蚕蛾 Bombyx mori
容姿端麗と形容するためには第一に本人の主観を要する。それぞれ存在する主観も誰一人として確実に一致することはなく、本人の環境、体験を踏まえると満場一致する麗人に出会すなど、先ずないだろう。
しかしこの高等学校には全員とは言わずとも、生徒達からの注目を浴びるような人間は数人は在籍している。例えば男子高生のマドンナと例えられる隣のクラスの女子。絵に描いたような典型的な美少女で、艶やかに青光る黒髪だとか、陽の光を知らぬような陶磁器の肌だとか、頬や唇にうっすら滲む血色が鮮やかで、身長も平均ほどしかない。『守ってやりたい』と男子達が色めき立つ少女が此処にいるとしよう。
美少女がもし、男と密やかにくちづけを交わしていたとしたら男子達はどんな反応をしてみせるのか。憧憬を怒りや恨みに換算させるのか、土俵にすら立っていないのに恋に敗れたと地に伏せるのか、どれを取っても見物であるが、この相手が女子生徒に人気のある男だとしたらどうだろう。こいつなら、と肩を落として諦める他ないのではないか。
例えば当学校の美術教師が相手だったら? そもそも教師と生徒との色事自体が大問題だ。しかし他人の恋愛模様なぞどうでも良かった。自分はこれから部活動があるので、ロマンチックを気取った禁断のキスは早急に取り止めていただいてお引き取り願いたいものなのだが。
(部室、入れないんだけど)
彼も彼だ。相手が何をしようと行為を咎める気はないが、仮にも美術部顧問なのだからせめて目に付かぬところで致してほしいものだが。しかしあの男に理屈が通用しないのも事実。仕方なしに美術室が開くまでは準備室で過ごさねばならなかった。
月に一度しか清掃されない準備室は埃臭く、陽が差し込まないようにと終日カーテンを閉め切っている。薄暗い部屋の中で過ごすなら適当に遊んでやろうとスマートフォンを取り出し、流行りのRPGゲームのアプリを開いて起動を待つことにした。しかし数年前の機種では最新アプリの容量が大き過ぎて中々起動せず、ポップ字体で書かれたNow Loadingが画面の中をふよふよと浮かぶだけだった。
美術室と繋がる引き戸の小窓を覗けば、顧問と彼女は相変わらず接吻を交わしている最中らしく、しかも随分と情熱的な行為へと登り詰めているようで、女子の鼻に掛かる甘ったるい声は此処まで洩れていた。
ああいうのが好きなのだろう、良い趣味だこと。自分はといえば女子は対象の範疇になく、そもそも苗字すら知らない。興味のないことに労力を費やすくらいなら美術展に向けた作品を進めたい。しかし自分の焦燥を嗤うかのようにくちづけは終わらなかった。
机へと散らばる長い黒髪、覆い被さる黒のカッターシャツ、教師の腰に巻き付く真っ白な大腿。行為は加速を極めている。欠伸を噛み殺しながら何処まで進むか見物することとした。どうせゲームは起動する気配がないのだし、あのふたりが境界を越えるかどうかに賭けた方が面白い。さて、何をどう賭けてみようか。どちらの人生が破滅するだろう、それとも共倒れか。少なくとも女子の人生はもう駄目かもしれない。何せ相手は園だ、女子ですら彼のことは何ひとつ理解でしやしないだろう。
教師の園は『宿主』の体質を持つ男だった。人々が美しいと諸手を叩いて賞賛したがるもの達に寄生され、自身の肉体を搾取される人間だ。それも知らずに近寄るとは馬鹿な子。……嗚呼、それともあの子も園に寄生したがっているのだろうか。彼女がもし美に当たる有機物であれば、の話だが。
(人間に愛されてる先生は見たくないかもしれない)
自分の意思とは裏腹に心がゆっくりと、風船のように腫れ上がっていく。そのつもりはなかったが、存外に腹を立てているらしい。ああ、くだらない。本当にくだらねぇ。
破裂寸前の自分の心情を余所に、園の手が女子のセーラー服に差し掛かったその時だった。手の内で放置されていたスマートフォンからけたたましい音量でゲームのオープニングが悠長に流れ始め、気楽な音楽は美術室で事に及ぼうとしていたふたりにまで届いた。机の上に転がされていた女子は気が動転したらしく、園を突き飛ばしては鞄を抱えて一目散に飛び出して行く。
美少女たるもの、駆けていく姿も風が柔らかく彼女の頭髪を梳くのだとばかり思っていたが、どうやら見当違いらしい。突き飛ばされた教師は尻餅をついて床に転げていたものの、肩ほどある波打つ髪を掻き乱しては何も無かったかのように立ち上がり、膝のごみを払ってこちらへと歩を進めた。
引き戸は勢い良く開かれ、相変わらずの仏頂面が怒気を連れて現れる。園の唇がほのかに赤いのは余程擦り合わせた証なのか、彼女が付けていたカラーリップなのかは定かではない。
スマートフォンのホームボタンを押して制服のポケットへと押し込むと、「来い」とだけ彼が吐き捨て、踵を返しては先に薄暗い美術室へと消えていく。
途端に拓けた視界と光。暖色を含み始めた陽光はカーテンが開かれると共に一気に溢れ出し、塗料の匂いで満たされた教室の隅々まで広がる。園の影すら本人に似て上背であり、美術室の入口まで伸びる細長いそれは扉を突き抜けようとし、角で折れ曲がった。
「先生、美術展に出す絵のデッサンなんですけど」
遅れて教室へと入りながらスクールバッグのファスナーを開き、デッサンを何点も認めたクロッキー帳を取り出しては彼との間合いを詰めるが、何時にも増して彼の機嫌が良くない。普段よりも三割増で眉間の縦皺が深く刻まれており、整えられた眉がこれでもかと中央に寄っている。
癖になってしまったら老化が早まってしまうだろうに、という揶揄は心の中に留めておきながらクロッキー帳を差し出したが反応がない。そもそもこちらを見ようともしていなかった。
「聞いてます? だから今度の美術展の」
「青島」
「…………先生、悪いけど俺は悪くないですよ。だって今日は部活動がある日でしょ。それにあんな所で」
「……お前、何をそんなに拗ねてるんだ」
彼が不機嫌な理由が、自分が隣室に潜んでいたことに起因するのだとすればそれはとんだお門違いだ。こちらとて面白くもないものを目の当たりにしてご機嫌斜めであるし、何なら九十度に折れ曲がって急降下している。こちらの気も知らないで、と口を尖らせたくなるのにも正当性のある理由があるのだ。
自分が入部している美術部は部員が自分ひとりのみ、そして顧問の園で構成されただけの、なんとも侘しい部だった。しかし部活というのは自分にとっては聖域であり、園は中心に立つ崇拝対象にあたる。
自分には誰が好きだとか愛しいだとか、シたいだとかの対象に関しての感情が年相応に湧かず、その代わりに彼を前にして添わずにはいられないような、密やかな焦燥を感じていた。
彼が自分を支配して自分が彼を独占する、言わば相互利益が発生する。とは言え園が自分を好いていないのは当時から明らかにされていることなのだが、自分を見下す時の彼は少しだけ、生の匂いが色濃く漂っていた。彫刻が動き回っているような存在が人間に堕ちる瞬間、とでも例えようか。そんな時は決まって何者かに愛されている瞬間でもある。基本は有機物の寵愛を受け、しかし汚染されてはその身が有機物に寄生されていく。
そんな彼の一切を知らぬような女に触れてほしくなかったのだと今更思い知らされている。自分ですら懐に潜り込むのに困難を要するというのに、女は唇を明け渡し、脚さえ開けば彼は飛び込んでくれるのだと勘違いしている。だが少なくとも肉体だけはほんの一瞬ほど誰かのものとなるのだから女は狡い。
信仰とはそんな安易なもので良かったのか? 困った時に助けてくれるほど、彼は優しい者ではないのに。百円均一ショップで安易に購入できて、都合良く捨てられるほど易しいものでもないのに。
だから自分も機嫌が悪いのだと、漸く腹の煮え立つ熱さに気が付いた。普段は血色の悪い唇が染まっているところなど見たくもない。何ならあの時、彼に爬虫類でも寄生して喉から蛇でも出てくれた方が面映ゆかったろうに。噛み付かれて泣いて喚いてくれたら良かったのだ。
「あおしま」
彼の脳には自分の名しか刻まれていないのか、そんな丸い拙さが一文字ずつ丁寧に発音された。未だに紅の滲む唇がぐにゃりと歪み、四文字目を吐き出したところで彼の白目が妙に青白いことに気付いた。彼の顔面が十センチ手前まで迫っており、普段は浅黒い肌が妙に艶めいてはきらきらと光沢を放っている。それに随分と白く、象牙色の面立ちがぬらりと汗を滲ませていた。
肌が汗を弾き、水玉がひとつ零れていく。光の粒子は透明な軌跡の内側で絶えず乱反射をしており、親指で彼の頬を撫でてみると、さらりと微細な砂が指の腹を転がっていく。拭った指を確認してみると粉状のものが青や黄が混じり合う遊色に染まっている。オパールのように目まぐるしく色彩を変化させる粉を制服に擦り付けると、彼の額からはまたひとつ、またひとつと汗が伝い、こめかみや頬を濡らしていった。
「毟れ」
「何を?」
「背中を見れば解るだろう」
この男は百聞は一見にしかずを教訓とさせているようでいて、単に説明が嫌いなのだ。流石に意地の悪さにも慣れていたために、大人しく彼の背後に回って黒地のシャツへと触れた。綿ローンの薄っぺらい布地を押し上げる僅かな膨らみがあり、肩甲骨の間が常人と比べてやたら盛り上がっている。綿や布を詰め込んだかのようなふくよかさだ。
シャツをスラックスから引き摺り出して手を差し込むと、背中はじとりと蒸れていたが、すぐに布でも肌でもない不思議な感触が手の甲へと触れる。厚手のクロスのような、頑丈なビニールのような、しかし触り心地は粉糖でもまぶしたかのようにさらさらと手に纒わり付く。
「脱がすけど、良いですよね」
「…………」
同意を得ぬままに彼のシャツへと手を掛け、既に開かれていた胸元からひとつずつボタンを外していった。白色の細粉が淡い褐色の皮膚へと満遍なくまぶされており、光が踊る度に粉雪が舞うより早く落下しては床へと散っていく。
シャツを寛げた先にあるのは肩甲骨の間から生えた巨大な鱗翅だった。腰の上ほどまである巨大な四枚翅は開くことはおろか、動く素振りすら見せずに背中の表面にて佇んでいた。乳白色の鱗翅にはてらてらと光沢を放つ鱗粉が張り付いており、彼の肌に纒わり付いた微粉と同類らしい。
またか、という視線を投げ掛けると園もまた同調するように数度瞬きをしてみせ、シャツが腕に絡まったまま窓際の椅子へと腰掛けた。しかし翅が邪魔するのか何時ものように背もたれに寄り掛かることはせず、前傾したまま長い脚を組んでは腹の底から溜め息を吐いた。
「先生、また虫の翅なんて生やしてるんだ。この前は蜉蝣の翅が生えてきたばかりでしょ」
「知るか。私の意思でどうにかなるならこんなもの、今此処にあるはずがない」
「でしょうね。でも蚕蛾かぁ……オオミズアオみたいに、もっと綺麗なやつがいいと思うんですけど」
彼の眼前へと跪き、上体だけを伸ばして腹部へと手を差し伸べる。筋の入った腹部にも鱗粉は溜まっており、色味のない産毛に絡まるそれを指先で払いつつも再び背面へと手のひらを滑り込ませた。
翡翠色をした蛾がこの世にはいるらしく、昆虫好きの同級生が山中で見付けたと鼻息を荒くして語っていたのをふと思い出した。写真を見せてもらうと、写し出されたオオミズアオは蝶のように艶美な体を曝け出していた。淡い青緑色に真っ白な胴体、ふかふかとした体毛と、自身の固定概念を覆す愛らしさであったという記憶が根付いている。
美丈夫な園なら淡い色彩が映える気がした。正確には極彩色に塗れている方が最もらしいのだが。何より彼はそういった体質なのだから、ただ白いだけの虫に取り憑かれるというのは地味ではないかと、彼の人格を蔑ろにするような見繕いをしながら翅の先を摘んだ。
「お蚕様」
「え?」
「…………そうか、そこまで興味はないか」
翅が微かに揺れたが、羽撃く気配はない。寧ろ彼の装飾品としてしか成り立っていないような、やる気のなさが垣間見える翅だった。
しかし園から話題を提供するというのは実に珍しいことだった。明日は雪が降るどころか雹が降るのではないか、此処は雪も降らなければそんな気候でもないのだが。
オカイコサマとやらに興味はないが、彼が提示する話題なら何にでも興味が湧いたので前のめりで迫ってみせると、ぐいと肩口を押してはふるふると首を横に振った。
「青島……近い、近い。寄ってくれるな」
「すいません、俺って宗教はよく解らないんです。折角だから教えてよ」
「……養蚕の神、というやつだ。おしら様、蚕神、蚕影……地域によって異なるが、今でも祀っている地域があるらしい。錦糸は当時で言えば貴重な収入源だったからな、崇める者達が大勢居たということだ」
「そうなんだ。でも珍しいや、先生ってそういうの好きじゃなさそうだったから」
園が口をへの字に曲げているところを見れば、自分に民間信仰の話題を出したのが失敗であったと、そういうところだろうか。揶揄うのも一興であったが、大の大人の臍を曲げて楽しむという悪趣味さは生憎持ち合わせていないので、無言を連ねる彼に迫ることはやめた。
宗教は解らない、神様への有難みも実感が湧かない、自分が無宗教であるという主張は心からできないが、彼は『そういった類』にはあからさまな嫌悪を示していたので、やはり不思議なのだ。
自分が行き着きたがる『園貞春』という偶像への手引きを自ら行ったようにしか感じない。自分への深層へ触れてほしいと言いたげで、しかしそう定義するにも彼の言動は曖昧すぎた。
自分は彼のことになれば殆ど無知だ、いや、人に対しては無知であるのは当然だが、彼に対してだけはどうしても近付きたくて仕方ないのど。
触れたい、ということではない。先人なら類義語を的確に啓示してくれただろうか。やはり行き着きたいという、人に対して宛てがうべきではない言葉しか浮かばない。
「でも先生は繭にならなかったでしょう。どう見たって鱗粉と翅しかない。ならこいつ、何がしたいんだろう」
繭になれば誰もが見惚れる絹糸を紡げる。しかし繭になるということは不自由へのダイブと変わりない。繭に包まれた彼は蛹化して細胞が自殺し続け、軈ては姿を変えては繭を破り、空へと羽撃くことすら叶わず、美しく生命を枯らすというのに彼は蛾に寵愛されるだけだった。そう、絹はあくまで副産物でしかなかった。
彼を媒介して花が咲いた、実が成った、鉱物が結晶を生み出した、芸術的な支配を見せ付けてきたもの達に比べたら地味でしかない。しかも鱗粉は時に喉の粘膜を刺激するため、見目麗しさどころか邪魔ですらある。翅を剥いでコレクションのひとつにする予定ではあったが、彼に相応しくない寄生にまたひとつ臍が曲がっていく。今回は無理して集めず、大人しく焼却してやろうと決めた。
現に園が視線だけでこちらを急かしに掛かっている。ずり下がったシャツの裾を持ち上げ、晒された肩を自身の手で抱く度にはらはらと鱗粉が空中で浮遊し、夕の光を含んではきらきらと煌めいていた。
「…………戯れ言は、いい。だから早くしろ」
「焦ってる? 急がなくても良いでしょ、翅が括り付いてるだけだし。それに」
「………………早くしろ!!」
静謐を打ち破る怒声が美術室の隅にまで響き渡り、キンと耳鳴りさえした。鼓膜が震える、彼の拳も震える、青白く透けた眼球すらたぷんと波打って、あまりの声量に彼自身が口を塞いでいる。余裕綽々な態度を取ってくれたのなら、何時もの先生であると笑って済ませられたというのに、今日の彼は何処か気まずそうに下唇を噛んでおり、革靴を脱ぎ捨てては台座へと両足を乗せている。
それこそ繭の中で眠る蛹のようにこじんまりと佇み、体育座りをしては椅子の内側へと小さく収まる彼。彼のような上背の男ではどうしたって頭や膝が突き出てしまうが、何時になく草臥れている男は膝へと顔を埋めて、その時を待つ。自分が翅を引き剥がすことに期待し、そして絶望しているのだ。
彼が手なずけようとした人間は、本人が望む緩やかな支配と裏腹に彼の掌中を独占しようとしている。彼が望めば望むほど、比例して彼を求めてしまう。欲しいのではない、完全なる変貌への祈りしか此処にはない。
「根が深いから神経が残るかも。取り敢えず翅を剥がしますよ。皮膚も持っていかれるかも」
「いい、いい。だから……」
「先生、俺のカーディガンでも噛んでて」
辛子色のカーディガンを差し出すと、侮蔑するように下から睨み付け、しかし言われた通りにカーディガンを口いっぱいに詰め込み、噛み締める。布地には彼が噛んだ跡も、うっすらと染みとして残った血痕も何でもあった。自分が成せぬことは自分にさせる、言わば脅迫でもあった。勿論自分も痛々しいことはしたくないのでこの構図は成立する。
血は嫌いだ、傷だって自分の指に付いた切り傷すら目にするだけで気が遠のいて血の気が引く。彼と関わり始めた頃なんて貧血で倒れたりもした。しかし儀式と銘打たれたら喜んで山羊の頭を差し出すことだろう。
そう、彼の命のままに彼の寄生を落とすことは心を剥離させる行為でもあった。しかし無我に至る行為だとしたら甘過ぎる。寧ろ自我は彼へ祈りを捧げ始めた。要因は様々あるが、ふとした時に気付かされたのだ。この人はそういう、可哀想な男なのだと。
教壇下には工具箱が置かれている。そこから錆び付いたスパチュラを取り出し、扇状に広がった金属部分を左前翅の根元へと宛てがう。金属の冷たさと、これから襲う激痛に身構えてなのか、彼の背骨が蛇のようにぐねりと曲がる。浮き立つ背骨に安楽の意を込めてひと撫でしてやり、翅の中腹部を引っ張った。背中の皮膚が引き攣れている。嗚呼、見たくないのに。
「いくよ」
「う……」
皮膚と付け根の間にスパチュラがめり込み、ぶつぶつと嫌な音を立てながら翅が剥げていく。皮膚と癒着しているせいで皮膚にまで裂傷が及び、赤剥けた肉からはすぐさま血が滲んだ。そして一筋の血液が後翅へと伝い、真っ赤な雫となってころころと表面を滑り落ちた。
鋏で切ってやる選択肢もあった、そうすれば多少は綺麗に剥離させられただろうし、痛みも多少は軽減出来ただろう。しかし彼は被虐を敢えて強いることが好きなのだと思う。理由は定かではないが、血や痛みを伴わないようなものだと触れさせもしない。彼が根っからの被虐嗜好なのか、自分を傷付けさせることで自分を束縛しようと魂胆なのか。しかし彼は自分を好きではないとするならどちらもおかしい。まあ、知ったことではないのだが。
「っうぐ、うう…………ぁ、あ」
彼は自らの手で寄生を引き剥がさないでいた。当初は自分に嫌な仕事を押し付けていたので、あらゆる手段を用いて美術部を辞めさせようという算段なのかと踏んでいたのだが、何度も彼の寄生を剥離させる度に、彼は剥がさないのではなく、剥がせないのではないかと思うようになった。
いや、それか若しくは、罰のように他者からの痛みを得たいようにも見える。誰も罰してくれやしないから、自分のような男に敢えて罰を与えられて容赦を乞うような、叶いもしない懺悔。それならば彼が何かしらに愛されてしまう習性というのは罪なのか。罪だとしたら彼は一体どれほどのいけないことをしてきたのだろう。全ては推測に過ぎなかったが、彼への妄想を巡らせると脳神経がふつふつと熱を帯び、血流も酸素も過度に行き渡る錯覚さえ覚える。
崇拝したい相手に罪があり、罰を乞う。神にあるまじき人間性に益々愛しさを感じてしまうだなんて。勿論一方通行で良い、崇拝とは一方からの苛烈な信仰で成り立つのだし。
仮に彼の罪がああいった猥褻行為であったなら、あまりに陳腐で肩を竦めたくはなるが、彼の内に罪悪感がどれほど含まれているのか気になり出す。そうすれば止まらない。少しばかり揶揄ってやろうという悪戯心に火が着き、僅かに残った翅の付け根を指先で撫で回しながら彼の唇へと指先を伸ばした。
「先生、ああいう子が好みなんだ。でも流石に校内では止めといたらどうです?」
べたりと張り付くテクスチャーと毒々しい苺の香料。彼女のグロスで汚れつつ、彼女の唇を汚した薄い口唇。彼も崇拝される前にただの人であり、そこらにいるような大人である、のだろうか。
グロスを強引に拭いながら肌の鱗粉をこそぎ落とし、もう一枚の後翅へと手を掛ける。訪れる痛みに身構える男は背を丸め、ニットのカーディガンを掴みながら強張る身体を押し付ける。パールのように艷めく背中は汗によるものなのか、鱗粉によるものなのか判断がつかぬほど湿っていた。
鱗粉の上で塩辛い珠が弾かれてはころころと転げ落ち、乾きかけの血を溶かしながらソファーへと染みを作る。褐色の液体はヴェルベットの染みにすらなりはしない。
「あの娘が、嗾けた………………く、ぅ」
「でも貴方もかなり乗り気だったけど」
「違う、私は…………」
また一枚、ぶつぶつと厚い翅が千切れていっては肌に脂汗を浮かせ、彼の息も絶え絶えとなっていく。紅潮と蒼白の入り交じる顔面はカーディガンに埋もれて半分も見えやしないが、彼の噛み跡や唾液が染み込む度に、少しだけ心安らいだ。
翅にも神経が通っているのか、それとも飾りのようなものなのか。彼が苦痛に悶えているのは可哀想にも思うのだが、そんな安直な疑問も湧く。飛べない翅は何の意味がある。翅を手に入れた蚕蛾は何処に自由を見出しているのだろう。空が自由の象徴だなんて、羽の類いを持ち合わせぬ人間のないものねだりでしかないし、人類の共通言語みたいに扱われても困るだけだ。自分は生憎羽も尾鰭も欲しくない。足が二本あるだけで事足りる。それならば彼に寄生した理由は?
「キスなんて、好きじゃあない。あんな雑菌の交配を誰がやりたがると言うんだ。不衛生すぎる」
「でもあの子とキスをしてたのは貴方じゃないの」
「…………」
ぶつりと羽がちぎれ、後翅も剥がれていく。床に放り投げた翅の周囲には白い鱗粉が散らばり、埃と混じって四方へと転がった。園は何時にも増して饒舌だ。そして格好付けておいてくれたのなら、誰とキスをしようが様になっただろうに、自分に対して幼子の言い訳をしてみせる。あのまま放っておいたら何処までしたのやら、呆れ半分に残された片方の前翅を掴むと、翅は人皮のような弾力のある柔らかさで手のひらを押し返し、熱の通わぬ表面で鱗粉をなすりつけた。
繋ぎ目にスパチュラを入れる、裂く、翅より柔い皮膚が裂ける、血が飛ぶ、翅も椅子も朱殷で夥しい配色へと彩られていく。その度に自分の腕が粟立ち、指の感覚が虚ろに冷めていくのを感じながら前翅、そして後翅と剥ぎ取った。
手のひらには真珠の艶めきを放つ鱗粉と彼の血液が残された。園は未だ縮こまりながら荒らげる息を抑えられず、カーディガンを顔に押し付けたまま全身を震わせている。鱗粉を纏う肌は汗を弾き、肌に留まれぬ雫は脱ぎ掛けのシャツへと染み込んでおり、暫く動けそうにない彼を横目に翅を丸め、ゴミ箱へと捨てた。しかしやはり惜しい気もしてきたので右の後翅だけは残し、未使用のスケッチブックを拝借して一枚を取り、それで翅を包んだ。
彼の手当ての前にとすぐ側の水飲み場で手を清め、それから戻ったが、彼は未だに丸まったまま動こうとはしない。入口側に晒された背中には四つの細長い裂傷が残されており、古傷に重なるようにして赤く滲んでいた。
「さ、手当てしましょ。また生えてこなきゃ良いんですけどね」
どうせ蛾の翅が生えずとも、取り付く島がある限りは何かに冒される身だ。奪われるのが先か、年老いて天に召すのが先か、それとも一過性のものでぱったりと止んでしまってただの人として世間に溶け込むのか、自分には想像がつきやしない。それに高校を卒業したら自分が彼に執着しているかも明白にならないのだから。神は未来を把握できるものなのだろうか。
棚にある小箱から消毒液と塗り薬、それからガーゼとパッドを取り出して手当てを開始した。鱗粉が付着した傷口を丁寧に拭い(本当なら流水で洗い流すべきなのだが、人に見付かったらどう言い訳すべきかも思い付かないので諦めた)消毒をしてから丹念に薬を塗布した。アルコールの力なのか偶然なのか、皮膚の鱗粉も綺麗に拭えて本来の肌が露となったので、傷パッドはしっかりと密着した。
手当ても終えたことだからいい加減に部活動でも、と言いたいところであったが、準備室で待ちぼうけを喰らわされてから優に一時間は経過している。これで展示品の案を出したところで話が進みそうにないし、何より目の前にいる教師が未だに顔を上げようとしない。鱗粉がこびり付いたままの背を隠すようにシャツを肩へと上げてやったが、当の本人は髪を下方へと垂らしたまま蹲っている。黒檀色の艶のある髪がひと房ほど鱗粉に塗れていたが、ラメのように鏤められて輝かしく見えることは胸の内に留めた。
「今日はどうします? 俺としてはさっさとクロッキーを見てほしいんですけど」
「もう動きたくない」
「あーもう、顧問ならしっかりしてよ」
力ない指先がボタンをひとつずつ留め、大きく波打つシャツを着終えると、布地に包まれた肩を摩り、内側に丸め込んでいた膝を肘掛けの外へと押しやった。抑揚のある脹ら脛、それから細身のスラックスに収まる長い脚が椅子からはみ出ており、露になった爪先がこつりと壁をノックした。
疲弊して当然だろう、激痛を伴う作業に身が持つほど人の体は頑丈ではない。しかも十代の自分とは違って三十代を終えようとしている男の体だ。頑健そうな体を保持していたところで痛覚には抗えない。
痛みがあるということは生きている証だ。呆れてみせても、その事実だけで心底安堵している自分もいる。もう少し生きてくれないと困る。そう祈るのは彼の生命に対してではない。自身の自己満足のためだ。
しかし今日は随分と立ち直りが遅い。汗が止まらず、指の先が微かにではあるが痙攣しているようにも見えた。
「厄介なものに、好かれたと思っている」
「たかが蛾でしょう。宝石に好かれた時よりは楽ですよ」
「…………いや、あの蛾はひとりで生きる気がないから」
それは蛾の性質なのだろうか。ささやかな疑問とクロッキー帳を抱えては彼の向かいへと椅子を引き摺って腰掛けた。あの蛾、とは蚕蛾全般を指すのか、それとも彼に興味を示した蛾についてだろうか。何はどうあれ彼には不向きな生き物だ。元来一人を好むような男に取り憑いたところで蛾の内にある真夜中のような孤独を癒せるとは思わない。それとも彼が言わないだけで共感できる面があったのだろうか?
はらはらとクロッキー帳を捲り、半分ほど埋まったページを眺めていればどれも彼をモチーフにした構図ばかりだった。花の羽を生やした天使像であったり、鉱物の鱗を生やしたトカゲであったりと彼の面影が途切れることはない。そして新しい紙面にも彼の輪郭を象らんと、胸ポケットに差していた鉛筆を手にした。
その時だった。園がひゅうひゅうとおかしな音を立て始めたのは。喉からは遠くで草笛を吹いているような、人体のその器官からは滅多に鳴らないような音が響いている。髪を揺らす男は喉を引っ掻き始め、次第に揺れを激しくしながら唸り始めた。
音は止まない。ひゅうひゅう。苦しげに喘ぐ様子に流石に心配になり、クロッキー帳を置いて再び傍へと寄った。
「先生、保健室に行きましょ。それか帰った方が良いよ、俺が付き添うから」
「いい…………」
「先生ってば、子どもじゃねえんだから」
「燐」
遮る声ばかりは強かった。硝子を叩き割るかのような衝撃すら覚えるほど強くて、そして低い。地鳴りのような低声だった。
彼が下の名前を呼ぶ時は、傲慢の衣を脱ぎ去り肌を露とするような、下手な素直さを見せる時だった。神は万物を救済する力はあれど、誰からも救われぬ存在であるから、不遜の殻に包まった懇願を名前に含めて綴るのだ。助けて、と叫べない彼であるから『燐』と呼ぶ。余程のことが彼の身で起きている。無意識の警鐘に手を差し伸べると、不意に視界が暗くなった。彼の黒髪が視界一面を覆ったかと思うと、突如背面に強い痛みが襲った。
真っ白な天井、垂れ下がる黒髪、肩を縫い止める両手。自分が張り倒されたと自覚した瞬間が早かったのか、頬に触れる手が早かったのか。磔にされる体の安否よりも、傷痕だらけの手の甲が頬を往復する方に意識が向いていた。長い髪の毛が翳りを生むせいで彼の顔が見えず、一層肌の産毛が逆立っていく。
「りん」
薄い色素の口唇が開く。懇願じみた吐息と共に吐き出されたのは細い白糸だった。糸が数本ほど彼の口内から伸びており、しかも生き物のように何かを探っては更に身を伸ばしていく。どの器官から吐き出されているのか、それとも腹に虫が巣食っているのか。
「……先生」
『繁殖』。不明な理屈よりも真っ先に浮かんだ単語はそれだった。
翅があっても飛べやしない、口吻があっても餌は取らない。彼等は人間に絹を与えるために生きて死ぬのではない、絹は生きる過程でのほんの刹那でしかなかった。交尾をして卵を産んで死んでいく、たったそれだけのために生きる。逆に言えばそれが最高の生涯とも言えるのかもしれない。
彼に取り憑くもの達は体を侵食する以外に何も望みを持たなかった。取り憑いて、宿主の養分を奪って、人間としての組織を自身の構造へと無理矢理変換させて道連れにするような強引さを持つだけで、どちらかといえば彼の肉体を自身寄りへ変化させる目的しかない。
それならば蚕に愛された彼はどうなる? 彼が何かに振り回されているのは常日頃のことだが、今回ばかりは自分も翻弄されようとしている。彼が吐き出す絹糸は実はもう四肢や脳に絡まり、良いように操られているのではないか。彼はもう彼ではないのではないか。そんな焦りに唾を飲み込んだ。
自らも寄生に巻き込まれていく。極細の触手のように蠢く絹糸はこちらにまで及び、髪の毛の間を縫ったり肌へと絡んでいった。
『ひとりでは生きていけない』
あれは蚕の言葉なのか、それとも蚕を介した彼の本心なのか。共鳴したからこそ彼は寄生されたのか、体の奥まで愛されてしまったのか。糸は彼の体にも巻き付いていた。糸が全身を包んでしまったらお終いだ、彼は彼ではなくなってしまうかもしれない。蛹となった彼の末路は全く別の生き物としての生、詰まりは今の生き物としての死も有り得る。
ひとりの自我の喪失を目の前にして焦りが込み上げているのは確かなのに、同時に比例する高揚感に抗えそうになかった。彼が彼ではないものになる変化が用意されている。蛹化の内側でどろりと溶ける彼の偶像、再建のためのアポトーシス、人としての彼が死ぬ、人ではない彼が誕生する、謂わば生命の循環。
興奮が自身の体温を一気に上げ、脈がどくどくと倍速になっていく。手汗のひどい右手で糸を掴んでみると、細くもしなやかなそれは彼の一部であるかのように指先へと絡まっていく。心臓を鷲掴みにされた気分だ。人はこれを恋と呼ぶのなら半分正解で半分は外れだ。自分はこう呼ぶ。――信仰。彼にだけ囁ける一種の甘い妄言。巻き込まれるのもまた良し、と彼の手を掴むと、馬鹿な糸はふたりを巻き込んだ。くるくると巻き付いてくっ付いて離れそうにない。
「あの子となら繁殖できると思った?」
彼へ向けたものか、内なる者へむけたものか。曖昧な問いの中でもやはり彼の顔は暗くてよく見えない。糸が増えていく。彼の髪にも絡み付いて白髪のように白く混じりつつあった。
しかし手に絡み付いた糸は一旦は巻き付いたものの、自分が『男』と見るや否や食指を伸ばすのを止めた。人間ほど肉体の発達が遅れているものもいないだろう。同性間での繁殖は現代に於いて不可能だ。しかしそんな科学的な可不可など繭糸の前では何の意味も成さない。
「私はそんなもの要らない」
彼の声だった。芯のある彼の意志が糸を掻い潜って吐き出されていく。手のひらで掴める彼への確証は手触りが悪かった。そのうち繭に雁字搦めにされるかもしれない脆弱な意志だったが、確かに彼の声で彼の想いが届けられた。
憐れな人間だ。しかし何処までも孤独に臥す彼だからこそ、頬へと触れられる。顔を引き寄せて頬を擦り合わせることもできる。硬直する体とは裏腹に糸の量は増え、益々彼へと巻き付いていく。全身黒づくめの姿が少しずつ白んでいて、エジプトのミイラを作り出す時もこんな感じで執り行われるのだろうかと、場にそぐわぬ悠長さで糸を一本ずつ摘んだ。
「でも勝手に体が動いたんだろ。先生は本当は望んでいたんじゃない? セックスすれば子どもが出来るなんて当たり前のことだ。そんな当たり前のことを何処かで望んでいたりしない?」
「知るか、私に解るものか。そもそも愛もなく? 巫山戯てる」
「いいなぁ……先生の口からも愛なんて言葉が出るんだ」
さりさりと鱗粉の細かな粒子が頬の間で転がっている。脱力した彼の体が完全に覆い被さったところで体を彼ごと反転させると、彼の体は力なく床へと転がされ、虚ろな瞳が視点を定めることなく辺りへと浮遊した。寄生の後遺症で残された色素が虹彩の内部で瞬いている。黒曜の欠片は彼を脅かすことを止め、彼の眼球の一部として色を成していた。
彼の顎下を撫でると深緑の光が仄かに明滅しており、身動きが取れない指先で手を振り払おうと躍起にはなるものの、動きが制限された体では手を退かすことすらできなかった。まだ、彼からの命令はない。何も言わないのであれば、彼の意思を尊重する自分は見届ける他なくなってしまう。
「性衝動も時には意志を無視して暴発するものなんだろ。もしかして本能自体が生き物なのかな。でも子どもがこんな話をしたところで、先生には何の救いにもならないんでしょ」
引き寄せる。乾いた唇が救いを求めたわけではない。祈るわけでも乞うわけでもなく、ただ無情ばかりが彼の顔へと張り付いていた。生きるための呼吸、死なないための循環が成される器官を想い、指を這わせた。その奥で命を貪る命がある。そういえば神様というものは生きているものなのだろうか。同じように心臓があって脳があって肺があって、循環して生きていられるのか。果たして途絶えたら終わるような仕組みに仕上がっているのか。それすら神様は知っているのか、それとも。
糸を手繰り寄せて何処に通そうか。何処かに糸を垂らせば罪人が釣れたりするものなのだろうか。彼の苦悩とは裏腹にそんな妄想ばかりがぐるぐると回転している。ドラム式洗濯機のように回って回って、遠心分離されて残るのは、やはり彼への疚しい信仰だけだった。
「人が神様を救えるわけがないんだ」
「お前なんかに救ってほしいと思わない」
「なら此処で見ているよ、アンタの終わりをさ」
半分は脅しでもあった。どうせ素直ではない男だから、こうでもしないと『命令』してくれやしない。しかしもう半分は疚しい信仰のひとつ――終末に向けた傍観。彼が心まで愛された後にどう朽ち果てるのか、そこに何が残るのか、その先に自分の心はどう変動するのか。実証のない科学実験だ。そこで自分の心が爆破して砕け散っても良いと思えるのは、彼がそれだけ惹き付けるものを抱いているから。
これも寄生の一種なのだろうか。人にも作用するものなのだろうか、もしそうだとしたら『愛して』みるのも一興だ。
彼の口内へと指を差し込むと、舌根はすっかり乾いており、奥では糸が絶えず生成されていた。少しずつ繭のなりへと変わり行く彼は指の感触に頭を振り乱したが、突っ込んでしまったものが離れるわけがない。生温かい舌をつつきながら指先で糸を弄んでいると、彼が息苦しそうにこちらの胸を叩いており、黒曜の光る双眸で以て睨み付けていた。
「ならさぁ、先生。何時もみたいに『命令』すればいいよ。何だって叶えてあげるし、俺は汚いこともできるよ。だって心は先生にあげちゃったんだ。だから何しても今更壊れやしない」
何をしたって、何をされたって心が痛まない。ただ彼が此処でくたばってしまうことだけが心残りなだけで、彼が如何なる選択をしようが構いやしない。
ぽっかりと開いた空洞の奥は真っ暗で、そこからは相変わらず糸が生成されている。柔らかくも切れることの無い絹糸は喉奥から何度でも這い出し、彼も次第に呼吸を浅くし、その身を白ませる一方だった。夕陽が濃くなるにつれて至るところの影も色濃くなり、藍色の影へと手を差し込むと、指先が湿るほどにじとりとしている。
そうやって一歩ずつ、彼は蛾へと近付いている。蛹化はすぐそこだ。彼の姿が見えなくなったら、彼はきっと。
「人はひとりでは生きていけないけど、生きるためなら誰を置いたって良いんだよ。だって人は必ず死ぬんだ、おはようからおやすみまで添ってくれる奇異な人なんていやしないんでしょ、そうなんだろ。俺はもう選択してる。あとは先生だけだ」
黄昏時の匂いは枯葉が土へ還る匂いにも似ている。埃と塗料と、彼の肉体から滲み出す独特な体臭が一緒くたになって美術室を満たしていた。そんな空気を切り裂くようにして、校内中に鐘が鳴り響く。馬鹿でかい音が校庭にも響き渡り、運動部の威勢の良い声が層になってこちらへと跳ね返っていた。
五月蝿ければ五月蝿いほど、此処の静寂は濃密なものとなる。濃厚過ぎて耳鳴りがするほどに。そろそろ彼の低声が恋しくて浮き出た喉仏へと指先を宛がった。親指は喉仏に、人差し指は頸動脈に。生命を掌握する形となった二指が取り払われることはなかったが、代わりに唾が飲み込まれることで上下する感触が指の腹を撫でていく。
とくとくと温かな血が流れることを想像しながら指を離せば、白い鱗粉は指紋の間に入り込んで歪んだ円を何層にも形成していた。やはり返事はない。息苦しそうに末端から白く染まるだけだった。
「どうするの、貞春さん」
「………………」
数度の瞬きの後に睫毛は揺れた。指の間に溜まった糸が動きを拘束していたが、重苦しい腕が持ち上げられると、後頭部へとしがみつくように左手が圧を掛けてくる。油断すれば彼の上へと伏してしまいそうな圧力だったが何とか堪えていると、肌の色との境界を失った唇がぱくぱくと開かれる。弱々しくも確実に、一音一音搾られる意図を聴き逃しはしなかった。
「糸を、切ってくれ」
「うん」
「そして奥から、引き摺り出せ」
「良いんだね?」
「私は、私でいたい」
頼りなげだったとしても蛾としての末路ではなく、『園貞春』という個の選択をした。彼の手で心が繋ぎ合わされていく。継ぎ接ぎだらけの心はひどく不格好だが、満足だった。彼が求めてくれる、凡人でも神は救える。神がそう望んだのだから……嗚呼、なんという多幸感だろう。神様が何だって良い、自分と変わらぬ人間であったとしても、自分が彼をそう認知した時点で彼は歪みなく信仰できる対象なのだ。
今の自分ときたら、一体どんな笑みを浮かべているのだろう。どの道彼は煙たがるだけなので、きっと不都合な笑い方しかできていないはずだ。それでも良い。触れられる。許可される。神様に触れて良いだなんて、なんという幸福だろう、なんという罪だろう。哄笑が止まなかった。アイデンティティも儘ならぬ人が自己を求めて自分へと手を差し出す、嗚呼なんて、素敵なのだろう。
「うん。先生が望むならなんだって。折角だから名前、呼んでくれます?」
「燐」
「もう一回」
「…………りん」
女の子のような名前が嫌いだった。高校に入ってから取り分け馬鹿にされたわけでもなかったが、彼だけが揶揄うどころか当たり前のように名を呼んでくれたから、燐という名前を愛せた。ラテン語で光を運ぶものという意味を教えてくれたのも、彼その人だった。
夕陽に勝る光は持ち合わせていないけれど、彼が眩しくて自分のちっぽけな光すら掻き消えてしまうけれど、彼の眼下に荊の道しかないのなら、喜んで背中を差し出してやりたい。その足で踏んで歩いてくれたらいい。その足を真っ赤な血で、自分の血で汚しても尚、孤高に歩けばいい。代わりに傷付きたい。だからこそ、苦しめたい。
「助けてあげるよ、先生」
「っぐ……!!」
握り締めた糸を一気に引き抜くと、嘔吐く異音と共に喉から飛び出したのは一対の幼虫だった。指ほどの幼虫は床に放り投げられるとじたばたと暴れていたが、それでも彼へ還ろうと一心不乱に本体を目指した。彼へ巣食うため、碌に繁殖できない家畜種を繁栄させるため。彼への敬愛も憧憬もなしに、易々と。
ぶつり、とテレビの電源が切れるような音が靴底の裏で弾けた。自分だけでは生きられぬ虫はたった今、靴の裏によって呆気なく葬られた。生クリームのような体液が飛び散り、靴を退けてみると痙攣すら起こせぬまま、柔らかな身を平らにさせて腹を曝け出して絶命している。彼に纏わり付こうとした絹糸も永遠の沈黙と引き換えに二度と生み出されることはない。
肩で息をする彼は口内から吐き出された唾液と僅かな胃酸をカーディガンで拭い、投げ捨てては絡まった糸を外すことなくまた丸まってしまった。解放された手で握り拳を作り、開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、漸く呼吸が整ったところで髪を覆う糸を引き抜き、床へと放り投げている。
「これでもう良いでしょ。これだから有機物は疲れるんだ」
「…………」
「礼は要りませんよ。だって言う気もないでしょ?」
今のこの時がまさに繭のようで、長い脚を折り畳んで腕で囲う彼の代わりに糸を数本ずつ抜き取る。ごみ箱に突っ込んだ翅と合わせればごみ箱が溢れかえる量だったが、それすら気にせず糸を引っ張っては翅の上に糸の塊を放り込んでいった。
丁寧に処理して糸を紡いだら売り物になるだろうかと一瞬は下心を抱いたものの、そんな面倒なことをするくらいならバイトを始めた方が楽かもしれない。そんな下らぬことを思いながら四肢の糸を剥ぎ取り、頭髪に絡んだ糸に着手し始めた。
「でもこうして見ると、先生が標本か何かになったみたいだ」
「私がこんなザマだからか」
「怒らせるつもりはないんですよ。でも貴方はこうされるのがよく似合ってる。……ああ、そんな顔しないで。キリストもそうだったじゃないですか、手のひらに杭を打たれてるんですよ」
くたりと力ないままの両手を掴み、横へと広げてやると磔にされた聖人にも似ていなくはなかった。繭としての標本と例えたものの、これでは本当に標本になれるかもしれない。手のひらの中央に釘を刺してやれば簡単になれてしまう。その時僅かにだが、彼が蛾に落ちなかったことを後悔する自分を見い出してしまった。柔らかな体毛に覆われ、黒く真ん丸な眼球をふたつ括り付けて、ピンで磔にされる厚い翅。ひとりでは生きていけない体を硝子ケースの外側より見詰める愉悦。ぞくりと込み上げる、高揚。
「貴方みたいな綺麗な人なら、どんな標本よりもずっと絶景かもしれないよ」
「十七にもなって随分と良い趣味をしているな……。どんな家庭環境で育ってきたんだか」
「期待させて悪いですけど、至って普通です。……良い趣味を覚えさせた大人がね、此処にいるっていうだけの話」
手のひらに指先を押し付け、伸び掛けの爪でぐりぐりと詰ってやったが、人間の指なんぞが厚い皮膚を貫けるはずもなく。何となく手のひらを合わせてみたくなって、指の先端から重ねてみると相手の方が僅かに手が大きかった。しかし自分よりは細い指だった。ぬるいだけの手のひらを射止めるだけの手は絡めることも繋ぐこともせず、そのまま全身の体重を彼へと預けてみた。唸り声こそ洩れるものの、押し当てた手のひらを擦り抜けた大きな手はくしゃりとこちらの髪の毛を掴み、離してはまた盛り上がった後頭部へと手を差し込んだ。
先程の彼女と彼の構図そのものであることに気付いてから、悔しいやら悲しいやらが一気に込み上げてきたが、彼はもう誰かにくちづけることも抱こうとすることもない。蛾の意思が反映されていないのだから、彼女がその目に映ろうとも制服の裾を掴んで腰に手を回すようなことはしないだろう。そう思うと微睡みのような安堵に胸が満たされ、益々彼へと体重を掛けることになった。
何度も触れる機会があるものの、彼は生きているのか不安になる温度を行き来している。しかし胸の下では力強く、規則正しい鼓動が感じられた。生きているのは間違いない。だけど。
(正しい貴方って何なんだろう)
彼を熱心に敬う一方で得体の知れない不安も感じていた。自分でいたいと告げた彼は何処までが彼なのか。『園貞春』としての純度は何パーセントを占めるのか、不純物が混じっているのだとすれば嘗て彼を愛した有機物と無機物なのか、そもそも彼が他を惹き付ける要因すら見当たらない。自分のような子どもでは知識不足も否めないし経験もない、大人である彼を暴くには何もかもが足りなかった。
正しい彼なんて実は何処にもいやしないのだろう。しかし彼はずっと正しい。彼だけに留まらず、恒常性を信じなから少しずつ変化する、それを進化だと盲信して。人はそういうものだ。自分が彼に見出した独自の信仰に近からず遠からず、といったところか。だとすれば、自分の信仰はまだまだ甘い。女子が好きなパンケーキに生クリームとシロップを大量に掛けるよりも甘っちょろいのかもしれない。
盲目になりきれないのは、彼が神様であると同時に人であることを知っているから。しかし盲目になりきらねば何時かは彼の本質に辿り着ける、そんな気がしていた。
「でもそんな先生だから、崇めたいと思う」
「……お前は若い。そのうち飽きるだろうよ」
「そうかもね。それでも先生のことは敬ってるんですよ。だから貴方の行く末はもっとまともなもので終わってほしい」
暴きたい。マトリョーシカのように覆われ続ける彼の肌を剥きたい。何時か彼の核へ辿り着けたなら、触れたらすぐさま崩れ落ちるようなゼラチン質の脆弱さだけが眠っているのかもしれないし、真っ黒な空洞だけが転がっているのかもしれない。または普遍を貫き通した彼の姿がそっくりそのままあるのかもしれない。
見たい。彼の終わりも、その過程も、彼を創り上げたもの全て、自分が味わえる範囲で幾らでも。その前に彼に変な虫が付かぬように虫除けを施してやろう。どうしたら良いだろう、彼女の真似事をしてくちづけたら良いのか、それとも鬱血痕のひとつでも首筋に残すのが妥当か。それでは恋人がする行為と変わらないではないかと、つきんと痛む頭を彼へ擦り付けると、彼の長い手足が背や脚へと絡まり、丸め込まれていく。彼は自分を退かしたいだけのようだが、彼に一瞬だけ抱擁されたようなあの形が繭の中の蛹のようで、それだけで満たされてしまった。
番になる気もないが、彼とひとつの蛹になるのも悪くはないのかもしれない。どろどろに溶けて、自分でも彼でもない新たな生き物になる。それはそれで楽しいかもしれないが、全くの別物になるのだとすれば碌な余生しか残されていないのも虚しい。となればやはり彼とは別種の個体であった方が楽しい。そう、楽しいのだ。自分の意思が彼に向くという構図が反映されなければ何ひとつ面白くない。
「……早く退いてくれ。さっきみたいに人に見られたくない」
「はは、夢中だったもんね。でも次は俺でも可愛いと思える子にしてくださいよ、頼むから」
無理矢理床に転がされ、彼はこちらを見ぬままにお気に入りの椅子へと再び収まった。夕陽が地平線すれすれにまで落ちているのか、燃えるように赤い。肌も髪も何もかもを赤一色に染めた彼は自らの肩を撫でながら、ぼんやりと窓に映る景色を傍観していた。
時刻は六時を回ろうとしている。これでは部活動をする時間なぞないと諦め、クロッキー帳と画用紙に挟んだ翅を鞄へとしまい込んだ。そして適当な椅子へと腰掛け、時間が来るまで彼の仕草のひとつひとつを眺めることに決めた。案は決まらなかったが、どうせ明日は休みだし友人との予定もないので、適当にデッサンでもしていればいい。そして美術展に展示する予定の作品も、来年度の卒業に向けた作品の案も練れたら良いだろう。
あれから特に会話が成立することなく十数分ほど経過し、茜に染まる校舎には再び大音量の鐘の音が広がっていく。俯いたまま髪を垂らしていた彼だったが、おもむろに横髪を耳に掛け、決して重くはない唇を開き、ぽそぽそと誰に言うでもないようにして何かを呟いた。
「――燐、私もひとりでは生きられないよ」
何も、何も聞こえなかった。鐘の音が邪魔して何も届かなかった。しかし彼の発した台詞が重大な意味を含んでいるという確証だけが膨れ上がり、思わず椅子を倒してしまった。そのせいで彼の語尾すら掻き消されることとなる。
彼の首についた痣は新しいものだった。先日鉱物を剥がした痕、それから鱗を剥がした痕。痛々しかった傷も肌に馴染み始めている。誰も知らない秘密はどんどん秘匿性を秘めていく。誰も彼に傷があることを知らない、宿主体質であることも知らない。……彼が此処に在ることすら誰も知らないのではと思えるほどに、彼は透明になりつつあった。
「……先生、何。何て言ったの」
「いや……何も言ってない。それよりも青島、デッサンを数点描いて月曜に提出して来い。宿題だ」
彼はそう言うと床に丸まっていたカーディガンを拾い、机の前へと放り投げると、そのまま背を向けて入口の方へと向かっていく。最後はこちらの顔を見ようとはせず、寧ろ避けるように。
何時ものように軽率に迫れたら良かった。それなのに彼に纏わり付く静寂が口を噤ませる。真っ赤に染まる背を向けた彼は自分を置き去りにして戸を開き、美術室を後にしようとした。東側に伸びるべき影を背後に忍ばせていることに気付かぬまま。そして影の形が人の輪郭を忘れ、歪なオブジェのように曲がりくねっていることすら気付けぬまま。
「貞春さん」
彼の名を呼ぶと同時に戸は閉められ、声が届くことはなかった。しかし戸に僅かに挟まれて千切れた影が床に張り付き、ばたばたと暴れている。翅を生やしたような小さくも胡乱な影は床を転げ回っていたが、影の元となる者の所へと帰られなかったせいか、軈てはくたりと床に落ち、そのまま茜に溶け込むようにして動かなくなってしまった。
「……あれも寄生? それとも……」
人の形をしない影は万物を乱雑なパズルとしてくっ付けたような違和感の塊だった。美しい人に憑いたそれはあまりに醜悪で、彼には似つかわしくない、はずだった。
茜に背を燃やされながら、ひどく自分の顔が歪むのを感じた。もっと神を暴きたい。醜美も超越した彼の内側を拓いてやりたい。ぞくぞくとした震えが今、脊髄を駆け巡っていく。
――嗚呼、最高だ。なんて最高なんだ。
一種の絶頂だった。彼の真意は元より、彼自身が絶頂そのものであると悟った瞬間、可愛げの笑いがぽつりと広がっていく。雨が降るように、ぽつぽつと、そして辺り一面を満たすようにして。
戸の裏側で彼が立ち尽くしていることを知らないで、歪な影を抱いていることも知らないで。正体不明の歓喜に震えながら、自分はずっと笑うことしかできなかった。
蚕蛾 Bombyx mori