庭に花束を届けに来た人(三部作) 第二部 光の回廊

日南田ウヲ

「光の回廊」


 芹澤少年は豊かな緑の森と田園に囲まれた故郷で少年時代を過ごした。
 少年は山で野鳥を捕まえたり、清らかな小川で魚を釣ったり、また秋には空を飛び回る蜻蛉の群れを箒の先で追ったりして、時に夕暮れ遅くまで帰らないほど遊び、自由に活発な子供らしい行動力で、伸び伸びと純粋な感受性の欲するまま少年時代を謳歌していた。
 少年は外で遊ぶことも好きだったが、一番の楽しみは休日になると自分の父親がたまに連れて行ってくれる野外のスケッチだった。
 少年の父親は四季折々の風景の中でイーゼルを立て、煙草を銜えながら絵を描いた。普段の父親は口数が少なくあまり笑うことも少なかったが、少年に絵を教えるときだけは饒舌になり、煙草の煙を吐きながら少年の絵の中の間違いを見つけると優しく笑ってくれた。
 少年はそんな父親の横で、小さな籐製の椅子に腰を掛けながら絵を描く上で大事なことや、時には難しい大人の世界の話を父親から聞いて絵の描き方と人生について学んだ。
 少年にとって絵を描くことは、最初は普段仕事で家に居ない父親との遊びにすぎなかったが、次第に自分が向きあうこの世界を観察することで、同世代の友人達の誰もがまだ知りえないこの世界の神秘を自分だけが所有できるということに気がついた。
 草花の隙間から見える昆虫達の営みや、朝露が落ちる雫の美しさ、また青い空を流れる雲達の悩みや夕暮れに沈む太陽の儚さを少年は感じて自分だけの秘密として描いた。
 絵を描くことは少年にとって神秘に迫る方法として次第に確立されてゆき、それはやがて自分の隠された財宝として誰にも見せることなく、自分だけの宝箱の中に煌びやかな才能という指輪や銀貨として隠し持ち続けた。
 少年は大事に自分の絵を描く才能を育てていったが、ついにその才能を証明する機会が訪れた。
 夏に遊びに来た年上の従姉妹が少年の嫌いな夏季休暇の課題である数学をする代わりに、自分が苦手な夏季休暇の課題である絵を描いてくれと頼んできたのだ。
 少年にとってはとても都合の良い取引で断る理由などなく、軽い気持でそれを引き受け一日で絵を仕上げた。
 従姉妹は夏季休暇の終了後、学校が始まると少年が描いた絵を自分の作品として先生に提出した。
 それを見た先生は、作品の素晴らしさに感じ入り教頭や校長と相談して県が主催する初等教育の学生を対象としたスケッチ大会にその絵を提出した。
 少年も従姉妹もその事は知らなかったが、その作品は結果として特選を従姉妹にもたらした。
 少年は壇上に上り校長から賞状を受け取る従姉妹の姿を見て、自分の心臓が激しく動き頬が高潮するのを感じていた。
 勿論、このことは従姉妹と少年との秘密だったが少年にとって既に自分の絵の技量が自分の年齢以上のところにあることを確信させるには十分な事件だった。
 その日、少年は校舎を出てひとり杉や栗の木立の下の小路を歩きながら考えた。
 自分の才能が評価されるのを見るのはとても良いことだったが今後そうした才能をほしがるものが現れ、もしかしたら少年が自分の宝箱の中で大事にしている指輪や宝石、銀貨といった磨かれた才能の全てを奪ってゆくのではないかと思った。
 少年はそれを思うとぞっとして膝が竦んでしまった。
 絵を描くことは自分の純粋性を源にして何者にも変えられないほどの得がたい知的な探求であり、この世界の神秘を知るための方法であった。それを汚れた手で掴まれてしまい、奪われるのはとても恐ろしいことだった。
 感受性の良き者が持つ予想は、時に現実になる。
 それは少年の身近で起こり始めた。
 その後従姉妹は何かにつけて少年に絵を描くことをねだり、絵を欲しがった。
 少年自身だけはなく両親にもそのことを言った。従姉妹は少年の財宝を狙う盗賊だった。少年は従姉妹の前で絵を描くことに慎重になった。
 そして少年は考え、それ以後絵を描くことをしなくなった。従姉妹が来ても、もう絵を描く姿を見せることは無く、外へ出て友人達と遊ぶ姿しか見せなかった。
 そのうち従姉妹も絵を欲しがることもなくなり、少年は自分の財宝を守ることに成功した。
 しかし少年はこの経験から自分が密かに集めてきた指輪や煌びやかな銀貨を誰かに盗まれまいと必死に隠すようになった。
 その為財宝の上に誰もが気づかないようにする必要があった。
 少年は絵には関心が無いように無表情を装い土で隠し、自分の成長が進むにつれて深く穴を掘り下げその場所が誰にも悟られぬように落葉をかけていった。
 そうした日々を続けていくうちについに本当に自分でもどこに埋めたか分からなくなってしまい、財宝は少年自身でも分からない場所に深く密かに眠り続けていった。
 少年は財宝を埋めた場所を記憶から忘れることで隠し守り続けた。

 時間が故郷と都会で過ぎてゆき少年だった彼は芹澤馨という青年になっていた。
 彼は大学に進んだ。
 絵を忘れた少年は成長するにつれ文学に強く心が惹かれるようになっていった。
 学生の日々を文学と詩作の研究に費やしながらあと少しで卒業を待つ歳になっていた彼は少年から青年になるとき一冊の小説を読んだ。
 作家の名前はヘルマン・ヘッセだった。
 自分の知性も興味も変ろうとするこの時期に精神と肉体の変化と調和の中で影響を与えたヘッセの文学に彼は感動した。
 その感動はやがて彼の精神の底に沈殿している芸術的感性の種に触れ、文学の宇宙に向かってゆっくりと蔦を伸ばして行った。
 その蔦はやがて文学の宇宙を試行錯誤しながらゆっくりと伝って行き自分の血肉となるものを見つけ、そこで肉体と魂が受粉して一片の花を咲かせた。
 彼は文学という宇宙の中で詩という花を咲かせた。
 彼はヘッセを心から尊敬していたがヘッセのような文学を書くことより、文字が伝える言葉の音律に興味があった。短い言葉で人間の魂を貫く詩の言葉と音節が持つ魔力に惹かれた。
 彼にとって詩は花に例えれば真紅の薔薇のようなものだった。
 情熱的で棘を持ち、気高さと誇りを有する姿は王侯貴族のようであり、数多くある文学の中でも自分が愛してやまないものであると感じた。
 彼は図書館や古書屋で黄ばんだ紙の中に響く文字達の囁きを見つけては、それをノートに書き留めたりして文字が持つ形や節というものを注意深く観察していった。
 そしてそれを夜になるとひとりで原稿用紙に書き写して思索に耽り、自分の詩を作っていった。
 大学の卒業が、彼を悩ませた。
 ここで全てが終わることを青年は望まなかった。その為彼は自分に時間が出来る職業を選びたいと考えた。
 そして彼は大学卒業後、会社員として働くより料理人になりたいと思いアパートの近くのレストランで料理人見習いとしてアルバイトを始めた。料理人になり自分のレストランを持てば、自分の時間を持つことが出来ると思ったからだ。
 そして時間が出来れば詩を作ることも出来ると思った。
 そう思うと青年は将来故郷に戻り自分で小さな白いレストランを海が見える場所に構えたいと願った。
 自分のレストランで客足の疎らになった午後から街灯が燈る夕暮れ前まで、椅子に腰掛けながら思索に耽り詩を作る。
 そして出来上がった自分の詩と共に愛する家族と過ごすことがどれ程素晴らしい事であるかを青年は思った。
 どこまでも続く海の渚の白くてやさしい砂浜をいつもでも歩くことが、自分の人生の価値のように思えた。
 安易な考えではあったが青年にとってはとても現実で確実な自分の生きる方法だと信じていた。
 そんな日々に彼の目の前をひとりの女性がすれ違っていった。
 彼より僅かに年上の彼女は昼間レストランで働き、彼と入れ替わるようにいつも帰って行った。
 彼が初めて彼女を見たのは、そんな彼女が帰るためにレストランを出るときだった。
 近くの図書館で借りた詩集を脇に挟みながらすれ違いざまに栗色の髪から見えた彼女の顔と瞳は、青年を見て微笑んでいた。
 睫毛の下の大きな瞳が知性の深さを纏い青年の心を窺った。
 青年は彼女の微笑に立ち止まり息を呑んだ。
 芹澤青年は一目見て彼女を好きになった。そう彼の心は突然訪れた恋という稲妻を受け焦がれてしまい、青年の精神と魂はアンチュール・ランボーの地獄の季節の中の詩節の中に真っ逆さまに落ちてしまった。
 その後数日間、彼は汚れた皿を洗っては綺麗になった皿の表面をじっと見てそこに彼女の面影を探そうとし、またパスタを茹でながら自分の気持を鍋の中に落とし、何時間も鍋のなかで自分の気持とパスタを茹で続けた。
 地獄の季節の日々の中で、彼が焦がれるように待った彼女と話をすることが出来たのは、それから一月が過ぎた秋の頃、季節はずれの台風が来たときだった。
 大学は午前中で休校になり、彼は自分のアパートに帰るためアルバイト先のレストランの前を歩いていた。
 その時オーク材で出来たレストランの黒い扉を開けて彼女が現れた。彼女もこの季節外れの台風のため客足の少なくなったレストランを出て帰宅するところだった。
 彼女の瞳が彼を捉えた。
 彼は振り出した小雨の中で傘を持たずに居た。
 彼女は青い傘を開くと小走りで彼のところまで駆け寄り、傘の中に入れてくれた。
 彼女の栗色の髪が濡れてブラウスにかかっていた。
 彼女は青年に声をかけた。
「季節外れの台風ですね」
 青年は、ええと答えるのが精一杯だった。
「台風が来るのに傘を持たずに外出しているなんて、天気予報は見なかったのね、きっと」
 そう言うと彼女は青年に傘を渡してくれた。
 青年が驚いてその傘を受け取ると彼女は彼に、傘の代わりに何か本を貸してくれませんか、と言った。
 彼女はレストランで働く同僚達から青年が本をいつも持っており、また彼女が好きなフランス文学を多く持っていることを知っていた。
 彼は少し不意をつかれて、暫く驚いた表情をしていたが、不意に我に返って急いで一冊の本を彼女に渡した。
 彼女はそれを手に取るとビロード色のフェルト生地で出来た表紙の「ナナ」という題字を指でなぞった。
 彼女は青年に「エミール・ゾラね。一度読んでみたいと思っていたから嬉しいわ。これ借りていきます」と言った。
 彼が頷くと彼女は数歩歩き出して直ぐに振り向き、傘は明日レストランに返しておいてください、と言って小雨の中を立ち去っていった。
 芹澤青年にとってこの出来事は嵐が来る前の静けさのように思えた。
 芹澤青年と彼女はその後、本の貸し借りを通じて次第に親密になっていった。
 秋が過ぎ冬になるとお互いが貸し借りあった本の中に手紙を入れて感想を書いては渡すということを通じて同じ世界観を共有するようになっていった。彼女はとても文学に詳しかった。
 文学でなく芸術についても深い造詣を持っていた。
 ルネサンスの偉大な巨匠達のこと、印象派の画家たちのことやロダンといった彫刻芸術に至るまで深い観察に満ちた感性に研ぎ澄まされた言葉が青年を夢中にさせた。そうした話を聞くたび彼は短い詩を書いては本を返すとき一緒に差し込んだ。
 青年と彼女はお互いに惹かれあうものを持っており、二人の世界観がより一層二人の影を寄り添わせ、それはいつしか心を重なり合うようになって行った。
 卒業までのあと数週間となった彼は、彼女に自分の処女詩集を贈ろうと思った。
 自分が書き留めた詩を一冊の本にして贈ろうと考えた。それには彼なりの思いがあった。
 彼は彼女のことを愛していた。
 そして今や彼は彼女という事件の中で生きていた。
 贈られるこの詩集は青年の真紅の薔薇で包まれた彼女への愛の言葉群で、巨大な愛の音楽を奏でる為のエチュードだった。
 その為、彼はアルバイトを数日休むことになった。
 出版社を回り、自分の詩集を作ることに狂騒した。
 やがて詩集が出来上がった。
 彼は代金を払い鉛筆で受け取りのサインをした。刷り上げられた詩集が青年の手に握られたとき、彼は薔薇の香りが自分の魂を包み、一遍の即興詩を口ずさんだ。詩集の表紙には題が書かれていた。
 それは「アンタレウスの涙」と書かれていた。
 彼の言葉が天高く上って行きそして自分の守護星の涙になってやがて美しい故郷の海に落ちてゆく、そしてその渚を愛に包まれて彼女と二人でいつまでも歩くことを願ってつけた題だった。
 青年はその詩集をジャケットの中にしまってレストランの前で彼女が出てくるのを待った。彼女を数分待った。レストランのドアが開き彼女が出てきた。
 彼女は黒いワンピースを着て、薄い口紅を塗っていた。青年を見つけると彼女は、少し下を見るようにして彼の側に寄ってきた。
 そして二人は最近するように並んで歩き出した。
 静かに無言で二つ目の路地まで歩くと、彼女は立ち止まり彼に口付けをした。
 芹澤青年は驚いて彼女の顔を見た。
 今までベンチで彼女と話をしたりすることはあったが、こんなことは初めてだった。
 しかし彼は自分の愛がいよいよ最後の形を捉えようとしていることに興奮した。
 青年は詩集を取り出し彼女に渡した。
 渡した後の彼女の顔を見た彼は彼女が戸惑いを見せていることに気がついた。
 彼は渡した手をゆっくりジャケットのポケットに入れたまま、彼女が何か言うのを待った。彼女は手にした詩集を開くと数ページめくって静かに閉じた。
 そして話し出した。
「芹澤君、私、あと数日でこの街を出て行きます。私には実は既に夫がいます。夫は今巴里にいてそこの美術館で学芸員をしています。私は夫のいる巴里へ行きます。君に夫のことを言わなかったことは決して君を騙して何かしようとかを思ったわけではありません。今この詩集を頂いて私はとてもこれ以上何も言わないでいることは出来ないと思いました。君の純粋な気持ちをこれ以上損なわせたくないと思いました。この詩集は私の宝物としていただきます」
 芹澤青年は彼を支えている自信が大きく揺らぎ、身体がこの世界の感覚から切り離されてゆく感覚を感じた。
 ポケットの中で指が何かを探り出していく。
 手の先に先ほどサインをした鉛筆が当たった。
 彼女は青年の頬に手を添えると言い訳を聞かない駄々子をなだめる母親の眼差しで、彼に言い聞かせるように話を続けた。
「夫は素晴らしい仕事をしています。君のことも話をしています。勿論、素敵な友人として。夫はまた君が私に送ってくれた詩も見ています。私がそれを送りました。夫は君の才能をとても評価しています。ジャン・コクトー、ボードレールや君の好きな中原中也よりも素敵な世界を持っていると。君に会って見たいと言っています。芹澤君、下を向かないでください。もしかしたら君は・・・私のことを愛してしまったかもしれません。でも私の愛は夫と共にあります。悲しい目をしないで。これが真実なのです。これを理解してください。私達はこれからも素敵な友人になれるかしら、いえ、そうなるべきです。芹澤君、君のことは忘れません、この場所が君とのお別れの場所です。私の巴里の住所は改めて君の元に届くようにします。では、ごきげんよう、さよなら」
 彼女はそう言うと頬を撫でていた手を離し、青年を見つめながら去っていった。
 路地の静けさが芹澤青年を包んでいた。
 彼はポケットの中で鉛筆を握ると、それを取り出してゆっくりと道端の下水へ投げ入れた。
 鉛筆は下水の流れに沈みやがて濁流の渦に捉えられて地下へと落ちていった。
 青年の精神と身体はしっかりとした大地から足を踏み外し、いま地獄の底に落ちていった。

 芹澤青年は深い地底の底に蹲ったまま、時間を過ごした。
 大学を卒業したが、彼は人生の予定を変えなければならなかった。自分が思い描いたものは全て霧散した。
 暫くすると彼女は約束どおり青年に手紙を送ってくれた。青い便箋にマネの絵が入っていた。
 手紙には、いま自分の夫がロートレックの研究をしていること、夫に詩集を見せてとても良い評価を得たということ、また自分がルーブルに行って感動したこと等が書いてあった。
 そして巴里を青年が訪れたらモンマルトルの通りを歩きたいと書いてあり最後に住所があった。青年はそれを部屋の壁にもたれて眺めているのが精一杯だった。
 青年はレストランを辞め、今は自由な身分だった。
 天気の良い日に図書館や古書屋を行くことはあったが以前に比べると詩に対する情熱が失せ、書籍を手にとってもただ書籍が重いか軽いかぐらいの関心までになっていた。
 部屋には自分が書いた処女詩集の原稿が散らばっていたが、その原稿は翌月には捨てた。
 青年は心が無くなるまでこのままで居ようかと思ったが、金銭的な蓄えが無くなるにつれ彼の正常な意識が現実へと引き戻した。
 心はまだ深い地底を蹲っていたが青年は身体を動かし、自分が働く場所を求めた。
 彼は動いた。
 彼はこの世界の全ての仕事はどれもが先人達の知恵と努力により磨かれ、その一つ一つがとても偉大なものであることを汗にまみれながら学んだ。
 やがて彼は手を伸ばして司法の本をとった。その本を開きそこに眠る膨大な知識や思想、哲学を勉強した。
 そして彼は気がついたときには弁護士として十年の日々を過ごし、都会のビルの屋上から街を見下ろしていた。
 弁護士になった彼は毎日遅くまで事務所で働いた。
 毎日処理しなければならない事件が沢山あった。
 破産、殺人、人権問題、それだけで無く土地の問題や行政との訴訟から和解、調停、それはめまぐるしくトランプをめくるように様々に起きた。
 彼女からの手紙は時折届いたが返事はしなかった。それでよかった。その内それも途絶えた。
 いつ途絶えたのかも忘れるぐらい時間が早く正確に彼を走らせ、また頭脳を働かせた。
 彼は秋の色が濃くなり始めた午後、街のカフェに入ってコーヒーを飲みながらこの十年間を思った。法律の世界で生きることは彼を徹底した現実家にした。
 日々の現実は厳しかったが、彼の感受性は損なわれること無くむしろ彼のそうした部分が弁護人としての人間的な魅力となって仕事を少なからずとも成功へと導いた。
 彼は冷めたコーヒーを飲み干すと背中を丸めて事務所に戻っていった。
 今晩は新しい訴訟の書類を整理しなければならず、新しく出来た恋人とも会うことが出来ないだろうと思った。
 街の通りは夕暮れ時を迎え、橙色の陽が街の街路樹を照らし行き交う人の足音を静かに染めていった。

 それからまた五年が過ぎた。
 この五年はそれまでの十年で学んだ全てをさらに発展させた五年だった。多くの素晴らしい知人や友人、そして信頼と成功を得るたびに仕事が増え膨大な報告書を社会に向かって書いた。それに比例するかのように自分の時間は少なくなっていった。
 朝起きれば気づくと夜になっており、時折会う恋人の顔だけが仕事でセピア色に染まる自分の人生に鮮やかな色を添えてくれた。
 或る日、彼はバスの手すりに身体を寄りかけながら窓から見える街の中に立つ高い鉄塔を見ると自分の仕事が社会にどれほど貢献しているかを思った。
 この世界には様々な職業があった。職人や大学の教授、歌手や風俗店で働く人、また今乗っているバスの運転手や建築に携わる人、医者など沢山この世界には職業があった。
 その中で、彼は弁護士を選んだ。彼はこれまでそうした膨大な事案、時には事件を処理してきた。
 中にはもう二度と見たくないものもあった。
 彼は手すりを握りながら過ぎてゆく鉄塔を見てそこに、自分の姿を重ねた。あの鉄塔は彼がこの仕事をはじめた頃には多くのネオンを輝かせ夜は綺麗だった。
 しかしいまではその所有者は事業に失敗し、夜景のライトもつかない唯の鉄のモニュメントになっていた。彼は休日に鉄塔まで行ったことがあった。
 近くまで行き、鉄塔を見上げると既に風雨の為に所々が錆びていた。
 彼は見て思った。自分も輝く時間が過ぎてしまえば、いつかは唯ひとり街の中で誰一人気づかれることもなくこの鉄塔のように錆びて消えしまうのではないかと。
 そして、ゆっくりと色褪せてゆくのだと。
 それをバスの手すりを見ながら彼は思い出した。その時バスが、少し揺れ隣の人と腕が触れた。
 彼はすいません、と小さく言って会釈をした。
 彼はその瞬間心の中で湧き上がるものを押さえることが出来なくなった。
 バスの揺れが心の閉ざされていた栓をずらし、そこから溢れてきた自分の見知らぬ他人への小さな謝罪がこの世界に自分を遣わした何か巨大な存在に対して、その使命に逆らって生きてきた自分の今までの罪を謝罪したように感じた。
 それはゆっくりと頭脳を満たし、やがて涙となってこぼれた。
 一滴の涙が彼の頬を濡らし、鉄塔は曇ってやがて遠くになって見えなくなった。
 自分にとって本当に成すべき事は何か、それを思った。
 以後、芹澤馨にはこの問題が大きな鎌首を持って頭上にあった。
 弁護士の自分の姿は本当に自分の望む姿なのか、それを幾日も考えた。
 彼はふと青年の頃を思い返した。
 あの頃自分はこの世界を美しい言葉で飾りたいと願っていたのではないかと。
 自分は詩を作り、この世界を美しく変化させたいと願ったのではないだろうか。
 重なる幾つもの文字達、ああ、そうなのだ、詩人であることが本当の自分の姿なのだ。
 彼は長い人生の旅に出るために詰め込んだ鞄の中に自分が望まないものを入れたのだと気づいた。
 自分が成すべきものが見つかったと、その時彼は思った。

 新緑が輝く五月に彼は休暇を取って旅に出た。
 仕事を離れ、自分を誰もいない世界に置くことで詩人としての感性を取り戻したいと願い、またそれを取り戻すことが出来ると信じていた。
 彼はあの鉄塔を見て涙を流した後から、自分が失ってしまった詩人としての姿をもう一度取り戻そうと思った。
 旅に出た彼はノート一冊と鉛筆を持って鉄道を使い様々な土地を回った。
 彼は多くの田園風景を美しい煉瓦造りの陸橋を清らかな小川に流れる山女の群れを流れる雲達の姿を見た。また風に吹かれるたびに彼は心から歌を謡った。
 この素晴らしい自分ひとりの世界をあますところ無く感じよう。
 感受性を広げて、飛散している種子達を言葉にして自分の肉体に植え付けていこう。彼は自分の心に綴られる言葉の静かな音律に耳を傾けた。
 そしてついに詩人の言葉の潮が満ちるときを待って彼は路傍の石に腰掛け流れ出る言葉達を鉛筆で書き留めた。
 自分の影がノートに落ちてその下を文字が進んで行く。白いノートの中でリズム良く文字は進み、心蔵の鼓動は高鳴った。
 汗がぽとりと、文字の上に落ちて雫になった。
 彼は青年のときに彼女と最後の口付けを交わした時からこの瞬間まで起きたことを思い出した。
 色んな事があった。それが文字となって一つ一つそこに生まれていった。
 そこに詩があった。
 誰でもない孤独な詩があった。
 自分の言葉の曼荼羅世界があって、螺旋状に伸びてゆく文字があった。
 だが、それは自分がこの旅で得た言葉の種子たちで満たされた感情豊かなものではなかった。
 報告書だと彼は思った。
 確かに文字は美しい比喩にまとめられているがそれは唯自分の過去をまとめたものであり、自分が上司や依頼人に提出する自分の過去の報告書だった。
 この旅で得た豊かな感情は詩人としての才能の扉を開かせ、そこから言葉を選ぶところまで高めてくれた。
 しかし現実は長年の事務的な作業でそれを表現する技術が既に失われていたことを彼に知らしめた。豊かな感受性に伴う言葉の表現技術が追いついていなかった。出来上がったものは未熟なものだった。
 彼は現実を理解した。自分は詩人ではなかった。
 それでは何者だろう。
 彼は頬を伝う汗を拭った。
(そう所詮、普通の人間なのだ)
 命の燃焼など、元々できるはずも無かったのだ。
 腰を掛けたまま、彼は一度空を見つめ、そして地面を見た。
 蟻が一匹居た。蟻は自分の仲間も巣も見失ったようにうろうろしていた。
 巨大な人間に見つめられていた。気分次第で人間に踏み潰され、生命が儚く消え去ることさえ知らずに。
 彼は思った、自分も君と同じだ、戻る場所も忘れうろうろしている。
 彼は大きく呼吸し、考える事をやめた。
 そして自分の首を撥ね、夢と現実を切り離してくれる最後の巨大な一撃を静かに待った。
 それで良かった。
 もう何もなかった。
 詩人としての自分が無くなればもう自分は無かった。
 あるのは暗闇だった。
 やがて目が暗闇に慣れてくると目の前に大きな怪物が現れた。
 大きな斧を持っていた。この怪物が首を撥ねてくれるだろう。
 首を差し出した。
 彼は嗤っていた。
 いや泣いていたかもしれない。
 どちらでも良かった。
 そして、首を伸ばした。出来るだけ、遠くに飛ばされてしまえばよい。
 そして首が離れた身体の倒れこむ姿の無様さを最後に見たいと願った。
 それがせめて自分の心への慰めのように感じた。斧の切っ先の影が、うなじに触れた。
 夢を断ち、現実へあと数刻でいけると思った。
 振り下ろされる時を待った。蟻を見た。斧がぎらりと光った。
 その時、蟻の骨格が七色に輝いた。
(骨格に反射する陽の光と生命の躍動感、命あるものの美しさ、この世界はなんと美しいことか!)
 その瞬間、彼は身体を反転させ振り下ろされる斧から逃げた。斧は地面に突き刺さり、怪物は斧を持ったまま彼を見つめていた。
 彼は、おそるおそる怪物の顔を見た。怪物は泣いていた。なんという泣き顔だろう。自分はこの顔を、どこかで見たことがあると思った。遠い記憶の中のどこかの教会にあった絵だったかもしれない。
 そう、怪物の顔は美しい天使の顔だった。
 彼は天使に問いかけた。僕は何を成すべきなのか、と。
 木々の葉がざわめいた。
 天使はゆっくり彼に近寄り、そっと鍵を渡した。彼はその鍵を受け取った。
 暗闇に朝日が差し込むように一筋の光が差し込んだ。自分自身の姿が少年の頃になり、それはやがて父とスケッチに出かけた頃の風景の中に居ることに気がついた。
 どこまでも続く空の青色や輝く森の緑色、流れる雲の白色や道端に咲く名も泣き花の赤色が彼を取り巻いた。そこに彼は自分の宇宙を見つけた。
 彼の宇宙。彼が美術の本で見た沢山の絵画が煌く輝く星座の額に囲まれ美しく輝いていた。
 ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、モネ、レンブラントだけではなく多くの偉大な巨匠達の作品があった。
 そしてその下に小さな宝箱があった。彼はそれを手にした。
 鍵が掛かっていた。彼は後ろを振り返った。
 天使が彼を見て微笑んで大きく頷いた。
 彼は鍵を差し込んで宝箱を開けた。
 中には紫色のパイル生地に包まれた銀の指輪や黄金色の金貨が出てきた。これは自分が少年時代にここに閉まった宝だった。彼は長い年月の中で自分がここに閉まっていたことを忘れていた。
 手にするとそれは錆がついていた。彼は錆を擦って取ろうとしたが、天使が彼の指を優しく押さえた。
 そして優しい眼差しで彼の前に指を差し出し、正面を指した。その先に薄暗い自然光しか入らない部屋の中でイーゼルに腰掛け、短くなった鉛筆を持って必死にデッサンをする画家の姿を見せた。
 それは自分だった。天使は錆び付いた自分の宝を磨く方法を示した。
 そして彼の面前まで来るとその長い睫毛を伏せたまま彼と唇を重ねた。
 彼は天使の美しい顔を見た。その瞬間、優しい五月の風が頬に触れた。
 自分の体が新緑の緑のように、生命力に溢れているのを感じた。
 天使が渡した鍵は自分が少年時代に誰にも分からないように埋めた宝箱の鍵だったのだ。
 彼は天使がくれた鍵を胸元に強く押し当て、天使と一緒に泣いた。彼は自分がこの世界の神秘と繋がる方法を間違っていたことを知った。
 そして身体をゆっくりと横たえてルーベンスの絵画の前で息絶えたネロのように彼は路傍の石から身体を下ろし、路上に身体を横たえた。
 陽だまりが見えた。そこに自分の探す道が照らされていた。

 彼の休日は忙しくなった。
 週末になると彼は美術館に向かった。そこで多くの絵画を見た。
 クリムトやムンク、ルノワールや青木繁、佐伯祐三など東洋西洋を問わず見た。
 そして見終わると美術館のベンチに腰を掛け、ゆっくりと過去の巨匠達の作品から受けた感銘と絵画の中に眠る画家の心を考えた。
 彼は弁護士として得た人間を観察する力を絵画の深部へと巡らせることに使って、そこから多くの秘密を得た。
 秘密はどれも人間の生命の輝きに溢れ神秘に満ちていた。
 美しく黄金に輝く長方形や、感情に載った無数の線、色彩の調和など人間が作り出す美しさと気高さに溢れ、彼は観察の中から沢山のことを知り得た。
 また彼は失敗から学ぶことも知っていた。
 どんなに素晴らしいことを自分の芸術的感性が得たとしてもそれを表現する技術が無ければそれは駄目だということを五月の旅で知ったので、技術の訓練が必要だとも理解していた。
 あの旅の日、天使は彼に自分で磨くことを示唆した。
 そしてそれもどうすればいいのかを。
 それはもう一度、少年の頃のように情熱を取り戻してデッサンを始めることだった。
 彼の生命は三十年以上の時間を燃焼していたが、彼はもう一度少年時代に進めていた道を戻り、新しく出発点に立つことを選んだ。全てを無にして学ぶ必要があった。
 彼は学ぶことについて偉大な才能の或る画家のアトリエに通うことが良いと思った。
 ルネサンス時代の巨匠達が師匠から絵画の技法を口伝でまたは実際の仕事の中で学んだように、自分もそのようにありたいと願った。
 彼は天に願いを求め、迷える羊のように歩き、やがて彼の足は或る洋画研究所に向かって行った。
 表札は「滝次郎洋画研究所」とあった。
 都会の中でその場所は木々が鬱蒼と茂り小さな森があった。その中にその朽ち掛けた煉瓦造りのビルがあった。
 彼は弁護士の仕事で、或る債務者の家を訪ねたことがあった。そこで彼はこの画家の作品を見た。
(なんという美しい青、なんという線の躍動、水面を滑走するどこまでも続く青い世界)
 彼の目にもその作品は素晴らしく、その作品に塗られたどこまでも続く青い世界の前で、そして感情が乗った線の渦に暫く言葉がなかったことを覚えていた。
 美術館に通うようになると彼はこの画家についてよく知るようになった。
 戦後の美術界にあって、滝次郎は異色の存在だった。画業については捕虜だった拘留先の欧州で始まり、そのためその活動の場所も多くが欧州だった。風貌は傍若無人ぶりであるが、知性的な顔立ちをしており、その瞳の奥底に青い憂いを漂わせ、その作風はLa vie en bleu(青の中の生命)といわれ、またその構図もひとつの形に嵌らず、新しい時代と未来への息吹を感じさせていた。欧州での活動後、ピカソ、マティス等の沢山の友人を得た後、日本へ戻り、自分の故郷の大阪に居を移してから自分の作品を少しずつ世に送り出しては、多くの議論を巻き起こした。
 新しい時代に相応しい美しいフォルムを提供する新時代の旗手である偉大な才能の持ち主として彼は理解した。彼は学ぶべき師をこの画家に求めた。
 願いを求め、彼は扉を叩いた。
 扉の横に一匹の大きな猫がいたが彼が側に立ってもどこうとはしなかった。
 彼は、もう一度扉を叩いた。
 すると扉が中から開き、ゆっくりと部屋の中に明かりが差し込んでいった。その明かりの先に黒の服と青い踝まで覆ったスカートを履いた女性が見えた。
「どなたですか」
 若い女性の声が彼の耳に届いた。彼は、少し息を吸うと女性に言った。
「僕は、芹澤馨と言う者です。実は滝次郎先生に絵の指導を受けたくて伺いました」
 彼はそう言ってから女性の顔を見た。
 穏やかな優しい線で縁取られた顔の輪郭の中で、美しい睫毛の下のどこか憂いがある黒い瞳が彼を見ていた。
 そしてゆっくりと半身を後ろに向けると、彼を建物の中に入れてくれた。そのまま女性の後についてゆくと、大きなロッキングチェアに身体を横たえ煙草を銜えた初老の男性が見えた。
 分厚い黒縁の眼鏡の中から見える視線が画家としての鋭い視線で彼を観察していたがしかし、それは直ぐに穏やかな微笑に変わった。
「私は滝次郎、職業は画家です。失礼ですが君は?」
 彼は、それを聞くと一歩前に出て老人に向かって言った。
「僕は、芹澤馨と言います。仕事は弁護士をしています。実は思うことがあって絵を学びたいと思っています。それで自分に教えていただける先生を探していました。以前、滝先生の作品を或る邸宅で一度見たことがありました。その時すごく先生の青色や線が印象に残っていたのです。それで僕が絵を学ぶなら先生の下で学ばせていただけたらと思い、勝手ながら訪問しました」
 彼は呼吸も置かずに一気に話しをした。
 老人は煙草を銜えながら、そんな若者の姿を見ていたが、やがてゆっくりと腰を上げた。
 そして彼を隣の部屋へと連れて行き、古い木製のイーゼルの前に座らせた。それから一枚の白い画用紙を画板に留めると彼が座ったイーゼルの前に置いた。
 その隣に同じように老人もイーゼルを立て座った。老人は女性のほうを見ると声をかけた。
「水野君、少しモデルの時間を延長してくれないかい、モデル料は払うよ。ここでもう一度僕達の前に立ってくれないか」
 少し間を置いて女性のわかりました、という声が聞こえた。
 そして女性が現れた。
 女性は胸元から裾までの長い薄いドレスを着ていたが、それを脱ぐと二人の前で裸婦になった。
 そしてゆっくりと肉体の動きを止めた。
 部屋の中の時間が止まった。
 それを見た彼は、声が出なかった。
 いや何か心を震わす感動の為に身体が動くことが出来なかった。
 なんというのだろう、生命が放つ芳香を嗅いで魂が痺れてしまい動くことができなかった。
「さぁ、芹澤君、彼女を描きましょう」
 その声に彼は振り向くと、老人が差し出した鉛筆を受け取り、頷く老人の微笑に自分で頷いて返答してモデルに視線を向けた。
 彼は注意深くモデルを観察した。
 そして彼女の中に潜む無数の線や形を取り出しては画用紙に描いていった。時に夢中で指で表面をこすったりして、彼はデッサンで得られる素晴らしい感動に心から歓喜した。
 子供の頃に父親と一緒に出かけたスケッチで自分が見つけたこの世界の神秘をモデルの中に見つけた。
 自然の中で風に揺れる草花の豊かな線をモデルの豊かな乳房の流れる稜線に、太陽に照らされて動く昆虫達の生命力の豊かさを白く滑るような肌と薄く重ねられて閉じられた唇に、そしてこの世界の神秘とも言える人間と宇宙を繋ぐ美しい黄金長方形をモデルが作り出す肉体の美しいフォルムに彼は見た。
 そう、彼はただそれをひたすら描いた。
 正直に、誠実に、一生懸命に、あの日見た天使に心から感謝して。
 時間はあっという間に過ぎた。
 時間の終わりを告げる声が耳に届いたとき彼は初めて自分が描いた絵を見た。
 そこに裸婦が存在していた。
 裸婦は幾つもの線で描かれ、しかしところどころ指の油の為に汚れておりとても綺麗な絵とはいえなかった。
 彼が暫くその絵を見ていると、ゆっくりとその絵に二つの影が落ちた。
 老人と女性の影だった。二人とも暫く彼の後ろで絵を見ていたが、やがて老人がゆっくりと言った。
「芹澤君、君のこの絵を見ていると、僕は何だろう、こう、心の奥底から何か強く惹きつけるものを感じる。裸婦の中に何か秘密を探り当てた少年が、はにかんで少し秘密を見せてくれた、そんな感じを受けるよ。それは君にしか分からないこの裸婦デッサンに対する答えだ。そしてそれを見るものに伝えてくれている。どう水野君、彼の絵を見て何か感想はあるかな」
 彼は、鉛筆を握り締めたまま立ち上がり、老人から言葉を求められた女性を凝視した。
 女性は少し髪を髪留めに纏め、豊かな黒髪を背にしながら彼の作品を見ていた。
 ゆっくりと細い指が紙の表面をなぞって行き自分の描かれている乳房まで届くと、その指を離して彼に向き直った。睫毛の下の黒い瞳が彼を見つめ、そして頷いた。
「滝先生、ここで多くの研究生の方に描いてもらったけど、これほど汚れた線や指の跡で美しく見せる絵に会ったことはありません。素晴らしい才能だと思います」
 彼は大いに恐縮して、二人に向かってありがとございます、と言った。
 そして彼は改めて老人に向かって絵画を学ばせていただきたい、と言った。
 老人は煙草に火をつけると嬉しそうに微笑んで彼の肩を叩いた。モデルの女性が私は水野はるかです、と言って彼に握手をした。
 彼は彼女の顔を見て初めての裸婦でした、と素直に無邪気な子供のように言って、照れて彼女の微笑を誘った。
 いつ来たのか、彼の足元にはあの入り口にいた大きな猫がやって来て、欠伸をすると足元で転がってやがて眠って動かなくなった。


 芹澤馨は、週末になると老人のアトリエ、いや今は自分の師ともいえる滝次郎のところを訪れた。そこでは数人の研究生がいて、彼らに混じってデッサンに明け暮れた。彼はひたすら描いた。
 失敗すればもう一度デッサンをやり直し人物をそして静物を描いていった。
 モデルは何人も代わり、同じ肉体など無かった。彼はひたすら自分の技術を高めるために描いた。先生は、技術的なことは彼には殆ど言わなかった。
 ただ自分が迷ったときには過去の巨匠達のデッサンをすることのみを薦め、そこから得るものだけを大切にしなさいと言った。彼はその言葉に素直に従い、日々研鑽を続けた。
 そんな或る日、彼が部屋でひとりデッサンをしていると、アトリエの扉が開いて声が聞こえた。彼は立ち上がり、そちらのほうに向かって歩いていった。
 するとそこに一人の女性が扉を手にして立っていた。女性は彼を見つけると声を掛けた。
「こちら滝先生のアトリエでしょうか。私、モデルをお願いしたくてこちらにお伺いしました藤咲純と言います。先生はいらっしゃいますか」
 彼は藤咲と名乗った女性を見た。
 白く透き通る肌と肩まで流れる黒髪が陽の光で反射していた。
 そして細く長い切れ長の睫毛の下から見える少し栗色のかかった瞳が、自分を見ていた。彼は彼女に言った。
「先生は、今外出をしています。後数時間もすれば戻りますので、中でお待ちになりますか」そう言うと彼女は少し考えたが彼に向かって待たせて頂きます、と言った。
 彼は彼女を室内へ案内し、大きなソファの上に彼女を座らせた。彼は奥へ行き、二人分の紅茶を入れて戻って来て彼女の前に置いた。
 彼女はそっとカップに唇を寄せた。彼も合わせるように口に持って行き、紅茶を飲んだ。
 ヴァニラと芳醇な花々の甘い香りが口から鼻腔に伝わっていった。
 芹澤馨は彼女に微笑むと、その後は穏やかな午後の光の中、二人は暫く無言のままで居た。
 時計の動く音とカップをソーサーに戻す音だけが部屋に響いた。暫く無言のままでいたが、彼がカップをソーサーに置いた時、彼女と視線が合った。彼は再び微笑した。
「藤咲さんは、以前何処かでモデルをされていたのですか」
「いえ、経験はありません」
「そうですか。それでは何故、美術モデルをしたいと思ったのですか」彼は、少し驚いて彼女を見た。彼女は彼に言った。
「実は私、絵画に興味があって友人とイタリアに旅行に行きました。その時或る一枚の絵を見たのです。それは『ヴィーナスの誕生』です」
 彼はその作品を頭に思い描いた。フィレンツェのウフィッツィ美術館にある名画だった。一人の女神を中心に女神ホーラと風の神々が誕生を祝している作品だった。
「その作品を見た時、感動が春風のように私を包みました。あまりの感動に暫く絵の前から動けませんでした。そして、思ったのです。美しい絵画が何世紀にも渡り見る人に多くの感動を与える理由は何だろうこの作品を描いた画家とモデルとの間には何があったのだろう。今でも画家とモデルには何かが存在すると思っています。それを、知りたいと思ったのです」
 彼女の真剣な眼差しが彼の心に突き刺さった。
 彼は彼女の瞳の中に大きな宇宙を見た。
 この世界の神秘を求めるものの強く清らかな思いが、彼の精神を光で包み大きな輝く七色のオーロラを降り注がせた。
 彼はもう一度彼女を見た。
 穏やかな優しい表情がそこにあった。その時、部屋の扉が開いて先生が入ってきた。
「先生」
 彼はそう言うと立ち上がった。彼女もそれに続いて立ち上がり、頭を下げた。
 先生は腕を上げて、いいからそのままと言ってソファに腰を掛けた。
 彼は部屋を出て奥へ行くと、先生の為に紅茶を入れて戻ってきた。先生の声が響いた。
「ああ、手紙を頂いていたね。あの戦時中に、私が疎開していた藤咲さんのところのお孫さんだったか。君のお父さんはまだ僕より一回り歳が離れていてね、よく一緒に遊んだものだよ。そうか、君のような素敵な娘さんのお父さんになったのだね。時間と言うのは過ぎるのがなんて早いのだろう」
 先生はそう言って、煙草の煙をゆっくり吐いて、頭を上げ少し目を細めて天井を見た。
 天井に先生は何を見ているのだろうと、彼は思った。
 先生はゆっくり彼女のほうを見ると、微笑して少しずれた眼鏡を戻して話し続けた。
「多くの時間が過ぎたのだね、自分で知らないうちに。僕も戦後、欧州で捕虜になって、その後巴里から戻り画家としてこうして絵を描いてきた。ずっとずっと。だから時にこうした思いがけない嬉しい訪問者と対峙すると、自分の生きてきた時間がいかに長いものであったのか実感してしまう」
 先生は、残り少なくなった煙草を灰皿に押し付けると火を消した。
「藤咲純さんだったね。モデルをしたいとのことだね」
 彼女は一瞬緊張した表情をしたが、先生の目を見つめて言った。
「はい、先生。私は絵画のモデルになりたいです。お手紙でも書かせていただいたように、私はフィレンツェで見た一枚の絵、ヴィーナスの誕生にとても感動したのです。帰国してから私は絵のことばかり考えていました。美しい絵画が何世紀にも渡り見る人に多くの感動を与える理由は何だろう、そしてモデルと画家との間に何があったのだろう、それが私にとって自分が知りたいこの世界の神秘なのです。私は絵を描かないのでモデルになってその秘密を知りたいと思ったのです」
 彼は彼女が話すのを横で静かに聞いていた。彼女の透き通った声と言葉は彼の心に響いた。
 そして思った。
 彼もまた自分だけが知る神秘を知りえるからこそ先生のところを訪れ、絵を学んでいるのではないだろうか。
 今は日々多くのモデルや静物を前にしてデッサンを行い、そして悩めば過去の巨匠達のデッサンに明け暮れているが、それはいつか自分が見つめる神秘を絵画という作品にしてこの世界に生み出したいと願っているからではないか。
 方法は違うが、共にこの世界の神秘を探求する者だと思った。心が共鳴する新鮮な驚きと、親密感を感じ、彼は彼女を見つめた。
 先生は、やがて笑うと彼女に手を差し出した。
「明日からこちらに来なさい。ここでまず他の先輩モデル達のポーズを学びなさい。そしてそれからゆっくりとトレーニングを積むことだ。肉体だけでなく、精神も鍛えないといけないね。描き手に負けない精神の光だ。大丈夫、気負うことは無いよ。明日は芹澤君、ちょうど水野君が来ることになっているから、後で今日のことを話しておいてくれないかい」
 彼女はありがとうございます、と言って先生の手を握った。
 彼は何故か大きな安堵を感じた。
 そして仕事の電話をかける為に部屋を出た。
 その時彼は一度彼女を振り返った。彼女の横顔が、どこか誰かに似ているなと思った。
 そして歩きながら思い出した。それは彼が昨日デッサンで描いた、ダ・ヴィンチ作ではないかと言われている「美しき姫君」だと、気がついた。

 芹澤馨の日々は仕事が終わるとその時間の全ては絵画の為に費やされた。
 帰宅中の電車の中で、仕事の依頼人との待ち合わせの僅かな時間、そして週末の時間全てが絵画の技術の習得の為にあった。
 少しでも失った時間を取り戻すため、彼はデッサンに励んだ。
 先生はそんな彼に特に技術的な助言は一切しなかった。だだ、ひたすら線で描くことだけを彼に言った。デッサン、ひたすらデッサンのみ、先生はそれだけを彼に言った。
 彼もまた先生の指示に従いひたすらデッサンに没頭した。
 彼は週末だけ先生のアトリエを訪れるのだが、彼女とは時折ソファで会い会釈をするだけで、彼女をモデルにしてデッサンをすることは無かった。
 彼女のその後について彼はあまり詳しくは知らず、彼自身もそれ以上のことを知ろうとはしなかった。
 或る日の夕暮れに彼は先生に呼ばれた。
 彼は先生の前に立って、先生の夕暮れに染まる顔を見た。
 先生はいつものように煙草を銜えながら、白い煙を吐いていたがその表情は何処か楽しそうに見えた。
「芹澤君、どうだね、デッサンのほうは」
 先生に言われた彼は正直に答えた。
「少しも上達していません」そう言うと、先生は豪快に笑った。
「いや、いや、芹澤君。いま僕の手元にこの前モデルをした水野君のデッサンが有る。この一枚がどれほど素晴らしい一枚であるか、僕には分かる」
 先生はそういって手にした一枚の絵を側にあったイーゼルに掛けた。
「君の絵には何か、君だけにしか見えないものがあるのだろう。そしてそれをひたすら磨いてきた努力の跡が見える。僕は瑛九という友人がいた。彼は九州の出身の画家だ。君の描く線の重なりやその質感が彼と似ている。彼はこの世界に宇宙を描いた。ダダやシュレリアリズムと言う概念では規定できない作品を描いた画家だ。君の絵はそんな彼と似ていると言うか、とても宇宙的な広がりを兼ね備えているというか、人物を描いても、それは人間ではなく何か人知を超えた存在が肉体を通して伝えてくるものを君が現わしているように見える。デッサンを侮ってはいけない。デッサンは画家が描く対象に対して感じた人知を超えた直感をこの世界に表現させるための必要な手段なのだ」
 先生はそう言うと、煙草を指に挟んだまま彼に向き直った。
 そして彼に古くなった木箱のケースを手渡した。
 彼はそれを受け取ると、先生が中を開けてみなさいと言った。
 彼は先生の言うとおりにした。箱を開けるとそこには色とりどりの絵の具があった。いやそれだけではなくパレットと筆があった。
 彼は目を輝かせながらその中からセルリアンブルーの絵の具のチューブを手に取った。指でそれを撫でながら、彼は先生のほうを見た。
「デッサンは画家にとって必要で重要なものだ。しかし時に才能があるものにとってはデッサンの線が奏でる力のために色彩の持つ魔力を学ぶ時間が損なわれるときがある。大事なのはいつ色彩を学ぶのかというタイミングなのだ。芹澤君、その箱は私の亡くなった友人が使っていた絵の具入れだ。とても古いものだ。僕が東京の美術学校で学んでいたときの友人が使っていたものだからね。友人は私と共に戦時中に飛行機で戦地へ赴き、彼だけが亡くなった。そして僕だけが生き残りここにいる。僕にとってとても大事なものだが、それを君に贈ろう。もうその箱は五十年以上経つだろう。そしてそこにある絵の具は僕から君への贈り物だ」
 先生はそう言うと目を細めて微笑しながら彼を見た。
 彼は、ただ先生の顔を見ていた。
 なんともいえないこの偉大な師からの愛情に言葉が無かった。先生は言った。
「芹澤君、とても大事なことがある。画家が本当に画家になるには、才能だけではなれない。勿論才能も技術もとても大事なことだ。だが線を描き、色彩を画布に放つだけでは本当の画家になれない。画家には自分以外の人間の存在が必ず必要だ。画家も一人の人間なのだ。人間が人間に出会い互いに影響される。そしてその存在に対して向き合うことではじめて自分が何故絵を描こうとするのかという、理由を見つけることが出来る。それが画家には必要だ。それを人生の中で見つけることが出来る運命の下にある者が画家になれるのだ」
 先生の言葉はまるで何世紀もの間、偉大な画家達のみが知りえた事実を聞いているかのようで、その確信的な言葉に満ちる先生の自信を感じながら、彼は静かに手にした絵の具を元の場所に戻した。
 彼は先生に言った。
「私は、画家になれるでしょうか」そう言って、彼は後悔をした。それは自分の将来に決められていることに対する、愚問のように思えた。
 先生はそれを察知したのか、優しく微笑すると彼に言った。
「まだ、やるべきことはあるよ、芹澤君。まずは君の中に潜む色彩を見つけてごらん。君だけの秘密の色だ。絵画における色彩とは目の前に見える色をそのまま画布に塗ることではない。その人の経験の中で得た感情の先に、色彩は宿る。ピカソは青春の悲しみを青色に、マティスは生命のダンスを緑や青色で表現した。そう僕は先刻言ったとおり、画家には一人の人間として向き合うべき存在とも言える人間が必要だ。その存在に向き合うことで色彩を得る、それこそ自分だけの秘密の色だ」先生はそう言うと、彼の肩の上に優しく手を置いた。
「画家になれるのは、そうした運命を背負って来た者だけだよ」
 彼は、黒縁の眼鏡の奥で輝く先生の瞳の中に自分の姿を見た。それは同じ仲間を見るような、そんな目だった。
 自分だけの色とは何か、彼はそれを考えなければならなかった。
 彼は名画を見るとその色彩の美しさには常に心が惹かれた。そうした色彩を自分の中で探さなければならないのかと思った。
 そう思いながら、先生の洋画研究所を出てひとり歩きながら近くのカフェに入った。
 思案にくれようと思い、陽光の当たる外が見えるカウンター席に腰を掛けた。彼が座った席からはガラスの窓から眼下に街を歩く人の姿が見えた。
 彼は鞄の中からルノワールの画集を取り出しゆっくりと一枚一枚ページをめくっていった。
「研究熱心ですね」そう言う女性の声が横から聞こえた。
 横を見ると藤咲純がいた。
 彼は驚いて、思わず声を上げた。
 彼女の微笑で口に手を当てた表情に、彼は、驚かさないでください、と自分で笑いながら答えるのが精一杯だった。
「今日はこれから先生のところに行かれるのですか」
 彼はそう言いながら彼女の前に開かれている本を見た。そこには彫刻の写真が沢山あった。
 彼女は彼のその視線に気づき、これは自分がモデルをする時に参考にしている本です、と言った。
「先生のところは、今日は行きません。ここで表現の勉強です。この本は私がイタリアを旅行したときに買ったものです。しばらくの間部屋の中で眠っていたのですけど、改めて見てみたらとっても良い教科書だと気が付きました。ほんのちょっとの体のひねりや目線や指先の表情で表現は変わります。身体で何かを語るのです」
 そう言いながら彼女は一枚一枚貢をめくっていった。
「見てください、この女神の彫刻は冷たい大理石で出来ているのに、まるで息吹をしているようです。二千年の時間を越えてもなお感じる肉体があります。この彫像を作り上げるまでに、どれほどの年月がかかったのか私には想像もできません。芸術家とそのモデルしか知らない創作の過程に、この彫刻の美しさの秘密があると思うのです」
 本に視線を落とす彼女の表情が彼の目に映った。
「美しいでしょう」
 彼女の言葉が都会の陽光の下で漏れた。
 そこには沢山の美しい裸婦の彫像があり、黄金比で形付けられた肉体のフォルムが輝きを放っていた。
「ええ、そうですね」
 彼はそう言うと視線を彼女に向けた。本に視線を落とす彼女の表情が彼の目に映った。
(あなたは、美しい)彼は咄嗟にそう思った。
 そして彼女の何気ない表情に彼は吸い込まれた。
 吸い込まれながら青年の頃に出会ったあの美しい人の栗色の髪を、最後の口付け思い出した。
 やがて彼女の瞳が見えて、彼の視線とあった。
(なぜ、あなたがここに)
 彼が心の中で呟くと、その瞳は消えてやがて彼女の瞳が自分を見ていることに気がついた。
「どうかしましたか?」
 そう言う彼女の言葉に彼はただ黙ってコーヒーを飲んでから、あなたと昔の古い友人がだぶって見えてしまいました、と言った。

 芹澤馨が先生の倒れたことを知ったのは、三月のある水曜日の午後だった。
 彼はその電話を取ると仕事を中断し、先生の運ばれた病院へ向かって走った。外は桜の木々が美しい薄いピンクの花弁を咲かせ始めていた。
 彼は病院へ着くと先生のいる病室を訪ねるため足取り早く向かった。廊下に並ぶ病室の前で滝次郎の表札を探していると、通路の向こうから自分の名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。
 彼はそちらを振り返った。そこに二人の女性が居た。モデルの水野はるかと藤咲純だった。
「先生はいかがですか」彼は水野はるかに言った。
「先生は大丈夫よ。命には別状は無いみたい。医者によれば少し疲れが出たのだろう、と言っていた。今度巴里で開かれる大きな公募展に招待されて出展する作品を描かれていたところ急に倒れたの」
 水野はるかはそう言うと、彼を促して先生の病室のドアを開けた。
 彼の目には先生が静かに寝息を立てて寝ているのが見えた。彼はその寝姿をじっと暫く見ていたが、やがてゆっくり静かにとドアを閉めた。
「無事で良かった」
 彼はそう言うと涙が溢れゆっくりと頬に伝わっていくのが分かった。
 そしてもう一度、良かったと小さく言った。
 時間が経つと洋画研究所の仲間達が訪れ始めた。
 皆先生の姿を病室のドア越しに見ると安心して良かったと口々に言った。
 夕暮れに彼は先生のいる病院を出た。水野はるかは先生の親類の方が来るまでまだ暫くここに居ると言って病院に残った。
 彼は藤咲純と二人病院を出て、桜の咲く中を近くの駅まで歩いた。途中、小さな橋を渡った。
 橋は小さく向こうから人が来たので二人道を開けて人が過ぎるのを待った。
 彼はそのとき自然に彼女の手を握った。
 人が過ぎるまでの何秒間だった。
 人が過ぎると彼は繋いでいた手を離して、歩き出した。彼女も後について歩き出した。
 長い緑色のスカートの裾が春風に靡いていた。
「藤咲さん」彼は言った。
「あなたの探している答えはみつかりましたか」
 彼はそういって少し後ろを振りかえった。
「ほら初めて会った時に美しい絵画が何世紀にも渡り見る人に多くの感動を与える理由は何だろう、そしてモデルと画家との間に何があったのだろう、それが私にとって自分が知りたいこの世界の神秘なのです、と言ったことです」
 彼女は流れる黒髪を右手で押さえながら彼の言葉を聞いていた。
「僕はそのことを聞いた時、あなたも僕と同じこの世界で人知を超えて迫ってくる何かを探そうとする者だと思いました。僕が先生のところに来たのは、絵を描くことで自分が少年の頃に絵を描きながら感じたこの世界の秘密とも言うべき神秘を絵画にしたいと思ったからです。ただ僕の場合、神秘と言っても、それは大げさすぎてたいしたことではないかもしれません。それは物言わぬ雲や草花達の囁きや笑い声など自分にしか見えなく、僕にとっての神秘とはそういう子供が夢見るような空想上の産物でした。そしてそれを絵画にすることで自分をそうした神秘との繋ぎ手にしたいと思っていました」
 彼女は無言で芹澤馨の言うことを聞いていた。
「でも今日先生の寝ているのを見て、人間が改めて有限の生命しか持たないものであること、そして魂を宿す肉体にいつか終わりが来ることを痛感しました。僕の知ろうとしていた神秘とはあまりにも先生の生命の重さに比べると子供じみていて何も重みを持たないものであると思いました。自分が画家として表現したい美しい絵画とは何だろう、それは生と死という対極にあるものどうしが反発して火花を散らそうとする人間の生命の輝きなのではないかと、僕は先生を見て思ったのです。だから僕は藤咲さんにあなたの探している答えはみつかりましたか、と聞いてみたかったのです」
 彼女は静かに彼を見ていた。
 彼女の瞳の奥で銀色に輝く炎が揺らいだ。その炎はゆっくりと伸びてゆき芹澤馨の心に触れた。
「芹澤さん、私は滝先生のところにお伺いしてから、沢山のモデルをしました。その殆どが裸婦で自分の肉体を隠すことなくすべてを曝け出すことばかりでした。裸婦になると肉体にも心にも隠し事はできません。ポーズ中、真摯な視線が飛び込んできます。真剣な視線が線となって、自分を通り抜けていくように感じます。音は静寂に包まれ、木炭の音、鉛筆の心地よいリズム、そして自分の心臓の音が時折聞こえます。それはとても穏やかな世界です。私はそこで使命を感じました。それは芸術の創造のための存在になるという使命感です」
 彼女の銀色の炎が一層燃え火花を散らし、芹澤馨の心の端に落ちた。
 芹澤馨の心の端に落ちた銀色の炎がゆっくりと心の核心に向かって伸びてきた。炎はやがて銀色から黄金色に変わり芹澤馨の肉体を渦巻き、そして心を締め付けた。
「私は先生のところで沢山の方のデッサンを見てきました。芹澤さんには残念ながら時間が合わず描いてもらうことはありませんでしたけど、それでも先生を通じて芹澤さんのデッサンをいつも見せていただきました。その一枚一枚の絵はどれも見事でした。絵の中に心を打つ何かが潜んでいる気がしました。私は最初それが何なのか分かりませんでした。でも少しずつ理解できたのです。そう、それは芹澤さんの持つ、芸術の源流を探り当てたいという探究心だと。そして私は思ったのです。私の探し求めるものを一緒に見つけてくれる人は、あなたではないかと。あなたに私を描いていただくことが私の答えを探す方法ではないかと」
 彼女の透き通る澄んだ瞳が芹澤馨を見つめていた。時間を止めてでも答えを求める彼女の意思を感じた。
 橋の上を風が流れ、雲の影が落ちた。
 芹澤馨はそこに立ったまま、自分は何者であるのかを思った。自分は、何故ここにいて彼女と対峙しているのだろう。
「藤咲さん、僕はとてもそんな才能は」彼は、そう言って一呼吸置いてから、ありませんと言った。
(僕はどうかしている)
 そう彼は思うと、再び駅に向かって歩き出した。
(つまらないことを言ったように思う)
 彼はそう言うと後ろを振り返り、彼女を見た。
 緑のスカートが風に靡いていた。
 彼女の顔が悲しい沈痛の表情をしていた。
 彼は、はっとしてその顔を思い出した。それは自分を絵画の世界へ導いたあの天使の顔だった。
 今まさに斧を振り下ろさんと泣いていたあの美しい天使の顔だった。
(僕は、何か間違っている)彼はそう思うと、彼女のほうに向かって歩き出した。
 彼は彼女と向き合い静かに言った。
「僕は大きな間違いをしていると気づきました。あなたが僕に何かを与える存在であると、何かが僕に告げました。先ほど言ったことは誤りです。藤咲さん、僕に少し時間を下さい。僕にはまだ準備が必要なのです。今日先生の所を伺い、僕はやっと自分が探し出そうとした答えの門を見つけることが出来たばかりです。それを絵画にするためにはまだ準備が必要です。だからお願いです、それまで僕の側を離れないで下さい。約束です」
 彼はそう言って再び彼女の手を握った。
「約束です、お願いです」彼は心の中で叫んだ。見上げる彼女は、春に相応しい微笑をしていた。
「ええ、約束です。そう、芹澤さん・・約束ですよ」
 その声は春を告げる桜の花弁にのってゆっくりとひらひらと二人の頭上を舞い上がっていった。
 彼女の瞼は薄く閉じられ、どこか寂しく満足感に満ちていた。

 春の日々は過ぎていった。
 芹澤馨はひたすらデッサンに打ち込んだ。何枚も、何枚も彼女の姿を頭に思い出して網膜の記憶を辿りデッサンを重ねていった。
 天使は自分が道を踏み外そうとしたとき目の前に現れ正しい道へ導いたとのだと、彼は信じた。
 自分以外の何者かが自分が道を踏み外そうとした時、手を差し伸べてくれた幸運と自分の運命に彼は窓を開けて、夜の星を眺めて先生の言葉を思った。
(画家は必ず誰かの存在が必要なのだよ、そしてその運命を持つものだけが画家になれる)
 彼は先生の言葉はこの世界にある真理のひとつだと思った。
 仏陀や基督だけではなく偉大な世界の預言者達の言霊と同じ響きをその中に含んでいると、彼は思った。
 人間は誰かと響きあうことで自分の存在があることを理解すると言っているのだと。
 彼は窓を閉めるとイーゼルに向かった。足元には先生からもらった絵の具ケースが置いてあった。まだあの日以来彼はそれを開けてはいなかった。
 彼はまだそれを開けて自分の色彩に向かうことは無かった。目を閉じてみてもまだ、自分の色彩が浮かんでこない日々が続いていた。彼はそれでも焦ることは無かった。それは先生の言葉があったからだ。
(自分だけの秘密の色、それを学ぶタイミングがとても大事だ)
 彼は、その時期は自分にごく自然に来るものだと信じていた。先生から渡されたから、直ぐに自分だけの色彩を見つけたわけではないことを冷静に理解していた。
 それは何年掛かっても探すものだと、先生はそのための準備のために自分にこの絵の具と言う宝箱を渡したのだと。
 彼は再び白い画用紙に向かった。
 もう何枚も彼女を思ってはデッサンを重ねていた。部屋には無数のデッサンが散らばっていた。
 しかし一枚もまだ彼女の何かに届いていないことに自分では気づいていた。
 橋の上で彼女から思いを告白された日から自分は何を描いていたのだろうと思いながら、彼は白い画用紙の表面のなだらかな部分を指でなぞった。
 指に画用紙のざらざらした部分が伝わってきた。彼はもう一度あの日の彼女のことを思い出した。ゆっくりと呼吸を整え、自分の記憶を探っていった。
 桜が舞う中で二人は橋の上に居た。
 互いに気持を吐き出すように言葉を重ね合う二人。
 吐き出された言葉が、風に運ばれそれは互いの心に吸い込まれてゆく。
(僕達は多くのことを話しただろうか)
 彼はひとつ呼吸をゆっくりとした。
 心は静かになり、やがて心の中の目と耳が大きく広がってゆく。
 全てを的確に捉える冷静な観察者としての視線と失われてゆく言葉を残そうとする詩人の祈りが彼の中で融合し、それが宇宙の遥かな星雲の彼方から迫る強い磁力を呼び込んだ。
 それは一気に彼の記憶の世界の中で幾つもの美しい黄金長方形の線と言う枠を降り注がせ記憶の中の色んな世界を切り取りだし始めた。彼の耳に彼女の言葉が響いた。
(美しい絵画が何世紀にも渡り見る人に多くの感動を与える理由は何だろう、そしてモデルと画家との間に何があったのだろう)
「それは・・」
 彼はもっと心の耳を開放した。
(滝先生、私は何故自分が存在するのか理由を知りたいのです)
 その言葉が消えかかろうとしたとき、彼は手を伸ばし、その言葉を捉えて消え去るのを掴んだ。
「藤咲さん、モデルと画家との間にあるものそれは約束なのだ、画家とモデルの間には美しい約束が存在するのです・・!それは描こうとする存在を永遠にこの世界にとどめることを誓う約束・・!その約束の中にある純なる思いが強ければ強いほど、見る人に感動を与えるのです。そしてあなたが存在する理由は・・」
 彼は目に涙を溜めながら白い画用紙を見た。
「僕を画家としてこの世界に送り出すためです!」
 その言葉が彼から吐き出されたとき無数の黄金長方形達が宇宙の中心に集まり、一斉に弾けて光を放ち、輝く虹色の世界の中で美しい彼女の姿と、それを包む色彩があった。
 彼は頬に流れる涙をぬぐうことなく、画用紙に線を入れた。
 やがて完成されたデッサンは彼の手元から滝次郎の視線の下に届けられた。

 滝次郎は巴里で開催される公募展に巴里の旧知の画家から招待を受けて、作品を描いていた。
 彼は年齢的なことを思うと自分のこれからの作品が最後になるのではないかと常に心に思っていた。
 そうした中で彼は倒れた。
 ひとり病室の白い壁を見ながら彼は色んなことを思った。
 戦争で失った友人達や異国で亡くなった妻のこと、そして自分の娘の将来や絵画の今後の将来のことを思った。
 そんな病室の日々の中に藤咲は現れた。
 一人静かに先生の横に座ると彼女は先生に向かって微笑した。滝次郎は彼女の表情を見て言った。
「藤咲さん、あなたの去る時が来たようですね。最初に頂いた手紙に書かれていた病気のことは、病人になった今の自分には良くわかりますよ。このままでは何年後かには失明をするという自分の運命に対して難しい手術をすることで光を保つことができる、いやその手術がうまくいかないことで光を失う困難があるかもしれないという道を選ぶことは、勇者の選択です。目の手術が上手くいくことを心から願っています。今まで、私の小さな研究所でよくモデルをしてくれましたね」
 滝次郎はそう言うと優しく手を伸ばした。彼女はその手を強く握ると、涙を流しながら先生に言った。
「先生、こちらこそ自分のわがままを聞いていただきありがとうございました。私の生きる姿を多くの方に描いていただいたことが、自分にとってどれほど嬉しいことであるか、言葉になりません。私の目の手術が成功する可能性はとても低く、その為、次に先生の姿を拝見できることが出来ないだろうと思うと心が張り裂けそうです」
「可能性を否定してはいけない」
 滝次郎の少し厳しい声音を含んだ声が病室に響いた。
「あなたはこの世界に存在する人知を超えた大いなる力を否定してはいけない。あなたは自分の答えを見つけたと僕に言いましたね。画家との間に存在する何かとは?それはきっと“約束”だと。でもまだ一つ答えを導き出していないでしょう。自分が何のために存在しているのか。そんな美しい問いかけを自分に投げかけて真理を求めようとする存在を神は、いや天使が見捨てることはありません。偉大な探求者は純なる者にとって大事な導き手でもあるのです。それを見捨てることはありません。難しい話はやめましょう。ほら藤咲さん、ここにデッサンがある。見てみなさい」
 彼女はそれを手に取った。流れ出る涙の中にその絵は反射して、彼女の網膜に映し出された。
 一枚の美しい女性のデッサンだった。
「芹澤君のデッサンだ。美しい線と質感がそこに存在し、見る者の魂に届く感情が心臓を鼓動させて、人知を超えた世界、そう宇宙に引きこませる素晴らしい一枚だ。僕は彼の作品を今度の巴里で開かれる公募展に出展させることに決めた。勿論僕も全力を出して一枚の絵を描こうと思っている。僕は願っているのだ、もし僕の画業を引き継ぐものがいるとすれば、それは彼だろうと。私はミケランジェロやダ・ヴィンチに比べるとなんと素晴らしい幸運だろうと思う。彼らには偉大な画業を引き継ぐ後継者がいなかった。技術的な継承じゃない、美とは何かと言うことを探るコンセプトである部分、それは人間賛歌という大事な部分だ。それを引き継げる後継者を見つけることができたという幸運です」
 彼女は先生の言葉を聞きながら涙を流した。
「その絵は、紛れも無いあなただ」
「この絵は、私・・」
「彼のあなたに対する思いの全てがこの絵に捧げられている。まるで基督世界におけるイコン・・そう聖像だよ」
 彼女は両手で顔を覆いながら下を向き、嗚咽をこらえるようにして再び顔を上げた。病室に優しい陽の光が注ぎ込んだ。
「あなたは、彼にお別れを言わず行くのでしょう。ならばそれを持ってゆきなさい。手術後、彼の絵をもう一度三人一緒に巴里で見ましょう、彼の色彩を、あなただけに向けられた秘密の色彩で彩られた一枚の作品を三人で見ましょう。それまで僕もせいぜい頑張って生きますから」
 滝次郎はそう言うと豪快に笑った。
 彼女もそれに引きこまれるように、声を出して笑った。
「先生、約束します。私はもうひとつの自分の答えを見つけるため、手術の成功を信じて、再び巴里で先生と芹澤さんとお会いします」
 滝次郎はそれを聞くと満足そうに頷き、彼女を見て視線を外した。
 それが別れの合図だと気づいた彼女は、静かに席を立ちゆっくりと頭を下げた。
 陽の光が自分の履いているパンプスに届いているのが分かった。
 後はただ静かに去るだけだった。

 藤咲純は一人、病室を出た。
 街は夕暮れ時を迎えていた。藤咲純は茜色に染まる石造りの橋をひとり歩いていた。遠くに滝次郎の洋画研究所が見えた。
 洋画研究所は緑の茂る森の中でひっそりと佇んでいた。
 彼女は暮れて行く空に目を遣りながら手にしたデッサンを胸に抱え、眼下に流れる水面へ目を遣った。
 揺れる水面に自分の姿が見えた。揺れている自分の姿は芹澤馨への想いに揺れる自分の心だった。
 先生の病室からの帰り道で芹澤馨は自分の手を握った。それはまるで長年連れ添った伴侶がするような、ごく自然な仕草だった。
 藤咲純は自分の手を見た。
 そしてその手を彼女は頬に当てた。
(私は彼に恋をしているのだろうか)
 頬に冷たいものが当たった。
 茜色の空から雨がゆっくりと降り始めていた。
 そしてそれはゆっくりと流れる川の水面に波紋を沢山広げていった。
 彼女は雨を避けるため、洋画研究所に向かった。
 洋画研究所の庭を抜けて入り口に来る頃には雨が激しく降り、それはスコールのように大粒の雨になっていた。彼女は少し濡れた髪にハンカチをかけ、そしてブラウスに残る雨の雫を拭き取った。
 雨は目の前の庭の石畳の道を激しく叩いた。黒く小さな影が、庭の草の茂みからこちらに向かって飛び出してきた。
「あ、ミロ・・!!」
 藤咲純はそう言ってミロを自分の側に寄せた。
 ミロは藤咲純の顔を見ると、大きな身体を揺らしながら側に座った。
 藤咲純はミロの濡れた身体を優しくハンカチで拭いてやった。ミロは首を動かしながら泣き声を上げ、気持よさそうに彼女を見ていた。
「沢山濡れてしまったね」
 彼女はそう言うとミロの視線が入り口の扉の先の隙間を見ているのが分かった。ミロの視線の先を追うと扉の隙間から室内の明かりが漏れているのが分かった。
 彼女はゆっくりと扉を押した。
 扉は音も無く開き、明かりが奥のデッサン室から漏れていることを知った。
 彼女は音を立てないように静かに歩いた。
 するとミロが彼女の横を勢い良く明かりのほうに向かって走って行った。
 明かりの先から「ミロじゃないか、こんな時間にご機嫌様だね」という声がした。
 芹澤馨の声だった。
 藤咲純の心は激しく鼓動し、濡れて肌につくブラウスの冷たさが自分から消えた。
 藤咲純は静かに部屋の仕切りを越えて室内に入った。
 そこにイーゼルの前でデッサンをしている芹澤馨を見つけた。
 芹澤馨は自分に背を向けてデッサンをしていた。手元にダ・ヴィンチの画集が置いてあった。
 鉛筆の音が響いた。彼女はそこに暫く立って芹澤の背中を見ていた。
 このまま何も言わずに去ろうと思った彼女の心にぽとりと雫が落ちた。
 それはやがて揺れる水面の波を打ち消し、どこまでも続く穏やかな水面になった。
 その水面の先に芹澤馨が触れたとき、彼女は彼に声を掛けた。
「芹澤さん」
 声を掛けられた芹澤馨は、振り返ると少し驚いた表情をしていたが直ぐに微笑に変わった。
「いつぐらいからここにいました?」
 微笑を含んだ彼の声に彼女は少しなんとも言えない切なさを感じて答えた。
「雨が降り出したころから、ここにいました」
「そうでしたか、全然気がつきませんでした」
 藤咲純は自分がここにいることも気がつかず、絵を描く彼に少し嫉妬した。
 芹澤馨は彼女のほうを見て言った。
「今、ダ・ヴィンチの洗礼者ヨハネの絵をデッサンしていました。この作品の指が天を指しています。これは啓示だと美術史家達は言います。つまり、天から使いがいずれ現れると」彼はそう言って、彼女を見た。
「今朝、先生のところに行きました。先生からは今度巴里で行われる公募展に作品を出すようにと。少し驚きましたが、僕は或る一枚の絵を描いたときから少し自信が出来ました。でも僕には色彩を掴むためのデッサンが必要だと今考えながらダ・ヴィンチの絵をデッサンしていたのです」
 彼は立ち上がって藤咲純の肩に手を置いた。
「それにはその人の前に自分が立ち、そこから伝わるものを感じなければなりません。僕は、巴里に出す作品にあなたを描きたい・・そう思っていたらあなたが現れた」
 肩に置かれた芹澤馨の手から時間の重さが藤咲純に伝わってきた。
「藤咲さん、僕は今だからあなたに言えます。あの桜舞う橋の上であなたにした約束を果たすことを、そう、僕は準備ができました。あなたを描く準備を。あとはあなたを見つめそこから秘密の色を、自分だけの色を掴むだけだと。そしてそれを絵に込めて巴里で花咲かせたいのです」
 藤咲純は芹澤馨の思いが自分の冷たくなった肌から心に伝わってくるのが分かった。
 彼女の頬に涙が落ちた。自分がそれは心から待ちわびた時だった。
「あなたを描かせてください。そしてあなたの今輝く美しい時間を僕に止めさせて下さい、僕のあなたへの純粋な思いと一緒に。そして・・永遠に」
 芹澤馨の目が彼女を見つめた。彼女は静かに頷いた。
 やがて外は一層激しさを増したスコールになったが、藤咲純の裸体に芹澤馨が優しく白いリネンのシーツが掛けられたときにはスコールは穏やかになり、後は画家とモデルが残した秘密の色彩だけが室内に残って雨が降り止むのを静かに待っていた。

 芹澤馨は藤咲純が研究所を去ったことをまもなく洋画研究所の仲間から知った。
 そして彼女が大いなる試練に一人立ち向かったことを知った。
 さよならを言わずに去った彼女に芹澤は何も言わず「僕は彼女の場所を知っても、そこには行かないでしょう」と言った。
(だって僕達はもうこれ以上言葉を語らずともお互いが分かるのだから)
 そして、一人頷くと彼は画布に線入れた。
 それはやがてゆっくりと女性の横顔を浮かび上がらせ、彼は立ち上がると先生からもらった絵の具箱からセルリアンブルーを取り出し静かに筆を動かした。
 そして絵を描き終えると彼は夏の巴里へと向った。

 藤咲純の目の手術は成功した。
 難しい手術だったが、彼女の光は失われることは無かった。
 彼女は手術後の包帯が取られ、医者の目を開けてください、との声が聞こえたときも何も恐れは無かった。
 全ては大いなる力のもとで光の道を一歩進んだだけだった。


 夏の檸檬色の日差しが巴里の石畳の道を照らし公募展の会場に向かう人々の額には沢山の汗が流れていた。
 しかし人々の美に対する熱情は、そんな夏の暑さのために足が止められることは無かった。
 公募展に集まったスペイン、イタリアなどの海外の画家達の描く優しい線や哀愁の或る色彩達が巴里人を虜にした。
 そして滝次郎の色彩もまた海外の画家達に劣ることなく人々の心を捉えた。
 混雑した会場で藤咲純は一人ゆっくりと白い壁に掲げられた美しき作品を一枚、一枚丁寧に見ながら歩いていた。
 暗闇の世界から光を取り戻した彼女の目に映った絵画はどれも素晴らしく、心に響かないものは無かった。
 さすが美術の都で開催される公募展であり、そうした光り輝く色彩の沢山の作品群の中を歩くことは、まるで光り輝く回廊を巡るようだった。
 視線を遠くに向けると、沢山の画家達に囲まれて談笑する滝次郎の姿が見えた。
 先生は水野はるかを側において、久しぶりに再会した懐かしい仲間達と談笑をしていた。
 視線を戻し、彼女は白い壁に区切られた部屋を出て別の部屋に入った。
 その部屋は少し他の部屋と違い、部屋の照明が少なく自然光に溢れた部屋だった。
 何故か、彼女の心が大きく騒いだ。
 この部屋になにか静かに張り詰めた空気が流れているのを感じた。それはまるで自分を待っているものが、そこにいるように感じた。
 彼女は静かにその部屋の暗い闇を踏んだ。
 足元に光が灯ったように見えた。その光はやがて大きく人の形になり、やがて自分と等身大の裸体となって姿を現した。
 それはあの日、美術館の絵の中で見たヴィーナスの残像によく似ていた。
(私は夢を見ているのだろうか)
 藤咲純は驚いたが、やがてすぐ確信した。あの日見たヴィーナスが、再び自分を導いてくれるのだ、と。
 ヴィーナスは彼女の方を見て微笑むと、すっと指をさした。
 美しく優雅な指先が示した先には、一枚の絵があった。
 それは部屋の奥に掲げられ、まるでずっと昔から自分を待っていてくれているようだった。
 ヴィーナスは微笑むと、ゆっくりとうなずきはっきりと言った。
「生まれたばかりの愛しいミューズよ、あなたがこの世界で成し遂げた仕事を見届けなさい。あなたは一人の人間の中に眠る偉大な才能を呼び起こしました。あなたは美の使いとしての役目を果たしたのです。さぁ、ゆっくりと進みなさい」
 彼女はヴィーナスと共に歩き出した。歩き出したその先は、彼女が待ち望んだ場所だった。
 一歩、また一歩。そう、そこには芹澤馨の描いた絵があった。
 芹澤の絵から突然光が放たれたような気がした。
 それは自然の輝きで藤咲純の裸体の上を滑り網膜の中に滑り込んできた。彼の奏でる詩の旋律が聞こえた。
(なんという、美しい詩なのだろう)
 引かれた繊細な心に触れる線、感情を静かに抑えて流れてくる群青の子供達、そして薔薇のように輝く赤い情熱が優しく響きあい、そこに芹澤馨の気持ち、そうモデルを愛して信じてやまない画家の気持が美しく叙情的な色となって、藤咲純を包んでいった。
 涙は出なかった。
 彼女は頷き微笑んだ。それは満ち足りた、少し寂しげな微笑だった。
 全てが終わりを告げ画家とモデルとしての自分と芹澤馨との時間が完全に止まったことを藤咲純は直感的に理解した。
(止まった時間こそが、美しい永遠の時間へのはじまり・・)
 そう、彼女は思った。
(止まった時間に閉じ込められた思いや感情は色褪せることはない。永遠にその時間は美しく存在していく)
 彼女はその絵を見つめた。ヴィーナスは、藤咲純の心を読み取ると静かに頷いた。
 そして部屋に春風のような、かぐわしい暖かな風を起こした。藤咲純の長い髪は風になびき、天から降り注ぐ星屑のような光の粒に覆われた。
 光はやがて彼女の体を覆い、彼女の髪をふわりと巻き上げ、それはまるで今天から使わされこの世に降り立った天使のようだった。
 ヴィーナスはそれを見届けると、ゆっくりと天に向かって消えていった。
 藤咲純の巻き上がる髪が肩に落ちた瞬間、懐かしい声を聞いた、待ち望んだ声だった。
「この絵は純粋ですか」
 振り返ると、そこに芹澤馨が居た。芹澤馨は、絵と彼女を挟んで静かに立っていた。
 彼は、彼女の前にヴィーナスが降り立ち、自分の絵を指し示したこと、それから起こった不思議な現象をずっと見ていた。
 特別驚きは無かった。そういうこともこの世界には在るのだと、彼は思った。
 彼は彼女に微笑むと、手を握った。
「今の言葉は明治のころに巴里で夭折した佐伯祐三の言葉です」
 彼は握っていた手を離すと彼女を抱きしめた。それ以上言葉を続ける必要はなかった。
 藤咲純も芹澤の背中に手を回した。どれほどの時間、そうやっていただろう。お互いの思いと感情が、言葉を交わさずとも芹澤の中に流れ込み、満たされ、また藤咲純も自分を抱きしめる彼の存在を体全体で感じていた。
「藤咲さん、あなたに会えて良かった。そしてあなたがこうして無事に手術を終えて僕の絵の前にいる後ろ姿を見たとき、なんと僕達の生きる世界が多くの神秘に溢れているのだろう、と言葉になりませんでした。本当にこんな素敵な機会を頂いて、感謝しています。僕はあなたのおかげで画家になれました。ありがとう」
 彼は彼女の額に自分の額を触れさせた。
「生命の輝きよ!あなたを使わした偉大なヴィーナスと自分を導いた天使に感謝します」
 そう呟くと彼は彼女を見た。
 そして話を続けた。
「藤咲さん、僕とあなた、そう画家とモデルの仕事はここで終わりです。あなたは初めて会ったあの日からずっと僕の唯一のミューズでした。僕が筆を持つとき、そして目を閉じて瞑想する時にあなたは僕の心のイーゼルの前に立っていたのです。僕はただ心を深く瞑想させ、あなたを心の中に思い出すことでより一層深く観察し、あなたの心の深部に潜む揺れ動く感情を見つけ、そうした一つ一つを大切に線にまたは色彩にしました。それは僕だけの秘密の色です」
 芹澤馨はそしてゆっくりはにかんだ微笑をすると寂しく微笑した。
「藤咲さん、もうこれ以上は夢の続きはありません。あなたの心の中に芽生える僕への感情・・それは同じ探求者としての尊敬で親愛であると理解しましょう。そうでしょう、藤咲さん、僕は心に決めたことがあります。画家としてこの公募展に参加し、まだまだ僕は力不足だと感じました。自分の技術にさらに磨きをかけたいと思いました。このまま欧州を旅し、絵の修行がしたいのです・・だからあなたにお願いがあります。それは・・」
 そう言おうとする彼の唇を柔らかい唇が塞いだ。
 藤咲純はもうそれ以上芹澤馨から言葉を言わせなかった。
 言わせない為に、自分の唇で言葉を奪った。
(乱暴でもいいですよね)
 そう呟く彼女の言葉が重ねた唇から芹澤の舌の上に運ばれてくると、彼はそれを強く吸い込んでゆっくりと引き離し、彼女の肩に手を置いた。
 やがて、静かに芹澤馨はあの時自分を導き、自分の唇に触れた美しい天使の顔を思い出した。
(ああ、そうか、あなただったのだ)もうそれ以上、彼は何も言わなかった。
 そんな二人の姿を「聖女(Donna Santa)」と名付けられた芹澤の絵が、静かに優しく見つめていた。

 巴里から時間が過ぎた。
 藤咲純はデッサンをしていた。アトリエでは女性モデルを囲みデッサンが行われていた。
 彼女は目の前に立つ裸婦を鉛筆で優しく丁寧に描いていく。
 細く繊細な線がモデルの輪郭を捉え、陽光に照らし出された肉体の質感を指でこすりながら表現してゆく。
 時折、向かいに座る画家と視線が自分と合った。視線が合う数回に一度、彼女はその視線に微笑を返す。
 女性モデルはそんな優しい世界のなかで時間が止まった彫像のように立っていた。
 彼女の視線に映りだされる水野はるかの肉体は美しいと、彼女は思った。
 水野はるかは今では美術界では知らない人がいないと言われる伝説のモデルになっていた。
 今は亡き滝次郎が愛した伝説のモデルとして彼女は生きていた。
 季節は夏を迎えようとしていた。アトリエでは夏の静かな時間が流れている。
 藤咲純はふと動く指を止めて、夫である画家の顔を見た。
 穏やかな微笑を夫に返すと彼女は亡くなった滝次郎とそして夭折した芹澤馨の面影を心に描いた。
 光を留めた彼女は、滝次郎と芹澤馨に続くように自然に絵を描き始めた。
 そして絵を学ぶことで知り合った一人の年上の画家と知り合い結婚した。
 結婚は二人の祝福を受けることは無かった。
 滝次郎は巴里から戻った後、秋が来るのを待って静かに息を引き取った。
 芹澤馨は滝次郎が亡くなった後、スペインに渡りそこで流行風邪の為、若い命を落とした。
 彼の最後はエル・グレコの絵画の前でイーゼルを抱きかかえるように倒れたと彼女は聞いた。
 地元の新聞に書かれた彼の死亡記事の一部には「無名の画家のその死に顔はとても美しく安らかで、瞼から流れた一筋の涙の後があった。そして異国でなくなったひとりの画家のその横を向いた表情を見た無数の弔問者たちは、口々に古今のどの名画にも勝るものだといいながら白い百合と薔薇の花弁で彼の魂を包んだ」と、あった。
 午後になれば彼女は夫とモデルの水野はるか、そして自分の胎内に宿る新しい生命と一緒に滝次郎の回顧展に行くことになっていた。
 その回顧展には、きっと無名の画家の作品がひっそりと一枚置かれているだろう。
 彼女は、まだ最後の答えを見つけ出してはいなかった。
 それを残りの人生を掛けて探したいと思っている。
 そう、偉大な画家達の作品を見ながら、愛する人々と共に答えを探す旅をしよう。
(もし先生、いくつかある答えのうちのひとつがあるのなら、それは私の存在は芹澤馨という才能を導き出すためにあったということでしょうか)
 巴里から戻った後、彼女は欧州を旅行中の芹澤馨から自分宛の封書を受け取った。
 封書の中には莞爾と笑う芹澤馨と滝次郎の姿が写真として入っていた。
 それが最後に見た元気な彼らの姿だった。
 その封筒には或る画家から滝次郎宛におくられた葉書が同封されていた。
 しかしその葉書を滝次郎は見ること無くこの世を静かに去った。
 その葉書は春に書かれ送られないままでいたものを芹澤馨が本人から受け取り送って来たものだった。
 彼女は遺産としてそれを受け取り、とても大切な秘密の宝箱に閉まった。
 新しい生命が生まれたとき、その手紙を再び開き読み聞かせたいと思っている。彼女は再び止めていた指を動かした。
 芹澤馨からはその後、手紙は届かなかった。
 彼は異国を旅しながら自分の絵を模索し続け、やがて滝次郎を追う様に消えてしまった。
 自分は今生きて彼らの時代の生命の熱を感じている、そう思ったとき夏の眩しい光が彼女の瞳に注がれ、やがてそれをさえぎる様に夫の手が伸びてきた。
 それはアトリエを出て、回顧展に向かう時間を告げる天使の手だった。


 
「次郎へ
 君も僕も非常に歳をとりました。それでも君の才能の輝きはコートダジュールの海岸線に降り注ぐ陽光の美しさもかくやと言うものべきだと、僕は思います。
 君の作品は、巴里で大きな扉を僕達の仲間に示してくれました。この作品は大きなゲートのように僕達を導いてくれます。
 そのゲートにあなたは偉大な才能を連れてきましたね、彼の才能は君の示した門を潜るには相応しいものです。彼の持つこの才能は僕達が生きた時代を引き継いでゆくものだと、僕は確信し、彼を仲間に加えることができる喜びに溢れています。
 次郎、僕達は戦争と言うつらい時代を経て、生きてきました。沢山の本当に苦しい思いをしてきました。また再び君に会えることを願っています。そして今は無名のあの才能に再会できることを願って、ペンを置きます。
 では、ごきげんよう、次郎。
 四月、ムージャンにて
 パブロ・ピカソ」

庭に花束を届けに来た人(三部作) 第二部 光の回廊

庭に花束を届けに来た人(三部作) 第二部 光の回廊

芹澤馨は少年の頃より絵が得意だった。しかしあることからそれを隠すようになりやがて絵を描くことを忘れてしまった。しかし年月が過ぎ青年になった彼は詩人を目指す文学青年になったがやがて失意のうちに、文学を志すことを止めた。そんな彼がやがてあることを契機に再び絵画に向き合うことになる。この物語はそんな芸術と向き合った青年の人生を見つめる物語である。そしてそれは三部作の最後へと向かう序章である。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
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  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-25

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