死体


 いつから墓を作らなくなったのか。
 思い出そうと、彼女は記憶を探る。

 墓を作る行為そのものについて、彼女には何の感慨も無い。ただ作っただけであった。
 何がしかの感情に基づいて起こした行動だった気もするけど、それがどんな感情だったのかは終ぞ解らないままだ。

 初めて作ったのは、ダンゴムシの墓だった。
 てきとうに掘った土の中に、葉でくるんだその死体を入れる。土を元通りに掛けて、その上にやはりてきとうな石を置き、近くの野草を摘んで、一輪の花を添えた。その花はハルジオンであることが望ましい。彼女はあの細い花弁と背の高さを気に入っていた。

 他に好きな花と言えば、彼女は桜が好きだ。
 だが、桜の枝を添える気にはなれなかった。そこまで死体は特別なものではない。彼女が墓を作るのも特別なことではないので、桜では豪華だと感じられた。

 ダンゴムシは小さい。掌に乗せて、丸まっている姿を可愛いとすら思っていた。
 だから、墓を作った。動かないダンゴムシを掌に乗せる気にはなれなかったが、墓は作る気になったのだ。そこに大した理由は無い。

 墓を作って、祈りを捧げるという一連の行為に勤しむことにより、自分が清廉な人間であるかのように思えた。
 それが、理由なのかもしれない。


 ――今、彼女は道路の上の死体を見つめていた。顔を轢き潰された、仔猫の死体だ。飛び散った血は少なく、それだけでも車がどの程度の速度で走っていたのかが解る。
 ここはあまり車が通らず、人も通らない。小高い丘が頂いているのは、地震で生まれた湖と農家が経営する畑や牛舎ぐらいだ。野鳥観察とか、写真撮影を趣味にする人間が、車でやっと来る気になるような丘だった。
 道はコンクリートで整備されてはいるが、人通りが少なければ車が気を遣って走る必要は無い。まして、道の脇から何かが出て来るかもしれない、などとは考えもつかないのだろう。だからこそ、ありったけの速度で走ることが出来る。

 彼女は散歩に出て来ていた。丘を登り、湖に面したゴルフ場まで来て、湖の上の橋を通り、林を抜けて、自分が元来た道とは反対側に出た。
 迷ったのではないかと心配しつつも、天気が良いこともあって、当てもなく歩き出せた。晴天というものは、人間の思考を前向きなそれへと変える力があるのだろう。

 車が通る道まで出て来た時、彼女は空を見上げて微笑んだ。そこにあるのは“知っている”空だった。元来た道で見ることの出来た、薄い青の空だ。
 彼女は、見る先で空の色も顔も違うのだということを知っている。だから、自分が帰る道に出られたことが解って、足取りも軽く進んでいた。

 そして、その道路に、仔猫の死体はあったのだ。

 最初は見間違いなのかと思った。大きな鼠程度にしか考えていなかった。猫にしては小さすぎたから。でも、鼠にしては大きすぎる。それで、自分の歩く左側の歩道から、右側の車線がよく見える場所まで来た時、それが仔猫なのだと解った。
 仔猫は虎のような模様をしていた。彼女は動物に詳しくはないから、その猫がどのくらいの年齢なのかは解らない。けど、少なくとも半年は過ぎているだろうと思った。

 周りに猫の居る気配は無い。この仔猫は、或いはどこかから逃げてきたのだろうか。急いで反対側の歩道に渡ろうとして、車に衝突してしまったのだろうか。
 身体に一切の傷は見当たらないが、顔は原型を留めていない。赤い血液と肉は潰れたまま、硬直しているようだった。

 彼女は悩んでいた。そして、車の往来を確かめる。どちらの車線からも、車はよく走ってきた。
 仔猫の死体のある車線を走る車は、反対側の車線に出てまで死体を迂回していく。皆、仔猫の死体とそれを眺める彼女を、不思議な顔で眺めて、去っていく。別の誰かはもしかしたら、気味が悪いと思ったかもしれない。

 彼女は死体を見つめながら、微動だにしなかった。

【気になるのか?】

 声がする。それはいつも脳内で語り掛ける者のうち、男の人格を持つ存在からだった。彼女が持つ感情の、或いは思考の歯止め役だ。

「気になるよ」

 車が行き交う以外、人の気配は無い。彼女は声に出して、脳内の存在と会話を始めた。

【どうしたいんだ?】
「お墓を作ってあげたい」

 辺りを見回す。林、畑、駐車場。どこも人間の使っている場所だ。勝手に埋めたりしたら、怒られるだろう。

 そこで彼女は何故、自分が墓を作ってやりたいと思ったのかを考える。
 仔猫の死体は何度も車のタイヤの影に晒された。このまま放っておけば、もしかしたら別の車が仔猫の死体を轢いてしまうかもしれない。

 彼女は二、三度轢かれた死体を見たことがあった。
 コンクリートに埋まるようにして、どんどん肉片へと変わっていく。排気ガスによって色は黒くなっていき、土に還る前にたくさんのタイヤに肉片を奪われて形を失っていった。

 仔猫の死体も、そうなってしまうかもしれない。そう思うと、彼女は早いところ死体を、せめて林に移してあげたいと思った。
 こんな所で晒されていたら――

【確かに、可哀相かもしれないわ】

 別の声が聴こえた。常に彼女のことを考え、心を汲んでくれる、女の人格を持った存在だ。
 女は、しかし、心持ち低い声でそう言った。その言い方は、女がそうは思っていないことを暗示する。

 彼女にもそれは伝わり、黙って女の言うことを聴こうとした。
 歩道から反対の車線に走り、ガードレールに背をつけるようにして、いっそう仔猫の死体に近付く。

【だけど、死体にむやみに触れては駄目よ】
「雑菌が繁殖しているかもとか、そういうこと?」
【死んでからもう何時間か経ってはいるけど、そのまま触るのは危険だと思うわ】
「じゃあ、何かビニールみたいなものでくるむのは?」

 提案したところで、彼女は周りにそんなものが無いことは解っていた。畑にならあったかもしれないが、それは農家の人が使うものだ。
 彼女は、人間が近くに居ないかを見てみた。誰かが要らないビニールを持っているかもしれない。それを分けてもらえないだろうか。

【お前がやることじゃないだろ、それは】

 男が静かに言った。彼女は仔猫の死体を見つめて、首を傾げる。でも、その意味は何となく解る気がした。言葉にすれば形が変わってしまうから、敢えて聴くだけにしているようなものだ。

【可哀相だって思う気持ちが悪いって言っているんじゃない。でも、墓を作ることはお前の役目じゃない】

 男の言うことを聴きながら、足元を見る。そこには、仔猫が居た。目には視えない。脳裡の景色と現実の景色が重なる。
 仔猫は彼女の足首辺りをうろうろしながら、潰れた顔を動かして、こちらを見上げているようだった。

 もう一度、目の前の死体を見た。最期の姿のままで彷徨うのは“かわいそう”だ。
 仔猫の顔を想像する。元の顔かどうかは解らない。けど、少なくとも、先程までの潰れた顔ではない。

 仔猫の顔を、想像の中で綺麗にする。すると、現実にも想像は染み出して、視えない仔猫は綺麗な顔になった。

【ビニールがあろうと、やはり触れるべきではないわ。あなたの指先も、荒れているのだから】

 彼女の指先は乾燥した空気によってか、所々、皮が剥けていた。剥けかけた皮が気になって、自分で剥いてしまったものもある。
 確かに、こんな指先で死体に触れたら、良くないものをもらいそうだ。だからビニールを探そうとしていた。だけど、ビニールだけでどうにかなるのだろうか。

 作業が終わった時にどこで手を洗おう? ――公衆便所など、この辺りには無い。
 服を汚したら、どうする? ――洗濯をしたとして、またそれを着る気になるのだろうか。

 彼女は気付いた。自分がとてもつまらない、しかし重要だと思われる拘りに囚われていることに。

 死体から移るかもしれない菌、血肉で汚れるかもしれない服。漫画や小説で、優しい人間はそんなことを気にもせず、死体を柔らかく包んだ。そして、墓を作っていた。
 自分はそういう人間になりたいのだろうか? 彼らは本当に何も気にしないで、死体に触れることができたのだろうか?

 ここで通り過ぎてしまえば、自分は他の人間と同じだ。では、他の人間と違うのだということを示す為に、仔猫の死体を運び出そうとしているのか。何の為に、誰の為に。

 解っている。自分の為だ。仔猫が可哀相だからという気持ちの下に、その自意識が隠れている。
 結局は、自分を他の人間とは違う者なのだということを自分に示す為に、仔猫の死体に拘っているのだ。仔猫の死体を利用しようとしているのだ。

【お前がここで死体を動かしてやりたいのは何でだ?】

 男が、彼女に尋ねる。脳内に居るなら解っているだろう自問自答を、彼女の口から聞こうとしている辺り、タチが悪い。

「・・・・・・かわいそう、だから」
【じゃあ、これが烏の死体だったら、同じようにしていたか?】
「・・・・・・カラスだったら・・・・・・」
【お前は、この死体が仔猫だから可哀相って思っているだけなんじゃないの?】
「・・・・・・・・・・・・」
【こんなに小さいのに。こんなにか弱いのに。そう思うから、せめて車がすれすれで通る場所から移してあげたいんだろ?】
「うん」
【死体は死体だ。特別なことなんか、何も無い】

 小さい。か弱い。これから、もっと成長できたかもしれない。子を産んでいけたかもしれない。
 なのに、死んでしまった。何の因果か、ただの偶然か、仔猫は自分が死ぬと気付く前に轢かれてしまった。
 その末路を哀れに思う。それは、仔猫だから?

「墓を作りたいのは、特別なことじゃないよ。ただ、そうしたいだけ」
【でも、烏が相手だと、それをしてやれるかどうか、解らない】
「・・・・・・解らない」
【全てに平等に振る舞えないなら、ここでそんなことをするべきでないと、俺は思う】
「鴉にも墓を作れるのなら、仔猫にも作ってあげろって、言いたいの?」
【そう。お前が言っていた、『譲れないのなら、最初から優先席には座らない』っていうのと同じ。誰に対してもできないのなら、触れてはいけない】
「でも、してあげたいって思う気持ちはある。だから、それに従いたいだけ。平等であろうと、不平等であろうと」
【それがお前の勝手なところだよ。俺がこの仔猫だったら、こんな目に遭っても人間に触れてほしくないけどね】
「・・・・・・そう」

 墓を作るのは、特別なことではない。
 仔猫が死ぬのは、特別なことではない。
 烏が死ぬのは、特別なことではない。
 墓を作らないのは、特別なことではない。

 全て、違うことなのに、同じに思えた。
 そこに拘る自分は、なんて――



 ――そして、彼女は歩き出した。死体から一歩ずつ遠のく。
 その間に少女はどんどん“他の人間”になっていく。車はどんどん走っていって、仔猫の死体を迂回していく。

 女は言った。「あなたは優しい」と。
 男は言った。「それは優しさではない」と。

 彼女の心には、もやったいものが残っていた。何か出来たのではないか、何かしなくてはいけなかったのではないか。コンクリィトの上では微生物に食われないではないか、いやいや農家の誰かが保健所に電話をして処理するのではないか。
 ・・・・・・処理?

【お前にできることは、次があるなら良い生き方ができますようにって、願うことぐらいだよ】


 振り返ると、仔猫の死体の回りに烏が二羽、やって来ていた。様子を窺っては、車が来ると電線まで飛んで逃げる。

 彼女は、仔猫の魂が安心できる場所へ行けるようにと、静かに願った。
 その静謐さには、やはり疑問が残る。いったい、どこの誰へ向かって、何を願っているのだろう?

 もう一度、死体の方を見てみた。
 車の往来が済んだ束の間、烏が仔猫の死体を啄んでいた。

「・・・・・・カラスって、本当に死肉を食べるんだ」

 何となく現実味を帯びた、たったそれだけのことを確認して、彼女はもう振り返らずに歩いていく。
 傾き出した太陽の角度で時を計り、ずっと止めていた音楽を再生した。

死体

H21.10.28

加筆修正にあたっての作業用BGM
神降 / DRAG-ON DRAGOON 3 ORIGINAL SOUNDTRACK

死体

死体を見て墓を作るのは何でかなって脳内友達と話す人間の一幕

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-11-13

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