ガレリオ・ガレリイ
掌に編まれた小説
「今日も更新されてるの?」
「ん? ああ、もちろん」
「もう読んだ?」
「いや、まだだけど」
「ちょっと読ませてもらえる?」
「ああ、うん。いいよ」
「けっこう面白いよね、これ」
「そう? そんなこと言うのは君くらい」
「ほんとに自分で書いてんじゃないの?」
「うん。朝起きると書き換えられてる」
「へえ、明日も楽しみね」
「そう?」
「そうよ」
黄昏図書
説明① 世界はラグナロックのあおりで崩壊した。
描写① 扉を開ける。十二年前の同じ日、一人の赤ん坊が館内に納められたという、そのとき以来、今日まで役立ったことのない扉だった。
描写② 館内の装飾物は、曇り空からの僅かな光に照らされることをも拒んで、鈍い、沈んだ色合いを保ったままでいた。長い時間、ひとつところで澱んでいた空気も、鬱々として、微動しようともしなかった。
描写③ 新任の管理人は、その色調や空気を、全く感覚しない様子で、乱雑な足取りも隠さず、水の中に滴った一粒の油のように、館内へ侵入し、書庫を目指していった。管理人は、まだ名前もない小さな弟を腕に抱いていた。
説明② 図書館は閉じられていた。入ることは許されていなかった。司書と管理人とだけが例外であり、その例外も、生涯に一度きりだった。
説明③ 書庫には、崩壊後の世界に、憐れみのように残された知の遺産、焼失を、散逸を、埋没を免れた、限りある書物がすべて納められていた。
説明④ 新らしい司書の管理人として選ばれた少女は、彼女の属する小集団を形成する個々の人々が分担し義務として営んでいるすべての仕事から解き放たれた。
説明⑤ 集団は新たな司書を迎える必要があった。図書館に蔵されている全ての書物の内容を記憶し、知識を人々へと取り継ぎ語る現在の司書が、その役割を終えようとしていた。記憶に誤りや欠落が目立ち始めていた。
描写④ 書庫の絨毯に最初の一足を下ろしたと同時に、それまでうっすらとではあるけれど、伝わってきていた大勢の何かの気配が、みんなどこかへ隠れてしまった、そんなふうに少女は感じた。
描写⑤ 書庫にはひとつの書棚すらなく、夥しい数の書物は、混沌とした状態で床に積み上げられていた。本は勾配のきつい扇状地となって、部屋の中央を囲み、押しつぶそうとしていた。
描写⑥ 司書は書庫の中央で、正装し、椅子に腰掛けていた。視線は、管理人の少女が音ずれを告げる以前から、ずっと、書庫の扉に向けられていたようだった。
会話① 「こんにちは」司書が、おそらく、生まれ出でてから始めて、意識的に、他者に向かって声を発した。
「こんにちは」と、管理人は応答した。
描写⑦ 司書は自分の廻りの、開けたスペースに点在する椅子のうちのどれかを、手のひらで曖昧に示し、管理人の少女にそこへ落ち着くよう促がした。少女は黙ったまま首を拒否の方向に振った。椅子の陰に、ひとつだけ揺りかごが見えていた。
会話② 「空は」司書があどけない口調で尋ねた。「まだずっと曇っているの? 植物は育たない?」さらに続けて、「その子が、ぼくの次の司書?」
管理人は、質問に対してひとまとめに、「ええ」と短く答えた。
会話③ 「あなたは今まで、どうやって過ごしてきたの?」今度は管理人の少女が問うた。「司書は本達が親代わりになって育ててくれるっていうのはほんと?」
「この服も、本たちから今日のお祝いにもらった」と司書。「人目にさらされることのなくなった本の中身たちは、本から抜け出して思い思いの行動をとる。ぼくに世界のあらゆる全部を教えてくれた。食べるもの、着るもの、それに名前も、みんな本たちが、自分のなかから取り出してきたものをぼくにくれた」司書は少女を真っ直ぐに見て「君は何て名前?」と質問した。少女は祖母から付けてもらった、自分の名前を教えた。「あの小説に出てくる女の子とおんなじだね」と、少年は嬉しそうに。管理人は少し考えてから「そのお話は聞いたことがないわ」
会話④ 「みんながあなたの物語を楽しみに待ってる」少女は少し急かすように言った。
「そんな時間はないんだ」司書は椅子に落ち着いたままでいる。「ぼくは、世界をどうにか良くしようと思う。本たちと話し合ってそう決めたんだ」
会話⑤ 「いまの司書も、そのまえの司書も、みんな初めはそう言っていたそうよ。書庫から出たばかりの司書は全能感に支配されるんだって、本の操り人形みたいな状態なんだって」
「知ってるさ。でももしかするとぼくの代ではうまくいくかも。いまがそういう時節かも知れない。それに、絶対にそうなっちゃいけないなんてことは、世界にはひとつもありはしないんだから」司書は続けて、「三分の人事七分の天ともいうよ。何かやらなくちゃ」
「聞いたことないわ、それ」管理人は部屋の奥の揺りかごへと歩み行き、手を空にする。そして向き直り、「あなたの人生だし、好きにすればいいと思うわ。でも、それに飽きたらわたしたちに本のお話を聞かせてね」そう言って、少年に手を差し伸べた。
つれてけぼり
本所のお堀で釣りをした時のことであるけれど、
一日糸を垂らしていても釣果の程が全く芳しくなく、
もう帰るつもりになって道具をみんな片付けた。
お堀に背を向け帰途に就くと、どこやらから声が聞こえる。
「連れてけー、連れてけー」と言う。
「じゃあ付いて来い」と答えると、
とたんに水面がかるくざわついたように見えて、
それから魚籠が少し重みを増したように思った。
家に帰り魚籠の底を覗いてみると、魚が一匹もがいている。
そのままにほうっておくのも気がひけたので、
ありあわせの鉢に水を入れ泳がせた。
幾たびか、「どうして付いてくる気になった? 堀の水が合わなかったのか?」
などと訊ねてみたものの、
魚は白々しく泳ぎ回るだけで答えることをしない。
二年ほど飼っていたがある日天寿を迎え浮いてきた。
近所の動物霊園に納め、戒名を本所請連魚水槽居士とした。
狂科学者の密室
「わたしは人類を愛している、しかしひとりのジョンを愛することはできない」と言い捨てて、博士は独り土星の衛星タイタンを地球化、自身の研究を続けていた。惑星管理局郵便課の配達員が研究室において何者かに殺害されている博士を発見した。大宇宙時代、個人による惑星間の移動、不法滞在、及び海賊行為などなどがはびこっていた時代ではあったが、タイタン周辺は管理局によるけん制が行き届き、衛星は言うなれば大規模な密室状態であった。他殺の可能性は皆無だと思われた。管理局捜査課は偶然の事故、もしくは何らかの方法でタイタンへ侵入した密航者による行きずりの犯行と結論し捜査を断念した。事件は「狂科学者の密室殺人事件」と呼ばれ、真相は今日においても謎のままである。
「わたしは人類を愛している、しかしひとりのトムを愛することはできない」と駄々をこねた博士は空間を歪曲させ、独り空間の狭間で研究を行っていた。歪曲空間管理局在宅介護科のホームヘルパーが研究室において何者かに殺害されている博士を発見した。空間歪曲装置は博士による独自の発明であって、そのシステム及び高度な操作法などは、歪曲空間管理のために新設された管理局の局員達にとり、機械にうとい面々がそろっていたことも手伝って、ほとんどブラックボックスのようなものであった。他殺の可能性は皆無、としか判断のしようがなかった。管理局捜査科は偶然の事故、もしくは人智を超えた科学力をもった超生命体による行きずりの犯行と結論し捜査を断念した。事件は「狂科学者の密室遭遇事件」と呼ばれ、真相は今日においても謎のままである。
博士の遺体を最初に発見し遺書の内容を確認したのは博士にとっての最後の弟子である佐藤であった。佐藤は通報など適切な処理をした後、葬儀の打ち合わせのため博士の縁者に連絡を取った。結果として、博士に好意的な親族は皆無だった。通話はすべて無駄に終った。佐藤による小規模の葬儀に参列したのは、博士同様、忘れ去られた幾人かの科学者たちだけだった。科学者達はお定まりの悔やみの言葉を述べ、学問的狂気の終焉を嘆いた。博士の生涯は後に佐藤の筆により纏められ、「狂科学者の密室」と題された。知音の協力を得て小部数が出版、世に出回った。
「わたしは人類を愛している、しかし誰一人わたしを愛してくれる者はなかった」という切ない言葉を残して、博士は独り人世から隔された山家に籠もり日々を研究に費やしていた。博士の消失を最初に確認したのは、彼の健康を心配し山家を訪れた博士の孫、忠雄であった。山小屋は内側からかんぬきが掛けられていて、人間の出入りできるような窓もなく、忠雄が戸を破って入るまで、言うなれば精度の低い密室状態にあった。室内や付近の捜索が行われたが博士の行方が明らかになることはなかった。警察は博士の言葉から厭世による失踪と結論し捜査の方針を切り替えた。忠雄は「もっと気に掛けてあげていればよかった」と自身の不人情を悔やんだ。しかし、この種の神秘・不可解事は決して珍しいものではないと、土地の古老は語る。ある集落のすべての住人が一夜にしてみな姿を晦ましたというようなことも伝え聞く、という。事件は「狂科学者の密室消失事件」と呼ばれ、現代の怪奇譚として世間にささやかな話題を提供した。その真相は今日においても謎のままである。
伝統
「うん、だめだね」
「なぜですか? 今回こそ完璧だったはずです」
「うん、完璧だったけど、だめなもんはだめ」
「なぜです! わけがわからない! はっきり理由を言ってください!」
「あのね、だめなものはだめなんだからさ、その、君、ほんとにわからない?」
「わからないから聞いているんです!」
「じゃあやっぱりだめだよ」
「なぜなんです!」
「口で説明できる類のものじゃないからね、こればっかりは。無意識に感覚できるようになってもらわないと。それに君、そういうふうにできてるんでしょ?」
「まあそうなんですけどね。博士はそう言ってたし」
「じゃあがんばって、また一からね」
「……はい、がんばります。でも師匠、いつも、言葉では説明できないって言いますけど、あの、強いて言うならばどんなところがだめなんでしょう? ぼく段々自分がもしかすると欠陥品か何かなのかもっていう不安みたいなものを最近感じてきてるんですが。他の師匠に付いたロボットたちは、その、勘所みたいなとこを容易に掴んだりできてるのかも知れないですし」
「うん、まあゆっくりやっていこうよ。師匠連のうちで私はまだけっこう若いほうだしさ、君は半永久的に壊れたりすることなんかはないんでしょ? だったらあまり焦る必要もないし」
「そうは言ってもですね……」
「まあほんとうに、強いて言うのであれば、魂がこもってない」
「魂ですか」
「うん、たましい。わかる?」
「そりゃ言葉としてはわかりますけど」
「仏つくって魂いれず、って言うよね?」
「言いますね」
「仏像に魂が入っていると思う」
「さあ、名作と呼ばれるものには……、いや、でも、本音を言えばちょっと信じられないですね、入ってるというのは」
「うん、たぶん入ってないよ。でもね、入ってるんじゃあないかなぁって感じがする」
「そうなんですか?」
「うん。じゃあ人間には魂が入ってると感じる?」
「ええ、入っているようには感じます。ぼくらとは何か違うような印象は確実にありますね」
「じゃあさ、動物は? 例えば犬」
「犬、ですか。たぶん同じ感じがするでしょうね。魂を持っているような」
「鳥、魚、虫、もっと小さい微生物だったり植物や石だったりしたら? 文字とか、人が引いた線だったり、物音には?」
「どうなんですか? ぼくにはよくわからないです」
「うん、入っているように思うときがある」
「そうなんですか?」
「もちろん、君にも魂があるように感じるよ。だから、ね、頑張って。大丈夫だから」
「はい」
「私たちみたいなのは、いつだって後継者にめぐまれないからさ、私のこれも次の代には受け継がれずに消えちゃうのかなって思ってた。だから君が来てくれたときはうれしかったよ」
「期待に添えなくてすみません。ぼくなんかじゃなくてもっと出来のいいロボットだったら、先生にこんな苦労をかけなくて済んだんですが」
「まあ、そういうのはいいから、気にしないで。今日はもう止めにして、どこか出かけようか」
「いいんですか?」
「いいさ。君、酒は?」
「少しならいけます」
「じゃあ行こう。こういうのも大事だよ」
「はい、お供します」
月まで歩く
「地球から月まで歩いてみよう、って催しがあるらしいよ」
と切り出して、すごく楽しいはずだから二人で参加しようと君が提案した。
こちらには深い考えもなかった。
何やら楽しそうだったのでつい、良い返事をした。
すごくうかつだった。
「日ごろ運動不足ですから、やっぱりたまには身体を動かさないとね」
と、歩調の合った他の参加者の女の人と、君は談笑している。
「そうですよねー」と爽やかに相槌を打っている。
距離が開いてきた。
それに気付いて君はこちらに近づいて来てくれる。
「だいじょうぶ?」と、君。
「僕のことはいい。君は先に行ってくれ」
「なにやら顔色がよくないご様子」
「足首を少しひねっちゃったみたいで、それにやっぱり真空だから息も苦しい。ちょっと休んでから追いかけるよ」
と、腰を下ろす。
「もう半分くらい来てるからね、ほら、月もずいぶん大きくなってきたよ」
隣に落ち着き、魔法瓶のお茶をコップに注ぎながら、まだ遠い、月の方に視線を遣っている。
結局お茶はこぼれて、「あつ……」と君は笑ってつぶやく。
お茶を飲みつつひとしきり自分の怠惰な日常生活や不摂生や体力の衰えなどなどを呪って。
気を取り直して立ち上がる。
「まだやれます」決然と言う。
聞いて君は再び表情に輝かしいものを取り戻し、それからすぐに眉根を寄せて、
「だいじょうぶ?」
と確認を取り、僕がうなずくと少し逡巡してからようやく、何やら悪戯っぽさをふくんだ生真面目な顔をして、
「じゃあ行きましょう」
と手を引いてくれる。
二人で、月を目指して歩く。
「月までまだ遠い?」
「いいえ、ほんのちょっとの距離よ」
蛍
蛍の命が尽きると、その身は灼け消え、光だけが切り離され残り、ゆらゆらと空に昇っていきます。それを捕虫網などで捕り、かごいっぱいにため込みます。家に帰るまでこらえ切れないのであれば、その場でひとつ口に含んでみてもいいです。つまんでみると、割れないシャボン玉のような感触がします。想像に反して温度が低いので、頭がなかなかそのギャップを埋め切れず、感覚が段々麻痺してくるように思われてきます。口元へと運ぶとき、背景の夜に淡い光跡が引かれ、鼻先で、ぼんやりとした青光りがすうっと隠れていきます。視界に弱い焼き付きが残るけれど、それも一瞬だけの事、すぐに跡形もなくなります。これといって味はしませんが、少しひんやりとしていて、氷に似ているけれど柔らかく、さっぱりとしたよい気分になります。経験で、というよりも、好みで言わせてもらうと、噛まずにそのまま飲み込んだほうが良いです。噛んだ場合、蛍光は噛み応えもないまま口の中で霧散してしまいますけども、飲み込む場合は、ひんやりとしたものが、まずは窮屈そうに喉を下っていって、ゆっくりと、所々に引っかかりながら、胸を、心臓の近くを、通り、また小休止を挟みつつ、やがて腑に落ちていくのを体感できます。そしてしばらくの間(十五分から二十分くらい)は、身体の中心に冷めた光があることを確認して、満足感を持続させることができます。まだ繰り返されている光の瞬きにつれて、冷たさが、つよくなったりよわくなったりするのがわかるんです。
ポケットの中にはビスケットがひとつ
ビスケット
たとえば心臓を打ち抜くはずだった銃弾が、胸ポケットにはいっていた一枚のビスケットでどうにか止まり、命が助かる。事態が落ち着いた後に確認したビスケットにはまだ銃弾が突き刺ささったままで、ひびわれのところからほのかにバターのにおいがたちのぼっていて、幸運のお守りだということで、銃弾を取り去り、ひびをチョコか何かで補てんして、全体を飴でコーティングする、ということでは夏場べたべたになってしまう懸念があるとすれば、ほかの何か常識的なものでコーティングして、それからビスケットをアクセサリーのように加工し、終生身に着ける。
おにぎり
河を流れてきた鬼の子を、子供を欲していた鬼の老夫婦が拾う。おにむすび神社に千日もうでをしたかいがあったと老夫婦は感謝し、お礼参りをする。子供はすくすく育って、遠くの島で悪い鬼が暴れているという話を聞き、それをどうにかしようと思い立つほどのりっぱな鬼の少年になる。老夫婦は少年の旅立ちの支度をする。虎柄のパンツ、神社から無理に借り受けた神体の金棒、鬼の戦装束の要である角もどこかから立派なものを出してきて、頭につけてくれる。聞けば、角は河を流れてきたときに子供が一緒に身に着けていたものだという。おばあさんが、縁起悪くおにぎりと呼んだものを、おじいさんがおにむすびだと言い直してから持たせる。
猿とかにとおむすびと柿のたね
かにのおやこがおむすびをひろって、かにとおむすびとのあいだで相談があって、話がきまりおむすびは「ではあなたがたにたべてもらいましょう」といって、いざ、というときに猿がやってきて柿のたねとおむすびをこうかんしようともちかける。柿のたねはなんでもいいからはやく埋めてもらいたい、ももくりなんねんというが……とひとりせっぱつまったようす。
せんべい
たとえば心臓に突き刺さるはずだった矢が、戦の合間に食べようと考えて懐中に忍ばせていた一枚の煎餅でどうにか止まり、危ない命を拾う。後で確認するとせんべいにはまだ矢が刺さったままで、ひびのところから炊き米のようなにおいを立ちのぼらせている。神仏の加護にちがいないと思って、矢を取り去り、いったん八幡神社に収め、焼いて炭にしたものを守り袋に入れて、終生身に着ける。代々の家宝となる。
讃歌
褐色の肌をしたぼろをまとった男が、町のいちばん端から入ってきて、人々や町のあらゆるものにはまったく目もくれず、まるで夢でもみているみたいにうっとりとした表情で、朗々と歌を歌いながら、通りをゆっくりと歩き、町の反対の側から去って行くまでの、その間中、仕事の手を止めた人々や、遊びを中断した子供たちは、ひもで引っぱられているみたいに男の後をついて歩いて、それでとうとう町の端っこにまで行き着き、段々と遠ざかっていく男の背中を見送ったのだけれど、それから後の長い年月、男の歌は、町の空気と人々の耳に、しっかりと染み込んでいるままだった。
明かり
見慣れない灯りが、木から洩れてきていた。少し見上げた丘に立つ並木の、その枝と枝との隙間から、こちらに向かって開いている、似せものの花火の電飾だと思った。丸い、熱に溶けた飴みたいに濃い黄の色をした、それが月だと気付くのには、しばらく時間がかかった。家へと続く坂を上り、こちらの位置が高くなるにつれて、月も昇った。濃い黄色の光で、素地の黒さが際立った。薄い雲がどこかからやってきてかかると、余計に遠のいて感じられた。こちらをもう相手にしていないような、見離したような、まるっきり醒めてしまったような、誰か親しい相手からの、はじめて示される冷たい態度のようだった。月はこっちを向いていなかった。真っ直ぐには照らしてくれていなかった。勝手に思い違いをしていただけで、月は、まだ地上に何もなかったむかしから、夜の真ん中にひっかかって、ただ、ぼんやりとした明かりをこっちに投げてよこしていただけだったんだと、それでわかった。
杞憂
むかし杞国のある人が「いつか天が落ちてくるかも知れない」と考えた。
それを耳に入れた杞国の王様は、天晴れな憂慮なりと褒め称え、憂慮杞国随一の者であるとして、男に「杞憂」の称号を与えた。
アイデア
(浮かぶ)母親と買い物に行き、何かのおまけで黄色いアイデアをもらう。
アイデアの紐をつかんで、ふわふわとした感触を楽しみながら家路を辿っていると、
何かに気をとられた隙に、指がゆるんで、アイデアが手から逃れる。
母親が手を差し伸べるけれど、わずかに届かない。そのまま空に上っていく。
子供は「どうしたものか」と、途方に暮れたようにも見える大人びた表情で、
遠く、小さくなってしまったアイデアをじっといつまでも見つめている。
(降ってくる)アイデアがずっと降りやまず、屋根さえ壊れ、
家の中で傘を差すような日が何ヶ月も続いたのだ、という。
土地の低いところはみなそのまま沈んでしまったのだ、と語る。
今でも湖になって残っている、これがそうだ、と言って、指し示してくれる。
(拾う)月夜の晩に、アイデアがひとつ、波打ち際に落ちていた。
それを拾ってどうにかしようと、考えたわけでもなかったけれど、
いまでも机のひきだしに入っている。
月夜の晩に、拾ったアイデアは、どうしてそれが、捨てられようか?
マンモス味の飴
旅立ちの章
ねずみのカルバインは、母親の神経痛に効くというサルスエラの雫をもとめ、冒険に旅立ちました。ポケットには母親から持たされたマンモス味の飴を山と入れていました。
猫と仲間になる章
「わたしはねずみに好意的な猫です」とその三毛は言いました。雨宿りの大樹の蔭でした。「好物だという意味でなく、純粋に好きなのです。友達になりたい」と言います。カルバインは、ぼくは猫がきらいだけども、うまれつきがまんづよいたちだし、猫がそういってくれるのであれば一緒に旅をできるかもしれない、と考え、話を持ちかけました。「ねこさん、ぼくと一緒にサルスエラの雫を探す旅をしませんか?」
「サルスエラとはなんです?」と猫が訊きます。
「神経痛のとっこうやくなのです」
「さしあたってはどっちの方角へいくのですか?」
「当てはないので鼻のむくままです」
「そうですか、ではしばらくお供しましょう」と猫は快諾します。
カルバインは猫にお礼を言って、ポケットから飴を一粒取り出しました。ほおばると、独特の味わいが口いっぱいに広がっていきます。
二匹はそれからじっと黙ったまま、雨粒がぱたぱたと地面で跳ねる音を一晩中聞いていました。
つばめ退治の章
橋を渡りたい人たちの邪魔をするつばめの群に勇敢に立ち向かったカルバインでしたが、戦いの果、ついには力尽き大空へ連れ去られようとしています。猫はどうすることもできず、カルバインの様子を心配そうに見つめていました。カルバインはこの世の最後とポケットから飴を取り出しました。その琥珀のようなうるみの中に母親の影を見ようと目を凝らしたのです。途端、母親を病魔から救うという決意が呼び起こされ、カルバインに力が湧き上がりました。そして持っていた飴でつばめのくちばしをしたたかに打ちすえたのです。地面へと放りだされたカルバインは三毛に抱き取られました。そして間を置かず、他のつばめ達にもあめ玉のつぶてをお見舞いしたのです。飴は空中で、つばめの額や背や羽で、千々に砕け、彼らをみんな地上へ追い落としました。
凶兆の章
カルバインは、猫とツバメの若者とを伴って旅を続けていました。
「カルバインさん、わたしたちもかれこれ長い間サルスエラの雫を探して旅を続けてきましたが、いったいそんなものが見つかるようなことがあるんでしょうか?」と猫が切り出しました。
「そりゃあぼくらに天運がなけりゃあ見つからないかもしれない。でももし神様か何かの加護さえあればあしたにだってみつかりますよ」とカルバイン。
その時でした、カルバインのポケットからあめ玉がひとつこぼれ落ち、緩い坂道をしばらく転がってから、音も洩らさず幾つかの欠片にひび割れました。
手持ちの飴も残り少なくなってきた頃合だったので、カルバインは深く嘆息しました。
「いい潮ですよ。一度お母様の許に帰りましょう」と三毛が弱気なことを言います。カルバインも不精不精に承諾しました。
大団円の章
良心的で腕の立つ医者が移ってきてくれたとかで、母親の神経痛はすっかり治まっていました。母親はカルバインが無事に帰ってきたことを喜んでくれました。カルバインの旅の話を聞いて感心した様子で、「ぜひそれを文章にして出版するべきだ」と言いました。しかしひと段落したころには、母親は新来の医者がどれほど医学の心得があって、親身になってくれて、男ぶりがよいか、といったようなことばかりを、日がな一日延々とカルバインに話して聞かせるのみとなりました。
カルバインは旅に出る決意をし、書置きをしたためます。
お母さん、ぼくはやっぱり旅の続きをしようと思うんです。またしばらく家を空けますが心配しないで下さい。お母さんの神経痛は治ってしまったので、今度は目的のない旅です。マンモス味の飴をもらって行こうと思ったんですが、買い置きがなかったようなので、始祖鳥エキス配合のほうをもらって行きます。
カルバイン
幸福な葉っぱ
「あの葉っぱがぜんぶ落ちたらあなたは死にます」と医者は宣告した。
医者が対象を示しているつもりでいるその指の先、診察室の窓から見える病院の中庭、そこには幾本かの樹木がまばらに立っている。
「どれでしょうか?」とぼくは訪ねた。
医者は深い椅子から床へと自重を乗せる場所を変え、窓に歩み寄る。「あれです」と再び指し示す。さっきよりは見るべきところがはっきりしたが、まだ四五本あるうちのどの木がそうなのかは判然としなかった。
「あれですか」とうつろに呟いてから、いまあいまいにわかったような態度を取って、後でどれが問題の木なのかわからずこの木がそうなのかそれともこっちなのかと四五本分の煩悶に苦しむことになるよりは、納得がいくまでしつこく追及し医者にいらだった顔をされることのほうがいくらもましなはずだと、ぼくは経験から判断した。「すみません。あのかたまりのうちのどれでしょうか?」
「わかりませんか!」医者は案の定いらだった顔をして掛け金を外し窓を横にすべらせた。
心地よいような冷たいような風が侵入してきて、それほど強いものでもなかったけれど、紙類やペンやほこりや片づけられずに隅のほうに隠されていたネクタイなどの軽いものすべてを、無駄にされている目の高さくらいのところのスペースで舞わせた。
「あれですよ!」
四五本の木はそれぞれ冬枯れにかれていたのだが、医者が身を乗り出してちからいっぱいに指さしているのはその中でもいちばん貧相な格好をしたものだった。
「あれですか、右から二番目の、三番目に背の低い、まだ数えてはいないんですが、葉っぱの十枚もついていないような、つるつるした表皮をもってるように見える、いま小さな、鳥か何かが驚いて逃げ出しましたね、見えましたか? いや、何でもありません。そうですか。あの木ですか」
医者はぼくの確認した特徴のうちのいくつかに納得しかねるというような様子を見せたが、しばらくして面倒になったのかようやく頷いた。
「どうにかなりませんか」ぼろの様な望みをかけて聞いてみた。
医者は決然と首を右左に振る。
「どうにもなりませんな、お気の毒ですが」ダメを押された。
「そうですか」
医者がそのまま席にもどってしまい、窓を閉めるのはぼくの役目になった。
もう少し椅子に落ち着いていたい気持ちだったので、再び医者と向き合って、でまかせで「ところで」と切り出した。頭では、このあと診察が終わって部屋を出て例の木のところにやはりいくべきだろうか、ということを考えていた。どの位置から観察するのがいちばん適当か、真下だろうか、距離をとるとほかの枝が邪魔して見えにくいということはないだろうか、うまく枚数を数えることができたとして、その場を去って、例えばどこにも寄り道せず、いつもどおり家に帰り、平静なこころのまま、自分の目の届かない中庭で葉っぱが落ち切っていくの放っておけるだろうか、ということも気になった。あの木の葉は偶々ぼくと残りの時間を同じくしているだけであって、木には木の命のサイクルがあり、それへこちらの身勝手で干渉し、何かの間違いを引き起こしかき乱すことになるかも知れないような、そんな行為はまったく控えるべきじゃないのか、という説教じみた考えもほぼ同時にちらりと頭をかすめた。「入院させてもらえませんか?」と続けた。
そのころには医者はぼくに背を向けて何か書きつけていたのだが、椅子を回して「必要ないでしょう」と答えた。そのまま回転して仕事にもどった。
窓の外を見るとぼくの木の葉の数が減っているようにも見えた。数えてはいなかったので正確な判断は下せないが、いまの間に何枚か風に吹き落されたのかも知れなかった。木々の下では落ち葉が小規模のたまりをいくつかつくっていて、表面にある比較的新しい乾いた葉がたてるとがった音が聞こえてくるようだった。
冬の終わりに
『冬の終わりに』という本がある。
毎年冬の終わるころ、
書店で見かけるのでその度に買っている。
氷と雪でできている。
内容はとてもおもしろい。
とはいえ、いつも、知らないうちに解けてしまっているので、
最後まで読み切ったことはない。
ガレリオ・ガレリイ