神の微睡み

自殺する若者を救う小説は何かと考えてきました。「神」「存在と無」「生と死」という根源的な問題を考えていた時期です。
この小説を書くことで私は少し救われました。

神の微睡み

                                        
       序

『何億年も何兆年も無限の時を暗闇が支配していた。何物も存在せず存在と無という概念すらなかった。生も死もその痕跡すらなかった。神も自然もなかった。永遠の静謐が全てを支配していた。未来永劫それは続くと思われた。
そこに錯乱が起こった。激烈な轟とともに、まばゆいばかりの閃光が走った。それは聖なる無を打ち破る狂気だった。光は物質という狂気の児を生んだ。やがて物質はたがいに殺し合う生命を生んだ。そして宇宙の片隅の小さな星で人間という生物が育った。人間はたがいに憎み合い殺し合った。食べなければ生きていけない性(さが)を必然的に有していた人間は土地を奪い合い、自我を主張した。自我は自己を無限に愛し、その地獄を知らなかった。自己愛が戦争を起こし、殺戮を繰り返しては自分の子孫でこの世を満たそうとした。人は死を恐れ、死を愛した。腐敗を恐れ性の営みを愛した。その地球という星は人間で溢れ飽和状態になった。戦争という憎しみの連鎖が大量の虐殺をして人口爆発を回避した。ホロコーストと原爆はその象徴であった。殺戮は西暦2020年現在も行われている。宗教という狂気が原因の一つでもある。たがいに排斥し合う宗教の神は決して憎悪以外のものを生まない。異教徒の死以外を望まない。テロリズムが世界を覆っている。それは狂気から生まれた生命の辿る必然的な運命であった』

        1

 北川健一は暗闇の中で瞑想していた。自分の生と死を、そして世界の破滅を瞑想していた。彼は悪性の癌であり、残された時間が限られていた。その時間で世界の謎を解明しなければならなかった。その謎は物質を無限小まで砕いても究明することが出来ないのは理解していた。存在と無の間には決して乗り越えられない壁があった。彼は存在というものを幻と考えていた。無が生んだ幻以外の何物でもないと思っていた。その幻の世界を漂う幻影が自己だと自覚していた。ただ彼はその自己が存在する理由を知りたかった。彼は彷徨いの巡礼をした。迫りくる死への恐怖は微塵もなかった。死は本来の無へ還る過程に過ぎないと思っていた。
 彼は現実世界で異邦人であった。幻でしかない現実があたかも真に存在するかのように人々は生きていた。存在の亡霊を科学という武器で研究しつくそうとした。だがそれは必然的に壁にぶち当たった。人は物質を無から創造することが出来なかった。無について研究する学問はことごとく行き詰った。だが人の死は常に彼らの傍にあり彼らを苦しめた。無と死は似ているが違う。しかし人々は人の死に、無を考えざるを得なかった。せいぜい八十年で死ぬ人間は子を産み、孫を得た。だがその子供も孫も必ず死ぬ。大災害は人間自体を滅ぼすだろう。死は彼らと共にあった。一握りでしかない自殺者を除いて彼らは生きようとした。必ず挫折することがあらかじめ決まっている生を生きようとした。
 北川健一はある小説投稿サイトで佐藤隆史という男と巡り合った。佐藤の抱く「この世の死」への願望は並外れていた。彼の思想は夢想に溢れていた。現実化することは決してないと思えたが、全否定するのも間違っていると思った。彼自身が主人公だった。
これから先は佐藤の書いた物語である。

       2

 神は無から存在を創造したが、ホロコーストにも原爆投下にも無関心だった。神を目覚めさせるにはこの世が消滅することしかないのかもしれない。
 佐藤はそんな考えに取りつかれていた。神の沈黙は無関心の象徴だと考えた。彼は自分の出来ること、為すべきことについて考えた。しかし、どうすればいいのかについては考えが及ばなかった。地球一つを消しても宇宙には何の変化もないだろう。それこそ宇宙の半分以上を消滅させなければ、神は微睡みからも覚めることはないだろう。だが神が目覚めなければならないようなメッセージを送ることは出来るのではないかと彼は考えた。それは存在と無の根源に関わることであろう。神は何故、存在を生み出したか。そしてそれを放置したか。存在は神の法則に従って生命を生み出した。だが自分の生み出した生命によって自らを裁かれようとしている。自殺がそれの最たるものである。自らの生命を否定する行為は神へのささやかな反抗であろう。全宇宙の自殺こそが神への明白な効果ある反逆であろう。しかし、佐藤は自分一人が自殺してもこの世は何も変わらず、神の深い眠りを覚まさせることは出来ないと自覚していた。人の死は神にとっては痛くも痒くもない。それこそ無数の人が死んできた。いや人間に限らない。死はそれこそありふれたものである。しかし神を否定する自殺は論ずるに値する。全ての理性ある存在が神に異を唱え自殺したらどうなるか。神の微睡みをつつく程度の効果はあるのではないか。しかしそれにしては人間の自殺が少なすぎる。他の動物に期待するのは無理な話だ。地球人が一斉に自殺したら少しは効果あるかもしれない。それは世界大戦で地球人が全て死滅するよりも効果的かもしれない。しかし世界の人口の七十億人を自殺させたり、殺害するのは難しい。それに神が万が一、目覚めたとしても地球人が一人もいなくなったら意味がない。だが佐藤は自分がいればいいと思った。神が目覚めた世界で私が生きていればそれでいいと思った。私一人で神と対峙するのだ。それは恍惚な瞬間だと思った。他の人間は誰もいらない。私一人で十分だ。彼はそう思った。神を目覚めさせるにはどうしたらいいか。原爆投下でさえ目覚めなかった神の無関心を覚醒させるにはどうしたらいいか。殺害できなければ自殺させなければならない。だがそれはさらに困難だ。彼には人がめったに自殺しないのが不思議だった。日本で年間、たった三万人に満たない。彼はその百倍でもいいと思った。それでも全然足りない。生きるのは本能なのか? だから人はめったに自殺しないのか。彼には自殺するほうが本能のように思えた。生は苦しみそのもののように見えた。彼は絶えず続く自殺の衝動に耐えていた。それは繰り返す津波のように彼を襲った。だが彼一人の自殺には何の意味もない。七十億人を道連れにしなければ何の効果もない。だが彼はすぐにでも死の眠りを欲した。今、死ねればどんなに幸せだろう。しかし犬死にはしたくなかった。テレビでドイツの旅客機が百五十名を乗せたまま副操縦士の故意による操縦で墜落したと告げていた。百五十人では到底足りない。彼はこの世界のシステムを変えてやると言っていたそうだが、そんなことではこの世は変わらない。神のシステムを変えてやることこそが必要だ。何故ならこの世は神のシステムで出来ているからだ。自分が死んでどうする? 巻き添え自殺なんて愚の骨頂だ。死にたいなら自分一人で死ね。重要なのは、自分は死なずに人を殺すことだ。人を自殺させるならなおいいが。最終的には神を殺すことが目的だ。神を殺すとはこの全宇宙を無に消滅させることだ。神は全知全能であったとしても虚無に帰してしまったら無力である。神は存在の側にいる。神であったとしても無には耐えられない。神は無から存在を創造したといわれている。そんな愚行が再び行えないように無の牢獄に閉じ込めるのだ。
 彼はそうした思考をしながら現実を見た。この破綻した現実。性倒錯者が腐敗菌のように爆発的に発生する末期的現象。互いに憎み合い殺し合う世紀末的現実。異教徒を斬殺する宗教的錯乱。死以外に救いようがない現実。全て死滅させることこそが救済なのだ。
 この世を破滅させるトリガーとしては核爆弾五十発で十分であろう。後は連鎖的にこの世は自動的に滅びる。各国から連射された核爆弾によって地球は未来永劫、死の世界になる。
 佐藤は全てが無に帰した世界を想像してみた。彼は虚無の中でただ一人、神に対峙する。その恍惚の瞬間、彼の問いに神は何と答えるだろう。彼はこう問うであろう。宇宙の存在は必然か? 神の存在は必然か? 人の存在は必然か? 神は万能か? 神は無能か? 意識は必然か? 人は死んだらどうなる? 神にも死があるのか? 神が宇宙を創ったとして、何故放置する? 何故、神はこれほどまでに無関心なのか? 
 問いは無数にある。彼が問うたとしても結果は目に見えている。神は沈黙を貫くであろう。地球が滅んだとしても神には痛くもかゆくもない。やはり全宇宙の、理性ある意識を有している全ての者の自殺が必要であろう。だがそれは塵ですらない彼には荷が重い。彼は絶望を既に身に孕んでいる。それでも彼はシーシュポスの神話のように岩を山頂に向けて運び続けなければならない。この世の終わりを告げる核爆弾の砲火で自殺者を一人でも多く出すことが彼の目的である。人々が絶望しこの世を恨んで自殺することが神への唯一の攻撃となる。自殺を良しとしない一部の人間には死の灰が火砕流のように降り注ぐだろう。
 彼は夢想する。彼を信じる同志たちとこの世を破壊する夢を見る。
 まず五十発の核ミサイルをロシアに向けて発射し、三十発を中国と北朝鮮とイランに向けて打ち込めば自動的に核戦争になり世界は滅びるだろう。
 彼は同志たちと話した。
「君たちは世界の終わりの目撃者だ。誇りに思え」
「この世界が壊滅することは私たちの究極の願望でした。薄汚い存在が消滅するのは何という美しいことか。地球にはびこる人間どもを皆殺しにするのは何という素晴らしいことか」
「そうさ、人間という愚か者を根絶やししなければならない。我々、選ばれたものだけで新天地を作り上げるのだ。我々はその時、人間ではない。超人になるのだ。超人の子孫でこの世を満たしていくのだ。そのために男女五人ずつ十人の同志がいる。私は例外だがな」
 佐藤は同志の行く末を憐れんだ。お前たちは地球の滅亡とともに俺に殺される。この世は俺だけで十分だ。他の意識など煩わしいだけでいらない。
「君たちは人工授精で子孫を増やす。醜悪なSEXなどしない。性行為ほど醜い行為はあろうか? そんなものは我々と無縁だ。私は死を愛している。世界の死とともに死ねないのが残念だ。君たちもそうだろう。その自殺願望の激しさはよく知っている。だが生への未練があるのも知っている。それも私には残念だ。君たちの死への恐怖は並外れている。生への激しい衝動があるからこそ君たちは死を恐れている。無を恐れている。君たちはみんな自分こそ特別な存在だと思っている。だからこそ自意識の消滅を恐れている。分かっている。君たちの心は手に取るように分かる。子孫が残っても自分が死んだら何にもならないと思っているだろう。だが君たちの意識は子孫の心に生きる。全く消滅するわけではないのだ。それを理解してほしい。君たちはみんな孤独を愛してきた。増殖するSEXを忌み嫌ってきた。そんな君たちだから子孫を残すに値する。薄汚い人間どもがSEXして蛆虫のように増えるのとは訳が違う」
 佐藤は心の中で笑っていた。お前たちはみんな死ぬのだ。俺に殺されるのだ。何故なら自意識は孤独を望むからだ。私以外の自意識はこの世にいらない。私対神だ。この構図こそ完璧だ。自意識は死後、残ることも受け継がれることもない。子孫など無用だ。何の役にもたたぬ。
 近年の戦争は戦勝国が敗戦国の国民を全員殺すことはなかった。そんな甘い戦争など戦争とは呼ばぬ。徹底的に滅ぼしてこそ戦争の名に値する。その国の人間、文化ごと壊滅させなければ戦争とは言えぬ。死と破壊が必要だ。この世から意識が消滅していくのは美しい。世界遺産、文化遺産がこなごなに砕け散るのは素晴らしい。殺せ、壊せ、が私たちの合言葉だ。
 
 彼は無限の果てから自分を見下ろすことがよくあった。自分を取り巻くこの無限を意識できる自己とはいったい何だろう。無限の中の自分、自分の中の無限、そしていつか必ず迎える死とはいったい何だろう。彼は眠れぬ夜の静寂に考えることがあった。
 こうした一切合切は何なのか、彼は愕然とすることがあった。自分は永遠にこの世に不適合だ。生きているが生きていない。生きていないが生きている。この世界と自分自身のあらゆる虚飾を剥がした生(なま)の存在自身にぶち当たると彼は慄然とする以外なかった。必然と偶然を超えた運命的な存在であると彼は思わざるを得なかった。いや、運命的でない人なんているのか? 人間に限らない、家畜や虫までもが全てが運命的なんじゃないか。全てを疑った後に訪れるのが、全てを運命的なものとして信じるという行為だ。彼にはこれがごく自然に行われると思わざるを得なかった。だが彼は運命に異議を唱えていた。運命という言葉で全てを解釈するのを良しとしなかった。それはあまりに容易すぎる。その言葉は真実を覆い隠すとともに全ての人の目をくらませてしまうだろう。
 佐藤の究極の願いは単なる孤独な自殺だったろう。だが七十億人を道連れにしての自殺でなければ何の意味もないと思っていた。「自我」対「神」の構図になるなどと心の底から信じていたわけではない。神はあくまでも沈黙を貫き、たわいもない人間のことなど無視しただろう。神は生命のシステムを構築した後は、それを放置したからだ。彼はひっそりと孤独に死ぬべきだったのかもしれない。初めから相手にもされない無謀な戦いに挑もうとしたのは愚かだったかもしれない。だが彼は「自意識」の大きさは全宇宙にも勝ると思っていた。それでなければ彼は自我の目覚めとともに子供のころに自殺していただろう。彼が自殺しなかった最大の理由は自我の肥大化に尽きる。

 世界の果てで佐藤は夕陽を見ていた。彼の意識は全宇宙に広がっていた。部下が寄ってきて機は熟したと言った。地球が滅びる日がやってきた。彼は部下とドーム状の核シェルターに入った。
「諸君、我々は地球を浄化するためにこの世界を破滅させる。全てが死滅した後に我々は新しい国を創る。その国は崇高な理想を掲げて創立される。全ての愚かしいものから超越した善なる国こそ我々が樹立すべきものだ。神の御加護により我々の目的は成功のうちに終わるだろう。これは最終的に神を目覚めさせるための私の使命である」
 
 時は満ち、全ての準備は完了した。あとはプログラムが自動的に動くのを待つばかりである。最終的なキーを押す前に彼は世界を見渡した。汚れきった世界、卑しい人間ども、食うことしか知らぬ獣ども、救うに足りるものは何もないと思った。人間どもは根絶やしにしないとすぐにセックスして繁殖するから一人残さず殺さねばならぬと思った。
佐藤はパネルのボタンを叩いた。アメリカの核ミサイルが三十秒後に発射される。沈黙の時間が過ぎ、五十発の核ミサイルが発射された。それを見届けると彼は数百メートル下の地下室へ降りていった。そこにはドーム内の機器と同期されたパネル機器が揃っていた。彼は隠されたボタンを叩いた。するとドーム内に毒ガスが放射され、十人の部下は数秒で死亡した。ロシア、中国、北朝鮮、イランの核ミサイルが連鎖的に発射され世界中の至る所が火の海になった。モニターで東京が壊滅的状態であることを確認した。

 この世にいるのは彼一人になった。完全な孤独がなければ意識は混乱する。人の存在は彼にとって「我」を客観化させるものである。彼は思った、「我」を客観化させるのは神だけでいいと。第三次世界大戦はなかった。何故ならそれを語るものがいないからだ。彼にとって何が過去で何が現在で何が未来なのかは意味を持たなくなった。彼から時間が消えた。時間も他者も比較によって生じるもの。もはや比較する対象を永遠に失った彼は本来の意味での「存在」となった。これは彼が自ら激しく望み、その結果、得ることが出来た境地であった。彼は生まれて初めて恍惚を感じた。永遠の孤独とは何と素晴らしいのだろう。私は美しい、躊躇うことなくそう言える彼がそこにいた。生や死を超えた存在に彼はなっていた。全宇宙に独り在るとはそういうことである。彼は実は宇宙の存在というものを疑問視していた。宇宙の年齢は137億年と言われていた。だが彼にとっての真実はそれではなかった。彼が七十年生きるとする。それならば宇宙の年齢も七十年なのだ。何故なら彼が生きている時だけ宇宙は存在するからだ。彼の生とともに宇宙は生まれ、彼の死とともに宇宙は消滅する。死後に宇宙が存在する理由も義務もない、それが彼にとって合理的だった。彼の意識こそが存在する唯一の権利を持っていた。彼には「変化」というものがなくなった。「変化」がなくなったとき時間は消滅する。時間とは変化の別称だったのだ。ゆえに彼は永遠の存在となった。

 彼は地上へと上がっていった。十名の死体を確認した。ドーム内のスペースから燃え盛る東京の光景を眺めた。世界は容易に滅びる。彼はそう改めて確信した。滅びこそ真実、死こそ真実だ。七十億の死を彼は実感した。生き残りはいるかもしれない。いたら殺すまでだ。彼の意識内に生命の存在はなかった。彼にとっての真理は全てが消滅したということだ。
その後、火災が収まるまで数週間ドーム内にとどまった。外界は死の灰が降っていて昼間でも暗かった。その暗がりの中へ特殊な装甲車に乗って佐藤は走り出した。死と破壊が満ちていた。こうでなければならぬ。彼は恍惚とした表情をした。彼の宇宙は全存在そのものである。「人」はこれを狂気という。だがもうその「人」というものは存在していない。人がいなければ罪もない。神と彼しかこの世にいないと確信していた。この地球的破滅によって神は目覚めるだろうか。そもそも神は人間に関心があるのか。だが彼はこの有史以来の壊滅で神は微睡みから覚めると信じていた。荒れ果てた残骸の中を走っていくと、黒焦げになって損壊した人間の死体がごろごろと転がっていた。かつて人間だったものに汚染されたこの地球が浄化されて美しくなった。柔い生物がこの強力な放射線の照射の中を生きられるはずがなかった。むろん彼と同様、核シェルターで生き延びた人はいるだろう。彼の存在を意識化して相対化させる「他者」の存在を彼は許すはずもなかった。その日、生きた人間に会うことは一度もなかった。

 何日か経ったのち核シェルターのマシーンが規則的な信号をとらえた。その信号を解読すると、いくつかの地域からの救助信号だった。それは日本、韓国、中国、ロシア、アメリカ、その他を含んでいた。彼は再び核ミサイルをハッキングしてその地域に向けて繰り返し発射した。そんなことが何週間か続いた後、その信号は途絶えた。彼は漸く満足し、これで使命を果たしたと思った。唯一無二になった彼は時間を支配し凍結した。最後の地球人となった彼は自分を絶対化した。絶対的な彼が張り合う相手としたら神しかない。
「神は起きているのか? いつまで微睡みから醒めぬのだ。死んでもいい存在があるとすれば、それは神だ。神が死ねば私以外の全ては消滅するだろう。神に引導を渡す。永久に続くと思われた神の国はここに滅んだ。死以外何ものも支配していない。美しい世界。この世に滅びの美を見出すために私は生まれた。私こそ美の体現者だ。存在と無は私の掌中にある。私はゆらぎである。存在と無を操るゆらぎである。私はこの世の真実を体現している。私は永遠に生き、存在の存在となる」

 地球の果てで佐藤は神と対峙していた。
「地球人は滅びた。この地球で意識を有するのは私だけである。地球以外の天体に知的生命体がいるのかどうか私は知らない。地球人が滅びただけでは神は微睡みから覚めるには足りないかもしれない。それでも問いたい。宇宙の存在は必然なのか? もっと簡潔に言えば存在は必然なのか?」
《宇宙の存在は偶然である》
 嵐の中でもはっきりと聞こえる『声』が発せられた。
 これは私の外側で発せられた『声』なのか。それとも私の脳内の幻聴なのか。『声』は続く。
《あなたたちは『空(くう)』から自然発生的に生まれた。それは偶然であり何の意味もない。神と呼ばれる私は時空の果てで存在している。つまり私には時間も空間も意味を持たない。私には虚無がない。永遠に存在を続ける。あなたたちは時間の中でいろいろと変化する。生や死は変化の状態に過ぎない。私は必然でもなく偶然でもない、それを超える存在である。あなたたちのように変化そのものであり変化せざるを得ない存在がそれを問うのは無意味である。私を理解するのは永遠に不可能であろう》
《万物の総量は過去から未来まで変わらない。過去とか未来とかいうが実は時間も流れてはいない。ただそれが際限なく変化するから時間が流れているように見えるだけである。あなたがたは変化の過程で生まれた一瞬の瞬きである。それ以上でも以下でもない。変化そのものである。万物は流転するというが私にとっては、万物は静謐である》
 彼は耳をふさいだ。だが声は外側でも内側でも鳴り響いた。
「あなたには死はないのか。私はあなたを殺したい」
《生死を超越しているものを殺すのは不可能だ。逆にあなたを殺すのは実に容易だ。あなたが死んだ時点で地球は消滅させよう》
「地球が消滅するなら喜んで死のう。地球の生命は死に絶えた。もはや地球が存在しなければならない理由はない。だが神も存在する必要はないのではないか。私は神と刺し違えたい。ともに消滅するのがよかろう。死の底へ堕ちていくのがよかろう。愛する死よ」
 彼はナイフで頸動脈を切った。血が吹き出し全身を染めた。意識が薄れていくのが分かった。そうか、これが死か。恋焦がれていた死か。彼は自らの死と宇宙の死が運命づけられているのを実感した。全ては滅びる。存在すらも滅びる。永遠の虚無こそが真実なんだ。
 彼は薄れゆく意識の中で大悟した。

 北川健一は佐藤隆史の物語を読んだとき、自らと共感できる部分が多いことに驚いた。そして彼がどの方向へ行くのか危ぶんだ。小説とはいえ、もし仮に現実世界で自己表現をすれば過激な結果にならざるを得ないと思った。そしてその危惧は現実化することになった。

 北川健一はあるメンタルサイトで別の人物に巡り合った。
 その人物は武田雅治と言った。彼はそのサイトで説法するために、自らを主人公として小説の形式を借りて投稿していた。
 これから先は彼の書いた物語である。

         3

 武田は街角で説法した。
「全てのものは移ろい滅びる。過去も現在も未来も幻である。あなた方は幻の中を漂っている幻影である。この世界は空中楼閣である。確かなものは何もない。虚無を信ぜよ。されば為すべきことは何か分かってくる。我々は何ものでもない。我々が有するものは何もない。我々には土地も財産もない。資産家を名乗る人を許してはならない。それは偽りだからである。人の子に地上で生きる権利を有している者は一人もいない。人の子が土地を持ち、財産を持っているというのは錯覚である。土地を差し出せ、財産を全国民で分割せよ。財産の相続を無効にせよ。血縁関係は無意味である。DNAが親に似ているからと言ってそれがどれほどのものか。子に親の財産を相続する権利などない。そもそも財産は全ての人間のものであると同時に誰のものでもないからである。親が死んで体が塵に分解されるように、財産も分割せよ。あなたの財産はあなたのものではない。全ての存在は無駄である。無駄でない命なんて何一つもない。救うべき命など何一つもない。教会も病院も必要ない。重い病気にかかったら、それが天命と諦め、無駄なあがきをするべきではない。重い病気にかかったら死ぬのが自然だからである。私は神の子ではない。だから病人を治すことはできない。盲しいの目を開かせることはできない。石をパンに変えることもできない。イエス・キリストも奇跡を起こせなかった。彼もただの人間だったからである。後世が彼を神の子にした。私が言いたいのは何も信じるなということである。この世に信じるべきことなど何もない。愚か者はすぐに信じたがる。信じれば自らの苦悩から逃れられるからである。宗教に身も心も売り渡してしまえば悩みはなくなる。自ら洗脳されたがっているのである。私は人の子であり、神の子ではない。イエス・キリストが自らを神の子と名乗ったのは自我の妄執であろう。さもなければ狂人である。神の子は迫害され、狂人は隔離される。イエス・キリストが磔になったのは当然である。そして『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫んだのは彼が宗教家という名の狂人だった証拠である。
 現代社会で信奉されている科学も宗教の一つである。科学は理性によって、この世のからくりの大部分を解明するであろう。しかし何故そうなのかということには一言も発しない。それは科学の領分ではないからだ。何故、我々が生まれ、どのように生き、死んだらいいかということに科学は答えようがない。
 我々には原罪などない。無垢のまま生まれ、罪を犯し、無残に死んでいく。誰もが宿命を背負っている。虚無を信ぜよ。沈黙を信ぜよ。死を信ぜよ。全てが無となる世界が迫っている。その日は近い。我を信ぜよ。虚無から生まれた我という幻影を信ぜよ」
 武田は静かに歩き出した。その後を数名の男女がついていった。
 彼は他の場所でも説法し、やがて二十人以上の人を引き連れていくようになった。
「我についてくるものは幸いである。その先には『無と死』がある。我々の目標は自害することである。それにより意識は消滅し身体は腐って土に還る。その日は近い。死を受け入れて無の世界に漂うのが我々の唯一の生き方である。それ以外ない。年老いて病気になって死ぬ運命だけは避けねばならぬ」
          
 北川はある小説投稿サイトで小沢慶子という女性に巡り合った。
 これは彼女の書いた自らを主人公とした物語である。

          4

 慶子は女優であるが、やや特殊な部類の女優に属する。女は全て女優であると言えばそれまでだが、いわゆるAV女優と世間では言われている。慶子はまだその世界に入りたての新人女優である。今日も女性専用車両に乗って聖なる仕事に行く。彼女が何故、普通車両を避けるのかは別に触られるのが嫌なわけではない。痴漢より痴女の方がこの世には遥かに多いと彼女は思っているが世間の常識ではそうではない。彼女は嘘くさい常識が嫌いだったが、常識はこの世で生きていくのに役立つ。それに従っていれば身を守れる。女にとっては誰にどこを触られようと感じさえさせてくれればそれでいいのだ。誰の性器であっても男であればいいのであって性器に変わりがあるわけじゃない。入れてくれて感じさせてくれれば痴漢だろうと何だろうと構わない。だが彼女の容姿は誰が見ても清廉な感じがして、業界では清楚系なお嬢さんと言われていた。顔の美しさと心の美しさは比例しない。だが美しいとはなんだろう? 彼女は誰が見ても美しかったが、その心は美しいと言えたかどうかは分からない。おそらく心に対して美しさという概念は当てはまらないのだろうと彼女は考えていた。心というのは常にわがままで自由を欲している。ただそれだけのものだ。
 別に女性専用車両でなくても構わない。だが何日か前、満員の普通車両に乗っている時、近くのOLらしき女性が男の手をつかみ「痴漢です!」と叫んだ。男はおろおろとして「違いますよ」と言ったが、次の駅で女性に引っ張られて車外に出された。慶子は目の端でその様を眺めていたが、その後の男性の運命がありありと分かっていただけに憐れに思った。何よ、鬼の首でも取ったみたいに。触られて減るものじゃないし。触らせてやればいいじゃないの。慶子は女の欲情を隅から隅まで知っているだけにそう思った。何のために乳房やクリトリスがあるの。男に触られて感じるためにあるんじゃないの。誰の男性器でも変わりがあるわけじゃなし、どんどん入れさせてやればいいじゃないの。贅沢言っちゃだめだわ。女がわがままになったから男が弱って少子化になったのかもしれないと彼女は思っていた。女にとっては誰の精子でもいいの。子供が生まれさえすれば。男は自分の子かどうか異常に気にするけど、女にとっては誰の子だって自分の子だからね。女は増えさえすればそれでいいの。男はつくづく馬鹿に出来ていると彼女は思っていた。男の草食化は男が女をまるで理解していないから起こった。女はいつも濡れているのを知らない男が多い。女は襲われても濡れるのだ。強姦されたって騒ぎ立てる女は自分大好きの馬鹿だ。誰の精子でも有難がらなければだめよ。犯された形跡などすぐに粘液が排出する。妊娠したら産めばいいじゃないの。育てられなければ乳児院に預ければいいの。女は妊娠する性であって産めなければ価値がないのよ。
 慶子はあの痴漢と疑われた男が身を滅ぼすのを知っている。たかが触られたくらいで騒ぎ立てる馬鹿女。彼氏には体の隅々まで舐めさせるくせに。汚いところまで舐めさせるくせに。彼氏じゃなければ犯罪者にするなんて理不尽だわ。男は三日で精液がパンパンになるの。それを理解しなきゃ駄目よ。愚かな女が多すぎる。男もそうだけどね。あぁ、みんな死んでくれないかな。慶子は呪詛した。私の心の中は誰も知らない。美しい私の心の中は誰も知らない。私の心は美しいのだろうか。

 今日の仕事はいわゆる「初裏」というやつである。海外のサイトを通じての無修正ビデオの撮影である。慶子は自分の性器が世界中の男の目に晒されるのを別に嫌とも思わなかった。彼女は、女性器は全ての男のためにあると思っている。現に女性器は男性器のために作られている。彼女は自分の美しい顔と卑猥な性器が世界中の男に解放されるのを嬉しがった。AVは裏じゃなきゃ意味がない。モザイクに隠された性器は男をイライラさせるだけで何の役にも立たない。かえって害である。モザイクの下に隠された、神聖な或いは卑猥な肉ビラと穴を想像して若い男は気が狂う。今夜も精液が噴水のように男性器から溢れ出るだろう。無駄な精子、受精できない精子が今夜も気が狂ったように腐っていく。その精子はあらゆる可能性を持っていた。大統領を生み、偉大な科学者や思想家を生んだだろう。だがその腐っていく精子はもう何の可能性も持たない。その男が精通してから射精した無数の精子はその一匹一匹がかけがえのない可能性と個性を持っていた。だがそれらは全て無駄に終わった。腐っていく精子はこの世の無駄を体現している。彼女はそれらの精子を思い浮かべるたび、この世が滅べばいいのにと思う。この世が消えて人間たちがいなくなったらどんなにせいせいするだろう。彼女は今まで殺人を犯してこなかったことが不思議だった。だけどそのうち自分はそれを達成するだろうと思っていた。彼女の中の殺意、破壊衝動は止めることが出来ないほど膨れ上がっていた。彼女の口癖は「死ね!」だった。全ての人が死に絶えるなら彼女はどんなことでもしただろう。彼女の美しい容姿からは想像もできないほど、どろどろとしたマグマが心の中でぐつぐつと沸騰していた。だが彼女は、それは自分に限った特別なことだとは思っていなかった。誰の心の中でも意識するしないに関わらず暗い闇があるものだと思っていた。彼女には死んでほしい人が山ほどいた。テレビに不細工な芸人が映るたびに「死ね! 死ね!」と叫んだ。こいつらが決してその呪詛で死ぬことがないのに腹を立てていた。彼女は道を歩くたび、不快な人間がいると「お願いだから死んでくれ」と心の中でつぶやく。面と向かって「死ね!」とは声に出して言えない。不自由な世の中だ。道を歩く男たちは大抵、彼女を振り返る。その清純そうな容姿は男を引き付けて離さない。彼女は全ての行為は殺意から生じると思っている。マザー・テレサの慈愛とヒトラーの狂気は同じものだ。どちらも錯乱した精神が生んだものだ。いや錯乱などしていない。明晰な殺意から生じたものだ。慈愛と殺意は同じものだ。マザーは死を願いながら人々を看護しただろう。ヒトラーはユダヤ人が悶え死ぬのを何回夢見ただろう。誰もが自分への、他人への殺意に身を悶えさせている。彼女はそう感じていた。自殺は実は他殺行為だ。自殺と他殺は同じである。誰もが自分と他人の死を願って生きている。それ以外、生きる糧はないのだ。彼女は撮影現場で男優に中出しされたとき殺意を覚える。しかしピルを飲んでいなければ、それは生命を生む行為なのだ。その矛盾に彼女は唇と陰唇をゆがめて苦笑する。生と死も同じものだ。生の果てに死がある。死の果てに生がある。人の目的は死ぬことだ。それは必ず叶えられるだろう。

 彼女がAV女優をやっているのは自分の心が世間のありふれた良識からかけ離れているのを実感していたからだともいえる。彼女は中出しの仕事をしているが今後も一生ピルを飲んでいこうと思っている。仕事を辞めても決して妊娠することはない。世界の人口爆発に寄与する考えはない。主婦という名の性奴隷は子供を産むのが仕事のように飽くなきSEXをしては子孫を量産している。これでは世界は滅びない。世界中の人間がSEXをするのを止めれば容易に世界は滅びる。しかし性欲という魔力に逆らえる人間などいない。修道女の心の中は性欲で満ちている。欲求不満を抑圧し思考停止し神に仕えている気になっている。肉を喰らい、妻帯している生臭坊主は数知れない。この世は嘘がまかり通っている。AV女優も嘘にまみれた職業だが、少なくとも自分は自身に正直に生きたいと思う。彼女の場合、自分に正直に生きることは破滅的に、破壊的にならざるを得ない。彼女はいつか自分が凄惨な血の海でのたうち回っているだろう姿を想像する。
 
 今日の撮影は凌辱ものである。彼女のような清楚な美人が犯されるのに男たちは興奮する。清楚な女性なんて世界中どこを探してもいないのを男たちは分かっていない。どの女性も心の中はどろどろだし汚い性器を持っている。特に修道女のように抑圧された女性はキリストによる世界の破滅を願っている。修道女ほど矛盾した存在はいない。キリスト教に限らず宗教に関係する人間はみんな狂人だ。神様が多すぎる。宗教戦争を起こして滅んでしまえ。凌辱ものはAVの定番であるが彼女は若くして目が肥えていて、ただの凌辱ものは面白くないと感じている。AVの現場でどんどん殺人が起こってほしいと考えている。たかが性器を挿入してこすり合わせて膣に射精するだけでは全然面白くない。だいたい男は膣に挿入するだけで満足なのだろうか。もっと女性の体を分解し解体したいとは思わないのだろうか。子宮を取り出しその中に直接精液をぶちまけたいと思わないのだろうか。彼女は男の凶暴性を画面に映し出せないかと思っている。一作ごとに女優が死んでもいいではないか。殺人をこの世でありふれたものにする必要があるのではないか。十九歳になったばかりの少女である可憐な彼女がこのようなことを考えるのは不自然だと思われるかもしれない。だが人の心の中は謎である。混沌に満ちている。それが理解できないのは思考停止した大馬鹿者だ。人が願うのはいつの世も人の死、それが現実だ。
 だが現実には撮影のたびに女優が死んでは商売が成り立たない。それ以前に殺人で逮捕される。彼女は今日も嘘くさい演技をするのかと思うとうんざりする。だが無修正のAVは男性器と女性器がもろに映るからそれなりに真実があると思う。人間の性器ほど生々しくて獣くさいものはない。彼女は自分の醜怪な性器を見て、美しい顔とのギャップに目がくらむ。あぁ、誰か殺してくれないかなぁ。彼女の死への衝動も限りなかった。

          5

 北川健一は自分のサイトに三人を誘った。そこで彼らは「虚無への愛」でつながっているのを確認した。彼らは自分の考えを小説風に、或いは説法の形にして発表したのだった。彼らは互いに読み合い、同じ種類の人間だと確信した。
 佐藤隆史は言った。
「私とそのグループは近々、現実世界へのテロを行う。空想だけではこの世は滅びない。この世には死が必要で、人は爆死するのが一番の幸せなのだ。砕け散って肉片に還るときに恍惚を感じる。宇宙の源に還るのは母の胎内に還るようなものだ。私は宇宙の塵となって宇宙ごと消滅することを願っている」
 武田雅治は言った。
「生命はいずれ滅びる。現在テロをすべき理由もない。虚無を信じれば全ては許せる。存在の為すあらゆる害悪もいずれ消滅するだろう。この世は陽炎のようなもの、またたく幻であり、存在と無の間を漂う幻影である。全てに死が訪れる。この宇宙もまた死滅する。あなたがテロを起こすことで、その生命と自由は著しく危険にさらされる。静穏に一生を終えれば、あなたの願望は達せられるだろう。あなた自身が死ぬことで、あなたの思う宇宙も消滅するのだから」
 佐藤隆史は言った。
「遠い未来の宇宙のことを言っているのではない。主観的な宇宙の話をしているのでもない。現実の目の前の世界のことが問題なのだ。貧困と憎悪が蔓延する社会を直ぐにでも変えるにはテロが必要なのだ。テロには屈しないという指導者たちを爆死させることが必要なのだ。それが彼らのためでもあるからだ。神を微睡みから覚ますには七十億人の死が必要だろう。それは夢想と思われるかもしれない。だが一人でも殺人を犯すのとしないのでは天と地ほどの違いがある。私は世界に死をもたらす殉教者である」
 小沢慶子が話し始めた。
「私たちを結び付けているのは存在への嫌悪なんだわ。虚無への徹底した愛というのかしら。私っていう人間は神様の悪ふざけで生まれたとしか思えない。性欲と殺意という相反する欲望でどうにかなりそう。みんなが私のことを美しいって言ってくれているけど、心の中の醜さは誰も知らない。そもそも醜いのかどうか分からないほど可笑しいの。殺人が常態化されるような世の中になればいいのにって思う」
 北川健一が言った。
「一度、この現実世界で会ってみないか? 佐藤さんの暴走は止める必要がある。テロを起こすことで無関係な命が失われる。あなたの危険な思想はあなた自身の中でしか通用しない。夢想を現実化しようとすると必ず身を滅ぼして破滅する」
 佐藤隆史は言った。
「無関係な命なんてない。分からないかな。原罪さ。生まれてくること自体が悪なんだ。そもそも生まれてくる必要もないのに何故、生まれてくるんだ。何の用があってわざわざ生まれてくるんだ。無用だろう? 邪魔なんだ、生命なんて。どうせ死ぬのに何故生まれる? この世界にあまねく不幸に関係していない人間なんていない。家畜と称して豚や牛を好き放題に食べ尽くす権利なんて人間にはない。生まれたばかりの赤子だって、日々発生している凶悪な事件に関係している。この世に生まれてくること自体で、他の存在に悪影響を及ぼしている。私に課せられた運命は他の存在を消滅させることだ。死滅させるだけではいけない。腐敗は美しくない。消滅させることが必要なのだ。全くの無に戻すのだ、そのためには私はどんなことでもするだろう」
 武田雅治は言った。
「生きていることが無駄なのは分かる。だが他の人は人生が意味あるものと思っているかもしれない。それを否定する権利はあなたにもない。あなたの言う『七十億人の自殺』も空虚な夢想だ。それは神に対する反逆ではなくて、生存本能に対する抵抗に過ぎない。神には関係ない話だ。そもそも神も絶対者も存在しない。現在という幻影があるばかりだ。何をしても無駄だ。虚無を想えば全ては救われる。この煩雑な世の中に関わるな。人一人を殺しても七十億人を殺しても大差ない。それで何が変わるというのだ。神がいたとしても、その微睡みから目覚めるわけがない。神は人間に関心がない。現実に存在するかどうかもあやふやな人間のために眠りから覚めるものか。戦うな。虚無を想え。全ては無なのだ。何物も存在しない。存在しているかのように見えるだけだ。夢を見ているに過ぎない」
 小沢慶子は言った。
「神様に興味ないわ。私は目の前の現実をはっきりと感じている。神様がいようといまいと、この世は存在している。空理空論を重ねても全く意味がないわ。そして私はこの世を十九歳にして飽き飽きしている。全ての人の死を願っているの。哲学的に殺すのではなく、生身で殺したいの。血が見たいのよ。分かる? 太平洋級の血の海が見たいの。あぁ、死んでくれないかな、みんな。殺すのは面倒だわ。自殺してくれないかな。佐藤さん、テロを起こしてよ、言葉だけなら何とでも言えるわ。実際に人を殺してからじゃなければ、あなたの言動は信用できないわ。あなたの小説は観念的な一人遊びなのよ。私の方がよっぽど人を殺せるわ。私のバッグの中にはいつでもナイフが入っているしね。あなたは人一人も殺せない気がするわ。観念じゃ人を殺せないのよ。分かる? 十九歳の娘にこんなこと言われて悔しくない? 虚無を欲するなら目の前の一人から殺していかなければ先には進まないわ。私は肉体を持った『存在』というものに嫌悪しているの。私は虚無しか愛していないわ」
 佐藤は言った。
「近いうちにテロが起こるだろう。日本中が恐怖に震える。誰一人安寧に眠ることが出来ないようになる。君たちの望む死を送り届けてやろう。君たちは虚無を欲しているのだろう。それなのに何故生きる。何故自殺しない。生存本能か? 虚無を欲しているのに生きているのは明らかな矛盾だ。自爆せよ。私が手本を見せてやる」
 慶子は言った。
「いいわねぇ、あなた本当に自爆するの? 小説みたいに部下だけ殺して生き残るんじゃないでしょうね。どっちにしたって百人程度しか殺せないでしょう。あなたの小説は滑稽なのよ。でもね、真面目に書こうとすればするほど滑稽になるのも小説っていうものだわ。真面目に生きている人間が滑稽なようにね。あなたの気持ちはわかるけど読むに堪えないわ。私の小説もどきの方がましだわ」
 佐藤が言った。
「君のは小説じゃなくて手記だね。言いたいことを書いただけだ」
「そうよ、でもまだ続きがあるのよ。続きはこの現実世界で起こるでしょう」
 北川は言った。
「今度の日曜日、みんなで会えないか? こうして文字だけで会話するのはいろいろと誤解が生じる。面と向かっては言わないことも平気で書いてしまうのが文字だけの世界の悪い点だね」
 佐藤が言った。
「会う必要を感じない。私たちはそれぞれ相手の文章を読みあった。それ以上の真実が会うことで生まれるとは考えられない。会うことでさらに誤解が生じると思う。連絡を取り合うのはいいがね」
 北川は言った。
「私たちはあなたの暴走を防がなければならない。起こってしまってからでは遅いからね。あなたが自爆できるかどうかも分からない。警察に捕まって死刑を言い渡される可能性もある。あなたはそんな事態に堪えられるだろうか」
佐藤は言った。
「でも君たちだって容易に暴走しそうじゃないか。私よりたやすく暴走する人がいそうだね。例えば小沢さんとか」
 小沢は言った。
「そうね。その可能性はあるわ。だけど私はテロを起こすつもりじゃないわ。ただの殺人事件よ、でも私以外起こせない殺人ね。私は他人と自分の血の海の中で泳ぐのよ。臓物でまみれた海の中でね。そこには死がみなぎっている。死んだだけでは無にならないのは知っているわ。私たちを構成していた原子が再びこの地球かどこかで生命体になるかもしれないしね。虚無は簡単じゃないのよ、この宇宙ではね。でも私は自分の死んだ後の世界は関知しない。死ねばその人にとっての全ての存在が終わるのよ。東京も日本も地球も宇宙も全部消えるのよ。私はそれをずっと願って生きてきた。十九歳はもう限界だわ。あなたたちのように二十代後半まで、生き恥をかきながら虚無を願って生きていく気はないわ」
 北川は言った。
「やっぱり僕らは会う必要があるんじゃないかと思う。文章を書くたびに『言葉』が君たちを汚染していくように感じる」
 北川はさらに一時間以上費やして三人を説得し、ようやく会う確約が取れた。

 約束をした喫茶店で北川は早めに行って待っていた。会うという行為は確かに誤解を生じさせる。どんなに立派なことを話していても容姿の印象でどうにでもなるというのは真実だ。現に彼は他の三人に対して主観的な印象を作り上げてしまっている。地味でおとなしそうな人が残虐なことを考えているのは大いにあり得るし、派手で攻撃的な文章を書きこんでくる人が優しく思いやりに溢れていることもある。まあ自分でも自分のことが謎なんだから、他人の心の奥底など分かるわけがない。
 最初に現れたのは佐藤隆史だった。二人は互いの名前を聞き合った後、残りの人が来るまで一言も話さなかった。次に武田雅治が来て、最後に小沢慶子が来た。長い沈黙が続いた後、話を切り出したのは慶子だった。
「お通夜じゃあるまいし、誰も発言しないなんて、何のために集まったのか分からない。予想通り陰気な人たちだわね。私がAV女優をしている小沢慶子よ。あなたたちの軽蔑する職業をしています。でも私もあなたたちを軽蔑しています。あなたたちは頭の中で『無』を思うだけで、体で考えていない。人を殺したくて仕方ないのに行動できない。小説や説法することでごまかそうとしている。私は違うわ。今、あなたたちを殺そうと思えば殺せるのよ。私のバッグにはナイフが潜んでいる。これを出しましょうか? あなたたちは人を殺したくて仕方なくても、人に殺されるのは嫌がるでしょう。おかしな話だわ。『死』に変わりがあるわけじゃないのにね。私がナイフをあなたたちの喉に突き立ててあげましょうか。するとあなたたちは例外なく逃げる。無の世界に行けるのに、そのチャンスを無駄にしてしまう。逃げないという人がいたら挙手願います」
 誰も手を挙げなかった。
「そうだと思ったわ。あなたたちは自殺までは許しても、人に殺されたり、事故で死ぬのは嫌なのね。勝手なのよ。人を殺したら自分の命も捧げなきゃいけないわ。一人でも殺したら自分の命で贖うのが自然よ。その点で今の刑法はどうかしているけどね。殺された人間よりも殺した人間のほうを保護している。まぁ、死んだほうはもうそれで一巻の終わりだからね。死んだ人間は保護しようがない。明快って言えば明快だわね。二人殺しても死刑にならない時があるわよね。少年とか精神障害者とか不幸な生い立ちとか環境とかね。私がいつも思っているのはたとえ軽犯罪でも死刑にしろっていうことなの。法の手でどんどん人を殺してほしいわ。人が多すぎる。性欲に塗れた人間が多すぎるから間引きしなくちゃね。本当に死んでほしいわ、みんな。さあ、誰の喉にナイフを突き立てましょうか」
 三人はこのうら若い女性の発する言葉についていけなかった。この美しい顔からこのような言葉が発せられるのに心がついていけなかった。
北川は思った。『だが考えてみれば口が話す前に脳が考えるのであるから顔の美しさなんて全く関係のないことだ。美しい脳なんて普通言わないだろう。人は人間の表面だけに惑わされる。それで歴史さえ変わる。愚かだ』
すると武田雅治が手を挙げて「私の喉を裂いてください」と言った。
「私は既に何者でもなく存在と無を漂う亡霊のようなものだから殺されてもなんとも思わない。この世はいずれ壊滅する。それが早いか遅いかの違いであって、私がここで死んでも何も変わらない。あなたが刑に服するだけだ」
 慶子はくすっと笑いながら「私があなたなんかのために捕まるわけないじゃない。無駄死にだわ。そこまで馬鹿じゃないわ」
 佐藤が言った。
「あなたは私たちをもてあそんでいる。何故攻撃的になる? 私たちの本質はあなたと同じだと思う。あなたは確かな現実世界を生きていると言う。だけどそうだろうか。この世が何故このような形態で存在するのか考えたことがありますか? そもそも何故、この世は無でなくて存在しているのか。これは誰にも、おそらく神がいたとしても答えられない質問だ。あなたも私たちも自分のルーツを知らない。どこから来てどこへ行くのか、という問いは永遠に私たちを苦しめる。幼いときは母親から生まれたという答えで満足できるだろう。思春期を迎えると、そうした一切合切のことが分からなくなる。青春期を過ぎるころには現実世界の出来事が忙しくなり、あまりそういうことを考えなくなる。社会に出るとそんなことで悩むのは馬鹿馬鹿しくなる。だがその問いが解けたわけではない。その謎は死ぬまで付きまとう。死の瞬間でさえどこへ行くのか分からない。実に人間とは愚かな動物だ」
 慶子が言った。
「演説は終わったのかしら。私は十九歳だけど現実に起きることにしか興味がない。そして現実に辟易しているのよ。その現実にはあなたたちも含まれるの。男っていうのはね、溜まった精液を出すことにしか興味がないの。そして女はいつも粘液を吐き出して待っている。増えるだけ増えて何もかも食い尽くして死ねばいいのよ。死ぬか消えるかどちらかにしてくれる! あぁ何て面倒なのかしら」
 武田雅治は慶子の手に握られたナイフの刃を自分の喉元に突き立てた。
「人を殺したいんだろう? やってみるがいい」
 武田はそれ以上何も言わずに慶子の目を見つめていた。慶子はその視線に耐えきれず目を逸らした。
「死にたい人を殺したって意味はないわ。放っておいても死ぬでしょう。私が殺したいのは生に執着している人たちよ。ここにいる人はみんな生にうんざりしている人だから私の対象にはならないかもね」
 佐藤は言った。
「私は誰よりも生に執着している。小説に書いた通り全ての人が死んだ後にただ一人だけ生き残りたいのだ。私を殺したいとは思わないのか?」
「あなたは生に執着していない。すぐにでも自殺しそう。だからあんな小説を書いたのだわ」
 慶子は一人一人の顔を眺めながら「あなたたちは殺す価値はないわ」と言ってナイフを下した。
 武田は言った。
「殺さなくても人は死ぬ。人の人生は瞬きに過ぎない。なぜそれほど死に拘るか分からない。あなたは生きていると同時に死んでいる。あなたは死を内包している。誰もが死に向かって進んでいる。生にも死にも拘らない方がいい。虚無を想え。この世は幻想でしかなく存在してはいないのだ」
 佐藤は言った。
「武田さん、私はあなたのように生きながら死んではいません。この世は幻想かもしれませんが、私にはこの世に決着をつける使命があるのです。私の生を賭けてこの世を消滅させたい。この世が消滅してからでなければ死ねない。それを見届けて私は死にたいと思う。私の小説は確かに夢想であったかもしれないけど私にとっては現実なのです」
 慶子は立ち上がりながら言った。
「もう時間だから帰るわ。もしもまた会えるような時があったら会いましょう。あなたたちは私の周りにいるような下らない人たちじゃなさそうだから」
 彼女は長い黒髪をなびかせながら去って行った。

        6

 その二日後、北川健一が七時のニュースを見ていた時である。テロップにニュース速報が流れた。
「霞ヶ関駅で爆弾が爆発、数十人が巻き込まれた模様」
 画面が切り変わり、現場からの中継になった。レポーターが興奮した表情で話している。
「今日の午前七時ごろ霞ヶ関駅で爆弾が爆発し多数の死傷者が出た模様です。テロの可能性もありますが犯行声明などは出ていないようです。繰り返します。今日の……」
 その直後に携帯が鳴った。佐藤からだった。
「私の仲間が自爆した。これは第一歩に過ぎない。日本各地でテロは常態化していくだろう。これは現実への宣戦布告であり、この世を消去しようとする行為である」
「取り返しのつかない暴挙に出ましたね。かけがえのない命が失われたのですよ。もう引き返せない。夢想は夢想のままでいいのです。そこから現実へ抜け出そうとすると必ず軋轢が生じます。なんという愚かしい行為をしたのでしょう」
「私から見れば偽りの平穏な日々を過ごしている人こそ愚かしいと言える。偽りの平和をかき乱し痙攣させなければならない。テロは続く。飛行機の中で列車の中で病院の中で官邸の中で、恐怖は繰り返される。我々の前に国民がひれ伏するまで続くだろう。だがまだその先がある。日本という国家を転覆した後、我々の目標は世界に向けられる。そして世界中の人間を殺戮する必要がある」
「なんてことを、どうかしている。小説の中だけの話じゃないのか。現実へ浸潤した夢想はいまや妄想へと化している。君は現時点でも捕まったら死刑だ。君に自由はない。君は自らの手で自由を放棄したのだ」
 突然電話が切れた。すると同時に小沢慶子から電話がかかってきた。
「とうとうやったわね。人は容易に死ぬものよ。蜘蛛を踏み潰すくらい簡単にね。死んだ人にはそれだけの理由があったのよ。不条理だと言う人には言わせておくわ。偶然の蓄積を運命というのよ。彼らが死んだのは運命ね。でも地下鉄で爆弾を爆発するくらいなら、サリンを撒けば手っ取り早く大量の人間を死滅させることが出来る。自爆なんて旧式のやり方をするのは愚か者の行為だわ。でも肉体を肉片にまで解体したことは褒められるわ」
 北川が言った。
「君は自分が何を話しているか分かっていますか。もはや私たちの夢想は現実となった。夢想はそれが現実とならない限り自由だった。しかしそれが現実となった時点で『現実』からの制裁を受けることになる。警察に逮捕され死刑になるのはほぼ確実だろう。君には夢と現実の区別がはっきりとなされていない。現実があって初めて夢があるんだ。夢が先にあって現実があるのではない」
 慶子が言った。
「説教を始めるの? 誰だって多かれ少なかれ夢と現実を混同しているわ。殺意と殺人には大きな差なんてないの。現実に人が死ぬか死なないかなどどうでもいいことだわ。一億人を殺したい願望と一人を殺害した事実の間には差異などないの。よく二人以上殺したら死刑になるっていうわね。これ可笑しいわ。殺意なんて誰でも持っていること。二人以上殺したから殺意が強いなんて言えないわ。一人も殺していなくても殺意が桁外れに強い人だっているわ。殺意なんて持っていなくても殺人を犯す人だっている。法律で一概に決められないのよ、人の心ってやつはね」
「君と話をしても埒が明かない。とにかく今は佐藤に連絡して自首するよう求めるつもりだ。それ以外ない」
 北川は電話を切った。するとすぐに電話が鳴った。武田からだった。
「この世界を虚無にする第一歩が記されたようだ。だがこの世はもともと放っておいても消滅する運命にある。初めがあれば終わりがある。誕生があれば死がある。無から存在が生まれたと学者が言っているが、無から存在は決して生まれない。それではこの世は何なのか? その答えは現実そのものが存在していないということだ。我々が感じている現実というものは白日夢のような幻だ。幻影の世界は蝋燭の火が消えるようにいつか必ず消滅する。私は佐藤の行動を否定しない。私の考えを結果的に具現化するのが彼のやり方だ。地球上からすべての生き物が死に絶えたとき虚無そのものを見出すであろう」
「武田さん、私もあなたたちのようにこの世は幻影だと思ってきました。でも誰もが『現実』という強固な存在を感じ、その中で生きざるを得ない。それは疑いようもない事実です。それを疑えと言うのですか」
「人生は夢だ。何をしてもよい、何もしなくてもよい、ただおぼろげな時間のみ流れる。ただ厳密に言えば時間も流れてはいない。何物も変化しなければ時間という概念はなくなる。物質があり変化するから時間が流れているように見えるだけだ。これは佐藤の小説どおりだ。さらに言えば変化しなくなった瞬間、この世は消滅する」
「私たちにしか佐藤の暴走を止められない。しかしあなたも小沢さんも彼の行為を肯定しているように見える。私にも暴走を止める力はない。警察に通報すべきなのか」
「何もしない方がいい、世界は流れるように流れる。佐藤は彼のやり方で虚無に挑もうとしている」
「では放っておけばいいというのですか」
「そうだ」
 武田は電話を切った。
 北川健一は迷っていた。佐藤の「虚無への挑戦」は理解できた。武田や小沢の考えにも共感できる。しかし無関係な人々がテロに襲われる。こんなことがあっていいのか。佐藤の妄想のおかげで多数の犠牲者がでた。彼らにはそれぞれ家庭があり家族がいる。その密接な結びつきを自分勝手な言い分で引き裂いてしまっていいのか。だが彼には佐藤を止める手段はない。彼はやるせない気持ちで瞑想に入った。意識レベルで解決できないことが瞑想に入ることで解決のヒントが得られることもあると思った。

        7

 佐藤のグループは一週間後、地下鉄半蔵門駅でサリンをまいた。死者は数百人に達し、Oの比ではなかった。Oのようにサリンをケチったりしなかった。Oの信者らは自分が助かることを前提にサリンをまいた。その愚かさがサリンのテロを失敗に終わらせた。大勢で混雑した駅構内で佐藤の信者は自爆同様にサリンをまいた。テロは必ず成功させねばならない。そのためには自分の身を守ってはいけないんだ。究極の馬鹿がOのテロを失敗に終わらせた。自分の身を案じてテロを起こすなど稀代の笑われ者だ。自分は死ぬ、しかし数百人は殺すというのがテロの王道だ。だが佐藤はそれで満足していたわけでは当然なかった。小説を具現化するというのが彼の目標である。核兵器を自由自在に操って、この世を滅ぼすというのが彼の願望であった。それにはアメリカの大統領の精神を操りさえすればいい。コンピュータをハッキングするのは幾重もの防御が施されていて困難に近い。だが大統領の頭脳は実に無防備に薄い頭蓋骨に囲まれているだけだ。軍事的なハッキングをするより頭脳を操った方が簡単であり確実である。大統領が自らの意志であるかのように核のボタンを押すのだ。我々は一度に複数の人間を操られるマシーンを手にした。これによりこの世界は私の手のうちにある。私が全てを左右するのだ。

 北川はテレビの画面に釘付けになっていた。サリンの猛毒が駅を支配していた。Oが決行した時より遥かに死傷者が出たようだ。駅の入り口は封鎖されたが、それ以前に漏れ出たサリンによって規制線が張られテレビキャスターや野次馬が近寄れない。Oの信者には自爆テロという考えはなかった。自爆テロこそテロを円滑に確実に遂行させる手段なのだ。次々と防護服を着た警察の部隊が駅の階段を降りていく。舗道に無造作に死傷者が放置されている。風が強いため規制線の外側にいた人々がサリンのあおりを受けて倒れる光景が映された。テレビの画像が乱れ、いったん撤収をする模様だ。北川は佐藤に電話をかけたが通じない。すると各テレビ局の画面が乗っ取られ、次のようなメッセージが流された。

《今回のテロは我々『ル・ネアン』が行った。我々は存在を虚無化しようとする集団である。存在は破壊され不可逆的な宇宙の塵となるだろう。偽りの存在に無を、偽りの生命に死を、偽りの平和に混沌をもたらすものである。我々の最終目標は地球上から人間という種を消し去ることである。地球を浄化することである。地球上のどこにも『安息の地』はない》

 地下鉄の駅のように危険な場所はない。大量に押し寄せる乗客を一人ずつ検査するのは不可能だ。サリンを体中に巻いた人間を見分ける手段はない。自爆した場合、地上のように拡散して薄まることはなく地下鉄構内の隅々までサリンは浸透する。何千、何万人の単位で死傷者を出すことが可能である。サリンに比べれば爆発物によるテロなど花火に過ぎない。高濃度のサリンが地下鉄に満ち満ちている。全て除染するには一か月以上かかるだろう。罠にかかったネズミが金網で水攻めに合うように何千、何万人がもだえ苦しんでいる。半蔵門駅構内と周辺は死の地帯となった。ヘリコプターからの映像に切り替わった。駅の出入り口に大勢の人間が折り重なって倒れていた。
 小沢慶子からの電話があった。
「あぁーっ、何て素晴らしい光景でしょう。これほどの死を私は待ちわびていたの。でもまだまだ足りないわ。最終的には核によるテロね。世界を破滅するために核爆弾はあるの。人と人との殺し合いこそ人間の原点だわ。人間は殺し合うために生まれてきたのよ。心の構造がそう出来ているの。血液と臓物が濁流のように流れていく。それが泉になって川となって海へと流れていく。私はその中を泳いでいく」
 北川は狂気が蔓延していると思った。というより現実そのものが狂気の産物ではないかと思った。いや、狂気とはいったい何なのか? 彼には答えられなかった。
 これだけのことが起こってしまった。数千人の命を彼は救えたのかもしれなかった。佐藤を主導者とするグループはいったい何人いるのか? 彼らが自爆テロを起こすほど佐藤に心酔しきっている理由は何なのか。結局、佐藤が書いた小説とほぼ同じように全てが実現していく。小説の中で彼は仲間を最終的には殺害した。それを自爆テロという形で再現しようとしているのか? ただ一人生き残るまで殺人をやめないだろう。彼の目からすれば非常に合理的な判断なのだろう。しかし他の人から見れば非常に不条理で不合理な犯罪だ。これを狂気と言わずして何を狂気と言うのか。佐藤にとって地球上の七十億人が邪魔なんだろう。彼は普通の人間が抑えている潜在意識を解放してしまっている。人は意識するしないにかかわらず他人に対する殺意がある。彼はその殺意を最大限に解放した。彼にしたらごく自然な行為かもしれない。だがそう簡単にはいくまいと北川は思った。

 武田から電話があった。
「私は佐藤が信じる道を進めばいいと思っている。地球は遠くない未来にいずれ終焉を迎えるだろうが、それまでにこの星を浄化するのもいいかもしれない。全ての生き物を死滅させた後に地球が滅びるのは自然な流れだ」
「それでは私たちも殺されるんですよ。それでいいのですか」
「私もあなたと同様、この世は幻影だと思っている。幻影はゆらぎであり全てが起こりうる。全てが起こった後、この世は消滅するんだと思っている」
「私たちの考えは現実社会では受け入れられないと思います。太古の昔から引き継いできた三大欲に基づく生き方を今後も続けると思います。彼らの惰性に満ちた生活は容易なことでは崩れないでしょう」
「だからこそ、佐藤はこの世に鉄槌を下そうとしているんだろう。嘘に満ちた虚偽の世界に。彼らは明日が地球最後の日だと分かっていても、相変わらず退屈な日常生活を続けるのだろう。自殺する人も少数いるかもしれないが、大多数は生活を変えないだろう。その瞬間まで自分が死ぬということが考えられないからだ。彼らに死とはどういうものか思い知らせてやる必要があると彼は思っているのだろう。死とは突然やってくる。そもそも生きていること自体が驚異な現象なのだ」
「それはあまりに傲慢なんじゃないか。佐藤らのグループがこの世を粛正する権利はない。人の命を弄ぶのもいい加減にした方がいいと思う。私は警察に告発しようと思う」
「それは我々に対する裏切り行為だ。だが君は絶対に告発しないと思う。君は我々に自ら近づいた。君の思想は我々と酷似している。君は『夢想』が『現実』になったから驚いて動揺しているだけだ。君も現実は幻影だと思っていたはずじゃないか。この世では何もかも起こり得る。この世の消滅すらもね。無が自然の姿であって、存在とは無の世界に生れ出た鬼っ子なのだ。人間は無の闇から生まれ、瞬間的に輝き、再び無に還る。これが自然だ」
「武田さんと佐藤らの違いは何なのか。僕にはよく分からない」
「私はこの世は自分が手を下さなくても自然に滅びると思っているのに対し、佐藤らは自らの手で滅ぼそうとしている。私が時間を信用しているのに対し彼らは時間を信じていない。私は自殺を肯定し、彼らは外界の死を望んでいる。最も違うのは私が私であり、彼らは彼らであるということである。これ以上の相違はない」
 武田は最後の言葉を言うとき少し笑った。

 半蔵門駅構内に中継が切り替わった。ガスマスクを付けて取材しているのだろう。報道も決死の覚悟なんだろうと思った。階段にうず高く人間が転がっている。それらを押し分けて駅のホームに入った。ホーム上は信じられないほどの死体で溢れていた。そこかしこで生あるものにマスクを付けさせ、心臓マッサージが行われていた。しかしサリンが充満した構内ではほぼ無意味であろう。毒ガスを吸引し、濾過装置を通過させ、無害な空気にして駅外に出そうという試みがなされるようだ。だがそれはおのずと限界があり、サリンに濡れた車内や構内を何日で無害化出来るか分からない。ガスマスクは一定時間以上過ぎると交換が必要で使い物にならなくなる。時間が限られているので救援活動が遅々として進まない。濃密なサリンの霧の中を作業員は死体を山のように積んでいく以外何もできない。数十人を担架に乗せて救助したが心臓マッサージは続けられている。濾過装置が着いたようだ。作業員はここでいったん撤収するらしい。直径一メートル程のホースが駅の階段を伝ってホーム上に設置された。しかし半蔵門駅に充満したサリンのガスは隣の駅のホームにまで達している。被害者は何万人になるか見当がつかない。

 北川は佐藤に連絡を取ろうとしたがつながらなかった。武田や慶子にもつながらなかった。史上最大規模のテロが目の前で発生している。東京大空襲や原爆はテロではない。だが殺人を目的にしている点は同じだ。その残虐性は何ら変わるものではない。
 起きたことは覆らない。未来を変えることは出来ても過去は絶対変えられない。現在はあっという間に過去になる。この世が幻影だと信じていた彼にも、目の前に繰り広げられる光景は衝撃的なものだった。単に幻影の海の中を漂う漂流物がかき乱されたに過ぎないとはとても思えなかった。だがそうだろうかと彼は考えた。永遠という観点から見たら、時間とは脳が作り出している錯覚であり、そもそもこの世や、生きているということ自体が錯覚なのではないかと考えてしまう。だがこの大規模なテロは錯覚というにはあまりに生々しい堅固な現実だと思わざるを得なかった。しかし彼には、だからこそかえって現実感がなかった。

 一か月後、半蔵門線は開通した。ラッシュ時に事件が起きたため死傷者は五万人を超えた。その半数以上が死亡者である。
《ル・ネアン》からの二回目のメッセージが届いた。
《永田町とその周辺にサリンをヘリコプターから撒く。決行日は指定しない。風のない晴れの日に注意せよ。日本の中枢部の機能は失われるであろう》
 この声明に対して総理が会見した。
「我々はテロに屈しない。予定通り全ての職務を粛々と遂行する。我々はテロリストの逮捕に全力を注ぐ。彼らの組織を壊滅する。彼らに対してテロがどれだけ愚劣な行為なのかを思い知らせる」
 声明が出された直後から永田町周辺に厳戒態勢がしかれ、自衛隊のヘリコプターと戦闘機が飛び交った。
 三日後、旅客機の機長からハイジャックされたという緊急連絡があった。犯人の要求は国会議事堂へ墜落せよというものだった。総理を頂点とする危機管理センターは旅客機を撃墜せよと命令した。自衛隊機が旅客機を打ち落としたが、複数の犯人がサリンを大量に持ち込んでいた模様で東京の上空をサリンが拡散した。死の雨が降り注ぎ、機体の残骸の周囲三キロが一時、立ち入り禁止になった。警察はOを超える破壊的なテロに対して無力だった。今回は緊急連絡があったから打ち落とすことが出来たが、それがなかったら国会議事堂に突っ込んでいたかもしれなかった。そのためパトリオットミサイルが官邸、国会議事堂周辺を取り囲むように配備された。政府は非常事態宣言を出した。
 またしても旅客機が一日に数回、高度を下げ国会議事堂に向かって突っ込んできた。ミサイルが発射され旅客機は打ち落とされた。あまりに簡単にハイジャックされる事態が続いたため警察と防衛省に非難が殺到した。次に渋谷、新宿がターゲットになった。警察はその動きに追いつけず渋谷、新宿周辺はサリンのガスと火の海になった。
《ル・ネアン》からの三回目のメッセージが届いた。
《東京は壊滅する。全ての人に死を与える。もともと塵だったものよ、塵に還れ。我々の目標は破壊であり破滅である。全ての存在は無意味である。無意味なものは消滅せねばならぬ》
 旅客機が錐もみ状態になって墜落し東京駅が破壊された。さらに西新宿の高層ビル群に旅客機が突っ込んでビルを破壊した。ついに政府は全国の空港を閉鎖することを決断した。しかし旅客機は日本の重要施設に次々と落下して破壊した。日本に近づくタンカーを沈没させ、空路と海路を閉鎖したために日本はまさしく孤島となった。時間がたてばたつほど日本は破滅する以外なかった。たまりかねて首相は日本領内に入ってくる全ての旅客機の破壊命令を出した。
 日本は戦後このような事態に陥ったことはなかった。
 佐藤への電話がやっと通じた。
「佐藤君、君のやっていることは国家転覆だよ。重罪だ。君は自分の命を自ら殺したんだ」
「命だって? そんなものは世界中探したってありはしないんだ。虫に意識はあるか? 君は虫を殺すのに躊躇するか? 人間というしらみが地球上を覆っているんだ。私は殺虫剤を使っているだけだ。私がホロコースト以上の行為を行っているのに私の心身は実に健康だ。時は自然に流れる。神は死んだか眠っている証拠だ。所詮生き物に興味がないのだ。
 こういう説がある。宇宙とは収縮と膨張を繰り返す巨大な脳であり、その激烈な収縮の過程で、過去も現在も未来も一瞬にして融合し、全ての罪は赦され、ヒトラーの狂気もマザー・テレサの慈愛も全て溶け合い、全てが一点に帰したとき、時間はゼロとなり、全てにおいて新たなビッグバンが始まる。それは巨大な永遠の運命だ。神もまた、その運命に翻弄されている」
「それは宇宙と神を混同しているのではないか。神なくして宇宙は存在するのか、宇宙なくして神は存在するのかということだ」
「君と話していても無駄であろう。我々にはやることがある。もっと多くの死が必要だ。この世から私以外の意識をなくすこと。これが最終目的だ。さっきの説で言えば私は無限に生まれ、無限に死ぬの繰り返しをしている。私は私として永遠に蘇る。私は無限に繰り返す自分の意識のルーツを知りたいのだ。巨大なブラックホールにこの宇宙は飲み込まれ極小の一点に達したとき、全ての過去、現在、未来が融合されゼロになる。そして改めてビッグバンを起こすのだ。苦しい過去の記憶や残虐な死刑囚の罪も宇宙がゼロになった瞬間に消えるのだ。死者は別の姿で生き返り、意識が与えられる。前世の記憶は失なわれ新たな人生を生きるのだ」
「それは宇宙論の一種に過ぎないだろう。我々はどのように無から存在が生まれるのさえ分からないのだから。極小の一点も『無』ではないだろう」
「そうだ。我々は存在に呪われている。体を構成する原子は人が死んでもそのまま残る。そんなことは分かっている。それでもなお私は虚無を求める。宇宙は人間という中途半端な出来物を創った。愛と憎悪に囚われて数知れず戦争を起こした。神は自殺すべきだ。そうすれば我々はあえて手を下すことはないだろう。君とは永遠に分かり合えない。自殺への情熱は我々と同じだろうが」
「何億年先の未来の話をしても仕方がない。我々はせいぜい八十年で死ぬんだから。この人生で終わりなんですよ。我々は天の川銀河の片隅にある小さな星に生きているだけなんですよ。子供は親とは別の存在だし、意識を受け継ぐわけではないんだから」
「人生が短いからこそ我々は急がなければならない」
「あなたはなぜ宇宙に独り生き残りたいのか。それに何の意味があるんだ?」
「私は小説に書いた通り、神と対峙したいのだ。神自身と私自身が宇宙と神について論争したいんだ。どちらかは必ず『死ぬ』」論争である」
「あなたは小説に書いた通りに実現したいんだ。小説の中だけではあなたの狂気は収まりきらないんだ」
「狂気ではない。私から見れば他の人間が狂っている。生きていく必要もないのに生まれ、大病をすれば手術や薬を飲んで生き延び、寿命が来るまでなんとしてでも生き抜くという哀れな執着を笑っているのだ」
「生き抜いて何が悪い? 人それぞれではないか。あなたは他人の生命を笑って奪う権利はない」
「私は自由なんだよ。それに伴う責任もない。私は人間を超えている。君たちは哀れな家畜なんだ。君を今、殺すこともできる。あえてそれをしないのは憐みなんだよ。でも最後には君たちは死ぬ。これは与えられた運命なんだ」
 電話が切れた。
 北川は何度もかけ直したが無駄だった。

        8

 予定通り日本を機能不全に追い込んだ《ル・ネアン》は日本中にサリンをまき数百万の人間を殺害した。濃厚なサリンは雨のように降り人々を殺した。その結果に満足した彼らは世界を破壊する次の段階へ移った。
《ル・ネアン》と名乗る、佐藤とそのグループはアメリカ大統領の脳波にマシーンを同期させていた。大統領を無意識下で操り、核のボタンを押させるつもりだった。大統領は執務室にいた。大統領の意識は佐藤のコントロール下にあった。大統領は夢見るように核ミサイルのボタンがあるアタッシュケースのカギを開けていた。全ての準備が終わり大統領は最後のボタンを押した。
 ロシアに五十発の核ミサイルが発射された。数発の核ミサイルは迎撃ミサイルに打ち落とされたが、残りの大半のミサイルがロシアの中枢の建物に着弾した。執務室に政府の要人が押し寄せてきたが、大統領は夢から覚めたように自分のした行為に呆然とし立ち尽くしていた。
 すぐにロシアからの制裁ミサイルがワシントンとペンタゴンに向けて発射された。数発が迎撃ミサイルで破壊されたが大半が着弾した。
 大統領は心神喪失と見なされ副大統領が指揮を執った。副大統領は全世界に向けて「大統領の意識混濁による誤射」であると発表した。
 佐藤は核ミサイルというトリガーが機能しなかったのに落胆した。しかし彼は何度でも試みた。副大統領の意識をコントロールし、今度は北朝鮮と中国に向けて核ミサイルを発射させた。いずれも迎撃されたが大半のミサイルは着弾した。核ミサイルに襲われた大都市は甚大な被害を受けた。意識を回復したアメリカの大統領はすぐにテレビ電話で各国に誤射であることを認めさせ、得体のしれない未知の何かに自分が支配されたようだと釈明した。中国もロシアも北朝鮮もアメリカも第三次世界大戦を引き起こす気はなかった。米国内部での混乱が誤射につながったのを理解した。
 佐藤は各国が冷静に対応しているのを見て驚いた。そしてこれでは世界を破滅させ消滅させるには至らないと思った。しかし佐藤らは何万発もの核ミサイルがアメリカやロシアに大量にあるのを知っていた。世界を滅ぼすのはまだ可能だと思った。
 大統領は各国に特使を送り釈明した。

 北川は佐藤の異常なまでの人間嫌悪がどこから来ているのか訝った。
 佐藤は施設で育った。親は真冬の深夜、無人の交番の前に赤子を放置した。泣きじゃくる赤子は幸か不幸か警察に保護された。もし死んでいれば《ル・ネアン》を結成して何百万人を殺害することはなかった。だがどんな運命の糸か、彼は助けられた。施設を出たのは十五歳だった。自分の境遇を知っていた彼は高校には進学せず懸命に働いた。高校、大学へ進む人が憎かった。彼は全ての人を憎悪し殺すことを考えた。彼の働いている工場でサリンが作れることを知った。サリンは魔法の薬剤だった。孤独な彼を止める人は皆無であり孤独のうち作成できた。彼はネットで自分と同じようなことを抱えている人たちを集めて《ル・ネアン》を作った。みんな自分と同じように考えている人間だったが、彼らの共通する悩みは「消えたい」「死にたい」ということだった。佐藤は逆に全人類を消す方法を考えていた。
 佐藤は自分を傷つけたあらゆるいじめ、虐待に報復しようとした。憎い相手は細切れにしてミンチにする。それで恨みは晴れるのか。傷ついた記憶は消えない。嫌な記憶を消すためには人はあらゆることをする。彼が相手にしているのは神である。神に対して戦おうとしていた。彼は自分の運命を呪った。彼は遠い未来に地球が太陽に飲み込まれるのを知っていた。だがその時代には恒星間旅行が可能になっているだろうと予測した。地球人はそれぞれの星でまたも人口爆発をするだろう。子孫を残すのは人間の業だった。だが今、地球人を滅ぼせば未来は変わる。彼のすることは地球を浄化し全人類を消滅させることだ。さらに言えばこの大宇宙を消滅させることだった。
 
 日本は重要拠点をことごとく破壊されていた。破壊された側から言えば彼が悪魔に見えるだろう。親に捨てられたからといっても順調に育つ子はいる。佐藤のように自尊心を木っ端みじんに砕かれたと感じて全人類を敵に回す行為をする人はまれである。必要な時に十分な愛情を受けたかどうかで彼のような人間の運命は変わる。彼の周りにはあまりにも愛がなかった。彼のように孤独に育った人間が各分野で活躍している場合もあった。だが彼には特異的に破壊行為が異常に育った。もはや一人二人殺しても何の役にも立たない。数億、数十億の単位での殺害が必要になった。それを極めれば全宇宙の破壊であり、神の死である。

 武田から電話があった。
「待っていればこの世は滅びるのに佐藤は性急すぎる。結局、彼は誰かに、或いは神にこの行為を止めて欲しかったのだろう。だが誰も止めなかった。彼は自由を求めていたのに、自由に裏切られた。人は完全な自由を得ると狂暴になるか虚脱状態になるかしかない。彼にはその二つの感情が入り混じっているのだろう。
 人間は変化する生き物で、あと二百年もすればこの世界は劇的に変わっていると思う。佐藤は待ちきれないのだろう。彼はよく生きても七十年の人生だと思っているだろう。あと四十年程度だ。子孫を残すことが時間に抗う唯一の方法だと人間は思っている。しかし我々は自らと子孫の間に何の関係もないと思っている。自らが死ぬことでこの世は終わりで二度はない。佐藤のよく言う奇抜な宇宙論など愚の骨頂でこの世はどれだけ研究しても幻影にすぎないのだ」
「もう一度、四人で話し合う必要がありそうだ」

        9

 東京の京橋の喫茶店に四人は集まった。
 北川が言った。
「佐藤さん。社会を巻き込む形でしか、君の理想は叶えられないのか。このままだと日本国が滅びる」
佐藤が言った。
「虚無を愛する君たちの願いを達成しつつあるのだ。究極の無に世界は覆われる。無と死がこの世を支配する。その時は君たちもいない。荒廃した光景を見るのは私一人だ。神と対峙できるのは私だけとなる。アメリカとロシアに蓄えられている核ミサイルを一斉に発射させる。その時、世界は滅びるであろう。生き物を全て殺戮しないと見えてこない景色がある」
 北川が言った。
「地球的自殺だね。他の星から、この地球の破滅が見られるだろうか。他の星の知的生命体はこの惑星の最後の光が見られるだろうか。それをどう解釈するだろうか。『死』に魅せられた一人の男がこの地球という惑星を破壊させたとは思わないだろう」
 佐藤が言った。
「これは戦争でもテロでもない、自殺だ。神を微睡みから目覚めさせるには人類の自殺しかない。それを実行するために生きている。生き抜くのは私一人だ。神と対峙してこの全宇宙を消滅させてやる」
 武田が言った。
「我々はいつでも自殺する用意が出来ている。佐藤に殺されるまでもない。世界が破滅する前に連絡をくれ。その時、自殺する」
 慶子が笑った。
「笑っちゃうわ。何故、今自殺できないの? 自殺に理由付けなんかできないし何で引き延ばすの? この世に未練がある証拠だわ。ねぇ、私が欲しくない? あなたたち性欲ってものないの?」
 佐藤が言った。
「性欲こそ唾棄すべきものだ。それがあるから人間は増殖していく。それに逆らえる人間などいない。女は常に濡れているし男もそうだ。女は襲われても濡れるのだ。苦悶のうちに快楽がある。快楽のうちに死がある」
「あら、あなたは禁欲者なの? 禁欲者こそ最も異性への欲求が強いのよ。大量虐殺者が童貞なの? 手を取って教えてあげるから童貞を卒業しなさい」
 彼女の目が艶めかしく光っていた。
「みんなに私の体を与えてあげる。そして私の中に精液を出して、お願い。ピル飲んでいるから妊娠しないわ」
 佐藤は意外そうに言った。
「君は何を言っているんだ? 欲情しているのか? ここにいる人はみんな求道者なのだ。性欲などあるわけがない。我々は本能の一つを断ち切ったのだ」
 彼女は言った。
「あなたたちはSEXに満ち足りていないからこんな事件を起こしたのよ。みんな孤独で腹の空かしたオオカミみたいね。女の柔らかい肌が必要なんじゃないの? 私がこのグループにいる意味が分からないらしいわね」
 佐藤は言った。
「我々にはSEXが男女に区別されていることなど意味がない。我々は生物である前に存在だ。存在が存在に対して疑問符を投げかけているのだ。この世は無意味で必要ない偶然の産物だとね。およそ生物などこの世に存在する権利はない。さらに言えば宇宙が存在する権利などない。無のみがこの世を支配する権利を有している」
 彼女は言った。
「馬鹿の一つ覚えじゃないの? 同じ言葉を永遠に繰り返しているオウムと同じね。あなたたち、私が裏切らないとでも思っているの? いつの世も裏切るのは女よ。私の性欲を満足させられないのならグループを出るわ。それが嫌なら佐藤さん、私の相手をして」
 佐藤はうんざりしたように言った。
「女の性欲は見るに堪えない。膣という空洞を男性器で満たすことしか考えていない。男なら誰の精子でもいいんだ。我々が君の相手をすることはないだろう。君が告発するなら処刑する以外ない」
「処刑ですって! 連合赤軍か北朝鮮みたいね。私は誰にも支配されない。逆にあなたたちを処刑してやるわ」
 武田が言った。
「私にとっては全てどうでもいいことだ。私は何事にも関与していない。全て佐藤の一存で起きたことだ。全ての責任は佐藤にある」
 北川が言った。
「実行犯が佐藤だということじゃないか。我々3人も無傷ではいられない。相当な刑になるだろう。見て見ぬふりをしていたのだから」
 慶子が言った。
「あら、佐藤さんが勝手に暴発しただけじゃないの。全ては彼の妄想のせいよ。私たちが負うべき責任は何もないわ」
 佐藤が言った。
「君は僕とセックスすれば告発をしないんだね。穢れ切った君を相手にするのは遺憾だがね」
「本音を出したわね。むしろその方が目的なんじゃないの? 私はピル飲んでいるから妊娠することはないけど、本来ならあなたの子供が生まれる可能性もあるのよ。恵まれた家庭を築ければあなたの殺人欲求も止まっていたはずよ。でももう遅いけどね」
「全存在を消滅させるのに早いも遅いもない。私は誰も愛さないし子供も望まなかった。私は物心ついてから、この世の意味、無意味、必然、偶然、存在理由という問題を考えてきた。それから愚かな俗世間を見渡すことにより、『全て』が虚無の幻影だと信じるに至った。これは我々三人の共通認識だ。あなただけが異質のものとしてある。抜けてもいいだろう。我々は完全に君の記録を削除しよう。君の方では我々とのことを口外しないでくれ。それで我々との関係は完璧に切れる」
「セックスはどうなったの。私としたい人は一人もいないの? いいホテルで私の裸を見れば、やりたくならない男は一人もいなかったわ」
「我々のような生気のない人間たちと関わったのが間違いだったね。君を満足してやれなくて申し訳ない。だが君はセックスに何を求めているんだ」
「快楽よ、それ以外ないわ。人間の雌は快楽を追い求めていく動物だからね。女は快楽の頂点に立った瞬間になら核ミサイルのボタンを押すのよ。今、この瞬間のためなら地球が滅んでもいいと思っているのが人間の雌なのよ」
「君は本音で話すから潔い。多くの点で我々と違うところがあるが共通点も多い。君を告発することはないだろう」
 佐藤が言い終わると慶子は軽く会釈をして立ち上がり去っていった。
「我々には世界を滅ぼしても快楽はない。苦悩からの脱却が一番の目的だ。永遠に快楽から遠ざかっている。今ここに存在しているのが苦悩なのだ。存在という狂気が我々を切り刻む。それを必死に耐え虚無化しなければならない」
 武田が言った。
「地球最後の日に立ち会えるのは嬉しい。砕け散った私、世界、割れる地球。夥しい炎。死のスイッチで我々は夢見るように自害する」
佐藤が言った。
「地球が自らの生んだ生き物によって木端微塵になるのは愉快で愚かしい。このようにして滅んだ惑星はこの宇宙にごまんとあるだろう。滅びるために生まれるのは変えられぬ定めなのか」
 北川が言った。
「佐藤さん、そんなことを言っている場合ですか? 直ちにテロを止めなければ私もあなたを告発します」
佐藤が言った。
「転がり落ちていく石は落ちるのを止めることが出来ない。もう遅いんだよ。すでに過去は確定したんだから。過去は現在や未来よりも不可逆的な現実だからね。何の曖昧さも含んでいない。過去を変えたいならば再び宇宙がビッグバンを起こす必要がある。それほど過去は重いんだよ。私は世界にある核兵器を全て発射するまで止める気はない。地球は砕け散らなければならない。私の代でこの狂気の星を破壊せねばならない。一人残らず殺したい。私は目の前で人が死んでいくのが大好きなのだ。この快感は捨てがたい。君たちも小沢さんも同じじゃないかな。人が死ぬほど愉快なことはないよ」
 北川が言った。
「確かに人間の中には殺意に取りつかれた人もいる。僕は佐藤を気の毒に思っているんだよ。人を殺害した事実は重い。しかし君より残虐的な殺し方をした人間は過去にいくらでもいる。だが君はサリンや核兵器で殺害したに過ぎない。君は前代未聞の大量虐殺をしたが、殺意の強さで飛びぬけているわけではない。極めて現代的な殺戮方法をしただけだ。化学兵器や核兵器はごく僅かな殺意だけで極めて甚大な被害をもたらすことが出来る。殺意を持ち続けるのは苦しい。君はその苦しさから逃れようと殺戮を実行した。君は傲慢にも地球を破壊しようとしている。そして自分だけが生き残ろうとしている。君の自我崇拝は限度を超えている。自我を満足させることだけが君の目標なのだ。君は自我に脅迫されている。もっと強い刺激が欲しくてたまらない。君の欲望の暴走は死ぬまで収まらない。君は現実という夢を見ているんだ。君にとっては現実とは夢なのだ」
 佐藤が言った。
「分析ありがとう。つけ加えるとしたら、夢という現実を見ているのかもしれない。私はもの心ついた時からこの宇宙や世界という現実について不信感を持っていた。何故存在するのか、無ではいけなかったのかという疑問だ。この疑問は心にとって劇薬だ。絶対に解けない謎を追求するだけで一生が終わってしまう。それを一歩踏み外すと私のような殺害者が育つ。犯罪者ではない。私は法律を信じていない。それに従う気は毛頭ない。何故この根本的な疑問を放置して人は生きていられるのか不思議だった。だが答えはすぐに出た。人は本能に従って生きているのだという当たり前のことがね。しかしそこから弾き出される人間も僅かながらいる。私もその中の一人だ。人は生まれながらにしてその究極の疑問を考えるか、考えないかに分かれる。多くの人は青年期に考える傾向があるが、やがて社会生活に紛れ忘れ去っていく。そして人生の最期を迎えるときにふっと頭の中をよぎることもあるが、すでに手遅れだ。私の場合は例外的な奇形種なのだろう」
 北川は佐藤が戦闘を止める気がないのを再確認した。

        10

 小沢慶子は佐藤らのこれまでのテロ行為を克明に書いた手紙を警察に送った。彼らのアジトも明かされた。彼らの死が必要だと思った。犯罪として法律で死刑に処されるのが適切だと思った。彼女は彼らに対する殺意も憎悪もなかった。あるのは憐みの心だけだった。死に取りつかれた同胞としてこれまでの経緯をつまびらかにすることが必要だと思った。彼女がこれからすることは明白だった。自らの死だった。彼女は理想の形で死にたいと思った。もう未来に対する期待は何もなかった。

 慶子は今日の撮影現場となっているホテルに入った。そして撮影の準備に取り掛かっている男たちに「おはようございます」と言った。これから彼女と交わる男優や監督やスタッフが元気よく「おはよう」と返した。現場は決して陰湿ではない。凌辱物を撮っていてもそれは全て演出されたものだ。男たちはAVを徹底的に仕事としてとらえている。そうでなければなかなかやれる仕事ではない。いちいち女優に思い入れしては勃つものも勃たない。彼女はこの人工的な現場が好きだった。男たちの精液は女優の膣のなかに実際に放たれる。その生々しさをこの乾いた空気が救っている。男たちはそれぞれの生活があり、仕事が終われば、そそくさとそれぞれの家庭に帰っていく。だが慶子の心の中にある今にも噴き出しそうな憎悪は、この一見したところぬるやかな明るさを凄惨な血で破壊するだろう。
「ねぇ、皆さん、今日は激しいのやらない? いつも同じような演技では飽きられるわ。殺し合うのってどう? もちろん疑似だけどね」
 AVの監督が言った。
「今から脚本を変える時間はないよ。殺し合いって血が吹き出すわけでしょう。その用意もないし」
 慶子が近づいて言った。
「あら、血のりの用意なんていらないわ。こうすればいいのだから」
 すると監督の腹をナイフで引き裂いた。傷口から血が吹き出し、腸がはみ出てぶら下がる。監督は前へ倒れこんだ。
 彼女はカメラマンに向かって「ちゃんと撮るのよ、全部あるがままに撮るのよ」と言った。彼女は腸を引き出し自分の首に巻き付けていく。カメラは凝視している。彼女はさらに胸を十字に引き裂いた。肝臓を取り出しナイフで何度も刺した。血が吹き出る。彼女は驚いて委縮している男優に向かって言った。「勃たせるのよ。何しているの。おちんちんが縮こまっているじゃないの、これから前代未聞の作品を作るのだから覚悟していて」
 男優は部屋から逃げようとした。彼女は背中を刺した。それが心臓を貫いたらしくバタッとへたり込んだ。
「誰か私とセックスできる男優はいないの? 情けないわね。AVが斜陽産業なのはマンネリ化しているからよ。もうありふれたセックスに飽き飽きしているのよ」
 すると部屋の片隅から一人の男優が近づいてきた。そのペニスははち切れんばかりに勃起している。主役の男優ではない。精液を顔にかけるために集まったその他大勢の男優だ。彼は血まみれの慶子を抱くとベッドに寝かせ激しくセックスを始めた。カメラマンが震えながら撮っている。生臭い臭いが部屋中に満ちた。
「ねぇ、お願い。このナイフで私の腹を裂いて子宮を取り出して! その子宮の中に精液を射精するのよ。そこにいる男優たち、あなたたちも子宮の中に射精して。私は人間の耐え得る限界までいって死ぬのよ。性と死は密接な関係があるの。絶頂に達したとき人はそこで生命(いのち)を手放すの。その快感に達したとき生命(いのち)はどうでもよくなるのよ」
 男優は躊躇っていたが、血の色に興奮したらしく、ナイフで下腹を引き裂いた。夥しい血液が湧いて出て、男優は肉をかき分け子宮のありかを探した。ナイフで下腹はずたずたになった。そしてようやく子宮を見つけて膣ごと取り出した。最初は恐れていた男優たちも興奮してその子宮に精液をぶちまけた。だが射精すると急速に萎え嘔吐した。男たちの何人かは「こんなもののために」と思ったに違いない。男性を悩ませ狂わした女性器の態様を見て愕然としたのではないか。慶子はもはや出血多量で白目をむき絶命していた。彼女が望んだ血液と内臓の海の中で死ぬという目標はある程度叶えられた。

        11

 佐藤のグループに操られた「世界中の核ミサイル」が段階的に発射された。地球という卵子に核ミサイルという精子が突き刺さって地球を破壊していく。東京に核ミサイルを撃ち込む用意はされていた。シェルターに身を潜めていた佐藤らと北川と武田はいよいよ最期が来たと思った。人類の殺戮と自殺が迫っていた。
佐藤は神に語りかけた。

         *

『愚かしい狂気の神よ。地球は数万発の核ミサイルで木っ端みじんに砕けようとしている。あなたは微睡みから醒めるだろうか? 我々の自殺など全く意に介しないのか? 銀河の片隅にある小さな惑星などどうなってもいいのか? 人類の自殺などあなたにとっては取るに足りないことなのか? なぜ神は意識ある人間というものを作ったのか? その意識が自殺に向かうなんてことは予想できたのか? 風にそよぐ葦でしかない我々は無限を意識することが出来る。その無限はただの夢幻でしかなかったのか? ホロコーストや原爆でさえ微睡み続けた神は我々の地球的自殺でさえ覚醒することはないのか? 宇宙全体を破壊し消滅させることが出来ないのが残念だ。我々は間もなく自殺する。私の前にあるパネルのボタンを叩けば何万発もの核ミサイルが地球上のあらゆる場所に向かって発射される。神よ、あなたの意向は何なのか? 我々の死は全くの無駄になるのか?』
 答えはない。神は微睡み、沈黙している。
 すると彼の心に『声』が響いた。
《虚無から生まれた者たちよ。虚無に還れ。死ぬべき時が近づいている。あなたたちが救われることはないだろう。暴走した意識は神の罰を受けねばならぬ。私は罪なき者の味方である。あなたたちの犯した罪は永久に記憶されるであろう。私は『永遠の存在』である。自殺を願望する人たちは癌のごとき悪性新生物である。人の体は癌に蝕まれて死ぬが、神の宇宙にできた癌は駆逐されて消滅する。私は全能の神ではない。あなたたちのような奇形種が生まれる余地を残している。神の意思を理解することは永遠に不可能であろう》

          *

 地下のシェルターに警察隊が押し寄せてきた。佐藤らは追い詰められた。彼は腹に爆薬を巻き付けていた。そして右手には爆破させるスイッチを握っていた。左手にはサリンの入ったビーカーを持っていた。佐藤は思った。私の死は宇宙の死だ。私のいない宇宙に意味はない。無意味なものは存在しえない。だから消滅するだろう。私の死の瞬間に全ては消え去る。私の遺体の肉片は存在しないだろう。何もかも無に還るのだから。
 警察隊の銃は全て佐藤の心臓と頭に照準が合った。少しでも照準が狂ったら彼らも爆発に巻き込まれる。さらに彼が倒れた瞬間、ビーカーが割れ、全員が即死する。警察官も緊張していた。
「この宇宙は幻影だ。存在しない。私は永遠だ。お前たちは全て死ぬ」
 彼はこう叫んで警察隊に向かって走り出した。するとその時、一発の銃声がとどろき、彼の頭を貫いた。彼が前のめりに倒れる瞬間、北川が背後からビーカーをもぎ取った。佐藤は即死した。「ル・ネアン」のグループも武田や北川も逮捕された。
 自殺を願った彼らの願望は頓挫した。しかし佐藤はこんな時に備えて自分の死と共に動き出すタイマーを稼働させていた。わずか十秒後で何万発もの核ミサイルが発射されて、地球は砕け散る。しかし小沢慶子から詳細な報告を受けていた警官が解除した。
 宇宙はとりあえず何事もなく続いていった。だが宇宙の存在を嫌悪する人間はこれからも出るだろう。佐藤よりスマートにこの世を破壊するだろう。テロリストにとって宇宙の破壊が使命となる未来がくるだろう。
 宇宙の破壊=テロリズムによる破壊と神による再生が常態となる未来がやってくるだろう。



                                了



                        

神の微睡み

神の微睡み

自殺する若者を救う小説は何かと考えてきました。「神」「存在と無」「生と死」という根源的な問題を考えていた時期です。 この小説を書くことで私は少し救われました。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2019-11-01

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著作権法内での利用のみを許可します。

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