向日葵を探しに

日南田ウヲ

大阪環状線の天満駅を出て少し歩いたところに妹の入院した病院があった。
三日前、妹の夫から連絡を受けた僕は週末の今日、妹を見舞うために病院にやって来た。
早朝から降り出した激しい雨はぴたりと止み、代わりに夏の眩しい陽がアスファルトに反射して目を細めないといけないくらいの午後になった。
横断歩道を渡り、高下沿いに進むと病院が見え、僕は中へと入った。
受付で妹の入院した病室を聞くとエレベータに乗ってそのフロアで降りる。
部屋番号を小さく口に出して部屋を探しながら廊下を歩いていると奥の部屋から男性が出て来るのが見えた。
妹の夫だった。
「良一君」
僕が声をかけるとこちらを見た。両手に洗面道具を抱えている。
抱えた洗面道具が揺れて、彼は笑顔で僕に答えた。
「ああ、義兄さん。来ていただけたのですか」
 僕は頷くと、彼は笑顔を崩さずこちらに足早にやって来て、軽く会釈をした。
「すいません、お仕事で忙しいのに。唯の貧血で倒れただけなのに大騒ぎして僕が電話をしたばかりに、お義父さんやお義母さんにも心配をさせてしまって・・」
 すまなさそうに言う彼の背に僕は手をやった。
「何、良一君。気にすることは無いよ。結果としては大事にいたらなかった小さなことなのかもしれないけど、こうして連絡を頂けるということはそれだけ君が妹と僕達家族を大事にしてくれているということなのだから」
 僕はちらりと病室を見る。
「それで妹はどうだい?その後」
 ええ、と彼は言う。
「すこし仕事疲れが出たのでしょうと医者は言っています。このところ帰りが遅かったものですから」
 そう言って目線を病室へ移した。
「IT業界も忙しいのだね」
「そうですね」
「僕の働く海運業なんて全くさっぱりだというのに」
僕は顎の少し伸びた髭を触る。
「僕の不動産業も駄目ですけど」
 そう言って二人でふと目線を合わすと何とも言えない笑みを浮かべた。
「妹には会えるかい?」
「ええ、どうぞ。今丁度、顔を洗っていたところです。それで眉毛を書く化粧道具を持って来てなかったので、今、頼子に近くのドラッグストアまで買い出しに行かされたところですよ」
 笑いながら僕は言う。
「ここは病院だろう?必要かい、化粧なんて」
「さぁ、それが何とも・・ですがね」
 彼も笑う。
「まぁそれが女ってやつなのだろうね」
 僕はそれで歩き出した。
「義兄さん、十五分ぐらいで戻ると頼子に言ってください」
 僕は頷くと奥の病室へ入った。
 病室はカーテンで間仕切られた四人部屋で奥の窓が開いていた。目を凝らすと窓向うに都会の雨上がりの午後の空が広がって見える。
そこから風が吹くのか、間仕切りのカーテンが揺れていた。
僕は静かに音を立てずに窓まで歩いて、立ち止まって窓の向こうの空を見た。
カーテンの奥で影が動いた。
「兄さん?」
立ち止まって窓の向こうの空を見ている僕に妹の声が聞こえた。
「兄さんじゃない?」
 僕はカーテンをゆっくり開けると妹の顔を見て人差し指を自分の口元に寄せた。
「静かに」
そう言って妹のベッドの側に置かれた椅子に腰かけた。
僕をまじまじと見ながら妹が言う。
「わざわざ、来てくれたの?」
「ああ、親父とおふくろがお前の事を心配だと言うものだからさ、ちょっと見舞いに来たよ」
「そう、それはありがとう」
 妹は額で分けた黒髪を指でなぞりながら伏し目になって言った。
「過労か?」
 うーん、と妹が言う。
「どうかな、自覚が無かったからわからなかったけど、医者は身体に大分無理が来ていたのだろうと言っていた」
「そうか」
 僕はそこで少し間を置くと深く息を吐きながら言った。
「俺はてっきりお前たちの子供の事が原因で心労になって・・」
「それは言わないで」
言葉の後に続く妹の厳しい視線が僕を突き刺さした。
妹の厳しい視線を眉間に皺を寄せながら受け止めると数秒息を止め、小さく「すまない」と言った。
「良いのよ、兄さん」
 妹が鋭い視線を柔らかくして、僕に微笑する。
 その微笑が少しだけ過去を回顧させ、僕の記憶をなぞった。
 数か月前、妹夫婦から僕に電話があり妊娠したと言うことを聞いた。
「おめでとう」
僕は電話越しに二人に言った。
 だがその後、妹の妊娠は上手くいかなく子供を授かることは無かった。
「兄さん、夫婦が命を授かってそれを育てるということはとても難しいことなのね」
そう言った妹の言葉の奥に、僕は誰にも言えない二人の深い後悔が静かに横たわっているのを感じた。
理由を深く問いただすことはしなかった。それはこれから二人が人生で見つめるべき秘密のことであって、外野に居る自分がどうこう言うべきことではなく、二人がなぞらえる人生の輪郭の輪の外に置かれている僕は二人の人生の形をそっと見つめていればいいだけなのだ。
だから余計なことを言うべきではなく、自然と自責の念から「すまなかった」と妹に詫びた。
 僕はそれで黙ってしまった。
 妹の視線を外すと窓の外から見える都会の空を見た。
 午後の空を雲がゆっくりと流れてゆくのが見えた。
 空を風が吹いて雲が流れていると思った時、妹が声をかけた。
「ねぇ、兄さん」
 その声に振り返る。
「子供の頃、九州に居たじゃない。私が盲腸で夏休みに入院していた頃の事、覚えている?」
 僕は妹が突然言い出した言葉に首を傾げた。妹が何故そんな話を切り出して来たのか理由が分からなかった。
「あれ、覚えてない?分らないかな。ほら、兄さん、お父さんに夏休みにこっぴどく怒られたことあったでしょう。二日ほど家から消えて」
「ああ」
 僕は思い出したように声を出した。しかし要領を得ない顔つきをしているのは自分で分かる。
「夏の失踪事件か」
 疑問が頭をもたげながらも照れるようにして笑いながら言う。
「懐かしい子供の頃の事件さ。しかしそれがどうかした?」
 妹が突然切り出した話の真意を探る様に目を細めた。
「ねぇ、私さ。その時病院に入院していてその事件の結末を知らないのよね」
「何だい、急にそんなこと言って」
顎を摩って髭を掴むと、勢いよく抜いた。引き抜いた痛みに顔をしかめる。
 そんな僕の顔を妹がまじまじと見る。
「その時の事件、うーん、子供の頃の事件さ、兄さん・・本にしてくれない?」
「本に?」
 突拍子もない言葉に僕は細めた目を丸くして妹を見た。
 妹は小さく笑うと傍らに置いていた雑誌を僕に渡した。
「これね、暇だから良一さんに買って来て貰ったの。でね、これを読んでいるとその中に自費出版という記事があってね、何でも本が安くて作れるらしいのよ」
「だから?」
 僕は要領を得ないまま問いかける。
「そう、その話を本にしてみたらどうかなって。大学の頃、よく外国の作家のヘッセやカポーティとか読んで小説とか書いていたじゃない?そう、その話を本にしてみたらどうかなって」
 唐突な妹の提案だった。
大学生の頃、僕は文学青年だった。中学生、高校の頃は医者を目指して猛勉強をしていたが、自分がそのレベルに達していないというのが分かるとそれを諦めて、大学の頃はその時間を埋める様にヘッセやカポーティ、サガンやカフカなど外国の小説を読んでは、図書館に籠っては自分で小説を書いた。
出来れば就職も出版社に勤めたかったが残念ながらそちらには縁が無く、今は海運業界で働いている。
「それに兄さんも来年四十でしょ?自分の記念事業としてそう言うことしてみたらどうかなって」
妹が言うように正直に言えば年齢的なことを感じないことは無い。十代から二十代になった時はそれほど感じなかった年齢の重みが、四十を迎える今は良く分かる。
仕事に明け暮れる日々に年齢を重ねてきただけだと言えば僕の人生はそれだけになる。
妹の提案は開かれた窓から吹く風のようで、それが僕の心を優しく撫でるのを感じた。
それでも何故か僕には釈然としないものが残った。それは妹がまだ真意を僕に伝えていないと言うことを直感的に感じていたからかもしれない。
だから
「本当にそんな理由なのかい?僕に本を書けというのは」
 僕は疑問を正直にぶつけた。
 妹はじっと僕を見てやがて言った。
「それに・・」
 妹が目を伏せる。
「また私達夫婦に子供が授かったら、読み聞かせてあげたいのよ。伯父さんの子供の頃の秘密と言ってね」
 最後に妹は笑いながら言った。
(そう言うことか)
 僕も釣られて笑う。
笑いながら僕は妹の笑う瞳の奥に何とも言えない寂しさを感じて言葉が出そうになったが、それは黙って心の中に閉まった。
 笑い終えると、顎に手を遣りながら頷いた。
「兄さんの秘密を教えて。その秘密の中に私達夫婦のきっとこれからの喜びがあると思うの」
「そう思うのかい?」
 妹が頷く。
「秘密はいつまでも秘密で在っては駄目だと思う。どんなにつらいことであってもいつか誰かに伝えていかなければならないことかなって。伝えることができる存在があるということ・・それが・・何と無く、人間の喜びなんじゃないかと最近思うようになってね」
(妹夫婦の秘密・・)
 それ以上僕は詮索するのを止めた。
二人はきっと宿る事の無かった生命の秘密について鍵をかけることをせず、そのことに恐れず何かに立ち向かおうとしているのだと感じた。
妹の目が輝いている。
僕は何も言うことなく、全てを理解した。
「わかった。悪くない話だ。伯父さんの恥ずかしい思い出を甥っ子、姪っ子に伝えるのは僕の大事な仕事だ」
「でしょう?」
また二人で笑った。
「そうだ。大事な仕事だ」
「そう、来年までに必ず・・ね?」
「来年?」
「そう、兄さん来年四十でしょ?私達夫婦もまた・・」
 そうか、と僕は無言で頷いた。
すると夫の良一君がカーテン越しに現れた。
「あら、早いわね。三十分ぐらいかなと思っていたけど」
 少し驚いて妹が言う。
 慌てて僕が言った。
「ああ、忘れていたよ。さっき良一君に廊下で会って、十五分ぐらいで戻ると伝えてくれと言われていたんだ」
「ちょっと兄さん、ちゃんと伝えてよね。でないと私達の企みが立ち聞きされて良一さんにばれちゃうじゃない」
 妹が口元に手を寄せて笑う。それにつられて僕も笑った。
そんな僕らの側で一人買い物袋を持って立つ夫が、妻に言った。
「頼子、企みって何だい?まさかファンデーションが足りないとか言ってまた僕に買い物に行かせて、その企みの続きを義兄さんとするんじゃないだろうね」


自宅に戻ると居間へと入った。
 長椅子に腰を掛けた父親と台所で動く母親の姿が見えた。
「ただいま」
僕の声に二人が振り向く。
「お帰り」
母親が僕に言う。
「夏生・・」
 母親が心配そうに僕の名前を言う。
「頼子はどう、調子は良さそうだった?」
母が聞いた。
僕は頷く。
「うん。良一君にも会って二人で話をしたよ。大丈夫。心配ないさ」
 僕は父の方に手を置いた。
父は二年前に脳梗塞で倒れ、今は右半身が不自由だ。それに少しだけ言葉に支障がある。
 だが話している言葉を全く理解できていないというわけではない。話の内容は分かるが言葉にするのが難しい、唯、それだけのことだ。
 だから僕の母親への返事を理解して安心したように深く頷く。僕はその父の肩を軽く叩いた。
「父さん、頼子は大丈夫さ」
父は僕の言葉を聞いて再び頷いた。
リビングの椅子に腰を掛けると母親に聞いた。
「ねぇ、母さん。僕の小学校の頃の日記ってまだある?」
 母親が不思議そうな顔で近づいてくる。
「急にどうしたの。それが何?あるとは思うけど・・」
「あるけど、でも場所が分からない?」
「そうねぇ・・今聞かれても、家の何処にあるかわからないけどね・・」
 困ったように母親が僕を見る。
「そうか」
 僕が腕を組んで天井を見て呟くと、父が何かを話し出そうとしているのが分かった。
「どうしたの、あなた?」
 母親が父の側に行く。側に行くと父が母に何かを伝えている。
 僕も椅子から立ち上がり父の側まで行く。
「ナツ、ほら、あそこ、あそこ」
 父親が話しながら左手で押入れを指さす。
「父さん、あそこかい?」
 僕も同じように指をさす。
 父親がアル、アルヨ、ソコと言う。
 僕は押入れまで行き、襖を開いた。開くとそこに小さな段ボール箱があって、その上にマジックで子供の日記と書かれていた。
 僕はそれを押入れから出すと床に置いて開いた。開くと確かにそこには黄色くなったノートが沢山あって、その中に僕が探している日記があった。
 僕は父親の方を振り返った。
「父さん、あったよ。記憶力、抜群だね」
 父親が笑う。
「あなた、良く覚えていたわね。凄いじゃない」
 母親が父親の頬を摩るのを見ながら僕は日記を取り出すと、それを部屋に持って行ってドアを閉めた。
 閉めると、僕は書棚の方に目を遣った。
「確か・・この奥にあるはず・・」
僕は本を数冊どけると、その奥にできた小さな窪みに手を伸ばした。
手に何かが触れて、それを指で掻きだした。
「あった、あった」
 肩がつりそうになりながら書棚の奥に仕舞ってあった物を取り出した。
 それは小さなウイスキーのガラス瓶で蓋がしてあった。
「頼子が子供の頃のことを言い出すまですっかりこれを忘れていたよ」
 瓶を振ると中で何か音がした。
瓶を机の上に置くと、僕は蓋を開けた。
 口が下に向くようにして逆さまにすると、数回振った。瓶の口に引っ掛かりながらも中から小さく丁寧に折られた紙とその後から何か小さな塊が出て来た。
 ゆっくりと慎重に紙を取り出して机の上に広げると後から出て来た小さな塊を丁寧にそっと置いた。
 僕は広げた紙の上に静かに息を吹きかけて埃を払った。
 するとゆっくりと子供の文字が浮かび上がってきた。
 それは手紙だった。
 所々が黄色くなっているがそれは白い便箋二枚に書かれた少女の文字だった。
 宛先は書かれていない、この手紙の主である少女はこの手紙を拾ってくれる人であれば誰でも良かったのだった。
(そう、だれでも良かった。この手紙を拾ってくれる人であれば、日本でもなくてもアメリカでもヨーロッパでもアフリカでも)
 僕は静かに少女に思いを寄せ、手紙を心の中で読んだ。
 

『この手紙を拾ってくれた人。誰でもいいので私のお友達になって下さい。
私は重い病気でずっと家に居て独りぼっちです。だから今まで一緒に笑える友達がいません。
今日私は思い切って家の側の小川から手紙を入れた瓶を流しました。この手紙をのせた瓶はきっと川を下って海へ行き、世界中の色んなところに行って病気の私の代わりに色んなところを旅して、きっと素敵な友達を探してくれると思ったからです。
瓶を拾って、手紙を読んでくれた方は是非私に会いに来て、友達になってください。
でも、でもね。
もし私が死んだ後にこの瓶を見つけたら、どう思うかな。
だから私考えました。
その友達が悲しむかもしれないので、向日葵の種を入れておきます。もし私が死んでいたらこの種を庭に蒔いてください。そうすれば夏になると向日葵が咲いてそれを私だと思えるから。
 それでは ヒナコ 』 


妹の病室を訪れてから数日後、僕は再び病室を訪れた。
 間仕切りのカーテンから顔を出すと妹はベッドから半身を起こして僕が来るのを知っていたかのような顔つきで見ていた。
「なんだ、来るのが分かっていたみたいだね」
 妹に僕は言った。
 笑いながら妹は僕に言った。
「ほらこの窓の下に通りが見えるのよ。先程、その通りを見ていたら横断歩道を渡る兄さんの姿が見えたから、来るのがわかってね。起きて待っていようと思ったの」
「そうか」
 そう言って僕は妹の側に置かれた椅子に腰を掛けた。
「で、どうしたの。今日は?」
 僕は軽く頷く。
「ほら、この前、見舞いに来た時に頼子が僕に言っただろう、例の失踪事件を小説にしてさ、本にしないかって」
 ああ、妹が呟く。
「それ、今日から始めようと思ってね」
「そう?」
 妹の顔に喜色が浮かぶ。
「そう、まぁそれを言いに来たのだよ」
 僕はそう言うと肩にかけたバッグから黄ばんだ紙を取り出して妹に手渡した。
 妹がそれを受け取ると僕に言った。
「これは?」
 うん、と低い声で僕は言った。
「多分、頼子はこの手紙を知らないはずだ」
「手紙?」
「そう、あの夏の失踪事件、まぁ僕達の旅の始まりになった発端はこれなのだよ」
 妹がいぶかしげに手紙を広げて、目を通す。
 僕は妹がその手紙を読み終えるまで窓から見える通りを見ていた。
 夏の陽ざしに反射して輝く街中を歩く人々の姿が見える。
「ねぇ・・」
 妹が僕を呼ぶ。
 振り返って妹を見た。
「兄さん、これ初めて見たわね。手紙の最後にヒナコって書いてあるのだけど・・、これは誰なの?」
 頷くと手を出した。
 妹が手紙を僕に差し出す。
 それをバッグに仕舞うと、妹に向き直り言った。
「向日葵の少女・・」
「向日葵の少女?」
 妹が反芻する。
 僕は笑いながら言った。
「そう。向日葵の少女。僕達の夏の冒険は彼女のこの手紙から全てが始まったんだ」
「この手紙から?」
 妹の言葉に頷くと僕は言った。
「そうさ、僕達はその少女に会う為に皆の前から姿を消したのさ」


 
 僕は妹の病室から戻るとノートパソコンを開き子供の頃の日記を手元に置いて直ぐに小説の草稿に取り掛かった。
しかし、中々冒頭部分が書けず、机に寄りかかりながら時間を過ごすうちに夜になった。
(書き出しになる部分が浮かばない・・・)
何かきっかけになりそうな言葉を日記や思い出の中から懸命に探していたが、やがてパソコンのキーボードを叩くのを止め、ぼんやりと肘をついて窓から見える夜の世界を眺め始めた。
 点々と続くマンションの灯りと空に輝く星が見える。
 眼下には街の明かりを飲み込んだ川が流れ、まるでゴッホが描く星空の絵画の世界のようだった。
(ゴッホか・・)
 肘がかすかに動いた。
(そういえば・・)
 心の中で反芻する。
(ゴッホの代表作に『向日葵』があったな)
 ゴッホがフランスのアルル地方で描いた向日葵は代表作として知られている。
ふと、椅子をたって書棚からゴッホの画集を取り出して開いた。数枚ページを捲るとやがてゴッホの向日葵が見えた。
僕は作品を見る度にいつも思う。
(この向日葵の絵は何が僕達を引き付けるのだろう。色彩だろうか・・それともゴッホが抱えた内面ともいうべき秘密・・)
 そこで僕は思わず絵から目を離した。
(そうだ『秘密』・・)
 僕はそのままパソコンに戻りキーボードの横にゴッホの画集を開きながら、文字を打ち込んだ。
“子供の頃”
“秘密”
“場所”
 画面に打ち出された文字を見る。
僕は大きく息を吸うと、再び文字を打ち込み始めた。
“子供の頃の秘密の場所”
心の中で指を鳴らす音が聞こえた。
小説の冒頭部分が決まった。



子供の頃には誰でも自分達の場所がある。それは仲間内では「秘密の場所」と言うことになるだろう。
それは河川敷に生い茂る背の低い草花のトンネルの中かもしれないし、橋の下の隙間かもしれない。
 それが少年時代の僕にも、いや、僕達と言った方がいいかもしれない、それは当然在った。
(それは別段何でもない・・)
僕は思わずその場所を思い出して笑みが浮かんだ。
それは車が止められる駐車場を兼ねた倉庫の中二階で、そこが僕達の秘密の場所だった。
僕達がこの場所が秘密の場所なんて言えば「子供だね」と親達は片腹抱えて笑うにきまっている。
(そりゃ、そう思うだろう。だって、ここは友達の家なのだから)
 そこでふと僕は目を細める。
大人になると忘れてしまうことが沢山あると思う。
それは現実を知りすぎて、空想が入り込む余地が無くなり、だから秘密の場所と考えれば、例えば建物であれば音が漏れない頑丈な壁が必要だとか、山奥にひっそりとあって集団から孤立していないといけないだろうとかそんなことを「現実的」と考える。
しかし、子供の頃の「秘密」はどうだっただろう。
実際はそうしたところに子供は秘密を持ちこみたいのではなく、唯仲間と行交う場所が出来て自分達だけの他愛無い暗号や合図、ルールが守られるだけでいいのではなかっただろうか。
隙間があってもいい段ボールの壁、拾ってきた空き瓶の蓋、図書館から借りて来た古く茶色になった探偵小説。
僕達の秘密の場所、いや秘密の基地だろうか。
それは中二階に在って壁に申し訳ない程度の古畳が壁に立てかけられ床には将棋盤や碁盤が置かれている。あとは壊れた椅子と机があって、クワガタやカブトムシの標本がある、そんな粗末で雑多な場所だった。
ここではどこからも少年達が集まる姿は見えるし、友達の父親が帰って来て軽トラックを駐車場に入れれば僕達が中二階にいることなんてすぐわかるし、話す声何て駄々洩れだ。
だから秘密何て何も隠せない。それでも僕達にとっては十分秘密の場所として機能していた。
子供の頃と言うのは不思議と言うしかない。秘密だと思っていることが例え洩れたとしてもそれは永遠に秘密だと思える時代なのだから。



桜島が噴火するとその灰が風に乗り、やがて空から降って来る。僕はそんな桜島の灰が降る宮崎南部の城下町で少年時代を過ごしていた。
冒険の始まりを告げることになったその日、早朝に噴火した桜島の灰が僕達の住む広渡地区にも降り注いだ。それは勢いよく降り出し屋根一面だけでなく道路も緑の芝も全てが白く覆われて灰神楽が舞うぐらいの量になった。
その様子を見て妹の病院へ行く父親と入れ替わる様に帰って来た母親が慌てて朝飯を食べている僕の箸を取り上げて、庭に干してある洗濯物を取り込むのを手伝わせた。
朝食の大好きな玉子焼きを食べきらないまま洗濯物の取り込みを手伝わされた僕は、当然、機嫌が良くない。
だから洗濯物の取り入れを手伝いながら口をとがらせて母親に文句を言った。
文句は何ということは無い。唯、ぶぅぶぅ、ウダウダ文句を言っていただけで、やはりと言うか案の定、最後には母親にこの上なく強く頬をつねられた。
それで増々機嫌の直らなくなった僕は箸を置いて朝食を食べるのを止め、口をとがらせて再び文句を言った。
「夏生、あんた男じゃろ!それぐらいの事でウダウダ言わない。男はそれぐらい黙って辛抱しなさい!」
 しかし、僕は文句を言う。
だから再び母親が僕の頬をつねって黙らせようと動いた。
「させるか!」
言うや、僕はそんな母親から逃げるように庭へ飛び出した。
「夏生!どこいくの!」
 逃げて行く僕の背を庭に出て見送る母親が言葉を投げる。
「いつものとこ!」
 僕は振り返らず、言った。いつものところ、それは僕達の秘密基地以外にない。
母親は大声で言った。
「早く帰って来なさい!それと・・昨晩のお父さんとの話はまだ皆に言っちゃ駄目よ・・!!あとは・・勝幸君のお母さんに会ったらちゃんと挨拶するのよ!」
 母親の言葉に短く頷いたが、夏の強い陽ざしが僕の頷いた姿を一瞬にして足元の濃い影と一緒にしてしまった。



ここまで一気に書くとメールの着信音が鳴った。ゴッホの画集の上に置いていた携帯を手に取ると差出人を見た。それは頼子からだった。
『兄さん、どう?小説の方は進んでる?
 今日、兄さんが帰った後、検査の結果がでたけど、特に異常は無かった。
 だけどまだ様子を見ないといけないみたいだから、当分、入院しないといけないみたい。
 これが結構嫌なんだけどね(笑)
 だから父さん、母さんには大丈夫だからと言っておいてね
 じゃぁね 』
 僕は読み終えると、そっと携帯を画集の上に置こうとした。
 その時、再び携帯にメールの着信音が鳴った。
 慌てて僕は画面を見た。
 頼子だった。
(何だ?)
 そこには短くこう書かれていた。
『兄さん、結局その“向日葵の少女”には会えたの?』
 その一文を見て僕は苦笑とも言えぬ表情をした。
(まだ小説は書き始めたばかり、そんなに早く結末は書けないよ。まぁ楽しみにしといて)
 そう心の中で呟くと、僕は物語の続きを書く為に再びキーボードを叩き始めた。しかし、不意に手を止めた。
(明日は仕事だから、あんまり夜更かしできないな。今、何時頃だろう?)
 顔を上げて壁に掛かっている時計を見た。
その時、時計の秒針が音を立て動くのを僕は見た。
 


“カチッ”
(時計の音だ・・・)
僕がそう思った時、ひび割れた時計のガラスの下で針が静かに動いて、午前十時を指した。
外では降り注ぐ太陽の下で蝉が鳴いている。
壁に立てかけられた畳を背にして少年三人が将棋盤を囲んでいた。
 扇風機が唸りを立てて風を流して、それが三人それぞれの髪や頬を撫でて行く。 
「あっちぃ・・」
 赤く腫れた頬を摩りながら僕が指に挟んだ将棋の駒を、差し向かいの相手がちらりと見た。
僕がそっと将棋盤の上に置いた駒が音を立てると、痩せた身体のいがぐり頭の少年が頭を押さえて叫んだ。
「げっ、うそー」
 その少年は頭を掻きながら将棋盤の隅から隅までなぞる様に目を遣る。
 少年の向かいでは同じぐらいの年頃の少年が二人いた。
 一人は対局者である僕、横でチップスを食べているのが将棋盤をなぞる様に見ているいがぐり頭の弟だ。兄とは対照的に少し小太りだ。
 兄の表情を伺いながら弟が言う。
「お兄ぃの負けやね。完全に手詰まり。ナッちゃんの勝ちや」
「お前ぇ、何言うちょるんや!」
 少年は顔を上げると弟を睨み返した。勝負に負けたくない勝気な性格が言葉と表情に出ている。
「勝負は諦めたら駄目。駄目じゃ!」
 そう言い放つと再び将棋盤に目を遣る。
 弟はやれやれと言う表情をして僕を見て笑った。
 弟の勝彦は兄の勝幸とは違い温厚で柔和なタイプだ。やれやれという感じで袋に手を入れるとチップスを取り出して僕に渡した。
「ありがと、かっちゃん」
それを口で嚙みながら、僕は必死に将棋盤を見ている兄の方を見た。
 この兄弟は名前に同じ「勝」という字を持っているため、仲間内ではいがぐり頭の兄を「いがぐり」の“ガ”をとってガッチゃんと呼び(だけど特に親しい僕らの間ではもっと短く「ガッチ」と呼んでいる)弟を「かっちゃん」と言っている。
 僕は目を開いて将棋盤を見ている勝幸に言った。
「ガッチ、どう?まだ、勝負する?」
 うーんと唸ると畳にもたれて勝幸が僕をちらりと見て言った。
「三本勝負だから、まぁ、一本取られたことにしとこ」
にこっと笑う。
「お兄ぃ、せこい!ナッちゃん、三本勝負とか言ってないから!」
 間一髪入れずに勝彦が言い放つ。
「阿保か、勝彦!最初から俺は三本勝負と心の中で決めてたんじゃ!」
 そう言うと将棋盤の上に置かれた駒を崩して、また新たに駒を配置し始めた。
「うわー、ひどっ!」
 勝彦の叫びに思わず僕も苦笑して、同じように駒を配置していく。
 駒を配置しながら、僕は心の中で二人の兄弟の前で言うべきかどうか迷っていることがあった。
 遠くで鳴いていた蝉の声が段々近づいて聞こえる。
 物思いに耽る僕に勝彦が言った。
「ナッちゃん、御免な、兄ちゃんが馬鹿なことして」
 勝彦は兄が勝負を反故にするようにして終わらせたことで僕が怒っていると思ったのだろう、優しく声をかけた。
 顔を勝彦の方に向けると、僕は顔を振った。
 兄の勝幸もどこか少しすまなさそうにして僕を見ている。
「兄ちゃん、謝れよ。ナッちゃんに」
 おぅ、と小さく呟く声が聞こえる。
 慌てて僕は言った。
「ガッチ、かっちゃん。違うよ。この将棋のことじゃないよ」
「違うの?」
 勝彦が言う。
 僕は首を振った。
 それを見て不思議そうに勝幸が言った。
「じゃ、何?」
「うーん」
 僕はそれで黙った。
 兄弟が黙る僕を見ている。


昨晩、大阪へ仕事に出ていた父親が帰って来た。妹が盲腸で入院した為、急遽帰って来て僕の面倒を見ることになった。
その夜、二人で食事をしていると唐突に父親が僕に言った。
「ナツ、あんなぁ、悪いけど・・・、大阪へ家族皆で引っ越しすることになった」
 僕は驚くと箸をおいて、父親に言った。
「いつ?」
「おそらく、十二月に大阪に引っ越しする」
「転校するの?」
「そうなる」
 父親は陽に焼けた腕で瞼を拭った。
「お前にはこっちに沢山友達がおるじゃろ。離れ離れにさせるのは心苦しいのやけど、田舎には仕事がないんじゃ・・それにお前達も大きくなればやがて都会へ出て行く。それやったら早い内に都会へ出た方がいいと思ってな」
 僕は黙って下を向いた。
「さっき病院へ行って、お母さんにも話をして決めた」
 そう、と小さく声をこぼすと箸を動かして飯を口に入れた。
 自然と口の中で溶けてゆく米の味が涙の味に変わった。
「すまんな。ナツ」
 そう言った父親の陽に焼けた頬も濡れていた。
 

 蝉の声が再び響く。
(もう、来年の夏はこの蝉の鳴く声を聞けないのだ)
 そう思うと悲しくなって自然に涙が出て来た。
 二人はますます心配になって僕の面前に顔を出す。
「ナッちゃん、何かあったの?泣いているよ」
 勝彦の言葉に反応して手の甲で涙を拭くと僕は言った。
「いや、急にこの前のサッカーの試合を思い出してね。ほら南郷の二十四番にシュート決められたじゃない?あのとき僕がもう少しあいつにしつこくやってたら、試合に負けることもなかったと思ってね」
 僕は自分が思っていたこととは別の事を言って兄弟の心配をはぐらかした。兄弟も一緒に地元のサッカー少年団に入っている。
 案の定、僕の話したことに納得したように勝幸が言う。
「ウイングのあいつにやられた。確かに足が早かった。ナッちゃん、それ気にしてたんか?」
「気にするよ。だってそれで夏の大会終わったのだから」
 勝彦がチップスを口に咥えて将棋の駒を戻しながら言った。
「でも、いいじゃない。また冬の大会があるし、それに監督も言っていたよ。冬までにお兄ぃのいがぐり頭を強化してヘディングの強い選手にするって」
 おう、といいながら勝幸が頭を撫でてペンと音を立てて笑った。
「うん」
 僕は小さく言った。
(でもね冬の大会には、僕は居ないのだよ)
 将棋盤の上に綺麗に駒が配置されると僕は勝幸に向き直ってじゃんけんをしようとお互い手を出した。
 すると外で僕達を呼ぶ声が聞こえた。
 誰だろうと思って三人で目を合わせて僕達は窓の方を見た。勝彦が立ち上がり窓を開け、首を出して窓から外を見る。
 誰か居たのか手を振った。
「勝彦、誰?」
 勝幸が弟に言う。
「ツトム君だよ。僕達を呼んでるみたい」
「ツトム?」
 僕と勝幸が目を合わせて立ち上がり並んで顔をのぞかせて窓の外を見た。
 小さな農道の側から陽に焼けた両腕をシャツから出してひとりの少年が僕達を見て手を振っている。
「ツトムじゃ」
 僕達は揃って中二階の階段を下りてサンダルを履くと走り出して農道に立つツトムの側までやって来た。
近くまで行くと彼が大きな網を持っているのが分かった。
カブトムシやクワガタを獲りに行くタイプではなく、それよりも輪が大きな網だった。
「ツトム、何するの?」
 勝幸が聞いた。
「おう、ガッチ。そこの川でな、昨日の夜、大きな鯉が泳いでるのを爺ちゃんから聞いてな。それ、獲りに行くんじゃ」
「本当かよ」
 勝彦が言った。目が輝いている。
 ツトムが網を置いて手を広げた。
「一メートルはあるらしい」
「げっ、本当?それは、主じゃねぇ?」
 勝彦が驚いて同じように手を広げて自分でもその大きさを確認している。
 ツトムが勝彦の広げた手に合わせるように網を持っていく。
「これ、爺ちゃんから借りて来た山鳥を取る網やっちゃ。これなら獲れっど」
 網を動かしてツトムが言う。
「よし、それなら。今から俺達も一緒に行く」
 勝幸が僕達を見て言った。
「行くか?」
 ツトムが言う。
僕と勝彦が頷いた。
「じゃ、行くど」
 そう言って僕達四人は小さな農道を歩き始めた。
 歩き出すと昼食を食べに戻って来た勝幸兄弟の親父が軽トラックの窓から何かを息子達に言った。
「父ちゃんじゃ」
 勝彦が兄に言う。
「まぁ昼飯の事じゃろ。ええっちゃ後にしよ」
 僕達は父親が見ているのも気にせず一斉に並んで走り出した。
 それが冒険への始まりに近づいていることも知らずに、蝉の鳴く声を背に聞いて、僕達四人は進んで行った。

 
冒頭部分を書きだした後、僕は仕事から帰れば日記を読み、思い出した事をノートに書いて、週末の小説の草稿がし易いようにした。 
休みの週末が来ると朝早く起きてキーボードを叩いた。
その日未明から激しい雨が降っていた。窓を濡らす雨の滴を気にすることなく僕は文字を画面に打ち込んでゆく。
十時頃だろうか急に窓を濡らしている滴が輝き、空が明るくなった。
(雨が上がった)
 手を止めて明るくなった外を見ようと窓を開けた。
珍しく虹が見えた。虹は都会のビルに掛かる様に円を描きながら離れたビル群の中に沈み込んでいる。
(虹か・・)
僕は目を細めて虹を見つめる。
激しく降りやんだ雨が空に残した軌跡を眺めていると、急に僕は思いついたようにCDを探した。虹の軌跡に打たれた心に響く様な音楽を聴きながら小説を書きたいと思ったからだ。
何がいいだろうと思っていると、『スタンド・バイ・ミー』を見つけた。
(これ、いいかも)
 僕はケースからCDを取り出すと、プレイヤーに入れて音楽が流れてくるのを待った。すると低い、ベースの音が聞こえてきた。
 やがて規則正しいリズムに乗って歌詞が聞こえてきた。
虹は輝き、その上を滑る様に『スタンド・バイ・ミー』の歌詞が流れていく。僕は音楽を聴きながらパソコンの画面に向かい、キーボードをたたき始めた。
 そう冒険の始まりの話の続きを書く為に。


「おっどー、ここに!」
 ツトムの声に僕達は振り返り、急いで膝まで川につかりながら彼の側に集まって来た。
「どこ?どこ?」
 勝彦が川面を急いで見回している。
 僕も勝幸も勝彦の側で見回しているが、全くどこに鯉がいるのかわからなかった。
「ほら、そこ。そこ、そこにおっど」
ツトムが網の先で水面を指す。
んー、という神妙な顔つきで三人がその水面を見る。
 すると浅瀬を何か黒い塊がゆっくり動くのが分かった。
「おった!」
 勝彦が声を出す。
 それは確かに一メートル程の鯉だった。ゆっくりと堂々とした姿でそれは泳いでいる。
「主や、絶対あれは主や!」
 勝彦が騒ぐ。
 捕まえようと動き出そうとするのをツトムが腕で押さえて一歩前に出た。
「そこで待っちょれ」
 軽く僕達を振り帰ると、網をゆっくりと川面につけた。
「浅瀬にいる間に網で取っちゃる。もし、しくじって深瀬の方に逃げたら・・・ガッチ、お前の得意な潜水で飛び込んでくれっちゃ」
 勝幸が頷く。
「よし」
 そう言うとツトムがゆっくりと、しかし素早く網を鯉に向かって進めて行く。
 鯉は僕達三人の熱気に触れることなく、静かに川面の下で泳いでいる。
 やがて網が鯉の尾鰭の下に触れるかどうかのその一瞬、ツトムが網を川面の下から一気に空へと素早く掬い上げた。
「そりゃ!」
 掛け声と共に水飛沫が空を舞い、僕の顔にかかった。
「獲ったか!」
 勝彦が網へ目を遣る。
 網を空で振るとツトムが言った。
「駄目じゃ。逃げた!」
 くっそー、と言ってツトムが網を川面に叩く。
ああ!と叫ぶ勝彦の声が響く。
 僕はその時叩いた川面の側から速度を上げて深瀬の方へ向かう鯉を見た。
「ほら!ガッチ、あそこ、あそこにおる!」
「よっしゃ!」
 指を指すと同時に、勝幸は川に飛び込んだ。
大きな音がして水飛沫が僕達に降り注ぐ。
「お兄ぃ!」
 勝彦の声が再び響く。
深瀬に飛び込んで手を広げて泳ぐ勝幸の姿が僕達にはっきりと見えた。手を二、三回漕ぐと水面から顔を上げた。
「ガッチ!捕まえたか?」
 ツトムが言う。
勝幸は水面から腕を出さないで立ち泳ぎのままこちらにゆっくり泳いでくる。
僕はドキドキしながら勝幸の腕を見た。
そこに何かあるのか皆が凝視して見ている。
やがて勝幸はゆっくりと腕を上げた。
「どうじゃ?」
 ツトムの声に三人が顔を突き出した。すると勝幸が一瞬笑った。
「こうじゃ!」
 勝幸の声がすると三人に向かって水の塊が飛んできた。
「うっぉ!」
「うわぁ」
 三人が夫々小さな叫び声を上げた。川の底にある冷たい水が顔に降り注ぐ。
「だめじゃ!獲れんかった」
げほげほ、と三人が言う。
「阿保か、お前。これで皆びしょ濡れじゃ」
 僕は頭から濡れた。髪が額に張り付いている。
(これは父さんに怒られるな)
心の中で思った。
勝幸は水に濡れた三人を眺めて笑っている。
するとツトムが網を投げ出して、笑っている勝幸に向かって川へ手を伸ばし、大量の水を掬い上げて投げつけた。
それは不意を突かれた勝幸のいがぐり頭を直撃し、大きな音を立てた。
「やったな!」
 勝幸が顔の水を手で払いながら、水を掴むとツトムへ投げた。
 それを避けようと横に動くとツトムがバランスを崩して倒れかけた。
「うわぁ」
 声を出して倒れながら腕を伸ばすと勝彦を掴む。
「ああ、ちょっと!!ツトム君!!危ない」
 後は二人とも仲良く川へとダイブした。
 大きな音がして、二人が息を慌ただしくして起き上がる。
 顔を手で拭きながら、二人見合わせると、後は腹を抱えて笑った。
 僕も勝幸も笑った。
 四人の笑い声が川面に響く。
 皆笑い終えると、僕は「上がろうか」と言った。
 するとツトムが慌てたように言った。
「ナッちゃん、ちょっと待って!爺ちゃんの網が無い!」
 その声に僕達は我に返り、辺りを見渡した。すると川下へ向かって流れている網が見えた。
「やばい。あれが無くなると爺ちゃんから、すっげぇ怒られる」
 ツトムの悲鳴にも似た声がすると同時に、勝幸が川へ飛び込む。すると両手をクロールして網の側まで行った。それをしっかり掴むとゆっくりと川岸まで泳いでゆく。
 僕達も川岸を移動して勝幸の所へ急いでいった。
「ガッチ。悪い」
 すまなさそうにツトムが言う。
 勝幸が網をツトムに渡す。
「ツトム君、良かったね。網が戻って来て」
 勝彦の言葉にツトムが頷く。
「うん、よかった。ガッチのおかげやっちゃ」
「兄ちゃん、たまにはいいことするんじゃな」
 その言葉に口をへの字に曲げて、勝幸が言った。
「いつもじゃ、勝彦」
 そう言って勝幸が僕に何かを手渡した。
「何?それ兄ちゃん?」
僕は受け取ったものをゆっくりと皆の前に出した。
それは小さな小瓶だった。
夏の陽ざしにそれは一瞬輝いた。
「網にからまっちょったとよ」
 僕はそれを皆の面前へ出す。
「瓶じゃな?」
 ツトムが言う。
勝彦は頷いた。
 僕は瓶を陽ざしに透かすように高く上げた。
「ん?」
 ゆっくり瓶を振る。
「ナッちゃん、どうした?」
 ツトムが言った。
「中に何かが入っている」
 皆が一斉に瓶の蓋を開けようとする僕の指先を見つめた。蓋はきつく締められていたが、力を籠めて回すと後はゆっくりと開いた。
 瓶を逆さにして中身が落ちないように、手の平の上に落とした。
 それは便箋だった。
「手紙じゃねぇ?」
 ツトムが僕を見た。
「そうみたいだね」
僕はそれをゆっくりと開いた。
勝幸と勝彦の兄弟も神妙な顔つきで僕が手紙を開いて読んでいるのを見ている。
「なぁなぁ、なんて書いちょるん?」
 勝彦の言葉に僕は皆に聞こえるよう声を出して手紙を読んだ。
それはこう書かれていた。


「この手紙を拾ってくれた人。誰でもいいので私のお友達になって下さい。
私は重い病気でずっと家に居て独りぼっちです。だから今まで一緒に笑える友達がいません。
今日私は思い切って家の側の小川から手紙を入れた瓶を流しました。この手紙をのせた瓶はきっと川を下って海へ行き、世界中の色んなところに行って病気の私の代わりに色んなところを旅して、きっと素敵な友達を探してくれると思ったからです。
瓶を拾って、手紙を読んでくれた方は是非私に会いに来て、友達になってください。
でも、でもね。
もし私が死んだ後にこの瓶を見つけたら、どう思うかな。
だから私考えました。
その友達が悲しむかもしれないので、向日葵の種を入れておきます。もし私が死んでいたらこの種を庭に蒔いてください。そうすれば夏になると向日葵が咲いてそれを私だと思えるから。
 それでは ヒナコ 」

「ヒナコ?」
 ツトムが僕に言う。
「知ってるの?」
「いや、全く知らない」
 ツトムが申し訳なさそうに言う。
「ガッチは?」
 勝幸も首を振った。
同じように勝彦も首を振る。
「だよね・・・」
 僕は手紙と向日葵の種を瓶に仕舞い込んだ。
「この瓶は上流から流れて来たんじゃろ。じゃったら、ヒナコっちゅう子はこの先に住んどるんじゃろな」
 ツトムが網を肩に掛けながら日焼けした腕を叩いた。叩いた掌を見ると赤い血が見えた。
「蚊じゃ」
 うへ、と勝彦が言う。
「上流か・・」
 勝幸が神妙な顔をして考え込む。何かを思い出そうとしている。
「どうしたの、ガッチ?」
 僕が声をかける。
「いや・・なんでもないがじゃ」
慌てて勝幸が僕の方を見て手を振った。
「そう」
 僕は勝幸から目を離してツトムを見た。
「ツトムは確かこの川の上の方に親戚がいたのだよね。誰か思いつかない?」
僕はそう言って、少ししまったという顔をした。ツトムが少し渋い顔をして頷く。僕がしまったなと思ったのは、ツトムの両親は今年離婚した。今、ツトムは父の祖父母の所で生活している。
離婚後、ツトムの母親はこの川の上手にある東郷という地区に今は住んでいる。僕の母親はツトムの母親とは仲良しだ。だからその辺の事情を勝幸、勝彦兄弟よりは少し詳しい。
当然、僕がそう言った以上、母親の事を思い出したに違いない。明るくしているが、やはり子供の心は傷ついている。
僕はツトムが一人帰りながら泣いているのを何回か見たことがあった。
ちらりと伏し目でツトムの顔を見る。
渋い表情のままだった。
「で、どうすっと?」
 勝幸が皆に言った。
 三人が「ん?」と言う。
「その手紙の子は友達が欲しいんじゃろ。それに重い病気やと言うちょる」
「兄ちゃん、まさかその子に会いにいくと?」
 勝彦が兄に言う。
 僕は黙っている。
「もう、夏休みやし、自転車があるじゃろうから、ちょっとその子を探しに行ってみよう。どうじゃろう?」
 僕は勝幸の顔を見ている。
「それに・・・」
 勝幸が僕を見た。
「その重い病気で思い出したんじゃ。この川の上流にある鳶ケ峰を越えたところに、向日葵が沢山咲いている大きな屋敷があって、お父ぅがこの前そこに畳を持って行った時に、病弱の女の子がおった言うちょった」
「屋敷?」僕は想像した。
「どんな屋敷?」
「うん、まぁ古い屋敷かな」
 勝幸の言葉で、僕は昔の庄屋が住んでいたような大きな屋敷を想像して、腕を組んだ。
(こんな田舎にある様な屋敷って、そんな感じだよね)
 思いに耽っとるところに勝彦の質問が飛ぶ。
「お父ぅ、そんなこと言うちょったと?その日、確か兄ちゃんも一緒に行っちょったよね?そん時見てないの?」
 勝幸が首を傾げると、顎に手を遣りまがら口をとがらせて少し目線をずらして頷く。
 その顔が僕には少し惚けているように見えたが、その時僕はその勝幸の惚けた表情の意味を知らなく、それは大分たってから分かることになる。
「行こうや、皆。俺は行ってそのヒナコっちゅう子に会ってみたくなったっちゃ」
「えーやだよ、兄ちゃん。だってあそこ別名毒ケ峰って云って、毒蛇のおるところじゃろ」
「毒蛇?」 
 僕が目を丸くする。
 ツトムが頷く。
「知ってるっちゃ。マムシとか夜になると峠道に沢山下りてくるんじゃ」
 すると不意にガサッと、何かが動く音がした。
 皆が一斉に凍りつく。
 ゆっくりと音が鳴った方へ首を振り返ると、一羽の川鳥がそこから飛び立った。
 胸をなでおろしながら、僕は言った。
「そこ、ここからどれくらいかかるの?」
「そうじゃな。車で二、三時間ぐらいかな」
 ツトムが言って首を縦に振る。
「じゃ、朝早く出たら夕方には戻れるかな」
僕は勝幸に問いかけた。
「大丈夫じゃ」
 勝幸が自信あるように言ったので、皆も納得した。
「ならツトムにナッちゃん、明日、家に朝九時に来てよ。お菓子とかできるだけ持って来て。地図は勝彦が用意するから」
勝幸の言葉の後に「えー」と勝彦が言う。
「毒蛇は嫌だよ」
 僕も心の中でそれは嫌だなと思った。
 ふとツトムの顔を見ると渋い顔をしている。
(ツトムは毒蛇より、嫌な事かも)
僕はツトムの心を推し量りながら、瓶をズボンのポケットに仕舞い込んだ。



 翌日、僕は三十分ほど早く勝幸、勝彦兄弟の家に行った。
早く家を出たのは正直昨晩眠れなかったからだ。布団に入り、目を瞑ってみたが毒蛇がいるという鳶ケ峰を思うだけで正直ぞっとして寝付けなかった。布団に潜り込んだが目がさえて寝付けず、やっと少し微睡むと朝陽が昇って来て、殆ど眠れていないという始末だった。
 大きな欠伸をして起きた僕を父親は少し怪しげに見ていたが、妹の病院へ行くための準備などをしているうちに僕の事を気に留めなくなったのか、朝食をとっているときには何もない、いつも通りの平穏な会話をしていた。
 そんな父親に一言「出かけてくる」というと、僕は自転車に跨り、兄弟の家へと向かった。
僕が着くのとほぼ同じタイミングで畳職人の勝幸兄弟の父親の軽トラックが出て行くところだった。
「ナッちゃん、おはよう、今朝も早いな。ちゃんと宿題とかやっちょるじゃろな?」
父親が出かけに僕に車の窓越しに言った。
「うん。大丈夫だよ。おじさんも朝早いね」
 そう言うと
「今日は海岸沿いの伊比井っちゅうとこに行かなあかんちゃわ。だから今から行かんとね」
 陽に焼けた腕を窓から伸ばして、軽く僕に手を振る。
「うちのチビ共にも、ちぃとはナッちゃんぐらいの真面目さがあっとよかっちゃけんどね」
と言って、軽トラックのエンジンを勢いよく吹かせて通りに出て行った。
 僕は出て行く軽トラックを見送ると、中二階へ駆け上がった。入って来る僕を皆が見る。僕は手を上げて挨拶をした。
いつもの将棋盤の所に三人が座って、その将棋盤の上に地図を広げて何やら話し込んでいる。
 ツトムは襟首のあるシャツで袖をカットした手作りの感のあるチェック柄のシャツを着ており、地図を見ながら陽に焼けた腕を掻いて地図を見ていた。
昨日、蚊に血を吸われたところが痒いのか、何度も掻いていた。勝幸、勝彦兄弟は普通の丸首の文字がプリントされたシャツを着ていて腕をまくっている。勝彦はというと地図を見ながら口にビスケットを咥えて、口をもぐもぐさせている。
 うーんと唸りながら皆が地図を見ていた。
「皆、どうしたの?」
 僕の声に勝彦が答える。
「ナッちゃん。どのルートを通るか今作戦会議中」
「そう?」
「そう」
 勝彦の声に三人が頷く。
「ガッチさ、結局、その・・今出て行ったお父さんと一緒に行った屋敷ってわかったの?」
 勝幸は力強く頷く。
「どこ?」
 僕の問いに、勝幸が地図のある場所を指さした。
「ここじゃ」
 ん、と僕は覗き込む。
 そこは“黒谷”と書かれてあった。
「うん、くろだに?」
「違う。“くろや”やっちゃ」
 ツトムが言った。
「くろや?」
「そう、くろや」
 目を少し動かすと北の方に“鳶ケ峰”があった。順に北へ目を動かすと、“吉野”“東郷”と在った。黒谷は僕達の住む場所からずいぶん南にあった。吉野は僕の親父の実家があったからそこまでの距離は分かったが、そこから黒谷を目指して自転車で行くにはやはりかなり長い距離だった。
「間違いないの?」
 勝幸が頷く。
「昨日お父ぅと風呂入りながら聞いたっちゃ、なぁ勝彦?」
 弟がビスケットを噛んで音を鳴らして兄貴の言葉に答える。
「まずはこの吉野まで行かないとな」
 勝幸が言う。
「それまでどのルートを通るかやけど。城下の本町、新町行くと平坦やからいいけど遠くなるじゃろ。しかし山川回りやと坂が多いから・・」
 うーんと勝幸が呟く
 僕は言った。
「ガッチ、絶対山川回りだろ。だって全然違うよ。坂って言ってもそんなにきつくないし・・」
 そこまで行って僕は兄弟の顔を見る。
 兄弟もそのことは分かっているようだが、ツトムの方を見てやや渋面を作った。
「ええ?どうしたのガッチ、かっちゃん。ツトムの方を見て・・」
 ツトムもどこか惚けたような顔つきをしている。
 腑に落ちない僕は、唯一、自分が何か大事な答えを見つけていないことに苛立ちを感じて、「何?何?」を連発して兄弟に答えを求めた。
 勝幸は目を閉じて黙っているが、勝彦がそんな兄の代わりに僕に言った。勿論、ツトムの方をちらりと見て。
「ナッちゃん・・・、ほら、山川のさ、城の裏道下りの坂下におるじゃろ?」
「おる?何が?犬?野犬?」
 僕は自分が嫌な野犬の事が浮かんだ。幼い頃に野犬に襲われて以来、僕は野犬が嫌いだった。ただでさえ、毒蛇が居るところにいくのに、もしそこに野犬がいるようならまっぴら御免だった。
「違ごぅ。あいつ。あいつ」
「あいつ?」
「ゲン太だよ」
 ツトムが言った。
 それで僕は思い出した。
 今、ツトムが言ったゲン太とは喧嘩が強く気性の粗い奴だった。一つ上の兄貴も同じように喧嘩が強く、学区内では有名な兄弟だった。ゲン太は空手ができ、その為腕っぷしが強くおまけに性格が短期で気が強い。
しかしツトムも自然、野生児としての強さがあり喧嘩が強く、つまり二人がこの学区内では相当の実力者だった。強い者同志に良くあることでこのゲン太とツトムは気性が合わず、喧嘩をしない日はないというくらいの犬猿の仲でほぼ毎日喧嘩をしている。
「成程ね。確かにゲン太がいるね」
 僕は口を捻る様に言う。
「そうじゃろ」
 相槌を打って勝幸が言う。
「それにさ、もう一つ。問題があってさ、新穂先生もその近くに住んじょる」
「え?先生が?」
 僕は思わず前のめりになった。
「新穂先生がそこに住んでいるの?」
「そうじゃ」
 勝幸があー、と言う。
「嫌だなぁ。もし先生に会ったら、絶対どこに行くか聞かれる。子供だけで鳶ケ峰のほうまで行くなんていったら。絶対ダメって言うに決まっちょる」
 頭を掻く勝幸の横で僕は小さく呟いた。
「先生がそこにかぁ」
 新穂先生は僕達の担任の先生だった。東京の大学を出て、今年初めて教員として僕達の小学校に赴任してきた。勝幸やツトムはどう思っているか分からないが、僕にとってはどんな美術の本に描かれた絵画の美女よりも、この先生が美しいと思っている。
 長い髪に細く切れ長の一重瞼の下でとても澄んだ黒い瞳がいつも僕達を見ていた。先生の事を思うと胸の鼓動が早くなるのが分かる。
 勝彦が言った。
「じゃーさ。ゲン太もおるし、新穂先生もおるんじゃから、山川は止めて、時間かかるけど城下の方を抜けて行こうよ」
 僕は思わず、反射的に言った。
「駄目!」
 えっ、と皆が向く。
「駄目。かっちゃん。山川回りで行こう。だって時間がないし、それにゲン太も先生も今は夏休みだから家にいるとは限らないよね?」
 僕の強気に気圧されるように勝幸が言う。
「ま、まぁ・・確かに」
 勝幸がそう言うのを待って僕は言った。
「じゃ皆、山川ルートに決定だからね」
 お、おうと頷く声に満足しながら、僕は何故か心の中で新穂先生に会えるはずだとそう思って期待をした。
「ナッちゃん。どうしたんじゃ、急に強気になって」
 勝彦が空になったビスケットの代わりに別のお菓子をポケットに入れながら僕に言ったが、僕は口笛を吹きながら階段を降りた。



 自転車が夏空の下を行く。小高い山際に並ぶ住宅街の中の小さな小川を右手に見ながら僕達は進む。僕達はこの小川沿いの小さな地区を山川と言っている。静かなところでお城から下る坂道があってそこから僕達はいつも学校へ向かう。
僕達の学校はお城の中にある。お城を「飫肥城」と言った。正確に言えば飫肥城が僕達の学校だった。日本でも珍しくお城の中に学校の校舎がある。城は山城だ。だからお城を中心に方状線に伸びた道が坂道になっており、そのそれぞれの通りを学生は歩いて学校へ向かう。
僕達は広渡という地区に住んでおり、普段はこの山川を歩き、学校へと向かっている。
そう、そんないつもの登下校の道を僕達は自転車で進んでいた。



 時折吹く風が小川の上を進み、それが僕達の頬に当たっては流れて行った。先頭を勝彦と勝幸兄弟が行き、その後を少し遅れて僕とツトムが並んで進む。
 僕は並んで自転車のペダルを漕ぐツトムの方を見て、前の二人に聞こえないように小さく言った。
「ツトム、お母さんとは最近会っているの?」
 僕の声にツトムが首を振る。
「会ってないっちゃ。この前の五月の連休のときに一度。それっきりちゃ」
 ツトムは真っ直ぐ進む方向を見ている。
「そう・・」
 僕は前を向き向き直った。
 また小さな風が吹いて、僕達の頬に当たる。
「寂しく・・、ない?ツトム?」
 僕は聞いた。
 ツトムの大きく息を吸う音が僕の方まで聞こえた。
「ナッちゃん、やっぱり寂しいちゃよ」
 ツトムが僕の方を見た。
 すこし寂しそうにした瞳が僕を見ている。
「ツトム、この前の日曜日。お母さんが僕ん家に遊びに来ていたよ」
 ツトムが前を見る。
「母ちゃん・・元気にしちょった?」
 僕は頷く。
 

先週の日曜日、突然、ツトムの母親が家へやって来た。
 僕は外に遊びに行く際にツトムの母親に挨拶した。二重瞼のツトムによく似た瞳が僕を見て深くお辞儀をした。
すると僕の手を握りながら言った。
「ナッちゃん、ツトムといつまでも友達でいてね。おばさん、実は此処をもう少ししたら離れて、福岡に行くのよ」
 僕は少しえっとした表情をした。
「ツトムは・・知ってるの?その事?」
 母親は首を横に振った。
「御免ね、このことはツトムに黙っておいてくれる?いずれおばさんのほうからツトムに話をするから。だから今日はお別れを言うためにナッちゃんのお母さんに会いに来たのよ」
 そう言うとツトムの母親は僕に小さな封筒を渡した。
「これ・・ツトムに会ったら渡してくれる?」
 僕は受けとった封筒を開けた。
 中に千円が入っていた。
「これ・・」
 僕は言った。
「本当は直接ツトムに渡したいのだけど・・会えない事情があってね」
 母親は寂しそうに微笑した。
 ツトムの両親が離婚したのを知ったのは一年前だった。その原因を僕は知らない。しかし一度だけ、母親に聞いたことがある。
 母親は
「大人には色んな事情があるのよ」
 とだけ言った。
「それは決してやましい理由じゃないの」
 僕はその事に眉をひそめた。それは僕も噂で最近知ったことだったからだ。それを母親は暗に僕に否定して言ったに違いなかった。
「事情を知らない人が言う、噂よ」
 母親の言葉の後に、それ以上僕は何も聞かなかった。
 少し物思いから覚める様に僕はツトムの母親を見た。
僕もその微笑の裏に潜む事情がよくわかるので黙ってズボンのポケットに押し込んだ。
「分かった。ツトムに渡しとくよ」
 そう言うとツトムの母親は頭を下げて行った。
「ありがとう、ナッちゃん」
 頭を上げると僕を見た。その瞳に少し涙が浮かんでいた。

「ナッちゃん、どうした?」
 考え込む僕を見てツトムが言った。
 慌てて僕は言った。
「いや、何でもないんだ」
「そうか」
「あ、だけどさ。あとで二人っきりになったらちょっと渡したいものがあるから、いいかな?」
 僕はズボンのポケットに手を伸ばして言った。 
「うん、いいよ。でも何だい?ナッちゃん?」
「まぁ、それはあとでってことで」
 そう言って、自転車を強く漕ぎ出した時、先頭を行く勝幸の頭に何かが当たって割れた音がした。
 それで二人の自転車が止まった。急いで僕とツトムは二人の側まで行った。
 勝幸が頭に当たったものを手に取って、僕に見せた。
「これは・・」
 僕はそれを手に取った。
 それは屋台とかでよく見る金魚すくいの透明な袋だった。地面を見ると大きな水が散らばっているのが見えた。
僕達が立ち止まった場所は通学路の坂の所だった。
ばーん!!
激しい音がして僕達の側で何かが地面に落ちて破裂した。
「うわぁ!」
 勝彦が叫ぶ。
 僕は地面に落ちて破裂したものを見た。それは先程勝幸の頭にぶつかったものと同じ物だった。
「水の入った袋じゃないか。誰だ?こんなことする奴は!」
僕はそう言ってはっとした。
 皆も僕がはっとした意味が分かったようだった。この山川でこんないたずらをする奴は奴らしかいない。
 僕達四人は顔を見合わせていると、上の方で笑う声がした。僕達は懸命に声の聞こえる場所を探そうとしていると、木造の二階建てのベランダのある家からその声が聞こえるのがわかった。
「あれじゃ」
 勝幸が指を指した。
 僕達は四人が一斉にそちらを見た。すると、そこに二人の男の兄弟の姿が見えた。
 それはゲン太兄弟の姿だった。


 じりじりとした太陽が僕達四人の額を照らす。額には暑さとは違う汗が滲み出てきていた。
 勝彦が手で額の汗を拭ったのを僕は見た。
 それを見てゲン太が言う。
「兄貴と水袋を作って、もし家の軒下の道を蝉かカナブンが飛んで来たらそれに投げつけようかと話をしちょったら、遠くからどこかで見たような奴らが来ちょる」
 ふふんと鼻を鳴らした。
「誰じゃろかい思ったら、広渡のもんじゃないか。それで息を潜めて兄貴とベランダで隠れて近くに来たら、はら、どーん!!と、水袋を投げつけたっちゃ。そしたら何ちゅうか。皆、おかしい顔をしやがる」
 ゲン太が僕達それぞれを指さしながら高々と笑った。横にいる兄貴が首をかしげながら目を細めて、同じように笑っている。
「危ないじゃろが!」
 勝幸が言った。
 その声に「あ?」とゲン太が答える。
「なんじゃガッチ?お前、俺に歯向かうんちゅうんか?今日は俺だけじゃなくて兄貴もおるんじゃぞ」
 くくくと兄貴が笑いながら肩を揺らして、僕達の周りをゆっくり歩いてゆく。
「歯向かうっちゅんなら、相手になるぜ。いがぐり頭の少年」
 そう言うと兄貴が勝幸の頭をポンポンと叩き始めた。
 僕は唯、黙ってその場にいた。横の勝彦は顔を青ざめながら兄貴が頭を叩かれるのを見ている。
「よせ!」
 その声にゲン太兄弟が声の方を見た。
 ツトムが勝幸の頭を叩く兄貴の手を勢いよく払う。
「何じゃ?お前は!」
 兄貴がツトムのシャツの胸倉を掴む。するとツトムは勢いよく、ゲン太の兄貴の股間へ蹴りを叩きこんだ。
「ぐぁ!!」
 声を放ちながら、道に膝から倒れ込む。
「痛ぇ!」
 ゲン太がツトムに勢いよく体当たりをしてきた。ツトムはよろめきながらも両足を踏ん張りながら身体の向きを整えると、両手を胸元に持って行きボクサーの様に構えた。
「おう、なんじゃツトム!その構えは?」
「アリじゃ?」
「は?」
 ゲン太が小ばかにしたように言う。
「この前、俺は見たと。アメリカ人の黒人ボクサーのモハメド・アリっちゅうボクサーをじゃ」
「ほー、それで俺の空手と戦うんちゅんかい」 
 ゲン太も腰に左手を置き右手を胸前に置いて構えた。ゲン太の兄貴がよろめくように起き上がり、睨みつけながら言った。
「ああ、こいつがゲン太、お前が言いよったツトムっちゅう奴か」
 兄貴が道端に唾を吐く。
「おう、こいつとはいつかはっきり勝負しないといかんのじゃ」
「じゃ、今やれや」
 ゲン太は頷いた。
 僕はゲン太とツトムの間に入って言った。
「ツトムもゲン太も喧嘩なんかよせ。怪我をするぞ。なぁゲン太、もういいだろう、僕達ここを通るからな」
 すると僕の腹に蹴りが飛んできた。ゲン太の兄貴が僕に蹴りを入れて来た。
 僕は自転車ごと道路に倒れた。
「ナッちゃん!」
 勝彦が自転車を投げ出して僕の側に駆け寄る。
「弟の喧嘩の邪魔すんじゃねぇ!」
 ゲン太の兄貴が唾を吐いて倒れた僕の側にやって来て、今度は勝彦に蹴りを入れた。
 勝彦も同じように吹き飛び横倒しに倒れた。
「勝彦!」
「かっちゃん!」
 僕と勝幸が叫んだ。
「皆、ぼこぼこじゃ!」
 ゲン太の兄貴がそう言った刹那、勝幸が飛び掛かった。
「うお、何すんじゃ!」
 必死でしがみついて離さない勝幸を何とか振り外そうとする。すると横倒しに倒れた勝彦が起き上がり、「兄ちゃん!」と言うや猛烈に走り出し、ゲン太の兄貴にタックルをした。 
 それでどう、とゲン太の兄貴が倒れる。僕も同じように駆け寄り、倒れたゲン太の兄貴の足を抑え込んだ。
「兄貴!」
それを見たゲン太が兄貴を助けようとするのをツトムが前に出て、立ち塞がった。
「蝶の様に舞う、蜂のように刺すんじゃ!」
 そう言うとパンチをゲン太に繰り出した。小さな音がしてゲン太は下を向くと、やがて口を押え、構えて向き直った。
 ゲン太の唇があっという間に腫れて来るのが見えた。
 ゲン太の目頭が怒りで紅くなっている。
 唾を吐くと、にやりとして言った。
「ツトム、俺は知ってるんじゃ。お前の母ちゃんがなんでお前のとこを出て行ったのか」
 ツトムの表情が少し、青ざめた。
「それが、何じゃ?」
「何じゃ?」
 ゲン太が笑う。
「お前んとこの母ちゃんは、他に親父以外に好きな奴が出来たんじゃろが。この辺の大人は皆知ってるんじゃ」
 ツトムの構えた拳が少し下がった。
(ゲン太!そんなのは根も葉もない噂だ!)
僕はゲン太の兄貴の足を押さえながら心の中でゲン太の言葉を聞いて叫んだ。
「大人は皆、言うちょる。お前はそんな母さんの血を引いとる卑しい悪い奴なんじゃ・・」
 最後にゲン太が「・・と!」言う前にツトムの右拳がゲン太の頬を叩いた。
 ゲン太が倒れかけるのを今度はツトムの左拳が襲った。見事に音を立てて、再びゲン太がふらつく。
「ゲン太!」
僕は声を出した。同じように「ツトム!」と叫んだ。
ツトムは僕の声には振り向かずゲン太の襟首をつかんだ。僕は兄貴を押さえているのを止めてゲン太へ走り寄った。
 再びツトムの拳がゲン太の脇腹を突いた。僕は走りながらゲン太の顔を見た。
 ゲン太が朦朧としている。
「ツトム!止めてくれ。ゲン太が!意識がなくなっている」
 その声にゲン太の兄貴と勝彦兄弟も動きを止めて僕の方を一斉に見た。それでもツトムは僕の静止に耳を貸さずゲン太の頬をまた殴った。
その異常さに誰もが戦慄を感じた。その戦慄に反応してゲン太の兄貴が走り寄り、ツトムを体当たりで吹き飛ばした。
ツトムが道端に転がる。
ゲン太の兄貴が口から血を流しているゲン太に叫ぶ。
「おい、ゲン太!しっかりしろ、しっかり!」
 僕もゲン太の側に寄ろうとした。すると僕を突き飛ばして、ゲン太の兄貴にツトムが体当たりをして吹き飛ばす。
再びゲン太を拳で殴った。
「ツトム!」
 僕は声を出した。あまりの恐ろしさに震えながらツトムの腕を掴んだ。ツトムはそんな僕の腕を振り払おうとした。それを見ていた勝幸、勝彦兄弟も急いで駆け寄り、ツトムを押さえつける。
 押さえつけながら僕達はツトムが泣いているのを見た。それは大きな涙声となってゆく。
同じようにゲン太の兄貴が懸命にゲン太に声をかけている。それも同じように涙声だった。やがて嗚咽を漏らしながら泣き出した。
「ツトム・・」
僕は声をかけて背中を摩った。その後ろでゲン太の兄貴が涙声でゲン太に言っている。
「ゲン太!ゲン太!おいおい!唯の喧嘩じゃろ。唯、暇じゃったから、からかっただけじゃないか、それがなんでこんなひどい目になるんじゃ」
僕はそんなゲン太の兄貴を見ながら思った。
(子供と言っても、絶対人間には触れちゃいけない場所があるんだ。そこに触れちゃうと、もうあとは取り返しがつかなく、お互いに引き返せなくなる)
遠くでサイレンの音が聞こえた。近所の誰かが喧嘩をしている僕達の声を聞いて救急車を呼んだのだろう。
少しすると近所の大人達も通りに出て来た。
「おぉ、ゲン太。おい、分かるか?俺だ。兄ちゃんだ」
 その声に僕は振り返るとゲン太が薄く目を開けて、大丈夫と小さく言っているのが聞こえた。
「ゲン太・・大丈夫みたいじゃな」
勝幸が言った。
 ツトムは腕で顔を隠して、膝を立てて声も無く泣いている。
 僕達はツトムを囲むように腰を道路に落とすと、静かに黙った。
 ゲン太が言うまで勝幸、勝彦もツトムの家庭の事は知らなかった。だから触れることもできない大人の事情を聞いて、唯、黙って慰める言葉も出てこなかった。
やがて救急車がやって来てゲン太を運んで行った。救急車に乗る頃はゲン太も足取りがしっかりしているように見えた。
その間、ツトムはずっと下を向いたままだった。
やがて通りには誰も居なくなり僕達だけになった。
道に投げ出された自転車を拾うと勝幸が言った。
「ツトム、じゃ行くど」
 ツトムはそれには返事をせず、俯いたまま何も言わなかった。
 その姿を僕達三人は互いに見て、顔を見合わせて思った。
(ツトムはここに置いてゆこう)
 そう思って、僕がツトムに声をかけようとした時、坂道を下りながら僕達に声をかけてくる女性が見えた。
 僕達三人はその姿を見た。見るとまた声がした。
 それは確かこう言っていた。
「こらぁ待て!そこの四人組!」
 それは担任の新穂先生の声だった。



道の上で陽炎のように揺らめく人影に目を細めないと僕達は段々とはっきりしてくるその姿を見ることは出来なかった。真夏の太陽が照りつける中、僕達は唯黙って汗が首筋を伝ってしたたり落ちるのを感じている。
ツトムも伏せていた顔を上げて、その場にいる皆がその影を見ている。
自転車から降りた影が青いシャツと白いスカート姿になって僕達の近くで初めて人の姿になった。
仁王立ちになって僕達へ言った。
「君達、ここで何をしているの!学校に山川の坂道で子供達が大喧嘩をしてるっちゅうて連絡があったとよ、それで・・・先生急いで来てみたらまさかの君達じゃない」
 最初は勢いよい調子で話していた先生の言葉は最後になると震えていた。
先生は一筋の大きな汗が頬を流れるのを気にすることなく僕達をじっと見ていた。一重の細く切れ長の下で瞳が潤んでいる。
涙だと分かった。
 僕達はそれで黙って下を見た。
 少しだけ長い沈黙が在った。
 蝉の鳴く声がどこからか聞こえている。過ぎ行く夏を惜しむかのようにその声はどこか寂しく聞こえた。
 風が吹いた。
「先生・・ごめんじゃ」
 勝幸が言った。
「ここを自転車で通っていたら、ゲン太がいたずらをしてきてツトムに変なこと言いよるから大きな喧嘩になったっちゃ」
「いたずら?変なこと?」
 先生が皆の顔を見た。
 全員が頷く。
「どんな?」
 僕達は目を合わせた。その内容を言うのを憚った。
「言わんちゃね?言わんちゃ分からんとよ?夏生、勝幸、黙ったままでは分からんよ」
 先生が僕達を促した。
 誰もが言い出せなかった。いたずらは至極簡単な話の内容だが、そのあとゲン太が言ったツトムのことを皆言い出しにくかったからだ。
 大人になると段々と忘れることだが子供時代は仲間の事をすごく大事にする特別な存在でいられる時期だ。意外と思うかもしれないが子供は大人以上に事情を良く理解していて、大人が気付かない真実や大事なことに意外に簡単に到達してしまう。
それは純粋であるということの特権なのかもしれない。
「ツトム」
 先生が強い口調でツトムを見つめている。
黒い瞳がツトムに近づく。近づくとツトムを優しい眼差しで見つめた。
 やがてしゃがんでツトムの襟に細い指で触れた。
「襟が破れているじゃない、ボロボロになって、これお母さんが作ってくれた服でしょう?」
 僕はそこで初めてツトムのシャツの襟が引き裂かれて破れているのを見た。
 ツトムはその先生の一言で、咽び返すように泣き出した。先生は優しくツトムの背に手を遣りながら立ち上がらせた。
 その時、先生が僕を見た。
端正で鼻筋の通った先生の美しい顔が僕を見て、にこりと微笑んだ。
(あっ!)
 僕は思わず心で言った。
(先生はツトムが何故泣いてしまったのか、何故大きな喧嘩になったのか、分ったに違いない)
 先生は僕達に言った。
「皆、先生の家がこの近くにあるから来なさい。ツトムの服を縫わないとね。それと夏生も、勝幸もちょこちょこ腕や足に怪我しているし、消毒液を塗ったほうが良いわ。それと・・・」
 先生が勝彦を見ている。
「これは弟の勝彦じゃ」
「ああ・・、黒木先生のクラスの・・」
 勝彦が小太りの身体を揺らせて頷く。
「皆、先生の家に来なさい。叔父さんから貰った冷えた西瓜があるから、それを食べましょう。ツトムの服を縫うまで時間があるから先生の家で皆シャワーを浴びなさい。もう、皆土と砂まみれだから」
僕は先生の言葉の最後に思わずどきりとした。
 ツトムには悪いが憧れの先生の所でシャワーなんて考えても見たことも無かったからだ。
僕はそれを思うと頭がボーとして頭がくらっとすると、思わず鼻血が出てしまった。
「ナッちゃん、鼻血が出ちょるよ!」
勝彦が驚いて叫んだ。
先生がその声に振り返った。
「夏生、鼻血ぐらいなんね。しっかり顔上げて自転車押して歩いて来なさい」
ぴしゃりと音を立てて先生の声が僕の頬をはたいた。



先生の家は小さな庭がある一階建ての平屋造りの建物だった。
僕達は玄関を潜ると直ぐに先生が言った「ほら、こっち」という声に押されるように風呂場に入り、服を次々と脱ぐとシャワーを浴びた。
服を脱ぐとき先生がツトムのシャツだけ手に取ってそれを洗濯機に入れたのを僕は見た。
僕達は全員で冷たいシャワーで頭から水を浴びて、時折冷たい水が傷口に触れると声を上げた。
「おい、ナッちゃん見ろよ」
 勝幸の声が聞こえた。
「ん?」
 僕はその声に額から流れる水を手で拭いながら振り返った。
「ここに石鹸があるぞ」
 勝幸が石鹸を取って匂いを嗅ぐ。
「良い香りじゃ」
 それを聞くや否や僕は急いでその石鹸を勝幸から奪った。
「なんね、ナッちゃん」
「駄目、駄目、これは先生のなのだから」
 そう言って僕は石鹸を握りながらゆっくりと鼻を近づけた。
 とても清々しい柑橘類とは違う匂いがした。あまりの良い香りに僕はうっとりとして、呆然と立ちすくんだ。
「ナッちゃん・・」
そんな僕を見て勝彦が笑った。
「頭がなんかふやけたんじゃない?」
 その声と同時にツトムがシャワーの水を強くして僕の頬に当てた。
「ひぇ!冷たい!」
「頭を冷やしてやっちゃ!」
ツトムが笑いながら僕の胸や腹にシャワーを当ててくる。
僕は叫び声を上げながらシャワーを避けようと身をよじらせていると、思わず手から石鹸を落としてしまった。
石鹸は音を立てて床のタイルにあたり、真っ二つに割れてしまった。
「あー!!」
皆の声が風呂場にこだますると同時に風呂場の外で先生の声が響いた。
「ここにバスタオル置いとくからね。ほら遊んでないで、早く出て来なさい!」
 僕達はそれに促されるように急いで風呂場を出て置かれた消毒液を傷口に浸ける。
 僕は皆に気付かれない様に落ちて割れた石鹸の片方を手にして何もないような顔をして、最後に出た。
(先生の所に来た記念に、石鹸もらっちゃおう)
 少しほくそ笑んだ時、それを勝彦に見られて僕はどきりとした。
「ナッちゃん、なんか鼻血が出てから頭がおかしいじゃない」
勝彦が僕の方を見て言った。
だから僕は真顔で
「そうかもしれない」
 と、言うや否や石鹸をズボンの後ろポケットに押し込んだ。


 僕達はバスタオルで頭を拭きながら居間に入った。
 ツトムだけが上半身裸のままだった。
 テーブルが在ってそこに人数分の赤く熟れた西瓜が綺麗に置かれていた。
先生はそこから少し離れたところに椅子を置いて腰を掛けて何か作業をしていた。
「皆、そこにある西瓜を食べなさい。美味しいわよ」
先生が手を止めて僕達を見て言った。
 皆が頷いた時、僕は先生がツトムの服の破れた襟を縫っているのだと分かった。
 それにツトムも気づいたのか少し下を向いて西瓜を口にした。
 暫く無言のまま庭先から聞こえる蝉の鳴き声を耳にしながら僕達は西瓜を食べた。 
「ツトム」
 先生が動かしていた手を止めて、ゆっくりと僕達の前に先程まで着ていたツトムの服を見せた。
 破れた襟は見事に修繕されていた。
「できたわ」
 ツトムが西瓜の種を吐き出しながら、先生に頭を下げた。
「ありがとう、先生」
 それを聞いて先生は大きくにっこりと笑い、立ち上がると箪笥を開けて、白いシャツをツトムの所に持ってきてそれを手渡した。
「ツトム、お母さんの作ってくれた服はまだ乾いていないから、今日はこれを着て家に帰りなさい。お母さんの服は後日、先生がツトムの家に持っていってあげるから」
 手に取ったシャツをツトムが広げた。胸の所に大きく“教育大”とプリントがされていた。
「教育大?」
 勝幸が言う。
「そうよ、教育大。先生は東京の教育大学出身なのよ」
「東京の大学出なんじゃね。じゃ頭良いんじゃな」
 勝彦が西瓜から口を離して、僕の方を見た。
「当然だよ、かっちゃん。先生だもん。頭良いにきまってるよ」
「じゃね」
 勝彦がしみじみと上下に深々と頭を振ると、それが可笑しかったのか先生が笑い声を上げた。
 皆もそれにつられるように笑う。
「じゃ先生、これ借りっど」
「どうぞ」
 先生が笑顔で言った。
 僕はツトムが先生のシャツを着るのを見て、淡い嫉妬を感じた。
(羨ましい。新穂先生のシャツを着るなんて)
 しかし顔ではそんなことはおくびにも出さないようにして冷静にしていた。
そんな僕を見て先生が急に言った。
「夏生、あんた隠し事しとるじゃろ」 
先生の声に僕は思わずどきりとした。
(石鹸のこと・・・ばれた!)
ズボンの後ろポケットに手を遣りながら、僕は先生に向き直った。
「何のこと・・?先生」
「何の事じゃない。なんでこんなところまで違う地区の夏生達が来たのか・・君達、隠し事を先生にしているでしょう?」
 先生が一人ひとりじっと見つめる。
 僕達は先生の視線を受け止めながら少しずつ頭が下がるのを感じた。
(やばいな)
そんな感じで僕達四人は交互に視線を合わせる。
別に黒谷まで行くことを秘密にする必要は無いが、子供の足でそこまで行くのを聞けば先生は止めるに決まっているのは皆分かっていた。
困ったなと言う顔をして僕は勝幸を見た。こんな時、勝幸は絶妙な嘘をつくことができる。僕はそれに期待した。
勝幸の目が一瞬外を見るように動いて直ぐに先生に向き直った。
(何か言うな)僕は心で思った。
「シシに会いに行くんじゃ」
「シシ?」
 先生が頭を捻った。それを聞いて僕は思わず口笛を吹いた。
「何ね、夏生」
先生が僕を見る。
「何でもないです」
 そう言って僕は勝幸を見て軽くウインクした。
(それでオッケー)
 そんな合図を送る。
 答えるように勝幸がいがぐり頭を撫でながら言う。
 その時にはツトムも勝彦も僕のウインクの意味が分かって、後は勝幸が話すことに任せた。
「シシじゃ。僕らはこれから恩田の所に遊びに行くところじゃ」
「恩田先生の?」
先生が目を丸くした。
「そうじゃ」
 勝幸が頷く。
 残りの皆も遅れて頷く。
 勝幸が今言った恩田先生は新穂先生の同僚で僕達の隣のクラスを担当している。恩田先生の息子は僕達と同じクラスで今年の春に東京から転校してきた。その息子のことを僕達は“シシ”と言っていた。
大都会から転校してきたクラスメイトは勝彦より太り気味で恰幅が良く、それに眉が太くて、それがどこか獅子舞の面のような面構えをしているから転校して来た初日からそのあだ名がついた。
それよりもなによりも彼が僕達のような田舎の子供と決定的に違っている点は、唯一、彼だけがテレビゲームを持っていることだった。
 僕達はそれを知って以来、テレビゲームを目指して日々時間があれば彼の所に行き、ゲームに興じる。
そのことは新穂先生も同僚の恩田先生から聞いていた。
 恩田先生もテレビゲームについてはあまり賛成をしていなかったが転校したばかりの息子に少しでも友達ができるのであればと、その事には少し距離を置きながら僕達子供の事を見ているようだった。
そのシシの家はこの山川の少し先の坂敷と言う地区にある。勝幸は僕達がそのシシの家に遊びに行く途中だと言ったのだった。
先生は勝幸の嘘に深く溜息をつくと、僕達を見て言った。
「テレビゲームばかりしないで、身体を鍛えなさい。でないと強い男になれないわよ」



 先生に嘘をついて僕達は再び路上に出た。太陽は少し傾いてはいたがまだ夕暮れが来るには大分先だった。
 ツトムは先生から借りたシャツの匂いが良いのか何度も鼻のところに持って行っては香りを嗅いでにやにや僕の方を見て笑った。
僕はそれが不快で鼻を曲げるようにツトムを見てはふんと鼻を鳴らした。それを何度か繰り返しているうちに僕達は“シシ”の家の側まで来た。
「ねぇ、兄ちゃん、兄ちゃん」
勝彦が言う。
「シシの家の近くだけどどうするの?本当に家に寄るの?」
勝幸は黙って何も言わなかった。
「ねぇ、お兄ぃどうするんじゃ」
 勝彦が自転車を漕ぎ出して勝幸の前に出て、止まった。
 それにつられるように皆が止まった。
 勝彦が心配そうに空を見て、勝幸に言う。
「なぁ兄ちゃん、今日その鳶ケ峰のところまでいけるんか?だってまだその手前の吉野まで来とらんじゃろうが。まだまだ先やから、兄ちゃん、今日は止めて帰ろう」
 僕もツトムも二人の話をじっと聞いていた。
「なぁ、シシの家に行ってゲームしようよ。なぁ?兄ちゃん、あの外人が壁とか壊して上に進むゲームがあるじゃろ。それしようよ」
 勝彦が身振り手振りしながら勝幸へ話す姿を僕とツトムは少し溜息を吐いて見た。
 勝幸は頭を掻きながら言った。
「お前、ゲームがしたいんだけじゃろが。さっき先生に言ったのは嘘じゃど、駄目、このまま一気にスピード出して鳶ケ峰に行くんじゃ」
「鳶ケ峰へ?」
 僕は勝幸へ言った。
「おぅ!」
そう言うと勝幸は一気に自転車のペダルを漕いで一気にスピードを上げて走り出した。
「お、おい!ガッチ!」
「少し先に山側から鳶が峰の方に抜ける道があるとじゃ。それを使えば吉野を飛ばして一気に行ける」
 そう言って僕もツトムもペダルに足をかけると勝幸の後を追うように走り出した。 
「本当か、ガッチ?」
 息を切らせて僕が言う。
「ほんとじゃ。じゃけど山の坂道じゃからきついどぉ」
 苦虫を噛んだ顔をしてツトムと勝彦がえーと叫んだ。
「根性じゃ、ついて来いっちゃ!」
 自転車はスピードを上げ、僕達は脇目も振らず進んで行く。
 やがて勝幸が左手を出すとその方向に消えた。僕達もあとから急いでその場所へ行き、勝幸の消えた姿を目で追った。確かにそこから一気に山の方へ伸びる林道があった。それはゆっくりと曲がりながら上へと延びてゆく。
「おーい」
 勝幸の呼ぶ声がした。
勝幸は既に先の方にいる。
僕達三人はそれぞれ目を合わせると、自転車を漕いでその山道へと入っていった。
「絶対、ゲームの方が良かった」
勝彦がそういって最後に坂道を上り出した。
 周りの山の緑が段々と濃くなっていくのが分かる。その緑が濃くなる林道を僕達四人の一層濃くなった影が息を切らしながら進んで行く。
 勝幸は昇って来る僕達を待っていて、合流すると一緒に坂道を上った。
 やがて僕達は細い上り坂を左へ曲がった。
 山の中腹まで来ていた。すこし開けたところに陽が差し込んでいた。
 そこで僕達は止まった。
 自転車を道に投げ出すとその開けたところへと進んだ。
 眼下に小さな町が見えた。
 それは間違いなく僕達が生まれ育った町だった。
「ガッチ、一気に来たな」
 ツトムが勝幸に言った。
「ツトム、見てみぃ。丁度真ん中が山川の先生のとこ、それで左に小さく見えるんが吉野じゃ」
 僕は目を凝らして勝幸の言う通りその場所を眺めた。
 確かに山川があって左に吉野が見えた。
「あれは吉野だね」
その言葉に勝幸が頷く。
 真横に大きな川が流れている。その川を勝幸が指さして言った。
「ナッちゃん、あの川が瓶を拾った広渡川じゃ。じゃからあの川を追えば自然に鳶ケ峰に出る」
 そう言うと勝幸はズボンのポケットから地図を出した。
 皆が集まり地図を覗き込んだ。勝幸が指を指す。
 指さす場所に視線が集まる。
「ここが今いる場所、小松山じゃ。それで本当ならここをぐるっと回っていかないといけないところを、こうしてショートカットしたんじゃ」
 三人の目が勝幸の説明の通り後を追う。
 確かに大きく迂回しないといけないところを、直線でほぼ短縮していた。
「ワープじゃ」
 勝幸が鼻の下で指を掻いた。
「確かに」
 僕は言った。
「でも兄ちゃん、鳶ケ峰はここじゃろ」
 勝彦が指を指す。
 勝彦の指さす場所に再び視線が集まる。
「大分、遠いかじゃないと?」
 ツトムがその距離を指で測る。
 それは親指と小指を伸ばしたぐらいの距離があった。
僕達が広渡から来た距離はその半分も無かった。
「大分、まだあるね・・」
 僕は勝彦、ツトムをそれぞれ見ながら言った。
「やっぱ、帰ろうか」
 僕は呟いた。
「いや、駄目じゃ。ここまで来たら帰らん」
勝幸の言葉に皆が驚いた。
「兄ちゃん、何ゆうとるん。鳶ケ峰まで絶対今日中には着かんよ。夜通しでなんて行けっこないし、お腹空くからさ。帰ろうよ」
 勝彦の意見に僕とツトムは同意した。
 ただ勝幸はにやにやしていがぐり頭を触って僕達を見ていた。
「何がおかしいんじゃ?わりゃ大丈夫か?」
 ツトムが訝し気に勝幸に言った 
「飯と泊まるところがあればいいんじゃろ?」
 すると勝幸はポケットから勢い良く鍵を出した。
「じゃーん!!」
 僕達はその鍵を見た。特に何の仕掛けもない普通の鍵だった。
その鍵を見て反応したのは勝彦だった。
「兄ちゃん、これ父ちゃんの畳工場の鍵じゃろ?!」
 ふふんと勝幸が頷く。
「そうじゃ、実はお父ぅの工場がこの先にあってな。その鍵を今朝黙って取って来たんじゃ。今日は海の側の伊比井まで行くっちゅう言うとったから鍵が無くなったのも分からんかったんじゃろ」
 勝幸が鼻を摘まみながら、指先に引っ掛けた鍵をくるくると回す。
「あそこなら食べ物もあるし、畳の藁もあるし、眠れる」
 思わぬことに僕達はおおと言った。
「それに電話もあるし何かあれば、電話すればいいっちゃ」
 勝幸の用意周到さに唖然として僕達は顔を見合わせた。得意げに腕を組む勝幸の背に夕陽が差し込んできた。
 僕達はそれぞれ顔を見合わすと頷き、夜を明かすことを決めた。
 それこそが僕達が失踪事件を起こす始まりだった。



翌朝、目覚めた時、意外と大人は子供の事には無関心なのだと感じた。
一晩家に子供が帰らなければきっと警察総出の捜索になり、僕達は朝陽を見る頃には家族のもとへ帰り、特大のげんこつを見舞って粛々としていると思っていた。
それが普通に朝を迎えた。
昨晩、僕達は冷蔵庫にあったカップ麺と持ってきたお菓子を皆で分けて食べると後はそれぞれ藁の上に横たわり眠りについた。
だけど僕はなかなか寝付けず藁の中で窓から差し込むほのかな薄い灯りを見ていた。
最初に寝息が聞こえたのは勝幸だった。
寝入るのが早い奴だな、と思うと僕を誰かが突いた。それに振り向くと勝彦が僕の方へ顔を寄せて来た。
「なぁ、ナッちゃん。大丈夫かな?」
「何が」
「うん、いや・・母ちゃんとか心配しないかなと思って・・」
 僕は考えて「そうだね」と言った。
「多分、心配していると思うよ」
「じゃよね」
 うーんと言って勝彦は僕の側を離れた。
 小さく「お休み」というと静かに寝息をたてた。
 僕は再び窓から差し込む薄い灯りを見た。
 目を細めてその明りを見ると小さな蛾が飛んでいるのが見えた。
 それが幾つかの小さな弧を描いては窓に張り付いて、また離れたりするのを繰り返し見ているうちに僕は自然に眠りに落ちていった。
 陽が差し込んでいるのを見つけたのは勝彦だった。
「朝じゃ」
 その声に残りの皆が一斉に起きた。僕は眠い目をこすりながら藁から降りて工場のドアを開けた。
 夜雨が降ったのか差し込む朝陽に反射した路面が濡れていて、所々に大きなミミズの群れが見えた。
 僕の後ろからツトムが声を出して言った。
「ミミズじゃ。昨日山の方では雨が降ったんじゃろか」
僕達二人に勝幸が食パンを持って来て手渡した。
「ここから鳶ケ峰まではそんなにかからん」
 そう言うとポケットから地図を出した。
 食パンをかじりながら僕とツトムが地図を覗き込む。
「ここが工場じゃ」
 勝幸の人差し指がゆっくりと動いていく。
「ここを少し行くと『東郷』じゃ」
 ツトムが少し身体を動かした。
(ツトムの母さんがいる場所だ)
 僕は黙って勝彦の指が動くのを見る。
「それで・・この先が鳶ケ峰」
 僕は頷く。
 後ろからパンを噛みながら勝彦が僕達の側を抜けて外へ出た。
うへぇ、ミミズじゃ!小さく叫ぶ声を聞き流して地図に目を遣る。
「その先にあの瓶を流した女の子のいる屋敷がある」
 勝幸が指したところに小さな丸があった。確かにその丸の横に川が流れていた。それは広渡川へと流れている小川だというのが地図を見て良く分かった。
「じゃ、もうそろそろ出ないとね。そうでないと今日中には着かないだろうから」
 僕がそう言うとツトムが少し考え込むようにして頷いた。
僕はツトムの心を読むようにして表情を見て言った。
「ツトム・・」
「ん・・?」
 ツトムが僕を見た。
「あのさ・・」
 そう言った時、外から勝彦が「大変じゃ!」と言って僕達の目の前に現れた。
「どうしたんじゃ、勝彦」
 勝幸が言う。あまりの驚きぶりに僕達は少し動揺した。
「大変じゃ」
「だからなんじゃ?」
 再び勝幸が弟に問いかける。
「じ、自転車が・・」
 三人が目を合わせる。
「自転車?」
 僕達は自転車を止めていた場所へ向かった。
 自転車四台が夜置いたままにあった。別段、何も変わっていないように見えた。
「勝彦、何じゃ?別に自転車何もおきとらんじゃないか?」
 兄の問いかけに「違ごぅ!」と弟が言う。
「良く見てじゃ。ほらタイヤ」
「タイヤ?」
 三人が同時に言う。
 顔を見合わせると近づいて見た。
「あ!」
 僕は言った。勝幸もツトムも驚いて声を出す。
「パンクしてる!」
 自転車の後輪がしぼんでいるのが見えた。
「ナッちゃん、パンクしてるじゃろ」
勝彦が蒼白になって言う。
「これじゃ、鳶ケ峰なんて絶対無理じゃ。だって家にも帰れん」
 さすがに三人とも参ったなと言う顔になった。
 とても子供の足では遠く離れたこの場所からではどこにも行けなかった。
 勝彦を見ると少し涙目になっているのが分かった。
「どうすっか」
 ツトムが僕と勝幸を交互に見た。
「置いていくか?ガッチ」
 勝幸は道路に尻をつくと、自転車を見ながら暫く考え込んだ。
(どうする?)
 僕はそんな眼差しで勝幸を見る。勝幸はうーん、と呟いたまま目を閉じていたが、考えがまとまったのか首を鳴らして僕等を見た。
「仕方ない」
 勝幸が渋い顔して言った。
「ルール違反じゃけど、二人乗りする」
 ツトムが顎を摩り僕を見た。
 僕は(仕方ないな)と心で思った。
 二人乗りがルール違反でそれが見つかると大人も警察に怒られるのは知っていた。しかし今の僕達にはそれしか方法がないのは分かっていた。ツトムもそれしかないことは分かっていたようで、僕を見た後、軽く頷いた。
ただ勝彦が
「嫌じゃ!警察に見つかったら捕まるじゃろ」と喚いた。
 それを見て勝幸が言う。
「勝彦、仕方ないじゃろ。ここにお前を残して行ってみろ。もしお父ぅが来たら、お前怒られるぞ。ここで何をしとったんじゃって」
 勝幸が言う。
「兄ちゃん、そんなこと言うても、もう皆心配しとるわ。どちらにしても怒られるんじゃ。僕はここに残って電話かけてお父ぅに来てもらう。それで言うんじゃ。僕は帰ろう言うたのに兄ちゃんが無理やりここに泊めたって!」
 流石に弟の急所を突く言葉に勝幸は声が無く黙った。
「かっちゃん・・」
 僕は勝彦の背に手をやり摩ってやった。勝彦が涙目になっていたからだった。
「ナッちゃん、御免じゃ。二人乗りはでけん。電話かけてお父ぅに全部言う」
 そう言うや、勝幸が素早く右手を出した。
「わりゃ。裏切るんか!」
 勝彦に手が届くと思った時、その手をツトムが止めた。
「ガッチ、止めじゃ。かっちゃんの言う通りじゃ。しかたないじゃろ・・」
 そう言った。
「二人乗りはルール違反じゃし」
 ツトムも溜息交じりに言った。その時だが、ツトムが僕を一瞬見た。片目をつぶってウインクを僕に送ったように見えた。
 小さな咳をして勝彦を見ながら言う。
「かっちゃん、でもな。お父さんが迎えに来るまで気をつけな」
 勝彦が「ん?」という表情をした。
「いやな、夜眠る時、何かごそごそ動く音がしたんじゃ。恐らくあの音じゃから蛇じゃおもうけど。外も雨上がりでミミズが出てきちょる」
 確かにミミズが少しずつ増えているのが分かった。
「それを狙って蛇が動き出すから」
 ツトムが言うのと同時に道を素早く横切る影が見えた。
「げぇ!」
 それを勝彦が見つけた。
「ありゃ、蛇じゃ!」
 地団駄踏むようにして勝彦が叫んだ。
 僕はツトムの肘をついた。
 ツトムが何気ない顔して僕を見て微笑した。つまりツトムの作戦が勝彦に功を奏したようだ。
 僕は小さく咳払いして言った。
「なぁ・・かっちゃん。まだ朝早いし、お父さんが迎えに来るまで時間がかかるよ。だからさ、蛇もいるし。移動しようよ」
 ツトムが頷いて自転車に跨った。
「かっちゃん、乗れよ。俺の自転車は荷台が後ろにあるから。それに朝早いし、まだ警察は来ないよ。でないと蛇に噛まれるぞ」
 最後の一言が聞いたのか、勝彦は急いでツトムの後ろの荷台に跨った。
「ツトム君、早ぅ、行って!」
 勝彦が荷台に乗るのを確認するとツトムが言った。
「ガッチ、俺が勝彦乗せてくから」
 そう言うや、ツトムは自転車を漕いで道に出た。
「じゃ、行こう」
僕が言うと、勝幸が頷いた。
「この山道を下って左へ行けば東郷を抜けて鳶ケ峰、それから・・・黒谷じゃから」
 それを聞くとツトムは強く頷いて自転車で坂道を下り始めた。
「先、行くど!」
 ツトムの威勢のいい声に続いて僕達も後に続いて坂道を下り始めた。
 勝幸の自転車はそのまま工場に置かれて、僕達は夏の朝陽の中を進んで行った。



「新穂先生」
夜を迎えた職員室で同僚の恩田先生が声をかけて来た。
中年の小太りの婦人だが、いつもニコニコしていて愛想がとても良い。
「恩田先生、どうかされましたか?」
 帰り支度で自分の荷物をバッグに入れながら新穂先生が言う。
「いえね、先生、息子から先程電話がありましてね」
新穂先生の手が止まった。
「先生、すいません、うちのクラスの子等がお宅へ遅くまでお邪魔していたのでしょう?」
 頭を下げて手の平を合わせて
「全く、あの子達、テレビゲームばかりですいません」
と言った。
慌てて恩田先生が言う。
「いえ、先生違うのですよ。実は今日は誰も来なくて、息子は一日中一人だったようです。それでゲームにも飽きたようで・・・・困った息子です。それで一日家に居て外出したくなったから今晩どこか外食に連れて行ってくれないかといいましてね。もしよければ先生もどうかと?それとも今夜は黒木先生と御用事がありますかね?そろそろ例の時期も近づいてきていますし・・」
「恩田先生、いえ、そんなことは・・・、まだその件は少し先ですから・・」
 そう言いながら新穂先生がきょとんとして恩田先生を見る。
「誰も来なかったのですか?うちのクラスの夏生と勝幸、それに・・黒木先生のクラスの勝彦君も」
 そう言うと同時に教員室の電話が鳴った。
 その電話を別の先生が取った。短く相手と話すと新穂先生の方を見て言った。
「先生、お電話です。クラスの勝幸君のお母さんからです」



僕達が夜を明かして家に戻らなかったことは後で分かったのだが、やはり大きな事態になっていた。僕が工場で迎えた朝に感じたこと以上にそれぞれの家庭の両親は驚きと焦りを感じて、警察へと届を出していた。
 しかし勝彦の自転車が壊れて二人乗りをしなければならなったことが僕達の発見を遅れさせることにつながった。
 両親達は警察に捜索を願い出る一方、僕達はと言えば勝彦の自転車が壊れたことで二人乗りをしなければならず、警察にばれないようにパトカーを注意して時折茂みに隠れるようにして慎重に行動したからだった。
 実際に坂を下るところで早速だが一台のパトカーが遠くに見えると僕達は製材所の木材の影に隠れ、パトカーが過ぎ行くのを静かに息を切らせて見ていた。
完全に視界から消えるのを待ってから僕達はゆっくりと路上へ出た。
 勝彦が言う。
「ナッちゃん、警察じゃ。朝早くから見まわっちょる・・」
 心配そうに僕を見る。
 頷くと、僕は後ろのツトムと勝幸を見た。
 二人も少し難しそうな顔をしていた。
「こんな朝早くから見まわるなんて」
 ツトムが言う。
 僕達はこの巡回がまさか自分達を探しに来ているとは露知らず、他人事のようにパトカーの消えた先を見ていた。
「これから先は慎重に進まんと駄目じゃ」
 勝幸の言葉に僕達は頷いた。
「暫く自転車を押して進もう。その方がすぐにどっかの家の影に隠れやすいじゃろから」
 僕達は頷き、自転車を下りた。
「この道じゃとパトカーがまた通るといかんから、一本道を逸れて進む」
 勝幸が宣言するように言った。
 僕達は勝幸の言うように道を折れて、田んぼに挟まれた細い道を直ぐに抜けて民家が並ぶ道を、静かに自転車を押しながら慎重に進んだ。
 民家が並ぶ道に入り、直ぐに道を折れようとしたところで一瞬ツトムが足を止めた。
「どうしたの?ツトム?」
 僕は立ち止まるツトムを見た。
 ツトムは僕を見たが「何でもない」と言って自転車を押し出した。ツトムは下を見ながら進んで行く。
 僕はそんなツトムの変わった様子を見て自転車を押し出す。
 両方に塀のある民家が並んでいる。朝早い民家ではまだ誰かが起きている気配はなかった。
 その中で一軒だが大きな銀杏の木がある木造の家が見えた。僕はとても大きな木だなと思いながらその家の門の前を過ぎようとした。
その時、門の向こう側に人影が見え、僕は反射的に顔を下げた。下げてから思わず僕は心の中で声を上げ、立ち止まった。
(あっ!!)
後ろのツトムを急いで振り返った。
ツトムも立ち止まっていた。
(ツトムのお母さんだ)
 ツトムは棒立ちになり自転車を強く握りしめていた。
先行して歩く勝幸兄弟が振り返り僕達の方を見て言った。
「ナッちゃん、どうしたの?」
 僕はその声に首を強く振った。
 不思議そうな顔をして二人が近づいてくるのが見えた時、女性の声がした。
「ツトム・・」
 それは息子を呼ぶ母親の声だった。
 門が開きツトムの母親が出て来た。
「母ちゃん・・」
 ツトムは母親の顔を凝視したまま黙っていた。
 僕達はツトムの側に集まり始めた。
 ツトムの母親は集まりだした僕達の姿を見て言った。
「ナッちゃん、勝幸君、勝彦君・・どうしたの?朝早くこんなところに・・おばさん、びっくりしたわ」
 僕達はそれには何も言わずツトムの方を見た。
「ツトム、どうしたの?」
 黙って何も言わない息子の頬を母親の指が撫でる。
「こんなに陽に焼けて、真っ黒じゃない。それにちょっと怪我もしているし・・」
 僕はツトムの母親の顔を見た。とてもやさしい眼差しで息子に諭すように話している姿は図書館で見たキリスト教の聖母子像の母親の眼差しにそっくりだった。
 ツトムは顔を振ると、母親に言った。
「これから・・鳶ケ峰まで、カブトを獲りに行くんじゃ。だから朝早く出てここまで来た」
 そう言うとツトムは母親の手を払うように自転車を押し出した。
「ツトム!」
 母親が息子に言った。
 ツトムは一瞬止まったが、また自転車を押し出してそのまま進んで行く。
僕達もツトムの後を追うように、自転車を押し出した。
僕は一度振り返った。
 そこにはいつまでも息子を見送る母親の姿が見えた。



 ツトムが母親と別れた後、僕達は暫く何も言わず無言で自転車のペダルを漕いだ。
朝陽が僕達を照らしてはいたが皆どこかさえない表情をしていた。
 昨日ゲン太と喧嘩した時、僕達はツトムが抱えていることがどれほど大きなことで、それが僕達には到底解決できないことであるということが分かっていたからだ。
だから誰も一言も発することなく、ただひたすら自転車のペダルを漕いだ。
 僕は振り返ってツトムの母親の姿が消えたのを確かめると、スピードを上げてツトムを追い越した。
僕は追い越した時にツトムの顔を見た。頬が濡れているのが分かった。
(ツトムは泣いてたんだ)
僕はそれで自分の事を思った。
(僕も、もう冬が来る頃には皆と別れて大阪に行く)
 そう思うと思わず鼻の奥が熱くなった。
(ツトムもお母さんと別れ、僕は皆と別れる。別れは誰だってつらい。じゃどうすればいいんだろう?別れに僕はどう向き合えばいいのだろう?泣きじゃくって何も言えなくて、とても悲しいことになるのだろうか?僕は・・)
 ペダルを強く踏み込んだ。
(そう、僕は・・)
 そう思った時、背中を強く叩かれた。見れば追い越したツトムが僕の背中を叩いて前を越していく。
 僕を見て莞爾として笑った。
「ナッちゃん、元気ださんね!」
 ツトムはとてもいい笑顔をしていた。
(ツトム・・笑ってる!)
 すると笑顔で僕を追い越していった。後ろの勝彦が「ナッちゃん、先行くよ!」と威勢のいい声で僕に向かって叫んだ。その声を聞いた時、追い越して行った二人がまるで僕の最後の夏という駅を過ぎ去った汽車に見えた。
それは勢いよく笑顔を見せて、もう手を伸ばしても掴めない夏が過ぎようとしているように思わせた。
 僕は瞼に涙が少し滲み出ると、それを腕で力いっぱい拭いた。
 ペダルを力一杯踏み込む。
ここで置いて行かれるわけにはいかなかった。
(僕の最後の夏は笑顔で僕を見ているこの仲間達とあるんだ)
 そう思うと自然に声が出た。
 悲しくてしょうがないのに、どうしても笑いたくなった。
(そうか、ツトムだってそうなんだ)
 僕は二人に追いついた。するとツトムが手を伸ばしてきた。
 僕は伸ばしてきたツトムの手を掴んだ。二人で顔を見合わせると、声を出して笑った。
 それを見て勝彦が言った。
「大きな飛行機の翼みたいじゃ。ナッちゃんとツトム君の腕が翼に見えっちゃ」
 そうかも知れない、僕は思った。
地上を走る汽車に追いついた僕の心はやがて翼を持って飛行機になった。緑豊かな大地を駆け抜けて、それは青空の雲の下を行こうとしている。
僕達のこの夏のフライトは、きっといつまでも皆の心に残るだろう。そう、僕達は大人になってもこのことを絶対に忘れないはずだ。
やがて手を繋いだ二台の自転車が先を行く勝幸に追いついた。それを見て勝幸が今度は勝彦に手を伸ばした。伸ばしてきた兄の手を弟が繋ぐ。
僕達は今大きな飛行機になった。それが夏の陽の中を進んでゆく。
空を見れば大きな白い雲が流れていた。
皆が笑顔でいる。
そう、今はまだ幼すぎて悲しみを分かち合う術は知らないかもしれない。でも喜びは分かち合うことはできる。
僕達はただできることをするしかない。
自転車は唯、進んでゆく。
夏の空の下を。
やがて大きな曲がり角に差し掛かった。僕達はそこで一斉に手を離して止まった。
勝幸が自転車を押しながら曲がり角から見える鬱蒼と繁る樹木に囲まれた林道を指した。
「皆、ここじゃ。ここが鳶ケ峰じゃ」



(物語も半分まで書き終えたかな・・)
 そう思った僕は部屋を出て家近くの花屋へと行った。そこで一輪の向日葵を買うと部屋へ戻り、黄緑色の花瓶にそれを指した。
部屋の窓辺に飾るとゴッホの画集の向日葵と見比べて再びパソコンのキーボードに向かう。
ここからはこの飾られた向日葵とゴッホの向日葵を見ながら小説を書こうと決め、再び昔の頃の自分へと思いを馳せながら、文字を打ち込み始めた。



「鳶ケ峰じゃ」
 勝幸の言った言葉が皆に耳に響く。
 山の峰をゆくこの坂道は、左右から伸びた緑の木々が生い繁り、トンネルのようになっている。
 道は繁る木々の濃い影に覆われており、所々空を覆う木々の葉の隙間から差し込む陽の光が出口へと導く自然の道標のように見えた。
 昨晩降った雨がまだ道を濡らしており、左右を見ればミミズたちが動くのが見え、また風も無いのに何かが草木の奥で動く音が聞こえた。
 僕達はペダルを漕ぐ足に力を入れて、この峰のトンネルのような坂道を上がり始めた。
 蝉が鳴いている声が聞こえてはいたが、この時僕達の耳は草木の奥に潜む何かが動く物音の方がはっきりと聞こえていたに違いない。
草木の奥から音が聞こえる度、僕達は一斉に目を合わせては作り笑いをして、ゆっくりと息を切らせながら坂道を上って行った。
「やっぱ、何か動きよるんじゃない。マムシじゃなかと?襲ってくるんじゃろか?」
 勝彦が怯えたように僕に言った。
「かっちゃん。大丈夫だよ。しっかりツトムの背に掴まっていれば問題ないよ」
 僕はペダルを漕いでゼイゼイ息を切らせながら勝彦に答えたが、やはり時折草木の奥で動く音がやはり気になる。
 なんせここは別名“毒ケ峰”、マムシの住処だからだ。
 ツトムが息を切らせて言う。
「かっちゃん、もしマムシが現れたら言ってくれっちゃ」
「何でツトム?」
 僕が聞く。
「うん、実は爺ちゃんからマムシをやつける方法を聞いてるっちゃ」
「本当?」
 勝彦が喜色を顔に浮かべた。
「さすが。ツトム君じゃ。喧嘩も強いし、マムシにも強いし。凄いっちゃ」
 その言葉にツトムが照れるようにへへと笑うと鼻を摩り、ペダルを強く漕ぐ。
「さすがだよ。ツトムは無敵だね。で、どうやってやつけるの」
「それは見てのお楽しみっちゃ」
「じゃ、楽しみにしてるよ」
 そう僕が言った時だった。
「うげっ!」
突然、勝彦が叫んだ。
「どうした?」
 ツトムが背中を振り返る。僕も振りかえった。
「あれ、あれ!」
 勝彦がツトムの背から顔を出して指さすと前を走っていた勝幸がその場所を過ぎようとしている。
 何か大きな塊が細く横に伸びているのが見えた。
「ん・・・?何じゃ?」
 勝幸が弟の声に自転車を止めて振り返る。
「何じゃ?勝彦」
 兄が弟に向かって言った。
「兄ちゃん、下!下!」
 その声に勝幸は反応して足元を見た。
 勝幸の目にそれははっきりと映った。いや、映ったと思った時には自転車を投げ出してその場所から勢いよくジャンプしていた。
「マムシじゃ!!」
 ツトムが叫ぶ。
僕の目にも横に伸びたマムシの姿が見えた。
 そう言うや否やツトムは自転車を勝彦に渡し、勢いよく勝幸の側に走り出した。
「ツトム君!」
「かっちゃん、ナッちゃん。自転車に乗って一気にこの場所を駆け抜けろ!」
 走りながらツトムが言った。
「マムシをやっつけちゃる!」
「危ないツトム!!」
 僕はそう言って、勝彦の後に続いて自転車を勢いよく漕いだ。
 ツトムが叫び声を上げながらマムシへと向かってゆく。
 ツトムの走りは僕達の自転車より早かった。
「ツトム!」
 僕は叫んだ。
ツトムはその声が届くと同時に素早く屈みこみ勢いよく踏んづけた。
一瞬、何かに気付いたのか動きを止めたが、一気にマムシの尻尾を手に掴むと奇声をあげながら空へ放り投げた。それは木々の葉を突き破り、空の彼方へ消えて行った。
僕は息を切らせながらツトムの側に近づいた。
ツトムが肩で息を切らせている。
「ツトム・・大丈夫かい?マムシはやっつけた?」
ゼイゼイ言いながらツトムが下を指さした。
「爺ちゃんの言う通り、やっつけた。マムシを見つけたら踏んづけろ、それで遠くに投げろといっちょったから」
「えっ!無茶苦茶だよ、それ!」
 僕はツトムの言葉に少し青くなったがツトムの勇気には感服した。
「見て、ナッちゃん」
ツトムが指さす方を見る。
「このマムシ・・死んじょる」
「え?」
 僕はそう言ってツトムが指差す方を見た。
胴から上の少し丸い蛇の頭部分までが道にへばりついている。白黒の縞模様の引き裂かれた部分にタイヤの跡が見えた。
 空へ投げたのはどうやら轢かれたマムシの下半身のようだった。
「どうやら子供のようじゃけど、道を渡る時に車に轢かれたようじゃ。まだ目が開いてるのを見るとそんなにたっちょらん」
 ツトムが屈みながらマムシを掴む。
「死んじょるみたいじゃな」手を伸ばして僕に見せる。
「大丈夫?ツトム?」
 僕が心配そうに言うと勝彦が自転車を押して側にやって来て、ツトムの背中越しに覗いた。
見ると、うげ!と叫んだ。
「かっちゃん。大丈夫。死んでるみたい」
「ナッちゃん、本当?」 
 勝彦がツトムの掴んだマムシをまじまじと下から顔を近づけて見た。
 その時だった。
死んだはずのマムシが口を開けて動いた。驚いたツトムは一瞬マムシから手を離した。
するとマムシは勝彦の顔に落ちて身体を捻ってシャツの襟もとから躊躇することなく勝彦のシャツの中に滑りこんだ。
「ぎぃやぁああ!!」
 勝彦の叫び声が鳶ケ峰の木々の中に響いた。僕達は急いで勝彦のシャツを脱がせた。
「怖い!怖い!」
 勝彦が青い顔で地団駄を踏んで叫ぶ。僕達は急いでシャツを捲ると這いずって落ちたマムシを見つけた。
 ツトムがそれを見つけるときぇぇえと奇声ともいうのか叫び声を上げて思いっきり空へと放った。
森の木々の葉を突き抜ける音がして、マムシは空へと消えた。
「勝彦、大丈夫か!」
 兄が弟に言った。
「かっちゃん、大丈夫?ねぇ、何も無かった?」
 勝彦は青ざめた顔をして震えながら背中を指さした。
「どうした?」
 兄の声に勝彦は泣き出した。
「だめじゃ。兄ちゃん。噛まれた!」
 その声に全員が背中を見る。
「どこ!どこ!どこ!」 
 全員が背中をくまなく探す。
「あった!」
 ツトムが指さす。
「ここじゃ!」
 ツトムが指さしたところに小さな赤い斑点が見えた。わずかにその部分が腫れ始めていた。
 すると勝幸がその場所に口をつけ勢いよく吸い込んで、唾を吐いた。
「かっちゃん。しっかり!」
 勝彦は少しふらつくようになって震え始めた。
「いかん、毒じゃ。毒が回り始めよる!」
 勝幸がそう言って、また同じように吸って地面に唾を吐いた。
「勝彦、いま毒出しちゃるからな!」
 僕は坂道を見上げた。坂の先に何か建物が見えた。
「ツトム!」
 僕はツトムを呼んだ。
「ほら、坂の上に建物が見える!あそこに行って人を呼んできて!」
 ツトムは頷くと自転車を漕いで急いで坂道を上り出した。
「おい、しっかりしろ!」
 勝幸の声に僕は振り返った。
 勝彦の顔は真っ青になっている。
「兄ちゃん、兄ちゃん・・・」
 勝彦が言う。
「やっぱ、帰った方が良かったっちゃ」
 勝幸が懸命に毒を吐き出す。
「ナッちゃん、ごめんね」
 勝彦が僕に謝った。
「どうして?」
 僕は言う。
「だってさ、足手まといになったっちゃ」
 それを聞いて僕は涙ぐんだ。
「そんな・・そんなこと気にしなくていいのに」
 勝彦は首を振った。
「この前、学校で西南戦争の本を読んだんじゃ。その戦争では怪我した侍は大将さんに迷惑かけないように皆、ひとりひとり自害したとよ」
「何?何?かっちゃん、だから何?」
「じゃから・・僕も同じように皆の迷惑になるんじゃったらこのまま死んだ方がいい」
 その言葉に僕は深い衝撃を受けた。僕達にとって死に方など全く興味のない話しや出来事であるのに、勝彦は知らないうちに自分のなかでそんなことを考えていて、それを口にしたからだ。
普段は菓子を口に頬張っていて皆に冗談を言う、なんともおっとりとしたどこか頼りない少年なのに、いつそんな刃のような精神が勝彦に宿ったのか、僕はこの時驚きを隠せなかった。
「昔、町内の演劇の出し物で会津の白虎隊をやってから、興味があってね。それでお侍のことこっそり調べちょったんよ」
「かっちゃん・・・」
 僕は涙ぐんで勝彦の手を握った。
「馬鹿か!」
 勝幸の声が響く。
「勝彦、弱音を吐くな!」
 兄が弟に言った。しかしそれはどこか潤んでいるように聞こえた。
「お前のことは俺が助けちゃる。心配するな!俺の弟なんじゃ。何としてでも助けちゃるからな」
 勝幸が手の甲で瞼を拭った。その目は赤くなっていた。
「ガッチ・・」
 僕がそう呟いたとき坂の上からツトムの声がした。
 その声に僕達は振り返りツトムの方を見た。するとツトムの横に丸坊主頭の老人の姿が見えた。
「こっち!こっち!」
 そう言いながらツトムが駆け下りてくる。
僕は勝幸と目を合わせると、力なくうなだれている勝彦の両腕をそれぞれの肩に回して太ももを持って坂を上り出した。
下って来たツトムが僕らに加勢すると僕達は駆け足になりその丸坊主頭の所に来て勝彦を下ろした。
「弟がマムシに噛まれて」
 勝幸が咳き込むように言った。
 すると丸坊主頭は勝幸に言った。
「その事ならその少年から聞いた。それで近くに住んでる医者の館林先生に電話したからもうすぐここに来るじゃろ。心配せんでええ。それより早う、中にお入り」
丸坊主頭は勝彦の前に背を出した。
「背中に乗りなさい。本堂まで運ぶから」
 僕達は急ぎ、勝彦を坊主頭の人の背に乗せると 門を潜った。
 門を潜る時、天井に大きな文字が見えた。
 それには『慈恵寺』と書かれていたが、当時の僕達には誰一人その漢字は読めなかった。



夜の暗闇を自転車で走る姿が在った。
新穂先生の姿だった。
職員室で電話を切った後、学校に来た生徒たちの両親達から息子達が行方不明で帰って来ていないことを聞いて目の前が真っ暗になった。
何故なら昼間自分はちゃんと生徒達と会い、話をして自分の自宅から送り出したからだ。
衝撃はいくばくか分からない程だった。
両親達が帰った後、居ても立っても居られなくなり、自転車を漕いで生徒を探しに出た。
あてなど無かった。昼間出会った生徒たちの道筋を追いかけるように進んで行ったがどこにも姿が見えなかった。
(別の道を通っているかもしれない)
そう思った時、暗い道の中でぽつりと公衆電話が見えた。
勢いよく公衆電話のドアを開けると、小銭を入れて電話をかけた。
この通りのずっと先に自分の親戚が居る。もしこの通りをそのまま生徒たちが通っていればその姿を見るかもしれない。
(そうであれば、あの子等を見つけるかもしれない)
そう思うと自分は別の道を探そうと考えた。
電話の呼び出し音が鳴り響く。
それが三度なった時、受話器の向こうで親戚の声がした。
「あ、叔母さん・・実は・・・」
 急くように用件を伝えると電話を切って、今来た道を戻り始めた。
(朝が来るまで生徒達を見つける)
思いを秘めて暗闇の中を険しい顔つきで進んで行く。
 途中パトカーとすれ違った。警察も行方不明の少年を探すために巡回していた。焦りでいら立つ心を押さえて、先生は自問した。
(何故、あの子達は私に嘘をついたのだろう)
 そう思うと自分が悲しくなった。何よりも信頼する生徒たちに嘘をつかれたことが身に堪えた。
(しかし)
 顔を振った。
 今は余計なことを考えないで懸命に探そう。
(無事でいてほしい)
 それだけを願い、新穂先生は夜の暗闇を進んで行った。


 僕達が勝彦を抱えるように飛び込んだ場所と言うのは“慈恵寺”という有名な古刹だというのはこの事件の後、大分たってから知った。
 境内には広い庭があり、四国のお遍路を模して置かれた床石を回れば満願を迎えることができるとされ、また大きな銀杏の木があり、本堂には素晴らしい千手観音が見ることができる。
 ただこの頃の僕達には仏教への教養も知識も無く、それよりも青くなって震える勝彦を一刻でも早く救いたいという気持ちで一杯だった。
 今は唯、本堂の床にタオルを引いて勝彦を寝かせ、僕達は正座をしてひたすら勝彦の身体を摩るしかなかった。
「さっき坊主の人が言っちょった医者はいつ来るんじゃ?」
 ツトムが摩りながら僕に言った。
 僕は首を振った。
「分からない。でもすぐ来るはずだよ。近くに住んでいると言っていたから」
 うーん、と顔をしかめるとツトムが唸る。
「勝彦、大丈夫か?」
 兄が弟に言う。
 勝彦はそれに微かに頷く。
「がんばれ。もうすぐ医者が来るっちゃ」
 そう言うや、勝幸はお堂の奥に見える仏像へ向かって走り出した。
 手を大きく鳴らして、仏像の前で頭を下げた。
 その様子を僕達三人が見ている。
 すると勝幸が大きな声で言った。
「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!仏様!弟を救ってください!」
それは本堂内に響いた。
それを聞いて、僕とツトムも一斉に立ち上がり、仏像の前に向かった。
「ガッチ、もう一度一緒に言おう」
 僕は勝幸とツトムを交互に見た。
 二人が頷く。
 三人一緒に手を大きく叩き、大きく息を吸うと大きな声で言った。
「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!仏様!」
 勝幸が叫ぶように言う。
「弟を救ってください!」
 続いてツトムと僕が大きな声で言う。
「かっちゃんを救ってください!」
 その声が堂内に響いた時、突然鐘が鳴って堂内に響いた。
 僕達三人はその音の方を振り向いた。
 丸坊主頭の人物が手に小さな鐘を持って僕達を見ていた。
「結構な心構えじゃ。仲間の無事を祈るため千手観音様に手を合わせちょったか」
 すると丸坊主頭に手を遣りながら僕達の側に来て、観音像の前で静かに手を合わせ短い経文を口にすると、視線を像に向けて再び鐘を鳴らした。
 音が堂内に響いて外に消えるまで再び手を合わせたので僕達も観音像に向かって手を合わせた。
「観音様がすぐ君等の願いを叶えてくれる。心配するな」
 すると庭の方で車の音が聞こえた。
 手を合わせたまま顔を上げると車から人が降りる音が聞こえ、その音をひたすら耳で懸命に追った。
音は急ぎ足でこちらに向かっている。
 そう誰もが思った時、本堂に眼鏡をかけた紳士が急ぎ足で現れた。
「お義父さん、こちらですか?お電話を頂いた子供と言うのは?」
 その声に「おお!倫太郎君」と丸坊主頭が言った。
「そうじゃ。どうも蛇に噛まれてな」
 丸坊主頭が僕達を見る。
「子供達、館林先生が来てくれたからもう大丈夫やっちゃ」
 すると勝幸がその紳士の側に転ぶように走り出して言った。
「先生、先生!弟が蛇に・・背中を噛まれたっちゃ。何とか、何とか助けてください!」
 その後に続いて僕もツトムも走り出し医者の側に膝をついて頭を下げた。
「先生、かっちゃんを助けてください」
 先生は僕達の顔を見て力強く頷くと、静かに質問をした。
「誰か、噛んだ蛇を見たかい?」
 ツトムが手を上げた。
「じゃ、君。その蛇は、どれくらいの大きさでどんな色をしていたかい?」
 ツトムは立ち上がり手を自分の肩から少し広げていった。
「こんぐらいの大きさじゃったと思う。ほんで白黒の島斑の皮膚をしちょった」
 先生が頷く。
「蛇の頭を見たかい?」
「頭?」
 ツトムが目に皺を寄せた。
「そうだね。三角形をしていたかな。それともすこし丸い、そうだね・・・玉子型みたいだった?」
 ツトムは自分が掴んだ蛇の頭を思いながら手を動かしていく。
「確か・・」
 ツトムが言い出そうとすると、勝彦が言った。  
「丸かった・・・、僕、目の前で見たから」
 弱弱しい勝彦の声に皆が振り返る。
「丸かったかい?」
 先生が言った。
 それにツトムも頷く。
「うん、先生。確かに丸かった」
「よし!」
 先生はそう言うと勝彦の背を抱えて持ち上げた。
「どうじゃ?倫太郎君?」
 丸坊主頭が先生に聞いた。
「お義父さん、市内の緊急センターに連れて行きます。ただ、最初聞いていたようにマムシではないかもしれません。今の話を聞くとおそらく青大将あたりかと・・・・、でもどちらにしても緊急センターへ今から僕がこの子を連れて行きます。それですいませんが、残る子供達を僕の家へ連れて行ってくれませんか」



 
 不安そうに僕達を見る勝彦へ兄が無言で頷くと、勢いよく勝彦を乗せて車が出て行った。
 残された僕達三人は唯黙って『慈恵寺』と書かれた門の下に腰を下ろした。門の目の前で手を伸ばせば届く様な所に夏の陽ざしが落ちている。
その陽ざしの中に蝉が飛んできて地面に止まり羽根を震わせるようにして鳴き出した。僕は膝を抱えるように顔を失せている勝幸を見た。
弟を見送ったあと、言葉を出さないで静かに蹲っている。
組まれた腕の中から見える膝が震えている。
「ガッチ・・」
僕の問いかけに返事は無かった。それを見てツトムが首を振る。
「うん・・」
僕はそう言ってあとは黙って視線を蝉のほうに向け、暫く蝉が鳴いているのを聞いていた。
それはまるで声を押し殺して泣いている兄の声のようだった。
 どれくらい時間が過ぎただろうか、僕達の側に丸坊主頭がやって来た。
 僕がそれに気づくと立ち上がった。
 手に盥を持っていて、その中に赤い熟れた西瓜が見えた。
「ほれ、ぼうずども、これでも食いっちゃ。姪っ子に送った西瓜が残っちょった。甘めぇかどうかわからんが力が出るじゃろ」
 僕とツトムが目を合わす。
「ほれ」
 そう言って丸坊主頭が差し出すのを、僕達は受け取った。
「ありがとうございます」
 それで嬉しそうに丸坊主頭が頷いて、勝幸を見た。
「そっちの子はさっきの子の兄か。心配でたまらんじゃろうが、後は館林先生にお願いするしかなかじゃ」
勝幸を慈しむ様に見て、盥に残った西瓜を僕に渡した。
「その子の分はそこに置いといてやれ」
 そう言うと丸坊主頭が陽だまりの中に進み、鳴いている蝉を見て手を合わせた。
「こん蝉がまるでその少年のようじゃ。弟の事を心配して鳴いとるんじゃろ」
 小さく「南無阿弥陀仏」と言った。
 すると蝉が羽根を伸ばし、空へと飛び去って行った。
 蝉が空へ飛び立つのを僕達は西瓜を食べながら見ていた。
「おお、顔を上げよったか」
 その声で僕は勝幸を振り返った。確かに勝幸は腕から顔を上げていた。
 その目と頬は涙で濡れた跡があった。
「ガッチ・・これ、西瓜」
 僕は盥を勝幸の前に出した。
 静かに頷くと、勝幸はそれを手に取り一口大きく食べた。
「よかよか。そいでこつ、九州の日南児じゃ。泣いてるばかりじゃ駄目じゃ。元気を出していかんと」
 丸坊主頭が豪快に笑った。
 ツトムが言った。
「爺ちゃんは、ここのお寺の人?」
「そうじゃ、儂はここの住職じゃ」
「え!!じゃ上人さんけぇ?」
 ツトムが驚いて言う。
「いやいや、上人なんて偉いものじゃないが。まぁ唯の坊主じゃ。ほんで君達はどこから来たが?」
 それにツトムが僕を見た。
 言うか言うまいか迷っている。
「広渡じゃ」
 それに勝幸が答えた。
「ガッチ?」
「広渡?ほらぁ遠いとこから来なさったんやな?」
 うんと僕達は頷いた。
「じゃ、飫肥小学校のもんか?」
 うんと再び強く頷く。ここで何も隠す必要は無い。丸坊主頭が顎に手をやるとじっと僕達を見つめた。
「ほんでどこまで行くんじゃ?」
 それには皆が顔を見合わせた。言うべきかどうか皆で確認をしている。
その時奥で電話が鳴り響くのが聞こえた。
「お、電話じゃ」
 急いで丸坊主頭が走り出して行った。
残された僕達はさっきの問いかけにどう答えようかと思案をした。
「ガッチ、どうする?答える?」
 僕の言葉に勝幸が下を向いた。
「どうすっか?」
 ツトムが僕の方を見る。
「なぁ、皆。この丸坊主・・いや上人さんだっけ、この人はかっちゃんを助けてくれたじゃない。その人の恩に報いないと。義理が立たないよ」
 義理なんてとても子供に似つかわしくない台詞だと思わないでもないが、子供には子供の世界でそれはとても大事にされている。
もしかしたらそれが友情や信頼を育むとても大事な要素だと言うことを僕達はしっかりとこの時すでに認識しているのだろう。
だから勝幸もツトムもそれには唯無言で頷いた。
「じゃ、上人さんがこちらに戻ってきたら僕が言うよ」
 言うや否や丸坊主頭がこちらにやって来た。
急いできたのか息を切らせている。
「館林先生から電話があってな、君の弟君、大丈夫やったそうじゃ。それで少し病院で点滴を打ってこっちに戻ってくるそうじゃから、先生の家で待ってくれということじゃ」
一瞬の沈黙が僕達を包んだ。
しかし次の瞬間、
「やった!、やったぞ!」
 勝幸は声を出して両手の拳を空へ突き上げた。僕もツトムもそんな勝幸の肩に手を遣って大きく叩いた。
「ガッチ、良かったな!かっちゃん大丈夫やった」
 三人で輪になって体を叩きあった。
 目を細めながら僕達の姿を丸坊主頭が見ていたが、やがて言った。
「ぼうずども、じゃ、もうええか。喜んでるところで申し訳ないんじゃけどな。今から儂が館林先生の所に連れて行くから。皆自転車を取りに行っておくれ」
僕達は勇み足になりながら急いで自転車を取りに行くと再び門の前に来た。
すると丸坊主頭はそこにはおらず、遠くから僕達を呼ぶ声がした。
「おぉーい、ここじゃ」
 坂道の上の方から声がして僕達は一斉にそちらに向かって自転車を漕ぎ出した。
 すると丸坊主頭の姿が消えた。
 僕達は急いで坂道を自転車で漕いで行く。
 丸坊主頭が消えたところまで来ると坂道は無くなり少しなだらかな下りになって、見ると小さな川が見えた。
「下りだ」
 僕は周りを見て言った。 
(鳶ケ峰を抜けたんだ)
そう思った時、川から爽やかな風が吹いて僕達の頬を撫でると、やがて汗ばんだシャツの中を抜けて行った。
「おい、ここじゃ」
 その声に僕達は振り返り、丸坊主頭が立っているところまで一気に下って行った。
「来たか。ここじゃ。館林先生の所は」
 丸坊主頭が指さした場所は小川に橋が架けられ、その先に門と中庭があった。
その中庭で向日葵が咲いていて、それが白い板張りの洋館の壁と映えて輝いている。
「すげー」
 ツトムが言った。
「町の中心の油津にもなかじゃなかと、こんな綺麗な建物・・、なぁそうじゃろ、ガッチ?」
 そう言ってツトムが勝幸を振り返った。
 勝幸は驚いているのか、口をぽかんと開けていた。
「ガッチ、何か驚いてるね」
 僕も勝幸の顔を覗き込みようにして言って笑った。
 ツトムも釣られて笑う。
 それに勝幸が首を振った。
「ナッちゃん、ツトム、ここじゃ。ここが前、お父ぅと来た屋敷じゃ」
 それで僕とツトムは顔を合わせた。
「ここなの?屋敷って・・」
僕は田舎の屋敷と言えば庄屋みたいな日本造りの建物を想像していたので驚いた。
勝幸の父親は畳職人だ。それが洋館へ出入りするというのが全くこの屋敷と繋がらなかった。自分の想像力は音を立てて崩れた。
 すると奥で扉が開いて一人の女性が現れた。
「お父さん」
 その女性は丸坊主頭に言った。
「おお、愛子。さっき倫太郎君が病院へ連れて行った子供の仲間の子達じゃ」
 そう言って女性に声をかけた後ろから一人の少女が現れた。
 その少女に夏の陽が降り注ぐ。
年頃は僕達と同じに見えた。
肩まで伸びた栗色の髪と薄紅色の頬、それと二重瞼の黒くて大きな瞳が僕達を見ていた。
 勝幸が小さく呟く。
「あの子じゃ。間違いない、前にここで見た子じゃ」
 僕は驚いた。
「ガッチ、見たことあったの?川で話した時そんなこと一言もいってないよ」
 勝幸は、口をぽかんと開けている。
「知っていて、僕達に黙っていたの?」
 僕はそれであの時、何故勝幸が惚けた表情をしていたのか分かった。
 最初から知っていて、何か理由が在って僕達にずっと隠していたのだと分かった。
(ガッチはこの子を知っていた・・)
 口が半開きの勝幸を見ながら、僕は思った。
(でもどうして黙っていたんだろう)
 やがて女性と少女が橋を渡りながら、僕達の側にやって来た。
「愛子、この子達広渡から来よったそうじゃ。冒険もすごい冒険じゃろうて。子供ん足でここまで来たんじゃから」
 女性は頷くと僕達にしゃがんで言った。
「初めまして。私は館林愛子と言います。後ろの子は私の娘で館林日向子と言います。あなた達はどこまで行くの?」
 娘によく似た大きな二重瞼の目が僕達を見ている。
 僕達は所々夏の陽で真っ黒で汗ばんでいてきっとどこか貧相さも持っていたに違いない。でもこの女性はまるで庭の花壇に咲く向日葵のように僕達を愛でるような瞳で見つめている。
 勝幸を見ると少女を見た時から口を開いたままで、呆然とした表情のままで話そうとはしない。
 それでツトムを見た。ツトムは僕を見て顎を引いた。
 僕に話せということだ。
 それに頷くと、僕はポケットから小さな瓶を取り出した。それに少女が気付いたのか、僅かに動いた。
 僕は言った。
「川でこれを見つけたのです」
 それに女性が反応する。
「これは・・?」
 僕は言う。
「瓶の中には手紙があって、差出人は“ヒナコ”と書いてありました」
 おや、という表情で女性が少女を見た。少女がそれで小さく舌を出して、照れたように笑う。
「僕達はそれが誰かは知らなかったのですけど、横に居るガッチ・・いや友達が、心当たりがあると言って、僕達を誘い出したんです。この手紙を出した子に会って友達になろうと」
 少女が勝幸を見て目を合わせた。それで一瞬にして勝幸の顔が紅潮していくのを僕は見た。
 勝幸が変わる様を見て、僕は一瞬にして何故勝幸が僕達にこの少女と会ったことがあるということを隠していたのか分かった。
それで僕達を誘い出した理由も、何となくわかった。
(ガッチはこの子を見た時から、気になっていたに違いない。それは・・ひょっとすると・・)
小川を吹く風が勝幸の火照った頬を撫でたかもしれない。勝幸の秘めた思いの熱が風に乗り僕の心に触れて新穂先生の顔を浮かばせた。
 僕は言った。
「僕達は・・・きっとここに来るためにやってきました」
 僕は瓶を少女に向かって差し出した。
すると細くて長い指が伸びてきて、そっと差し出された瓶に触れた。
「僕達は・・その・・・君と・・・お友達になりたくてやってきました」
 僕の言葉に大きな瞳が僕達三人をそれぞれ見つめる。
「ありがとう」
 にこりと微笑んで言った。
「名前を教えて?私は館林日向子」
 そう言ってツトムを見た。
 少しドギマギするようにツトムは鼻を指で拭いた。
「ツトムじゃ・・・いやツトムです」
 丁寧な口調に訂正してツトムは言った。
「そうツトム君ね。宜しく。あなたは?」
 勝幸を見た。
 勝幸は頭から真っ赤になって直立不動のまま、ぎこちなく言った。
「ぼ、僕は、勝幸・・・いや・・ガッチと皆が言います」
「ガッチ?変な名前」
 少女が笑った。それで僕が言った。
「いや、ほら頭がいがぐり頭だから。皆で“ガ”を取って弟のかっちゃんと分けてガッチゃんと言うんだけど、僕達は仲良いからもう面倒くさくてガッチって短く言うんだ。それでガッチ」
 その説明が可笑しいのか少女は笑った。
「可笑しいね。そう、いがぐり頭でガッチなんだ。じゃ私もヒナって短く呼んでくれる?」
 うん、といって勝幸は下を向いた。緊張しっぱなしで耳が赤くなっているのが僕の目からも分かった。
 少女が僕を見た。
「僕は夏生。ナッちゃんと皆言うので、宜しく」
 少女は頷くと瓶を抱えて母親に言った。
「ママ。私、お友達ができた。お友達ができたの!」
 そう言うと涙目になりながら母親に抱きついた。
 母親は娘の髪を愛でるように撫でた。
「良かったね。ヒナコ。あなたの願った通りこの小川から流したお手紙をこんな立派な少年さん達が受けとって、はるばるこんなところまでやって来てくれてお友達になってくれたのだから」
 少女は頷いた。
 母親は僕達に言った。
「もしよろしければ家へ入って。そこで是非皆さんのここまでやって来た冒険談を聞かせて。おばさん、皆の為にホットケーキを焼くから是非食べて行って」
 僕達三人は顔を合わせて喜色を浮かべて指を鳴らした。
 その指が鳴った音に反応するように庭に咲いた向日葵が一斉に揺れた。
 それはとても美しい世界だった。



 屋敷の中に入ると大きな居間があってそこには数枚の絵が飾られていた。部屋の至る所に外国の調度品が沢山あって、さながら小さな美術館のような感じがした。
 そこから奥の部屋が見えた。そこには茶室のような空間があり、新しい畳が床にあって掛け軸などが見えた。
「お父ぅの畳じゃ」
 勝幸が指差すと僕は頷き、勝幸の父親が何故この洋館へ出入りしたのか理由が分かった。
僕達は居間の真ん中に置かれたテーブルと椅子に腰掛けると、少女と向かい合わせになって、ここまでたどり着くまでの出来事を身振り手振りで話をして、ケーキが焼きあがるのを待っていた。
部屋のどこかにあるのか、時計の時刻を告げる大きな音がした。
二度鳴ったのを聞いた時、外の方で車が止まる音がした。
「パパだ」
 ヒナコが窓を見て言った。窓を開けると大きく「パパ!」と言った。
 僕達もそれぞれ彼女の後について顔を窓から覗かせた。
 すると車から館林先生が降りてきて続くように勝彦が降りて来た。
「かっちゃん!!」
 僕は大きな声で言った。
 それに手を振って勝彦が答える。
 僕達は玄関に出て、勝彦を出迎えた。並んで出迎える僕達を押しのけるように勝幸が勝彦に抱きついた。
「大丈夫やったか?」
 うん、と勝彦は照れて頷いた。
 先生が眼鏡の奥から僕達を見回すようにして言った。
「皆、心配かけたね。勝彦君はこの通り大丈夫。何も心配しなくてもいいよ」
 微笑を浮かべたその表情に僕達は大きな安堵を感じて次々に勝彦の背や肩を叩いた。
「かっちゃん。思いがけない偶然だったのだけど、実は此処が僕達の目的地だったんだ」
 僕が勝彦に耳打ちした。
「え!そうなの?ナッちゃん?」
 僕は頷いて勝幸を見た。
「実はさっきガッチに聞いたんだけど、あの手紙を川で拾った数日前にガッチはお父さんとここに来て、その時・・」
 そう言って僕は少女を見た。少女もまた微笑して僕達を見ている。
「彼女・・ヒナコちゃん、ううん、ヒナちゃんを遠くで見ていて知っていたみたいなんだ」
「そうなの?兄ちゃん?」
「う、うん、まぁそうだな」
 勝幸が頭を掻いて言った。
「ふーん」
 勝彦が兄を見て顔を近づけて言う。
「な、何だ。勝彦」
 兄が少したじろいでいる。
 少女を再び見て言った。
「ナッちゃん、兄ちゃんさ、絶対、ヒナちゃんに一目ぼれしてたっちゃ。だって、アイドルグループにおるようなかわいい子じゃもん。だから川でこの瓶に入った手紙を見た時、黙ってそのことを皆に何も言わず何も知らん顔で行こうて思ったちゃろ」
 まるで核心を突かれたかのような勝彦の言葉に勝幸は顔を真っ赤にした。
「お、なんじゃ。ガッチ、そうやっちゃか?」
 ツトムが冷やかすように言う。言ってから弟のように顔を近づける。
僕も可笑しくなって同じように顔を近づけた。
すると顔を真っ赤にして腫れあがる様な顔つきで、勝幸が怒り出して言った。
「何を言うちょるんじゃ!!皆」
「そう怒ったって、顔に書いとる」
 ツトムが指を指す。
「真っ赤になってるのが証拠じゃ」
「ツトム!」
 そう言って勝幸が襲いかかろうとするのを僕が後ろから羽交い絞めにする。開いたわき腹に勝彦が指を指し込み、くすぐった。
「こりゃ、わりゃ、止めろ。くすぐったいわ!」
 それを見て少女は大きな声で笑った。先生も大きな声で笑った。
「やぁ、ヒナコ。友達だけでなく、素敵なボーフレンドもできたね」
 先生がそう言った時、奥から声がした。
「お帰り、あなた。ねぇ、皆を部屋の中に入れて頂戴。ホットケーキが出来たから」
その声に先生は頷くと「さぁ皆お入り」と言って中へ入れた。
 部屋に入ると先程まで僕達が居たテーブルに焼きあがったホットケーキが良い香りを立てて、ナイフとフォークの横に置かれた綺麗な皿に入って皆の席に並んでいた。
「すげぇ。美味しそう」
 勝彦が言った。
「かっちゃんはケーキは好き?」
 ヒナコが勝彦に聞いた。
「うん、好き。僕は将来ケーキ屋になりたいと思っちょるもん」
「男の子なのに、ケーキ屋さん?スポーツ選手とか大工さんとかになりたくないの?」
 ヒナコが目を丸くして言う。
「なりたくないかな。僕、お菓子やケーキが好きだからずっと一日中それに囲まれて生活できたらいいんじゃ」
「そうなのぉ?じゃ、ママが作ったこのホットケーキは絶対かっちゃんには合格点貰えると思うよ」
 僕達の背後からティーカップにお茶を注ぐヒナコの母親が「さぁ、皆召し上がって」と言った。
 すると勝彦がケーキにナイフを入れると手で一切れ口に入れて、口を動かすと一気に飲み込んだ。
「勝彦、行儀が悪いぞ」
 兄の声に聞くそぶりを見せずぺろりと舌を出してヒナコに言った。
「ヒナちゃんの言う通りやっちゃ、美味しい!」
「でしょ!」
 そう言ってヒナコが一口、口に入れる。僕達も同じように一口食べた。口の中で柔らかい感触が溶けるより早く、僕達は顔を見合わせた。
「どう、皆?」
 ヒナコの言葉に僕達は一斉に頷いた。
「こんな美味しいの、学校の給食にも出て来たことないっちゃ」
 ツトムが口拭いて言った。
「本当?ツトム君」
「嘘じゃねぇ、なぁ皆そうじゃろ?」
 同意を求めるようにツトムが僕達を見る。
「うん、ないよ。ヒナちゃん。このホットケーキ、すごく美味しい」
 勝幸も真面目に頷いた。
「良かった。私・・病気でまだ一度もちゃんと学校に行ったことなくて。だから給食って知らないの」
 僕達は動く口を止めてヒナコの表情を見ている。
「そー、だから給食ってすごく憧れているのだけど、それを知ってる皆が言うんだからママの作るホットケーキは絶対美味しいんだって今確信しちゃった!」
「絶対、美味しいよ」
 そう言って勝彦が兄の皿にフォークを持って行き素早くケーキに突き刺すと口に持って行った。
「あ!!」
 勝幸が声を上げた時にはケーキは勝彦の喉を通って胃袋に落ちていた。
 それを見て皆が一斉に笑った。
 残念そうな顔つきをしている勝幸にヒナコが言った。
「ガッチ。よかったら私のどうぞ?」
 ヒナコの声を聞いて勝幸は顔を赤くしながらしどろもどろになって頭を掻いた。
「照れちょる、ガッチ」
 ツトムがまた指を指した。
「本当だ、ガッチ、照れてる」
 僕も言った。
「兄ちゃん、照れちょるわ。いがぐりじゃなくて真っ赤な焼き栗じゃ」
「黙れ!勝彦!」
 勢いよく勝幸が答えると一斉に笑い声が上がった。


 子供達のはしゃぐ声が聞こえる調理場でホットケーキを焼いている妻に夫が声をかけた。
「お義父さんは?」
「うん、奥で電話を綾子さんにしている」
「そう」
 呟くとジャケットを椅子に掛けて座った。ホットケーキを焼く妻の背に向かって言った。
「じゃ、学校の方に電話を?」
「そうね・・」
 呟くと妻は夫を見た。
「綾子さんも、まさか行方不明の学校の生徒たちがここにいるなんて思いもしないだろうし・・それに警察にも捜索願いが出ているのだから」
 奥で話す声が二人にも響いて聞こえた。
「昨晩、綾子さんからお母さんに電話があってね、『飫肥小学校の生徒四人が行方不明なのでもし見つけたら連絡を下さい』って」
「そうか。綾子さんは飫肥小学校の六年生のクラスの担当だからもしかしたら彼らの担任の先生かもしれないね・・・」
 眼鏡に手を遣りながら夫が答える。
「ねぇ、倫太郎さん」
「ん?」
 妻の言葉に顔を上げた。
「もし、あなたが良ければだけど・・今晩、あの子たちをここに泊めてあげてもらえない?」
 妻の意図を推し量る様に表情を見つめた。
「あの子達、ヒナコの手紙を持ってやってきたのよ。子供ながらここまでは大変な道だったと思うのよね。それにヒナコは病気のせいで・・学校に行かせることはできなくて同じ世代のお友達がいないじゃない?あの子の今の笑顔を見ていると、今日親御さんたちのもとに引き取らせてしまってはヒナコの残された時間の思い出が無くなりそうなので・・私嫌なのよ」
 そう言うと妻は夫に向き直った。夫は顎に手を遣って考えていた。
 暫く無言のままでいたが、やがて頷いて言った。
「うん、君の言う通りにしよう。少年達のご両親には僕の方から電話をする。明日明朝まで僕が責任もって預からせていただくと」
 夫の言葉に妻が優しく微笑する。
「ありがとう、倫太郎さん。無理なこと言って」
 夫は妻の言葉に手を振った。
「とんでもない。ヒナコにとって今日の事はとても忘れられないことだよ。だって初めてお友達ができたのだから。それは僕達家族にとっても大事な記念日なのだから」
 そう言うや、夫は立ち上がり妻に言った。
「じゃ、僕の分もホットケーキを頼むよ。ヒナコのあの笑顔を見ながら、君の美味しいそいつを食べたくなったからさ」



 その夜、僕達は少女の部屋で沢山の話をして過ごした。
 話は学校の事や夏休みの間に僕達が遊んだこと、それらを身振り手振りで話した。
 少女と共に時に笑い、驚きながら僕達は月が輝く夜の下で、それはとても楽しい時間を過ごした。
 それは少女の母親が就寝の為に僕達の部屋に現れ、ドアを閉めるまで続いた。
「また、明日ね」
 ヒナコはそう言うと僕達に手を振って“おやすみ”と言った。
 僕達は母親が案内してくれた二階の寝室で布団に入るとやがて静かに寝息をたてて眠りについた。不思議なことに、誰も今夜家に帰ろうとは考えていなかった。
  


 翌朝、窓から差し込む陽の光で僕は目が覚めた。暫くすると皆が動き出すのが分かり、僕は皆の身体を揺さぶりながら起こした。
 部屋のドアの向こうから玉子とパンを焼く臭いがして、僕達はそっとドアを開けた。
 臭いは下の階からしていた。
 僕達は乱れた服を整えることなく静かに階段を下りて、昨日食事をした部屋に入った。
 そこで僕達は声が出ない程の驚きに出会った。
 あまりの驚きで頭が真っ白になってただ立ち尽くした。
何故ならそこに新穂先生が座って僕達を見ていたからだった。
僕は呻くように言った。
「せ、先生、どうしてここにいるの?」
 先生は僕達を睨み付けて大股で側に歩いて来ると四人の前で仁王立ちになって無言でそれぞれの顔を睨み付けた。その顔は仁王像のようで顔は紅潮して目が真っ赤に滲んでいた。
しばらく無言のまま僕達を見つめているとやがてぽろぽろと涙を流して僕達を抱きしめた。
「せ、先生・・・」
あまりにも先生の変わりように僕達は驚きながら、先生をこのように責め立てて泣きださせたのはきっと僕達のせいなのだと分かって、何も言わずただ下を向いた。
抱きしめる腕が強くなっていく。
「先生、御免やっちゃ」
 ツトムが声を詰まらせるように言った。皆がそれに続くように言った。
 それで先生は僕達から離れて天井を見上げて口を押えて声を漏らした。
「良かった・・皆無事で・・本当に無事で良かった」
 ポケットから白いハンカチを取り出すと涙を拭いて、僕達を見た。
 先生は涙目で微笑した。
「叔父から電話をもらった時は本当に驚いた。まさか君達がこんなところまで来て叔父の寺に飛び込んで来るなんて、すごい偶然でなんという幸運だったのかと」
 僕は先生の言葉で「寺」と言うのを確かに聞いた。
「それだけでなく従姉妹の所に連れて行ってくれたことも、偶然にしては本当に幸運だった」
「先生・・・・お寺って。じゃあの上人さんは?」
 ツトムの質問に先生はうんと頷いた。
「叔父さんよ」
 そこで先生は椅子に腰かけた。
「皆、椅子に座りなさい」
 先生に促されて僕達は椅子に腰かけた。すると先生は僕達の顔を見ながら、ゆっくりと話し始めた。
「君達が行方不明になったと皆のご両親から学校に電話があったの。その時の先生の驚きはね、本当に凄かった。だってそうじゃない?その日の昼間に君達の喧嘩を聞いて、自分の部屋で君達を落ち着かせて恩田先生の所に行くというからそれを信じて送り出しのだから」
 僕達は下を向いた。特に勝幸は自分の足先を見つめて深く首を垂れている。
「そうね・・あの時君達は恩田先生の所には行かず、先生に嘘をついた。だから先生は学校に電話があった時驚くより・・・そう、凄く傷ついた。本当に頭が真っ暗になった。私は学校に来た皆のご両親に頭を下げて、謝って・・・その時からずっと君達が行きそうな場所を自転車で走り回って探したの。そしたら昨日の夕方、叔父から電話を頂いてね。『万一、四人組の少年を見たら電話を頂戴』と言っていたけど期待はしていなかったのよ。でもね、その叔父からの電話で先生は驚いて・・・それでここにこうして君達の前に現れることができた」
 先生は一気に話し出し、最後に言った。
「教えて頂戴。どうして先生に嘘をついてまでこんなことをしたの」
 先生はしっかりと微笑を崩さず、でもどこか寂しそうな表情で僕達を見た。
 誰も先生の顔を直視できなかった。勝幸は深く下げた頭を上げることができず、またツトムは先生のシャツの裾を強く握りしめてじっとしている。
 勝彦は目を動かして視点が定まらず、落ち着かない様子だった。
 そんな皆を先生が一人ひとり見ていたが、やがて僕をじっと見た。
「夏生」
 先生の唇がゆっくりと動いて僕の名前を呼んだ。
「先生・・」
 言うべきかどうか、一瞬迷った。しかし 僕は手を握りしめて目をつぶって言った。
「川で瓶に入った手紙を見つけたんです」
 先生が頷く。
「それが・・ヒナちゃんの手紙だった」
「うん、それは・・聞いてる」
 先生が相槌を打つ。
「それで僕達は会いに行こうと決めたんです。ヒナちゃんに・・だって・・」
「だって?」
 先生が僕を見つめた。その瞳は美術の本で見たイタリアの画家、ダ・ビンチが描いたモナリザのようなとても澄んだ美しい瞳だった。
 僕は先生の瞳に吸い込まれるように言った。
「好きなんです」
「え?」
 先生が少し驚いて僕に言った。顔を下げていた三人も思わず僕を見た。
「僕・・先生が好きなんです」
「ナッちゃん」
 勝彦が驚きながら僕に言った。先生は僕の思わない告白に少し目を大きく広げて見つめている。僕はズボンの後ろポケットに手を入れた。そこに押し込んだ先生の石鹸を強く握りしめた。
「初めて会った時から好きだったんです。僕は先生をいつまでも見ていたいと思っています。だって先生は・・その、とても美しいから」
 先生が目を細めて僕を見つめる。
「何を言うの・・夏生」
「だから、僕はガッチの気持ちが分かったのです」
「勝幸の?」
 先生がきょとんとして僕と勝幸を見ている。
「ガッチは・・ヒナちゃんの事が好きなんです。一目見た時からきっと好きだったのです。だから会いたくて、友達になりたくて、だから先生に嘘をついてまで会いたかったのだと。もし・・僕もヒナちゃんが先生だったら両親には嘘をついてでも・・」
 先生はそこでじっと僕を見た。
「会いたいと思います」
 先生はふっと息を吐いた。
驚いたのは勝幸だった。まさか自分の恋心をここで先生の前で言われるとは思わなかったのだろう。口を開けて僕を見つけている。
 その時ドアを開けてヒナコが入って来た。
「皆・・大丈夫?」
 僕達は振り返った。ヒナコが先生の側に立った。二人並んだ姿を見て僕はとても似ていると思った。その二人の視線が僕達を見ていた。
「まさか綾おばさんが皆の学校の先生だなんて思わなかった」
 先生がヒナコを見つめる。
「驚いた?」
「うん、だってナッちゃんが昨日言ったのよ。『僕のクラスの担任の先生はモナリザみたいな美しい先生がいるって』」
 僕は顔を真っ赤にして下を向いた。先生がヒナコの言葉に笑って、部屋に入って来る大きな影に視線を向けた。
それは館林先生だった。新穂先生の方を見ると軽く頷いた。
「綾子さん、どう?そろそろ朝食にしようかと思うのだけど、庭の向日葵の見える席で妻が呼んでいてね。いいかな?」
新穂先生が頷いた。
「はい、もう大丈夫ですから。ではそちらに伺います。さぁ皆も行きましょう。向日葵の見える庭で朝食なんて素敵ね」
 先生が僕達を促し、僕達は席を立った。
 その時、ぐぅと大きな音が鳴った。皆が一斉に勝彦を見る。
 すると照れたように頭を掻きながら勝彦が言った。
「先生、御免やっちゃ。だって怒られてもお腹がすくんじゃもん」
 それでそこにいる全員が大きな声で笑って、笑いながら向日葵の見える庭へと向かった。

 
 
 庭で向日葵が咲いている。
 風が吹いて向日葵が揺れたと僕が思った時、激しく勝幸が平手打ちを頬に貰って転んだ。
 転ぶや否や腕を掴まれ向日葵の中に吹っ飛ばされた。
 思わず僕は目を閉じた。すると今度は勝彦が兄の身体の上に覆いかぶさるように平手打ちを見舞って同じように飛んで行った。
「お前ら兄弟はどんだけ人に心配かければ気が済むんじゃ!」
 怒声が鳴り終わらないうちに勝幸は再び首を掴まれて飛ばされようとしていた。
「待って下さい!」
 館林先生が勝幸の首を掴んだ男に言った。それに振り返ると男は少し強面の顔のまま静かに先生を見ていたがやがて力を緩めると勝幸を地面に落とした。
 勝幸の父親だ。
「兄ちゃん!」
側に勝彦が寄って兄の方を心配そうに見た。
「父ちゃん!いくら何でもふっとばすことは無いじゃろ!」
 勝彦が睨み付けるように父親に言った。
「何じゃと!」
「まぁまぁ、お父さん、落ちついて」
「先生、じゃけんど、この子達がどんだけ学校、警察に迷惑をかけたか」
 そう言ってから勝幸の父親は後ろを向いた。そこには新穂先生をはじめ警察官やツトムの祖父と母親、僕の父親も居た。
 ツトムは黙っていた。それはそこに母親がいたからだ。母親はただじっとツトムを見ている。ツトムは何も言わず下を向いている。
 僕はツトムが気になった。近寄って来る母親の前でツトムは地面を唯黙々と見ている。
ちらりと前を見ると父親が重い足取りで僕の前に歩いてくる。
(こりゃ、殴られるな)
そう思った時ポケットに手を差し込むと指が何かに触れた。
(あっ!)
僕はツトムの母親から預かった千円札を渡すの忘れていたことに気が付いた。僕は父親が来るのを無視してツトムの方に走った。
「待て、夏生!」
 父親が走り出した僕の腕を掴まえ、平手打ちを頬に見舞った。
「っ!痛ぇ!」
 思わず声を出して地面に倒れ込んだ。
「お前もどんだけ皆に迷惑かけたかわかっちょるんか!」
 父親はもう一発平手打ちをくらわそうとして腕を空に向かってあげた。
 倒れ込んで起き上がった僕は思わず父親を睨んで言った。
「父さん!僕にとっては大事な夏なんだ。皆と過ごす最後の夏なんだ。それがどれほど大事のなのか、父さんに僕の気持ちなんか分かりっこない!」
 それを聞いた父親は一瞬驚いて僕を見た。するとゆっくりと振り上げていた腕を下ろした。
僕は腕を振り下ろした父親の姿を一瞥するとツトムの側へ行った。
「ツトム・・」
 僕は声をかけた。
 母親は真っ直ぐにツトムを見ているが目には涙が溜まっていた。
 僕はツトムの肩を摩ると急いでポケットから千円札を取り出した。
「ツトム、御免。これおばさんから預かってたんだ」
 僕は角が折れた千円札をツトムに握らせた。
 ツトムはそれを手に取ると丸めて地面に叩きつけた。
「ツトム!」
 僕は声を出した。
 その声と同時にツトムの頬に母親の手が素早く動いて音が鳴った。
「ツトム!何しちょっと!大事なお金なのよ」
 ツトムは打たれて赤くなった頬に触れることなくただ黙って肩を震わせて泣き出した。
「母ちゃん、もうこれしかツトムにできることが無いのよ・・それなのにツトムどうしてこんなことするの・・?」
 ツトムはゆっくりと泣き始めた。それを見ていた新穂先生が近寄ってツトムの肩に手を遣った。
 ツトムは腕を目におくと周囲を憚ること無く泣き始めた。
 先生が言った。
「お母さん、ツトム君寂しいのです。だってまだ少年ですから・・・。この前もお母さんのことで同級生の子にからかわれて大喧嘩になったのです」
 先生が優しくツトムの背を撫でた。
「そうよね?ツトム?」
 ツトムは頷いた。
「そうやっちゃ。やっぱさみしいっちゃ。母ちゃんが居ないのが辛いっちゃ。福岡なんて行かなくてまた昔のように父ちゃんと仲良く暮らしたいっちゃ」
 母親はそれを聞くとツトムを抱きしめた。
「知っていたのね、ツトム・・」
 抱きしめると、母親がツトムの頬を撫でた。
「御免ね、こんなお母さんで、御免ね・・」
 最後の方は声が湿っているのが分かった。
 もうそれ以上ツトムは何も言わなかった。
僕は黙ってツトムを見た。
 先生はツトムの事を「少年だ」と言ったけど、僕はツトムの心はきっと既に大人になっていて、決して母親が父親と元通りになって一緒に生活なんてできないと言うことを大人の理論で分かっているのだと理解した。
だからもうこれ以上何かを言って母親を困らせようとはせず、大人しく何も言わなかった。
ツトムは強い、僕は心の底から思った。泣いてももう心は立派な強い大人だった。
「ご両親方、もう宜しいでしょうか」
 館林先生の声がして僕達は先生を見た。
「今回の事はもとはと言えば私の娘が瓶に手紙を入れて川に流したことが原因です。もし誰かがこの手紙を拾えば、もしかしたら皆さんの息子さん達ではなく別のお子様がやはりここを目指して来たかもしれません。娘に代わって謝ります、大変申し訳ありません」
 頭を下げた先生に勝幸の父親が言った。
「先生、頭を上げて下さい。先生にはこの地域の者が誰も感謝をしています。こんな僻地ともいえる宮崎の田舎に東京のえらい有名な先生が来てくれて、我々の診察をしてくれているのですから。悪いのは本当にこのチビ達やっちゃから」
 勝彦の父親の言葉にそれぞれの両親達が頷く。
 勝幸の父親は息子を睨むと勝幸の耳を力一杯引っ張った。
痛ぇ!!と勝幸が叫ぶ。
「お父さん、もうそれくらいに」
 息子を見てふんと言うと父親は勝幸の耳から手を離した。耳がみるみる内に赤くなってゆく。
「それでどうでしょう」
 館林先生の声が響く。
「こんなことを言っては大変恐縮なのですが。ヒナコは勝幸君、勝彦君、夏生君にツトム君とお友達になれました。もしよければ夏休みの間、是非、こちらへできる限り遊びに来ていただくことはできないでしょうか」
 そう言った父親の背中からヒナコが顔を出して僕達を見てぺろりと舌を出した。
 そして微笑すると、向日葵の中に駆け出して行った。
 


結局のところ僕達の失踪事件と言うのは少年達が頬を真っ赤にはらして、突然終わりを告げた。それは本当に少年たちの無謀な旅の終わりにふさわしい光景と言うものだった。
(事件はここで終わり・・)
僕はチップスを取ろうと手を皿に伸ばした。
だからここで本来ならば小説を終わらせなければならないのだけど、そう思いながら僕はチップスを口に含んだ。
窓から風が入り、雲が流れてゆく。舐めたチップスの塩味が僕の舌を流れて消えた。
(妹はこの事件の結末を知りたいと言っていた)
 再びチップスに手を遣って口に含むと、僕はパソコンのキーボードを叩いて再び文字を打ち込んだ。


 翌日、僕達は勝幸の家の前に集まった。集まると暫くして勝幸の父親が軽バンで現れた。
「皆、車に乗らんね」
 僕達はその言葉で車に乗り込むと後は揺られて昨日まで僕達が旅した道をなぞる様に進んだ。
 昨日別れ際に館林先生が僕達の両親に言った。
「明日もまた来ていただけますか?」
 それに勝幸の父親が頭を撫でて言った。
「先生、本当にいいんですか?うちの息子らでお嬢さんのお友達なんてさせていただいて」
 先生は笑顔で言った。
「ええ勿論ですよ。是非また明日も」
 父親が顔掻きながら言った。
「そうですか。それなら暫くこの近くの工場で仕事がありますから、息子達と夏生君やツトム君を連れてきます」
「いや、ありがとうございます」
 先生が深く頭を下げた。
 その時ヒナコが言った。
「じゃぁ、また明日も来てくれるのガッチ」
 それで勝幸が顔を真っ赤にした。勝彦が兄の腕をつく。
「兄ちゃん、両親の公認じゃな」
「何が公認じゃ?」
 勝幸の父親が二人を見る。
「なんでもないがじゃ。父ちゃん」
 事情を知る僕とツトムは内心ほくそ笑んだ。
「ではまた明日」
 そう勝幸の父親が言うとそれぞれ僕達は家族と共に車に乗りこんだ。
その時ツトムの姿が目に映った。ツトムが祖父に連れられて行こうとするところを母親が呼び止めた。
何事か言うとツトムを母親が手を引いて連れて行く。
 僕はそんなツトムの背中を何気なしに見ていた。
 すると側に父親がやって来て言った。
「ツトム君も大変じゃな」
 僕は頷いた。
「夏生、ツトム君の両親が離婚したのは父親が都会に出稼ぎに行ったきりこっちへ戻ってこなくなったからじゃ」
 僕は父親が突然、ツトムの両親の離婚の原因を話し出したので驚いた。
「戻らなくなった原因は知らんが、ツトム君のお母さんにはツトム君の事で相談したいことが沢山あったらしい。しかし戻らないことで夫婦の間に次第に喧嘩が多くなり、それで溝が出来てしまった。福岡に行くのは・・・ここでは仕事がないからじゃ。離婚して仕事が無ければツトム君を育てることは出来んからな」
僕は父親の顔を見上げた。沈痛した面持ちをしている。
「夏生、家族は離ればなれになってはいかん。いつかは生死が家族を分かつこともあるじゃろう。じゃけんど、家族は決してその時まで離ればなれになってはいかん。家族は悲しみを生むもんじゃなく、いつまでもいつまでも肩を寄せ合いながら幸せを・・・喜びを生み育てていかないかんものなんじゃから」
 父親が僕を見て言った。
「きっと今夜は母親と一緒に過ごすんじゃろ」
 僕は母親に連れられてゆくツトムの背を見ていた。それはとても立派な大人の背に見えてとても頼もしく見えた。
「お前も早うツトム君の様に大人にならな駄目じゃ」
 僕は顎を引いた。
去ってゆくツトムの背を見る。
(きっと明日もツトムは元気に僕達の前に現れる。だってツトムは既に大人で強い男だから)
 そう思って僕は父親と一緒に車に乗り込んだ。



 館林先生の言葉に僕達は揺られて車で運ばれている。
何故かそう思いたくなった。
本来なら僕達は昨日のあの場所ですべてを終わりにして、もうあの向日葵の屋敷に行くこともできずにいるはずだったからだ。それを館林先生の言葉が繋いでいると、皆が言葉に出さないでいるけど感じている。言葉と言う長い縄跳びの上を僕達は一緒にはしゃぎながら飛んでいる、皆の表情に何となくその思いが出ている。
だからかもしれないけど時折聞こえるラジオ放送に耳を傾けることなく、僕達は揺れる車内で昨日怒られたことがまるで嘘のように陽気にはしゃいでいる。はしゃぐ僕達の声の塊のように車が夏の道を進んでいく。
勝幸の父親が溜息交じりにハンドルを握りながら、しかしどこか微笑を浮かべて少しラジオの音量を上げた。
音量が上げるにつれラジオから歌が流れて来た。
それにツトムが不意に笑いを止めて、耳を傾けて僕達に言った。
「これ?ブースターズじゃね?ほらブースターズの“サンフラワー”」
「ブースターズ?」
 勝彦が言う。
「何それ?」
 僕はツトムを見た。
「うん、皆知らん?これ、今人気のバンドの曲。少し前にさ、爺ちゃんが魚籠編みながらラジオ聞いててな。そこでこの曲が流れきて聴いていたんだ。この曲・・すっげぇ、良い曲だった」
「ふーーん」
 ツトムの言葉に長い相槌を打つ。
「じゃ少し聴いてみっか?」
 勝幸の言葉に頷いて、皆が座席にもたれて流れて来た曲を聞き始めた。
空に大きな雲が見えた。
その白い雲に歌詞がかかり、僕達の頭上を流れてゆく。


“♬
空に 月が昇り 
星が 流れて消えた
OH daring 今は まだ 夢中な子供のままで
あとすこし 夢を 見させて

君は 花を抱いて 
何も 言わずに消えた
OH daring 今も まだ 夢中な子供のままで
あの夏の 夢を 見ている

何が あっても 時は 流れる
それだけ 僕らが  大人になった
夢の続きは  あの日の日記の中
SO daring 二人で 夢を描こう 

あのながい夏の小路をあるく   
僕の側に君はいつもいてくれた

OH daring 今は まだ 夢中な子供のままで
あとすこし 夢を 見させて
OH daring 今も まだ 夢中な子供のままで
あの夏の 夢を 見ている


曲が終わると僕が呟いた。
「ツトムが言うように良い曲だね、これ。なんかすごくいい」
少し間を置いてツトムが言う。
「良いじゃろ?ナッちゃん」
 うんと僕が頷くと勝彦が同じように頷く。
「良い曲じゃ」
 勝幸が呟いて力強く言った。
すると何を思ったのか突然言った。
「よし、俺中学に行ったらバンドしてロックスターになる!!それでこんないい曲・・沢山歌ってやる!!」
「ええ!!」
 僕達が一斉に驚いて声を上げた。
「本気かガッチ?」
 ツトムが言う。
「おう、本気じゃ。今決めたんじゃ!!」
 言うや、車の窓を開けて急に空へ向かって歌いだした。
 それを見て皆唖然とした。
 ツトムが屈みこむと僕と勝彦に小声で言った。
「ガッチ・・・ヒナちゃんに恋でもしてるじゃろか・・それで少し頭がおかしくなったちゃない?」
僕は(そうかもしれない)と少しほくそ笑んだ。
勝彦が勝幸の頭を見て屈みこんで小さく僕等に言う。
「お兄じゃ無理じゃって・・だって・・だってさ・・」
 より小さく小声で
「いがぐり頭じゃもん・・ロックスターみたいに髪が長く生えるか保証なんてないし・・」
 そう言うと、僕達は一人空に向かって歌う勝幸を見ながら、深く頷いた。
 すると勝幸の父親が息子に怒声交じりに言った。
「うるさい!!勝幸!!ラジオの声が全く聞こえんじゃろが!!早よ、下手な歌止めて、窓を閉めろ!!」
 父親の声に舌打ちして勝幸が窓を閉めると、僕達に向き直り二ヒヒと声を立てて笑った。
 僕もツトムも勝彦も皆顔を合わせ(どうしようもないな)と、心で思って互いに顔を見合わせた。



車はやがて鳶ケ峰を抜け、昨日と同じように向日葵の庭の前に着いた。すると僕達が降りて車が去るのと同時にヒナコが家の中から現れた。
彼女は赤い外国の帽子を被って白いワンピースを着ていた。
その姿を見て僕達四人は思わず声を無くして、その場所に棒立ちになった。
「おはよう。皆さん!!」
 ヒナコが僕達に届く様に大きな声で話しかけるまで、僕達はまるで魔法にかかって動けなくなった石像のように車から降りた場所に固くなって突っ立っていた。
 勝彦が溜息交じりに口を開いた。
「綺麗じゃな・・ヒナちゃん」
 そう言って思わず口を覆った。兄が強面で弟を見ている。
「いや・・まったく」
 次にツトムが言った。
「ツトム!」
 勝幸がツトムの前に出て手を振ってツトムの視界からヒナコが消えるように手を激しく振っている。
「なんじゃ、ガッチ。邪魔じゃ、手をどかさんか」
その手をツトムが振り払いながら走り出した。それで皆が一斉にヒナコの方に走り出した。
「ちょ、ちょっと!!」
 そう言って遅れて勝幸が走り出す。
 一番に勝彦が着いた。
「かっちゃん、一番!二番はツトム君、三番はナッちゃん、最後はガッチ!」
 そう言って笑ってヒナコが僕達を見る。僕は息を切らせながら、ヒナコに言った。
「今日はヒナちゃん、綺麗だね。さっき僕達本当に見とれちゃった」
 それを聞いてヒナコが顔を赤らめたて僕の鼻先を指で弾いた。
「もう、ナッちゃんたら!嘘ばっかり言って」
 顔を紅潮させてヒナコが言う。被った帽子で顔を隠した。
「いや、本当やっちゃ。ひなちゃん、綺麗やっちゃよ」
 勝彦が言った。
 それにツトムが頷く。
「ガッチも?」
 勝幸が激しく上下に首を振った。
「嬉しい。皆がそう言ってくれるなんて。今夜、港町の油津で花火大会があるの。それにパパが連れてくれるっていうから、この服を着てみたの。これお母さんが作ったのよ。凄いでしょ」
「スゲェ!」
 皆が一斉に声を上げた。
「ねぇ皆も一緒に行く?油津の花火?」
 それを聞いて僕達は目を合わせた。
僕は人差し指を出す。僕の差し出した人差し指を勝彦が握って同じように人差し指を突き出すとその上を勝幸が握り同じように指を突き出し、最後にツトムが同じように握って突き出す。
「皆、どうする?」
 僕が聞いた。
「行かない?」
顔を勝幸に近づけて言う。
「俺は良っど」
ツトムが相槌を打つ。
「僕も綿菓子が食べたい」
勝彦が笑って顔を近づける。
「ガッチはどうする?まさか、行かないなんて言わないよね?ヒナちゃんの頼みを?」
僕が悪戯っぽく笑って言う。
「行くに決まっちょるじゃろ!ナッちゃん!」
「じゃ決まり!」
そう言って僕がしゃがむと皆しゃがんだ。
小さな手の塔になったそれを僕は下から空に向かって力任せに飛び上がりながら突き出した。
 僕達の指は一斉に空に放たれて消えた。
「勿論!ヒナちゃん、僕達行くよ!」 
僕はヒナコに向かって言った。
ヒナコが笑顔で僕達を見ている。
「じゃヒナちゃんもいれてもう一度!」
 そう言って再び僕の指の上に勝彦、勝幸とツトム、その上をヒナコが。
やがて皆で円を囲むように顔を近づけて一斉に空に向かって手を放った。
 放たれた指の先に青い空が見えて、僕達は一斉に笑った。



 夏休みは瞬く間に過ぎてゆく。
 少年時代の瞬く間、その流れゆく速さをどう例えよう。それは流れる雲を見ていても、その雲が空の彼方へたどり着いた時、いつちぎれてしまっているのが分からない程の速さに違いない。
いつも同じ太陽の下、変わらない友人達の笑顔がそうさせてしまうのかもしれない。少年時代と言うのは時間と言うのが全く感じられない不思議な時代と言うしかない。
もしそれが終わるとしたらきっとそれからの僕達の時間はものすごい速さで進んで行くだろう。
夏休み中、僕達は台風が来た日以外は殆どヒナコの家に遊びに行った。
行けば必ず母親のホットケーキを食べ、夕方になれば勝幸の父親の車に乗って帰る。それをずっと繰り返していた。
そんな天気が良いある日、僕達は向日葵の咲く庭に白い椅子とテーブルを置いて、皆腰を掛けてトランプでババ抜きをしていた。
僕はヒナコと手にしたトランプ越しに向き合いながら聞いた。
「ヒナちゃんは、将来何になりたいの?」
 ヒナコは僕の手のカードを睨みながら「うーん」と呟いた。彼女は今僕の手からババを引かない様、真剣ににらめっこ中だ。ふとした僕の質問にもはぐらかされない様真剣に見ている。
「えい!」
そう言ってトランプを引くと、すこし怪訝そうな顔をして、僕を睨み付けた。僕は知らん顔でツトムのトランプを引いた。
「そうね・・」
 そう言ってヒナコが勝彦にトランプを引かせようとしている。
「私・・将来・・花屋さんになりたい」
「花屋さん?」
 そう言って勝彦がトランプを引いた。
「うげぇ。ババじゃ」
 ふふとヒナコが笑う。
「ヒナちゃん、花屋になりたいの?」
「そう」
ヒナコが頷く。
「お庭にお花が咲いているでしょう?私病気だから外出できなくて・・それでお母さんがね、こんな私の為に庭に沢山季節のお花を植えてくれているの。それをね、ベッドから眺めていると気持ちが落ち着いてくるのよね、それで色んな想像が出来ちゃうんだ。楽しい想像がね。それだけで気持ちが弾んでくるの」
僕は話を聞きながらヒナコの瞳の奥底に眠る寂しさと将来に対する輝く希望を見た気がした。
見れば勝幸もツトムもトランプを抜きながら、ヒナコの話す言葉に耳を傾けていた。
「お花って不思議な力があると思う。落ち込んだ人、不幸な人、悲しい人・・・そんな人達を幸せにしてくれる力がね。そう思わない?ナッちゃん?」
「うん・・そうかもね」
 僕はそう言ってツトムが差し出したトランプを引いた。
「あ!」
 ツトムが口に手を当てて笑っていた。
「ババだ!」
 皆が僕を見て笑う。
「ナッちゃん、よそ見しちょっからじゃ!」
 勝彦が僕を指さして言う。
「あー、やられた!」
 僕は頭を掻いて、再びヒナコに向き合うとトランプを彼女に向けた。
「さぁ、ヒナちゃん。勝負!」
 僕はトランプ越しに笑うヒナコを見た。その時思いもしなかったが、それが僕が見たヒナコの最後の笑顔だった。



 二度目の大型の台風が接近しようとしていた。その日も僕達は勝幸の父親の車に乗り、屋敷へと向かった。
 風が強くなっており、窓から見える山の木々が時折大きくうねりながら揺れていた。
 途切れ途切れに聞こえるラジオの声で、台風は今夜夕方奄美諸島へ接近すると聞こえて、僕は今夜から台風が来るなと思った。
いつものように向日葵の庭に降りると激しく向日葵が揺れている。
それはとてもすごい光景だった。その時強い風が突然吹いて一輪の向日葵が空へと舞い上がり、屋敷の玄関へと飛んで行った。
舞い上がった向日葵はやがて空中で一回転して、僕達が良く見知っている人の足元に落ちた。
その人は落ちた向日葵を拾うと僕達の側にやって来た。
 僕はその人の名前を言った。
「新穂先生・・?」
 先生は寂しそうな顔をして僕達にやって来て、小さく微笑すると僕に向日葵を渡した。
その様子を見て立ち去ろうとした勝幸の父親が車を停めた。
「どうして先生、今日ここにおるんじゃ?」
 ツトムが言う。
「それにどこか疲れてるようじゃ」
 後に続いて勝彦が言った。
 その声に先生は大きな笑顔を作ったが、直ぐに寂しい表情に戻った。
「先生、たまにヒナコちゃんの所に来て勉強教えているのよ。だけどね、皆良く聞いてね。実はヒナちゃん、急に病気が悪くなって今朝早くに大きな病院へ行ったの。そこで検査を受けたのだけど病気が思った以上に悪くてね、そのまま東京の大きな病院へ入院することになったの」
 僕達はうねる風の音の為か先生の言う言葉が、車のラジオのように途切れ途切れにしか聞こえなかった。
「じゃ・・先生。ヒナちゃんはもうここには?」 
 僕の言葉に先生が頷いた。
「うん、もうここには・・」
 その言葉が終わらないうちに勝幸が叫んだ。
「嘘じゃ!先生」
 勝幸の声を風が切り裂こうとしている。
「秋になったら北郷のキャンプ場へ遊びに行く約束しとるんじゃ。それにまだ小学校の友達にも紹介しとらんし。サッカーの試合にも応援に来てもらわんと・・それに、まだちゃんと好きじゃと告白もしとらん!」
 勝幸の声は最後になると涙で湿っていた。
「勝幸・・それにツトム、夏生、勝彦君。良く聞いて。お別れは誰にでもある事なの。それは突然なの・・」
 そこで先生は涙を溜めて僕達のそれぞれの頭を撫でた。
「先生にも・・君達の中でも、お別れは突然来るのよ。それをしっかり、しっかり乗り越えて君達は強くなるのよ」
 僕達は唯呆然と先生の言葉を聞いた。手にした向日葵が風に揺れて頭から地面に落ちた。
 先生は皆の前に瓶を出した。それは僕達が川で拾った手紙と向日葵の種の入った瓶だった。
「これ・・誰か貰ってくれる?」
 先生の言葉に誰も顔を上げることができなかった。皆悲しくて頭を上げれなかった。
「勝幸?どう?」
 先生の言葉に首を強く横に振った。ヒナコは勝幸の初恋だったのかもしれない。先生の言葉に唇を噛んで首を横に振るのが精一杯だった。
「ツトム・・勝彦君は?」
 二人はしっかりと先生の目を見て同じように首を横に振った。
「そう・・じゃ夏生。君が貰いなさい」
 僕は「え?」と言う表情をした。
「で、でも・・」
「貰いなさい。あなた女の子の気持ちを分からんと?めそめそしとらんと、ちゃんとしっかり受け止めなさい」
 そう言って先生が僕の胸に瓶を押し当てた。僕はなんだか理由がわからず、驚きを隠せないまま受け取った。
 先生が皆の背を触り、頷くようにしてから皆の肩を囲むように手を伸ばして言った。
「皆、顔を上げなさい。良く聞いて。『ヒナコちゃん皆とお友達になれて幸せだった』って」
 先生がそこで涙をぽろぽろと流し始めた。
「『元気で』って」
 先生は両手で顔を覆った 
「『元気で居れば、また会えるって、世界中どこに居ても』」
 もう僕達は彼女についてはそれ以上何も言うことは無く、唯、じっとそこで先生が泣き止むのを待っていた。
 先生が泣き止むと、勝幸の父親が車から降りてきて僕達に声をかけた。
「皆、家に帰っど」
 その声は荒々しくなく、とても優しかった。



 僕達を乗せた車がヒナコの家を去った後、ドアを開けてヒナコの母親が出て来た。台風の雲が一瞬途切れ、風もやみ、透き通るような青い空が見えた。
彼女は従姉妹の側にそっと寄り添った。 
「良いの?これで?ちゃんと・・最後のお別れをさせてあげなくて」
 先生は頷いた。
「御免ね。ヒナコの為に、こんな悲しい事させて」
 母親が言った。
「良いのよ。愛子さん。あの子達にはこのお別れは突然で悲しいことかもしれないけど・・この終わり方が良いの。あまりにも大きな悲しみは、時に霧のように隠してしまったほうが良い・・・、いずれそれを忘れるくらいの時間が過ぎたころには霧も晴れて彼らがその真実に届くことでしょう。その時きっと彼らはこの悲しみに耐えるぐらいの強い人間になっている。私はそう信じている」
「強くなるかな?あの子達」
母親が問いかける。
「なるよ!」
先生が大きな声で言った。
「だって私の教え子だもの」
「先生が居なくなっても?」
 一瞬、新穂先生の顔が曇ったが空に向かって言った。
「大丈夫。だってヒナコちゃんに会うため勇気を出して困難に立ち向かった子達だもの。私が居なくなっても、きっと大丈夫」
 そう言って新穂先生は従姉妹を促してドアへと向かった。
「愛子さん、沢山の向日葵を刈って部屋を飾りましょう。ヒナちゃんの笑顔の側に。私達に今できるのはそれだけしかないから」



 夏休みが終わり、新学期が始まった。
 僕達はもう彼女については何も言わなかった。
一つは勝幸の気持ちを思い憚ったこと、それと彼女が居なくなった事実をきちんと知りたくないということから目を背けたかったからかもしれない。
彼女を思えばあまりにも突然に僕達の前に現れ、そして去った。
新学期のチャイムが鳴って僕達は一斉に席に着いた。後ろを見渡すとツトムが居た。勝幸もいる。奥の方で頬に絆創膏を張ったゲン太も居た。
チャイムが鳴り終わり新穂先生が現れるのを待った。
先生とはヒナコの家で別れてから一週間しか経っていなかった。
やがて教室のドアが開いた。
委員長が「起立」と言った。一斉に皆が立ち上がると、一瞬、しんとなった。
そこには新穂先生の姿が無かったからだ。代わりに初老の眼鏡をかけた婦人が居て、その後ろに教頭先生が居たからだ。
僕達は一瞬の沈黙の後、ざわつき始めた。
(新穂先生は・・?)
 僕は心の中で先生の姿を探した。
「皆さん、静かに」
 僕達のざわつきを押さえるように教頭が言った。
「新穂先生は、ご結婚の為、学校を退職されました。こちらは後任の小村先生です。今日から君達の担任になります」
 教頭の言葉が終わらないうちに再び、皆がざわつき始めた。
 僕は目の前が真っ暗になった。数歩ふらつくと無意識のうちにその暗闇をかき分けるように教室を駆け出して廊下へ走り出した。
 ただただその暗闇が僕を覆わないように、その先の光を見つけ出したくて僕は走り出した。
「ナッちゃん!」
 ツトムが言った。
(こんなことって!)
 僕は心の中で走り出した。
(こんなことってあるのか!先生が僕達に何も言わず出て行くなんて!)
「あ!」
 僕は廊下で躓いて思いっきり倒れた。僕はそのままその場で蹲り、声も無く泣き出した。
 泣き出した僕の身体に誰かが覆いかぶさって来た。
ツトムだった。
「ナッちゃん。泣くんじゃない。悲しくても泣くんじゃないっちゃ」
 ツトムが言った。
「ツトム!」
 僕はそう言って覆いかぶさったツトムの背中に手をまわした。ツトムが強く僕を抱きしめる。
「ナッちゃん、帰ろうっちゃ。教室へ。僕達はこれから沢山の別れをこれからも経験していくっちゃ。だから先生は僕達に強くなってほしくて何も言わずに僕達にお別れしたっちゃ。そうにきまっちょる!」
 ツトムもお母さんと別れた。勝幸も初恋のヒナコと別れた。僕は大好きな先生と別れ、やがて皆には言っていないけれどやがて大阪へと去ってゆく。
 一体どれだけの別れがあれば僕達は強くなれるのだろう。
 僕の身体に誰かが触れた。
 勝幸だった。何も言わず、僕の顔を見て笑った。
「うん」
僕はそう言って、ゆっくりと立ち上がると教室へと向かって歩き出した。
その時、誰かが渡り廊下から校庭の方を見て指さして叫んだ。
「先生じゃ。新穂先生じゃ!先生があそこにおっど!」
 教室の皆がその声にひきこまれるように集まってゆく。
 僕もツトムと勝幸と顔を見合わせて走り出した。
「先生!先生!」
渡り廊下に出て同級生の女の子達が叫ぶところまで来ると僕達は先生の姿を探した。
 先生の姿は校庭の真ん中に在ってこちらを見ていた。
教室の皆がそろうと先生が手を振った。それは大きくゆっくりと三回振った。
誰かが遠くに見える先生に大きな声で言った。
「先生、結婚おめでとう!」
 僕達は一斉に言った。
「おめでとう!先生。おめでとう!」
 皆の声が湿っている。皆が悲しみをこらえて声を湿らせていた。
 僕は渡り廊下から身を乗り出して、声を大きく言った。
「先生!元気で!元気で居ればまた会えるから!」
 その声に先生は確かに振り向いた。しかし手は振らなかった。
 でも僕には見えた。
 先生は僕の声に頷いて、大きく笑ったのを。



 季節は変わり秋になった。
僕達はその日、秋季サッカー大会に出ていた。
 試合は相手のエースにハットトリックをされて完膚なきまで叩きのまされた。最後の選手の整列が終わると僕は悔しくて地面を強く蹴った。
僕は故郷でするべきことが全て終わったのを感じた。
履いたスパイクが重く、僕は何も言えなかった。この頃になると皆は僕が町を離れ大阪へ行くことは知っていた。
事実僕は明日大阪へ向かう。
「ナッちゃん」
 勝彦が僕に声かけ来た。
「負けたね」
 うんと言った。
「皆と最後の試合だったから勝ちたかったけど、負けちゃった」
 ツトムが僕の肩を叩いた。
「また、宮崎に帰ってきたらしよっちゃ、サッカー」
 僕は頷く。するとツトムが真新なサッカーボールを出した。するとボールをポンポンと叩いた。
「ほら、ここに皆でナッちゃんへコメントいれよう」
 そう言うとツトムがマジックで言葉を書いた。それを皮切りに試合に出た皆が次々にコメントを書いていく。
 最後に勝幸が書いた。
 じっと僕を見てそれを渡す。
「ナッちゃん、泣くんじゃないっちゃ。もう泣いたらいかん」
 そう言いながら笑うと勝幸は下を向く。
 ボールを受け取りながら僕は皆の顔を見た。
僕を見る皆のユニフォームが泥で汚れていた。その泥と汚れは今日が僕とのラストゲームだと知っていたから誰もが力を抜くことなく戦った証だ。
僕は満足した表情で空を見ながら言った。
「うん、また僕はここに帰って来るよ。それで皆と戦う。だから僕はそれまで大阪で頑張って強くなるよ。強くなって、皆に負けないくらいの大人になってまたここに帰って来る」
「本当か?」
 ツトムが少し茶目っ気ぎみに言う。
「おう!」
 そう言うと皆が一斉の僕の頭を叩きだした。
やがて叩く音が集まって僕を囲むとやがて輪になった。
 自然と円陣を組むと、僕は言った。
「頑張れよ、皆!次は負けんなよ!!絶対約束だそ!!さよなら!皆元気で!」
 皆が一斉におう!と言って円陣を崩した。それぞれの顔は皆からりとしていて莞爾とした笑顔だった。
 だれも別れの寂しさなどみじんも感じさせなかった。
 やがてそんな僕達の側に監督がやって来て言った。
「写真を撮ろう。試合には負けたけど、明日勝つための記念に」



 駅舎にこれほどの人が集まるのかというぐらい僕達家族の旅立ちに人が集まってくれていた。
 父親も母親も別れに来てくれた人達に挨拶をしている。
 僕はその中にある人を見つけた。それは僕達が駆け込んだ慈恵寺の和尚だった。
僕は側に駆け寄ると頭を下げた。
「いや、噂で聞いてな。君達が大阪に行くっちゅうて」
 僕は頷いた。
「そうか、じゃ寂しくなるな。でも寂しくても歯を食いしばって頑張らな駄目じゃぞ。お前は何といってもこの太陽の降り注ぐ日南児やっちゃ」 
 そう言って和尚が僕に小さな紙切れを手渡した。
「これは?」僕は和尚に聞いた。
「これか?これは館林先生の東京の住所じゃ。ひょっとすっと君が大きくなれば先生を訪ねることもあるかと思ってな。ヒナコから聞いたんじゃが、君は将来医者になりたいそうじゃな」
 僕はうんと言った
「たくさん勉強して、館林先生のようになってまたここに戻ってきたいと思います」
「そうか」
 その声を聞くと同時に駅員が僕達家族に言った。
「宮崎行きの電車が来ます」
 皆が振り返った。
「あとそれから広渡川鉄橋に来たら進行方向左側の窓を開けてください。そちらから見る故郷の風景は今日天気も良くて綺麗でしょうから」
 そう言うと駅員は帽子を目深く被って和尚へにこりと笑ってお辞儀した。その和尚へ父親が近寄り深々と頭を下げた。
夏の失踪事件で迷惑をかけたことを謝ったのだと僕は思った。
電車に乗り込むと窓から沢山の人の顔が見えた。
友達を探したが今日は平日だ。だから学校がある。同級生は誰も来ていなかった。
 僕の座った窓を叩く音が聞こえた。勝幸兄弟の母親だった。
僕は窓を開けた。
「ナッちゃん。大阪に行っても元気でね。昨日も夜、息子達に行かせたかったのだけどあの子達ずっと風呂を沸かす焚火前から離れなくてね・・ごめんね。一番の仲良しなのに」
 僕は首を振った。
「いいんです。おばさん。勝幸君、勝彦君によろしく言って下さい」
 うんと勝幸の母親が言う声が聞こえたと同時に電車が動き出した。
窓から見える多くの人が手を振っている。
僕はその人達に向かって手を振った。やがてその手を振る人達の姿が見えなくなった。
僕は席に深く腰かけて肘を窓に着いた。
その姿を見て母親が僕に言った。
「夏生、また帰れるかな?」
 僕はうんと頷いた。すると妹が僕を見た。
「兄ちゃん、泣いちょるん?」
「泣いとらん」
僕は妹を睨んだ。
「こら、喧嘩すんじゃねぇ。もうすぐ鉄橋じゃ。これで故郷は暫く見納めじゃぞ、夏生」
 父親の言葉で僕は窓を見た。遠くになだらかな丘にも似た堤防が見えた。
 川に陽が煌いている。
僕達が彼女の手紙を拾った川は今日も何事も無く静かに流れている。
(さようなら・・皆、そして故郷・・)
 そう思って僕は駅員が言った言葉を思い出して左側の窓を開けた。
 流れて行く風の音。
 その時、僕は遠くで自分を呼ぶ声を確かに流れる風の中に聞いた。
 母親もその声に気付いたらしく、窓から顔を出した。
「夏生!」
 母親が叫んだ。
 僕は身体からできるだけ身体を伸ばして電車の先頭を見た。
 僕は思わず目を疑った。
 そこには勝幸、勝彦、そしてツトムが向日葵を持って、鉄橋の側に接地された小さな渡り場所でこちらを見て叫んでいたからだ。
横には鉄道の駅員が立っていた。
僕は迫り来る皆の姿を見て大きく叫んだ。何を言ったか分からなかった。声にならなかった。
「ナッちゃん、向日葵じゃ!ヒナちゃんの瓶の種の向日葵を昨晩風呂前で咲かせたとよ!」
勝彦の大きな声が聞こえた。
「さよなら!さよなら!」
ツトムが言って大きく手を振った。
「また会おう、ナッちゃん。また・・・・絶対に!」
 勝幸はそう言って向日葵を手にした腕を伸ばした。
 僕はそれを過ぎ行こうとする電車の窓から精一杯手を伸ばして手に取った。
すれ違いざまに勝幸が叫ぶように言った。
「泣くな!泣くな!」
「君こそ!」
 僕はそれでもう言葉が出なくなった。
 ただ唯、手を振り続けた。
 手を振る皆の後ろで駅員が敬礼すると電車はやがてトンネルに入って行った。
 僕は静かに窓を閉めた。
 トンネルの暗い中を静かに電車が進んで行く。
 揺られて行くうちに僕は涙が抑えられなくなり肩を振るわしてやがて声を出して手で顔を覆って泣いた。 
 そんな僕を父親が肩に手をまわすと優しく抱きしめて言った。
「すまんな。夏生。お前には大変つらい思いをさせてしまって。だけどな・・今はお前には分からないことかもしれないが、いつかお前も大人になればこの別れの意味がわかる時が来る」
父親の声が湿っている。僕は何も言うことなく父親の言葉をただ黙って聞くだけだった。
「実は慈恵寺の和尚が駅長に話をしてくれたんじゃ。鉄橋で子供達に別れをさせてやってほしいと。昔な、戦争のころ戦地に行く人を送り出す家族が貧しくて駅の切符が買えないことがあった。その時あの鉄橋でお別れをさせたことがあってな・・」
 言うと力一杯僕を抱きしめた。
「父さんができっのは、それを和尚に話して駅長にその時の様にしてほしいとお願いして頼んでもらい、お前に友達との最後の別れをさせてやること・・・それしか、できんかった。和尚は有名な人じゃからやってくれたんじゃ・・」
 僕は鼻をすすった。
「ありがとう、父さん」
「夏生・・」
 僕の背を父親の太い掌が何度も何度も摩った。
僕が握る向日葵を妹が触りながら母親に言った。
「向日葵って秋に咲くの?」
 母親は首を振った。
「咲かないのよ。でもね、皆が一生懸命奇跡を起こしたのね、お兄ちゃんの為に」
「ふーん」そう言って向日葵から手を離した。
「夏生。あなた本当にいい友達に出会えたわね」 
 僕は力強く頷いた。涙を拭くと父親に「もう、大丈夫」と言った。
 目は赤く腫れていたかもしれないが、もう泣くことは無かった。父親を心配させまいと僕は精一杯笑顔を向けた。


 花瓶に入れた向日葵の花弁がゴッホの描いたアルルの向日葵の絵の上にひらりと落ちた。僕はそれを拾うと日記の最後のページに挟み、静かに画集と日記を閉じた。
大阪の街に夜が来ている。所々に電灯が点灯し始めているのが窓から見えた。
(明日、妹の病室に行こう)
 僕はそう思ってパソコンの電源を落とした。僕の夏の失踪事件はその結末も自分が知っていることは書き残すことは無く、終わった。
 向日葵の少女のその後については、結局誰も知らなかった。あの仲間の中で唯一僕が彼女との連絡ができる立場に居たが、途中で医者になる夢を捨てたのもあって東京の館林先生を訪ねることは無かったし、また手紙を出すことも無かった。
 それに何故か彼女の将来について聞くには何か憚るような感じがあったからだ。
(病気が彼女の命を奪っているかもしれない)
 そう、暗く思う部分があったのが正直な気持ちだった。
夏のひと月がこの小説の為に過ぎたかもしれない。休みの週末は時間のある限りパソコンのキーボードを叩いた。
その作業も今日で終わった。
 僕は暮れ行く大阪の街を眺めながらその後の皆の事を思った。
 仲間の事を思い出すのは久しい。
 勝幸はその後、福岡に出てロックバンドを結成した。いがぐり頭であった過去等、皆無のような縦に真っ直ぐに伸びたツンツン頭でエレキギターをかき鳴らしていると聞いている。
 勝彦はお菓子好きを生かしてパティシエを目指していたが、どこで道を変えたのか今は普通の公務員として生活している。
 ツトムはその後、甲子園へ出た。それもあのゲン太とバッテリーを組み、準決勝まで進んだ。その後は東京に出て会社員をしていると聞いている。
 でも今ではもう彼等との交流は久しく絶えている。
大人になるとそう言うものなのかもしれない。
 僕は改めて小説を書いてそう思った。
(そう思うと少年時代と言うのは人生において本当に奇跡のような時間だ)
僕は手元に寄せた瓶を振った。中で向日葵の種の音がした。
(待てよ・・ひょっとすると、できるのかな)
僕は急に何かを思いついて靴を履くと、この前向日葵を買った花屋に向かい、店の奥に居る若い女性店員を見つけて声をかけた。
「ねぇ・・・ちょっと聞きたいのだけど」
 店員が僕の方を見た。
「何でしょう?」
「いや実はね・・聞きたいのだけど。これ長い間瓶の中に入っていた向日葵の種だけど・・」
「はい・・」
「これって今土に蒔いたら咲くのかな?」
 僕の質問があまりにも突拍子がないものだったのか、口をぽかんと開けて僕を見た。
「どう?分かるかな?」
 やがて僕の顔を見て笑い出した。
「さぁそれはどうか・・それどれくらい前の種ですか?」
「これ・・・?うーん。二十年かな?」
 店員が笑う。
「じゃ・・難しいでしょうね」
「やはり・・ね」
 僕はここで冷静になって息を吐いた。
「でも、うちのオーナーならできるかも」
「かも?」
「ええ。うちのオーナー何でも子供の頃瓶に入れて向日葵の種を海に流したことがあるらしいんです。それでその時の種を今でも思い出として大事にしていて」
「種だけを?」
「あ・・・手紙もとか言ってたかな?ほら、聞いたこと無いです?ボトルメールとかメッセージとかいうやつ」
「うん・・聞いたことはある」
「それで最近、その時の種をふと土に蒔いたら向日葵が咲いたっていったから」
 驚いて僕は言った。
「すごいね、君のオーナー。今いるのかな?」
「いますけどね。あ、でもね。ちょっと伺いますけど。うちのオーナー美人なんですよね。最近も変な人が来てストーカじゃないかと心配してるんです」
 そう言うと店員が僕をじっと見た。
「まさか?違いますよね?」
 僕は大慌てで手を振った。
「違う!違う!僕は唯の人だよ」
 ふーんと言うような顔して店員がじろりと僕を見る。
「信じてもらえない?」
 僕の顔をしばらく見てから店員が言った。
「まぁ大丈夫そうに見えるし、良いかな。じゃ、オーナー呼んできますよ」
 そう言って店員が店の奥に声をかけた。
「オーナー、ねぇオーナー」
 店員が呼ぶ声を聞きながら瓶を振って向日葵の種を振る。
(へぇ・・子供の頃って皆同じこと考えるものなんだな)
 そう思った時、
「ヒナコさん!」
 店員が呼んだ名前に思わず僕は思わず(えっ!)と叫んだ。
 慌てて店員に声かける。
「君、オーナーってヒナコさんと言うの?」
「そうよ。お知り合い?」
僕は首を半分かしげて言った。
「いや、多分知らないと思うけど、オーナーってどちらの人?」
「さぁね。ご自分で聞いてみたら?」
 店員が言った。
店の奥に入るのと入れ違いに奥から女性が出て来て、小さく店員と言葉を交わした。
女性の手には数本の向日葵が握られていて、その姿を僕が見た時、にこりと微笑した。
「二十年昔の向日葵の種を咲かせられるか、ですか?」
 やがて女性は僕の前に姿を現した。僕が手にした瓶を手にすると、何かを思い出したように言った。
「私もこれと同じものを持っていますよ。手紙と向日葵の種の入った瓶」
 僕は言った。
「それは・・拾ったものですか?」
 彼女はそれに答えず、僕の顔を見た。
「東京に居た頃、良く手紙と一緒に向日葵の種を瓶に入れて海へ流し、どこに届くのかなと空想して遊んだものです」
「そうですか」
「ええ、本当なら手紙だけでいいですけど・・漂着した瓶を拾った人が、手紙を読むだけなんてなんか寂しいので・・」
 軽く肩をすくめると、小さく舌を出した。
「色んな国で向日葵を咲かせてくれたらいいなぁと。それで一緒に咲かせ方も手書きで書いて流しましたけどね」
 彼女がくすりと笑う。
 僕も笑いながら言った。
「どうして向日葵を?」
「さぁ・・どうしてかな。何となく向日葵って元気にしてくれません?ほら・・見る人の心を?」
 手にした向日葵を見つめて微笑む。
「そうですね。確かに」
 僕は頷いた。 
「さぁもし良ければ中に入られませんか?丁度私が咲かせた向日葵が一輪あるのです。奇跡の一輪です。もしよければその種をお借りしても?もしかしたら、向日葵を咲かせることができるかもしれませんから」
 僕は瓶を握りしめて彼女に言った。
「分かりました。もし咲いたら電話を頂けます?」
 店にある紙とペンを取って自分の名前と電話番号を書いた。
それを彼女に渡した。
「では、中へ」
 僕はそう言って店の奥へ入ろうとした時、彼女が言った。
「ナツオ・・さん?」
 僕は振り返った。僕が渡した紙から目を離して彼女がこちらを見ている。
「失礼ですが、ナツオさんはどちらのかたですか?」
 僕はそれには答えず、にこりとして言った。
「その瓶を僕は少年の頃、拾ったのです。宮崎のとても小さな川で。それはゆらゆらと揺られて夏を過ごす僕達の小さな網に引っ掛かったのです。それを拾った僕達はやがて旅に出たのです。それは・・」
僕はそこで言葉を切った。
「向日葵を探す、そう、向日葵を探す旅でした。それはとても美しい出来事でした」
「そうでしたか」
 彼女はそう言うと僕を見た。
「私も遠い記憶でそんなことがあったような気がします。父は医者で日本中いろんなところを転勤していましたから」
 彼女はそれ以上何も言わなかった。
「とても古い昔の思い出です」
「そうですね。僕も古い記憶です。お互いですね」
 彼女は微笑して頷いた。
 その微笑の意味と答えを僕は探すかどうか、しかし僕はそんなことを考えることはやめて彼女が咲かせたという一輪の向日葵を見た。
彼女が僕を見ている。
それだけで僕は何故か答えを知ったような気がした。
それで満足だった。
それは僕がこの失踪事件について隠すべき秘密が全て無くなったことを意味した。
後は妹の待つ病室へ、僕の書きあげたばかりの小説を届けるだけだ。
そこで
「兄さん、向日葵の少女に会えたの?」
と、妹に聞かれたら、僕は
「あの奇跡の向日葵がもう一度咲いたら分るよ」
と、言うに違いない。
 僕は目を伏せると、彼女が咲かせた一輪の奇跡の向日葵に静かに触れた。やがて黄色い花弁から僕の指が離れると、どこからか声がした。
それは「ナッちゃん」と僕を呼ぶあの向日葵の少女の声だった。

向日葵を探しに

向日葵を探しに

妹の病室を訪れた僕は、不意に「小説を書かないか?」と言われる。それは妹が知らない少年の頃の僕と仲間が引き起こした夏の失踪事件についてだった。その失踪事件は、懐かしい故郷の九州宮崎南部の町で仲間と過ごした少年時代の夏の切ない思い出。---そう、今でも瞼を閉じれば思い出す。美しい故郷の川を流れて来た小さなボトルメール。それを拾った僕達はやがて、それぞれの悩みを抱えながらもそのある少女に会う為に冒険に出る。それはもう戻ることのできない夏に咲く輝く向日葵を探す、少年の頃のあまりにも無謀な冒険の旅だった。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-11-15

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