女王の時代 後編

後編です。

 十一月中旬。文化祭より数日後、私は六号館の路地裏を駆けていた。
 追われていた。相手は数人の女子――春永春水の狂信者たちであった。
 あの演説によって、私は「春永春水を討ち取った者」としてかなりの支持を得た。春永春水のファンたちからも、良きライバルとして認められた。
 だがもちろん、その存在を許さぬ者もいる。それが一部の狂信者たちであった。六号館一階多目的ホールにてサイン会を終えた私は、〈ロブスター〉に戻ろうとキンキンと冷えた廊下を歩いていた。文化祭の残滓がまだちらほらと散乱している。倒れた看板、こぼれたペンキ、忘れられた食券……。それらを傍目に鼻歌を歌っていると、突如、腕を掴まれた。驚いてパッと振り返ると、血走った眼の女子生徒が四、五人。全員、頬に『春』というタトゥーがあった。シールであると思いたい。
 身の危険を感じた私は、咄嗟に教室と教室の隙間――路地裏へと逃げ込んだのであった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 静かな逃走劇であった。狂信者たちは何も云わず、それでも確実に、私の影を追ってきている。時折響く足音や呼吸音がその証左だった。とにかく〈ロブスター〉の位置を知られてはならないと考え、東側へぐるりと回った。そのまま正面玄関に向かい、六号館から脱してしまおう。
 助けを求めようとスマホを取り出し、さて、誰の連絡先も知らないことに気がついた。乾も病方も羽音も知らない。そういえば……連絡先の交換という単純な思いつきさえ、友人関係に不慣れな私からは程遠いものだった! この場で叫んでどこかに匿ってもらうという手もあったが、そんなことできるわけがない。
 スルスルと狭い廊下を抜けていく。視界を、正体不明のクラブたちが幾つも過ぎ去っていく。こんな奥地にまで蔓延っているのか。六号館という世界は計り知れないな、とつくづく思う。
 東側二階、吹き抜けに面した広い廊下へと出た。手すりを掴み、思わず座り込む。息が荒い。喉が張り付く。背中を冷や汗が伝っている。
 目を凝らして一階正面玄関を覗いた。
 女子が二人、うろうろしているのが分かる。ちくしょう、既に抑えられていたか。ならば裏口だ。一回り小さい出入り口が反対側にあったはず。そこを目指そう。……そこも抑えられていたら? いや、考えるな。取り敢えず向かえ。
「いたっ! いたっ!」
 そんな声がした。振り返ると、女子が一人、こちらを指していた。やばい、と反対へ走り出そうとする。しかし、その先からも別の女子が現れた。さらに別方向からも二人。たちまち半円状に囲まれてしまった。
 背後には手すり。これ以上は下がれば一階へ真っ逆さまだ。この人数を相手に強行突破も難しいだろう。
 迫りくる、頬に描かれた『春』の文字――。
 私は震える手をギュッと握った。唇を噛み、この先の運命を覚悟する。
「飛べッ!」
 そのとき、階下から声がした。
「飛ぶんだ!」
「無理!」相手が誰かも分からず、応える。「死ぬから!」
「死なない! 信じてくれ! 手すりを超えろ!」
 じりじりと女子たちが距離を詰めてくる。詰めきったところで一気に来るつもりだ。考えている時間はない。このまま大人しく餌食となるか、正体不明の声を信じて一階へと落下するか。
「あぁ、ちくしょう!」
 身を翻し、手すりに手をかけた。見下ろすと、白髪の男が両手を広げてこちらを見上げている。「来いッ!」
 意を決して飛び越えた。
 女子たちが息を呑む。
 フワッと一瞬の浮遊感に包まれた後、背骨と脚に固い衝撃を感じる。あまり痛くない。いや、後からじわじわと襲われるのかもしれない。そんなことを考えつつ、恐る恐る目を開けると、目の前には優しげな男の顔があった。
 目を引く白髪に、傷ついたような目元。
 誰だ。
「掴まって!」
 彼はそう云うと、私を抱えたまま正面玄関を飛び出した。お姫様抱っこである。途中で通せんぼをする女子二人は、肩で突き飛ばし突破していた。
 すぐ外には黒い乗用車が待っていて、その開け放たれたドアへ押し込まれる。後部座席は広かった。その男も後から乗ってきて、ドアを慌てて閉めると、「出して」と運転席へ指示した。
 急発進する。私はつんのめりながらも姿勢を整えた。
「いや、危なかった」
 横に座った男が、そう云って笑う。その笑い方には見覚えがあった。
「……どなたですか?」
「あ、私だよ」
 男は自分の顔に手をかけて、そのままバリバリと皮膚を剥ぎ取った。そして白髪も掴み、乱暴に引っこ抜く。私は驚愕に口をあんぐりと開けて見ていた。
「ふぅ」
 変装マスクとウィッグの下から現れた本当の顔は、正真正銘に春永春水であった。


「彼女たちには私もほとほと困り果てているんだよ。どうしたものかね」
 春永は足を組んで優雅に座り、どこからか取り出したティーカップで紅茶をすすりながら、話し始めた。もう呼吸が落ち着いている。
 車はどこかへずんずん進んでいる。路面を滑るように静かな走行であった。窓には小さな遮光カーテンがかけられ、場所の把握は難しそうであった。もちろん、ひょいと捲くれば外が見えるのだが、そんなことは畏れ多くてできない。
 私は、あまりに現実感のない光景に立たされ、むしろ冷静であった。
「どうして」まずは疑問。「どうして、助けてくれたのですか」
「どうして?」春永は、さも不思議そうに四文字を繰り返した。「……どうして助けたのか、という質問はおかしくないかい。この場合は、どうして助けないことがあろうか、だろう」
「はぁ」納得はできないが相槌を打っておく。
 ……うーん!
 この、自分が絶対だと言わんばかりの話し方。そして、溢れ出るそこはかとない善人然とした言動。やはり春永春水、さすが。たまらんぜ。
「どうぞ」紅い液体で満たされたティーカップを手渡してくる。
「あ、どうも」受け取る。ほどよく熱い。口をつけると、渋みが弱くフルーティな香りがした。飲みやすい。なんという種類だろう。紅茶は多すぎて分からない。
「……で、あの、この車はどこに……?」
「あぁ、そうだったね。まずは謝らないと」
「え?」
「私のファンが君に迷惑をかけてしまって、すまない。あぁいう乱暴なことは止めるよう再三注意しているのだけど……。ほら、例えば、ストーカーって相手への迷惑を考えずに相手を愛するじゃないか。それと同じなんだよね」
 そう云って、彼は心底申し訳無さそうに眉をひそめた。「申し訳ない」と頭を垂れる。
「あ、いえいえ!」手を振って応える。「全然! そのへんの事情は、まぁ、分かってますから!」何故なら私もファンであるから。
 乾の言葉を思い出す。「春永様を愛するときは、第一に春永様本人について慮ること! 決して、本人に迷惑をかけたり、影響を及ばしたり、してはならない」彼女は『対決!』の記事で出世したそうだが、元気にしているだろうか。
「あー……えっと」
 車の行き先について訪ねたかったのに、いつの間にか話題が変わっている。
「よく、受け止められましたね」話の接ぎ穂を探す。「その、大丈夫ですか? 腕」
「あぁ、もちろん! 筋トレしか趣味がなくてね」
 彼はスッと笑い、力こぶを作ってみせた……が、スーツ越しなのでよく分からなかった。
 へぇ~、やっぱ趣味筋トレなんだ。へぇ~。別にマッチョに興味はないけどかわいい~。せっせと筋トレしてる春永春水もかわいいしそれをこうやって自慢してくるのもかわいい~。
 違う違う。
「あの、この車、どこに向かってるんですか……」
「私の家だよ」春永はティーカップを肘掛けに置いた。カタカタと振動が伝わって、なかの液体が零れ出そうになる。決壊寸前だ。「大事な話があってね」
 と、車が止まった。赤信号だろうか。
「……ここで降りる?」彼が首を傾げてきた。
 私は黙って首を振った。


 大学から九駅ほど離れた場所にあるアパート。その一室に春永は住んでいた。勝手なイメージで、大豪邸に一家揃って暮らしているものだと思いこんでいたけれど、しかし一人暮らしで、しかもアパートは鄙びていた。いかにも、といった感じの二階建て木造建築。塗装は剥げ、ポストは傾き、表札はかすれて読めない。あちこちに植物の蔦が這っており、むしろアパートが崩れぬように支えているのではないかとさえ思えた。
「姉が四人いてね」
 訊いたわけでもないのに、春永は照れくさそうに言い訳しだした。
「誰しも実家から出ていかないから、男である私がさっさと追い出されたんだ。……でも、そんな裕福な家でもないし、住むところを選べなくて」
「〈氷結〉で、結構儲けているのでは……?」
「うん、もちろん。でも忙しくて引っ越す暇がないんだ」
 私は舞台裏を知ってしまった気分になり、優越感と興冷めを同時に味わった。
 赤黒い鉄骨の外部階段を上り、二階にある錆びたドアをくぐった。
「お邪魔します……」
 六畳一間の和室。畳と木の香ばしい匂い。カラッと乾いた空気。中央には大きなこたつが置かれており、それが大部分を占めているため歩くスペースがほとんどない。小物は少なく、小綺麗に片付いていた。窓の向こうはすっかり暗く、ガラスには干された洗濯物がぼんやりと浮かんでいた。
「あ、コートとかはそこのクローゼットに」
 春永があとから入ってくる。それだけで玄関は渋滞した。パチッと、吊るされた丸形蛍光灯が部屋をのっぺりと照らす。
 ややあって、二人はこたつに向かい合って座った。
 ……現実感がない。
 生活感に溢れた場所に、絵画のように整った顔を持つ憧れの男性が座っている。しかも二人っきり。室内は無音。こたつへ差し込んだ下半身が熱い。
「えー……」こほん、と春永が咳払い。「まず、私は〈氷結〉の部長です。トップです」なんで敬語なんだろう。「こんな家ですが結構儲けています」
「いえ、素敵な家だと思います」これは本心だった。
「筋トレが趣味なので膂力にも恵まれています」
「助けて頂きありがとうございました」
「そしてイケメンです。身長もあります」
「全く、その通りです」
「つまり……えと……」春永がもじもじしだす。え、嘘、もじもじ? するわけないだろう、彼がそんな、女々しい所作など。
 でも現にしている。
「私と付き合うと……かなり、お得なんですよ」
「……えぇ、そのようで」
「一つ、如何でしょう」
「喜んで」
 反射的に首肯していた。当然だ。半年以上も前から憧れ続けた神様に、不意打ちで告白をされたのだから。人生初の告白だ。イエスと応えぬわけがない。目から静かに涙が零れた。
 私の返事を聞くと、春永はこたつから這い出して、こちらへ膝行ってきた。その短い距離はあまりにも遠く感じられ、緊張で胸が締め付けられる。息が苦しい。春永の顔が赤い。……照れている? あの、春永春水が?
「赤いですよ。あなたともあろう人が」
「初めてで……自分から、告白するのは」
 彼が手を伸ばして頬に触れてきた。暖かい。私はその手に、自分の手を重ねた。彼はそれを了承と受け取ったようで、そのまま私を押し倒した。
 これは夢だ、と何度も思った。


 春永と恋人関係になり、私の生活は激変した。
 〈ロブスター〉には一切顔を出さなくなった。
「ちょっと家の用事で、しばらく早く帰らなきゃいけなくて」
 その旨を伝えると、病方は黙ってパソコンのメールアドレスを教えてきた。私も教えた。彼の書いたホンはそのメアドへ届き、私はそれを読んで録画し、今度は動画を送り返した。そのように、顔を合わせずとも動画投稿は続けられた。
 私と病方の証明は済んでいた。なので投稿頻度を週に二、三程度まで落とした。もちろんファンの数は減ったようだが、それでも根強い人気はずっと残っていた。春永春水のチャンネルと肩を並べるほどに。
 いくら証明が済んだとて、今更『珠城柚子』を止めるわけにはいかない。ファンへの裏切りは、この大学での死を意味する。どんな手酷い羽目に合うか分からない。
「あ、そう」
 去り際に、病方が呟いた。
「なに?」
「欲しいものは、ある」
「欲しいもの?」
「約束したはずだ」
 覚えていない。なので、この手記にも書いていない。
「……考えとく」
 早く春永に会いたかった私は、会話をさっさと切り上げた。
 春永は以下のことを口酸っぱく云った。
「いいか、私たちの仲は決して口外しちゃいけない。君には『ぬーくん』がいるし、そもそも私と君は対立することで互いに隆盛しているのだから」
 私たちは、誰にも知られないよう、こっそりと逢瀬を重ねるべきなのだ。
 そうなると、あまり大学近くでは共にいられない……わけでもなかった。春永は変装ができた。「変装の達人である知り合いがいてね。教えてもらったんだ」私を助けたときの、あの格好である。白髪で、優しげな表情で、傷ついたような目元の男。誰か、モデルでもいるのだろうか。
 珠城柚子のファンたちの間では、その白髪の男こそ『ぬーくん』ではないだろうか、という憶測が飛び交った。そのため、私と白髪(春永)が歩いていても、邪魔しちゃいけないと、あまり声をかけてこなくなった。これは嬉しい誤算である。
 思えば、この期間が私の人生において最も幸福であったように思う。
 誰にも干渉されず、好きな人間と、何度も好意を確かめ合う。彼は私の価値を確かに認めてくれた。とんでもない憂鬱に襲われた夜などは、忙しい身であるにも関わらず何時までも話に耳を傾けてくれた。そうしてうんうんと頷いてくれた。
 春永春水という男と交際を続けると、様々な発見があった。
 まず、彼は結構ドジだった。たっぷりとした自身家である癖に、どこか抜けているところがある。例えば、自宅で腹筋をしているとき、よく壁に頭をぶつけている。その度に私の方を見て「えへへ」と照れ隠しで笑う。そして今度はスクワットをし、膝を壁にぶつける。また、洒落にならないドジ・エピソードがある。それは彼が車の運転を嫌う理由でもあった。
「元々運転は好きだったんだ。けれど数ヶ月前に、歩道に乗り上げてしまってね。深夜だったから誰も巻き込みはしなかったけど、ガードレールをぽっきり凹ませてしまった。……それ以来、どうも怖くて。だけどファンの子を巻くのに車移動は必須だから、専属の運転手を雇っているんだ」
 彼の風貌や振る舞いから「大人っぽさ」を感じる者がほとんどだが、しかしリラックス状態の彼は、どちらかといえば「子供っぽい」。冬だというのにこたつでアイスを食べたがるし、公園を見つければブランコに乗りたがる。こんな姿、〈氷結〉の後輩やファンの子たちには見せられないな、とつくづく思った。
 あと、彼はよく「お参り」をしていた。祖父母の墓へ、古い友人の墓へ、六号館裏手にある道路へ、惜しみない花束を携えて祈りを込めていた。そういったときの彼はとても厳しい表情をしており、迂闊には話しかけられなかった。
「ライブに行きましょうか」
 ある日、変装した彼に手を引かれ、〈箒ギター同好会〉なる団体のライブへと赴いた。六号館一階多目的ホールである。
 会場内はそこそこ混んでいた。私と春永は後方の壁に寄りかかって鑑賞していた。舞台上では、黒い帽子を被った男が、二メートルはありそうな箒をぶんぶん振り回して踊っている。エアギターを演奏するようでいて、またある種ポールダンスっぽくもあった。珍妙な芸術である。
 曲はあきらかに『サードアイ』。春永がチャンネルの動画で使用しているため、大学ではかなりの知名度を誇る作品だ。そのため皆で盛り上がれる、と判断しての選曲であろうか。こんなところにまで影響を与える春永は、やはり凄い。
「なにかリクエストはありますかー?」
 一曲終えて、黒帽子は息の切れた声でそう叫んだ。ざわざわと観客が騒ぎ出し、幾つかの手が上がる。
「はい!」
 そんななか、一際大きな声を出したのは春永だった。
「ちょっと」バレたらどうするの、と訴える私の目に、ウィンクで誤魔化す彼。
「では、そこの白髪の方!」
「いえ、僕ではなく。彼女が」
 春永がそう云って手を振ると、スポットライトが私に集中した。客が振り返る。黒服のスタッフがさっと現れて、マイクを手渡してきた。
「え……何を言えばいいの」
「君の好きな曲を言えばいいんだ」
「じゃあ……『きゃんと、ていく、まい、あいず、おぶ、ゆー』で」
 黒帽子が頷いた。
「……全然ギターじゃないですが、まぁ、いいでしょう! さァ皆さん、あの幸せなカップルのために、盛り上がろーぅ!」
 そして音楽の前奏がかかりだす。客たちの頭が前後しだす。
「ほら」春永が一歩前に出て、手を差し出してきた。「踊ろう、柚子」
 その手を取ると、ぐいっと引かれて、両腕に抱かれた。そのままステップを始める。彼のリズムに足を合わせる。タタタン、タタタン、と踏み鳴らす。腰を揺らす。嗚呼、楽しい。時折足がもつれても、それは新たな笑いの種でしかなかった。二人の呼吸が等しく弾む。五指が溶け合う。キスをした。歯と歯が当たり、また笑った。
 そんな日々が続いた。
 私には身に余る日々だった。
いつか天罰が下るだろうと頭の片隅で考えていた。私なんかがここまで楽しい思いをしちゃいけないと思っていた。そしてそれは、割りと早く現実となった。ある人物と再会したのだ。


「これ」
 私の前に立った彼女――乾は、鹿爪らしい顔で一枚の写真を突きつけた。
 そこには、手を繋いで歩く私と春永の姿が遠巻きに写っていた。
「それは……」
 咄嗟に言葉が出てこない。私の掠れた呼吸が、深夜の寒空に消える。
「何も云わないで。お前と春永様の関係性は分かってる。――この嘘つき野郎」
 乾が胸ぐらを掴んできた。激しい憎悪を称えた双眸が、眼前に迫りくる。
「なにが『ぬーくん』だ。なにがファンだ。全部嘘っぱちじゃないか。……新聞部として、この写真を公開する」
「や、やめて……」
「やめて欲しいなら、別れろ。今後一切春永様に関わるな、アバズレ」
「……どうして」声が震える。「どうして分からないの? あなたも春永が好きなら分かるでしょう? なんで付き合っちゃいけないの? なんで別れなきゃいけないの?」
「うるさい。これは報いだ。別れたくなきゃ、嘘がバレるだけだ」
 土曜日まで待つ。
 そう吐き捨てるように言い残して、乾は去っていった。

 つまりこのとき、私には二つの道があったんだ。
 一つは、春永との交際を続けて『珠城柚子』を殺すこと。
 もう一つは、『珠城柚子』として春永との関係を断つこと。

 身体から力が抜けて、道路へ腰を落とした。アスファルトの冷たさが脚を襲う。身体が震えだす。寒い。冷たい。どうしよう。私には、どちらかを選ぶなんて――。
 道路を殴りつける。拳が痛いだけだった。


「この子が珠城ちゃん」
 月曜日、羽音に誘われてスタバへ寄った。すると、私のファンであるという彼女の連れが一緒であった。名前は式逸触(しきいつぶれ)。ギラリと除く八重歯と、三つの黒いチョーカーが特徴的な年上の女性。獲物を探す狼のような吊り目が私を捉えると、彼女は野性的に舌舐めずりをしてみせた。
「へぇ、すげぇ、モンホンじゃん!」
 式逸は荒っぽい口調で喋った。そうして如何にも楽しそうに私の肩をバンバンと叩く。ほのかに漂う、烟っぽい香り。正直苦手なタイプだ。初対面の相手に馴れ馴れしいとかありえない。
「で、これ。サインしてよ」
 式逸が、無地の色紙を机に放り出した、とん、と緑のマーカーも置かれる。
「……」その態度にイラッと来て黙っていたら、
「ねぇー、頼むよん」耳を舐められた。ひぃ。
 それ以上過度なスキンシップをとられるのも嫌なので、渋々サインを書いてやり、渡した。
「どうぞ」
「うわー! やったやった! 好き好き好きっ」
 受け取った式逸はその場で飛び上がり、ぴょんぴょんと暴れた。そして近くの席にいた他人に「ねぇ見てよこれほらほら」とサインを自慢していた。自慢された方は「うっそマジ珠城柚子!? どこどこ」と立ち上がってキョロキョロしていた。その隙に式逸がサンドイッチを奪う。
 そんなに嬉しがられると、こちらとしてはまんざらでもない。私は脂下がった顔を隠すため、エスプレッソに口をつけた。
 式逸が背後から抱きつき、頬にキスを繰り返してくる。
「どうなんだよ『ぬーさん』とはよぉ! このこの」
「うふふ……。その子がそこまではしゃいでいるの、久々に見たわ」
 羽音が優雅に笑う。昼間の人集りのなかでは、背中の羽が大変に目立っていた。
「これからも応援しているわ、『珠城柚子』ちゃん。また今度コラボ動画でも出しましょう」
 どうも、と私は後ろめたく笑った。
この美しい友人の笑顔を消す権利なんて、果たしてあるのだろうか。


「はい、クリスマスプレゼント」
 火曜日のクリスマス・イヴは春永の自室でこっそりと祝った。こたつに足を突っ込んで、鍋をつつきながらの夜である。キンキンに冷やされたお酒と、ぬくぬくと温められた下半身。その対比が素晴らしく幸福であった。
 うやうやしく包装紙を受け取る。「ありがとう……。初めて貰ったよ、プレゼントなんて」そうっと開けてみると、可愛らしいリボンに包まれたギターのピックが現れた。
 黒の背景に、豁然と開かれた一つの眼が白く打たれている。そんなデザインであった。
「これ……いいね! とってもいい!」
 素直に褒める。春永は常に素直であることを望むのだ。
「でしょ!」誇らしげに胸を張る春永。子供っぽい。「三番目の目だよ、柚子。場所を知っているんだ」
 場所を知っている――か。
 私は、そのピックを額に当てて目を瞑った。
「……」
「……柚子? どうしたの?」
「道を訪ねてる」
「はは、それはいい」
 しばし、沈黙。白菜の香りが部屋に漂っていることに気がつく。家の外からは車の走行音なんかが聞こえた。
「ねぇ……」春永がぎこちなく云う。「なんか、悩みとか、ある? 最近」
「え」目を開く。「別に?」
「そっか」
 それきり、春永は何も訊かなかった。本当になにもないのだと安心したのか、踏み込まれたくないのだと察したか。……恐らく後者だろう。彼は聡明で善人なのだから。
「――ねぇ」
 いつの間にか、春永は体温の気配がするまで近寄ってきていた。不安そうな目がこちらを見つめている。そして唇を重ねてくる。私が何も反応しないでいると、数秒して、諦めたように離れていった。
 彼の手がそっと首筋を撫でてくる。それはいつもの合図(・・)だった。
 私はその手を掴み、やんわりと外した。
「具合でも悪いの?」
「……そんなとこ」下腹部に手を当ててみせる。
「……分かった」
 春永は落ち込む素振りすら見せず、すぐ横に寝転がった。二の腕あたりを擦ってくる。固くて優しい手だ。私は泣きそうになるのをこらえて、その感触を楽しんだ。あぁ、申し訳ないな。本当に申し訳ない。私のことを抱きたくてたまらないだろうに。しかし、今はそれに応えられ得る精神ではなかった。確実に、没頭できなくて彼を傷つけるだろう。彼は自分を責めるだろう。
 彼には幸福でいて欲しい。しかし、もはや、たとえ局所的であろうと、私抜きで幸福は完成しないのだろう。別れることなんてできない。したくない。こんな男と、こんな私が、付き合えることなんてこの先の人生であり得るか? 頼むから奪わないでくれ。お願い。


 水曜日の放課後、ありもしない救いを求めて〈ロブスター〉の戸を開いた。
「あー……おはよー」
 病方はいつかと変わらずに受け入れてくれた。やはりがぶがぶとモンスターを流し込んでいる。私はなんだか安堵してしまった。彼との死んだ関係は、死んでいるが故に、たちまち継続されていた。
 無言で頷いて、着席。そしてブラウン管のテレビを睨みだした。
「あ、そうだ」
 病方が思い出したように呟いた。
「……いや、何でもない」
 そして黙った。
 映画はやや古いゾンビ映画だった。ゾンビたちが主人公一行に襲いかかる。美男美女を喰らいつくさんと歯をガチガチ鳴らしてくる。しかしその奮闘もむなしく、猟銃でパンと撃たれていた。パン、パン、パン、と慣れた手つきで撃たれていく。ゾンビたちが沈黙していく。結局世の中、美男美女という主役が最も強いのだ。
「映画をね」
 珍しく、病方が話しかけてきた。
「映画を……撮ろうかと思ってる」
「そうなんだ」
「映画部の連中が、『珠城柚子』を偉く気に入ってくれたみたいでね。この前〈ロブスター〉に詰めかけてきたんだ。君、正解の動物を教えただろ」
「はは……」
「それで、新作のプロジェクトに参加して欲しいと熱心に詰め寄られて……。『珠城柚子』を映画にしたいそうなんだ。どうだろう」
「いいと思う」
「そっか……」
 病方は安心したように息をゆっくりと吐いた。「そっかそっか……」まさか、映画を否定されるかもと危惧していたのだろうか。……確かに、いつかの私ならば首を振っていただろう。でも私は、既に『珠城柚子』なのだ。女王なのだ。映画すら、楽しそうだと思えてしまう。
「あ、動画用のホンは、まだメールがいい?」
「あ、うん。お願い」
「家の用事、だっけ。まだ忙しいの?」
 その言葉は禁忌に触れている。
 〈ロブスター〉において、云ってはならない類のものだ。
 病方が、しまった、という風に口を抑えた。
「……そう、忙しいの。色々」私は気がついていないフリをして平然と応えた。「ホン、よろしくね」
 その後、二人は映画に集中するフリをして場を誤魔化し続けた。
 ――彼も少しだけ変わった。と、思う。
 私は、悲しいような、少しだけ嬉しいような、複雑な心境になった。
 そしてますます、『珠城柚子』の必要性を噛みしめてしまった。『珠城柚子』を殺すことは、ようやく修復されそうな彼と映画部の関係性を壊す行為でもあるのだった。


 木曜日は誰とも会わなかった。
 講義も休み、自室で投稿用の動画を撮っていた。何回やっても上手くいかない。そこで、はたと気がついた。むしろ、どうして今まで上手く撮れていたのだろう。演技も会話もドのつく素人であるはずの私が、『女王』だなんて。おこがましい。
 夕方には、撮影を止めにして、分厚いコートを着込んで街へ出た。といっても散歩なので、徒歩で行けるそこそこの範囲だけだ。
 コンビニで暖かいコーヒーを買い、それをチビチビ飲みながら当てもなく漫ろに歩いていると、母校である中学校の前へ出た。正門がやけに小さく感じる。柵越しに、四階建て校舎を見上げてみる。シンボルとなっている大きなアナログ時計が、午後六時半を指していた。
 グラウンドでは数人の男子がサッカーボールを奪い合っている。耳をすませば吹奏楽部のロングトーンが聞こえる。体育館の方からは、つんざくような掛け声の数々。固いゴム製のボールが跳ねる音。辺りはすっかり暗いというのに、中学生たちは部活動に熱心なようだった。
 そういえば私はなんの部活に入っていたっけ。思い出せない、……ということは帰宅部か。なら、さっさと帰宅して何をしていた? ……分からない。覚えていない。記憶がない。
 私はどんな中学生だった? 誰と喋り、何を学んでいた? 何を考えていた? 
 うまく思い出せない。
 ゾッと、血の気が引いた。
 私は逃げるようにその場を後にして、自宅へ帰った。


 金曜日の夜。私は電気もつけずに自室でぼぅとしていた。
「明日だからね」
 乾が、どこから入手したのか私のスマホに電話をかけてきた。
「返事はまだ?」
「……」
「黙ってちゃ何も解決しないよ。それとも、この写真を公開してもいいってこと?」
「……」
「……ねぇ、自分のことを被害者かなんかだと思ってる? 逆だからね、逆」
 プツン、と通話が切れた。
 スマホを壁に放り投げる。大きな音を立てて跳ね返り、その白くて憎々しい板は、大切なギターへ突っ込んだ。がしゃん。ばちん。がたん。
 私の大切なギター……。いつから触ってないっけ。
 でもこれで、二度と使えなくなってしまった。弦は切れ、身体には凹みができている。三番目の目が開かれない。
 嗚呼――。
 私はがたがたと震えだした。凍える。寒くてたまらない。暖かいことを思い出そう。そうだ、春永との逢瀬とか、そんな単純なぬくもりを思い出そう。はじめ、私が彼を知ったのは、乾がキッカケだったな。彼女に手を握られて、春永のファンになったのだ。そういえばパーティなんかもしたな。あのお金はちゃんと春永へ届いたのだろうか。あのときは楽しかった。架空の愛を春永に注いでいた。死んだ関係を病方と続けていた。とても一辺倒で素晴らしき日々だった。そして私は……春永に振られたんだ。呆気なく。偶然ラブレターを読まれてしまい、そのせいで、告白もしていないのに振られたんだ。当然だろう。
 ――おかしい。
 と、私は違和感に気がついた。気がついてしまった。
 ――あぁ、そうか。なるほど、そういうことか。全てに納得がいった。「なるほど! 分かった!」一人、そう叫んでしまった。ユリイカだ! 
 なんで私がこんな目に合っているのか、分かった。こんなに苦しむ必要なんてなかったんだ。ライク・バトルは、まだ、続いているんだ。戦争は終わっちゃいないんだ。女王? 神様? 馬鹿々々しい! たかが大学生だろどいつもこいつも――。いや、違う。別人だ。私と春永春水は別人だ。そうだよ! なんで気がつかなかった!
 私はヒビ割れたスマホを拾い上げ、春永へ電話した。
 彼は2コールですぐに応答した。
「もしもし、珠城?」
「春永春水か?」
「え、……そうだけど、どうしたの、こんな夜中に」
「分かった」私は確かな声で云う。「分かりました。全部、あなたの計算通りだったのですね。私のチャンネルを潰すための! ……分かってます。えぇ、分かってますよ。分かってますとも。――何故なら、春永春水は私な(・・・・・・・)んかを好きになる(・・・・・・・・)はずないのだから(・・・・・・・・)。私なんて取るに足らない人間、あなたと釣り合うわけ、ない。あぁ、そうだ。分かったんですよ。分かってたんですよ(・・・・・・・・・)。あなたは恋愛事に慣れている。だから、私と恋愛することなんていつも通りのことだったんだ。デートもキスもセックスも何もかも! 私を騙すなんて簡単だったんだ。馬鹿みたいだ、私。舞い上がって、冷静じゃなかったんだ。……良かったですね、思い通りになって。これで動画投稿はあなたの独壇場だ。行き場を失った私のファンだって獲得できますね。独り占めだ。もっと有名になれますね。その一助をできて光栄ですよ、ホントに。ねぇ、ホントに!」
「待っ――」
 切断。彼の返事を待たず、電話を一方的に切った。そのまま電源も切った。



 がらり。
 〈ロブスター〉の戸を開く。
 深夜にも関わらず、病方はまだ起きていた。パソコンをパチパチと叩き、編集作業に勤しんでいる。
「あ、あの」どもりつつも、その大きい背中へ声をかける。「その、チャンネル……。け、消しませんか? もう、全部」
 彼が振り返る。長身痩躯に、極度の猫背で、幾重もの隈で縁取られた眼がこちらを捉える。……いつもの彼だ。
「分かった」
 病方は、何も訊かないでパソコンに向き直って操作した。そして、十秒ほどしてから「消した」と一言だけ呟いた。それだけで『珠城柚子』は終わりだった。
 私はフラフラと彼に歩み寄った。そして、その広い背中に寄りかかった。上半身の体重を預けるように抱きつく。
 彼の冷たさを感じる。彼の平坦な鼓動を感じる。抱きつかれても何も云わない彼の素晴らしさを実感する。存在を確かめる。嗚呼、いいものだ。心が徐々に落ち着いていく。私は深い溜息をついた。
「――疲れた」
「それ、クリスマス・プレゼント」
 病方が、教室後方に積まれた機材の山を指した。よく見ると、一際盛り上がったシルエットが暗闇に浮かび上がっている。その直線と曲線はギターであった。
 ピックはポケットに入っていた。
 私は、その至極単純なアコースティックギターを肩にかけた。久々に持ったその楽器は、やはり重い。「ちょっといなくなるね」そう言い残し、三番目の目を握りしめ、〈ロブスター〉を後にした。とにかく帰宅したら、日記かなにかをつけよう。そう考えていた。十二月の深夜は刺すほどに寒い。そういえば部屋着のままだった。外套の一つもない。ありのままを天下に晒しているようだ。鼻歌を歌う。弦を弾く。泣きたくなるようなイントロ。私は、無人の路地を、取り繕わずにとぼとぼと歩き去っていった。


 終

女王の時代 後編

女王の時代 後編

  • 小説
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更新日
登録日
2019-10-27

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