Brave Birds
春たけなわである。「春色高下無く、花枝自ずから短長」などと言って禅僧は余裕こいているが、鳥たちは突く突く。ここを前途と花を突き虫を突き鼠を突く。
そんな大忙しの春の日に、地震が起こった。崖が崩れ隼は巣を失い、火事が起こって山に住む多くの鳥たちは焼け出された。
餌の多い時期だったので、鷹は鼠、雀は小虫、三鷹市連雀鳩山町、それぞれの食料を鳥たちは被災地に運んだ。
鳥たちにとって、己と番、わが子以外の者を助けるのは、初めての経験だった。それは彼らに大きな感動を与えた。彼らの世界が大きく広がった。彼らは初めて「鳥」という共同体を得たのである。
夏、その年初めての台風が来た。清少納言は「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」と言っていたがをかしくもなんともない。日本全国に大きな被害をもたらした。が、今度は外国からも支援物資が届いた。
コスタリカからは黄金に輝くプラチナコガネが届き、中国からは火鼠の肉が運ばれた。
より効率的に支援が行われるよう、鳥のリーダーが決められた。鷹司高雄さんという鷹がリーダーに選出された。鷹司高雄さんは、かの久坂玄瑞が討ち死にをした鷹司邸で鷹狩り用に飼われていた鷹の末裔である。
「血統」という言葉が、初めて鳥の間で使われた。
やがて秋になった。地球温暖化により上昇した海面気温は、たくさんの台風を生み育てた。そして鳥の共同体は、それを乗り越える度に強固になった。特に渡り鳥は海外に知己が多いので、営巣用にツンドラの草や針葉が多くシベリアから運ばれた。それを見た貴族たちは、「なきわたる雁の涙やおちつらむ もの思ふ宿の萩の上のつゆ」などと和歌を詠んでいたが、本当に泣くような思いでかき集め、運搬していたのである。
初めは共同体に懐疑的だった者も、今では喜んで避難所を営巣し、みなしごとなった雛に給餌した。「己」よりも「家族」よりも大きな「鳥」という共同体に己が同化する時、彼らは自分が大きくなったと感じた。
食料の少なくなる冬は、きっと困る者が多かろうと思われた。鷹司高雄さんは、皆に倹約を奨励した。
しかし、その冬は例年にない暖冬で、飢える者は少なかった。困ったのはやることのなくなった鷹司高雄さんだけではない。全ての鳥は、備蓄しておいた食料の行き場を失った。多くの者は、暖かい木枯らしの中に共同体の崩れる音を聞いたのだった。
しかし、朗報が入った。
瀬戸内海の青島で、雀が猫に喰われたのだった。鳥の共同体は息を吹き返した。
世界中の鳥たちが戦闘服特攻服に身を包み、小さな島にカチコミをかけたのである。それはもう、コンドルやイーグルといった大型猛禽類からキューバのマメハチドリに至るまで、全鳥類の総決起であった。もっとも、マメハチドリはサイズの上では鳥というより虫なので、猫だけでなく雀からも餌と間違われて喰われたりしていたが、その度に英霊は増加、たった三日でこの春からの死者数を大きく超えることとなった。
この戦いは、鳥たちにとって、獲物でも侵入者でもない者を攻撃した初めての経験となった。
カチコミから一週間後、彼らは猫島と呼ばれた青島の猫を全て駆逐するに至った。島には猫の目玉やら内臓やらが累々と積まれ、毛皮は全ハゲタカをフサフサにしても余るくらいであった。鳥は初めて猫に勝った。有史以来、猫に食料として扱われていた彼らは、ついに逆転を果たしたのである。
鷹司高雄さんは、高らかに宣言した。
「我々鳥類は、今や新しい時代を迎えている。そもそも我々は、一億年前に地球を支配した恐竜たちの子孫なのだ。我々の進歩と発展は、地球の歴史が要求するところである。
今こそ森を拓き、川を汚し、空を翳ませるあの人間共をこの地球から抹殺し、この星に住むすべての生命の希望を実現させようではないか」
かくして次の春、鳥たちは例年以上に突く突く。ここを前途と花を突き虫を突き鼠を突く。それもそのはず、地球人類の数は、青島に住む猫の比ではないのだから、入念な準備が必要である。
詩人は、「また来ん春と人は云ふ\しかし私は辛いのだ\春が来たつて何になろ\あの子が返つて来るぢやない」などと詠って悲しんでいるが、悲しむのはこれからである。
Brave Birds