紅の熱誠

19歳女子大生と42歳独身男性の濃密な恋劇場

七月のある日、家のインターホンが鳴った。私が玄関を開けると、そこには一人の長身の男性が、ダンボール箱を抱えて立っていた。その人はセンター分けの少しロング気味の黒髪のストレートヘアーで、白いシャツの上に淡い色のジャケットを着、七分丈のジャケットの袖からはその人の腕の血管が浮かんでいた。
「本日引っ越してきました橋元と申します。よろしくお願いします。こちら、ほんの気持ちですが、よろしければどうぞお使いください」
 そう言ってニコッと微笑み橋元さんは私に、引っ越し挨拶用のギフトを渡した。ギフトを渡された時、一瞬橋元さんからフワッとラベンダーの香りがした。
「ありがとうございます、初めまして、折原と申します。こちらこそよろしくお願いします」
 そう言い、私は橋元さんに一礼した。橋元さんが礼儀正しい人だから自然とこっちも改まった態度にしなきゃと思っちゃう。
「あ、そうそう。私、実は自宅の裏に花屋を経営しておりまして。良かったら一度店に遊びに来てください。こちら、店までの簡単な地図です」
「お花屋さんをやってるんですか⁉ 私、実は駅前の花屋でバイトしてるんです!」
「……あぁ! あそこの花屋でバイトしてるのか。花屋でバイトも中々珍しいね」
「よく言われます。私、昔から花が好きなので、ずっとお花屋さんでバイトするのが夢だったんです」
「そうなんだ。花は色々奥が深いからいいよね。君、今は学生さんかな?」
「はい。隣の県の私立大学の一年生です。ここから自転車と電車で通ってるんです」
「そうなんだ。……ところで、親御さんは今外出中かな?」
 橋元さんは、私の家の空っぽのガレージをチラリと見た後に言った。
「はい。だから今留守番中なんです」
「そうだったんだ。じゃあ、親御さんには、また今度お会いした時にまた改めてご挨拶をするって伝えてくれないかな?」
「はい、そう伝えておきます」
「じゃあ、私はそろそろ失礼するね。今後とも、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。あの、お店、また今度行きますね!」
「うん、楽しみにしてるよ」
そう言い、橋元さんは会釈した後、帰っていた。橋元さんの後ろ姿は腰が細く、夏用のジーンズが橋元さんの長い脚をさらに強調していた。
家に戻った私は、橋元さんから貰ったギフトをテーブルに置いた後、ぼんやりと橋元さんのことを思い出していた。あんなに紳士的な男の人に出会ったのは初めてだった。頭が玄関のドアの一番てっぺんに付きそうな程背が高くて、小さめの顔に切れ長の目。一目で見てあぁ、この人はきっと今までずっと彼女とか途切れたこと無いんだろうなと思うほど魅力的だった。あぁいう人のことを世間では『イケおじ』と言うんだと思う。あの人が経営するお花屋さんって一体どんな店なんだろう。今度時間に余裕があったら今日渡された地図を持って行ってみようと思った。


ある大学の帰り道、私は橋元さんの店に寄ってみることにした。あの日財布に入れた店までの地図を取り出し、道順を確認した。今いる場所からそこまで遠くなく、道順も単純だった。
「こんにちはー」
「あ、折原さん! 早速来てくれたんだね! いらっしゃい!」
店の入口に着き、花の手入れをしていた橋元さんに声をかけた。橋元さんは振り向き、すぐに私にあの日と同じ優しい微笑みを見せた。店での橋元さんは、茶のズボンに腕まくりした真っ白なシャツを着て、その上に黒のエプロンというとてもシンプルな服装だった。
「お忙しいところ失礼します。すごくオシャレな店ですね……!」
「ありがとう。実は、店のデザインにこだわったからそう言ってもらえて嬉しいよ」
橋元さんの店は、すごくハイセンスだった。店の前には、白や青などの寒色系の色の花達が並び、白を基調とした入口とは反対に、店の中はオレンジ色の豆電球を入れた茶色のレトロ調なランプがぽつぽつと点在し、赤やオレンジなどの暖色系の花達が並び、薄暗くも、落ち着いた大人な雰囲気の店内に仕上がっていた。
「店の外と中ですごく雰囲気が違うんですね」
「あぁ。店の入口では、できるだけ爽やかさを演出したかったんだ。客寄せの為にも、その方がいいしね」
 橋元さんの言う通り、店の前には青色の花である、ブルースターやアネモネ、白色の花であるカスミソウ、ユリなどが花を咲かせていた。
「いいですね! 後、店の中は大人っぽい中にも心の中の熱、みたいなものがある雰囲気があって良いですね」
「え? 熱……? 具体的にどんな部分が?」
私の発言に、橋元さんが少し不意を突かれたような表情をした。少し分かりづらかっただろうか。
「えっと、そうですね…具体的に言うと、ランプの明かりだけで照らされた店内が大人っぽさを演出していて、店内にあるザクロやセンニチコウなどの赤やオレンジ色の花達が情熱っぽさを表現しているようですごく素敵です」
 私は、店の装飾や花などを指差しながら説明した。途中で、まだあまり親しくない人に向かって少し偉そうなことを言ってしまったかな、と思ったけど橋元さんは私の説明に静かに耳を傾けてくれた。
「なるほど……そういう見方もあるのか……」
「あの、偉そうなこといきなり言ってごめんなさい……」
「いや、気にしないで。逆に感心したよ。君は感性がとても豊かなんだね」
 橋元さんは私の目を見て嬉しそうに笑った。その時の切れ長気味の両目がくしゃっと細くなった様子が色っぽくて私は思わずドキッとして目を逸らしてしまった。
「あ、ありがとうございます……」
「こちらこそ。良かったらゆっくり店を見て行って」
「はい!」
 そう言うと橋元さんは、来店したお客さんの対応に向かった。私は、花を見ながら店の中をゆっくり一周することにした。赤やオレンジや黄色の花達が綺麗に飾られている様子に圧倒される。アネモネやポーチュラカやペチュニアなどの他 の花屋でもよく見かける定番の花から、カンナやグラジオラスなどのマイナーな花も置いてあり、すごくバリエーションが豊富で見ていてすごく楽しい。
 しばらくその花達を見ていると、お客さんの対応を終えた橋本さんが再び私の方へ歩いてきた。
「どう? 気に入ってくれた?」
「はい! 定番の花から珍しい花まであって見ていて飽きません!」
「そう。なら良かった」
 私の言葉を聞いた橋元さんは安心したように微笑んだ。そういえば、お互いに下の名前をまだ知らないな…。
「あの……、いきなりこんな質問で申し訳ないんですけど、橋元さんの下の名前って何ですか? まだお互いに下の名前を教えてなかったなって思って…」
「あぁ、そういえばそうだったね。僕の名前は柊。ヒイラギって書いて柊って読むんだ」
「へぇ……、植物の名前なんですね!」
「うん。花屋って感じの名前で分かりやすいでしょ? 折原さんの下の名前は?」
「私は朱(あや)って言います。朱色の朱って書いて『あや』って読むんです」
「へぇ、あやちゃんって言うんだ。綺麗な名前だね」
「綺麗な名前、ですか……。そんなこと初めて言われました。嬉しいです…!」
「本当? そういう書き方で『あや』って呼ぶなんて珍しいし、響きが綺麗だなって思って」
 『響きが綺麗な名前』なんて人に初めて言われたし、ましてや美丈夫な橋元さんに言われたからちょっと照れ臭い。
「あ、ありがとうございます……。あの、実は初めて会った時、橋元さんは『ヒイラギ』っぽいなぁって思ってたんです」
「えっ、そうなの? そんなこと初めて言われたな。どの辺が似てる?」
「うーんと…、雰囲気、ですかね……。橋元さんから醸し出されるオーラがヒイラギって感じがしたんです。……ごめんなさい、変なこと言っちゃって」
 私の意味不明な説明を聞いた橋元さんは、一瞬考え込んだような表情をした。
「…いや、わりと当たってるかも。そうか、ヒイラギに似てる、か。朱ちゃんって中々面白いね」
「そうですか? 私は周りに『変わってる』ってよく言われてるんですけどね」
「捉え方の問題だよ、それは。僕は朱ちゃんの言葉や考え方はすごく良いと思うよ?」
 橋元さんってよく人を褒めるのかな。なんだかまた恥ずかしくなってきた。
「……ありがとうございます。橋元さんって褒め上手ですね」
「そう? よく知人には『お前は誰にでもすぐに褒めるから八方美人って人から思われやすいぞ』って言われるんだけどね」
「あ、そうなんですね。でも、人の長所をすぐに見つけられるのは良いことだと思いますよ」
「そう? ありがとう」
 橋元さんは今度はわずか目を細め、口角を綺麗に左右対称に上げて微笑んだ。あ、この人はきっと綺麗に笑う人なんだな。橋元さんの笑顔を見ると、心の中に綺麗な川がスーって流れていくような清らかな気持ちになる。それがだんだん心地よく思えてきた。
「そうそう。お気に入りのお花とかあった?」
「あ、はい! えっと……、これとか、ですかね」
 そう言い私は、レジの近くの棚に置いてあった濃い赤色の薔薇が複数本入ったバスケットを指差した。
「あぁ、薔薇か。好きなの?」
「はい! 私、花の中で薔薇が一番好きなんです。特に、濃い色の薔薇が大好きで……。普通の赤い薔薇も可憐で好きなんですけど、濃い赤色の薔薇は可憐さに加えて気品があってすごく魅力的に感じるんです」
「へぇ。そういえば、今日のスカート、この花と一緒だね」
「あ、そうですね! 私、自然と濃い赤色の服を買っちゃうんです」
 そう。私が着る服の色は大体濃い赤が多いのだ。別に薔薇の色だからと意識して買ってるわけじゃないが、気づけばいつもこの色になってしまう。今日は、白の生地に金色のストライプが全身に入った半袖ブラウスに、中央に大きなリボンが付いた濃い赤色のロングスカートに茶色のローヒールを穿いてきた。
「そうなんだ。結構似合ってるよ」
 屈んで一緒に薔薇を見ていた橋元さんが、私のスカートを見た後に私を見てまた微笑んだ。初めて橋元さんと同じ位置で目線が重なった。橋元さんの黒い瞳は、澄んでいてずっと見ていたい程だった。
「……ありがとうございます」
 私は橋元さんと視線が間近だったことに気付き、恥ずかしさから思わず少し後ずさりしてしまった。間近で見た橋本さんの顔は驚くほど顔が小さくて、自分が隣にいるのが申し訳なくなっちゃう程だった。綺麗な顔しているし、もしかして元芸能人だったりするのかな。聞いてみよう。
 そんなことをぼんやりと考えているうちに、また新たなお客さんがやってきた。
「あ、じゃあ私、そろそろ帰ります。帰りに何か買って帰りますね」
「うん。ありがとう。ゆっくり選んでね」
「はい!」
 こうして橋元さんは接客へと向かい、私は家に持って帰る花を選ぶ為にもう一度、店の中を一周することにした。今日の私の気持ちにピッタリな花はどれだろう。気になった花の前で立ち止まり、たまにそれを手に取りながらじっくり選んだ。
 ふと私は、ある花の前で動けなくなった。それは、先程橋元さんと話題に上った紅い薔薇だった。鮮やかな紅がこちらを見つめていた。
 それを見ていると、私は先程までの橋元さんとの楽しかった時間を思い出した。そして自然とその花が愛おしくなった。
 私は、五本手に取り、レジへと向かった。
「いらっしゃい。お、薔薇にしたんだね」
「はい! さっき薔薇の話題が出たので、折角なら買っていこうかと」
「いいね。この薔薇、とても色づきが綺麗だから実はさっき朱ちゃんにおすすめしようと思っていたんだ」
「そうだったんですね……! 確かに、すごい鮮やかだなーって思わず見惚れてしまいました」
「わかるわかる。思わず魅了されちゃうよね。あ、本数は五本でいい?」
 私と軽く会話しながら、橋元さんは慣れた手つきで五本の薔薇を丁寧に新聞紙にくるんでいった。作業している時の橋元さんの睫毛が長く、綺麗に上にカールしてあり、とても綺麗だった。
「はい、じゃあ、赤の薔薇が五本で〇〇円になります」
「あ、はい」
 私は、店員モードになった橋元さんの一言で我に返り、目の前に差し出された青いトレイに代金を置いた。
「はい、丁度頂きます。……レシートのお返しです。それと……、はい、商品のお渡しですね。ご自宅に着いたらお早めにお花を活けてくださいね」
「ありがとうございます」
 店員として私に接客する橋元さんの姿は、なんだか他人のような気がして少し寂しく感じた。すると、橋元さんは営業スマイルから一転、先程私と雑談していた時と同じような優しい笑顔に戻った。
「……また来てね、いつでも待ってるから」
「はい! それでは、失礼します。お仕事頑張ってくださいね!」
 私はレシートと薔薇を受け取ると、橋元さんに笑顔で手を振りながら店を出て行った。店の入口の隣にある駐輪場に置いた自転車の籠に薔薇の花束を置き、私はサドルにまたがり、勢いよくこぎだした。自然と、自転車がいつもより軽く感じる。横切る風が心地いい。今は早く家に着き、この薔薇の花達を早く綺麗に飾りたくて仕方なかった。高鳴る胸を抑えて、私はいつもはあまりしない立ち漕ぎをして家路を急いだ。
 玄関を開け、靴を脱いだ私は一目散に花瓶が置いてある戸棚へと向かい、棚を横にスライドさせて開けると、ガラス製の取っ手付きの透明な花瓶を取り出した。そして、紙に包まれた薔薇を取り出し、少し茎の高さや葉をハサミで切って調整してから丁寧に活け、直射日光に当たらない涼しめな場所に置いた。
飾られた薔薇の花は、鮮やかな紅色が部屋の明かりに照らされて不思議な魅力を発していた。私は花瓶の前に立ち、じっと薔薇を見つめて、橋元さんを思い出していた。橋元さんの少し低音で柔らかくい声と、上品で自立した大人な男性の雰囲気に、スラリとした長い脚と細めな腰。そして、何よりも強烈に印象に残ったのは、どっきりとした色気を含んだ綺麗な微笑み。私は今日だけでその微笑みに何回も魅了されていた。あんなに美しく笑う人を見たのは生まれて初めてだった。気づけば、私は橋元さんに信じられない程虜になっていた。今まで何度か恋をしてきたが、こんなに一人の誰かに心の全てを奪われたのは生まれて初めてだった。まさか、自分が四十代の男の人に恋をするなんて夢にも思わなかったけど、好きになったものはしょうがない。別に恋人になりたいとか、橋元さんを手に入れたいなどは思っていない。今はただ、橋元さんに会いたくて会いたくて仕方がなかった。
「……ねぇ、明日も明後日もあの人の元に会いに行っていいと思う?」
 私は薔薇の花びらに軽く指先で触れながら、ぽつりと呟いた。薔薇は私の心を反映するかのように、情熱的に燃え上がるように咲き続けていた。私はそれを暫く眺めていた。


日に日に、照りつける太陽の熱が強くなっていく気がする。最近は、私は時間があればすぐに橋元さんのところの花屋さんに遊びに行き、橋元さんと他愛のない話をし、たまに何か一つ花を買って帰っていく、というように入り浸るようになった。(もちろん、橋元さんが迷惑に思わないようにお店が忙しくない時間を狙って。)橋元さんのルックスの良さや、落ち着いた店の雰囲気が近所で評判を呼び、徐々にお店には固定客がつくようになっていった。橋元さんとは、大学であった出来事やバイト先での話。たまに、駅前の花屋でバイトする私に橋元さんから旬な花や、手入れの仕方など豆知識を教えて貰うこともあった。花のことを話す橋元さんの瞳は、すごくキラキラとしていて、聞いているこっちまでなんだか嬉しくなった。橋元さんと様々な話をしているが、やはり花関係のことを話している時が一番幸せだった。唯一の同じ趣味ということもあり、その時が橋元さんと一番心が通い合っている気がするから。
先日から私は橋元さんの家に招かれるまでになった。お店が休みの時は、たまに橋元さんの家で過ごすことがあった。と言っても当たり前だけど、ただ一緒に食事をしたり、橋元さんの家の庭で育てている華やかな花達を眺めてお話したり、などいつも二人でのんびりと過ごすだけ。

きっかけは、私の何気ない一言からだった。
「あ、そうか。その日はお店がお休みでしたね…」
次お店に行こうと思っていた日が定休日だと知った私は、その日は橋元さんと会えないと知り、残念がった。
「じゃあ、僕の家に遊びに来る?」
「えっ……?」
あまりに予想外の発言に私は一瞬困惑した。今、何て…? 私、橋元さんの家にお呼ばれした? いや、きっと何かの聞き間違いだろう。いや、でも確かにさっき橋元さんはハッキリと『僕の家に来て』って言った。私は衝撃のあまり顔が固まり、急激に上がる顔の体温を抑えることだけで必死だった。
「……どうした?」
 軽い硬直状態になった私を見た橋元さんは、少し不思議そうにこちらの顔をまじまじと見ながら私に声をかけた。
「……いえ、何でも無いです」
「あ、もしかしてこんなおじさんの家にいきなり行くなんて嫌だった?」
「それは絶対あり得ません‼」
「えっ」
 思わず私は大きな声とはっきりとした口調で否定した。だって、橋元さんは私の中ではとっくに『こんなおじさん』じゃなくて、「愛しい男の人」だったから。それに、橋元さんに対して私がそんな風に思うわけがないのに、誤解されてることがすごく悔しかった。思わず顔が泣きそうになった。年齢差なんて、そんなの気持ち次第でどうにだって───
「……嫌なわけないです」
「……朱ちゃん、それってどういう」
「……ごめんなさい! 何でも無いです! じゃあ、その日橋元さんの自宅の方に伺いますね! 何時頃が空いてます?」
これ以上私の本音が溢れてしまう前に、困惑する橋元さんをよそに私はすぐにいつも通り、明るく振る舞った。
「あー、そうだね……。お昼の一時頃はどうかな?」
「一時ですね。分かりました! じゃあ、その時間辺りに橋元さんの自宅の玄関前に着くようにしますね」
「うん。僕の家の玄関は、店の裏側にあるから間違えないようにね」
「はい! では、また!」
「うん。楽しみにしてるよ」

こうして初めての橋元さんのお宅訪問を終えた後も、たまに家に遊びに行っている。ここ最近は私が橋元さんを訪ねると、帰りに橋元さんがその日一番のオススメの花をプレゼントしてくれるようになった。その度に私は橋元さんとの思い出の形がまた増えた気がして、貰った花一輪、一輪を大事に花瓶に飾った。ベゴニア、赤いアネモネ、カスミソウ、クチナシ。その他にも、華やかで美しい花を貰い、私の心の中は幸せで溺れそうになっていた。大好きな人に会うたびに花をプレゼントされるのだ。そんなおとぎ話のようなロマンチックなことが毎回起こると、だんだんこれは夢なのか現実なのか分からなくなってくる。でも、花瓶に活けられた花を見ると、それが現実なんだと実感が出来て、胸の辺りがジワリと温かくなる。
 でも、私には少しだけ橋元さんに関して、気になることがあった。それは、私が一番最初に好きになった橋元さんの笑顔に関して。
 橋元さんの笑顔は、口角が均等に上がり、目尻をちょっと下げ、目を細めた綺麗な笑顔だ。けれど、時々その笑顔の中に寂しそうな表情が混ざっていることがある。どこか、人に対して一定のバリアを張っているような、少し距離感を置いているような感じがする時がある。でも、仮に私に心のバリアを張っているのなら、私に対していつも花を贈ったりしないし、ましてや私に『家においで』なんて言わないだろう。
 じゃあ、橋元さんの笑顔に関する違和感は何だろう。何か、過去にトラウマがあったり、人のことを信用できないことがあったりしたのだろうか。でも、さすがにそんなことは直接橋元さんに対して聞けないし…。これは、本人の口から言ってもらう日を待つしか無いのかもしれない。とりあえずそう結論付けて、その日は眠りについた。


その日、私は夢を見た。
真っ白な空間の中に、辺り一面が紅い薔薇の花が敷き詰められ、その中央に、キングサイズの純白の天井付きベッドが存在を主張するように置かれていた。そのベッドの中央には、私と、なんと、橋元さんが向かい合う形で座っていた。そもそも何で私が橋元さんと一緒にいるのか分からなかったけど、その様子はまるで映画のワンシーンのようだった。
私は腰周りに薔薇のモチーフが付いたクリムゾンレッドカラーのワンピースを着、足元には赤いペディキュアが綺麗に施され、髪をゆるく巻き、耳元には真珠のイヤリングをしていて、まるでよそ行きの服装をしていた。
橋元さんは、白いVネックシャツの上に橋元さんの綺麗で細身の背中をよく引き立てるワインレッドカラーのテーラードジャケットを着、両袖を少しまくり、肌を見せ、そして、黒色のパンツを履き、黒色の細いベルトをしていた。橋元さんにしては珍しく、派手な色の服を着ていて、それだけで違う人のような気がしてドキドキした。
中でも一番心臓が飛び跳ねたのは、いつもはサラサラなストレートヘアーだった橋元さんが夢の中では髪全体に軽くパーマをかけており、いつもにも増して色気で溢れていたこと。パーマをかけていたことにより、少し髪が短くなった橋元さんの姿は新鮮で、セクシーで。まるでどこかの映画俳優やモデルのようだった。
私達は薔薇の花びらが散っているベッドシーツの上で互いに見つめ合いながら楽しく話をしていた。橋元さんの綺麗で長い手が、私の髪をゆっくりと撫でていた。現実では橋元さんは絶対そんなことはしないから、夢の中の私はそれだけで頬を染めて俯いた。そんな私を橋元さんはあまりにも愛おしそうに眺めていて、その表情は、『もしかして橋元さんも私を同じ気持ちなのかもしれない』と勘違いしてしまう程だった。いや、ここは夢の中だから勘違いしてもいいのかもしれない。
 やがて、橋元さんが私の下の名前を、解け落ちてしまいそうな程甘い声で呼んだ。私が振り返ると、橋元さんは私を自分の方へ引き寄せ、そして何か囁いた。囁いた内容は聞き取れなかったけど、私は目を大きく見開いた後、そっぽを向いて照れ笑いしていたから、恐らく何か愛の言葉を囁かれたのだろう。私達はその
後さっきよりもっと熱い視線を交えながら見つめ合い、そして唇を重ねていた。その行為は何度も何度も繰り替えされ、そしてそれは次第に深く、熱くなっていった。そしてついに、橋元さんは私をゆっくりと、優しくベッドに押し倒し、そっと私の上に覆いかぶさると、ゆっくりと抱きしめた。私はそれが愛しくて、温かくてたまらなくなり、私は橋元さんの背中に両腕を回し、抱きしめ返した。
 この幸せな時間が、永遠に続けばいいのに。そしたら、橋元さんと、ずっと二人っきりでこの空間にいられるのに。私達は抱き合っていた状態から、シーツの上で両手を恋人繋ぎに変え、再び唇を重ねた───

 「───⁉」
 あまりにも生々しすぎる夢を見た私は、思わずベッドから飛び起きてしまった。心臓は未だにどくどくと音を立てて僅かに息は荒く、頬に触れるとほんのり体温が高くなっていていた。よりにもよって、橋元さんと会う日になんて夢を見てしまったんだろう。あの後、キスだけじゃなくて他にも─── 思い出すだけでベッドの上に突っ伏してしまう程、私にしては刺激的すぎる夢だった。これでは今から橋元さんにどんな顔して会えばいいのかわからない。今、橋元さんに会ったら一目散にその場から走り去る自信がある。一旦深呼吸をして落ち着こう、 と私は起き上がり、一度大きく、ゆっくりと深く息を吸い、吐いた。一応胸のドキドキは収まったが、橋元さんに会ったらまた再発するかもしれない。
「……朝ごはん食べよ」
 考えるのはそれからだ。私はようやくベッドから降りて、カーテンを開けた後、部屋を出て一階の自室へと向かった。

 朝食を取った後、私は歯を磨き顔を洗い、再び自室へと戻り、昨日悩みに悩んで選び、机の上に綺麗に畳んで置いていた赤のオフショルダーのトップスと、デニムの短パンに着替え、大学生になってから初めてのポニーテールをした。メイクを終え、少し小さめの籠バッグを持ち、鏡で一度全身をチェックし、どこもおかしいところは無いことを確認した後、私は一度「よし」と気合を入れ、部屋を出た。
「お母さん、今から橋元さんの家でお茶してくるね」
 私は、いつものようにお母さんに伝えてから玄関へ向かった。
「最近よく橋元さんにお世話になってるのね。橋元さんなら大人な方だし、安心して朱を任せられるわ」
「……うん。橋元さんはすごく優しくて良い人だよ。いってきます」
 それだけを言って、私は茶色のジュートウエッジサンダルに着替えて家を出た。
 橋元さんの家に向かう途中、私はさっきお母さんが言った言葉を思い出し、疑問に思うことがあった。どうして歳が開いているから安心と抱けるのだろう、どうして相手が立派な大人だから何もしないと言い切れるんだろう。どうして私と橋元さんの間に特別な感情を抱く可能性が無いと言い切れるんだろう。そこにいるのは、ただの男と女なのに。今、こうして私が橋元さんに対して、あんな情熱的な夢を見る程、恋焦がれているという事実があるのに。欲を言えば今朝見た夢の中のように、橋元さんとその先を越えたっていいのに。だって、こんなにも私は橋元さんに恋焦がれている。

「いらっしゃい」
「おはようございます!」
私がインターホンを押すと、橋元さんがドアを開けて笑顔を見せた。今日の橋元さんは、白のTシャツにベージュのチノパンという服装だった。橋元さんは、家にいるときは店の時とは違い、比較的ラフな格好でいることが多い。こういう橋元さんの一面を知っているのも、私だけだと思うと少し誰かに自慢したくなる。
私はいつものように橋元さんにリビングへ通された。橋元さんのリビングルームは、白と木目調の家具で統一されており、すごくシンプルだ。私は今までリビングにしか通されたことが無いから他の部屋はどんな部屋なのかあまり分からないけれど、きっと家の感じからすると、他の部屋もこんな感じなんだろうな、と思う。棚や、キッチンカウンターの端には小さめの花瓶や植木鉢に観葉植物や、白系の花が飾られていた。
「実は昨日、近所のご婦人からすいかをもらってね。ほら」
そう言い、橋元さんはドンッと重そうな音をたてて、大きなすいか丸々一個をダイニングテーブルの上に置いた。
「わぁ! すごく大きいですね!」
「でしょ? だから今日は朱ちゃんと一緒にこれを食べようかな、と思って。どう?」
「はい! 是非!」
元々スイカが好きな私は即答した。一人暮らしの橋元さんには困るんじゃないかと思うほど大きなスイカを橋元さんは、よいしょ、と言いながら両腕で抱えてキッチンルームへと向かった。私は、スイカを切る様子が見たくてキッチンカウンターへと向かった。橋元さんは、キッチンの下にある棚から、少し太めの包丁を取り出し、勢いよくすいかを真っ二つに切った。
「これがすいか割りだったら、また楽しそうですね」
「そうだね。海でスイカ割りとかしたらまた違うんだろうね」
「あ、そうですね! 実は私、子供の頃に家族と親戚みんなで海に行って、スイカ割りをしたことがあるんです! 私、当時スイカ割りが上手かったんで、布で視界が遮られていてもスタスタ真っ直ぐ歩いて、長い棒で思いっきり真っ二つに割っていたんです。それでいつもみんなに感心されてました!」
「へぇ、そうだったんだ。意外だね、あやちゃんにそんな一面があったなんて」
「いや、ただスイカ割りが好きなだけなんです。普段はそういうチャレンジ事には滅多に自分からやりたい、って言わないんですけど、スイカ割りはなんだかイケるイケる気がしたんです」
「なるほどね。じゃあ、今度は一緒に海に行ってスイカ割りしてみるのもいいかもね」
「そうですね! 海かぁ。最近行ってないから久々に行きたいですね」
「うん。じゃあ、今度二人で近くの海に行く?」
「え?」
『二人で』。さっきまで普通に会話していたのに、そのワードが出てきた瞬間、私は一瞬思考が停止した。今、私達もしかして海デートの約束してる? 実はものすごい約束をしていることに気づいた私は何故か今のタイミングで今朝の夢がフラッシュバックし、それを慌てて消し去るように軽く頭を振った。
「……朱ちゃん?」
「い、いえ! 何でも無いです!」
「そ、そう……? ほら、切れたよ」
「あ、本当ですか⁉ やったー!」
私と話していた間に橋元さんは、綺麗にスイカを八等分にして、そのうち二つをそれぞれお皿に乗せて、スプーンと共に持ってき、テーブルに置いた。その後、冷蔵庫からプラスチック製の麦茶ポットを取り出しそれを予めテーブルに置いてあった二つのコップに氷を入れた後に麦茶を注いだ。

「「いただきます!」」
二人で揃って両手を合わせた後、私達はそれぞれスプーンを持ち、赤くて瑞々しいスイカに一口分の量を掬い、口に入れた。
「……おいしい!」
「うん、丁度良い甘さだね。スイカをくれたご婦人に今度お礼言わないと」
「そうですね! こんなに美味しいスイカ食べたの久しぶりです!」
「うん。僕もだよ」
二人で感想を言った後、私達はそれぞれスイカを食べることに集中した。部屋中に、しゃく、しゃくというスプーンがスイカに侵入する音だけが響く。その音だけでも、私にとってはなんだか居心地が良い空間だった。二人しかいない部屋。二人だけの空間。二人だけの世界。こんな空間は今まで何度もいたくせに、今朝見た夢のせいだろうか、今日だけは何故か特別に感じた。
ふと、橋元さんを見ると、その美しい光景に目を奪われた。
橋元さんは姿勢を正し、赤く染まったスイカを丁寧に一口ずつ掬い、静かにそれを口に入れた。色白気味の綺麗でまっすぐに伸びた手から繰り出されるその気品さえ溢れる動作は、思わず釘付けになりそうになる程だった。なんでこの人はこんなにも私を惹き付けるんだろう。この人は、いつも私の胸を高鳴らせる。貴方の顔や姿を見ると、また今朝の尋常じゃない程の心臓の鼓動が復活しそうになる。感情が、欲望が、溢れて溢れて止まらない。

「橋元さん、私が今から言うことを聞いたら、困ってしまうかもしれません」
「…………え?」
「貴方の事が……好きです、橋元さん」
とうとう、想いが飛び出してしまった。
あまりに衝撃的だったのか、橋元さんは私の告白を聞いた瞬間、思わずスプーンが手から滑り落ちていた。私は、橋元さんの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。今までの積もりに積もった色んな想いを全てぶつけるつもりで告白した。正確には、想いが零れたと言ったほうが正しいんだと思う。
互いに沈黙が流れた。当然だ。橋元さんにとっては、こんな二十以上、年の離れた子供にまさか異性として見られていたとは思ってもいなかっただろう。私は、橋元さんが次にどんな反応を返してくるのか怖くて、今にも俯き、身体が震えそうだった。
「……ごめんなさい、いきなりこんなこと言って」
「いや、……謝らないで。それだと、君のさっきの言葉が嘘だという風に聞こえるじゃないか。……嘘じゃないだろ? さっきの言葉は」
「……はい。本気です。……私、橋元さんの事が、ずっと、ずっと好きで……、初めて会った時に、紳士な人だなって思っただけだったんですけど、橋元さんと関わっていくうちに、その……、ひっく、私……、橋元さんの……っ、綺麗な笑顔とか、丁度良い低い声とか、手が綺麗なところとか、その……うっ、私……、橋元さんが私のどんな話も目を見てすごく優しい顔で聞いてくれるところとか……」
「うん」
今までの想いを全てに溢れ出していく内に何故か涙と嗚咽が溢れて止まらなくなった。この人のことが愛しくて、愛しくて、今それを全部伝えたいのに、自分の言葉で伝えるにはどうしても限界を感じて悔しくて、悔しくて。
それでも、橋元さんは私の目を優しく見つめながら、まるで、何かを一つ一つ確かめていくように頷いて、私の想いを受け止めていった。
「ひっく……、その、橋元さんの全てにどんどん惹かれていくんです。私、日を重ねる度に……うっ、大好きで、大好きで……大好きで……っ!」
「朱」
「えっ……っ⁉」
いきなり橋元さんが私の名前を呼び捨てにし、私の片手を握った。
「僕も君のことが好きだ」
「⁉……え?」
心臓が止まった。
時が止まった。
今、私は何を聞いたんだろう。橋元さんの目が真っ直ぐに私を射る。その瞳を見たら、橋元さんの言葉が嘘じゃないってことぐらい私にも分かった。私の瞳から再び涙が流れ、橋元さんがそれを拭ってくれた。
「……先に少し、僕の話を聞いてくれないかな」
 橋元さんは、何か覚悟を決めたかのように、すごく真剣な顔をして私に言った。

 「僕には、十年前に妻がいたんだ」
「……え?」
 あまりの衝撃的な発言に思わず、俯きかけていた顔を上げた。
「僕は、二十五歳の頃に前の妻と結婚したんだ。彼女は、僕が中学生の時の同級生でね。彼女とは、中学の頃は一回も話したことも無かったけれど、大学一年の時に、学部のクラスが偶然一緒になって、そこで親しくなって、それから六年間付き合った。茶髪のボブカットがよく似合う、くっきりとした二重の、いつも明るくて笑顔が絶えない女性だったよ。
 結婚してすぐ、僕たちは一緒に花屋を開いたんだ。経営は順調で、ありがたいことに店はいつも賑わっていたよ。その頃は、もちろん僕達は互いに助け合いながら、毎日楽しく過ごしていて……幸せだったよ、すごく」
 前の奥さんのことを話している橋元さんは、どこか懐かしそうに、でも少し苦しそうに、話していた。前の奥さんってどういうことなんだろう。もしや、前の奥さんは病気か何かで死んじゃったとか、かな……? すると、橋元さんの表情がさらに苦しそうになり、身体が少し前屈みになった。
「……結婚してから六年後の僕が三十一歳の頃に、彼女の様子に少し変化があったんだ。彼女が通いだした音楽教室に偶然、彼女と高校時代に交流があった同級生の一人の男も彼女と同じクラスにいたんだ。同じ趣味を通して、彼女はその男と徐々に仲良くなっていったらしいんだ」
その話を聞いた時、私は全てを察した。橋元さんが今、エアコンが効いている部屋の中で汗をかきはじめたり、だんだん呼吸が荒くなってきている理由も。
「……次第に、彼女が休日に家を留守にすることが多くなっていったんだ。留守にする理由を聞いても、いつも『友達と遊びに行くだけだから気にしないで』の一点張りだった。もちろん、僕も最初はそれを信じていた。けれど、彼女は以前から休日に頻繁に友達と遊ぶようなことは無かったから、だんだん違和感を覚えたんだ。どれ程の親友が出来たのだろう、と。もしかしたら、この前話していた、最近音楽教室で仲良くしているという、高校時代のあの男と会っているのかもしれない、とも……」
「……」
橋元さんの苦しそうな表情が重くなっていくと同時に、だんだん空気も薄暗く、重くなっていく。さすがに私は橋元さんの容態が心配になってきて、席を立ち、橋元さんの隣の席に座って橋元さんの背中をゆっくりと、優しくさすった。
「大丈夫ですか……? 橋元さん、さっきからだんだん苦しそうな表情が酷くなってきてるから、そんな無理に話してくれなくても大丈夫ですよ」
「……あぁ、ありがとう。これはいつもの事だから慣れてるんだ、安心して」
「安心なんて出来るわけ無いじゃないですか!」
「えっ……」
私は、こんなに酷い表情をしているのに未だに無理をしようとしている橋元さんの様子に我慢が出来なくて、つい怒ってしまった。
「だって、今までもそう。橋元さんは、笑う時にたまに苦しそうな、悲しそうな表情をするんです。私、それを見る度いつも心配で心配で仕方なくて……。もう、そんな辛そうな橋元さんを見るのは、嫌なんです……!」
橋元さんは、ハッとしたような瞳で私を見つめ続けた。
「……いつの間にか、君も苦しめてしまっていたのか、僕は」
橋元さんは、隣にいないと聞こえないような声でボソッと呟いた。
「……ありがとう、朱ちゃん、心配してくれて。君のおかげで少し我に返ることが出来たよ。……でも、これは僕が未来に対してきちんと前を向く為の大事な儀式みたいなものなんだ。……ここで全部自分の過去を洗い流して、君とまっさらな気持ちで付き合いたいんだ」
「橋元さん……!」
「これは、自分勝手なことかもしれない。でも、これからは君だけのことを考えて、君だけを見たいんだ。だから、続きを話してもいいかな……?」
橋元さんは、両手で私の手を包み込むように握りながら、私の目をずっと見ながら言った。
「……はい。そんなこと言われたら、はいとしか……言えないですよ……!」
「ありがとう」
そう言うと、橋元さんは一度麦茶を飲んだ後、ゆっくり話し始めた。
「そんな日が続いたある日から、だんだん彼女の苦しんでいるような、悩んでいるような表情を目にする日が増えていったんだ。当時、僕は彼女の夫だったから、当然、彼女が何を悩んでいるのか知りたかったし、出来れば力になりたかった。……ある日、僕は意を決して、彼女に『何かずっと苦しんでいることがあるんじゃないか』と聞いたんだ。……出来れば、聞かなかければ良かったんだけど。すると、押し殺したような声で、彼女が僕に一言、『ごめんなさい』と言ったんだ。そして、続けて『貴方のことを一日も考えない日が出来てしまった。私は今、貴方よりも好きな男の人がいる』と言ったんだ」
……言葉が出なかった。こんなに優しくて、かっこよくて、頭も良い橋元さんが、まさか浮気されていたなんて、全く想像出来なかった。どうしてこんなに完璧な旦那さんを持っていながら、違う男の人のことを好きになった元奥さんのことが理解出来なかった。
「……まさか、僕の不安が当たっていたというショックも、もちろんあったけど、それよりも苦しそうに、今までのことを吐き出すように話す彼女の様子を見て、次第に彼女を責めるような感情は消えていったんだ。元々、彼女は浮気をするような質の人じゃない、誠実な人だって分かってたから、彼女も自分の心の変化に戸惑い、罪悪感を持ちながら今までずっと苦しんでいたと知ったら、……もう、何も言えなかった。
僕は彼女を許した。僕よりも好きな人が出来てしまったことはしょうがないって言って彼女の罪を許したんだ、全部。そして、別れるか、別れないかは全て彼女に委ねた。彼女の生きやすい生き方を選んで欲しかった。そして、……彼女から『別れたい。ごめんなさい、私はこれからあの人と生きていきたい』って、泣きながら言ったんだ。僕は、事前に、もう苦しみながら泣かないでって言ったのに……」
力なく笑いながら、橋元さんはそう言った。橋元さんのいつもの綺麗な笑い方が、今は余計に悲しさを強調していて、見ているこっちが泣きそうになった。
「彼女が家と、店を出ていった後、暫く僕一人が店を経営し、そこに住み続けた。初めは、僕の方はそこまでメンタルにダメージがきてないと思っていたんだけど、徐々に人間不信を起こしていった。女の人はもとろん、男だって、店に来るお客さんや、長年の友人や親でさえ、自分に関わる人間が発する言葉が全部嘘に聞こえたことがあったんだ。その時はさすがに店を続けることは無理だったから、少し長い間、休業していた。その後、色んなところに引っ越して花屋を続けながら、今のこの場所に行き着いたんだ」
こうして、橋元さんは過去に起こった事件を話し終えると、ふぅ、と息を吐いた。
「……これが僕の過去に起こった出来事。ごめんね、こんな重い話をいきなり長々と君に話しちゃって……っ、朱ちゃん……⁉」
「……こめんなさい、私が泣くんじゃなくて、泣きたいのは橋元さんなのに……! だって、橋元さん、こんな傷つくことをやられたのに、全てを許したなんて、そんなの……不憫すぎて……!」
話を聞き終えてから私は涙が止まらなかった。どうしてこの人はここまで人に対して優しく出来るんだろう。だって、絶大な信頼をしていた奥さんに裏切られるなんて、普通ならブチ切れて何か罰を与えてもいいはずなのに。そして、今まで人間不信と闘ってきた橋元さんを想像すると、言葉で言い表せない程張り裂け、苦しい気持ちになった。どうして、こんな良い人が……!
「……ありがとう。君がこんなに僕の為に泣いてくれて、嬉しいし……少しホッとした。あぁ、今までの僕の抱いていた感情は間違いじゃなかったんだって、確信が持てて」
そして橋元さんは未だにしゃくりあげながら泣き続ける私の頭をそっと撫でた。その手つきがまた優しくて涙が再び溢れた。
「……朱ちゃんに出会ってから、僕の世界に再び鮮やかな花が咲き始めたような気がした。朱ちゃんが店に来る回数が増える度に、だんだん朱ちゃんに会えるのを楽しみにしている僕がいることに気づき始めた。そして、朱ちゃんが好きだと言っていた花や、朱ちゃんの好みに合いそうな花を無意識に店の入口近くに置いていたり、だんだん君のことを考える時間が増えていったんだ。朱ちゃんのことを考えている時間は、すごく……、楽しいんだ。最近は、君のおかげで心から笑える日が多くなっていったんだよ。だから」
橋元さんは、一旦言葉を区切ると、再び姿勢を正して私と真正面に向き合った。
「……君が愛しいんだ。ずっと」
「……!」
脳に衝撃が走った。好きな人に『君が愛しい』と言われることって、こんなにも刺激的で、幸せなことなんだ。橋元さんのさっきまでの言葉がずっと心に響いている。まさか、橋元さんも私と同じことを考えていたなんて。こんな奇跡があるだろうか。
「朱ちゃんの笑顔や真っ直ぐな言葉に惹かれて、もう一度、誰かの為に生きたいと思えたんだ。……僕と付き合ってくれませんか?」
私の手を取り、目を見ながら熱い言葉で告白してくれた。視線が、私を欲している。そんなの、答えは一つしか無かった。
「……はい! 私も貴方が大好きです……!」
「……! ありがとう……!」
橋元さんは、私の返事を聞いた途端、瞳を大きく輝かせて、両手で思いっきり私を抱きしめ、私もすぐに橋元さんの背中に腕をまわし、抱きしめ返した。橋元さんからは、微かに薔薇の香りがふわりとした。
「……橋元さんからあの時の薔薇の香りがする」
「あの時のって?」
「ほら、初めて私が橋元さんの店で買ったあの薔薇。……あれに香りが凄く似ているんです。もしかして、あの時と同じ薔薇だったり……?」
「あぁ……、多分、今朝店の花の手入れをした時に最後に世話をしたのが、あの時朱ちゃんが初めて買った薔薇だったからかな? その匂いが多分付いたままだったのかもね」
「付いたままでよかった……」
 そう言って私は、橋元さんの身体に顔を押し付け、グリグリと頭を寄せた。
「……この香りすごく安心する」
「……朱」
「ん? 何……?」
 名前を呼ばれて、私が返事をすると、一旦身体を離されたと思った途端、片手で顎を持たれて、頭上から唇が降ってきた。一瞬の出来事に、唇が離された後も、顔を人生で一番赤くしながら橋元さんの顔を見つめ続けることしか出来なかった。
「……これからは、柊(しゅう)って呼んで」
「え……? し、下の名前を呼び捨て……ですか?」
「だって、僕達はもう恋人同士じゃないか。……僕も、君のことを朱(あや)って呼ぶから。いや……、そう呼ばせて」
 『柊』。私が、橋元さんの名前を呼ぶ日が来るなんて。今まで夢でしか名前を呼び合えなかったのに。まさか現実で叶う日が来るなんて。
 でも、いきなり橋元さんを下の名前を呼び捨てするなんて、そんな、おこがましいことをいきなりする勇気が私にはまだ無い。自分が橋元さんのことを『柊』って呼ぶ未来を想像すると、顔から火が爆発しそうになる。
「でも……、私、その……、まだ、しゅ、『柊』って呼ぶ勇気が無いので、その……、しばらくは『柊さん』って呼んでもいいですか……?」
 柊さんの目を見て言うことさえ、めちゃめちゃ顔が赤くなりながら、必死に柊さんの顔を見た。
「……本当にすごいな、君は」
「え?」
 あれ? 橋元さん少し顔が赤くなってる? 
「……いいよ、好きに呼んでくれてかまわないから」
「あ、ありがとうございます……!」
 恥ずかしさが限界を越えそうになった私は、再び顔を柊さんの胸板辺りにうずめた。自然な流れで、柊さんが私の頭を撫でた。その時間が凄く愛しくて、愛しくてたまらなかった。
「はー、幸せ‥‥‥」
「朱ちゃん、両想いになった途端甘えん坊になってる」
 頭上で柊さんの優しい笑い声が響いた。
「す、すみません! 何か、安心してしまって、つい‥‥‥」
「いや、むしろ可愛いよ」
「へっ⁉」
 柊さんから初めて可愛いと言われた私は、思わずバッ、と顔を上げた。こんなにかっこいい人に良い声で『可愛い』なんて言われる破壊力が、思わず心臓が止まりかける程凄い衝撃力とは思わなかった。一体私は、どれだけ顔を赤くすれば気が済むんだろう。
「……柊さんこそ、かっこよくて、スタイルが良くて、優しくて、その…色気があって、完璧な人です」
「ハハ、褒め上手だね、君は」
「いいえ、全て本当のことです!」
 私はドヤ顔気味で言った。柊さんが照れ笑いしながら私の髪を撫で、私達は自然と笑いがこみ上げてきた。あぁ、幸せ。今ならどんな怖いものでも、二人で乗り越えられる気がした。ふと、互いに視線が合うと、私達は目を閉じて、軽い口づけをした。それから何回も、何回もついばむように、唇を合わせた。何回しても、どれだけ角度を変えても、決して飽きることはなかった。抱き合い、唇を合わせ、また抱き合う。次第に、互いの頬、おでこ、瞼など、身体のあちこちにも唇を寄せた。少しくすぐったくて、鼻にかかる声を思わず出してしまうと、柊さんは、これまで見たことの無いような、男の人の顔をして喜んだ。それがひどく扇情的で、私の中の全ての欲をあっという間に、柊さんがかっさらっていった。
 キスだけじゃない、もっといっぱい柊さんに好きって伝えたい。そう、例えば、今朝見た夢の中のように、熱く、とろけるような‥‥‥。
「……もう少し広い場所に行こうか」
「……うん」
 広い場所。そう言って、柊さんが指差したのは、二人掛けのソファだった。私は今から、この人にいっぱい愛される。私もこれから先、柊さんだけを愛し続ける。
 私は、柊さんに手を引かれ、テーブルからソファへと移動した。
「……おいで、朱」
「……はい」
 柊さんは、自分の膝の上に乗るよう私を誘い、私は柊さんと向き合う形になった。私は、両腕を柊さんの首に回し、しばらく熱い視線を交わした。そして、さっきよりも深く、熱く口づけた。
年齢の差は恋の障害になるなんて、誰が決めたんだろう。年の差の恋は実らないなんて、誰が決めたんだろう。そんなの、当事者にしか分からないことなのに。互いに想いが強ければ、そんなものは関係無いにきまってる。
 これは、私の柊さんに対する熱誠だ。誰にも譲らない、邪魔させない。二人の吐息が熱くなっていく間、テーブルに置いてあった麦茶が完全にぬるくなってしまったのも忘れて、私達はずっと二人きりの空間に酔いしれていた。

終            

紅の熱誠

紅の熱誠

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-11-12

Copyrighted
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