千奈美のこと

美他人 猫

  1. 命の恩人
  2. おしゃまなショートカット
  3. 雨の日と土日は
  4. 羊と雲と屁理屈
  5. 第五話「水着はボーダービキニ」
  6. 第六話「山本 深森ー①」
  7. 第七話「クチナシの花言葉」
  8. 第八話「教師A」

命の恩人

某県立高校は丘の上に鎮座していた。川縁から校門まで続く長い坂道。朝靄が煙る。生徒はその殆んどが自転車通学である上に生徒数も極めて多い。朝の時間帯、濃紺の逆流が大挙して押し寄せる。当然事故も多い。周辺道路が朝、自動車通行禁止区域になるのはそのためである。



このマンモス校で俺は彼女に出会った。チャイムが4時限目の終わりを告げる。校売は込み合うので、駈け足で階段を下る。昇降口の脇。まだ10数人の列、間に合った。俺はお目当ての焼きそばパンとクリームサンドイッチ、あんドーナツを買い屋上で食べる事にした。春の麗らかな風が心地よい。俺は給水塔に背中を預け流れる浮き雲の形に新しい小説のアイデアを探していた。

動物たちの村。意地っ張りなヒヨコの男の子は、毎日ガラクタ置き場に通い続ける。人工の翼を造るための材料集めである。男の子は両親が空高く羽ばたけない事を友達にからかわれて、見返してやろうと思い至った。3ヵ月の後、機械仕掛けの立派な翼が完成したが、勿論空を飛べるような代物ではなかった。友達は「そんなもので飛べるもんか、悔しければやってみせなよ」と馬鹿にした。

男の子は火の見櫓に翼を背負って登り、、、ここまで考えた時。視界の右脇から女の子が顔を出した。



「ねえ。なーにしてんの?」


俺は、思考に集中していたせいか、忍び足で来たわけでない女の子の近づく気配に気づかなかった。恥ずかし紛れ、紙袋からパンを取りだし、むやみに頬ばる。赤面しているのが自分でわかる位に顔の火照りを感じる。心の中に入り込まれた気がした。少なくともビジョンは俺の脳裏に影を残した。しかも異性。ひどく狼狽した。



彼女はじっと俺の顔を見て、気の毒に思ったのか視線を空に移した。そうしてから、こう言った。

「私のボーイフレンドになってくれない。駄目?」



唐突過ぎる申し出。見知らぬ女の子。なのに断る理由も見当たらず。気の効いた返しなど思いつくはずもなく。



「いいけど」とひとこと。

「じゃあ、毎日おひるここでねっ」



今日、俺に初めてのガールフレンドができた。

計らずもヒヨコの命を救った女の子。この子が、坂中下 千奈美だった。

おしゃまなショートカット

片道1時間の道のりから帰宅した俺は、夕食を断り明かりを消した自室で寝転がり昼間の出来事を思い返していた。食欲不振の事由を。風邪にしたのが悪かった。母親が風邪薬とお粥。2度も部屋の戸を開けた。今この世界で存在を一番遠ざけたい人。何故だろう。ともすると母のにおいが自分に移るような気がした。それが彼女に感じ取られるのがすごく嫌だった。片親の家庭。養ってもらっている。解っちゃいるが顔も見たくない。



翌日は1時限目から落ち着かない。2時限目から緊張がはじまり。3時限目には恐くなり。4時限目の終わりを告げるウェストミンスターの鐘、3拍子のメロディが俺の動悸の早さと不協和音を奏でる。出遅れたので、焼きそばパンは無し。玉子サンドに玉子ロール、ゆで玉子。たまごずくしになった。



屋上。給水塔。まだ彼女は来ていない。沈丁花の甘たるい香りがそよ風を可憐な赤に染めるようで心が落ち着きを取り戻す。花言葉はたしか、



「永遠、、、」



「永遠?」彼女がまた視界の右から顔を出した。

「うわぁ」(声に出ていたらしい)



「なーに考えていたの。二人の仲は永遠てことぉーロマンチストだねぇ」馬鹿にされた気がした。仕返そうと思うが。言葉が浮かないでいると。



「他に不死っていうのもあったね。花、言、葉っ」



「えっ。でも何も、、、」驚いて口ごもる。



「だいたい分かるよ明智くん。勘がいーのだ」



「明智くんて、、、、」そう言ったとき、お互いに名前も知らない事に気づいた。彼女も察しがよい。



「坂中下 千奈美っ(さかなかした ちなみ)よろしくっ」手をおでこに当てて敬礼の仕草。



「深渓 稚虎 (みたに ちこ)です。」敬礼で返す。



「チコ?女の子?」



俺はブレザーの内ポケットから創作用のメモ帳を取りだし、書いて見せる。



「おさない虎で稚虎」と説明する。



「名付けた人のこだわりを感じる名前だね。お父さん?」



「、、、、、」



「チコかぁー。うん。初めてお世辞じゃなくて、いい名前だねって言えるよ」



「初めて誉められた、ありがとう。」思わずに言葉が先にでた。



「おさない虎って、猫のことかな。こんな言葉知ってる?」ニコニコしてこう言う。



「ネコ科の一番小さな動物は最高傑作である」



「聞いたことない。誰の言葉?」尋ねると。



「レオナルド・ダ・ヴィンチっ」なにやら得意げだ。そのまま言葉を続ける。



「彼氏にするなら猫がいい」



「それもダ・ヴィンチ?」



振り返り俺に背を向けてから、見返り。



「これはねぇー」



「わ、た、し」言い終わって口を両手で隠してみせる。その時チャイムがなった。



「バイバイまたあしたねー」手を振って駆けていく、短く切り揃えられた癖のない髪が一歩踏む度跳ねあがる。同じ色のネクタイ。同級生の彼女はとても大人びて見えた。

雨の日と土日は

生徒数2754人。内1年生の846名が、4階建ての第一校舎に詰めている。4階の端1組から順に1階の端18組。大所帯である。とはいっても、会話をかわすのは、クラスメートや同中学からの持ち越しくらいなもので。見知らぬ人ばかり。それだって稀薄な関係。だったら独りがいい。そうやって気取って生きて来た。協調なんて言葉は嫌いだ。偽りの自分を好きになってもらうピエロ。冗談じゃない!普通ってなんだよ。まるで壊れた既製品。面白くない事で笑顔を作れるほど、狂人めいた事があるだろうか。いつもそうだ、俺が少し本気になると、皆離れていく。たぶん彼女だっていつかは、、、



お昼にだけ逢う特別な関係性。違う楕円周期を持った二つの惑星。あらゆる作用の重なりのなかで(或いは気まぐれ)、公転軌道上急接近する。ひとつの星は俺。歪な軌道。もう一方美しい星の引力は強い。二人にとっての恒星はなんであろう。今はまだ解らない。



屋上の外ではお互いを探さない。どっちが言ったわけでない暗黙のルール。二人は何を見つめ周り続けるのだろう。



3日目の屋上。

「雨?」

気のせいだろうか、彼女の大きな瞳が、一瞬憂いを帯びたように見えた。



「そうそう。雨の日は濡れちゃうし、どうし ・・・」と、いいかけた言葉を遮るように。



「駄目っっ」

めずらしく語気が強い。



「、、、、、」



「雨の日はね。髪がくしゃくしゃになるのー」

いつもの調子にもどっていた。



「解るかな、チコ君」



「癖毛が嫌なの?」



「ちがうっ」



そのあとすぐ、小さな声で



「乙女ごころっ」



千奈美ちゃんは、目の前にいる俺に耳打ちする仕草をした。


登下校道。川の袂をいちめん葡萄色に染めたアイリスの花は枯れ。百花咲く季節が間もなく終わる。

雨の乱雑な線が地表を打ち付ける梅雨手前。



雨の日と土日は彼女に逢えない。逢えない日はひとりぼっち。初めて俺は孤独でいることの淋しさを知った。

羊と雲と屁理屈


朽ちかけた紙特有の貝殻を砕いたような匂い。古書店から買い集めた本が雑多に積まれた、未同好会の部屋は校舎の影。陽の当たらない北側に位置していた。会員は俺を入れ僅か2名 そのもう一人も会を立ち上げる際に繕った幽霊。部活動10名同好会5名の最低条件に対し、「未」の文字を冠して無理矢理に例外を認めさせた結果、報復にこの部屋があてがわれた。俺は皮肉って〈未会(ひつじかい)〉と名付けた。



それから幾人かに似た問をかけられた。それに俺はこう答えた。



「因果応報は事象を完全には説明出来ていないよ。少なくとも道程に結果を求めた者に対しては、、、、」



水彩画を描き上げたあと、ひっくり返したバケツの溜水色した雲の切れ間から紺碧の空が覗く。4日ぶりの晴れ間。



「屁理屈だよソレ」笑いを堪えて千奈美ちゃんが言う。



「欲望に素直なだけさ」



「キザだねぇー」



「そういうの嫌い?」



「嫌いじゃないけど。面倒くさい奴だよね。」



「確かに、、、、」(そう思われてるんだ)俺は項垂れて言った。



「だけどなんか、チコ君らしいねっ。そういうとこ好きだよ。」



ドキッとした。違う。その意味で言ったわけでないのは解ってる。けど鼓動が高鳴り抑えられそうにない。うつ向いて誤魔化す。頬に充血していくのがわかる。いっそう俯きかげんになる。



173センチ。俺よりすこし背の高い彼女が妙齢の女の子にしては落ち着きのある低い声で、



「顔赤いよ。風邪?」

「大丈夫?」



心配してるのか、からかってるのか解らない言い方。

「大丈夫だから」顔を上げず手を挙げて答える。

その時、太陽の下を雨雲が通る。コンクリートの足元を南から影が走る。影が通り過ぎると。もうひとつの影が俺の足元まで来ていた。顔を上げると。かがんだ姿勢の千奈美ちゃんは、目の前数センチまで、顔を近づけてきていた。前髪を右手でおさえ、おでこをおでこに当ててこう言った。



「熱はないみたい」

繊細な横髪の先が頬に触れる。洗い髪のいい匂いがする。息づかいも鼓動も聴かれてしまいそうな距離。呼吸が上手くできない。



「なんてねっ。」おどけた様子で離れて。



「あれっ?さっきより顔赤いよー。」



「、、、、」(いいように、遊ばれた俺は言葉がでない。)



「理屈じゃないのだよ。チコ君」



不可思議。まるで理解の外を歩いているような彼女が、確かに俺の中で必要な人になっていた。



もうじき訪れる暑い夏。



熱い夏。

第五話「水着はボーダービキニ」

空は瑠璃色。太陽は白く燃える。 夏のほうからやって来た。

俺は空のただ中を大きく旋回していく飛行機の黒い腹を見上げていた。号号と、ジェットエンジンの空気を切り裂くその音が金網を震わせる。音が段段に小さく遠退くと、耳の内にはまだ余韻を残している。
「チコ君っ!」
不意に両肩を叩かれる。驚いて振り返ろうとすると、抵抗がある。千奈美ちゃんに違いないのだが。何か意図がありそうなので。わざと振り返らずにいた。

「誰だと思う?」
千奈美ちゃんに決まっている。気の利いた返しを待っているのだろうか?仕方なく、

「怪人二十面相」と声を張る。
自分でも恥ずかしくなる程に上手くない。

肩の抵抗が緩み振り返ると、

「ちなみちゃん。で、し、たっ」腰に手を当てたポーズ。
あれっ。今日はジャージを着ている。

「どうしたのその格好?」
別段、ジャージ姿が珍しい訳じゃない。男女問わず生徒の半数位はジャージで校内を過ごしている。着ている彼女を初めて見たからである。初めて会った時から昨日までの制服姿が脳裏に焼き付いているのだろう。A≒α。違和感と言ってもよい。

「ちょっと見てほしいものがあるの。こっち来てっ」
給水塔の奥には立ち入り禁止のプレハブ倉庫がある。金網で天井まで囲まれ南京錠までしてあるので誰も近づかない。千奈美ちゃんは周囲を見回しポケットからカギ出した。手招きする。

「早く早くっ」

倉庫も簡単に開ける。俺はガチャリ後ろ手で施錠した。何か後ろめたさを感じたさせる光源のない暗い密室にふたり。熱気が込もっている。手探りでスイッチを入れる。倉庫には季節行事の備品やら不要品、何かの資料が山と積まれた一角と、その奥に畳敷の小上がりがある。寝泊まりできそうな空間の隅には折りたたまれた布団。冷房までついている。少しカビくさかったが意外にも埃ぽくはなかった。

「そこで待っててっ」

古いスチール素材の棚の後ろに隠れたかと思うと、直ぐ顔だけ出した。

「ちょっと心の準備するっ」めずらしく恥ずかしそうにして、また引っ込む。

それから数分過ぎるが姿を見せない。声をかけてみる。

「千奈美ちゃん、大丈夫?」返事がない。

いよいよ心配になり、棚の後ろを覗く。あれっ居ない。その時急に蛍光灯が落ち暗くなった。

「えっ何?千奈美ちゃんどこ?」

手探りでスイッチを探りあて点けたと同時。後ろから目隠しされた。

「だーれだ」(これって相手が分からないからこそ意味をもつのでは?)そう思ったが。

「ちなみちゃん?」疑問形で答え振り返ると、
上半身水着姿の千奈美ちゃんがいた。

「どう?」覗きこむように俺の表情をみている。

「えっどうって、、、なんて答えればいいの」

「似合ってる?素直に言ってほしいな。包み隠さない気持ちを文学的に表現してみせてっ。上手くできたら、ごほうびあげる。未来の小説家さんっ」

なるほど、面白い。よしっ。俺の脳髄に言葉が洪水と溢れる。そこから文章を紡ぐ。

「人の美に対する基準とは不思議なものだ。いままでに美しい水着の色や形など考えた経験の無い自分は今の瞬間、それが確立した。千奈美ちゃんが、似合ってるか聞くのに着てきてくれた事。着痩せしていた胸の膨らみの柔らかな描線、恥ずかしそうにうわずった声。密室での出来事の全てが死ぬまで変わらない1つの感覚を作り上げた。これから先『好きな水着』を聞かれるたび、水色と白のボーダービキニ姿の千奈美ちゃんを思い浮かべるだろう。」悪くないはず。

「うんうん。惜しいっ。ぎりぎり不合格っ」俺の頭を撫でて言う。嬉しそうな顔。


「ご褒美は、無しか、、、、」少しがっかりしている俺に、

「チコ君っ。」声が弾んでいる。
「残念賞があるんだけど、、、、、」

千奈美ちゃんは両手でズボンのウェストを広げて。

「見てもいーよ」
千奈美ちゃんの華奢な手と、女性らしい丸みを帯びたお腹の間から、ボーダー模様のボトムスが見える。下半身を包む薄い布は、隠す分だけ素肌を想像させた。その先には色白いももの内側まで露になっている。生々しい女の甘い匂いが。胸を苦しくする。
チャイムがなったが聞こえない振りをした。
彼女もそれを言わなかった。


ただ新しい水着を彼氏にみてもらう。恋人同士によくある風景。彼女にかかればこんな甘美な秘密を纏う。

夏はふたりを急速に近づけた。余りにはやく。生き急ぐように。

第六話「山本 深森ー①」

放課後。俺は書きかけの原稿を持ち帰る為に羊会の部屋に立ち寄り、中庭を通って自転車置き場まで下駄を鳴らしていた。中程まで来たとき昇降口の中から大きな声で呼ばれた。



「みたに君。待ってぇぇ」大きく手を振っている。それは俺のよく知る女の子だった。羊会のもう一人の会員。山本 深森(やまもと こだち)。

彼女は生徒数の多い学校内でも目立つ存在。それは彼女の容姿の美しい為である。



150センチを切る低い身長。艶のある長い茶髪は緩い内巻き。黒々とした大きな瞳に上向きの長いまつげ。厚ぼったい唇に整った目鼻だちは所謂1:1.618の比では無いが、絶妙の近似値。「可愛らしい」という言葉がこれ程似合う女の子もそうはいない。実にフェミニンで男好みする仕草をする。



当然だが、しょっちゅう男子生徒に声を掛けられる。



その度、こだちちゃんは平然と「駄目ぇぇっ私はみたに君のものなの」と答える。俺を知る者は皆、例外なく不思議がる。が、根拠が無いという訳でもない。少なくとも彼女にとっては。



彼女とは中学時代に或る縁があって知り合った。それ以来「みたに君のもの」になったらしい。



だが俺は彼女に恋心を抱くことはついに無かった。理由はそう難しくない。あざとい所も、変なしゃべり方も別に嫌いではない。理由などないのだ。好きなのだから仕方ないのと同じで。好きでは無いから仕方ないのだ。これは複雑な男女間の関係に於てほんの入口の話である。たとえその入口が肉体的な関係だったとしても。



こだちちゃんは、強いて言えば「妹みたいな存在」といったところだ。勿論、兄弟に女がいない男特有の偏った妹像に違いないが。



「いっしょに帰るぅ」腕を組んでくる。(羊会立ち上げ時の借りも有り断りづらい。)とはいえ学園のマドンナ。優越感こそ有れ悪い気はしない。こんな事を言うと、ひどい男と思うかも知れないが想像し給え。机上の仮想実験であっても構わない。アイドルみたいな容姿の女の子と密室に二人きり置かれて、何をしても誰にも知られないとしたら、どんな聖人君主だって2分と心を乱さず居られるもんか!いっしょに自転車を押して校門に差した時、不意に振り返って屋上を見た。無意識にだった。



金網の奥に一瞬、影が見えた気がした。(まさかね)心の中で呟いていた。



翌日の昼休み。屋上。俺はいつもの場所で「同人誌1号」に掲載する小説の続きを組み立てていた。



足音が聞こえる。わざと立ててるような、攻撃的な足音に慌てて振り返る。



「チコ君は、あーいう子が好みなんだー」

あきらかに分かりやすく

「知らなかったよ、別にいーけどっ」

怒っている。



「誤解してるよ。こだちちゃんは妹みたいな・・・」言い終わらないうちに、



「妹みたいって妹じゃないってことだよね」



「禅問答じゃあるまいし、挙げ足取るなよ」



「もういいっ」



「ちょっと待てよ!」



「いいっ」



駆けて行く彼女を追えなかった、男がそんな格好悪い事出来るか!そう思った。

彼女を初めて怒らせた俺は、間抜けにも自惚れていた。

第七話「クチナシの花言葉」

俺は俺をのぞいて、他にこれ程、謝る事をしない人を見たことがない。嫌いなのである。



千奈美ちゃんが屋上に姿を見せなくなって。1週間が過ぎた。



自宅自室。枕元の時計は深夜2時を過ぎようとしている。1週間の間殆んど寝ていない。過去何度か不眠症に苦しんだ事があったが、それとは明らかに違う。刺さった時は気づかなかった棘が時間がたつにつれ、ズキズキ痛み増すような苛立ち。あの日誤解したまま行ってしまったから、千奈美ちゃんの声が胸から離れない。意識はおぼつかないのに視力聴力は確かで。耳は自分のもので無いように、針の音を捉え続ける。

自ら自らの首を絞めるような苦しみ。逢って話したい。今になって、この特別な関係に何の保証もないのだと気づく。考えてみれば連絡先すら知らない。気づいてみて怖くなる。このまま会えなくなってしまう暗い想像が、犯した罪の重さを自覚させた。胸が痛い。眠らなければ。



俺はすがるように通学鞄に手を伸ばす。暗がりのなか手探りで、チョコレートを取り出す。甘さが痛みをとってくれれば、或いは眠れるかもしれない。一粒を口の中で溶かす。気だるい甘さが痛みを緩和する。思考がぼやける。だが溶けきってしまうと又、同じ。チョコレートは残り3つ。やけくそにそれを全部と使用期限切れの眠薬を口の中で噛み砕いた。味覚が麻痺したのか味がない。が、いいことに薬はよく効いた。夢現が混じり出し調色を誤った色絵の具のように依り所がない。その泥色のなか、やがて夢が現を押し切った。



昏睡と覚醒どちらが生物の表側なのだろうか。脳髄は起きているときよりも、的確に答えを導いた。



誤解?果たして誤解なのだろうか。罪を感じたからこそ悩み苛立っている。そうではないか。どうでもいいなら放っておけばいいだけ。囚われるのはそこに思いがあるから。真実は真実。でもそれは自分のでしか無い。彼女がどう捉えたかが問題なんだ。彼女が傷ついてしまったら。それは傷つけたということでしかない。謝らなくたっていい。正直に正直に伝えよう。



目が覚めたのは10時だった。母、弟は具合の悪そうな俺を無理に起こさなかったのだろう。



目眩が酷いが這ってでも屋上へ行こうと家を出た。



11時12分教室は4時限目の途中だろう。教室には行かず。屋上へ向かった。そのまま待ってみるつもりだった。



屋上。誰もいるはず。ないはずだった。そこには、千奈美ちゃんがいた。



「あれっ。チコ君?」

「どうしたの?って顔色悪いよ。大丈夫っ」



「どうして、、、、、怒って、、」頭の中がぐるぐるする。状況に思考が追い付かない。殆んど無意識に言っていた。



「ごめんなさい。」



たくさん悩み、考えて、出したはずの答えを伝える言葉は。胸がいっぱいで声にならない。そっか。こういう時この短い言葉を使うんだ。



張りつめていた緊張が解け、体の上から力がぬけていく、足元まで来たとき、支えていられなくなった。倒れかかり、そのまま抱きついていた。



「えっ。ちょっっ、ええー」



千奈美ちゃんは困惑しているみたいだったが、受け入れて、優しく抱き返してくれた。



「馬鹿だねーただのヤキモチだよー。」



抱き合ったそのまま、


「チコ君、私のこと好きでしょ?」



聞いてきたんじゃない。答える間もなく。


「好きだよ。チコ君っ」


ふたりだけの屋上。どこかで咲いている梔子の香り。花言葉は「幸せ」

第八話「教師A」

その30代後半の教師は生徒に慕われている。細身で色白、切れ長の目は狐のそれのように妖しく。長い黒髪は中央より僅かに右後ろで束ねて、それを肩から胸に垂らしている。若い頃はさぞや美しい女性だったのだろう想像がつく。現代文、古文担当の教師らしく綺麗な言葉つかいで人の2倍はおっとり話す。



この高校の卒業生で、教職を得てからは、15年この学校に勤めているという。運動部の盛んな学校だから文化部、同好会は肩身がせまい。羊会創立の折り顧問を駆ってでてくれた。或いは先生の働きかけがなければ却下されていたのかもしれない。



何でも学生の頃に小説を2、3出版したらしい。が詳しい事は誰も知らない。ある理由からその事は禁句になっている。それは彼女が学生時代、親友を亡くした事と関係しているらしく。いくら高校生が無邪気といっても、それ位のデリカシーはもっている。



俺も勿論、気にはなったが、人の傷口に触れることには、やはり躊躇した。それもただの傷ではない。深く塞がることがない傷かもしれない。ただ彼女の書いた小説はいつか読んでみたかった。



4時限目が現文であったこともあり、千奈美ちゃんとは、その話題になった。



「芦田先生?」

「あー摩耶ちゃん。もちろん知ってるよ。」

女子生徒には名前で呼ばれているのか。さすが人気教師。



「どんな先生?」千奈美ちゃんは何か探るように聞いてくる。



「き、、、、いい先生だよね。」危ない。あの件以来、千奈美ちゃんの前で、女性を褒めないよう気をつけている。



「小説書いていたらしいよ。」あわてて話題を替える。



「どうして書くの止めちゃたんだろう」千奈美ちゃんは空を見上げて言った。それは空より遠くを見ているようでもあった。



「結婚とか?子育てに専念とかかな?」あの噂は敢えて口にしなかった。人づてに聞いた話だし。根も葉もない風評かもしれない。



「どんな小説書いてたんだろう?本名で書いてたのかな?それともペンネーム」



「顧問なんだし、本人に聞いてみたら?」



「なんか聞きづらいんだ」



「教えてあげよっか、ペンネーム」



誰も聞くことのできない。そのことを聞いたのだろうか?(そうなのだろう)そう思った。



千奈美ちゃんには、そういう魅力があった。人の心に気づかず入ってくるような。かといって

ズカズカ踏み荒らしたりはしない。人の心をしっかり推し測って、緩急をつけて話す。とても頭がいい。



俺は「どんな女性が好き?」と聞かれると、ほんとうの小さい頃から、こう答えていた。「頭のいい女の子」これだけは、ずっと変わらない。



千奈美ちゃんに強く惹かれる理由のひとつは、これなのだろう。



「蛇 よしこ」



その駭々しいペンネームが、穏やかな芦田先生とどうしても重ならなかった。

千奈美のこと

千奈美のこと

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-11-10

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