二十時の世界はぼくとせんせいだけのもの

あおい はる

 駅から徒歩十七分、という場所にあるホテルの、一室の、ある時間の、ちょっとした鉄臭さについて。
 常に、眠りの浅いせんせいと、ぼくの関係性を、たとえば、学校、社会、なんてものが裁くことへの憤り、は、もう、とっくに失せているね。せんせい、きょうも、どうぞ、ぼくの血をめしあがってください。寂れたホテル、つめたい部屋、二十時の逢瀬。
 二十一時になったら、ホテルから歩いて三分のところにある喫茶店で、ホットケーキを食べたい。素朴な味の、シンプルに、バターと、メープルシロップで食べる、厚めのホットケーキ。首は、そろそろ、限界かもしれないです、せんせい。歯形を隠し切れずに、体育の時間とか、けっこう、大変です、誤魔化すの。ぼくは、せんせいに、二の腕をみせたり、太腿をさしだしたり、する。骨が近いあたりは、痛いので、なるべくならば、肉のついたところで。せんせいは、めがねをはずして、ぼくの、肌を撫で、感触を確かめる。弾力。吸いつき具合。きっと、いちばん想像しているのは、噛み心地。せんせいのめがねは、しっている、伊達めがね。いつも濡れたような、せんせいの、艶のある黒い髪に、ぼくは指をとおす。するん、と、指が、すり抜けてゆく感覚が、好き。
 あしたになったら、いまの生活が、この瞬間が、すべてなかったことになっていたらと思うと、それは、まぎれもない、世界のおわりであるし、せんせいの、せんせいという人物の、人格の、存在意義の、崩壊でもある。そして、せんせい、というひとりの生命に愛された、ぼくの人生の、終幕でもある。大袈裟だろうか、せんせいは、でも、ぼくの誇大な妄想を、心配性、の一言であしらったりは、しない。
 せんせいが、ぼくの血を吸う。
 皮膚を突き破り、せんせいの、鋭い歯が、牙が、ぼくのからだに、わずかでも侵入してくる。
 ぼくは、せんせいだけのものになった気分で、いる。
 ぼくの血が、どの程度、せんせいのからだに入っているのかは、わからない。
 でも、ぼくの一部が、せんせいの一部に、なっている。
 その事実だけで、ぼくは、生きてゆけるのではないか。ぼくのからだから、せんせいの歯が、ずっ、と抜ける瞬間の、狂おしいほどの、さびしさ、は。
 たぶん、この世でいちばんの、さびしさ。

二十時の世界はぼくとせんせいだけのもの

二十時の世界はぼくとせんせいだけのもの

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-24

CC BY-NC-ND
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