電車
列に割り込まれた青年が、目の前の相手の轢死する様を想像する話
長いこと待っていたわけではないのだが、どうも時間の経過が遅い。聖児は腕時計を確認してから、改めて周りを見渡した。
帰宅ラッシュの駅は大型であればあるほど混みあい、高校生やサラリーマンや大学生に溢れている。
向かい側の新宿行きも混んでいて、矢印に正直に並ぶ者は居なくても、皆、誰かの後ろについて並んでいた。
先に来た藤沢行きの快速は過ぎて、下り方面のホームは若干空いている。
しかし、それもほんのちょっとの間だけで、すぐに下り方面のホームも人でいっぱいになるだろう。
急に冷え込んできた所為か、狭い待合室には、暖をとろうとする者が席を一つも空けることなく座っていた。
色とりどりのマフラー、コート、ブーツ、買い物の袋。ほぼ一色しか無いサラリーマンのコートや鞄は、女性達の間では年齢など関係なく、ただ黒く地味だった。
一番前に並んでいた聖児の目の前に、男が通りかかった。灰色のコートを着たサラリーマンで、年代は三十代後半といったところ。
黄色い線の外側を歩いてきた男を避ける為に、聖児は少し後ろに下がる。
と、そのまま男は通り過ぎずに、聖児の前で立ち止まった。のんびりと音楽を聴きながら、聖児の前で電車を待っている。
「お待たせ」
自販機でレモンティを買ってきた美夜子が聖児の隣に並ぶ。
彼女は茶色いダッフルコートを着ていて、黒いミニスカートに黒いブーツを履いている。寒くても、ミニスカートの時はストッキングを履かないのが、彼女のささやかな美学だ。
聖児は美夜子を一瞥した後、ずっと目の前のサラリーマンを見ていた。睨むでもなく、ただ見ているだけ。
美夜子はレモンティを一口飲んで、聖児の視線の先を追い、尋ねた。
「どうかしたの?」
「・・・・・・」
「あれ、そういえば、聖児がさっき前じゃなかった?」
「・・・・・・通るだけかと思って下がったら、前に並ばれたんだ」
「そうなんだ。まぁ、どこにも空気の読めない人って居るよ」
「ここでこいつの背中を押したら、こいつは電車に轢かれるのかな」
「さぁ、どうかな。タイミングよくやらないと、上手く轢けないんじゃない?」
サラリーマンの隣に並んでいる中学生が、聖児と美夜子に振り返った。聖児と視線が合うと、慌てて目を逸らす。まだ小学生のような幼さの残る顔立ちは、聖児を苛々させた。
聖児は試しに両手を胸の高さまで上げて、サラリーマンの背中を押すような仕種をしてみせた。美夜子の笑い声が聞こえる。
レモンティを飲みながら、彼女は小首を傾げた。
「電車はまだ来ていないよ?」
「あと二分くらいで来る」
「じゃあ、あと二分は待たないとね」
「でも、苛々するんだ」
「いいじゃない、一番前じゃなくたって」
「そういうことじゃない」
しかし、どういうことなのか、聖児にも解っていない。何が自分をここまで苛々させているのだろう?
順番を守らず、堂々と割り込んできたこのサラリーマンの神経に苛々しているのだろうか。
それとも、割り込まれて腹が立ったのに何も言えないでいる自分に苛々しているのだろうか。
どちらにしろ、些細で、一過性で、どうしようもなくつまらないことだった。だから、美夜子は笑っているのだ。
「その人を殺しても、聖児は一番にはなれないよ」
「そういうことじゃないって言っているだろ」
「じゃあ、何? 気まぐれで人を落としたいのかな? でも、そんなことをしたら、私達の帰る時間は今より倍も遅くなる」
「だから落とさないんだ。俺だって、割り込んできただけの人間を落として電車が止まったら、家に帰るのが遅くなる」
「おじさんも、まさか割り込んだだけで線路に突き落とされるなんて思わないだろうね。誰が後ろに並んでいるのか、そこに気を遣わなかったばっかりに。あはは、こわいこわい」
そうだ、こいつは誰が後ろに並んでいるのかを気にしてはいない。後ろに並んでいる者が誰であろうと、こうして割り込んできて、真っ先に電車に乗ろうとしただろう。
この時間の下り電車は乗り換えの駅まで混んでおり、この後、乗るつもりの急行は各停の駅を飛ばすため、十五分ほど立ちっぱなしになる。ドア側か、吊り革のある方に移動するには、早いうちに並んで順番を確保しておかなくてはならない。
聖児は吊り革よりもドア側に並ぶ方が好きだった。ドア側なら、開いた時にすぐに出られる。それが降りる駅ではなくても、外部の空気を感じることが出来るから、そこをいつも取っていた。
このサラリーマンはどうなのだろう。ドア側なのか、吊り革なのか。
聖児は考える。このサラリーマンをここで突き落としたら、この後に何が起きるのかを考える。
なるべく忠実に、現実的に考えようとした。
急に落とされたりしたら、きっと、サラリーマンは何が起きたか解らなくて、一瞬だけパニックに陥るだろう。慌ててホームに上がろうとしたら、そこはまた蹴って落とせばいい。
電車到達のアナウンスが流れれば、サラリーマンは尚焦るだろうが、逆にそれが命取りになる。
ここでふと気付いた。
なるべく電車が目前に迫った時にサラリーマンを落とさなければ、電車の運転手は急ブレーキをかけてしまう。
のろのろと迫ってくるだけであれば、サラリーマンは反対車線に逃げてしまうだろう。反対車線に電車が来る時間は、下りの電車が過ぎてからである。
駄目だ、もっと確実に行こう。
脳内で、電車が目の前に来た瞬間に、サラリーマンの背中を押してみた。
たたらを踏んだサラリーマンはそのまま迫った電車にぶつかる。文字通り、ぶつかっただけだ。轢かれたわけではない。
皮は擦り剥けるだろうか。
鼻の骨は折れるだろうか。
指をついたら、その指は折れるだろうか。
線路と電車の間に落ちたりするのだろうか。
そこまでで、聖児の現実的感覚は途絶えた。
ここから先は想像だけではどうしようもない。実物を見なければ、どうしようもないのだ。
想像だけでなら、いくらでも残酷なものを描写できる。電車の車体がぶつかって、サラリーマンの頭部が砕けたり、目玉が飛び出したり、灰色の脳髄が穴という穴から流れる様を描ける。
だが、現実にそうなるかは解らない。聖児はそんな光景を目の当たりにしたことがない。よって、現実とは想像よりも半端であり、重みがあるのだ。
聖児の頭の中のサラリーマンは、頭部からしてぐちゃぐちゃに潰れていたが、目の前のサラリーマンはなんということもなく、ただ音楽を聴きながら電車を待っている。聖児の頭の中で自分が頭部を粉砕されているなど、夢にも思わないだろう。
「ねぇ、知っている? 聖児」
「なに」
「そういうの、中二病っていうんだって」
「・・・・・・」
電車が到着し、人々は無言で乗り込んでいく。電車を見張る車掌の声が焦りを帯びながら、注意を促した。駆け込んでいく人間に遠巻きに声を掛ける。
聖児はドアの側の手摺にもたれ、美夜子は聖児にもたれた。レモンティの缶を手に持ったまま、先程のサラリーマンの行方を目で追う。
彼は吊り革の方まで行き、何事も無く、周りの景色と同化した。吊り革に掴まる姿は林立する樹木のようにも見える。
聖児は美夜子の背中に腕を回して、走り出した電車の窓から外を眺めた。景色の上に車内の人間の顔が浮かび上がる。それは現実のものなのか、非現実のものなのか解らない。反対側のドアの窓ガラスと合わせ鏡になって、車内はどこまでも続いていた。
車内に居る人間の多くは自分の世界に入っているようだが、何人かは抱き合う聖児と美夜子を見ていた。時折、電車の中で見かける頭の軽そうな連中を見るような目付きで、二人を値踏みしている。
けど、美夜子だけは違うだろうと思った。
彼女は美しいから、サラリーマンも中学生も高校生も大学生も老人も、男達は皆、彼女の美しさだけを見る。その時だけ、聖児は誰よりも妬まれる存在になるのだ。
「みや」
「なぁに?」
目を閉じたまま、美夜子は応えた。黒い髪が指に絡む。
聖児は揺れながら、美夜子の首筋に指を当てた。
「中二病の遣い方、間違っていると思うんだけど」
「え、そうなの? そういうもののことを指すって聞いたのに」
「中二のガキみたいにバカだって意味なんじゃないのか?」
「中身の無い想像を延々と繰り広げて、口先だけで粋がっている人のこと――なんじゃないかな」
「・・・・・・俺か」
「そうだね」
窓ガラスから視線を感じる。聖児が振り向くと、窓ガラスから誰かがこちらを見ていた。少女の姿だ。
自分の向かい側には、少女が同じように手摺にもたれている。けど、彼女は目を閉じていた。眠っているのだろう。
なのに、窓ガラスを見ると、そこに映る彼女は目を開いていた。無表情で聖児と美夜子の抱き合う様を見ている。
唐突に、頭の中に映像が飛び込んできた。先程の聖児の想像に追加されたかのような映像だ。
サラリーマンは線路に寝転がっていた。全裸だ。大声で喚いているのに、ホームに居る誰もが気付かない。
電車は速度を上げて進んでくる。サラリーマンが手を振っていても、それは見えていないようだ。
「ぐちゃ」とも「びちゃ」とも「ごきっ」とも聞こえる、形状しがたい音が、脳内に轟く。
サラリーマンの身体は、腰から左胸へと切断されていた。電車の車輪が人間の身体を真っ二つに出来るというのは、本当なのだろうか。
びくんびくんと痙攣して、臓器と血液と肉とを流れさせるそれは、もう人間ではなく、ただの肉塊だった。
しかし、誰もそれに見向きもせず、停止した電車に乗り込んでいく。
ホームで立ち止まった聖児と少女を迷惑そうに避けていくところは現実的なのに、轢かれた肉塊だけが浮いていた。その中で非現実的なのが、聖児と少女だった。
「聖児?」
美夜子のしなやかな手が、聖児の頬に触れる。
気付けば、電車はもうすぐ彼らの住む場所の最寄り駅まで近付いていた。
向かい側の手摺に少女は居ない。窓ガラスの中にも、当然のように居なかった。
サラリーマンは居ないようだ。聖児は、自分の想像の中でサラリーマンを捜したが、どこにも見当たらなかった。
「夢でも見ていたの?」
「・・・・・・なんか、変な感じのやつを見ていたよ」
「さっきのおじさん?」
「それと、向かい側に居た人のやつ」
「誰か居たっけ?」
「・・・・・・居なかったなら、それでいい」
電車が停まる。チャイムと共に、ドアが開いた。
聖児と美夜子は一緒に降りて、少ない人の流れの中をゆっくりと歩いていった。
電車
H21.11.7
加筆修正にあたっての作業用BGM
犬を捨てにいく / 谷山浩子