心の中の雪の国~私のチベット旅行記~ その4 川蔵北路
十一月二十三日
朝、梅田さんは真っ暗なうちに出ていった。
寒いし、頭からすっぽりと布団をかぶったまま眠りと覚醒の間をさまよっているうちに梅田さんはいなくなっていたけれども、あいさつくらいはするべきだった。あとになって思う。
日が出て明るくなってから、ようやく始動。
晴れている。青い空。空気は透き通っていて、冷たかったけれど気分はよかった。
朝食というには遅いし昼食というにはまだ早い中途半端な時間にイスラム食堂に行くと、今日は拌面。麺類は、中華屋さんよりもイスラムのほうがおいしい気がする。
町の近郊の尼寺まで歩いた。チベットに来てから、とにかく歩くことが多い。何キロ歩いたか、丘の上にお寺が見えた。本堂がひとつ、そのまわりに僧坊が集まって、コンパクトにまとまっている。本堂は、そんなに大きくない。カンゼ寺の三分の一くらいだろうか。
搾った牛乳を入れておくような金属のカメを背負った尼さんが、参道をお寺に向かって歩いている。歩きかたはゆっくりで、カメが重たそう。
その尼さんを追い抜こうとしたとき、彼女は笑顔で、「ハーロー!」
「ハロー、タシデレ」
私は答えて、並んで歩いた。尼さんは、ニコニコ笑っている。
私は彼女を見たことがある。あの人の写真。そうだ、あの人の写真に写っていた。
「ウェア、カム?」
言いたいことは、わかる。彼女は少し英語がわかるようだ。日本から来たと言ったら、アレーとひとこと。そしてまた、ニコニコしている。二人で門をくぐって、カム、カム、と言う尼さんについて行くと、僧坊に案内された。
白く塗った土壁の平屋で、入り口には、白い布に何か四角い模様を縫いつけたドアカーテン。その上の辺と窓の上のほうに付いている白い布が、風にひらひらと揺れている。尼さんはドアカーテンをめくって、カム、カム。
中は土間になっていて、広さは六畳くらい。日当たりのいい窓際に、ベッドが二つ。布団はきちんと畳んで、ベッドの隅に積まれている。ベッドの前に低いテーブル、ほかには低いクロゼットとか、家具は少ないけれど、クロゼットの上の仏壇には金色の仏像が収まっていて立派だった。柱と家具は赤を基調に塗られていて、お寺の中みたいに鮮やか。どこからか猫が一匹やって来ると、ベッドの上の日が当たっているところに丸くなる。尼さんはベッドを指さすと、もうひとつ奥の部屋に入った。ジャバジャバ音がするのは、運んできた水をカメからべつの入れ物にあけているんだろう。
彼女はポットとお碗を持って現れると、お碗をテーブルに置いてポットからお茶を注ぐ。噂のバター茶かと思ったら、紅茶色のふつうのお茶だった。
入り口からべつの尼さんが入ってきた。この人も、私は見たことがある。二人とも二十代くらいだろうか、お坊さんと同じ、エンジ色の袴姿。二人で何か話して、二人ともお碗からお茶を飲む仕草をする。お茶を飲めと。
「トゥジェチェ」
二人の尼さんに見守られながら、ひとくちすすった。ふつうのお茶のようで、いや、しょっぱい。塩味だった。
最初に会ったほうの尼さんがポットを持って待っていて、ほんの少し飲んだだけなのに、お碗をテーブルに置くと待ってましたとばかりにお茶をなみなみと注ぐ。私がサブザックの中をガサゴソ探りだすと、二人は私を興味深そうに見ている。
あった。あの人が撮ったスナップ写真集。ほかにもう一人、三人の尼さんを、たぶんここの本堂の前で撮った写真がある。三人石段に座って、ちょっぴりはずかしそう。二人に見せると、キャーキャー喜んでいる。同じ写真が三枚あるのは、あの人はまたここに来て写真を配るつもりだったんだと思う。
「この人は、どこ?」
最初に会った尼さんに三人目の尼さんを指さして英語と日本語のチャンポンで聞くと、「インドに行った」
旅行ではない。もちろん亡命だろう。そのへんを詳しく聞こうと思っても、お互いに語学力不足。それに、軽々しく聞いていいものかどうか。
細かい部分は通じないけれどなんとなく会話の要領みたいなものがつかめてきて、初めに会ったほうの尼さんはドルカル。二十三歳で、英語はインドで習ったらしい。私のメモ帳に、ローマ字でていねいにDOLKARと自分の名前を書いた。もう一人はデチェン、歳はドルカルと同じくらいで、彼女は英語はわからないみたいだった。ドルカルは小さいころインドに行って、何年かすごしてからチベットに戻ったらしい。けっこう、頻繁に行き来があるのかもしれない。
「写真を撮った人は? どこ?」
ドルカルに聞かれたけれど、聞いてほしくない質問だった。でも、答えないわけにもいかない。
「来られなくなって、私が代わりに来たの」
嘘ではない。でも、正しくもない。でもほかに、言い表しようがない。あの人は、もう二度と来ることはない。
部屋の中には、あちこちに家族とか自分たちの写真が飾ってある。写真が好きなんだろうなというのはわかるし、だから、あの人は撮った写真を配っていたんだろう。あのスナップ写真を配って歩くために、通っていたんだろうか。
お茶は、断っても注がれる。カメラを取りだして二人を撮ろうとすると、キャーキャー言いながらはずかしがっている。撮られるのが嫌なのかと思ったら、二人ともエンジ色の袈裟をきちんと身体に巻いてポーズをとる。立ったり座ったり、一人づつだったり二人で並んだり。撮った画像を見せてあげると、またキャーキャーと喜んでいた。
日本に帰ってから送ってあげようと思って住所を聞いても、二人とも自分の住所がよくわからないらしい。漢字を知らないのかもしれない。あとで気がついた。まあ、また来て手渡しするのもいいかもしれない。あの尋常でない喜びようを見ていると、そう思う。
そろそろ話題もなくなったけれど、お茶を断るタイミングがわからない。
デチェンがたぶんお参りに行くか的なことを言ったから、チャンスとばかりに立ちあがる。ドルカルがまたカム、カム、と言って、二人で本堂に登った。デチェンは部屋に残るらしい。
本堂の東側の小さな入り口は、閉まっている。ドルカルは大声で誰か呼びながらどこかに消えると、べつの尼さんを連れて帰ってきた。彼女はどうやら鍵番らしく、大きな南京錠をガチャガチャと外して扉を開けてくれた。
ここの本堂は東西に長くて、南面には大きい窓があるから中は明るい。壁沿いにぐるりと右回りしてから、鍵番の尼さんがお茶をすすめるのを笑顔で断ると、正面に手を合わせてから本堂を出た。ドルカルもお茶をすすめるけれど、ちょっと飲みすぎた。
「ごめんなさい。もう帰らないと」
門のところまで二人で歩いてから、彼女はバイバイと言ってそこでお別れ。参道を下りながら振り返ると、彼女は門のところに立って、お寺が丘の陰に入って見えなくなるまでいつまでも手を振っていた。
いつか、写真を届けに来よう。
また来る気か、私。最初で最後のはずなのに。フフッと笑って、旅にはまるって、こんなことから始まるのかもしれない。
町に戻った。
大通りには、チベット服を着てバイクを乗り回している人が多い。リタンもそうだった。なぜかここでは、チベット服の若い女の子がバイクに乗っているのをよく見かける。馬に乗っているような感覚なんだろうか。
部屋に戻ると、梅田さんのベッドは乱れたまま。今日は、私ひとり。面倒臭い人だったのに、いなくなると、それはそれでちょっと寂しい気がしないでもない。日記を書いてから本の続きを読んで、今日も停電みたいだったから、早めにイスラム食堂に行って晩ごはん。部屋に帰っても真っ暗なまま、こういうところだからしょうがないと、ベッドに入って丸くなる。真夜中すぎて電気が点いたけれども、寒い中起きるのが面倒で、そのままにしておいた。
十一月二十四日
カンゼから、隣のダンゴに行くバスは多い。成都方面に行くバスに乗って途中下車してもいいし、ライトバンも、定期便みたいなのがある。バスターミナルからちょっと離れたチベット宿からも毎日朝昼二本ダンゴ行きのバスが出ていて、私はそこの朝のバスに乗った。
お客さんはまばらで、モコモコのチベット人ばかり。なぜかみんな尿素と書いた大きな袋をサンタクロースみたいにして、それをバスの屋根の上にたくさん積んでいた。
八時と言われて、八時半ごろになって発車。外はまだ薄暗いし寒い。のに、私の前の席に座っている尼さんは窓を全開にする。乗り物酔いがひどいのかもしれないけれど、風がびゅうびゅう入り込んで寒いなんてものじゃあない。ほかのチベット人はモコモコだから寒くないんだろうか。と思っていたら誰かが大声を出して、たぶん寒いと言ったんだろう。尼さんは窓を閉めた。
畑と村々を走り抜けながら、道はだんだん登り坂になる。外が明るくなると、草原と雪をかぶった岩山の景色。雲が多い。
何もない草原で突然停車、チベット服を着た親子がバスを降りる。真っ黒に日焼けしたお父さんは、長い髪を三つ編みにしている。連れている小学校に行くか行かないかくらいの男の子の頭はボサボサで、スナック菓子の袋を大事そうに抱えていた。
どこに行くんだろう。あたりを見回しても、家もテントも見当たらない。お父さんは男の子の手を引いて、どこか丘の向こうに向かって歩きだす。
それからすぐに、峠を越えた。三九二0メートル。いつものように、旗がたくさんはためいている。そこを通るときにお客さんたちが何か叫ぶと、ドライバーは紙切れを撒いていた。
下り坂。湖が見えた。岸のほうには氷が張っている。もっと寒くなったら、全凍結するんだろうか。湖畔に白い建物が集まっているのが見えるのは、あれはお寺だろうか。今は草が枯れているけれど、夏は気持ちよくピクニックできそう。
道は川沿いに標高を下げて、両側の山には木がほとんど生えていない。ところどころに見える集落の家の造りはカンゼと同じ、二階建てのログハウス部分の赤茶色と白が鮮やかだった。
だいたい四時間、ダンゴの町に着いた。バスターミナルになっているのはホテルの中庭で、今日はそこのホテルに泊まることにした。招待所とかでないちゃんとしたホテルの、ツインの部屋。シャワーはお湯だし、トイレは水洗。テレビもある。
町に出ると、メインストリートに中華食堂ばかりが何軒も並んでいた。どこも営業熱心に、前を通ると吃飯と声をかけてくる。その中の一軒を選ぶと、今日は餃子にした。
ダンゴの町は、西から東に流れる川の南が新しい中国の町、北の丘には大きなお寺がそびえている。お寺の周りの僧坊は土とログハウスのチベット式家屋で、川を境にコンクリートの新しい町ときれいに対称になっていた。
食堂を出てから、真っ直ぐお寺のほうに延びている道を川まで下って、欄干に五色の旗がたくさん巻き付けてある橋を渡る。川岸には、氷が張っていた。そこからお寺までが、また急激な登り。今日も息も絶え絶え、ほんとにいつになったら慣れるんだろう。やっとの思いで、お寺の正面までの急坂を登りきった。
ここの本堂も南向き、その前の広場では、若いお坊さんが輪になって太鼓とシンバルの音に合わせて何か踊りの練習をしていた。お坊さんたちの踊る姿を眺めながら何枚か写真を撮っていると、休憩時間になったみたいで、お坊さんが私の周りに集まる。
「ハロー、タシデレ」
話しかけたら、少し英語がわかるお坊さんが何人かいた。近いうちにお祭りがあるらしくそのための踊りの練習をしているようなことを聞きだしたけれど、いつ、何時からなのかまではわからない。
お坊さんたちはお昼ごはんなのか、広場の南側の崖っぷちに建っている大きな厨房に集まっている。みんな、手に手に自分のお椀を持っていた。お茶でもどう、みたいなゼスチュアを何人かのお坊さんにされたけれど、丁重に断って本堂の周りを右回り。扉はどこも閉まっていた。広場からは、お寺の南側に広がるダンゴの町の眺めがよくていい気分。
宿に帰って、シャワーがふつうにホットシャワーなことに感動。昼寝して、なんか、散歩するか昼寝するか、何をしに来ているんだろう、私は。
明日の目的地はタウ。ダンゴから東に七十一キロ。峠は越えない。
十一月二十五日
なんとなく八時ごろに起きてからバスターミナルに行くと、九時半だったか、カンゼから来たダルツェンド行きに拾われた。
バスはずうっと川沿いを走って、だいたい二時間でタウの町。ここも大きなビルがいくつも建っているし、町の中にも活気がある。
ターミナルでバスを降りてメインストリートに出ると、地図にない広場ができていたり、ガイドブックやあの人のノートにある地図とは町の様子が変わっている。
ちょっと考えて、それから一番最初に目についたホテルに泊まることにした。たぶん町一番の大きなホテルで、ここもフロントの後ろの壁には時計がいくつもある。そして世界各地の時間を指しているようでも、やっぱり正確なのは北京時間だけ。英語も通じないけれど、なんとか筆談で、一泊百元。しょうがない。一泊だけだし、今日も贅沢することにした。ここもシャワーはお湯で、トイレは水洗。リタンやカンゼに比べたら、夢のような生活。
あの人は、タウの町が好きだったんだと思う。お寺の外観とか、チベット人村の風景を撮った写真が多い。
まずは、お寺に登ってみた。川沿いの道路の周りに広がるのが中国風の新市街で、その上の丘には、チベット式の建物がゴチャゴチャと集まっている。白い壁と赤いログハウスはカンゼとかダンゴと似た造りだけれど、ここらへんのチベット式家屋は大きくどっしりとしていて、とくに美しい。
あの人のノートを見ると、『タウハウス、カッコイイ』とイラストの横に書いある。
お寺の門をくぐって境内に入ると、舗装していない細い路地が入り組んで、映画なんかで見た北アフリカの町のよう。壁の白さがまぶしい。お堂みたいな建物を見つけて、でも、入っていいものかどうか。誰も見当たらないし、入るのはやめておいた。
お寺はチベット人村の一部になっているから、わかりにくい。小学生くらいの男の子がひとり、どこからか現れると、私と同じ方向に歩く。くりくりの坊主頭と、真っ赤なほっぺた。その子はときどき不思議そうに私を見ながら、しばらく並んで歩く。
「タシデレ」
私が言うと、突然笑顔になって走りだした。角を曲がってどこかに消える前、こっちを向いてもう一度笑顔。
かわいいなあ。
そう思っているとひときわ大きな壁に突き当たって、たぶんこれがお寺だろう。入り口を見つけて入ると、エンクローズド型。中庭を囲んで、北側に大きな集会堂が並んで二つ。東側は台所で、西側は護法神殿と事務所、南側が学校。あの人のノートに書いてある。何階建てだろう、大きな本堂を見上げていたら、お坊さんたちが向かって右側の集会堂に集まってきた。エンジ色の袈裟と袴に、エンジ色のマントを羽織っている。マントはフェルト製で、重そうだけれど暖かそう。
お坊さんたちは黒くてぶ厚いカーテンをめくって、集会堂のポーチ部分にゾロゾロ入って行く。あとを追ってカーテンの隙間から中を覗くと、お坊さんたちは扉に向かってポーチに座っている。何が始まるんだろうかと見ていたら、そのうち読経が始まった。
写真を撮ってもよろしいでしょうか、と誰かに聞くのも失礼な気がして、最後に門のところで手を合わせてからお寺を出た。
町へと下ってから、今度は町の南にある大きなチョルテンを目指した。
タウの男の人は洋服が多いけれど、女の人は圧倒的にチベット服が多い。袖なし型、エプロンは黒で、なぜか誰もが花柄とかの腕抜きをしている。頭に巻いた真っ赤な糸の束が、黒い髪といいコントラスト。
町の中心から外れると、立派なチベット式の家が目立つ。大きな白いチョルテンが見えた。それを目印にして歩いて行くと、リタンにあったような大きなメンダン。いくつも固定式のマニ車をガラガラ回しながら、一周するようになっている。
チョルテンは壁で囲まれた公園のようになっていて、門をくぐるときに入場料を払うのかと思ったら、誰にも何も言われなかった。だだっ広い広場にちょっとしたビルくらいの高さの真っ白なチョルテン、そこに向かって五体投地礼をしている人がいる。一階部分にいくつも開いている窓から、中を人が歩いているのが見えた。入り口を見つけて中に入ると、小型のマニ車を回しながらチョルテンを一周する回廊になっている。デゴンカンのときみたいにおじいさんやおばあさんがブツブツお経を唱えてマニ車を回しながら歩いていて、子どもがその横を走り抜ける。平和だった。
一周し終わって、回廊の外に出た。チョルテンの周り三方には、大型のマニ車が林のように並んでいる。これは、チョルテンの外側を回る巡礼路だろうか。そこに入ると周りは金色のマニ車だらけで、大マニ車の迷宮みたい。
重いマニ車をベースに付いている取っ手を両手で握って回すのには、けっこうな力がいる。小さな子どもを連れたおばあさんに追いついた。おばあさんは立ち止まって、私に先に行くようにと道を空ける。おばあさんを追い越すと、私がようやっと回して勢いがついたマニ車を、あとからおばあさんが楽々と回していた。だから、道を譲ったのか。かなりの重労働だった。でも後ろからおばあさんが来る手前、途中でやめるのも気が引ける。二十番目まで数えてやめたけれど、いくつ回したんだろう。自転車に乗った男の子に追い越された。
こうしてこういうところで遊んでいるうちに、チベット人の宗教心というものは育つんだろうか。
マニ車の林から広場に出ると、夕暮れだった。空は灰色で、雲の向こう側にある太陽が山の陰に沈もうとしている。散歩してから、イスラム食堂で夕ごはん。だんだん、こんな生活がふつうになってきた。
宿に帰ると、お金を数えて日記を書いて、明日行くところのことを考えて。毎日場所は違うのにやっていることは同じで、変化があるんだかないんだか。
明日はラガン。タウから百キロちょっと、成都に近づく。本当はタウの町に二、三泊してもいいかと思ったけれども、一度両替をしに成都に行かないと、人民元の現金がもう残り少ない。
そういえば、もう一週間近くメールを見ていない。ラガンからダルツェンドで、成都に下ろう。何か、麺とチャーハン以外のものを食べたい。
チベットの言葉で、ラガンまたはハルゴン。中国語では塔公。幹線道路上の小さな村で、タウからだと朝出発するダルツェンド行きバスを途中下車するか、カンゼ方面から来るバスに乗って途中下車するか、車をチャーターするか。
朝ゆっくりして、カンゼから来るバスをヒッチすることにした。
まだ九時前なのに一日のうちにやるべきことはすべて片づいたし、もう考えることもなくベッドの上で銀色のお守り箱を見つめた。日本を出てから、もうすぐ一ヶ月になる。洋子さんと別れて十八日、梅田さんと別れたのは、三日前だったか四日前だったか。
日本語が話したくなった。そういえば、最近ひとりごとが多くなったような気がする。大丈夫なのか、私は。
なんて思っているうちに、電気を点けたまま眠っていた。
十一月二十六日
起きて窓の外を見ると、晴れているような曇っているような、微妙な天気。
昼ごろバスターミナルに行ったら、五分後くらいにタイミングよく大型バスが入ってきた。ドライバーに行き先を聞こうとすると、チケット売場の小さい窓からおばさんが大声を出す。「オイ、買票!」
メモに塔公と書いてチケット売場の鉄格子がはまった窓に差しだすと、おばさんに三十元と書いて返された。お金を払う。チケットとお釣りを投げて返されるのにはいつもムッするけれども、それにはもう、慣れるしかない。
バスの窓には上のほうに大きく甘孜ー康定と書いてあるから、たぶんこれでいいんだろう。バックパックを背負ったままドライバーにチケットを見せて、バスに乗り込んだ。一番後ろの席が荷物置き場になっていたからバックパックをそこに置くと、私はそのひとつ前の席に座る。お客さんは半分くらいで、モコモコのチベット人が三人、あとは中国人だろうか。
道はガタガタ、バスは遊園地の乗り物みたいに激しく揺れる。ニャロンからずっと同じような景色、まばらな森と畑と立派なチベット人の家。バスの前のほうにあるテレビでは、香港のアクション映画を流している。あの人が乗っていたら、大喜びしていただろう。音楽を聞こうとしたけれど、MP3プレイヤーは電池切れだった。
だんだん畑が減って、森林地帯に入る。
峠をひとつ越えたはずなのに、気がつかずにいつの間にか眠ってしまっていた。窓に頭を打ちつけて目が覚めると、道はくねくね下り坂。激しい揺れの中で、グーグー寝ていた私自身に感心する。
家の造りが変わっていた。石で造った二階建て、壁に色は塗られていなくて、窓の周りが縁取りのように白か黒で塗られている。平屋根なのは変わらない。
バルメェの町に着いた。中国語では、八美。北西のカンゼから来た道と北のギェロン地方に行く道、それに南東、ダルツェンドから成都に続く道が交わる交通の要地で、その道沿いに商店が並ぶ小さな町。ここでトイレ休憩。汚いだとか、今さら言ってもしょうがない。
十分くらいでバスは発車しようとしたのに、モコモコのチベット人三組がなかなか帰ってこない。四十代くらいか、男の人ひとりとおばあさんと三十代くらいの女の人がひとり。ようやくバスに戻ってきたと思ったら、ドライバーと激しく口論を始めた。とりあえず、早く出発してほしい。
お互い言いたいことは言い合ったのか、なんとなくといった感じでケンカが終わるとようやく発車。だんだん道は上り坂になって、前のほうに座っているモコモコのチベット人が窓を開けると、あの紙切れを撒く。旗がたくさんはためいている峠を走り抜けるとき、そのモコモコの男の人は何かを叫んだ。
下り坂。ところどころ雪が残る草原に、ヤクが枯れた草を食んでいる。遠く左手に見えるゴツゴツとした岩山は、シャダ・ラツェ。雪をかぶった頂が、太陽の光を受けて白く輝いていた。
また眠くなって、窓に頭をぶつけて起きる。大きな金ピカのチョルテンが見えた。バスはその横を通ると、正面の山に幟のような旗が林のように立っている。その麓に、チョルテンがたくさん建っているお寺。ラガンの村に着いた。ゆるい下り坂、左カーブを曲がって、バスはお寺の前の広場横で停まる。
モコモコの三人組に続いて、バックパックを引きずるように運んでバスから降りた。ダルツェンドに向かう道路の両側に並ぶ建物は新しいコンクリートの中国建物で、お寺の周りには、あの人のノートに『ミニャクハウス』と書いてあるような四角い石造りのチベット民家が建っている。
お寺前広場の向こうのほうから、チベット服のおばさんが手を振りながら猛烈な勢いで走ってきた。私の前まできて息を切らせながら何か言うけれど、たぶん中国語。ファンジェンと聞こえて、房間、部屋のことだろうかと思っていたら、おばさんは英語に切り替えた。
「ゲストハウス?」
金歯がキラリと光る。英語がわかるなら話は早い、と思ったけれども、おばさんはどうやら基本的な単語しか知らないらしい。でも、この人の並々ならない営業熱心さには心を打たれた。とりあえず部屋を見せてもらうことにして、おばさんについて行く。よく見れば、広場の隅にある立木にゲストハウスと書いた赤い看板が出ている。でも、広場から少し奥まっていてわかりづらい。
そのゲストハウスは新築らしく、三階建ての典型的なミニャクハウス。こんな民宿風のところに泊まるのはデチェン以来、ちょっとうれしい。門をくぐると塀に囲まれた小さな庭になっていて、窓際には鉢植えの花がいくつも飾ってある。夏に来たら、気持ちのいいところなのかもしれない。
家の中は、床、壁、天井、梁と木がふんだんに使われているから、意外と暖かい感じだった。急な階段を登った二階が、ゲスト用の部屋になっている。私が通された部屋は、ツインで一ベッド二十元。ベッド二つとソファがあるだけの小さい部屋で、日当たりはいいし、気に入った。壁には、デチェンの宿と同じように一面絵が描いてある。梁まで赤や青で、派手派手だった。一階はおばさん夫婦の居間、三階はまだ造っている途中で、職人さんなのか、お坊さんも含んだ何人かの人が壁に絵を描いていた。トイレは一応水洗なのに、水が凍ってしまうそうで、たらいに溜めてある水を使って自分で流すセルフ式。シャワーもあるけれど、やっぱりパイプの水が凍るから使えないらしい。でも、どのみちこの寒さでは浴びる気にもならない。
おばさんにお茶をすすめられたのを断わると、天気がよくなっていたから外に出た。日本語のガイドブックには開発されて町の様子は大きく変わったと書いてあって、確かに道路沿いには新しい近代的な建物が並んでいるけれど、あの人の写真集にはお寺のチョルテン群を撮った写真が二、三枚あるだけ、開発前がどうだったのかは私にはわからない。
通りを行き交うのは、ほとんどが民族衣装のチベット人。観光客の姿は見当たらない。男の人は腰に銀色の鞘の長いナイフをぶら下げていたり、ナイフというより刀と表現したくなるような長さのを身体の前で帯に挟んでいる。女の人は、道具なのかアクセサリーなのか帯からいろんなものをぶら下げて、歩くとジャラジャラ大きな音を立てる。ちっちゃい子の民族衣装姿はかわいらしい。
とりあえず、お寺を一周。ラガン寺は、七世紀からの伝統を持つ由緒正しいお寺らしい。一周ぐるりと高い壁に囲まれて、入り口は南側に一カ所だけ。平地に建っているから、行くだけで息が切れることはない。お寺を囲む壁には、大きいのから小さいのまでいろんな大きさのマニ車が並ぶ。数珠を持ったおばあさんたちが、列を作って順番にマニ車を回していた。
お寺の北に回って東を見ると、シャダ・ラツェの頂を覆う雪が夕陽を受けてほのかにピンク色。谷の底にあるラガンの村は、いつの間にか黄昏の薄明の中。
しばらくシャダ・ラツェと草原に見とれていたら、お寺の巡礼路を歩いていたおばあさんが手持ちのマニ車をぐるぐる回しながら、立ち止まって私を見ていた。私が歩くと、おばあさんも歩きだす。
「タシデレ」
何か話しかけようにも、私はそれくらいのチベット語しか知らない。この人たちと、この人たちの言葉で話したい。そう思った。
広場に戻った。どうやらこの村には街灯がないと気がつくと、急いで夕ごはんを食べてから宿に帰る。中庭に馬が一頭、たたずんでいた。馬の世話をしているのは、おばさんの旦那さんらしい。居間でお茶をすすめられたけれど、火鉢で少し暖まってから部屋に戻った。
ここには、電気毛布がない代わりに厚い掛け布団が二枚ある。その二枚を広げてモゾモゾとベッドに入ると、寒くはないけれど息苦しい。そういえば、せっかく買った寝袋をまだ一回しか使っていない。しかもその一回は、日本を出る前の日の夜、自分の部屋の中だった。なんか、マヌケだなあ、私。
そんなことをつらつら考えながら、ここには、もう一泊しようと決めた。
十一月二十七日
顔が寒くて、目が覚めた。
朝日はもう昇っているはずなのに、なんとなくモヤモヤと薄暗い。布団にくるまったまま窓に手を伸ばしてカーテンをめくると、雪が降っていた。
昨日の夜買っておいたパンを食べてから、用意はすませてみたものの、寒くて外に出る気がしない。ベッドの上から、窓の外を雪が斜めに降るのを眺めていた。
窓から灰色の空を見ているうちに、雪はだんだん小降りになる。私はベッドの上にあぐらをかいて布団をかぶった姿勢のままいつの間にかウトウトして、気がついたら、雲が切れていた。
日差しが強いから、雪が溶けるのが早い。お寺前広場に出ると、もうほとんど雪は残っていないし、道路は乾いている。
お寺の入り口にチケット売場があったけれど、誰もいなかったからそのまま中に入った。広い中庭の奥の真ん中に本堂と、その左右にもお堂。ねずみ色の瓦で葺いた切妻屋根。本堂に向かって右側のお堂が、七世紀に中国から運ばれてきたらしいお釈迦様像のお堂。入るとさらに奥に部屋があって、その前でひたすら五体投地礼をしている人がいる。奥の部屋の中に、金ピカの仏像があった。仏像本体も金ピカだし、身に付けたアクセサリーも派手派手だった。
私がぼうっとしていると、後ろから来た巡礼者が私の立っている横で五体投地礼を始める。小学生くらいの子どもも、お母さんに教えられながらちゃんと五体投地礼をしていた。とりあえず、その巡礼者一家とお釈迦様像を右回り。仏像の横に三段くらいの階段があって、彼らは順番に、像に細長い白い布をかけてから頭を付ける。なにやらよくわからないけれども、私も金色の仏像に頭を付けておいた。
お堂を出るとき、昨日同じバスに乗っていた三人組とすれ違う。昨日グッタリしていたおばあさんは、私を見て笑顔で舌を出した。
お寺の裏手には、大きいの小さいの、たくさんのチョルテンが林のよう。そういえば、おとといはマニ車の林の中をさまよっていたっけ。
あの人の写真を取りだして、足を止めた。二00二年一月、ラガン。あの人は、この位置からこの角度で、この写真を撮ったんだ。
ほぼ五年前、あの人が見た同じ景色を、私は見ていた。
写真の中の風景も、雪が降ったあとのよく晴れた日。時間が凍りついたように、何も変わっていない。古いチョルテンが、五年前と同じように壊れかけのままだった。
逃げだすように、そこを離れた。逃げだしたかったのかもしれない。いろんなこと考えて、疲れが一気に出たようで、どうやら私、病んでいるし重症だ。
お寺を出ると、道路をはさんだ向こう側の丘の上にチョルテンがひとつ見えたから、そこに登ってみた。ラガンのお寺と村を見下ろしながら、とにかく一度、成都に行って、それから考えをまとめよう。そう思った。
村を抜けて西側に広がる草原に向かって歩きだしたけれど、空にまた雲が多くなった。本当に粉みたいな粉雪がひらひらと降り始めると、急激に寒くなる。
「寒いや、帰ろ」
ひとりごと。
かなり早めに夕ごはんにして、スーパーでパンとビスケットを買って帰る。お米のごはんが食べたい。成都には日本食があるはずで、日本のものでも食べれば、少しは気分も晴れるんではないだろうか。
もう何もしたくなくて、すぐに布団にくるまった。
十一月二十八日
快晴だった。
ちょっと悔しい気もするけれど、もう成都に行くことに決めた。
宿のおばさんの笑顔に見送られて、乗り合いのライトバンに押し込まれる。今日行くのは、カンゼ・チベット族自治州の州都、ダルツェンド。中国語では康定。そこで一泊して、次の日は成都。両替して、メール送って、日本食食べて。
なんだかもう帰りたい気分でもあるし、このまま帰っても何かに負けたようで、とか、私の心はずっと帰る帰らないの間を行ったり来たりしている。
車の中は、モコモコのチベット人でギュウギュウ。私はサブザックを抱えて、一番後ろの左側で小さくなっている。バックパックは屋根の上にのせられたけれど、悪路で車が跳ねるたびに落っこちはしないかと不安だった。車内に流れているのは、女性歌手の歌う演歌風の歌。チベット人の流行歌手だろうか、澄んで安定した高音が耳に心地よかった。ただ、音量が少し大きすぎる。でも、誰も気にしていないらしい。
一時間くらいで、ゾンシャプに着いた。何人かのお客さんが降りて、何人かが乗って出発。小さな村なのに、リタン方面とカンゼ方面の道路が合流するからかなのか、チベット服のチベット人が大勢通りにあふれている。なぜか、チベット服を売るお店が何軒も軒を連ねていた。
ゾンシャプをすぎるとしばらく道は平坦で、石のチベット人民家が畑の中に点在する景色が続く。それが草の間からところどころ岩が見えるような荒れ地になって、その枯れ草色と灰色の中をくねくねと登る黒いアスファルトの道を、ライトバンが走る。真っ黒い煙を吐きながらようやくみたいに走る大きなトラックを、何台も追い抜いた。
だんだん雪が多くなって、その白さがまぶしい。道の脇に赤や青の紙切れがたくさん落ちているのが見えると、峠が近いのがわかる。
ダルドラ峠、四二九0メートル。車内のみんなが何かを叫ぶのと同時に、ドライバーは紙切れを撒いた。舞い散る紙吹雪を見つめていると、道はダルツェンドへ、ヘアピンカーブを繰り返しながら谷沿いに下る。
標高を下げるとだんだん森が広がって、木々がところどころ、黄色くなっていた。紅葉の季節だった。そういえば、十一月も終わりだっけ。もう、季節の感覚も忘れている。
ゾンシャプから約二時間、ダルツェンドの市街に入った。ダルドチュ川に切り裂かれたような深い谷底の町には、川の両岸に高いビルがゴチャゴチャと建っている。ここもどこか、日本の温泉町のよう。
大通りの私が乗ってきたようなライトバンのたまり場に着くと、そこが終点。来た道を戻ることになったけれど、バックパックを背負って、町の南側にある今日の宿に向かって歩く。川に沿って強い風が吹き下ろしていて、それに逆らってゆるい上り坂を歩いているうちに涙が出てきた。
今日泊まるのは、バックパッカー宿というのか一応チベット風というか、二階の四人部屋で、その四人部屋にお客さんは私一人だった。少しだけ英語をしゃべる愛想のいい女の子に部屋に案内してもらったあと、すぐに町に出て明日の食料を買ってから、砂鍋飯と書いた看板を見つけてそこで早めの夕ごはん。
宿に帰ってから日記を書くと、なるべく早いバスに乗って成都に行きたいし、小学生でも寝ないような時間だったけれど電気を消した。
川の流れるザァっという音に耳を澄ませているうちにわりと早く眠りに落ちたし、成都で一息つける安心感なのか、最近にしてはよく眠れた。
十一月二十九日
アラームが鳴るより早くパッチリ目が覚めて、準備して外に出たときはまだ真っ暗。タクシーに乗ろうかと思いながら、けっきょくオレンジ色の街灯の下をバスターミナルまで歩いた。
後ろのほうの席だったけれど、まんまと六時の成都行き始発に間に合った。着込んできたのにバスの中は暖房が効いていて、備え付けのテレビでは、相変わらずのカンフー映画。昨日充電しておいたから、私はひたすら音楽を聞いている。
六時のバスが、六時半くらいになってから発車。なぜかターミナルのすぐ外で、お客さんを拾う。窓の外は真っ暗闇から夜明けの青に変わって、八時すぎくらいになると、ようやく朝の明るさになる。
濾定は一応チベット語でチャクサムカと呼ぶらしいけれど、もう完全に中国の町。もう、チベット的なものは見当たらない。
そこからだんだん標高を上げて、二郎山トンネルに入った。四川省カンゼ・チベット族自治州と雅安地区の境、今日は峠越えはしない。
トンネルを抜けると、空は今にも雨が降りだしそう。周りは水墨画のように切り立った山々で、木々の葉の青さが目にしみる。白い壁とグレーの瓦屋根の家々、緑深い山々、トンネルと向こう側とこちら側では、まったくの別世界。ただ、なんだろう、空は灰色だし、人々の服、看板、車の原色も、どこかくすんでいるように見えた。
天全、雅安、そして高速道路を通るとだんだん高い建物が増えて、バスは成都の市街に入る。
大都市に来るのは昆明以来だけれど、都市の景色というのはどこも似たようなもので、ガラスとコンクリートの高いビル、広い道路に洪水のように溢れる車、せかせか行き交う大勢の人々。灰色の空は、狭かった。
心の中の雪の国~私のチベット旅行記~ その4 川蔵北路