20170701-妹(再掲示)

あでゅー 星空文庫

 二千二年三月。
 井上翔(かける)は、地下鉄九段下駅から階段を上って地上に出ると、息をのんだ。桜の花びらが、ハラハラと翔の頭に降ってきたのだ。甘い香りが身体全体に染みわたる。この季節にここへ来たのは初めてで、その大きな樹木たちが豪華な花びらに埋めつくされている情景に圧倒された。理工学部で四年間学んだ千葉県の田舎にだって、こんなに見事な桜はない。しかし、悪友たちは日本武道館のトイレを求めて、我先にと真っ青な顔で駆けて行くのである。興覚めだ。
 桜の花は、本州では三月中旬に満開をむかえるが、翔の生まれ故郷の北海道東部では五月上旬まで待たなければならない。それに、これだけの見事な桜の木々を見ることはできない。翔は、彼らの地元関東に就職した悪友たちをうらやましく感じたが、本人たちは少しもそれを感じてはいないらしい。あって当たり前のことと思っているのだろう。
 だが、これから翔が就職する札幌には、それに負けないぐらい美しいポプラの木々や、歴史を感じさせるレンガ作りの洋館がある。そのこともあり、つらい別れを決断してしまったのだが。

 M工科大学の卒業生は、理学部、工学部、理工学部、基礎工学部の全学部の博士課程までの、総勢およそ五千人。それをまとめて、一緒に日本武道館で卒業式をやる。
 翔は、まわりを見渡して、よくもまあこれだけ生産したものだと、ため息をつく。それでも、この大学を出たことによって、一応ワックスメーカーに就職できたのだから、感謝しなくてはいけない。翔は、新たな気持ちで船出しようとしていた。
 結局、三度だけしか着なかった就職活動用に買った紺のスーツをきゅうくつに感じながら、ネクタイを少しゆるめていると、後ろから肩を叩かれた。

「なんだ、小春か」
 翔が振り返ると、早乙女小春が立っていた。くびれた腰が、リクルートスーツでさらに強調されて、女らしさをきわだたせている。
「あ、さんざん人のノートを利用して、ようやく卒業にこぎついた奴が言うセリフかね。まったくもー」
「悪い悪い。小春には感謝しているよ、ほんと」
「それだけ? 言うことは」
「愛しているよ」
「ふん、そんなこと言って。私になにも聞かずに札幌へ就職きめちゃってさ」
「だから、ついて来いって言ったじゃないか」
「そんなこと、できるわけないじゃない……。もう、よしましょう。それよりも、龍(りゅう)と学(まなぶ)は?」
「トイレだ。だから、かき氷はやめろと言ったのに、この季節に朝から早食い競争なんてするから」
「まったく、バカね。ああ、帰ってきた」
「はるー」
「あ、バカ龍。さわるな。うんこ臭くなる」
 そう言われて、佐々木龍一(りゅういち)は眉を落として、自分の臭いをかぐ。
「くんくん。俺たち、そんなに臭う?」
「うん、学。すんごく」
「うえーん」
 佐藤学は、子供のような声で、大げさにウソ泣きをした。
「おとなしく隅にいって、臭いをまき散らさないようにね」
「おい、小春。それが今日でお別れする友だちに言う言葉か?」
「まったく……。龍は無駄に顔がいいのが残念だね」
「あ、翔。まさか隠れホモじゃないでしょうね? 私、HIV検査を受けたほうがいいのかな……?」
「おい。ちょっとは周りの目を気にすれよ。ほんと、最近の婦女子の言動は、目にあまる」
「出た。学のお説教モードが。でも、うんこ臭い」
「わかったよ。隅に行くよ」
「おい、冗談だよ。もうそろそろ始まるぞ」
 翔は、気付いていた。小春が、無理してはしゃいでいるのを。だが、それに合わせるしかなかった。心が、ひりひり痛んだ。

 壇上に進行役の地味な中年女が立ち、式の開催を宣言した。はげ頭の学長のお祝いの言葉のあとに、卒業生代表に卒業証書がくばられる。翔たちはあとから卒業証書をもらえる。言わば、これは成績優秀者にあたえられた晴れ舞台なのだ。
 まずは、物理科の学士から代表が呼ばれ、まじめそうな男が学長の前に立った。誇らしいだろう。けれど、彼のことなんて皆、次の瞬間忘れてしまう。なんの意味もないのだ。喜ぶのは親だけだろう。
 しかし、翔の工業化学科百数名の代表が呼ばれたときは、正直驚いた。龍一が壇上に立ったのだ。龍一はいつもいい点数をとって平然としていたが、まさかこれほどとは。それに、龍一は修士課程の進学が決まっていて、この分だと博士課程までいくだろう。普段はバカなことばかりしているが、不平ばかりの翔とは、どだい人としても、研究に対する心構えも、天と地ほどの差があるのだ。

 そんな龍一は、昨日、翔に言った。
「お前たちが別れるなら、俺は小春にプロポーズする。本当にいいんだな?」
 龍一にはめずらしく、終始まじめな顔で言った。龍一が小春を愛しているということは、翔にも分かっていた。しかし、龍一は小春のつらさを知り、翔に考え直してほしいと思っているのだろう。
 だが、翔はなにも言えなかった。親友に取られるなんて、身を切るほどつらい。しかし、それ以上に妹を愛しているのだ。

 龍一は卒業証書を受け取ると、一礼をして翔たちの列に帰ってきた。そして、やっぱり平然としている。そんな龍一に、小春は「すごいじゃん」と尊敬のまなざしで見ている。このとき、龍一と小春の未来が見えたような気がして、翔は思わず手を出して阻止しようとする。だが、昨日の龍一の言葉を思い出して、手のひらをきつく握った。
 バカだな。妹を好きなるなんて。翔の気の抜けた笑い声がひびく。それは、一瞬静かになった式場にひびき渡る。五千人が冷たい視線で見てる、バカな男を。翔は下を向いて、視線が行きすぎるのを待つしかなかった。一瞬のことであっただろうが、翔には耐えられないほど長く感じた。そう、消えてしまいたいほどに。

 そんな翔の感情とは無関係に、卒業式は永遠と続けられた。博士課程まですべて終わったのは、三時間後。いつの間にか、三階の立見席から翔の母親がビデオ片手に手をふっている。それだけで、心の底からほっとした。世界中のすべてが敵だとしても、母親だけは味方であると思った。だが、心とはうらはらに、すぐに視線を外した。
 息を切らして一階まで降りてきた母は、少しつらそうな表情をしたが、翔は気づかなかった。
「おめで……とう、翔」
「やっぱり来たんだね、かあさん。わざわざ、高い飛行機代だして」
「これで四年間の苦労がむくわれるって思ったら、いてもたってもいられなくてね。ふー……。その子たちは、お友だち?」
「そうだよ」
「翔が四年間もお世話になりまして、心からお礼を言います。どうも、ありがとう」
 そう言って、母親はふかぶかと頭を下げた。なにを大げさにと思ってやめさせようとしたのだが、翔にはできなかった。まだ四十七なのに、母の頭はいつの間にか白いものが目立ち、ひざにそえられた手は痛々しいほど傷んでいたから。ごめんね、かあさん。これからは、少しは親孝行するよ。そう、心の中で思い、母親の気がすむまで頭を下げるのを、黙って見ていた。恐縮する友だちには、すまん、思うようにさせてくれと、おがんだ。こんなことを思ったのは生まれて初めてで、少しは自分も大人になっていたのかなと感じた。
 母親は友だち全員と握手をかわすと満足して、これから福島の親戚に会いに行くと言った。満州から引きあげたとき、とてもお世話になったのよと言って、まるで修学旅行の中学生のようなキラキラした目をして、急いで旅立った。翔は母親の満州時代のことは、あまり積極的には聞こうとしなかったが、一度じっくり聞いてみたいと思った。

 翔たちは、すぐに解散することに、躊躇した。誰からともなく九段下駅の喫茶店に入ってダベル。ふと、一瞬の沈黙が訪れたとき、龍一がカフェオレをゴクリと一口飲みこむと、声を張り上げて言った。
「小春。君が翔と別れたのは知っている。それで、こんどは俺と結婚を前提に付き合ってくれ。お願いだ」
 龍一のことだから、やると思った。噛みしめた奥歯が痛い。
 小春は翔に救いを求め、すがるように見つめた。だが、翔は妹ことを思うと、なにも言えない。目線だけが小春から離れない。そして、その目線をそらしてしまう。
 それが翔がだした答えなのだと、小春は痛いほど分かりきっていたのに。小春は、あきらめて龍一を見た。両目からは大粒の涙が、つぎつぎと流れ出てきて、もはやなにも見えないだろう。
「こんな私でよかったら、よろしくお願いします」
 そう言って小春は、頭を下げた。肩が痛々しいほどに震えている。

 人生、長く生きていれば、好きな人と別れなければならない決断を迫られることがあるだろう。頭でわかっていても、心がついていかない。だが、小春は、頭で理解して決断したのだ。なんの文句があろうか。
 翔は二人をことを呆然と見つめながらも、小春には誰よりも幸せになってほしいと思った。自分は、妹と幸せになれるはずもないのに。
 小春が、昨日最後のセックスのときに翔に言った。こんど生まれ変わったら、絶対に一緒になろうね。その言葉が翔の頭の中で、なんどもなんども、鳴りひびいた。
 そのとき。すべての信号が遮断された――。

 なにも、聞こえない。なにも、見えない。なにも、感じない。ただ、真っ暗な闇が、翔をすっぽりと飲み込んだ。翔は、自らそうすることにより、心の痛みからは逃れられた。

 しばらくすると、感覚が戻ってきた。しかし、周りには誰もいなかった。皆、そっとしておいてくれたのだろうか、それともあきれて置いて行ったのだろうか。いずれにせよ、自分には似合いの別れだと思い、翔はアパートを引き払う最後の作業をするために、千葉方向の電車に乗った。

 これが、大学生活最後の記憶だ。四年間、苦悩の中で勉強したことも、龍一や学と遊んだことも、小春を愛したことも、今となっては全部まぼろしのように思えて、実感がない。唯一、小春の涙がいつまでも、目を閉じるとまぶたに浮かぶ。初めてで、最高の恋人。小春――。


 札幌の春は、遅い。四月下旬になっても、ところどころに残る雪がそのことをわからせてくれる。それでも、道路の側溝には春の息吹、ツクシンボが目を出している。もしも人が見ていなかったら、もぎって来てから揚げにして食うのにと思う。そのほかにも、フキノトウ、アイヌネギなどがおいしそうに実っている。
 そのとき、バス停で翔と同じように見ている大人の女性と目が合った。思わずおじぎをする。そして苦笑いして、つい思ってることを口走ってしまう。
「いやー、おいしそうだなと思いまして」
「私もですよ。それに、そう思っている人はたくさんいますから」
 そう言ってその女性は、ふふふと笑った。鮮やかな口紅が、思わずドキっとさせる。別れたばかりですぐにほかの女性を意識するなんて。そう思い、翔は目線をそらした。
「皆考えていることは、大差ないんですね。いや、安心しました」
「見たところ、新卒のようね? よく似合っているわ、そのスーツとオーバー」
「ありがとうございます」
「……。それだけ?」
「えっ?」
 いつの間にかバス停に並んだ人が二、三人、聞き耳を立てているふうだ。その中で、明らかにきっかけを要求する女性。翔は、このような自分に自信のある女性は嫌いではなかった。ただ、出会うタイミングが悪いだけだ。翔は、話し掛けたことを後悔した。
「すみません。俺、また無駄口たたいちゃったみたいで。忘れてください」
「まあ、あまりかたく考えないで。友だちになりましょう?」
 確かに、この女性とはうまが合いそうだ。それに、この三十くらいの女性は、あまりべたべたせずに、気楽に付き合えそうだ。翔は、女性の細い足首に、またしてもドキリとした。
「俺は、井上翔。飛翔のショウって書いて、カケルです。よろしく」
「私は、園田雫。雨冠に下って書いて、シズクね。携帯番号、交換しようね」
「……はい」
 手慣れたように見えた。携帯の番号を自動で交換できるようになったのは、ついこの間だ。よほど、友だちが多いのかなと思って、嫌な気分になった。だが、もう遅い。番号は交換されてしまった。
「えーっと」
「今夜は、八時に終わるけど、どう?」
「それじゃ、大通りのUCCカフェプラザでお願いします」
「お。いきなりお酒を選ばないのが、いい。あははは」
「……あ、バスが来た。それじゃ、また」

 酒の席を避けたのは、やはり雫との付き合いに不安があったからだ。バスに乗り込むと、ひとり分の席が空いていた。翔は、雫を座らせて吊革につかまる。ありがとうと言った言葉が、言いなれていてここちよい。やはり大人の女性だ。翔は、てれていいえと言った。
 それきり黙って、翔と雫はバスに揺られていった。地下鉄東西線の菊水駅につくと、それじゃまたと言って、二人は反対方向へのホームに向かって歩き出す。翔は新札幌方向へ、雫は大通り方向をめざして。

 翔は、終点の一駅前のひばりが丘で降りた。Sワックスの事務所は駅から歩いてすぐのところ。重いトビラをあけて、お早うございますと、なにも不安がなさそうに元気に挨拶をする。朝から元気がない声だと、皆心配するから。翔の声に次々と元気に挨拶が返ってくる。この雰囲気が好きだ。仲間と感じるからである。
 出先へ持っていくカタログを用意していると、九時十分前に高田所長の朝礼が始まった。
「お早うございます、皆さん」
 十名ほどのお早うございますの声が、事務所内になり響く。
「えー、今日は尾関は徹夜で塗装。Aは今から販促で直帰でいいな? 後は、それぞれの担当地域のフォロー、よろしく」
「はい」
「それでは、皆さん。今月もあと一週間で終わりです。気張っていきましょう」
「はい!」
「それでは、解散」

 翔が急いで出発準備をしていると、先輩の尾関が後ろから肩を叩いた。
「井上。今日暇か?」
 どうせ仕事だろう。断われないことは、わかっている。翔は、ほっとして返事をした。
「はい。いつも暇ですよ、尾関先輩」
 やはり塗装のヘルプだった。翔は理系だから、問題が起こっても的確に対処できる。それゆえ、みんな重宝がって使うのだ。だが、そのあと飲みにつれ行ってもらえるし、おいしい店にも連れて行ってくれる。そういうフォローは、営業ゆえ、みな心得ている。翔は、それをありがたく受け、そして学んだ。
 なぜ、翔が営業として入ったのか。それは、札幌では研究職の求人が少くないことと、研究職に限界を感じたからだ。この選択は、間違っていないと思うし、案外営業職に向いていると、一か月近く働いてみて思う。翔は、なによりも、人と話すことが好きなのだ。
 それに、翔は札幌の風土が好きだ。四方を山にかこまれて、新しい建物と、古い洋風の建物が同居する町、札幌。地方であるはずなのに、少しも東京にあこがれを持っていなくて、自信にあふれているように見える、札幌の人。それゆえ札幌へ、さも地元のように就職したのだ。
 もしも、札幌と恋人のどちらかを選べと言われれば、間違いなく札幌を選ぶだろう。大学時代の恋人、小春と別れた直接の理由は妹ではあるが、札幌が翔を引きとめたのも事実ある。

 翔は、出先へ向かう途中、雫にメールして、『わるい。行けなくなった。また、こんど誘ってください。』と入れた。
 これくらいでは怒らない人であることは、なんとなくわかる。大人の女性だから。そして、これでもう連絡しなくても、少しはがっかりするかも知れないが、あきらめてくれるだろう。友だちなら、たくさんいるだろうから、すぐに翔のことなど忘れてしまうに違いない。そう思うと、気持ちがほんの少し軽くなったが、惜しい気もした。
 ほんとうに、友だちがたくさんいるというのが、付き合うのに躊躇する理由なのか? もしかして、翔の知らないことを知っている友だちに、嫉妬しているのではないのか? そんなことを自問自答しながら、出先についた。

 地下一階の片隅。トビラをたたくと眠たそうな返事がした。当直明けなのだろう。五十歳をとうに越えている作業着姿の男が、折りたたみイスをすすめて、どうぞと言ってくれた。事務所兼、更衣室兼、そうじ道具置き場で、空いてる面積は三畳ほど。そのせまいところに頭をつきあわせて座った。
「お疲れさまです、斉藤さん。これ、眠気覚ましにどうぞ」
「お、気がきくね。ありがとう」
 斉藤は、熱い缶コーヒーのフタを開けて、おいしそうに飲んだ。
「いいえ。それでですね、眠たいところをすみませんが、来週の塗装には、ぜひ当社のL-1をお願いします」
 翔のさしだしたパンフレットを手にとり、メガネをはずして文字を読む。手が、ひびわれて痛々しいが、それがこの業界の仕事人のあかしだ。
「じょうぶで長持ち、ヒールあとも付きませし、黄変もしません。だけど、ちょっと高いのが難点です。でも、そのぶん長持ちで、いつまでもメンテナンス・フリーですから、もとは取れます」
「十八リッター缶で二万二千円? 相場が一万四千円だよ。高いよー」
「でしょ……。だから、こんな高いの売れないって、研究に文句言ったんですよ」
「あははは。でも、そんなにいいんだったら、八がけで使ってみてもいいけど、どうよ?」
「えー! それじゃ儲けがなくなっちゃうよー。頑張って九がけで考えていたのに……。ええい、八点五がけだ! これで勘弁してくださいよ。そのぶん、僕が二人分塗装のお手伝いしますから」
「よし! それで手を打った!」
「ありがとうございます」

 実際は、ワックスの差額四千円が八缶で三万二千円。バイト一万円が二人で二万円。しめて一万二千円のマイナスである。そのぶん、長持ちすればいいのだ。実際、レポートでは二倍近く持つと書いてある。
 それと、もう一つ言っていないことがある。それは、剥離作業の養生時間だ。このワックスは、Tgが高いうえ、酸基が少ないので、アルカリを使う剥離作業に時間がかかるのだ。だが、長持ちで黄変もないから、満足度が高い。きっと、気に入ってくれるはずだ。翔は、願った。一年後に、ふたたび笑顔で塗装の日を迎えることを。

 商談が成立し、笑顔でその場を失礼して、同じような案件で二件おじゃました。昼時に、立ち食いそばをかき込んで、また出先におもむく。それが、一日に八件。
 翔が事務所に帰って、カップラーメンをすすっていると、尾関が作業着にきがえてワンボックスカーのハイ・エースのキーを持っている。翔は、急いでかき込むと、作業着に着替えてジャンバーをはおる。これは、紺色でデザインがちょっと気に入っている。ホワイトボードの井上の横に、塗装のカードにはって、行ってきますと言う。

 すぐに、ハイ・エースに乗り込んで車を出す。運転するのは、当然新入りの翔である。
「井上、悪いな」
「いいえ、尾関先輩。こんどUCCカフェプラザで甘いもの奢ってくださいね」
「なんだ、肉でも奢ろうかと思ったのに、そんなもんでいいのか?」
「あそこのアイスワッフルは、いちど食べたらやみつきですよ」
「そんなにか? 俺もこんど食べてみよう」

 翔たちが話をしている間に、車はビルへと吸い込まれていった。業者搬入口に車をつけると、剥離剤、ワックス、バケツ、スクイージ、ポリッシャーなどを、つぎつぎと現場までかつぎあげて、作業の準備をする。遅れて、塗装業者が入ってくるが、もうあらかた準備はできた。業者は、借りてきたネコのように指示にしたがう。そして、作業がスムーズに流れだした。あとは、単純に流れ作業をするだけだ。ときたま、ビルドアップしたワックスに苦労するが、それもおり込みずみのこと。作業は、とどこおりなく終わり、お互いの健闘をたたえあって、帰路につく。
「ありがとうな、井上」
「いいえ、尾関先輩」

 朝日が、ハイ・エースの後方から掃除道具をてらしている。眠気にまけぬよう辛いガムをかむ。やがて、ひばりが丘の駅が見えてきた。事務所に着くと、もう一組の塗装隊が荷物をおろしている。おつかれさまの声で、お互いの苦労をねぎらう。アパートへ帰ったら間違いなく起きれないから、始業時間までの短い間、事務所で仮眠をとると決めている。翔は、毛布をはおると、すぐに眠りに落ちた。


 五月上旬、めずらしく日曜にお休みがとれた。釧路から札幌へ遊びに来る妹の楓を旭川郊外にある旭山動物園に連れていく。車は、この前買った中古のインプレッサ。翔のお気に入りである。
 楓は、来年高校を卒業して進学するのか、就職するのかまだ決めていない。親からは医療専門学校をすすめてくれとの意向があったのだ。翔を見て、やみくもにただいい大学へ進学すればいいもんじゃないってことが、分かったのだろう。なんの職業を目指すのかが大事だと。その中で、誰にでもできる仕事をするのではなく、専門的な技術を身に着けるほうがいいと、親は思ったそうだ。例えば、医療放射線技師や臨床検査技師、それに作業療法士などだ。その考えに、翔も賛成した。

 楓は、土曜の遅い電車で来て、日曜に旭山動物園へ行って、夜遅く電車に乗って帰る計画だ。翔は、土曜の仕事を早く終わらせると、札幌駅に向かった。夜九時過ぎ、楓はホームから息を切らして駆けて来た。
「お兄ちゃーん」
 白いオーバーに身をつつみ、楓はそう言うなり腕を組んできた。楓にとっては、翔はあこがれの存在なのだ。なにせ、釧路の普通の高校を出て、M工科大学へ受かったのだから。
 だが、翔は大学の進路を誤ったと一時ひどく落ち込んで、もう少しでドロップアウトするところだったのだ。そんなときに、早乙女小春と出会った。小春は、ノートをコピーしてくれたり、出席日数があやうい講義は無理やり出席させたり、カゼで寝込んだ時には泊まり込んで看病してくれた。
 なぜ、僕にかまうのかと翔が聞くと、あなたの魂が呼んでいたのだという。あなたは、これで終わる人じゃない。将来、きっと誰かの生きる力になる。だから、私はあなたを助ける。そう言ったのだ。それから四年もの間、小春は翔とともにあった。
 だが、就職をむかえる段階で翔は、小春を裏切る。「悪い。やっぱり北海道へ帰るよ」それが、恩人の小春へのこたえだった。小春は、妹の存在を知っていて、北海道には近づけないのに。それでも、最後まで見方でいてくれた小春。だから、今の翔があるのは、すべて小春のおかげなのだ。
 それを、あこがれの存在だとは、笑わせる。今から自分のめざす仕事へ向かって専門学校へ行くことほうが、よっぽどすばらしいではないのか。そう、楓の生きる道、それは翔の夢だった。
 情けない兄だが、唯一、翔にできることといえば、いずれ両親が年老いたら、札幌へ呼び寄せて、一緒に暮らして行くことぐらいだ。

 アパートへ帰ってすぐ、話をする。なぜ専門学校がいいのかを丁寧に説明すると、すんなり分かってくれた。
「分かった。やみくもに大学へ行くんじゃなくて、どんな職業をめざすかを決めて、最善の道を選ぶのね?」
 楓の説明で要点がはっきりした。やはり、楓は頭がいい。もう、翔にはアドバイスすることはない。あとは、楓の決断にまかせようと思った。
 夜もふけて別々の布団にくるまる。ひさしぶりに兄妹二人きりの夜となったが、楓は学校のこと、友だちのこと、気になる男子のことなどを、次々と話した。楓は、またバージンのようだが、いずれ大切な人ができるだろう。しかし、翔のような男を選ばずに、将来をみすえた男を選んでほしい。だが、それは高校を卒業してからでも遅くないと思い、言うのをやめた。
 とりとめのない話を聞いていたら、楓はいつのまにか眠ってしまった。寝顔は幸せにつつまれて、まるでおいしいデザートをほお張っているように見える。翔は、しばらくその寝顔に見とれていたが、いつの間にか寝てしまった。

 翌日、まぶしい光にてらさせて、目が覚める。
「お兄ちゃん。いつまで寝ているの? 朝だよ」
 きれいに化粧した楓が、待ちきれないようにカーテンを開け、催促をする。ミニスカートから伸びた健康的な足がのぞく。思わず抱きしめたくなるのを、踏みとどまっておはようと言う。
 これは、『妹萌え死確実!』のロールプレイングゲームか? の学のセリフが思い出される。翔は、そう言ったゲームをしたことがないが、一度やったら病みつきになると思い、封印しているのである。
 翔は、あふれる思いをさますために、シャワーをあびた。そして、楓が作ってくれた朝ごはんを食べる。野菜たっぷりなオニオンサラダ。ふんわりと焼いた食パン。ブルーベリーヨーグルトをかけたオムレツ。そして、ミルクたっふりのカフェオレ。
 もしも、楓が血のつながらない妹だったらと思うこともあった。だが、こんなかわいい妹がいてくれることを幸運だと思うことにした。

 楓は、翔の会社のうすいジャンバーをはおると、インプレッサの助手席に乗り込んだ。翔は、楓のひざを隠すように、ストールをかける。ありがとうの言葉が、なぜかとげとげしい。だが、そ知らぬふりをして、会社があるひばりが丘の隣、大谷地インターチェンジをめざした。
 途中、尾関の車とすれ違った。口をあんぐりと開けて凝視している。月曜は、しつこく聞かれるだろうが、妹というと紹介してくれと言ってくる可能性があるので、恋人と言おう。
 車は、大谷地インターチェンジで高速に乗り、旭川をめざしてひたすら走る。ひさしぶりの快晴だ。楓は、ジャンバーのボタンを外して、ラジオの曲に合わせて口ずさんでいた。

 はじめのうちは元気にしていた楓だが、朝早く起きて朝食やお弁当を用意していたのがひびいたのか、やがて舟をこいで寝てしまった。この季節は、まだまだ冷える。せっかく、札幌へ遊びに来て、カゼでも引かれたら楽しい思い出がだいなしだ。そう思い、暖房を少しだけ入れた。
 高速道路の遮音壁から、ぽつりぽつりと、ポプラの大木が桜のような花を咲かせているのが見える。なぜ、明治の人は外来種のポプラを北海道に取り寄せたのだろう? 成長が早いだけで樹齢が長くても百年と短いし、建築資材とするような強度もないし、燃えやすく、害虫にも弱い。当初、街路樹や防風林として導入されたようだが、倒れやすく、すぐに撤去されたであろう。ただ、観賞用としか役に立たないポプラ。
 だが、北海道の人はポプラを見ると、なぜか気持ちがおだやかになるのだ。まるで、懐かしい人に会ったときのように。そう、仲のよかった幼馴染と会ったときのように。

 車で、札幌から百五十キロほど走ると、やがて旭川北インターチェンジが見えてきた。高速を降りて旭川空港へ向かって八キロ進み、コンビニのある交差点を左折して二キロばかり行くと、旭山動物園に到着する。駐車場へインプレッサを入れ、楓の肩をゆすった。
「楓。着いたよ」
「うーーん。よく寝た。おはよう、お兄ちゃん」
 今朝、きれいに化粧をしたのに口紅が大きく広がり、まるでみだらに男を誘っている遊女のよう。翔は、黙ってハンカチで化粧を落とした。おとなしくされるがままにしている楓。こんな光景、親には見せられないと翔は思った。楓は、セックスのあとのような火照(ほて)った顔をして車を降りると、翔と手をつないで動物園に入って行った。

 動物園を右回りで観ていく。まず、はじめはゴリラ。行動展示という手法を使っている。ゴリラは、翔たちの目の前で、おいしそうにバナナを食べた。強化プラスチックに隔てられて、ヨダレがかかるほどの距離でガツガツとほおばる姿は、大学時代の友人龍一のようだった。人も動物もおいしいものを食べるときは、周りは目に入らないらしい。
 さっきまでアンニュイな面持ちだった楓は、いつの間にか観察行動をとっている。高校の生物部の楓にとっては、類人猿は人間と同じように研究対象なのだ。では、なぜその道に進まないのかというと、人間観察は楓のお気に入りの趣味で、これを職業にするなんてきっと苦痛になる。それが嫌ということだ。
 楓は、ゴリラをいつまでも見ている。翔は、そんな楓をじっと待っている。ときどき、お菓子や飲み物のさし入れをしながら。
 やがて、翔はベンチで寝てしまった。一昨日は、徹夜で塗装だったのだ。それに気づいた楓が、翔のベンチへ腰かけて、頭を楓の胸におく。いつまでも、この時が終わらなければいいのにと、楓は思った。翔は、いい夢を見ているのか、にっこりとほほ笑んだ。その時、楓は唇を重ねる。そうやって、二人は二時間以上ベンチを占拠した。まるで、恋人たちのモニュメントであるかのように。

「うーーん。あれ、楓?」
「おはよう、お兄ちゃん。よく寝れた?」
 心なしか、目がうるんでいる。翔は、あわてて腕時計を見る。
「え! もう、こんな時間だ」
「いいんだって。どうせ、徹夜続きで疲れが溜まっていたんでしょ? 私は、大好きなゴリラを心ゆくまで堪能したから、満足だよ」
「そうか、悪いな」
「それより、お昼ごはんにしようよ。もう、お腹ペコペコ」

 それから、二人は車に戻って楓の作ったお弁当を広げた。オニギリを一口ほおばると、母と同じ味がした。そう思うと、翔の胸はズキッと傷んだ。妹を、好きになってしまったのだから。
 そのとき、車の窓ガラスにポプラの綿毛を一つだけ見つけた。それを、手に取って手のひらに乗せると、風がふいて天高く舞い上がった。
「ポプラ、いいよね。道東じゃ観れないから、よく観ておかないとね」
 この綿毛のように、どこへでも自由に行って、人を愛せたらいいのに。そう思い、楓を見つめながらオニギリをほおばる。
「へ? なに?」
「なんでもないよ。でも、僕らはなぜポプラが好きなんだろう?」
「さー」

 翔は思う。僕たちは、きっと前世はヨーロッパに生まれたんじゃないのかと。大量の綿毛に鼻水をまき散らし、恋人のために決闘をして、二十歳で命を落とした数学者ガロアのように。
 もちろん、そんな訳はない。翔の頭は、それほどよくはないし、ガロアが恋人のために決闘したなんて、まったくのデタラメである。このように、翔は妄想をして、最近は無駄に書き散らしていた。
 ずいぶんと遅い昼食は、思いのほかおいしくて、すべて平らげるのに一時間ほどかかった。時計を見ると、もうすでに帰らないといけない時間だ。翔は謝ると、札幌へ向けて車を出した。楓の乗る電車の時間が迫っている。アクセルを少し踏み込んだ。


 車はあと少しで札幌に着こうとしていた。気が緩んだのか、夕日を前方からあびて、翔はうとうとしてしまう。次の瞬間、右のフロントタイヤが大きく跳ね上がった。――そのあとの記憶がない。

 気がつくと、翔は病院のストレッチャーの上で、うんうんうなっていた。右ひざが強烈に痛い。これから、手術ですよと声をかけられるが、頭がもうろうとして上手くしゃべれない。そこで、楓のことをようやく思い出す。
「か、楓! かえでー!」
 大声で、わめきちらした。とにかく、顔を見るまで不安で仕方ない。狂ったように、叫び続けた。
「うっ!」
 ごうを煮やした看護師が、翔の右腕に鎮静剤を注射をした。翔は、再び意識を失った。

 翔が、次に気が付いたのが、病院のベッドの上。ようやく、なにが起こったのかを思い出せた。そうだ。僕は、事故を起こしたのだ。悔やんでも悔やみきれない。まさか、自分が事故を起こすなんて。
 見回りに来た看護師から、楓の容態を聞く。楓は、別の病院へ搬送された。頭をうって一時期意識不明になったが、どうにか持ち直したそうだ。だが、後遺症が残ると言われた。
 楓の目は、視力を取り戻さない。視神経が、損傷してしまったのだ。目の前が真っ白になった。翔の苦悩はこれからずーっと続くであろう。楓が死ぬまで。

 なんど思っただろう。自分の目を楓にあげてくれと。だが、そんなことでは、楓の目は治らない。もしも、神がいるならどうか妹の目を治してほしい。お願いだ。

 楓は、札幌のT大学病院へ搬送されていた。足を骨折した翔は、労災病院へ連れていかれた。母は、楓のもとにすぐに駆けつけたが、無残な傷だったという。母の話によると、主治医は、楓は眠っていて力が抜けており踏ん張りが利かなかったと聞いたと言う。顔を激しくダッシュボードに打ち付けたのだと。
 翔は、それを聞いてなにもする気になれなかった。母親が心配する中、死にたいをただ繰り返していた。

 手術して一週間、リハビリをしなくてはいけないのに、翔は頑なにそれをこばんだ。そんなとき、翔の会社のから二人お見舞いに来た。尾関と事務の女性だった。
「よお、井上。生きているか?」
「尾関さん、言葉には気をつけてください。こんにちは。井上さん」
「尾関先輩。それに今井さん」
「お母さんから話は聞いたよ。お前、リハビリを拒んでいるんだって?」
「……」
「そんなことじゃ、妹さんまでダメになってしまう。いいのか? それで」
「……」
「お前は将来、障害者の妹さんの面倒を見なきゃならない。もちろん、妹さんにいい人がいたら別だが。だから、いつまでも遊んじゃいられないんだ」
「尾関先輩」
「こら、泣いてる暇があったら、今すぐにリハビリを始めろ」
「お涙ちょうだいのところ悪いんだけど、二、三確認します」
「は、はい」
「井上くんは、あの日札幌駅まで妹さんを送った後、徹夜で塗装のはずでしたね?」
「え? そんなはずは」
「今井ちゃん。井上は、事故で記憶が混乱していると思うんだ。確かにあの日、俺と塗装の予定だったよ」
「そうですと、労災で治療費が下りるし、休んだ日数も公休あつかいで、お給料もでますね」
「そう言うわけだ。安心して身体を治してくれ」
 翔は、彼らに頭をさげた。それは長い時間で、その間中尾関と今井はやめてくれと言ったが、翔には頭を下げることしか思いつかなかった。

 翔は、その日からリハビリをはじめた。だが、右ひざがまったく曲がらない。男性の作業療法士がていねいにもみほぐしたが、それでも、たいへんな激痛である。なんど泣いたことか。作業療法士はそのたびに、「やめるか? 俺はどっちでもいいんだ」と言って挑発し、「キ×××ついているんだろ?」の暴言まで吐いた。
 おかげで、三か月後には少し足を引きずりながらではあるが、歩けるようになって、無事退院できた。この作業療法士には感謝している。

 翔は退院すると、足を引きずりながら楓の病院へ行った。しかし、なんと言えばいいのか分からずに、病室の前でいつまでも立ち尽くす。それを見かけた看護師が、翔の肩を押した。
「誰?」
 聞いていたよりも傷は酷くなかった。ただ、目に痛々しい眼帯を着けている。
「もしかして、お兄ちゃん? ねえ、そうでしょ?」
「楓……」
「お兄ちゃんは今日が退院だけど、私はもう少しかかるみたいなの」

 楓は、目が見えないことを少しも気にしている素振りもなく、翔にお茶を出した。まるで、生まれたときから見えないように。それは、きっと翔に対する優しさのだろう。翔も、楓に合わせて接しようとするが、声が震え、やがて声を殺して泣き出してしまう。そんな翔を抱きしめ、頭をなでる楓。それは、罪びとに許しを与えるキリストのようだった。

 それから数か月後、楓は札幌の病院を退院して、釧路の実家に帰った。母は、最後までなにも言わなかった。自分が翔の疲れを知らずに、動物園に連れて行ってと言ったから、事故は自分のせいだと思っている。翔は自分の過信がまねいた事故だと言っているのに。
 そのせいか、最近の母の言動が怪しい。そのことを父に電話をして気を付けるように言おうとするのだが、楓を傷つけたことに腹を立てろく電話にも出てくれない。もう、家族はバラバラだ。

 季節は、いつの間にか雪が降る季節になった。道路に氷がはって、人々はあわててスタッドレスタイヤにはき替えた。今年の冬は、心まで凍ってしまうように、しばれる。
 ふと、小春は元気だろうかと、ひさしぶりに思う。小春と二人、暖まったコタツがなつかしい。翔の愛した小春は、もう他人のものなのに。
 翔は、そうやって現実逃避をして、妄想に走った。唯一、薬に走らないのが救いだった。


 翔は、事故後三か月で退院したが、会社で満足に働けるようになるには、さらに一か月を必要とした。その後、会社を休んでいたことを取り戻すように、仕事に没頭する。講習を受けて運転免許を失わなかった翔は、痛い右足をひきずって、毎日のように徹夜で塗装をして、わずかな仮眠をとるだけだった。
 冬に入ったころには、ほおはコケ、目はクボミ、腰のベルトは三つの穴まで小さくなっていた。事情を知っている会社の先輩たちが皆心配するが、翔の憑りつかれたような迫力になにも言えない。ただ、尾関だけは、ひるまずものを言った。
「おい、少し休んだほうがいいんじゃないか?」
 心配そうに、声をかける。このままでは、過労死だってありえる。その責任をとらされる心配があるが、それよりもかわいい後輩にそんな事態が訪れることを嫌った。

 あれは、七年前のことである。当時、本社方面の銀座駅で地下鉄サリン事件があった。あの朝、うちの女子社員が事件に巻き込まれた。幸い命は取りとめたが、今も後遺症で寝たきりでなんの反応も示さない。生きる屍なのだ。その被害者の恋人が、会社の後輩だった。
 彼は、事件の後両親に被害者の恋人と別れるように説得され、従った。そして、札幌へ転勤してきたのだ。
 彼はよく働いた。昼も夜もろくに寝ないで。そしてある日、高層ビルから飛び降りたのだ。
 彼は、耐えきれなかった。深く眠ったままの恋人を見捨て、一人新天地で人生をやり直す自分に。もしも、結婚して子供でも出来たら、忘れるだろうと他人は言う。しかし、目をつむると恋人の笑顔が、優しくほほ笑んでいた。
 見た目は、なんの反応も示さないが、心は今も昔のままで絶えず語り掛けている。もしそうなら……。それなのに、彼女を見捨てて、一人で新しい人生を歩もうとしたのだ。誰だって、おかしくなる。
 そのことを知っていた尾関は、自分のせいだと悔やんだ。なぜ、彼女と一緒に生きてゆくことを、応援しなかったのかと。
 今の翔は、まるで彼のようだ。どうにかしなくては。
 しかし、どうやって休ませようとしても、翔は自ら仕事を探してきてしまう。この事態に、尾関は悩んでいた。
 そんな時、Sワックスの事務所の前で、三十くらいの女性が行ったり来たりしているのを見かけた。直感で、尾関は声をかける。
「あのー、もしかして井上翔君のお知合いですか?」
「あ、はい。そうです」
 長さをそろえ、少し色をぬいたショートヘアー。賢そうな眼差しに、鮮やかな口紅。落ち着いたブラウンのオーバー。尾関は、この女性に頼もうと決めた。
「実は、あなたに頼みたいことがあるんです……」

 翔のアパートは、一回が駐車場になっており、居住区は二階と三階になっていて、三階の一番の奥が翔の部屋だった。園田雫が夜遅くたずねると、充血した目をした翔が、幽霊のように玄関に現れた。
「どちらさまですか?」
 そう言って、不審そうに見ている。
「あ、こんな美人のこと忘れたの?」
「えーっと、……雫さん? そうだ、園田雫さんだ」
「こんなに、やせちゃって」
 雫はそう言って、翔のほおをなでた。
「そうだ。食料買い込んだから、料理していい?」
 翔の返事を待つことなしに、雫は上がり込んでオーバーを脱ぐと、持ってきたエプロンを身に着けた。仕方なしに、雫のすることを眺めている翔。このアパートに女性が訪ねてくるのは、妹の楓以来だ。そう思うと、胸が苦しい。翔は、痛い右ひざをかかえて目をふせた。

 雫は、スパゲティをゆでると同時にジャガイモをゆでる。そして、ゆで上がったスパゲティをオリーブオイルと唐辛子でいため、ゆで上がったジャガイモはつぶしてポテトサラダをまたたく間に作った。まるでシェフのような手際のよさだった。

「さあ、できたわよ。食べよう。私、お腹ペコペコ」
 唐辛子の匂いに、翔はゴクリと唾液を飲み込む。雫は、いただきまーすと三十には似合わぬ声を出して、ほおばる。翔も一口食べてみるが、思いのほかおいしかった。またたく間に、皿をなめるようにきれいに食べつくした。
「お代わりあるわよ」
「うん。お願い」
 翔は、喉をならしてカフェオレを飲んでいる。よかった。食べてくれて。雫は、ほっとしていた。男の部屋にうむを言わさず上がり込んだのは、これが初めてだった。尾関が言ったとおり、翔はやせこけた顔で、いつ倒れてもおかしくないほど、つらそうに見えた。見ている雫のほうが具合が悪くなる。だが今、翔は出した料理を無心に食べている。本当によかった。
 翔は、おかわりのペペロンチーノもたいらげると、カフェオレのお代わりをした。食器を洗いながら、それを優しく見つめる雫。もう、このあとのことは、決めてある。一緒に布団に入り抱かれると。雫は、これから自分がすることに、目をうるませた。

「さあ、もう寝ないと。歯磨きは?」
 翔は、うながされて洗面台へ行った。雫が、ベッドを見ると少し酸っぱい臭いがするが、このさい気にしてられない。枕カバーにだけ、タオルをまいた。
「雫さん。今日はありがとう。おかげで眠れそうだよ」
「そう? 見ててあげるから、寝ていいよ」
「いや、そこまで」
「いいから」

 雫は枕元で翔を見ていたが、翔が眠りにつくと、洋服を全部ぬいでベッドに忍び込んだ。そして、翔のふくをぬがしていった。途中で翔は気がつくが、いいから、と声をかけ抱きしめた。


 翔は、雫を抱いた翌日、ひさしぶりに休暇を取らされた。一日をベッドで過ごし、食べてはまた眠るといった休暇を過ごした。雫はその間、洗濯をして掃除をして食事をまかなった。まるで、夫婦のように穏やかに休暇を過ごした。
 雫は、尾関から翔を一週間は休ませてほしいと頼まれたが、口実が見つからなかった。思案していると、思い出した。実家の旅館が床の塗装の時期だと。
「ねえ、翔。相談があるんだけど」
「なんだい?」
「うちは、田舎で旅館をしているんだけど」
「へー雫さんて、旅館のお嬢さんなんだ」
「それで、今度床の塗装を計画していて」
「あるよ」
「あ、それヒーローのバーテンダー」
「あたり。それで、旅館の床材にいいワックスがあるんだけど」
「へーそうなんだ。ねえ、お願い。一度見に行って、お姉さん夫婦にプレゼンして」
「分かった。それで、いつがいい?」
「明日とか」
「……」

 翔は、夕刻六時すぎに地下鉄に乗って会社へ出向くと、床材にワックスを塗ったサンプルを用意していた。出先から帰った尾関が、それを見かけて翔につぶやいた。
「休暇取っておいて、会社に来るなんて……」
「尾関先輩。お疲れさまです。知り合いの家が、旅館やってるんですけど、今度塗装するんです。それで、見積もりを出してほしいそうなんです」
「ふーん。それで、いったいどこの旅館だ?」
「はい。定山渓温泉(じょうざんけい―)のF旅館だそうです」
 近くで、聞き耳を立てていた高田所長が、手をとめて翔の前に来た。
「俺も行っていいかな?」
「え? 高田所長が行くほど大きな仕事じゃないと思うんですけど」
「バカ! 床面積千坪の老舗旅館じゃないか!」

 翔は、高田所長にさんざ説教されて、一緒に行くと言われたが、それは断らせてもらった。なにせ、その旅館のお嬢さんと、一緒に行くのだから。
 尾関には、バレた。なるほど、どおりで品があったのかと。でも、お付き合いは難しいぞと心配された。それでも、サンプルの用意は手伝ってくれた。あり難い。
 会社のハイ・エースを借り、サンプルを積みこむと、尾関が最後にこう言った。
「いいか。商談がまとまったら一週間くらいお世話になれ。高田所長には、代休届け出しておくから」
 翔は、自分を幸せ者だと思った。こんな人のいい先輩にめぐまれて。翔は、お礼を言って車を出した。尾関がいつまでも見送っていた。

 翔は、悩んでいた。雫とはこのままでいいはずはない。いずれ終わりにしなければならない。楓に障害を負わせ、自分一人が幸せになっていいはずはないのだから。だが、昨夜は耐えきれず雫を抱いた。そのおわびとして、今は雫の頼みを聞くことにしたが、それは翔の利益になることなので、ますます申し訳ないと思う。
 気の重くなることを考えてしまった。一時忘れなくては身体が前に進まない。翔は、雫の待つアパートへ車を走らせた。信号は、なぜかオールグリーンで思いのほか早く着いた。


 雫の旅館は定山渓温泉にあって、冬のこの時期には氷がはるが、源泉近くの雫の旅館では凍ることはない。その旅館はホテルと言ったほうがいいほど立派で、落ち着いたブラウンの五階建ての建物だった。翔たちは、ハイ・エースで業者搬入口へつけると、受付の方がすぐに事務所に案内してくれた。

「こんにちは、Sワックスです」
「わざわざ、どうもすみません。それで、雫さん。こちらの方が、井上さん?」
「ええ、そうよ。とてもお世話になっているの」
「ようこそ、F旅館へ」
 若主人は、両手を差しだして握手を求めた。だが、手には少しばかり力が入っていた。それは、お嬢さんをどうぞよろしくと言いたげだった。少し遅れて雫の姉が事務所にあらわれた。柔らかい表情の、いわゆる女将(おかみ)ぜんとした身のこなしだった。
 だが、こちらは値踏みされているようで、出されたお茶をすするのにも緊張した。それでも、一生懸命に商談をまとめようとする雫の懸命さが、いつしか雫の姉夫婦にも伝わって、表情をくずした。
 だが、それは雫が翔を愛していることを、如実に伝えているのと同じことで、翔の進退はさらに追い込まれていった。それは、まさにアリ地獄のようだった。

 商談のほうは上手くまとまって、ついでに客室のほうのメンテナンスを見直してほしいと言われ、豪華な部屋にとおされた。ひととおりチェックをすると、雫からお風呂のメンテナンスも実際に入って確かめてくれと言われた。いいように、接待されているのが分かる。だが、断るのも大人げないと思い、大人しくお湯につかる。
 この定山渓温泉は、およそ百五十年前に定山和尚が源泉を探しあてたらしいが、しょっぱいお湯がたえず出続けて、塩がなくならないのかと思う。しかし、肌がつやつやになるし、傷めた右ひざの痛みがやわらぐので、いいあんばいだ。
 お湯につかってうとうとしていると、若女将の雫の姉がお背中流しましょうかと、あらわれた。小袖のすそをひざ頭までめくりあげて、そでをヒモでたすき掛けしている。色っぽいのと恐縮するのがごちゃ混ぜになって、遠慮するが許してもらえない。翔の背中は、ほどよい力でこすられた。

「どうも、すみません」
「いいえ。どこか、かゆいところありませんか?」
「そ、そんなもったいないです」
「あら、いいんですよ?」
「け、結構です。ありがとうございます」
「ところで」
「はい」
「妹のことですが」
「は、はい」
「妹は、これで最後の恋にしたいと申しております」
「……」
「だから、末永くお付き合いくださいね」
「……」
「返事は?」
「はい!」
「そう。わかればいいんです。失礼しました」

 そう言うと、若女将は翔の背中を流して行ってしまった。なにか、キツネにつままれたように頭がぼーとする。まさか、あの若女将がキツネのはずはないと、頭をふった。
 それから、もう一度湯船につかってから、湯あかがないか、石鹸のカスがないかをチェックしたがきれいなもので、少し木の床をみがいてお風呂をあとにした。
 部屋に帰る廊下で、ふと考えてしまった。若女将は、翔にクギをさしたのだ。そう思うと、胸に五寸クギが打たれたように痛む。ズキズキ痛む。
 しかしその晩、翔はまたしても雫を抱いてしまう。そして、次の晩も、次の晩も。結局、一週間温泉につかり、ごちそうを食べ、雫を抱いて、よく眠った。まるで、竜宮城へ行った浦島太郎のように。


「井上。太ったな」
 一週間ぶりの月曜日に会社に来た翔を見て、尾関が驚いた。
「それに、肌つやがいい」
 そう言って、尾関は笑った。
「よし。井上はこのさい雫さんと結婚してしまえ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだ?」
「僕は将来、妹の面倒を見なきゃいけないんじゃ」
「それは、妹さんにいいひとがいない時だ。でも、それじゃかわいそうだろう? だから、その機会を作ってやるんだよ」
「……!」
「いいか、俺も手伝うから、妹さんを札幌へよびなよ。絶対だよ」

 そう言われて、翔は母に電話で相談をした。母は、よろしくお願いしますと、翔に預けることに賛成だった。やはり、母も父もこのところ体調がすぐれないらしく、楓のことが重荷だったようだ。楓に一緒に暮らさないかと話すと、うれしいと言ってくれた。
 尾関の助けをかり、翔と楓、二人の生活がはじまる。もう、二千二年も暮れようとしていた大みそかのことである。

 楓は、釧路から札幌へ一人で電車に乗って来た。声をかけると、にっこり微笑んで翔に抱き着いてきた。右手に持った、白いつえが痛々しい。
「尾関先輩。すみません、お見苦しいこと見せちゃって」
「なーに、気にするなよ」
「尾関さんですか? 兄がいつもお世話になっています」
「いやいや、こちらのほうがお世話になっているからって」
 そう言って、尾関は笑った。実のところ、尾関がいなければ、なにも分からなかった。見えないということが、どんなにたいへんなのか。尾関は、目の見えない知り合いから、いろいろ聞いてくれたのだ。それは、メイク方法から、外出時の注意まで。そして尾関は、楓にどうやってほしいかを、そのつど確認した。歩く時の補助は、左ひじでいいのか、というふうに。
 翔は、ただ見ているだけだった。はがゆい。そして、なさけない。二人のあとを、ただついて行くだけだった。
 楓は、完全に安心しきっている。翔と一緒にいることではなく、尾関の腕をつかんで歩いていることに。そう思うと、翔は激しくあせった。
 ふと、思う。楓をよんだのは、誰かほかの人と暮らすことを、楓に納得させるためではなかったのか? それを忘れて、楓に必要とされることを、無意志に願う。これでは、単なるエゴではないのか。そのことに気づいて翔は、愕然とする。
 駐車場について、新しく買ったやはり中古のインプレッサに楓を乗せた。後部席に二人すわる楓と尾関。尾関の顔を見ると、はからずも幸せそうだった。

 翔は、アパートへ着くと、楓にひとこと断わって、尾関をドアの外へ連れ出した。
「尾関先輩。もしかして、楓のことが好きなんじゃ……」
「ああ、そうだよ。愛している」
「いつから、ですか?」
「事故が起こった、あの日からさ」
「楓は、知っているんですか?」
「さあ、知らないんじゃないのかな。でも、俺を選ぶかどうかは、あくまでも楓ちゃんの意思だから」

 翔は、そう聞かされても、そんなに悪い気分じゃなかった。問題は、楓はどう思っているかだが、それは楓の顔を見ていればわかる。翔といるよりも、ずっと幸せそうだと。
 そう思うと、翔の目から涙がこぼれ落ちた。雫に会いたい。今すぐに……。


(終わり)

20170701-妹(再掲示)

20170701-妹(再掲示)

65枚。妹、楓を好きになってしまった翔(かける)。大学を卒業して、妹のいる地元に就職したのが、不幸の始まりだった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-25

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