ポチさん、再び

佐分来

 プニョプニョとした、あまり馴染の無い感触を頬の辺りで感じました。
ちょうど夢の中では、芳醇な香りを放つホカホカの香草ステーキをハグハグと頬張っているシーンでしたから、押された拍子に脱力するようなパフパフという音とともに口腔内から空気が漏れ出しました。おっと若干のヨダレも流れ出たみたいで少しネトネトします。
 どうやら、優しく頬を撫でながらスッと去って行く、顔馴染の微風ではないようですね。
 しかしながら、私の生活で香草ステーキを好きなだけ貪り喰えるのは、この午後の微睡の夢うつつの中だけ故に、薄目を開けて周囲を確認する手間すら勿体ないのでございます。ですから単なる『錯覚』なのである、と判断を下して黙殺することに致しました。
モゾモゾと身じろぎを2・3度ほどしてから、再び甘美なステーキ・ディナーの夢へと帰還しようと1つ大きな吐息を吐いたのでございます。
そのままほの暗い湖底へと沈んで行くように眠りの深い淵へと降りて行こうとしたその瞬間、また私の頬にプニュプニュと何モノかが押し付けられるような感触が・・・
 暑くもなく、寒くもない、微風が吹く暖かい秋の午後にバジルやローズマリー、タイムやセージなどが繁茂したこの庭先で午睡を嗜むのは、誠に至福の一時なのですが、その甘く貴重な時間を邪魔する不埒な輩とは一体、何モノなのでしょうか?
そのまま無視を決め込んで空寝を重ねたとしても、私が起きるまでプニュプニュ攻撃は間断なく襲ってくることでしょう。ここは致し方ありません。この諸悪の根源たる余計な『プニュプニュ』の正体を暴かねば、安心して怠惰な安眠を貪ることすら出来ないのです。
ですから『何ですか?』と軽い苛立ちを覚えつつ私は不承不承、右眼だけ目蓋をホンの僅かに開けて周囲を確認したのです。見開くのが片目だけ数ミリというのがこの不条理な状況に対するせめてもの抵抗だったとも表現できますな。
『ちょっと、ドサッて寝てないで早く起きなさいよ』
 スッと糸状に薄く切り取られた視界の中に視認できたのは、ウーン、誰でしょう?
もう少し目蓋を開かなくてはよく見えなくて、実の所、誰だか全く確認できませんね。
まぁ、誰でもよろしいのです。妖怪の類いではないらしいことは十分確認できましたので、
ドルチェ・ヴィータなシエスタに落ちる為に再び眼を閉じました。
 おっと失礼、伊太利亜語と西班牙語がごっちゃに混交しておりますな。
『ポチのダンナ。もう匂いで誰だか気付いてんでしょ?』
 何の事でしょう?
『イヌのくせにタヌキ寝入りをするなんて、何、空惚けてんの?』
 はぁー、聞こえんなぁ。この所、耳も遠くなってきおって、なぁ。フガフガ・・・
『起きなさいってば。起きないと・・・こうだっ!』
プニュプニュプニプニプニュプニュプニプニプニュプニュプニプニプニュプニュプニプニプニプニプニュプニュプニュプニプニプニュプニュ・・・
 ウルサイですね、全く。
本当に仕様がありません。
もたげる様に首だけ上げてプニュプニュ攻撃の実行犯を視界の中に捕捉しました。
『やあ、アイシャさんじゃありませんか。どうしましたか?』
『どうしたも、こうしたも無いでしょ。何ですぐに起きないの?』
『いやぁ、いつもはお声をお掛け下さるのに。肉球でプニプニ攻撃とは。だから全然、気付けませんでした』
『何、トボけたこと言ってんの?』
 そう言いながら、もたげた私の顔にプニプニと彼女は肉球を押し付けてきます。
『寝ぼけた振りしてもダメ。イヌなんだから眼よりも鼻の方がシッカリしてるでしょ?』
 アイシャさんはネコです。
柔らかそうな白い毛並が美しいターキッシュ・アンゴラという猫種です。
毛がフサフサと豊かな、長い尻尾がウネウネとまるで生き物のように蠢いています。
 ま、生き物なんですけども。
 下を走る血管を突き通すほど薄い皮膚の耳は赤身がかり、鼻先と口許は愛らしい桜色。
何よりも取り分け特徴的な事象が彼女の顔に発現しています。
アイシャさんの右眼は翡翠の様な緑色で、左眼がアクアマリンの薄青色。
医学用語でいう所の『Heterochromia iridis』日本語では『虹彩異色症』というモノです。
サブカル界では、もっと砕けた言い方で『Odd Eyes』などとも称されるようですが・・・
白い毛色のターキッシュ・アンゴラのネコには時折見られる特徴だそうです。
 彼女は、私のような出所不明の雑種などとは元々の寄って立つ基盤が全然、違います。
トルコ原産でペルシャネコの祖先とも考えられているというくらいに、由緒正しい描種でございましてそれ故にか束縛されるのを極度に嫌う、いわば孤高のネコさんでございます。
 アイシャさんも気位はサガルマータくらい高い、言わば貴族的なお嬢さんネコなのです。ですが、何故だか理由は定かではありませんが、私には気を許していて何時も今日のように親しくコミュニケーションをとってくる、というよりも馴れ馴れしく『ちょっかい』を出してくるのでございます。
 あぁ、ご挨拶が遅れました。
私、ポチでございます。
ミヤウチ家にお世話になっております、しがない雑種の老犬でございます。
 一年振り、でしょうか?
 初めてお会いしたのは去年の、ちょうど今時分でございました。そう記憶しております。
お久しゅうございます。相変わらずお元気そうなご様子と存じまして、誠に喜ばしい事でございます。私も1つ齢を重ねまして、人間の年齢に換算すると80歳くらいになるとか、掛かり付けの獣医の曽布川先生が申しております。その割には耳も鼻も遠くなる事を全く知りませんで、非常に鋭敏な感覚を保っております。若い時分と比較すればソレはソレという程度でございますが、年齢の事を考慮すれば足腰も丈夫で特段弱る事もなくまだまだ至って健康その物の身体でございまして、僥倖というか、本当に有難い事でございます。
 ま、ただ1つだけ。
寄る年波には敵わないモノ、眼の方がちと白く濁って参りました。
いわゆる白内障という、老人(老犬?)には付き物の病を患っておりまして、毎日朝御飯の後に奥様のサチエさんが点眼薬を私めの両眼に注して下さいます。病気の治療の為とは重々承知しておりますが、その点眼薬なる物を両眼に注されてから5分ほど経過致しますと、何やらこう鼻の方に生温かい液体がズリーッと流れ落ちて来るのを感じまして些か気持ちが良くないというか、
何故だか頭を持ち上げて遠くの方を望みたくなる、そんな心持ちになるのでございます。
『ちょっと、ポチのダンナ。何、遠くを眺めてんの?』
 おやおや、想像をしておりましたら実際に身体の方も反応してしまった様ですね。
『いえいえ、何でもありません。所でアイシャさん、その御自慢の肉球でプニプニするのを止めて頂けませんでしょうか?』
 するとアイシャさんは佇まいを整え、いえ、違いましたね。『佇まい』とは『立っている様子』の意でございます。よくある言い間違いでした。
彼女は姿勢を正し、座り直しました。
均整のとれた身体付きが良く解る、シュッとした座位の姿態でございますな。
 アイシャさんが小さな吐息を1つ静かに、しかしあからさまに吐きながら、言います。
『あのさ、ダンナ。もうチョット砕けた言い回し、できないの?』
『生硬だったでしょうか?』彼女の端正なお顔を見上げながら尋ねました。
『また、そういう難しい言葉を使う。素直に「固い」って言えないのかねぇ?』
『申し訳ありません。コレも性分でして』
 アイシャさんは寝ている私にもたれ掛かる様に彼女の肢体を横たえました。
これで私と彼女の視線が一直線上に並ぶことになりました。
ネコという異種の生物ですが、アイシャさんの淡麗なお顔付きには少しドキッとさせられてしまいます。彼女は妖艶とも形容できる眼付きをしながら私にある情報を伝えました。
『ダンナ、知ってる?』
『何を、でしょうか?』
『今夜、流れ星がたくさん観られるんだって、さ』
『あぁ、オリオン座流星群の事ですね』
『なぁんだ。知ってるのかい』
 アイシャさんは、つまらなそうに『フンっ!』と強い鼻息を1つ、漏らしました。
『ダンナ、流星群って何の事だい?』
『彗星が通過した軌道上にはチリや氷の微小な粒が残留物として残されます』
『もうチョット易しい言葉を使って説明してくんないかな?』
脳内で漢字変換に失敗した事態が想像できる表情を浮かべながらアイシャさんが、そう乞うてきました。
『彗星、所謂ほうき星ですが、それが太陽の周りを回っている時にこの地球の軌道と交差します。その地点にももちろん彗星自身の欠片を残して行く、
言い換えれば彗星の落し物ですね』
『フン、フン』アイシャさんが首肯します。
『その落し物が漂っている空間、場所ですね、そこを地球が通過する時にそのチリとか氷の粒とかが引力で大気中に突入してくる、つまり落ちてくるのです』
『フン、フン』
『落ちてきたチリや氷は大気との摩擦で高温になって、やがて燃えます』
『フン、フン』
『チリが燃えている時には明るい光がバッと出ます。その発光現象が流れ星です』
『フン、フン』
『彗星が残したチリや氷は一塊となって空間に残っていますから、
そこを地球が通過する時には次から次へと流れ星が地上へと降ってくるという訳なのです』
『成程ねェ』感心した表情をアイシャさんは浮かべました。
 ま、厳密に言うと、チリが高温になるのは大気との摩擦のせいではなく、猛スピードで突入してくるチリの前面で大気が超高圧に圧縮される事が原因で大気自身が高温になって、その高熱がチリの燃焼現象を引き起こすのですが、説明するのは少し面倒なので割愛する事にしましょうかね。
摩擦で十分でしょうしね、普通の説明の場合は。
『ダンナ、2人だけで観ない? その流星・・何とかを、さ?』
『観たいのは山々ですが、観られるのは明け方近くですよ』
『そうなの?』アイシャさんは少し驚いたのか、無意識に上半身を起こして私を見ました。
『今年のオリオン座流星群は明日、10月22日の未明、つまり夜12時を過ぎた2~3時くらいから明け方までが観測する好機なのです。しかし今年は下弦の月明かりが邪魔をするので観測条件はあまり良くありません。条件の良い場所、例えば人家や街灯、常夜灯などの光源が全く無い真っ暗な山の中に行ったとしても、1時間あたりで5~10個ほどしか観られませんよ。
ここら近所の様な街中では1時間粘っても1個観られるか、どうか、といった所でしょうね。
月さえなければ1時間で数十個は観測できるのですが。残念です』
 アイシャさんは表情を『なあんだ』というモノに変貌させた。
『夜中じゃねぇ。ワタシは夜間外出禁止だから、ね』
『あなたの様な希少な描種では仕方が無い事かも知れませんね。夜中は略取誘拐の危険性が非常に高いでしょうし。人さらい為らぬ、ネコ攫いに出逢ったら大変です』
『さらわれて三味線の革なんかにされちまったら・・・』
アイシャさんはブルッと身体を震わせた。
 いえいえ、あなたの様な珍しいネコを三味線の革にする様な抜け作はいないでしょうよ。
誘拐されたら、そのまま中国か中東の資産家の家に直行です。
『・・明け方、ねぇ・・』吐息を1つ吐き『しかし、あのスットコどっこいの素っ頓狂が』
『どうしたのですか?』アイシャさんの相貌を覗き込んだ。
『イヤ、何さ。ワタシの家の近所をウロウロしていやがるキジトラの雄ネコのことさ』
ほう。
『ワタシに色目なんか使いやがって、さっきなんか「今夜、流れ星を一緒に観ないかい?」だってよ。
あー、思い出しただけでも寒気がするってもんだい』
アイシャさんはブルッと身体を震わせながら、暖かさを求めている様に自分の身体を私にギュッと押し付けまして、話を続け、
『その流星・・何とかが出る時間くらい、チャンと調べておけってんだ、全く』と、爆発するような勢いでアイシャさんは言葉を吐き出しました。
 彼女は下から私の顔を覗き上げながら、
『あーあ、ポチのダンナがネコだったら、ね』と呟きました。
『ハァ』不得要領な言葉しか返せません。
『ホントに朴念仁だねぇ。なんで犬なんかに生まれ付いてきたのさ?』
『イヤぁ、そう言われましても』
『別にさ、シュッとした三毛の雄ネコじゃなくても良いのさ。ドラ猫でも尻尾曲がりでも何でもワタシゃ構やしないのに、
何でよりにもよって「イヌ」なのかねぇ?』
 毛色が白・黒・茶の三毛猫は基本的にメスしか生まれません。
ネコの毛色や模様の発現には主に9種類の遺伝子が関わっているそうです。
その内で『黒色』と『茶色』の体毛のどちらを作るかを決定する遺伝子の一組はX染色体に含まれています。皆様もよく御存じの通り、通常の場合X染色体はオスの細胞には1本、メスの細胞には2本含まれています。メス猫では、まだ母親のお腹の中にいる胎児の時に、各細胞に2本ずつあるX染色体の内、ランダムにどちらかが不活性化(働かなくなる事)します。もし不活性化した遺伝子が黒毛を形成するモノだった場合には身体のその部分では茶毛が生えます。逆に茶毛の遺伝子が不活性化したら、その場所では黒毛になります。
このメカニズムが働く結果、身体のこの部分では『黒毛』また別の場所では『茶毛』という様に、メス猫では『黒』と『茶』のどちらの色も出来る可能性があるのです。
 しかし雄ネコの各細胞にはX染色体は1本ずつしか含まれていません。
だから『黒』か『茶』のどちらか一方を発現する遺伝子の1種類しか含まれていないのです。
このX染色体が、不活性化せずに働いた場合は『黒毛』か『茶毛』のどちらか一方の色のみを発現する様になるのです。
 極めて稀に染色体異常を起こしたまま生まれるオスの三毛猫がいます。
通常は各細胞に1本ずつしか持たないX染色体を、特別に2本持って生まれるケースです。
普通こういう染色体異常の個体は流産して生まれてこないのですが、たまに生まれて来る事もあるのです。
その確率は1千~3万匹に1匹というほど希少なのだ、そうです。
このケースでは、妊孕性(子供を作る能力)に問題があるケースがほとんどでして、
仮に性的に正常だとしてもそのオスの三毛猫の子供にはこの形質は遺伝しないので、三毛のオスは本当に珍しいのだとか。
 ですから私はアイシャさんにこう告げました。
『三毛猫にオスはおりませんよ。また仮にいたとしても性的に不能だと存じ上げます』
フンと鼻を鳴らしてアイシャさんが『そんなことを、言ってるんじゃないの』と言います。
『そんなことは、どうでも良いのさ。
ワタシが言いたいことくらい、ダンナ、もうとっくに解っちゃってるんでしょ?
あのさ、ダンナ。
イヌとして生まれてきたのも何なんだけど、さ、ダンナは生まれるのも早過ぎるんだよ。
ホントに、さ。
もうチョット遅く生まれてきても、別に罰は当たらないと思うんだけどな』
 言っている事が些か無茶苦茶なのですが、女性とはこの様なモノなのでしょうか?
『ソレばかりは、私の力では何とも致し難く存じ上げます』
『堅物!』アイシャさんが自分の顔を私の顔に近付けてきて、小声でそう叫びました。
あまりにも近いので彼女の息遣いを通してその心の内側が覗けるような気がしました。
 雰囲気が気まずくなるのを防ごうと、話を別の方角へと逸らすことに努めました。
暗くなった訳ではありませんが、気の付かない内に忍び寄って来ていた宵の気配が周囲に濃厚に漂い始めています。空が縹色に変ってその爽やかな色合いが大気に浸透しつつありまして、全ての生物にとって過ごしやすくとても好ましい時間帯の始まりです。
『こんな物言いを知っていますか?』
『何を?』アイシャさんが私の双眸を射ぬく様に真っ直ぐ見詰めています。
『秋の日はつるべ落とし、です』
『ソレくらい、ガキじゃないんだから先刻ご承知だよ。もう少しロマンティックな・・』
 何をツマンない事、言ってんだい? というような口振りで彼女が答えた、その時でした。
 私の右耳がピクッと反応して何者かがこちらへと歩み寄ってくる事を感じ取りました。
健康そうで無駄の無い滑らかな足取りが地表の振動を通しても伝わってきます。
「ミーちゃん」
私たちが、そちらの方向を振り向くより先に声を掛けられました。
 このミヤウチ家の次女、カナコさんです。
神様が全力でタクトを振って創り上げたような容姿をしております。
スラリと伸びやかな肢体の上に載った小さな頭部は端整そのもの。彼女が身体を動かす度に黒鹿毛色の髪が肩口をサラッと舐めます。サックスブルーのオックスフォードカラーのシャツ、インディゴブルーのデニムパンツに萱草色のナイキのスニーカー、寒さ対策の為でしょうか、ユナイテッド・アローで購入した亜麻色のフィールドジャケットを羽織っています。手にはスコップやウンチ入れなどを収納したお散歩バッグとリードを持っていて・・
 おお、何時の間にか夕方のお散歩タイムになっていたようです。
カナコさんの姿を認めるとアイシャさんは『仕様が無いねぇ』という空気を醸し出し始め、掛け声こそ発しなかったものの、多分に『どっこいしょ!』という感じで起き上がって座り直しました。彼女が私を見降ろしながら、こう言いました。
『さて、潮時かね。
ワタシゃ、そろそろ帰るとするよ。
陽が暮れる前に家に戻んないと完全に終日戒厳令が敷かれちまうからね。
それじゃ、また明日ね。
ダンナ、この箱入り娘のお世話をよーくしてやんだね』
 そしてアイシャさんは腰を上げるとカナコさんの許へとユックリと歩み寄り、彼女の形の良い両脚にクルクルと纏わり付きながら、「ミー」と一声だけ発したのでした。
 ま、人の耳には「ミー」とか「ニャー」とか聞えたのでしょうが、人間が理解できる様に私が翻訳をして差し上げると、以下の内容となります。
『ワタシに対して、何てぇ呼び掛けをしてるんだい? このオボコちゃんが。
ワタシの名前は「ミーちゃん」じゃないよ。
アイシャって立派で高貴な御名前を御主人さまから頂いてんだからね、全く。
手前勝手に平凡極まりないありふれた佃煮みたいな名前で呼んでんじゃねーよ、ホントに。
この薄らトンカチが。
ダンナとコレからって時にワタシの邪魔するなんて、ツクヅクさ、誠に良い了見してるよ。
人間としちゃぁ、ホンのチョットばかし綺麗な顔してると思って付け上がりゃがって。
ホントにまぁ、世間知らずで青二才の生娘はしょうがないね』
 しかし、非常に伝法な物の言い方ですね。
流石にチャキチャキの下町育ちなコトだけはあります。
 アイシャさんがこの街に引っ越して来た半年前、初めて出逢った時などにはその端整な外観との落差にとても驚かされたものでしたが、今ではもうスッカリ慣れましたね。
雨霰と連続射撃される荒っぽい言葉もその勇み肌な口調も、実の無い空気の塊をポンポンとブツけられている様なモノでして、
実質的な被害は毫もございません。
 アイシャさんは去り際にチラッとこちらを振り返り、
『あの穀潰しで甚六のセントが病院から退院して戻って来たって、よ』と告げました。
『ほう、手術が上手くいったとだけは聞いておりましたが』と返すと、
『今日あたり散歩の途中で会うかも、ね』そして続けて『じゃ、また明日』と残した後、ネコ科独特の柔軟で円滑な動きで霧が晴れる様に、影が消える様に庭から立ち去りました。
 彼女の去って行く後姿を拝見しながら『アイシャさんは一体お幾つなのでしょうか?』との疑問を、コレで何度目になるのでしょうか、そういった疑問を抱きました。
 お姿からするに結構お若いのだろうと推測は出来ますが・・・
妙齢の女性に直接年齢をお訊ねすることは少々憚られる所でございますし、詮索を重ねて当て推量するのも気が些か引けるモノでございます。ですから、当座の落とし所としては『私よりはお若いのだ』との考えで満足すべきである、と思うことに致しております。
「ミーちゃん、行っちゃったね。家に帰るのかな?」
 カナコさんには、アイシャさんの真実の言葉は伝えない方がよろしいという結論に達しております、ハイ。
 カナコさんはリードを私の首輪に繋げてから「さ、お散歩行こう」と歩き始めました。
お散歩バッグを片手に持ってブランブランさせながら私を先導して歩いて行きます。
1人と1匹でユックリと歩いて行きます。
 昨年の今時分とはグルッと180度違った様にカナコさんの足取りはとても明るく弾性に富んだモノへと変貌を遂げています。
私に話しかける言葉の群れも17歳という年齢に相応しい未来への希望と可能性に満ちた明るい内容ですしその口調も快活です。
去年の今頃、カナコさんを襲っていた不幸、懊悩を思い出すと、現在の彼女の姿がまるで夢現、幻想の様にも思えるくらいでございます。彼女があれほどに苦悩していた壮絶たるイジメとは一体、何であったのでございましょうか?
その実在を疑う程に今のカナコさんは、その頃の彼女と全然違う、まるで別の人間の様に感じられるのでございます。
 ソレもコレも、去年の年末に下した1つの決断が全ての切っ掛けだったのだ、と私には思われます。去年の臘月の初めにカナコさんはそれまでに足掛け4年ほど在籍していた中高一貫制の有名私立の進学校を退学して、通信制の高校に編入する事にしたのでした。
それが契機となったのか、全ての『負』を吹っ切った様にカナコさんは蘇りました。
新しい環境を得て不要な不幸を回避でき、自分のしたいこと、為さなければならないことに対して後顧の憂いなく無心で全力投球できる様になったからである、と私は思います。
 コレを『the Resurrection』と形容したら些か言い過ぎになるのでしょうか?
 いえ、蘇りというよりも『生まれ変わり』に近いのかも知れません。
桎梏たる重たい十二単を脱ぎ去り、空蝉を後に残して碧落の彼方へと飛び立つ天女の様にカナコさんは生まれ変わったのでした。
私にとっての命の恩人たるカナコさんのこの様な生き生きとしたお姿を再び拝見できる事、まさに僥倖の他にはございません。
本当に有難い事でございます。
天の神、地の神に感謝感激雨霰でございます。
 カナコさんは通信制の高校で勉学に勤しむ傍らで、母親のサチエさんの友人夫婦が経営を為さっておいでのパティスリーにおいて1週間に5日ほどの割合ですが、アルバイトをされておられます。コレも人間として成長して行くに当って他人とのコミュニケーションが絶対に必要である、とカナコさん自身の判断で決定された事なのだそうです。
 以前の、まるで世界が滅亡に直面してしまった様な深い絶望感を抱いていたカナコさんからは想像することすら困難な、快活な態度と明るい笑顔と供に毎日の様にバイトに出勤する彼女のお姿を拝見するにつれ毎度、私は感涙を禁じ得ないのでございます。
 嬉し涙というモノでございます。
人生というモノはとても不思議なモノで、1つの事が上手く転がり出すと、釣られる様に他の全ての物事も良好に回り出すモノなのです。今回その真実を再認識させられました。
 そんなことを考えながら私はカナコさんの後をついて歩いて行きます。
カナコさんと私の歩調が完全に合う事はありません。
ソレもそのはず。
人間とイヌ、2足歩行と4足歩行なのですから、当たり前の事態でございます。
ここはひとつ、飼い犬である私の方がカナコさんに合わせるのが筋というモノでしょう。
 おっと、電柱です。
マーキングをせねば。
コンクリ製の電柱に盛大に御叱呼を引っ掻けている私に合わせて歩みを止めたカナコさんは、暮れゆく碧落を見上げながら、朗らかな口ぶりで話し掛けてきます。
「ねぇ、ポチさん、知ってる? 『秋の夕陽はつるべ落とし』っていうんだよ?」
「?」
「あのさ、私思うんだけど、この『つるべ』ってさ、あの笑福亭鶴瓶のことかな?」
「!」
 何か、前にも同じ会話をした事がある様な気が・・・
そしてカナコさん、同じ微妙な間違いをなさっておいでの様な気が・・・致します、です。
大体、あの禿げ面の鶴瓶師匠が「アーッ」とダミ声で叫びを上げつつ井戸の底へと真っ逆さまに落ちてゆく光景なんぞを脳裏に浮かべたら、そんなコトが諺になるなど到底思い付きもしないでしょうに。全く、理数系は神様が裸足のまま逃げ出すくらいにお強いのにも関わらず、こういう人文知的な言い回しにはトンとお弱い。
 ま、人間だもの、なのでしょうかね。
 今日は10月21日。
あと40日ほど経てば臘月(ろうげつ)、つまり12月です。
今年も終わりが近づいて来ましたな。
 去年と違って今年は良い年になったのかも知れませんね。
カナコさんがこんな笑顔をみせるなんて。
うぅ、嬉しさのあまり御叱呼が出そうです。
あ、この『御叱呼』は当て字です。
もう亡くなられましたが、作家の開高健が創った物です。
 尾籠なお話でしたな。
尾籠ついでに言えばもう1つの大きい方に彼は『雲古』と字を当てております。
 おっと、失礼。
何という事を申し上げているのでしょうかね、私は。
 アレ?
あの鈍色というか。ダークなクローム・シルバーの毛並が輝く嗅覚ハウンド系の長頭種。
前から歩いて来るのはセント君ではありませんか。
物凄く久し振りです。
腰椎の骨を剥離骨折してしまったとかで曽布川動物病院に1週間ほど入院していたという風の伝聞でしたが。
こうやって元気に歩く姿を見れるとは、コチラの方も嬉しい慶事ですな。
 セント君は私の姿を認めると嬉しそうにグイグイと紐を引っ張って近付いて来ました。
今年でセント君も4歳になる訳ですし、病み上がりという事もあるので大人しくしているのだ、との想像は良い意味で裏切られました。
私と合えて嬉しいのか、いつもの様に1人でクルクルと回って情動を発露いたします。
その内に感情が抑制できなくなってきたのでしょうか、私の周囲をグルグルと跳び回り始めてしまいました。
彼の家のご主人が握っている伸縮自在のリードを限界点まで一杯に伸ばし切って、私をがんじがらめにし始めました。
ギューギューにリードが絡み付いてきます。
 あー、動けなくなる。
でも、久し振りだから少し懐かしい、というよりも結構、嬉しい。
 私の周囲を13周ほど回ってから、ようやく落ち着きを回復させたセント君と近況報告の交換です。まずはお互いに匂いを嗅ぎ合ってご挨拶です。
『お久し振りですね、セント君』
『お久し振りで御座いもす、ポチさぁ。あなた様に出逢えて、ホンに今日は喜ばしか日になり申した』
『あんなにグルグル回って大丈夫だとは、 もう、お身体の方はよろしいのですか?』
『んにゃ、んにゃ。ホンの軽い骨折でゴワして、な。
家族の衆が、みんな大袈裟なだけで御座いもして。
オイは至って健康でゴワすから。何の心配も御無用で御座いもす』
『そうすると手術の方は成功という訳ですね?』
『ハイィ! 曽布川先生はまっこて腕のよろしか獣医で御座いもすな。手術中に痛みも何も感じること、チクッともありもはんで御座いもした』
『それは何よりでしたね』
『ハイィ!』
『それでは改めまして、これからもよろしくお願い致します』
『ハイィ! こいからもオイのコツ、よろしくお願い致しもす、ポチさぁ』
『お互い健康に気を付けましょうね』
『ハイィ! ポチさぁも気張ってたもんせ』
『おっと、セント君のご主人が先を急ぎたがっているようですね?』
『まっこて、そん通り』
『では、今日はこれで失礼致します。また、明日』
『ほいなら、また明日。またお会いできるコツを楽しみにしておりもす』
 セント君はグイグイとご主人を引っ張りながら暗闇が迫る街の中に消えてゆきました。
しかし相変わらず彼は訛りがキツいですな。
件の曽布川先生、訛りの矯正は出来ないのでしょうか?
全て直せ、とは申しません。
方言というモノは大切なモノ、その人のアイデンティティの核となり得るモノですから。
しかしながら、最低限、彼が何を言っているか、コチラとしても解りたいのですが、ねぇ。
今日も内容的に『これからよろしく』くらいしか理解できませんでしたし・・・
 カナコさんと私は、お馴染の四角くて何も無い公園にやってきました。
日本のドコにでもある、至って平凡な四角い公園です。
あるのは数十本の樹々と数台のベンチだけ。
 カナコさんはいつもの定位置であるベンチ、四角い公園の西側の柵沿いにポツンと1つ離れ小島の様に置かれている木製の何の変哲もないベンチに腰を下ろしました。
いつものように私はカナコさんと向き合う格好で真正面にチョコンと座りました。
これまた、いつもの様に公園内には人影は見当たりませんでした。
 樹々が付ける葉っぱの一群が風に揺らされて、小さな葉擦れの音を立てているだけ。
すっかり暗くなった訳ではありませんが、蒼穹の色が濃度を増して縹色から藍色へと変化してきました。その濃い碧が大気を染め上げて行くので、見上げていると空に落ちて行く様な、そんな眩暈にも似た空間識失調の感覚に陥ります。文字通り『碧落』でございます。
「あ、そうだ。ポチさんにバイトのお土産」
そういってカナコさんはフィールドジャケットのポケットから何かを取り出しました。
「はい、クッキー。イヌ用のヤツね。余ったから工藤さんがポチさんに『持ってけ』って言ってくれたの」と言いながら、そのイヌ用のクッキーを私に差し出しました。
 工藤さんとは口振りから想像するにサチエさんのご友人でカナコさんのアルバイト先のパティスリーの経営を為さっておいでのご夫婦の内の、シェフ・パティシエをされているご主人の方でしょうか?
その工藤さんのパティスリーではイヌやネコ用のお菓子も製造販売しているそうで、たまにこうやって賞味期限切れが近い見切り品などの余り物を、私に御下賜くださいます。
 では、失礼をして、まず匂いを嗅ぎましょうかね。
クンクン・・・
おお、非常に美味そうな匂いでございます。
「コレね、サツマイモが練り込んであるクッキーなんだって。人が食べても美味しいんだ。
作ってる時にチョットだけだけど味見させて貰っちゃった、ハイ、食べてみて」
 え?
すると『お手』や『お替わり』、それに『待て』は無しなのでございましょうか?
それは嬉しい事です。
あんな習慣なんて、ただ単にジレッたいだけですから。
 では、失礼を致しまして、頂きます。
「アッ、ダメだよ、ポチさん! もっとよく噛まないと!」
ソレは出来ない相談でございます。
私はイヌでございますから当然『犬喰い』です。よく噛まずにゴクゴク飲み込んでしまうのは当たり前の行為であって何の不都合もございません。
人間じゃないのだから・・・
 あぁ、美味しゅうございました。
イヤぁ、サツマイモの芳醇な香りが五臓六腑に染み渡ります。
名残惜しいので、ペロペロと口の周りをベロで舐め回します。
満足です、ゲフッ!
「もう、イヤだなぁ、ゲップなんかして」
カナコさんは嫌悪感を全く含まない口調で私をたしなめました。
「ねぇ、見て。空が物凄く綺麗」カナコさんが天を仰ぎながら言いました。
 誘われる様に私も見上げると、蒼穹はその濃度を増し続けていて今や藍色から群青へと変わって行く、まさにその真っ最中でした。
「あのね、ポチさん」
「ハフッ、ハフッ」
「私、こういう空を見上げるといつも思うことがあるんだ」
「ハフッ、ハフッ」
「人はドコから来て、何をして、ドコへ行くんだろ? って」
 ほほう、それは『Eugène-Henri-Paul Gauguin』の作品名でございますな。
私の記憶が確かなら『われわれはどこから来たのか/われわれは何者か/われわれはどこへ行くのか』です。
ボストン美術館の所蔵でございますぞ。
「私ね、人間って何なのか、それを知りたいの」
「ハフッ、ハフッ」
「どうして人間ってこうなのかな、っていつも考えてる」
「ハフッ、ハフッ」
「だから、やっぱり私、脳科学の勉強をしたい」
「ハフッ、ハフッ」
「だから、ね。頑張って高校の勉強、イッパイして・・・」
「ハフッ、ハフッ」
「脳科学が強い大学に入って・・・」
「ハフッ、ハフッ」
「将来、MITのピカワー学習・記憶研究所に入りたいんだ」
「?」
 おそらく『 MIT Picower Institute for Learning and Memory, PILMのことでしょうか?』と、私は推測しました。
「私、アメリカに行く」
 カナコさんはそう断言してから、見上げていた空から視線を降ろし、覆い被さる様に腰を屈めて私の顔を覗き込んだのです。
あぁ、彼女の端麗たる相貌。異種の生物である犬の私ですらこんな近接距離では胸の高ぶりを抑えきれない程です。
ドキドキしてしまいます。
「ね、コレ、秘密だよ」
「?」
「将来、アメリカに行くってこと」
「!」
「私とポチさんの、2人きりの秘密」
「?!?」
「本気の願いって、他人に漏らしちゃダメなんだって」
「ハフッ、ハフッ」
「他言無用ってヤツだね」
「ハフッ、ハフッ」
「でもポチさんはイヌだから、大丈夫だよね」
 そう言って、カナコさんは笑いました。
玲瓏、玉を転がすような朗笑でした。
あぁ、私も莞爾としたい。
カナコさんと呵々笑い合いたいモノです。
 しかし私はイヌ。
口角を上げて笑い顔を真似るのが精一杯でした。
 カナコさんは私の顔を見詰めながら、
「今夜、オリオン座流星群が観られるんだって」と仰いました。
「!」
「でも、出現するのが朝の3時くらいからだっていうし、月が出てて、その明かりが邪魔するからよく観えないって」
「ハフッ、ハフッ」
「だから寝ちゃうと思う」
 その方がよろしいです。
そんな遅くまで起きていたらお肌とかの美容に差し障りが生じますよ。
お若い女性は夜、早く就寝するのが得策なのです。寝付いてから2時間後に成長ホルモンが分泌されるのですから。そのホルモンは身体の成長を促進するばかりではありません。
昼間に身体が受けたダメージを回復させる効能も発揮するのです。
代謝の促進、恒常性の維持、お肌の美容、内臓の健康維持、神経系の調整など、人間に無くてはならないホルモンです。
だから、夜は寝るに限ります。
「ハフッ、ハフッ」
 あぁ、コレを伝えたい。
でも、喋れない。
「ハフッ、ハフッ」
「ポチさん、ヤッパリ寝た方が良いよね」
 カナコさんはそう言いながら独り、コクコクと何度も頷きました。
「ハフッ、ハフッ」
 私が声にならない声で『その方が良いですよ』とそうお答えした時に、
我々が座っているベンチの後ろ、公園の柵の外を南北に走る道路上に1台のクルマが停止しました。
 黒いクルマ、この近所ではあまり見掛けたことがない珍しい車種でした。
停車してから暫くすると国産車ではついぞ聞く事が出来ない重厚な音を発しながら助手席側のドアが開けられました。
そして車内から1人の女性が降りてきました。
 豊かな栗色の髪を蓄えた小さな頭部、その相貌は非常に玲瓏です。
クルーネックの白いTシャツ、ティファニーブルーのショートパンツから伸びる形の良い素足、その足許には灰色のナイキのスニーカー、生成り色のフード付きニット・パーカーに身を包んでおります。衣服がシンプルな構成なだけに、中身の素晴らしさが一層引き立っております。
左脇に、詰め込んだ中身のせいで膨らんだ大きめの、トートバッグでしょうか、灰白色の荷物を抱えております。
「じゃね」と中に声を掛けてドアを閉めようとした時に、ドライバーから呼び止められたのでしょうか、女性は潜り込む様に車内に戻りました。左の片膝をシートに突いて上半身を車内に突っ込むような恰好で、右脚だけを道路に残しています。
結果的につま先立ちになった右脚の脹脛(ふくらはぎ)がスラッと伸びて綺麗な形状を顕わにしています。
 そうして、何分間かが過ぎました。
何事かをし終えたのでしょうか、女性は起き上がり佇まいを正してからドアを閉めました。
 一拍置いてから、静かに発進する黒いクルマ。
女性は自分の魂を渡そうとするようにその去って行くクルマに向って手を振り続けます。
未練を断ち切ることがいかにも辛そうで切なそうな、その表情。
 まるでイタリアかフランスの小洒落た映画のワンシーンを観ているようでした。
イヌの私でさえもウットリ、陶然となる場面でした。
その女性からはとても素敵な印象を受けました、ただ一つの懸念材料を除けば。
 サナコさんでした。
『気付いていなければヨロシイのですが』という希望的観測とともに視線をカナコさんに移すと、
『ありゃッ!』カナコさんは身体を捻って後ろを向いていました。つまり件の場面を真正面から目撃してしまっていた訳です。
 コレは、不味い事態になったのかも知れませんね。
 黒いクルマが去って行った方向を名残惜しそうに暫くの間見詰め続けていたサナコさんは、やがて何かを諦めたかのように『フっ』と1つ息を吐いて、踵を返しコチラ側に歩み始めました。どうやら公園内を突っ切って、最短距離で自宅に戻る目論見のようでございます。
「お姉ちゃん」
 私たちの事などトンと視界に入っておらなかったのか、入っていても認識できていなかったのか、ソコで初めて我々の存在に気付いた御様子で、サナコさんは文字通り『ビクッ!』と身体を震わせながら驚いたのでした。彼女にとっては、まさに青天の霹靂か驚天動地の出来事で、全然予期していなかった方向から突然自分の妹の声が聞こえてきた訳ですから、それは驚愕以外の何物でもなかったでしょう。
 壊れたカラクリ人形を連想させる、非常にぎこちない動きでコチラを向いたサナコさん、
まるで『ギーッ』という潤滑油が切れた音がするかの如くの動作、でした。
振り向いた彼女の顔に浮かんだ表情は『見たくないモノを見なければならない』という『dilemma』つまり心の中の葛藤をズバッと体現化したモノでありました。
「アァッと・・・」我々の存在を視認して、明らかに狼狽えるサナコさん。
『狼狽』という言葉の定義にしたいほど、解り易い態度ですね。
 彼女は一瞬、俯いて『どうしよっか?』とお考えでしたが、
やがて意を決した様に顔を上げて「見てた?」と妹であるカナコさんにお尋ねになりました。
 その言葉を契機として私がサナコさんからカナコさんに視線を移すや否や、タイミングを合わせたかのようにカナコさんがコクンと首肯しながら、
「ウン」とだけお答えに・・・
 その場を取り繕う為だけの照れ笑いを浮かべたサナコさんが苦しい言い訳を始めました。
「送って来てもらったの。パンヘッドのレストアが終わったって荒川さんから昨日の夜に連絡が来て、それで今日細かい調整するっていうから行ったの。で、遠いじゃん、あそこ?
最初は、さ、電車で行く心算だったんだけど、コウ・・・あの人、何か丁度荒川さんに用事があるっていうし、
都合良いから乗せてって貰ったんだよね。
ただ、それだけだから。
送り迎え、して貰っただけだから。
あ、ついで、だよ、ついで。
わざわざ、じゃないし。
ホントに、ただの、ついで!」
「送って来て貰った、誰に?」
「エッと、知り合いの人」
「男の人?」
「そう」サナコさんは、渋々という空気を隠しもせずに、コクンと頷きました。
 今年の初めでした。
サナコさんは一念発起して大型二輪の免許を取得、ソレを機としたのか、大事に為さっておいでだった愛車のSEROW250というオフロード用なのかオンロード用なのか、中々区別をつけづらいオートバイを売却され、その3日後に代わりのオートバイをドコからか引っ張って来たのでございました。
その新しい『オートバイ』は私の眼にはドコからドウ見てもポンコツ、いえ、もっと正確を期すならば、元はオートバイだったが現在は単なるガラクタへと変貌を遂げた、哀れな『残骸』に過ぎませんでした。
 サナコさんが言うには、ソレは1965年製の『FLH Electra Glide』なのだそうですが、シートやライトは言うに及ばず、前後の両タイヤすらも付属していない、エンジンとフレームだけの文字通りの『残骸』でした。
 彼女はガレージの車1台分のスペースを作業場として占領して『レストア開始っ!』という勇ましい掛け声と供に、その『残骸』の修復を始めたのです。ですが、ソコは素人の悲しさ。強固に組み付けられたエンジンをフレームから取り外す事さえ一苦労なのでした。
 修復作業に取りかかった最初の日の晩、サナコさんは私を散歩に連れ出して、この公園のまさにこのベンチで、
「メインテナンス・マニュアルやサービス・マニュアルも無いんだ。作業中は動画をズッと回してるから、バラしちゃっても再組立てだけは何とかなると思うんだけど・・・どうしよう? チャンとできるかな?」と私の顔を覗き込んだのでした。
 何ともなりませんでした。
結局、件のお知り合いの方がご紹介くださった『荒川自動車』という自動車修理工場に、その半分バラし掛けた『残骸』を持ち込んでレストア依頼するという顛末に納まったのでした。
自動車整備工場となっておりますが、そこの整備主任たる六分儀様は元々オートバイからメカ整備のキャリアを始めたのだそうです。六分儀様自身も相当な実践的バイクライダー。
故にライダーやバイクの痛い所にも完璧に気が回る、チョット得難い程の素晴らしい整備士さんだとの事でした。そしてEL、FL、FLHの構造・メカニズムにも造詣が深く、サナコさんの『残骸』のレストア担当者としては最適の人材であるのは、間違いのない所でした。
 その『Harley-Davidson FLH Electra Glide 1965』の一応の修復作業が終了した、との連絡が届いたのが昨夜。
昨晩のお散歩の時にサナコさんが教えて下さったお話しによると、
「六分儀さんって、ホントに丁寧。レストア作業が一応終わったんだけど、私の体格とかライディング技術に合わせて細かいセッティングをしたいから、一度試乗してみてくれって。
普通、そんな事までする?
やっぱり、コウさんの勧めに従っといて良かった。
あー、明日が楽しみ。
コウさんが送ってってくれるって、言ってたし。
荒川さん、こっから少し距離あるし、チョットしたドライブだね」なのだとか。
 一気にそう話すと、サナコさんは本当に嬉しそうに笑ったのでした。
ソレは世界の構成要素を全て溶融する様な拈華微笑でした。
ま、サナコさんの告白を待たずして、あの黒いクルマのドライバーが『コウさん』であること、荒川自動車さんをサナコさんに紹介したのも『コウさん』であること、完全に私の当て推量に過ぎませんが、サナコさんが大型二輪を取得してSEROW250からFLHに乗り換えた原因も『コウさん』なのだ、という事までが明瞭に理解できました。
 こりゃ、厄介な事になるかも知れませんね。
何故なら、件の『コウさん』は去年のお話に出てきた男性、サナコさんがバイト先のネットカフェで知り合ったアラフィフのお客様なのですから。
「アレって、ポルシェ、だよね?」カナコさんがポツッと呟く様に姉に尋ねました。
 一言も発する事無くサナコさんは頷いてその事実を肯定しました。
「実は、さ、前にも見掛けちゃったんだ、あのクルマからお姉ちゃんが降りてくる所。
先月だったかな、バイトの帰りに」姉の顔を真っ直ぐ見詰めながら妹は言いました。
「そう、なんだ」
「お金持ちなんだね、お姉ちゃんの彼氏」
「な、な、な、な、な、な、チョットあんた、何、言ってんの?」
「ポルシェ911、タイプ991後期型カレラGTS。1788万もするんだよね、アレって」
「チョッ・・・」
「高いよね。下手したら家とか買えちゃう値段じゃない?」
「だから・・・?」
「それ、綺麗だね」カナコさんがサナコさんの胸許に視線を移しながら指摘しました。
 サナコさんは自分の首にぶら下がっているペンダントに眼を落として、
「コレ? コレは誕生日のプレゼント。青いからサファイアかと誤解しちゃうでしょ?
違うの。
コレ、サファイアじゃないよ。
何か、違う石だって。
きっと安物じゃない?」と、しどろもどろな話し振りに陥りながらも何とか説明しました。
「凄くキラキラしてる。とってもメタリックな反射光だね」
「そう?」サナコさんが、それなりに満足そうな表情を浮かべました。
 ほんの少し前から点灯をし出した常夜燈のLEDの白色光に照らし出されてエメラルド・カットの様な正方形の宝石が金属味を帯びた青い光線をギラギラと周囲に反射しています。
「ね、お姉ちゃん。ベニトアイトって宝石、知ってる?」
「?」サナコさんの顔に『知らない』という文字が浮上しました。
「アメリカのサンベニト・カウンティってトコにあるディアボロ鉱山で採れる宝石。
ソコでしか採れなかったの」
「・・・採れなかった・・・?」
「そう。もう閉鉱しちゃったの、2007年に」
「閉鉱・・・」
「それって、こんな距離から見ただけだけど、軽く3カラットはありそう」
「だから?」
「ググってみると良いと思う、ベニトアイトがどういう宝石なのかって」
 カナコさんの悪い癖が出始めました。
彼女は怜悧でとても明敏なのですが、それ故か羽生善治のように理路整然と相手を窮地へと追い詰めて行ってしまう傾向が強いのです。
「だから、そのベニトゥ・・・何とかが何?」自然とサナコさんの声のボルテージが上がります。
 あぁ、コチラ側にも悪い兆候が出始めました。
サナコさんは愛嬌があって快活な女性なのですが、直情径行というか、竹を割ったような性格をしており、率直な物言いや直截的な行動を好みます。
一番嫌いなのが重箱の隅から攻めて来るような回りくどい表現方法です。
 サナコさんとカナコさん。
この2人、似ているようで似ていない。
全く違うようでいて、本当は非常に近しくて同じベクトル。
姉妹とは本当に奇妙で興味深い関係でございますな。
 おっと、そんな呑気なことを言っている場合ではないようです。
「だから、何っ?」追い詰められて形勢的には不利なサナコさんが声を荒げます。
「別に」
「言いたいことがあるんだったら、ハッキリ言えば良いじゃん!」
「ポルシェにベニトアイトって・・・」
「だから、何? コウさんがお金持ちだから、私、付き合ってるって言いたいの?」
「そんなコト、言ってない」
「言ってるじゃん」
「言ってないってば」
 あーあー、相手の名前とか、付き合ってるとか、言わなくても良いことまで言っちゃうなんて、サナコさん、本当に興奮してきちゃいました。
どうしましょう?
「じゃあ、言うけどね、コウさん、ホントにお金に無頓着なんだから。
無関心って行ってもいいくらい。
確かに911に乗ってるけど、それは先月注文したR35 NISMOが来年の秋まで納車待ちになっちゃって、『足』が無くて困ってる時に偶然見たサイトで、ポルシェの認定中古車のページに載ってた売れ残りの旧モデル、それを、新古車を買ったの。別に誰かに見せびらかす為に買った訳じゃない。
GT-Rと同じくらい性能が良いクルマを探してたら、たまたま911に出逢っただけなの!
コウさん、普段着てるものはそこらのスーパーで買ったペラッペラッの安物だし、大体さ、私が彼のことを好きになった時に、コウさんが経済的にリッチだなんて考えもしなかったって言うか、全然思いも寄らなかったし、中身が、イケメンって訳じゃない、頭の中身を好きになったの!
チョー優しいし、私の知らないこと、イッパイ知ってるし、ホントに凄い人なの!
ダメ?!?
いけない?!?
パパとそんなに歳違わないオトコの人を、好きになっちゃいけないの?!?」
 サナコさんの、彼氏さんを庇う為の弁明というか擁護というか、本当にそのお人がお好きなのですね。
「私はお姉ちゃんが騙されてるんじゃないかって・・・」
「あの人だったら、騙されてても全然、イイっ!」
 あわわ・・・
言葉のラリーの応酬です。
サナコさんとカナコさんとの言葉のやり取りが交わされる度に、ウィンブルドンの観客のように首を左右に降らねばならないので、これでも、結構忙しいのでございます。
「ねっ! ポチさん! ポチさんだってコウさん、良い人だって思うよね?」
 おっと矛先がこちらに向かってきましたぞ。
これは取り扱い要注意事項です。最重要事項でございます。
 だから、私はサナコさんを見て『フン、フン』と頷きます。
「ポチさん。もうチョット慎重になった方が良いと思わない?」
 カナコさんの方に視線を移すと『ハフ、ハフ』と無音の声を発します。
「ポチさん! 騙してなんか、ないよね?!?」
『フン、フン』
「もう少し、相手の事を知ってからでも良くないかな?」
『ハフ、ハフ』
「お金があるってったって、別に悪い事して稼いだお金じゃないし! だよね、ポチさん!」
『フン、フン』
「人の中身なんて、そんな簡単に解るものじゃないと思うんだよね、どう思う?」
『ハフ、ハフ』
 あー、首が痛い。
右左、右左と首を反復し過ぎなのでございます。
それに先ほど頂いたサツマイモ入りのクッキーの所為でしょうか、妙な具合に下っ腹の方が張ってきました。
「ホラッ! ポチさんだって、イイっていってるじゃん!!!」
「お姉ちゃん、ポチさんは何も言ってないよ」
あー、下腹部の膨満感が・・・
「言ってるよっ! 表情で判るもん!!!」
「イヌの表情筋って、そんなに機能的に優れた物じゃないと思うけど」
 あー、もう無理です。
我慢できません。
すいません、発射致します。
「ブゥウーっ!!!!!」
 あー、スッキリした。
やはり生理現象たる『御鳴羅』を我慢してはいけませんな。
 私の肛門が発した爆裂音によって、サナコさんとカナコさんの間で極限まで張り詰めていた緊張の糸がプツリと鋭敏な音を立てて一気に切れました。
そして緩和の雰囲気と白い沈黙が2人を優しく包み込んだのでした。
しばらく経ってその空気感が静かにその場から退去すると。それまで必死にこらえていたサナコさんの小さな肩が震え出しまして、結局耐え切れずに笑い始めてしまったのです。
誘われる様にカナコさんも笑い始めました。
私は、というと、声を上げて笑うことは叶わないまでも、舌を出して『ハッ! ハッ!』と口角を上げ笑顔(に近いモノ)を浮かべたのでした。
 2人と1匹は、それから結構長い間、笑い続けました。
彼女たちの間に立ち込めていた暗雲は、まさに雲散霧消してしまいました。
 行きと違って、帰り道はサナコさんとカナコさん、そして私の3人旅でございました。
すっかり宵が支配した街をトポトポと2人と1匹で、ユックリ歩いて行くのです。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「何?」
「知ってる?」
「何を?」
「今日、正確に言うと明日だけど、オリオン座流星群が観られるんだよ」
「明日の朝方でしょ?」
「知ってたんだ?」
「さっき、コウさんが教えてくれた」
「ふーん」
「でも、美容と健康の為には早く寝た方が良いって」
 ソレを聞いてカナコさんは少し何かを考えているようでしたが、やがて口を開きました。
「ね」
「何?」
「コウさんって、良い人っぽそうだね」
「何、いきなり?」戸惑いと恥じらいが見え隠れしますがサナコさん、嬉しそうです。
「何となく」
「まぁ、別に良いけど」
「今度、紹介してね」
「何時か、ね」
 カナコさんは空を見上げながら言います。「流れ星、観えないかなぁ?」
「幾らなんでも早過ぎだよ。全然、無理じゃない?」
「性急な、気の早い流れ星がいても全然おかしくないのに、な」
「そんな生き急ぐようなヤツはいないんじゃない?」
 妹に釣られる様にサナコさんも立ち止まって群青色に染まった天を見上げました。
私も、お2人を見習って雲1つ浮かんでいない空を見上げます。
 その時、一筋の青い光跡が大空を真っ二つに切り裂く様にシューッと流れ落ちました。
 お2人は顔を見合せて、
「観た?」サナコさんが訊きました。
「観た」カナコさんが答えました。
「青かったね」
「うん」
「青い流れ星って初めて」
「私も」
「何で、青かったのかな?」
 理数系にお強いカナコさんが推測いたしました。
「炎色反応から言うと、青って何だったっけ? 銅は青緑だし、リンかな?」
「フーン、やっぱりカナは理数、強いね」サナコさんが感心した様な口振りです。
「んー、でもハッキリとは断言できないよ。後でPC使って調べてみる」
「アレ? iPhoneどしたの? 今、持ってないの?」
「家」と答えてから、初めて気付いたようにカナコさんは「お姉ちゃんは?」
「今朝、充電したまま放ったらかし。持ってくの、忘れちゃった」サナコさんが笑いました。
「必要無かったんだ?」
「コウさんといると、全然必要無いの」
「なるほど」
「さ、帰ろ」サナコさんがカナコさんにそう促した後「コウさんなら流れ星、青色の原因知ってるかも」と続けました。そしてソレに取って付け加えた様に「もしかしたら、ポチさんも、知ってるかもね」と笑うと、カナコさんも「そうかも」と同意、笑ったのでした。
 あらあら、私のことをお笑いになりましたね。
ま、イイでしょう。
人間の言葉が喋れない以上、お2人に何らかの情報をお伝えするのは最初っから無理というモノ。
 しかし、知っているかどうかは、伝達可能な手段の保持の如何を問わず、です。
炎色反応で言えば、青色なら『ガリウム』です。
しかし先程観た流れ星の色は、青というよりも藍色に近い。
藍色なら『インジウム』ですな。
 あぁ、そうだ。
先程の私が為した生理現象についての捕捉情報を。
『御鳴羅』と述べましたが、コレも開高健による当て字でございます。
まぁ、全然必要のない無駄な情報でしたな。
 さて、帰りましょう。
 暖かい晩ご飯が待っております。

<了>

ポチさん、再び

ポチさん、再び

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-21

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著作権法内での利用のみを許可します。

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