それはお前だけの幸福でしかないんじゃないか)

 猫目石のようにぴかぴかと光る目はゆるりと伏せられ、闇からぬるりと現れた白い手に掴まれると、自身の体はどんどん人としての輪郭を失いつつあった。彼が自分の何を掴んだのだろう、感覚すら失われており、意識すら朦朧とする中でもう一方の手が自分の胸部をまさぐる。指でノックされると自分の皮膚がバナナの皮のように捲れて、肋骨が蝶の翅のように赤く開く。
 その奥では従順な心臓が彼の手元へと転がる。林檎よりも大きく柘榴よりも赤い生命からふつりふつりと芽が出て、茎が伸びては蕾を付ける。開いた花は奇妙な形をして見慣れぬものだった。まるで童話にでも出てきそうなフォルムをした花の真ん中では、三つに枝分かれした雌しべが右顧左眄へと忙しなく回転している。
 ちくたく、ちくたく。時計の針のつもりなのだろうか、ふらふらと回る雌しべにこちらまで目が回りそうだった。しかも同調するように下腹がきりきりと痛み出した。しかも先程とは比べ物にならないくらいの激痛が襲う。
 ズタボロな体など、いっそのこと好きにしてくれたらいいのに。青島の目と手と声をした何かは呑気に花を摘む。あの花の名前は何と言うのだろう、花を嫌いになったのは何歳の時だったろう、そんなことさえ暗闇の中では思い出すに至らない。しかしそうだったのだろうか、この空間があるない以前に忘れてしまったことはいくらある? 本棚に隠した秘密は何冊ある?

『だってそうでもしなきゃ、アンタは誰からも愛されないじゃないか』
(余計なお世話だ)

 ちくたく、ちくたく。時間は何処へ向かって進んでいるのだろう。誰の時間だ? 青島燐としての時間? 園貞春としての時間? ふたりが共有する時間はどれほどあるというのだ。この子は私の何だというんだ、私はあの子の何だというんだ、彼が勝手に介入してきただけだというのに、ああ、どうしてこんなにも喧しい、何故こんなにも痛い。
 雌しべの長針と短針のいたちごっこ。秒針がぐるぐるぐるぐると時の概念を忘れて高速回転している。止まらない、止められない、心臓から摘んだところで留まることを知らぬ時計は、赤い色すら覚えぬままにぼんやり蒼白く佇んでいる。規則正しく収縮する心臓は私と乖離して尚、何を生かすために鼓動するのか。
 生きたくないと過ぎったのは私の傲慢なのだろうか。大事そうに抱える少年の手で握り潰されたいと願うのは何に帰依する解放なのか。それすら解らぬまま、増殖する花に向き合う他許されなかった。
 腹を掻き混ぜる疼痛に絹糸のように細くなる正気。意識が何処へ行こうにも、彼がいる限りのっぴきならぬ臓物と肉になっただけの自分が浮遊する顛末しか見えない。蛋白質やカルシウムを養分として成り立つ寄生達が所謂美しいものだという。
 私には解らない。語り継がれる永遠性も、尊ばれる神聖さも、人を惑わす眩耀も、右の人間と左の人間と同じように首を縦に振る要因になりはしない。そんなものよりも私という凡庸な男を貴ぶ少年の気持ちはもっと、解らない。解らないから、怖い。私の何を、何処までも知っているような口振りが。一切を見透かす大きな瞳が。

『愛されたかった?』
(うるさい)

 止めてほしい。焦燥が花の雌しべを更に回していく。三本の針達も混乱し始め、針と針がぶつかっては花粉がはらりと舞う。脂汗が吹き出し鼓動も高まり、花も微震が止まなかった。いっそ大地震でも訪れて、この空間ごと生き埋めにしてくれたら良かったのに。何故私なのだろう。身が崩れるほどに愛され続けて今更誰に愛されたら良かったというのだ。
 花が咲く、咲く、咲く、散らぬままに花は咲き乱れて心臓は埋もれてしまいながらも鼓動を止めなかった。どくどくと脈打つそれはそろそろ爆発してしまうかもしれない。千々に散らばる体も回収しようがなく、生命の無法地帯の中でただ茫然と、しかし否定だけが自分の首を動かした。残った腹部が風船のように膨らみ始め、激痛は軈て意識をどろどろに溶かしていく。
 止めろ、止めてくれ。ちくたく、ちくたく。何を止めたら終わる、何をしたら止まるのだ。時計のような花達は奮って雌しべを振り回すものだから、無機質な音が只管に脳味噌を掻き回した。

『可哀想な人』

 ぐにゃりと、上弦の月ふたつが憐れんだ。その時一斉に雌しべの回転が止まり、滞留していた空気が一気に髪を撫で付ける。ああそうだ、こいつは端から終わりを願っていた。取り憑かれるしかない肉体の行く末を、人が神にさせられる顛末を。裏切られた気がするのは私の心がとうの昔に絆されていたからか。
 何にせよ、その目こそが見えざる眼のようにして私を取り囲むのだから、気が狂いそうだった。
 妊婦のように膨張した腹は皮膚が薄くなっている。破裂するのも時間の問題だ。痛みに呼応して彼らしい何かの声は眩暈のように広がって細部へと行き渡る。

「そんな目で、私を」

 もう狂っていたのかもしれない。人間の体から植物や小動物が生えてくるだなんて、本来なら空想と物語の世界でしか有り得ないのだ。それを日常に変えたのは他ならぬ自分だろう。甘んじたのは自分だろう。だからって、だからって、お前まで馬鹿にした目で舐め回すことはないだろう。
 美術室でくらいは、唯一でいてくれやしないのか。

「わたしを、みないでくれ」

 ぱちんと弾けて割れた腹からは無数の生命が飛び出した。森羅万象、有象無象、そんな言葉が似合ってしまうほとの生命の大群が四方八方へと散っていく。痛みは数とともに和らいでいく。が、膨張したのは虚無感の方だったらしい。置き去りにされたと、何かに対して味わうのは初めてかもしれない。
 花は叫びと共に弾け飛んだ。花びらは時限爆弾のように高らかに飛び散り、その衝撃で少年らしいものは闇へと霧散していく。まっさらになった心臓は体内へと駆け足で戻り、肋骨の扉は静かに閉ざされた。それでも寄生の成長は止まない。出て行った生命たちは帰ることはない。我も我もと体を侵食する根の痛みに唸り、虚空へと拳を叩き付けるしかなかった。
 私が一番救われたかったのに、神になったら一生救われないじゃないか。お前だけは油臭い箱庭にいてくれると、不確かな安堵だけが私を生かしていたというのに。
 ――ああ、馬鹿みたいだ。これじゃあ本当に、愛されたかったみたいじゃないか。
 背中の蔦が首へと巻き付いていく。あらゆる痛みすら自分から逃げていった。それならいっそ死すら遠い世界に連れて行ってくれたらいい。甘い匂いが喉へと滑り込んで、そのまま気管を潰してくれたら。肺を虚無へと沈めてくれたら。救いを求める正体を隠したまま、最善の終末を迎えられたというのに。
 蔦に口をこじ開けられたかと思うと、ぬるりとゼリー状の果肉が擂り潰されて流し込まれていく。息ができないほどの芳醇な芳香に溺れる。柿のように柔らかく仄かな甘さが喉を塞ぎ、種が粘膜へと張り付いていった。ああ、そうして終わってくれた方がどれほど快いか。そうだろう、青島。それが望みだったのだろう、燐。
 私なんかが死んだって、お前は。


 ――でもそういう貴方のことを、俺は。


 暗闇ががくんと揺れたかと思うと、大量に入り込んだ酸素が肺を圧迫して激しく噎せた。そこには果物のような熟れた甘さもなく、首を締める蔦も喉を侵す果肉も何もない。暗闇の代わりに西陽が直接差し込むので、あまりの眩しさに蹲っていると、ごろりと背中の方で何かが転がる音がした。
 ――夢か。抽象的かつ鮮明すぎる夢だった。心臓は自分の胸の中でとくとくとなだらかな脈を打っており、全身をびしょ濡れにするほどの汗が体を冷やしていた。強張った全身の筋肉を弛緩させようと爪先から徐々に伸ばしていくと、こつりと何かが当たる。腕を避けて目を向けてみると、屈むなりこちらを注視する少年と視線がかち合った。

「大丈夫です? すごく魘されてたけど」
「ああ……ああ、燐か。変な夢を見ていただけだ」
「てか本当に寝ちゃうとかないでしょ。風邪引きますよ」

 普段の意地悪い笑みではなく、新緑のような穏やかさが唇を持ち上げている。蒲公英色に色付き始める陽光が腕の縁を彩っていた。光に透ける産毛が眩しい。髪をくしゃりと撫でられる感触が気持ち悪くて、でも心地が良い。甘えたくないと手を振り払うと、慣れたように手をぶらぶらさせて机へと腰掛けた。
 湿るこめかみを拭いながら肘を付いて床へと押し付けると、その弾みで肩から脚の根元に掛けて何かが落下していく。跳ね返りもせずに足元を覆ったのはマスタード色をしたカーディガン。脇の部分は擦れて毛玉が幾つも引っ付いていたが、引き剥がせなかったのは彼の少女的容貌を削ぎ落とすひとつの切っ掛けであったからかもしれない。ニットの隙間に迷い込んだ冷気を潰すように肩から掛けてみせると、ふと振り返っていた青島は目を丸くした。

「……珍しいこともあるもんですね。運命が俺に惚れたのかな」
「どうしたらそういう解釈になる。寒いから勝手に借りただけだし、お前もそのつもりで私に寄越したんじゃないのか」
「えっ、寒いんだ…。それはいいとして、先生って本当にニット系が似合いますね。……まあその色は合わないかもしれないけど」

 確かにお世辞でも合うとは言えないだろう。くすんだ肌色にくすんだ黄色、もっと枯れた人間となってしまう。イチョウ並木に紛れた瞬間に見分けが付かなくなるかもしれない。腕を摩っていると、さりさりと紙やすりのようなざらつきが背を這っていた。
 葉擦れが項の辺りで騒がしい。寄生した何かはタートルネックを押し上げるほどに成長したらしく、存在を意識した途端に背中がずしりと重くなり、背骨が反り返りそうになったところを青島の腕が制止した。危うく転倒せずに済んだが、ぼこぼこと背後で増える得体の知れなさにはほとほと呆れてしまう。彼も次は何が寄生したのか気になるようで、頻りに背中をつついていた。

「青島、背中に何があるか見てみろ」
「それなら最初からそう言えばいいのに。まあいいや、先生をどうにかしないと作品も進まないし……っと」

 空気がぬるくなるほどの至近距離が苦手だった。気付けば彼をパーソナルスペースに、しかも平然と迎え入れるようになった自分にも辟易しているが、現に自分の病じみた体をどうにか処理してくれるのも彼しかいないわけで、作品の為にも勿体ぶらずに引っこ抜いてもらえばいい。それに痛みがあればまだ生きていける、自分は人であって、だからこその痛覚と流血が存在するのだし。詮索さえされなければそれでいい。
 服を捲るにも了承を得ることがなくなり、反論することもなくなった。インナーごと捲られた背中からは何かがぶら下がっているのか、時折背中の皮が引き攣っている。後ろ手に手を回そうとしたが青島の腕が邪魔をして上手く届かないでいた。

「先生も難儀ですね、どうしたらそんなに色んなものが生えてくるんですか」
「そこまで言うなら私の身代わりにでもなれ」
「嫌ですよ。まだ死にたくないし、痛いのも嫌いだし」

 察してくれたのか、自分の代わりに手が掛けられて衣服が胸元までたくし上げられた。ひやりとした外気が寄生物の隙間を縫って背を撫ぜたが、それが何かなんて掴めやしない。背面から倒れそうになるのを堪えているが、結局は彼の腕に身を委ねないと儘ならないらしい。
 背後の青島はずっと首を傾げているそうで「ん?」と不思議がるばかりで何もして来ないので、じっと睨み付けていると負けじと口を尖らせた少年は何かをつつき、そしてまた背中の皮膚が引っ張られた。

「ねえ先生、これ何だろう……。茄子じゃないし、紫の野菜……ん? 見たことないや」
「どうした、何がある」
「楕円形の野菜か果物なんですよ。身が割れてて中が白くて、種がたくさん入ってるんですけど。ひとつもぎますよ」

 ぷつんと何かがもぎ取られると、手渡されたのは手のひらほどの大きさの果実だった。縦に長い青紫の実はぱっくりと割れており、開いた皮の向こうでは乳白色の物体が覗いている。半透明の果実からは種が無数に透けており、隣にいる少年は気味悪そうに顔を顰めていた。その隣にいる男はもっと気味が悪いだろうに。価値観の相違とは面白いものだ。

「……あけび」
「初めて見た。名前だけは聞いたことあるんですけどね」
「私も流石に食べたことはない。しかしこいつらは季節も何も関係ないらしいな」

 種の口当たりは良くなさそうだが、奇妙な見た目に反して身は甘く、自分より上の世代は木通をおやつ代わりにしていたと聞いたことがある。木通が庭にある家庭もあったそうだがどうなのやら。不味くないのなら口に含んでみたいという好奇心も僅かばかりにはあったのだが、如何せん養分は自分自身から吸収したものだろうし、寄生を構築する成分の一部に自分の血肉が含有されているとしたら食べる気も失せるというもの。オートカニバリズムなんて御免だ。
 胃酸が込み上げてきそうだったので木通の身を石膏像へ向けて放り投げると、真っ白な頭部へと見事に当たってぼとりと床へ転がった。
 跳ねるでもない身はくたりと横たわっているのだが、青島はそれを目を逸らすことなく凝視していた。すると腕を解いて教室の隅へと向かい、その反動で自分の体は均衡を失って肩から倒れてしまう。急激に起こった鈍痛に唸ろうとも振り返ることもせず、艶のない身を拾い上げると日の光で照らしてみせた。
 彼にとって未知の果実は好奇心と感情をどこまで揺さぶったのだろう。角度を変えながら暫く木通と対面していると、青島は大きく口を開き、紫へと歯を突き立てた。ちぎれる皮が口内へと収まり、静かに顎を動かしていると、噛み砕いた果皮をごくりと飲み込み、神妙な顔付きをしてみせた。

「…………美味しくない」
「そりゃそうだ、そこは皮だからな」
「あっ、カブト虫の幼虫みたいなやつを食べれば良いんですか? 気持ち悪いなー……でも匂いは悪くない」

 一口分の丸い穴ぼこの隣には虫と形容されてしまった憐れな果実が懇ろに包まれていた。赤子のように無垢な白だ。顔に似合わぬごつい指先が瑞々しい果実に触れるや否や、親指と人差し指で摘んでみせると、大振りな果実を一口で喰らい、ゆっくりと咀嚼し始めた。
 不味くはないのだろう、満更でもなさそうに頬を膨らませている彼とは裏腹につきんとこめかみが痛んでいた。起き上がることすら億劫で、九十度に曲がった彼を観察していたわけだが、木通を喰らう青島が化け物か何かに見えて恐ろしいとすら思えた。若さ故か本来の気質故か、彼は木通の元なるものに何ら疑問も抱かず、安全と安心から生まれた自然由来の食物として体内に取り入れようとしているが、木通はこの体から生まれたと言っても過言ではないだろう。
 あらゆる寄生物は私という肉体と精神に何らかを見出し縋り、愛されたいと願う者、声なき者が愛を求めて体を侵食し、奪おうとした際の副産物に過ぎない。であれば木通とて例外ではない。

「これ結構美味いな。ねえ先生、冷やして食べたら絶対に美味いですよね。ぬるいけど、柿みたいでいけますよ」

 植物に体温などなどあるものか。しかし三十六度のゼリー状の果実が彼の体温を奪うことなく喉元を通り過ぎ、胃の腑へと落ちんとしている。中央を食まれた果実がひくりと蠕動した気がして、背中を媒介にした木通の群れが一斉に泣き出しそうな、不安を煽るビジョンを映し出す。喰らった果実の丸みが産み落とされる寸前の胎児にも見え、腹の中で胃酸がぐるぐると回転し始めた。溶けるものも何もない伽藍堂の臓腑はつきんと痛みを訴えるというのに、そんなことはお構いなしという風にして、青島は果実を貪り続ける。
 皮に包まれた身は何だったのだろう、本当に木通の実なのか。人から生えた果実は純粋な果実か? 実は騙されているのではないか。誰に? ……何に?

「園先生? 顔色が悪いですけど、保健室に行きます?」
「要らない……。そんなの元からだし、そもそもお前のせいだ」
「えっ、俺はおやつを食べてるだけでしょう。あ、後ろのを取れってことか。解ったからもう少し待っててくださいよ」

 寄生の副産物を食している、という点さえ除けば青島もその辺の生徒と何ら変わりのない、十七歳の男子高校生だ。無邪気に笑ってみせては本能の赴くままに行動ができる、理性に縛られぬ自由な生き物。ただ此処にいる時だけは、どうしても異質な生き物としか思えなかった。
 西陽を主成分としたような赤みと黄色みを帯びた色彩で構成されて、絵画に出てきそうな均等の取れた顔立ち。そしてメフィスト・フェレスのように心の隙間に滑り込んで取り憑くような、寄生物とはまた違ったベクトルの奇異なる存在。彼を美術室から追い出すことを諦めてから約一年半、不定形だった自身の本質は彼の手によって変えられてしまった。彼の手形がべたりと残るような歪な形。不気味な造形。
 美術室は自分だけの孤城だった。心の拠り所を求めるほど精神は軟弱ではないと自負しているが、生きていく上での社会は酸素が薄すぎる。長らく生きたいわけでもないし、美術がとりわけ好きでもない自分にとって、美術室は生命維持装置でもあり箱庭でもある。そうすることによって幽霊のように不確かに、曖昧に息をしていられた。
 しかしどうだ。机と遺物だらけの箱庭に、違う匂いを纏う二酸化炭素が紛れ込むようになってしまった。人が増える分、酸素は擦り減っていく。それなのに追い出せなかったのは、自分を支配したいからだろうと告げられたことがある。しかし当時の青島の純な瞳こそが加虐と被虐という根底を互いに植え付け、自分は痛みを、相手は残滓を求めるようになってしまったのではないか、とすら思うのだ。
 誰が始まりだったかなんて既にぼやけてしまった。確かなのはこの関係が終わりはしないということ。自分が何かに愛し尽くされるまで、ひとりの男の終末を見届けるまで彼は絶対に離れやしないということだけだった。
 ぐちゃりと耳障りな水音が思考の海を乱した途端、影絵のような暗澹とした視界は一転して彼の眼を映し出す。最後の一口を口に押し込んだ青島は種ごと果実を嚥下し、満足そうに歯を見せて笑う。皮をごみ箱へ放り投げたので、いよいよ背中のものも引っこ抜かれるのだろうと気持ちの整理を付けていると、横向きになっていた体が回転し、うつ伏せにさせられていた。

「あのさ、先生。木通はどの道引っこ抜くんですけど、もう少し食べていいですか?」
「はぁ?」

 自分でもこんなに素っ頓狂な声を出せるものだと驚いたが、青島が誰よりも自分の反応に困惑しているようだ。顔面のすぐ手前でしゃがんで見せる彼はもうひとつの実をもいでみせ、手のひらに乗せて差し出した。食べろとせがむわけでもなく、ただ眼前にて見せ付けるだけ。この果実も熟れ頃で、ほのかな芳香が鼻を擽っていく。
 食べたがっているのは青島で、食べたがられているのは木通そのもの。食べたければ食べればいい、悪趣味だと手のひらで押しやって放置すればいいだけの話。わざと眉根を寄せてみると、彼は肯定と看做したらしく、潰れないように細心の注意を払いながら果実を摘み上げ、一口で食べ切った。

「……ま、ということで好きにさせてもらいます」
「勝手にしてくれ」

 がこんと音がして、皮がまたひとつごみ箱行きとなる。露出した腹が床に直面しているので、体温が根こそぎ奪われていく。痛みはもうないが、寒いのは苦手だ。
 せめて椅子に座りたいというのに、ささくれ立つ足に指先が当たるだけで届きそうになかったし、どういうわけか青島が自分の体を跨いで伸し掛かってくる。彼の残り香がそこらに浮遊するだけで、視覚だけが彼を見失う。だからだろうか、指先が蔦を掠めると自身の器官に触れられたような感覚が襲うのは。
 体が鉛のように重くなるのは青島が押さえ付けているからで、葉先ではない刺激が皮膚を覆うのは青島が顔を近付けているからで、腹を掻き混ぜられるような居心地の悪さを与えられるのは、彼が実を切り離すことなく咀嚼を始めたからだった。

「甘い」

 ああそうかい、それは良かったな。無言の皮肉すら少年に取って喰われてしまったのだろうか。血圧が急激に降下したような手足の震えと冷えが襲っているのに、果実は悠長に彼の体内へと移動していく。切り離してくれたらこうはならなかったというのに、青島は自分に括り付けられた実を一心不乱に喰らうだけだった。

「やっぱり種がなぁ、食べづらいけど……美味いもんですね」

 木通の何処かに視神経と通じる何かが引っ付いているのだろうか。固く閉じた目蓋の先で、どの視点とも定まらず、ただ木通を食すだけの青島の顔が映し出される。果実に唇を濡らし、艶が朱唇を鮮やかなものにするる。そこには穏やかさも、かといって獣の獰猛さもなく、プログラミングされた機械が命令通りに淡々と作業しているだけの、どこか受動的な口の運びをしてみせる。
 傷口のような割れ目へと舌が差し込まれ、果肉へと這う舌先に力が込められると、果肉は軽い圧力で呆気なく潰れてしまう。ゼリーは砕けるなり少年の舌を求めて絡み付き、自らの果汁――言い換えれば体液で味蕾のひとつひとつを包み込み、胃の腑へと子孫の端くれを落とし込む。種と肉を飲み込む瞬間に、オレンジで縁取られた睫毛の先で光が溶けて、色素の薄い瞳が鉱物のようにちかちかと艶やかな明滅をしてみせた。
 一種の官能的所作。私はこれが堪らなく嫌いだった。

「燐、りん…………もう良いだろう、終わってくれ」
「もっと良いでしょ。これを食べて先生が死ぬわけじゃないなら、ね」
「おい……いい加減にしてくれ」

 気色悪い奴。心の内で留めたつもりだが、もしかしたらそのまま吐き出していたかもしれない。しかし伝わろうが伝わらなかろうが、彼は幼さの残る顔で大人ぶって笑うだけだった。
 自分に向けられたものか、木通の実に向けられたものかは知らない。だが木通は他者を拒まなかった。ただ形を得たかっただけで、実は自分を愛したいだとか陥れたいだとかもなく、青紫の意思はこちらに矢印を向けぬままに生えて食われるだけ。体内に落ちても尚、沈黙するだけだった。

「燐、聞いてるか…………燐」
「なーに」
「……りん。だから、私は」

 止めろと言いたいだけなのに、ふたりの間に薄い膜でも張られたかのように伝わらない。逃げられているのか、自分がそれとなく濁しているせいか、兎に角伝わらなかった。
 臓腑を直接ねぶられているみたいだ。膜の表面に触れられる不快感にふつふつと鳥肌が立ち、あまりの違和感に激しく身を捩らせた。しかし彼は動ずることなく鼻先を裂け目に埋め、食い意地の汚い犬のように果肉へとありついていく。
 これでは捕食されているのと変わらないではないか。自分の血肉で生み出された果実を彼が食して飲み込み、消化された途端に彼のものとなってしまう。食事たるものがこれほどまでに神経を戦慄かせるものだと身を以て体感した。しかし好きにして良いなど軽率に言葉にしてしまったがために、彼から背を引き剥がそうとしても、床に伏せている以上すり抜けられる場所などあるはずもなく。厚い皮を捲られ、甘い果汁を啜られる度に言い知れぬ感触を椅子の足に擦り付けるしかなかった。
 足を震わせたり、肩を床に押し付ける度にがたがたと椅子の足も笑う。横では伸びる影がひとつに合わせられていく。奇妙なクリーチャーが美術室に潜んでいて、餌を待ち侘びて床の上で息を殺して伏せているような、胡乱な影。ニットをたくし上げられて剥き出しになったままの腹部はただでさえ冷えているのに、畏怖が滲む汗が気化熱を発生させて奪われて、体はますます冷えていく。
 押し広げられる皮膚に、熟れた果実を拓かれる感触。柔らかな口唇が縦長の実を咥えて一気に吸い付き、齧り取る。果実が種と種の隙間を寄り分けて、喉を鳴らして飲み干す。背中を撫でる生温い吐息に毛穴という毛穴が閉まり、産毛が一気に逆立っていく。鮮明かつ過敏に感じ取れる一連の所作が、影絵となって横目の先で可視化されているのだから悍ましくて堪らなかった。
 青島自体は人として当然の行為を働いているに過ぎないのに、いけないことをして、されている錯覚に囚われてしまう。眼球がぐるりぐるりと回転しているような、底なしの不快感。痛みだけであったらいくらでも耐えられたのに、腹を直にまさぐられているような言い知れぬ気味悪さにとうとう耐え切れなくなり、本日数個目の果実にありつこうとした彼の頭を掴むと、硬めの毛先がざらざらと腰を刺激するものだから思わず根元から引っ張ってしまった。

「っ痛……!」

 頭を突き出した青島はそのまま後頭部へとぶつかり、自分もろとも床へと雪崩込んだ。そのまま木通も自分をトマトみたいにぐしゃりと潰してくれたら良かったのに、木通の実すら分厚い皮に守られている。生温い吐息がニットの編み目を擦り抜けるものだから、そこだけがやたらにじめっとした。
 ……気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。どうしたって少年の肌が接触してくるのが苦手だった。浮いた腰骨に指が食い込むのも、鼻先が背骨に押し当てられるのも、物理的に合わせられるという事実によって慢性的な畏怖が血管内を駆け巡る。吐き気を堪えながら彼の下を這い出すと、ずきんと下腹部が痛み出した。

「先生……ちょっと。痛いんだけど」
「うるさい、うるさい黙れ」
「てか顔真っ青ですよ、えっ俺のせい?」
「ああそうだ。もう帰れ、ひとりにしてくれ」

 脊髄を駆け巡る根も、気が遠くなる激痛も、絡み付く声も全てが鬱陶しかった。床に根付いた体はもう起こせそうになく、腹を摩りながら蹲るしかない。痛みを逃そうと膝を抱えたがだめだった。筋を引き剥がされるような痛みが波のように降り掛かり、爪先を照らすオレンジを恨めしく思った。
 足音が遠退いていったと思ったのも束の間、帰れと言われて素直に出て行くような少年ではない。出入り口ではなく棚へと向かって戻ってくる音がした。肩に伝わる振動に喉を震わせると、捲れていたニットが引き上げられた。

「……帰れと言ったのが聞こえなかったか」
「やることやってからね。にしても体うっすいね」

 晒される背中と、腹に被せられるカーディガン。外気と日光に触れて木通たちも嬉しそうに蔓を行き渡らせている。その度に神経を撫でる根に歯を食い縛ると、ぱちんという音がして葉が落ちた。
 どうやら駆除を始めたらしく、枝切り鋏が背後で活躍している。硬い蔓や枝が生えることがあるからということで、美術室に余分な工具が増えた。逃げ惑う蔦が体のあちこちに逃げようとしたが、手際良く分断されていく。ぱちん、ぱちんと蔦が落ちては背が軽くなる。その頃には肌が引っ張られる感覚は薄れていき、深部へ侵蝕する根も動きを止めた。
 引き抜く痛みを迎え入れたら終わりはすぐそこで、後は彼が傷の手当てと寄生の残骸を処理することだろう。一部を持ち帰るのは見て見ぬ振りをすいている。望むのは終わりそのものだった、余計な茶番は要らない。

「痛い?」
「切るだけなら全く」
「なら良かった」

 つい最近髪を切ったせいか、青島は襟足を弄べずに手持ち無沙汰になっている。項が気に入ってるのか、指の関節で撫でる癖があった。付け根の左側にほくろがあると、どうでもいい報告も既にされている。知らなくても損をしないようなことを彼は逐一述べてくる。そういえば去年は肩甲骨の左下と腰の中央にほくろがあると言われたが、当の本人が知ったところでどうしろというのだろう。
 私が宇宙人と呼ばれるなら青島だってそうだ。此処限定で異星人にしか見えない。人間の皮を被った地球外生命体。いや、悪魔の方がそれらしいだろうか。光を愛せざる者だなんて、光を運ぶ者の名を与えられた子どもにとって皮肉ではないか。
 私を神と崇める少年が悪魔だなんて、何の物語が幕開けようとするのか。さしずめ寄生物がファウストか。何を賭ける、寄生物が金でも生み出すとでもいうのか。此処には透明な痛みしか転がってやいないというのに。

「時よ止まれ、汝は」
「なにそれ」
「いや、なんでも」
「汝はなんなの」
「……いかにも、美しい」
「有名な言葉かな、先生は博識だね」

 停止した世界は、自転を止めた箱庭がいかにも美しいというのなら、この手で躊躇なく焼却炉にぶち込んだことだろう。時間を切り裂くように鋏が一本一本の蔦を切り離す。彼方では西の太陽が煌々と燃えている。赤く染まる美術室はなんと静かなのだろう。
 私たちの時は永遠に止まることはない。たとえ電池が切れても秒針は時を刻むだけ。正確さは望まれない。時の進行という事実さえあれば人は疑いもなく死に向かって生きられる。それを幸福、或いは不幸と銘打って満足するだけ。だから面白くない。面白いものとは、何。どんな書物を読み漁っても答えが出ないのは現在進行形の哲学と一緒だ。
 美しくなくていい。滅ぶものが、失うものがあるくらいなら、トランクは空で充分だ。そうやって老いて骨になってしまいたい。燃やしたらきっと青い燐光が最期を飾ってくれるだろうから。
 ちくたく、ちくたく、命が巡る。十字架に磔にされた御子は花と終わる。受難と信仰はともに在らねば。お前と私は何だ。お前の何処かには答えがあるのか。
 お前は、何。
 私は、誰。

「じゃあ先生は時間でできてるの?」
「お生憎様、血と肉と骨だけだ」
「こんなに綺麗なのにね」

 果実が眼前に転がり、鋏が置かれる。きっとペンチに持ち替えたのだろう。根が引っ張られる感触が伝わり、カーディガンを無意識に握り締めた。肉体のどの部位よりもズタボロな背中は更に惨めになるらしい。痛みを除けば快い工程だった。自分が多少の被虐趣味を抱いてるかどうかは別として、創り変えられる心地がする。
 いつか背中が割れて新たな自分が生まれてくれたらいいのに。そうして『園貞春』が終わってくれたら。誰よりも分解を願う体だから、裂かれる痛みで心が霧散したなら最高じゃないか。
 そうは思わないか、なあ、燐。

「痛いと思うから……」
「それでいい」

 不意に回る手が肩を宥める。気紛れに手を掴むと手汗がひどく、指先も冷え切っていた。涼しい顔をして滑稽だこと。何処まで強がってるかなんてお互い様。
 ペンチが根元を挟んだ。息を殺せばカーディガンに深い皺が刻み込まれていく。数秒後に訪れる痛みは彼しか変えなかった。私はどうしようもなくなった。赤く揺らめく箱庭は誰が燃やすのだろう。

「我慢してね、俺の神様」
「嘘つきが」

 此処がなくなったら、私のことなど忘れるくせに。青島の手の甲に爪を立てるとめりめりと食い込み、僅かに凹む。そのまま三日月が刻まれたらいいのに。
 そして痛みは訪れた。ペンチに力が込められるより早く、不定期に痛んでいた腹が今まで以上に激しい痛みを引き連れて。唐突な痛みに吐き気が再来し、堪らえようと床を引っ掻いたが、体内を駆け巡る強烈な感触が胃を荒らし、とうとう吐き出した。
 異変に気付いた青島がペンチを投げ捨てて体を抱きかかえたものの、吐瀉は留まることを知らない。固形物はほぼ消化され、胃酸ばかりが床にぶち撒けられた。

「っセンセ、先生!」
「は、はっ、うぐ……っ」
「先生……」

 流石の青島も動揺し、背中を摩ろうとするが木通の根が慰撫を阻害しに掛かる。撫でたところで残留した根が内臓すら引っ掻き回すから無意味だ。狼狽えながらもどうにかしたいという一心からか、脇から抱えて自分に凭れ掛かるように腕を回した。
 存外に頑健な肩が痛くて、吐瀉も止まらない。シャツを汚されても嫌な顔ひとつしない。これが部活動外なら冷たい目で見下されたのかもしれないし、同級生と変に噂立てしたのかもしれない。全幅の信頼を置けない少年だというのに縋るしかなかった。こんな自分が浅ましくてならないのに彼は後頭部に手を差し込んで「大丈夫だよ」と慰め続けた。

「う、るさ」
「えっ、あ、ご、ごめん先生!」
「ちが、時計」

 腹を掻き混ぜる痛みを増幅させるが如く、秒針の音が鼓膜に張り付いて離れない。だが学校の時計に秒針があるはずもなく、青島は慌てるだけだし、自分は吐くものがなくなっても尚、えずきが収まらなかった。
 柿のような控えめな香りに紛れて異質な何かが意識を混濁させる。
鼓動のように規則的に、かつ等間隔に巣食う痛みは下腹の内臓を喰い荒らしているようだ。もしかしたら本当に何かが中から喰らい始めたのではないか。重く下垂する腕を持ち上げて確かめようにも思うように行かず、硬い鎖骨に額を擦り付けるしかなかった。

「うるさ、い、あ、痛い、ああ」
「先生、先生……!」
「り、ん」

 ひゅう、と呼吸が乱れ、少しでも癒そうとする手が背中を忙しなく摩る。残った根が追い打ちを掛けて胃が痙攣したが、熱を生む痛みに比べたら可愛いものだった。死ぬのかもしれない。三十と二年も生きたなら充分だろう。
 うるさいんだ、いつも時が責め立てるから。生きる意味すら剥奪する人生に追われるくらいなら寄生の苗床にでもなって息絶えたい。酸素も熱も光の柔らかさすら置いてけぼりにして眠れたらどんなにいいか。
 白濁する意識の中ではっきりしているのは青島燐という形だけだった。きつく抱き締められたのはいつ振りだったろう。幼い頃は良かった、無条件に許された抱擁も今では色褪せて有料となってしまった。条件が揃わなければ愛と認めてもらえない世の中だ。たとえ憐憫が彼を動かしたのだとしても良い。彼が描いた終末よりは不格好だとしても、終わりは終わり。
 視界の隅で薄紫の花がぐるぐると回っていたが、焦点が合わないことには何かなんて判明しないが、それもまた人生。明らかに木通とは異なる花を横目に彼の背を引っ掻くと、マリンとシトラスが混合した香水の香りは饐えた悪臭に置き換えられている。それも、また。

「死ぬなよ、こんな終わりなんて許さねえからな」

 燐、と零すと同時にぼこりと腹が蠢いた。スラックスが不自然な膨らみを成して腹上を移動している。腕で囲っているからか、青島も腹の異変に気付いて早急に服の中へと手を突っ込んだ。
 痛みは限界を迎え、声を出すことも儘ならない。思考すら働かず、痛みを痛みと感知できぬほどに摩耗した心身は彼の手のひらだけを追っていた。こんなに熱い手が寄生を、私を愛する者たちを殺めた。そんな血腥い手には園貞春という男と塗料の匂いが染み付いてしまったのだろう。可哀想なのはお前の方じゃないか。
 ああ、もう、無理だ。

「――あった!!」

 遠く現し世に一気に引き戻される。青島が腹ではない何かを鷲掴みにしているが、自分の器官とは異なるものだった。神経がそこにまで及んでないような、自身とは乖離した異物が意思を持っているような――そこまでいって漸く意識が覚醒し始めた。しかし同時に痛覚を復元させるものでもあった。

「いっ…………!!」

 青島が力いっぱいに異物を引くと、それは現れた。はらわたを引き抜かれたような激痛と虚脱感に息を詰まらせたところで視界は白み、支えられなくなった体は後方へと倒れようとしたが、すんでのところで手首を掴まれて事なきを得た。
 体が冷たい、寒い。残された痛みよりも血圧の変動が激しくて体を保っていられなかったが、小刻みに震える体を抱え直してくれたおかげで、多少は和らいだ気がした。それよりも、だ。青島が手にしているものが目について仕方がなかった。

「……先生から出てきた」
「ああ……」

 赤茶色の粘液に包まれているのは白蛇だった。牙を曝け出してばたばたと暴れていた。汚れているから判別しづらいが、見事な白金の鱗を携えた蛇だ。あれが腹を荒らしていたらしい。どんな原理で抜け出したかはさておき、初めて生きた個体が分離したこと、全く異なる性質の寄生が同時期に体を蝕んでいたことが不気味でならない。こんな体が何を申すかという話なのだが。

「うまれた、のか。私から、蛇が」

 何気なく洩らしたつもりだった。まさかこの後で彼が激昂するとは思ってもみなかった。血相を変え、私を突き飛ばしてまで蛇を床へと叩き付け、弱ったところで鋏を振り上げた。殺した。彼は寄生であり産み落とされた蛇を殺めた。首を落とせばそれで済むというのに、彼は鋏を蛇の頭部に突き刺し、絶命しても尚、鋏を穿ち続けた。倒れた私を余所に呪詛が降り掛かる。少なくとも青々しい季節に不似合いな色と匂いがまた箱庭を脅かす。

「テメェ先生から勝手に産まれてくるんじゃねえよ! なんの、分際で! 先生を苦しめた! くそっ、くそっ!!」

 血と肉片が飛び散る阿鼻叫喚。陶磁器のような端正な横顔は返り血で真っ赤に汚れていたが、脇目も振らずに蛇を叩き潰していく。木通を喰らってる顔と大違いだと思った、だが思い直した。あいつは元よりおかしい奴だった、と。
 だっていつもあんな風に笑って無邪気に寄生を剥がしていたじゃないか。これではメフィストフェレスそのものだ。原罪に触れられる唯一の存在、蛇すら翻弄する純粋な邪悪さ。そんな悪魔が神と呼び崇める姿はなんて滑稽だ。こちらまで笑えてくる。

「は……ははっ、先生、大丈夫ですよ。先生にはもっといい終わり方がありますから……ねぇ」
「そう……そうだな」
「痛みをあげるのも俺だけでいいのにね。……ああ、ごめんね先生。まだ具合悪い?」
「多少はマシになった」
「よかった」

 汚れた手はゆっくりと黒ずんでいく。それさえ厭わずに木通の実を拾うと、嗄れた喉を潤すがために果肉へと齧り付く。白い果肉が赤に塗れた蛇肉と重なったが、此処まで来ると違和感を違和感と捉えられない自分がいる。冷たい床に横たわりながら、空になった腹を撫でた。ぬるりと残る体液は自分のものなのか。しかし這い出した箇所は見付からず、一箇所にぽつんと噛み跡があるだけだった。
 赤い、赤い、何処もかしこも赤に沈んでしまった。血と夕陽が曖昧に溶けた美術室は異世界と化している。その中でふたりだけで生きていくには閉塞感極まりないので、やはりあの時死んでいればとも思うのだ。
 ちくたく、歌う。花が回る。ぼやける片目の端ではやはりあの花が咲いているのだが、全貌は拝めそうにない。急激に回る眠気に目蓋を落としそうになりながら、青島の声がした猫目を脳内の海に浮かべた。猫目の双月は水面を照らし、軈ては涸らすだろう。そんな冷淡さが逆に苛烈だ。

「燐、あけび」
「ほしいの? はい、これで最後だよ」

 手に乗せられた木通のなんと重いことか。食べたいわけではなかったが、何となく手にしたかった。腹が寂しかった、だから果肉を食むしか選択は残されていない。
 察してくれたのか、青島が果肉を摘んで口元へと寄せる。蛇の血肉がこびり付いても構わなかった。私はこの上ない喪失感を味わっていたものだから、自分から生えた寄生の産物を喰らうなど、どうとなくなっていた。
 指ごと喰らい付いて、奴の指先を飲み込む覚悟があれば良かった。なのにできなかったのは自分の弱さだ。彼が私の木通を胃に収めるように、産み落とした蛇を殺めるように、私も彼の末端を奪えたなら、少しだけ生きやすかったのかもしれない。
 だからこれは私の弱さだ。そして果実は青島が言うほど味もなく、美味しいとは言えなかった。蛇の血の方が塩気があって旨さすら感じた。

「どうですか」
「うるさい」
「え」
「時計の話だ」

 知ってる、此処には喧しい時計などありはしないことを。囁く秒針を背後に、一層長い生を自覚してしまった。この先は長すぎる。肌に刻まれた傷と、薄れた視界と、花と秒針の鼓動。取り憑くものが多すぎて、自嘲してみせたこの顔は彼にどう映ったのだろう。
 彼はいつものようにへらりと笑うと、髪に鼻先を埋めて背を労った。なだらかに滑る感触に、木通の影は残されていない。眠かった。だから一度だけと彼の背を引き寄せ、重力のままに目蓋を落とした。また浮かぶであろう猫目と花すら手繰り寄せて、微熱に埋もれて。
 変なの、とぼやく彼の背後には悪魔の影が伸びているのだろう。彼が何でも構わない、どうでもいい。だが私の何かを奪うくらいなら、欠けたものを分けてくれたら、とも思う。
 愛も憧憬も尊敬も陳腐ですぐ枯れてしまう、だから美しくない、嫌い。だから此処には。

「少し寝ればいいですよ、此処はアンタの庭なんでしょう」

 箱庭が安寧の地だと思ったら大間違いだ。安寧の先に何があるかも知らないで。積もった安堵に圧迫されることも知らないで。ああ青い、なんて青いのだろう。

「楽園は私のために存在しないんだよ」

 だって此処は私『たち』の墓場なのだから。

木通 Akebia quinata

木通 Akebia quinata

2019.1.22発行「パラサイト・イン・ザ・アートルーム」より

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-12-01

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