ささやき
茸幻想小説です。縦書きでお読みください。
「この茸を食うてみなされ」
老人が真っ白な茸を私に手渡してくれた。
「生で食べるのですか」
「ああ、毒じゃないから大丈夫だよ」
パリの東駅から乗ったモーツアルト号のコンパートメントの中のことである。
私はパリで用事を済ませ、ハンガリーのケレチ駅に向かっていた。乗り合わせたフランス人の老人が、茸を私に差し出したのである。
その白い茸は老人の持つ皮の袋にいくつも入っているようである。
私はその場でかじってみた。ずいぶん甘い茸である。
「甘い茸ですね、それに、ジューシーだ、まるで果物のようです」
「そうじゃろう、この茸は私の農園で作っているものじゃ、果物のようでもあるが、それよりもっと楽しい働きがあるのだよ、しばらくたつと、耳元で天使のささやきが聞こえるようになる」
「それは楽しいですね」
そのとき、老人の言ったことは、気分が良くなるといったことの、たとえだと思い、私は笑って食べ終わった。
その後、私は日本の松茸など、日本は茸国であることを話し、老人はフランスの玉子茸やモレーユの自慢をしたりして、茸の話の花を咲かせた。
その老人はストラスブルグにつくと、旅を楽しんでねと降りていった。
私はハンガリーでの仕事を無事に終え日本に帰国した。
成田からリムジンで京王線の調布につき、駅前のマンションに戻った。旅のパッケージをほどいて、風呂を沸かし冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。
テレビをつけると、一週間留守をしていた間に、二件の女児が消えた事件があったようだ、自宅から近くのコンビや友達の家にいく、ほんのちょっとの間に消えてしまったようだ。東京のはずれと大阪での出来事なので、関連性はなさそうだが、変質的な人間が増えてきていることはいやなことである。
風呂に入り、もう一缶ビールを空けると、ベッドに入った。明日はいつものように、会社にでなければならない。旅は慣れているので、ほとんど時差ボケはない。すぐ眠りについた。
明け方夢を見た。自分は林の下草の中にいる。シダや草類が頭の高さである。ということは自分が小人になっているわけである。足下を足の長い蜘蛛のたぐいがゆったり歩いている。座頭虫である。小さな虫なのだが、自分の頭ほどの大きさがある。
歩いていくと、赤い茸が生えていた。自分の頭より遙かに背が高く大きい。近づくといきなり、茎の根本にドアができて開いた。おとぎの国のようだ。
人が出てきた。その人は私の半分ほどの大きさである。
「やあ、元気かい」
と私に声をかけた。よく見ると、ヨーロッパの列車の中で茸をくれた老人の顔をしている。
私がなんと返事をしたか覚えていないが、その小人の老人の後ろから、ふっくらして色の白いかわいい女性が出てきた。
老人は私に「わしの孫の、マノンじゃよ、これから、あんたにいろいろささやくから、よく聞きなされよ」
と言った。そういい終わると、また二人ともその茸の中に入っていった。
目が覚めてからも、緑色のワンピースを着た、そのマノンさんとやらの印象は強く残っていた。
朝風呂に入り、いつものようにトーストとハムで食事を終え、何杯めかの紅茶を飲んでいるときであった。
いきなり、耳が暖かくなると、日本語で、
「おやよう、シオン」とささやき声が聞こえた。
テレビをつけていたので、その中の声かと思ったが、男のアナウンサーが野球の結果を解説しているだけである。
「シオン」
また声が聞こえた。私の名は市(し)温(おん)菊(きく)馬(ま)という。
今度は、
「キクマ、今日は新宿には行かないでね」
とささやき声が聞こえた。
夢にでてきたあのマノンと呼ばれていた女性の声のようだ。気のせいなのだろうが、なんとなく回りを見回してしまう。幻聴の類だろう、夢にでてきたことでもあり、あの老人の言ったことが頭にこびりついてしまった結果だろう。
そうこうすると、家を出る時間になり、外にでた。パリとブタペシュトの結果をチームに報告しなければならない。その時はあのささや茸のことは全く忘れていた。
渋谷にある会社には新宿から山の手で通っている。井の頭で渋谷にでることもできて、その方が安いが、新宿によることも多いのでそちらの定期を購入している。
いつもの時間の特急に乗って、調布からしばらく行ったところで、なんとなく、明大前で井の頭線に乗り換えようかと思い立った。どうってことはない、ヨーロッパからから帰ると、新宿のあの喧噪が何となく煩わしく思えたからだ。いつもそんな気分になる。
明大前で混んだ渋谷行きの快速をやり過ごし、各駅停車で座っていくことにした。
会社について入口の戸を開けると、中は閑散としている。おかしなこともあるものだ。私は腕時計をみた。九時半になろうとしている。会社は九時半からであり、いつも九時にはみんなそろっている。
自分の机のPCを開けて、インターネットからニュースを開いた。
新宿で爆弾騒ぎ、と太字のタイトルが目に入ってきた。これで皆がこれないのだろう。オフィスのテレビをつけた。仕事中はつけてはいけないことになっているが、なにが起きたか知る必要がある。
テレビには新宿の南口出口から黒い煙が吹き出している様子が映し出されている。山手線のホームにおかれていたバックが爆発し、電車を待っていた客が数人けがをしたらしい。爆発の時間はいつも私がいるころである。
そのとき耳元で、「よかったわ」と誰かがささやいた。
そこで朝食の後のささやきの記憶がもどってきた。新宿には行くなといっていたような気がする。偶然と言えば偶然である。昔からこのような勘がよいほうだったので、そんなことだろうと思ったのだが、今耳にしたささやきも含めなにやらしっくりこない。
しばらくするとオフィスに仲間が出勤してきた。
「やあ、市温さんおかえりなさい、ハンガリーはどうでした」
最初に入ってきたのは後輩の山(やま)床(とこ)古粒(こりゅう)である。彼は東南アジアの特にタイの担当である。
「ハンガリーは古い都で魅力的だ。人もとてもいいし、食べ物もうまい、歩きやすくていいよ、ヨーロッパで一番古い電気で走る地下鉄っていうのがあったよ」
「それで、どうでした」
「けっこういいかもしれないね、あそこは市民が芸術品に興味をもっている。結構自宅の壁に気に入った作品をかけているようだよ」」
私の会社は若い画家や彫刻家の作品を外国に売り込む会社である。東南アジアでは、金持ちあいてだが、最近の若手のマンガの原画も、商品としてそこそこ売れる。
「ところで、新宿の爆破はテロなのかな」
「まだわからないみたいで、しばらく電車は動かないでしょうね、僕は近くなので、地下鉄で来たんですよ」
「地下鉄は動いているの」
「新宿を通らないのは動いてます、新宿に乗り入れているものは止まっているようですよ」
「ほかの連中はなかなか来れないのだろうね」
「いや、来れないわけはない、うまくさぼっているのでしょう」
と言っているところに、ぞろぞろと女性陣が入ってきた。
「だいじょうぶだったのか」
「はーい、みんなで、タクシーできました」
ピンクのハイヒールを履いた雪落(せつらく)白花(はくか)が元気よく答えた。
「そんなにみんな近くにすんでいたっけ」
「へへ、昨日はみんなで銀座のホテルで宿泊、食事とエステを楽しんで、今日はゆっくりとでてきました」
「いいな、若くて」
「部長はどのようにきたのですか」
「井の頭線だ」
「あ、そうか」
私は部長といっても、まだ三十二歳、平均年齢が二十八歳という若い会社である。しかし、五十人を超す社員がいる。社長は八十一になる若(わか)根(ね)兎(と)草(ぐさ)という老人で、昔は絵を描いていた不動産持ちである。ある時から兎草は若い画家を育てることに情熱を注ぎ始め、この会社を興した。気に入った若い女性の画家の卵がいて、そのせいでこの会社ができたのだという人もいた。社長の下に営業課長である私と、画家発掘担当の熊谷蘭がいる。後は皆平社員という構成で、みんな伸び伸びと働いている。私は昔、彫刻家を志したことがあるが、作る物がまじめすぎるといわれ、自分でもそう思い挫折した。やはり破天荒でないと面白いものはつくれない。
その日はハンガリーのマーケットとしての有望性と、以外とシュールかかったものも売れる可能性があることを報告し、若手の作品として誰がいいか、選定のグループに依託して終わった。
夕方には爆弾犯人もつかまり、電車も正常までにいかないが、問題なく家に帰ることができきた。
その夜のことである。
寝ていると、耳元でささやきが聞こえた。
「今日は助かったでしょう、あなたの会社の女の子たち、みんなかわいいわね、私の国にほしいのよ」
目の前にマノンちゃんがほほえんでいた。茸からおじいさんがでてきた。
「やあ、どうかね、マノンのささやきは役に立つだろう、あんたを守ってくれるし、どうだい、たまにはここに遊びにおいで」
「だが、どうやったら、いけるのです」
私は夢の中で答えている。
「マノンのささやきに答えればいいのだよ」
「ここに来たいと言えばいいのですか」
「いや、来たいと言われてもいいよとはなかなか言えないのだよ」
「そのときの状況で、あんたに来てほしい状態でないとそれはできないのだ」
「両方が望まなければだめと言うことですね」
「そうなんだよ、時間をかけて、お互いを知り合わないとね」
「そうですね」
「どうかね、今日はともかく、私どもがお招きするが、一時、遊んでいかないかね」
「いいんですか」
「最初の時は、夢のようじゃっただろうが、今回は、本当にこの地に来てもらうよ」
「いきます」
と私は言った。そのとたん、私は、林の下草の中にいた。最初の夢の時と同じではない。大きなシダが私の頭に触れると、その匂いや髪の毛にふれた感触は夢とは全く違う。いつのも生活の中である。
「いらっしゃい」
マノンの白いふっくらとした手が私の手をとって白い茸の中にさそった。
茸の中は一つの部屋になっていて、柔らかな白い腰掛けと、テーブルが用意されていた。子供の頃のおとぎの国である。
老人が地下からあがってきた。
「きましたな、わしの部屋は地下で、孫のマノンは二階にすんでいます」
マノンが色とりどりの茸を籠に入れて持ってきてテーブルの上においた。
「どうぞ、いろいろな味がしますし、楽しめます」
マノンが籠の中から赤い茸をとって、老人と私の皿に載せてくれた。
ホークもナイフも置いていないので、電車の中でしたように赤い茸を手にもってかじった。
「いや、こうやって」
マノンが笑いながら、赤い茸の皮をむくと指で折って口に入れた。
私もまねして皮をむき、口に入れると、香ばしい匂いと、酒の香りが口中に広がった。まさしく酒である。
「酒茸でな、おいしいでしょう」
私はうなずいた。老人に言われるまでもなく旨い。
「成長しながら茎の中が発酵して酒になる、飲むのと食べるのを一緒にできる不思議な茸でな」
マノンが今度は黒い茸を皿に移した。皮をむこうとすると、マノンが、
「これは、こうやって食べるの」
とかわいらしい口でかじった。
私もまねしてかじると、これがステーキそのものの味だった。
「これは、牛に生える茸でな、牛は筋肉が弱るが、茸を刈り取ると、また元気になる」
「ちょっと牛が気の毒だな」
私が感想を漏らすと、老人は首を横に振った。
「ところが、そんなことはなくて、牛はこの茸が生えているときは、とても気持ちがいいのだよ」
「ほー、どうしてですか」
「筋肉のエキスも吸い取るが、茸の成分が牛の頭の中に巣くっている不安という奴を取り除くのだよ、野生の生き物はいつもびくびくしとる、それがなくなるのだよ」
「そうなのですね」
それは野生の動物にとって幸せである。しかし、人間のドラッグと同じような効果ではないかと疑ってしまう。
老人はそれを察したように説明した。
「牛は決して癖にはならないのだよ、茸が生えなくなったからといって、苛立ったり凶暴になったりしない」
次に皿に取り分けられた茸は白いまん丸な茸であった。マノンは皿の上の茸の上を指で突っついた。茸から赤い煙が立ちのぼり、それを鼻から吸い込んでいる。マノンの顔がピンク色になった。
「吸ってみてください」
マノンのかわいらしい顔が僕をみている。僕も指で突っついて赤い煙を出し吸い込んだ。
そのとたん、頭がすーっとして、からだが浮いた感じになり、からだが妙に緊張してきた。
「茸は幻覚を引き起こすものが多いのじゃが、これもその一つじゃ、だが、体や脳には全く害は及ぼさないから安心しなさい」
老人の声が遠くで聞こえる。
「私の部屋に行きましょう」
マノンの声も聞こえた。私たちは連れ添って二階に行った。そのあと男と女の交わりがあり、身体にしびれたような快感が残っていて、それがどうしようもなく長く続いた。
目を覚ますと、朝になっていた。
その日、会社のオフィスに入っていくと、女の子たちが一斉に私をみた。
「あーら、シオンさん、いい匂い、お安くない香水ね」
雪落白花がまじまじと私を見た。
「ただ者じゃないわね、どこのお嬢様、お相手は」
と、胡桃(くるみ)緑(ろ)実(み)が興味しんしんに私を見ている。
確かに、何か香るようであるが、自分からでているとは思っていなかった。道理で、電車の中で周りの人たちが無遠慮に私を見るわけである。
「昨日は、ぐっすりとよく寝たよ、自分のベッドで一人でね」
そう言ったのだが、すぐに、
「それじゃ、その香りはなあに」
とリアクションがあった。
「きっと、電車の中での移り香じゃないかな」
そういいながら、夢の中のマノンとのことを思い出していた。
「でも、この匂いどこの香水なのかな」
化粧にとても興味をもっている楠木(くすのき)朱(あけ)野(の)が誰にともなく言った。
「ほんとね、こんな香水があったらほしいな」
という声もでた。
その夜のことである。
テレビをみながら、炊飯器のスイッチを押し忘れていて、ごはんが炊けるのを待っていた。耳元でマノンのささやきが聞こえた。
「高尾山にいきなさいね」
テレビでは旅の番組をやっている。山形の銀山温泉である。だが、高尾山が気になってきた。京王線の終点の一つであり、何度も行ったことがあるが、久しく行っていない。山頂のビアホールは眺めがよくて気持ちがいい。外人も多いらしい。
そんなこんなで、その夜は高尾山の意味を考えていたら、なかなか寝付けなくなり、入ったベッドから起きあがり、グレンフィディックを一杯ひっかけた。
またマノンがささやいた。
「女の子たちつれてきて」
ショットグラスでもう一杯飲んだ。
その夜はそれでなんとか眠りについた。
次の日、会社ではみんなでハイキングをいく相談をしていた。
「シオンさん、来週の土曜日にどこか山にいこうということになったのよ、いきます」
「独り身だから、空いているよ、つきあうよ」
きっと、夕食代をせびろうっていうのだろう。いつも余計に払わされる。
「そろそろ、ビールもおいしいよね」
連休が始まる手前である。気候もいい、たしかにハイキングは気持ちがいいだろう。そのとき、フットささやきが思い出された。
「高尾山、どうだろう」とつい口を挟んでしまった。
それを聞くと、みんなが驚いた顔をして、「さっすがあ」と大きな声をあげた。
「おおげさだな、京王線に住んでいるからだよ」
「いいえ、誰も高尾山って思い出さなかったんだもん、あんなに近くで人気のあるところなのにね、三ツ星ですよ」
山(やま)高蘭(たからん)が言った
「なにその三ツ星って」
「あれ、シオンさん知らないの、ミッシュランの三ツ星、都会から近くて、自然の多い、とてもいい場所だから、ミッシュランが三ツ星をつけたのよ、それはたいしたものよ」
「あそこで、ビールが飲めるでしょう」
「いいなあ、そこにしよう」
ということで、高尾山に行くことになった。今の時期なら少しはすいているだろう。
「社長さんはだめみたい、でもたんまり寄付してもらおう」
「山床君はタイに行くんだって」
「え、それじゃ、男はおれだけか」
「そうよ、たっくさん荷物をお願いします」
「もう三十五だよ」
「シオンさん、三十五はまだ青年の部類ですよ」
「大志なんて抱いていない」
「そんなもん抱かなくても、荷物を抱いてください」
ということで、土曜日には高尾山に行くことになった。
みんな、きゃあきゃあいいながら、京王線の高尾山口に集合した。朝十時である。
「ねえ、頂上に行くの」
と山高が低い声でつぶやいた。きゃあきゃあ言っていたのとは違ったトーンである。こう言うときは、めんどくさ、とか、大変とかいう意味である。
私はこう言った。
「登り口はいくつかあるけど、どれも二時間はかかるな、もっとかかるかな」
「えー、そんなに歩くの」
「ウオーキングシューズをはいているじゃないか」
「これ、山を歩くためじゃないの、草の露に濡れないようにだけ」
「なんだ」
「ケーブルカーか、リフトがあるよ」
「それがいいじゃん」
全員一致で、きまった。何のためのハイキングなのだろう。
「それで、どっちにする」
「好きなほうにしたらいいじゃん」
ということで、二手に分かれて、頂上をめざすことになった。
心の底では「よかった」と思っていた。必ず登れなくなるのがでる、そうなると、僕はおんぶをしないまでも付き添い役だ。
私はケーブルカーに乗った、二人女の子が一緒だった。山高と雪落である。二人とも三十を越しているわが社ではベテランのほうに入る。リフトに乗ったのは五人、二十代半ばの連中である。胡桃、楠木、志乃分(しのぶ)穂(ほ)野子(のこ)、浅海(あさみ)麻(あさ)、実(み)桑(くわ)紅(べに)である。
ケーブルカーを待つ人が結構多く、我々は上の駅までリフトの連中より十五分も後に付いた。
展望台の前で待っていた五人が一斉に、「頂上に行くの」と声を上げた。
「行かないでどうするの」
「ほら、ここから遠くまで見ることができるよ、これで十分ね、あとビール」
新宿副都心のビルも見ることができる。すばらしい眺めではある。しかし、飲むことしか考えていないんだから、この子達はと思いつつも、彼女たちに言った。
「まだ十一時にもなっていないんだぜ、登って、景色を眺めて、それからここに降りてきて、ビールっていうのが一番うまいよ」
「そうかー、そうしよう」
というわけで、ぞろぞろと登り始めた。ヨーロッパ系の人たちや、中国人らしいカップルなどに追い越されながら、ぶらぶらとというより、だらだら歩いた。
野草園、たこ杉の前を通り、女坂を登って神社の手前までくると、浅海が「なにあれ」、と神社の脇の旗を指さした。
竿に白い布がくくられて、はためいている。
「ねえ、茸とビールって書いてない」
実桑が近寄って行った。
「そう書いてあるよ」と、みんなを呼んだ。
確かに、その通りである。そのとき、耳元で、「つれてきたわね」とマノンの声が聞こえた。風の音の仕業のようでもある。
「あ、あれ」
奥まったところに、屋台がでていた。茸とビールと書いてある。
「ビール飲ましてくれるのよ」
志乃分がおいでおいでをした。もうビールかと思いながらいくと、いい匂いが漂ってきた。茸に醤油をつけて焼いている。ビールのジョッキも用意されている。
「食べよー」三人の娘は大はしゃぎで、屋台の前にたむろした。われわれも食べようかと、屋台をのぞくと、鉢巻をしたおじいさんが茸を焼いていた。
屋台の中では女の子が後ろ向きになって、ジョッキにビールを注いでいる。少し色の濃いビールである。
「ねー、このビール、フランスのだって」
紙皿の上の茸を箸で摘みながら、浅海が私を見た。
「おいしいのよ、この茸も、フランスのだって」
われわれも、たのんだ、老人が顔を上げた。
私は彼の顔を見て、どきっとした。あの老人だ。
ねじり鉢巻をした老人は、日本語で、「らっしゃい、あと三人前でいいね」と私に言った。
「はい、おねがいします」どきどきしながら返答すると、
「この茸は特別に育てたうまい茸だよ」
老人はまた茸を焼き始めた。ただ似ていただけなのだろう。ビールを注いでいる女の子をみた。一杯になったビールジョッキを持ってこちらを振り向いた。
マノンじゃないか、と声をだしそうになった。
マノンは山高に、「どうぞ」と日本語でジョッキを渡した。
「きれいな人」
山高が声を出した。マノンは恥ずかしそうに、またビールを注ぐために後ろを向いた。
そのとき、かぐわしい甘い香りがただよった。
「あ、こないだ、市温さんからただよった香水の匂い」
浅海が声を上げた。その声でマノンが振り返った。
老人が顔を上げた。
「すいませんな、孫にはつけるなと言ってるのですが、この茸焼きの香りにはあいませんな」
「いえ、とてもいい匂いですね、どこの香水なのですか」
雪落が聞いた。
マノンは答えず、老人が答えた。
「これは、茸の一種からとったエキスで、市販の香水ではないのですよ、娘が自分で作ります」
「え、でも、この間、この人がその匂いをさせていました」
彼女は私を指差した。
「ほー、京王線に住んでますから、孫が電車の中で一緒だったのではないですかな」
老人が言った。
「いい匂い、ほしいなあ、そんな香水」
若い子たちが言うと、老人は、
「家に行けばありますで、お譲りしますよ」
とエプロンのポケットから、欲しそうにしていた三人に名詞らしきものを渡した。
「茸の店もやってます、くるときは電話ください」
老人は言いながら、焼いている茸をひっくり返した。
「おいしい、もう頂上に行かないでいいよ、ここで、たっぷり食べよう」
女の子たちは、全くその気になっていた。楽しむために来ているのだから、いいか、と思ったが、座るところもない。
すると老人が、どこからか丸椅子をと丸いテーブルを出してきた。
みんなテーブルの周りに腰掛け、しゃべり始めた。
これで今日のハイキングは打ち止めだろう。ハイキングになっていないが疲れなくていいか。
老人が、焼いた茸を大きな紙皿に乗せてもってきた。
「こりゃ違う茸でね、うまいよ」
マノンがビールを持ってきて私を見てほほえんだ。
「きれいな人ね、日本人じゃないみたい、あのおじいさんも、端臭い顔よね」
山高が気にしている。
「うん、そうだね、二世さんかね」
「果物の茸を召し上がらんかね、サービスですよ」
老人が白い茸を山盛りもってきた。
「このまま、かじってくだされ」
ハンガリーに行くときの電車の中で食べたものだ、やはりあの老人とマノンなのか。
私はその茸をとって、かじった。じゅうと汁が滲みだし、果物の香りがただよった。
「おいしい、茸」
「なんていうのかしら、珍しいわね」
みんな手を伸ばして、白い茸をほうばった。
こうして、時間が過ぎ、高尾山のハイキングは終わった。
その夜、ベッドに入ると、すぐに眠りに落ち、マノンがこないかと耳元で囁いた。
わたしは、林の下草の中に生えているマノンのすんでいる茸の二階にいた。マノンが、私に寄りかかってきた。こうして朝目覚めるまでマノンと一緒にいた。
気持ちのよい目覚めであった。天気がよく、すばらしい日曜日であった。
それから数ヶ月が過ぎてもう暮れになっていた。
志乃分、浅海、がいきなり会社を辞めた。みなそれぞれ、目的があるようである。元気のよい現代っ子である。もっと気に入った職場を見つけたのであろう。山高と雪落は元気よく若手の芸術家の作品を掘り出している。
年があけた二日のことである。ベッドに入ると初夢を見た。またマノンの茸の中であった。一階の居間で老人が私に話していた。
「いい子たちをつれてきてもらって、ありがたいことです、おかげさまで、しばらく、おいしい茸をつくれます、日本の人はとても癖がなくよい茸がとれます」
私が首を傾げていると、マノンが手招きをした。
「案内しましょう、あの子たちもあなたを覚えているでしょう」
マノンは茸の香水を漂わせながら手招きをした。
マノンの家を出て、羊歯の下をしばらく歩くと、赤い茸がたくさん生えているところに来た
マノンは「ここよ」と、一つの茸の扉を開けると中に入った。
その部屋のベッドの上では、志乃分が横たわっていた。
私を認めると、「あら、市温さん、お久しぶり」と上半身を起こした。
一糸まとわぬ彼女のきれいな身体から、白い茸がたくさん生えていた。
「どうしたの」私がびっくりしていると、マノンが何事もないように言った。
「茸の苗床になってるのよ、とてもおいしい茸がとれるの」
私は声が出なかった。
志乃分はうなずきながら、きれいな足を伸ばした。
「毎日が幸せ、おいしいものを食べ、したいことは全部夢がかなえてくれる」
「日本には帰りたくないのかい」
私が尋ねると、志乃分は首を横に振った。
「死ぬまでここにいるわ」
「両親は心配していないのかい」
「夢の中で話をしている。私が幸せなことを知っているからいいの」
私は何かやりきれない思いになった。
次に案内してくれた茸には浅海がいた。彼女は揺り椅子に腰掛けて、テレビを見ていた。
私に気がついて、声をかけてきた。
「あら、市温さん、マノンさんと知り合いだったのね、それで高尾山に私たちを連れていってくださったのね」
浅海ははちきれんほどの肉体に真っ赤な茸をたくさんはやしていた。
「いや高尾山のことは、全く知らなかったんだよ」
「私は、連れて行ってもらってよかったと思っているの、こんなすてきなところで、気持ちよく暮らせるのなんて幸せよ」
「茸が生えていていやじゃないのかい」
「この茸が生えるとき、気持ちのいいこと、男じゃああいう風に気持ちよくさせてくれないわ、大きくなると、マノンさんがとっていくの、そうすると、また生えるの、そのときは一日中、頭の中は快楽で一杯よ」
「でも退屈しないのかい」
「散歩してもいいし、ほら、このテレビ、世界中の番組を見ることができるのよ」
「そう、それならよかった」
「また来てね、市温さんには何もしてあげられないけど、マノンさんがいるのでしょう」
浅海は大きな乳房を揺らした。
「うん、それじゃ」
その次の茸には実桑がいた。
細身のからだから、黄色い小さな茸が一面に生えている。
実桑はピアノに向かって指を動かしていた。
聴いたことのない曲であるが、とても気持ちの安らぐメロディーである。
実桑が私たちに気がついて立ち上がった。
「あ、市温さん、やっぱりマノンが相手だったのね、あの香水の匂い」
「いや、そんな」
私が照れていると、実桑は笑った。
「いいのよ、私はすてきな一生をもらったのよ、ここでは自由、しかも自分の能力が思う存分発揮できるわ、今の曲どうでした」
「とても気持ちがよくなった」
「私が作ったの、これエストニアではやっているのよ」
「すてきだね」
「私、本当にこの世界大好き、茸が生えるたびに気持ちがよくなって、新しい曲が作れるの、つくった曲はこうしてどこかの国でヒットしたり、しないまでも誰かが好きで口ずさんでくれていたり、やりがいがあるわ」
「それはよかったな」
「今度、市温さんとマノンのお二人に曲をつくっておくわね」
「ありがとう、楽しみにしている」
実桑はまたピアノにむかって指を動かし始めた。
「それじゃ、またくるから」
私とマノンは外にでた。
帰り道、マノンが言った。
「また、かわいい子つれてきてね、ああいう風に幸せになるのよ」
「高尾山で食べた茸も女の子に生えたものなのかな」
「ええ、あれは、フランスの女の子、まだ元気に絵を描いているわ」
私は聞いた。
「彼女たちから茸が生えなくなったらどうなるの」
マノンは答えた。
「骨になるのよ」
ささやき