蔓花茄子 Solanum jasminoides

衣更絲子



 実は三十分ほど前から業腹を煮やしている。誰にも気付かれないように、にこにこと取り繕っていた自分は演劇も向いていたのかもしれない。走っては行けないと言われる廊下をばたばたと駆けていくと、よくつるんでいる仲間達に出くわしたために靴底がブレーキを効かせてぴたりと止まった。

「青島ァ、部活か?」
「そうそう! これから天使に会いに行くんだよ」
「は? 何それ。頭おかしくなったか?」

 うるせえよ馬鹿、だなんて面と向かって言わない。しかし幾ら気が置けない奴らとは言えど、からかわれるのは好きじゃない。それに天使に会いに行くのは事実なのだし。しかし真面目に返して変な目に遭いたくもなかったので、此処は嘘を八百ほど並べることにした。

「うーそ! 嘘だって、いや半分当たり? 学園祭で厨二病発揮して天使でも描くかなーってだけ」
「なんだそれ、天使を描くより、ここはやっぱりドラゴンっしょ」
「それなー」
「でもなんであんな部に行っちまうんだよ、勿体ねえ」

 仲間のひとりのさり気ない一言に、また腹の中で泡が立ち始める。こぽこぽと湯気を立てて温度は急上昇。そうだな、勿体なかったと我ながら痛感してるよ。だって誰よりもバスケは上手だったろ、でも仕方ないんだ。ぴくりと脈打つこめかみを押さえながら「捕まっちまったから仕方ねえよ、ワカメに何されるかわかんねえし」と手をひらひらさせると、「ワカメなぁー、マジで宇宙人すぎてやべえよな」と満場一致で意見が成立してしまったので、別れの言葉を残してある程度走ってから壁を思いきり蹴り上げた。がこんと大きな音がして表面が凹んだ気もするが見る暇などなかったし、益々腹が立ってやり切れない。蹴った右足が痛んだが、そんなものはお構いなしにスクールバッグを抱え直し、階段を降り始めた。数段飛ばして、中腹を過ぎたら飛べばいい。身体能力はそう簡単に鈍りはしない。
 そうやって階段も軽やかに降りて左に曲がると、暗がりにある奥の教室へと飛び込む。戸を勢い良く開けば、眼下に広がるのは蒲公英の色を溶かした光だった。
 上がる息を整えようと胸いっぱいになるまで空気を吸い込み、一秒止めて細く吐き出す。それを繰り返していると光の粒子が肺胞まで清浄してくれる。そして内側から溜まった熱がゆっくりと放出されていく。それでも汗ばむものだから窓の辺りまで歩み寄って窓を開くと、滞っていた空気が一気に流れ出す。シャツのボタンをひとつ外すと、土の香を引き連れた夏の空気が湿る肌を拭った。
 それでも一度煮えた腹だけは一向に冷めそうになく、スクールバッグを机の放り投げると光に満ちる美術室へと飛び込むようにして中央に立ち、ぐんと体を伸ばす。光溢れる美術室の陰間には当校の先輩達が置き去りにした作品が所狭しと並べられており、デッサン用の石膏像なども片隅に置かれていて、静寂を保ちながらも賑やかさが絶えなかった。
 箱庭という表現を耳にすることがあるが、此処がいわゆる箱庭ではないかと思うことがある。誰も立ち入ることが叶わない絶対領域。自分の思い込みに過ぎないのだろうが、此処に来ると粘土や絵の具の油っこい匂いすら酸素に馴染んで肺に取り込まれていく気がする。そうすると自分も此処で生きていけるような、そんな漠然とした歓喜に満ちるのだ。
 絵すら描けなかった自分が此処に立っている。デッサンもろくにできずに顧問には白い目で見られる日々であるが、特に苦痛にはならない。芸術家の名前とてシャガールやルノワールくらいしか覚えられないが、初めて絵を描くことが楽しいと思えているから、上達をなんとか試みることができたらいいではないか。我ながら向上心の塊だと頷きつつ、ふと辺りを見回した。

「先生、まだ来てないんだな」

 例の顧問の姿がない。寧ろいないことが多い人なので心配はしていない。美術部顧問は元より精神的に偏りのある男なので人とは一緒にいたがらないし、部員の自分をも毛嫌いしている節がある。それは構わないのだが、美術評価が二しかない自分を成長させてくれるのは彼しかいないので、どうしたって部室にいてもらわねば困る。今日は職員会議の日ではないので、恐らく何処かでサボっているのだろう。頭を掻き毟って席に着くと、ふとあるものがないことに気が付いた。
 椅子がない。顧問は美術室の傍らにボルドーのヴェルベット生地が張られた椅子を置いて日々愛用している。しかし差程豪華なものでもなく、日焼けして色褪せたり生地が解れていたり、木製のフレームの塗装が剥げていたりと粗末なものだった。
 それがないということは。椅子がガタリと揺れるのも構わずに立ち上がって教室の後ろへと回ると、そこには扉がある。くすんだ白塗り一色の扉を開けば、美術室とはうって変わって影が差すだけの小部屋へと繋がっていた。美術準備室――此処はいつだって埃臭い。整頓も清掃もろくにされていないし、顧問がそれを嫌がるので誰も手を付けられないでいる。物置小屋さながらの部屋を掻き分けるように進むと、画材が乱雑に置かれただけの隅へと行き着き、そこに探し人はいた。
 一八〇はある上背の体を綺麗に折り畳み、膝を抱えて顧問は眠っている。窮屈さを感じさせぬ穏やかさを表皮に晒して、素足を肘掛けへと乗せては胸を上下させていた。
 靴下や革靴は床にちらばっていて、大量の荷物と白くなるほどに降り積もった埃が溜まる準備室は清潔さの欠片もなくて、それでも彼は僅かな安息を貪っている。椅子の上だけがエデンだと言わんばかりに彼は目を覚まさない。固く閉じられた目蓋を撫でても微動だにせず、丸みを確かめるように指を下降させて縁を端から端へと滑らせても無反応だ。

「サボりですか、園先生」

 額を覆う髪を梳いて耳へと掛けて、直接呟いてやっても反応はない。すうすうと寝息ばかりが聞こえるだけだ。こうしたって梃子でも動きやしないことは数ヶ月ほどの付き合いで理解したので、厚い遮光カーテンを掴んで力いっぱいに開けると、そこからは夏の黄色い光が飛び込み、顧問は一瞬にして体を震わせた。

「う」

 彼の艶々とした黒髪が光に照らされて青光りする。深緑すら含んだ不思議な色合いは白光に混じり更に鮮やかさを増す。この時ばかりは土気色の肌も明るくなり、薄い目蓋がぴくりと動くと、微光でコーティングされた睫毛がゆっくりと上昇して見慣れたアーモンド型の瞳が姿を現す。
 宝石はダイヤモンドやルビーなどの一般的に有名な名称しか知らないが、彼の黒く濡れた瞳もそんな艶美さが込められている。僅かに血走る白目が寝足りなさを物語っており、うっすらと見えるくまがそれを助長させていた。

「おはようございます、園先生。部活の時間です」
「……何故起こした」
「だから部活なんですってば。ね、アンタも顧問なんだからしっかりしてくださいよ」

 園先生、と呼ばれたその人はあからさまに機嫌が悪いらしく、舌打ちをしてみせると前髪を掻き上げてすらりとした脚を降ろす。体躯を象る光の縁が眩しくて目を眇めると、さわさわと葉が囁いている。施錠を解かれぬ窓が開いているはずがないのだが、確かに木の葉がひそひそと唇を寄せ合っているような、そんな音が届いた。
 ――ああ、まだ『いる』のか。葉擦れの音を間近で耳にしていると、顧問は口元を覆って欠伸をしてゆっくりと立ち上がる。自分より幾分か背が高いために彼に見下ろされる形となるのだが、それにしたって彼は目付きが悪い。いつでも自分を見下したがって、無色の圧力でこちらを押し潰そうとする。
 彼は俺のことを不出来な生徒だと口癖のように言い触らす癖があった。何かに付けて雑用をさせたり、授業中に無理難題を押し付けることで恥を掻かせようとすることで、自分という生徒を不遇の環境に置いてそれを楽しんでいる。要は『青島燐』とは彼にとって体の良い玩具だ、第三者は思い込んでいる。

「……ねえ、先生。適当でいいから俺の話を聞いてくださいよ。ちょっとした愚痴です」
「面倒だから聞きたくない」
「嘘だね。先生はきっと聞いてくれるよ、だってアンタへの悪口を聞かされてさ、俺はすごく嫌な思いをしているんだ」

 そう、先程の友人らからの一声や、その前に腹を立てた件。あれは担任教師から聞かされた、自分を労る体で顧問を非難するだけの、なんとも面白くない話だった。これがウィットに富んだジョークであったなら表面上だけでも笑っていられたのに。
 園が偏屈なお陰で、美術部員は自分をおいて誰もいない。あまりに侘しい部であったが、そもそもここ数年は廃部扱いだったのだと、長いこと勤務する担任が話していた。
 なんでも園という美術教師は、生徒とはおろか教師達とも会話はしないわ愛想がないわと不評らしく、仲の良い者など見たことがないと上司から揶揄われるほどらしい。それでも整った面立ちは一部の女子や女性教師から人気はあるらしいが、それにしたって生気を感じさせぬ土気色の肌と、目の下に色濃く滲むくまは幽霊や死体を彷彿とさせる。髪が癖っ毛だから『ワカメ』、得体が知れないから『宇宙人』とあだ名を付けられるのは致し方ないことだ。
 だが許せないのは自分を可哀想な奴扱いをさせることにある。『お前も可哀想だなぁ、あんな奴に目を付けられて。今すぐバスケ部に転部しないか? お前が入部してくれるなら、すぐにでもレギュラーにしてやるぞ』だなんて同情の目を向けた振りをして、要は担任も園を煙たがっている。この件で担任のことが少し嫌いになった。それにコネでレギュラーに上がろうなんてプライドが許しはしないし。
 同級生も同類だ。同級生からしょっちゅう憐れみの目で見られるくらいであったし、先程だって。みんな理由を知らないから人を可哀想だと思える、可哀想と思うことで自分は優しい人間なのだと陶酔できる――なんて平和なのだろう。それはどうでもいい、最早どうでも。
 そんな愚痴をたった百文字ほどで纏めてみせたのだから褒めてほしいものだ。彼が褒めてくれるような器ではないと知りつつも、何やかんやで彼は読点まで聞き収めると、わざとらしく盛大に溜め息を吐いては革靴の踵で何度か床を鳴らしてみせた。

「くだらない。……ほら、私を起こしたからにはさっさとやるぞ。お前は愚図なんだから、少しは上達してみせろ」
「愚図? ははっ……うん、そうですね。だからもっと『丁寧』に教えてくださいよ」

 絵もダメ、彫刻も粘土細工もダメ。自分に才能の欠片もないから、みんなは園が虐めに掛かると勘違いする。どうして彼が自分を突き放すかも知らないで。いや、知らなくていい。知られてしまえば彼の『秘密』も暴かれてしまうのだし……。
 さわさわと木の葉が囀る。園は一瞬だけ眉を顰めたが、自分を置いてさっさと美術室へと移動してしまった。置き去りにされた椅子を抱えると、自分も彼の後を追った。
 彼の背中では今も葉擦れの音が鳴り止まないでいる。



 部活では初めに人体や静止物のデッサンから行う。授業でも行われているが、部活内では時間内に最低二つほどのデッサンをしてから顧問に提出することとなっている。此処に来て三ヶ月、今日は石膏像のデッサンをしている。先程は林檎を描き込んだが、制限時間が過ぎると林檎はモデルを辞めてしまい、今では顧問に齧られるだけの存在に戻ってしまった。
 しゃり、と赤い皮ごと齧られてクリーム色の果肉が覗く。離れた場所とはいえ、甘酸っぱい香りが此処まで漂ってきそうなのだが、しかし顧問はちっとも美味しそうに食そうとはしない。食べるということは嫌いではないのだろうが、作業的に口に運ぶものだから周りが宇宙人呼ばわりするのも何となく解る気がする。
 首だけの女性はどの角度を以てしても微笑んでおり、なるべく本物に近付けるようにとクロッキー帳を黒く染めていく。鉛筆での濃淡の付け方もようやく理解し始め、白しかないからこそ、如何に白を表現するか、そのための影を描き込み、輪郭を整えては光に当たる部分を消しゴムで軽く落とした。

「……時間だ。見せてみろ」
「はい。多分それなりにいい感じにいきましたよ」

 半分ほど齧り付いた林檎をごみ箱に放り投げると、差し出したクロッキー帳へと視線を降ろす。が、それも時間にして数秒で閉じられて返却された。表紙や紙の端が果汁のシミを作っていたが、この際見なかったことにした。

「何だあれは」
「石膏像ですね」
「………………何をどうしたら妙ちくりんになる。何を見ていた」

 溜め息が痛い。実は時間の半分ほどは林檎を咀嚼するあなたを見ていました、なんて流石に言えない。

「石膏像、ですねぇ」
「……嘘だな。お前、私のことを見てただろ。駄目だ駄目だ、やり直せ」

 なんだよ、普段は部室にも顔を見せないのに。それに美術が好きじゃないことだって知っている。しかし愚痴を零したところで彼の言っていることは最もだ。ふやけたクロッキー帳を開いて石膏像と見比べていると、椅子から身を乗り出した顧問がシャツのポケットから鉛筆を取り出し、丸い芯で自分のデッサンへと筆を加えていった。

「青島、お前には観察力が足りない。私が普段から言っていることを思い出せ。観察しろ、空間を捉えろ、そして光源と影の相互性を見い出せ。この私を動かしたからには、それくらいこなしてみせろ」

 輪郭からのダメ出しから始まり、目の感覚や鼻の位置、顎から首の翳りと、修正はほぼ全体に行き渡った。彼が手を加えたお陰で自分のものではなくなってしまったが、教師をやっているだけあって修正は的確だった。パーツの位置付けの見極め方、陰影の捉え方と説明はあまりに簡素であったが、直接描き込むことでイメージはしやすい。
 ――デッサンは美術・芸術において全ての基礎となる。下手でも良いから取り敢えず数をこなしてみろ。これが彼の口癖でもあるせいか、彼は呼吸すら忘れて物静かに鉛筆が紙面をカリカリと走れば走るほど、彼の小指の側面はどんどん鉛で黒く塗りたくられていく。自分の小指も汚れて、クロッキー帳の中の首像は益々存在感を増していった。
 そんな彼を横目で見ていると、美術が好きじゃないなんて詭弁のように感じる。だって目の前にいる彼は一心不乱に黒鉛を減らして紙に擦り付けているのだ。泥遊びに夢中になってる子どもと何が違うというのだろう。
 黒くなっていくクロッキー帳を前にあれこれと問うたり返答を貰っていると、ふと彼の目が見開き、鉛筆をポケットへとしまい込んだ。こめかみから浮き出た汗の珠が零れて襟へと染み込んで、灰色の染みへと変化していく。暑いな、暑いかもしれない。忍び寄る残熱すら他人事なので、彼の狼狽える様を見逃すことなく刻み込んだ。

「……余計なことを言い過ぎた。後はお前次第だ。もう一つ何か描いてみろ」
「それもそうなんですけど、俺は下手でいいから『アレ』を完成させたいんですよ。時間がないんです」
「…………なんでそこまで描きたがる」
「うーん……好奇心、じゃないですかね」

 顧問は『アレ』に対して好意的ではない。そもそも彼には『アレ』に興味があるかも怪しいものだったし、彼が好きなものも何一つ知らない中で判断するのは危なっかしいではないか。しかし自分は『アレ』にとても興味があった。『アレ』は良くないものなのは確かなので、早々に片付けてしまわねばならないのだが、どうしても形にしたいという不埒な願望が顔を出してしまったので、彼を説得する他なかった。
 技術なんてない、しかし行き着きたい場所は彼の言う基礎を踏襲することと何の違いもない。それなら問題はないだろう、それに急がねば困るのは彼自身なのだし。

「だから、さ」

 どうせ助けてやれるのは自分しかいないのだし。

「園先生、貴方を描いても良いですか」

 さわさわと揺れたのは件の木の葉か、それとも煤けたカーテンか。来訪した突風がクロッキー帳を捲り、彼の髪を攫っていく。緩やかに波打つ髪は逃げることなく彼の元で留まり、初夏の白光は彼の面立ちを一層はっきりと映し出していく。
 ああ、綺麗な人だ。彫刻がそのまま動いているような美しい人。歪められる唇も眉間に刻まれる皺も、何とも彼らしいではないか。

「……私が描くなと言っても描くつもりだろう」

 吐き捨てた言葉から生まれるものがあるとしたら、自分が初めて得た恍惚が彼の嫌悪で育っていく。被虐嗜好があるのかと言われたら半分当たりで半分外れ。俺を甚振らなければ怖いんだ、だからそうしてしまうのだ。ならば自分はとことん彼に付き合うまで、そう、自分が付き合ってもらうなら条件は同等でなければ。
 湿った襟元に手を伸ばすと、ぱしんと小気味良い音とともに手が弾かれて甲がほのかに赤くなる。じんと痺れる手を尚も襟に這わせてうなじ側から引いてやると、細められた瞳が斜陽の残光を含んで鋭利に突き刺そうとしてくるのだ。
 自然の優しさすら凶器に変えてしまう彼は一体何でできているのだろう。そこらの大人と違うものでできているに違いない。マザーグースの内容はあやふやだったが、一説にそんなものがなかっただろうか。男の子は何とかでできているとか、そんなものが。

「物好きな奴」
「先にやったのは先生だよ」

 二つほどボタンを外されていれば、幾ら襟を引こうとも首が圧迫されることはない。絞めることが目的ではない、要は促すだけ。それに気付いた彼は三つ目のボタンに手を掛けると一つ、また一つとシャツのボタンを外していく。次第に曝け出されていく肌は何処までも土の色をしており、シャツの影になったところはさながら腐葉土でできているのだろう。豊かな土壌で植物が育まれていくのなら、この表現はきっと間違いではない。
 全てのシャツが外された頃には六つに割れた腹筋がお目見えし、無駄な肉が何処にも見当たらない。しかし体格が良いというわけではなく、程良く鍛えられてはいるものの、肉付きが随分と薄いので肩なんかは頼りなく見える。もしかしたら自分の方が鍛えられているかもしれないと思わせるくらいには。

「恥ずかしくないの」
「私たちなんて皮に包まれただけの肉塊でしかない。何故そこに恥じらいを持つ必要がある?」

 顧問の感性は謎のままだ。首を傾げながらシャツと肌のあわいを見詰めていると、彼はゆっくりと立ち上がって革靴や靴下を順に脱ぎ散らかしていく。そしてスラックスに手を掛けると下着まで床に落としてみせた。彼も自分も動揺しない。これが初めてではないし、同じ造形の生き物であれば違和感も発生しない。それに彼が自分を、または俺を肉塊と宣うのであれば、裸体には何の意味もないということだ。一枚皮に包まれたソーセージと同類。多分、そういうこと。
 性器すら晒す形で彼は眉一つ動かさず、最後にYシャツを肩から滑らせると、スローモーションのように脱いだ衣類へと折り重なった。袖が落ちたと同時だろうか、ずっと耳にしていたさざめきが押し寄せる波のように近付いては遠のき、また近付いていた。

「……さっさと描いてしまえ。『コレ』も随分と成長したらしい」
「そうみたいですね。今日にはきっとできますから、だからもう少しだけ我慢してくださいよ」

 彼から机と椅子をなるべく離し、棚に寄せてあった一色を取り出して設置する。新品のイーゼルと画用紙を貼ったカルトンを黙々と設置して椅子に腰掛けると、彼は唐突にカーテンを閉めて、描きかけのデッサンと全く同じ構図で立ち尽くしてみせた。モデルは優秀だ、顔や手、足の角度も数日前の完全コピーというように仕上げてしまうのだから。いや、一つだけ足りない。今日は誰に会いに来たと思っているんだ。
 ――天使に会いに来たんだ。ほら、天使は今日も此処に降り立った。自分に描かれるだけの、そのためだけの天使。
 鉛筆を手にした途端、それが合図のように彼の背後からのさざめきは喧しさを増した。さわさわ、さわさわ、盛大なホワイトノイズと化した騒音は彼の顔を歪め、軈ては小さく唸らせる要因ともなる。

「っう、あ」

 ぶつん、と何かが張り裂ける音がした。熱々のウインナーを齧ると皮が破れて弾力のある肉から肉汁が溢れ出す、あの時の音に酷似している。しかし残念ながら破れたのは美味しい食べ物でもなく、まさに彼の背中の皮膚が裂けた音だった。
 それでも彼は姿勢を崩さない。頑なに背を真っ直ぐに伸ばしていたが、脂汗が額に滲んでいるのは見逃さなかった。それを良いことに『アレ』は姿を表す。さわさわと歌いながら、ゆっくりと。
 アーモンド型で大きな瞳と、程良い高さの鼻梁、少しばかり薄く血色の悪い唇、それから適度に鍛えられた肉体と。私が一番相応しいと言わんばかりに現れたのは蔦状の樹木と生い茂る葉、そして彼を彩るために花が咲き乱れた。小ぶりな花が蕾から次々と開花しており、始めは白かった花弁も末端に掛けて薄紫のグラデーションを生み出す。そして蔓は彼の背中から横へ横へと這い出していた。
 花は恐らく肩甲骨から背骨に掛けた箇所を起点としている。どうやら脊椎の中央に根を張り、関節から皮膚を突き破って咲いているらしい。下方部はそれ程でもないが、肩甲骨の下部から細枝が伸びており、肩にまでそれが及ぶ。絡まる蔓はアーチ状に伸び、傍から見たら翼のように見えた。

「先生……また天使になっちゃったね」

 それが天使たる所以。天使は美術室に住み着いていた。自分が描きたいという作品の第一号こそが彼であり、彼を蝕む花――蔓花茄子であった。
 茄子だなんて一見すれば彼が咲かせるには凡庸過ぎるし、語感も洒落たものとは言い難い。しかし枝のか細さといい、緑の茂り具合といい、花が織り成す色彩の彩美さときたら、花が彼を選択したのは間違いないということだ。

「はっ……天使なんかいるわけないだろう。物好きめ」
「先生ほどじゃないよ。俺は体に花とか生やす趣味はないんで」

 私だって。ぽそりと呟く彼に呼応するように花が揺れた。
 花のように美しい人だった。みんなが彼を人外呼ばわりするのなら心置きなく同意しよう。しかし彼は天使や何かの崇高な生き物のようにすら思えたのだ。
 そんな彼の細い指先が花を手折った光景は一生忘れない。花のような美しいものを心から嫌うような人だったから、茎の真ん中でぽきりと折っては柔らかな土の上へと乗せ、一本一本をきっちりと並べてみせる。花の葬列でもするのかと思いきや、彼は磨きたての革靴で踏み躙るだけで、土を掛けて葬るでもなく立ち去った。そんな事が随分前にあったなぁと悠長に思い出しながら丸くなった鉛筆を削る。
 鉛筆削りなんて役に立たなくて、カッターで削った方が好みの細さに調節ができる。はらはらと削りカスが膝を汚したが、それもお構いなしにまた一本と削る、削る、削る。
 近頃あちこちの花壇が荒らされたのが彼の仕業だなんて誰も知らない。かと言って自分は誰かに言い触らす趣味もない。おあいこだからだ、自分が隠れて煙草を吸っていても彼が咎めなかったように、自分も彼を咎めない。一方的な共犯、無関心の共有。自分は彼の内面に天使性を求めたことなど一切ない。

「でも……俺にとっては天使か何かだよ、先生は」
「何を馬鹿なことを抜かすんだ」
「ごめんなさい。でも半分嘘で、半分は本当なんですよ」
「ほう、なら何だと言うんだ」
「さあね。何が良いかな」

 相手が天使だろうが何だろうが結構だ、そもそも善良な行いをしてみせるのが天使だとは思っちゃいない。しかし時間がない。蔓花茄子の成長は思いの外早く、本来は見当たらぬ色がちらほらと点在しているからだ。
 蔓花茄子に赤い花なんて咲きはしない、通常は素直に水を吸って育った花ならこんな色など付けやしないのだ。つまり花は彼の血液を養分として咲いている。それが一週間以上続いており、ただでさえ血色の悪い彼の顔は蒼白混じりになっていた。
 それでも彼は頭のてっぺんを天井から吊るされたようにして立っている。引き締まった肉体を薄明かりに晒し、窓辺へと脚を揃えて立ってみせた。

「……本当に、綺麗だ」

 これが天使かと洩らすと、彼は鳥が囀るかのように舌打ちしてみせた。相手は余裕さを、自分は呑気さを全面に押し出していたが、時間が二人の何かを蝕んでいることに変わりはない。秒針のない時計が二人の、特に彼の時間を追い詰める。恍惚している暇などない、鉛筆を持つと黒鉛を紙に押し付けて線を加え始めた。
 彼も花も昨日と同じ表情、同じ配置でそこに佇んでいて、ある程度光が抑えたカーテンが彼の陰影すら前日と変わりなく差し込む。対象が何であってもパースや陰影が支離滅裂な自分は、確実に彼の輪郭を捉えていた。それが客観的であるか、独り善がりな主観であるかはどうでもいい、これは意地でもある。芸術の何たるかを知らぬ素人が彼を描きたいがための儀式でもあった。

「……青島、忘れるな。着色が命を宿すと思ったら大間違いだ。描き方ひとつで生命が誕生することもあれば、簡単に殺すことだってできる」
「目と息、でしょう。呼吸が止まって目の光が潰えた時に命が終わる」
「お前は目も呼吸も見ちゃいない。だから上達しないんだ」

 最早技術的な話題ではない。これは彼なりの哲学なのだと思う。哲学者の名前もろくに覚えられないのだから、十六の若造が哲学とは、だなんて出だしを使うには背伸びをした女の子の赤リップよりも似合わないのかもしれない。しかし彼の言う命の定義は自分の心にすとんと落ちるのだ。
 彼がもしかしたら死に至るから、だろうか。蔓花茄子はすっかり満開だ。咲き始めの白や茄子独特の薄青、そして枯れる手前の花は血液を含んで赤銅色に変色している。色は疎らであったが、色の変動が心を踊らせる。命の移ろいを体現した彼は不調すら表情には出さず、やはり微動だにしない。彼をそっくり真似たマネキンでも立っているのではないかと疑いたくなるほどにズレを生じさせない。少し気味が悪くもあった。
 彼の生命は何処にあるのだろう、目にあるのだとしたら、黒曜石のような澄んだ黒が彼の生命の根源なのかもしれない。形良い瞳に少々窪んだ目蓋、所々引き攣った皮膚、歪みない骨格。正しい空間の捉え方を、美しいパーツの羅列を。紙上の彼を生かすも殺すも自分次第。
 鉛筆はどう足掻いても一色でしかない。色がない世界でどうしたら血の巡りを表現できるのだろう。彼の翳り始める目元を強調するように影を塗り足していくと、彼の肌がパールにまみれたようにてらりと光り出していた。じとりと纏う汗が彼に光沢を与えているらしい。淡く肌を塗っては消しゴムで削り、また塗り重ねるが、果たしてこれが正しい技法なのだろうか。問おうにも彼が無言で制するものだから続行するしかなかった。
 瞳に深層をと、ぐりぐりと黒目を塗り潰していく。謂わば清澄な混沌でもある。最小の混沌を宿しつつも彼は光とも共に在り、影にも交わっていく。不可思議だ、同じ人間だというのにどうして彼に魅入られてしまうのか。本当なら彼のような人間は嫌いだ。だが嫌いを上回る何かが『あの日』から芽を出してしまった、だからのめり込むしかない。心の赴くままに求めるしかなかった。

「先生、きつい?」
「これくらい何てことはない」
「…………また、俺が取ればいいんですよね」
「解っているなら聞くな」

 取れば、と言い出した辺りから木の葉がさわりざわつき始める。入学してから三ヶ月ほど、こうした意志を持つ何かを目撃したことが何度かある。自分はそういったものを便宜上『寄生』と呼んだ。しかし『愛される』とも呼ぶことがある。
 彼らは顧問に取り憑いたところでただ生えてくるだけ。彼の命を蝕みはするが、彼の輪郭も容姿を決して脅かすことなく、寧ろ彼を際立たせるようにして増殖する。今回の蔓花茄子もそう。初めて目の当たりにした荊だって。――そんなことを回想しているうちに無意識に手が止まってしまった。天使の羽が三割ほど未完成なまま、彼の像に命が籠らぬままに、どうしても鉛筆を動かすことができなかった。

「青島」
「先生、俺ね」

 『あの日』出逢わなければ、あんな会い方をしなければ、きっと言葉も視線も交わさず終わっていたのだろう。貴方の髪の毛を切り落とした感触が手にこびり付いて離れやしない。助けなければ、と思った。自分が触れなければという使命感に苛まれた。そうしなければ荊に絡まれた彼は死んでしまうと危惧したから。
 今は襟足が二センチほど伸びてはきたが、当時の彼の髪は女性のように柔らかくていい匂いがして、高く結わえても肩甲骨を覆うくらいの長さがあった。出逢うまでは男のロングヘアは鬱陶しいとすら思っていたのに、鋏で切り落とした際のぶつぶつと切れる感触が、彼の体から乖離する美しい髪が、自分が彼の何かを殺してしまったと認識させた。
 手に染み付いた罪悪感はすっかり形を変えてしまって、今や彼の隣にいたいという不明瞭な願望に変貌した。最善とは思えなかった、それでも。

「……この美術部がね、好きなんですよ」

 どうしてもあの人の隣にいたいと思った、いや、いなければいけなかった。
 美術部が復活したのは何故だと思う? 自分がどうしても粘ったからだ。どうにかして美術部に入部したかった自分と、どうしても美術部をやりたくなかった彼との攻防戦に勝ったのは自分で、園が折れただけのこと。誰も知らなくて良い、知られない方が邪魔されなくて済む。そのためだけにバスケ部の勧誘だって蹴ったのだから。
 しかし光の差さぬ窓際で彼は石膏像のように微動だにしなかった。好意とも取れる言葉を投げたところで彼は腕を振り下ろして会話を叩くことすらしてくれない。寧ろ聞いていたかすら怪しく、カルトン越しに彼を凝視したが彼の首筋を舐めることすら叶いやしない。アーモンドの瞳を細めた先では薄光が潰れて散って、また彼の虹彩に戻るだけだった。

「先ずは鉛筆を持て、青島。そして描け、描きながら聞け」

 甘言は彼には届かなかった。退屈そうに頬を掻きながら、垂れ下がる前髪を指に絡めては手遊びを始めてしまった。どうせその部位は描き終わったのだろうと言わんばかりに。勿論手や腕は描写し終わり、陰影もしっかりと描き込んだ後だ、彼の目論見は正確過ぎる。
 逆光が彼の肉体を縁取り、光の輪郭を作り出している。白い窓辺と翳る彼の肉体の対比に思わず息を呑みつつ、筆を細部へと走らせた。生命を宿すなら瞳に、唇に。決して厚くはなく、血も通っていないような褐色の唇を再現するとしたらどうしたら良いのだろう。技術のない自分がやれることは描き込むことだけだった。鉛筆が彼を模した天使像を転写したがり、ぼこぼことした紙面へと自身を擦り付ける。鉛筆の先は丸まり減り続ける一方だというのに、天使たる偶像に行き着くにはまだ何もかもが足りていない。
 此処には互いの息遣いすら届かず、もしかすれば心音すら掻き消されるような静寂ばかりがキンと鼓膜を揺さぶるばかりだった。

「お前は私を天使だと、そうほざいたな」
「まあ、そうですね。実物は見たことがないので想像での話ですけど」
「なら私が化け物に見えることはないのか」
「ありますよ。例えば今とか」

 率直過ぎただろうか。しかし顧問の顔は能面のようにぴくりとも動きやしない。表情筋が石膏にでもなったのだろうか、だがこの人は元より表情に乏しい人間であった。
 彼が問うたから化け物だと答えただけでもあったし、彼が自分自身のことを問うたということは、少なからず自身を化け物と疑うことがあるのだろうと踏んだ。そうなれば認めてやるのが義理であろうし、現に彼は化け物じみていると言った方が、よりそれらしかったのだ。
 人を惹き付ける美貌を兼ね備えながらも、男は他を一切寄せ付けない。若くもなく、しかし年老いているわけでもない彼を孤高の花を讃えた人もいたが、きっと似て非なるものだ。先人たちは天使が人に優しいだなんて夢見がち過ぎる。美しさで誘惑して命を奪う化け物の逸話が腐るほどあるのだから、彼がそんな類だと明かされても自分はすんなりと認めてしまうことだろう。それに何より、彼の素性が何一つ明らかにされていないのだし、訝しんで当然のことだ。

「正直だな。だが私が天使だろうが化け物だろうが、何でも構わない。そもそも二つに共通する点は異形であることだからな」

 ああ、それで良かったんだ。軽く頷きながら彼の背を蝕む翼へと着手しようとしたが、芯が潰れていたので再度カッターで芯を削る。鉛筆がカリカリと削れると木屑が膝を汚し、指先が鉛で黒ずんでいく。これは丁度いいと、薄く纏う筋肉の隆起に鉛粉を乗せて指で叩き付けた。そして光が当たるところは練り消しゴムで軽く抑え、また鉛筆を削る。
 彼の肩から本人の身長ほどに伸び広がった蔦の羽は空へ舞うことはない。それどころか先日より成長を見せている。人目につかぬように日頃息を潜めながら、彼と自分がふたりきりになると見せ付けのように葉を広げて花を付ける。別に羨ましくもないというのに。
 彼は鬱陶しげに花を凝視し、毟りたそうに人差し指で小突いてみせていたが、その仕草すら自分の創作意欲を掻き立てた。だがそろそろ描き上げなければ、蔓の自重で潰されてしまうかもしれないし、彼の血や養分が吸い尽くされても困る。芯を尖らせると、愛らしくも忌々しい花を描き込み始めた。

「人とは何だ、人と人あらざる者との違いは? 誰も正しくはないし間違いではない。だから私は花を背負ったただの人間であるし、しかし人はこうはなるまい」
「矛盾してるよ先生。ならアンタはなんだって言うんです」

 少なくとも花を背負った人間なんぞ貴方くらいしかいないだろうよ、そうごちたくもなる。
 ツンと尖った花を一つ一つ縁どっていたが、考えてみれば花を主体にしたいわけでもなかったので、蔓の翼を生み出してからぽつぽつと消しゴムで白く抜き、形を整える方が早かったし、花らしい柔和な形へと変化した。白いままでいてくれたら良かったのに、妥協しても青紫で良かったのに、取り憑く花はなんて我儘なのだろう。
 葉を描き込んで、蔓も色濃く塗り潰して、光は抜いて。そうして彼という天使像は尤もらしい形に仕上がってきたが、彼がどうこう評価する以前に、どうも美し過ぎる気がした。何がいけないかも明らかになっていないのにすぐ彼に問うのも癪であったし、彼と自分の意図を半分ずつ汲むとしたら、これは本気のお遊びでしかない。鉛筆の頭で頬をつつきながら考えあぐねていると、彼も長らく思考していたのか固く閉じた唇を緩めて自分の腹を撫で始めた。
 指先は割れた隙間を撫でていく。下降した先には彼の外見的な性を位置付ける象徴があり、それを覆うようにして大きな手が滑っていった。枝みたいですぐに折れてしまいそうな、そんな指。

「お前がそう思えば私はそう変化するというだけだ。人なんて随分と不定形な生き物だからな」
「よく解らないや」
「……すぐに思考停止する奴には一生伝わらないだろうな」

 先生が人なら、または人でないなら。先生が天使なら、または化け物なら。人ってなんだ、異形ってなんだ、自分たちは皮も型もなければスライムみたいにだらりと流れて紛れていくだけの虚しい一個体に過ぎない、ということなのだろうか。園の話は難解だ。
(ああ、でももし、彼の形が崩れたとしたら)
 それならば精確に緻密に彼を描写するなんて実は誤りなのでは。彼が彼という型に流し込まれて固められてラッピングされただけの肉と言うなら、精肉店にずらりと並ぶ切り落としの肉と変わりないと言うなら、デッサンの意味なんて、あるのだろうか。
(いや、振り回されるのは良くない。あの人は揶揄ってるだけなんだ)
 モデルへと目を配った瞬間、彼が人の形ではなく何とも形容し難い流動を描いた気がした。どくりと心臓が高鳴り、速くなる脈に息を詰まらせながらカルトンから隠れるように身を縮こませたが、片目だけで覗き見た彼はなんてことはない(植物の羽は置いておき)ただの人がそこに佇むだけだった。
 酸素が滞る。軽く眩暈がして、カルトンに写された彼の虚像を撫でると、紙面に描かれる像が次第に輪郭を崩し、根底に渦巻く汚泥のようにおどろおどろしく変化した。ああ、折角描いたのに。しかし不思議と輪郭を暈した方が彼らしく感じるのだから、彼の発する言葉は恐ろしい。息のように呪いを吐き出すだなんて、やはりみんなの言うように顧問は宇宙からやって来た異星人なのだろうか。

「……でもさ、形がなくなっても先生は先生だ。自分を証明するものがなかったとしてもそうじゃないの、そういうことじゃないの。どんな形でもアンタは綺麗な人なんじゃないの」

 こちらまで汗が滲む。若緑の熱気がそうさせたのではないということは明白で、シャツを掴んで胸の辺りに空気を流し込んだが一向に引きそうにない。握っている鉛筆は意志とは裏腹に彼の顔面を黒く塗り潰しており、止めなければと左手で制止したものの、彼の体は糜爛とした肉が輪郭から垂れ下がり始めて益々頭が痛んだ。
 完成に近付いているのか遠のいているのかさっぱりだ。小指の側面は真っ黒で、画用紙に擦れるせいで絵が更に澱んでいく。もうどうしようもなかった。

「何とか言ってよ先生」

 なんだかもう疲れてしまったし、デッサンにも飽きてしまった。つきんと刺すような痛みに耐えながら右手を降ろすと、彼はぺたりと一歩踏み出している。ギリシャ型の形良い足と骨が浮き出た甲がこちらに近付いて、自分との間合いを詰めていく。
 軈て自分の真横に並ぶと、葉は漣の優しさを忘れてざわざわと犇めき合っている。油断すれば蔓がこちらに飛び掛って襲ってくるのではないか。自分への敵意が痛々しく伝わっており、肌がびりびりと痺れてくる。全然可愛くないじゃないか。

「綺麗なもの、美しいもの、私はそんなものなんて嫌いだよ」

 薄い唇が間近にあって、中央の膨らみの辺りで縦に割れ目が入っている。こんな時期でも乾燥して切れるものなのだろうか。
 緩くうねる前髪を撫でたくて彼の頬へと触れてみたが、表面はかさかさと引っ掛かりが悪いし、その上皮脂も浮いていて触り心地は良いとは言えなかった。それでも触れてしまうのは表皮の下の薄い肉がほのかに温かいからか。
 取り払わないんだね、この手を。垂れ下がる髪を人差し指に絡めてみれば、あの日と変わらぬ手触りが巻き付いていく。花の甘い香り、森林の爽やかな匂い、艶々とした光沢、瞳のように昏い色。茂みに手を差し込んでしまえば、二度と帰って来れないような不安さを握り潰して彼の前髪を梳いた。眇められる瞳を覆う睫毛がしなやかで、ひと匙の雨粒を零してやりたくもなる。
 そんな美しいものばかりを鏤めておきながら、彼はにこりともせずに手の甲に指を這わせ、短く切り揃えられた爪で引っ掻いていった。下降する指の後ろを赤い線が着いていき、後から訪れるひりついた痛みにこちらが笑うしかない。

「青島。私は花も他のも何だって嫌いだし、少女みたいな顔付きをしたお前はもっと嫌いだ。一刻も早く此処から消えてくれとすら願うんだ」

 傷付いてくれたらいいのに。そんな意志を孕んだ唇が片側だけ器用に持ち上がる。笑みというには狡猾で鋭利で、割れた硝子片のようにぎらぎらしている。そんな彼に同調するように蔓は更に増殖して彼の翼は更に立派なものへと成長していった。

「無理だよ」

 上げられたままの唇は耐えきれず、ぷつりと割れ目が裂ける。そこから浮かぶ赤い珠を欲して蔓が我もと求めて雫を吸い上げた。そこで口角は下がったが、彼の顔色は更に蒼さが浮き彫りとなっている。そろそろ彼の身が危うい頃だろうか。

「俺がいなくなる時、それは先生が寄生に支配される時だ」

 ほら、今みたいに。彼の内で眠ったり気紛れに顔を出していた蔓花茄子は隠れることを忘れてしまった。彼に根付き、吸収し、彼の至る全てを愛しに掛かっている。
 淡くも強靭な生命を生やした背。腕を回して背骨をなぞると、ぼこぼとこ妙に隆起しており、脊椎だけには留まらぬ根があちこちに張り巡らされていることを知った。内臓すら既に冒されているのだろうか、彼の呼吸が不規則で、指の末端なんて紫がかっている。それに反して茄子の花は自分の色を捨ててまで鮮やかな朱殷で自らを着飾っていた。白、或いは薄紫の色彩は目に付くだけで残りはほんの僅か。蔓花茄子が一斉に赤い花をつけた頃、彼の命は花のものになってしまうのだろうか。
 多分それも良いのだ、美しい彼にはそんな顛末もお似合いだろう。歪な天使は全身を蔦に奪われて人型の花壇にでもなってしまうのだろうし、彼の造形美ならそういったオブジェになれば人々が振り向き、賞賛して手を叩くことだろう。それも良い、何でも良い。彼がどんな終わりを迎えたって、綺麗なことに違いないのだし。
 そもそも彼の人格や魂に寄り添いたくて傍にいるのではないし、そこに理由があるとしたらもっと破綻した破壊的なものだろうし。だから助ける義理も本来はないのだけど。

(この人に関わってから、何もかもおかしくなってしまったなぁ)

 それでも一切が明らかにならないままで彼を喪うわけにもいかない。この好奇心が、無意識に支配される感触が払拭できないまま終わるのは、どうしても。根底に眠る罪の意識がいつか眠るまでは彼の傍にいなければならないのだ。
 彼の花を数輪ほど摘んでみた。星の形をした花が彼いていたと思えば好きになれそうであったし、どの花よりも綺麗だろう。鉄の臭いが漂ってきそうなそれをカルトンに押し付けて下へとなすり付けると、赤く錆び付いた色が画用紙の中の彼の顔も痩躯も一気に汚していった。滴る赤はすぐに酸化してセピアの風合いを醸し出し、描き込んだ彼の顔も肉体も怪しげなる塊と化してしまったが、今はこれが正しい気がした。怒られたって否定されたって、どうしたってこの醜美さが彼そのものだと信じたくて。

「できたよ、先生」
「……………………」
「見てくれないんですか」

 膨張する寄生の重みに耐えられなくなったのか、膝が震えてこちらへと倒れ込んできたが、すんでのところで受け止めたために裸体は床に叩き付けられずに済んだ。
 辛うじて生きている体の下では現在進行形で根が張り巡らされおり、抱き留めた背中がぞわぞわと蠢いている。汗でぬるつく背中を抱えながら蔓を摘んでやると、接触を嫌がるように葉が手を叩き付けてくるが、彼に引っ掻かれるよりは大して痛くもない。
 固く閉じられた目蓋がうっすらと開き、拙いながらも形となった作品と対面することとなった。彼は天使像すら駄目だと突き放すのだろう、その時は画用紙を切り裂いてくれたらいい。そう思っていたのだが。
 彼の目がぱちりと開き、呼吸すら忘れて作品を凝視していた。蔓花茄子ですら息を潜めたために教室内は静謐に包まれており、唾を飲み込めばいやでも反響しそうだ。その中で彼は画用紙へと触れて花の色、または血液で縦に割れた自画像を撫でるや否や、安堵の溜め息を洩らしていた。
 眉が緩やかに垂れ下がり、彼の汗を吹き込む風が拭っていく。緑の風が彼の髪も葉も花も揺らすものだから、彼の何かを揺らしたくて手を取ると、手首や手の甲にまで根は張り巡らされていた。
 右手が密やかに怯えている。空虚を掴む隙間を奪うように指で絡めてみた。蔦のように固く、固く握ると柔らかかった面立ちは一瞬にして硬直し、蔓や葉が彼の顔を覆い隠してしまった。

「先生聞かせてよ、何で綺麗なものが嫌い? 花は枯れると汚くなるから?」
「お前のような子どもに言ってたまるか……」

 人の皮膚の下を血管が巡るように根は広がる。もしかしたら血管に潜り込んでいるのかもしれない。滅多に触れてこない彼が肩に額を預けて項垂れている。濡れたような赤が咲き乱れて、吹き込む風ですら錆臭い臭いを逃してはくれなかった。
 ぜえぜえと肩で息をする彼は何か言いたそうに顎を動かしていたが、肩越しでは何も伝わりやしない。もうすぐ彼は花へと零落してしまう。

「なら、これだけ」

 彼の髪を掴んで持ち上げると、無抵抗のままに頭はぶら下がり、虚ろに嵌め込まれた目玉が疎ましげに自分を突き刺すではないか。ああ、いつもの彼だ。今度は自分が安堵する番だった。

「先生、嫌いな花になる気分は如何ですか」

 死と支配に呼応する。花は媚びるように彼にまとわりついたが、それよりも振り払いたかったのはこちらの手で、憎悪がたっぷりと込められた瞳が自分に向けられた途端に手に激痛が走り、彼の手よりも先に蔓が手を弾いていた。

「っ………………最悪だ!!」

 落下する。彼の体を支えるものがなくなり、スローモーションで彼は膝から崩れ落ちていく。
 意識も体もぷつんと糸が切れたようにして彼の体は床へと倒れ込んだ。蔓状の細枝は緩衝材にもなったが、ここぞとばかりに彼の肌を雁字搦めにしており、きつくきつく締め上げていく。
 今日のやつは相当厄介かもしれない。面倒臭さとこれから目の当たりにするであろう赤色に頭痛を覚えた。彼の側を離れて棚を漁ると、引き出しには工具が詰め込まれており、そから枝切り鋏とペンチを取り出すと、彼の元へ戻って脇の下へと手を差し込んで抱え上げた。
 ほら、羨ましいでしょう。私が彼を奪うのよ。花はそう言いたげに薄紫の花を赤く染め上げていく。これじゃあハートの女王様に媚びへつらってるみたいじゃないか。蔓花茄子は赤い花など付けないと彼女たちも思い知れば良いのに。背中に腕を回して蔓をひと房掴むと、花の命乞いすら無視して鋏で切り落とした。
 ――しゃきん。凍り付いた切断音が緑の羽や固い骨格を削ぎ落とす。独占したがった花は彼の血を断たれ、蔓の翼の先端で酸化してはどす黒く丸まり、ゆっくりと墜落した。体から分離された寄生は二度と宿主の元へと還ることはできない。急げや急げと彼を蝕む蔓を掴んでは切り落とす、掴んでは切り落とす、淡々とした作業を幾度となく繰り返した。

「でも勿体ないなぁ、これがなくなったら先生は天使じゃなくなるんだろ?」

 意識を放棄した彼が応えられるはずもない。だが返事なんて端から期待していなかった。自分とて彼を永遠の天使として祀るつもりがないし、飽きというのは必ず訪れる。天使なんていうありふれた造形美は刹那的に楽しむだけで充分なのだろう。
 手がひりつくのを感じながらも蔓花茄子を毟り取る、彼をずっと抱えながら。抱擁だなんてロマンスはふたりの間で成立はしない。天使はこれから死ぬのだし、此処にあるのは現実だけなのだから、あるものだけを食って生きていかねばならないのは世界共通だ。彼の一部と化していた花を切り落とすことに罪悪感なんて一ミリもなかった。ただ背中にしがみつく無意識さにこめかみが痛くなっただけ。体温が遠い腕が少し怖いだけ。

「まあいいや。天使がいなくなったら次は……」

 短くなった彼の髪を撫でても、彼は唸りも身動ぎもしないままだった。やっと伸び始めた髪の毛が以前の長さを取り戻すのはいつのことになるのやら。贖罪なんて解らない、髪は勝手に伸びる、それでもこの人が一度だけ覗かせた笑みすら自分が切り落とした気になるのだ。
 ――しゃきん、しゃきん。蔓はどんどん切り落とされる。彼の翼は空を羽撃くことなく墜落するばかりだ。蔓を撫でれば神経が通っているかのように花が歌い出す。いや、助けを乞うているのかもしれない。葉をなぞれば羽のように柔らかく指紋を引っ掻く。そして花にくちづければ蔦がさわさわと揺れて彼の肩を這った。せめてもの餞別をともう一度だけ唇を落とし、無情に切断した。

「――神様なんてどうです? そういうの嫌いでしょ」

 最後のひと房が彼から切り離された瞬間、シャツを掴んでいた手が一際強く布地を引っ張り、そして脱力した。固く閉じられた目蓋はくるりと蠢くこともなく、彼は浅く呼吸をするだけだった。
 不格好に剪定された蔓花茄子はみんなくたばってしまった。しかし彼の背には不揃いに残された根がまだ残っている。これだから植物は嫌いだ。彼の肉体に残された古傷のひとつひとつを辿りながら懐古する。彼の皮膚が裂ける様、肉が抉れる様、淡いピンク色を覆い隠すなだらかな朱殷。彼を彩る暖色系の色彩がゆっくりと自分の意識を齧る音がした。林檎を齧るように、自分の何かも欠けていく。枝切り鋏からペンチに持ち替えると、グリップのプラスチック面が金属のように底から体を凍てつかせた。
 天使が神になる行く末はどんな絵画にも勝ることだろう。彼の黒曜石のように透き通った瞳が翳りに覆われたその時は、たったひとりで刮目していようではないか。
 彼の内から滲む美しさを誰も知らなくて良い。彼の何が美しさを引き立てると思う? 花そのものは大した理由にはならない。花が彼を糧として肉体を侵食し、根が彼の脊髄を侵しているからこそ、命を犠牲とした生命が共存しているからこそ、美しいのだと。
 ……そんなわけないじゃないか。自嘲を唇に含ませつつグリップを握り、先端が蔓の断面図を捉えた。彼の頭髪に鼻先を埋めながら、またひとつ欠けていく自分を憂えた。だがそれすら恍惚に至るのも彼の美貌がそうさせるのか、元々秘めたる狂気が自分の奥底で眠っていたのか、彼ですら教えてくれそうになかった。

「ねえ俺の神様、起きる時間だよ」

 腕に力が籠る。それが自分の腕だったのか、彼の腕だったのか、その後のことはよく覚えていない。ただ二対の腕が蔦のように絡まり合ったことだけは間違いなかった。

 おはよう神様。花の弔いは貴方に代わって済ませるからね。いつだって、何処でだって。

蔓花茄子 Solanum jasminoides

蔓花茄子 Solanum jasminoides

2019.1.22発行「パラサイト・イン・ザ・アートルーム」より

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-12-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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