カカオ色の日常は忘れることにした
ぱちぱち、ぱちぱち。
チョコが焼ける匂いがする。紙屑と木の葉しか燃やされない古びた焼却炉からは、蕩けた甘さがほのかに焦げ付いている。参ったな、ごみがもう燃やされてる。焼却炉に焼べそこなったごみ箱を抱えていると、見慣れた薄い背中がゆらりと揺れた。
「あ、先生」
「青島か」
十ヶ月もの期間で育まれた頭髪は誰よりも伸びるのが早い。春先には襟足すらなかったというのに、末端が冷える時期になると、彼の髪は肩甲骨を覆い隠すほどに伸びていた。だがひとつに纏めて結わえているのはずっと目にしていない。『あの日』以来は一度も。
ああ、なんて懐かしい髪型。高く結えられた髪は熱風で縮れたりしないだろうか。ごみ箱を引き摺って彼の元まで駆け寄ろうとしたが、こちらを向いたかと思うと自分と入れ替わるように過ぎ去ってしまう。「一分でも遅れたら閉め出す」という、教師らしからぬ脅し文句を残して。
「待ってよ先生。俺、五時半には………………あれ」
手を掴もうとしたら逃げられるのは日常茶飯事だ。しかし今日は珍しく忘れ物を残していった。赤い色、見慣れた色、錆び付いた匂い。ぬるりと付着した血液につい立ち止まったが、彼は振り向きもせずにその場を後にした。
あの人はまた寄生されていたのだろうか。血を見る度に安直に行き着くのも問題だろうが、自分を頼らなかったのはどうして、なんて疑問が心臓を蝕んでいく。刹那、眩暈に膝を付くと焼却炉の扉には青いリボンが挟まっている。リボンはもう助からないだろう。ぱちぱちと火花が弾ける中で意識がコーヒーのミルクのようにゆるりと浮遊し、昇っては落ちていく。
甘い匂いがする。彼の残り香ではないそれは軈てただの悪臭へと変わり、自分の眩暈を一層悪化させた。
ぱちぱち、ぱちぱち。焼けて焦げて朽ちていく。
「お前、遅刻したら閉め出すと言っただろう」
「保健室で寝かせてもらってたの。保健の先生に聞いてみろよ、俺は嘘ついてないし」
「帰ればいいのに」
「寂しいくせに」
血は苦手だ。自分の血や傷を見ただけでもすぐに具合が悪くなる。例外として平気なのは彼の寄生を剥がす時だけで、相手がそれ以外の理由で負傷すると、決まって血の気が冷めて立っていられなくなる。なお、彼自身が寄生を剥がしても同じだ。
相変わらず不機嫌そうに口を曲げる彼はゴムを外し、見事に伸びた髪を晒した。封じ込められていた芳香が、髪が広がるとともに撒き散らされるものだから、別の意味で眩暈がする。何に関してもフェチズムを発生させたことはないが、彼の髪となると別だ。夜の海が呑み込みに掛かる畏怖にすら似ている。呑み込まれて溺れていつでも窒息状態だ。
「だから部活、してくださいね。やる気はあるんで」
「…………ふん」
「でも五時半には帰るね」
「今帰れ」
眉に皺が寄ったが、それもすぐ伸ばされて眉尻が下がっていく。とある件を経てから彼はうら悲しそうな顔をすることが増えた。それが自分に対してか、己に対してか、またはどれでもないのか。それでも彼は寄生されるし、彼に取り憑くものは剥ぎ取っていく。その関係性は変わらない。変わらないけれど、自分たちは前ほどの距離を保てないでいる。白線がふたりの間にあって、どちらも跨げない。そもそも線を消せるほど、仲良しこよしもしていない。
まじまじと凝視していたことに気付いたのか、彼は無理矢理舌打ちをすると、体を暖めていたカーディガンを脱ぎ始めた。それからセーター、インナーと脱ぎ捨て、最後は何も纏うことはなくなった。何も驚くことじゃない。いつものことだし、今日はそういう日でもある。部活では彼自らがヌードモデルとなり、デッサンをさせることがある。
「時間は三十分」
「短くなくていいんですか。先生が寒いでしょ」
「お前が早く終わらせたら良いだけのことだろう?」
鼻で笑われることも慣れた。手際よくデッサンの準備をすると、彼は椅子へと腰掛けて背中を向ける。しかし寒さが堪えるのか、膝掛けを引っ張り出して腰に巻いていた。腰骨が前方に張り出している。背骨も浮き出ている。貧相ではないが、隆々としたものもない。さり気なく生きているだけの肉体だった。
「それじゃあ時間は四時半まで。始めます」
「ああ」
時計を確認し、声掛けをすると返事をしたきり彼は身動きを取らなくなった。部活動において彼以外の人物を描いたことがない。だがわかる、彼は絵の才能もあればモデルの才能も持ち合わせている。呼吸も鼓動も停止したような静寂の中で、鉛筆が紙面を滑走する音だけが響き渡っていた。
未練が成長するように彼の髪も伸びていく。彼は未練とすら仲良くできそうにない男だった。馴染みある髪が鎖骨を通り過ぎたことを誰も気付けずにいる。今日も後ろ指を指され、笑われ、無邪気な邪悪を吸い込んで、髪はどんどん伸びていく。海藻呼ばわりされた緩やかなうねりから甘く香るものがあるだなんて、誰も知ろうとしない。
雪が降らないな、と白い靄に透ける窓に手を宛てがう。自分の手のかたちをそっくり写した手形からはゆっくりと輪郭が滲み出す。指先が泣くのはあと十数分後。その奥では枯れた木々が白さを求めて身を震わせていた。
悴む左手を引っ込めると、声の持ち主はちっとも楽しくなさそうに眉を顰めていたが、今では形式美として曲がる、下がる、上がる。青光りする黒檀を忍ばせた髪色は、薄暗い室内でも淑やかに存在を主張していた。
大体のアタリを取り、パーツを描き込んでいく。得体の知れぬ塊は画用紙の中で人らしいかたちを覚えていった。二年も経てば人のかたちを捉えることに戸惑いはない。剥き出しの背と画用紙を交互に見比べながら、彼の姿を描き込んでいった。
「園先生、聞きたいことがあるんですけど」
廊下でフェードアウトする黄色い声。灰色にくすんだ美術室。降り積もる冷気と、背中を晒して椅子へと凭れる美術教師。イーゼルを隔てて腰掛ける自分。箱庭は白線だらけだ。彼に近付けやしないし、彼も自分に近付こうとしない。
「今聞かないといけないことか」
土気色と蒼白を混ぜたような夜の森の色。それが彼の肌色で、彼は惜しげもなく肌色を晒す。生きた石膏像、借り物の骨格標本、息づくモデル。彼の色を薄橙色で塗り尽くすとしたら、野暮であり無用でしかない。画材ですら歯が立たぬ彩色で成り立つその人は、今日も揺れ動こうとはしない。密やかに動くのは心臓と肺と眼球と、その他の臓器だけ。筋肉が仕事を忘れたように硬直し、見事モデルの役割を果たしていた。
「うん、そう。焼却炉でのこと」
彼は時折、モデルを申し出ることがあった。本人は美術も大して好きじゃないくせに、指導するとなると本格的に追求する。自分は最初、目の前で脱がれてどうしただろう。照れて顔を逸らしたのか、彼の行動に引いたのか、もう覚えていない。現在はそれほどまでにヌードデッサンに慣れきっていた。
経験あるの、とは聞いたことはない。聞くまでもないだろう。
「燐、まだか」
「描き始めたばかりなんで、ちょっと我慢してくださいね。それにまだ時間じゃないし」
「さむい」
今日のデッサンは自分が志願してのことだった。寒がりの先生は冬になると脱ごうとしない。仮にもモデルになったとしてもぶくぶくに着膨れているので、着衣の彼は描いて楽しくない。楽しいといえば顔くらいだ。
右目の変質した虹彩、右のこめかみから目の下、それから首筋を舐める傷跡、色濃いくま、薄い唇、やたら伸びるのが早い髪。他の人には見られない特徴が顧問にはある。ズタズタの背中もそうだ、彼を苗床にして様々なものが生えた。
蔓花茄子、蚕蛾の羽、木通。他にも生えたことはあったが、記憶に強いのはこの三つだろうか。木通なんて秋の話なので記憶に残っている。記憶に残らなかったこともあるが、それはいい。傷だらけの背中よりも気になることがあった。
「……話を戻しますよ。手、何かしたんですか」
「別に、なにも」
「俺が倒れた理由でも聞きます? 先生の手に血が着いてたからですよ」
「…………」
先生は嘘が下手らしい。右手の指数本が絆創膏でがちがちに巻かれているのを誰が見逃そうか。2Bの鉛筆で肉体の輪郭を描き込んでいくと、紙に人の姿が浮かび上がってくる。どんな質問を投げたところで彼が項を逸らせることはない。絆創膏やあの血について問うたところで、『今』は答えないだろう。
誰だって怪我をする。彼とて例外ではないのだから、血を流すのも当たり前なのに、今や自分のためだけに血が流れると勘違いしている。そして今も自分のせいで血が流れてくれたら、なんて理不尽に願っている。気付けば彼の右手が描き込まれすぎて、ぐりぐりと真っ黒に塗り潰されている。慌てて消しゴムで色を抜いたが、彼の真っ黒な瞳は確実にこちらを見抜いていた。
「……チョコ」
「え?」
「チョコレート。食べようとしたら」
――カッターの刃が入ってた。
ぐ、と強い力が掛かり、彼の指が一気に消える。直すどころか彼の言ったことが理解できずに消しゴムを寝かせた。ますます彼の指が消える。痛がる指先は絵の中で消え失せた。
膝掛けが垂れ下がっている。腰を覆っていた布が落ちそうになっているにも関わらず、彼は睫毛の先や唇の頂すら動かしそうにない。だが肌が徐々に粟立っていくのは目に取れた。
白線を越えるなんて簡単だ、できないのは互いがそうしようとしないだけで。時計を確認してから立ち上がって彼の元に立つと、先ずはずり下がった膝掛けを巻き付けてやった。それから右手を取り、褐色のテープで巻かれた親指から中指までを摘んだ。まだ痛むのか、僅かにだが目が細められた。
「おい、まだ終わってないだろう」
「いやこっちの方が大事でしょ。てか血もまだ出てんじゃん……」
「いいから私のことは」
「手当てしてからね」
僅かに滲む血にくらりとしたが、適当に巻かれた絆創膏を見ていられず、スクールバッグから使い慣れた救急セットを取り出し、床に投げっぱなしのカーディガンを放り投げて彼の前へと胡座を掻いた。やはり寒かったのか、首元から肩に至るまでをすっぽりと覆い、腕で引き寄せていた。ついでに自分のカーディガンも重ねてやり、彼の絆創膏を剥がした。
薄目で見ているので正確さに欠けるが、中々に深い傷だ。消毒液を脱脂綿に含ませて拭うと、彼の指が引っ込みそうになる。根元から掴んで逃げ場を奪うと、圧迫された指先がぱくりと口を開いた。あ、見てしまった。真っ赤な口から目を逸らす前に手が硬直していく。色のない唇はここぞとばかりに嘲笑おうとしていたが、彼が人一倍寒がりなのを知っていたのでお互い様だろう。
「痛い?」
「お前が引っこ抜くよりはマシだ」
「はは、悪かったって」
指の腹を走る傷を挟んでふたりが向かい合う。ふたりとも指先同士が冷えていて、なんだかおかしくなってしまった。
園先生と自分はこれっぽっちも似ていない。分かり合っていないのだから当然のことであったが、それが嬉しいとか寂しいとか以前に、交じり合わない現実感が指先を凍てつかせている。別々の人間、存在。神様に近付けない人間。現実は単調だ。
指先にクリームタイプの傷薬が塗られ、彼の指先はてかてかとし始める。薄暗くてもほのかに灯る指先に齧り付いてみたかった。でも彼は食べ物でもないし、そうであったとしても美味しくないだろう。ガーゼを被せて傷パッドを貼ると、三本指は綺麗にコーティングされた。薬剤の匂いが鼻に付くのか、先生は何度か鼻を擦ってインナーを拾い出した。
「冷えたから今日はもうやらない」
「えー」
「手当てが大事だと言ったのはお前じゃないのか」
人らしいかたちだけが佇む画用紙はあのまま放置されることになるだろう。先生になり損なった人物画が名残惜しかったが、先生は有無を言わせずにインナーを身に纏う。あまりに暗い部屋に耐えかねて照明のスイッチを押しに行くと、視界の隅では彼の背中がセーターに覆われていた。何かいやしないかと確認してしまう癖もついてしまったが、今日は何もいないらしい。
体が冷えるのか、自分のカーディガンを膝に乗せたままでいる。自分は寒くないので暫く放っておくことにした。
「……いつもだ。変な女子生徒に好かれるから」
「何が?」
「チョコの話。……しかも向こうに悪意がないらしいから」
悪意なき思慕がこのザマだと言わんばかりに白く目立つ指先。剃刀入りレターなんていうものはライトノベルや漫画の世界の話ではなかった。いつもと言うくらいだから、彼の指頭は何度も痛め付けられたのだろう。園貞春という人は生徒や教師からの評判はイマイチであるが、一部の女子生徒や女教師にはヒットするらしい。
彼を好きがるのを悪趣味と言うつもりはないが、どうしたらここまで行き過ぎた想いをぶつけられるのか。自分が彼の体を傷付ける身でも、あまり良い気はしない。だって自分が誰であるかも打ち明けていないのなら、卑怯以外の何者でもないではないか。
「つーかさ、犯罪じゃん。食べてたら口の中ズタズタだし……」
「なに、お前が入学する前から剃刀レターは当たり前だった。髪の毛入りチョコも、やたら血腥いチョコも……ああ、去年は硝子の破片が入ってた」
「何で受け取るの……」
愛情だけで済まされない気がしてきた。この人は何処かで恨みでも買っているのではないか。この通り口も良くないし、仏頂面だし、自分も当初はよくいびられたものだし。だが自分以外にきつく当たる場面に出会したことはない。だがそれが全てとも言いきれない。
この人もこの人だな、と口の中だけで呟くと、不意にポケットに入れっぱなしのスマートフォンが静かに唸った。二回だけ震えたので咄嗟に時計を見ると五時半になろうとしている。部活が終わるのも、同級生たちと約束をしていたのも五時半。切り出すのは簡単だ。帰ると言ったら彼は真っ先に美術室を出て行くのだし。
珍しいのは彼で、五時半の鐘が鳴っても彼は綺麗に手当てされた指と睨めっこしたまま。しかし自分も例外ではなく、床に座り込んだまま立つ気力がなかった。重力に逆らえない髪がたまに揺れるものだから、猫みたいにじゃれたくなる。猫ではないから触れたところで手を叩かれる。だから彼に一番近いところで、一番明るく照らされる白に浮気するしかなかった。
「…………が好きだから、仕方ない」
「え? 今なんて」
「チョコが」
「えっ」
先生といると初めてのことばかりで部室が埋め尽くされそうになる。飽和がない美術室で頬に紅差す彼を向き合ったのも、当然初めてのことだ。
蛍光灯のスイッチがオフのままだったら、藍が沈殿していく一方の部室に気を取られたままでいられたのに、夕陽も訪ねぬ部屋で彼だけが赤かった。街の片隅をぽうと明るく灯すような鮮やかさ。暫く見慣れぬ色を瞳から吸い込んでいると、自分にも赤が感染しそうになる。
――チョコ、好きなんだ。
神様はこんなにも人臭い。チョコレートを食べたいがために、悪質な悪戯とも異常な愛情とも取れぬ贈り物を受け取り、学ぶことすら放棄して愚直に齧ろうとしているだなんて。
憐れを通り越して込み上げるこれはなんだろう。自分の血液や唾液がチョコレートに変化して溢流しているようだ。甘ったるすぎて吐き気がする。できれば彼のこんなダサい姿なんて見たくなかったけれど、どうしたものか。彼に好きなものがあると知ったのは確実に自分だけ。図らずも、彼の秘密を握ってしまったのだ。無用になった救急ポーチは落下して、床にぽすんと沈み込んだ。
「……悪いか。私だって人間だ。好きなものくらいあったら駄目か。神とやらはそれすら許されないのか」
「いや何も言ってないでしょ。言ってないけど……もしかして先生ってば甘いもの、好き?」
首は振られない。薄暗い室内の底は藍が氾濫していて、躓いたりしたら呑まれそうな密度を誇っている。しっかりと手当てされた指先は左手で庇われ、ただでさえ長いニットの袖が彼の手をすっぽりと覆う。毛糸の断絶に手は伸ばせない。それでも彼の髪は無防備で、耳に掛かったり首に寄せられることなく、前方に投げ出されていた。
ひと房掴めば、先生の歯が軋む。時計の針は五時半を過ぎていたが、デッサンの終了どころか部活動の停滞すら突っ込んでくれなかった。答えてくれたら解放するのに、彼はだんまりを決め込むものだから、手持ち無沙汰に彼の髪を弄ぶしかない。
ブブ、ブブ、と着信のバイブレーションが鳴り渡っても彼は頭を垂れたままで、自分も髪の端を掴んだまま時の滞留に身を任せていた。長い振動が数十秒ごとに何度も続いたのだが、スマートフォンは五回ほど震えると役割を終えた。後から怒られるだろうなと悠長でいられるほど、彼を見ている方が面白い。
不意に彼が動いた。というよりは彼の背後で何かがざわめいている。ラジオから流れるノイズを軽くしたような、耳に障る音に彼の髪を軽く引っ張ると、目論み通り彼の背中がぼこぼこと膨らんでいる。
「先生、あのさ」
「うるさい、お前に言うことなんて……」
「いやいや、また生えてるよ」
え、と間抜けた声が形になったのなら、ラムネの底に転がるビー玉が床を転げ落ちるような、そんなささやかなものだっただろう。目の前の目玉ふたつもビー玉みたいに丸く、つやつやと輝いていた。鉱物混じりの左目は海の底のように青く昏く、何処までも深い。
海底が自分から離れたが零れはしなかった。長い腕が背に回されるとぶつんと何かがちぎれて、手のひらには大きな塊が乗っかっている。木通にも見えたが両端が細まり、ごつごつと凹凸のある実はそれには該当しない。オレンジ掛かった濃いイエローは夏の眼差しみたいで、此処だけ暖かい気持ちでいられる。それを受け取って十秒ほど経ってから、これが何の実であるか理解した。
「えっすごい。先生すげーよ、カカオだよこれ。チョコ作れるじゃん」
「素人に作れるか。お前な、チョコレートなんて簡単に作れるものじゃない。種をローストして磨り潰す過程が……」
「はは、先生って本当にチョコ好きなんだね」
本人は気付いていないだろうが、自分を煙たがる割には説明が懇切丁寧だ。それが自分が嫌いなものについてでも、明かす気がなかったことにしても。どの道彼は口が緩い節がある。チョコのうんちくを言い掛けて舌打ちをすれば、それを合図にカカオの実がぷつんと切れて落ちてくる。
重量のある果実を拾って腕に抱えると、当の本人は怒りやら悲しみやら羞恥やらがごちゃ混ぜになったような顔をし、そのまま背を向けてしまった。実が大きいせいで、背中には大きなこぶが幾つも目立つ。皮膚が引き攣ってそうだな、剥がしてやるかな、と思うものの、本人は椅子に寄り掛かったまま、台詞の続きを噛み殺してしまった。
ぷつん、ぷつん。ひとりでに果実が落ちていく。膨らんで落ちて、膨らんで、落ちて。先生の腹の中で撹拌される感情たちみたいに、産み落とされる果実は際限がない。
「俺は辛党だからさ。甘いのは嫌いじゃないけど、この時期はちょっとだるいとか思うよ」
「モテる自慢か。ご苦労だな」
「いや。……そっちじゃないよ」
膨らむ背は次第に萎み、枯れた葉が背とセーターの隙間から大量に落ちていく。降り積もる木の葉の上に青く小さな実が落ちると、それから彼の背は真っ平らになってしまった。葉擦れがするわけでもなく、幹や枝の盛り上がりも見当たらない。手を当ててみてもあるのは硬い骨や筋肉、薄い皮膚の感触だけ。
寄生は実を落とすだけ落とし、自ら枯れてしまった。たった数分の出来事で呆けていたが、それよりも未だに背を向け、丸めて縮こまる大人がいやに小さく見えた。
カカオの実と彼の広い背中を見比べると、再び席へと戻ってバッグの中を荒らした。サイドポケットに詰められた紙袋を開けると、期間限定の板チョコレートが何種類も顔を出す。パッケージもオシャレで、国別のカカオと果物や木の実、茶葉なんかのコラボレーションが楽しい種類だ。
それを紙袋ごと取り出すと、彼の元へと戻って背後から紙袋を突き付けた。眼前に晒されるぐしゃぐしゃのクラフト紙に一瞬驚いたようで、肩が大袈裟に跳ね上がっていた。
「この実は貰うから、代わりにこれあげる」
「は…………?」
「チョコ好きなんでしょ。本当はあげる奴らがいたんだけど、面倒くさくなった。先生が食べればいいよ」
お互い似てはいないが、この季節はあまり良いことがないというのは共通事項なのかもしれない。園先生が変な女子に好かれて危険なチョコレートを貰うように、自分も顔が女じみてるせいでチョコレートを寄越してほしいと同級生からせがまれる。勿論チョコの金は貰っているし、ホワイトデーは何故かお返しが得られるので損はしないのだが、彼女がいない寂しさを自分で解消しているのは気に食わなかった。
自分とて女子からチョコを貰う方が好きだし、男からチョコを貰うくらいなら柿の種でも寄越してくれた方が満足できるのに。そういえば今年は女子から貰った記憶がない。これからチャンスがあるかも怪しいものだ。
こんな風にみんな自己満足で生きているし、自分も例外ではない。だから彼らとの約束を蹴ってまでチョコを譲るのも自己満足でしかない。受け取っても弾かれても、好きで動いたのだからどんな結果でも良かった。
「……返せって言っても返せないからな」
「いいよいいよ。俺、チョコよりスナック菓子の方がいいから」
「ふん」
枝のように細い指が紙袋を受け取ると、早速片手が突っ込まれ、オレンジに金の箔押しがされた薄い箱引き出された。新作だ、と呟いたのを聞き逃しはしなかった。本当に甘い物が好きらしい。
確認もなしに箱の封が開けられ、アルミの包み紙が現れる。端から破いていくと、カカオとオレンジの甘酸っぱい香りがこちらにまで漂った。
「先生、このシリーズ好き? 女子が好きなんだって。今年はクランベリーとバニラビーンズのホワイトチョコも人気があるとかなんとか」
「知ってる。そっちはもう食べた」
「へえーそうなんだ」
漸くこちらへと体を向き直したかと思うと、憂う瞳は何処へやら、彼の目は子どもみたいにきらきらしていた。自分が肩を跳ね上げるくらいに純粋な輝きを滲ませるものだから、彼に気付かれないようにひくついた笑いを零す。
気兼ねなく触れられる板チョコを何度か撫でると、凹みに沿ってチョコレートを一欠片割り、躊躇なく口へと放り込んだ。
口の奥でぱきりと甘い欠片が割れる。カカオニブとオレンジピール入りのお洒落な板チョコは遠慮なく噛まれて砕かれて、彼の口内で溶けていく。チョコレートと彼の纏う匂いとの相性は最高だ。自分が偶然選んだものも最高の選択で、彼はいま誰からも阻害されることなくチョコレートを頬張っていられる。
その証拠に彼の眉も目元も和らいでいた。糖分が彼を軟化しているのかもしれない。甘いものや酸っぱいもの、苦いもの、まろやかなもの、そんな美味しいだけで存在価値を勝ち取れるものたちが、彼を生かすに値するだなんて、この食材たちはなんて幸福なのだろう。チョコレートに嫉妬するだなんて、自分も来るところまで来たらしい。
「いいね。神様への供物がチョコって可愛いや」
「もうすぐ三年になるというのに、お前は気持ち悪い物言いしか覚えて来なかったんだな」
「俺たちも付き合い長いんだし、少しくらい優しい言葉掛けてくんないの」
此処で声を掛けて来たとしたら、少しだけ彼から気持ちが離れたかもしれない。いや、彼が神様から遠ざかると言うべきか。ちなみに彼はいつも通りの彼だった。うるさい、と呟くと再び背を向けてしまい、こちらに反応することすらしなくなった。代わりに硬いものが砕ける軽快な音だけが自分に寄り添う。
期待よりも充満する甘酸っぱい香りに気持ちすら流動していく。そのうち体もかたちを忘れて溶けて、何処かに消えてしまうかもしれない。チョコレートみたいに冷えて固まってくれたらいいけれど、彼の冷ややかな目線ですら、図々しい精神は扱えないだろう。
「背中痛くないの」
「何ともない」
「そっか」
椅子の足を背もたれ代わりにもたれ掛かると、重苦しい実がごとごとと転がった。硬い表皮のカカオは自力で割れそうにないし、夕飯時に近付く部室は胃の中を寂しくさせる。木通の時みたいに自ら口を開けぬ果実は優しさの欠片もなくて、何処かの誰かみたいだ。
ガサガサと紙袋が荒らされ、またひとつ箱が開けられる。今日は何を作って食べようか、母は何か作り置きを残してくれただろうか。馬鹿でかい果実を前にして齧るか否かを戸惑っていると、頭上から四角い物体が前触れもなく落ち、膝へと転がった。濃紺の板チョコを拾うと、向こうではパリパリとチョコレートが砕ける音だけが沈む。
小遣いで買うのなら甘い物より、しょっぱいものがいい。甘ったるく溶けるものより、軽くて歯触りの良いものがいい。どうせ板チョコも自分が買ったものでしかないのに、彼から手渡されると、別の意味を付けられて返されたような、そんな気がした。
「チョコ、返さなくて良かったのに」
「腹の音がうるさい。食ったら帰れ」
「相変わらずひどい物言いだよねぇ、先生ってば」
箱を開け、銀紙を剥がしたチョコレートは薄茶色で、表面には白い結晶がこびりついている。焦げたキャラメルの匂いが微かに混じっていて、ミルクチョコより甘いのだろうなという想像を掻き立てた。甘くて、しょっぱい。ずるいものを選んでくれたなと振り向くと、彼もこちらを覗き見ていたらしく、アーモンドの瞳が一瞬だけかち合う。
慌てる素振りすら見せずに長い髪が覆い隠した。長い長い髪の毛は春になればばっさりと切られて、手のひらの古傷がちくりと痛むことだろう。白っぽく残る傷は引き攣っていて、だけど徐々に薄れている。たまたまなのか、あの日の当て付けなのか、それは卒業までに教えてくれるだろうか。いや、知ったところでなくなるものもない、失うものもない。生徒と教師以上であり、それ以下でしかないふたりはそうやって終わっていく。予感でも予言でもない。ふたりはそういう摂理でできている。
こんな日のことも、彼の髪を奪った日のことも、彼の秘密のことも、いつか忘れてしまう。自分が薄情なんかじゃなくて、これも人ゆえの摂理。そういうもの、そういうもの。だから彼もいずれは。
「忘れるなよ」
背後で揺れたのは髪であってほしい。痛がる彼の顔を日常の連続で染めるのは慣れたけれど、こんな日くらいは血で汚れたくない。子どもってずるいと思いませんか。聞いてない振りをするのもとても労力を要するもので、釘を刺すようにぶつけられた台詞に肩を振るわせないようにするのも、とても難しいものだった。
「今日のこと?」
「燐のことなんか嫌いだってこと」
――この世の何よりも。付加された言葉は粉砕された岩塩よりもしょっぱくもなんともない。しょっぱければ良かった、苦ければ良かった、そう思えないのは『信仰心』なんていう青い妄執でしかない。
齧ったみたチョコレートは頭が痛くなるくらいに甘ったるい。眩暈がするくらいに甘くて、少し焦げくさくて、だけど何もなかったかのように溶けていく。
舌の上のチョコレートみたいに、焼却炉に放り込まれた贈り物みたいに、いつかなくなっていくもの。膝元に転がしてたカカオの実だっていつか腐ってぼろぼろになって、土に紛れて消えてしまう。
だから痛くないよ。あなたの深い傷跡より全然痛くない。甘いものに縋るくらい足りなくないし、海の底みたいな寂しさも知らない。だからあなたが貶しても全然、痛くない。
「ありがと、すっげー褒め言葉だ」
――この世の何よりもさ。付け加えた言葉と共にカカオの果皮に罅が入り、ひとりでに割れていく。分厚い皮に守られて、白い果肉を纏う種がごろごろと飛び出した。背後の人の舌打ちひとつで罅割れ、砕けていく果実。脆い精神。震える背中。
「でも俺さ、最近は先生のこと嫌いじゃないんだ。だからチョコで許してよ」
うるさい、と震える声は聞かないことにした。小さく丸まる背中に頭を預けて、ライチみたいな南国の匂いを放つ種を口に放り込んだ。匂い通り甘くて酸っぱくて、チョコレートに似つかぬ味が自分を包んでいる。
手渡したカカオパルプは宿主に戻ることは叶わなかった。ぽつんと響くのはチョコレートが割れる音だけ。重ねるように種を齧ってみると、馴染みのある香りと味が広がり、後を追うように痺れる苦味が味蕾を襲った。からからった罰だと言わんばかりの強い苦味も、嫌いになれない柑橘みたいな清涼感ある匂いも、何処かの誰かみたいだ。
例えば髪が長くて、毎年怪しいチョコを受け取ってまで甘いものを欲しがる自分の神様、みたいな。園貞春という人はそんなものによく似ていた。いつか思い知るんだ、彼は誰でもなくて、何にもなれない『園貞春』でしかないということを。
それでも自分は望んでいたのかもしれない。神様をいつまでも慕っていられたらと、願っていたのかもしれない。あわよくば彼もそうであったら、なんて。
「嫌いな方が楽だ」
「そうだね、じゃあそうしよう」
先生、いつか終わる日常なのに、嬉々たる想いを抱いた俺は赦されますか。飽和しきれない部屋で先に窒息するのは、どっちですか。でもどっちがくたばっても忘れてしまう俺たちは薄情で、でも本当は、俺は、あなたは。
カカオ色の日常は忘れることにした