冷めない、

リュックサックに入れていくものと置いていくものとの最終確認を済ませて、あとは明日に備えて寝るだけだった。しかし蒲団に入って小一時間経つけれど、私はしどけない体を何度も転がしては眠れないでいた。三月末といってもまだまだ夜は寒く、今日は特に花冷え酷く、レースが引かれるきりの窓からは夜の空気がゆらゆらと静かに漏れ出している。空ではもう色白の豆みたいな月が地面にぶつかりかけている。
 部屋の扉が不意に開かれて、母が目をきっとすぼませて扉の前に現れた。
「もう、ノックしてっち言いようやん」
「あんたは電気も消さんと。はよう寝ちゃりなさい」
 そう言われて私は初めて部屋がまだ明るいままになっていることに気がついた。母はドアノブを掴んだまま部屋の敷居をまたぐように立っていて、その影が部屋の外側へ半分ほど伸びたところでリビングと交わっている。
「今寝るとこやってん。スイッチ消しとって。お母さんこそなんよ」
「ほらこれ、向こうに持っていき」
「なんそれ」
「さっき河原で拾ってきたんっちゃ。綺麗やろ」
 母は手元で瞳を緩ませて、何やら黒っぽい塊を私の方へ突き出していた。しかし寝ころんだままの私にはあまりよく見えない。母も敷居をまたいだままで動こうとしない。
「うーん、よく見えんのやけど。なんそれ」
「そりゃ、あんたが寝っ転がっとるけやん」
「え、そんなん私もう寝とったんやけど」
 母は緩ませた瞳をその塊へ落として、何か迷うような泣き出しそうな顔をしていた。しかし、私がそれをじっと見ているのに気がつくとすぐ向き直って、電気つけたままね、ほなこれここ置いとくけね、と彼女のよく見せる飼い猫が生きた獲物を前に向けるようないたずらっぽい顔で言った。母は結局それ以上部屋には踏み入れることなく扉を閉めて出て行った。
「電気消してっち言いよろうが」
 なんなのだ。私の言葉は母に届いたのか届かなかったのかオーク調の扉にはね返されて、部屋の中はまたさっきの静けさを取り戻す。出ていく前一瞬見せた、あんな顔の母を私は、初めて見た。
母の置いていったものは全体的に灰色をした大きな飴玉くらいの塊で、扉のすぐ脇に置かれて、でもよく見ると灰色の中で蛍光灯の当たるところだけその光の残って白とも黄色ともつかない色を見せている。私は起き上がるには億劫で、掛蒲団を頭まで被って再び目を閉じた。しかし、すっと瞼の裏にさっきの母の表情が浮かんでくる。私はすぐに閉じたばかりの目をかっと見張らせて、掛布団を蹴飛ばした。母の置いていった灰色の塊はなんてことのない、ただの石ころだった。なんでこんなもん、あんな顔して。私はそれを摘まみ上げて電気を消すと、再び寝床へと戻った。
私は母の置いていった石ころを手に、暗くなった部屋の中で言い難い不穏に胸をさざめかせていた。ふっと軽く息を吐いて、もう一度明日からの自分を思い描く。十時三六分小倉発新大阪行の新幹線から新しい生活が始まるのだ。明日は下宿に着いたら先に送った荷物や家具やらの搬入で業者が出入りするだろうし私もその荷ほどきで目まぐるしく、ただせわしないだけの一日になるんだろうけれど、それでも私の胸はにわかに躍り出した。たったそれきりで私の胸は高鳴って、高鳴って、でもやっぱりそれきりだった。大学生。新しい土地。一人暮らし。期待と不安とがないまぜに私を興奮へと誘う。蒲団の中で冷たくなった石ころを握りしめた。母の顔が浮かぶ。部屋は冷え、石ころはどこまで握っても冷たいままで、それでも私の手のひらはじっと汗ばんでくる。それは冷えた塊へとゆっくり染み込んでいくのだった。
ほんとはお見送り行けたらよかったんっちゃけど、と今朝早く母はそんなことをぼやいて先に家を出た。母の勤める予備校は今まさに繁忙期で、そんな時に有休も遅番もないようで、契約社員が年度末にそんなことしていたら更新してもらえなくなるという噂に実例を挙げて、母はトーストをほおばる私に説明した。まあ一人娘の門出といっても家から小倉まで三十分もない距離で、それと仕事とを天秤にかけての当然のことなんだろう。私も強いて見送ってほしかったというわけでもないし、仕事を優先したことに不満はなかったけれど、なぜか無性に腹が立っていた。そんなら来たらよかったやないけ。それとも大人には思いを殺してまでしなければならないことがあるのというのか。少なくともいつも愚痴ばかりが漏れてくる母にそんなものがあるように思えなかった。その裏にお金と生活とその未来と、つまりは経済があって、そんなことはわかってはいるけれど、そんなもん。まだ何でもない今も未来もろくに描こうともしんと生きてる私がバカらしくなるやないけ。
しかし、春先の朝は昨夜の冷え込みも平気な顔で緩やかに風光り、それは虚しさに悶々と迎えられた私の皮裏にもおもむろに溶け出していった。使い慣れたモノレールの車内さえ、いつの間にかどこか異土にあって、私は恍惚と車窓を眺めた。気がつくと私は小倉駅のホームへふわりと降り立っていた。
新幹線の車内は、博多から乗ってきた人たちですでに半分ほど埋まっていた。私は乗車券を確認しながら、その指定する座席を探した。運良く私の席の隣には誰も座っておらず、私はゆったりと旅の快適さを整えることができた。誰か来る前にトイレに行ってしまおうと席を立ってまた戻ってくると、案の定、隣にはサラリーマン風の男が座って、簡易テーブルの上でノートパソコンを広げている。男は私が隣で立ち尽くしていても全く気にする素振りを見せなかったので、私も何も言わず細い隙間に体をねじ込ませるように自分の席へと戻った。特に何もすることがなかったので、私は隣の男のパソコン画面を盗み見た。画面には「デカダンスの踊り」と書かれた表題の下に細かな数字の書いてある表とそれに対応すると思われる棒グラフとがあった。男は何事か考えた様子で「デカダンスの踊り」を消すと、今度はそこに「単純な、プランクの長さ」と打ち込んだ。打ち込んですぐまたそれを消すと、今度は「ドッペルゲンガー」と打った。それもすぐに消えてまた次の新しいタイトルが現れる。次々と現れては消えまた現れる文字をおもしろく見ていると、最後に「覗き見る少女」という文がパソコン画面に浮かんだ。私ははっとして窓の方へ目を逸らした。窓に薄っすらと映る男は表情を変えずパソコンに向き合っている。思わずそむけてしまったけれど、これでは私が画面を覗いていましたと自白しているようなもんじゃないか。でもまた元に向き直るようなこともできず、私はただ窓の外を眺めた。新幹線はいつの間にか出発し、窓にはこんもりと小さな山々が連なっていた。
広島を過ぎたところで私は本を閉じた。時刻は十二時を回ろうとしている。たいして空腹はなかったけれど、私は小倉駅で買っておいたかしわ弁当の包みを解いた。男は私が本を読む間もずっと食事もとらずパソコンに向いていた。暇つぶしにと読んでいた本は高校の担任に卒業と進学祝いだともらった文庫の小説だった。大阪の大学で文学部にいる者でこの人のもの読んでいなかったら恥ずかしいぞ、そうでないにも一読の価値はあるからと強く薦めるので、無下にもできず譲り受けたのだった。他人に薦められたものを素直に受け入れるほど私の性根は真っ直ぐでなかったけれど、読んでいないと恥ずかしいとまで言われて読まないわけにもいかないというのと、顔の向ける先を男に縛られてどうしようもなかったというのとで、私は逃げるように本を開いたのだった。文庫は確かに推薦人の言った通りの作品だった。それまで何とも思っていなかった担任に少しばかりの敬意を芽生えさせた。
しかし、戦後間もない頃の大阪を舞台とするこの本に出る地名に、橋が付くものが多すぎる気がして、私にはそれがいやに引っかかった。半分くらい読んだところで、心斎橋、日本橋、京橋と三つも橋が出た。それは私のこれから通う大学も石橋というところにあったせいかもしれない。
私は受験の帰りに、その石橋の「石橋」はどこにあるのだろうと駅周辺を散策していた。しばらく歩くと駅前商店街の外れに、真っ赤な欄干をした幅五メートル、全長二十メートルほどの短いコンクリート造りの橋があった。一応橋にはなっていたけれど、その足元にあったのは二三日日照りが続いたら干上がってしまいそうなほどのこれまた貧相な川で、これでは右手にある高架道路の方がよっぽど立派な「橋」だと思った。さすがにこのわびしい橋から地名や駅名が採られたとは思わないけれど、周囲に橋らしい橋といえばそのわびしいものしかなく、石橋の「石橋」がこれかと、私はいっそ滑り止めの私立の方が住むのに恥ずかしくないななんて冗談に思って帰路についたのだった。
新幹線が岡山を過ぎる頃、男はやっとタイトルが決まったのか、ノートパソコンを鞄へ仕舞って居眠りを始めていた。私は弁当もすっかり食べ終え、またすることが何もなくなった。かといって満たされた胃袋を抱えては本の続きを読む気にもなれず、男はもう眠ってしまっていたけれど、私はまた窓の外を眺めながら受験勉強を本格的に始めた頃の自分を思い出していた。
地元でも指折りの進学校に通った高校時代は、私の中学当時の優秀さはどこかに影を潜めてしまい、そのプライドも時間とともに澱み、学年での席次は常に下位にあった。第一に私の零落を招いたのは、高一の初めての中間テストで、私は自分の誇ってきたものと同窓になった者たちが持ち寄ってきものとの乖離に打ちひしがれたのだった。しかし、再起を誓い、それからの一年私は確かに酷くもがいていた。にもかかわらず、その溝は埋まるどころか、私にある幼い記憶を思い起こさせていた。
まだ小学校へ上がる前、私は母に連れられて岩屋の海水浴場へ行った。私はその日その岩屋の海で沖へ流されたのだ。流されたといっても、流される前も流された後も私の体は全て遊泳区間を示す浮標の内にあって、それは単に流されたなだけとよくよく母に笑われたのだけれど、それでも浮き輪にゆだねてぷかぷかと沖へ出た私はいつの間にか遊泳区間ぎりぎりまで来ていて、それは立派な漂流だった。長い漂流は浮標の繋ぐロープが止めるまで続いた。そこからでは母のいる浜辺は視界に遠く、私はまさしく大海にぽつりと浮かぶ棒切れのような心持ちになった。手足を必死にもがかせても浮き輪にあってはその力は上手く伝わらず、まして幼子のそれである。一向にロープのところから離れない私はしばらく手足をばたつかせた後、ふいにそれをやめた。疲れ切って気力をなくしたのではなかった。それは私がこの世には何をしようにも到底及びもしないものがあるということを知った初めてだった。
高校最初の一年間、酷く勉強に打ち込んだけれど、一年して、私の心にはあの時そのままの冷たい塩辛さが広がっていた。私は再び入学当初と同じように打ちひしがれたのだった。そうしてまた一年が経ち、私は大学受験というものに煮え切らない思いを持ったまま、受験勉強を始めたのだった。
ところが、いざ勉強を始めてみると、受験の情報は学校よりも母から聞き出し、勉強も初めから母が職場からくすねてくる教材で進めたのが良かったのか、志望校をいい加減固めなければいけないという頃には、私の席次は中位より少し上くらいのところまできていた。これなら九州なら学部を絞ればどこの大学だって狙えるぞと母も担任もそう言ったのだけれど、私はどうしても九州に留まってはいられなかった。私は自分のプライドの奥深くに沈み込んでしまった澱みをどうしても拭いきれなかった。劣等感とは常に自分より上位にある者に対して抱く感情で、自分より下位にある者が、それがどんなに胸を張っていようとも、そんなものは何の救いにもならない。私は胸を張る彼らをうらめしく、また腹立たしく思った。自分もそうなれたらならどんなにか心安く生きられるだろう。いや、彼らも私と同じように深く沈み込んでいるのかもしれない。私より遥かに優秀な人たちもまた、さらに大きなものを前に同じことを考えるかもしれない。しかしそんなものはやはり私にとって何にもならないのだった。ルサンチマン、そんな言葉が私にはよく似合っていた。私はただそれを少しでも遠ざけようと、生まれ故郷である九州の地から離れることを決めたのだった。
春休みの新大阪駅は大きなキャリーバックを転がす家族連れや外国人旅行者、スーツ姿で足早に行く者、様々な人間で溢れていた。隣にいた男は降りるところまでは一緒だったはずだけれど、いつの間にか辺りに溶けて見えなくなっていた。見慣れない都会の風景が、頑として私をも溶かし込んでしまおうと私の疚しさをくすぐる。しかしそれも束の間で、私はこの人混みを縫って果たして自分の向かうべき先へたどり着くことができるのだろうかと不安になった。しかしあまり立ち呆けていると本当に溶け出してしまいそうで、それにこうして不安げにしていてはバカな田舎者に見られやしないかと、私は意を決して頭上の案内を頼りに構内を進んだ。さすがにこれだけ人が行き交うとあって天井にかかる案内板は親切で、一つ見ようと仰ぐと別な案内まで三つも四つも視界に入って、私は徐々に愁眉を開いていった。頼るものはもう自分一人きりしかないのだ。
「あのう、すみません。大阪駅へはこっちであってますか」
 すっかり景気づいて歩いていた私が勝手を知る人間に映ったのか、さっきまでの私と同じような顔をした青年が声をかけてきた。青年はいかにも困っているという風で、私よりも頭半分くらい背が高いのに、青年はそれよりもずっと小さく見えた。青年の指す先と私の案内板に従う先とは別の方を向いていた。しかし私は景気づいたままに、大阪と新大阪とは一駅のことだしこれだけホームがあるといっても二つに一つは大阪へ向かうだろうとどんぶり勘定に、はい、合っていますよと答えた。青年は不安げな顔のまま私に礼を言うとくるりと向き直って自分の指していた方へと歩き出した。私は思い直して青年に声をかけようとしたけれど、痰の詰まったような音が出ただけで、縮こませるようにだんだんと小さくなるその背中を黙って見送った。私は青年の向かった先の案内板を見なかった。頼るものはもう自分一人きりしかないのだ。もう一度自分にそう言い聞かせ、下宿先へと急いだ。

 大学生というものが少しずつ私に馴染んできた頃には、辺りはにわかに梅雨の様相を呈し始め、爽やかに汗をさらった心地よい風もじっとりと体にまとわりついて、私はとつおいつする空をじれったく眺めながら過ごしていた。そうしてたまに日の差す時があると私は講義には出ず、校庭のベンチに座ってぼんやりとやり過ごすという日が多くなっていた。語学と教養の講義ばかりが続いていい加減飽き飽きしていたのかもしれない。そうしているうちに講義が終わる時間になると夏子が私を迎えに来る。私たちは示し合わせたわけでもないのに、ほとんどの時間教室を同じくしていた。彼女は明るさに陽気さを加えた、変な言い方だけれど、とにかくはつらつとした人物で、さらに人懐こそうな顔付きも手伝って、私たちの小さな世界に彼女を知らない人はいないのではないかというくらいに私は感じていた。
「また授業サボって。日に焼けて真っ黒なってまうで」
「え、真っ黒は困ります。日焼け止め買いに行こっかな」
「日焼け止めやったらうち持ってんで」
 夏子は私の隣へ座ると鞄に手を突っ込んで、中からチューブ型の白い容器を取り出した。受け取って見ると、見覚えのあるロゴマークの上に高濃度フッ素と書かれている。
「え、歯みがき粉?」
「最近の歯みがき粉はな、日焼け止め効果もあるらしいで。歯白くする成分が美白効果もあるんやて」
 夏子は口元を穏やかにさせて私を真っ直ぐに見つめていた。歯みがき粉が日焼け止めになるなんて聞いたことがなかったので、チューブを裏返してそれらしい文言がないか探していると、
「いや、冗談やって。そんなんあるわけないやん、肌荒れ荒れなってまうわ」
 夏子はぴくりとも表情を変えず、穏やかな顔のままで言った。私は冗談だという彼女の言葉と冗談を言っているとは思えない穏やか表情とのギャップに戸惑った。
「なんでやねん、あるわけないやん。人の言うことそんなすぐ信じてたらあかんで。他人は疑ってかからな」
 私から歯みがき粉のチューブをひったくった夏子はやっとにやけ顔になって、そのままチューブで私のわき腹を小突く。夏子の言う冗談はいつもわかりにくい。わかりにくいというより私にはわからなかった。種明かしされても魚を鷲掴みしたようなぬるぬるとした気持ちの悪い感覚が痕になって、残る。
「どうして歯みがき粉なんか持ってるんですか」
「こういう時のためにな。女の嗜みや」
 私は目を細めて彼女を見た。彼女は驚いたような顔で私を見つめ返して、ほんなら混みだす前に行こと言って自分の鞄と私の鞄まで持って立ち上がった。
 夏子はこっちに来て間もない頃のまだ興奮の冷めない私の目からも、きらきらと目映いエネルギーを発して見えた。
「え、アキコ? うち夏子やねんけど、てことは夏と秋とでうちらシーズンコンビやな」
 学部親睦会と称した私にとって人生初の飲み会で、夏子は私の名前を聞くなりそう言った。正直全然おもしろくもなかったし――だいたい私は明るい子の明子だ――、いろんな席で奔放に喋りまくる彼女を見て鬱陶しく思っていたけれど、まだよく知らない人たちの中で少しでも打ち解けようとするとこう無理に明るく振舞ってしまうタイプなんだろうと私は曖昧に笑ってやり過ごしていた。結局私は親睦会でこれからも親しくしたいと思えるような人とは巡り合わず、この森夏子という女の連絡先と社交辞令に交換したいくつかの連絡先とが便宜上スマホに収められただけでその日は終わった。まあいきなりの親睦会で仲良くなろうなんてのが間違いで、第一親しい人がいなくたってそこまで困ることもあるまい。本当に親しい仲になるって人は何もしなくても自然とそうなるもんだ。私は帰り路に一人足元を少しふらつかせながら考えていた。つまるところ、私の後の方の考えは当たっていた。
しかし、夏子はいつまで経っても初めの印象のままの夏子で、こっちの考えは全くの見当違いだったということを、私は彼女と過ごすうちに思い知った。「シーズンコンビ」は夏子もさすがにおもしろくないと思ったのかあれ以来口に出すことはなかったけれど、彼女はどこまでも明るく、彼女の飛ばす冗談はどこまでも理解できなかった。夏子は本当にあんなピンポイントの冗談を言うためだけに歯みがき粉を持ち歩いているのだろうか。確かに持ち歩いていそう、そう思って、私はおかしかった。
「なにわらっとん」
 夏子は目敏く、食堂を目指す私の前を立ちふさいだ。
「歯みがき粉、おかしいなって」
「まだそんなこと言うてたんか。おかしいのはアキコの方やで」
「なんで、私はおかしくなんかないですよ」
「みんなに聞いてみたらわかるわ」
 夏子はまた冗談を言っていた時の顔に戻っている。これはどっちなんだろう。私にはわからなかった。
「でもうちはおかしいアキコがたまにおかしなくなるとき知ってるけどな」
 夏子は陽光に照らされて、それが浅黒い彼女の肌によく似合っていた。私もこうして毎日日晒しにしていたら、少しでも彼女に近づけるだろうか。私にはわからなかった。

 時間は虚となって私を置き去りにしたまま、季節は梅雨を越えて静かに夏の足音を忍ばせていた。私がキャンパスに行かなくなって一週間が経とうとしていた。枕元でスマホがバイブする。夏子からだ。
「あ、なんや出るんじゃん。アキコ今週教室にも庭にも見んかったけどなにしてんの」
「おうち」
「おうちて実家か。なんかあったん」
「実家、じゃない、です」
「大阪おるんか。アキコんちって服部天神やっけ」
「――はい」
「ちょい待ってて。駅着いたらまた言うわ」
 夏子が電話を切ると、私はスマホを放り投げた。スマホは一週間掃除もせず放ったらかしになった部屋の中へかさかさと音を立てながら溶け込んでいった。
私は一週間前バイト先の男の子に告白された。いや、あんなもの告白とは言わない。強姦だ。
 バイト上がりに私はその男の子、清田さんに晩御飯に誘われた。清田さんは私より四つ上のフリーターで、その居酒屋でのバイト歴も四年で、アルバイトの中でもころころと変わるらしい社員を入れても最古参の店員だった。強くお酒を勧めるのに何杯か付き合わされたこと以外は何事もなく食事を済ませ店を出ると、行きたいところあるからもうちょっとだけ付き合ってと言われて、私は大阪駅の上にある吹きさらしの広場へと連れていかれた。行きたいところがあると言って来たのに、清田さんはただ隣で眼下の街を眺めるだけで、私はそれで自分の連れてこられた理由に気がついた。私は彼の隣で同じように街を見下ろすふりをしてどうしたものかと考えていた。でもまあ夜風はお酒で火照った肌にはちょうどよかった。私たちは見晴らしのいいビルの上で手すりにもたれかかりながら、でもどちらも街など見てはいなかった。清田さんが隣で体ごと私の方へ向けた。
「松本さん」
 私は彼がいるのに今気がついたという風に振り返った。清田さんは酔っているのか、少しでも手すりから肘を引けばぶつかってしまうような距離にいた。松本さん、と彼がまた私の名前を呼ぶので、私も仕方なく彼の方へ体を向けた。近い。膝が当たってしまいそうだった。
「なんですか」
 彼の顔は、その吐息が聞こえるほどにどんどんと近づいた。
「松本さん、俺、あなたが好きです。よろしければ付き合ってください」
 私はどんどんと近づいてくる顔に、思わず頭を下げてぎゅっと目を閉じた。しかし、それがいけなかった。頭を真っ直ぐにしようとゆっくりと顔を上げ始めた時には遅かった。気がつくともう、目の前にいる男の唇が私の唇へと押し付けられた後だった。私の目はかっと見張り、体は硬直した。風が強く吹き涙が出る。男は一瞬離した唇を、再び私へと重ね合わせた。それはさきほどよりも欲深く、そして長く、続いた。男はゆっくりと私から離れていった。男から自由にされた後も、私の体はこわばったままでじっと目の前の男を見ていた。男は私を真っ直ぐに見つめていた。その目には最初から何も映ってやいなかったに違いない。
「ごめん、俺帰るわ」
 そう言って男は大股に跳ねるように去っていった。ちゃんと見る夜の梅田は、空色の地面にビルや車が煌々としていた。
「それで大学サボっとったん」
 私は黙ってうなずいた。夏子は私の隣で膝を折り曲げて座っている。夏子が通ったところは散らかった洗濯物やごみが避けて、そこだけぽっかりと道になっていた。
「そんな思春期真っ盛りの中学生でもあるまいし。そんなんでこんなんなっとったらあかんやろ」
 夏子は軽く息を吐いて立ち上がった。
「ごみ袋どこ」
「え」
「ごみ袋。あ、ええわ、あった」
 夏子は掃除用具を仕舞ってある棚から新しいごみ袋を取り出して、それを膨らませながら私に近づいてきた。近づいて私の目の前に立つと、夏子は飛びかかるように私の方へ倒れ込んできた。私は避ける間もなく頭からごみ袋を被せられた。突然のことに、私はまた体を硬直させるのだった。耳元でかさかさと心地よい音がする。しばらくして体の自由を取り戻した私がごみ袋をくしゃくしゃに脱いでいると、夏子は私の隣で仰向けに倒れている。彼女は顎を引いて私を見つめながら、いつもの穏やかな表情をしていた。ああ、またこの顔だ。私も彼女の隣へ倒れ込んだ。
「アキコ、掃除せにゃいかんね」
 私は黙ってうなづいた。
「あ、でもその前に陰気臭いからとりあえず窓開けた方がいいかもな」
 私はうなづいた。
「てかクーラーつけへん。暑いわ」
 私は夏子の方へ寝返りを打った。
「うそやん、暑ないん。でもクーラーつけるんやったら、やっぱ掃除が先やわな」
「うん」
「アキコ、掃除嫌いなん」
「うん」
「うそや、アキコ絶対きれい好きやろ」
「うん」
「なんやねん、あほちゃうか」
「うん」
 部屋をすっかり片づけてしまって、私が窓を閉めた時にはもう私たちのいるアパートの背中は西日に赤く染められていた。
「決めた。うち、この家に住むわ」
 夏子はリモコンを持ったまま、リビングの真ん中に立ってエアコンの出す冷気に直接体を当てていた。
「住むって、お隣?」
 私は久しぶりに顔を出したフローリングの上で突っ伏したままに聞いた。
「なんでやねん、ここや。この家に住むことにした」
「え、でもこの部屋は私が借りてるんですけど」
「やから一緒に住むって言ってるねん」
「え、それは困ります」
「なんでや。大学も実家より近うなるし梅田もすぐやしめちゃくちゃ便利やん」
「いや、困るのは私で」
「困るて、うちがおってなにが困るんよ」
 私は言葉に詰まった。確かに仮に夏子が一緒に住んで困ることがあるのだろうか。誰かと一緒に住むことは困ることのような気がするけれど、実際に何に困るのかはわからなかった。困る気がするというだけで、別に何も困らないのかもしれない。
「まあでももうなに言うても遅いで。決めてもうたからな。うち、今日からここ住むで」
「ええ、今日からですか」
「善は急げや、知らんけど。――本日よりお世話んなります」
 夏子はお腹の前にリモコンで手を結んで粛々と頭を下げた。突拍子もないことを言うのは夏子の方なのに、私はそのお辞儀の曇りないしめやかさに、あ、どうもなどと言いつつ床に正座してこちらも頭を下げていた。
 突然始まった夏子との共同生活は割と上手くいっていた。夏子の言ったように困ることなど何もなかった。部屋は六畳と十畳との二間あって持て余していたくらいだったから、夏子が毎日せっせと運び込んでくる荷物もすっぽりと収まってしまったし、家賃も母が払ってくれていたので私は気にしていなかったし、夏子は夏子でそれもどうかと思うがそういうことを気にするような様子はなかった。気に病むほどのことではないけれど、一つ困ったと言えることがあるとすれば、夏子が家を出る時も帰ってきた後も玄関の鍵を閉めないということくらいだった。五人兄弟の下から二番目の彼女は大学生になってやっと家の鍵を持たされるようになったくらいで、それまでは合鍵の数の関係で外出の際に鍵を閉めようにも閉められなかったそうだ。それで夏子の家庭では誰か家の中にいる時には鍵を持っている人でも開けっ放しにしておくというのが普通だったらしい。日本てそもそもめっちゃ治安いいし、それにうちはオートロックのマンションやから変なやつはエントランスの時点で引っかかるってわけよと夏子は言った。私のアパートはオートロックでないし、私のいる時はいいにしても夏子は自分が最後に家を出た時でさえも開けっ放しにするもんだから、それだけは私は夏子をよくよくしつけなければならなかった。
「ばれたか、気にするようにはしてんねんけどな。まあそれでアキコが誰かに殺されでもしたら、うちどないすることもでけへんしな。もっと気いつけるようにします」
 夏子が買い出しから帰ってきて勢いよく私の元へ飛び込んできた時に、私はまた彼女を叱りつけた。行きしなには気がつかなかったけれど、鍵を開ける音も閉める音も聞こえなかったのだ。
「自分が先に帰った時も鍵しめんといかんよ。夏子だって殺されるかもしれんっちゃけん」
「うち殺されたかって世の中変わらんって。あ、それよりまた明日実家帰るな」
「え、また。まあいいねんけど。なんでいっつも土日になったら家戻るん」
「なに言ってんの。土日帰省するん中国じゃ結構普通やで」
「え、でもここ中国と違うし」
「今や世界の五人に一人は中国人やで。うちは五人兄弟やからそんなかの一人は中国人じゃないと計算おかしいやん。で、それがうち」
 夏子はお手製のマイバッグから豆腐と白菜と水菜と、買って来たものをテーブルの上に広げながら言った。夏子が毎週末実家へ戻る本当の理由は知らない。夏子なりの気づかいなんだろうなと勝手に思っていた。
「アキコ、これなんなん」
 冷蔵庫の閉まる音がして、夏子が聞いてきた。ずっと気になっとたんやけど、と手には実家を出る前の夜に母の渡してきた石ころが握られている。
「ああ、石ころ。河原で拾ってきたんっちゃ。綺麗やろ」
「え、まあすべすべやけど」
 夏子は手に持った石ころを光に当ててまじまじと見ている。
「私もなんなんかわからんのやけどね。お母さんが大阪来る前持っていきって言いよって渡してきたんよ」
「ふーん、変なお母さんやな。こんなん、漬物石には、絶対ならへんもんなあ」
 そう言って夏子はお酢の入った醤油さしにバランスよく石ころを載せて夕飯の仕度に戻った。夏子は何にでも酢をかける。醤油さしの上の石ころはもらった時には一切灰色だと思っていたけれど、こうして日光に当てられると灰色の中にところどころ赤茶けた感じの受けるところやその感じの強くなって斑模様を作っているところがあるのに気がついた。摘まみ上げた石ころはあの時のままで、ずっと冷たかった。
「それ綺麗に洗ってさ、鍋んなか入れてみる? ふっとう石的な」
「え、そんなことしていいんかな」
「いいもなにも、なんなんかようわからんのやろ。実は食べれるもんかもわからんで」
 真面目なのかふざけているのか、私は石ころ越しにざくざくと白菜を切る夏子の背中を見る。
「あ、肉買うん忘れた。やっぱその石ころ鍋入れなあかんな、肉の代わりや」
 私たちはコンロの前に並んで、水を張った鍋を見下ろしていた。
「ほな、入れるで」
 私は黙ってうなずいた。夏子がそろりと石ころを鍋の中へ入れる。カン、カンとくぐもった音が二回鳴って、石ころは鍋底に落ち着いた。夏子はそれを菜箸で鍋底のちょうど真ん中くるよう寄せて、コンロに火を点けた。
「楽しみやな、うまいかな」
「いや、硬いでしょ」
「硬いかあ。うち虫歯ぎみやからそれはちょいやばいなあ」
「虫歯ぎみってなんよ」
「虫歯ぎみは虫歯ぎみやがな」
 豆腐、白菜、水菜、椎茸、これじゃ絶対足りひんと夏子は冷凍のうどんも入れて、最後は雑炊までした。底に沈む石ころは当然かちこちのままで、食べられそうもなく、私たちはお互いの箸で一度ずつつついたきりそれについて話題にすることもなく、食事を済ませた。
 食った食った。でもやっぱ食べられへんかったね。洗い物をしている私の背中で夏子は言った。
「石ころやけね」
 シンクには二人分の食器とお玉と鍋とまな板と包丁と、一応石ころも、あった。
「アキコ、テレビ買わへん。暇やわ。この家娯楽がない」
「娯楽ねえ。私あんまりテレビ見いへんし」
「まあねえ。でもテレビもおもろいで、新喜劇とかおもろいで」
「おもろい、かあ。でもテレビ買うお金ないしねえ」
「なんや、お金の問題かいな。それやったら新聞取ろ。ニュースは大事やろ」
「新聞もお金かかるやん。大学の図書館行ったらただで読めるし」
「図書館行くんめんどくさいやん」
 洗剤を流してしっかりと水切りした食器を丁寧に洗い上げに並べる。石ころは洗い上げには入れずに、台所の窓縁に置いた。じっとりと濡れたままの石ころは、少し黒ずんで見えた。

 あきちゃん、ちょっと変わった。断定して言うのか質問しているのかどっちだかわからない言い方で彩が言う。彼氏でもできた。これは疑問形だ。
「彼氏できとったらもっとはつらつとしとうやろ」
 心斎橋筋商店街は中国人を主にたくさんの観光客がいて、仕切りのないドラッグストアから流れてくる冷気がたまに涼しいだけで、乾くよりも先に次の汗が流れ出して、とても観光気分というわけにはいかなかった。
「あやはのおっちゃ」
「え、なんち」
 彩はさっきから自分の言いたいことが終わると顔をしきりに右へ左へ動かしている。私もミナミと呼ばれるところへ来るのは初めてだったけれど、大阪自体が珍しい彩にはこんなごみごみしたところでも十分に楽しめるようだった。
「人多いね。しかも中国人ばっかし。日本やないみたい」
 やっと入れたチェーンのカフェで彩はきょろきょろとしながら言った。店内は特に外国人観光客が目立つというわけでもなかった。
「わざわざ大阪まで来てスタバってなんかなあって感じよね」
「大阪やってそんな特別なものあるわけやないし。とりあえず人多いけん、私はスタバでもなんでもいいよ」
「そりゃあきちゃんはこっち住んどるけやん。うちは観光に来たんやけんね」
「私やって心斎橋来るん初めてやけん、あやと変わらんよ。それよりあやはどうなんよ」
「え、なんが」
 彩は周りを見回すのをやめて私を見た。元々つり目な彼女の顔が余計に厳しくなって、凛と美しかった。
「彼氏」
「ああ、さっきそれ聞きよったと。よく聞こえんかった。うちは彼氏できたっちいうか、初めからおったよ」
 彩の顔はさっきの厳しさが打って変わって崩れ落ち、緩んだ頬を引き締めようと唇を尖らせている。彩の尖がった唇を見て、高校を卒業した時と変わらないその顔に、薄化粧の施されていることに気がついた。なんだかちくりとした。
「え、初めからって」
「高校卒業する前に告白されて、そっからずっと付き合っとうよ」
「誰と」
「ええ、あきちゃん知っとるかなあ。――小野くん、小野邦弘」
 小野邦弘。そう言われて探してみたけれど、私の記憶の中に小野邦弘らしい気配は感じられなかった。ほら、地味な感じやったかもしれんけどバスケ部の。最後うちとクラス一緒やった。彩はいじらしげにそう言ってまたきょろきょろを始める。でもやっぱり私の中に小野邦弘はいない。うーん、誰やっけ。思い出せん。写真ないの。ええ、写真? まあ人多かったもんね。あるかなあ、写真。
「そういや、この前あきちゃんのお母さん見たよ」
 私の家へ向かう電車の中で彩が思い出したように言った。車内は冷房が効いて外よりは快適だったけれど、昼間かいた汗が変に乾いてTシャツの間でべたついて、気持ち悪かった。
「そうなん。あや、私のお母さん知っとったっけ」
「ちゃんと会ったことはないんやけど、なんかで見たことはあったよ。予備校で働きよるよね」
「なんでそんなことまで知っとうと。予備校で見とったん」
「うん、小野くんがね。小野くん浪人してて、それで会いに行ったらたまたまあきちゃんのお母さん見た」
 ふーん。小野邦弘は浪人しているというわけか。それも母の勤める予備校に。受験に失敗したんだろうか。まあどうでもいいけど。
「あ、そういえばうち居候おるけど大丈夫よね」
 夏子に彩が来ることを言ってなかったかもしれない。
「居候? え、やっぱ彼氏おるんやん」
「ああまあ。彼氏というよりは彼女、かなあ」
 川を渡る鉄道橋が細切れに、夕日が車内をちかちかと照らす。赤くなったり黒くなったりする彩の横顔を、私はぼんやりと眺めて電車は進む。

 服部天神にある私のアパートは駅からは少し離れて、そんなとろかったらチャリつこてもうちが歩く方が速いわと夏子に言われる私の足では二十分はかかる。でも服部天神で母の出せる家賃のところはこのくらい離れないと十分なものがなかったし、結局少し十分過ぎる広さの部屋を借りたけれど、夏子も住むことになったからそれもちょうどよかった。服部天神にこだわったのは駅近くに天神さんを祭る神社があったからだった。特に信仰心が篤いというわけでもなく、一応福岡出身だし、それっぽいものが近所にあった方がいいと言う母に促されて私もその気になって決めたのだった。
「どうも大家のアキラです」
 入居初日挨拶に向かうと、おばあさんと言うには失礼なような、かといっておばさんでは少し浮いた感じのする女性が出てきた。
「今日越して来ました、松本明子です。よろしくお願いします。これ、母からです」
 私は一息に言って、母に持たされたひよこ饅頭の包みをその女性に差し出して頭を下げた。
「まあまあご丁寧に。どうも大家のアキラです。よろしくお願いしますね」
 アキラさんは私から包みを受け取ると、お忙しいでしょうけれどお茶でもどうぞと言って私を中へ誘った。私はこういうことが初めてでどうすべきなのか玄関の前でうじうじしていると、アキラさんはそんな若いもんが遠慮するんじゃありませんよと言って自分はさっさと家の中へ引っ込んでしまった。部屋の片付けもあったし慣れない人と話すというのも若いとかではなく遠慮したかったのだけれど、先に行かれてしまってはどうしようもなく、仕方なく私はアキラさんの後を追った。
 私を客間に通してすぐアキラさんはお茶を淹れにどこかに行ってしまったので、私は一人広い部屋に庭の木を見ていた。
「縒れ杉ですよ」
 アキラさんは戻って来るなりそう言った。
「ほら、葉っぱのところがくるくるまあるくなってよじれてるでしょ。だから縒れ杉。観葉植物ね」
 アキラさんはてきぱきと言った。庭の木は確かに葉が互いに絡まり合って、葉というよりも緑色の枝のようになっていた。ああそう、これこれ。アキラさんは手際よく包みを解いて、そこから二つ、ひよこ饅頭を取り出して、自分の前と私の前とに一つずつ置いた。アキラさんの手は縒れ杉より少しだけ縒れが少ないくらいかなと思った。
「アキラ、さんと読むんですね。契約の時読み方わからなくて」
「苗字ね、あんなの誰も読めやしないでしょうね。下も方に代でフサヨなんて読みにくいもんつけるんだから、あたしゃとんだ迷惑被った人生でしたよ」
 アキラさんはすすと饅頭の包みを開くと、それを一口で事もなく呑み込んだ。
アキラさんは審良と書いてアキラさんだった。アキラさんがどんな迷惑被った人生を歩んで来たのか知れないけれど、審良という読みづらい苗字は何か特別の感じがして少し羨ましかった。松本も明子も平凡で、それで平凡に育ってきた私は名前ですら非凡さのあるアキラさん羨ましく思った。私の名前なんてありふれていてつまらないですよ、そう言おうとして、しかし私は首を振った。ルサンチマン。平凡で何が悪いか。

ちょっと待ってね。そう言って私は鍵を出そうと鞄に手を突っ込んだ。しかし、思い直して指先が鍵に届く前に引っこ抜いて、そのまま手をドアノブにかける。やっぱり。
「え、鍵かけとらんと」
「ううん、もう慣れたけん」
 お邪魔しまーす。慣れない声色に夏子はすぐ反応した。
「え、だれ」
 夏子は廊下の先に顔だけ出してこちらの様子を窺っている。しばらくして彩の隣にいる私を認めたのか、夏子は安心したように私たちを出迎えに来た。
「なんや、アキコかいな。と、あんたはだれや」
 夏子は少し尖がった声を出した。それに気圧されてか、彩は困ったようにこちらを見る。
「あきちゃん、言ってなかったん」
「夏子ごめん。福岡から友だち泊りに来るん言うん忘れとった」
 私は少し頬が赤らんでいくのを感じた。夏子は私と彩とを交互に見る。
「ほんまにアキコの友だちか。にしてはすらっとしててべっぴんさんやのお。あ、森夏子です。アキコの、えー、うちアキコのなんや」
「おっさんみたいなこと言って。夏子は居候。ほら、ちょっと夏子。あや上がって」
 あ、うん。彩は夏子の引いたところに座ってスニーカーを脱いだ。夏子はそれを品定めでもするような目で見ている。
「朝からおらんおもたら、こんなべっぴんさんとデートしとったんか。アキコも隅に置けんのお」
「その言い方なんなんよ」
「広島弁じゃ」
 あの、百合野彩です。はじめまして。彩は夏子に向き直って細々と言う。夏子は少し固まって何も言わず彩を見ていた。だんだんと夏子の顔が険しくなる。
「――ゆり、ちゃん、ね。初めまして」
 夏子はリビングへ駆けていった。
「初めましてでいきなしタメ口なんもあれやから、うちとゆりちゃんのタメ口は二時間後解禁な」
「二時間後、ですか」
「そう、二時間後。だいたい八時前やな」
 私が隣の部屋で洗濯物を取り込んでいると二人はこんな会話をしていた。タメ口解禁って夏子最初からあやにタメ口やん。
「二時間に何か意味はあるんですか」
「映画ってだいたい二時間くらいやろ」
「なるほど。今から何か観るんですか」
「え、観いひんで。晩ご飯食べに行くやろ。なんでなん」
「だって今映画って」
「あ、映画は別の話」
「別の話。私、気がつきませんでした」
「まあ初めましてやからな」
「そうですね。はじめましてですもんね」
 私は二人の会話を聞きながら、いつもより乱暴に洗濯物を畳んだ。
 梅田は任しときいと言う夏子について行って、私たちはチェーンの居酒屋へ入った。夏休みの飲食店は混んでいたり空いていたりまちまちだった。
 とりあえず生でいい? 生、三つで。店員が行ってしまってから私は夏子を小突いた。
「チェーンやと年齢確認とか結構されるんやからね」
「え、そうなん。でも店員さん行っちゃったけど」
「あとでなんやかんや言われたらややこしいやん」
 ちらと彩を見やると、彩は澄ました顔で壁に貼られたメニューやポスターを見ている。みんなそんなもんなのか。私はそろそろと座り直して夏子と一緒にメニュー表を見た。
 なんこつ唐揚げ、鶏つくね三本、刺身五種、シーザーサラダ、だし巻き。イサキ食べたい。イサキはないでしょ。じゃあゴーヤチャンプルー。あとゴーヤチャンプルー一つ。夏子はするすると注文する。ビールを持ってきた店員もするするとハンディに手を動かす。ゴーヤチャンプルー? 彩が私の後方にある貼り紙を指さす。ああ、ゴーヤチャンプルー、一つ、ですね。
 私は追加で注文した枝豆をつまみに薄いハイボールを飲んでいた。大皿で来たゴーヤチャンプルーには誰も手をつけない。
「ちょっとお手洗い」
 彩が言って立ち上がると、夏子がその足首をつかんで引き留めた。夏子はかなり酔っ払っていた。
「ゆりちゃんトイレー? うちも行くー」
「夏子さん痛いです。そんなんしたら漏れよう」
「うわあ、ゆりちゃんのしょんべん垂れえ」
「ちょっと夏子声おっきいよ」
 私は夏子の足首をつかむ手をいた。うぎゃとわざとらしく叫んで夏子は足首から手を離した。そわそわと周りを見渡したけれど、賑やかな店内で夏子の声を気にする人はいないようだった。
「うちにはさあ、夢があ、あるんよ」
 標的を失った夏子は今度は私にもたれかかって言った。
「夢?」
「そう、夢。世界平和」
「えらくおっきくでたね」
「夢はでっかくなくっちゃ、夢じゃねえよ」
「そっか。世界平和って具体的になにすんの」
「うーん、世界平和は結構な概念やけえのお。なかなか。具体的になんかできることあった時に、具体的になんかする」
「なんそれ。でも世界平和ってちょっと現実感なさすぎやない。夢っていうよりか、偽善とか綺麗ごととかそんな感じ」
「ふん、うちは本気やけえの。人の夢をバカにしやがって。夢に現実感あってどうすんのさ。そっちの方が夢じゃねえっての。一軒家建てて庭で家庭菜園して採れたてトマト丸かじりする、とかそんなこと言えってえのか。綺麗ごととかそんな風に思うんはアキコの問題じゃけ」
 バカにしやがって、バカにしやがって。夏子はそう言いながら私のお腹をずんずん殴った。柔く繰り出される拳は、飲んで食べての満腹の私にはずしりと響いた。
「夏子さん寝ちゃったん」
 彩が戻ってきた時、私は夏子の頭を膝に載せて、ほとんど氷だけになったジョッキを所在なく口にしていた。
「結構飲んだみたいやからね。あやとおるん楽しかったんちゃう」
 自分で歩こうとしない夏子を私たちは交代ばんこに支えながらアパートへと戻った。帰り道、夏子を彩に渡してふいに軽くなった体で、私は夏子の言った夢について考えていた。
私に夏子の言うような夢はない。高校が、その同級生の多くいる九州が嫌で逃げ出した大阪だったけれど、卒業後はどこかの会社に就職して仕事をしてということからは逃げ出せそうもなくて、そのうち相手がいれば結婚でもするんだろうか、まあ結婚はしないんだろうか、そんな風な未来を描いていたけれど、はたしてそんな風なものを描くのは私自身なのかどうかと問われると、よくわからない。私の未来はそれを描く本人が不在のままに描かれていた。しかし、画家のないの私のキャンバスは何もなく真っ白のままというわけではなく、全体にぼやぼやとした霞のような、でもはっきりと確かに何かが描かれていた。では一体誰がそんなもの描いたというのだろう。夏子のキャンバスはきっと真っ白だ。酷く酔っ払っていたから世界平和と本気で言っていたのかはわからないけれど、なんとなく夏子は本気でそう言っている、ような気がした。世界平和なんて到底無理だ。本気でそうしようと言うのなら、こんな居酒屋でふらふらになるまで飲んでいるんじゃなく、もっと世界へ向けて大きくプロパガンダを発しているくらいじゃないと到底無理だ。人間的に未成熟だといってもこの時代そのくらいのことはできるし、実際私や夏子なんかよりずっと若いのに国際的な場で講演したり活動したりしている人はいる。そのくらいのことがどのくらいのことなのか、私も、もちろん夏子だってわかっていないだろう。わかっていないのは同じでも、夏子が世界平和が夢だと口にする時、そういう順を追って過程を踏んで実現への道筋を言っているんではなく、そういうものは全部すっ飛ばして、ただ熱心にそんな風な夢を見て言葉にしている、そんな気がした。夏子が言った世界平和を夏子自身が実現できるなんて思わない。やっぱり絶対に無理だと思う。でも夏子の何も描かれない真っ白なキャンバスの前にはちゃんと夏子は座っていて、乾いた絵筆を手にしっかりと夏子の彼女自身を見据えている。そんな、気がした。私はまた逃げ出したくなった。隣で彩の肩に担がれる女を疎ましく思った。
「あやって、夢、ってある」
「え、夢? 突然なんね。そんなもんうちにはないっちゃ」
 そろそろこうたーい。彩は言って、もう完全に眠ってしまっている夏子を私の背中に乗せた。夏子の華奢な体が私の背中にずしりと響いた。
 彩が帰って何日かしたある日、私たちは一日中オセロをしていた。前の日に、遂にこの家にも娯楽が来たぜと言って夏子が実家から持って帰ってきたのだ。私が弱いのか夏子が強いのか、私は五回に一回くらいしか夏子に勝てなかった。朝も昼も抜いてずっとオセロをやっていて、あんまり勝てもしないしだんだん集中も切れてきて、昼間の暑さが少し引いて勘違いした蝉の鳴くのが時折遠くに聞こえるくらいに、私はいい加減オセロに飽きていた。それでも夏子はいつまでもやめようとしない。
「ねえ、もう、ちょっと一回やめよ。お腹空いた。今日なんも食べてないよ」
「ええ、今からがいいとこやのに。ご飯なんかいつでも食べれるやん」
「いや、オセロだっていつでもできるやろ」
「なんやねん。アキコよええもんな」
「そんなことないし、白やけん。私黒の方が強いもん」
「なんでやねん。そんなわけあるかいな。じゃあ白黒交代な」
「ご飯、食べてからね」
 私はオセロ盤の前から動こうとしない夏子を後にして、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中にはご飯になりそうなものは何もなかった。思ったよりお腹が空いていたようで、私には買い出しに行く気力もなかった。
「あとでまたオセロしたい人は買い出しに行く」
と私は夏子を煽り立てたけれど、夏子はオセロ盤から全く離れない。
「そんなんアキコがいやいやオセロ付き合わされてるみたいな言い方やん」
え、そうやけど。冷蔵庫から漏れ出す冷気に当たりながら言うと、やっと夏子の動き出す気配がする。なんやねん、くそったれえ。うちが買いもん言ってる間に勝手に一人でオセロしてたら承知せんからな。言い捨てて夏子は足早に家を出た。
一人でどうやってオセロすんねんな。私はテーブルの上のぱっと見ても明らかに黒の部分が多くなった盤をぼんやりと見た。
夏子はオセロは白と黒とはっきりしてていい、と言っていた。世の中もこんくらいはっきりしてりゃいい、とも言っていた。私はそれに何も言わなかったけれど、世の中がオセロみたいに白か黒かで二極化していたら、私はきっと生きていけないだろうな、と思った。そんな世界で、生きていけなくなるのはきっと私だけじゃないだろう。夏子だってわからない。結局私たちは世の中の白とも黒ともつかない中途半端なところに生きて、中途半端なところに死んでいくのだろう。白黒はっきり生きるのが強いとかそうでないのが弱いとかそんな話ではなくて、そもそも白黒はっきり生きたいなんてこと、少なくとも私は望んですらいなかった。きっと私はただぼんやりと生きていくんだろう。ぼんやりと生きて、世の中がひとりでに流れていくのをぼんやりと眺めて、そのままぼんやりと死んでいく。ぼんやりといつまでも焦点の合わない人生。別に嫌な人生ではないなと思った。でも、時々、思いがけず世界が強く濃く現れることがある。そして時々、私はそんな世界に、いつもよりもずっと強く鮮やかに彩られた世界に、その中に生きてみたいと思うことがある。でも唐突に現れるその世界は、私の体を、心を置き去りにして、私は立ち止まる。私はそんな鮮やかな世界には適さないのかな。刺激が強くて、案外私はやわなのかもしれない。私はそうしていつも淡くぼんやりとした世界にいて、ぎゅっと歯を食いしばっている。ぎゅっと食いしばっているとだんだん歯の奥が痛くなってきて、そうなると私はそれを続けられなくなってそっと食いしばるのをやめてしまう。案外気に入っているのかな、と私は思う。なんだ、なんだ。夏子、早く帰ってこないかな。

夏子にアキコは帰省しないのかと言われて、私は初めて帰省するという考えが頭に浮かんだ。母とはこっちに来てからほとんど連絡を取っていなかった。ゴールデンウィークに入る前に帰って来るのかと聞かれたけれど、学祭もあったしいろいろと行ってみたいところもあったので、帰らないと返事をして以来、母とはそれきりだった。
三日後に帰ると連絡を入れて三日しても母からは何の返事もなかった。朝どうしようかと迷っていると、そんなん自分ちやねんからテキトーに帰ったればええねんという夏子の言葉に押されて私は大学に入って初めて、人生で初めて帰省というものをすることにした。
新大阪駅は相変わらずの人混みで、しかし私ももう慣れたものでそんなことには臆せずすたすたと新幹線のホームへ向かっていると、どこかで見た覚えのある影が一つあった。猫背気味にベージュのリュックサックを背負ったその影は私と同じ年くらいだろうか。その青年も新幹線のホームへ向かっているようで私はその後ろをしばらくつける格好になったのだけれど、青年は私より歩くのが遅く新幹線の改札を通って少ししたところで私はその青年と横並びになった。私より歩くのが遅いって夏子だったらなんて言うだろう。私はその青年を追い越す間際、ちらとその顔を見やっていつどこで彼に会ったのかを思い出した。青年は、私がこっちへ来た初日、私が当てずっぽうに道案内した青年、その人だった。こんな偶然もあるものなんだと私は少し驚いて、そのまま博多行きのホームを目指したのだけれど、背後で私に向かってくる足音が聞こえる。
「あのう、ちょっと。すみません。勘違いかもしれないんですけど、半年ほど前ここで僕に大阪駅への行き方、教えてくださった方ですよね。あの時は本当にありがとうございました」
 私は足を止めて青年の顔を見た。青年の顔に私の記憶にあるあの不安そうな表情はもうどこにもなく、猫背気味なせいか顔面の窪みに普通よりも多く陰のあるように見えるけれど、よくいる好青年といった感じだった。タイプではなかったけれどまあ悪い気もしなかったので、私はきちんと受け答えすることにした。
「ええ、そんなこともあったかもしれません。よく覚えてはいませんが」
「きっとそうですよ。ちゃんとお顔を拝見してはっきりと思い出しました。僕、田舎の出であの日は本当に、この人でしょ、気分悪くって、道もよくわからないし、本当に助かりました」
 青年は瀬戸口俊弥と言った。今度は春ときたかと思ったけれど、そうではなく、すぐれるの俊だと青年は言った。俊ですぐれると読むということを私は初めて知った。鹿児島の伊集院出身だと言った。鹿児島の伊集院がどこにあるのだかわからなかったけれど、私も北九州出身だと言おうとしてなぜか言いよどんでしまった。福岡出身だと自己紹介した。
「え、それならこの間のお礼もしたいですし、もし松本さんのご都合がよろしければ博多でお昼ご飯でもご馳走させてください」
「でもそんな、瀬戸口さん、鹿児島なら博多で一旦改札出ないといけなくなりますよ」
「いや、今日はどうせ博多で一泊する予定でしたので僕のことは何の心配もいりません」
「――そうですか。では、まあ、お言葉に甘えて」
 私はこの青年に何か弱みを握られているような気がして、本当は北九州出身だということもなので降車駅は小倉だということも言い出せず、そして青年の誘いを断ることもできなかった。私はせめて移動の間だけは離れて過ごそうと指定席の予約をしているふりをすることにした。
「では、私この車両ですので。また博多で」
「え、松本さんグリーンですか」
 私の立ち止まった乗車位置はどうやらグリーン車の位置だったようだ。
「あ、間違いました。もう一つ先でした」
 私はスマホの画面を確認するふりをして、もう一つ先の車両の乗車位置へ進んだ。
 では、また博多で。そう言って瀬戸内くんはずっと前の方へと歩いていった。私は縮こませるようにだんだんと小さくなるその背中を黙って見送った。
 連絡先も交換していなかったし、そのまま無視して小倉で降りてもよかったのだけれど、そう考えるたびにどこかきりきりとつかまれるような痛みを感じて、私は沈鬱な気持ちで小倉駅のホームを見送った。
「よかった。ちゃんと会えましたね。ご連絡先お伺いしていなかったので、あのままもうお会いできないかと、ちょっと思っていました」
瀬戸内くんは明るく言う。
食べたいものがあるか聞かれたので、私はなおざりにオムライスと答えた。駅に隣接するショッピングモールの中をしばらく探して、私たちは洋食屋に入った。
 私はデミグラスソースのオムライスを注文した。瀬戸口くんはそれにチーズの載っかって私のよりもサイズの一つ大きいオムライスを注文した。オムライスを食べながら私は瀬戸口くんは大胆で慎重な人だなと思った。それと少し粘っこい感じのする人だなとも思った。デミグラスソースのオムライスは味が濃くて時々水を飲まないといけなくて一息には食べられなかったけれど、とても美味しかった。瀬戸口くんのオムライスは私よりも大きいサイズだったのに、瀬戸口くんは私よりも随分と先にオムライスをさらった。瀬戸口くんのコップの水は少しも減っていなかった。
「また松本さんと、お会いできますかね」
 洋食屋を出て、私を家まで送ると言う瀬戸口くんの申し出を断った後、瀬戸口くんは言った。やっぱり瀬戸口くんは大胆で慎重だなと思った。そして少し粘っこい。
「ええ。またそのうちに、機会があればお会いできるんじゃないでしょうか」
 瀬戸口くんはしばらく空気を噛むような顔をしてから私を真っ直ぐに見つめて、
「そうですね。またご連絡しますね。機会があれば」
と言った。
「ええ、ではまた」
 私は言って振り返って博多駅の方へと向かった。今度は瀬戸口くんの背中を見ずに私たちは別れた。

 久しぶりに訪れる小倉は随分と変わったなんてことはなくて、半年見ないだけでは何も変わらない私の知る小倉そのままだった。守恒は小倉よりももっと変化の少ないような気がして、でもあまりにも変わらなさすぎると脳がおかしな働きでも起こすのか、何もかもが半年前と同じはずなのに、私にはこの実家の最寄り駅の周囲が以前よりもずっと寂れてしまったように感じた。それは駅から家へと続く道でも同じだった。
「ただいま」
 半年ぶりに開けた玄関の中には、少しだけい草の香りの混ざるもわっと蒸したような空気が流れていた。母はまだ仕事で帰っていないようだった。サンダルを脱ぎながらスマホをチェックする。夏子から二件と瀬戸口くんから一件、通知があっただけで母からのものはなかった。まだ別れてから一時間も経っていなかったのに瀬戸口くんから今日はありがとうという趣旨のラインが来ていた。母に一応家に着いたという連絡を入れて、私は私の部屋だった部屋に入った。私が寝起きしていた頃よりだいぶすっきりとしていたけれど、それ以外は手つかずのままで部屋は保存されていた。本棚や勉強机の上には目を凝らしてわかるかわからないか程度の薄埃が溜まっていた。
 本棚に覚えのない文庫本が数冊あって、不思議に思い、私はその一冊を抜いて床に寝転んだ。文庫本は私が卒業と進学とのお祝いに高校の担任にもらった小説と同じ作者の別の作品だった。母が置いたのだろうか。でも母は本好きというタイプではなかったから母がこんな小説なんか買うのかな。担任にもらった小説はとてもおもしろくて引っ越しした当日か次の日くらいに読み終えてしまったけれど、私は他の作品を買って読むことはなかった。読みたくなかったというわけではなく、何となく買わないでいてそのまま忘れていた。担任は大阪の大学で文学部にいてこの作家を読んでいなかったら恥ずかしいとまで言っていたけれど、学部の友だちの間でこの作家を知らなければ恥ずかしいというほど著者の知名度が高いということはなかった。夏子もこの作家を知らないと言っていた。私の手に取ったものは連作の中の一冊だったようで、開いて数ページ読んでみたけれど、話が唐突で上手く理解できなかった。本を棚に戻して入れ替えに一巻目を探して引き出した。再び寝転んで私は読書に耽っていった。
 玄関の開く音がする。遠くでビニールの擦れる音がして止んだと思ったら、部屋の扉が開かれた。
「明子、戻ってきとったん。戻って来るんやったらはよ言ってくれんと。お母さんなんも準備できんけ」
「やけん、ノックしてっち言いようやん」
 私は寝ころんだまま扉の前に立つ母を見上げた。
「なにがノックや。あんたおらんかったらこの家誰もおらんのやけ、誰もおらんとこにノックするんはおかしいやろ」
 母はリビングへ引き返した。またビニール袋の擦れる音がする。
「あんたクーラーもつけんと暑ないの」
 暑かった。暑かったけれど、私はエアコンをつけなかった。
「お母さんさ、小野くんって知っちょる」
 お風呂上りにホットミルクを飲んでいる母に聞く。寝る前にホットミルクを飲むのは、私の物心がつく前からの母の習慣だった。私はソファに寝そべっていた。真っ直ぐに寝転ぶと足先がソファから少しはみ出る。
「なにくんって」
「小野くん」
「小野くんってどこの小野くん」
「お母さんの働いてる予備校に通っとるらしいんやけど、あやのさ彼氏らしいんよ。小野邦弘くん」
「そんな子おったかも知れんけど、お母さんの担当と違うかったら知らん」
「ええ、私と一緒の高校だよ」
「あんたと同じ高校の生徒いちいちチェックなんかしとらんけん。だいたい友だちの彼氏なんやろ。あんた別に関係ないやん」
「まあそうやけど」
「同じ高校なんやったらアルバム載ってんのと違うの」
 確かにアルバムには載っているか。私は卒業アルバムを部屋から引っ張り出して、ソファに戻ってしかりとした分厚いページをめくった。半年ちょっと前のことなのに、整然と並ぶ卒業写真はとても昔のことのような、自分ではない誰かの思い出を見せられているような、そんな感じがする。それで私と小野邦弘とは全く関係ないということはないんだろうけれど、同級生だし彩の彼氏だし、でもやっぱり母の言うように私は小野邦弘と何も関係ないような気がした。彩のいたクラスのページを開く。三年二組。小野邦弘はすぐに見つかった。小野邦弘はクラスメイトたちの笑顔に囲まれて、小野邦弘もやっぱりそれと同じような笑顔ですっぽりと溶け込むように収まっている。小野邦弘は彩に見せてもらった小野邦弘よりも頬が少しふっくらとしていた。少しふっくらとした小野邦弘を見ても少しふっくらとしているなとそれだけで、他に何も思わなかった。彩の彼氏だからって私は何か期待していたのだろうか。長い間そのふっくらとした頬を見つめていたけれど、私の内には何も起こらない。彩の彼氏だから、私は何を期待していたんだろう。だんだんと焦点がずれて、何も変わらないはずの小野邦弘の笑顔が崩れていく。目に焼き付いた表情がだんだんと姿を変えていく。

 私の帰省中どこかに慰安旅行していたという夏子と戻ってくる日を打ち合わせて、私たちは一緒に下宿先のアパートへと帰ってきた。
「慰安旅行ってどこいっとったん」
 駅からの帰り道、私は夏子に半歩遅れてついて行きながら尋ねた。夏子の顔は、よく見えない。
「気になるか」
「いや気になるかっち言われるたら、よくわからんけど」
「なんや、別に気にならんのか」
「気にならんって別にそんなこともないけど。てか普通に教えてよ」
 ふふっと夏子は声を漏らして私の半歩先を行く。夏子の肩にぶらさがるバッグは、一週間私と同じだけどこかへ出かけていたのなら少し心許ないサイズだなと思った。
「まあそんな焦りなさんなって。うち昨日は実家におったよ」
「夏子も帰省、してたってこと」
「いや。実家におったんは昨日だけ」
「じゃあそれ以外はどこおったん」
 まあまあ。そのうちわかるって。夏子はくるりとこちらへ振り返ってすまし顔で言う。再び前を向く彼女の背中を見ながら私はいらいらとした。なんてことのない世間話に過ぎないのに、変に隠し立てして。夏子がどこへ行っていたかが気にならないわけではないけれど、すごく気になっているということもなかった。テレビに途中変なところでCMを挟まれた時のような感覚だった。でもその苛立ちの原因はどうでもいいところでCMを入れた番組にあるのではなく、どうでもいいとは思っていても苛立ちながらCMの明けるのを待ってしまう自分にあるのだろう。本当に気にならないのであればチャンネルを変えてしまえばいい。でも私は夏子がべらべらとどうでもいいことを話すのにろくな返事もしないでいらいらと、さっきよりも更に半歩遅れて夏子の後ろをついて歩いた。
「あら、夏子さん、松本さん、おかえりなさい」
 夏子の後ろを歩いてその踵を睨むようにしていた私は、意外な声の出迎えに思わず顔を上げた。
「フサヨさん、ただいまー」
 いやに親しげに夏子が返事する。私たちを出迎えた声の主はアキラさんだった。
「夏子さん、おかえりなさい。ご実家はいかがでしたか」
「いかがって毎週帰っとるからな。別にいつも通りでした」
「いつも通りですか、それは何よりです」
 親しげに会話する二人はそのまま住民用のエントランスではなく、エントランスとは別のアキラさんの家の玄関の方へと歩いていく。
「アキコなにしてんの。はよこ」
 アパート前の通りが私の頬を刺す。突然のアキラさんの出迎えとそれを戸惑うことなく受け入れる夏子の自然さに私は行き場を失ったように立ち尽くしていた。夏子はアキラさんについて玄関をくぐろうとしている。アキラさんの姿はもう見えない。
「若いもんが遠慮するもんじゃありませんよ」
 アキラさんの声が玄関の奥からけざやかに通りに響く。アキラさんも夏子も先に行ってしまっては仕方がないので、私もゆらゆらと彼女たちを追って玄関をくぐった。日はもう沈みかけていた。
「それで夏子はのこのこアキラさんについて行ってたってこと」
「旅は道連れ世は情けってな。いやあ温泉最高やった」
 夏子は私がお土産に買ってきたひよこ饅頭をむしゃむしゃやりながら言った。私たちは私がいつか大家さんの家に一度だけお邪魔した時に通された客間にいた。夏子いわく、私が福岡に帰ったその日に自分もどこか旅に出ようと思って考えなしに家を出たところでアキラさんと出くわし、ちょうどアキラさんも松山の温泉地へ行くところで、それならばと当てのなかった夏子はアキラさんに同行することにしたらしい。アキラさんも一人で行くよりはと快諾したそうだ。
「私温泉街っての初めて行ったからどんなもんなんかと期待してたんやけど、道後温泉って温泉街っていうよりか銭湯が二三個あっただけでたいしたとこやなかったわ。温泉は最高やったけどな」
 夏子は二つ目の饅頭の包みを開けていた。
「やっぱさ、ひよこ饅頭って言うからにはさ、この饅頭の工場には大量のにわとり饅頭がおるんかな」
 夏子が饅頭をくるくるといじくりながら言う。饅頭の夏子の触れたところが少しへこんでゆっくりと時間をかけて元に戻る。
「にわとり饅頭?」
「ひよこの親はにわとりっしょ。やからひよこ饅頭育てるんはにわとり饅頭やん」
 育てたらにわとり饅頭になるんかななどとぶつぶつ冗談を言う夏子を無視して私は庭を見た。客間から見える庭には葉をくるりと内に巻いた縒れ杉が一本、相変わらず植わっていた。前に見た時よりもくるくると巻かれる葉の青が強くなっている気がする。
「そうあんまりじっと見てやると恥ずかしがって引っ込んでしまいますよ」
「え」
 いつの間にかアキラさんは夏子の隣にいて、私と同じところを見ていた。
「引っ込むって何がですか」
「縒れ杉がですよ。あの観葉植物」
 アキラさんは植わってある縒れ杉を見ているようで、でもそのもっと先にある何かを見据えるような目をしていた。
「縒れ杉が、どこへ引っ込んでしまうんですか」
「そんなものわたしは知りません。わたしだってあの木が引っ込んだところなんて見たことありませんから。でもそういうものでしょう」
「そういうものですか」
「そういうものです」
 私はアキラさんの遠くを見るような言葉にふわふわと視線を泳がせた。夏子はまるで私とアキラさんとの会話が聞こえていないかのようにテーブルの肌理の澱んだところを指でやたらに擦っている。
「お二人とも今日はお疲れでしょう。銭湯にでもお行きなさいな。確かそのへんの小さい引き出しにチケットが何枚かあるはずです。差し上げますので、お行きなさいな」
 アキラさんは庭の縒れ杉を見据えたままに言った。夏子はまだテーブルを擦っている。遠くに蜩の声が聞こえる。
「お行きなさいな、小さい引き出しの」
 夏子は本当に聞こえていないのか、憑りつかれたようにテーブルを擦り続けている。アキラさんもじっと庭を見続けている。私は立ち上がりアキラさんの言う引き出しを探った。引き出しの四つある小物入れは物が雑多に仕舞われていて、でも筆記用具、その他の文房具、はがき類、切手やベルマークなどの小さな端切れと雑多にあって整然と仕舞いわけられていた。アキラさんの言うチケットははがきの段か切手の段だろうと思って下の二段を探った。はがきのところにはなさそうだった。それを元に戻して最下段を引くと、勢いが良すぎたのか引き出しが丸ごと飛び出て、私はそれを床に落としてしまった。
「すみません」
 アキラさんは相変わらず窓の外を見つめている。夏子は私が引き出しを落とした瞬間ぴくりとこちらを見たような気がしたけれど、視線を向けた時には夏子も変わらずテーブルに熱心にしていた。二人とも特に気にする素振りを見せなかったので、私はしゃがみこんで散らばったものを拾い集めた。しかし、拾い集めてすぐ私は手を止めた。引き出しの中は切手やベルマーク以外にも指輪やどこか外国の硬貨、簪のようなものといろいろ入れられていたようで、それが私の足下で砕けたガラスのように散らばっていたけれど、その中のくすんだ灰色をした小石を見て、私の手は止まった。元から床に落ちていたのか引き出しから転げ落ちたのかはわからないけれど、その小石は似ていた。ほとんどそのものと言っていいほどに似ていた。それは母に渡されて今は私の部屋の台所の窓縁にあるはずの石ころに似ていた。ちらとアキラさんを見やる。彼女はまだ窓の外を見ている。夏子は、夏子はテーブルを擦っていた。

「この辺に銭湯なんかあったんやな」
 アパートとは線路を挟んだ反対側に銭湯はあった。アキラさんの家を出て、荷物を抱えたまま私たちは銭湯へ来た。
「アキコ知っとった」
 私と夏子とは脱衣所のロッカー前に並んだ。
「夏子さ、さっきなんでずっとあの部屋のテーブル擦っとったん」
「ああ、あれ。別に意味ないで。ああいうボケ」
「ボケ? アキラさんも私も無視してあんなことしてるんがボケなの」
「無視というかツッコミ待ちやってんけどな。アキコもまだまだやな」
 私たちはするすると着ていたものを脱ぎ捨て、裸になった。
「てかさ、アキコ銭湯の券探してたんやなかったん。うち普通にお金払って入ってんけど」
「私もお金払ったよ。チケットは見つからんかった。でもそのかわりこれ、見つけた」
 私はタオルに包んでいた石ころをこっそりと夏子に見せた。
「え、鍋石やん」
「鍋石やないけ、お母さんにもらった石。でもやっぱりそうやんね」
「いやでも、それフサヨさんとこにあったん」
 私はうなずいた。
「フサヨさんが盗んだってこと? うちもアキコもおらん間に」
「わかんない。まだうち帰ってないし。似てるだけかもしれん」
「いやいや、似すぎやろ。絶対それやん」
「やっぱりそうなんかな。でもこんなもの、盗むかな、普通」
「知らんけどわざわざアキコのお母さんがアキコにくれたんやから、ただの石ころとはちゃうんやろ。鍋で煮ても食えへんかったし」
「そうなんかなあ。うーん、ただの石ころにしか見えないけどなあ」
「アキコちゃうって。石は普通鍋で煮ても食べられへん」
「え」
夏子は洗面具をまとめて浴場へと向かった。私も石ころをタオルに包み直して夏子の後を追う。
私はおかしな風に見られないようそれらしい顔をして、タオルに石ころを包んだまま体を洗った。ガーゼ生地の柔らかいタオルは石ころで肌を程よく押し込んで、この洗い方は案外気持ちよかった。擦りつけるごとに肌の一番上のところが削られていくように、タオルの通ったところに赤い痕が残る。でも全身あらかた洗い終えて初めのところに戻ると赤かった肌も元の色に戻っていた。何度繰り返しても同じように赤い肌はいつの間にか元へと戻った。
浴槽の中は少し熱めのお湯が張ってあって、私は浅い浴槽に膝を抱えるようにして湯に浸かった。熱い湯が私の全身をひりひりと刺激する。夏子は向かいの別の浴槽でぶくぶくと泡立つ中に寝転んでいた。湯面を揺らすあぶくが何度も白く弾けて、私に夏子の体を顔と足先以外何も見えなくする。膝を抱えてぶくぶくと水の弾ける音を聞きながら、私は何だかどこか反省しているような気分になった。見下ろす湯船は静かに揺らいで、私の顔を中途半端に透かして水底を映す。握っていた拳を開く。石ころは真っ直ぐに水底について、こつん、と誰にも届かない音が湯船に広がった。
「いやあ、いい湯やったな」
 髪を濡らしたまま私たちは並んで歩いた。空は夕暮れを通り過ぎて静寂の色をしている。夏の夜風が火照った肌を心地よくさらう。
「涼しいね」
 私は夏子の横顔を見た。
「あっちいけどな。でも涼しいな」
 風呂上がりの爽やかな様子と濡れた髪が夏子を艶やかに彩っていた。夏子には今の私がどう映っているんだろう。
「コンビニでアイスでも買ってく」
「ううん、とりあえず荷物置いちゃって、そっからまたお散歩しよう」
「お散歩か、ええな。ほんならはよ帰るで」
 夏子は私の隣から飛び出して、自分のペースで 私の前を行く。私はそれに置いて行かれないように早足で歩く。
 ちょっとだけ待って、と言って私は荷物を置いてすぐ出かけようとする夏子を止めた。右手に石ころを握って台所へ確かめに行く。台所の窓縁には、右手にある石ころとよく似た石ころがそこへ置いた時のまま、あった。私は驚いて右手を確かめる。右手の中のものと窓縁のものは、色も形もほとんど同じでとても似ていたけれど、細かに見ていくと少しずづ違ったところがあった。窓縁の石ころの表面はどこもかしこもなめらかで強くにぎるとするりと手のひらから抜け出してしまいそうだったけれど、右手にあるのはそれよりかは少し表面が粗い。色も窓縁の石ころの方が濃くてより黒に近い灰色をしている。なんだ、勘違いか。アキラさんがこんなもん盗むわけないもんね。私は右手に握られる石ころを窓縁へ置いて、その二つを並べた。並べて、見て、二つはやっぱりとても良く似ていた。私は明かりを消して玄関で待つ夏子の元へと向かった。

冷めない、

冷めない、

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-10-27

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