PYG
彼は生まれて間もなく段ボールに入れられ捨てられた。長じて養豚場に就職した彼はやがて暴力で支配するようになった。
或る女子アナウンサーを誘拐して幽閉した。
養豚場に危機が訪れた。
PYG
「いい餌がほしいなぁ」
加藤正義はつぶやいた。彼は養豚業をしていて品質のいい豚を出荷するのが生きがいだった。しかし彼自身はベジタリアンで肉類を一切口にしなかった。それというのも嫌な思い出がありトラウマになっているからだった。あれは小学生の頃だ。給食に出てくる豚の脂身がどうしても食べられず、口に入れるとオエッと吐き出してしまった。牛乳も飲めず、無理に飲もうとすると気持ち悪くなり食べた物をトイレで全部吐いてしまった。彼はいじめの対象になり、給食の時間になるとクラスメートが周りを取り囲み「飲―め、飲―め」とはやし立てた。彼は懸命に一口飲んだが、吹き出してしまい、彼らの服を汚してしまった。怒った彼らは彼の頭の上から牛乳をかけた。彼は泣いたが、容赦なく何本もの牛乳がかけられ、髪から顔から上半身までがびしょぬれになった。午後の授業になるとだんだん牛乳が腐り始め悪臭を放つようになり彼はますます嫌われた。先生に訴える勇気もなく彼は一人で苦しんだ。彼の味方をしてくれる人は誰一人もなく、先生すら彼に近寄らなかった。一度、先生が彼のことを「何で臭いんだ?」と聞いたことがあった。彼は泣いて下を向くだけだった。それ以上追究する先生は誰もいなかった。特に夏場は強烈な悪臭を放ちみんなが彼の側から逃げた。彼は学校が終わると、泣きながら家に帰り自分で洗濯をした。しかし夕方に干しても翌日乾くわけでもなかった。いつも生乾きの服を着て学校に行った。洗濯して臭わなくなるはずだったが、彼の鼻の感覚は麻痺してしまい、彼自身も彼の周りの世界も全て腐った牛乳の悪臭に囚われていた。
彼は生まれて間もなく段ボールの箱に入れられ、交番の前に捨てられた。彼は施設で育ち、幼いころ子供のいない夫婦にもらわれていった。だがすぐに養父は交通事故で亡くなり養母も同時期に癌で亡くなった。年老いた祖母が彼の面倒を看るようになった。しかし祖母は認知症で寝込むようになり彼は何もかも一人でやらなければいけないようになった。給食に豚肉が出された時には、彼の口をみんながこじ開け、肉を押し込んだ。吐き気がして反射的に口を閉じた時に誰かの指を噛んでしまい問題になったことがあった。クラスの誰も本当のことを言わず彼は先生に叱責され問題児扱いされた。彼は小学校もろくに通わなくなった。彼の世界に対する嫌悪感はこの時代に育まれただろう。義父母に愛されたとはいえ、実の親に捨てられたという心の傷は極めて深かった。そうして捨てられた自分が、あえて生きねばならない理由が全く分からなかった。彼は何故自分が生まれたか、生きなきゃならないのか、いずれ死ぬのになぜ生きていく必要があるのか、全く理解できなかった。生まれなきゃ死ぬことはない。それで良かったんじゃないか、親に捨てられてまでしてあえて生まれ、生きていく意味がさっぱり分からなかった。彼のような底辺を這いずるような生い立ちは、世の中に対する呪いを育む。自己と他者への殺意こそが彼の生きる糧であった。長じるに従い、殺意は、宇宙を消滅させるという願望に姿を変えた。その決意は彼を否応なく絶対的に孤独にした。全宇宙に対峙する、自我の無謀で絶望的な戦い以外に彼を自殺から救うものは何もなかった。
中学を中途退学した彼は養豚場に就職した。豚は臭かったが自立するため一生懸命に働いた。豚は豚肉になると始末に負えないが、生きている豚は可愛いと思えるようになった。彼はその頃はまだ、殺生が嫌いで虫も殺さぬ男だった。彼は自分は豚を育てているだけであって、出荷されてからのことは関知しないようにしていた。やがて働きぶりが認められ、養豚場の主人の重度の知恵遅れの娘と結婚した。娘は豚のような顔をしていたが彼はそれでいいと思った。もとより選択の余地がなかった。結婚しても彼は女の性器が臭くて醜いと感じ夜の行為はなかった。彼女は夜になると豚のように眠りこんだ。主人は何年たっても一向に子供が生まれないのを訝ったが、行為がないとは気付かなかった。
彼は年を取るにつれて苛められていた過去の自分から決別していった。主人は引退して山に籠るようになり養豚場は彼の代になった。社会の底辺からのし上がった彼は自分を例外的な存在だと思うようになった。経営は順調で、金と自由を得た彼は、隠れていた本性を露わにするようになった。凶暴な人間だと彼は自認し自分は人を支配する人間だと気づくようになった。やがて従業員をあごで使うようになり徐々に自分流に洗脳していった。彼は恐怖政治に憧れた。好き放題に人々を罰して殺す過去の暴君を理想にし、超えたいと思った。彼が殺したいのは自分以外のすべての人間、すなわち60億の人間たちだった。それを達成したとき、それはもはや犯罪ですらない。誰も罰する人はいなくなるからだ。彼は地球を人間どもから救いだし浄化したかった。
養豚場は敷地を拡大し、周囲を高い塀で囲むようになった。外側からは何も見えず頑丈な門で外部をシャットアウトした。豚舎は最新式のシステムが導入され、三人の従業員で二百頭の豚を管理した。
彼は『自殺したい心を癒すサイト』を運営していた。深夜になるとゴソゴソと布団から起きだしてパソコンの前に座った。管理人としての彼は既に昔の惨めな現実を味わった人間とは別人であった。夜ごと訪れる訪問者たちの悩みを聞き、時にはアドバイスした。彼のハンドルネームは『ジーザス』だった。彼は『救世主』であった。それは死からか生からか分からないが……。
夜ごとさまよい人が彼のサイトにやってくる。
〈研二〉
「死にたい。死にたいです。ジーザスさん、僕の悩みを聞いてくれますか。僕は生と死の間に張られたロープの上を歩いています。落ちれば地獄です。そうです、僕の首にはロープが巻かれていて椅子を蹴れば死ねます。死んでいいですか」
こういう相手には、うんざりしながらも一応死なないように呼びかける。
〈ジーザス〉
「死んだら君も君の見る世界もなくなる。放っておけば体はウジ虫に食いつくされ、強烈な悪臭を放つ。死には何の意味もない。生もそうだが。自分や何かに期待するから死にたくなる。何も期待しないことだ。死んだように生きてみよ」
〈研二〉
「そんなふうに生きるのなら死んだ方がましです。僕の人生は輝かしいものになるはずだった。いま医学部の大学を三浪しています。もう無理なんだ。でも医者以外のものになりたくない。くだらない職業に就きたくない。僕は人を病気の苦しみから救ってやりたい。だけど僕の苦しみは誰も分かってくれない。あいつは馬鹿だ、無能だと思われている。もう僕は死にたい。ジーザスさんは僕の苦しみが分かりますか」
〈ジーザス〉
「自分を特別視するからいけないんだよ。君は凡庸だ。泥の中をもがくようにしか生きられないんだよ。ほとんどの人はそうだ。そして何の意味もなく年をとっていく。君が万が一、医学部に入ってもついていけないだろう。挫折するのが落ちだ。そして万が一、医者になっても誤診を繰り返して人に迷惑をかけて苦しめる。人を救いたいなんて嘘八百だ。自分の命を軽んずる人間は人の命も軽んずる。自分の命をもてあそぶ人間は人の命ももてあそぶ。君はそういう種類の人だ。自分を苦しめ人を苦しめながら生きていくしかないんだよ」
〈研二〉
「あなた、人が死ぬかもしれない時にそんな話しかできないんですか。『自殺したい心を癒すサイト』ですよね。あなたは死人に鞭打つようなことをする人ですね。そんなに人が死ぬのが楽しいですか。人が苦しむのが楽しいですか」
〈ジーザス〉
「君はねぇ、視野がすごく狭くなっているんだよ。うちは富士の裾野で養豚場を経営しているんだ。一度来てみないか。自然の空気を吸い、おいしい豚肉を食べれば元気になるよ。合格すること請け合いだ。何もかも忘れてみないか、気分転換は必要だよ。研二君、待っているよ」
〈研二〉
「……。明日の夜、また入ります」
加藤は人間はそうたやすく死なない生き物だと思っていた。いや人間に限らず動物も虫もみんなそうだが。小さな蜘蛛さえ襲われると逃げていく。人間は未練たらたら生きていく。彼は自分の仕事は、死にたい人間に終止符を打ち、生きたい人間を健康にすることだと思っていた。それがどういうことかいずれ分かるが。
「今日もすがすがしい一日が始まる」
彼は富士にかかる朝もやを眺めながら独りごちた。豚舎では豚が起きだして、ぶうぶう唸っている。豚の臭いには慣れた。人は何の臭いにも慣れるものだ。腐敗臭さえ香水に思える日が来る。豚舎の中でいつものように豚に餌をやっていた。豚のようにむさぼる、という言葉があるが、まさにそうだ。豚の食欲たるやすさまじい。生きている豚を間近で見たことのない人には分からないだろうが豚は想像以上に大きい。その成長の速さたるや想像を絶する。子豚は半年もたたぬうちに親と見分けがつかなくなる。彼は豚の世話に心血を注いだ。特に栄養面で。彼は豚の短い一生の間においしい餌を思う存分、食べさせてやりたいと思った。そのために特注の粉砕機さえ用意していた。豚には骨つきの肉がごちそうだ。食い散らかした後は肉の付いた骨を砕いて栄養たっぷりの餌にする。うちの豚たちはつかの間の幸せを味わう。その辿る運命も知らずに。豚はみな可愛いが、しょせん人間に食われる以外ない。だが世の中は公平でなければならぬ、といつも彼は思っていた。豚は人間に食われるために生まれたわけではない。この世は不公平と理不尽に満ちている。金持ちの家に生まれただけで蝶よ花よと育てられ、いい学校に入り、いい会社に入り、美人の嫁を貰い、格式のある良家に嫁ぎ、財産が財産を生み、金持ちはさらに金持ちになっていく。貧乏な家に生まれただけで親に虐待され、ろくな教育も受けられず中学もろくに行けずに学校を放り出され、精神を病み、どん底の生活を強いられる。道に転がって寝ていれば歩く人に蹴られ唾をかけられ怒鳴られる。最低の人間は自分が人間だと思っていない。そこいらの虫と同じだと感じている。中学の授業で習った、人間は霊長類である、などという戯言が身にしみて嘘だと分かる。日中寝て夜になると残飯をあさりにうろつきまわる糞虫みたいなものだと自分のことを感じている。富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなるのがこの世の鉄則だ。富める者は自分を誇りに思い、貧しき者は自らを糞虫だと思う。いったん糞虫になったら這い上がることなんて出来ない。『革命が必要だ』と彼は思っていた。だが糞虫に革命など起こせるわけがない。頭の中は一日中食い物のことで一杯でふらふらになり、少しでも勇気のある者は犯罪を犯し、刑務所で三食味わえるのを夢見ている。この世に変革などあるわけがない、と彼は思うようになっていた。彼は全ての財産を一億人で分けるべきだと思っていた。全てが平等な社会を夢見ていた。だがそんな社会は来るわけがない、人は生まれながらにして不平等だからだ。平等なのは『死』だ。死は幸いなことに誰にでも訪れる。まさに天使のような存在だ。だが心身が死んでも体は残る。体は放っておけば腐っていくだけだ。有効利用しなければならない。
〈研二〉
「ジーザスさん、また来ました。養豚業って大変そうですね、まさか行っても手伝わせられるわけじゃないでしょうね。こき使われたらたまったもんじゃない」
〈ジーザス〉
「研二君、君はお客さんだよ、何もせずに富士の自然に身をゆだね、心身ともにリラックスして過ごしてもらえればそれでいいんだ。元気が出て死のうなんて思わなくなるよ。新鮮な豚肉のしゃぶしゃぶでもステーキでも何でも食べさせてあげるよ。都会なんて人の住む所じゃないんだ。あんなごみごみした競争と嫉妬と憎しみの渦巻く所なんて心が疲弊するばかりだ。うちのような田舎に来るべきだ。バカンスのような気持ちで来ればいい。いつまでもだらだらと勉強していても能率が上がらないだろう。三浪している君の頭はもう勉強に心底嫌気がさしているはずだ。かちかちに凝り固まっていてもう参考書を開くのも嫌なはずだ。田舎に来て柔軟にしないと何も入って来ないよ」
〈研二〉
「そうですか。もう全然成績が上向く気配がないんですよ。それなら行ってみようかな。このままじゃ死にたくなるばかりで、また受験に失敗するのは目に見えている。気晴らしのつもりでいいですか」
〈ジーザス〉
「もちろん、それでいいんだよ。富士宮駅に着いたら電話してくれれば迎えに行くよ。駅からは一時間弱かかるけど、辺りには何もない、ただ富士山がそびえているだけの場所だよ」
石田研二は気軽な気持ちで行くことを約束した。彼は親に、二三日、富士山を見てくると言った。親は嫌な顔をしていたがしぶしぶ了承した。彼は身支度をしながら、もうしばらく医学書を見なくても済むんだと思って心がうきうきした。
富士宮駅に着いた研二は眼前に富士山が迫ってくる景色に圧倒された。それから管理人のジーザスに電話した。管理人は、よく来たね、と返事をして、駅前の店で豚丼を食べて待っていてくれと言った。研二は駅前の『産地直送の豚丼』という暖簾をあげている店に入って行った。そこで豚丼と豚汁を食べた。実にうまいと思った。彼はこれから腹いっぱい豚肉を食べられるんだと無邪気に思った。世の中にそんなうまい話が転がっているわけがないとも知らずに。
しばらくして一台のバンが駅に着いた。そこから降りてきた四十代くらいの男が近寄ってきて、研二君だね、管理人のジーザスこと加藤だよ、ここでは加藤と呼んでね、と言った。
研二は愛想の好さそうな加藤を見て安心した。彼らの乗ったバンはどんどん富士山に近づいて辺りは牧場しかないような景色になった。牧場と牧場の間もかなり離れていて鬱蒼とした森や生い茂った草叢しか見えなくなった。一時間ほどして『加藤養豚場』という看板が立っている牧場に着いた。牧場と言っても豚が放し飼いになっているわけではなかったが何かそんなものをイメージしていた。
加藤はうちは豚が二百頭いるんだ、と言った。小さな養豚場だよ、でも餌はいいものを食わせている。時々ごちそうもあげるんだ、君が駅前で食べた豚丼はうちと契約している店のものだ、と言った。
加藤は研二に養豚場を見学させた。溢れかえるほどの豚がぶいぶいいいながら餌を貪っていた。餌は後から後から流れてくるが豚の群れが残らず平らげてしまい後にはカスすら残らなかった。豚はますます肥えていき、加藤の懐も膨れていく。加藤は研二に、いいものを見せてやる、と言い、奥の部屋に入った。頑丈な鍵がかけられている中には真新しい大きな機械が鎮座していた。何に使うのかは言わなかった。
加藤は妻と三人の従業員を紹介した。研二には、白目をむいている奥さんがいかにも愚鈍そうに見え、従業員も陰気に見えた。
研二は二階に上がり、富士山が一望できる部屋に入った。加藤は、ごゆっくり、と言って出て行った。研二は雄大な景色を見ながら、東京のごみごみした世界を思い浮かべた。あんなちっちゃなもの、と彼は思った。都会なんてちっちゃなものだ、医者を目指して三浪もしている自分が馬鹿らしくなった。彼は、何もしなくていいんだ!、と自分に対して力強く言い放った。富士山は日が傾くにつれていろいろな表情を見せる。そのどれもが彼には新鮮に見えた。
その夜、バーベキューが開かれた。と言っても加藤とその妻と三人の従業員だけしかその場にいなかったが。加藤は分厚いステーキを焼いてふるまった。焦げ目の付いたいかにもうまそうなステーキだ。腹のすいていた研二はむしゃぶりついた。都会で食べる豚肉とは違った濃厚な味だった。生まれて初めて食べる味だと思った。何か餌が違うのだろうか。実にうまかった。加藤は口にしなかった。加藤の丸々と肥えた妻は豚のように食べた。まるで共食いだ。
「研二君、君は特別な客だよ。何カ月もいてもいい。その間に何人か出入りがあるかもしれないけど気にしないで。君は栄養をつけなきゃいけない。勉強のしすぎでろくなものを食べてないだろ」
確かに研二は朝食や夕食を抜いてまで勉強することがあった。そうまでしても彼の堅い頭にはもう勉強の内容が入って来なかったのだ。能率は上がらず予備校のテストは相変わらず下位を低迷していた。もう無理だ、何度もそう思った。医者にこだわる必要もないんじゃないかと思い始めることもあった。でもそれでも医者以外の人生は彼には考えられなかった。
加藤が研二を歓待する理由はいくつかあった。それは彼が医者志望なこと。何度も受験に失敗しているのに懲りないこと。死ぬほど苦しんでいること。そして無能なことだった。それは加藤に自分の子供時代を思い起こさせた。あの惨めな無力感、敗北感、諦め、それでも生きてきた過去の屈辱を研二に投影させていたからだ。だが研二はいずれ数カ月でいなくなるだろうと予想していた。それは養豚場からではなく、この世からだ。それは何でもない日常だ。ここから旅立っていった人間は両手では足りない。それは愛する豚のためだ。おいしい豚肉を世間の人は欲しがっている。豚肉を食べる家族たちの笑顔が目に浮かぶ。子供たちの歓声が耳に届く。彼の豚肉は人々の口から消化器を通って肛門から出るまで楽しませる。そのために良質の豚肉を作らなければならないのだ。
〈小百合〉
「ジーザスさん、私苦しい。彼に虐待を受けているの。体中あざだらけよ。それでも私、彼のことが好きでたまらないの。彼に殴られるとその時は憎くなるけどそのあざが愛しくてたまらないの。もっとぶってって思う。もっと蹴ってって思う。でも殺したいほど憎いのよ。その葛藤で私、変になりそう」
今夜も新たな訪問者が来た。
〈ジーザス〉
「小百合さん、ようこそ。人間心理の迷路に迷い込んだようだね。あなたの苦しみは快楽も混ざってごちゃごちゃに入り組んでいるんだね。根本的な解決には彼と別れるかしかないね。でも別れられない。彼が問題じゃない。あなたの心が病んでいるんだ。たとえ彼と別れられてもあなたはまた同じような関係を持つだろう。実はあなたがそれを望んでいるんだ。呼び寄せているんだよ」
〈小百合〉
「そんなの分かっているわ。私は自分に処罰を与えたいのよ。腕じゅうリストカットしてもうするところはないわ。乳房まで傷つけているのよ。無数に痕があってあとは乳首を切り落とすしかないわね」
〈ジーザス〉
「ほう、ご機嫌だね。ねぇ、彼から一時避難しないか。うちは富士の麓で養豚場を経営しているんだ。一度来てみないか。もちろん、働かせるつもりなんかないよ。おいしい豚肉をたらふく食べさせてやるから」
〈小百合〉
「からかっているの! 私がこれほど苦しんでいるのを茶化しているのね。私を苦しめて楽しい? 切り取った乳首を送りつけてやろうか」
〈ジーザス〉
「おいおい、興奮しないで。壮大な自然の中で安らげばそんな気持ちは起きなくなるよ。毎日、目の前に富士山が見られるんだぜ。世界遺産にもなったしな。そんな事はどうでもいいが。心の病には何と言っても肉だな。薬なんて飲んでも治らないよ。あれは医者と製薬会社を利するためにあるんだからな。肉の中でも牛肉よりも鶏肉よりも豚肉が最高だ。あなたはお客さんだ。歓待するよ、仲間もいるしね。といっても今のところ一人だが。前はもっといたんだが知らぬ間にいなくなるんだ。不思議だね。きっと心身ともに回復したから帰ったんだね。私の方は何の礼もいらないし逆に嬉しい限りなんだけどね」
〈小百合〉
「富士山の麓? へぇ、そんな所で豚を飼っているんだ。奇特な人だね。豚は臭いでしょ。私、臭いの駄目なんだ」
〈ジーザス〉
「養豚場とは離れた別の建物に私たちは住んでいるんだよ。豚の臭いなんて風の便りにもないね。あなたは豚肉を食べるだけだ。後は好きなように過ごしてくれればいい。富士五湖だってあるしね。案内してやるよ。間違っても富士の樹海に入らないでね、迷い込む人もいるんだ。うちに来た人がいなくなったのは樹海に迷い込んだからかなぁ」
〈小百合〉
「私は樹海なんか入らないわ。あんな所で腐って獣に食われてたまるもんですか。私はきれいな死に方をしたいの。睡眠薬を大量に飲めば死ねるわ。飲む直前にね、友達に一時間後にメールが送信されるようにスマホをセットしとくの。そうすれば完全に死んだ状態で、しかも腐ることなく発見されるでしょう」
〈ジーザス〉
「小百合さん、まだ若いんでしょ。若いみそらで死ぬことないよ。あれ、この表現、死語か。私の年がばれるね、ちなみに私は立派な中年のおじさんだ。従業員も汚いおじさんが三人いるだけだ。君と同じような若いお客さんが一人いるけどね。どうだい、来てみないか。富士宮から一時間弱かかる所に養豚場があるから、駅に着いたら電話してね、お迎えに上がるから」
それから一週間ほどして小百合は富士宮駅に立っていた。電話すると、駅前の食堂で豚丼を食べて待っているようにと返事があった。うまい豚丼だった。本当に毎日、豚肉を食べられるのか? 一時間ほどして一台のバンが来た。降りてきた中年の男が小百合に近づいて言った。
「ようこそ、世界遺産、富士山へ。今日は天気がいいから、ほらあんなにきれいに富士山が見えるよ。馬鹿な彼氏と離れてくつろいでね。豚丼はおいしかったかい。あの店はうちの直営なんだ。うちの豚肉はうまいだろう」
小百合は『加藤養豚場』と書かれた作業着を着ている男をださいと思った。豚臭いんじゃないかと思ったが不思議と臭いはしなかった。小百合は加藤の車に乗って養豚場に向かった。
「ねぇ、この車もあなたも豚臭くないわね。なんで? 一日中、豚にまみれているんでしょう」
「今ではもう作業はおおかた従業員にやらせているからね。ここが軌道に乗るまでは豚にまみれていたよ。でももう今は主に経営の仕事に専念しているんだ。私は人に使われるのはまっぴらご免だが、人を使うのは好きなんだ。人をはべらすのが好きなんだ。彼らは私から見ればわずかなお金で忠実に働くからね。ご飯も豚肉もタダでたらふく食べさせているよ。住居もタダで住まわせているからね。うちは福利厚生が万全だ。私は笑顔で彼らを支配しているんだ。強制じゃないよ。しかし彼らは私に洗脳されている。私の命令には逆らえないようになっている」
「命令って? 怖いわね。まさか私を支配しようとしているんじゃないでしょうね。私はね、どんな信仰からも自由なの。無信仰なのよ。神様大っ嫌い。私を支配するのは私なの。誰の命令も受けないわ」
「へぇ、それにしては彼氏と泥沼にはまっているように見えるけどね。あなたは自分という牢獄に囚われているんですよ。あなたは自分が自由にならない。自分とはね、飼いならさなければいけないんですよ。豚を飼うように賢くね。自分というだだっ広い荒野に草を育てて豚を飼うように自分を飼うんですよ」
「豚扱いか、ひどいわね。あなたは何でも豚に結びつけるんじゃないの? 毎日豚まみれになっている証拠よ」
「ははは。そういえばそうかね。だが私はあくまで経営者だ。労働者じゃない。経営者の頭で豚を見ている。ぶひぶひいう豚の面倒を見ているのは従業員だ。彼らはまさに豚にまみれているよ。一日中ね。社長室には決して入れさせない。業務命令はスピーカーから流れるようになっている。彼らが私に接する時は風呂で体中きれいに洗ってからにしている。だがね、うちの豚舎は近代的に洗練されている。一昔前とは大違いだ。でもね、餌代が馬鹿にならないんだ。本当に豚は一日中食っているからね。限界を知らないんだ。豚には食いすぎるということがないんだ。食ったら食っただけ肥えるだけだ。肥えた豚は出荷されるのも知らずにわき目も振らずに食って食って食いまくり栄養をつけ良質の豚肉になっていくんだ」
「あなた、それだけ豚を殺したら、生まれ変わったら豚になるわよ。そして人に食われるんだわ。もし人に生まれたとしてもひどい畸形になるわ」
「あれ、あなた仏教徒なの? ヒンズー教か、よく知らないけど、さっき、無宗教だって言ったよね、あなた無宗教の意味がよく分かってないな。無宗教とはねこの世が無意味っていうことで、死んだら無になるっていうことを骨の髄まで理解してなきゃならないんだよ。生まれ変わるなんてたわけたことを言っているようじゃ無宗教とは言えないな」
「あら、話のたとえよ、私だって死んだら灰になるだけだってことはよく理解しているわ。心なんて脳の機能だもんね。心が死んでも存在するっていう人いるけど笑えるわ。脳が灰になれば心なんて消えてなくなるのよ」
「あなたね、この世は実体のない夢のようなもんだということが分かりますか。存在と無は決して相容れないもんなんですよ。物理学者の馬鹿どもが無から存在が生まれることを受け入れると発狂するから、無にいろいろと新たな解釈をしているでしょう。でも無は無なんですよ。何もないのが無なんだからね。時間も空間も法則も何もないのが本当の無であって無から決して存在が生まれたりしない。だから今、存在しているように見えるこの世は夢なんですよ。だから私、面白くってね。人々があたかも本当に存在しているように振舞って憲法やなにやらをこしらえて検事や弁護士が裁判なんかして社会を作っているのが愉快でたまらなく思えるんですよ。物理学者だってね、生物学者だって、何でもいいけど科学者っていうのは、この世という存在の亡霊を研究してますけどね。究極のところは分かるはずないんだ。『何故?』という問いにはね。生物学者がね、細胞を初期化したって騒いでノーベル賞をもらったりしているけど、そんなの細胞が元から持っている性質を発見しただけでしょ。その辺に転がっている石を拾ったようなもんだ。そんなんでノーベル賞か、安易な世界だね。くだらない。良質の豚を育てる方がよっぽど難しいし社会に貢献している。幹細胞が世の中を変えるっていうのは分かる。でも世の中変えてどうするんだ。どうしたって人は死ぬんだ。亡霊のようなこの世はいずれ消えるんだ。ふっとひと吹きかけただけでシャボン玉が壊れるようにね」
「へぇ、養豚業者がそんなこと考えるんだ。豚を飼うだけじゃないんだね。私だってこの世がどうなろうと知ったことじゃないわ。あと何十年かで死ぬし子供を残すつもりもないしね。私がこの世に存在した証なんて跡形もなくなるわ。もともとそんなもんなんてないしね」
「それはいい、子供は産むべきじゃない。あんたの業をそのまま受け継ぐんだからね。この世は苦しみに満ちている。そんな世に可愛い子供を産もうなんてね。人は何のために生まれ、何のために生き、何のために子供を残し、何のために死ぬのか、何も分かっていない。馬鹿な動物さ。その辺の黴菌と何ら変わりない。霊長類が笑わせる」
加藤は運転席でげらげら笑った。それに何十年も生きないさ。
そのうちに車は養豚場に着いた。
小百合は案内されて部屋に入った。眼前に富士山が見える、絶景だと思った。別の窓からは豚舎と見られる建物が離れた場所にあった。友人に携帯しようとしたが圏外になっていた。
しばらくしてドアをノックする音が聞こえた。加藤と研二が部屋の前に立っていた。
「こちら、研二君、勉強家でね。三浪してまで医者になろうとしているんだ。偉いね。受かる見込みもないのに」
小百合は研二を見て、若いな、あどけないなと思った。社会のこと何も知らないんだろう。これから経験して苦しむんだろうなと思った。でも医者になれれば患者を治すという目的があるから案外悩まないのかもしれない、専門馬鹿でずっといられる。患者に感謝されればそれなりの存在意義があるかもしれない。そうだ、自分の存在に悩まないのが一番だと思った。
研二は加藤の言葉に傷ついた。加藤という人は真面目なのかふざけているのか分からないところがある。そういう人間は自分の短い生涯では見たことがなかった。愛想はいいが心の奥に底知れるものを抱えているような気がした。心の姿は目に映ると信じていた。加藤は自分の目を見て話すことはあまりないが、時折、見つめる時は何か心の底をえぐるような眼差しだった。殺意といっていいか分からないが、それと似た何かを感じとれた。
加藤は小百合に豚舎を見学するかと言った。小百合はまっぴらご免だと言った。
「あなた、これから毎日おいしい豚肉をたらふく食べられるんですよ。豚の生きている姿を見ておくのもおつじゃないですか。私はね毎日、豚に供養をしているんですよ。石碑だって立てているしね。でも私が豚を殺しているわけじゃない、殺しているのは出荷先だ。私は生まれてこのかた豚肉を一切れも食べていないんですよ。豚肉に限らず動物の肉っていうものをね。子供の頃は可哀そうだと思って食べられなかった。もちろん給食の肉を噛んだだけで吐き出してしまうほど体が受け付けなかったせいもあるけどね。涙が出るほど嫌いなんだ。肉っていうのがね」
「豚肉屋のくせに情けないわね。あなた殺してないって言っても間接的に殺しているのよ。それも大量にね。豚には神様がいないだろうから何だけどいたら呪われるわよね」
「あなた、そんな事を言い出したら人間はみな間接的に豚を殺している。当たり前にね。前にテレビで食レポというのを見て、若い清純そうな女性がにこにこ笑って豚肉のステーキを食ってやがった。あいつらみんなただで食ってるんだろう。卑しい奴だ。豚にたかる蠅みたいなもんだ。女っていうのはみんなそうだ。矛盾の塊だ。いまに嫌っていうほど説明してあげるがね。女の喘ぎ声と悲鳴は区別がつかない。女は嫌といいながら男を誘って惑わす。入れてほしいくせに股を閉じる。結局、男の前で大股を開くんだけどね。性器が入ったら自分から腰を振ってぶひぶひ言いながら喘ぎ声ともつかぬ悲鳴を上げる。下卑た存在だ。今日はこの辺にしてあげるがね」
「あなた女のことでトラウマがあるんじゃないの。女からしたら男だって同じようなものよ。はあはあ言って喘ぎながら大汗かいて腰を振って女の中に精子を吐き出すのに懸命になっている。馬鹿みたい。だから互いに誤解しあい、憎しみあいながら生きていくしかないんだわ。そうねぇ、豚を見に行こうかしら。気が変わったの。案内してくれる」
「もちろん、私が愛する可愛い豚を見に行こう」
加藤と小百合は豚舎に向かった。彼女は辺りに豚の臭いがしないのを訝った。加藤はそれは最新式の防臭システムを備えているからだと言った。しかし豚舎の扉を開けるとむせ返るほどの豚特有の悪臭が満ちてきた。
「うわー、嫌だわ、体中臭くなっちゃう。服も汚れるわ」
「大丈夫なんだよ。よく大きな大学病院で特殊な風を受けて無菌状態になってから無菌室に入るじゃない。あれに似た装置が出口に備えられているからね。臭いに特化した機能も付加されている。あの中で五分いれば何の臭いもしなくなるよ。従業員には使わせないがね。私とお客さんだけだ、使えるのは」
「へぇー、そうなんだ。でも早くここから出たい。肥えた豚がぶいぶいいっているだけじゃないの。何頭いるの、見当もつかないわ」
「見た通りの数さ。今日のバーベキューでどの豚食いたい?」
「みんな同じに見えるわ。区別なんてあるの?」
「どれも最高級の豚さ。うまいぞ、肉汁が。噛むと滴るようだぜ」
「あら、豚肉を食べなかったんじゃないの? あなたの話はあまり信用できなさそうね」
「ふふふ、いいんだ、いい加減な人間だからね、私は。まああなたには栄養つけて静養して帰ってもらうさ。あなたが帰りたい時にね。これまで自分で『帰りたい』と言った人はあまりいないがね」
二人は出口で五分間、特殊な風に晒されてから豚舎を出た。彼女は服や肌の臭いを嗅いだ。臭いが全くしないのを不思議がり首を捻った。だが記憶には残っている。頭の中までは脱臭できないようだ。
彼女は部屋に戻り富士山を眺めながらひと眠りしようと思った。しかしあのDVの男が瞼に焼き付いて眠れそうにもない。何十回もフェラチオしてやったのにあの男は何故自分を痛めつけるのか。心や体に刻みつけられた傷は永遠に消えないだろう。ここでしばらく静養すれば回復するのだろうか。だがあの加藤って男も油断がならない。何を考えているのか分からない。研二っていうおとなしそうな子も『自殺したい心を癒すサイト』からここにやってきたのだろうか。ただで住まわせ、食事を食べさすなんて何か裏があるに違いない。私は騙されない。携帯が圏外なのも気になる。
やがて夕陽が落ち、夕映えに染まる富士山は見事だった。午後七時ごろドアにノックがあり、これからバーベキューを始めると言う。
庭に設置されたバーベキュー場からはもういい匂いがしてくる。近寄ると加藤と研二が一緒に豚肉を焼いていて、少し離れた所で従業員らしき男たちが三人集まって焼いている。何という分厚いステーキだ、彼女はテレビ番組でしか見たことがなかった。
「この新鮮な豚肉は生でも食べられるんだよ。それを焼くんだから贅沢なものだな。あなたたちは好きなだけいて好きなだけ食べればいい。なにしろ『自殺したい心を癒すサイト』の主宰者だからな、これくらいのもてなしはしなきゃな。わざわざこんな田舎まで来てくれるんだから」
彼女は、携帯がつながらないんだけれどと言った。加藤は、この辺は圏外だね、別に妨害電波が出ているわけではないよと言ってにやっと笑った。そして後で携帯は回収するねと言った。彼女は寒気がした。
おいしい豚肉だと思った。噛めば噛むほどコクが出る。加藤が特上のものだというだけのことはある。餌も高級なものを使っているに違いない。それでなければこれだけおいしい豚肉が出来るわけがない。小百合は研二に近づいた。
「ねぇ、あなたいつからここにいるの?」
研二は小百合の方を見ようともせずに言った。
「……三週間前からです…」
彼女は彼を打ち解けない奴だと思った。こんなんじゃ学校でもうまくいかなかっただろうし、社会に出ても苦労するだろうと思った。だが気にも留めずに振舞おうとして言った。
「へぇ、三週間前なんだ。この『加藤養豚場』の周りは高い塀で囲まれていて入口には立派な門があるし、まるで監獄に見えるわ。あなたここから出たことある? 富士五湖とか案内してくれるって聞いたけど」
「行ったことはあります。でも絶対に周囲にこの場所を教えてはならないと言って携帯はあらかじめ取り上げられました。連絡を取ったら、帰ってもらうという規律があるようです。別に逆らうつもりもないし危険もないようだから従っていますけどね。従業員が一人ついて単独行動は禁止です。なんかあるなと思っていますけど、別にいつまでもいるわけじゃないし、この豊かな自然に囲まれ豚肉を思う存分に食べて静養したら帰りますよ」
彼女はおかしいと思った。確かに田舎ではあるけども富士宮駅から一時間足らずで着いてしまう。今時、圏外なんてそうあるかと訝った。子供でもあるまいし単独行動禁止なんて、まぁ研二は子供かもしれないけどね。でも一週間くらいはまだどこにも出たくない。富士五湖はそれからでもいいか。加藤の気を害してもしかたないしね。この豚肉の美味には勝てない。でも三食豚肉が出るというわけでもあるまい。それはさすがに飽きる。
「ねぇ、研二君。毎食豚肉が出るの?」
「いや、夜は毎日ステーキですけど、朝は和食だったり、昼は卵や野菜の料理や牛肉のハンバーグだったり、いろいろですよ。豚肉だってしゃぶしゃぶの場合もあります」
「ふーん、栄養バランスも考えているのかしら。でも不思議よね。ただより怖いものはないっていうじゃない」
彼女はその夜、携帯を持ち部屋を抜け出し、施設の中でつながる場所はないかと探った。だが端から端まで行っても圏外だった。それから門に近づいた。別に門番がいるわけじゃない。でもこの立派な頑丈な門はたとえ車で激突しても車の方がぺしゃんこになるんじゃないかと思った。鍵らしきものはないし、どうやらパスワードや電子キーで開くシステムのようだ。
それから毎日富士山を眺めながら食事し、夕方は絶景の中、露天風呂に入った。奇妙なガラス張りの露天風呂ではあったが。あのDV男の記憶も徐々に脳裏から消えつつあった。一週間ほどして彼女は加藤に言った。
「ねぇ、富士五湖回りたいんだけど。なんかここ監獄みたいだわ、外の空気吸いたいの」
すると加藤の柔和な笑顔が変わった。
「うーん、それじゃ今日の夜九時、豚舎の隣にある建物に来てくれないか」
彼女は建物のドアを開けて中に入った。ドアは自動的に閉まって鍵がかかった。建物の中央、薄暗い中に加藤が立っていた。加藤は手の中に何か握りしめ手の先から長いひも状のものが伸びていた。
『鞭だ』彼女は反射的にそう思った。彼女は逃げ出そうとしてドアを開けようとしたり蹴ったりしたがびくともしない。
「女は手に負えない胸糞悪い性悪で卑しい生き物だ」
加藤の声が建物に響いた。すると鞭を一回地面に叩きつけた。
「女は不潔な動物だということを女たちは分かっているだろう。それなのに清純でございという顔をしながら新しい男の前にいけしゃあしゃあと現れる。女は百回セックスすれば百人の男性器が女性器の中に刻みこまれるんだ。三百人とフェラチオすれば三百人の男性器が女の唇の中に刻印されるのだ。男たちの精液まみれになるのだ。その意味が分かっているか? 分かっているはずがない。新たな恋人ができればあなたにとっては処女よっていう顔をしながら抱きついていく。そして汚れ切った陰唇を舐めさせフェラチオし大股広げ男を迎え入れる。馬鹿な男はそれが毒壺だとも知らずに男根を挿入する。本当の処女以外はみんな不潔だ。いや元々女は汚れやすい構造をしている。排尿のたびに汚れた性器を紙で拭かねばならぬ。入浴して尿の残痕を拭わなければきれいにならぬ。街を歩いている女性の性器は全員尿で汚れている。少女から老婆までみな同じだ。尿臭漂わせながら男と付き合い、洗ってからねと言いながら男とセックスする。月経の時は悲惨だ。その鉄臭い悪臭を女は自覚している。男にバレテいないと思っているだろうが鼻のいい男は分かるんだ。オムツのようなナプキンを性器に当て一日中過ごしていなければならぬ。最近の女はタンポンが多いらしいが。私から見れば不潔の一言だ。そして女は臭い糞をした後でオフィスに戻って男に微笑みかける。清楚な美人であれば男はいちころだ。肛門からはひどい悪臭が出ているのにね。男も女も糞は清潔でなければならぬ。乳酸菌の錠剤を毎食後三度三度飲め。そうすれば臭いはしなくなる。これは私にとっては常識なんだが、そうでない人も多い。
私は女の自己陶酔的な心が大っ嫌いなんだ。自己愛、自己憐憫は女の専売特許だ。男もそうだと言うかもしれないが男はいちいち自分を憐れんで自己に陶酔し泣いたりしない。女のねばねばしたナメクジのような心が嫌いなんだ。私は増えるものが嫌いだ、女は増殖する。だから地球上は人で溢れかえる。みんな女のせいだ。女をこの世から駆逐せよ。増えるものは豚だけで十分だ」
そう言うと加藤は小百合の前に近づき、いきなり拳で殴りつけた。
小百合はもんどりうって倒れた。唇が切れ出血した。いや唇だけじゃない、頬が裂け、だらだらと血液が地面を濡らした。猛烈な痛さだ。あのDV男の比じゃない。
「痛いか! 鋲付きの拳で殴っているからね。あんたはもうここから出られない。三度三度食事は与えるがね。それも三食豚肉だ。嫌って言うほど食べさせてあげる。口に入らなくなったら口をこじ開け豚肉を押し込んであげる。栄養をつけなきゃ駄目なんだ。豚のためにね! 良質な豚肉を作るためにね! あんたの肉体がごちそうになるんだ」
「えぇ、何言っているの? 意味分かんない。でもこんな事だろうと思ったわ。ただで住まわせただで食事を振舞っているんだもんね。まさか豚に食われるとまでは思わなかったけど。でもあなたに人は殺せない。あのDV男だって殴った後は優しくしてくれたもんね。あなた殺人者になるのよ。一生刑務所で過ごさなければならなくなるのよ。私が初めてじゃなさそうね。じゃ、捕まったら死刑よ。その覚悟があるのかしら」
「もう両手に余る人を殺してきたよ。でも殺したのは私じゃない。豚だ。私は女なら乳房や女性器をえぐって豚に与える。でもその段階では人は死なない。人は豚に食われて死ぬのだ。男なら男根を切って玉を潰す。男は悶絶するよ。そして豚の群れの中に放り込むのだ。豚に殺されて死ぬのさ」
「あなた、人を食べた豚を出荷してきたの? 狂人だわ」
その時、物凄い吐き気が襲ってきてその場で激しく吐いた。
「もう一切れだって食べないわ。ここを出して! あなたの所業をぶちまけるわ」
「だから出られないって言ったでしょう。あんたがいくら食べないって言っても豚肉を前にしながら飢え死にするわけないでしょう。体が欲するからね。特にあんたのようなこらえ性のない女はね。セックスに溺れた女は豚肉の沼にはまって溺れ死ぬのさ。監視カメラが付いているからあんたの様子は手に取るように分かる。飢え死にするより豚肉を選ぶさ。これまでの人たちが全員そうであるようにね。あんた豚が悪いわけじゃないよ、人肉だろうと何だろうと餌に変わりがあるわけじゃないからね」
「あなた、研二君はどうしてるの? もう一カ月近くいるじゃない。富士五湖にも連れて行ってやったそうだし彼は特別なの?」
「そうさ、彼は特別さ。医者の卵だからね。でも卵も放っておくと腐るし捨てなければね。だがまずあんただ」
そう言うと彼は空気を引き裂く音を立てて鞭を彼女に振り下ろした。背中の皮膚が裂け、肉がむき出しになった。彼女はギャーと叫んだ。
「それは悲鳴か? あえぎ声か? はっきりしないな。いく時のよがり声か。我慢しろ、おいしいおいしい豚肉を庶民に食べさせてやるためだ」
彼女は地面を這いずりまわり呻いた。彼が鞭を打つたびにごろごろと転がった。
彼は冷ややかな顔を彼女に近づけ、この売女め、とののしり再び殴った。彼女はぴくぴくと痙攣し動かなくなった。彼はぺっと唾を吐きかけ、『自殺したい心を癒すサイト』に集まる奴らはみんなこうしてやる、自殺したいだと、甘えるんじゃない、さんざ肉を食って育ったくせに、自殺するんなら豚に食わす。豚の気持ちを思いやれ。そう言ってドアから出て言った。
加藤は居間でテレビを見ていた。テレビ番組にはただで豚肉を食べているレポーターという人種がいる。はちきれんばかりの笑顔でいかにもおいしそうに食べているが、豚は人間に食われるために生まれてきたわけじゃない。食べられる豚の悲しみを知っているだろうか。豚の悲鳴を聞かせたい。この女、調べつくして、ここに連れてこようか。豚の悲しみ、苦しみを思い知らせてあげねば。そして人肉の餌で育った豚肉を食わすのだ。チャンネルを変えると女性アナウンサーがこれまた食レポをしていた。清楚で虫も殺さぬような美人だ。可愛い口を開けて豚肉を食っている。そして何やら下手くそな感想を可愛い声で頬張りながら話している。この藤田純子という女子アナは彼の好みだった。調べると慶応幼稚舎から慶応女子高を経て慶応義塾大に入っている。蝶よ花よと可愛がわれ何の苦労もなく育ちテレビ局に入ったんだろう。こういう輩は彼の憎悪の対象だった。でもこの清純な容姿に彼は惚れていた。いきなり、次はこいつだという考えが頭に閃いた。だが女子アナはガードが堅そうだ。でも早朝など電車やバスの通っていない時以外はタクシーを使わない女子アナが多いのも彼は知っていた。なんて言っても会社員だからな。安い給料でこきつかわれ三十歳くらいで結婚してフリーになるのは目に見えている。でもフリーになったらたいてい仕事は激減する。そんなに世の中は甘くない。バラエティに出たら面白いことを言い続けなければ次はない。でも高給取りの旦那が食わしてくれるからそんなのはどうでもいいんだ。奥様の趣味気分で出て見ましたでいい。女子アナはお局がたくさん居座っているから、三十を過ぎて容姿が衰え始め、出番が少なくなると会社に居づらくなる。技術があるわけでもないから出ていかなければ新人が取れないんだ。皺の出始めた下手くそな女子アナを視聴者は求めない。会社もそれをよく知っている。彼は或るよく声のひっくり返る、ぶりっこキャラの抜けない女子アナを思い浮かべた。ああなると悲惨だ。当人がそれをあまり自覚してないのが哀れだ。だがこの女子アナは違う。フレッシュで生き生きとして笑顔を振りまいている。こんな肉を豚は求めている。もちろん豚に食わせるのはさんざん楽しませてもらってからだ。彼は頭の中で作戦を練り始めた。早朝番組に出ているわけじゃないから定時出勤だろう。ハイヤーのお迎えがあるわけじゃない。だが人ごみの多い六本木でどう拉致するかが問題だった。当然帰りを狙うしかない。バスならバス停、電車なら駅からの帰り道しかチャンスはないだろう。全部の道に防犯カメラがあり煌々と照らされているわけではない。死角という暗がりは当然ある。彼はモニターを見た。小百合が茫然として座っている。彼女は邪魔だ。早々に始末しようと彼は思った。
それから二週間が経った。小百合は三度三度出される豚肉を食べている。そうさ、飢えにはかなわない。過去には人肉を食べた人間はいくらでもいる。彼女もいずれそうなる。今でも間接的に人肉を食べているのと同じだからな。人間は意地汚い生き物だ。食ってセックスして人を殺す、それだけの生き物だ。人間は追い込まれれば何でもする。人を殺すのが嫌だって言って自殺した人間を見たことがない。そういう人間もいるって? それは判断力が混濁していたからだ。意識朦朧として自殺したんだ。倫理的に殺人を犯すのが嫌だからと冷静に自殺した人間を見たことがない。殺さなければ殺すと言われれば人は殺すんだ。それが当然の姿だ。国家機密を守るために自殺するスパイは気狂いだ。殺さなければ逆に不自然だ。私は糾弾しているわけではない。だって人の代わりは大勢いるが、自分の代わりはいないからな。自分が死ねば自分が消えるだけじゃない、宇宙そのものも消えるんだ。宇宙なんて自分が死んだ後、存在する理由も意味もない。自分が存在して、初めて宇宙が存在するんだからな。
加藤は夜、小百合の監禁されている建物に入って行った。小百合の神経は参っていた。彼の姿を見るとおびえた。
「やぁ、元気そうじゃないか。豚肉はうまいだろう」
彼女は恨めしそうな顔で彼を見た。もう目つきが変わっている。尋常じゃない。部屋の片隅にうず高く糞便が溜まって悪臭を発している。
「糞はな、腐敗した状態で出すから臭いんだ。せっかくの豚肉を消化吸収しきれていない。大腸の黴菌のバランスが悪いんだ。乳酸菌の錠剤を飲まなければ栄養を取りきれないまま臭い便を出すことになる。ヨーグルトじゃ駄目なんだ。糞の臭さはあんたの心を表している」
「近寄らないで! あなたは恐ろしい人だわ。八つ裂きにされればいいのよ。あなたは捕まっても裁判にかける必要ないわ。殺された遺族の連中に切り刻まれて肉片になればいいんだわ」
「ふーん、なるほどね、そうさ、裁判なんて必要ない。人の作った法律で私が裁けるはずがない。法律なんて糞のようなもんだ。人間は放っておいたら何をするか分からないから法律を作って、破ったものを罰するんだろう。必要悪だ。他人が作ったものに何故私が縛られなければならない。私は私以外のものに支配されない」
彼は彼女に近づいて、後ずさる女を殴った。何度も何度も殴って彼女は失神した。そして血だらけの顔から滴り落ちる血で真っ赤に染まった首筋にスタンガンを当てた。彼女はびくっと痙攣した。彼はぐたっとした女を引きずり隣の建物に入った。そこには三十頭くらいの豚がぶひぶひと唸っていた。もう五日前から何も食わしていない。飢えた豚がいらいらして共食いを始める寸前だ。彼は女の衣服を脱がして全裸にした。そして包丁で乳房を切り取り始めた。女ははっとして目を見開いた。だがまたスタンガンを当てると女は失神した。彼は切り取った脂肪分たっぷりの乳房を群れの中に放り込んだ。豚は興奮して我先にと群がった。もう片方の乳房を投げ入れた。そこにも豚が密集して暴れだした。そして最後に汚辱にまみれた女性器を切り取って放り込んだ。血の臭いに狂った豚が彼の元に押し寄せてきた。だが豚と彼との間には敷居がある。豚はその壁に頭を打ち付けた。彼はよいしょっと言って女の体を持ち上げ群れに投げ入れた。豚の巨大な体に紛れて女は見えなくなった。
翌日の朝、加藤は食い散らかされ無残な姿になった女の残骸を豚の群れから引きずり出した。向かってくる豚にはスタンガンを浴びせた。豚は悲鳴を上げて逃げた。内臓はあらかた食われていたが、残った肉も多い。骨にこびりついた筋肉や頭蓋骨に囲まれた脳までは食われていない。腐ってはいけないと彼は思った。のこぎりで首を切り離し、背骨をいくつかに分割し、手足の付け根を切り、関節の部分で切断した。そして袋に入れ、別の建物に向かいドアを開けた。そこには大型の粉砕機が仏像のように鎮座していた。機械からは二つの突起物が突き出していた。片方の蓋を開けて袋の中身を放り込んだ。ギャーンという音がして、しばらくすると反対側の突起物からきれいに砕かれた粗い粉末と濁った液体が出てきた。栄養たっぷりの餌が出来上がった。彼は笑った。このごちそうを食べてますます元気な豚に育ってほしいと思った。
彼は探偵を雇い女子アナの現住所、出勤時間、退社時間、出勤経路を調べた。バス出勤だった。マンションから歩いて十五分くらいの五反田駅前のバス停から六本木の放送局へ通っている。夕方の帯番組に出ているから帰宅時間はたいして変わらなかった。夜十時前後三十分だった。彼は富士宮から五反田のホテルに向かった。そして毎日彼女のマンション近くの路上に車を止めて帰りを待った。彼はもちろん偽造免許証で借りたレンタカーを使っていた。顔も偽造していた。人通りは十時を過ぎると目に見えて減ってくる。彼はチャンスを待った。空振りの日もあったが彼女は何回か彼の車の横を通り過ぎた。だがひと気がなくなったわけではない。ある日、彼は九時から十二時近くまで待った。もう諦めてホテルに帰ろうとした時、藤田アナが人通りの途絶えた道を一人で帰ってきた。彼はすっと近づき柔和な顔で道を尋ねた。藤田アナが油断した時、首にスタンガンを当てて気絶させ、バンの後ろ座席に押し込んだ。そして急発進した。その間、二十秒もかからなかった。
養豚場へ向かう道で彼女が目を覚ました。
「降ろして、降ろして、止まって、あなた誰よ。私をどうするつもり、お願い、帰して」
加藤は路肩に車を止めスタンガンを弱にして首に押し当てた。彼女は体の動きが取れなくなった。
「藤田純子さん、まぁ、落ち着きましょう。別に取って食うわけじゃないんだから。あなたは富士宮近くの私の養豚場へ向かうんだよ。夕方のニュースはいつも見ているよ。すごく可愛いと思ってね。毎日、都会の喧騒の中で大変でしょう。上司の監視の中、楽しくもないのに、にこにこ微笑んで、レポートをしている。まだろくにニュースも読ませてもらってない。バラエティも見ているよ。アシスタントで芸人の馬鹿どもの相手をさせられるのも可哀そうだと思ってね。あんな虚飾の世界にあなたを一秒でもいさせたくないんだよ。富士山の麓でいい空気を吸い、ゆっくりと安らいでもらいたいんだ」
「ううぅぅっ、わ~たしを、か~えして~なんの~ために、こ~んなことぉ、す~るの~、ううっ」
彼女はろれつが回らなかった。よだれを垂らしていた。彼はスタンガンを強にして首に押し当てた。彼女は失神した。
養豚場に着くと小百合を監禁した建物に車を横付けして藤田アナを抱きかかえて部屋に入った。そして横たわった彼女をしばらく見ていた。何という清純そうな顔をしている。スタイルも均整がとれていて魅力的な体だ。やがて飽きると彼は平手で彼女を叩いた。起きないので何度も叩く羽目になった。やがて彼女は眼を覚ました。
「うぅ、ここはどこ? あなたは誰なの?」
彼女はおびえた声で言った。
「ここは『加藤養豚場』で私はそこの親父だよ。あなたがおとなしくしてればここから出してやるんだけど無理かもしれないな。あなたは泣いて騒ぐだろうし助けを求めるだろう。それはちょっと困るんだな。静かにしていれば富士山の絶景を見ながら露天風呂に入り、たらふく豚肉を食べさせて、この世の極楽を味あわせてあげるんだけどな」
「あなた、こんな事してただじゃ済まないわよ。私をここから出して帰して。大騒ぎになるわよ。今だって局内では騒ぎ出しているかもしれない」
「あなたの行方は分からんなぁ。ずっとここにいてもらうよ。夕方は毎日バーベキューで豚肉のステーキが振舞われるよ。新鮮なジューシーでとろけるような豚肉さ。あなたに食レポしてもらおうかな」
「……ここから出してくれるの?」
「あなた次第さ、騒がないって約束してくれれば養豚場の敷地内に限り自由な生活をしてもらうよ」
「ここにいるのはあなた一人じゃないわよね」
「そうさ、増減はするけど数人の人がいて働いているよ」
純子は押し黙った。しばらく静かにしていればいい。この男は外へ出すかもしれない。そうすれば……。
「地上の極楽はどこにあるっていったら、ここにあるのさ。人間は本来、食って寝ていれば幸せなはずだからね。それに加えて富士山と露天風呂があれば何もいらないだろう。健康で文化的な生活を保証するよ」
加藤はそう言ってドアから出て行った。
純子の心の中は不安でざわめいていた。今、何時頃なんだろう。上の方にある窓から日差しが差し込んでいる。出社していないことで自宅に電話しても連絡付かない状態だろう。もっと時間が経てば大騒ぎになるだろう。だけど今はどうすることもできない。同僚の顔が次々に浮かんできて彼女は泣いた。とめどなく流れる涙は美しい顔を濡らした。彼女はそれから数日、焦りと動揺の中で過ごした。それでも腹は空いてくる。三度三度食事は運ばれた。最初は手をつけなかったが、数日たって熱々のステーキを前にすると心が揺れながらも一口食べた。おいしい、今まで食べたことのない豚肉だと思った。それから毎日、食事を食べた。ステーキばかりじゃない、和食も野菜料理も出された。体力を付けなければと彼女は思った。逃げ出す時のために。
そしてついにその時が来た。
「藤田アナ、純子さんって呼ぶね。おとなしくしていたからこの建物から出してあげる。夕食はいつもバーベキューでステーキなんだ。今、焼いているよ」
加藤はドアを開いた。純子は開いたドアに突進して外に出た。駆けながら周囲を見ると五メートルくらいの塀が広大な敷地に張り巡らされている。バーベキュー場の周りには人が数人いる。彼らに助けを求めれば何とかなるだろう。彼女は彼らに接近して大声で叫ぶように訴えた。
「すいません! 私は藤田純子と言います。アナウンサーをしています。ここに誘拐されて閉じ込められました。救出して下さい、協力して下さい」
彼女は男たちの服をつかんで、助けて下さい。助けて下さいと言った。すると彼らはその手を振り払い彼女の体を強く押した。彼女は後ろへ倒れそうになった。彼女は頭の中に疑問符がついたまま次々と男たちに駆けよって助けて下さいと言った。男たちは「うぅっ」と唸りながら彼女をはねのけた。
『何なの、これはいったい! 何故?』
彼女は座り込んでしまった。彼らは共犯者なのかという絶望が頭をよぎった。周りを見渡した。他の男たちとは明らかに違う様子の若い男が目に入った。彼女は立ちあがり彼に近づいた。
「ねぇ、助けて下さい」彼女は半信半疑で聞いた。
「……僕に聞かれても……。僕には何にも出来ない。力がないんだ、役立たずの人間なんだよ。僕も帰してもらえないかもしれない」
「えぇ、何を言ってるの。どうかしているわ。外との連絡は取れないの?」
「携帯はつながらないんだ。もう諦めたよ」
研二はため息をついた。彼がここに来てから、知らない間に人が二人いなくなっている。あの人たちは帰ったのだろうか。彼は流されるままに毎日を送っていた。もう勉強にも家族にも世の中にも辟易していた。あんなところに二度と帰りたくない。彼の心は真綿で首を絞められるように加藤の支配下にあった。もうどこにも行きたくない。
「一緒に逃げましょう。急いで、目を覚まして!」
彼女は彼の袖をつかんで揺すった。しかし彼は揺すられるままになっている。
「どうかしているわ、ここは監獄なのよ、生きて出なければならないの」
彼女は説得した。しかし彼は顔を背けた。どうすればいいのか、彼女はまたしゃがみ込んだ。ステーキの芳しい匂いが鼻をつき、腹がぐぅっと鳴った。
彼女は加藤の横に一人の女性がいることに気付いた。今まで眼に入らなかった。彼女に駆けより、助けて下さいと言った。だがその女は白目をむいていて純子の言葉が聞こえているのかもどうかも定かではない。
「うえぇっ」と女は呻き体を震わせた。
この人たちを頼れない。どうすればいいの、どこから逃げればいいの。彼女は立ちあがり門に向って駆け出した。頑丈そうな門だ。鍵らしきものはない、電子キーか虹彩認証システムか。彼女は無理と知りつつも扉を叩きながら大声で助けを呼んだ。何の返答もない。彼女の心を絶望がよぎった。居場所がない、私の居場所はここではない、テレビカメラの前よ。あの世界に戻らなきゃ。
すると加藤がゆっくりと純子に歩み寄った。
「分かったかい。自分の現状を。諦めるしかないな。ステーキを食ってまたあの建物に戻るんだ」
「嫌よ、戻るわけないじゃないの。あなたの指図は受けないわ。今頃私を大捜索している。大変なニュースになっているわ。ここもやがて警察が来る。時間の問題よ」
「へぇ、警察ねぇ、来ないだろ、こんな山奥に。来たって適当に応対すれば中にも入って来ないよ。警察も忙しいからねぇ。まぁ、一回くらいは来るかもしれないけどね。全国民が注目している事件でも全国をもれなく探せるわけじゃないからね。何年かかるんだろうね」
彼女は加藤を睨みつけた。彼はあくびをしながら言った。
「まぁ、ご勝手に、その辺で地べたに寝ればいいよ。食事はあの建物の中にしか運ばないからね。飢えて死んでも知らないよ。今は春だけど夜はけっこう冷えるんだ。体を壊さないでね。楽しみがなくなるから」
彼女は門の下に座り込んだ。意地でもあの中に入らない。入ったら最後、それこそ出られなくなるわ。彼女は夜が明けるのを待った。あぁ、職場の皆さんは心配しているだろう。無事に帰らなければ。頭を不安が駆け巡った。視線を上にあげると天空は星々で覆い尽くされていた。東京ではこんな星空は見られない。
朝日で目を覚ました。いつの間に眠ってしまったのか。あれほど緊張していたのに寝てしまった。彼女は不覚を恥じた。豚の鳴き声が聞こえる。でも豚特有の臭いはしない。建物は彼女が閉じ込められていた場所を含めて五棟あった。何かあのサティアンを思い起こさせた。敷地内には木々が生い茂り、殺風景ではなかった。人の気配がない。腹がまたぐぅっと鳴った。胃酸が逆流するようで気持ちが悪い。どうしたらいいのか、彼女は考えを巡らせた。だがどうすることも出来ない、待つしかないのか。上空をヘリコプターでも飛んでくれればいいのだが。何の手がかりもないだろうに、富士山の方まで来るだろうか。うかつだった。あの柔和そうな笑顔に騙された。深夜だったのだから警戒しなければならなかった。タクシーで帰ればよかった。でも最終のバスで帰ることは何回かあった。反省会やら、残業やら、雑用で新人クラスのアナウンサーは忙しいのだ。
彼女は立ち上がって辺りを探り始めた。人っ子一人いなかった。建物の入り口は施錠されていて開かなかった。昼中歩き回って疲れ果て夕方になると再び元の門の下にうずくまった。するとしばらくして豚の鳴き声がする豚舎らしき建物から男が出てきた。彼女は駆け寄っていった。
「あなた、テレビのニュースで見たでしょう。大事件になっているでしょう。お願いだから私を逃がして」
男は何も話さずに振り払った。
「ねぇ、あなたも共犯になるのよ。捕まったら刑務所行きよ、何年も出られないわ、あの加藤という男に騙されているのよ、自首すれば罪は軽くなるわ」
「おい!」と後ろで鋭い声がした。
「甘いな、つくづく甘いんだ、けっけっけ。刑務所で何年かすれば出られるって。刑務所はな、死刑になるために入るところだ。誘拐なんてちゃちなことで私が満足するとでも思うか? 行き着くとこまで行かなきゃならないんだよ、こういうことは」
加藤が強い口調でしかも笑いながら言った。
男たちが何人も建物から出てきてバーベキュー場に向かった。彼女は取り残され泣いた。
それから二週間余りが経った。彼女は門の下でふらふらになっていた。頭の中に浮かぶのは食べ物のことだけだった。飢えていた。あそこへ行けば食べられる、そのことだけが強迫観念のように頭の中に渦巻いていた。彼女は夢遊病者のようにゆらゆらと歩き始めた。入ってはならない、いや少しくらいいいだろう、また出してもらえる、という考えが薄れゆく意識の中で争っていた。彼女は建物の前に立った。すると入口が開いた。焼きたてのステーキの匂いが漂ってきた。彼女はたまらずそこに入った。すると突然、扉が閉まった。彼女は振り向いた。しかし何も考え付かなかった。建物のいつもの場所に豚肉のステーキが何枚も置かれていた。彼女は駆け寄りむしゃぶりついた。ひどい空腹の後に肉を詰め込んだので少し吐き気を感じながらも食べに食べた。一息ついて彼女は寝た。しばらくして起きると建物の奥の方に扉があるのに気付いた。あんな扉あっただろうか、扉を開けると目の前に富士山がそびえ、大きな露天風呂があった。出られると思って駆け出し十メートル走るとガラスに頭をしたたか打ちつけた。この湯気にも関わらず曇らないガラスが前方を遮っていた。彼女はガラスを叩き、その辺にある桶なんかをガラスに投げつけた。しかしガラスは傷一つ付かず、びくともしなかった。彼女はまた茫然とした。彼女はふと自分の臭気を感じた。もう何日も風呂に入っていない。湯気に湿ったから臭いが湧き出てきたのだ。耐えきれなくなった彼女はガラスの端から端まで歩き、人目がないのを確認すると、服を脱ぎ、露天風呂に飛び込んだ。しばらく温まるとシャワーと鏡のある所まで泳いで行った。お湯からあがるとタオルに石鹸を泡立て体をごしごしと洗った。特に汚れた性器と肛門をよく洗った。
きれいになった体で再びお湯につかった。温かさが身にしみる。満腹になり目の前の富士山を見ていると瞬間的に幸福感を味わった。あの飢えと不安が嘘のようだ。そしてすぐに我に帰った。あれは現実なんだ。
やがて風呂からあがると出口のあたりに棚があり、中に着替えらしき下着と洋服があることに気付いた。センスの悪い服だったが、あの汚れきった服を着ることよりはましだった。扉を開け再び建物の中に入っていくと中央辺りに清潔そうな布団が敷いてあった。今まで地べたに寝てきた。あのつらさを思い起こすと夢のようだ。枕元にジュースが置いてあった。飲んではいけないと思った。だが彼女は蓋を開け匂いを嗅いだ。一口だけ飲んでみた。何ともない、ただの果物ジュースだ。しかし何かが混ざっているような味もかすかにした。特に異常はない。飲み干すと布団に寝ころんで少し眠った。
やがて建物の入口が開く音で彼女は目覚めた。加藤が入ってきた。
「どうだ、いい湯だったかい、少し話をしよう。
あなたが慶応幼稚舎から慶応女子高を経て慶応義塾大に入ったのは知っている。そして何万もの競争を勝ち抜いてあの放送局に入社した。だがな、それはあなたの努力の賜物じゃない。金持ちの家に生まれ、小さい頃から名門の学校に進めたのはたまたまの運命の気紛れによる。あなたが今、ホームレスで川辺に寝ころんでいる確率も同等にあった。私は自分の努力のすえ、今の何不自由のない生活を勝ち取った。私は例外なんだよ。私は中学もろくに出ていない。でも人の数倍も本を読んできた。学ぼうという意欲は人よりずっとあった。そして私はもう学ぶ必要はないことが分かった。行き着いた所はこの世は実体のない夢のようなものだということだ。存在理由も意味もない。いつ泡のようにふっと消えても何の不思議もないことだ。無からは何も生まれないということは大原則だ。物理学者は屁理屈をこねて無を解釈しようとしているが、それはもう無ではない。彼らにはこの世は理解不能なんだよ。これは私の口癖なんだが、彼らは発狂しないために無を無ではないものにしている。私は存在理由のないものは消滅しなければならないと思っている。あなたは可愛いから蝶よ花よと育てられただろう。だがあなたは自分に何の価値もないのを分かっていない。この世界と同じだよ。世界は無意味だ。存在する価値がない。存在する価値がないものは同様に消滅すべきだ」
加藤は彼女に近寄って行った。彼女は跳ね起きて逃げた。彼は建物の隅に追いつめると平手で殴った。
「嫌―っ、触らないで汚らわしい。この狂人! あなたの話こそ何の意味もないわ」
彼は次に暴れる彼女を拳で殴った。彼女は崩れ落ちたがその目は彼を睨みつけている。彼は弱にしたスタンガンを首筋に当てた。彼女はぶるっと震えて体の自由が効かなくなった。それでも意識はある。さらに彼を睨みつけた。
加藤は彼女を抱いて布団の上に寝かせた。彼女はしきりに抵抗しようとするが手足の感覚がない。彼は服を一枚一枚脱がしていった。最後にブラジャーとパンティを脱がした。彼女の目から涙が流れ落ちた。美しい、彼はそう思った。これほど完成された肢体をこれまで見たことがなかった。妻の醜く膨れたぶよぶよの体しか彼は知らない。彼は純子の足を大きく広げた。妻と同じようなものが付いていた。彼は少し嫌悪感を感じながら陰唇を広げた。同じだ。妻と同じだ。この清純な顔とこの異形の鳥のとさかのようなものを見比べた。眩暈のするようなコントラストだ。天使とけだものがこの女には同居している。臭いを嗅いでみる。臭くない。それどころか甘い匂いがする。彼の性器は激しく勃起した。妻とは一度もしたことがないから初めての経験になる。彼は性器を挿入しようとしたがなかなか入らなかった。お前、処女か? 彼が言うと彼女は頷いたように見えた。首を振って懇願するように見えた。彼はやがて挿入し彼女の中で激しく暴れた。そうか、これが女の体か。どこまで突いても底がない。沼地だ。沼にはまった豚だ、俺は。彼女の心と体は抵抗しながらも膣は優しく温かく彼を包み込んだ。激しく突き上げるとやがて絶頂が来た。彼は体を震わせて彼女の子宮に精液をぶちまけた。ふぅーと彼は息をついた。男根を抜くと膣から血と精液が溢れ出てきた。彼は陰唇を大きく広げその精液を何度も膣の中に押し込んだ。そして彼女の美しい顔にも精液をかけてぬるぬると塗りたくった。
彼は満足すると部屋を出て行った。しばらくして少しずつ彼女の体は感覚を取り戻し動くようになった。彼女は穢された体を嘆いた。抵抗できなかった。死のうかと思った。それでもやがて気を取り戻し風呂に入って汚れた体を洗おうと思った。しかし風呂に続く扉は開かなかった。精液の臭いがたまらなかった。この青臭い臭いに彼女は吐き気がした。また泣いてその場に崩れ落ちた。
六本木の放送局では藤田純子アナウンサーの特集をしていた。それまでの経歴を振り返り、彼女の活躍する姿を流して、高視聴率を取っていた。警察は彼女を特定行方不明失踪者にした。失踪してから二週間何の手がかりも得られなかった。彼女の交友関係、当日の足取りを追った。彼女が失踪する理由がなかったことから誘拐だろうと判断した。彼女が当日深夜に局を退社したことは確認されている。バスに乗っていて五反田駅で降りたことも確認されている。神隠しにあったように忽然と消えた彼女を捜索する手がかりは駅から自宅のマンションまでの道のりにしかなかった。彼女は車で誘拐されたのだろうと断定した。警察は徹底的に聞き込みをした。だが都会でも深夜は人通りもなく閑散としている。路上駐車する車は後を絶たない。それを気にする人もいない。道に立ち並ぶビルには深夜は誰もいなくなる。盲点であり死角だった。犯人からの連絡を待つしか決定打はなかった。だが二週間を過ぎても何の要求もない。捜査は行き詰っていた。
放送局は局を上げてこの事件を大々的に扱っていた。アナウンス部は連日異様な空気に包まれていた。ショックで体を壊すアナウンサーもいた。その淀んだ空気は日を追うにつれて濃くなった。ベテランのアナウンサーは冷静に対処していたが、若手のアナウンサーは心配で仕事に手がつかずミスを連発した。日頃からアナウンサーの言い間違いや言葉を噛むことにうんざりしていた視聴者は同情的でありながらも内心批判していた。書かれた原稿を読むしか能がないのにそれもろくにできないのか。世の中は藤田アナがもう殺されてしまっているのではないかという見方に傾いていった。日頃から彼女を指導していた上司の山本卓也は藤田純子を愛していた。しかし彼女は彼の愛情に気付かなかっただろう。それが残念でたまらなかった。彼女を守れなかったことが悔しかった。山本は彼女の四期上で慶応義塾大の先輩だった。それだけに彼女の面倒をよく見ていた。彼女の瞳には、彼女を見つめる自分の眼差しに上司としての気持ちしか映らなかったか。そこに特別の愛情がこもっているのに気付かなかったか。だが今となってはどうすることもできない。彼女のその時々の顔が目に浮かんだ。白く透き通った肌に浮かぶ愛らしい表情に彼は魅了されていた。しかし彼女の無事を祈るしか彼には残されていなかった。警察が威信をかけて捜査しているのを見守るしかない。
藤田純子は上空にヘリコプターが一機飛んでいるのに気づいた。でもこの建物の中にいてはどうしようもない。ヘリコプターの音はやがて消えていった。誘拐された時、彼女は人通りの絶えた道を歩いていた。何台か駐車している車があった。あのわずか数十秒の間に私が連れ去られる姿を見た人はいなかっただろうか。目撃者はいなかっただろうか。彼女は何度も考えて絶望的な気分になった。
探偵社の須藤公平はひと月前に調査していた藤田純子アナウンサーが誘拐されたというニュースを見ていた。依頼主と彼との接点はメールでしかなかった。それもいわゆる捨てメールだった。金が百万振り込まれていたが振り込み主が本当の住所氏名を書いていることは極めて少なかった。書かねばならぬ理由もない。彼は警察の捜査に協力する意思はなかった。彼はある事件で警察を首になって探偵社を始めた。と言っても社員は彼の他に誰もいない。探偵社とは名ばかりだった。彼はこの依頼主が犯人に直結するとは考えなかった。女子アナの現住所を調べてほしいという依頼は多かった。女子アナの一週間の動向を調べてほしいという依頼も少なくない。彼の仕事は依頼に応えることだった。もとより不安定な収入だったから何でも受けた。あの時の依頼もその中の一つだった。彼は六本木の放送局を退社する藤田アナを出待ちしていた。そして身をひそめ気付かれないように後を付けた。一週間調べた結果を写真入りで報告しただけだった。彼に限らず探偵は星の数ほどいる。彼女を調べた人だっていたはずだ。たまたまだ、彼は藤田アナに対する同情も関心もなかった。ああいう女は俺のような人種を毛虫のように嫌っている。自分はスポットライトに当たって孵化する蝶で俺は毛虫のまま腐っていく芋虫さ。彼はそれでもパソコンを開いてここ二三カ月の仕事の依頼内容を見ていた。女子アナは数人いた。彼は尾行して住所や動向を調べて報告した。二三カ月でもそれだけいるのだ。一年で見ればもう忘れてしまった依頼も多かった。しかも藤田アナは人気があるのでこの一年で四回仕事の依頼があった。依頼主のことは何にも分からない。信用で成り立っているからな。このメールのアドレスは今では無効だろう。
警察は捜査方針が立たなかった。当日深夜の目撃情報が全くないまま時間が過ぎた。指揮を執っている刑事部の梅谷部長は犯人からの連絡がないことに焦っていた。あの通りにも監視カメラはあった。しかし当然密に置かれてあるわけではなかった。当日深夜には彼女の姿は映っていなかった。あの道路から派生する全ての一般道、高速道路のNシステムを丹念に見ていくしかないだろうと思った。だがそれは膨大な数に上る。それでも無数というわけではなかった。当然、数には限りがある。だが砂丘の砂粒に紛れた小さな宝石を捜すようなものだ。この場合、自ら光るわけではなかった。それでもその指示は既に伝達されていて、しらみつぶしに当たっていた。彼はおそらく盗難車が使われたと踏んでいた。それならこの網にひっかかるはずだ。次いでレンタカー、本人所有の車となる。だがこのシステムには限界があった。ナンバーも運転者や助手席に乗っている人の顔も撮影できるがその顔が偽造されていたとしたらもうお手上げなのだ。被害者はおそらく後ろ座席かトランクに入れられていただろう。後手に後手に回っていた。事件が発生してからNシステムをかいくぐり網の目を通過してしまってからではいくら検問にかけても効果がない。
放送局は藤田アナを深夜に帰宅させたことを非難されていた。タクシーを使わせれば何の問題も起きなかったのではないか。ネット上では辛辣な誹謗中傷がアナウンス部や経営陣に向けて放たれていた。放火するというのもあったが直ちに逮捕された。連日報道陣やら藤田アナのファンやらが局の入口を塞がんばかりだった。局員はそれをやっとの思いでかきわけて局内に入った。局員も過熱する報道に疲弊していた。報道する側が報道されていた。連日連夜、藤田アナの消息に関するニュースが報じられた。何の進展もないことに警察と放送局は批判にさらされた。
加藤正義はまたも居間でテレビを見ていた。ほくそ笑んだ。警察には無理なんだよ。この社会には悪意と憎しみが渦巻いていて、いついかなる時でも凶悪事件が起きるという可能性を考えて対処していなければならないんだ。だがそれには社会づくりから見直さなければならない。個人個人に刑事が張り付くなんて不可能だ。だがもうそれに似たシステムを構築しなければ犯罪は防げないんだ。誰もが心の中に持っている闇をあぶりださなければならないんだ。だがそれは警察の手に余るし学者が束になってもどうにもならぬ。諦めよ。この女一人のために何千人、何万人が右往左往している。何百万人がこの事件の推移を固唾を飲んで見守っている。彼はやれやれといった表情をしてあくびをしながら立ち上がった。そして純子の監禁されている建物に向かった。建物の奥の地面に彼女は横たわっていた。朝食も昼食もちゃんと食べている。
「何やら大騒ぎになっているようだね、私もここに至って事の重大さを認識したよ。今日もちょっと話をしようか。あなたひどく恵まれた人生を送ってきたと思っていない? その自覚はある? 私はね、あなたのような人は狂犬病にかかった犬にかみ殺されればいいと思っているんだ。あなた自分を過大評価しているでしょう? 河川に這いずりまわるホームレスをゴミだと思ってきたでしょう。あなた大学は英文科だってね。糞みたいな学問だ。いや学問でさえない。お嬢様の趣味に他に行き場のない使えない英文学者と称する教授がお相手しているんだ。何を学ぼうっていうわけ。ふざけるのも大概にしてよ。外国の言葉を習って留学したりしてどうなるわけ。文学部出身じゃ何にも使えないね。教養課程で学問は一通り齧るのだろうけどその程度じゃ何にもならないね。学んでみました。遊んでみましたってことだろう。あなたは女性アナウンサーとして羨望の的だった。あなたの清楚な美貌は世の男性をときめかせただろう。私も例外ではなかった。でもね、この間、交わってみて、ああなんだ、つまらないって思ってね。男は出してしまうと急速に冷めるんだ。射精する瞬間までだね、興奮するのは。あなたも他の女も変わりない。私はね、自分以外の他者の区別がつかないんだ。他者は豚と同じでね、人相が分からないんだ。あなたカマキリの区別がつきますか? それと同じなんだよ」
純子は加藤を険しく睨みつけて言った。可愛い顔が台無しだ。
「あなたは狂っている。反社会的なサディストよ。社会ではじき出された無能な用なしよ。スタンガンでしか人を自由に出来ない卑怯者の弱虫よ。あなたなんかにこの体が犯されて大切に守ってきたものが奪われて私がどんなに泣いたか分かる?」
「へっ、今流行のサイコパスってやつか。私から言わせれば世の中の人、全員サイコパスだよ。人はね、自我という牢獄に囚われた罪人さ。自己愛の奴隷である人間はとことん自分しか愛せないのさ、汝の隣人を愛せよ、という言葉があるが、それは不可能だから、あえてジーザスが言ったのさ。絶望の気持ちを込めてね。ジーザスは人に無理難題を押し付ける。だから磔になったのさ。ちなみに私のサイトのハンドルネームもジーザスだけどね。生まれ変わりかもしれないよ。西暦2014年に生まれ変わったジーザスさ」
「イエス様を穢さないで! あなたは悪魔よ」
「あなた、私のどこを見て悪魔って言っているの? 誘拐して監禁され犯されたから? そんなもんじゃ悪魔でもなんでもないよ。もっとだよ。悪魔以上さ。あなたはまだ分からないのさ。悪魔の考えることなんてちゃちなことが多い。悪魔の所業って言えるのは人の頭の上に原爆を落としたアメリカ人の行為くらいなもんだな。それは悪魔の名に値する。でもね、それは意外と単純な思考回路からきているんだよ。戦争だからね、何でも許されるんだよ。やられる前にやりかえせ、殺される前に殺せっていうことでしょう。それは原始時代から変わらない人間の本性だよ。それからね、あなた自分の大切なものを奪われたって言ったね。処女膜があるのは豚と人間だけだって言うことは知っているよね。何様のつもり、あなたいずれ誰かと結婚して、毎日やりたいだけやるんでしょう。醜悪な体位でね。みんな獣さ、子供が欲しければ人工授精で作ればいい、なんで二十一世紀にもなってあんな穢れた行為をしなければいけないんだ。ついでに言えば、自分の子供が欲しいっていうのも卑しい考えでね。それだけ自分に惚れているっていうことでしょう。自己愛のなせる技だね、自然はよく出来てるわ」
純子は恨めしい顔で汚いものを見るように加藤を見ていた。自分が哀れに思えて泣いた
「女は何かと言うと泣く。子供と同じだね。自己憐憫は止めなさい。あなたこの世の幸せを独占してきたわけでしょう。少しは人に分けてあげるべきだったね。ボランティアで恵まれない人のために奉仕しましたか? あれも自己満足に過ぎないけどね、会社の面接で、趣味はボランティアですって言う大馬鹿がいるけど、あなたはそうじゃないよね。国境なき医師団ってあるじゃない。戦火や疫病の蔓延する中で我が身を棄てて人に奉仕する人たちこそ偉いんだよ」
純子はうなだれて言った。
「私の父は医者です。大学病院の外科で教授をやっています」
「へぇーっ、医者にもいろいろいるからね、人を切り刻むのが趣向だから医者になったっていうのもいるしね。私は親に捨てられてね。交番の前でギャーギャー泣いていたって。養母は腸の癌を患ってね、さんざ医者に切り刻まれて死んださ。大腸も小腸も全摘されてね。いやぁー、癒着がひどくってねって私に苦笑しながら言い訳したさ。殺されたのさ、医者にもピンからキリまであるからね。医者は殺人を犯しても罰せられない唯一の職業だ。手術ミスをしていない外科医は一人もいないからね。公にならないから騒がれないだけだ。挙句の果ては遺族に感謝されてね、口が裂けても私のミスでしたなんて言わない。暗黙の了解だよ、人殺しの医者はその辺りにごろごろしている。恐ろしい、この私でさえ恐ろしいよ」
純子は何を言っても無駄だと思い、うなだれて一点を見つめている。
「会話が成立しないね、中学もろくに出なかった豚肉屋の親父とエリート街道まっしぐらのキー局のアナウンサーとじゃね。あなたは生きてここを出られない。覚悟しな」
えぇっ、と彼女は頭を上げた。
「私を殺すの? あなた罪の重さ分かっているの? 今でさえ重罪なのに私を殺したらあなたもただじゃいられないのよ。死刑もあり得るのよ。まだ今なら間に合うから私をここから出して!」
「もう間に合わないんだなぁ、もう少し早くあなたに出会えたらこんな私にはなっていなかったかもしれない。幼馴染だったりしたらね。私の家もあなたのように金持ちで大切に育てられたらね」
「あなた世の中のせいにするの。不遇な環境で立派に育った方はいっぱいいます。あなたの本質が分かったわ。復讐ね、全てに対する、捨てた親に対する復讐なのよ。八つ当たりだわ、子供っぽい幼稚なね」
「ふふん、知ったような口を聞くな。まぁ、当たらずと言えども遠からずってとこかもしれんがね」
彼は大型テレビの前で清楚な姿でにこやかに微笑んでいた純子がこんなに汚れにまみれ、汗の臭いと性臭と尿臭と糞臭を放っているのにがっかりした。清楚な美人なんて幻想さ。現実にいるわけがない。虚像だったんだ、改めて彼は確認した。
「今は、さすがに建物の外に出すわけにはいかない。空から来られたらひとたまりもないからな。ヘリコプターが来てあなたに大きく手を振られたら困るんだ。警察はこの養豚場の中までは入って来られない。何の証拠も確証もないなら入って来られないようになっているんだよ、法律は。個人の家の中だからね。私たちに疑いの目が向くことは決してない」
だが警察はひと月近く経ってようやく或る目撃者の情報をつかんだ。九時頃、帰宅するビルの管理人が、帰り道にビルの近くに毎日駐車していた車があることを事件が大騒ぎになってからやっと警察に伝えた。関わり合いになりたくなかったのだ。ナンバーはようやく分かった。レンタカーだということも割れた。藤田純子が失踪した日に犯人はレンタカーを借りていた。その時の書類を警察は得て鑑定した。名前、住所はでたらめだった。指紋、残留物も一切出なかった。免許証のコピーに映っている男、この男こそが事件に関係しているに違いない。それから警察はこの写真入りのポスターを作り大々的に情報を求めた。
加藤はニュースでそれを知り少し嫌な気分になった。むろん偽造した顔だから問題はない。だがNシステムはレンタカーとそこに乗る犯人そのものを捉えていた。静岡方面に向かい富士宮付近で消息が途絶えたとニュースは伝えていた。彼は始末しようと決めた。三日が経った。
加藤は純子のいる建物に入って言った。露天風呂に行く扉は開くよ、体を洗ってきれいにしておいで。彼女はのろのろと立ち上がり扉に手をかけた。開いた。あれほどびくともしなかった扉が開き、再び富士山が眼前に迫った。彼女は服を脱いで風呂に飛び込んだ。汚辱にまみれた自分の体がたまらなく嫌だった。彼女の絶望に凝り固まった心を温かいお湯が溶かしていった。囚われている身じゃなければ、ここはこんなに素晴らしいのに。湯からあがると体中を隅から隅まで洗った。ヘリコプターの音が聞こえた。彼女はガラス越しに大きく手を振った。しかしそれは去っていった。彼女はその夜、ステーキを食べた。するとたまらなく眠くなり意識を失った。
加藤は扉を開き、彼女が眠り込んだのを確認すると担ぎあげ別の建物に通じる頑丈で分厚い扉を開いた。そこには飢えた三十頭の豚がぶひぶひいっていた。彼は彼女の衣服を脱がし全裸にした。美しい体だ。もったいないような気もする。でも飽きない体はない。彼は乳房にメスを入れた。彼女が飛び起き暴れた。彼はスタンガンを強にして首筋に当てた。彼女はぐったりとした。彼は乳房をえぐり半円状の乳頭の付いた脂肪分たっぷりの肉の塊を豚の中に放り込んだ。群れた豚が興奮して肉を引きちぎった。もう一方の乳房も切断し投げ込んだ。それから生殖器をえぐった。どの女も同じものが付いている。清楚な美女も不細工な女もみな同じものが付いていて区別がつかぬ。それは醜怪な形状をしている。ぐっと力を入れて生殖器を切断した。彼は片手でぐるぐる回しながら群れの奥の方に投げ入れた。そこも豚が押し寄せへし合いした。女は死んでいない、気を失っているだけだと彼は確認した。俺は殺人者じゃない。豚が殺すのだ。彼は純子の体を反動をつけて群れの中央近くに放った。
翌日の朝、彼女は無残な姿になって彼の前に現れた。内臓はあらかた食われ骨にこびりついた筋肉と頭蓋骨に囲まれた脳だけが食われずに残っていた。彼はスタンガンで豚を追い払い、残骸を隣り合う建物に移すと再びいくつもの部位にのこぎりで分けた。そして大きな粉砕機のスイッチを入れた。ウィーンと機械が唸り始めた。片方の突起物の蓋を開き純子のなれの果てを入れた。ギャーンという音が響き、しばらくして片方の突起物から粗い粉末と濁った液体が出てきた。一丁上がりだ、これで彼女がいた証拠はない。彼は彼女のいた建物を特殊な薬剤を使ってよく掃除した。血液の反応も出ないはずだ。彼は豚舎に入り粉末を他の餌に混ぜて与え、液体を水のタンクに流し込んだ。
それから二日後の朝、彼のいる社長室の電話が鳴った。
「朝早くからすみません、県警の太田というものです。藤田純子アナウンサーの事件はご存知ですよね。富士宮周辺を捜索しているんですよ。今、養豚場の前にいるんですが、できれば中を拝見させていただけないでしょうか。あくまで捜査協力という形なんですけどもね」
「ああ、どうぞどうぞ、お入りください」
県警の太田と志田は養豚場の頑丈そうな扉が開くと中に入っていった。柔和そうな笑顔をした中年の男性が出迎えた。彼らは養豚場にしては他の所とだいぶ違った造りになっていると思った。周囲を五メートルほどの塀が囲っている。そして五棟の建物が中に建っていた。
「豚舎はどれですか」と太田は聞いた。
「あの中央にある二つの大きな建物ですよ。他の建物は従業員と私たち夫婦が暮らしているものです。ご覧になりますか」
「ぜひお願いしたいんですが」
太田と志田は豚舎を開けてもらい中を見た。百頭近い豚が一心不乱に餌を食べている。従業員が世話をしている。他の豚舎も同様だ。他の建物も中を見せてもらった。特に問題はないように思えた。二人は礼を言い帰ろうとした。
「豚肉弁当はいかがですか。持っていきませんか。すぐご用意できますよ。極上の豚肉です。一口味わったら病みつきになりますよ」
二人は丁重に断り、養豚場から出て車の中に戻った。
「何か、不自然なものに気付かなかったか」
太田は志田に言った。
「建物の一棟が外観に比べ、中が狭かったように感じる」
志田は、そうでしたかねぇ、と言って首を捻った。
二人は別の場所を捜索するために養豚場を後にした。
加藤はモニターで確認すると、
「ああ、もう遅いんだよ。純子は影も形もなくなっちゃったんだから。豚を解体して調べるしかないな。無理な話だけどね。皆さんが口にしても分からないわな。彼女の両親がうちの豚肉を食べても分からないな。そんなもんだよ、現実は」と言った。
警察に証言した四十代のビルの管理人は一カ月も躊躇した自分を責めないわけではなかった。だが、どうでもよかったんだ。あんな女。彼は自分を人生の失敗者だと感じていた。子供の頃からいじめに合い、両親は自殺し、施設で育った。気の弱い彼は施設でもいじめに合った。彼は心を閉ざすようになりやっとの思いで中学を卒業した。毎日死にたいと思っていた。小さな会社に面接に言っても、名前しか話さなかった。面接官が何を聞いても彼は下を向き一言も話さなかった。そんな人間を会社が雇うはずもなく、ホームレスになり公園に住みついたがそこでもつまはじきにされた。たまに日雇いの仕事をしたが、すぐ首になり居場所は転々とした。だが年を取るにつれ次第に世慣れしていった。本当の自分を出す必要なんてないんだ、別人格を作ればいいんだと気づいてビルの管理人という職業が自分に向いていると思い、ビルの管理人になった。やはり長続きはせず転々と移ったが、それなりのキャリアを積んだ。そして二年前、今のビルの管理人になった。管理人室で見る小さなテレビから流れてくる華やかな世界を彼は呪った。こいつら金を稼いでいるんだろうな、ろくな苦労もせず、遊びでげらげら笑いながら食っていると彼は思った。最低の生活をしてきた彼の心は歪んでいた。別人格は外用のものだ。心の中は虐げられてきた子供が住んでいた。彼は演じるしか方法がなかった。そんなぎりぎりの演技をこの三文役者たちは演じられるのか。芸人と言う人種も彼は憎かった。不細工な顔をさらして何の芸もなく食っていける奴らを駆逐したかった。そして最も憎しみの対象が女子アナという人種だった。お嬢様大学を卒業して噛みながら原稿を読んでにこやかに微笑んでいる彼女らを見ると殺したくなった。あんたら、俺たちの這いずりまわるような生き方を理解できるか。NHKは比較的ましだが民放はベテランと称するアナウンサーでさえも噛みに噛む。ちゃんと読め、それしか能がないんだろう。若手の女子アナは輪をかけて原稿を噛んだ。そのたびに彼は苛々しはらわたが煮えくりかえった。殺す、俺は殺せる人間だと思った。だが別人格はそれをおくびにも出さなかった。もとより彼は気が弱く行動に移すことなんて出来るはずもなかった。
あの時、毎夜、ビルの前に駐車する車があった。帰り際に見るだけだからまぁいいかぐらいに思っていた。しかし何気なく見るナンバーが記憶の中に刷り込まれた。彼は藤田純子アナウンサーがこの道を通って帰宅することをニュースで初めて知った。そして車で連れ去られた可能性が高いということを知った。すぐに警察官が事情聴取に来た。彼は特に何も変わったことはなかったと言った。だが連日、藤田アナのニュースが流れ、人柄を知るうちにどうしようかと思った。だが関わり合いになりたくなかった。やがて二週間が流れ、三週間になり、ひと月近くになった。彼は我慢できなくなった。交番の前に来て中を探った。警官と眼が合った。彼は自分の素姓を隠すことを条件に証言をした。彼はこのひと月の躊躇が藤田アナの運命を変えたことにもとより気付かなかった。いや内心、もう死んでいるだろうと思ったから証言したのだったが。
加藤は社長室から富士山を見ていた。その雄大な姿は人々のこまごまとしたちっぽけな世界から隔絶していた。人が豚を食い豚が人を食い、そんな小さなことはどうでもいいことだった。
敷地内を歩く加藤に研二が恐る恐る近寄ってきた。
「……もう、たっぷり休養したから帰りたいんだけど。勉強もしなければいけないし」
「ほぉーっ、医者の卵さん。孵るのかな。君には医者は無理だと思うけどね。医者は神経が図太くなければやれるような職業ではない。人を殺してなんぼだからね。救ってなんぼじゃないよ。でもねぇ、君を帰すわけにはいかないんだ。あの女子アナと話したでしょ」
「僕は何も言わないし知らない。僕とは関係ないんだ、あの人のことなんて」
「そうかい、じゃ今夜、食事が終わってから私の所に来て。そうだね、夜九時くらいにね」
研二は自室でここに来たことを後悔していた。『自殺したい心を癒すサイト』なんて信じてのこのこと来た自分が馬鹿だと思った。藤田アナの顔を見た自分が生きてここを出られるわけがない。
その夜、研二は加藤の部屋に来なかった。彼は自室で引きこもり始めた。ちょうど東京の家で両親の目を逃れて引きこもったように。
加藤は放っておいた。研二は食事はちゃんと取っていた。加藤は研二に昔の自分を重ね合わせた。研二の無能さに、昔のいじめに抵抗できなかった自分の姿を見た。
藤田アナウンサーが誘拐されてから二カ月が経とうとしていた。世間の関心はやがて冷めていった。警察の捜査は行き詰っていた。富士宮周辺の家屋は全て当たった。何の手がかりも得られなかった。そんな時、一通の手紙が届いた。
「無能な警察諸君、私が藤田純子アナを殺した。もうこの世にはいない。天誅を下した。下らないマスコミで羨望の的になっていた彼女はみんなに憎まれていた。その憎悪をはらしてやった。彼女はこの手で絞殺した。死んでいく時のあの震えるような哀願するような顔が忘れられない。私は彼女を愛していた。だからこそ殺した。誰のものにもならないように。彼女は私のものになった。私が彼女の運命となった。そして彼女は私の運命となった。私は死ぬ。彼女の元にいくために。
天誅者より」
警察はいたずらの手紙だと思った。こんなものは何通も届いている。いたずら電話も数えきれない。消印は富士宮だった。指紋を照合したが過去の犯罪歴はなさそうだった。というのも手紙には無数の指紋が付いていた。一つ一つ照合しきれない。手紙は多くの関係者の指紋が付いている。郵便局員、配達員、そして犯人の指紋と思われるもの。警察は犯人以外の全ての指紋を採取した。当てはまるものはなかった。犯人と思われるもの以外の人の指紋も多数あった。犯罪歴がなければそこから先に進めない。
一週間ほどして富士宮市の住民から異臭がするという届け出が警察にあった。現場の家に行くと男が首を吊っていた。
この事件はある新聞社にすっぱ抜かれた。系列のテレビ局が夕方のニュースで大々的に流した。
「藤田純子アナウンサー、殺害され、男が自殺か!」
再び世間の関心が高まった。遺書が公表され、解説委員と識者が見解を述べていた。警察にも記者が押し寄せたが、現段階では何も発表することはできないと幹部が話した。また連日大騒ぎになり、自殺した男の過去の経歴や人間関係が明らかにされた。二十五歳だった。両親が首から下の姿でインタビューに苦しそうに答えていた。
彼は引きこもりテレビとゲームに明け暮れていたという。注意しようとする両親は拳で殴られた。腫れ物に触るように周囲は接した。いつ頃からか毎日電車で六本木の放送局に行き藤田アナを出待ちするようになった。彼は彼女の後を付け五反田のマンションを突き止めた。だがそれ以上は何もできなかった。彼は彼女と同じ時間に五反田駅のバス停から放送局へ向かった。後方の座席で新聞紙を読んでガードする彼女を彼は振り返って見ることもできなかった。放送局に着いた時、彼の横を彼女が通り過ぎた。甘い芳しい清潔な香りがした。もうストーカーを超えて彼女の信奉者だった。彼女の出る番組はみんな録画した。そんな彼女が突如失踪し行方不明になった。すぐに誘拐されたということが分かったが、彼の得た打撃は大きかった。してやられた、俺のしようとしていたことを先回りしてやられた。二か月近く経っても一向に捜査は進展しない。もう殺されている。彼はそう確信し絶望した。もう無理だ。精神的にぎりぎりの所に追い込まれていた。自分が殺したと公表して死のう。彼は彼女のもとに行けると信じながら首を吊った。
警察はその後、彼がこの事件に関係ないことを発表した。
加藤は次のことを考えていた。彼は養母を殺した医者を糾弾しようとしていた。探偵に調べさすと、癌センターに勤めていた医者は今では開業医をしていた。忘れていた名前は安川徳治だった。あの男に復讐せねば。貰われて行って、短い期間ではあったけれど、自分に愛情を注いでくれた養母の復讐を果たさなければ死んでも死にきれない。彼は自宅から病院まで車で通勤していた。病院の入っているビルの地下駐車場で車を降りてエレベーターで上へ向かうことが確認された。病院は夜八時までやっていた。彼は再び顔を偽装しレンタカーを借りて毎晩、地下駐車場で医者を待った。用心深い医者は監視カメラのある場所に車を止めていた。ある日、医者は用事があったのか、夜十一時頃に駐車場に下りてきた。辺りは閑散としていた。彼は医者の車に横付けし、いつものようにスタンガンで気絶させ強い麻酔を注射し、車の後部座席に乗せた。そして富士宮に向かった。
彼は気絶している医者を抱え、建物の地面に叩きつけた。そして顔面を殴った。
「おい、起きろ!」再び彼は殴った。
医者は朦朧とした意識の中で加藤を見た。痛みに堪えながら、誰だ、この人は、私はどこにいるんだと思った。
「私は加藤正義と言ってね、覚えていないかもしれないが思い出してくれなきゃ困る。あんたが殺した母の息子だ。あんたによって全部のはらわたを摘出された母の長男さ。あの時、毎日のように会っていたよね。思い出せ」
医者は徐々に意識を回復していった。
「君ね、誰か知らんが逆恨みだよ。私が何人患者を診てきたと思っているんだ。私は最善を尽くしてきた。でもね医者の出来ることには限界があるんだよ」
加藤には医者にお決まりの言い訳だと思った。そうだ、そう言えば何でも許される。
「私はあの時、母を一分一秒でも長く生かせて下さいって言ったよね。あんたは僕に任せてくださいって言ったはずだ。覚えていないとは言わせない。何で母は何度も何度も手術を繰り返し切り刻まれたのだ」
加藤は自分でも話しているうちに興奮を止められなくなった。
「あんたに天誅を下す。哀れな自殺者が遺書で書いていたようにね。あんたはこれまで数限りない患者を切り刻んできただろう。そして死なしてきたんだ。あんたは申し訳そうな慙愧に耐えない顔をして遺族に話しかける。全力を尽くしましたが……ってね。嘘を言うな。あんたの未熟さが母を殺したんだ。医者は人を殺しても罰せられない唯一の職業だ。許さない。あんたは私に切り刻まれて解体され豚の餌になる。ここは養豚場なんだよ!」
彼は七十歳近い男を鋲入りの拳で再び殴った。頬が裂け、血が噴き出した。
「お前にも赤い生きた血が流れているのか。人非人め、あんたは究極の犯罪者だ。お前にはさすがの私も負ける。いや私は一人も殺してないがね、殺したのは豚だ。豚に食われて死ぬんだよ。どうだいい気分だろ、いつも極上の豚肉を食ってきたんだろう。医者さんよ。殺生はいけないよ。豚に食われるのが天誅だ」
安川は完全に冷静さを失っていた。しかし落ち着くんだ、いつもの手術のように、と自分に言い聞かせた。
「君ね、手術がハイリスクなのは分かっているかい。難しい手術ほどそうなんだ。君のお母さんは思い出せないが、重症だったんだよ、手遅れだったと言い換えてもいいが。私はどの患者さんにも家族の皆さんにも感謝されてきた。私はいいかげんな手術をしたことは一度だってない。どの医者だってそうだよ。みんな全身全霊をかけて治療しているんだ」
「嘘だ、母の癌は初期だから助かると言っただろう。はらわたを全部取るなんてどういうことだ。癒着がひどかっただって、そんな言い訳はいらない。ふざけるな! 悪徳医者は悪徳弁護士と比べられないほどいる。いい金になるんだろう。あんな高級外車を乗り回して。あんたは賄賂と患者から吸い取った袖の下の金で私腹を肥やしていったに違いない。いい酒を飲みいい女をはべらしてこの世の贅を尽くしていったに違いない。許さない、私の女房は豚のような女だよ。私は一度も遊びに行かず、節制してきたんだ。お前のその肥えた脂肪たっぷりの腹を見よ。その腹をえぐって豚に食べさせるんだ」
加藤はまた安川を殴って何回も蹴った。安川はごろごろと苦痛の呻き声をあげて転がった。
「痛いか、骨の髄まで痛みを味わえ」
加藤は馬乗りになり安川の顔を鋲付きの拳で何度も何度も殴った。安川はやがて気絶した。
翌朝、安川は猛烈な痛みに耐えかね目を覚ました。体が泥だらけになっていて服を血が汚している。建物の端の台の上に豚肉のステーキが置かれていた。焼きたてのおいしそうな香りが漂ってくる。食べられる訳がない。人肉豚だ。加藤はさんざん人を殺して豚に食べさせたのかもしれない。そんな肉を食えるはずがなかった。安川は胡坐をかいて自分の置かれた事態を考えた。無数の考えが湧いては消えた。
それから十日が経った。大食漢の安川には拷問に思えた。三度三度豚肉のステーキが出される。彼は飢えで発狂しそうになった。この豚肉は違う。加藤ははったりをかましている。嘘だろう。そうに違いない、という考えに頭中が支配され彼は朝に出された豚肉のステーキに夢中でかぶりついた。それから堰を切ったように毎食のステーキが待ち遠しくなった。それからさらに三日経った。
突然扉が開いた。加藤が入ってきた。手には鞭が握られている。彼は安川の肥えた体に鞭を振り下ろした。鞭が食い込んだ。安川が逃げ回った。加藤は隅に追いつめぴしっぴしっと鞭で叩いた。肉が裂け血が噴き出した。
「止めてくれ、お願いだ。何でもする。金が欲しいか。いくら欲しい、五千万か、一億か。やるから止めてくれ」
安川は土下座をし懇願した。加藤はその顔を蹴った。うずくまった安川の首筋にスタンガンを弱にして当てた。安川は体の自由が利かなくなり眼だけを見開き、加藤を見つめている、
「ううぅっ」
安川の口からよだれが垂れていた。加藤は抱えて隣の建物に入った。飢えた豚が盛んにぶひぶひ言っていた。加藤は安川の衣服を脱がし裸にしてとんかちを持ってきた。安川の体が恐怖に震えている。加藤は安川の股を開き、狙いを定めて睾丸を潰した。
ぎゃーっと言う悲鳴が部屋中に響いた。さらに加藤はもう一つの睾丸も潰した。安川は激痛に顔を歪め口から泡を吐いて悶絶した。加藤は局部を切り取ると豚の群れに投げ込んだ。豚が暴れだした。加藤は致命傷にならないような場所を選びナイフを数か所突き刺してえぐった。そして安川の巨大な体を群れの中に投げ入れた。安川の肥えた贅肉は豚に引きちぎられ、あっという間に群れの下敷きとなった。
翌朝、豚に殺され食い尽された安川の残骸を加藤は引きずり出しいくつかに解体した。そして粉砕機に入れるとギャーンという音がして安川は粗い粉末と濁った液体になった。
加藤は自分を棄てた父と母を絶対に許さなかった。彼が捨てられていた箱の中には彼の生年月日と『正義』という名前と両親らしき名前があった。当時、警察は調べるには調べた。だが手がかりはそれ以上何もなく、施設が引き取る形になり、その後、施設に見学に来た子供のいない両親に貰われていった。彼は別の探偵を雇い、自分の過去を調査させた。二週間ほどしてメールが来た。父は死亡していた。母は現在七十三歳で存命だということだった。
母親はアパートに一人で住んでいた。独居老人だった。彼はチャイムを押し、彼女が顔を出すと、保管されていた、両親の名前の書いてあったあの汚れてしまった布切れを差し出した。彼女はしばらくその布切れを見て、正義だよ、という男の顔を見上げた。彼女はその場にへたり込んだ。そして恨めしい顔をして彼を見つめた。彼は彼女の肩を抱いて車の中に入れた。
何故捨てたんだ。何故育てられなかったか。子供を捨てる罪は人殺しよりも重いと彼は思っていた。
養豚場に着くと生みの母親を建物の地面に放った。
「何故、捨てた。育てられないなら生むな。あんたが捨てたから私は殺人を犯した。殺人とは思っていないけどな。だがあんたへの憎しみで私の心が歪んだことは事実だ。あんたが捨てたおかげで怪物が育ったんだよ。私はずっと自分以外の全ての人へ殺意を持って生きてきた。それがどんなに苦しいか、あんたには分かるか。私だって愛されたかったんだよ。養母は愛情を注いでくれたがすぐに死んだ。養父は交通事故で死んだ。年老いた認知症で寝たきりの祖母の面倒を見ながら私は一人っきりでさんざん苛められながら生きてきたんだ。その絶望的な孤独があんたには分かるか。私はずっとあんたを求めて生きてきた。会いたいと思いながら生きてきた。あんたが私の一生を左右した。あんた次第でどうにでもなったんだよ。優しくて明るい素直な子供に育つこともできた。金がなくって貧乏であっても育ててほしかったんだ。捨てることはないだろう。なんでそんな事が出来たんだ」
彼は泣いた。
母がうろうろと話し出した。
「あんたはいらない子供だった。生まれてこない方が良かった子供だった。どうにも始末できなくなったから、無人の交番の前に捨てたのよ。冬の凍えるような寒い夜にね。それだけのことよ。凍死してもいいと思ったわ」
「それなら何で身元の分かる名前を残したのか」
「いつかはこういう日も来るんじゃないかと思ってね。あれだけじゃ探せないと思っていた。私たち夫婦は名前を変えて大阪で生きていた。あんたのことなんて考えなかったわよ。職を得てどうにか食えるようになってから子供も生まれたしね。あんたはあんたで自分の運命を生きなさいと思ってね。見つかって助かるのも凍えて死ぬのもあんたの運命と思ってね」
「それではあまりにも無責任じゃないか」
「だってあんたが勝手に生まれてくるんだもの。あんたの方こそ無責任よ。いい迷惑だわ」
加藤の中で何かが切れた。
「性根を叩き直してやる。あんたは一生分の苦しみを味わうんだ。『親の因果が子に報い』って言葉を知らないか。あんたが怪物を生んだんだ。取り返しのつかない現在の惨事はあんたの非道な悪事から生まれたんだ」
彼は母を殴ろうとして躊躇した。何をためらっている、彼は心を鬼にして殴った。いや今になっては存在そのものが鬼だ。皮膚を貫いて突き出た角が見えるだろう。殺してやる、いつものように。でも骨ばった肉は豚が好まないかもしれない。
「あんた、飢えを経験したことがあるか。それは苦しいものだ。学校側の配慮で給食は食べることができたがね。でも肉が食えなくてね。さんざん苛められたもんさ。肉を食うなんて野蛮だとも思っていた。まぁ、体が受けつけなかっただけなんだけどね。育ち盛りの子が一日一食なんてね。そのうちに学校も行かなくなり、いつも飢えていた。食べ物や他の何かに。生みの母の愛情が欲しかったんだ。捨てられたという心の傷は一生残る。それは癒しようがないんだ。私の母親はどうしようもない事情で私を手放したと思っていた。私は心の底から母を愛していた。だが何だ。この自堕落な母親は。泣けてくる。涙が止まらない。俺の本性はこの女の本性なのだ。人は何故、子供を生んで育てる。その責任はとてつもなく重いのだ。その覚悟がないものは子供を作るな! セックスに溺れた結果がこれだ、私は誰も殺していない、殺したのは豚だ。でもそれはあんたが殺したともいえる」
「豚? 何よそれ、豚が殺した? 何言ってんのよ、意味が分からない」
彼女は目隠しをされてきた。ここが養豚場だとは知らない。
「私は養豚場の親父になった。豚を育てるのが生きがいなんだ。いい餌を食わせて良質の豚肉を出荷することが今の私の仕事だ」
「あんた、子供いるの?」
「いないさ、私は自分がずっと子供のままだと思ってきた。子供に子供はいらないんだよ。それにセックスは私の忌み嫌ってきたものだ。あんなけだもののような行為を出来るか。セックスに快感を持たせ、その結果、子供が生まれるような仕組みは神の罠だ。私は罠にかからない。私は神を罠にかけようとしていた。私が神になるんだ。全宇宙を破壊することを夢見てきた。この富士の裾野で満天の星を眺めながら、いつか全てを消滅させてやろうと思ってきた」
「けっ、あんた豚の糞にまみれたただの親父じゃないの。その貧相な姿を鏡に映して見たことある? あんたこそ豚に食われて死ねばいいんだわ」
加藤は再び女を殴った。
「ひぇーっ、痛いわね。何するの。あんた母親に向かって手を上げるなんてどういうこと。心がねじ曲がっているんだわ」
「あんたは母親に値しない! 糞を垂れ流す薄汚い老婆だ。死ね!」
彼は鋲の付いた拳で何度も殴った。頬がちぎれ、血がだらだらと流れ上半身が真っ赤に染まった。
彼は自室に戻り肩を震わせて泣いた。何故、涙が流れるのか分からなかった。彼は子供の時以来、久しぶりに死にたいと思った。
それから一週間が経った。彼は建物の中に母を放っておいた。死んでもいいと思った。水も止めていた。彼は様子を見に行った。母は生きていた。
「水をくれ~、のどが渇いた。食い物をくれ、早く、お母さんに何てことをするの、生んでやったのに何という仕打ちだろうねぇ。いけない子ね。世の中にはね、生まれたくても中絶された赤ちゃんがいっぱいいるの。数限りなくね。あんたは生んでやっただけましじゃないの。あんたを殺さなかったわ。あんた母親を殺そうとするの、もう何でもいいから食い物をちょうだい」
「豚肉ならね、腐るほどあるよ」
彼は水と焼きたてのステーキを持ってきた。母は貪りついた。二百グラムのステーキを食べると、もっともっととせがんだ。
「腐るほどあるんじゃない、豚肉屋でしょ、けちけちしないで持ってきなさいよ。聞き分けのない子だね」
彼は何枚も持ってきた。それから三度三度の食事に豚肉を出した。
そして五日が経った。長い長い時間に彼は思えた。彼は思い悩み決心した。六日目に彼は斧を持って建物に入っていった。引きずる音が不気味に響いた。彼は悲鳴を上げて逃げ回る母を追いつめ振り下ろした。肩をかすめた。次に首元を狙って振り下ろした。ギャーっと叫んだ母の首筋から血がシャワーのように噴き出した。血を浴びながら彼は水平に斧を振るい首を切断した。転がる首を見ながら、殺した、俺は初めて人を自分の手で殺した、と思った。彼は横たわった死体を斧でいくつかに切断した。汚い臓物が溢れてくる。そして袋に入れ粉砕機の入口から投げ入れた。母の悲鳴のような音が響いて、しばらくして反対口から粗い粉末と濁った液体が出てきた。彼はいつものように豚の餌にした。
加藤は自室で物思いに耽っていた。彼の受けたダメージも少なからずあった。泣いたのは子供の時以来だった。彼は研二をどうしようかと思った。別に殺してもいい。だが殺したいのは自分の方だった。彼はこの世ですべきことは全てしたと思った。終わりが近づいていると思った。この世に永遠におさらばしたいと思った。彼は引きこもりを続けている研二に会いにいった。
「研二君、開けてもらえないか。少し話があるんだがね」
何の反応もなかった。しばらくして鍵が開いた。研二は探るように加藤を見ていた。
「藤田アナウンサーがその後どうなったか知りたくないかい」
「あなたが殺したんですか?」
「私は殺していない。だがもうこの世にいないんじゃないかなぁ、もう随分経つしね」
「どういうことですか。あなたは知っているんでしょう。藤田アナはまだ解放されていないようだ。監禁しているんですか」
「この世から解放してやったんだよ、君も解放してやろうと思ってね」
「えぇっ」
研二はまだ加藤の真意をつかみかねていた。
「僕を殺すっていうこと?」
「いや、どうしようかと考えているんだよ。君は前途有望とも言えぬ落ちこぼれの医者志望者だ。君が万が一、医者になったら人を殺しかねないと思ってね。君はこれから生きたいのか死にたいのか」
「死にたいわけないでしょう。まして殺されるなんて。お願いです。ここから出して下さい。ここで起きたことは何も言いません。僕の知ったことではないんです。彼女に会ったことは誰にも言いません」
加藤は腕を組んで考えた。
「いや、別に言ってもいいんだがね。君に任せたいと思うんだ。もうここにも飽きただろう。ごみごみした東京が恋しくなっただろう」
「僕を解放してくれるんですか」
「うん、それも考えている。私も豚を育てるのに飽きてきたんだ」
「飽きてきたんですって? ここはどうするのですか、閉めるのですか。それとも経営権を譲渡するとか」
「豚は全部、丸焼きにしたいんだ。壮観だぞ。君ね、豚も死にたくないの知っているか。奴らは何のために生まれ、何のために食い、何のために生き、何のために増え、何のために死ぬか分かっていない。人間と同じさ。でもうちの豚は幸せだった。極上の餌を食って苦しみなんかなかったはずさ。でも人間は苦悩する。人生なんて苦悩の連続さ。君の人生は始まったばかりだ。君は苦悩するほど頭がよくないけれどね。君の苦労なんて私に比べれば取るに足りない。君の無能さが君を救っている。明日の朝、帰りなさい。今日は最後の夜だ」
加藤に何を言われようと慣れていた。いちいち傷ついていられなかった。やっと帰れる。少し名残惜しくもあった。彼はここへ来る前、自殺しようとしていたことを思い出した。加藤は自分が藤田アナのことを話さないと思っているのだろうか。通報すればここは完全に壊滅するだろう、そう思った。加藤や従業員の逮捕だけでは済まないと思った。どうでもいい、自分には関係ないことだ。藤田アナに義理はない。画面を通じてキラキラと輝いていたあの女子アナ、髪を振り乱して彼の体を揺すって訴えたあの女子アナ、きれいだった。だけど自分に何ができよう。もう死んでいればそれでいい。まだ監禁されていてもそれでいい。
研二は発達障害のところがあった。社会性に欠けていただけではなく、自分で何事も判断することができず、体だけ大きくなった知的障害児と同じだった。彼の両親もそれをうすうす気づきながらも何年も医大を落ち続ける彼を腫れ物のように扱った。
翌日の朝、研二は何カ月ぶりに門を出て養豚場を後にした。富士山ともお別れだ。彼は引きこもりの生活を続けたため随分太った。東京へ向かう新幹線の席がきつくて困った。東京駅に降り、自宅へ向かった。ごみごみした都会が懐かしくもあったが、すぐに人酔いし嫌な気分になった。捜索願を出していた息子が突然帰ってきたことに両親は驚いた。彼らは気を使い取りあえず何も聞かなかった。彼は二階に上がり自室に閉じこもった。ベッドに横たわり、この何カ月かの生活を振り返った。豚肉は当分、食べたくないと思った。テレビのニュースを見た。藤田アナウンサーにはどの局も触れていなかった。そんなものかと彼は思った。テレビの世界は代わりはいくらでもいる。それはどの世界でも同じだ。代わりのない存在など誰もいない。大統領だって代わりはいる。かけがえのない存在などいないんだ。彼は両親にとっての自分、自分にとっての両親について考えた。それだって代わりはいくらでもいる。自分が死んだって両親は一年くらい悲しむかもしれない。でもそのうちに忘れて笑顔だって見せるようになるんだ。彼だってそうだ。彼は今までに何度も親を殺そうと思ってきた。惨殺して一家心中しようと思うこともあった。本当に親が死んだら悲しむかもしれない。でもそのうちに忘れるさと彼は思った。そんなもんだ、みんな流れ流されていく。彼はこれからどうしようかと思った。机の上の医学書は見るのも嫌だった。この先の人生が想像もつかなかった。また死にたくなって自殺サイトに入り浸るんだろう。まだ『自殺したい心を癒すサイト』は存在するだろうか。養豚場にはパソコンがなかった。久しぶりにネットに入り、そのサイトを探した。だがもう無くなっていた。『藤田純子アナウンサー』と入力して検索した。おびただしい数の件数がそこにはあった。中傷やら批判やら称賛やらありとあらゆるものがあった。誰もが評論家気取りだった。この馬鹿どもが、彼はそう思った。藤田アナの経歴を調べた。慶応幼稚舎から慶応女子高を経て慶応義塾大学に入っている。数万人の中から選ばれて東京のキー局に入局している。まさにエリート街道まっしぐらだ、そう、あの時までは……。人生に挫折は必要さ。どんな形であっても、たとえ誘拐であってもね。
彼の理解力・判断力はその程度に幼稚だった。だから加藤は研二を帰したのかもしれない。
翌日の朝、母親の妙子が「どこに行ってたの?」と聞いてきた。富士山の方に行ってきたんだよと答えた。富士の樹海には入らなかったけどね。自殺するつもりじゃなかったからさ。僕が自殺したと思った? 彼は聞いた。
「まさか、でもすごく心配したのよ、何の連絡もないんだもの」
「携帯の圏外にいたからさ。連絡しようがなかったんだよ、だいぶ勉強が遅れたから頑張って取り戻すよ」
「でも連絡できないことはなかったでしょう。駅に出れば、公衆電話もあるし、携帯もつながるでしょう。あなた失踪者として大勢の方に協力してもらってチラシも作って配ってたのよ。警察の人も何度も来たし大騒ぎだったのよ」
大げさな、彼はそう思った。彼にとっては自分が生きていたことは自明なんだから、周囲の騒ぎは迷惑にも感じた。自分が生きていれば周囲のことはどうでもいい。彼はずっと引きこもっていたので引きこもりにも飽きた。
ある夜、夕御飯を食べながら テレビのニュースに藤田純子アナウンサーの写真が出た。
「僕、知ってるよ、この人」
「えっ、何が? 何のこと?」
「僕、この人に会ったことあるって言っているんだ、すれ違っただけさ。何でもないよ。この人のストーカーっていっぱいいたんだってね。そういう奴らの餌食になったのかもしれないね。でもきれいな顔をしているな。清楚な気品に溢れている。肌が白くて目がキラキラしている」
「あなたが行方不明になっている間にこの人誘拐されたのよ。いまだに行方知らずで大がかりな捜索をしているわ」
「僕さ、この人と握手もしたんだ。感動ものだったね。テレビに出ている別世界の人と思った人が目の前にいたんだ。話もしたよ。こんなチャンスは二度とないからね」
「あなた、すれ違っただけって言ったでしょう」
「まあね、いろいろあるのさ」
彼は自室に戻り、ネットの世界をうろついた。藤田純子アナウンサーについて書かれているサイトで自分が参加できそうなものを探した。手頃なサイトがあった。『藤田純子アナを救う会』。いかにもべただ。でもそれがいい、あまり狂信的なサイトは好まなかった。
〈雄一〉
「今日、夕方のニュースで藤田アナの特集を組んでいたよ、みんな見た?」
〈真子〉
「見た見た。何の進展もないわね。でもあれは犯人への圧力になると思う。目撃者が必ず現れるわ」
〈一郎〉
「犯人を許さない。殺してやりたい」
〈アリス〉
「建設的な話をしようよ。『藤田純子アナを救う会』として何ができるかだ。ビラ配りはもう各地でやった。特に五反田周辺、六本木周辺ね。富士宮市でオフ会を開いて重点的にやったし、他に何が僕たちに出来るかだ」
〈康夫〉
「あんなに美しい人をみんなの手から奪うなんて許しがたいね。僕は彼女が生きていることを願うよ」
〈真子〉
「そうよ、あんなにみんなに愛されていた人、他にいないわ。友人やアナウンサー仲間が犯人に訴えていたわね。せめて生きていることだけを伝えてほしいって」
〈研二〉
「はじめまして、研二です。みんな、藤田純子アナに会ったことある? 僕は話もしたんだぜ。素敵な人だったなぁ」
〈真子〉
「はじめまして、研二さん、いつ会ったのよ」
〈研二〉
「失踪する前だね。握手してもらって、頑張って下さいって言っただけさ。でもさ、何か、みんなずれてるね。藤田アナの実物に会ったこともないのに救おうなんてさ。ビラなんて効果ないよ。ここは超能力に頼るしかないね、あるいは霊視とかね」
〈一郎〉
「なんだ、ひやかしか、そういう人は出ていってもらいたいね」
〈研二〉
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。僕だって真剣に藤田アナのことを考えている。救えないかと思っている。僕にその力があるなら協力してもいいと思っているんだ」
〈真子〉
「あなた、超能力者? 真面目に考えてよ」
〈研二〉
「真面目だよ、僕にしか出来ないことがあるかもしれない。みんなも協力してくれるかな」
〈真子〉
「協力ってどういうことよ。何が言いたいの?」
〈研二〉
「このサイトの管理人って誰? 話がしたいな」
〈雄一〉
「僕だよ、君は彼女に関する何かを知っているのかい。もしそうなら、君は僕らに協力するんじゃなくって捜査に協力すべきだな」
〈研二〉
「捜査に協力なんて出来るわけないよ。そんな大それたこと出来ない。直前に会ったっていうだけさ。僕は君たちの活動に参加したいだけだよ」
〈雄一〉
「それなら歓迎だよ、僕らは『救う会』っていってもね、ビラ配りとか捜査の進展を見守ることしか出来ていないんだ。東京のオフ会では放送局の前でテレビカメラの入っている中で、『藤田アナを救って下さい。わずかな情報でもご提供下さい、僕らに協力して下さい。全国に輪を広げましょう。必ず、彼女は生きて帰ってくるはずです』って訴えたけどね」
〈研二〉
「そうですか。彼女は必ず帰ってきますよ。では落ちます。また明日の夜来ます」
研二は何故か優越感に浸っていた。自分にしか知らない秘密、これはまがまがしい宝石みたいだった。みんな馬鹿だから何も知らない。警察も輪をかけて馬鹿だから、何カ月も特捜本部を作って捜索しても何にも決定打はつかめていない。僕が口開けば何もかも解決できるのにな。まあ、僕もあれから藤田アナがどうなったかは分からない。でも捜査に劇的な進展があるはずだ。
翌朝、研二は朝食に下りてきた。以前、引きこもっていた彼が朝食を家族と一緒に食べることは久しぶりだ。彼は上機嫌だった。何やらにやにやしていた。何かパワーを獲得したような気分だった。自分次第で世の中は動くんだ。度重なる受験失敗ですっかり自信を失っていた彼は心の中で叫んだ。俺は無能なんかじゃないんだぞ。
父親の石田武雄が言った。
「来年も落ちるようなら医者は諦めなさい。何カ月も連絡もなく失踪していたり、引きこもってゲームばかりしているようじゃもう無理だ、お前には医者は向いていない、他の道を考えなさい。それがお前のためだ」
「来年は合格するよ。僕は医者になる。人々の尊敬を集めたいんだ」
「何を言っている。医者は地味な職業だよ。毎日、地道に患者を診て少しでも良くなればそれで嬉しいんだ。スーパードクターなんていないんだよ。マスコミは勝手に祭り上げるが、本人はそんなこと思ってもいない。だいたい、お前は動機が不純だ」
研二の高揚した頭には父の言う言葉は入って来なかった。僕が世間を動かす。世間は僕の手の中にある。
母親が言った。
「私はあなたが将来の不安もなく幸せになってくれればそれでいいの。医者はあなたには無理かもしれない。それでも他に道はいくらでもあるじゃない。医者にこだわることはないのよ」
「医者になるって言っているじゃないか、うるさいな。来年は合格するよ。今まではね、すごい鬱状態だったんだ。勉強は手につかなかった。でも治ったんだよ。富士山のご利益かな。これから追い込んで勉強するよ。必ず、受かるよ」
彼はその日、一日中勉強した。取り返さなきゃならない。でもさすがに疲れて、その夜、再び『藤田純子アナを救う会』にアクセスした。
〈研二〉
「やあ、昨日ぶり、知らない人、はじめまして。昨日から『入会』した研二です。今日も藤田アナのことを語りましょう」
〈雄一〉
「みんな、僕らの新しい同志の研二さんだよ。彼女に事件の直前に会ったことがあるんだって」
〈研二〉
「いや、直前というわけでもないんだけどね、その日、放送局の前を歩いていたら、昼の食事に局を出たらしい藤田アナに会って、握手して少し話しただけさ」
〈雅也〉
「へぇ、羨ましい、というか何というか。どんな話をしたの?」
〈研二〉
「いやぁ、名前を言って、いつも見てます、応援していますって言ったのさ」
〈雅也〉
「今となっては貴重な人だな。当日に彼女に会えたなんて」
〈研二〉
「ブルーのワンピースを着ていてね。赤いバッグを小脇に抱えて、握手を求める僕に笑顔で応えてくれたよ」
〈雅也〉
「バスに乗っていた人の証言と一致する。何かもっと知らないかい」
〈研二〉
「そうだね、事件現場となった道沿いにはカフェテリアがあって彼女は毎晩、帰りにそこに立ち寄るんだ。クリームたっぷりのカフェモカをいつも頼んでいたよ」
〈雄一〉
「君はなんでそこまで知っているんだ。おかしいな。そんな個人的なことまで局は公表していないよ」
〈研二〉
「僕しか知らないのさ。藤田アナのファンならそれくらい調査しなければね。彼女が大学時代に付き合っていた恋人のことや、今、付き合っている彼氏のこともね。彼女はね、彼氏の家にお泊りすることもあったんだぜ。彼氏の家から出勤だ。今頃、心配しているだろうな。彼女のことは何でも聞いてくれ」
研二は口から出まかせに何でも書き込んだ。
〈真子〉
「何か、あなた気に障るわ。プライバシーに関することじゃないの。あなたストーカーだったんじゃないの」
〈研二〉
「彼女、いつもにこやかに微笑んでいるように見えるでしょう。でもね、髪の毛を振り乱して暴れることもあるんだよ。彼氏とのセックスでみだらなあえぎ声を出して腰を上下するようにね」
〈雄一〉
「聞き捨てならないな。不謹慎だ。そういう誹謗中傷はこのサイトでは困る。気をつけてくれ」
〈研二〉
「すみません、今のは全て僕の想像でした。何も知りません。嘘でした。謝ります」
研二は藤田アナのサイトに入り浸っていた。彼はサイトでやがて自分しか知らない藤田アナの情報を書き込み始めた。優越感に浸るためだった。完全に調子に乗っていた。富士宮市で彼女に会っていて、自分に助けを求めていたことまで書き始めた。もちろん、養豚場のことは書かなかったが。
サイトをパトロールしていた警察は以前からそのサイトをマークしていた。次第に研二という男に目を付け始めた。プロバイダーから住所を割り出し、彼が最近、失踪していたことをつかんだ。それは藤田アナウンサーの時期と重なっていた。
警察は研二の家に聴取に来た。
母の石田妙子が応対した。失踪の件が解決したことは報告したはずだが。
「すみません、今日は研二君に少し話を聞かせてもらいに来ました」
ぼさぼさの頭をして二階から降りてきた研二は言った。
「何の用ですか。話すことなんて何もありませんけど」
「研二君ね、君『藤田純子アナを救う会』にアクセスしているよね。その件で聞きたいんだが、随分、細かいことまで知っているようだね」
「あれはですね、全て空想です。捜査が行き詰っているようですね。僕のような虚言者のところまで来るとは思いませんでした」
「ちょっと署まで来てもらえませんか。ご協力お願いします」
研二は警察が愚かだと思った。自分たちで解決しろ。
「まぁ、いいですけどね、捜査協力でしょう。しますよ。別にやましいことなんて何もないから」
彼は本当に自分が何をしたわけでもないと思っていた。彼は休養しに富士山の麓にある「加藤養豚場」に行っただけだ。そこへ藤田純子がいきなり来て「助けて下さい」って騒いだだけだろう。加藤のことは言うつもりはなかった。
「君は富士山を見に行っていたと言っていたね。数カ月もだ、随分長い間だ。君はどこで何をしていたのかね」
「うーん、テントを張ったり、自炊してました」
「どのキャンプ場だね?」
「いえ、林や森の中です。樹海にも行ってました」
「食料はどこで買った?」
「覚えてないですね。いろいろな所です。名前までは知らないですね」
「君は藤田純子アナウンサーに助けを求められたようだね」
「だから言ったでしょう。空想です。あんなサイトで本当のことなんて書くわけないじゃないですか」
「本当のことだって?」
研二はちょっと口を滑らしたと思った。
「つまりですね。ああいうサイトは匿名で好き放題のことを書き込むものなんですよ。全部、偽りっていう意味ですよ」
「君は失踪する前『自殺したい心を癒すサイト』にアクセスしていたね。履歴が残っていた。もちろん、内容までは分からないが。君が『藤田純子アナを救う会』にちょくちょくアクセスするようになってから調べたらあのサイトの運営者は加藤正義という男なんだが。知らないかね」
研二は心の中で笑い、いい線いっているじゃないかと思った。
「知りません。何も」
彼は加藤に特別な恩義を感じているわけではなかった。あんな絶景のところで休養させてくれたことに感謝はしていたが。だが情が移っていた。裏切ることはできなかった。自分が証言したら加藤は破滅する。彼は妙なことに意固地だった。
山内真一という刑事はしつこく聞いた。
「加藤正義という男は養豚場を経営しているんだよ。前に県警の者が聞き込みに行っているんだがね。中も見せてもらったが特に変わったことはなかったと聞いている。一部屋一部屋念入りに調べたわけではなかったが。いやね、これまでも十人近い人が富士宮で消息を絶っている。そのパソコンの履歴を見るとやはり『自殺をしたい心を癒すサイト』があるんだ。これはどういうことなのかね。これだけでは非常に弱い。君の証言が必要なんだ」
研二は「えっ」と思った。そういうことなのか。彼がいる間に三人、人が消えた。加藤は帰ったんだと言っていたが。彼は少し動揺した。でも人の生き死になんてどうでもいい。彼は医者の素養を全く欠いていた。
「偶然じゃないですか。あのサイトは全国からアクセスがあるんですよ。履歴っていっても覗いただけだって履歴がつくんですよ。もう無数って言っていい。十人位でしょう、失踪者は。小学生だって分かる算数ですよ」
山内刑事はバンッと机を叩いた。研二は少しひるんだが、こいつらはこうやって脅すしか方法がないんだと思った。
「人が何人も失踪しているんだ。もう死んでいるかもしれない。人の命がかかっているんだ。君が『加藤養豚場』で彼らを見たと証言すればいい。藤田純子アナウンサーに助けを求められたって言ったじゃないか」
山内は机に失踪者の写真を並べ出した。そこには藤田アナの写真もあった。
「だから嘘だって言っているでしょう。僕は『藤田純子アナを救う会』で注目を浴びたかったんです。僕は虚言癖のある無能な人間なんですよ」
「誰も無能って言っていない。医者を目指しているそうじゃないか。それなら自分に正直であることが第一条件じゃないか。医者に一番必要なのが誠実さだ」
「もう何年も落ちていますからね。来年も落ちるかもしれない。僕は落伍者なんです。浪人なんて浮浪者と同じだ。でも最近、やっと勉強に身が入ってきたんです。僕にだって将来がある。邪魔をしないでくれますか。もう帰らせてもらいます」
研二は立ち上がった。山内は隣の岡島刑事と顔を見合わせた。
山内は苦々しい顔をしながら扉を開けるように指示した。
研二は警察の車で帰った。
母の妙子が心配そうな顔で迎えた。彼は少し疲れた様子だった。自室に入ると、頬杖を付いて考え込んだ。
『あの養豚場で消えた人たちは殺されたのだろうか。どこへいった。何故、僕を解放したんだろう。藤田アナの目撃者だと言うのに。彼女の必死な表情が頭から離れない。この問題を放置して医者になっていいのか。だいたい人の生死をどうでもいいと思っている人間が医者になれるのか。だが頭の中でどう思っていようと医者は医者の仕事をすればいいのだ。人を殺そうと思っている人間は無数にいるが、実行する人間は極めて少ない。実行しなければ罪にもならないし罰せられないんだ。不条理だ。イエスなら殺そうと思った時点で罰するだろう。イエスは人を愛した。しかし人に実に厳しかった。だから磔にされたんだ。人は矛盾の塊だ。人は矛盾を生きていくしかない』
しかし彼は体が小刻みに震えていることに気付いた。何なんだ、この震えは。彼はベッドに横たわった。だが震えは止まらなかった。俺の心と頭が矛盾している。真逆のことを考えている。だから震えているんだ。彼は混乱して頭を抱えた。黙っていればいい、墓場までこの秘密を持っていくんだ。誰のために? 自分のため以外にない。加藤を守るためではない、自分を守るためにだ。どうせあの空間では何もできなかった。誰も助けられなかった。いや彼は助けようとも思っていなかった。彼は無能と思われて人生を生きてきた。落ちこぼれが医者になるってよ、馬鹿にされ続けた。彼はしかし自分自身を無能だと認めることは出来なかった。しかし彼はこのことを含め、あらゆる場面で無能を露呈してきた。この過去を封印するのだ。封印したい。
彼は現実が見えていなかった。
彼はいつしか眠っていた。藤田純子が掴みかかってきた。助けて、お願い助けて! 彼の体を揺さぶった。この能無し、卑怯者。彼は体中に冷や汗をかいて目を覚ました。彼女の手の感覚が残っている。
彼はそれから毎晩、悪夢にさいなまれた。勉強どころではなかった。ベッドから起き上がって立ち上がるのも難儀になった。彼は再び引きこもり母親が料理を部屋の入口に置くようになった。這うようにトイレに行くと便座から離れられなくなった。食事も喉を通らなくなり肥満していた体は一気に二十キロ落ちた。神経が参っていることにも気付かなかった。そのままの状態で一カ月が過ぎた。彼は極度に疲弊し、体重はさらに減り、目が落ち窪んでいった。見かねた母が精神科に連れていった。彼は診察室に一緒に入ろうとする母を止めた。一人だけにしてくれ、そう言った。
温厚そうな医師だった。
「どうしましたか」
彼はいきなり机に突っ伏し泣いた。
「悪夢ばかり見るんです。もう一カ月以上も」
「どんな夢か、教えてくれるかな」
「夢じゃないかもしれない、亡霊です。亡霊が僕にまとわりついてくるんです」
彼はそういうと再び肩を震わせて泣いた。
「何が原因か分かるかな」
「僕が女の人を見殺しにしたからです。結果的にそうなってしまった」
「どういうことか話してくれる」
「助けてくれっていう女の人を僕は無視した。僕が救えば助かったかもしれない。僕は無能な人間だから何にも出来なかった」
「どんな女の人?」
彼は言葉に詰まった。黙りこくった。
「そのままでいいと思っている? あなたがそれを解決しなければ何も変わらないよ」
だが何も話さなくなった。
医師は彼の様子を見ていった。
「君は罪悪感を感じているかもしれないが、状況的に助けられなかったんじゃないの、あなたが全部背負うことはないと思うよ」
「僕は医者志望なんです。でも僕は人が死んでもいいと思っている。こんな僕が医者になってはいけない。もう何年も浪人しているし、こんな状態では来年も受からないかもしれない」
「あなたは本当に人が死んでもいいと思っているの、身近な人のことを考えてごらんなさい、おかあさん、死んでもいいの、あなたに心配して付いてきてくれたね」
「悲しむと思います。つらいと思います。でもそれも一年も経てば終わる」
「そうかな、僕は十五年前に母を亡くしたんだけどいまだに後悔して泣くことだってある。自分のせいで母は亡くなったんだと思っている。母は晩年、大病を患ってね、僕は学生の頃、大きな事故を起こしてね、それで母を悲しませ、周りにも大変な迷惑をかけた。償いようのない事故だった。でも大病が発覚する前まで、そんなに悲しませたことをすっかり忘れてしまい、僕はすごく母と仲が悪かった。毎日怒鳴り合っていた。ある日、お尻から血が出るのよって母は言った。僕は自分が若いころから痔を患っていて、時には和式トイレを真っ赤に染めてしまうことがあったから、痔だろ、大したことないよって言った。それから三カ月くらいして母は、前から血が出るのよ、と言った。僕はそれはおかしいと言った。母はいいのよ、と言って医者に行こうとしなかった。母は我慢してしまう人だった。自分さえ我慢すればって生きてきた人だった。戦争を経験した人だったからね。それから前から後ろから大量に出血した。さすがに医者に行ったが末期の直腸癌だった。僕は自分が殺した、と思った。母に対してつらく当たっていたことから母はいつも泣いていた。それで癌になったと思った。医学的にはストレスが直接、癌になるということは証明されていない。でもいつも一緒にいた僕が早く気付ければ母が手遅れになることはなかったんじゃないかと今でも思っている。いついかなる時もその後悔はあるんだ」
研二はじっと聞いていた。話は心に染みわたった。
「あなたがその女性を助けられなかったことは一生あなたを苦しめると思いますよ、今、話してくれれば苦しみは少しでも軽くなると思う。誰を助けられなかったのか教えてくれませんか。友人ですか、恋人ですか」
研二は決心したように言った。
「先生も多分、知っている人です。テレビに出ている人です……」
医師は静かに彼を見守っていた。
「あの人です。だめだ、言えない」
医師の目が光った。
「あなたが真相を明かすことしか状態は良くならないと思いますよ。あの人って誰のことです?」
彼は観念したように言った。
「……藤田純子アナウンサーです」
医師は頷いた。
「それは警察に連絡しなければいけなくなる。僕から電話しようか、自分で警察に行きますか?」
「自分で行きます」
「そう、無理なようだったら、僕の方から連絡するからね。今日中に行けますか。これを持って行きなさい」
医師は名刺を渡した。
彼は頭を下げた。
しかし、彼が連絡したのは加藤にだった。
「加藤さん、研二です。養豚場で藤田純子アナウンサーに会ったことを警察に言います。お世話になったのに申し訳ないです。葛藤しましたが限界です」
「いいんだよ、君を解放した時点でこうなることは覚悟していた。君には何の罪もない。しかし五日間待ってくれ。こっちも準備がある」
精神科の医師はその夜、彼が警察に行ったかどうか電話してきた。
研二は、行きましたと答えた。
彼はその五日間、苦しみ抜いた。時間が経つのが異様に遅く感じられた。相変わらず悪夢が彼を襲った。
五日間経って彼は最寄りの交番に行った。
「藤田純子アナウンサーを富士宮近くの『加藤養豚場』で見ました」
警官は驚き、医師に電話した。それを確認し終わると警視庁に電話した。すぐにパトカーが来た。彼は取調室に入り、証言した。刑事はそこに現在、他の不明者がいるかどうか聞いた。彼は分からないと答えた。
警察は迅速に緊急会議を開き、『加藤養豚場』に強制立ち入り捜査することを決定した。この情報はマスコミに流れた。
翌日の早朝、警察の部隊が『加藤養豚場』に到達した。各社の報道ヘリコプターや警察のヘリコプターがその上空を飛んだ。
報道ヘリのアナウンサーは興奮を抑えきれない声で伝えた。
「四か月前に消息を絶った藤田純子アナウンサーが富士宮の『加藤養豚場』にいたことが確認されました。これは都内在住の男性の証言によるものです。生死は不明です。異様な光景です。まるで要塞のように五メートルほどの塀が周囲を囲っています。警察の車両が何台も門の所に集結しています。大勢の警察官が門から周囲を包囲しています。交渉をしているのでしょうか、緊迫した雰囲気が続いています。藤田純子アナウンサーは四月十四日の夜に五反田駅付近で誘拐され富士宮市に向かったことが警察の調べで確認されています。警察の捜査はその後、行き詰まり、四か月の無情な空白期間を経てようやく犯人の逮捕に取りかかろうとしています。経営者の加藤正義容疑者は現在四十八歳、十四歳の時にこの養豚場に入り、三十年以上も豚を飼育してきました。そこで生産された豚肉は地域に行き渡っています。業者や消費者の評判はよく、良質の豚肉を提供してきたようです」
加藤の電話が鳴って「警察です。直ちに門を開けて下さい。他に人はいますか。開けなければ突入せざるを得ません」
加藤は自分以外誰もいないと答えた。門は開ける事が出来ないことを伝えた。
彼は来るべき時が来たと思った。準備は万全だった。
豚舎では二百頭の豚の群れが飢えて共食いを始めていた。加藤はナイフを腹に突き立てた。腹をえぐり、はらわたを出し、おかあさん、ごめ……ね、逝くね……、と言いながら飢えた豚の群れの中に飛び込んでいった。その十五分後、大型のスプリンクラーからガソリンが勢いよく降り注いだ。それと同時に点火装置が発火し豚舎は大きな炎に包まれた。
「あっ、動きがありました。豚舎と思しき建物から炎が噴き出しています。車両から梯子が多数下ろされ、周囲の塀から突入する模様です。大勢の警察官が内部に入っていきます。あっ、今、警察が門を爆破して突破しました。警察のヘリが敷地内に降りようとしています」
研二はテレビで中継を見ていた。なじみのある建物が映し出されている。加藤は自殺を選んだと思った。そう、あの炎の中で加藤は焼かれている。二百頭の豚を道連れに。
警察の消火は遅れ、建物は崩れ落ちた。その跡から豚の死骸と共に無残に食い散らかされて焼かれた加藤の死体が発見された。藤田純子アナウンサーは見つからなかった。焼け焦げた大型の粉砕機が発見された。その機械にこびり付いていた粉状の物質は鑑定の結果、人のものであると断定された。DNA鑑定には時間を要した。十人を超えるDNA型が解読された。その中のDNA型と藤田純子アナウンサーのDNA型が一致した。そして、豚舎の餌や水タンクからも同一のものが発見された。
世間は衝撃を受けた。解明された日、藤田アナの所属していた放送局は全員、喪服で放送を続けた。各地で自殺のニュースが相次いだ。
翌朝、研二の部屋の前に置いてあった夕食は手がつけられていなかった。妙子はどんどんと扉を叩き、どうしたのって言った。その声は叫び声に変わっていった。ようやく扉を破って入ると研二が首を吊っていた。
蠅が舞っていた。
了
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