心の中の雪の国~私のチベット旅行記~ その3 おまえの翼を貸してくれ
十一月十三日
朝まだ真っ暗なうちに起きて、なるべく音を立てないように支度してからそうっと部屋を出た。
空は曇っているのか、あんまり星は見えない。日中はけっこうな暑さだったのに、朝のまだ日の出ないうちはものすごく寒い。
宿の門を出たらタイミングよくバスターミナル行きの市バスが通りかかったから、そのバスに乗ってバスターミナルに行った。
チベットの言葉でチャンテン、中国の言葉で郷城。
そのチャンテン行きのバスは日本では見たこともないようなボロボロのバスで、屋根の上には家具やら自転車やらがてんこ盛り。私のバックパックも、ほかの荷物といっしょに屋根の上にのせられた。ローカル色のすごく濃いバスだったけれど白人のカップルが乗ってきて、外人は私とそのカップルの三人。
バスは発車時間をすぎても、なかなか動かない。エンジンをかけたと思ったら、ドライバーがどこかに行ってしまったり屋根の上にさらに荷物をのせたり、八時すぎにようやく出発。
ギェルタンの町を出ると、デチェンの行き帰りに通ったような森林地帯。道はやっぱり細く、川沿いをくねくねと標高を上げる。夜が明けても、天気は曇ったまま。景色はうすら寒いし、私の席は窓側だったけれども、窓ガラスが走っているうちに振動で少しづつ開いてきて冷たい風がびゅうびゅう吹き込んで寒い。ところどころの集落には、切妻がのったギェルタンハウス。どの家も立派。そして、白いチョルテン。チョルテンが建ってるいるということは、チベット人が多く住んでいるということか。
ちょと大きめの村でバスが停まると、食事の時間らしい。ほかのお客さんたちは、バスの脇の食堂にぞろぞろと入っていった。私は、今回も買っておいたビスケットとチョコだけにしておく。
白人のカップルも、バスの中に残っている。言葉の通じない世界にひとりきりで不安だったから、どこに行くんだろうと思って話かけてみた。イギリス人のアンドリューとサラ。カンゼ州を通って、四川省の省都、成都へ抜けるらしい。チャンテンからリタン、ダルツェンド、そして成都。私もそうなると思う。
彼らは成都からチベット自治区の区都、ラサに飛ぶそうだけれど、私は成都から先は決めていない。ラサはチベットの都だから、最終的にはそこに向かうことになるんだろうか。成都に行ってから、考えよう。
三十分くらいで、お客さんがバスに戻り始めた。ドライバーのおじさんが戻ると、なぜかみんなあせって我先にとバスに乗り込む。座席決まっているのに、なんで先を争う必要があるんだろう。全員揃ったことが確認されてから、また出発。
標高四000メートル近いのに針葉樹林の森で、バス道路から見下ろす景色は深い谷間。道路の上のほうではさすがに木がまばらになって、灰色の岩山。さらに標高を上げると、ところどころに雪が残る。本当に粉のような雪が、風に舞っていた。真冬になると、この道は雪で通行止めになるらしい。
五色の旗がたくさん風になびいているのは、峠の目印。標高四三二六メートル。息は苦しいような気がしないでもないくらい、これは、順化したんだろうか。チャンテンに向けて標高を下げると、また緑が増える。
空が晴れてきた。やっぱり、天気って不思議だと思う。このへんの家は、ギェルタンと違って切妻のない平屋根。集落の周りの畑では、何が採れるんだろう。
ギェルタンから八時間、バスはチャンテンの町に着いた。味気ない現代中国風な建物が並ぶ、小さな町だった。
バスターミナルというか、道路から脇に入った舗装もされてない空き地でバスは停まった。バスから降りると、ギェルタンよりは少し寒い。アンディがすばやくバスの屋根に登ると私たちのバックパックを降ろして、私とサラが下で受け取る。アンディはともかく、サラは私より小柄。なのに私より大きなバックパックには、何が入っているんだろう。
ほかの旅行者から聞いたのかガイドブックに書いてあったのか、安くて清潔な宿を知っていると言っていたから、私もそこについて行くことにした。ホテルとかレストランとか英語で書いた看板がいくつかあるということは、外国人観光客はたまに来るんだろう。町といっても、南北に一本だけの大通りの両側に近代的な建物が並ぶ。その周りには、重厚な土壁のチベット人の家も多い。
宿はバスターミナルのすぐ近所で、中国風の近代建築だった。一階の道路側は商店、客室は二階。その二階の道路側の窓に、ホットシャワーと英語が書いてある。フロントには、二十歳くらいの女の子が一人。
「部屋はある?」
アンディが英語で聞く。でも、彼女は英語がわからないらしい。
たぶんそう聞かれるだろうと思っていたら、サラが私に「あなた、中国語わかる?」
「文字は少しわかるんだけど、言葉はだめ」
白人はよく日本人に助けを求める、と洋子さんが言っていた。それでも身振り手振りを交えて、なんとか落ち着く。私は三人部屋に一人で、一ベット二十元。二人はツインで、一部屋六十元。常にお茶を飲む習慣があるからか、お湯の入ったポットはどこに行ってもサービスされる。
バスの時間を確かめようとバスが着いた空き地に行ったら、アンディとサラがいた。
「リタン行きは、六時半だって」
サラが教えてくれた。
「明日行くの?」
私が聞くとアンディが、「たぶん、あさって。悪いところじゃないようだしね、ここは。君は?」
「私も、あさって。たぶん」
八時間も窮屈な座席に座ったままで、今日は疲れた。一日ゆっくりしたい。
それから三人で、町の中を散歩した。
チャンテンはディチュ川に注ぐ急流の西岸斜面にある小さな町で、町の中にチベット寺が二つ。北のはずれにあるのが新しくて、町の南側は古いものらしい。古いほうの寺に行こうと言いだしたのは、アンディっだったかサラだったか。
大きなお寺だった。スムツェリンの本堂くらいの建物がひとつ、それが工事中だった。
この建物は、あの人が撮っている。その二00五年の写真と比べてほとんど、いや、まったく工事が進んでない。なんでだろう。その本堂隣にある壁を白く塗ってある建物の門をくぐると、そこは中庭。右手の二階建てのお堂が古いお寺で、といっても、私にはいつごろのものだかよくわからない。あの人のノートに描いてある平面図には、何かチベット語で書き込みがある。中庭にはエンジ色の袈裟のおじいさん一人と、ふつうの格好の小学生ぐらいの男の子が二人。男の子たちは、ハローハローと言って楽しげ。外国人、いや、白人が珍しいんだろうか。
お堂の中を見せてもらうと、仏像は新しいものらしい。壁や柱は真っ黒く煤けているのに、仏像は金色に輝いていた。
ハローハローと言い続けている男の子たちに見送られて、町の中心に戻った。
「ビールが飲みたい」
突然、アンディが言いだす。嫌いではないし、私も付き合うことにした。
町一番のホテルの入口に茶座と看板が出ていたから、そこに入ることにする。テーブルを囲んで椅子があって、それがいくつか衝立で囲んである。うん、きっと喫茶店だ。英語で書いたメニューはあるのに、英語は通じない。アンディがメニューの中にいくつかスペリングの間違いを見つけて、笑っていた。窓側の席に座ると、初めはお茶でいいと言っていたサラもけっきょくビールを飲む。赤いほっぺたが印象的なウェイトレスの女の子は、チベット人なんだろうか、なぜかやたらにはにかんでる。
三人で乾杯をしてから、話すのは旅行のこと、チベットのこと。アンディは話上手で、サラは途中で相槌を入れたり細かい修正をする役目。二人ともチベットエリアを旅行するのは初めてらしいけれど、イギリス在住のチベット人の知り合いがいるそうで、亡命チベット人とかそんなことにも詳しい。私は相変わらず無知で、アンディに「日本にもチベット亡命政府の代表が駐在してるんだろう?」とか言われても確かホームページを見たような、くらい。だいたい日本でふつうに暮らしていると亡命とか難民とかそんな言葉には馴染みがなく、日本人的な曖昧な笑顔でなんとか会話をもたせておいた。
いつの間にか、外は暗くなっていた。三人で茶座を出ると、やけに営業熱心なおじさんの中華食堂に入って厨房で材料を指して注文、みんなで中華をつついた。標高の高いところでは、アルコールの周りが早いらしい。久しぶりに、少し酔ってしまった。宿に戻ると、日記も書かないで寝た。
十一月十四日
快晴。
町の北側にある新しいお寺に登った。歩いていると少し暑いくらい、そしてちょっとした坂道を登るのにも息が切れるのに、チベットのお寺はたいてい坂の上にある。
白い土壁に平屋根、小さい窓のチベット人の家が並ぶ村を抜けていくつも坂を登った上に、新しいお寺があった。あの人がエンクローズド型と呼ぶ、城壁のような僧坊に囲まれた中庭のある造り。門をくぐって正面の本堂に『祖国統一』とか『民族団結』とか『反対民族分裂』とか中国語で書いた横断幕があるけれども、日本でスリ防止地区とか痴漢防止地区とか看板の出ているところは、そういった犯罪が多いところだと誰かが言っていたっけ。
本堂の入り口に、アンディとサラがいた。その横のエンジ色のお坊さんが、私にチケットの束を見せる。買えということなんだろう。十五元。
中は、スムツェリンと同じように赤や青や金色が鮮やか。ここも仏像はみんな、金ピカだった。
「中国政府はね、こういうのを、一種のプロパガンダに使っているんだ」とアンディ。
「はあ」
私が言うと、アンディは続ける。「宗教の自由ってわけさ。でもね、本当はお寺なんてただの入れ物だからね。たいそうご立派に造ってあっても、中身がなければ意味がない」
「中身は、ないの?」
「ラマはみんな亡命してしまった。だから、まじめに修行したいお坊さんはインドに行きたがっている。って話。僕は修行者ではないから、詳しくはよくわからないけどね」
「ふうん」
そうとしか、私には言いようがない。本堂の入口には、チベットの伝統文化を集めて再建うんぬんと英語で書いた看板がある。チベット人の手で伝統的な技法で造られたものだったら、中身がなくてもそれはそれで意味があるのではとは思ったけれど、どうなんだろう。
本堂二階に、両手を合わせてから身体を折ってうつぶせに前に伸ばしてそのあと立ちあがる動作を、つまり五体投地礼をしている何人かのお坊さんがいる部屋があって、両足を雑巾の上にのせてスケートをするように部屋の中を歩き回っていたお坊さんが、「入んなさい」と英語で言った。
このお寺のお宝なんだろうか。お坊さんがたちが五体投地礼をしている前にあるのはガラスケースに入った金ピカのチョルテンで、英語をしゃべるお坊さんが、ティジャン・リンポチェという高僧の聖遺物が入っていると解説してくれた。彼はそうやって、巡礼者や観光客に解説をする係らしい。ただ、ティジャン・リンポチェが誰なのか私にはわからない。マヌケだった。
私とサラが部屋を出たあとも、アンディは英語をしゃべるお坊さんと小声で会話しながらニヤニヤしている。
サラが困った顔をして言った。「彼はね、マニアなの」
「あなたは?」
私が聞くと、「私は、よくわからない。教会は国教会だし」と答えて、ニヤニヤしながら部屋から出てきたアンディに、「満足?」
こういうことはよくあることなのかサラの聞き方にいやみはなくて、ああ、と答えたアンディと二人で歩きだす。ちょっと、うらやましい。
町に向かって歩く途中、間が抜けた質問だとは思ったけれど、アンディに聞いてみた。
「あのう、ティジャン・リンポチェって、誰?」
「ダライ・ラマの教師だよ。ここの近所の村の出身で、つまり、あのゴンパはティジャン・リンポチェ自身のゴンパなんだ」アンディは、お寺のことをゴンパと言う。チベット語だ。
「先代は亡くなって、ほら、おじいさんの写真と若い男の子の写真があっただろう? おじいさんが先代で、若いほうは生まれ変わりだよ」
転生。チベット人は輪廻転生を信じている人々だというのは私の数少ない知識の中にもあるけれど、実際それがどんなことなのかは、私の理解を超えている。宗教とか、あんまり深く考えたことがなかった。そういえば、実家には仏壇と神棚があるし、私の姉は教会で結婚式を挙げた。それがプロテスタントだったかカトリックだったか、たぶん、どっちでも関係なかっただろう。神社に初詣に行ってお盆にお墓参りをして。典型的な、日本的多神教。
「生まれ変わりって、どう思う?」
アンディに聞いてみた。
「信じてはいないよ。僕は」
意外。
「僕はね、無宗教。チベット人より、共産主義者の見解に近いね。唯物論的無宗教。母親は熱心なプロテスタントだけど、僕は物心ついたころから教会には行ってない。ただ、人の信じているものは尊重する。魂が先代から受け継がれているかはともかく、チベット人の心の平和のためにエリート教育を受けた人望のあるラマが必要なら、それでいいんじゃない?」
「はあ」
心の平和。心の平和って、何だろう。
「マリ、そういうことをこの人に話しさせたら明日になっちゃうから、その前に何か食べない?」
サラが笑いながら言う。そういえば、お昼をだいぶ回っていた。町の食堂でまた厨房に入って注文すると、話は明日の予定のことになる。
「車がたくさん停まっているでしょう」とサラ。
通りには、日本でいったらライトバン的な車が何台も停まっていて、たぶん客待ちをしているっぽい。
「リタンまで行ってくれるらしいの。何人かでシェアすれば、安くなるはず」そういった実務的なことを調べるのは、サラの役目らしい。「バスは朝早いし、私、朝早いの苦手」
そのあとを、アンディが続ける。「寒いしね、夜明け前は。あれだと、バスより速いんじゃないかな。それに乗り心地も悪くなさそうだ。バスだとこんな風にしないと」
身体を小さくして見せる。確かにチャンテンまでのバスはシート間隔が狭くて、私にとってもちょっと窮屈だった。
「うん、そうだね。あれで行こう」
私が言って、決定。
午後はそれぞれ適当に、私はもう一度古いほうのお寺に行ったり日記を書いたりしてすごした。夜はまた、営業熱心なおじさんの中華食堂に行って三人で中華。ビールは飲まずに、早目に宿に帰った。
十一月十五日
準備をしてバックパックを背負って廊下に出ると、ちょうどアンディとサラも部屋から出たところだった。
「まずは、朝ごはん?」
私が言うと、アンディが「いいね」
八時ちょっと前なのに、外はまだ暗い。広い中国の東の端の北京の時間が標準時間だからで、役所や学校はともかく、ここではどちらかというと体内時計を基準にしている人のほうが多いような気がする。アンディが大声で呼ぶと、ようやく女の子が起きてきて入口のカギを開けてくれた。
寒い。けれど、星がきれいだった。東側の空が、なんとなく白くなりかけ。何軒か中華食堂が開いていたから、そのうちの一軒に入って包子と希飯。そういえば、チベットに来ているのにずっと中華ばかり食べている気がした。食べ終わって店の外に出たら、ライトバンのドライバーがカギの束をジャラジャラさせながら「リタン、リタン」と言って寄ってくる。
彼がチベット人か中国人かはともかく、中国国内ではワン、ツー、スリー、フォーていどの英語も理解されないことがあるというのはこの二週間でよくわかったけれど、アンディとサラはあくまで英語を使う。それでもどうやら話をまとめているから、日本を出ると、そういった押しの強さも必要なのかもしれない。
そのドライバーに連れられて、バックパックを車の屋根に上にのせる。でも満員にならないと出発しないようで、車の中から「リタン、リタン」と客引きをしているドライバーのおじさんを眺めてひたすら待った。
このあたりのチベット女性の民族衣装は、ギェルタンで見たようなのとはかなり違っていて、よくドテラのようなと形容される写真で見るような裏地に毛が付いたチベット服。左前で、ロングスカート風の裾は踝くらいまである。黒かカラフルな横縞のエプロンをしている人が多い。袖は男物ほど長くなくて、なぜかみんな腕抜きというのか、袖にカバーをしている。ギェルタンよりは増えても、やっぱり男の人の民族衣装は少ない。女物と違ってギェルタンと大差はないけれど、ギェルタンでは確かフェルトみたいな布地一枚だったのが、こっちでは毛の裏地が付いてモコモコで暖かそう。
一時間以上待ったか、空は明るくなって、通りに人も増えた。
ようやく乗客が集まった。助手席には、お坊さんが二人。真ん中の列に私たち三人と、それにお坊さんがひとり。後ろの席には、モコモコのチベット人。家族なのか、おじいさんとおばあさんとお父さんと中学生ぐらいの女の子でギュウギュウになった。
走りだすと、順調。川の反対側に渡って、森林地帯の大峡谷をさかのぼる。私の席は左の窓側で、窓の外は切り立った深い谷間。谷底までは何百メートルもあって落ちたらひとたまりもないはずなのに、ドライバーは慣れたもので派手にクラクションを鳴らしながら遅い車をどんどん追い越す。チベットの歌謡曲なのか、男の歌手の歌がテープで流れていて、車内の誰かが常にそれに合わせて歌っていた。
もしかしたら、バスの座席より窮屈だったかもしれない。でもだんだん眠くなって、はっと目が覚めたら、景色が変わっていた。
植物がほとんど見当たらないし、ところどころに白く凍った水溜りがあるほかは、一面に大きな岩がごろごろしているまったくの荒野。標高は四三00メートル。空は見たこともないほど鮮やかな青。
群青色。
すごい。小型車くらいの大きさの岩がいくつも、私には誰かがそこに置いたように見えるけれど、こんな地形ってどうやってできたんだろう。道の先に五色の旗をたくさん万国旗みたいにしたロープがちぎれそうになって、風にはためいているのが見えた。ドライバーのおじさんが、運転席の窓を開けた。肌が切れるような空気が、車内に流れ込む。その寒い中おじさんが窓の外に手を出すと、その手の中から三、四センチ四方くらいの紙がいくつも飛びだす。手品みたい。五色の旗がはためく峠をすぎるとき、おじさんは何か叫びながら左手の中に持っていた紙の束をぜんぶ、風の中に投げた。赤や青や白の小さな四角い紙が、ひらひらと窓の外に舞っていた。
「ウィンド・ホース!」
そう言って、アンディが身体をよじりながらカメラを私の前に突きだす。私の横に座っているのはサラで、その隣がアンディ。撮りにくそうだった。
窓を開けようとしたら、「OK、大丈夫」
満足げにカメラを引っ込めた。
「アンディ、チベット好き?」
あえてライクではなくラブにして、私は聞いてみた。
「イエス」即答。ただ少し間をおいて、「たぶんね」
たぶん、か。まただ。洋子さんは、たぶん麗江好き。アンディも、たぶんチベット好き。自分の感情のことなのに、たぶんってなんだろう。
おじさんが窓を閉めた。道は下り急カーブの連続で、そして岩の荒野は終わって木がまばらに見えだす。また景色ががらりと変わった。すごい。あの人は、いつもこんな風景を見ていたんだ。ひとりだけで、ずるい、ずるいよ。私もいっしょに、見たかったよ。
突然涙が出そうになったけれど、それは悲しいからなのか、目の前の風景に感動したからなのか。なんだろう、この気持ちは。私は何をしているんだろう。私は何がしたいんだろう。
洋子さんに会いたくなった。いや、一番そばにいて欲しいのはあの人なのに、でも私はあの人がいないから、こうしてここに来ていて。
もう、何がなんだかわからない。いつの間にか上着の中に手を入れて、銀色のお守り箱を握りしめていた。
車はいくつか村を通りすぎて、今日最後の峠を越える。またドライバーが窓を開けて、紙の束を撒いていた。窓の外を紙が舞い散るのを眺めていたら、その背景が今度は茶色い大草原になる。そして、ドラマチックな景色の移り変わりの最後に着いたのは、四角い中国建築が並ぶ中国の町。
チャンテンから四時間弱、リタンは元々リタン僧院の門前の小さな町だったんだろうけれど、今はカンゼ州リタン県の県庁所在地で、中国語では高城鎮。標高は三六九0メートル、この中国名はたぶん、高いところにある町という意味なんだろう。
ライトバンは、似たような車のたまり場になっている路上で停まる。道の反対側はバスターミナルで、町の中心からは少し離れていた。
寒い。日差しは強くて暖かいけれど、空気がものすごく冷たい。強い日差しでも暖まるほどの空気がないらしい。ドライバーがバックパックを下ろしてくれてると、ただそのバックパックを背負うだけでハアハアと息が切れる。三人が三人ともゆっくりと深く呼吸しながら、今日の宿に向かって歩きだす。
子供や男の人はハローハローと言って、ニコニコしながら私たちを見ている。アンディはハローと答えて愛想を振りまいているのに、サラはやや余裕がない様子。
男の人のチベット服率が高くなった。みんな真っ黒に日焼けしていて、なぜかロンゲが多数派。チベット服は布製だったり革製だったり、あれは垢なのか、真っ黒に汚れている。チベット人はお風呂に入らないだけでなく、服もめったに洗わないんだろうか。
でも、ここは日本とは違って空気がものすごく乾いているし、生活の形が違えば習慣も違ってくる。標高四000メートル近いところで遊牧民生活をしている人々には、毎日湯船につかる必要なんてなんだろう。私もあんまり、シャワーにこだわらなくなってきたし。
女性物のチベット服は、チャンテンで見たようなタイプの革製が増えた。よく見ると髪が何本もの細かい三つ編みだったりして、なかなかおしゃれ。そういえば、チベット女性はたいてい髪の毛を真ん中から分けて二本のおさげ髪にするか後ろでまとめるか細かい三つ編みにするかで、ショートの人は見ていない気がする。中華屋のおばさんのショートは見るけれど、中華屋のおばさんは中国人だろうと思う。
目当ての宿が見つかった。味気ない中国建築なのはしょうがない。一応、リタンのお寺の経営らしい。三人部屋に仲良く三人。ベットが三つとテレビがあるだけで、電気毛布はあるけれど暖房はない。寒そうなのは、それもまあ、しょうがない。
とりあえず、何か食べようと三人で外に出た。町は丘の南斜面に広がってるような感じで、南を見ると大草原。その向こうに雪山。強い日差しに、雪の白さがまぶしい。コントラストがはっきりしていて、遠くにあるのに手が届きそうに見える。空気は冷たく、そしてなかなか肺の中に入っていかないけれどもいい感じ。さっきまでの心のモヤモヤは消えていて、なんだろう、感情の変化が激しくなっているような気がする。
適当に選んだ中華屋さんに入ると、今回は各自でべつのものを注文することにした。けっきょく、みんな同じチンジャオロースーのチャーハンになったけれど。サラは少し調子が悪いようで、さかんにペットボトルの水を飲んでいる。
「大丈夫?」
看護が仕事だったのに、今の私にできるのは人に大丈夫とたずねることだけ。それがなんだか、申し訳ない。
「うん、少し頭が痛い」
「君はどう?」
アンディが私に聞いた。
「今のところ、平気」
少しだるいような感じがするだけで、なんとか大丈夫。まだお昼すぎだったけれど、今日はもう帰ってゆっくりしようと思った。アンディもサラも、今日はおとなしくしていようと言う。チャーハンはおいしかったのに、サラは半分近く残していた。
みんなでゆっくり歩いて、どこにも寄らないで宿に帰る。その日の午後は三人ともずっとベットの中で、サラは寝込んでいて、アンディは何か分厚い本を読んでいる。私はガイドブックを眺めたり、眺めているうちに昼寝をしたり。
起きたら、夕方だった。ただし北京時間の夕方だから、外はまだ昼すぎの明るさ。やっぱり全身がだるい感じがするのは、実は寝すぎただけかもしれない。
「何か買ってこようか?」
サラに聞くと、「大丈夫。ありがとう」
声の調子は、ぜんぜん大丈夫そうではなかった。
「僕も、あとで外に行くから」
そう言うアンディに任せることにすると、一人で外に出た。インターネットと書いてある看板を見て、メールをチェックすることにする。そういえば、ギェルタンで一回見てから一週間近くメールを見てない。できる限り頻繁にメールを送るというのが、私と父との間で決めたルールのひとつだった。日本語は、見られるけど送れない。
洋子さんから、昆明に戻ったとメール。姉からは、病気になってないかとメール。私と父の間に入って反対する父をなんとかなだめすかせて私の旅を応援してくれたのは姉で、母は何も言わなかった。その母から、ちゃんと食べているのか、風邪はひいてないかとメール。それぞれ宛に返信を送って、そうだ、せっかくデジカメを持っているんだから、カードリーダーも持ってくるべきだった。母に、リタンの雪山と青い空を見せたかった。それから、姉と姪っ子のやえちゃんにも。
ネカフェを出ると、やや夕暮れ。一時間以上もパソコンの前に座っていた。
お昼を食べた中華屋さんに入ると、晩ごはんもチャーハン。この中華屋さんはメニューが大きく壁に張り出されているから、注文するのに便利だった。食べたいものの名前を指させばいいし、値段もきちんと書いてある。
ジャガイモのチャーハン。やっぱり、おいしかった。
宿に帰ると相変わらずサラは寝込んでいて、アンディは本を読んでいる。
「康定行きのバスは、六時四十五分だって。僕らは明日、康定に行くよ」
本から顔を上げると、アンディが言った。康定はカンゼ州の州都で、標高二五00メートル。そこまで下がれば、サラの高山病もなんとかなるだろう。
「サラは大丈夫?」
私が聞くと、布団の中からうーんと声が聞こえる。
「君は、しばらくいるの?」
アンディに聞かれて、「うん、そうだね。二、三日は」と答えたものの、あんまり考えてはいない。次のプランは、明日ゆっくり考えるつもりでいた。
サラは寝込んだまま、アンディも明日早い。私も身体がなんとなく重たい感じが取れないし、電気毛布では布団に入っていないと暖まれない。部屋の照明は裸電球ひとつで、それが暗くて、アンディは頭につけたライトの明かりで本を読んでいる。
まだ九時前だったけれど、私は布団の中にもぐり込む。アンディが私に断ると、部屋の電気を消した。
十一月十六日
夜中、息苦しくて何度か目が覚めた。サラが部屋の外に出る音がしたのは、たぶんトイレで吐いていたんだろう。
目覚ましのアラームがピーピー鳴る音が聞こえると、アンディが起きてガサゴソと準備を始めた。サラは大丈夫だろうか。部屋は真っ暗だったけれど、なんとなくシルエットでサラも起きあがっているのが見える。
「気分はどう?」
サラに聞くと、「バスターミナルまで行って、バスに乗るにはなんとかなりそう」
「気をつけてね」としか言えない私。なんだか頭が重くて、起きあがれない。「電気、点ければ?」
「オーケー、問題ない」
そう言ってアンディは、懐中電灯の明かりで準備を終えた。
アンディが、「また、どこかで。たぶん成都で会おう」
続いてサラも、「また、会えるといいね」
「気をつけて。いい旅を」
私が言うと、二人はバアイと言って出ていった。本当は起きあがって見送るべきだったんだろうけれど、布団の外はものすごく寒いし、そして頭がぼうっとしている。電気毛布は夜中暑くなって、気がついたら汗をかいていた。明け方になると、今度はそれが冷えて寒い。暑いんだか寒いんだか、と思っているうちにまた眠りに落ちていた。
目が覚めたら外は明るくなっていて、服務員の女の子が掃除をしに部屋に入ってきた。私は、彼女がアンディとサラの使っていたベットを直して床を掃いて出ていくのを、布団の中から眺めている。
なんだか身体が熱っぽいのは、これは風邪か。お湯の入ったポットは室内に常備されているから、そのお湯でお茶を入れて、昨日買ってあったパンを食べてからまた布団にもぐり込んだ。
本を読もうにも、布団から手を出していると寒さでだんだん手がかじかんでくる。しょうがないから、頭から布団をかぶってぼんやり考えごと。
いつの間にか、もうお昼。寝てばかりいてもなんだし、身体はだるいままだけれど起きて洗濯してから外に出た。
空は青く、日差しが強い。
リタンのお寺に登った。相変わらず寝ていても息が切れるのに、お寺は坂の上。高度計の数字は、四000メートルを超えた。
リタン・ジャムチェン・チュンコルリンはギェルタンのスムツェリンのようないくつもの建物を城壁で囲んだ造りで、あの人のノートに『坊主、数千人?』とメモ書きしてあるように、確かに巨大だった。ただ、一つだけ残された古い建物以外は、全部新しいものらしい。
入口の門の手前、左手に何かを彫りつけたスレート石が積み重ねてあって、何メートル四方かの大きな塚のようになっている。マニ石塚、マニ・ドプン、メンダン。あの人のノートに、いろんな呼び方が書いてある。
メンダンとか、チョルテンとか、お堂とか、湖とか、山とか、チベットでは、ありがたいものの周りを右回りするらしい。ここも、おじいさん、おばあさんが何人もそうやって歩いている。手には数珠、取っ手の上に回転するドラムがのっているのは、マニ車というやつだ。私も右回り。腰の曲がったおばあさんがスタスタと歩いて私を追い抜いて行くけれど、私はちょっとした坂を上がるのにも息が切れている。よく見ると、おばあさんたちの中にはドテラ風のほかにドテラの上に袖のないジャンパースカート型の服を着ている人もいて、服装の違いを見ているのも楽しい。
門をくぐって境内に入ると、白い壁の四角い建物が並んでいた。土壁ではなくて石壁で、強烈な日差しを反射するその壁の白さが目に眩しい。チベットの家は、なぜか壁を白く塗ってあることが多い。そして、お寺の壁はエンジとか黄色だったり、あれはお寺を表す目印なんだうか。
本堂は、巨大だった。エンクローズド型で、三方を囲む壁は僧坊ではなくただの壁。石段を登ったポーチ状になっている本堂の入口に、靴がたくさん脱いである。入口の両開きの大きな扉は開いていて、そこにカーテンというか、厚い絨毯みたいな布がかけられて中は見えない。奥からは、大勢で読経する声が聞こえてくる。中からエンジ色のお坊さんが出てきたから、入ってよろしいでしょうか、と言って中を指す。たぶん彼はいいよ入んなさいみたいなことを言って、入口の布を下からめくってくれた。あのう、靴は脱ぐものなんでしょうか、と言って靴を指すと、脱がなくてもいいと手振り。手を横に振って、日本と同じ。
本堂の中は、相変わらずの鮮やかな色彩のデコレーション。停電なのか、電球はいくつか天井からぶら下がっているのに電気は点いてない。でも二階の明かり取りの大きな窓から、本堂の真ん中あたりに太陽の光が白く帯のように差し込んでいる。そして、そこで大勢のお坊さんが読経をしていた。
奥から手前にかけて縦に長い椅子と言うか一段高くなった絨毯を敷いた台が何列かあって、お坊さんたちは真ん中を境に左右が向き合う感じであぐらをかいて座っている。内側の列の奥側に行くほど位が高くなることは、簡単に想像できる。一番内側の一番奥にある金ピカのイスは、お寺の一番上位の人の席なんだろうか。でも、今は誰も座っていない。一番外側の列には小学校低学年くらいの子たちが並んでいて、お互いをつつき合ったり小声で話し合ったり居眠りをしていたりする。そこに監督役か何か、体格がよくて貫禄たっぷりの大人のお坊さんが後ろ手に数珠をくりながらゆっくりと歩いて近づくと、みんな姿勢を正して、大声でお経を唱えながら船を漕いでいる子をつついて起こす。なんだかほほえましい。
エンジ色のマントをかぶっているけれど、その下はノースリーブ。みなさん、寒くないんだろうか。本堂の中に響く低音の男声合唱が耳に心地よく、しばらくそのまま中にいたかったけれど、ものすごく寒い。身体の冷えに耐えられなくなって、外に出た。
太陽が暖かい。ほかのお堂を見ようと、境内をさ迷った。あの人のノートに細かく間取りやら仏像の配置やらが書いてある建物、セルカン・ニンバは閉まっていた。お坊さんはみんな本堂で読経しているからか、どこに行ってもほとんど人影がない。一番高いところにあるお堂に登って南側を眺めると、リタンの町、大草原、そして輝く雪山。夢のよう。あの人が、いつも見ていた景色。
変な匂いに気がついた。このお堂は小高い丘の上にあって、東側の斜面のあちこちには水が流れたような跡。つまりここの東面は、一帯がお坊さんのトイレなのだ。境内にはいくつか公衆トイレのようなものは建っていたけれど、中はひどい有様、外でするほうがいいのかもしれない。
帰り道は、境内を囲む壁の東側の小さな通用門から外に出て、壁沿いを歩いた。
こんもりとした丘の頂上には、五色の旗がたくさん巻きつけられた三、四メートルくらいの長さの大きな矢がいくつもまとめて立ててある。チベット語でラプツェと言うらしい。そこに近づくと、四、五人の子どもたちが遊んでいた。私に気がつくと、みんな走り寄ってくる。人懐っこいというか、日本では考えられない。みんながみんな鼻水をたらしていて、五、六歳くらいの女の子の一人は、前髪をきちんと切りそろえてあるのに髪の毛がところどころくっつき合ってドレッドみたいになっている。汚いけれど、かわいらしい。子どもたちは何を要求するでもなく、ただ私の周りに集まってキーキーはしゃいでいる。
身体が熱っぽいし、咳が出るようになった。完全に風邪だ。子どもたちの写真を撮って、バイバイと言って別れた。みんなバイバイと大きな声で叫んで、いつまでもいつまでも手を振っていた。
お寺の周りはチベット風の家ばかりで、この辺の家はほとんどが石造り。二、三階建て、小さな窓、平屋根、お寺の建物と違って、壁は白く塗られてはいない。そんな旧市街というかチベット人街を抜けて、町に戻った。スーパーでパンと水を買って、宿に戻るころにはもうフラフラ。かなりの高熱が出ている。部屋に戻って、靴だけ脱いで布団に入った。
その日はもう動けず、次の日も、その次の日もほとんど一日寝たきりですごした。外に出るのは、スーパーに何か買いに行くときだけ。それも熱にうなされながらで、こんなときアンディとサラみたいに二人で旅をしていたら、と思う。
あの人は、たぶん私が心配するから風邪引いたとかそんなことメールしてきたことはなかったけれど、やっぱりこうして苦しんだんだろうか。そのはずだ。それでもあの人は、一人旅を選んで。私はベットの中であの人のことと家族のことばかり考えては、ときどき涙を流していた。
十一月十九日
なんとか熱は下がった。でもまだ少しだるくて布団にくるまってぼんやりとしていたら、部屋に新しいお客さんが入ってきた。服務員の女の子を小姐と呼んで、どうやら中国語ができるらしい。日本人だった。洋子さんのステレオタイプ通りヒゲモジャだし、そして私も持っている青い表紙の日本のガイドブックを持っている。
彼は私に向かって、「ニーハオ!」
「あー、すいません、私、中国語わかりません」
「あ、日本人か」
まだまだ体調が完全ではないしあんまり人と話したい気分ではない私と反対に、彼はやたら話したりがりで、彼の質問に私が短く答えるような形で会話が進む。梅田といいます、ウメって呼んでくださいと自己紹介された。どうやら中国に留学中らしいけれど、勉強はしなくていいんだろうか。
私とおなじようにチャンテンから来て、リタンから先は青海省に向かって西寧から鉄道でラサに行くと言う。
「許可証は? どうするんですか?」
チベット自治区に入る許可証は、どこで取るつもりなんだろう。そう思って聞いたら、「俺、中国語話せるからさ、中国人のフリしてれば大丈夫じゃね?」
「ほんとはダメなんですよね、そういうこと」
「いいんじゃん? みんなやってるし」
「はあ」
彼はひと通り言いたいことを話すと、吃飯と言いながら外に出ていった。
私はまた、布団の中で考えごと。いや、考えることも考える時間もありすぎるから何からどうやって考えていいのか考えて、つまりは、ただぼんやりとしていた。
でも何日もそうやってぼんやりしていたから、ただなんとなくすごすのにも疲れて、ガイドブックとあの人のノートを眺めながら布団の外に出している手が冷たくなると頭から布団をかぶって、少しウトウトするとまたガイドブックとノートを見るのを繰り返した。
ノートに描いてあるリタンの町の地図を眺めていたら、リタンに着いた日に入った中華食堂の位置に印がしてあった。『炒飯ウマい』と書き込みもある。知らないうちに、あの人とおなじところでごはん食べていたんだ。
うれしいような、ちょっと悲しいような、複雑な気持ち。
時計を見ると、もう夕方。まだ本調子ではなかったけれど、咳はほとんど出なくなったし、外で何か食べようと思って町に出た。最初からそうしようとは思っていなかったのに、なぜか足が向くのは例のチャーハン屋さん。メニューを見て、あの人はどのチャーハンを食べたんだろうか、とか、また落ちることばかり考えていた。
帰り道、笑うと金歯がチャーミングなチベット人の女の人の雑貨屋さんで、巷で流行っているらしいカラフルな横ストライプのマフラーを買った。その人の頭に真っ赤な帯が入っているのは、最初カチューシャかと思ってよく見ると、二本の三つ編みに束ねた赤い糸を編み込んだのを頭に巻きつけてあった。地方によって、髪型も変わる。あの人のノートにチベットの地方ごとの髪型とかアクセサリーを描いたイラストのページがあったけれど、チベット語しか書いていないから、それぞれの絵がどこの地方のものなのかは私にはわからない。
買ったマフラーを首に巻くと、スーパーに寄ってから部屋に戻った。梅田さんはもう部屋に帰っていて、薄暗い中で文庫本を読んでいる。電気を点けようとしたら、停電。梅田さんが本から顔をあげた。
「まっちゃん、リタンスー行った?」
この人はいつの間にか私のことをまっちゃんと呼んでいるけれども、私はまっちゃんじゃない。
「は? どこ、ですか?」
「寺。リタンの寺」
寺を中国語でスーと発音することは、洋子さんに教えてもらって知ってはいた。でも、この人の言い方は何か自分が中国語を知っていることで人に優越感を持っているようで、なんだか疲れる。
「お寺? ああはい、寝込む前に行きました」
そう言って答えると、「ふうん」
短くひとこと。何が言いたかったんだろうか。
私はタバコの臭いが嫌いだけれど、彼は部屋の中でタバコを吸う。
そして突然、「まっちゃん、次、シンロン行かない?」
「シンロン? って、どこですか?」
「リタンの北。新しい龍って書いて、新龍」
新しい龍って書くなら、それはしんりゅうだ。彼はカンゼ・チベット族自治州ニャロン県のことを言っていて、ガイドブックにもあの人のノートにもニャロンと書いてあるから、チベット語ではニャロンなんだろう。リタンの北隣の県で、ガイトブックの地図に道路は描かれていないものの、道は通っているらしい。あの人のノートには、ニャロン県内の簡単な道路図とお寺のリストがあるだけ。あの人は、ニャロンには行っていないのかもしれない。
ニャロンからカンゼ自治州カンゼ県には定期バスが走っていることは、あの人のノートに書いてある。このまま成都に行くよりカンゼから成都に下ったほうが見所も多いし、たまには、あの人が行ってない町に行くのも悪くはないと思った。洋子さんが言っていたように、通訳がいれば私が楽できると思ったのもある。
「いいけど、バスはあるんですか?」
「汽車站の対面に、車がたまってるでしょ? 新龍行きもあるって」
成果を誇るようで、なんだか得意気。チャンテンからリタンに来たときみたいに、ライトバンをシェアするらしい。
「いいですよ。でも私、明日は動けないですよ。たぶん、あさって?」
「うん、俺、明日はリタン寺見に行くから、あさってね」
なんか梅田さんのペースで決められてしまったけれど、まあ、旅は道連れ。
梅田さんとの会話は正直疲れるし、話を続けていると彼は私が人に触れられたくないと思っている部分に平気で踏み込んできそうだったから、音楽を聞きながら布団にもぐり込んだ。
十一月二十日
リタン滞在六日目。
もう、一週間もシャワーを浴びていない。お寺にいた子みたいに、そのうち天然ドレッドになってしまうんだろうか。髪だけでも洗おうかと思ったけれど、この寒さでは、せっかくの風邪が治りかけなのにまた寝込んでしまう。あきらめて、布団の中でモゾモゾとしながら太陽が高くなるのを待った。
梅田さんは午前中わりと早い時間に起きると、どこかに出かけた。ときどきひとりごとをブツブツ言っていたのは、私に何か聞いてほしかったのかもしれない。私はヘッドホンで音楽を聞いていたから、彼が何を言っていたのかはわからない。
昼前になってようやく、私もなんとか起きた。うん、大丈夫。明日は移動できそう。
あの人のノートに、リタンの町なかにダライ・ラマ七世の生家が残っていると書いてあって、その写真もある。見にいこう。
外は、今日も晴れ。ツバの広い帽子が必要だ。みんな西部劇みたいな帽子をかぶっている理由が、よくわかった。それと、サングラス。
おしゃれなのか、男の人は暗くなってもサングラスをしているけれど、レンズにシールが貼ったままなのが気になってしょうがない。女の人は大きな柄物のマスクをしていて、あれもおしゃれなんだろう。一本の三つ編みにした髪の毛に赤い糸を何本も束ねたものを付けて、頭にターバンみたいに巻いている男の人が歩いている。銀の髪飾り、ピアス、大きな指輪、珊瑚のネックレス。チベット人は、おしゃれが大好きらしい。
相変わらず息を切らしながらチベット人地区にたどり着いたものの、あの人のノートに描いてある地図の位置関係がわからなくてウロウロしていたら「コニチハ」と声がする。誰かと思って見ると、エンジ色のお坊さんだった。チベット人はだいたい年齢不詳だけれど、二十代後半から三十代前半だろうか。袴姿にエンジ色のダウンジャケット、エンジ色のニット帽。
お坊さんはニコニコしながら、「ジャパニーズ?」
「英語、話せるんですか?」
英語で聞き返したら、インドで習ったと言ってふつうに英語をしゃべった。ちょうどよかった、ジャケットの内ポケットから写真を出して、お坊さんに見せる。
「ここ、知ってますか?」
彼は写真を手に取って一瞬考えると、「ダライ・ラマ七世の家だね。すぐそこだよ。連れてってあげる」
スタスタと歩きだして、私はそのあとを追う。チベット人街の道は、狭くて舗装もされていない。
「ここだよ」
大きな家だった。彼は人差し指をポイントするのではなく、指をそろえて手のひらを上に向けている。
二階建ての標準的な石造り。入り口の金色に輝くプレートには、中国語とチベット語と英語が書いてある。あの人の写真と比べて見ると、何かが違う。
「これは、昔の写真だね」
お坊さんに言われて、気がついた。あの人の写真には、カンゼ州旅行局の金色のプレートは写っていない。赤く塗られた扉は開いていて、中をのぞくと、見るからに凶暴そうな黒い大きな犬が激しく吠えたてる。鎖で繋がれてはいるけれど、鎖を引きちぎりそうな勢いで暴れていて恐ろしい。
私を案内してくれたお坊さんが大声で叫ぶと、中から青いエプロンをしたお坊さんが出てきた。彼は管理人らしいエプロンのお坊さんに何か話して、中に入れと言う。
「この写真のころはチベット人の家族が住んでいたけど、今は寺が管理してるんだ」
石の建物の中に入ると、白い細長い布がたくさん壁に渡した紐にかけられているところがあって、そこがダライ・ラマ七世が実際に生まれたところらしい。お賽銭というか、一角とか五角のお札がたくさん、白い布に絡まっていた。
「ありがとう」
暗い部屋から外に出ると、太陽の光に力を感じる。大きな犬が、やっぱり鎖を引きちぎりそうな勢いで暴れていた。
ダライ・ラマ七世って、いつの時代の人だっけ。あの人の写真と見比べてみると、さっき私が入ったダライ・ラマ七世の生家自体は、あの人が写真を撮ったときと大きくは変わっていない。築何百年の家に今でも人が住んでいるのは日本だったら維持が大変だろうとか、すぐに考えてしまう。
犬が鎖を引きちぎらないうちにと足早に門をくぐると、こっちだよと言うお坊さんに従ってまた細い通りを歩く。すぐに、舗装された大通りに出た。大きな看板があって、大通りから来ればすぐにわかったのに、私はぐるっと裏に回ってチベット人街の奥に入っていたらしい。
「これから、どこに行くの? 寺には行った?」
お坊さんに聞かれて、「風邪引いて体調悪いんで、帰ります」
十メートル以上歩くのは久しぶりだったから、少し疲れた。やっぱり、薄い空気は身体にこたえる。じゃあ途中まで、と言うお坊さんと、大通りを歩く。コンクリートの建物、漢字の看板。ちょっと歩いただけで、違う町に来たみたい。
梅田さんが、通りの反対側から歩いてくる。
お互いこんにちはと言うと、お坊さんが私に「友だち?」
私は少し考えて、「同じ、日本人」
わかってはいるだろうけれど、ほかの表現が思い浮かばない。梅田さんがお坊さんに何か中国語を話すと、彼はちょっと顔をしかめて、英語で答えた。
「ぼくはチベット人だ。中国語はわからない」
梅田さんは少し面食らったようで、中国語を勉強していて中国を旅してるはずなのに、彼は中国人であるはずのお坊さんに中国語がわからないと英語で言われて言葉を失っている。
どうやってこの場をフォローしようかと考えていたら、けっきょく梅田さんが先に口を開いた。
「まっちゃん、もう戻る?」
さっきの会話がなかったかのように私を向いて、でも微妙にバツが悪そう。
「あー、はい、そうですね」
「俺、もう少し歩いて帰る」
じゃあ、と言って別れて、でも、ぼくはチベット人だと言うお坊さんの言葉が心に引っかかって、歩きながら考えてしまった。
チベットが、チベット側にはそのつもりはなかったのに中国の一部になっているのは読んだり聞いたりしてわかっているつもりだったけれど、大多数の中国人のなかでチベット人が生きていくのには、私には想像もできない苦労があるのかもしれない。
平均的な日本人として育ったつもりの私には支配者と被支配者とか別世界での出来事なのに、このお坊さんにとっては今実際に自分の身に起こっている話なわけで、私は、どうしたらいいんだろう。
「日本人はチベット人と同じ仏教徒で、顔もよく似ている。ぼくは日本人が好きだ」そう言ってお坊さんは、ぼくはこっちに行く、と細い路地に入って行った。最後に手を振って、「サヨナラ」日本語だった。
部屋に戻ってまた布団にくるまっていたら、外に出るのが面倒になって、夕食は買っておいたパンだけですませた。ここ二、三日、ほとんどパンしか食べていない。
梅田さんは一度帰ってくると、ブツブツとひとりごとを言いながら、吃飯なのかまた出ていった。
薄暗くなってきたから電気を点けようとしたら、また停電。真っ暗にならないうちにと明日のためにパッキングをしていると、梅田さんが帰ってきた。
「まっちゃんさあ、明日何時にする?」
私はまっちゃんじゃない。「九時十時くらいでいいんじゃないですか? あんまり早くても、寒いし」
「うん、そうね。そうしよう」
なぜかこの人は、私の言うことに話を合わせる。完全に暗くなる前に布団に入って、梅田さんは相変わらずひとりごとを言い続けていたけれども、私は音楽を聞きながらいつの間にか眠っていた。
十一月二十一日
七時に時計のアラームが鳴って、でも外はまだ真っ暗。
起きなきゃ起きなきゃと思いながらも、布団の外の冷たい空気の中に出る決心がつかない。ようやく八時すぎになってベッドから起きあがると、お坊さんのマントみたいに布団をかぶってパンを食べた。
そうしているうちに梅田さんも起きて、「おはようございます」
私があいさつすると、彼は中国語で「早上好」
私は、日本人なんだってば。「食べますか? パン」
「いや、いい」
梅田さんは、あとで包子でも食べるんだろう。私は昨日のうちにほとんど準備を終わっていたけれど、彼はノロノロと準備して、用意が終わったら九時前。外はもう明るくなっていた。
「そろそろ、行きます?」
私が言うとようやく、「うん、そうね。行くか」
どうもこの人の中には積極性と消極性が同居しているというか、会話の主導権はやたら取りたがるのに何か決定するときは私の判断を待っているようなところがあるのが、私に合わせてくれているのか決断力に欠けるのか、よくわからない人。
ともかく、まだ気持ちよく寝ていた服務員の女の子を起こして、門の鍵を開けてもらった。久しぶりに背負ったバックパックはものすごく重くなったように感じて、何が入っていたんだっけと考えながら歩く。私のバックパックの中身は、あの人のノートにチベット旅行に行ったときの持ち物リストを書いたメモが挟んであったから、それを参考にしながら決めた。
あれは必要なかったこれは必要だった、次回はもっと工夫して。次があるのか? 私。歩きながら、思わずひとりで笑ってしまった。
大通りの路肩に、例のライトバンが何台も停まっている。大きなバックパックを背負った私たち二人を見つけると、ドライバーが何人も康定、康定と言いながら近寄ってきた。
康定はカンゼ州の州都、チベット語ではダルツェンド。
「康定行きばかりだねえ」
そう言って、まわりを見ているだけの梅田さん。いや、ばかりだねえ、でなくて。
「あのね、ニャロン、ニャロン行きは、ある?」
梅田さんのスイッチが切れてしまったから、しょうがない、集まった人たちに向かって私がニャロン、ニャロンと連呼していたら、こっちだみたいな感じで何人かに囲まれて一台の車の前に連れて行かれた。
中国服みたいな打合わせの、内側が毛だらけでモコモコで襟と打合わせの縁に金とか銀のきれいな刺繍のある鳶色の短いジャケットを着た、でも下はエンジ色の袴のお坊さんがたぶんドライバーだった。
私は車を指さして、「ニャロン?」お坊さんも答えて、「ニャロン」
「荷物は?」
私がバックパックを指さして日本語で言うのを理解したのか、お坊さんは車の上に登る。私がうめきながらバックパックを背中から下ろして持ちあげようとすると、ほかのドライバーが手伝ってくれた。
「えっと、トゥ、トゥジェチェ」笑顔を振りまく。
梅田さんのバックパックも屋根の上にのって、私はお坊さんに指定された運転席の真後ろの席に座る。梅田さんは、朝ごはん。近所の中華屋さんのほうに歩いていった。助手席には、夫婦だろうか、たぶん三十代くらいの男女。男の人は洋服だけれど女の人はチベット服で、細かい三つ編み。頭に付けている大きなピンク色のものは、サンゴだろうか。
梅田さんはすぐに戻ってきて、私の隣の席に収まる。
「あの司機、新龍の坊さんだって」
そんなことは、どうでもいい。私はヘッドホンで、音楽を聞いている。
しばらく待っていたら、どうやら中国人らしいバックパッカーが二人、お坊さんに連れられて来た。原色のジャケット、大きなカメラバッグ。その二人が私たちの後ろの席に座ると、梅田さんは中国語を駆使して舌好調。私は音楽を聞いて、外を眺めている。あと何人乗ったら、出発してくれるんだろう。
トイレに行きたくなってバスターミナルのを使わせてもらったら、もちろんすごいことになっていた。これはもう、あきらめるしかない。
十一時をすぎた。
ようやくお客さんが集まった。洋服の男の人が二人とエンジ色のお坊さんが一人。出発、と思ったら、ガソリンスタンドに入って給油。終わるとすぐに発車。今日のテーマはお経のテープ、低音の男性合唱に合わせて、ドライバーのお坊さんもお客さんのお坊さんもときどきブツブツ何かを唱えている。
町を出るとすぐに上り坂で、ぐんぐん標高を上げる。振り返って窓の外を見ると、雪山と大草原。大草原の一角には、ゴチャゴチャと建物が集まったリタンの町。
道路わきの日陰には、雪が積もってる。そして標高が高くなると、一面の雪景色。雪の白と空の青が、絶妙なコントラストだった。
万国旗が見えて、また峠を越えた。みんな何かを叫んぶと、下り坂。草原に積もった雪に、ヤクが黒い点々になっている。何頭いるんだろう。
道は雪原に真っ直ぐ延びていて、だんだん上り坂になってから、それが急カーブの連続に変わる。峠越え。こうやって、ラサに着くまでにいくつ峠を越えるんだろうか。
ういの奥山今日越えて。
ういの奥山って、どこにある山だろう。
浅き夢見じ。
助手席の女の人が、窓から盛大に吐いている。そういえば、ギェルタンからチャンテンに来たときもチャンテンからリタンのライトバンでも、チベット服の女の人がさかんに吐いていた。チベット人は、乗り物に弱いらしい。
雪原に万国旗がはためいている、そのちょっと先で車は停まった。みんな思い思いの方向に走って、トイレ休憩。こんなとき、男はうらやましい。と思っていたら、チベット服の女の人もそこらへんでしゃがんでいた。お坊さんも袴の裾を持ちあげてしゃがんでいたけれど、変な話、パンツはいていないんだろうか。
中国人の二人組は、大きなカメラで同じような写真を何枚も撮っている。梅田さんも中国人二人に混じって、幸せそう。
三人の気がすんだら、出発。草原から岩だらけの谷間に入って、木が増える。また家の造りが変わった。石の壁の二、三階建てで、平屋根は変わりない。日当たりのいい角部屋が、ログハウスになっている。女の人の着ているチベット服は、袖のないジャンパースカート型が増えた。
リタンから四時間、ニャロン県の中心のバルショクは谷底にあって、町の真ん中をニャクチュ川が流れる小さな町。
町の中心なのか、ロータリー風の芝生の広場があって周りの道路にライトバンが何台も停まっているところが終点で、車を降りると、康定とか甘孜とか言ってドライバーが大勢寄ってくる。甘孜ー新龍と後ろの窓に大きく書いたバスも停まっていた。バスなら時間も決まっているだろうし、カンゼにはバスで行こう。とりあえず、今日はここでお泊まり。バックパックを背負うと、リタンでは息が切れたけれども、標高三000メートルくらいのニャロンは空気が濃い。
梅田さんは、中国人バックパッカーの二人組やドライバーたちと何か話している。でも、私は早く落ち着きたい。
少ししてどうやら用件がすむと、彼は私のほうを向いて「まっちゃん、いい宿知ってる?」
私はまっちゃんじゃないし、知るわけない。私だって、初めて来たのに。
彼は続けて、「ガイドブックに出てないよね」
本に書いてなきゃ何もできないんだろうか、この人は。広場に着く途中に、賓館と書いた看板はいくつか見た。ニャロン県は開放地区だから、外人用宿がまったくないとは考えられない。
「来る途中、ホテルって看板出てましたよ。行ってみます?」
梅田さんの答えを待たないで、歩きだした。彼は私のあとについて来るけれど、何か違う気がする。私は言葉もわからず、いっぱいいっぱいのはずなのに。
バックパックを背負って歩いていると、さすがに息が切れる。でも、すぐに賓館と書いた看板が見つかった。車止めのチェーンを跨いで、中庭に入る。大きくて立派なホテルだった。
「こんにちは」
日本語で言いながら建物の中に入ると、フロントの後ろの壁にロンドンとか東京とか書いた時計がいくつもかかっている。自分の時計を見てみたら、正確なのは北京の時間だけだった。カウンターの後ろに座っていた女の子に英語を使うと、やっぱりというか、理解されない。梅田さんの出番。
ツインの部屋で、一ベッド六十元。
「高いね。まっちゃんは、どうする?」
私はまっちゃんじゃない。「高いけど、ほかにあんまりなさそうだし、一泊ならしょうがない、かな?」
「俺だけなら、中国人宿とか泊まっちゃうんだけどね」
なら泊まればいい。なんだか私が足手まといのような感じの発言に聞こえて、ちょっとムッとした。「私は、ここでいいですけど」
私がそう言うと、「うん、そうね。しょうがない」
でも、ちょっと不満そう。すごく子どもっぽい人だなと思う。
案内された部屋は、バス、トイレ付き、テレビもある。電気毛布のほかに扇風機みたいな形のヒーターがあって、扇風機みたいに首を振るようになっている。でもこれは首が向く方向の空気しか暖まらないから、ないよりはマシ程度。まあ清潔だし、少しタバコ臭いのは我慢するとして、これで六十元なら悪くはない。ただ、中トイレはちょっと恥ずかしい。あとで気がついた。
チャンテンと同じように、バルショクの町も南北に流れるニャクチュ川西側の丘に広がっている。町の上のほうにお寺っぽい建物が見えたから、登ってみよう。
「私、散歩してきますね」
サブザックを持って梅田さんに言うと、「あー、俺も行く」
部屋に入ってバックパックを置くなりベッドに横になって、ポカンとテレビを見ていた梅田さんが起きあがった。一人でぶらぶらしたかったけれど、ついて来るなとも言えない。
空はいつの間にか、薄曇りになっている。リタンで買ったマフラーが暖かくて、いい買い物をしたと思う。首に風を当てないだけで、かなり体感温度が違う。
バルショクはリタンに比べたら標高が低くて木も多いし住みやすそうなのに、リタンよりも町の規模は小さい。立派なビルは建っていても、その一階の道路に面した側の商店は、シャッターが閉まっているのが多かった。
とりあえず遅いお昼ごはんと思って、メインの通り沿いに何軒かあった食堂のひとつを選んだ。やっぱり梅田さんは私任せで、私に合わせてくれているとかでなはく、どうやら単純に優柔不断なだけらしい。
たまたま入った食堂に、中国人バックパッカーの二人がいた。バックパックを持ったままで、私たち外人より選択の幅は広いはずなのに、今日の宿を決められないでいるらしい。梅田さんはうれしそうに中国語で話しかけて、なら向こうのチームに入ればいいんではないだろうか。
中国人二人組は、双子のように同じ格好。似たようなメガネ、二人とも黄色いダウンジャケット、二人とも日本のメーカーの一眼レフのデジタルカメラ。梅田さんと談笑していればいいのに、双子の一方が私にも話しかけてきた。
「中国語、わかんない」
英語で言うと、彼は一瞬考えてから、何もなかったかのように三人で話し始める。
しばらくして、双子のもう一方が英語で「君も日本人?」
「はい、そう」今まで、誰だと思っていたんだろう。
彼はそのあとも何か続けていたけれども、中国語訛りがひどくて何を言っているのかよくわからない。梅田さんに任せて、私はチャーハンを食べながら愛想だけ振りまいておいた。最近、チャーハンかパンしか食べていない。
食べ終わって私が店の外に出ると、梅田さんは話し足りない様子。でも、私の後を追って店を出る。
お寺のある丘に登る道は急な坂で、慣れたつもりでもやっぱり息が切れる。梅田さんも、私の後ろからハアハア言いながら登ってきた。
ちょっと町の中心から離れると、一部ログハウスの大きなチベット式民家が多くなる。壁は土か石、屋上がガラス張りのサンルームになっていたり窓に鉢植えの花が並んでいたり、居心地がよさそうで、一度住んでみたい。二階の壁から出っ張っている板張りの四角い部屋は、トイレだった。そのまま真下に落ちるようになっていて、今はいいけれど夏は臭いはどうなるんだろうとか下に山のように溜まったものはどうするんだろうとか、疑問がわく。
丘の上に目を向けると、まばらに木の生えた山肌の一面に、五色の旗がはためいている。万国旗型もあれば長い幟のようなのもあって、新しいのと古くなって白く色が褪せたのと、よく見ると、その中にコンビニの袋のようなプラスチックの袋も混じっていた。
きつい上り坂の細い車道を登りきったところにあったのは、やっぱりお寺だった。今までのお寺とはちょっと違って、本堂は壁に囲まれていないし、とくにどっち向きというわけでもなく東西南北どこから見ても同じような形、建物の一周を小型のマニ車に囲まれている。
開いていた入り口から中を覗くと、本堂の真ん中あたりの高い椅子にエンジ色のお坊さんが座っていて、その周りを大勢のモコモコの人たちが囲んでいた。在家信徒と言うのか、お坊さんでないおじいさんおばあさんで、ほとんどの人が手持ちのマニ車をグルグル回しながら数珠を繰っている。入ってよろしいでしょうかと聞ける雰囲気でもなく、しばらく眺めてから梅田さんと帰ることにした。
宿に戻ってからは、音楽を聞きながら、久し振りに日記を書いたりガイドブックやあの人のノートを見たり。梅田さんは、ポカンとテレビを見ている。
ちゃんと熱いお湯が出たから、シャワーで髪だけ洗った。扇風機みたいなヒーターをドライヤー代わりにしようと思ったら、コードが短くてテレビ台のすぐそばの床から動かせない。今のところはそんなに寒くないしと、あきらめてまた音楽を聞く。梅田さんはやっぱり、ポカンとテレビを見ていた。
そして突然、「まっちゃん、晩飯、なんにする?」
「はい?」
ヘッドホンを外しながら聞き返すと、「ば、ん、め、し。あの上海の二人と約束したんだけど、まっちゃんどうする?」
私は約束していないし、まっちゃんじゃない。「あ、うん、いいです。まだ本調子じゃないし」
言葉がわからない私はいっしょに行ってもただヘラヘラ笑っているだけだし、体調がいまいちなのは本当だ。自分の世界に戻って、そのうち本を顔にかぶせて眠っていた。
梅田さんが起きあがるのに気がついて、窓の外を見ると夕暮れ。彼は行くのか行かないのか、何かブツブツ言いながら自分のバックパックをひっかき回したりカメラをいじったりしている。
時間はいいんだろうか。「約束、あるんじゃないですか?」
「うん、そうね。そろそろ、行くか」
ようやく決心したのか、ノロノロと出ていった。
梅田さんがつけっぱなしのままにして出ていったから、しばらくなんとなしにテレビを眺める。でも、言葉がわからないし、日本人と中国人が戦争しているようなドラマばかり。テレビに飽きて外のスーパーに買い物しに行って、買うのはけっきょくパンとビスケットとチョコレート。成都に行けば、大都市だしいろんな選択肢もあるだろう。成都で、何かおいしいものを食べよう。
部屋でビスケットをつまみながら日本から持ってきた文庫本を読んでいたら、梅田さんが帰ってきた。
「まっちゃんは、あれ? 明日カンゼ?」
ほろ酔いのようだった。なぜか彼は、カンゼだけは中国語でガンズーと言わずにチベット語発音でカンゼと言う。
「そのつもりです。梅田さんは?」
「うん。俺も、明日カンゼ。上海の二人も、明日カンゼに行くって。バスで行くの?」
「バスならお客さん集まるまで待つ必要ないし、安いんじゃないですか? 乗り心地、似たようなもんだし」
「うん、でもさ、タクシー、いや、そうだね、うん」
私と梅田さんと中国人の二人組みで四人だから、あと二、三人待てばいい。そう言いたいんだろう。私の決定に従う必要はないと思うんだけれども、どうやら梅田さんもバスで行くことにしたらしい。
「梅田さん、寝タバコ、危ないですよ」
ひとこと言ったら、ちょっと不満そう。少し気まずく、それからは私も梅田さんも無言で、梅田さんはテレビを見ながら買ってきた瓶ビールを飲んでいる。私は明日のためにパッキングをしてから、テレビの音に負けないようにボリュームを上げて、音楽を聞きながら寝た。
十一月二十二日
飲みすぎたのか、梅田さんは夜中ベッドでうんうんと唸っていた。私はまだ真っ暗なうちに起きてから、パンを食べる。カンゼでは、チャーハン以外のものを食べよう。
明るくなるころには準備を終わった私を見て、梅田さんが急いで準備している。
「気分、どうですか?」
「大丈夫」
らしい。でも、彼が大丈夫と言うなら大丈夫なんだろうけれど、見るからに二日酔い。
「行く?」
ようやく準備が終わった梅田さんにそう言われて、出発。
車のたまり場までは、そう離れていない。歩いているとすぐにライトバンのドライバーが寄ってきて、康定、康定と連呼する。カンゼ行きのバスも停まっていたから、ライトバンのドライバーに愛想を振りまくのは梅田さんに任せてバスの周りをウロウロしていたら、バスのドライバーだろうか、昨日のお坊さんみたいな鳶色のジャケットを着た男の人が後ろから大声で「甘孜」と叫んで走り寄ってってきた。
私は「カンゼ、カンゼ」
彼もまた「カンゼ、カンゼ」
梅田さんがやって来て、また「カンゼ、カンゼ」
笑ってしまった。
そのドライバーのおじさんにバックパックを屋根の上にのせてもらって、だれも乗っていたかったから、適当に前のほうの席に座った。梅田さんは席にカメラバッグだけ置くと、外で包子屋さんでも探しているんだろうか、ふらふらとどこかに行った。
双子みたいな中国人の二人が現れると、双子の片方がバスに乗ってきて私に何か言う。わからないんだってば。梅田さんが戻ってきて、彼らと話す。このバスに乗りたいらしい。
九時発車と言われていたけれど、お客さんは満員になっていないのに九時半に発車した。私と梅田さん、それに双子みたいな中国人バックパッカーのほかは、モコモコのチベット人ばかり。
橋を渡って、ニャクチュ川の東岸をひたすらさかのぼる。今日は、峠は越えない。梅田さんは珍しく黙ったままグッタリ、タバコも吸わなかった。
四時間、道がいいからあっという間だった。空は薄曇り、その空をバックに町の北側には大きなお寺。大きな町だった。まばらな街路樹は枯れていて、灰色と茶色の中間のような土の色の景色。町の南側を、東西に川が流れる。向こう岸には、雪をかぶった岩山。相変わらず遠いんだか近いんだか、よくわからない。
町の中心、中国ビルに囲まれた十字路にいろんなタイプの車が停まっていて、そこで私たちの乗っていたバスも停まった。バルショクに比べると、通りに人が多くて活気がある。そして、道行く人のチベット服率が高い。
マフラーを巻き直してバスから降りると、思ったほど寒くはなかった。リタンの寒さに比べたら、どんな寒さにでも耐えられそう。
梅田さんも双子みたいな中国人バックパッカーもただバスの屋根を見上げているだけだから、しょうがないんで私がバスの後ろの梯子で屋根に登ろうとしたら、先に登っていたドライバーがバックパックを降ろしてくれた。
「トゥジェチェ」
私がそう言うと彼は笑顔になって、ほかの三人のバックパックも順番に降ろしてバイバイと言う。
昨日、あの人のノートを見て予習しておいた。ノートの略地図に書いてある宿の様子を見てみることにして、バックパックを背負う。梅田さんは、私について来る。彼は吐くことはなかったもののバスの中ではずっと気分が悪そうで、今は完全に受動の人。双子みたいな中国人バックパッカーは、どこかべつの宿に行ったらしい。いつの間にか、姿が見えなくなっていた。
看板が小さいし奥まったところにあったけれど、その宿はすぐに見つかった。駐車場になっている中庭があって、建物は中国招待所風、経営はチベット人らしい。
部屋に案内してくれたのは、赤い三つ編みを頭に巻いた袖なしのチベット服の女の人。笑うと金歯が光る。部屋は二階のツイン、タバコ臭いのはもうしょうがない。トイレは一階の外、建物の裏にあって、個室にはなっていない。シャワーなんて贅沢なものはもちろん論外で、でもまあ、十五元ならそれもしょうがない。私はもう泊まる気だけれども、一応梅田さんにも聞いてみる。
「いいですか? ここで」
「そうね、いいよ」
よくはない。でも、ほかを探すのはめんどくさい。顔に書いてある。梅田さんは、もう歩きたくないのだ。
バックパックを置いてからサブザックだけ持って町に出ようとして、「梅田さん、外、行きますか?」
「うん、俺はいい」
もうベッドに寝転んでいる。
「なんか、買ってきましょうか?」
「いいよ。あとで外出る」
本人がいいと言っているんだから、いいんだろう。入り口は南京錠で閉めるようになっていたから、私のナンバーロックの南京錠を渡して番号を教えると、一人で外に出た。
最初に目についたイスラム教徒の食堂に入ると、今日は刀削面。久しぶりに、チャーハン以外のものを食べる気がする。テレビではカンフーアクションを流していて、みんな血が飛び散るような映像を見ながら食事中。モコモコのチベット服のおじさんが、茹でた肉の塊を、ナイフというか刀で少しずつ削りながら食べていた。量り売りらしく、しかも壁に張ってある値段表には時価と書いてある。
そして、料理を待って食べている間中、入れ替わり立ち替わりに物乞いがやって来る。チベット人はたいてい少額紙幣を束で持っていて、物乞いは順番に席を回りながら、一角紙幣をもらっている。
私はどうしていいのか困ってしまい、「ごめんなさい。お金、そんなにないの」
そのうちあきらめて、彼らはほかに行く。ないわけないけれど、先のことを考えるとやたら配りまくるわけにもいかず、これは、どうしたらいいんだろう。あの人は、どうしていたんだろう。
食べ終わったら、すぐにお店から出た。曇り空を見上げてから、とりあえずは町の中心にあるデゴンカンに行く。あの人のノートにはいろいろ詳しく書いてあるから、どうやら古い建物らしい。
大通りからまた小路に入ると、チベット人街には、一階が土壁、二階がログハウスのチベット人民家。土壁は白く塗られていて、ログハウス部分は赤茶、丸太の切り口は白。チベット人って、きれいな家を造る人たちだと思う。
そんなチベット式民家に囲まれたちょっとした公園の奥に、デゴンカンが建っていた。建物正面の公園には白い石の像があったり西洋式庭園みたいになっていて、噴水でも流れていそう。水は凍るだろうけれど。
デゴンカンの周りは、一周が高さ三十センチくらいの設置式のマニ車がたくさん並んだ巡礼路になっている。そのマニ車をガラガラ回しながら、大勢のチベット人が右回りをしていた。正面入り口の左右には、高さが二メートルを越えるくらいの大きなマニ車、奥の本堂に向かって、五体投地礼を繰り返している人たち。ブツブツお経を唱えながら早足で右回りをしている人たちの中には、私と同い年くらいの女の子もいる。お母さんが子どもの手を引いていたり、小学生くらいの子どもがおばあさんの手を引いていたり。
そこをすいませんと言いながら横切ると、お堂の中に入った。薄暗いし、板の間にはお坊さんの席も何もなくてガランとしていた。正面の奥に階段があって、一段高くなったところに部屋がある。読経の声と太鼓を叩く音が聞こえるし電気が点いているのが見えるけれど、扉が開いた入り口には、リタン寺のように絨毯みたいな布。階段を上がって恐る恐る布をぺろんとめくったら、中にはいくつも仏像が並んでいた。
真っ正面から私を見下ろしているのは、額に目があって、笑っているようなちょっとかわいらしい骸骨を頭に飾った、いわゆる忿怒尊。その前には、お菓子とか果物とかお供えものが並ぶ。バターを使った灯明が燃えていて、部屋の中もバター臭い。
正面の三メートルくらいある大きな仏像の左右にも、ガラスケースに入った等身大の仏像が並んでいる。向かって右側にはお坊さんが座って、天井からぶら下がった大きな太鼓を叩きながらお経を唱えていた。私に気がついたようで、読経を続けながら顔を上げて私を見た。入ってよろしいでしょうかとアクションで伝えると、首を縦に振って、たぶんオーケーだろうと思う。部屋に入った。
「ははあ」
ポカンと仏像を見上げて、手を合わせてからまた外に出た。その部屋の外側にもぐるりとマニ車が並んでいたから、ガラガラと回しながら一周。歩くと板張りの床がギシギシと音をたてる。薄暗い回廊の中で聞こえるのは、床の鳴る音とマニ車の回る音、そしてお坊さんの読経。
静かで、平和だった。
お堂の外へ。右回りする人たちに混じって、私も同じように右回りをする。杖をついたおばあさんでも、意外と歩くのが早い。
白髪を三つ編みにした腰の曲がったおばあさんが、私に向かってにっこりほほえんだ。モゴモゴとお経をずっと唱えながら、杖をついていないほうの手で数珠を繰っている。チベット服の懐から紐が出ていて、数珠につながっていた。黒いチベット服は袖のあるモコモコ型で、エプロンも黒。袖口とエプロンは、垢でテカテカ光っている。
おばあさんが、中国語かチベット語で何か話しかけてきた。
「ごめんね、おばあちゃん。私、言葉わかんないの」
そう日本語で言うと、ニコニコしながらまたお経を唱える。寒かったのに、なんだか暖かかった。
そのおばあさんといっしょにデゴンカンを一周回り終えると、私はバイバイと言ってその場を離れたけれど、おばあさんはまだ右回りを続ける。休憩中なのか、建物の周りで座って世間話をしている人たちも多い。この人たちは、こうやって一日何周するんだろう。
デゴンカンの隣には、新築中のお寺があった。こっちは、コンクリートとタイル張りの現代風。新館なんだろうか。完成したら、旧館はどうなるんだろう。味があるのは、もちろん古いほう。でも、地元の人たちにとっては、どっちがいいんだろう。あの人は、なんて表現するんだろう。
もと来た十字路に向かって、歩きだした。カンゼの町の周りには、お寺が多い。町の北にそびえるカンゼ寺と町中のデゴンカンのほかにも、カンゼ寺のさらに北側に尼寺、川を渡った町の南側にも四つかそれ以上、東の向こうの丘にもお寺が見える。
一番近いカンゼ寺に行くことにした。ゆるやかな坂を登って、でも、ゆるやかなようでもカンゼは標高三三00メートル以上、お寺のある丘の麓のチベット人街に着くころには、また全力疾走したみたいになっていた。この薄い空気に慣れることって、あるんだろうか。
目の前の丘にそびえていたお寺には登らずに、横の道に入って、お寺の周りの巡礼路を歩いた。畑の中には、大きな白いチョルテンとメンダン。のどかだった。お堂がひとつあって、スピーカーから外に向かって読経する声が流れている。お堂の前には、大勢の村人。おばあさんたちが、数珠を繰りながら何かブツブツ唱えている。なんだろう。
このお堂も古い時代のものだそうで、ただ、あの人はこっちのほうはあんまり調べていないらしい。ノートに描いてあるのは、見取り図だけ。
いつかまた、調べに来ようと思っていたんだろうか。そうに違いない。その見取り図はまだ描いている途中で、見ているうちに胸がいっぱいになった。もう、二度と来ることもないのに。涙が出そう。
おばあさんたちに向かってなんとか笑顔を作って中をのぞくと、さっきのデゴンカンのようにお坊さんの席も仏像もなかったけれど、そこに大勢のおばあさんが座って、手持ちマニ車をグルグル回したり数珠を繰ったりしながらお経を唱えていた。奥の部屋には、正面の高い椅子にお坊さんが座っている。スピーカーの声は、そのお坊さんのものだ。その前に並んで座っているのは、尼さんだった。
おばあさんたちが、中に入んなさいという仕草をする。私はなんだか部外者が入るのは申し訳ない気がして、手を合わせてからそこを離れた。
風が強くなって、少し寒い。たまに雪がひらひら舞っているように見える。また登り坂。裏口になるのか、門があって扉が開いていたから、そこからお寺の境内に入った。あの人のノートに描いてある地図よりも、建物が増えているような気がする。地図に『シェードゥップ・ノルブリン本堂』と書いてある建物の前にある広場に立つと、そこからカンゼの町の眺めがいい。
遠くを見つめながら後ろ手に数珠を繰っているお坊さんがいて、私に気がついたら、近くに寄ってきて懐から何か取りだした。
「買票」
チケットを買えということだった。しょうがない、十元。本堂の中は、今までと同じような極彩色。金ピカの仏像が並ぶ。仏像や壁画の意味がわからないのが、残念に思える。誰か、詳しい人の解説が必要だった。あの人が書いたノートは人に見せるものではないから、難解な略語と記号が暗号のようで、お寺のガイドブックとしてはまったく役に立たない。
本堂のとなりにあるアパートみたいな近代的な建物もお堂で、ガラスケースに小さい仏像がたくさん並んだ部屋がいくつかと、赤や青で三つ目の忿怒尊のお面みたいなものが並んだ部屋があった。
広場に出て、もう一度カンゼの町を眺めた。お寺の麓には、より集まるように平屋根のチベット式民家、その向こうには、中国式のビルが並ぶ。町の外側は一面の畑、遠くの丘にある白い建物は、お寺だろうか。その丘の麓にもチベット集落。
日が出ていればもう少し景色を眺めていたかったのに、細かい雪がパラパラと降ってきて寒くなる。遠くの山々の頂上が、白く煙って見えなくなった。また風邪を引かないうちにと、急な階段を下って町に戻った。
宿に帰ると、ドアに鍵が掛かっていた。梅田さんは、どこかに出かけたらしい。部屋に入って、音楽を聞きながら次の予定を考える。
そろそろ人民元の現金が少なくなってきたけれど、両替は大都市に行かないとできない。明日もう一泊してから、ダンゴ、タウ、ダルツェンド、そして成都に下りよう。
こうしてガイドブックを見ながら次の計画を考えている時間は、けっこう楽しい。あの人のノートには両替とかビザ延長ができる都市がリストになっているから、ルートを考えるときには、大いに参考になる。
次の町は、ダンゴ。町の北側にお寺があって、どんな形の家が建っているんだろう。服装はどう変わるんだろう。
薄暗くなったから電気を点けようとしたら、また停電。今日の宿には電気毛布がないことに、今さら気がついた。まああったところで、どのみち電気が来ていない。しょうがないから布団に入って天井を見上げていると、梅田さんが帰ってきた。
「何、停電?」気分はよくなったらしい。いつもの大声で、「まっちゃん、明日どうする?」
私はまっちゃんじゃない。「明日は、滞在です。梅田さんは?」
「俺、石渠行こうと思うんだけど。明日」
行けばいい。とは言わないで、「上海の彼らもですか?」
「うんそう。石渠から、玉樹」
彼らはカンゼから北西に、青海省ユルシュル・チベット族自治州に行こうとしているらしい。私は反対の方向、東の成都に向かうつもりだ。
「梅田さん、カンゼのお寺行きました?」
深い意味はなかったけれど、聞いてみた。
「行ってない。もう、寺は飽きたし」
飽きるほど、見たんだろうか。ならこれから先、青海省に行ってもチベット自治区に行っても、同じではないだろうか。梅田さんも私も持っている日本のガイドブックにもアンディの持っていた英語のガイドブックにも、そしてあの人のノートにも、書いてあるのはお寺の案内ばかり。
ふうんと思ってまた音楽を聞いていたら、「まっちゃん、腹減ってない?」
どうもこの人の話しかたは間接的というか、無駄に行間を読む必要がある表現を使うことが多い。そして最終的には、私がイニシアチブを取る必要がある。
「ごはん、行きますか?」
「そうだね、何がいい?」
任せます。と言うとなかなか決まらないのはわかっているから、「中華で」とだけ言って、ジャケットを着てマフラーを巻いた。
日が暮れると、急激に寒くなる。自家発電で電気が点いているところもいくつかあったけれど、ろうそくを灯している商店が多いし、街灯すら点いていない。梅田さんとろうそくの明かりの下で食事する雰囲気でもないしと、電気が点いている食堂を選んで入った。発電機の音がうるさいのは、しょうがない。なぜかお店が決まると梅田さんは得意気で、メニューを指さしていろいろ解説してくれる。
私は、今日は砂鍋にした。梅田さんも悩んで、けっきょく私と同じだった。そして梅田さんは、今までの旅のことを話しだす。どこそこに行ったことがある、ここそこに行ったことがある。ただ、どうやらこの人にとってはそこに行ったという事実だけが重要らしくて、具体的に何を見てどう思ったとかの話が欠けている。そう思った。それに、話の内容に一貫していない部分があるのは、どうやら人から聞いた話と自分の経験をごっちゃにして話しているらしい。
頼んでいた料理が来た。一人用の小さな土鍋の中で、ビーフンみたいなお米の麺が煮えている。辛くしないでくださいとは言ったのに、四川系の味付けは、それでも辛い。山椒の実が実のまま入っていて、うっかり噛み砕くと辛いというより舌の先がしびれる感じ。
梅田さんの話は続いている。彼はチベット圏を旅するのは初めてのはずなのに、チベットのことならなんでも知ってるぜと言わんばかり。あの人は何回も来たはずなのに、ノートはまだまだ書きかけのままだった。
「梅田さん、チベット好きですか?」
話が一息ついたところで、聞いてみた。
「景色はいいけどさあ、寺はもう飽きたね。どこ行っても同じだし。それに、チベット人汚くてさあ」
山椒の実を箸でよけながら、私は考える。どこに行っても同じ。なんだろうか。私は、同じかどうかもわからない。
チベット人が汚いのは確かにそうだけれど、これは気候とか文化の違いだし、私だって五年とか十年ここで暮らしていれば、同じような汚さになっているかもしれない。もう何日も同じ服をたまんまなのに、気にしなくなった。梅田さんだって、髪はボサボサだしヒゲボウボウ。そのことを言おうと思って、喉まで出かかってやっぱりやめておいた。この人は、人に意見されるのを激しく嫌う。
食べるのは早くはないのに、私のほうが早く食べ終わった。梅田さんは、食べているよりしゃべっている時間のほうが長い。梅田さんが完食するのを待って、スーパーで買い物をしてから宿に帰った。
電気は停まったまま。ただでさえ寒いのに、部屋の電気が点かないとさらに寒々しい。布団に入って、音楽を聞いているうちに眠りに落ちていた。
心の中の雪の国~私のチベット旅行記~ その3 おまえの翼を貸してくれ