巡る世界、刻む時

バンプ

  1. 序章A
  2. あの日 一の死
  3. あの日 二の生
  4. 序章B
  5. 幕間 神魔裁判所にて
  6. 幕間 悪夢の日々
  7. 故郷にて A
  8. 幕間 悪夢の中で
  9. 故郷にて B

序章A

 光が瞬いた。黒色のキャンバスに色とりどりの光が思うがままに描いている。
 二人は丘に腰掛けそれを見る。
「どう? 星は綺麗?」
 隣に座る少女に問いかける。
「そうだね」
 透き通った声だ。そしてその声に意思は感じ取れない。あまりにも抑揚がない。
 嬉しいのだろうか、悲しいのだろうか、否、何も感じてなどいないのだろう。
 彼女――シエラは常にそうなのだから。
 光に反射した金色の髪と、赤い目が小さく揺れた。細長い睫毛が何度も上下する。
「もしかして眠い?」
「うん」
 返事をする頃にはもう首が船を漕いでいた。
 めっきり寝ていない、ということはないのだが、これ程穏やかな世界は久しかった。それもあってか夜空の星々が行灯のようにも感じられ、心地よく思っているのかもしれない。だが、警戒を解くわけにもいかない。アイツらがいつ来るのか、それはわからないのだから。
「眠いのはいいんだけどな。まだ答えを聞いてないよ」
「答え?」
「星空を見せた答え」
 満点の星空を見たい。そう願ってみせたのは他でもないシエラだ。それを叶えるためにこの世界のトビラを開けた。この世界が一番の最適だと判断したからだ。その思惑通り星空は燦燦と輝いている。
「疑問があるよ」
「何かな」
「星空はあそこまで色は強くないよ。私の世界では少なくともそうだったもの」
 空を指差し、指摘したシエラに僕は口ごもる。確かにそれもそうではあるけど。
「精霊、ってのが何かしらしているらしい。ユイさんの説明はよくわからなかったよ。でも、綺麗ではあるでしょ」
 そんなことも言われてもなー、と隣で呟く。
 シエラは顔を膝につけ、言葉を続けた。
「それでは答えを述べます」
「どうぞ」
「つまらないね」
 いつだってそうだ。願いを叶えた後の感想は、初めから――二年前の旅を始めた日から何も変わらない。そして、こう続ける。
「次の願いを言います」
「……どうぞ」
「わたしを殺して」
 もう聞き飽きたその言葉は何も動じない。もう慣れ切ってしまった。
「却下。他の願いにしよう」
「えー、ケチ」
「ケチって……」
 その言い草はよくわからない。
「じゃあじゃあ、真人のいた世界に連れてってよ」
「……僕の?」
 と尋ねると、シエラは頷いた。
 まずい。明らかなイレギュラーに困惑する。
 通常は渋々、シエラのしたいこと(本当にしたいのかどうかは不明だ)や見たいことを願う。その中で真人の世界に行ってみたいなんて、今まで一度として願ったことは無かった。
 ここで却下と言えばそれまでだが、折角の願いを無下にするのも躊躇われた。
 立ち上がり、少しシエラと距離を取る。ユイとの会話は出来れば聞いて欲しくないからだ。僕はユイのシニカルな調子に、少しだけ感情的になってしまう節があった。要するに、かっこうの悪いところをシエラに見せたくないだけだ。
 ポケットから携帯電話を取り出す。どういうわけか相手の世界が違おうと通話可能な代物だ。しかしながら番号を登録しているのは一件しかない。この番号はユイへと繋がる。ユイはアイツらからひっそりと僕らをサポートする存在だ。
 メッセージでのやり取りも可能だが、基本的には通話をする。まず彼女は寝ているためメッセージは半日は読まれることもない。悠長にしている時間もないため、着信音でたたき起こし、やり取りをするしかない。
 着信音を切ってやしないかといつも不安になる。
 七回目のコールでようやく繋がった。
「やっほー、女の子の寝起きだよ。喜べ」
「願いを叶えました。変わらず――」
「殺して、って言われたんでしょ」
 僕は黙ってしまう。
「はあ~。溜息出るねぇ、真人クン。普通好きなだけの女の子に対してそんなにするかね。そのカギがあれば君一人どんな世界だっていけるっていうのに」
 首からさげたカギを僕は握った。世界と世界を繋ぐカギだ。これを使えば様々な世界を行き来することができる。
 確かに僕一人でも世界を渡り歩くことができる。一人ならアイツらを振り切ることだって簡単とは言わずとも、今よりは。そんなことは、初めからわかっている。
「でも、決めてますから」
 彼女を救ってみせると。
「はあ~」
 再び大きな溜息をつかれた。
「あの、そろそろ本題に入りたいんですけど」
「はいはい、次の願いね」
「僕の世界に行きたい、と」
 少しの沈黙を置いた上で、ケータイからは爆笑が聞こえ始めた。
「ははははは! 地球って! よりにもよって地球って! はははは!」
 僕はケータイを耳から遠ざけた。こうなるとしばらく止まらない。
 笑い声が絶え始めたのが実に一分は経過していた。
「いやー、そうきたかー。私でも流石に読めなかったわー。具体的な願いは無い感じなんだね」
「はい。とりあえず行ってみようかなと」
「ふーん。で、実際どうなの?」
「どうなのって、何がですか?」
「いやいや分かるでしょ。自分の世界に行くのってどんな気分なのかって」
 僕は眉をひそめた。
「別に何も思ってません――」
「嘘つけよ」

「嘘はいけないね。自分が死んだあの日のこと、鮮明に覚えている癖に。ねぇ、真人クン?」

 死んだ。そう、僕はもう死んでいる。シエラも、ユイでさえも。
「前から気になってたんだけどさ」
 ユイの声が沈黙を破った。
 僕は携帯電話を強く握りしめていた事に気づき、一呼吸置いて次のユイの言葉を待った。
「どうして姉を救おうとはしないの? その鍵を使ってしまえば、それでいいのに」
「……それは」
「まさか目の前の少女一人救えずに、姉なんか救えるはずがないなんて思ってないよね」
 僕は答えなかった。再び沈黙を破るのもまたユイだった。
「まあいいや。私も暇なことだし、君の自由ってことで。――さて地球だね。いい場所と時間を指定しておくから、しばらく待っててね。それまで頑張れ~」
 通話を終えた。途端に脱力する。
 見透かされてる。そんな感覚を僕は覚える。
 その深層にある感情を、複雑に絡み合ったものを、ユイは全て見透かすように思えて仕方が無かった。
「……こうしてる場合じゃない」
 急ぎ足でシエラの元へと向かう。
 そして、二人が座り込んでいた場所へと戻ってきたが――、
「……!?」
 シエラの姿が何処にも無かった。痕跡一つ残さず。
 最悪の事態が頭を過る。
「シエラ! シエラ! 居たら返事をしてくれ!」
 反応は、ない。だが辺りを見渡すと妙なことに気がつく。
 林の奥で不自然に葉が動いている。それを見や否や、林まで駆けた。
「――」
「――て」
 声が聞こえた。誰かと話しているのだろうか。真人は上手く聞き取ることが出来ない。
「居るのか、シエラ」
「……大声出さなくても分かるって」
 呼び掛けると葉を頭の上に乗せたシエラが出てきた。
「良かった……」
「随分と焦ってたね」
「あ、いや、それは……」
 自分が思っていた以上に感情的になってしまっていた。気恥ずかしさで、顔をうつむかせた。
「そ、そんなことどうでもいいよ。っていうか誰かと話していた?」
「えっと、木の妖精がね」
 どーたらこーたら、とシエラは濁す。
 まあ今更彼女の奇行を訝しむほど素人じゃない。
「ねぇ。あれって何かな」
 と、僕は視線を向ける。
「っ、隠れよう」
 咄嗟にシエラの手を捕まえて走り去る。
 あれは天使だ。僕たちを捕まえようと動く、天界の使者たち。
 それらに生気はなく、まるで機械だ。僕たちを捕まえることを目的とした機械。しかもそれは一体ではない。何体もの天使が僕たちへと迫りくる。
「まずいな。逃げよう」
 天使の一体がこちらへとやって来た。感づいたわけではないだろうが、急いで踵を返す。右手でシエラを引っ張りながら。
 こういう逃亡は一度や二度じゃない。何度も何度も天使から逃げ切るために、その手を引く。果たしてシエラを救ったところで、意味なんてあるのだろうか。
 ――ないか。どうしようもなく意味など無くて。どうしようもなく自分勝手。
 そんなことは旅が始まったあの日からわかっていたことじゃないか。

あの日 一の死

 ――死にたい。
 ……。

 ――死んで消えちゃいたい。
 ……。

 ――ああ、そうなんだ。
 ……。

 ――真人も、助けてくれないんだね。

「――はぁっ」
 ベットから飛び起きて肺へ空気を送り込む。悪夢だった。
 何度も頭に叩きつけられる悪夢。
「もう許してくれよ」
 その言葉は届くのか。死人に口はないという。それどころか目も耳だってありはしない。
 あるのは遺された人々の想いだけ。
 それが僕の場合後悔だったということだ。
 忘れるべきでないものだとしても、思い出すべきものとは限らない。捨てるべきものでなくても、見えないように蓋をして、誰に咎められるという。
「だから、もう」
 ――出てくんな、姉ちゃん。
 部屋を一瞥する。カーテンから差し込む光はまだ弱い。午前四時ごろといったところか。
 再び僕は眠りについた。

 太陽が弱い光だからといって、決して早朝というわけじゃない。そのことに気づかされたのは、既に短針が真上を指していた頃だった。
 頭上の雨雲を睨みつける。無遅刻無欠席が誇りの僕に大層なことをするじゃないか。雨が降っていないのが幸いだ。僕は急いで自転車を走らせた。
 校門近くに着くと、既に帰宅している者がちらほらといた。
 今日は午前授業だっただろうか。だとするのならとんだ徒労だ。
 けど、折角だ。
 反対方向へと進む自分へ奇異の目が向けられるも、足を止めることは無かった。

 廊下と教室に人気は無い。体育館や運動場から声や音が聞こえてくることを考えると、今は部活動の時間に移項しているのだろう。
 やはり今日は午前授業のようだ。
「うーん、今日って何かあったか?」
「あ! よう真人! 遅かったじゃん」
 と、思考していると突然背後から声がかかってきた。
 振り返ると見慣れた男がそこに立っていた。
「おはよう、渚」
「もう昼だっての」
 この男の名は黒沢渚。この高校ではかなりの有名人だ。
 スポーツ万能、学業秀才、顔面偏差値も高めでおまけにいい奴ときたものだから学校ではかなりの知名度を誇っている。
 そんな男が僕みたいな至って取柄のない人間と親しくなるのだから、人間分からないものだ。まあ、親友とか友情で結ばれているとかそんな間柄じゃなく、腐れ縁のようなものだと思っているけれど。
「その本って……」
 渚が片手に持つ本が不覚にも気になってしまった。
「おお聞いてくれるか!」
 あ、やばい。聞かなきゃ良かったかも。
「これはな、『異世界転生大全』だ!」
 と、表紙をこちらに突きつけてくる。
 方向転換し、部室へ向かうことにした。僕の態度はお構い無しで渚は捲し立てる。
「そもそも異世界転生っていうのは、人の興味を一番そそれるジャンルなのさ。平凡な世界を平凡に生きている凡人が、突然夢のような世界に行き夢のような活躍をするという――」

「――そもそもにこの転生ネタっていうのは、浦島太郎もそれに近いと考えているね。つまりは、古来から人間が好むものは転生一つに籠められていると言っても過言ではない!」
「へー」
 疲れないのかなコイツ。
 人間誰しも欠点がある。この夢にまで見るようなエリートの欠点は、度が過ぎるオタクということだった。彼もそれは承知しているようで、誰しもにこんな姿を見せるわけじゃない。この事実を知っているのは、僕も組する複合部だった。
 複合部とは、漫画研究部、文芸部、美術部が統合された部だ。年々部員の減少で結果、三つ統合となった。僕は美術部に、渚は文芸部に所属するつもりだった。統合された際に僕は渚と知り合い、今に至る。
 扉を開けると、絵具やらパソコンやら漫画のネームやらが机に乱雑に置かれている。まるで獣にでも襲われたようだ。
 人の姿はない。汚いのはいつものこととしてそれはおかしい。少なくとも何人かは屯していていいはずだ。
「ホントに獣に襲われたとか」
「祭りの準備でしょ」
「あ、あー」
 ようやく合点がいく。そうか、今日はその日か。
「鳩村祭り、まさか忘れてたとはいわないよね」
 この村で年に一度の祭り、それが鳩村祭りだ。七月七日。七夕に行われるこの祭りは、大きな賑わいをみせる。
 小さい村だからだろう。大人、子供、村じゅうの人々が一丸となり、この祭りへと乗り出す。
 ちなみに行くつもりない。
「僕は行くけど、真人もどう?」
「今のところ行く予定は無い」
「どう?」
「ないな」
「一緒に行きましょうよ!!」
「耳元で喚くなよ!」
 声、結構大きいんだから。
「で、どう?」
「……分かったよ。行く」
「良かったー」
 と、渚は快活に笑った。これまた裏表の無さそうな笑顔である。裏の顔はとんでもないけど。
「これで、最後の思い出が出来るよ」
「自分で言うなよ。――それくらい、察せれる」
 渚はこの夏を最後に、この村を出ていく。
 都会に引っ越すらしい。理由は父親の出世。なんて単純な理由で、僕たちは引き裂かれるのだろう。
 僕は決して友達は多くはない。人と深く関わることを、僕は拒絶しているからだ。そんな僕に渚は接してくれた。何度も何度も。ついに僕の壁が崩れるころには、きっと絆ができていた。
 そんな渚が最後の思い出だと提案してくるのなら、断れるはずも無かった。
「それにさ、絵の練習にもなるわけじゃん?」
「渚が祭りのシーンなんて入れなければ良かったんだけどね」
「ははっ、ごめんごめん」
 二人とも席に着き、作業を始める。
 渚は文を書き進め、僕は絵を描いていく。
 僕たちはコンビで漫画を描いている。まだまだ未熟な二人だが、得られるものはある。二人で一つのものを作る楽しさは何にだって代えがたいものだ。きっと僕たちは将来ずっと続けていくのだろう。そう、思っていたのだけど。
 キーボードを打つ音とマウスの音だけが響く。
 しばらくすると、その静寂の空間は携帯のコール音でかき消された。
 二人とも一方を見合う。
「……出れば?」
「あ、僕か」
 時計を見る。
 作業を開始して、二時間が経っていた。本当に時間というのは残酷なのだと思う。
 既に起こったことは、永久に残り続ける不可逆の真理。たとえどんなに後悔しようと、取り戻せない何か。それを運命と呼ぶのなら、下らないものだと思う。そして同時に、残酷なのだと思うのだ。
「悪い、渚。少し寝るよ」
「ん、おお。――もしもし?」
 ソファーに横になり、少し痛む頭を擦りながら、眠気に身を委ねていった。
 
 目覚めた。活気ある声がどこからか響く。既に祭りが始まっているのか。
 机には弁当が置かれていた。
『昼飯もまだでしょ。買っておいた。祭りではこの代わりに奢るように! 公園に七時集合な』
 そういった文面だった。
 気がきくのだか、ズル賢いのだか、よく分からない。おそらくどっちでもあるのだろう。
 時計は六時近くを指していた。
 怠い体を起こし、急いで弁当のテープを取っていった。

 鳩村祭りなんて大したことはない。この村一番の行事といったところで、総人口三百人にも満たない小さな村だ。本当に大したことではない。具体的に言うのなら、屋台が五軒並び、子供達は鉄棒だの滑り台だのして遊び、大人達は世間話を交わしながら酒を飲んでいく。ただそれだけのこと。
 少し変わったところをあげるなら、踊りだ。踊り自体はなんてことのないものだ。だが十メートルはあろうかという鉄のモニュメントを囲み、踊る姿は少し不思議で不気味だ。モニュメントの中には火が灯されている。何十人という人の影が作り出される。まあ、これも含め大したことはない。
 時計を見る。既に七時は回った。
 帰るか否か思い悩んでいると、電話がかかってきた。
 相手は思った通り渚だった。
『えーと、まずは……ごめん』
「事情を話してくれ」
 渚が約束をすっぽかすのは相当に珍しいことだった。
『いや、その、もう鳩村には帰れそうにないんだ』
「……何だって?」
 思わず聞き返してしまう。
『向こうに先に住んでたおばあちゃんが倒れちゃって。ちょっとよくないらしくてさ。それで――』
「いいよ。わかったから」
 渚の声が少し震えているから、もう充分だった。
「今日はもう仕方ないけれど、また今度鳩村に遊びにくればいい」
『そこで、提案なんだけどね』
 と、渚は唐突に言った。
『真人に勝負をしかけようかなと思います』
「なんだ突然」
『どっちが先に、プロになれるのか、勝負しよう』
 渚の提案はこうだった。
 お互いプロとしてデビューし、それまでお互い会わない、と。己の技術を磨き、そしていつかまた会おうという。
 僕は絵描きとして、渚は物書きとして。
『だめ、かな』
「……いいよ。その勝負受けて立とう」
『やった!』
「だけど途中で逃げ帰ってくるんじゃないぞ。立派なプロになって、僕たちはまた会おう」
『うん、約束だ』
 通話を終えた。
 見つめた火がより一層強くなった気がした。
 渚が提案した祭りのシーン、書き上げるとしよう。
「何か変な音しねぇか?」
「そうか?」
 不意にそんな会話が聞こえた。
 変な音?
 耳を澄ますと確かに、何か音がする。人が発する音ではない、もっと重い何か――。そうだ。それはまるで、金属の悲鳴のような――。
「お、おい、やばいぞあれ!」
「離れろ!」
 四方で叫び声が連鎖する。
 金属の悲鳴はより明確に耳に届き、原因の予感さえ形作った。
 ――鉄塔だ。
 後ろを振り返る。
 そこには、異様に傾いている、否、傾き始めた鉄塔の姿があった。
 その影は僕の足元に伸ばしている。倒れる。しかも自分の方へ。何たる不運。
 僅かに時間は残されている。脚を大きく二歩だせればまだ助かる距離だ。
 目の前にもう人はいない。早く自分も避けないと――。
 だがその脚は半歩で止まった。
 何故か?
 視界に女の子が入ってきたからだ。女の子の後ろに映るのは、今にも潰そうとする黒の鉄塔。
 女の子はこちらを注視して、逃げようともしない。気づいていないのだろうか。たこ焼きを口へ頬張っている。呑気なものだ。
 このままでは女の子は死ぬだろう。助けたところで、結局は自分が死ぬ。それでは意味が無い。代わりに死ぬ。それは美しくても、きっと正しくはない。
 だから僕は――足を少女へ向けた。
 正しさ、なんてもう自分にはありはしない。人を既に一人見殺しにしておいて、どんな正しさを唱えろという。もう逃げるのは――たくさんだった。
「――!」
 両手で彼女を突き飛ばす。思いの外勢いが出てしまった。声もなく彼女は遠くへと倒れこんだ。
 そうだ。これでいい。
 一瞬の思考の内に衝撃が全身を包み、意識を霧散させた。
 そして――

あの日 二の生

 そして――視界を白が支配していた。
 残念ながらそれは病院の天井の白ではない。シーツの白でもない。
 その白には、距離が無かった。
 どうやらそんな空間に一人、倒れているらしい。身を起こし、辺りを見渡せば、とうとうそこが何も無い世界だと理解した。
 床の概念はどうやらあるようだが、壁は無さそうだ。
 自分は一体どうしてしまったというのか?
「おーい、こっちこっち」
 唐突に声がかかる。振り返ればそこには女性が居た。
 橙色の髪の毛と肌がこの空間だととても映えた。首に鍵のようなものをかけている。彼女の後ろには机があり、その上にはパソコンのようなものが置かれていた。状況が全く読めないアイテム達だ。
 彼女の顔にはニヒルな笑みが浮かんでいる。全く動揺する素振りはなく、それどころかこの空間に慣れてさえいるようだった。
 突然だが、ここでとんでもない失言をすることになる。後から死にたくなるほどの後悔を残す台詞を。
「女神?」
 僕は彼女に対してそう言ってしまった。
 決して彼女から神々しさを感じる訳ではない。美人ではあると思うが、人間離れしている程ではない。この空間が死後の世界を彷彿とさせ、さらには渚の『異世界転生に導いてくれるのは、女神と相場が決まってるのだ!』という言葉から、彼女を女神と誤認してしまった。
 何度も言おう。後悔することとなる。
「はぁ~~~女神ときたか! いやー確かに私は可愛くてスタイル抜群だけどもねー!」
 再三言おう。後悔する。
「あー何か普通に照れてきちゃったけども。さて、自己紹介するとしよう。私はユイ。異世界管理局の一人さ。君の死後をサポートさせてもらう。よろしく」
「あ、あの、今あなた――」
「ユイちゃん、って呼んでよ」
「……ユイさん。あの、今死後って言いましたか?」
 何となく、そんな気はしていた。
「そ、君はもう死んだの。女の子一人救ったついでに、鉄塔に潰れて死んだ」
 そうだ。自分は――死んだんだ。
「そう悲観することはない。君以上に辛く苦しく、不幸なまま死んだものだっている。ちょうど君のお姉さんがそれに当てはまるかな?」
「――!」
「怖い顔しないの。ぜーんぶ結局お見通しなんだからね」
 ユイは以前として笑顔を浮かべている。だけどそこに安心なんてない。一種の恐怖すら埋め込む材料だ。
「真人クン。君には選択肢が二つある。『異世界へ転生』するか、『天界で暮らす』か、だ。異世界転生、という言葉に聞き覚えはあるかな?」
 詳しくは知らないが、渚が熱く語ってきたあの内容と相違は無いだろう。
 僕は頷いた。
「良かった。それなら話が早い。後は実践するだけだね」
「実践?」
 ユイは背を向け、机の上のデバイスに手を置いた。
 パソコンを開き、画面にユイさんは指を躍らせる。じきに画面は青白い光を発する。起動したのだろうか。何らかのページを開いているようだが、よく見えない。
「この装置は中々面白くてね。転生先を検索し、決定することが出来る。そうだなー。『可愛い幼馴染がいて、美人のお姉さん、ツンデレ妹、同クラスには生真面目学級委員に、文学メガネ女子、親は海外出張で一年程不在の世界』と検索しよう」
「何ですかその悍ましい世界……」
 渚なら飛びつきそうな世界だけれど、自分にはごめんだった。
「よっと……はい、これがその類似した世界達だ」
 ユイはデバイスの画面を見せた。
 点だ。点が無数にある。
「そして、ほいっ」
 ユイが点を一つ指定する。
「そしてカギに情報が入ってくる。世界、そのものの情報がね」
 金色に輝くカギを僕に見せた。
「そしてこのカギをくるって回せば簡単にトビラができる。君はその中に飛び込めば、晴れて異世界ライフを楽しめるってことだ」
「トビラ、なんてありませんけど……」
「そこが問題でさ。ちょっと反映に時間かかるんだよ。改善されたカギの作成にとりかかってるらしいんだけど、一向に出やしない」
 結構その時間気まずいんだよねー、と続ける。
「そして後一つ、『天界で暮らす』なんだけどーーこれが中々楽しいんだ。天界は至って普通にコミュニティを築いているのさ」
「……でもここには何も無いみたいなんですけど」
 先程と同様に、この世界に変化はない。白で満たされた世界に、社会なんて見受けられない。
「そりゃだって、ここは天界じゃないからね。君の魂と私を繋ぐ特別な場所だから」
「魂?」
「うん。君はまだ生を受けていない。『異世界転生』と『天界で暮らす』という選択肢は、つまるところ、第二の生をどこで受けるかということなんだよ」
 というわけでだ、とユイは一つ手を叩いた。どうやら、まとめに入るように見える。
「君に大した願いがあるようには見受けられない。なら、選択肢は最早一つだろう? 『天界で暮らす』。それでオッケー?」
「いや……ちょっとぐらい時間が欲し――」
「よし決定! おめでとう!」
 さらにもう一つ手を叩いた。そうすると、白の空間は銀色の壁に塗り変わる。一室に俺はいつのまにか居た。これが生を受けたということだろうか。それにしてはあまり実感の湧かないものだ。
「では、改めて。ようこそ、真人クン。異世界管理局として、ではなく、天界の一人の住人として、君を歓迎するよ」

 理解ができないことが多すぎる。死んだ後の世界があって。カギやらトビラやら異世界転生やらのシステムがあって。今、眼前に広がる景色そのものだって。
「凄いだろー」
 ユイは僕を先導して歩く。
 白の空間から変化したのは銀の空間だった。それはユイの部屋らしい。そこから外へ連れ出されている状況だ。管理局を出る直後に、目の当たりする光景がとんでもなかった。
 人間じゃない何が闊歩している。これはまだいい。問題は、前時代的な現代的な近未来的な、果てには形の判断すら難しい建物の乱立だ。正直、圧倒される。不思議過ぎて、異質過ぎる。正に、『異世界』が目の前に存在していた。
「この天界には様々な世界、時空からやって来る。それは人間だけに留まらない。オークやエルフ、UMAまでなんでもござれさ。そんな超異文化混合コミュニティーが普通な訳がないだろう」
「嘘つきましたね」
「君の驚いた顔が見たかったんだ。それに、私は基本的には嘘つきだぜ」
 ハハハ、とユイさんは笑った。
「さぁ、振り返ってみて」
 後ろを見る、つまり異世界管理局を見ることになるわけだが。まあ、もう動揺しまい。
 銀の縦長の長方体。窓も屋根も無い。というより頂上が見えない。首をいくら上に傾けようと、その頂上が見えることはなかった。
「ここが異世界管理局だ。地味な仕事だから、外見も地味なの。これからは君も……違った、私達管理局員は住み込みで働いているんだ」
「そうなんですね」
 言葉の中に不穏な因子を察したが、触れないでおくことにした。
「そしてあっちに見えるのが」
 ユイさんはまた別の方向を指差した。
「うわ……」
 巨人でも入るのかと疑う程の大きさだ。異世界管理局だって大きいが……あれはもうスケールが違い過ぎる。教会を何倍も巨大化させたような外見で所々に金の装飾がある。ただの建物じゃない。すぐに判断出来た。
「神魔裁判所。その名の通り、悪を挫いて善を助ける。公明正大の神聖な空間だ。神は単純で良いよな。人を平等に助けて、人を平等に罰する。美しいねぇ。笑っちまうよ」
 そういうユイさんの表情は笑ってない。それどころか一瞬冷めた顔つきをしたようにさえ思える。
「神に恨みでもあるんですか?」
「んにゃ? なーいよ。ないない」
 ユイさんは微笑を浮かべていた。
 この人、掴み所が無いというか。何処が本心で嘘なのか分からないというか。
 あの日の姉に、不思議と重なった。
「さて、行こうか」
 再び僕はどこかへと導かれた。

 食堂だ。当然、普通じゃない。
 厨房にいるのは鬼だ。赤鬼。本当に虎模様パンツを着てるんだ……。
 食堂の内装はそれに比べて至ってシンプルだ。所々花もあってオシャレとさえ感じる。
 出された料理は蕎麦だった。鬼のゴツゴツした手で渡された蕎麦は案外美味しそうだった。この世界は、歯車を狂わされる。
「食べな。おいしいよ」
 ユイは性格に似合わず礼儀正しく食べていた。
 食事を終えて二人顔を合わせる。ユイさんは「大事な話をする」と切り出した。
「君の仕事についてだ。この天界に暮らす以上、何らかの職に就かなくてはならない。もしサボったりしたのなら――」
 ユイの言葉を遮って、ドゴンと大きな音が響いた。聞き覚えはある。というより、似ているのだ。鉄塔の軋む音に。
 大きな金属音だった。その音に伴い地響きもする。
 周りには慌てた様子のものは居ない。いつものことだというように変化は見えなかった。
「タイミングぴったし。ほら、あそこを見てごらん」
 ユイは神魔裁判所を差した。
 先程よりも近い距離で見える。それでも五キロ程は離れていると思うが……相当な威圧だった。
 神魔裁判所の扉が開いている。おそらくはそれがこの音と地響きの原因だろう。建物自体大きいのだから、扉だって異常な大きさだ。本当に巨人でも住んでいるのだろうか。というか巨人が入ることもあるのか、この世界なら。
「『天使』って存在がいわば警察。捕まってるのが今回の受刑者。天使は神の使いだ。仕事をサボりなんてしてみろ。すーぐに飛んでくるぞー」
「無職が罪……」
「質が悪すぎるよな全く」
 ユイは溜息を吐く。
「厳しすぎるんだよ。殺人なら捕まったって仕方ないけれども、少しの窃盗さえ許しはしない。パン切れ一つで地獄送りさ。お陰様で今日も天界は平和ですよー」
「……もしかして仕事をサボれないから、嫌ってるんですか?」
「そうかもしれないね」
 さてと、とユイは向き直った。
「天界での仕事選びは第二の人生を左右するものだ。何せ君の命が関わっているんだからね」
「……あの、何にもでもなれるってことでいいんですよね」
「まあ大抵のものは。消防車には流石になれない」
 そんなものにはなれなくていい。でも、具体的なものは何一つ頭に浮かばない。
 将来の夢、どころか、一つのビジョンさえ俺は無いのだ。ああなりたいとか、憧れるとか、そんなものは何一つ無いのだから、頭に浮かぶはずもない。強いて言うなら――画家、とか。あるいは、コンビの漫画家とか。
「見たところ君は積極性とコミュニケーション能力に欠け、さらには地味ときている。そんな君が就くべき仕事といえば――」
「何しようとしてるんですか悪いことは言わないので止めてく――」
「異世界管理局員だ!」
「……」
 そんな気がしてた。本当にこの人は……。
 ユイは手元の紙にさっと異世界管理局員と綴った。その後、『処理』という文字が滲んだように出てきた。
「いようし! 君もこれから局員だ! ってことで後輩クン、ここは奢りたまえ~」
「ユイさん」
「なんだい?」
「ユイさん」
「なんだよう」
「ユイさん!」
「な、何だってば」
「お願いします。どうか地球に、いえ、もうなんだったら何処でもいい! 何処でも転生させて下さい!」
 こんな気分になるのは久し振りだ。
 もちろんこの世界に俺は圧倒されているわけだけれど、一番圧倒してんのはユイさん、あんただ!
「む、無理だって。天界からの逃亡は最も罪が重いんだぞ」
 泣きたいを通り越して、もう何もしたくない。
 渚、俺はとんでもない世界で、とんでもない人物と会ってしまったかもしれない。お前の言う個性が立った女性だぞ、喜べ。
「鍵を下さい!」
「なっ、むぐぐ! させるかっ!」
 この小競り合いはしばらく続くこととなる。

 ユイの行動は理に叶っている。己の欲望の赴くままに動くから。無論、周りは見ない。そのくせ、向こう見ず。
 人間というよりも、動物に近しいと思う。
 どうやら俺を管理局員に就かせたのは、ユイさんいわく『もう一人引き込めばより高い階級になれるの! 管理職! サボり放題わっほい! 許して!』らしい。ちなみに許さない。
 どうやら僕はユイが使っていた部屋を、これからは自分の部屋と扱うことになるようだ。 女性の部屋ではあったのだろうが、女性らしさなんて何もない。銀の壁に覆われた部屋に在るのは、ベッド、窓、テーブル、その上のデバイス。その程度だ。牢獄のようにさえ思えてくる。
 ベッドの上に置かれた管理局員の制服に着替える。白と黒のコントラストが特徴的な制服だった。着心地は案外悪くない。
 そしてカギだ。ユイから渡されたカギを首にかける。紛失すれば大目玉なようで無くさないよう釘をさしてきた。
 テーブルの上に紙が置いてあることに気がついた。
 ユイの言った通りだ。帰路の途中、ユイさんに仕事の流れを聞いた。
『まずは机の上に紙が何枚か落ちていくる。次に来る魂の情報が記載されているのさ』
 紙を手に取ると確かに、人物の情報が載っていた。
 名前、種別、年齢、世界、人生、そして死因。その人の一生そのものだ。まるで、ずっと見ていたというように。
『魂はその五分後に来る。そして状況説明の後、選択肢を与える。簡単だろ?』
 簡単……だろうか。
 次に来る魂は幸いなことに、同じ人間だった。少しだけ安堵した俺を、白の空間が囲んだ――。

 ようやく白の空間から解放された。
 窓に斜陽が差し込む。少し眩みながら、ベットに座る。
 今日、面会した魂は二つ。両方とも、転生を望んだ。
 ユイの言葉を思い出していた。仕事の説明の最後にユイさんはこう言った。『中々面白いよ』と。
 その言葉を聞いたとき、俺は理解できなかった。でも今なら、面会を終えた今なら分かる。
 確かに面白い、と。
 最初の人物は典型的なオタクだった。オタクが転生を望めば、その世界は限られてくるのではないか。そう予想していたが――。
 望んだのは――友人と笑い合える世界だった。
 拍子抜けだ。純粋に、驚いた。
 彼は最後に「ありがとう」と微笑んで、トビラの先へと消えていった。
 感情冷めあらぬまま、次の紙が来た。種別、オーク。
 彼が望んだ世界、それは――ハーレム世界だった。
 これまた拍子抜けだった。予想外を予想していたが、予想通りで驚いた。
 彼は最後に「ありがとう」とニヤついて、トビラの先へと消えていった。
 そんなわけで、僕の今日の仕事が終わった。
 夕暮れになれば、異世界管理局の仕事は終わるとユイは言った。実際に紙は来ない。
 この二回の面会で分かったのは、これは本質を映すということだ。
 面白い。その通りだと思った。



「わたしを殺して」
「は?」
 管理局についてから半年が経った頃だ。特にその間何の契機もなく心変わりもなく、僕は僕のまま天界を過ごしていた。謳歌はしていない。ユイとの非生産的な会話を交えつつ、過ごしていた。辛くもなく、幸せでもない時間が続いた。
 だが途切れる。
 少女の一言で。
「いや……え? 今、殺してって言ったのか?」
 目の前の少女は喋らない。返事は小さな頷きだった。
 真人は逃げ場を求めるように紙を眺める。つまり、目の前の少女の情報を漁ったのだ。
「え、えっと、シエラ、でいいのか?」
 やはり喋らず、今度も頷いた。
 種別は、吸血鬼のハーフらしい。吸血鬼と言えば容姿端麗とはいうが。確かにシエラは、その言葉に当てはまるだろう。
 金色の髪は透き通るようだし、赤目は水晶のように見え、白い肌と整った顔は男を惑わせること間違いない。だが、そうだとしても。彼女は人形のようにしか見えない。美しさをよく人形と例えるが、彼女の姿は文字通り人形だ。目は虚空を見つめる。自分へ目を合わせようともしない。興味すら抱いていないだろう。空気に話しかけているのではないかと思える程だった。
「もう一度説明するとだな」
 と、二つの選択肢を再び伝えようとしたが「いらない。殺して」と呟かれて、遮られた。
 二人の間に沈黙が居座る。
 どうするべきか。その答えを導き出す前に口を開いたのはシエラだった。
「天界へ住めば、死ねるの」
「……寿命はある。殺人だってあるらしい。だから、まあ、死ねると言えば死ねるかな……」
 しどろもどろだ。だって、当たり前じゃないか。
 確かに絶望を抱きやってくる魂は数多だ。元の世界へ返してくれと泣きつかれたことだってある。願いは千差万別でわざわざ辛い世界に行くものもいる。理解はできないけれど。でも、死を選ぶ者は誰一人として居なかった。終わりを望む者なんて、ただの一人も。
「転生は? 死んだらどうなるの?」
「……どちらの選択をしようと、死ねば輪廻転生に回される。つまり、こうして生き返ることはない……けど」
 なんだよこんな会話。死ぬために、死を主軸として話してる。おかしいよ。
「……死にたい」
 ――死にたい。
 重なる。
「……死にたい」
 ――死にたい。
 重なる。無作為に。――無意味に。
「……死にたいんだね。わかったいいよ。この世界に住んでさっさと高いところからでも落ちたらいい」
 心臓がうるさい。いいんだ、これでいいんだ。
 見たくないものには、蓋をすれば――。

 ――真人も、助けてくれないんだね。

 ああ、僕はまた、逃げようとしているのか。
 背負った十字架が重すぎて、ちらつく後悔が重すぎて。俺は何度も、目を瞑ってきた。逃げ出したくなるこの現実に。
 そしてまただ。どうしてまた来るんだよ。
 もう、許してくれよ。
 ――違うのか。俺は、許してもらう存在ではなく、償う人間なのか。償い。
 これは自己満足だ。この子は姉ちゃんじゃない。救ったところで、何にもならない。償ったところで、十字架が軽くなるだけの。それだけに過ぎない。
「……はぁ」
 溜息をつく。決心をつけた。
「出よう。この天界から」
 迷いがなかったわけじゃない。きっと正しい選択じゃない。マニュアル通りに動くなら、どうでもいい世界にでも送ってやればいい。
 でも、しなかった。自分は正しくないからだ。そして、正しくないことを繰り返す。そういう答えだった。
「?」
 シエラは首を傾げた。
「適当に世界を渡り歩こう。それが良い」
 良いわけがない。そんなことは分かってた。
 それでも僕は準備を進めた。白の空間を解除する。
 デバイスに適当に打ち込み、世界を検索し始めた。
 横目でシエラを見ると、未だ理解している様子はではない。気にも留めず、カギに手を伸ばした。このカギは不思議なことにトビラを開く時間を必要としない。ユイに尋ねると「新型がもう出たのかもしれんねー」ということだった。なんにせよ思い立ってすぐ行動できるのはいい。
 だが突然声がかかった。
「何やってるの」
 聞き覚えがある声だ。シエラではないのは明白だった。
「……ユイさん」
 ユイは部屋の中にいつの間にか居た。部屋の扉は開いた気がしない。つまり、ユイは初めから居た。白の空間を展開している間に、この部屋に入ってきていたということだ。ユイは毅然とした態度で構えていた。
「聞こえなかった? ならもう一度言うよ。何をしようとしているの」
 その顔に笑みはある。いつも通りだ。いつも通りだからこそ、怖くなった。
「前にも私は忠告したはず。この天界からの逃亡は重罪。死なんて軽い罰で済むとでも? 死ぬより辛いことになるよ。今なら踏みとどまれるから」
「踏みとどまったら、どうなんですか?」
「見逃す」
 ユイは簡潔に言った。
「……踏みとどまらなかったら?」
「……」
 無言。しかし空白の時間はその答えを伝えるには十分な時間だった。
 鍵を素早く手に取り、トビラを開こうとする。その行動は唐突のものだ。だがユイも即座に反応した。
「甘いね」
「……速いですね」
 ユイは真人と手を重ね、足をかけ床へ押し倒した。
「柊真人。転生悪用で、逮捕~。――と、言いたいところだけど」
 ユイは体を上げた。それどころか手を差し伸べる。僕は戸惑いつつもその手を受け取った。
「君をサポートするよ」
「――はい?」
 今までだってこの人は意味がわからなかったが、今回はいつにも増して謎だ。見逃すどころかサポートするだって?
「この退屈な日々に飽き飽きしていたんだ。是非とも刺激が欲しい。それだけで理由としては充分だろ?」
 それで充分なのはあんただけだ、と内心呟いた。
「はい、これ」
「ケータイ、ですか?」
「そう。これが私と君を繋ぐ。デバイス操作は私が受け持とう」
 ユイはそう言って、シエラに顔を合わせた。
「巻き込んでごめんね」
「……はい」
 シエラは消え入るような声で応えた。
「さぁ、早めに出た方がいい。いつ天使が勘付くか分からないからね」
「ユイさんは?」
「私のことは心配しなくていい。自分の今後の身だけ心配してな」

 準備が整った。鍵でトビラを開く。いざ入るとなると、想像以上の恐怖と不安が募る。
 足を踏み出す直前でシエラが尋ねてきた。
「名前、聞いてもいい?」
「え? あ、ああ。柊真人だよ」
「そう」
 シエラはそれ以降しばらく口を聞かなかった。
 そして、トビラの先へ歩みだす。
 旅の終わりに何があるのか、何が見えるのか。何も知りえないまま旅の一歩を踏み出す。

 ――こうして僕らの旅は始まった。

序章B

 壁は所々に穴が開き、床はほこりにまみれた無人で半壊状態の家。そんな中に僕とシエラは身を隠していた。
 どうにも逃げ出せない状況にあった。天使達が周りをうろついて離れないからだ。未だ家に入ってくることはないが、それも時間の問題だろう。いずれこのままでは発見されてしまう。ならばと行動を起こすのも一手かもしれない。天使の包囲網から一目散に突破する。
 しかし、僕はその案を一瞬で却下した。天使は異常だ。とても人間と同じ尺度では計れない。単純な力はもちろんのこと、その統一性。かくゆうこの状況も巧みな追い込み漁の感覚で作り出されていた。おそらく彼らは僕達がこの家に居ることを察しているのだろう。強行突破しようとしたところで無駄な足掻きだと僕は考えた。
「……くそっ」
 シエラは隣で蹲ったままだ。自分の脳も、最早打つ手なしと音を上げていた。
 カギはまだ世界を反映しない。だが非情にも、何者かが家へと入ってくる。
 とうとう終わりか、と僕は手を壁へ叩き付けた。
「旅の者よ」
 しわがれた声だ。顔を上げると、 藍色のローブを被っている老人がいた。目元は見えない。杖で体を支えながら、僕たちを見下ろしていた。
「こちらに来い。安全な場所まで誘導しよう」
「でも外には天使が……」
「安心せい。早くついてくるのじゃ。それとも捕まりたいかの?」
 僕は老人を信じる他なかった。

 老人は天使達の位置を完全に把握しているかのように動いた。隙間を縫うように、歩いていった。
 木々を抜ける。どうやら天使たちを本当に撒いてしまったようだった。
「ここからまっすぐにいけば集落がある。そこでやり過ごすといい」
「えっと、ありがとうございました」
 頭を下げる。隣でシエラも小さく下げた。
「うむ。それじゃまたの」
「え? 待ってください……よ?」
 まだ名前を聞いていない。そう伝えようとしたのだが。老人の姿はどこにもなくなっていた。足跡一つ残すことなく。
「何だよ……そりゃ」
 夢でもみたのではないかという感覚が頭を埋めた。

「結局……誰だったのかな」
「さあ。神じゃないことは確かだろうな」
 いまじゃ神様に付け狙われる存在だし。
 老人の言われたとおりに行動し、集落までやって来た。天使の姿は見えない。ここなら安全に移動が出来そうだ。カギは世界を反映した。
「さてと……」
 カギを握りしめ、何も無い空間で回す。優しい光が周りから集まってくる。それはいずれトビラを形作った。
 この先に、地球がある。一度目の人生の場所で、一度目に死んだ場所。
 今まで以上にどう転ぶか分からない。だが、不思議と体は軽い気がした。
 そして、踏み入れる。視界は白に塗りつぶされていった。

幕間 神魔裁判所にて

 ――神魔裁判所内一室
 激しい怒号と落ち着いた声音が、そこに混ざっていた。
「二年! 二年もだぞ! たかが脱走者に何を手こずっている!」
 裁神が一柱、ジルが拳をテーブルへ叩き付ける。尋常ではない衝撃が地面を走ったが、それには顔色一つ変えないとある天使が神と向かい合っていた。
「どうか気をお静めください」
「誰のせいだと思っとる!」
「我々は尽力しております。もうしばらくお時間のほどをいただけますでしょうか」
「貴様ッ、いつもそればかりではないか! クソの役にも立たん雑兵共が! だから私は天界に来る前の世界の脱走者を殺せと言っとるではないか!」
 神が言う案は、天界に来る前、つまり第一の生を全うしている彼らを殺す。元を絶ってしまえばいいというものだ。天使はすぐに反論した。
「その段階では彼らは罪を犯していません。天界から逃げた、という罪を背負う者を捕まえなければならないのです」
「ぐ……ヌゥ……」
「それに」
 天使はもう一言付け足した。
「男はいいですが……女は少々難しいかと」
「……それもそうだな」
 神は椅子にどっしりと腰かけた。
「お任せください。計画は順調に進んでおります。必ず捕らえてみせましょう」
「……ふん」
 では、と天使は神へ頭を下げた。
 その口元に卑しい笑みを引き連れて。

幕間 悪夢の日々

 私は幸せだった。
 夢を見る。今はもう叶うことの無いその夢を。
 幼い頃のこと。
「そろそろ誕生日だよなあ」
 父が微笑んでいる。
「そうねぇ。どんなケーキがいいかしら?」
 母が微笑んでいる。
 そして、私も笑っていた。
 幸せだったから。もうすぐ誕生日を迎えるからじゃなく。日々をこの二人と過ごせるから。大好きな、何よりも大好きな、家族と共に生きていれるから。
 それだけで充分だった。もうそれ以上は、願ったことはない。多少はお菓子やおもちゃをねだったかもしれないけれど。この二人とずっと一緒にいたい。その願いを越すものは何も無かった。
 でも、何故、奪っていくのだろう。
 父の死に顔は優しかった。
 母の死に顔は優しかった。
 父も母も最期にこう言った。
『愛してる』。
 私も、愛してる。だから置いていかないでよ。独りにしないでよ。
 父と母の姿が遠ざかっていく。走っても、叫んでも、永遠の距離が間を埋めていた。手を伸ばす。何も掴めない。
 そうして目が覚める。涙が頬を伝っていた。耳に二人の声がいつまでも残る。
 私は幸せだった。とても、幸せだったのだ。
 だから私は願う。再び会えるなら、もう一度会えるなら。「殺して」と。

故郷にて A

 僕が目を覚まし、目に映った光景は懐かしの土地であった。懐かしさがあると共に、曰く付きでもあった。何故なら、ここは僕の死んだ場所、鳩村公園だった。
 僕はため息が漏れた。この現状はユイの悪意で形作られたものだと察したからだ。
 夜。ここの村も先ほどの世界に負けないほど、星が輝いている。シエラはもう星はどうでもいいようで、夜空を見上げず辺りをただ見渡している。
 公園に人はいない。それはそうだ。この公園を利用するのはせいぜい祭りの時のみ。危険だからという理由で遊具も、ボール遊びも出来ないのではなおさら人は来ないだろう。
 その公園の静けさは辺りとも同調している。町自体が寝静まったように感じる。申し訳程度の電灯が誰も通ることのない道を照らしていた。
 僕はシエラとは違う動機で辺りに目を光らせる。そうして天使の姿が見えないことを確認すると、ケータイを手にとった。
「うーす。無事かい?」
「何とか。変な老人に助けていただきました」
「へぇ? そりゃ幸運だ。神様に感謝しなきゃね」
 あー、いらいらする。
「あの、これって嫌がらせですか?」
「何が?」
「死んだ場所に飛ばすなんて、嫌がらせ以外の何でもないですよね?」
 地球は広い。天界がどれほど広いかは知らないが、少なくとも地球でさえ僕の一生涯かけても全ての土地には踏み入れられないだろう。
 ピンポイントでこの場所に降り立つなど、誰かの作為で無ければ納得がいかなかった。
「ナイアガラの滝とか……せめて東京タワーとかたくさんあるじゃないですか。感動する風景ってやつが。よりにもよってここである意味が分かりません」
「大丈夫。理由はある」
 ユイの声のトーンが低くなる。
「私達にはもう時間がない」
「……」
「もう旅を始めて二年経つ。天界は痺れを切らしてる。もういつ、どんな手段をとってくるかわからない。そして――私もいずれは捕まる。逆に捕まってないことが奇跡さ。私がどれだけ尽力して情報操作しているか知らないだろう? まぁ、限界はある。私が捕まればその時点で君達はゲームオーバー。分かるだろ?」
 ユイが捕まれば、カギは機能しない。デバイス操作は天界にいるユイにしか行えない。カギが機能しなければトビラは開かないということ。そうなれば天使から逃げるのは簡単じゃない。
 時間がない。その意味を僕は理解した。
「……だったらなおさらこんな場所じゃ」
「風景になんて頼るなよ。私は君を信頼してる。信じてるんだ。――君の力でシエラを救うんだよ」
 僕は答えなかった。任せてください、そんな一言を言う自信さえ無い事が悔しくて堪らなかった。
「嘘が上手ですね」
「嘘つきの本音は真実よりも尊いぜ? ともかく伝えたいことは伝えた。……それじゃ、ばいばい。頑張って」
 空を見た。何の変哲も無い、綺麗な星空だ。大丈夫だ。まだやれる。震えそうな足を両手で抑えた。
「……シエラ。行こう。何処から案内しようか――え?」
 シエラは公園のベンチで横になり、寝息をたて始めた。なんとも無防備な姿だった。
「……ああ」
 そういえば、と前の世界で眠りたがっていたのを思い出した。無理はないだろう。
 しかし、休息するには少し心配が残る場所だ。揺すって起こそうとする。だが、寝返りをうたれすぐさま躱されてしまった。
「分かったよ……。僕が起きていればいいんでしょ」
 ベンチ前の地面に座り込んだ。砂利が痛い。
 一つ欠伸をした。
「……少しだけなら」
 僕は地面の平行線となった。シエラの寝顔を横目で見る。救いたい。何としても。
「……馬鹿らしいかな」
 シエラへ背を向け、瞼を閉じた。

 体を不意に動かされた。固まっていた筋肉が痛みを告げる。眩しさが瞼を開いた瞬間に目を満たした。
「――!」
 体を唐突に起き上がらせる。
 朝だ。間違いない。少しだけ眠るつもりが、ぐっすりと。
 ベンチに視点を移す。まだシエラは熟睡している。ほっと胸を撫で下ろした。
「おいおい、おれは無視?」
 はっと、真人はまた頭を動かす。その先に一人の男がいた。
「よっ、真人。久し振り」
 片手を挙げ微笑むのは、一回り成長した渚の姿だった。

「あのさ、渚は僕のこと……」
「ん? 何か言ったか?」
 どういうわけか僕が死んだことを知らないようだ。まあ妙に騒ぎ立てられるよりかはそのほうがいい。
 僕は次の質問をする。
「再開したの何年ぶりだ?」
「六年ぐらいじゃない?」
 僕が死んでから六年後。それがこの世界の時間らしい。
 確かに渚の背丈は大きくなっている。前から十分大きかったが、今じゃ僕は背伸びをしても届かない。
「それはそうと、何で真人は公園で寝てたんだよ?」
「あー、いや、それは……家出だよ。家出」
「家出ー?」
「それで、えっと、旅をしてたんだけど……」
「旅ー?」
「金が無くなって、食糧も尽きて、地元に泣く泣く帰って来た……みたいな」
「ほう?」
 しどろもどろ過ぎる説明だ。流石に無理があるか……?
「そっか。それは大変だったね」
 どうしよ納得された。
「ちなみに後ろの女の子は、誰?」
 僕はシエラをおんぶした状態で、渚と道を歩く。寝息が耳にかかり、いまいち渚の会話に集中出来ない。
「旅先で……出会ったんだよ。それで、一緒に旅しようってことに」
「はー」
 これは流石に……。
「なるほどね!」
 いいやつ過ぎる……。僕が詐欺師ならつけ込んでいる。
 すぐに渚の家へ泊まることを快諾してくれた。
 目の前にある、というより聳えるように建つ和風の屋敷は渚の家だ。
 来たのは中々に久しく、されどその時に見た渚家の様子はあまり変わらない。
 変化は少し家具が減ったことや、所々ほこりがあったりするくらいなものだった。
「……ん?」
 窓を覗きこむ。
 渚家は小高い丘に構えているため、眼下には鳩村が一望出来る。改めてこの町の小ささ、少し寂れた町並みを知ると共に、一つの疑問を抱く。
 集団だった。普段は地下にでも全員寝てるのではないかというほどに、人の行き交いが少ない昼間に、今は驚く程人が歩いている。それこそ、地下での永い眠りから覚め、地上へと這い上がってきたように。
「一体どうなってるんだ?」
「おいおい、忘れたの? ……って、前もこんなことあったね」
「はあ?」
「今日は七月七日。七夕。織姫と彦星が出会う日。もっと言うなら、鳩村祭りもその日でしょ。準備にとりかかるんだよ」
「ああ……」
 なるほど。確かにこんなことも昔あったような気がした。
 見ると、村人は一点に向けて動いている。その先には鳩村公園があるように思える。
「僕が見つけてなきゃ今頃大騒ぎだったろうねぇ。公園でカップルが夜を明かした! 不純だ! ってな具合でさ」
「カップルじゃない! ……まあ、そこんところはありがとさん」
 渚の言うとおり、公園でそのままであったなら騒ぎになっていたことは違いなかった。
 死者が還ってきた、なんて広まれば洒落にもならないだろう。今後は外を出歩く時も警戒をしなければならない。迂闊だった、と猛省する。
「ん……んうぅ……」
 シエラの寝息が止まり、体を起こした。シエラはソファーで寝かせていた。
 片手で寝ぼけ眼を擦っている。
「おっ、お目覚めかな」
「おはよう、シエラ」
「……?」
 状況が理解出来ていない様子のシエラに、真人は渚とシエラ、互いの紹介がてら説明をすることにした。
「えっと、こいつは僕の友達の――」
「親友だろぉ?」
「……親友の渚」
 成長はしていても、こういうところに変化はないみたいだ。
「で、こっちがシエラ。旅先で出会った。訳あって一緒に旅してる」
「ふーん」
 渚はシエラの目の前へと近づいた。
「シエラちゃんはどうして真人と旅をしてるの?」
「なっ……」
 シエラは僕の動揺も、ちゃん付けにも反応はせず、ただ僕に視線を移している。何と答えるべきか迷っているのだろうか。
「ま、まあまあまあ。シエラにだって触れられたくない話だってあるだろ」
 渚をシエラから引き離すように、渚の服を引っ張る。
「親友が誘拐犯か否か、判断するためだったんだけど」
「そ、そんな訳ないだろ」
 見直してみると実際そんな気がする。誘拐犯、って言われたって完全に否定できなさそうだ。
「そういえばさ、お前なんでここに居るんだ――」
 渚に問いを投げかけたが、それは部屋で鳴く腹の音に邪魔をされた。
 シエラの方を眺めると、僅かに彼女の顔が紅潮しているように思える。
「メシにすっか!」
 渚がニッと笑った。

 ラーメン。渚が最も得意とする料理だ。というかそれ以外はまともに作れないらしい。インスタントではなくしっかり麺から作っていく。僕も何度か食べたが間違いなく絶品だ。
 しばらくすると三人分のラーメンが完成した。
「さ、召し上がれ!」
 隣を見るとシエラが箸に苦戦していた。麺が抜け落ちていく度に、悔しそうな表情を――してはいないけれど、そんな気がした。
「あ、そうだ」
 先程聞きそびれた問いを再び渚へ向ける。
「僕がここにいる理由は旅だとして、何で渚がここに居るんだよ?」
 都会へと引っ越しをした渚が、この田舎に帰ってくることは何かしらの理由があるだろうと考えた。それがどうにも予想することか出来なかった。
「ちょっと。約束、忘れたの?」
「約束?」
「どっちかがプロになったら、会いに来ようって話!」
「ああ……」
 そいうえばそんなことを言っていたような気がする。
 だとしたら、渚は――
「デビュー、したのか?」
「ふっ、そうだよ」
 渚は胸を張って答えた。
「そういう真人はどうなのさ」
「あ、えっと、はは……」
 約束をした直後に死んだとあっては、何もできるはずがない。
「そ、それよりお前のデビュー作の内容を教えてくれよ」
 欠片も興味が無いが。
「おっ、いいぜ! まずはな――」
 渚の声だけがしばらく、家の中で響いていた。

 僕がラーメンを食べ終わる頃には、流石に渚のマシンガントークは閉幕していた。
 渚は自分の皿や箸を黙々と洗い続けている。真人が皿を持ってきたとき、いきなり渚は僕の首を腕にかけてきた。
「シエラちゃんのこと好きだろ?」
「なっ……」
 耳元で唐突に囁かれる。もがくが体が固定されたかのように離脱できない。
「そんなわけ……!」
「そういえば今日は祭りだな。シエラちゃんの浴衣姿――どうだ? たまらなくないか?」
 ゆっくりと首を回し、シエラを注視する。
 シエラはようやく箸に慣れてきたようで、伸びかけた麺に息を吹きかけている。その表情や仕草は正直、くる。浴衣姿、かあ。
「で、どうするんだよ?」
「……分かったよ」
 渋々、といった感じで了承する。
「シエラ」
 呼びかけるとシエラは素直にこちらを向いた。
「明日祭りがあるんだけど、一緒に来るか?」
「祭り?」
「ああ、といっても大したことはないんだけど……」
 シエラは少しだけ考えた様子を見せ、その後頷いた。
 僕は祭りが目的の少しでも貢献に繋がればと考えていた。シエラの浴衣姿が見たい、というのも本心ではないと言えば嘘になるけど。
 とはいえ、問題がある。
「でも、肝心の浴衣はどうするんだ」
「あー、そうだったね。考えてなかった。この村の服屋は潰れたしなあ」
 立案しといてそれは無いだろう、と苦笑する。
 しばらくの思案の後、一つの案を思い付く。
「渚、お前妹いただろ。妹の浴衣を借りるってのはどうだ? サイズとかもぴったりそうだし」
 名案ではあったろう。
 妹は渚とは対照的に小柄だ。シエラと同じ程ではないだろうか。
 真人は渚の反応を待っていた。だが、渚は言葉一つ言わない。
「渚……?」
 それどころか渚は苦い顔を浮かべている。
「……なあ、妹って、いや家族は何処にいるんだ? 置いてきたのか」
 それでも渚は答えない。次の渚の言葉は疑問の回答でも誤魔化しでもなかった。
「あ、そうだ! 街に行って浴衣を買ってくるのはどうだろう。まだ祭りまで時間はあるし、いい案だと思わない?」
 渚の顔には笑顔が戻っていた。
 渚だ。いつも通りの渚だ。
 一瞬見えた何かは、きっと別のものだ。
「どう? 真人は」
「……わかったよ。シエラはどうだ?」
 シエラは、コクンと頷いた。それに合わせて麺がするりと箸を抜けた。

 ビルが森のように立ち並ぶ。天界を経験している自分にとっては何でもないものだけど。
 電車に乗り、街へ向かっているわけだが、どうにも両隣が落ち着いていない。
 シエラはずっと窓の先を眺めている。確かシエラは中世ヨーロッパ頃の生まれであったはずだから、こういった景色は見慣れないのだろう。 渚は何やらうずうずしている。どうやら引っ越し先の近くのようで、僕たちを案内したくて堪らないようだった。
 しばらくして、着いた。
 僕は景色こそなんてことはないけど、人混みは別問題。視界に入る人間だけで、鳩村の総人口は優に超えそうだ。
「……」
 シエラは無表情で固まっている。もしかしたらシエラもこの人混みに圧倒されているのかもしれない。
「早くいくよー!」
「アイツ足速っ……」
 シエラと共にその背中を追おうとする。
 だが視界の端で、気がかりなことを見つける。しばらく目を奪われ、呆然とする。ビルに映されたテレビのニュースだ。
 ――六年前の……事故?
「おーい、真人ー?」
「わ、悪い。シエラ、行こう」
 人混みの中を掻き分けて、渚を追いかけていった。

「広いな……」
 最初に案内されたのは本屋だった。駅前の本屋。鳩村にだって本屋はあるが、規模なんて比べるまでもない。一生かけても全ての本は読めまい。
「こっちこっち」
 渚に手招きされ近づくと、一つの棚を指さした。
 本の表紙には大層顔の整った女の子が棚に並んでいた。
「ライトノベル、っていうやつだっけ?」
「そうだとも」
 イラストの女の子がこちらを向いている。何だか居たたまれないような感覚が頭を突いた。対して渚は、その全ての女の子達と視線を合わすように本棚を見回す。
「おっ、あった」
 渚は目的物を見つけたのか、一冊へ手を伸ばした。
「これがおれの書いた本」
「ふーん……」
「いや、もっと何かないの?」
「……他の本と全く違いが分からない」
 渚の本も同様、女の子が表紙にいる。
 特別なアイデンティティみたいなものを、掴みきれない。
「これでも人気な方なんだけどなぁ。結構続いてるし」
「ふーん……」
「絶対興味ないでしょ?」
「あるよ」
 ない。
 視線をすぐにシエラへと移す。
 目立った様子は少ない。ただ目が忙しなく動いている。現代に生きる自分でさえ軽く驚いているのだから、シエラがある程度驚くのは当たり前なのかもしれない。無表情だから内心わかったもんじゃないけど。
「おっ、そうだ。恋愛本の一つでも買わないとね」
「誰が買うか」
「そう遠慮するなよー」
 渚は棚の間を泳ぐように進んでいく。
 渚は恋愛ものの小説を大きな手で鷲掴みしていく。
「これなんていいんじゃない?」
「いらないって」
「何かほとんど死ぬっぽいけど」
「じゃあ本当にいらないよ!」
 渚は結局僕の言葉を聞くことなく買い漁っていった。

 デパートの中。僕の膝は情けない程に震えていた。旅でも同じ、いやこれ以上の徒歩をした経験もあるが、その時を優に越す疲労感。雑踏の中が気苦労となって負担に変わっているのだろうか。
 一方渚はニコニコしながら僕の隣を、シエラは僕らの前を歩いている。シエラは華奢な見た目とは相反して体力は驚くものがある。少なくとも僕では及ばない。吸血鬼のハーフだからか人間ならざる力があるのかもしれない。
 心の奥底でもう一つ考えていることがある。何かの兆しなのではないか、ということだ。シエラは僕の後ろにいつもいた。自分から動くことは、一切無かった。それがこうやって、目の前にいる。自ら歩を進めている。なんてことは無いのかもしれない。家に帰ればいつものシエラへと戻るのかもしれない。それでも何かであってくれと、思う他無かった。
「ほら真人着いたよ」
「え? あ、ああ」
「シエラちゃんー! こっちこっち」
 渚の呼び声につられ、シエラが駆けてくる。
 顔を見上げると、服屋の店名が目に入る。奥に浴衣も見え、ここが目的地で間違いないだろう。
「真人が浴衣を選んであげなよ」
「……店員さん。この子に似合う浴衣をお願いします」
「はい。――わぁ可愛い! お似合いのものを探しますね」
 シエラは小さく返事をして、その中へと入っていった。
 それを見届けると、とうとう僕は音を上げる。
「ちょっと休んでくる……」
「はいよー」
 僕は休憩場所を探し、ゾンビのように歩き始めた。

 シエラちゃんの浴衣を買い終える。チラと見たがかなり可愛い。これは祭りが楽しみだと胸が躍った。
「ねぇ」
 突然、無機質な声がかかる。隣を歩いていなければ気づかなかったかもしれない。
「どうかした? ……ああ、真人ならどこかで休憩してるらしいよ。一緒に探そう」
「知りたいの、真人君のこと」
「……へ?」
 自分の口から情けない声が漏れ出る。
 きっと、顔も情けないことになっているであろう。しばらくの間、渚は身を固めたままになる。しかし、頭は馬車馬のように回転し続けている。この質問の意図は? 理由は? 答えは容易に出ることはない。
 考えろ。考えるんだ。普段自分が書いているようなキャラクターに置き換えてみよう。そうすればきっと心情を理解できる……! 結論として――好きだから、としか出てこない。
「……」
 恋愛脳ならぬラブコメ脳はどうやら、ろくに現実的には機能を果たさないらしい。
 いや、でも、実際どうなのか。
 お互いもしかしたら、好き同士なのか、だから旅をしているのか。二人で。二人っきりで。
 これは嫉妬じゃない。シエラちゃんは充分過ぎる程、美少女と言う冠に合っている。いかにも、二次元的な、美しさも可愛さも兼ねている美少女、なのだ。でも、本人を好きにはなっていない。好きになるには期間が早すぎる。だから、これは嫉妬ではなく、純粋な悔しさ。恋愛に無頓着だった真人が、自分すら抜かしてとてつもないゴールへと辿り着きかけている。
 そんな悔しさが、天を仰ぎ目元を手で覆わせた。
 完敗だ……。
「真人君が、私のことを笑顔にしたいって」
「そんなこと言ったんだ……」
 結構クサイこと言ってんなー。
「それで、何か理由があるのかなって」
「理由、かあ」
 真人は人と壁を作る。深く関わらないように。壊れた時に傷つかないように。
 それがこうやって誰かと旅をする。きっと、安易な理由じゃないとおれは悟った。
 真人がこんなことをしている理由は、一つしか思いつかなかった。
「お姉ちゃんが多分、理由だと思うよ」
 人と壁を作る理由も、シエラちゃんを連れる理由も、全ては――。

幕間 悪夢の中で

 出来のいい姉を持つと弟は苦労する。
 僕と姉は何が違う。同じ物を食べ、同じ時を過ごしてきて、この差は一体何なのだろう。
 いつしか、それは劣等感という悔しさも恨みも募った感情が胸の内にあった。
 僕は、姉が嫌いだった。
 姉はそんな僕に近づいてきた。自分が嫌われていることを察していても、いつも笑みをかけてきた。
「最近学校はどう?」
 ああ、まただ。
 二人しかいない部屋。机を挟んで対面している。あの姉が、目の前にいる。顔は見えない。黒い線がミミズのように何本も重なりあって、その笑顔を見ることはできない。
 部屋の日めくりカレンダーが、少しめくれていく。
「私は……楽しくないかなぁ」
 体が動かない。声も出ない。それでも、日々が過ぎていく。あの日が着々と近づいていく。
 また何枚か、カレンダーがめくれた。
「もう消えちゃいたいぐらい」
 頭が痛い。胸が苦しい。視界が揺らぐ。
 部屋はぐらつき始め、床が泥水のようになる。色素が黒に移り変わっていく。
 カレンダーが、めくれる。
 あの日を、迎える。
「死にたい」
 ……。
「死にたい死にたい」
 ……うるさい。
「死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい!!!」
 ……もう分かった。分かったから。
 姉が席を立つ。
 向こうの扉に手をかける。その時、少しだけこちらを振り返る。あの目なのだ。シエラと同じ目なのだ。光を宿さぬ目。現実を映さぬ目。
 姉は真っ黒な廊下を歩いていく。だんだんその姿が闇に飲まれていく。
 動け。動け。……動いてくれ!
 足が不意に力を帯びる。扉を抜ければそこには――
 首を吊った姉が、音もなく揺れていた。

故郷にて B

「おはよう真人」
「……おはよう」
 再び目を覚ますと、渚の顔が映り込む。少し潤んだ瞳を袖で拭く。
「さ、そろそろ帰らないと祭りに間に合わない。駅まで行こう」
 渚は颯爽と歩き始める。ふと、視線を感じ振り返る。その視線の先にはシエラがいる。少しだけ目があったような感覚を覚えながら、気のせいと一蹴し、渚の後を追っていく。

「時間が無いんじゃないのか」
「時間だけに囚われてちゃ何も始まらないのも事実だよ」
「たこ焼き頬張りながら言うセリフじゃないだろ……」
 駅に戻る道中、渚はたこ焼きを購入していた。デパートにて小走りだったのは小腹が空いたからだったかもしれない。
 たこ焼きは僕にとって嫌な思い出がある。あの、少女と黒い塔を思い出す。唯一救いなのは押しつぶされた痛みは一瞬で感じなくなったというところだろう。あの少女は今、何をしているのか。どのように成長しているのだろう。ユイさんのようにひねくれていないといいのだが……。
「ほらよっ」
「……! もがっ……!」
 渚が突然たこ焼きを僕の口へと突っ込ませる。熱が舌を直に伝わる。
「は、はふっ……! ばかやろ、お前!?」
「はははっ」
「ふ、ふふっ」
 耳に聞こえたのは二つの笑い声。その内一つは、驚く程に綺麗で――。
「……え?」
 そんな、何で。
 振り向いて、彼女の顔を直視する。彼女の、シエラの笑顔を。
「し、シエラ……」
「楽しいね、真人君」
 突然のことだった。何がきっかけなのかさえもわからずに。
 手放しに喜びたい。だが、声が出ない。体が硬直して、頭もろくに回らない。
 大きく、息を吸って。
「……帰ろう。シエラ」
 必死で探して出た言葉はそれだった。でも、これが正しかったんだ。夢を叶えるとか、願いを叶えるとか。そんなものに取り繕わないで。
 シエラはいつものように頷く。それなのに、何よりも嬉しかった。

 夢ではなかろうか。悪夢ばかり見る自分に訪れた幸運な夢。意識がはっきりした頃には既に渚の家へと着いていた。玄関にずっしりと買いあさった恋愛本を置く。シエラと会話をしようとしたが、渚に一足先に公園へ向かうよう言われた。渋々僕は了承し、公園へと向かった。シエラは浴衣に着替えた後に渚と共に来るようだ。
 外は夕暮れが近い。ちらほらと町を歩いている人達がいる。笑顔が花を咲かせ、その足取りは軽い。事故によって祭りが弔いの儀式のようにならないで良かった。笑えない話だけれど。と、思考していると、そういえば自分がこの世界で死んでいることに気づいた。どういう訳か渚はそのことを知り得ないようだったが他の住民は話が違うかもしれない。
「後でお面でも買うか……」
 その時にバレなければいいのだが。

 お面を買い変装をする。
 住人からは少しだけ訝しむ目が向けられるが、まあ仕方のないことだ。
 公園の端に一人座っていたが、
「おーい!」
 と背後からかけられた声に振り向く。
 そこには渚と、その後ろに隠れるシエラが居た。
「お待たせ」
「待ってないよ」
 嘘だ。首を長くする程待っていた。
「お面なんてつけて早速楽しんでるね」
「ま、まあね」
「んじゃ、早速お披露目といこう。腰抜かすなよ?」
「抜かさないよ」
 渚は後ろのシエラを前に出るよう促した。
 シエラはすっと、出てくる。
 藍色を基調とした浴衣。その一部一部に朝顔が花開いている。
 いや、実際に花開いているのはシエラなのかもしれない。
 周囲の目が凄い。
 金色の髪は小さくまとめられ、くりくりとした赤色の瞳は気恥ずかしさからか少し揺れていて。
 まさしく、この場に咲いた花、なのだろうか
「……」
 言葉を 失っていた。
 腰を抜かしそうになった。
「おれのことは放っておいて二人で仲良くしなよ」
「え、ちょ、ちょっと待ってくれよ」
 僕は夢中で渚の袖を掴む、
「いやいや、折角なんだからさ」
「とは言ったてな……!」
 横目でシエラを見る。その目としっかりと合ってしまった。
 シエラと目が合う。
「行かないの……?」
「……」
 ……行きます。

 いやー凄い騒ぎになってるね。
「オーラ出てるもんなぁ……」
 外国人の浴衣姿、ってだけで目立つものはあると思うが、その上容姿端麗ときたものだから、周りの目を奪うのは必然と言っていいだろう。
 可愛いとか、綺麗……とか、あちこちから聞こえてくるし。今夜真人が闇討ちでもされそうでもある。
 渚は公園の遊具近くで真人とシエラの二人を見守っていた。
 手は繋いでいないし、会話もたどたどしいように思える。でも、端から見れば十分だ。時折、シエラからも笑顔が溢れている。
 うんうん、と渚は呟いた。
 あの二人が幸せなら、それでいい。
 悔しさももちろんあるけれど、友人が幸せを感じているのなら、自分の感情など些細なことだ。
「……さて」
 僕は僕のことを始めるとしよう。
 久しぶりに祭り荒らしと言われたその実力を見せてやるとしよう……!!
「ん? そこの君は」
 と、久しい人物がそこに居た。
「渚君じゃないか」
「村長」
 少し背が丸まったように見えるが、元気なようだ。
「お久しぶりです。六年ぶりですね」
「そうじゃのう。急に出ていくものだから、この村を嫌いになったのかと思ったわ」
「そ、そんな。向こうにいるときもこの町のことを想ってましたよ」
 真人に会いに行くという目標もあったことだし。
「あ、そういえば」
 先程から疑問に思っていたことを村長に聞く。
「あの鉄塔はどうしたんですか?」
 鳩村祭りといえば、というあの鉄塔はどこにもない。
 もう踊りが終わり、鉄塔は片付けられたのだとしても、公園の中にないのはおかしいだろう。
「……知らないのか?」
「知らない?」
 何を?
「そうか……。葬儀にも君は居なかったな。連絡がうまくいっていなかったのか」
「あ、あの。葬儀って、何なんですか?」
 聞くべきじゃない。
 そんな声が頭の中に反響する。
 じんわりと汗が額につたる。
「真人はの、六年前に――」
 ほら、やっぱり。
 聞くべきじゃなかった。

 一時間ほどして祭りを堪能した。やはり大したことのない規模だ。
 僕たちは渚の家へ戻ることにした。家には着いたが、渚の姿は無かった。公園にも居なかったことだし、どこかほっつき歩いているのだろうか。渚の安否は二の次としても、僕らには問題がある。そう、家に入れないのだ。鍵は渚が持っていることだし、僕が持つカギは何でも開けれるほど便利じゃない。しばらく僕らは立ち往生するはめになった。そこで僕は一つ提案をした。
「星を見に行かないか?」
 前の世界では星を見せたところ、シエラに難色を示されたわけだし。ここは仕切り直しということで、星を見に行こうと考えた。
 シエラは顔を綻ばせ、その提案を受け入れた。

 七月七日。織姫と彦星が出会う日。その日が過ぎれば、再び分かたれてしまう。そんな話をシエラは神妙な顔つきで聞いていた。
 自分が持ちうる星座うんぬんのエピソードは決して多くも深くもないが、それでもシエラは真剣に聞いてくれた。
 話すことも尽き、二人は黙って星を見上げた。小高い丘から見えるその景色は、絶景と呼ぶにふさわしかった。
「シエラ」
 と声をかければ、黄色い髪が揺れた。
「願いを叶えた答えは何だ?」
 もう呆れる程繰り返してきたこの言葉。
 そして、答えはいつも決まって――
「幸せ」
「……え?」
「幸せだよ。心から」
 いつも決まって、つまらないね、と言うのに。
 感情などほぼ出すことのない表情を浮かべながら、そんなことを言うはずなのに。
 幸せ、だなんて。
 笑顔を見せながら、本当に幸せそうにするものだから。
 不思議と、涙が溢れてきた。
 何が起因したのだろう。
 何がシエラを変えたのだろう。
 まあ、そんなことどうでもいいか。
 シエラは変わったんだ。前を向いて、笑顔を見せる。そんな女の子に変わったんだ。
「ははっ」
 涙と共に笑い声まで溢れてしまった。
 流れ出した涙を手で拭う。
「次の願いを言ってくれよ」
「え?」
「まだ旅を続けなきゃいけないでしょ。だから、次の願いをさ」
 終わりのない逃避行。たとえ意味なんてなかったとしても、続く限り。シエラが望む場所なら、どこへだって。
 だから僕はシエラに次の願いを促した。
 でも、応えた言葉は真人を驚愕させるに十分なものだった。
 それはあのときの「死にたい」という言葉ではない。
 しかし、それ以上の絶望を与える一言。
「もうこの旅は終わりにしよう」
 と、シエラは言い放ったのだ。

巡る世界、刻む時

巡る世界、刻む時

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