兎おいしかの山

兎おいしかの山

 幼いころ、小学校に入ったか入らないかの、それくらい小さなときの思い出。
盆と正月は決まって母の実家に泊まりに行った。

 当時父はタクシー会社のドライバーでシフトが不規則だったため、片道2時間以上かかったであろう、
各駅停車の鈍行で母と妹の僕、親子3人で行き来することが多かった。

 電車の中では幼かった僕ら兄妹が退屈しぐずらないよう、三人でしりとりをしたり甘いみかんを食べさせてくれたり、
母が色々と気遣ってくれていたのを覚えている。
 楽しかった、楽しいひと時だった。
長くなんて感じなかった。
 むしろもっともっと、この時間が続いてほしかった。

 地方に多い共働き、うちもご多分に漏れず両親とも会社勤めだった。
母は縫製会社勤務。
 中学を卒業後上京、町の小さな洋装店にて住み込みで働き、日曜日は服飾造形の専門学校へ通い職業訓練を受けるという、
休みなしの十代半ばの娘には辛い修業時代を過ごしてきた。
 おかげで腕は人一倍。誰よりも早く正確に仕事をこなす職人だった。

 土曜は午前中で勤務終了の半ドン、日曜日は丸一日お休みという、
週休二日制が大分定着した昨今とは異なる勤務体系だった。
 そのため当時は日曜の母といえば、勤労による疲労に持病の頭痛が重なり、
部屋のソファへ横になりぐったりしている、そんな姿が定番だった。
 子どもの目から見ても大変そうだった。

 それゆえ帰省時、列車内での母との交流は大変貴重なもので、
普段は休みの日でも厳しい顔をしている母がニコニコしている、それだけで嬉しかった。
 かまってほしくてたまらない年頃、面と向かい相手してもらえる年に二回のこの機会を、例年心待ちにしていた。
このままどこまでも列車が進み、降車駅に着かなければいいのにって、そう思った。

 母の実家にいけば食事時や外出時を除けば大人は大人、子供は子供と付き合いを分けられてしまうから。

 叔父夫婦には息子が二人おり、僕ら兄妹と年が近かったため、いざ遊び始めればそれはそれで楽しかった。
いとこ達はかなり甘やかされて育っており、欲しいものはおねだりすれば何でも買ってもらえた。
 いとこの部屋にはテレビが置かれていた。
 友達の家でだって見たことのない、当時は珍しかったゲーム機を何台も所持しソフトも豊富に揃え、
棚には漫画や雑誌がたくさん並んでいた。
 自分ちでは考えられない恵まれた環境下に彼らはあり、正直羨ましくて仕方なかった。
それゆえこの機を逃すまいと就寝時まで入り浸り、僕は遊び倒した。

 その間妹が何をして過ごしていたのか、覚えていない。女の子は一人きり。
おそらく大人たちが歓談している茶の間の隅っこで、テレビでも観ていたのだろう。
 あの子は退屈だっただろうか。
 僕ら兄妹は年が三つ離れている。
幼稚園入学前後、まだ4~5歳だとすれば独自の一人遊びを発明でもしていたかも。
 あの頃のことを覚えているか、今度聞いてみるとしよう。

 年齢を重ね学年が上がるにつれ、母の実家へ出向く頻度は少なくなっていった。
 僕が中学校に入ってからは三人の構成も変わり、部活や学校行事で日曜日がつぶれる自分に代わり、
職の変わった父が車を運転し新たな三名で盆暮れに出向く場合が増えた。
 大人となった今では数年に一度、行っても昔のように泊りではなく日帰りでお墓参りに、という感じだ。

 そういえば。
衝撃的な出来事があったっけ。
幼心に突き刺さった、トラウマ並みの思い出。
 母の実家は周囲を広大な田畑や山に囲まれた十数件が固まった、孤立した集落にある。
電灯が少なく夜になれば辺りは真っ暗闇に包まれ、道路に寝っ転がっていても平気なくらい、滅多に車が通らない場所。
 そんな自然に近い環境にあるため、野生の動物も数多く生息していた。

 ある晩、隣のお宅のご主人が片手に何か真っ赤なものをぶらさげやってきた。
「これ、食べねが?」
よく見るとそれは、皮がすべてはぎ取られた兎。もちろん死んでいる。
 叔父は丁重に断り、お隣で食べたそうだ。

兎おいしかの山

兎おいしかの山

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-11-10

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