ドーリー・ロット・ドリーム

1

 私は、ひどく矛盾した人間だと思う。
 丹鳳家の娘として――すでに苔が生えたような朽ち果てた家名を守りたい両親のもとに産まれてた時点で、自分の運命は決まっていた。丹鳳家のために生きて、親に決められた結婚をして、子どもを産んで、子どもにもそういう生き方が幸せなのだと教えて、老いて死んでいく。私の人生はそういうものだと思っていた。操り人形も同然。何も変わらない、変えられない、そもそも他の生き方を選びようがない。もしかしたら昔は、両親に逆らってやろうとか、自分らしく生きようとしたこともあったかもしれないけど――結局十七歳の私は、敷かれたレールの上を淡々と歩いている。
 でも、そんな風に思っていても――あるいは諦めていても。心のどこかでは待ち望んでいた。赤い糸で結ばれた運命の人を、御伽噺のように白馬に乗って迎えに来る王子様を。
 これを、矛盾以外の何と言うだろう。
 夜道を走る車の窓には、私の顔が映っている。気品ある優雅な微笑みの浮かべ方も、見る者を惹き付けるような笑い方も、心の内を悟らせない澄ました表情も、すべて叩き込まれて表情筋の一つひとつに記憶させられているはずだ。でも、嬉しさと幸せで満ち足りたような、こんな表情をしている私を初めて見た。
「……ほのり」
 疲れていないか、と、長い指先が労わるように私の頬を辿っていく。
 私の名前はこんな響きをしていただろうかと思うくらい、甘くて優しい三文字が鼓膜を震わせた。私はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、大丈夫です。先生」
「ならよかった」
 先生の宝石みたいな赤い目が穏やかに笑い、大きな手のひらがゆっくりと私の髪を撫でる。
 車は滑らかに私たちを乗せてどこかに向かっていた。目的地は知らない。でも、先生と一緒ならどこでもいいと思った。あの家以外の場所なら、どこでもいい。
 車の振動と、先生に撫でられる感触が心地よくて私はいつの間にか目を閉じていた。

2

 両親は、『名家の娘は皆通っているから』という理由だけで、有名私立女子校に私を入学させた。世間一般的な学校とは比べ物にならないくらいかかるはずの莫大な諸費用が一体どこから出ていたのか、私は知らない。「とにかく卒業しなさい、それだけで価値がある学校だから」と両親は言っていた。そんなことをしても、家運はとっくの昔に傾いているというのに、――否、だからこそ箔を付けたかったのか。
 入学してくるのは老舗大企業の御令嬢、家元の娘の他、名家や旧家と呼ばれる出身ばかり。彼女たちは自分の名字にプライドを持ち、表向きはにこやかな笑顔を浮かべながら、裏では熾烈な派閥争いと牽制を続けていた。落ちぶれた家の娘の私などこの学校に相応しくないと、露骨に態度に出す子もいた。母親に躾けられた通りかわすと、それはそれでやっかみを買った。そんな学校生活自体に楽しみなどなかった。
 本を読んでいる時だけが、唯一、そういう何もかもを忘れられた。
 現実は日々家のための人生を強いられ、クラスでは四面楚歌状態でも――本の中でなら主人公になれた。素敵な男性に心を寄せられることも、相思相愛の人とハッピーエンドを迎えることも、広い世界に向かって行くことも、魔法を使うことだってできた。
 中でも私のお気に入りが、先生が翻訳した本である。
 先生の文章はいつだって自然に、私を物語の世界に引き込んでくれた。以前、模試に原文が載っていたことがあったが、解答として訳されたものは全くもって味気なかった。何故、先生が訳するだけで〈夕焼けの感傷は恋に似ている〉なんて素敵な文章になるのかと、感動さえしたくらいだ。
 先生の、硬質的なのに柔らかい光を灯した双眸に見つめられたいと、ひんやりとした手に導かれたいと思ったのはいつからだろう。憧れの先生という思慕が、ただの女から男への恋情に変わったのはいつからだろう。
 でも、もしかしたら私は、最初からそうだったのかもしれない。だって、先生の文章はいつも連れだしてくれた、息苦しい現実から素敵な本の世界へ。――だから私そのものも、同じように別の世界に連れだしてくれるんじゃないかと、淡い期待を抱いていたのかもしれない。
 例えば、外に。
 丹鳳なんて名字の要らない、レールなんて敷かれていない、世界に。
「先生、――フレイ先生」
 こうして名前を呼ぶという行為にさえ、最近はひどく緊張する。心臓が大きく跳ねて、全身が熱くなる。先生はとても聡い人だから、変に思われやしないかと気が気でなかった。本心を隠す表情作りなんて容易なはずなのに、うまくできている自信がない。
 先生は、月明かりで分厚い本を読んでいた。たまにかけるのだという眼鏡の奥の瞳が、私を捉えた瞬間柔らかくなった気がした。
 今日は月が綺麗な夜だ。
 私は気付かれないように深呼吸を一つして、ゆっくりと口を開いた。
「……先生。以前、仰いましたよね。I love youを夏目漱石が『月が綺麗』と訳したとしても、『君を愛している』と訳すと」
 私がそう言うと、先生は静かに呼んでいた本を閉じた。眼鏡をその上に置くと、私に向き直って言った。
「ああ、確かにそう伝えた」
 心臓の音がうるさすぎて、先生に聞こえやしないかと変な心配をする。
 自分の気持ちを、自分の言葉で相手に伝えるということは――こんなにも緊張することなのだろうか。はじめて知った。だって今まで、そんな機会なかったから。
 奥ゆかしさとか、情緒だとか、侘び寂びだとか、をかしだとか、もののあはれだとか、そんなもの――きっとこの感情の前には無意味なのだ。好きも愛しているもそのまま伝えたい。あなたを想う気持ちのまま。
「きっと、私も訳せと問われたらそう訳すでしょう。だから言わせてください。……先生が、フレイ先生のことが――」
 言わせてくださいと言っておきながら、たぶん、言えてはいなかった。だってその前に先生の唇で塞がれてしまったから。
 それはどれくらいの時間だっただろう。実際は数秒程度だろうに、私には永遠のように感じられた。

3

 目が覚めると、そこは知らない場所だった。
 私が座っていたのは高級車のふかふかの座席ではなく、木製の長椅子。それは中央の通路の向かい側にも同じく等間隔で設置されていた。真正面には、元は真っ赤だったであろう布が被せられた祭壇。壁には十字架とキリスト像。人工的な明かりがないのに室内が視認できるのは、ステンドグラスや窓から差し込む月光のおかげだろう。
 ここがどこかの教会であること、そして長いこと使われていないことは察しがついた。
 先生は、祭壇の前に静かに立っていた。私が呼びかけるとゆっくりと振り返る。
「愛らしく眠る君を起こすのは忍びなくてね、そっと連れて来たんだ。すまない」
「い、いえ……あの、ここは」
「本来ならもっとちゃんとしたところで、然るべき手順を踏んで挙げるべきなのは重々承知しているが。……そうだな、取り急ぎといったところだろうか」
「取り急ぎ?」
 私が首を傾げながらオウム返しに問うと、先生は私の髪を撫でた。そしてその指先は頬の輪郭を辿り、そして、唇をなぞる。
 心臓が、大きな音を立てた。
「私はね、ほのり。もし、運命というものがあるなら――いや、違うな。あるからこそ、私と君が今ここにいると思っているよ」
「……うんめい」
 私は繰り返すように小さく、呟いた。
 没落した名家の娘であり、一応婚約者(といっても知っているのは名前だけだが)もいた身である。生き方も、人生も、すべて用意されてしまっていた。だからこそ、そこから連れ出してくれる人が現れるのを待っていた。
 でも、そうでないとしたら。
 先生が私を連れ出してくれる――否、先生とこうして一緒にいる、それすらも定められていたなら。
「私は翻訳家だ。素晴らしい小説家たちが書いた本がなければ、私は物語を見せられない。……けれど、ほのりにならいくらでも見せてあげよう。君の読みたい物語を、いつだって」
 まるで物語を読み聞かせるように、先生が続ける。
 心臓は相変わらず大音量で激しく鼓動し続けていたが、先生の穏やかな声音は、優しく鼓膜を震わせた。
「君は自分のことをマリオネットだと揶揄したことがあったが、それは違う。ほのりは一人の少女であり、女性だ。だから、君は選ぶことが出来る」
 教会。
 祭壇の前にいる男と女。
 そこにたとえ司祭も牧師も神父もいなくても、着ている服が普段着でも、――それを連想させるには十分すぎる。
「ぜひ、読ませてください先生。私だけに」
「もちろん、君が望むなら。永遠に」
 結婚式での誓いの言葉は神様との約束を意味するらしい。
 ならこれは、私と先生の約束だ。
 祝福の鐘は鳴らない。見届ける人も、誰もいない。反故にしようと思えば簡単にできる口約束に過ぎないとしても、例え今はそうだとしても、私も先生も決してしない。
 唇が触れ合う、重なり合う。この甘く優しい熱が、その証だ。

ドーリー・ロット・ドリーム

ドーリー・ロット・ドリーム

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-11-13

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