女王の時代 前編
聞け、諸君ッ!! 我々は女王の時代へ突入した!
もはや神の存在意義は、天に在りて遥か及ばぬものではない。その輪郭を諸君ら全てが纏い得るのだ。
玉座は君を待っている。
大衆は君を望んでいる。
さぁ、欲に駆られるまま叫び給え――。
*
これはお伽噺だ。
この手記を、私は、いつかの誰かのためのアフォリズムだなんて思っちゃいない。自殺願望を払いのけることだけに費やした人生に意味などないのだから、その人生のある期間を切り取っただけの手記に、もちろん意味など込められない。
意味は後から顔を出す。これを読んだ誰かが勝手に視る。
ただ、今までの出来事を、記憶の薄れぬうちに残しておきたいんだ。
そうでもしなければ――私は、全てを夢幻の如くなりと信じて疑わぬようになってしまうだろう。だから、この両手に実感が残っている隙に、背中に彼の体温が染みている間に、記録しておきたい。だけど内容が内容だから、その荒唐無稽さ故に、もしくは幻想的ドラマチックさに、やはり夢幻であるべきじゃないのか、なんて思ってしまうかも。
だからお伽噺。それが丁度いい。
……いつか私は本当に私じゃなくなれる。
それでも、この美しく忌まわしい物語を、永遠に心へ留めておきたい。
なんか昔、小学生くらいのときかな、塾の先生が云っていた。「人間は物事を誰かに教えたとき、その物事について記憶しやすい」、と。だからあなた、そう、今この文を読んでいるあなた、に私はこっそりと物語を教える。そうやって永久凍土的に保持せんとす!
発端は若気の至りだった。
地獄のような大学受験を終えて、次なる己の定位置が分かったことに安堵し、残りの高校生活は怠惰に過ごした。一週間のうち八十時間は寝ていた。大きなイベントも卒業式以外特に残っちゃいない。部活動も、一瞬だけ吹奏楽部にいたけれど、とっくに退部した。金管楽器と木管楽器の間で女子部員が対立しており、パーカッションとしてその軋轢の狭間に立たされてしまったため辞めたのだ。たった四ヶ月の部活であった。私はただ無邪気にスネア・ドラムが叩きたかっただけなのに。
友人は、一応いたけれど、別にわざわざ連絡をとって街へ繰り出そうとは思わない連中であった。つまり私もそう思われていたのだろうけど、どうでも良かった。
いわゆる「お一人様」というハグレモノが、この私である。
……ところで「ムカシトカゲ」をご存知だろうか。
ニュージーランドのとある地域に生息する、尾を引きずって四足歩行で地を這う、シンプルなデザインのずんぐりとした爬虫類である。絶滅危惧種だ。一見すると何の変哲もないトカゲだが、なんと彼、超長寿であるらしい。百年、いや、二百年ほど生きるというのだから驚きだ。
で。
いま、「ムカシトカゲ」が長寿だと聞いて、あなたはどう感じただろうか? 恐らく、「へぇ~」と阿呆みたいにかくかく頭を振っただろう。それでいい。人間が八十年から百年くらい生きるものだとして、その倍の日数を謳歌できる可能性を秘めた爬虫類がいたところで、嫉妬はしないのだ。確かに、何事も「ない」よりかは「ある」ほうがいいかもしれない。しかし生物としての種がそもそも違うのだから、何も思わないだろう。別の惑星にいる青い鳥をわざわざ捕まえようとはしない。
つまり、私が部活動で人間関係に恵まれずに手持ち無沙汰な三年間を過ごしてきたとしても休日にショッピングへ繰り出さんとクラスメイトを誘わず同時に誘われずヒトカラに興じていようとも卒業アルバムへの寄せ書きなぞ夢のまた夢であるからして同窓会のスイーツパラダイスなんて天上天下唯我独尊だったからそうではない彼らを羨ましく思う、なんてことは有り得ない。
*
――間に合う。きっと間に合う。
心臓の鼓動に手を添えた。高ぶっている。体温が高い。しかし汗はかいていない。
――彼はまだか。
喧騒がより大きく聞こえだした。チラと幕の向こうを覗けば、それはもう大量の大学生たちがずらりと並んでいた。今か今かと私の登場を待っている。私の言葉を待っている。しかし、その言葉はまだ到着していないのだ。彼が用意すべきその原稿は未だに……。それが無ければ、私はこれから壇上で敗北を晒すだろう。
大丈夫だ、大丈夫だ。
そう何度も繰り返していると、耳に死刑宣告が響いた。
「春永さん、ありがとうございました! 続きまして、珠城柚子の登場です!」
歓声が私を戦慄させる。
*
大学生となり、まず始めにしたことはサークル活動選びだ。条件は三つ。一つ、私に干渉してこない。一つ、女子がいない。一つ、私を無下にしない。
しかし驚いた。だいっっっっったい女子がいる。いんなよ。いない部活は全てが男子専用のスポーツクラブだった。絶対にゴメンですね。
私は地獄から火を貰いに来たように三日三晩六号館を彷徨った。途中、〈田中の超理場(たなかのちょうりば)〉という名のオアシスをみかけたが、吹き抜けから差す天光に包まれたその空間に、私ごとき日陰の者が入り込む余地など到底ないように思えた。あのテラス席にちょんと座れば、たちまち灰と化すに決まっている。なので脱水症状気味である。
六号館では、サークルや部活動、そして委員会や同好会などの部室が、満員電車のように密集して肩を寄せ合っている。特に目についたものを見ていこう。
〈恋愛斡旋サークル 氷結〉……そもそも恋愛経験と呼べるものとは無縁であるため、ボツ。〈透猫部〉……どうやらたった二人の部員で百匹の猫を飼っているらしい。一体どうやって? 至極気になったが、大変そうなのでボツ。〈箒ギター同好会〉……これも大変そうなのでボツ。プロにならない癖して自己表現なんぞにかまける学生は押し並べてナルシストだ。〈虚構的新聞部〉……毎日やること多そうだからボツ。〈実験クラブOS〉……怪しすぎるのでボツ。〈放送局 第六感〉……私は生来顔に自信がないが、かといって声に自信があるわけでもないので、ボツ。
ボツ、ボツ、ボツ、ボツ、ボツ……。
これだけの数だから、探せば理想郷があるのだと思っていた。しかし結局見つけられたのは――たった一つの同好会である。
〈ロブスター〉
と、ドアに太字のマジックペンで直接書かれていた。その横には付箋が幾つか張ってあり、ちょっと読んでみると、
『映画をひたすらみます。』
『恋愛・宗教・向上心はおことわり。』
『カーテンをあけてはならない。』
……などと、実に私好みの世迷言が並んでいた。居場所はここだ、と一瞬で分かった。
六号館三階北側廊下。蛍光灯が割れたままになっているため、陽が落ちれば闇に支配される。カビとホコリの匂いがふんわりと漂うジメジメした空間――のなかに埋もれた、少教室。そこに〈ロブスター〉は潜んでいた。まさしくロブスターだ。暗い川底でなにかにじっと耐えるがごとく、寡黙に一点を見つめている。ロブスター、と口のなかで呟いてみる。何故か香ばしい匂いを鼻腔の奥に感じた。
心はもう決まっていた。
臍を固めてノブに手をかける。
がらり。
「あの……す、すいません……」
蚊の鳴くような声しか出ない声帯を恨みつつ、室内を見回す。暗くてよく視えないが、目を凝らすと、驚くほどに狭いことが分かった。普通の教室の半分ほどしかないのに、大量の正体不明な機材が置かれているからだった。テレビ局の裏側はこんな感じだろうか。有言実行と言うべきかカーテンは締め切られ、おおよそ日光というものを分厚い布が遮断している。巨大な布団をかぶったような空間だった。
唯一の光源は、教卓に置かれたブラウン管テレビ。分厚い箱から、四角いモノクロの映像を拡散している。それにより、教室には一つの影が浮かび上がっていた。
机に突っ伏していた影が、モゾモゾと動いてブランケットから顔を出した。あくびを一つ。イヤホンを外し、こちらを振り返った。
幾重もの隈に縁取られた双眸が私を睨みつける。
「……どっち?」
「ど、どっち、というのは……」
「催促か、迷子か」
「入会希望です……」
「えー、なに? 聞こえない」
「にゅうかいきぼう……」
その男は「ふん」と鼻を鳴らした。眠たげな眼は半分ほどしか開いていない。
「じゃあ、入会試験ね」彼がぬうっと立ち上がる。長身痩躯ながら極度の猫背なので、私と目線の高さが合った。「自分を動物に例えると?」
意識高い系の面接かよ。
私は考える。これは心理テストじゃない。彼は確かに「試験」と云った。つまり答えには良し悪しがあるのだ。考えて、彼に気に入られるような答えを、言うべきなんだ。猫、犬、ライオン、キリン、カバ──ダメだな。私には奢侈だ。獲物を狩り、はたまた首を伸ばし、生に喰らいつく気概なぞ十年前に捨ててしまった。ならば魚類でいこうか。マグロ、カジキ、マンボウ、なんかやはり贅沢なので、メダカ、小エビ、ミジンコ──。もしくは植物か。向日葵、チューリップ、紫陽花、蓮、……あり得ないだろう!
そのとき、私の脳内に幼少期の記憶がパッと飛来した。
思わず口をつく。
「……アンモナイト」
「アンモナイトね。合格」
男がゆらゆらと近づいてきた。そして、のんびり右手を差し出してくる。
「俺の名は病方哲夜。二年生。趣味は映画と徹夜」
恐る恐る握手に応える。ゾッとするほど冷たい手であった。当然ながら私より大きくて固い。男子の手に触れたのはいつぶりだろう。
「わっ、私は、珠城柚子といいます」
「よろしくー。とりあえず、入会にあたって一つお願いがあるんだけど」
「はい」
「俺に惚れないでね。頼むから」
こちらこそ、と私はぎこちなく微笑んだ。
こうして居場所を確保した私は、講義を受けているとき以外は〈ロブスター〉に入り浸った。これが中々心地イイ空間で、なにより病方という男が良かった。
彼を一言で表すならば『ゾンビ』である。
放課後になって教室へ向かうと、必ず先にいる。堆積した機械類のゴミ山のなかで死んだように眠っており、私ががらりとドアを開くと、音や気配に反応してのそりと起き上がるのだった。そして「あー……おはよー……」と歯切れの悪い言葉で挨拶をしながら、フラフラと教卓へ向かい、本日の映画をDVDプレーヤーへセットする。その一連の様子は、さながら墓から蘇ったアンデットであった。現に病方はゾンビや怪物を好み、上映する映画の大半はそれだった。
だから、という訳ではないだろうけど、彼は「モンスター」というエナジードリンクをガブガブ飲んだ。長細い缶を握りつぶしながら、緑色の液体を一気に喉へ流し込む。それが私には、臓物を絞って血を飲んでいるように見えた。または「蒟蒻畑」を懐中より取り出し、ギュッと一思いに吸った。そのどちらかが、彼の「間食」であるらしい。そういえば固形の食事をとっているところを見たことがないな……。まぁ、どうでもいいか。
彼はよく寝る人だった。自分で用意してきた映画であるはずなのに、その内容が少しでもつまらなければ、容赦なく寝息を立てる。この際いびきなどは決してかかない。死んだように、白皙の顔の時を止めて眠るのだ。他人というものが苦手な私は、このとき初めて病方をじっくり観察できる。枯れ木のようにひょろりと長い身体が、大きくしなって鉤状となり、机に上半身を投げ出している。その、己の態度に一点の不安もない、と豪語するような姿勢が好きだった。観察するのに飽きたら、私も寝た。彼が寝るということはつまらない映画ということなので、安心して眠れるのだ。そのうち枕を持参するようになった。
彼はよく、ふと思いついた諧謔をぼそりと弄した。それらは小さな声でさり気なく云うため、思わず聞き返してしまいそうになる。しかし、そうすると、彼はもう言葉を嚥下してしまうのだ。恥ずかしがって二度と教えてはくれない。ならばどうするか。……別にどうもしない。聞き取れなかったら、それまでのことだ。何もおかしいことではない。私たちは互いに干渉しないのである。それがこの空間の美しさであることは共通認識らしい。時折、私はどうしようもなく寂しくなって泣いたり笑ったりした。そのとき病方は四つほど離れた席でじっとしているだけで、映画が終われば「じゃー、解散」と平生と変わらず手を振るのだった。私を思いやる言葉一つ、素晴らしいことに、何もない。
梅雨のある日、こんなやり取りをした。マトモな会話自体珍しかったのでよく覚えている。
「あれ……。雨、降ってる」
「……傘、持ってないの」
「え。あ、そうですね。はい。持ってないです」
「へぇー」
「……」
「……」
「……じゃあ、じゃあ、お疲れ様でした」
「カバンが重いんだよね」
「へ?」
「だからこれ、代わりに持って帰ってくれないかなー」
折りたたみ傘がコトンと置かれた。
「え、そんな、悪いですよ」
「俺の方が悪いよ、自分の荷物を持って帰ってもらうんだから」
「はぁ」
「……うーん、ダメだなぁ」
「な、なにが、ですか」
「君に傘を貸したいのだけど、恐らく断られるだろうと考えたんだ。君はー、どうやら大きな優しさを気味悪がっている節があるから。優しくするときは、それに見合った理由を用意しないといけない。または、罪悪感を取り除かなければならない」
「そんな、ことないと思いますけど……」
「でも上手くできないなぁ。やはり会話は大切だねー。どうやったって気味が悪くなってしまう。君に傘を貸したいのだけど、俺は互いが傷を負わずにそうできる自信がない」
「……」
病方は、そこまで言い訳を重ねた上で、ようやく折りたたみ傘を私に渡した。
気を使わせてしまっているのだなぁ、と私は少し傷ついた。
講義を受けて、昼食をとりに訪れて(このとき病方は熟睡している)、また講義を受けて、終わったらまた来て、映画を観て、つまらなければ寝て、帰宅する。
その繰り返しが半年ほど続いた。とても均衡のとれた日々であった。感情の起伏に乏しい最適なルーティーンであろう。傍らには病方が飄然と歩いている。
十月に入り、私服の袖が伸びた頃、私はとある男との出会いにより精神の安定が崩された。
それが全ての始まりだった――かもしれない。
なんて書くとかっこいいかな。
春永春水。
その名を知らぬ者は大学生に非ず、と云われるほど有名な男。〈恋愛斡旋サークル 氷結〉という巨大サークルの部長を勤める。容姿端麗で頭脳明晰。氷結内での業績もずば抜けており、後輩たちの多大なる尊敬を一身に受けている。自信に満ち溢れた所作は数多の女子たちを虜にし、廊下を歩けばサインをせがまれ、店に入れば席を譲られる。その店の店員がファンならばお会計が無料になる。……そんなトンデモナイ「勝ち組」の者だった。
いわゆる「別種」の人間。
そんな彼を、ある日、見かけた。
六号館一階、その吹き抜け部分に設置された簡易的な集会所。そこで、主たる集団の代表たちが集って話し合う〈中央委員会〉の会議が開かれていた。議題は恐らく、来る文化祭についてであろう。もちろん〈ロブスター〉なんて弱小の同好会は呼ばれていない。
私が、吐き気を催す人混みに紛れてその〈中央委員会〉へ目をやっていたのは、偵察のためである。例え〈ロブスター〉ほど弱小のものでも、文化祭で何かしらの出し物をしなくては会として存続できないらしい。でも一体、ゾンビと私で何ができるというのだろう。悩んだ末に、他の会の企みを垣間見ようと考えて、訪れたのだ。テキトーなやつをパクろう。
遥か天窓から差す光線のなか、六号館という世界を牛耳る主要メンバーたちがズラリと並んでいる。
彼らの視線の先で、壇上として置かれた平台の上に立ち、木っ端大学生たちの衆目に晒されながらも臆せずにマイクを握る男がいた。彼が春永春水であった。
彼は予算削減についての異議を申し立てており、しかも俎上に載せているのは〈氷結〉ではなく〈睡眠塔〉という小さな同好会であった。他のクラブのために、彼は一人で戦っているのだ。肌寒いこの時期に汗を流し、全身で訴えている。
他の中央委員会メンバーの切れ味鋭い反論にも負けず、まるで人気歌手の武道館コンサートのように、己の主張を滔々と述べた。汗を煌めかせ、四肢を振るい、全身でパフォーマンスを繰り出している。そして時折ギャラリーを振り返り、手を差し伸べて、沸かせていた。その姿は、燦然と円光の輝く神様に等しい。
──ふと、眼と眼が合った気がした。
私は、あっ、と言った。
いいな、と思った。
「今、こっちを見たよね」
隣にいた一人の女子生徒が、そう話しかけてきた。
「うん、目が合ったもの」夢見心地のまま応えた。
「だよね。あの人はもう忘れているだろうけど、私はずっと覚えていよう」
その女子生徒は手を握ってきた。「私、乾」思わず握り返す。そして彼のファンになった。この瞬間より、彼にこっそり想いを寄せて、架空の愛を勝手に注ぐことで、その圧倒的な輝きに少しでも触れようとしたのである。
もちろん、私が春永のファンになったからといって、生活は特に変わらなかった。〈ロブスター〉にも通った。しかし、春永のグッズを身に着けたり、映画を無視してファンレターをしたためたりと、私の態度の変容は顕著であったと思う。だが病方は何も反応しなかった。やはり、変わらずにゾンビのごとく振る舞うばかりである。本当に気が楽だった、どうして、彼のように素晴らしい人間が世界には少ないのであろう。甚だ疑問である。人間だから、であろうか。
「春永のサインが欲しくなぁい」
廊下でばったり出会った乾にそう持ちかけられた。
「な、何万円で?」
「いやいやいや手を握り合った仲でしょ? タダでいーよ」
これがいわゆる、幼気な大学生を狙った宗教勧誘──またはマルチ商法へのお誘い、か。私はワクワクしつつもきちんと警戒した。しかしサインの誘惑には抗えず、ほいほい乾について行った。
到着したのは〈虚構的新聞部〉の部室。彼女はそこの下っ端部員であるらしい。一年生であるため日刊紙の発行にはまだ関われないそうだが、小さなデジカメを裾に忍ばせ、機会があればパシャリと一獲千金、だそうだ。
「前に春永様へインタビューしたことがあってね。もちろん私は、インタビュアーではなくて雑用だったけど……。先輩の目の隙をついて、サインを頂けたんだ!」
「え。あ、そうなんだ。……ん、あれ、でもそれ、いいの貰って」
「私のは流石にあげないよー」
と云って、乾は無人のデスクへと歩み寄った。
「この席のやつもサイン貰ったんだけどさ、どうやら売り飛ばす気らしいのよね。転売よ転売。だから今のうちに盗んじゃって、珠城さんにあげようかと」
「え!? いやいやいや、だっ、ダメでしょそんなの」
「私、愛には報酬が必要だと思うの。その逆もまた然り」
乾はにっこりと屈託のない笑顔を浮かべ、デスクの引き出しから勝手に色紙を取り出すと、私に手渡した。目を落とすと、確かにそこには「はるなが」と描かれていた。平仮名なんだサイン可愛い。神棚に飾って毎朝拝めば憂鬱の気も消えるだろう。
いいのかな。
「なんか納得いってない顔してんね」
「え、あ、ううん、とっても嬉しいよ! ありがとうわざわざ私なんかのために」
「あ、じゃーさ。これからパーティしようよ」
「パパパパパーティ?」
「そ。春永様を称えるパーティ!」
人生初パーティは、パーティというより儀式だった。
乾の自宅から歩いて数分のところに大きな川が流れており、その土手の高架下にて火を焚いた。大きなドラム缶のなかで、ばちばちと音を立てて揺らめく炎は、それはそれは綺麗だった。午後七時を過ぎればたちまち周囲は暗く、また人通りもないに等しかった。
乾が家から持ち出してきたストロングゼロを、胃へ流し込み、私たちはさっさとハイになった。人生初アルコールは至極不味かったが、味覚なんて最早どうでもいい。このとき私はトリップしていた。念願の「友人と騒ぐ」という行為や、春永春水への愛や、乾の強引さなんかがドラッグとなって身体中を駆け巡り、血圧をぐぐっと上昇させたのだ。
両手を空へ突き出して、湿った地面を踏み鳴らし、腰でリズムをとりながら、炎の周囲をぐるぐる回る。天地の判断がつかなくなるまで回る。回り疲れたら、今度は叫ぶ。「尊い」だとか「好き」だとか、ありったけの愛を真っ黒な川へ放り投げるのだ。私はこのせいで3日ほど喉が潰れた。
宴は続く。儀式は続く。たった二人の狂乱は続く。
「この火はね、この火はね、春永様へと接続されているんだ。だから供物を投げいれよう」
「じゃあ飛び込みます!」
「それ火傷したから止めたほうがいい」
げらげらげらげら、と笑い合う。
「春永様はね、インタビューでこう云っていたよ。……俺が好きなものは、大量にあるが、ここで答えるとすればやはり金だな。って!」
「そうかお金か!」私は後ろポケットから財布を取り出した。「では、失礼して……」
千円札を炎へ突っ込んだ。くるまりながら端から燃えて、炭となっていき、すぐに消えた。
快感である。
「私も私も!」
乾が千円札を二、三枚ほど掴んで炎へ落とす。長細くて薄っぺらい供物は、スルスルと消えていった。
「春永様、万歳!」
「万歳!」
また、千円札を炎へ放り込んだ。スッと消えていく。派遣のバイトで地方の工場に行ってひたすら梱包作業をしていた一時間も、消えた。
だからこそ感じる、愉悦、歓び、快感!
「じゃー、派手にいくよ」
乾はなんと一万円札を取り出した。
「いっちゃえ!」
「うりゃっ」
諭吉先生が燃えていく。いつか誰かが――あぁ、あれは塾の先生だ。先生が云っていたんだ。「お金というのは等価交換のためにあるものなんだよ」
大嘘つきめ。
私と乾は朝まで踊り狂った。
翌日、ガラガラヘビみたいな声になった私は、初めて講義をサボタージュした。不可抗力だった。起床したのが午後三時だったのだから。シャワーを浴びて、歯を磨いて、着替えて、食パン一切れと目玉焼きだけ腹に収めると、もう午後五時だった。ううむ、ギンギンと頭痛が酷い。それでも〈ロブスター〉には向かおうと考え、家を出た。
がらり。
ドアを開くと、なんと病方は既に起きて教室の中央でふらふらしていた。これまた珍しいことである。
「あー……もう来ないかと」彼は頬をぽりぽりと掻いた。
「えっ、や、そんな。来ますよ」
何故かドキッとして、気まずくなり、いつもの場所へそそくさと着席する。
そして映画の上映を待っていた。今日はどんな作品だろう。またゾンビものだろうか。
「……病方さん?」
と、空気が息を詰めたように緊張していることに気がついた。私はただそわそわとセッティングを待っていただけなので、その空気感を発しているのは病方以外にありえない。
あれ、と振り返ろうとしたとき、背中が傾いた。
体重がかけられ、私の上体が前のめりになる。後ろから、病方がもたれかかってきているのは明白だ。彼の長身がすっぽりと私を覆い隠す。息遣いが、耳元で二、三度揺らぐ。ささやかに鉄の香りがした。
これはなんだ。
頭は真っ白になったがパニックには陥らず、むしろこの特異な状況を客観的に把握できていた。
――恋愛はおことわりではなかったのですか。と言おうとして、ハッと気がつく。後ろから抱きつかれたくらいで恋愛だと判断してしまうなど無礼千万だ。そんなことを言えば、私から恋愛を始めたことになってしまう。私は慌てて口を閉じ、そのまま時間経過を待った。病方はやはり冷たかった。
「よし」
そう呟いた気がする。彼は唐突に元に戻り、後は通常通りだった。
その行動の意味について、目的について、私はなにも訊けなかった。そのとき、彼との関係性が死んでいることに気がついた。半年間ですっかり黙殺したのである。それはネガティブな印象ではなく、ただ、もう死んでいるだけだ。つまり問い詰める手段を私は持たない。
恋愛的な所以でないことだけはさすがの私にも理解できた。
その後も〈ロブスター〉には変わらず通った。この場所は私の誇りとなっていた。
さて。
乾と共に春永を讃える日々と、病方とブラウン管の映画を眺める日々が、交差するようにして毎日が去っていった。文化祭がゆっくりと近づいてくるものの、〈ロブスター〉の出し物は依然として決まらない。てか、そもそも話し合わない。私は軽い焦燥感にかられていた。この居場所が消えてしまうのが怖い、という気持ちは実はそこまでなく、それよりも構ってほしくない、と思っていた。出し物の義務を無視して、文化祭実行委員会の者共がこちらへ近寄ってくる……それが嫌だった。どうか認識しないで欲しい。会話の話題にしないで欲しい。そう願っていた。
だがそんなささやか願いも、行政の前では徒爾と化した。ほどなくして、あちら側の人間が〈ロブスター〉の戸を叩いた。
とんとん。がらり。
ある夕方、突如ドアを開いて現れた者を見て、私は息を止めた。
そこには神様が――春永春水が立っていた。
「久しぶり、病方」彼は親しげにその名を呼んだ。「文化祭が一月と二週間後なのだが、〈ロブスター〉だけなんの企画書も提出されてなかったので、顔を出した」
「なぜ君が来た」病方は突き放すように云った。
「いいだろう、監督。俺が来たって」
「その呼び方はやめろ。……氷結の部長様が直々にいらっしゃったところで、話せることはない。帰ってくれ」
「拗ねるなよ」春永がスッと笑う。「企画はどうする。やらなきゃ、場所と予算が与えられないぞ」
「中央委員会様が勝手に決めたことだろ。本来ここは空き教室だし、テレビもDVD も俺の持ち込みだ。……俺らは安全なところでじっとできていたらそれで満足なのに、面倒事を増やさないでくれ」
「まさか、そんなわけがない!」春永は至極当然のように主張した。「人生、より楽しくてより輝かしい方がいいのだから、例え面倒だろうと取り組むべきだ。その先にさらなる楽しさが待っている」
「……」病方は何も言い返さずに頬を膨らませた。
「分かったよ」春永が肩を落とした。「とにかく警告はしたからな」くるりと背を向け、去ろうとする。
やばい、と私は咄嗟に声をかけていた。
「あぁ、あの!」
「ん?」彼が振り返る。
目と目が合う。
嗚呼、なんて畏れ多いことをしてしまったのだ。この私が、彼を、呼び止めるなんて!
「あの、あのその……」
「なにかな」
上手く言葉が出てこない。彼の生写真や彼のラジオを愛でているときは、あれほど伝えたい言葉が溢れていたのに。いざ本人を前にすると、それらが渋滞し、喉元でせめぎあい、ひどく単純な言葉にしかならない。
「えぇっと……」口をパクパクさせてしまう。あぁ、もう。どうして私は会話が下手なのだ。「き、企画! 企画企画! 考えますから」
「あぁ、頼むよ。病方はあの通りやる気ないみたいだからさ」
頼まれた!
頼まれた!
頼まれた!
春永春水に頼まれた!
私は雷が打ったような歓びに震え、思わず立ち上がった。
「かかかかか必ず! 必ず! 考えますね!」
「え? あぁ、頑張って。――うん?」
ひらり。春永の足元へ一枚の紙が舞った。私が立ち上がった際の風に吹かれて、机より飛んだのであろう。
春永はそれを拾い上げ、そして何気なく、書いてある文字を読んだ。それは自然な動作である。誰も責めることはできない。責めるとすれば、興奮して考えなしに立ち上がった愚か者の私だ。
その紙は、渡す予定のないラブレターであった。
「あ――」
顔から血の気が引いていく。
「これ……」春永もどうやら事の重大さに気がついたようで、眉をひそめた。「これ、って」
「あ、それ、それは……」どうしようどうしようどうしよう吐きそう。
「うん、ごめん。読んじゃった」申し訳無さそうに頭を下げられる。
「あ……いや、全然、その……ホント、気にしないで下さい」
「ごめんね」当然な会話の流れとして、春永はつつがなく云った。「君とは付き合えない」
そして、じゃあ、と手を振った。彼は〈ロブスター〉を後にした。
闇の教室に残されたのは、不機嫌な病方と呆然とする私。
……え?
いま振られたの?
マジで???
こんなテキトーに????
ぼぅとしていると、段々腹が立ってきた。それは、ラブレターが舞ったことや、振られたことなんかにではなく、「間」に対してであった。
返事が早すぎる。もっと動揺したり葛藤したりすべきじゃないか? 現在の私のほぼ全てを占めている感情なんだぞ。そんな、ものの数秒で運命を決めていいほど軽くないはずだ。
いや、──軽いのだろうな。春永春水にとっては。
珠城柚子なんて取るに足らない木っ端大学生の恋慕なぞ――。あぁ、彼は私の名前すら知らないじゃないか。
慣れた素振りだったな。きっと愛の告白なんて何十回とされてきたのだろうな。私なんてそいつらを変わらないのだろうな。
どんどん、どんどんと、腸が煮えくり返るような思いに駆られてきた。……許せない。絶対に許せない。春永春水を、この格差を、珠城柚子を、許すわけにはいかない!
「ううぅ」
我慢していた嗚咽が漏れてしまった。凍えるような惨めさに、涙がぽろぽろと溢れる。それは二十年分の悲しみであった。これからも、悲しみは堆積していくのだろうか。そんな絶望がずるりと顔を出す。
私は決意した。
彼と、肩を並べてやろう。
皆同じ大学生にすぎないのだと、人気なぞマヤカシなのだと、私にだって秘めたる凄さがあるのだと、神様なんて幻影だと、――命懸けで証明してやる。
*
「ごめん!」
幕裏へと顔を出したのは病方だった。息切れしており、かなり急いできたのが分かる。
――良かった、どうやら原稿は間に合った。
そう安堵したのもつかの間。
「……本当に申し訳ない」不吉な謝罪が聞こえた。「ごめん、原稿、ないんだ」
「なっ……」驚愕に言葉を失う。
「ここへ来る途中、丸メガネの連中に奪われてしまってね。だから到着も遅れたんだ」
「じゃ、じゃあ私は……」
「棄権しよう」病方が私の手を掴む。「逃げよう、馬鹿々々しい。あんな奴らに付き合ってられない」
そして、ぐいっと引っ張られる。このまま彼と共に消えていけば、それはそれで一件落着かもしれない、なんて思った。これからも〈ロブスター〉で二人、古い映画でも観て静かに暮らしていくのだ。それはそれで桃源郷なんじゃないか。
プツン、と脳内で何かが切れたような気がした。
私は――、その手を振り払っていた。
「珠城……?」
原稿はない。
勝算はない。
神様じゃない。
それでも私は、一歩、舞台へと踏み出した。
*
女王の時代 前編