文字に為る
文字に為る
ページを捲る音がかさりと鳴る夜の中、私は彼女の見た言葉たちを追っていた。分厚い辞書を構成する全三千ページの紙一枚一枚に、彼女の家の匂いが染みついていた。その天には湿気を吸って膨らんだ、ものすごい数の付箋が付いていて、見出しにも三色のマーカーで色分けされ引かれた線が残っていた。それを一つずつ辿る。私は彼女が書く文章の中に時々顔を出す、その感性が好きだった。
物語にはいつか終わりがある。人生にも終わりがある。そんなことはとうにわかっていたのだけれど、この現実感の無さだけが目の前の現実だった。感覚だけでいえばもう彼方、ずっと過去のこと。けれども現実にはたった三回前の春、彼女は本当に遠くに行ってしまった。
病気だとか、事故だとか、自死だとか。彼女が遠く去った理由なんて、そんなことはもうどうだってよかった。ただ彼女がいなくなったというその事実が、ただ私の胸に小さくない空白を作った。その空白の少し霞んだような、純白になりきれない白さが。心に線を残したそのくっきりとした輪郭が。それらだけが現実感の無さだった。
その空白は彼女の形をしていた。存在感があまり無いようで、それでいて芯を持った確かさがある。澱になった言葉たちがまるで感情の署名のように沈み心を引っ掻いていく。そして時々、思い出したかのように控えめに笑う。その空白を見て、もう音のない声を辿り、影の無い形を思い、そうしてその空白に彼女がいたことを痛いほど知る。
さよならは傲慢だ。最低なくらい唐突だ。いきなり押し掛けると、音もなく去っていく。何一つ残さず、奪ったものの空白だけ置いていく。
彼女と同じ言葉を知れば、この彼女と同じ形をした空白が埋められると思った。彼女が書きかけたままの未完成の小説の束を見る。それを手に取り、内容を読む前に文字を追う。インクで書かれた文字の色は少し灰色がかった深い青、線の書き終わりに滲みがいっそう濃く残る。右肩が下がるいつもの癖。二角目を省略してつなげて書く「な」の癖字。綺麗な字とは言えず、むしろ汚い字の部類に入りそうなこの文字は、私の知る彼女のそのものだった。それが、この20×20の部屋に収まっている。
私は彼女自身が書いた彼女を知らなかった。だから彼女の言葉を知って、私の手で、彼女を書きたかった。
この胸の空白を埋める言葉を知りたい。本当にそれだけだったのだ。今更もう、それしか無かったのだ。
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