真珠貝 Pinctada fucata martensii



 枯れた花を見るとほっとするようになったのはずっとずっと昔のこと。起源の位置すら記憶に薄いが、花が嫌いになったのが最初だった。それから美しいと称されるものが嫌いになってしまったが、何の因果か美術教師という職に就いてもう十年になる。好きかと問われたら嫌い。しかし問う人間もいやしないのだから、口は縫われたきり糸を解く者なんていない。
 無情と共に生きている。恋人かと言われたらそうでもない。運命共同体かと言われても、やはり違う。多分、ルームメイトという概念。無情感は部屋にも外にも何処にでもいる。
 さっさと死ねば仕事をしなくていいし、食事をしなくてもいいし、欲を捌ける行為に勤しまなくていいので、たまに自殺する自分を想像してみるのだが、糞便を垂れ流してまで首吊りしたくはないし、顔も見たことがない誰かの話題になりたくないので、引き続き生きるしかない。
 だから仕事をする。生徒からの悪口を流し聞きし、同僚や上司の嫌味も躱し、淡々と生きる。人が寄ってこないのは楽だ、多少は生きやすい。食も興味がないお陰でスーパーで半額になった弁当を食べていればどうにかなる。休みの日は適当に動画を見てベッドにくるまっていれば勝手に一日が終わる。なんて気楽、なんて自由。空白に埋もれて眠るのは悪くない。
 惰性的消費。人はそんな生き方が詰まらないと言う。満たされていたら面白い? 多様性の名を借りた正義の刃はいつでも自分を貫くが、痛みを忘れてしまえば凪いだ風にも及ばぬさ。
 嗚呼、面白くない。
 喧騒だらけの文化祭がようやく終わり、花壇のマリーゴールドはすっかり枯れてしまった。汚いな、と零しながらも花は生きているので、鋏でひとつひとつ刈り取っては並べ、刈り取っては並べていく。教師達も帰ってしまったので誰もいない。お陰で静謐が保たれている。だから邪魔する者も後ろ指差す者もいない。
 背中を燃やす太陽すら地平線にくちづける時刻、悪癖が止まらない。花壇荒らしをとっちめてどうだとか職員会議で叫んでいた教師もいたが、あれは生徒を前提にした発言であることは周知の上だった。疑うのが好きというよりはスケープゴートが欲しいだけ。誰かのせいにするのがみんな好きなだけ。だから私だと誰も気付かない。花が私の心を枯らすことも、誰も知らない。
 花はぷつり、ぷつりと手折られていく。マリーゴールド、鶏頭、竜胆。センスのない配置だと思う。軈て花の葬列がレンガ上に並ぶと、それを靴で詰り、踵を返す。特段楽しいわけでもない行為で手を汚すのは最早惰性的。それでもやらねば心が死ぬだなんて、とても不便だ。
 フードを深く被って校舎を後にすると、ふとマリンの香りが自分と擦れ違う。シトラスが混じった清涼な香りに横目で追うと、香りを纏った誰かが自分の左脇に軽くぶつかりながらも校舎へと吸い込まれていった。詫びの言葉ひとつもなかったが、当人が気付かなかったのかもしれないとその場はやり過ごし、自分も帰路へ向かったが、ふと気になって足を止め、振り返った。
 マスタードイエローのくすんだ髪色を覆う黒のキャップ、自分より僅かに背の低い背丈、深緑のパーカー。その誰かは直前にこちらを振り返ったが、その後何ともなさそうに姿を消した。
 一瞬だけ交わされた視線に、何となく『同類』の色を見た。


「先生、俺たちは打ち上げとかしないんですか」

 二日の代替休日を経て、たったひとりの美術部員は頬杖を付きながらクロッキー帳と対峙している。生徒の前にはレプリカの果物が詰め込まれた籠が置かれており、うんうんと唸りながら果物のアタリを取っていた。
 やる気があるのかないのか頬杖をつきながらとは良いご身分だ。

「何を期待しているんだ。するか、そんなもの」
「冷たいっすね」
「それで私を煽っているつもりなら、さっさと描いたらどうだ」

 ちぇ、と生徒はごねると頬を膨らませてデッサンへと取り掛かった。数年ほど廃部に陥っていた美術部を復興させたのが彼、青島燐だった。しかし美術を好き好んで入部したわけでもなく、得意分野は体育くらいなもので他の教科は中の中。美術なんて下のレベルだ。
 面倒なことをしてくれた。どんな嫌がらせをけしかけても彼は折れない。それどころか向こうがこちらを折ろうと企んでいたものだから、最終的にこちらが折れてしまった。今でもどうにかして退部させられないかと試みてはいるものの、そろそろ飽きてきた。それに勝手にそれらしい部活動を行ってくれるので、眠っていれば勝手に部活は終了しているのだから実に楽だ。
 絵を描くだけで済むのなら、それで良かったのだが。

「そういえばあれから何ともないですか」
「何が」
「変なのに引っ付かれてませんか、って話」

 語尾とともに引き攣る背中に思わず肩を抱いたが、彼は視線をクロッキー帳から動かすことはない。干渉は嫌いだ、しかし青島は簡単にパーソナルスペースを飛び越えてくる。領域の侵犯。肌の下を孑孑が這う心地。気持ちが悪い。
 あれは三ヶ月ほど前、七月上旬のことだった。
体質と表現するべきか病と表現するべきか、自分の体は時に何かに蝕まれることがある。従来の寄生虫が宿るのとは違い、体には花が咲く。たまに鉱物や動植物由来の物質が体にこびり付くこともある。(もしくは皮膚組織が変化してそうなっているのか)
 花壇みたいだと一度言われたことがあるが、あれは蔓花茄子を剥がされた後の話だったと思う。植物の翼が体を雁字搦めにしてから記憶がない。青島に毟り取られた時も激痛で目覚めては気を失ってを交互に繰り返していたし、気付けば自分は自宅にいてベッドに包まっていた。背中はそれなりに手当てされていたらしく、上半身は包帯でぐるぐる巻きだった。根気で帰宅したのか、青島が引き摺って家まで送り着けたのか、彼に尋ねるまでもなかったので明らかにはなっていない。しかし彼は言ったのだ。人間花壇みたいだと、記憶のどこかで。

「……先月」
「先月? ……あー鱗? はいはい、ありましたね。あれくらい楽ならいいんですけど」

 刺青は駄目ですよ、と彼に窘められたのが先月。手の甲から始まったのは錦鱗の鱗。ぼかし摺りのように広がるグラデーションと、乱れに乱れた無秩序のイリデッセンスが眩しい色彩。鱗乱れすら目立つそれはパレットナイフで呆気なく剥がされた。皮膚を強く摩擦されているような痛みはあったが、蔓花茄子の根を引っこ抜くよりは優しいもので、あっという間に削ぎ落としてもらった。
 見たこともないような色の鱗だったが、青島がネットで検索して見せてくれたのがだるま琉金という金魚の品種だった。よく見掛けるような種類の品種改良版だったらしく、彼は色めき立って関連画像を調べていたが、特に感動も沸き起こらない。金魚はそこまで嫌ってはいない。人が言うほどに美しいとは思わないし、顔も不細工である。出目金や蘭鋳なんて目玉や肉瘤があるのだし、そこに美は見い出せない。だからと言って愛せるかと言えば別の話。生き物も大して好いてないのだし。
 青島のように一般に属する人々が何故美しいものに心を惹かれるのかが疑問で、それから美術に関わるようになったのもある。しかし持論としては比較する真逆の性質の対象がなければ、美を実感し得ないとも考えている。光を感じるなら影を見るように、美しさを際立たせるなら醜悪なものも並べなければならないだろう。
 なら何を並べるか? 私は何と比べて美しいものを拒むのか? 実の所はそれすら自身の中でもあやふやだった。

「別に私に構うことはないだろう。ひとりで取ろうと思えば取れる」
「ということはさ。取る気がなければそのままにするんでしょ」
「さあな」

 彼がこちらに気を向けることはない。鉛筆を紙に滑らせて必死に擦らせるだけだ。紙面には果物が盛られているのか、それともなり損ないの何かが空間に転がっているのか。
 さりさりと黒鉛が削れる音ばかりが充満しており、椅子に預けた身はオレンジに微睡みだしている。日暮れが目を焼かぬように閉じていたのに、強い光が無理にでも目蓋をこじ開けようとしていた。

「いや、先生は取らせるね。千円賭けてもいいよ」
「随分と安い賭けだな」
「ふふ、そう? 千円は学生からしたら高額だ」

 細く開いた隙間でマスタードイエローの頭髪が瞬く。乱反射する光に折角訪れた眠気も吹き飛んでしまったが、逆光で真っ黒になった彼の顔には西陽とは異なる爛々とした光が嵌め込まれていた。
 夜更けに路地裏を横切る猫の目だ。丸い光だけが宙に浮かんで怪しく輝くあの様が、青島の黒い顔にも見受けられた。

「だからね、先生は俺を呼ばざるを得ないんだよ」

 肩を震わせて笑う彼の影がこちらにまで及ぼうとしている。長く伸びる影すらこちらを嘲笑っているようで、癪になって踏んでやったが感触があるはずもなく。影は革靴の上へとはみ出して凭れていた。
 左小指の関節へちくり、ちくりと何かが突き刺さっていく。針も棘もあるわけでもなく、第二関節の端っこで光が遊ぶだけだった。



 朝日を浴びて目覚めるのが苦手だった。だから早くに床に就き、東雲が空を赤く染める前に起床する。寝足りなければ昼休みや放課後などを使って仮眠を取る。いじめ根絶と謳いながらも異質な存在は弾かれるので、逆に好都合だ。
 仕事は最低限してるが、問題があればクビにされるだけ。そうなったらなったで早死にするのは悪くない。そうしたらボストンバッグでも抱えて北の地にでも赴こうと決めていた。死ぬなら眠るように死にたい。誰も好き好んで苦痛をぶつけられて死にたくはないだろう、私とて人間だ。(では人間とはなんだ。善く生きようとしない私はなんという動物なのだろう)
 だから今日も真っ暗闇の中で体を起こした。味気ないアラーム音で意識を覚醒させると、薄闇の中でぽつりと輝くものがあった。家電製品のランプにしては多色な色彩を有しており、手の動きに合わせて浮遊している。それが美術室で見掛けたあの光と同じものと気付くと、サイドボードに手を掛けてランプを付けた。
 アーマーリングのように広がる物体は小指の根元から第一関節より上にまで広がっており、硬質な層が指を覆っている。ぬらぬらと照る光沢が零れたかと思うと物質化し、爪の先ほどの球体がころりと胸部を滑った。
 石のようなそれは真珠だった。乳白色の外側では虹色が干渉しあって目に痛い。しかし真珠はひとつだけではなかった。潤沢を確認するたびに転げ落ちる真珠は幾度も肌を滑り落ち、ベッドを占領する。起き上がって指の物質を剥ごうとしたが簡単に引き剥がせない。その間にも真珠はどんどん生産されてシーツは真珠まみれだ。しかも物体は侵食が広がり、手の甲にまで及ぶ。
 鋏で抉ろうかと床に降り立とうとすると足が上手く着地せず、派手に転んでしまった。床に置きっぱなしの本たちに衝突したが、緩衝材の役割を果たしたために差程痛みはない。だが右足首にも同等の物が張り付いているのを目視すると、いよいよ終わりを実感した。
 関節から広がる堅殼なものは身動きが取れぬ自分をどんどん追い詰める。肌という肌を多い、光が真珠を生む。もしかしたら自分の血肉を真珠に変えている可能性もあるかもしれない。
 連なっていく。数珠繋がりになった真珠は軈て首に絡まり絞まり出した。気道を潰さん勢いの真珠を取り払おうとしたが、肩も上がらぬ状態になってしまえば抵抗は不可能だろう。
 だから諦めた。諦めて酸素すら放棄して目を閉じる。私の終わりは真珠貝とともにあるということ。ならば結末は受け入れよう。予め用意された終末は無機質な夜気と一緒に手を伸ばしている。受け止めてしまえば、きっと。

『先生は俺を呼ばざるを得ないんだよ』

 不意に聞こえてくる声にうんざりする。現世に還そうとする厚かましさが肌と物質の間に無理矢理入り込み、遊色の塊は断層のように剥がれ落ちていく。
 くすくすと軽やかに届く声がひどく疎ましかった。

『青島』

 私はね、お前の名前も嫌いなんだ。だって私を満たす光が彼方遠くの燐光のように明滅して、この身を身勝手に生かしてしまうんだ。そのくせ首に手を掛けてしまうのだからタチが悪い。
 生意気な子どもが一番嫌いだ。

「先生」

 自室を満たしていたはずの真珠は小粒の塊ではなく、様々なサイズの用紙へと変化していた。オリエント効果を生むことのない、何の変哲もない画用紙。色だって鉛筆の黒一色だけで、心を乱す光は一欠片もなかった。
 そして此処は自宅でも何でもなく、美術室にビジョンが切り替わっていた。深夜四時でもなければベッドだってない。雲の多い夕暮れ、使い慣れた椅子、それから部外者がいるだけ。幻想は現実へ、心は平凡な日常へと戻っていた。

「……先生また寝てんの。いつも家で何してんですか、ゲーム? それともネサフ?」
「寝てない」
「目はばっちり閉じてましたけどね。まあ暇なのは解ったからね、はい。活動しましょう」

 机が教室の後部へと下げられており、青島は黙々と画用紙を並べている。文化祭で展示したデッサンが正方形の紙に収められており、教室の中央へと並べられた。
 色味のない絵が行儀良く並ぶ。果物や花、石膏像などをモデルに描いただけのシンプルなデッサン。初期の絵なんて濃淡もろくに表せず、丸も丸ではなく、影と光のグラデーションも極端で目も当てられなかった。しかし文化祭ぎりぎりまで根気強く描いていたせいか、それなりに見やすい絵になっている。石膏像も人の造形をしており、影の濃淡や光の当たり具合も練り消しゴムで優しく拭われている。
 青島の隣へと腰を下ろして絵を一枚手に取ると、紙の奥で貝が横たわっている。部室には模写できるような貝殻なんて置いていないし、しかし今のご時世なら高画質の写真を閲覧することもできるのだから、気に留める必要などないはずなのだが。
 偶然を必然と決め付けるのは人の悪い癖だ。だから彼が何を描いても、私の身に何か起ころうとも関連性を求めるのは馬鹿げているだろう。

「俺ね、結構頑張ったつもりなんですよ。部員がひとりしかいないし、美術室映えする絵も描けないし、なら数で稼ぐしかないなーって」
「ああ」
「いや別に褒められたいとかじゃなくて、それしかできないから歯痒いんですけどね。でも俺でもここまでやれるんだなって」
「ああ」
「…………あ、また人の話聞いてないの」

 左小指がつきんと呼応している。この絵と、関節に張り付く僅かな欠片が。欠片は成長していたがひどくゆっくりとしたもので、第一関節と第二関節の間を覆うだけだ。関節にも物体は広がっていたので自由がきかないが、困ることはないので根元から動かしてみる。ほら、動くし問題ない。
 口を尖らせる青島を横目に小指の節を撫でていると、数十枚はあるであろう絵を並べ終えた少年はふと教室の後ろを指差している。そこに目をやれば油絵や水彩画が描かれた張りキャンバスへと突き当たる。あれも文化祭で展示された作品の一部だった。

「あれがあったからどうにかなった気はするんですけど、あれ誰の絵です? 卒業した先輩とか」
「私だよ、悪いか」
「いや悪いとか言ってないし。……さすがは美術教師だなぁ」

 惚れ惚れとした言葉とともに柔らかな息が洩れ、青島は頬杖をついている。だが顔は強張っていて、例えるなら入学して数週間後に見せた顔に似ている、と言えばいいのか。初めて寄生に遭遇した彼はまだまだ幼くて怯えていて、膝だって笑っていた。あれほどではないとはいえ、良からぬものを視てしまったような苦さを感じる。

「気味が悪いならそう言えばいい」
「あ……うーん……。ぞっとするっていうか、俺なんかはあれが怖いんですけど」

 人差し指が向けたのは左から二番目にあるキャンバスだった。他の作品と比べてこじんまりとした作品であったが、青島は幽霊でも見るかのように凝視している。
 正常な反応だろう。あの作品は自分が此処を卒業する前に置き去りにした作品だった。よく捨てられずに残っていたと思うのだが、焼却処分でもしようものなら呪われるとでも恐れたのだろうか。運がいいのか悪いのか、しかし絵はここにある。展示したし、大多数の生徒や客は不気味がって遠ざかったことだろう。別に美術は万人受けすれば正義というわけでもないし、道徳という聞こえのいい統制によって表現の自由を奪われてもいけない。だから置いた。自分は置く必要があったし、あの絵も呼んでいた。

「何の絵に見える」
「……人の頭から顔が取れて、皮膚がリボンみたいにくるくると剥がれていく感じ。あちこち真っ赤だし、寺で見る地獄絵図みたい」
「そう見えるだろうな」

 その逆だ、なんて言ったところで彼には通用するまい。謂わば呪いの絵。ごくありふれた静物画の作品の中で異彩を放つその絵は永久の地獄でもある。ひとりの人間から、人たる証が剥離するおぞましさ。救いのない連鎖すら味わえるような混沌さにさすがの青島も蒼白になりつつも見入っていた。
 彼の横を通り過ぎてキャンバスを手にすると、キャンバスを回収してケースへと戻し、大きなものから順に重ねていく。あ、という小さな声には耳を向けずにひとつずつ収納すると、青島の生白い肌にようやく赤みが差し始めた。

「もう閉まっちゃうんですか。さっきのはどうか知らないけど、他の絵は好評だったんですよ」
「関係ないね。褒められたくて描いちゃいないんだ」
「そもそもそれ、いつ描いたかとか聞かせてくれないの」
「お前に言う義理もない」

 つまらない、ずるい、そんな不満をよそに準備室へとキャンバスの束を移動させると、次に教室へ戻る頃には画用紙はばらばらに乱れ、中央では青島が画用紙を投げて寝転がっている。仰向けになると絵を空中へ放り投げ、空気抵抗のない紙はすんなりと高く舞い上がり、パラシュートのようにふわりと落下する。木の葉のように身を翻した先には彼の顔面があり、いやに整った顔を覆い隠している。
 臨終を迎えた人間が被る白布みたいだ。一枚の隔たりがあるために心はゆるりと凪いでいく。そもそも整いすぎる。何処ぞのモデルか芸能人みたいに左右のバランスが取れすぎて人形のように完璧だった。石膏像ですら若干の均衡は崩しているというのに、あの少年ときたら。しかし彼が死人に模したのも束の間のことで、画用紙は滑り落ちて緩やかな鼻梁と口唇が天へと突き出していた。
 彼にほくろがあって良かった。右の口端にひとつと襟の内側にふたつ。どうでもいい情報を半年で得てしまった。しかし黒点を発見できなければ彼は完璧すぎて、人間だと認められなかっただろうから。右に偏るほくろが彼を辛うじて人間に仕立てた。自分の心が人の彼岸に立つというのなら、彼の面立ちもまた彼岸のものであった。
 歩み寄って白い頬に爪先を宛てがうと、額に掛かる金糸がさらりと零れて、くっきりと刻まれた二重の目がこちらを捕らえた。上向きにカールされた睫毛の奥に潜む蜜色の瞳。瞬きをすれば滴りそうな水蜜。水膜を張った黒目がくるりと動くと、革靴の先へと掴み掛かった。

「っな」
「行儀悪いよ、センセ」

 危うくバランスを崩しそうになったが、床を踏み込むときゅっと音がして靴底が転倒を食い止める。安心したのを見届けるとぱっくりと口が開き、血色の濃い舌が差し出されて爪先へと伸ばされる。あろうことか青島は尖る舌で黒光りする革をなぞった。
 艶やかな皮の表面に唾液の線が生まれ、重ねるように再び舌が靴を嬲っていく。嫌々でもなく、寧ろ見せ付けるように行われる仕草に腹の底から冷えていき、靴を犠牲にして足を引っこ抜いた。足に直接触れられたわけでもないのに爪先が痺れていて、弾力のある舌がそこに触れているようで居心地が悪い。
 それなのに彼は逃がしてくれなかった。シャツの裾を引っ張られて今度こそ体勢を崩して、彼の隣へと雪崩れ込む。背中の下敷きになったデッサンたちは戻らぬ皺を刻まれてさぞかし立腹していることだろう。しかし青島は違った。悪戯めいた微笑みを向けて頭を引き寄せてくる。
 硬い胸部へと顔を押し付けられて嬉しい男がいて堪るか。歯を食い縛って胸板を押しやったのに存外に頑丈で手の力が緩んでしまい、青島は隙を見逃すことなく手首を握り締めた。
 寄生の幼体と思わしきものがへばりついた左側、彼は左手首を選んでしまった。

「怒んないでよ、怒ってるのはこっちだからね」
「な……どうして。いいから離せ」
「先生ってばあの絵を捨てたんだろ」

 浮き出た肩甲骨が画用紙にざりざりと当たり、オフホワイトの布地が煤けるのを想像した。それよりも彼が何に対して怒っているのか見当がつかないし、押さえつける腕から抜け出そうとしても力は向こうの方が上で動けやしない。
 最早藻掻くのも面倒で、青島のことは枕と思うことにした。そうすればやり過ごせるだろうと踏んだのだが、体温が残る枕ほど煩わしいとは思わないか。他人の匂いが染み付いた布が胸を掻き乱しやしないか。つまり、目論見は失敗だということ。小指は手の内側に隠しながら『あの絵』の正体を記憶から探ることにした。

「私はお前が描いたものは全てまとめたぞ。あやふやにしないで言ったらどうだ」
「天使のやつですよ。先生をモデルにした」

 ……ああ。ようやく合点がいった。彼は夏のことを忘れずにいるらしい。天使などと銘打って作品にしたがった執念はどうして忘れられようか。天使と呼ぶにはおどろおどろしい輪郭が今でもこびりついているのに、どうして。
 考えるふりをした。色々と悟られたくなかった。呼吸の合間に崩れゆく線画を脳裏に描き、消してはまた描く。描いたのは青島だというのに動くのは自分の右手、象られるのは白い肌を作る縁。なぜ。

「……捨てた」

 一言を紡ぐだけで精一杯だ。吐き出した途端に声は嗄れていて、ひどく素っ気がない。これくらいがちょうど良かったのかもしれない。青島は部室の外で見るような稚拙さで頬を膨らませて「ひっでー。あれ最高の力作だったのに」とぼやいてくれたから。私の血が染み付いたアレの何が良いというのだろう、多感な時期は血の気が足りなくなるとでもいうのか。大人しくレバーでも齧っていればいいものを。

「酷いなんてあるものか」
「そうだよ。絵に命が宿るとするなら、先生が天使に命を与えたんだ。でもアンタはそれも殺したってこと」
「殺人罪か? 馬鹿馬鹿しい」

 的を射ぬ話にうんざりして起き上がろうとするものの、彼の手は手首を掴んだままだ。数分のあいだにも汗が滲んで皮膚がむず痒いのに、指と指の間を赤くしたり白くしたりしながらも手を開くことはしなかった。
 どこか眠たげな目蓋を上げきらぬと小馬鹿にされた気分になる。だから彼の目だって嫌いだというのに。ヘイトが無限増殖する、虫の居所が悪くなるどころかなくなってしまう。そのうち腹を突き破って彼を喰らいに掛かるかもしれないが、その方が私も楽になる。

「違うよ、先生は神様らしくなったよねってこと」
「………………神様?」

 青島が件の台詞に触れることなく、代わりに引き寄せたのは左手だった。手首を解放したものの手は繋がられたままであるし、手にされたくなかった箇所を指が擽っている。離してほしかったが、それよりも『神様』という単語が腹の虫を潰していく。
 ぷつんぷつんと弾ける。ひくりとこめかみが引き攣ったが、彼の丸い指先は執拗に左小指の側面を撫で続けていた。外殻は気付かぬ間に小指をすっぽりと覆っていて、根元ですら可動域を失っている。
 何故、という顔をしていたのかもしれない。でなければ彼が得意げに口角を上げたりしないだろうから。癪であったが、今回は彼の方が上手だった。それだけのことが起きている。

「気付いてないと思ったら大間違いだ。勉強と美術ができなくたって、できることはあるよ。ひとつはバスケと」

 ぼこぼことした殻をなぞられると肌を直接撫でられているようで心地が良くない。音叉のように触れては広がる侵食に気を良くしたのはどちらだろう。私が安堵するよりも先に彼が目を細めた。かつかつと短く四角い爪で小突いて音を確かめると、皮膚とのあわいへと爪を潜り込ませた。

「もうひとつは、こういうのを見付けること」

 政治的だな、と思う。剥き出しになった額は広めで、滅多に見掛けない眉毛も髪色とそっくりで色が薄い。彼が混血の者かどうかは聞いたことがないが、時々東洋とは掛け離れた匂いがする。それはどうでもいい。彼は政治的に自分を追い詰める。政治を知らずとも、突きつければ折れると計算してみせる。
 だのに余裕のなさを見せ付けないのは上出来だ。だから素人であって子どもだと私は論うのであって、そう見せようとしない彼は存外に頑固なのかもしれない。そんなことを汗の量で計りながら片方の手で胸をノックしてみせた。空じゃないから反響はしない。どくりと大きく脈打った、かもしれない。

「どうして隠してたの」
「お前は恋人か? 私が言う義理はないだろう。それとも何だ、バター犬よろしく奇声を剥がす犬にでもなりたいのか」

 眉根が寄ったということは下品な単語を理解しているということだろう。若さを見下すようにして外殻を彼の手の甲に押し付け、思い切り引っ掛けば斜めに太い蚯蚓脹れが走り、瞬く間に皮膚は赤く滲み出した。
 だが彼が激情に駆られることはなく、寧ろ淡々と自らの手を覆ってはほくそ笑んでいる。頂きに滲み出す血液が更なる線を複数も生み出したが彼は動じない。それどころか殻を引っ張ると自分の口元へと持っていって、あろうことか口に含んでいた。

「……青島!!」
「ん」

 靴を舐めた舌が殻を、光沢を秘めた層を撫で下ろしていく。全身の毛穴が開いて産毛が逆立って、血液が逆流するような悍ましさに青褪めても面白がって離しやしない。引っこ抜こうとすればわざと前歯を立てて痛みを与えるものだから、今度は奥へと押しやった。しかしえずきもせずに満遍なく舌で舐めていくものだから、かっとなって彼の頬を殴っていた。みしりと嫌な音がして、白い頬は一気に紅潮した。
 それでも指は奪われたまま、奥歯が殻を目掛けて全力で噛んだ。今度はこちらから嫌な音というものが響き、遅れて鈍痛が小指を襲った。

「っい…………!!」

 厚い殻はぱきんと割れて皮膚を貫き、歯も遠慮なく皮膚へと食い込んでいく。呼吸を忘れるほどの激痛に左腕を忙しなく引っ張ってみたが意味はなく、開いた顎が大きな塊を見付けると再び歯を合わせ、強烈な力で砕け、肉へと刺さる。そのたびにじんとした痛みで涙腺が緩み、睫毛が湿るのを感じた。
 視界が霞んで、青島が黄色をした何かにしか見えなかった。輪郭を失えば人は人でなくなってしまう、それは彼とて例外ではないと。小指を喰らいたがる何かの塊が殻を喰い破って、内なる肉を求めようとしている。食べたって美味いとも限らないのに、せめて求めるなら真珠でも奪ってくれたらいいのに。きっと貝肉も真珠もありはしない。私のつまらぬ肉と骨が呼び起こされるだけ。
 それでも行為をやめようとはしないのだ。あれば剥ぎ取る、単純な命令に背く意思も捨てて食らい付くことしかしない。だから噛み終わった殻を歯で挟んで欠片を剥ぎ取っていけるのだ。私がいくら喚こうと、叫ぼうと。私の痛みは関係がないのだから。

「痛いでしょ」
「っ馬鹿にしやがって! ああ痛いさ! お前、勝手なことばかり……!!」
「お互い様じゃないの。先生も勝手に絵を捨てたでしょ、だから俺は怒ってるんだし、それにさ」

 一時唇を開けると口から何かを吐き出し、床へと飛ばされる。指を覆っていた欠片たちが唾液混じり薄紅にまみれており、ゾッとするしかなかった。
 殻は粉砕されているが、肉に張り付いているために簡単に剥がれやしない。残滓を無理に剥がせば指は軽傷では済まない。だが言い掛けたまま放置された指は無様でみっともなくて、こんなもので指を飾っていかなければという事実が眉間を突き刺していく。そして自分らしくもない矛盾を同時に突き出されて気分が悪い。だが、しかし。

(こいつがバター犬なら私はパブロフの犬か)

 ベルを鳴らされて垂涎する犬と同じではないか。躊躇に犯されて身動きも取れず、射抜く瞳が先を促してくる。どうしたいのか、どうされたいのか、どちらを選択したって少年はどちらでも尊重するのだろう。人を勝手に『神』呼ばわりするのだから。
 小指を曲げてみた。赤い割れ目から血が湧き出して彼のカーディガンを汚していく。深緑のニットには黒く薄い染みしか残らない。染み込んで目立たなくなろうとも、血が流れた事実は覆せない。……数度ほど深呼吸をした。吐けるなら胃の中のものを全てぶちまけたかった。

「……取れ、早く取れ」

 白旗が私の背後ではためいた気がした。彼が欲しかったのは敗北宣言か、指に残留した硬いバターか。聞く気もない、疲れてしまった。
 小指を差し込むと、彼は穏やかに目を緩め、そして言い放った。

「千円、来月の給料が入ったら渡しますね」

 吸い込まれていく。真実の口だったなら今頃小指はへし折られていただろうに、彼の口は傷付いた指を優しく咥えて、尚且つ外殻をこそげ取るだけだった。
 皮膚が剥がされて、声なき絶叫に彼の衣服を強く握り締め、血痕を溶かすように汗が吸い込まれていく。広がるシミに目もくれず、横髪に指を差し込みながらも容赦なく殻を剥がしていった。
 そういった行為を彷彿とさせて反吐が出そうなのに、欠片がひとつひとつ剥がされて舌で癒されるごとに心が凪いでいくものだから救えない、救いもない部室は少し油臭かった。
 綺麗なものを壊すとほっとする。
 自分の寄生が剥がれ落ちると安堵する。
 痛みが与えられて密かに歓喜する。
 だのに愛してくれる者がひとり減ったと私は嘆く。
 実像と虚像の狭間で誰かが笑っている。青島だろうか、それとも別の誰かだろうか。彼を許し難くてならないというのに、私は彼に全てを預けることしかできなかった。痛みで意識が飛び掛けるたびに彼が生み出した絵たちが目に飛び込んできて、どうしても天使のことも思い出すのだ。
 天使は殺されちゃいないんだ、本当は。そう告げるいとまもないまま、彼の口から零れる阿古屋貝は過去形と成り果て、小指だけを支配するに留まった。私は貝殻に籠ることも、巨大な真珠として生まれることなく、指を真っ赤に染めるだけで今日を終えた。ぐしゃぐしゃになったデッサンたちと共に。



 彼が帰宅し、部室は明かりを落とせば校庭からの外灯が僅かに差し込んでいる。心もとない光を頼りに美術準備室へと足を踏み入れると、奥の棚にしまい込んだ大きなケースを引き出しから取り出した。
 そこにあるのは爛れた羽を生やす何かの生き物で、顔は赤銅色に塗り潰されていて顔も判別できない。そう、天使は生き延びていた。殺害されたふりをしてケースの中で寝息を立てていたのだ。
 自分の血と寄生の残滓が擦り付けられたデッサンは彼の言う通り、最高の出来だったと言えよう。七月に描かれたデッサンはパースが滅茶苦茶だったのに対し、十代とは思えぬ執念がこの絵には垣間見える。忠実に描き込みつつ、敢えて崩す。だから捨てたと嘘を吐いてまで隠し、手元に残している。
 漠然とした畏怖すら与える二色の絵画は、自分へ束の間の安息を齎してくれる。紙越しに酸素が放出されているかのように、此処では穏やかに息ができるのだ。
 人間扱いをされずに安心している自分がいて、化け物扱いをされて気色ばむ自分もいる。矛盾した思考が結果として絵に依存する要因ともなった。
 あの少年が描いたというのが気に食わなかったが、心を均す要因があるのなら素直に肖りたい。生きるのは途方となく労力を消費するものだから。

「神なんているわけがないだろう。いたら今頃……」

 血液がこびり付いた顔面へと唇を寄せると、薄い粘膜にざらついた紙の感触があちらから触れていく。コーティングされているお陰で黒鉛が付着することはないが、縋るように唇を這わせる自分がいた。
 自身という偶像に両手を合わせ祈るというよりは、紙面に残された残り香や細胞の破片を感知したい、という感覚。つまり浮かぶのは天使の偶像を手掛けた十六の少年の残像。紙越しに彼に添うということ。その瞬間に脊髄がびくんと反り返り、掴んでいた絵が床へと墜落した。
 我に返った途端にシャツへと滲み出す汗、末端から冷えていく体。絵を通して彼を想起した自分に驚愕していた。そもそも絵を捨てなかったこと自体がおかしいではないか、普段の自分なら焼却炉に放り込んでマッチを投げ付けただろうに、どういうことだ。
 ケースに絵を押し込むのも手一杯で、もしかしたら画用紙の角が潰れてしまったかもしれない。早急に引き出しへと追いやると、人でも殺めたかのような焦燥が喉を焼き、噎せては激しく咳き込んだ。
 この瞬間とて絵を廃棄できたはず。だのにできなかった。脳味噌が絶えず掻き混ぜられているようで、ふらつく頭を支えながら床へとへたり込んだ。
 ひゅうひゅうと気管を流れる秋風が粘膜を乾かしていく。またひとつ咳をしては目を閉じて、目の裏に焼き付いた残像を追うのだ。

「……余計なことをしてくれる」

 煉瓦で囲われた花壇、マリーゴールド、鶏頭、竜胆。センスのない組み合わせ。閉塞感、絶望、寂しい愛情、風変わり。花が口々に連想ゲームをして間接的に責め立てた。だから口封じに鋏で切り落としただけのこと。花はいつだって口うるさく、誇る色彩を鼻に掛けている、だから土に塗れて還る瞬間だけは愛しく思えた。
 擦れ違う影、こちらに気付かず踏み出すスニーカー、詰った花たちを手向ける広い背中。折れた茎を慈しみ、散った花びらを掻き集め、近親者もおらぬ花の葬列にひとり佇むその人はタールを混じえた煙を細くたなびかせては天へと梯子を掛けた。
 マリンとシトラスが重なるあわいに包まれて、不似合いなシガーを花壇へと突き刺していく。土壌を汚す毒性に目もくれず、清涼の程遠さが彼の両手を恭しく合わせた。
 マスタードイエローのくすんだ髪色、黒のキャップ、自分より僅かに背の低い背丈、深緑のパーカー、唇の右端と首に付けられたほくろ、焦げ茶の睫毛に覆われる桃花眼。燐光差す悪魔的な視線は嘯いていた。
 ――これで共犯でしょう、と。土まみれの指先が薄桃の唇へと当てながら。

「早く、早く追い出さなければ」

 そうしなければ自分はすぐにでも侵食されてしまうだろう。腐っても人間、人間は脆弱な生き物。だからこそ暴かれる前に芽は摘むしかなかった。
 その割に乾いた笑いが滲むのは何故だろう。腹の底から湧き出す充足感が泥のように満ちていって、やがては零れ落ちる。
 丸くて白くて、空にぽっかりと浮かび始めた月によく似たものだった。小さなそれは転がっていくと、やがて片隅へと姿を消した。

真珠貝 Pinctada fucata martensii

真珠貝 Pinctada fucata martensii

2019.1.22発行「パラサイト・イン・ザ・アートルーム」より

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-12-01

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