FAITH

  1. プロローグ
  2. Ⅰ 祭りの夜
  3. Ⅱ 聖地ヌガ
  4. Ⅲ 苦難の始まり
  5. Ⅳ 廃都クレス
  6. Ⅴ 屈辱の宴
  7. VI ナザリアへ
  8. Ⅶ 芽生え
  9. Ⅷ 迷い
  10. Ⅸ 募る想い
  11. Ⅹ 過去
  12. ⅩⅠ 別離
  13. ⅩⅡ 帰還
  14. ⅩⅢ 乗り越えて
  15. ⅩⅣ 消息
  16. ⅩⅤ 武芸大会
  17. ⅩⅥ 再会
  18. ⅩⅦ 宝物庫
  19. ⅩⅧ 変転
  20. ⅩⅨ 乱心の王子
  21. ⅩⅩ 悲嘆の果てに
  22. ⅩⅩⅠ 別々の道
  23. ⅩⅩⅡ 〈大眼石〉
  24. ⅩⅩⅢ クルービア再興

プロローグ

 「ーーークリスティア様、もう少しだけ前にお立ち下さいまし。そこでしたら、お顔がもっとよくご覧になれますよ」

 クリスティアは、乳母が整え直した姿見の前に立ち、批判的な視線で自らの姿を見回した。そこには十七歳のほっそりとした少女の姿があった。ミルク色の肌、薔薇色の頬、肩に溢れる黄金色の髪、魅惑的な青い瞳ーーーどこからどう見ても、文句のつけようのない美しさだ。にも関わらず、その顔色は暗く沈んだものであった。あたかも、重い鉛でも飲み込んでしまったかのように。

 エラと言う名のクリスティアの乳母は、女主人がよく見えるようにと、ダイアモンドの首飾りを背後からその首につけてやった。この見事な逸品はナザリアの王子からの贈り物であり、今宵の宴席で身に付けるようにと命じられていた。まるで白鳥のようなクリスティアの首に、それは燦然と光り輝いており、宴席に呼ばれた高貴な女たちの全てが、これに羨望の眼差しを向けるであろうことは想像に難くない。

 「よくお似合いですこと」

 エラは思わずほうっとため息をもらした。

 「ルーク・パトリウス様は、まことに優れた審美眼をお持ちのようですわ。それにまぁ、このお召し物の美しいことといったら! こんな織り、私はかつて一度も見たことがございません。玉虫色とでも呼びたくなるようなーーークリスティア様の肌の輝きを更に引き立てているようです」

 確かに、薄く繊細な織物で仕立てられた服を身にまとったクリスティアは女神の化身のようだ。実際、クルービア王国の王女であった彼女は、十歳の時に聖地ヌガへ赴き、巫女として神に仕える身であったのだ。
 神殿の奥深くで生涯暮らす彼女の運命を変えたのは、祖国クルービアと大国ナザリアとの間に起こった戦だ。隣国を次々と征服し、領土拡大を狙うナザリアは、アルガ海に臨む美しい古王国クルービアに遂に狙いを定めて、攻め入った。フェウ大陸最強と謳われるナザリア軍を前に、クルービアは為すすべもなく、王都クレスが陥落。王を始め、名だたる武将たちは皆、戦場で命を落とすか、或いは殺され、残された女たちは敵将たちによって異国へと連れ去られた。
 神殿にいたクリスティアら、うら若き巫女たちもまた例外ではない。特に美しいと評判だったクリスティアは、数々の戦功を立てたナザリアの王子ルーク・パトリウスが貰い受けたが、この王子こそクリスティアにとって、この世で最も憎むべき相手であった。何故なら、彼女の愛する人の命を奪ったのが王子だったからだ。彼女の許婚は、戦場でルーク・パトリウスとあいまみえ、激しい戦闘の果てに討ち取られてしまった。

 敗国の王女に逆らう術はない。クリスティアは自分に課された運命を受け入れる他なかった。だが、王子の側で暮らすようになってまだ日は浅いものの、最初に抱いた印象と実際の彼がかなり違っているのことにクリスティアは気付いていた。残忍で猛々しいナザリア王アサルドとは違い、ルーク・パトリウスは寡黙な若者だった。酒豪の父に似ず、酒は殆んど口にしないし、クリスティアの他に女の姿は全くない。彼よりもずっと身分の低い武将たちでさえ、何人もの女たちを手に入れたのに、だ。一日の多くを書斎で過ごし、時折、クリスティアがいることを忘れるのか、屋敷内で彼女と出くわすと、たちまちぎょっとした顔をしてみせる。かと言って、彼女を見下すこともなく、ナザリアの貴婦人に接するのと同様に扱われたし、屋敷内に限れば、自由に出歩くことまで許された。意に添わぬことを強いられたことなど、一度たりともない。それでも、彼に対する嫌悪感がクリスティアの心から消えることはなかった。たとえそれが戦いの場で起きたことだとしても、許婚を殺された恨みは、何があろうとも忘れることなど出来そうにない。

 クリスティアは素っ気なく鏡から目を逸らすと、エラに命じて、樫の木で彫られた小箱を持ってこさせた。その中には、今身に着けているダイアモンドとは比べようもないけれども、大層手の込んだ銀細工の美しい首飾りが納められている。クリスティアは、しばらくの間、じっとそれを見つめていたが、おもむろにそれを手に取るや、エラに向かってこう告げた。

 「やっぱり、ダイアモンドはやめて、こちらを着けることにするわ」

 エラはびっくり仰天して、しばらくの間、物も言えない様子であった。乳母は当然のことながら、銀の首飾りの贈り主が誰なのか知っている。

 「クリスティア様。ですが、それはーーー昔、エルザール様から贈られた物ではございませんか?」

 「えぇ、そうよ」

 クリスティアは、挑むようにエラの方を振り返った。

 「私がヌガへ旅立つ前に、エルザールがくれたものよ。いつか必ず迎えに行くからと、誓いを込めて私の首にかけてくれた」

 「クリスティア様」

 エラは悲痛な思いをこめて、愛する女主人の顔を見た。

 「お気持ちは分かりますが、エルザール様はお亡くなりになりました。そして、今、姫様を庇護しているのはルーク・パトリウス様です。王子からの贈り物を差し置いて、エルザール様の首飾りを着けて宴席に出るなんて、それではあまりにもーーー」

 「あまりにも何? 王子に対して、失礼だって言いたいの?」

 クリスティアは冷ややかに言った。

 「確かに、王子は私に良くしてくれているわ。縄に繋がれて、もう少しで連れていかれそうだったお前を解放し、私の手元に置くことを許してくれたし、私がここで何不自由なく暮らせるよう何かと気遣ってくれている。だけど、あの王子がエルザールを殺した事実に変わりはない。私は一生王子を許さないし、エルザールを忘れることもない。その証なのよ、この首飾りは。私の心は永遠にエルザールのもの。あの王子には決して渡さない」

 クリスティアの声には有無を言わさぬものがあった。エラであっても従わざるを得ず、彼女は恐る恐るダイアモンドを外し、代わって銀の首飾りを女主人の首にかけた。

 ダイアモンドの輝きがなくとも、クリスティアの美しさに変わりない。むしろ、より一層、彼女自身の輝きが増したように見える。さらさらと衣擦れの音を立てながら、彼女は立ち上がる。すらりと背が高く、得も言えぬ威厳に溢れる十七歳とは思えぬその美々しさに、エラも思わず見とれてしまった。

 はっと我に返り、エラは箪笥の奥から白い肩掛けを持ち出した。そして、そっとクリスティアの肩に掛けながら、

 「陽が傾いて参りました。夜は冷えるでしょうから、これをお持ちになって下さいまし」

 「そうね」

 クリスティアは肩掛けをまとい、鏡に背を向けた。これから彼女はナザリアの王宮へ向かわねばならない。宴席に共に出るようにと、滅多にない王子の命令である。どうやら、ナザリア王アサルドのたっての要望らしい。

 かつて一度、似たようなことがあった。王都クレスが陥落し、クレスの王宮に連れて行かれた日のこと。戦に勝ち、我が物顔に振る舞う粗暴な男たちの前に引き出され、本来なら神に捧げる舞を舞うよう強いられたのだった。男たちの好奇の目にさらされたあの日の屈辱を 死ぬまで忘れることはないだろう。

 クリスティアは唇を痛いほど噛み締める。愛する祖国を踏みにじり、家族を恋人を殺したナザリア王とその息子に復讐するまでは、何としても生き延びてやる。そのためならば、どんな苦しみも耐えてみせよう。そう誓ったのだ。あの屈辱の舞いを舞いながら、彼女は天に在る神々に決意にも似た祈りを捧げていた。

 屋敷から一歩外に出たクリスティアの前には、紅い夕焼けが広がっていた。たちまち、彼女は過去へと引き戻される。二千年の歴史ある古王国クルービア、その永遠の都と謳われたクレスの都が陥落し、炎に包まれたあの日の夜にーーー


 

 

 

Ⅰ 祭りの夜

 「ーーー姫様! クリスティア姫様!」

 エラは必死の形相で、女主人の背中を追いかけた。祭りの最中ということもあり、大変な人混みなのだが、当の王女は尻込みすることなく颯爽と歩いていく。本来なら、バルコニーの上から祭りを見物できる身分なのに、何の気まぐれか、民に混じって祭りを見たいと言い出したのだ。

 「だって、せっかく楽しそうなのに。ただお行儀よく座って見てるだけなんて、つまらないじゃないの」

 と、クリスティアは人を虜にせずにはいられない満面の笑みを浮かべてこう言った。

 「今日はお祭りよ。それに、私にとっては当分見納めになるかもしれないのよ。少しぐらい羽目を外したって、誰も文句を言わないわよ。ねぇ、エラってば。お前もそんなしかめっ面していないで、お祭りを楽しみましょうよ」

 「そう言われましても・・・」

 この笑顔に一番弱いのが、エラだった。結局、こうしてはらはらしながら、王女の後を追う羽目になる。我ながら情けないと思うが。

 「姫様、もうそろそろ王宮にお戻りになられては? お姿が見えないことに皆様お気付きになられて、今頃、心配なさっているかもしれませんよ」

 こうエラが提案しても、クリスティアはどこ吹く風と言わんばかり。もう婚約者だっていると言うのに。エルザール様のお耳に入れば、さぞかし呆れられことだろうと、エラは気が気ではない。

 「大丈夫だったら。エルザールがここにいるはずないでしょ? それに、私は仮装しているのよ。私が王女だなんて、誰にも分からないわよ」

 と、クリスティアは自信満々にそう言い張るが、いくら見事な仮装でも、その天真爛漫な愛らしさを隠すのは不可能だ。美人揃いの王女たちの中でも最も美しいと言われ、王と王妃の手中の珠とも言うべきクリスティアは、まだ十三歳ながらに、〈クルービアの宝石〉と詠われる美貌の母をもしのぐ美女になるだろうと、誰もが噂するほどなのだ。春の女神エレに扮した姿が大層よく似合い、見慣れている乳母のエラでさえ惚れ惚れと見とれてしまう。仮面ごときでは、とても彼女の存在を誤魔化せそうにはない。

 「もう十分、見て回ったではありませんか」

 エラが口うるさく繰り返す。

 「いい加減、満足なさいましたでしょう。後生ですから、姫様、王宮に戻りましょう。私、先程からもう足が痛くて痛くてーーー」

 「エラ! エラ! あれを見て!」

 エラの声など耳に入らないクリスティアが、不意に大きな声で叫んだ。

 「まぁ、何て大きな山車なんでしょう! あの素晴らしい金の細工を見てよ。ねぇ、エラ。もっと近くで見て見ましょうよ」

 「いけませんよ。はぐれてしまったら、大変です」

 しかし、クリスティアはエレの手をぎゅっと握って、歩き出そうとしたところだった。

 「姫様、絶対に、私の手を放してはなりませんよ!」

 「えぇ、分かっているわーーー」

 ところが、案の定と言うべきか。人混みに押されて、繋いでいた手を放してしまった。エラは叫んだが、為す術はない。みるみる内に、大切な女主人は人波の向こうへと流されていく。エラの必死の叫びも、もはや届かぬようだ。

 「姫様! 姫様!」

 必死にクリスティアが振り返ろうとするのが見えた。が、それも一瞬のことで、あっという間にその姿はエラの視界から消えてしまった。



 忠実な乳母とはぐれてから、数時間が経っていた。一人になってもめげることなく、クリスティアは祭りを楽しんでいた。心細いと感じる暇もなかった。彼女にとっては、何もかもが新鮮で刺激的だった。幾つも連なる山車を間近で見たり、噴水から涌き出るワインにびっくりしたり、見知らぬ人々の躍りの輪の中に飛び込んでみたりーーー 
 これまで知っていたクリュヌ祭りとは全然違うわ、とクリスティアは心の中で思う。こちらの方が、断然楽しいじゃない。何故、皆は、王宮の堅苦しい催しなんかで満足しているのかしら。
 そうして、エラのことなどすっかり忘れて歩き回っていたが、さすがに歩き疲れて一休みしようと辺りを見回すと、自分の置かれている状況に嫌でも気付かされた。もちろん、祭りは夜通し続くし、どこもかしこも賑わってはいるが、彼女が足を踏み入れてしまった場所は、世間知らずな女の子が一人で歩くにはあまりに物騒なところであった。クリスティアは不安になり、引き返そうと踵を返す。ところが、あの華やかだった世界はどこにも見あたらず、どうやってここにたどり着いたのかも思い出せない有り様だ。

 『どうしよう。あぁ、エラ! エラはどこにいるのかしら?』

 クリスティアは、必死に思い出そうとした。確か、教会の高くそびえる尖塔を見ていた気がする。急いで空を振り仰いでみても、暗い夜空のどこにもそれらしき建物はない。なおもきょろきょろと視線を巡らしていたところ、どしんと何かにぶつかった。どうやら、人らしかった。しかも、運の悪いことに、酒に酔った上に柄の悪そうな連中の中に飛び込んでいた。

 「やぁ、こりゃあまた! 何てぇ、別嬪だ!」

 酒臭い息にクリスティアはゾッとしたが、素早く詫びを述べて、その場を立ち去ろうとした。が、

 「まぁ、待ちな、嬢ちゃん。そう急いで行くことはないだろう」

 「仮面の下の顔も見せとくれ。さぞかし美人なんだろうな」

 「わ・・・私、急いでるの」

 クリスティアは、どうにかしてこの場から逃げ出したかったのだが、男たちはなかなか解放してくれそうにない。

 「クリュヌ祭に女神エレか。こいつぁ、縁起がいい」

 「可愛い女神様に祝福のキスを頂こうじゃないか!」

 無遠慮な手に腕を掴まれ、別の手がクリスティアの仮面を剥がそうとした。悲鳴を上げても誰も気付いてくれそうにない。と、その時ーーー

 「僕の連れに、何か用か?」

 力強い腕が、クリスティアを乱暴な男たちの輪から引き離してくれた。背後にいるため、顔は分からない。が、右手にキラリと光る短剣だけは目に入った。

 「祭りの夜に血を流したくなければ、さっさと向こうへ行け」

 言葉は丁寧だが、何となく凄みを滲ませた声だった。男たちの顔からすっと血の気が引いた。

 「そんなに大事な連れなら、一人にしておくんじゃねぇよ、旦那」

 男たちはそう言い捨てると、よろよろとどこかへ立ち去っていった。彼らの姿が見えなくなるや、金の巻き毛に、端正な顔立ちをした二十歳前後の若者が、振り向いてこう言った。

 「ここで何をしているんです、クリスティア」

 顔を見ずとも、声で誰だか分かったクリスティアだった。クリスティアの幼馴染みで許婚のエルザールだ。

 「あぁ、エルザール!」

 ほっとした瞬間、勝手に涙が溢れてきた。それでも、エルザールは怖い表情を崩そうとせずに、彼女の前で仁王立ちになった。

 「姿が見えないと思ったら、案の定でした。こんな所を一人でふらふら歩いていたら、どんな目に遭うか分からないお年でしょうに。エラはどこにいるのです? 何故、あなたをほったらかしにしているのですか?」

 「エラとはぐれてしまったの。私が悪いのよ。どうしても、街の人たちと祭りを見たいって言い張ったから。エラは何度も帰ろうって言ってたのに」

 すっかり忘れていたエラのことを思い出し、クリスティアは泣きそうになった。きっと今頃、どんなにか心配していることだろう。そう言えば、足が痛いと言っていたっけ。私みたいに悪い連中に絡まれていたら、どうしよう?

 「とにかく、あなたがご無事で何よりです。誘拐でもされたのではないかと、気が気でなかったのですよ。さぁ、王宮に帰りましょう。存分に羽根を伸ばされたのですから。もう満足なさったでしょう?」

 いつも優しいエルザールだが、何故だかひどく冷たく感じられた。実際、彼は不機嫌だった。無理もない、クリスティアの行方を探して何時間も都中を歩き回ったのだ。しかも、そのクリスティアが自分には内緒で、乳母と二人きりで街へ出掛けていたのも更に腹立たしい。クリスティアは間もなくエマルディエ神殿に仕える巫女として、遥かヌガの地へ旅立つことになっており、一緒にいられるのもあと僅かなのだ。言ってくれれば、連れていってあげたのに。これでは、まるで自分がクリスティアに信用されていないようではないか?

 「どうしたんです? また、迷子にでもなるつもりですか?」

 先に歩き出していたエルザールは、なかなか追いついてこないクリスティアを振り返った。ところが、エラのことが心配でならないのと、酔っぱらいの男たちに絡まれた恐怖と、思ってもみないエルザールの刺々しい態度にすっかり参ってしまい、遂にしくしくと泣き出してしまった。

 「泣くことありませんよ、クリスティア」

 そうは言ったものの、エルザールは明らかに後悔している様子だった。泣かせるつもりは全くなかった。困ったように口を真一文字に結んだまま、どうすべきか迷っていたが、やがてクリスティアの手を掴んで歩き出した。

 しばらく沈黙が続いた。しかし、段々とクリスティアが落ち着きを取り戻し、すすり泣きが収まると、エルザールは口調をを和らげて、

 「そんなに行きたかったのですか、クリュヌ祭に?」

 と、尋ねた。

 「えぇ、そうよ。目の前で見てみたかったの。上の方から眺めて見るのではなくて」

 クリスティアは答えた。

 「ほんの少しだけ見たら、すぐ帰るつもりだったのよ。だから、誰にも言わずに出掛けたの。あぁ、きっと今頃、お父様がさぞかし心配なさっていらっしゃるでしょうね」

 「そうですね、陛下は君のことを殊の他大事になさっておいでだから」

 「今回はどんな罰を受けるのかしら。朝から晩まで部屋にとじ込もって、一万回も聖句を唱えなければならないってことにならなければいいんだけど」

 クリスティアは、そう言って身震いした。エルザールはその光景を想像して、思わず吹き出しそうになった。

 「大丈夫。陛下はそんなことをお命じになりませんよ。そうだ、僕があなたを誘って外に連れ出したと言えばいいのです。それならば、あなたがお咎めを受けることはないでしょう?」

 「エルザール。あなたって、優しいのね」

 と、クリスティアは感謝を込めた眼差しでエルザールを見上げた。

 「あなたの気持ちは嬉しいけれど、お父様はそう簡単に誤魔化される方ではなくてよ。第一、エラがお父様の前で嘘をつけるとも思えないし」

 ようやくエルザールがいつもの彼に戻ったのを感じ、クリスティアは親しげに彼の腕に手を回した。

 「ねぇ、覚えてる? あなたが初めて王宮へ来た時のことよ。あなたが十三歳で、私はまだ七歳だったわ」

 「えぇ、もちろん覚えていますとも。あなたの兄上の剣の稽古相手として仕えるよう、陛下に呼ばれた時ですね」

 エルザールはにっこりした。

 「忘れる訳がありません。あの日、広い宮殿で迷子になった僕を 大層愛らしい姫君が親切にも案内してくれました」

 「あの時ね、私、何て素敵な人だろうって、ずっとあなたのこと見ていたのよ」

 クリスティアはくすくすと笑いながら、

 「だから、あなたが困っているのを見たら、もう大急ぎで飛んでいったの。少しでも早く、あなたに話しかけたかったのだもの」

 「僕もとても可愛らしいお方だと思いましたよ」

 と、エルザールは目を細めて、

 「世の中にこんな綺麗な女の子がいるものか、と目を奪われてしまいました。すっかりあがってしまい、どうやって歩いていったのか全く覚えていなくて、帰り際にまたしても迷ってしまったのを 今でも思い出します」

 「あなたが度々王宮へやって来るようになって、私、とても嬉しかったわ。エドアルド兄様と剣の稽古をしているのをしょっちゅう覗きにいって、お兄様に邪魔だと叱られたわね。懲りずに何度でも行っては、またお兄様に怒られて。だけど、私はーーーあの頃からあなたのことが好きだったんだわ」

 そう言ってしまってから、恥ずかしそうに、

 「お父様から、あなたが私の未来の夫になる人だと聞いて、本当に嬉しかった。だけど、あなたはどうなのかしら、エルザール。ほら、私って、まだまだ子どもでしょう? 今日だって、あなたを随分と困らせてしまったし。思ったんだけど、本当はお父様の命令だから断れなくて、仕方なく私を妻に迎えようとしているんじゃないかってーーー」

 「違いますよ」

 エルザールはきっぱりと否定した。

 「確かに、陛下のご命令ではありますけれど、だからと言って、嫌々あなたをめとるのではありませんよ。僕も最初にお会いした時から、あなたのことが好きでした。本当ですよ」

 「でも、夕べ、あなたはイレーネ姉様とずっと二人だけで話していたじゃない」

 「え?」

 エルザールは驚いて、クリスティアの顔を見下ろした。

 「私、知ってるんだから。あなたとイレーネ姉様は、とっても話が合うのよね。年齢だって、私よりも近いし、イレーネ姉様の方があなたの奥様にずっと相応しいんじゃないかしら」

 「何を馬鹿なことを。イレーネ様にはご立派な婚約者がいらっしゃるではありませんか!」

 「えぇ、確かにね。コーリアスはいい人よ。でも、あの人はあなた程にはハンサムじゃないもの。お姉様はね、見た目の麗しい殿方がお好きなの」

 エルザールはどう答えてよいのやら、困りきった様子で黙り込んでしまった。

 「あなたを責めてるんじゃないのよ、エルザール。私はじきにヌガへ行かなければならない身だわ。お勤めが終わるのは何年も先で、それまで、あなたを待たせることになる訳でしょう? 私なんかを待つよりも、イレーネ姉様や他の素晴らしい方を奥様に迎えた方がいいんじゃないかしら。あなたがそうしたいのなら、私からお父様にお願いして、私たちの婚約を無かったことにしてもらっていいのよ」

 「あなたこそ、どう思っているのです?」

 と、エルザールが憮然として聞き返す。

 「僕との婚姻はお嫌ですか? 陛下がお命じになったから、仕方なく受け入れたのですか?」

 「いいえ、そんなことないわ。言ったでしょう、私はあなたが好きなんだって」

 クリスティアは大きく首を振った。

 「あなたのことが大好きだから、私なんかじゃ駄目だと思うのよ。私は考えなしだし、裁縫は下手くそだし、とてもあなたのいい奥様になれそうにないから」

 「僕は、淑やかで手が器用で、ただ美しいだけの妻が欲しいのではない。あなたがよいのです」

 エルザールは、両手でクリスティアの顔を挟み込んだ。

 「何をしでかすか分からない、一緒に暮らせばきっと毎日はらはらし通しでしょうが、そんなあなたを僕は愛しているのですよ」

 「私のことーーー愛しているの?」

 そう言って、恥じらうように頬を赤らめたクリスティアの顔から、エルザールは仮面を取り上げる。

 「えぇ、そうです。知らなかったのですか? 僕はずっとあなたしか見ていなかったのに」

 彼は細長い指先でクリスティアの前髪を掻き上げ、額の真ん中にそっと口づけた。

 「夕べ、イレーネ様と長々と話していたのは、トサンテン鳥についてのことですよ。あなたの姉上は、特別鳥に関してご興味がおありのようですから。それに、イレーネ様はコーリアス様のことを心から慕っておいでです。お疑いなら、直接、姉上に聞いてごらんなさい」

 「トサンテン鳥、ですって?」

 クリスティアは呆然として呟いた。だが、そんな彼女をエルザールは引き寄せ、優しく抱きしめた。

 「これで、ようやく納得しました。あなたが僕を置き去りにして、一人で街に出掛けたのは、僕に対する腹いせだったのですね」

 「ち・・・違うわよ。そんなんじゃないったら」

 反論しようと顔を上げたが、思いがけず間近に彼の顔があって、どきりとしてしまう。

 「まさか、イレーネ様に焼きもちを妬かれるとは思ってもみませんでした。イレーネ様がお聞きになったら、さぞかし面白がられることでしょうね」

 「いやだ、やめてよ。イレーネ姉様には言わないで」

 クリスティアは必死に懇願して、

 「二人が鳥の話をしているなんて、思わなかったのだもの。二人とも、あまりに真剣そうな顔をしていたから。私なんかとても入り込めそうにない雰囲気で」

 「それでは、お約束下さいますか? イレーネ様に言わない代わりに、二度と婚約破棄など言い出さないと」

 「言わないわ。あなたを疑ったりして悪かったわ。もう、お姉様のことで当てこすったりしない。約束する」

 「本当ですか?」

 「本当よ」

 クリスティアは伸び上がり、エルザールの首に腕を回すと、いかにも無邪気な子どもらしい仲直りのキスをした。ところが、エルザールの方はもっと大胆なキスを返したので、クリスティアはびっくりしてうつむいてしまった。

 「さぁ、せっかくの祭りの夜に、仲違いは止しましょう。これ以上、あなたと気まずくなりたくはありませんから」

 気を取りなすようにそう言って、エルザールはクリスティアの手を取り、再び歩き出した。クリスティアはと言うと、心臓がどきどきしてなかなか顔を上げることが出来ない。しばらく歩き続け、丁度  川にかかる  橋の上に差し掛かったその時、突然、耳をつんざくような大きな音がした。

 「エルザール、見て、花火よ!」

 それは、王宮の庭園で打ち上げられた花火だった。人々が一斉に空を見上げる。クリスティアとエルザールも立ち止まり、皆と同じように空を眺めた。エルザールの方はと言えば、花火そのものよりも、瞳を輝かせて花火に見入るクリスティアにばかり視線が向いているのだけれども。

 「早く帰ってきて下さい、クリスティア」

 彼は背後から腕を回し、クリスティアの耳元で囁いた。

 「もちろん、あなたがヌガから戻るまで、僕はいつまでも待っています。ですが、一日でも一刻でも早く、戻って来てください。そんなにも長くあなたの顔を見れないなんて、とても耐えられそうにありませんから」

 王都を発つまであとひと月もないと言うのに、ほとんど何の実感のなかったクリスティアだったが、この時不意に、もうすぐ自分は生まれ育った王宮を出ていくのだと思い知り、愕然とした。大好きな父と母、可愛がってくれた三人の兄たちと二人の姉たち、心配性の乳母エラーーーこれまで、当たり前のように身近にいた人たちと別れなければならない。そして、何よりもエルザールーーー彼女の初恋の人で許婚、この人とも会えないのだ。エマルディエ神殿に隠る巫女は、短くても三年は俗世との縁を断たねばならないのだから。

 「もう見ることはないのだわ。この都も、あなたも」

 エルザールの顔を指先でたどり、クリスティアはぽつりと呟いた。

 「また見れますとも、三年経てば。次の水晶月の乙女たちと入れ替わる時、あなたはまた王都へ戻ってこれますよ」

 だが、心の奥底のどこかで、不吉に蠢く何かをクリスティアは感じとっていた。予感めいたその感覚は、彼女にこう告げていた。"お前はこのままの都を再び見ることはないし、このままのこの男と再び会うことはないだろう"と。

 振り向き様にエルザールの首にすがり付き、彼女はこう呟いていた。

 「私、どこにも行きたくない。お父様やお母様、私の家族と離れたくない。それから、あなたとも」

 と、唇を震わせながら、

 「嫌よ、そんなの絶対に。あなたと離れ離れになるなんて、絶対に嫌」

 「クリスティア?」

 急に取り乱すクリスティアに、戸惑いつつもエルザールは優しく微笑んで、

 「大丈夫、あなたは強い人です。我々クルービア人にとって、神々への奉仕がいかに大切なものか、あなただってご存じのはずだ。ヌガへ行くことは、大変栄誉なことなのですよ。あなたなら、どんな困難があっても必ず乗り越えられますとも」

 「私を待っていてくれる? 三年過ぎて、私が都に戻ってきたら、あなたはここで私を出迎えてくれる?」

 クリスティアの真剣な青い眼差しが、エルザールの青銅色の目をひたと見つめる。

 「約束して。こんな風に笑って、私を迎えて。あなたの姿を見たら、私は真っ直ぐに駆け寄って、あなたを抱きしめるから」

 「えぇ、約束します。この地であなたを待っています。ヌガの神々の全てに誓って、僕は永遠にあなただけのものです、クリスティア」

 エルザールに引き寄せられて、クリスティアは彼の肩に顔を埋めた。今夜ほど彼が身近に、その一方で遠くに感じたことはなかった。花火の音が止み、周囲の人々が散り散りになっても、二人は離れなかった。


 

 
 

 

 



 

 

 
 


 

 

 

 

Ⅱ 聖地ヌガ

 クリスティアが生まれたのは、クルービア王国で最も意味あるヌガ暦の水晶月の夜だった。

 神託により、生まれくる王女は、既にエマルディエの神殿の巫女となることが定められていた。王の娘と言えども、神託に逆らうことは出来ない。十三歳を迎えれば、王都クレスから遠く離れた聖地ヌガへと旅立だねばならぬ運命なのであった。

 クルービア王と王妃には、三人の王子と三人の王女がいるが、中でも末娘のクリスティアは両親に最も愛された王女だった。一際目を引く美少女で、年頃になったなら、さぞかし求婚者たちが列を成すだろうと誰もが噂するほどだ。それ故、予め分かっていたとは言えども、いざ出発が近付くとなると、王や王妃はおろか、都中の人々が悲嘆に暮れた。エマルディエ神殿は戒律が特に厳しいことで有名で、一度その任に就けば、新たな巫女たちが選ばれるまで外界へ出ることが許されない。その間、世俗との接触は一切断たねばならず、両親は長い月日、娘の顔を見ることはおろかその消息を知ることすら叶わないのだ。

 「ヌガへ行ったら、クレスへは帰れないの?」

 その事実を最初に知った時、クリスティアは驚きの余りにエラにこう詰め寄ったものだ。

 「お父様やお母様にも会えないの? お兄様たちや、妹たちとも?」

 「えぇ、そうです、姫様」

 涙を拭いながら、エラは答えた。

 「大変、辛いことですが、ヌガでは太古からの厳しい掟が今も守られています。エマルディエ神殿で神に奉仕する間は、俗世との縁は断たねばならないのです」

 「エルザールとも別れなければならないの? 私が大人になったら、私は彼のお嫁さんになるのでしょう?」

 「姫様は、これから神の花嫁となられるのです。クレスにお戻りになるまでは、エルザール様の花嫁になれません」

 クリスティアは、両手で口を覆った。みるみる内に、その大きな青の瞳から大粒の涙が溢れ出す。

 「そんなの嫌!」

 と、当時まだ十歳の王女は激しく頭を振った。

 「だって、お父様がお決めになったことよ。お父様はクルービアの王様よ。国で一番偉い方なのでしょう? お父様がお許しにならないわ。私をそんな遠いヌガへ行かせるなんてことーーー」

 「神託なのですから、たとえ陛下でも従わなければなりません」

 クリスティアの涙を見て、更に激しく泣きながらエラは、

 「エマルデ神の思し召しには、一国の王とて逆らうことは出来ないのです。さもなくば恐ろしい厄災が、王国を襲うことになるでしょうから」

 クリスティアはわっと泣き出し、部屋から飛び出した。自分にそんな運命が課せられていたとは、夢にも思わなかった。神託が何かの間違いでありますようにと、幾度祈ったことだろう。しかし、覆されることは遂になかった。十三歳になったこの年、クリュヌ祭も終わって都が平穏な日常を取り戻したその日、クリスティアはとうとうヌガへ向かう馬車に乗り込んだ。

 この愛らしい姫の姿を目に焼き付ようと、大勢の人たちが王宮の前に集った。その観衆の中で、王と王妃、そして兄姉たちが涙ながらに別れを告げる。王はさすがに人前では泣かなかったが、王妃の方は夫ほどには冷静でいられなかった。涙をこぼし、いつまでもいつまでもクリスティアの手を放そうとはしなかった。

 「お母様、そろそろ馬車を出発させないと、クリスティアは平原で夜を明かすことになりますわ」

 長姉のアリアナが、そっと母の手を取る。その姉の頬にも涙の筋が光っていたのだが。

 「分かっています。あぁ、でも、この子の顔をこれから何年も見れないと思うと! とても、手を放す気になれないのですよ」

 それでも、最後には王妃もその手を放した。クリスティアは兄姉たちと別れの口づけを交わし、最後にエラの方を見た。離れたところで控えるエラは、涙で目が曇り、もうクリスティアの姿も見えない有り様だ。

 『やっぱり、エルザールは来ていないわ』

 見送る人々の中に、エルザールの顔はどこにも見あたらない。彼とは既に二日前には別れの言葉を交わしていて、見送りには来ないで欲しいと、クリスティアの方から頼んだのだ。彼の顔を見れば、どんなに強い心でいても、ヌガへ向かう決心が揺らいでしまいそうな気がしたから。

 『彼は私との約束を守ったのよ。もう十分、あの人と別れを惜しんだんだし。これで良かったんだわ』

 クリスティアは見送りに来た人々に最後の別れを告げ、皆の健康を気遣い祝福を願う口上を述べた後、馬車に乗り込んだ。道中、王女の世話を任されたデルダ夫人が、そのすぐ後に続き、ようやく馬車が走り出した。王女の馬車の後ろを 神殿に献上する金銀を詰め込んだ三台の馬車が粛々と従っていく。大通りの沿道にも、手を振り、歓声を上げて〈クレスの宝〉である王女を一目見るため、市民たちが大勢詰めかけていた。

 やがて、その人垣も、十三年間暮らした王宮も遠くなっていき、遂には美しい石造りの都そのものも、幻のこどく遥か彼方に霞んでしまった。

 馬車が城門をくぐり抜け、ごつごつとした粗っぽい道を進み始めてだいぶん経った頃、後ろの方から誰かの叫ぶ声が聞こえてきた。最初に気付いたのはデルダ夫人で、窓から外を窺うと、驚きの声を上げた。

 「まぁ、あれは! テュドル家のエルザール様ではありませんか!」

 すぐさま腰を上げて、クリスティアも窓に近寄った。見ると、全速力で馬を走らせ、クリスティアの乗る馬車に追いすがるエルザールの姿があった。彼女は直ぐに御者に止まるよう命じて、そして外に向かって身を乗り出した。

 「エルザール!」

 追い付いたエルザールは、馬上から手を差し出した。クリスティアがその手を取ると、彼は銀色の首飾りを彼女に押しつけた。

  「これをお渡ししたくて」

 エルザールは、を弾ませながら、にっこりと微笑んだ。突然のことにクリスティアは驚きつつも、最後にエルザールの顔を見れたのは、素直に嬉しかった。

 「これは、何なの?」

 「これは亡くなった母のものです。代々のテュドル家の女主人に受け継がれてきました。本当は、あなたがヌガからお戻りになった時にお渡しするつもりでしたが、どうしても今あなたに贈りたくなったのです」

  クリスティアは、自分の手の中にある首飾りをまじまじと見つめた。複雑な模様で縁取られたその輝きは、どんな宝石にも劣らぬ見事な美しさを伴っている。

 「私が貰っていいの? 私はまだテュドル家の女主人ではないのよ?」

 「いいえ、もうあなたのものですよ。あなたが次にクレスへ戻られたら、我々はすぐに式を挙げるのですから」

 と、エルザールは溢れんばかりの想いを込めて、旅立つ許嫁の顔を見つめた。

  「どうか僕の心と共に、ヌガへ持っていらして下さい。そして、時々はこれを見て、僕のことを思い出して下さい。それをお願いにきました。あなたとの約束を破ってしまいましたが」

 「いいえ、いいのよ。私も、もう一度、あなたの顔を見たかったのだもの」

 クリスティアはどうにか涙を押し込めつつ、笑顔を見せようと必死になっていた。

 「来てくれてありがとう。大切なお母様の形見を私に託してありがとう。大事にするわ。いつもあなたのことを思っているわ。あぁ、エルザール。私、あなたを愛しているわ」

 クリスティアはエルザールの頭を引き寄せ、その唇にキスをした。一瞬、時が止まったような気がした。しかし、一陣の風が吹き抜けた瞬間、"時"は彼らの味方ではないことを 二人は思い知るのであった。

 「さぁ、行ってください、クリスティア。これ以上、あなたを引き留めるようなことはいたしません」

 そう言って、エルザールは名残惜しげに彼女の頬から手を離した。

 「あの約束を忘れないで。僕は聖なるクレスの都で、あなたの帰りを待っています。それまで、どうかお元気で」

 「えぇ、エルザール。あなたも、元気でね」

 エルザールが馬を後退させると、馬車は再び走り出した。エルザールはその後もずっとそこに留まっていて、クリスティアも見える限りは窓から彼の姿を追い続けた。いつしか、雲と大地の境に消えて見えなくなったが、クリスティアの目にはいつまでもエルザールの顔が焼き付いていた。そして、それは例え彼女が過去を全て忘れた時であっても、決して消え去ることはなかったのだ。

 



 懐かしい都、愛する家族、愛する人ーーー
全てを胸に刻んで、クリスティアはヌガへ向かった。聖地ヌガは馬車で何日もかけて行かねば辿り着けない、ウィレン山脈の麓にある。清々しい森にくるまれたドーム型の白亜の建物こそが、創造神エマルデを祀るエマルディエ神殿だ。

 クルービアの神話では、この地こそエマルデ神が天界より降臨した場だと伝わっている。世界を造り終えた創造神は、この地に自らの右眼を残し、天界へ帰っていったのだと言う。その右眼は〈大眼石〉と呼ばれ、今もこの神殿の奥深くに眠っているのだった。伝説では、〈大眼石〉がこの地にある限り、クルービアは永遠に栄えることになっている。けれども、〈大眼石〉が天界に帰ってしまえば、クルービアの栄華は終わりを告げる。それ故、太古より〈大眼石〉が天界に帰ることのないよう守ってきたのが、水晶月の乙女たちと呼ばれる巫女たちだ。ヌガ暦でいう水晶月という特別な日に生まれた女児たちの中で、神託によって特に定められた者だけが、十三歳を迎えるとこのエマルディエ神殿に集められた。
 
 クリスティアの他五十人近い少女たちが、この度新たに巫女として神殿に仕えることになった。出自はそれこそ様々で、高貴な身分の者もいれば、名も無き羊飼いの娘もいる。しかし、ここでは身分の上下に関わりない。同じ衣を着、同じ物を食べ、同じように神への勤めを果す。神官らの指示のもとに毎日が規則正しく訪れ、そして規則正しく過ぎていくだけだ。

 着いたばかりの頃は、故郷思い、涙で枕を濡らたクリスティアも、ひと月もするとすっかり忘れた。朝晩に飲む特別な薬酒が、少女たちから過去の記憶を消し去る役目を果たしていたのだが、あれほど身を切るように辛かった別れの数々も、白い霞の彼方へと遠ざけられて、もはや何の感傷もその胸に呼び起こさない。

 それでも、ほんの時たま、胸を掻きむしられるような何とも言い難い感覚に襲われることがある。そんな時、彼女はこっそりベッドを抜け出し、外へと向かう。青白い月が浮かぶ中、彼女が行く先は森の中のとある木の前だ。根元の辺りに小さなくぼみがあり、そこに隠している品々が心の平安を取り戻す助けになっているのだった。丁寧に折り畳んだ美しい織物、髪飾りに細々とした小物、それから銀細工の首飾りを一つ一つ胸に抱きしめる。それらは全て、クリスティアが神殿に着いた翌日にここに隠したのだが、隠した行為は覚えていても、これらがどんな意味を持つものだったのか、今では何も思い出せない。

 「何て綺麗な物ばかりなんでしょう」

 クリスティアはそれらを飽きずに眺めては、うっとりとそう呟く。

 「特に、この首飾りは素晴らしいわ。一体、誰の持ち物だったのかしらね。とても大切にされていたものに違いないけれど」

 気が済むまで眺めると、また元通りに木の根元に納めて部屋へ戻っていった。こんなことがありながらも、ヌガでの日々は淡々と過ぎていく。


 いつしか時は過ぎ行き、クリスティアがヌガへ来てから三年が経とうとしていた。約束の三年が近付いているというのに、新たな乙女たちたちの選任は為されず、相変わらず静かな祈りの日々が続いていた。とは言え、過去の記憶を失っているクリスティアには、この静かな暮らしが全てであったが。時折、生来の旺盛な好奇心が疼くことはあるものの、厳格な決まり事に背くこともなくーーーせいぜい、夜中に森を彷徨うくらいでーーー調和に満ちたてはいるが、完全に閉ざされたこの世界にすっかり染まりきっていた。

 そう、あの夜まではーーー

 その晩、またしてもあの胸の苦しみに襲われて、クリスティアは眠れなかった。そして、いつものように部屋を抜け出し、森へと向かった。いつも通り、月の光の下で例の品々を眺め、最後に銀の首飾りを首にかけた時だ。黒々とした人影が、八人ほど森の奧へと歩いていく姿を見た。

 「あれはーーー神官様たちだわ」

 こんな夜更けに、どこへ行っているのだろう?
不思議に思うが、森の奧へは限られた者しか入れない神域だ。当然、クリスティアは足を踏み入れることなど許されていない。

 クリスティアは膝の上に散らばった品々を革部袋に戻し、いつもの様に木のくぼみに押し込んだ。そして、神官たちに気付かれる前に、その場を後にしようとした。ところが、歩き始めてから、まだ銀の首飾りを着けたままであることを思い出し、慌てて引き返す。木の前で首飾りを外そうとしたのだが、大きく手が震えてなかなか外すことができない。

 訳の分からない衝動に駆られ、彼女の足はどういう訳だか森の奥へと引き寄せられていく。そちらへ行ってはならないと、心では分かっていながら、足は勝手に動いていた。神官たちは奧へ奧へと進んでいき、ともすると見失ってしまいそうだが、クリスティアの足はしっかり彼らの跡を追っていた。どのくらい歩いたのだろうか、急に頭上の枝が途絶え、ぽっかりと広い空間が現れた。

 八人の神官たちがぐるりと取り囲んだのは、巨大な石だ。真ん中には大きな丸い穴があいていて、鏡のように光輝く何かが広がっていた。神官たちはその中を覗き込み、中にあるものについてだろう、しばらく激しい論争を戦わせていた。それは何時間にも渡って続けられ、茂みに隠れていたクリスティアがうっかり寝てしまうほど、延々と繰り返された。

 はっとうたた寝から覚めたクリスティアは、神官たちの姿が消えているのに驚いた。永遠に続きそうだったあの話し合いは、いつ終わってしまったのだろうか? しかしながら、これ以上ここにい続ける理由もないため、引き返す決意をした。この場を離れる前に、神官たちが見ていたものとは何だったのだろうと、興味を覚えたクリスティアはそっと巨石の中央を覗き込んだ。

 するとーーー
 

 

 

Ⅲ 苦難の始まり

 鏡のように見えたのは、清らかな水であった。
 頭上に浮かぶ明るい月がくっきりと映っている。触れなければ水とは思えない。涙がこぼれそうになるくらいに静寂に満ちて、そして清らかであった。

 圧倒的な静寂に畏れをなして、彼女は後ずさる。この場に自分など相応しくないと悟ったクリスティアは、すぐさま踵を返し立ち去ろうとした。ところが、体を動かした途端、例の首飾りがちりりと小さな音をたてたのだ。その音が、一瞬にして静寂を破り、すさまじい怒号、馬のいななき、悲痛な叫び、その他諸々入り交じった音が水盤の奥から響いてきた。びっくりしたクリスティアは思わず、中を覗いた。そこに先程の月影はどこにもなく、代わりに激しい戦闘を繰り広げる戦士の姿が映りこんでいる。

 「この人はーーー」

 何故、戦士が映っているのかよりも、その人物の顔にひどく惹き付けられた。戦士のことなど知っているはずもないのに、どうしても目が離せない。秀でた額に縮れた金髪がぐるりと取り囲み、青銅色の目をしたその青年は、まだほとんど若いといってもよい年齢だ。細身の彼は、自分よりも一回り大きい異国の戦士と一騎討ちで戦っていて、善戦はしているが、ひどく体力を消耗しているように見えた。

 激しく打ち込まれても、しかし、怯むことなく敵に立ち向かっていく。体は泥にまみれ、その前髪は血と汗で額に張り付き、足もすでによろめいていたが、彼の目の光に諦めなど微塵もない。けれども、相手の異国の戦士は、徐々に間合いを詰め、その青年を追い込んでいく。それを見守るクリスティアは、段々と息苦しさを覚えてきた。

 私には何の関わりのない人。なのに、何故、こんなにも苦しいのだろう?

 青年が崩れ落ちそうになる度に、クリスティアはたまらず悲鳴を上げる。駄目、この人を死なせてはならない。だって、この人は・・・この人はーーー

 どうしても彼を救いたくて、クリスティアは思わず水の中に手を伸ばす。その瞬間、ものすごい力が彼女の腕を水の中へと引き込んだ。ほんの瞬き一つの間に、彼女は水盤の中の戦場の真っ只中に立ち尽くしていた。あちこちで、目を覆わんばかりの激しい戦闘か繰り広げられている中、彼女が真っ先に向かったのは、つい先程見守っていたあの青年の元だった。

 「クリスティア!」

 何故かその青年は、彼女の顔を見るなり、そう叫んだ。どうして私の名を知っているのかと疑問に思うより早く、クリスティアは青年の前に駆けつけた。

 「どうして、君がここに?」

 信じられないと言わんばかりの表情で、彼は呟いた。

 「ここは、戦場だ。君のいる場所じゃない。早く、逃げろ!」

 背後にいたため、敵の戦士はクリスティアの存在に気付いていない。逃げるならば今しかないが、彼女は逃げなかった。代わりに、青年と相手の戦士の間に滑り込み、青年を守るように立ちはだかったのだが、既に戦士は剣を振りかざしていて、あっと叫ぶ間もなく、クリスティアの左胸を突き刺していた。

 「クリスティア!」

 突然現れた少女の姿に、敵の戦士も驚きを隠せない。だが、手を止めようにも、止めるには遅すぎた。剣が深々とその胸に突き刺さったまま、少女の体は大地へと滑り落ちていく。首に巻いた銀の首飾りがちりりと鳴って、彼女は仰向けに倒れ伏した。

 「クリスティア! クリスティア!」

 絶叫する青年の声を聞きながら、彼女はエルザールと呟いた。そう、この人はエルザールだ。ずっと彼のことを忘れていただなんて。あんなに大好きだった私の許婚なのに。クレスの都、お父様とお母様、乳母のエラに三人のお兄様たち、二人のお姉様たち。あぁ、愛しいこれらの全てを忘れ、私は一体何をしていたのだろうか。

 だが、白い霧が彼女を覆い隠し、その体はエルザールの腕の中からもするり消え失せた。次にはっと目を見開くと、クリスティアを見下ろしているのは、愛するエルザールではなく、八人の神官たちの険しい顔であった。

 「気が付いたか」

 一同の中でも最も威厳あるマデリオスが、真っ先に口を開いた。エマルディエ神殿で最も高位の神官だ。クリスティアがごわごわと体を起こす。彼女が横たわっていたのは、あの大きな水盤の前ではない。森の外の固い地面の上で、神官たちがぐるりと彼女を囲むように立っていた。

 「お前は、あそこで何を見たのだ?」

 矢のように鋭いその言葉に、クリスティアは我知らず震えた。

 「あ・・・争いを、戦を見ました。戦場で、クルービアの戦士が異国の戦士と闘っていました。クルービアの戦士が命を落としそうになって、それで私はーーー」

 「その者の命を救ったのだな」

 マデリオスは、冷たくクリスティアの言葉を遮った。

 「人の分際でありながら、生死を司る    の領域に勝手に踏み入るとは、何という冒涜であろう。お前はただの巫女であり、あの神域に入る資格すらないというのに。お前のしたことは、針の穴ほどの些細なことかもしれぬが、その穴はやがて大きくなり、いつかこの国全てをも飲み込んでしまうだろう」

 「私は、あの人を救いたかっただけ」

 クリスティアは震えながらも、そう言った。

 「目の前に愛する人がいて、その人の命が危うい時に、どうして黙って見ていられるでしょうか」

 「お前は自分自身の力ではなく、〈大眼石〉の力を用いてそれを行ったのだ。一度、調和が崩れれば、全てが歪になる。世界の力の均衡は崩れ、乱世の時代が訪れる。お前の行為は、クルービアを滅亡に導くことになるのだ」

 「め・・・滅亡?」

 何故、エルザールを救ったことが、クルービアを滅ぼすことになるのだろう? 第一、外の世界はどうなっていのだ? どうしてエルザールが戦場にいたのだ? 自分がクレスを発った時には、戦の影などどこにも見当たらなかったのに。

 「何が起きているのです? 王都はどうなっているのですか? 私の両親、クルービアの王と王妃は、無事なのですか?」

 しかし、神官たちはクリスティアのその問に、誰も何も答えようとはしない。

 「この者をいかがいたしましょう? 禁忌を犯した者です。見過ごす訳には参りますまい」

 「とは言え、クルービア王の娘ですぞ。さすがに極刑には出来ぬでしょう」

 「王とは言えども、神の領域に口出しは許されぬ」

 「〈大眼石〉を操ることの出来る娘ならば、この先役に立つ日がくるかもしれません」

 八人の神官らは、口々に思うことを言い合い、なかなか結論には至らない。そうした中で、最後にマデリオスがこう言って、皆を黙らせた。

 「この者のことは、エマルデ神に託すとしよう。全ては神のみ心のままに。とりあえずは反省部屋に連れていくがよい。沙汰が決まるまでは、如何なる罰も与えてはならぬ」

 と。クリスティアは、はっと首に手をやった。あの首飾りがないことに気付いたのだ。

 「首飾りを返して下さい。あれは、私のものです」

 マデリオスは、じろりとクリスティアを見た。

 「言いつけに背き、お前はあれを隠し持っていたな?」

 「隠していたことは謝ります。ですが、あれは私にとって、命よりも大切なものです。お願いです、お返し下さい。あなたには、私からあれを取り上げる権利などないはずです」

 たが、マデリオスは首を振っただけで、返してはくれなかった。ただちに比較的若い神官二人が、両脇からクリスティアの腕を捕らえて、反省部屋と呼ばれる懲罰房のある建物の屋根裏へと連れていった。

 寒々しいその部屋には、簡易なベッドと小さな椅子が一脚あるだけだ。天井に明かりとりの小窓がついているだけで、薄暗いことこの上ない。かびの生えた壁、剥き出しの冷たい石の床、体にまとわりつくようなひんやりとした空気。質素な生活に慣れ切っているクリスティアにとっても、この部屋は想像を絶するものに相違ない。

 だが、部屋の恐ろしさより、あの首飾りを失ったことの方が耐え難かった。エルザールが馬で追いかけてきてまで、私に託してくれたものだったのに。彼の母親の形見であり、代々のテュドルの女たちに伝わる大事な品を取り上げられてしまった。これではエルザールに顔向けが出来ない。

 「あぁ、エルザール!」

 彼はどうなったのだろう? 私は本当に彼を救えたのだろうか? 見れば、体のどこを見渡しても、剣を受けた傷跡などない。実はあれはただの幻で、彼は異国の戦士に殺されてしまったのではなかろうか? あぁ、だがもしそうならば、神官たちが私に対してここまで怒る理由にならないはずだ。

 きっとエルザールは生きている。だからこそ、神官たちは私を罰し、この牢獄に入れたのだ。彼が無事ならば、死ぬまでここで暮らしたっていい。例え二度と会えなくても、彼が生きていてくれるなら、禁忌を犯した甲斐があるというものだ。

 食事はきちんと運ばれた。だが、外界との繋がりは、天井の窓だけ。時々聞こえてくる鳥のさえずりが唯一の慰めだ。朝晩の薬酒を飲まなくなってからは、過去の記憶がはっきりと甦ってきた。何もすることはなくても、愛する人々の顔を心に思い浮かべて、この果てしない孤独から何とか自分を保とうとした。

 どのくらい月日が経ったのか、もはや何も分からない。一向に沙汰が決まる様子もなく、ただ淡々と時だけが過ぎていく。規則正しく運ばれる食事がなければ、完全に忘れ去られたものと思っただろう。実際には一年もの間、そこに閉じ込められていたのだが、時の観念などないも同然で、彼女は天窓から差し込む光だけを頼りに、寝たり起きたりを繰り返していた。そんなある夜、クリスティアは夢を見た。森が大きく震える夢だった。雷鳴が轟き、森の生き物たちは恐怖に怯え戦き、人々は天を仰いで悲痛な叫びで喉を枯らす。クリスティアは、水盤で見た戦場の光景を思い出していた。恐ろしい予感に震えながら、暗闇の中で目を開く。



 そんなある日、久々に扉が開いた。マデリオスが入ってきた。その顔は、驚くほど疲れ切っていた。あの威厳ある物腰もどこへやら、彼は見るからに萎びた老人そのものだった。クリスティアは、のろのろとベッドから身を起こして、彼と向き合う。遂にこの時が来たのだーーーむしろ、遅すぎたくらいだが。

 「恐れていたことが起きてしまった」

 マデリオスの声はしわがれ、ほとんど聞き取れそうにない。

 「あぁ、〈大眼石〉の力が失われてしまった。我々が守り続けてきた調和はついに崩れ去ったのだ。見よ、ナザール族の蛮人どもが、〈大眼石〉を差し出せと神殿の前で喚き散らしている。この聖なる森が、今しも奴等の汚らわしき敵の足で踏み荒らされんばかりだ」

 虚ろな目でひたすら見つめるクリスティア。マデリオスの声がますます激昂したものとなっても、彼女の表情は少しも変わることはない。

 「聞くがよい、娘よ。王都クレスは陥落した」

マデリオスは、ほとんど顔が触れんばかりに顔を寄せて、こう言った。

 「わしの言うことが聞こえているか? ナザールの蛮族の王は王都を焼き払った。クルービア王と王子は殺され、王妃と二人の王女は自害した。家を焼き出された哀れな民は、縄に繋がれて遠い異国へと連れ去られていく。よいか、これがお前が犯した罪の結果なのだ」

 「ク・・・クレスが陥落?」

 それでも、まだ言葉の意味が飲み込めない。麗しき永遠の都クレスーーーヌガへ発つ前の最後の聖クリュヌ祭の日に歩き回ったあの街が、絢爛豪華な山車が練り歩いたあの街路が。幸福に光り輝く人々の顔、子供たちのはしゃいだ声、エルザールと見上げた花火ーーーあれら全てが喪われたと言うのか?

 「仰ることが分かりません。クレスが陥落する訳がありません。神の祝福を受けたクレスが、クルービアが滅びるなどと。何故なら、〈大眼石〉がーーー」

 「〈大眼石〉が天に還らぬ限り、クルービアの流れは止むことはなかった。しかし、マトルデーズの泉は渇れ果てた。大河マトファーズは、もはやなんの恩恵も我々に与えてはくれぬ。〈大眼石〉から神力は喪われ、残るのはただの石ころのみだ」

 「王と王子は殺され、王妃と王女は自害ーーー?」

 クリスティアは呆然と繰り返す。未だ言葉の意味が理解出来ないまま、何度も何度も噛み締めるように。

 「王と王妃ーーー私のお父様とお母様のこと? エドアルド兄様、アドラン兄様、コリン兄様が死んだ? セアラ姉様とイレーネ姉様はーーー」

 はっとした表情で、クリスティアは口に手を当てた。

 「嘘よ! そんなはずがない。私は信じない、クレスがナザリアの手に落ちただなんて! お父様とお母様がーーー!」

 「娘よ、嘘ではない。全ては真実だ。信じられぬのなら、あれを見るがよい。神聖なる森を前に陣を張るナザール族どもの一団を」

 マデリオスは、クリスティアの腕を掴むや、引きずるように小屋から連れ出し、見張り台から下を見下ろさせた。かなりの数の異国の兵たちが、いつでもこちらへ乗り込めるよう待機しているのが見える。

 「さぁ、これで信じるか? 奴等はこの神殿に捧げられた全ての財宝を引き渡せと言う。無論、〈大眼石〉もだ。拒めば、木々を一本残らず切り倒した上に火をかけ、全てを焼き尽くすと。聖域を我らの血で汚し、建物の礎までも破壊し尽くしてやろうと、こう言うのだ」

 マデリオスの暗い目に、怒りの炎が立ち上る。

 「〈大眼石〉は、今や何の力も持たぬ。奴等に財宝と共に持たせよう。だが、聖なる森と聖域は守らねばならぬ。いつか再び〈大眼石〉に力が宿る日のために」

 と、クリスティアの顎をがしりと掴み、無理矢理上向かせ、

 「娘よ、お前は〈大眼石〉と共にアサルドの元へ行け。そして、いつの日か石を奪い返し、この地に取り戻すのだ。マトルデーズの泉に水が湧き、大河マトファーズが豊かな流れとなれば、クルービアは甦る。不死鳥のように」
 


 

Ⅳ 廃都クレス

 「私に、どうしろと?」

 マデリオスの炎のような視線をまともに受けて、クリスティアは弱々しく問い返す。老人とは思えない力に、彼女は身動ぎすることも出来ない。

 「ナザールどもは、巫女たちをも引き渡せと言う。特に、容貌優れた者を二十人選び出せと。ナザリア王アサルドに献上されるのであろうな、〈大眼石〉に添えて」

 クリスティアはぞっとして、

 「わ・・・私を その二十人の一人にするつもりですか? アサルド王のものになれと、そう仰るのですか?」

 「アサルドは美女に目がないと聞く。幸い、お前は美しい。王に気に入られれば、〈大眼石〉をお前にくれるやもしれぬ」

 マデリオスの声に容赦はない、そして憐れみなど微塵もない。

 「お前が乱した調和は、お前の手によって正さなければならぬ。これこそが、お前に下されたエマルデの御意思。クレスへ行け、娘よ。美々しく着飾り、媚びを売り、せいぜいアサルドの心を捕らえるがよい」

 見張り台を降り、久々に神殿内へ足を踏み入れる。とある一室には、既に選び出された十九人の少女たちが集められ、先の見えぬ不安に皆、脅え震えていた。宝物庫から運び出された目も眩む金銀財宝が、次々とナザリア兵の手に渡っていく。馬の背に、馬車の荷台に、それらは山のように積み上げられ、連なる列は永遠に続くかと思われるほどた。


 クリスティアを含む二十人の少女たちも、戦利品同様、幌付きの馬車に乗せられた。王への献上品ゆえに、狼藉を働かれることなく、極めて丁寧な扱いを受けたが、少女たちは一様に頭をうなだれて、話をする者など誰もいない。クリスティアもまた、押し黙ったまま膝を抱えて、馬車の揺れに身を任せるばかり。他の少女たち同様に、迫りくる恐るべき運命に戦いていた。

ナザリア王アサルドーーー猛々しいナザール族の長。その名の下に数えきれないほどの街が廃墟と化し、敗れさった王たちの首で城門は所狭しと飾られていると聞く。そのような男に、全てを委ねなければならぬのか。栄えあるクルービアの王女であり、聖なるエマルディエの巫女でもあるこの私に、かつて蛮族と聞く揶揄されたナザリアの王の妾妻になれと?

 三年ぶりに見る都クレスは、見るも無惨な姿を曝していた。城壁は崩れ落ち、どの石造りの建物も炎に焼かれて黒く煤けている。道のあちこちには誰とも知れぬ死体が転がり、鳥や野犬に食いちぎられて、死臭が辺り一面を漂い尽くしていた。ナザリア兵の他には、生きている人間は見当たらなかった。辛うじて死を免れた者たちの多くは捕らわれて、異国へと連れていかれるからだ。彼らには過酷な使役が待っていて、祖国を遠く離れた見知らぬ土地で生涯を終える運命が定められていたのだ。

 血のように紅い夕焼けに浮かび上がったその光景を目にするや、クリスティアの目から涙が溢れた。それまで実感のなかった祖国の破滅が、真実だったのだとようやく悟った。城門にずらりと並ぶ敗者の首の中には、見知った顔のものが幾つもあって、彼女は堪らずに嗚咽を洩らす。敬愛する父、勇敢な長兄エドアルド、優しい末兄コリンーーー次兄アドランと許婚のエルザールのものは見なかったが、恐らく彼らも同じ末路をたどったに違いなかった。自決したという母と姉たちの遺体はどうなったのだろう。一目でよいから会いたかった。どのような姿でも構わない、皆を抱きしめ、そして彼らの遺体を先祖の眠る神殿に埋葬してやりたいと心から願った。

 壮麗なクレスの王宮は、それほど損なわれてはいないが、深い悲しみに包まれているかのようだった。略奪の痕がそこかしこに残り、価値あるものは全て剥ぎ取られ、剥き出しの壁と廊下がその凄まじさを物語っていた。王宮に連れて来られた二十人の少女たちは、略奪によって掻き集められたであろう衣装の山から好きなものを選び、着替えるようにと、異国風の顔立ちの女に命じられた。異国の女は三人いて、どの女も暗い顔をしており、ただ黙々と少女たちの着替えを手伝っている。

 しかし、クリスティアはとても着飾る気になどなれない。とりわけ、亡くなった父と兄たちの顔を見た後ではなおさらだ。彼女が着替えを拒むと、異国の女の一人が怖い顔をした。アサルド王の前に出るには相応しくない身なりだと言っているようだが、クリスティアは一切無視した。

 『誰が、こんなものを着るものですか! クルービアを滅ぼした男の為になんか。虫酸が走る』

 ーーー美々しく着飾り、媚びを売り、せいぜい王の心を捕らえるがよい。

 神官マデリオスの冷たい声が、心の中に甦る。そう、私がここに来たのは、奪われた〈大眼石〉をヌガに持ち帰るため。今は喪われている力が再びマトルデーズに充ち溢れるその時に、あれが必要となるからだ。あぁ、だが、アサルドは仇だ。愛する家族を冷たい骸にした男に媚びを売れとは、何と酷い言葉であろう? いっそ、あの男を殺せと言ってくれたならよかった。どんな手を使ってでもあの男の息の根を止め、そして、私も死ねるのに。

 


 聖地ヌガよりもたらせれた財宝の数々は、ナザリア王アサルドを大層喜ばせた。ことに、クルービアの秘宝とも言うべき〈大眼石〉には、アサルドは滅多に見ないほどに満悦であった。

 「見よ、ルーク・パトリウス」

 アサルドは傍らに息子を呼び、恭しく差し出された黄金の箱を自分の代わりに受け取らせた。

 「これが、クルービアに伝わる創造神エマルデの右目、〈大眼石〉なのだそうだ。〈大いなる眼〉と言う割には、随分と小さな代物ではないか?」

 王が豪快に笑うと、周囲の武将たちも大声で笑ってそれに続いた。王子ルーク・パトリウスだけは、にこりともせず、その貴重な石に視線を落としていた。

 「クルービアの言い伝えによると、〈大眼石〉は、その大半が地中に埋もれているそうです。それ故に、これはそれのほんの一部分に過ぎぬのでしょう」

 「クルービアの言い伝えにやけに詳しいのだな、ルークよ」

 アサルドはそう言ったが、大して気にも留めてなさそうだった。

 「わしは言い伝えなど信じてはおらんがな。ましてや、異国の神の遺物など。一体、そんな石ころにどんな力があると言うのだ? クルービアは、我らがナザリア軍の前にひとたまりもなく滅び去ったではないか。千年の栄華など、塵のごとく呆気なくな」

 アサルドは手で合図をして、〈大眼石〉の箱を下げるよう従者に言いつけた。ルークの手から再び箱を受け取った従者は、既に乗せきれないほどうずた高く積み上がった宝の山に、それを置いた。ここにあるものは、各々の働きに応じて、後程王と武将たちの間で分配されることになっていた。

 荘厳な〈王の間〉には、大きな食卓が幾つも運び込まれて、山盛りの料理と酒樽で一杯だ。亡きクルービア王がこれを見たなら、さそがし嘆きの声を上げただろう。それと言うのも、ナザール族の男たちは、美しく磨かれた大理石の床の上に食べ物がこぼれようが、酒を垂れ流そうが、全くお構いなしなのだ。二年続いた戦が勝利で終わり、どの武将たちも羽目を外して憚らず、酒宴はひたすら騒々しいばかりだ。ただ一人、王太子ルーク・パトリウスだけは覚めた目で、醜態を曝す男たちを眺めていたが。

 二十歳を過ぎたばかりのルーク・パトリウスは、ナザール族らしい屈強な体を持ちながら、見た目は父に似ず、端正な顔立ちをしていた。絹のような艶やかな黒髪に、黒曜石のような黒い目をしており、いつも物憂げな表情を浮かべている。アサルド始め、ここに集う武将たちが皆、豪快に飲み食いし、奴隷女を側に侍らしているのに、彼は殆ど皿に手をつけず、杯に酒を満たす女もいない。王太子でありながら、未だ妃も迎えておらず、それがアサルドの大きな悩みの種となっていた。

 王太子ルーク・パトリウスを生んだ王妃は、既にこの世にない。妾妃の数は数知れず、生まれた庶子も山ほどいるが、嫡出の息子はルークの他になく、また王も彼以外の子に王国を継がす気は毛頭なかった。これまでにも散々、縁談を勧めてきたが、王太子は全く見向きもしない。いくら王国を拡げても、それを受け継ぐ後継者がなければ、全くの無意味だ。我が儘を大目に見てもよい時期はとっくに過ぎたのだと、アサルドは横目で息子を見ながら考えた。アルト王国の王女などはどうだろう? 確かまだ未婚の姫がいたはずだが。北の大国アルトと手を結ぶのも悪くはない。時折、国境を越えてくるイドゥークへの抑止力となるだろうから。

 だがーーー

 この王子の潔癖さときたら! 我が子とは思えないほどだ。いくら若い妃を迎えたとしても、これでは世継ぎなど望むべくもない。もしや何かの呪いではと、心配になった王は一度密かに調べさせたことがある。だが、結局、何も分からず、時だけが無為に過ぎていった。王子が成人してかなり経っており、いつまでも独り身でいる訳にもいかぬ。ともかく結果がどうあれ、妃は迎えねばならない。都に帰還したら、すぐにも縁談を進めることとしよう。

 「それで、ヌガからの持ち帰った土産はこれで全てか? ドリアンテよ」

 「いいえ、陛下」

 ヌガへと軍を率いていたドリアンテは、勿体ぶった様子で頭を下げた。

 「もちろん、まだございますとも。エマルディエ神殿に仕える巫女、とりわけ見目麗しき乙女たちを二十人ばかり連れて参りました」

 「ほう」

 たちまち興味を示したナザリアの王は、下卑た笑みを浮かべた。ドリアンテは小声で付け加える。

 「しかも、その中にクルービアの王女がおります、陛下」


 「美男美女で名高いクルービア王家の姫か。それはぜひとも、この目で見たいものだ。何しろ、この王宮に乗り込んだ時には、王妃と二人の王女は既に冷たい骸となって床に横たわっていたのだからな」

 すぐさま、二十人の少女たちが広間の中央に引き出された。色とりどりの衣装を着た中で、一人汚れた格好のクリスティアは、一際目立つ存在であった。アサルドは他の者には目もくれず、真っ先に彼女を見た。まるで吸い付いたように、その視線は彼女の体から離れなかった。

 「クルービアの王女とは、そなたか?」

 その場にいた者全てが息を呑む。が、クリスティアは無言のまま、声の主を見返した。
 
 「なるほど。このわしを怖がりもせずに、まともに見返すとは、やはりそなたが王女だな」

 それでも、微動だにしない。アサルドはなおもクリスティアを見つめていたが、突然、こんなことを言い出した。

 「丁度よい。そなたらここで舞を舞え」

 困惑げに、少女たちは顔を見合わせる。何を命じられたのか、すぐには呑み込めない様子であった。が、

 「宴の余興に、そなたらの舞を見てみたい。さぞかし、蝶のこどくに美しいであろう」

 そう言われてかっとなったクリスティアは、思わずこう言い返していた。

 「私たちは、エマルデ神に仕える巫女。私たちの舞は神々に捧げるものであり、人に見せるものではない。無論、酒の余興で舞うなどもっての他」

 「そうか。だが、わしは見たいと思う」

 アサルドは薄く笑って、

 「そなたの目の前にいるのは誰だ? クレスは焼け落ち、王は死に、エマルデ神の秘宝はこの手にある。そなたらの神とやらは、クルービアの民を見捨て、この地を去ったのだ。そなたらが舞を捧げるに相応しいのは、今、このわしの他にはあるまい? 違うか?」

 「いいえ」

 クリスティアは語気を強めて、

 「私たちは、宴会に招かれた踊り子ではない。思い上がるな、ナザリアの王よ。神々は、一度、この地を去ったが、再び戻って来られる。その時、お前たちは、聖なる都を汚した罪に恐れ戦き、地に伏して神々に赦しを請うであろう」

 「そなたらの神に興味はない。ただ舞を見たい。それだけだ」

 と、アサルドは突然、傍らにいた奴隷女の首根っこを掴んで、顎の下に短剣を突きつけた。あまりのことに、クリスティアは呆然として叫んだ。

 「な・・・何をするの!」

 「そなたらが舞わぬなら、代わりにこの女を神に捧げよう」

 アサルドが、にやりと笑った。

 「そこにいる二十人、それと同じ数だけの奴隷女を生け贄にする。そなたの父親が座したこの〈玉座の間〉を血の海で満たしてやろう。それでもよいのか、クルービアの王女よ」
 

 



 

Ⅴ 屈辱の宴

 アサルドの腕の下で、奴隷女がガタガタと震えているのが見える。クリスティアは拳を握りしめる。訴えるようなその哀れな目を見てしまったなら、とても見捨てることなど出来そうにない。

 「やめて」 

 クリスティアは声を振り絞るようにして訴えた。

 「その人を放しなさい。人の命を犠牲にしてまで、お前の要求を拒絶するつもりはない」

 「そうか。ならば、この女を手にかけるのは止すとしよう」

 と、あっさりと、アサルドは奴隷女を解放した。

 「血を見るのには、もう厭きた。我らの心と体に纏いつく血の臭いを そなたらの清らかな舞で浄めたい。舞うがよい、エマルディエの汚れなき巫女たちよ。わしの心を慰めることが出来たなら、何でも欲しいものを褒美として与えてやろう」

 鈴を持って来させたクリスティアは、それを合図に舞い始めた。周りの少女たちも、すぐに彼女に続く。彼女たちの静かな舞は、ナザリアの荒々しい男たちの心を たちまちに捉えてしまったようだ。皆、口をあんぐりと開けて、食い入るように彼女たちの一挙手一頭足を見つめている。すっかり見惚れていたのだが、しかし、長くなるにつれて次第に飽きてきたのだろう、突如、真ん中に座っていた男が椅子を蹴って立ち上がった。

 男はずかずかと歩み寄り、最も手近にいた少女の腕を掴んだ。それを待ってたかのように、他の男たちも次々に少女たちを捕らえていく。静謐な躍りの輪は一気に崩れ、クリスティアは悲鳴と混乱の中、ただ一人取り残されていた。アサルド王を憚って、誰も高貴なクルービア王女には手を伸ばそうとしなかったのだ。

 ところが、この場で最も大酒を喰らい、今の今まで寝ていた大男が、むっくりと起き出して、何事かと辺りを見回した。そして、立ちすくんでいるクリスティアに目を留めるや、大股で近付いていき、彼女の衣にその巨大な手をかけた。

 と、同時に、アサルドの隣の席にいた王太子が食卓の上を飛び越え、大男を殴り飛ばす。素早くマントで彼女の体を包み込み、険しい表情で父王を見るや、

 「父上! このような騒ぎを何故、お許しになるのです?」

 ルーク・パトリウスの顔は、滅多に見せない怒りのせいで、真っ赤に染まっていた。

 「皆をお止め下さい。我々は勝利したのです。これ以上、弱き立場の者を苦しめずともよいでしょう」

 アサルドはじろりと息子を見、それからよく通る声でこう命じた。

 「やめよ! 我が息子が、お前たちの品の無い行為にほとほと呆れ返っているぞ。楽しみたくば、部屋に戻るがいい。ただし、ここでは行儀よく飯でも喰らえ。我が息子の顔を立ててな」

 王の命令に、男たちの騒ぎは一気に静まった。が、クリスティアは恐ろしさの余り、声も出ない。震える彼女の肩に手を置き、ルーク・パトリウスは小声で囁いた。

 「よく堪えたな。心配するな、誰もそなたには指一本触れさせぬ」

 それでも、クリスティアの震えは止まらなかった。ナザリア王子の支えがなければ、足に力が入らず、とても立っていられそうにない。

 「その娘が気に入ったか、息子よ」

 じっと様子を見ていたアサルドが、顎の下の髭を掻きながらこう言った

 「珍しいこともあるものだ。これまでいかなる女にも興味を示さなかったお前が、その娘を庇うのか。よかろう、クルービアの王女はお前に任せよう。お前の好きにするがよい」

 ルーク・パトリウスは顔色一つ変えずに、軽く頭を垂れた。彼はすぐさま従僕を呼びつけ、何事か指示し、それからクリスティアの蒼白の顔を見下ろした。

 「部屋へ行き、休むがいい。ラザに案内させよう」

 王子に代わって、殆ど少年といってもよい年若さの男がクリスティアの腕を取り、ようやくこの狂乱の場から引き離された。彼女の受けた衝撃はあまりに大きく、自分がどのようにして歩いていていったのか全く分からない有り様だ。生まれ育った王宮でありながら、そこに見知った光景は何もなく、まるで異国の王宮にでもやって来たような心地であった。ところが、ラザに案内されて入った部屋は略奪された形跡がどこにもなく、全く昔のままの姿を保っていたので、クリスティアははっと我に返り、思わず叫んでいた。

 「ここはーーーエドアルド兄様の部屋だわ!」

 長兄エドアルドの部屋には、よく姉たちと一緒にこっそり潜り込んだものだった。弟妹たちの面倒をよく見てくれた優しい兄を驚かせたくて、物陰に隠れて兄の足音が聞こえてくるのを どきどきしながら待っていたのを思い出す。あぁ、エドアルド! 誰からも敬われ慕われていた未来のクルービア王は、祖国を守ろうとして死んだ。その首は無惨に城門に晒されて、今は虚ろな顔で無念さを訴えているだけだ。

 胸が苦しくなり、クリスティアは喉元を押さえたまま立ち尽くす。いつの間にかやって来た異国人の女たちが、彼女の体からマントと引きちぎれた衣を取り上げる。そして、濡れた布で彼女の体を拭き、全身に香油を塗りつけた。清潔な夜着を着せられ、乱れた髪は艶が出るまで櫛けずられて、クリスティアはまたしても部屋に一人になった。最後に女たちが灯していった蝋燭からは、甘やかで濃厚な薫りが漂ってきて、徐々に部屋の中を満たしていく。

 クリスティアは懐かしい思い出の残る部屋を歩き回った。豪華な模様の絨毯、神話を映し出すタペストリー、何度も潜り込んだ大きな机。そして、続き部屋の寝室に足を踏み入れ、そこにある大きな寝台を目にした瞬間、彼女はある重大なことに思い当たった。ここはエドアルドの部屋ではない、ナザリア王子の部屋だ、と。

 部屋が全く荒らされていないのは、あの王子がここを使っているからだ。クリスティアは全身が総毛立つのを覚えた。そう言えば、ナザリア王は最後にこう言っていなかったか? クルービアの王女はお前に任せる、好きにしろと。

 クリスティアは踵を返すと、寝室を飛び出し、まっすぐに部屋の扉へ向かった。だが、彼女が戸口にたどり着く前に、誰かがやって来た。ルーク・パトリウスだ。

 「どうしたのだ?」

 突然現れたクリスティアに、彼は驚きを隠せなかった。が、彼女が夜着姿なのに気付くや否や、気まずげに視線を逸らした。

 「駄目だ。外へ出てならぬ」

 ルーク・パトリウスはクリスティアの腕を捕らえ、外へ飛び出ようとする彼女の行く手を阻んだ。しかし、クリスティアは有らん限りの力を振り絞り、彼から逃れようとした。

 「放して!」

 相手はナザリアの屈指な武人である。当然のことながら、力で敵うはずもない。手を焼いたルーク・パトリウスは、軽々と彼女の体をすくい上げて寝台へと運んでいった。

 「頼むから、私の話を聞いてくれ」

 クリスティアを寝台の上に下ろして、彼は話をしようとしたのだが、彼女はまだ獣のように暴れていた。仕方なく、彼は仰向けに彼女を押さえつけた。

 「私の話を聞いてくれ」

 もう一度、ルーク・パトリウスは繰り返す。

 「よいか。朝までは、ここを出てはならない。私がそなたを気に入らなかったと父上が思われたら、父上はそなたを他の男に与えてしまう。そうなれば、もはやそなたを守ることは出来ぬし、そなたは更に悲惨な目に遭わされるであろう。私はそなたに意に添わぬことを強いるつもりはないし、そなたが望まぬのに同じ床に入る気もない。亡き母の名にかけて誓う。それ故、私の言葉に従ってくれ」

 クリスティアはなおも激しく逆らい続けたのだが、さすがに最後には力尽きた。彼女は真っ直ぐにルーク・パトリウスの顔を見上げた。と、思ってもみない言葉が、彼女の口から飛び出した。

 「他の者たちはどうなった?」

 たちまち、ルーク・パトリウスは大きく目を見開いた。

 「教えて、私と一緒にいた彼女たちはどうなったの? 私を助けるのなら、あの娘たちも助けて。エマルディエ神殿で、共に過ごしてきた者たちよ。彼女たちを飢えた狼のような男どもに渡さないで」

 「それは無理だ。私に救えるのは、そなた一人だけだ」

 ルーク・パトリウスは、わずかに顔を歪めた。

 「皆、命を懸けて戦い抜いた。そんな彼らにとって、あの娘たちは当然手に入れてしかるべき褒賞だ。私にそれを奪う権利はない」

 クリスティアは唇を噛んだ。必死に涙をこらえようとしたが、涙は勝手に溢れで彼女の頬を濡らした。

 「ならば、私にも同じようにして。私を獰猛な狼の餌食にして。皆が受ける恐ろしい運命を私一人だけが逃れるなんて、そんなことは出来ない」

 ルーク・パトリウスは首を振った。

 「駄目だ」

 「何故? あなたはアサルドの息子なのでしょう? あの冷酷で残忍なナザリア王の」

 王子は穴のあくほどクリスティアの目を見つめた。彼女もまた彼の目を見返した。王子の黒曜石の眼差しが一瞬だけ、彼女の深紅の薔薇のような唇上をかすめた。だが、彼は動物の毛皮で出来た掛布を彼女の上に掛けた。あたかも母親が幼子にするように、彼女の体を優しくくるんでやり、

 「とにかく、今宵はここで寝てくれ。私は隣の部屋で寝る」

 と、それだけ言い残して、背を向けた。


 ルーク・パトリウスが立ち去った後も、涙が止まらなかった。父の顔が、兄の顔が、脳裏から離れない。そして、悲痛な少女たちの叫び声が、ナザールの男たちの粗野な笑い声が、耳の奥に何度もこだまする。クリスティアは、思わず両腕で我が身を掻き抱いた。今も、この王宮のどこかで残酷な狂宴は続いているのだ。そう思うと、激しい無力感が彼女を襲う。クルービアの王女でありながら、それを止める力もなく、ただ無力に寝台の上で横たわっていることしか出来ないなんて!

 深夜が過ぎても、夜明けが近付いても、クリスティアは寝付けなかった。誓い通り、ナザリアの王子は彼女の寝台に近寄らず、朝方になってようやく少しだけ眠りに落ちた。目覚めた時には、円卓の上に山盛りの果物と水で薄めた果実酒が置かれていて、空腹を覚えたクリスティアは、それらを貪るように食べた。思えば、ここ数日、ろくに食べていなかったのだ。

 その後、例の異国人の女たちがまたやって来て、クリスティアの服を取り替えた。王子からの伝言だと言って、昼間も部屋から出ないよう念を押された。どうやら、彼は既にここにいないらしかった。一日を兄の部屋にこもって過ごしたが、手付かずの家具から、兄の持ち物だったものや書き付けた紙などが出てきて、またもや涙が込み上げてくる。夜になると豪華な食事が運ばれ、その後には前の晩同様、異国人の女たちの手で夜着に着替えさせられた。昨夜は余裕がなくて全く気付かなかったのだが、思った以上の夜着の薄さに愕然とする。しかも、異国人の女たちは羽織り一つ置いていかなかったので、ただただ途方に暮れる他なかった。

 深夜近くになって、ようやくルーク・パトリウスが姿を見せた。クリスティアの恥じらいと困惑の表情に気付き、急いでマントを掛けた。寒くないかと問われて、彼女は首を振る。そして、互いにどうしてよいやら分からぬままに、顔を背けた。

 「出立が決まった。七日後だ」

 ルーク・パトリウスが、手短かに説明した

 「ナザリアへ帰る。王都ユマ・ディータまでは、恐らくひと月はかかるだろう」

 「私も一緒に行くの?」

 分かりきっていたことだが、クリスティアは敢えてそう尋ねた。

 「それはもちろん、そうだ。そなたは私のーーー捕虜なのだから」

 捕虜ーーー

 だが、彼女には自由を取り戻すだけの身代金を払ってくれる身内はもういない。生きるも死ぬも全ては目の前にいる王子の心一つで決まり、彼の気紛れによってはいとも簡単に他人の手に渡る。流す涙も枯れ果てて、運命に抗う気力などとうに消え失せていた。どのみち、この地のどこにも、自分を受け入れてくれる人も場所もありはしないのだから。

 クリスティアが消え入るような声で呟いた。

 「全て、あなたの指図のままに」

 「言っておくが」

 ルーク・パトリウスが、躊躇いがちに遮る。

 「捕虜とは言っても、それは表向きだけのことだ。私と二人でいる時には、何も遠慮することはない。そのように、私に対してへりくだる必要などない。言いたいことを言ってよいのだ」

 「あなたに言いたいことなんてありません」

 しかし、クリスティアの答えは随分と素っ気ないものだった。

 「私はあなたの命令に従うだけ。何も望まないし、何も求めない。そういうものでしょう、捕虜なんて」

はっとしたように顔を上げたルーク・パトリウスに、彼女は抑揚のない声で言った。

「お命じ下さい。私は何をすればよいのでしょう」

 


 

 

VI ナザリアへ

 どこか苦悩に満ちた悲しげな色が、ルーク・パトリウスの顔を過ぎる。クリスティアは奇妙な心地がした。あのアサルド王の息子ならば、一も二もなく彼女の自尊心を引き裂き、足元にひれ伏させると思っていた。ところが、この王子はアサルドの傲慢さなど一欠片も持ち合わせてないどころか、むしろ彼女の身を案じ、気遣ってさえいるのだ。王子の真意が分からず、クリスティアが混乱するのも無理はない。

 「そなたが、私のためにすることは何もない」

 静かな口調で、ルーク・パトリウスは繰り返した。

 「私の顔色を窺い、機嫌を取る必要もない。普段のそなたのままに振る舞うがいい。そなたが何をしようと、私は決して咎めはしない」

 「何故?」

  反射的に、そうクリスティアは聞き返していた。

  「何故、私に何も命令しないの? 他のナザールの男たちがするように、私を屈伏させようと思わないの?」

 「思わぬ」

 と、これだけはきっぱり言い切った。

 「私は戦場で多くのクルービア兵を斬った。彼らが流す苦痛と嘆きの涙を嫌と言うほど見てきた。そして、戦いは終わったのだ。全てを喪った者たちから、これ以上一体何を奪えと言うのだ」

 そして、ナザリアの王子は背を向けた。

 「私の帰りを待つ必要などない。寝たい時に寝て、起きたい時に起きればいい。欲しいものがあれば、下女たちに言ってくれ。そなたの望むものを持たせよう」

 それだけ言い残して、彼は今夜もまた次の間に向かっていった。

 おかしな人だと、クリスティアは思った。祖国クルービアを滅ぼしたナザリアの王子、きっと彼の手で何百ものクルービアの兵が殺されたことだろう。にも関わらず、どうしても彼が恐ろしい人だとは思えないのだ。アサルド王や他の武将たちのことは、こんなにも激しく憎悪を覚えるのに。約束を違えることなく、彼は決してクリスティアに触れなかったし、またナザール族の男たちの下卑な手からも守ってくれた。彼のことをどう考えてよいやら分からないまま、クレスとの別れの時が近付いてくる。



 クルービア中から集められた貴重な財宝の品々が、何台にも渡る馬車に積み上げられ、今はもう出発の合図を待つばかりだ。前日には、亡き兄の部屋からも次々と家財道具が持ち出されてしまい、最後の夜などは、ほぼ何もない部屋の中で夜明けを待った。

 クリスティアには専用の馬車が用意された。恐る恐る外を見ると、財宝を積んだ馬車がずらりと連なる以外に、縄に繋がれ、裸足で歩く人々の姿もあちこちで見られた。皆、一様にうなだれ、汚れきっている。この先彼らを待つ運命を思うと、言葉にならない思いで胸が塞がりそうだ。どうしてやることも出来ない自分の無力さに、ただただうちひしがれつつ、哀れな集団から目を背けようとした次の瞬間、列の一番最後に見知った顔を見た。

 「え? あれはーーーエラ? まぁ、エラだわ!」

 髪は乱れ、背中を丸めて、足を引き摺ってはいても、懐かしい乳母の顔を見間違える訳がない。クリスティアは、馬に乗って先を行くルーク・パトリウスを慌てて呼び止め、エラを連れて来て欲しいと懇願した。

 「お願いです、あそこに私の乳母がいるのです。一言だけでいいから、話をさせて」

 ルーク・パトリウスはすぐさま踵を返し、エラたち一団の一番前にいた武将の元へと駆け寄った。彼らは長いこと話をした。最後に武将が大きく頷き、エラの両手両足の縄を解いた。エラは何が起きたのか分からないままに、よろけながらルーク・パトリウスの後からついてきて、馬車から転がり落ちるように降りてきたクリスティアに、突然ぎゅっと抱きしめられた。

 「エラ! あぁ、エラ! よかった、お前、生きていたのね!」

 「ひ・・・姫様?」

 エラは、大きな目を何度もしばかせた。目の前にクリスティアがいることが、どうしても理解できない様子であった。

 「本当に姫様ですか? それとも、私は夢でも見ているのでしょうか? すっかり大きくなられてーーーまぁ、私よりも背が高くおなりではありませんか!」

 「私、本物よ。ちゃんとお前の目の前にいるのよ。あぁ、エラ、どんなにお前に会いたかったか!」

 クリスティアはエラの首にしがみついたまま、なかなか離れようとはしなかった。

 「三年よ。私がヌガへ行ってから、三年も経つのよ。あぁ、だけどその三年で、何て色んなことが変わってしまったのでしょう」

 エラはふと思い出したように、怪訝な顔をした。

 「ところで、クリスティア様が何故ここにいらっしゃるのです? 姫様はヌガのエマルディエ神殿においでなのではーーー」

 「えぇ、そう・・・そうよね」

 クリスティアは、言葉を濁さずにいられなかった。乳母に真実を伝えるには、かなり勇気を要したからだ。

 「ヌガにもナザリア兵たちがやって来たの。彼らは、神殿にある財宝を引き渡せと要求してきたわ。従わなければ、神殿を全て打ち壊し、焼き尽くしてやるって。そこで、エマルディエの神官たちは仕方なく要求を飲んだの。神殿の財宝と共に私たちをも差し出して」

 「差し出した? 誰にです?」

 エラは顔色を変えた。

 「まさか、あのーーーナザリア王にではありませんよね?」

 クリスティアの脳裏に、一瞬、あの時の酒宴の光景が甦る。王の屈辱的な命令、男たちの下品な視線、少女たちの悲鳴、そして、岩のような巨漢の男が自分に伸ばしてきた大きな大きな手ーーー

 クリスティアは、急いでその光景を頭から振り払った。

 「えぇ、そう。だけど、ナザリア王は私を王子に譲ったの。だから、今、私はナザリアの王子の元にいるわ」

 「ナザリアの王子ーーーですか?」

 エラは奇妙な顔をした。その時、当のルーク・パトリウスが近寄ってきて、二人に馬車に乗るように指示した。

 「そなたの乳母は、私が引き取ることにした。それ故、共に馬車に乗るがいい」

 「エラを連れていっていいの?」

 クリスティアは、信じられない思いでエラと顔を見合わせた。

 「それでは、私はエラと一緒に暮らせるの? ユマ・ディータへ行ってからも、ずっと?」

 ルーク・パトリウスは頷き、

 「そうだ。これからは慣れぬ土地で暮らすのだ。昔なじみの乳母がいる方が、そなたも心穏やかに過ごせるだろう」

 そう言うと、彼はあっと言う間に馬を駆って、ずっと先の方へと行ってしまった。クリスティアはエラの手を取って、急いで馬車に乗り込んだ。話したいことは一杯ある。何しろ、三年ぶりの再会なのであるから。

 まずは、お互いにまじまじと相手の顔を見つめた。エラは髪に白いものが混じり、以前に比べれて老けたようだ。クリスティアは手を伸ばし、乳母の荒れた褐色の髪を撫でてやった。何だか少し小さくなったように思える。一方のクリスティアは何と大人になったのだろうと、エラは感慨深げだ。クリュヌ祭の日に王宮を抜け出したことが、懐かしく思い出されて、彼女の目頭を熱くさせる。

 「お聞きになられましたか? お父上や兄上のことを」

 「えぇ」

 涙ぐみながら、クリスティアは小さく頷いた。

 「城門の前で、お父様を見たわ。それから、エドアルド兄様とコリン兄様も」

 「お母上のこともご存じなのですか?」

 「お姉様たちと共に自決なさったと、神官から聞いたのだけれど」

 あの神官の言葉が偽りだったのなら、どんなにいいだろうに。かすかな希望をこめてエラの方を見たのだが、エラの涙が彼女の儚い希望をあっさりと打ち砕いてしまった。

 「お気の毒なことです。しかも、姉上方は、まだお若くお美しい盛りでしたのに」

 長い沈黙が続いた。姉たちの艶やかな姿を思い出す。優しい姉たちだったのに。特に下の姉イレーネとは同じ寝台で寝る仲だった。そのイレーネとエルザールが仲が良いと言って、妬いたこともあった。そう言えば、エルザールはーーー?

 「何でも、アドラン様は行方知れずだそうです。もしかすると、クルービアから脱出なさったのかもしれません」

 「アドラン兄様が?」

 次兄の兄は、生来すばしっこいところがあった。危機をうまく切り抜けて、逃げおおせていてもおかしくはない。

 「エラ、エルザールのことは何か聞いていて? 彼は生きているの? それともーーー」

 「エルザール様は、お亡くなりになりました」

 エラは、言い難そうにうつむきながら、

 「クレス陥落の三月ほど前に、ゲストイネにて大きな戦闘が行われてーーーそこで、ナザリアの王子と一騎討ちになりーーー亡くなられたと聞いています」

 「ナザリアのーーー王子?」

 マトルデーズの泉で見たあの幻影は、一体何だったのだろう? エルザールを庇い、命を救ったことが、クルービアを滅亡に導いたのだと、マデリオスは言わなかったか? 彼が死んだのなら、私は何故に罰を受け、こんな所にいるのだろう? しかも、エルザールを殺したのは、ナザリアの王子ーーールーク・パトリウスだと言うのか?

 「そんなはずない。だって、あの時、私はエルザールをーーー」

 「姫様?」

 「それではーーー私は、エルザールを殺した男に庇護されているの?」

 愕然として、クリスティアは呟いた。

 「姫様。もしや、ナザリアの王子にーーー」

 「いいえ、あの王子との間には何もないわ。彼は私の望まぬことは絶対にしないと、母親の名にかけて誓ったの」

 ナザリアの名高い戦士でもあるルーク・パトリウスだ。戦場で、数多くのクルービア兵と戦ったはず。彼が討ち果たした中にエルザールがいたとしても、不思議ではない。すると、幻影で見た異国の兵士とは、あの王子だったのだろうか。振り下ろされた剣が深々と胸に突き刺さった時、驚愕の余りに大きく見開かれたあの目は、彼のものなのか? たった七日の間だが、それまでに彼が見せた誠実さに、少しばかり心を許しかけたクリスティアだったが、エラの話を聞いた途端たちまち凍りついた。



 ナザリアまでは長い道のりだった。多くの積み荷と戦利品のせいで、なかなか前に進まない。しかも、途中、何度も天幕を広げては、数日に渡って留まることすらあった。そんな時には、ナザール式の饗宴が開かれて、ぞっとするような大騒ぎが繰り広げられる。ルーク・パトリウスはほんの少しの間だけは顔を出すが、すぐに中座して自分の天幕に戻ってくるのだった。

 エルザールの死にまつわる話を聞いてから、クリスティアはルーク・パトリウスを避けるようになった。どのみち用でもない限り、彼女に寄り付きもしないのだが、王子の姿を見るとエルザールを喪った怒りと悲しみで、どうにかなってしまいそうな気がした。

 エルザールのことが恋しくて、何度もあの銀の首飾りを取り出しては眺めて見る。何事もなければ、今頃はあの人の妻になっているはずだった。それなのに、私は生まれ育った故国から引き離されて、遠い異国へ行かなければならない。しかも、エルザールを殺した男の手に引かれて。

 ネリは天幕の角に横になっていて、規則正しく寝息をたてている。しかし、クリスティアの方は饗宴の騒ぎがここまで聞こえてきているせいか、なかなか寝付けなかった。ルーク・パトリウスがとっくの昔に自らの天幕に戻っているのは知っていた。彼に仕える近習や従僕たちもまた、主人に倣って寝たに違いない。ここの天幕辺りだけは、妙に人気がなくやたらとひっそりしているからだ。

 まんじりと出来ないまま、クリスティアはただただエルザールのことばかり思い続けた。ことさらに鮮明に思い出すのは、聖クリュヌ祭の夜のことだ。二人で見上げた花火、初めて味わった情熱的な口づけ。もうあの柔らかな笑顔を見ることはない、永遠に。それでも私は生きなければならないのか。何のために? 〈大眼石〉を取り戻すため? だが取り戻したところで、〈大眼石〉が私に何をしてくれると言うのか。帰る故郷はなく、待つ人もいない。苦難を堪え忍んだとしても、一体、この私にどんな未来が待ち受けているのだろう!

 クリスティアは、突然、訳の分からぬ衝動にかられて起き上がった。皆が寝静まった今しかないと思った。王子以外の武将らは皆宴席にいるはずだ。たとえ近習らが気付いたとしても、彼女ならば誰も見咎めようとはすまい。クリスティアは音もなく立ち上がり、ネリの体を飛び越え、天幕の外へ出た。闇夜てはないが、あまり月明かりのない夜で、足元は暗い。それでも彼女の足はまっすぐにルーク・パトリウスの眠る天幕へと向かっていった。

 滑り込むようにして中に入ったクリスティアは、彼がいつも無造作に剣を置いている場所を懸命に思い出そうとした。以前ちらと見かけたことがあったため、すぐに見つけ出すことが出来た。彼女が忍び足でそちらへ歩いていっても、ルーク・パトリウスが気付いた気配は全くない。彼女は遂に大きな長剣を掴んだ。一瞬、持ち上げられないのではと思ったほど、それは重かった。

 それでも、クリスティアは両手でそれを持ち、静かに鞘から引き抜いた。決して音をたてぬよう、ルーク・パトリウスの眠る簡易の寝台に歩み寄る。毛皮の掛布にくるまった男の前に立った時、ほんの一瞬だけ躊躇った。そして、その躊躇いが彼女の運命を永遠に決定づけた。

 剣が貫いたのは空の掛布のみで、当のルーク・パトリウスは寝台から転がり出ていた。そして、豹のような身のこなしで襲撃者に飛びかかり、地面に引き倒したのだが、あまりに呆気ない倒れ方を不審に思い、顎を掴んで上向かせた。

 「そなたか?!」

 ルーク・パトリウスは唖然とした様子で叫んだ。

 「何故、そなたがーーー」

 ところが、それ以上問いただすことなく、クリスティアを助け起こす。

 「お前を殺すために来たのよ」

 何故か無言のままでいるルーク・パトリウスに次第に苛立ちを覚えて、クリスティアは自らこう言ったのだった。

 「死んだ私の家族とクルービアの民、家畜同然に縄に繋がれている人々、そして何よりもあなたに殺された許婚の仇を打つために」

 「私はーーーそなたの許婚を殺したのか?」

 抑揚のない声で、ルーク・パトリウスは聞き返す。

 「えぇ、そう。ゲストイネの戦闘で、チュドル家のエルザールはお前に殺されたのよ」

 「その名は知らない。ゲストイネで、私は一日で何百ものクルービア兵を切り捨てたのだ」

 クリスティアはたちまち唇を噛んだ。私の愛する人の命を奪いながら、この王子はそのことすら覚えていないのだ。この人にとって、エルザールは築いた死体の山の一つに過ぎず、これまで一度も気にかけたこともなければこれから先も思いだすことすらない。かっとなったクリスティアは立ち上がり、寝台に突きささったままの長剣に手を伸ばしかけたが、ルーク・パトリウスにあっさりと阻まれた。

 「私を殺したいか。気持ちは分かるが、今はやめておけ」

 「なーーー」

 両手首をしっかり掴まれて、王子の目の前に引っ張られる。

 「何よ、命が惜しいの?」

 「命が惜しいのではない。だが、今そなたが私を殺せば、父はそなたを容赦なく裁くだろう」

 「分かってる。だから、お前を殺して、私もこの場で死ぬ!」

 クリスティアはあらん限りの力をこめて、ルーク・パトリウスの手から逃れようとしたのだが、屈強なナザール族の戦士には敵うはずもなく、荒い息を吐きながら膝をついてしまった。

 「あと少しだったのに。もう少しでお前を殺して・・・皆の待つ黄泉の国へ行けたのに・・・」

 何故、ほんの一瞬、迷ってしまったのだろう。悔しさの余りに涙が滲む。もうこんな機会は巡ってこない。命が狙われていると知れた以上、王子は警戒し、隙を見せなくなるに違いないのだ。

 「泣くな」

 王子は言った。

 「それほど私の命が欲しいのなら、そなたにくれてやろう。だが、今ではない」

 王子の大きな手がクリスティアの左の頬にそっと触れた。彼の親指が頬に伝う涙を拭う。

 「分かるか? そなたを死なせたくないのだ。そなたの体が千々に引き裂かれ、獣に食い尽くされて欲しくなどないのだ。約束しよう、いつかそなたが心底望んだ時、私の命をそなたに捧げると。その時こそ存分に、復讐の喜びを味わうがいい」

 暗さのせいで王子の顔は全く見えない。けれども、彼の息遣いと衣に深く染み込んだ香の薫りのゆらぎで、彼が思ってもみないほど間近にいることだけは分かった。胸がざわつき、奇妙な感覚にとらわれた。殺したいほど憎い相手なのに、頬に触れる手は限りなく温かく、いつまでもこのぬくもりの中に浸っていたいとさえ思うーーー

 一瞬でもそんなことを考えた自分を恥じたクリスティアは、大急ぎで王子の腕から我が身を引き離した。

 「私を見逃すの? お前の命を狙った私を? これからだって、お前を狙い続けるわ。それでもいいの?」

 「そなたにならば、殺されてもいい」

 王子の声はどこか物憂げだった。

 「私には自分の死よりも、そなたが傷つくことの方遥かにが恐ろしい」

 「何故?」

 クリスティアは、心の動揺を隠したくて大声で叫んだ。

 「何故、そんなことを言うの? あなたってどうかしてるわ、ルーク・パトリウス!」
 
 


 

 

 

 

 

 


 

 

 

Ⅶ 芽生え

 『どうかしているーーー』

だが、本当は分かっている。一番どうかしているのはこの私だ。あの王子を殺すつもりでいたのではなかったのか? なのに、こんなにも胸がどきどきしているのは何故だろう?

 頬に触れた彼の手の感触を振り払いたくて、クリスティアは必死にエルザールとの思い出を甦らせようとした。ところが、あれほど恋しかった人の面影はすぐに黒い影に覆われて、気付けばルーク・パトリウスの腕の中にいる自分を思い描いている。
 
 違う、と何度も心の中で否定する。私はあんな人に惹かれたりしない。確かに王子は他のナザールの男たちとは違う。だけど、彼はエルザールを殺した人、クルービアの多くの同胞の血を流し、彼の馬車はクルービアから持ち去る戦利品で一杯だーーー私も含めて。きっと彼には故郷で帰りを待つ若い妻がいるだろうし、私に触れようとしないのも、妻の怒りを恐れてのことだろう。その妻はクルービアの王女など足元にも及ばぬ部族の娘なのだろうが、恐らく王子からとても大切にされているに違いない。

 ルーク・パトリウスの態度に変わった様子はなく、いつも通りの丁重な物腰でクリスティアと接していた。一方のクリスティアの方は、いつもと変わらずという訳にはいかず、出来る限り彼を避けていた。あの夜以来、彼の目に時折かすめる狂おしい色が、クリスティアを無性に落ち着かなくさせるのだ。乳母のネリはそんな女主人の異変にとっくに気付いていて、ある時、思い切って尋ねてみた。

 「姫様、ナザリアの王子と何かございましたの?」

 「何もないわよ」

 クリスティアは即答したが、挙動不審が見え見えだ。

 「エルザール様を亡くされたのは悲しい限りです。ですけれども、姫様はこの先も生きていかねばなりません。幸いルーク・パトリウス様は敵将ながら良いお方のようです。あのお方に全てを委ねられたとしても、エルザール様は姫様をお恨みにはなりますまい」

 「何が言いたいの、ネリ?」

 クリスティアはかっとなって言い返す。

 「言っておくけれど、私とあの王子との間には何もないし、これから先も起こり得ない。彼は私の望まぬことはしないとはっきり約束したわ。彼が約束を破るような人でないのは、ネリにも分かるでしょう?」

 「そうですね。あのお方はナザールの男にしては珍しく誠実な方のようですね。姫様の方からおっしゃらない限りは、決してご自分の気持ちを明らかにはなさらないんでしょう」

 「彼は私のことは何とも思っていないわよ。アサルド王に無理矢理押し付けられたから、仕方なく私の面倒を看ているだけ」

 「そうでしょうか。私の目には、王子は姫様にたいそう好意を持っているように見えますが」

 クリスティアはぎょっとしてネリを見た。

 「何ですって?」

 「お気付きになられているのでは? 何気ないふりをしていても、目を見れば分かります。あのお方は姫様に恋しておいでです。その内に姫様もーーー」

 「違うわ。私はあの人が憎くて仕方がないの。いつかエルザールの仇をとってやる。それだけのために、私は今生きているのよ」

 クリスティアはまるで自分に言い聞かせるように言い放つ。

 「あの人はナザリアの王子。そのことを絶対に忘れない。だから、変なことを言うのはやめて、ネリ。私はどんなことがあっても、あの人のものにだけはならない」

 ネリはそれっきり大人しく口を慎んだ。だが、胸の内ではクリスティアが死んだ許婚に殉ずることを断じて望まず、王子と共に生きることを願っていた。これまで見てきた限りでは、あの王子ならばクリスティアを守ってくれるように思えるし、もしかすると思いがけない地位をーーー彼がまだ妻を娶っていないのであれば妻の座をーーー与えてくれるかもしれないと考えたのだ。敵将の捕虜という惨めな身分から抜け出すには、婚姻しか手段しかない。ナザリアの未来の王の妻ならば決して悪い話ではないと、現実的なネリは密かに目論んでいた。

 まさか、乳母がそんなことを考えていようとは夢にも思わない。クリスティアは一人になりたくて、そっと天幕を滑り出た。ナザリアの都ゲルネルへの道は遠く、国境ですら遥か先だ。ナザール族の男たちは先を進んだかと思えば、一つ所に何日も留まり、騒がしい宴会を繰り返しているのだった。その度に近隣の村から多くの家畜が集められ、ご馳走となって彼らの胃袋へと消えていく。村が破壊されない代わりに、村人たちが餓死に追いやられるのではと、近付く冬を思いクリスティアは気が気でなかった。

 常に天幕から離れないように気を付けていたのだが、突然子どもの甲高い泣き声を聞きつけて、じっとしていられなくなった。気になって見に行くと、まだ年端もいかぬ少年が鞭で打たれようとしたので、クリスティアは思わず間に入った。少年の足元に水瓶が転がっているところを見ると、どうやら手が滑って中の水をこぼしてしまったらしい。

 「まだ幼い子どもよ。鞭で打つなんてあんまりだわ」

 鞭を振り上げていた若い男は、突然目の前に現れたクリスティアに驚き、鞭を下に下ろした。

 「何だ、お前は?」

 じろりと無遠慮に眺め回して、得心したようににやにやと笑った。

 「あぁ、なるほど! お前はあのお堅い王子を籠絡したという例のクルービア女だな」

 男は鞭を放り出して、一歩クリスティアの方に歩み寄った。

 「このガキを見逃して欲しいか? いいとも、見逃してやってもいいぞ。その代わり一つ条件がある」

 「条件?」

 何となく嫌な感じがして、後ずさる。

 「王子はお前を気に入るあまりに、昼も夜も手放さないそうだな。王子を虜にした唇を俺にも味あわせてくれるなら、仕置きはなしにする」

 「何ですって?」

 以前にもこんなことがあった。ずっと前ーーー聖クリュヌ祭の夜だ。あの時は酔っぱらいに絡まれて、エルザールに助けられたのだった。だが、エルザールはいない。私を助けてくれたあの人は、もうこの世のどこにもいないのだ。男はクリスティアの腰に腕を回し、覆い被さろうとした。が、何故か不意に顔を強ばらせたかと思うと、青ざめて彼女を突き放した。

 「お・・・王子」

 ルーク・パトリウスが音もなく立っていたので、クリスティアでさえも驚いた。静かではあるが、その目は恐ろしいほどの憤怒に燃えていて、こんな目で見られたなら何者もとても冷静でいられるはずもない。

 すっかり恐れをなし、声も出ない男にナザリアの王子は冷たく話しかけた。

 「ロウウィンのラナンがどうなったか知っているか? 私に鼻の折られた上、今も伏せっているそうだ。お前も同じ目に遭いたいか?」

 男は少年の手をひっつかむや、転げた水瓶はそのままにそそくさと逃げてしまった。クリスティアは男の子のことが心配でならない。この件のせいで、あの子が余計に酷い目に遭うのではなかろうかと。

 「駄目よ、あの子を連れていかせないで!」

 クリスティアはルーク・パトリウスにそう訴えかけた。が、彼は無言のままであった。

 「分かっているわ。苦難の中にある人たちを全員、助けるのは無理なんだって。だけど、見たでしょう? あの子はあんなに幼いのよ。せめてあの子だけは救ってあげたい。お願いよ、こんな頼みはこれきりにするから」

 「後で掛け合って、あの子どもを引き取ってこよう」

 長い沈黙のあと、ようやくルーク・パトリウスは答えを口にした。

 「だが、その前に何故に天幕を離れたのだ? 私の目の届かぬ所へ行くのは危険だと、あれほど言っておいたのに」

 「それはーーー」

 ネリがルーク・パトリウスのことで変なことを言い出したせいだとは、とても言えない。

 「あの、泉に行こうかと思ったの。水浴みにーーークレスを出てから、ろくに体を洗っていないし」

 「水浴みをしたければ、水を運ばせる。ともかく一人で出歩くのは止めよ。そなたには皆が関心を寄せているのだから」

 「どうして? そんなにも珍しいことなのかしら。私があなたの側にいることが?」

 クリスティアはそれとなく尋ねてみた。

 「私以外に誰も女の人がいないのは、よほど奥様のことを大切にしているのね。故国にいるのでしょう、あなたの帰りを待っている可愛い奥様と子どもたちが」

 「私は妻帯していない。それ故、私の帰りを待つ家族は故国にはいない」

 ルーク・パトリウスは言った。たちまちクリスティアはまたしてもあの奇妙な心地を味わった。とは言え、二十歳を過ぎた一国の王子が妻帯していないのもかなり珍しい。若くして妻を亡くしたのだろうかと訊いてみたのだが、

 「いや、妻を娶ったことは一度もない」

 と、またもや珍しい答えを口にした。

 「父王はあなたに結婚を勧めなかったの?」

 「むろん強く勧められた。それは今でも変わりない。ナザリア王は代々、ナザール族で最大の部族から妃を迎えてきたから、当然、私にも決められた許嫁はいた。だがーーー」

 ルーク・パトリウスは口をつぐんだ。続く言葉を待ってみたが、彼はそれきり何も言わなかった。しかし、どういう訳だか、彼が独り身だと知ってほっとしている自分にクリスティアは戸惑わずにいられなかった。足早に自らの天幕に戻ったのは、彼の自分を見つめる視線に耐えられなくなったからだ。彼と二人でいると、どうしてもあの夜に頬に触れられた手の温かさを思い出してしまう。

 かなり経ってから、ルーク・パトリウスが男の子を連れて彼女の天幕を訪れた。

 「この子はそなたが面倒を見てくれ」

 男の子は怯えた様子で、クリスティアの前に進み出た。だが、目の前にいるのがクリスティアだと理解して、少しだけ顔がほころんだ。

 「さぁ、こっちへいらっしゃい。名前を教えてちょうだい」

 男の子はケアンと名乗った。年は八歳で、家族とは死別したのだと言う。クリスティアはその子の頭を肩に乗せ、ぎゅっと抱きしめた。

 「これからは私と一緒に暮らしましょう。もう誰もあなたを殴ったりしないわ」

 ケアンに何かを食べさせてやるようネリに命じると、ネリはパンと蜂蜜を持ってきて、彼に与えた。ケアンが夢中になってパンにかじりついている間、クリスティアは天幕の入り口からルーク・パトリウスを見送った。丁度、彼が出ていくところだった。

 「ありがとう。あの子をここに連れてきてくれて」

 クリスティアは素直に感謝し、礼を述べた。ルーク・パトリウスは肩をすくめただけで、そのまま彼の天幕へ帰ってしまった。



 ケアンは最初の数日こそ、様子を伺うかのようにクリスティアの近くに来ようとしなかった。だが、彼女が自分の味方だと分かるようになると、人懐こくまとわりつくいて彼女を微笑ませた。町で大工を営む父親の息子だったそうだが、戦に巻き込まれて家族は死に、一人さ迷っていたところをナザリア兵に捕らわれたのだという。賢い子のようだったので、クリスティアは彼に読み書きを教えてみることにした。彼女の見立て通り飲み込みが早く、ナザリアの都ゲルネルに着く頃にはごく簡単な文を読めるようになっていた。

 ナザリアに辿り着くや、諸公らは各々自らの所領へと帰っていった。クリスティアはルーク・パトリウスに従い、王都ゲルネルに入る。妻帯前ではあるが、彼は既に自分の屋敷を持っており、それは高台にある王宮よりも下側にあった。ゲルネルはクレスに比べると、からりと乾いた風土のようで、吹き上げる風にはざらざらとした砂が混じる。白い石で造り上げられた優美なクレスの街とはまるで違う灰色の石の街の風景を目にして、クリスティアの心は重く沈んだ。ゲルネルには色彩が感じられない。何もかもが黒っぽく、咲いている花でさえもが弔いの花にしか見えなかった。

 クリスティアにあてがわれたのは、屋敷の一番奥にある部屋だ。驚いたことに、この屋敷に仕える使用人はほんのまばらで、とても王子の住居とは思えない。そのあまりの質素さに、クリスティアも驚きを隠せなかったが、これにはルーク・パトリウスもきまり悪そうな顔を見せた。

 「私は根っから不粋な人間なのだ。家の中のことなど全く構わぬ故に、このような有り様になってしまった」

 調度品がなくても気にならないが、清潔でない環境には耐えられない。クリスティアは早速、ネリやケアン、その他の使用人に指図して、屋敷内の掃除に取りかかった。身の回りのことに気を遣わないルーク・パトリウスにすっかり慣れきっていた屋敷の使用人らは、突然現れたクルービア女にまずは驚き、それから屋敷の女主人のように振る舞う彼女の言動に唖然としたが、王子が今後は何事も彼女の言うことに従うよう命じたので、文句も言わず指示に従った。

 皆が懸命に働いたお陰で、屋敷は見違えるように綺麗になった。床はびかびかになるまで磨かれ、蜘蛛の巣もすっかり取り払われた。クリスティア用の服やその他生活に必要な品物などもうすっかり調えられており、クリスティアはその中から特に実用的な服を選んで身につけた。

 こうして、クリスティアのナザリアの都ゲルネルでの生活が始まったのだったーーー

 

 
 

 


 

Ⅷ 迷い

 百日過ぎる頃には、さすがに新しい生活にも慣れてきた。クリスティアは日がな一日、ネリを相手に糸巻きをしたり、機織りをして時を過ごす。ケアンは主に王子の従僕たちが面倒を看ていたが、毎日決まった時間になると読み書きを習うためクリスティアの部屋を訪れた。

 すっかりクリスティアに馴染んで、乳母を真似て彼女を"姫様"と呼んでいた。明るい金髪の巻き毛と青銅色の目をした可愛いらしい顔は、クリスティアの心を和ませると同時に、どこか亡きエルザールを思い起こさせて切ない気持ちにもさせるのだった。それでも、無邪気な少年と過ごす時間はかけがえのないもので、その時だけは辛い思いや悲しみを少しだけ忘れて心から笑うことができた。

 ある時、ケアンはひどく興奮した様子でクリスティアの元へ飛んできた。得意そうな顔で、これから剣術を教えてもらうのだと報告した。

 「僕も剣術を覚えていた方がいいと王子がおっしゃるんです」

 ケアンは後ろ手に腕を組み、ちょっぴり背伸びをしながらこう言った。

 「その方が姫様に何かあった時に役に立つからって」

 「そう。それは頼もしいわね」

 クリスティアは優しく微笑んだ。

 「あなたは何にでも熱心に取り組むから、きっと立派な剣士になるでしょうね」

 「王子はいつも僕に姫様のことをお尋ねになります。変わったことはないかとか、お困りのことはないかとか。そんなに知りたいのなら、僕ではなくて姫様に直接お聞きになればいいのに」

 すると、ケアンはあまりにも率直過ぎる質問を投げかけた。

 「お二人は結婚なさるのですか?」

 クリスティアはかすかに頬を赤らめた。

 「いいえ。それはあり得ないわ」

 「どうして? お二人はとてもお似合いなのに」

 「私は王子の捕虜よ。あなたに分かるかどうか、捕虜の身では誰の妻になれない。彼が私を引き受けたのは、それがアサルド王の命令だったから。どのみち彼はしきたりに従い、部族の中から妻を選ぶでしょう」 

 果たしてそうだったのだろうか? 岩のような大男が私の衣に手を伸ばした時、彼は真っ先に男に殴りかかり、マントで私を庇ってくれなかったか? 王がそれを見て、私を彼に与えると言い出した。私に一切興味がないのなら、何故私を助けたりしたのか。私が彼の命を狙ったあの夜の抱擁はーーー

 『私の目には、王子は姫様にたいそう興味を持っておいでのように見えますが』

 以前、ネリが口にした言葉を思い出す。

 『お気づきになられているのでは? 何気ないふりをしていても、目を見れば分かります。あのお方は姫様に恋しておいでです』

 いいえ、違う。そんなはずはない。クリスティアはルーク・パトリウスの面影を急いで振り払った。仮にそうだとしても、彼を赦すことなど到底できない。無惨に打ち砕かれた街を、城壁に晒された無念の表情の首級を、愛するエルザールの死を思えば、そんなことを考えることすら厭わしい。

 ルーク・パトリウスは、クレスにいた頃と同様に滅多に屋敷に寄り付かなかった。ほとんどをゲルネルの王宮で過ごし、たまに帰ってきても書斎に閉じこもってばかりいる。古くから王子に仕えている召し使いたちは、クリスティアのことをどう考えてよいやら頭を悩ましていた。クルービア女を連れ帰ったことにまず驚いたが、身の回りの世話をさせる風でなく屋敷の労働に従事させる訳でもない、まるで客人並の扱いで、王子が不在の時でも彼女の命令に従うようにと厳命されている。内心いぶかしみながらも、王子に絶対の服従を捧げる者たちが、クリスティアを粗略に扱うことはなかった。そういう訳で彼女は非常に不可思議な存在のまま、ナザリア王子の屋敷で暮らし続けることになる。

 同じ屋敷にいながら、顔を合わすことも稀な二人ではあったが、ある日、大変珍しいことにルーク・パトリウスがクリスティアの部屋に入ってきた。まさか彼がやって来るとは夢にも思わず、機織りに没頭していたクリスティアだった。流れるような手の動きに、思わず見とれたまま立ち止まっていたルーク・パトリウスは彼女と目が合うや子どものようにばつの悪そうな顔をした。

 クリスティアは驚いて立ち上がった。

 「ケアンでしたら、ここにはおりませんが」

 「ケアンを探しに来たのではない」

 ルーク・パトリウスは決まり悪げに否定した。

 「そなたに用があって来た。話がある」

 その口ぶりからすると、決して良い話ではなさそうだ。クリスティアは目を伏せ、ルーク・パトリウスが話し出すのを待った。

 「そなたを王宮へ寄越すようにと、父上からの命令を給わった」

 「私を?」

 クリスティアは訝しげに首を傾げて、

 「何故、私が王宮へ呼ばれるのです? 私のような身の上の者が行く場ではないでしょうに」

 ためらいがちにルーク・パトリウスは、

 「この度、ナザールの戦女神アエリッシャに戦勝の報告をする。我らを加護してくださった女神へ、古くは征服した土地の人間を女神の祭壇に捧げていたが、今は人ではなくてかの地に伝わる最も優美で最も貴重な品を差し出すことにしている。そこでーーー」

 「ラネトーの〈大眼石〉を異国の女神に奉納するの?」

 クリスティアは顔色を変えた。

 「あれはエマルデ神の大いなる右眼、クルービアの心臓とも言うべき大切なもの。それを奪い持ち去った挙げ句に、異教の女神の前で辱しめるつもり?」

 「そうではない。父上はそなたに再び舞を舞えとおっしゃるのだ」

 「え?」

 「そなたが落城したクレスの城で舞ったあの舞こそが、クルービアにおいて最も美しく妙なるものであったと。あれを置いて他に戦女神に捧げるに相応しいものなどないとーーー」

 かつてないほどの激しい怒りが、喉の奥から込み上げてくる。クリスティアは唇を震わせ、後ずさりながら叫んだ。

 「私は余興に舞う舞姫などではない。私はエマルディエ神殿の巫女、あれはエマルデ神に捧げるための聖なる舞だとそう言ったはず!」

 「分かっている。あれがそなたにとってどれほどの屈辱であったか。私とて、そなたにあのような思いを二度とさせたくはない。だが、父の命には逆らえないのだ」

 「あなたは私の意に沿わぬことは決してしないと約束したのではなくて?」

 そう言い返すクリスティアの声は氷の刃のように冷たく鋭かった。

 「あの言葉は嘘だったの? 私はあなたのことをーーー少しは信用できる人だとーーーそう思っていたのに!」

 「待て!」

 背を向けた彼女の手首をルーク・パトリウスは捕らえた。

 「頼む、もう一度だけ堪えてくれぬか? 既にそなたも知っているだろうが、父は自分に従う者には寛大だが、逆らう者には決して容赦しない人だ」

 「えぇ、そうね。次は何と言って脅しているの? また誰かの血を流すとでも?」

 「そなたをーーー後宮に置くと言っている」

 クリスティアはたちまち言葉を失った。

 「こ・・・後宮ですって?」

 「そう。そなたを説得出来ないようなら、私からそなたを取り戻し、父のーーー」

 クリスティアの悲鳴がルーク・パトリウスの言葉を遮った。

 「やめて! それ以上言わないで。聞きたくもない!」

 「父が本気かどうか私には分からない。しかし、あの人ならばやりかねない。お願いだ。そなたの辛い気持ちは百も承知だが、他でもないそなた自身を守るために、どうか受け入れてくれぬか」

 「もし嫌だと言ったら? 私が王の元へ連れて行かれることになっても、あなたはただ黙って見ているだけ?」

 自分でもどうにもならない感情に支配されて、爆発したように彼女は叫んでいた。

 「私は、一体あなたの何なの? ここにいる誰もがこう思っているわ。このクルービア女は何のためにここにいるんだって。捕虜でありながら働きもせず、一日中機織りをして、屋敷の女主人のような顔をして。ただ私を持て余していただけなんでしょう。父王の命令には逆らえないのですものね。あなたにとって、私は戦利品の飾り物の一つに過ぎない。そうなんでしょう?」

 「そうではない。そなたのことを一度たりとも邪険に思ったことはない。確かに父の命でそなたを貰い受けることになったが、私は決してそなたをーーー」

 ルーク・パトリウスの何かを言おうとするだがそれを飲み込んだ。いつもそうだ。彼は極めて肝心なことを終いまで絶対に言わない。クリスティアとて彼の真の心を知りたいと切望しつつも、実際に耳にするのを恐れているのだが。彼に何を打ち明けられても、拒絶する他ない。故国とエルザールへの愛が、ナザリアの王子を受け入れることを断じて許さないから。

 クリスティアは素っ気なく視線を背け、こう呟いた。

 「かしこまりました。全てあなたの望みのままに。あなたのご命令に従いましょう」

 打ちのめされた表情で再び何か言おうとし、しかし、やはり何も告げぬままルーク・パトリウスは立ち去った。怒りと苦痛と絶望にもみくちゃにされて、クリスティアはもう何も手につかなかった。ただ鬱々と日々を過ごす彼女の元に、王子が用意した素晴らしい服と宝飾品が運ばれてきても、彼女の顔から暗い陰は一向に去ろうとしない。ネリがいくらそれらの品の一つ一つを彼女の眼前に差し出し、誉めちぎっても、女主人の関心を得ることは出来なかった。


 そして遂にゲルネルの王宮へ行く日がやって来たのだった。ネリが称賛して止まない服には渋々袖を通しても、首にかけたのは王子が選んだダイアモンドの首飾りではなく、遠い昔にエルザールから贈られた銀細工の方だった。紅い夕焼けを目に焼きつけて、クリスティアは一人馬車で王宮へ向かった。ルーク・パトリウスは相変わらず王宮からは滅多に戻らず、この夜、クリスティアの案内係に彼が寄越したのはケアンだった。

 「うわぁ、とってもお綺麗です、姫様」

 何一つ事情を知らないケアンは、素直に思ったことを口にした。いつもなら微笑んで言葉を返すクリスティアも、この時ばかりは何も答えられない。顔をベールで隠し、うつむきながら先を行くケアンの後を追う。人で込み合う回廊をすり抜け、通されたのは奥まった場にある小広間の一つだった。

 もう長いこと顔を合わせていないルーク・パトリウスもこの時ばかりは盛装で、そのせいかいつもよりずっと堂々として見えた。たっぷりとした黒髪を後ろで束ね、強靭な体躯の上に羽織った衣はナザール族らしい簡素な造りではあるが織りの生地は見事なもので、トレイニアに住む五十人の女たちが半年かけて織り上げた貴重な品であった。足には革のサンダル、腰には五百ミュの重さのある大剣を吊り下げ、こうやって見上げてみると、彼がナザリアの王子であのアサルドの息子なのだと改めて思い知るのだった。

 「すまぬ」

 彼は開口一番にこう言ったが、クリスティアは無言を貫いた。ひととき心に生じた迷いを封じ込め、生涯彼を憎んでやろうと決意したばかりだった。一方のルーク・パトリウスの目にもやはりクリスティアは目映く映ったと見えて、彼女を誉め讃えるべきかと思案していた。ところが、視線が彼女の首元に移ると、予想に違わず顔色を変えた。

 「それは何だ?」

 当然、彼が腹を立てたのだと思ったのだが、実際のところそうではなかった。もっともその事実を知るのは後のことで、ルーク・パトリウスは首飾りの件で彼女に問いただす暇すら与えられなかった。すぐさま彼から引き離され、小広間から連れ出されて、話には聞いたナザリアの戦女神アエリッシャの神殿へとつながる地下通路をひたすら歩かされる。そこは遥か昔、アエリッシャに生贄として捧げられる被征服者の民が震えながら歩いたのと同じ道でもあった。

 暗い通路が途絶えると、そこはもう神殿の地下だ。巫女らしき女たちがクリスティアの手を引いて、浄めの部屋と呼ばれる部屋へと連れていく。そこで夜を明かし、祭典が始まるまでの間一切の水と食を断ち、ひたすらエマルデ神への祈りを捧げた。アエリッシャの前にひれ伏したりするものか、むしろ戦いを挑むのだと心に言い聞かせる。戦女神の怒りに触れてその場で命を落とすことがあろうとも、私の望みはナザリアの滅亡だーーー私の祖国クルービアと同じ運命をたどるがよい。ナザリアの神々も王も民たちも!

 彼女のよく知るエマルディエ神殿とはまるで異質な荒々しく削られた巨岩の建造物に、これまた巨大な石で彫られたアエリッシャのどっしりとした女神像が、広間の真ん中にそびえ立つ。それを囲むように、ナザリア王を始め国の主だった人々が立っている。異形の出で立ちの神官たち、巫女たちの手による儀式が厳かに始められる。聞いたことのない言葉の祈りらしき声が、岩の奥まった彼方までいんいんと響きながら流れていく。

 クリスティアは鈴を手にして、アエリッシャの銅像の前に一人立つ。両目に嵌められたルビーの輝きが、鋭く彼女を見下ろしているように見える。だが、クリスティアは怯まなかった。死をも覚悟して、彼女は舞い始める。前に踊った静かな舞をとは違い、とても激しいもので、食い入るように見つめるナザリア人たちの口からは、次第に感嘆のため息がもれ出した。一心不乱に舞う彼女の視界に、哀しげな目をしたルーク・パトリウスの顔がど飛び込んでくる。見まいとすればするほど、意思に逆らい視線は彼の姿を追いかけた。彼もまた彼女と同じ嘆きと苦しみを共有しようとしているのだと、クリスティアはその時はっきりと悟った。

 舞は、ますます激しさを増していく。体が燃え上がるように熱くなり、息をするのさえ苦しくなった。女神の怒りが炎となり、彼女の体を焼きつくそうとしていのだろうか。遂に力尽きたクリスティアはその場に仰向けに倒れ伏した。

 体の芯まで燃え尽くそうとするかのような熱さの中で、クリスティアはもがき続けた。いつまで続くのだろう。これが永遠の業火というものなのだろうか? と、その時、ひんやりと冷たい風が暗闇に落ちていく彼女の体をすくいあげた。藁にもすがる思いでそれにしがみつくと、風はふわりと軽やかに明るい世界へと彼女を導いてくれた。

 目を開くと、ネリが団扇であおぎながら、クリスティアの様子を見守っていた。どう見ても、アエリッシャの神殿ではなく、ルーク・パトリウスの屋敷内の自分の部屋に相違なかった。

 「あぁ、姫様! やっとお気付きになられましたのね」

 ネリは団扇を放り出し、クリスティアの額に手を当てた。

 「ようございました。熱も下がったようですね。もう大丈夫。すぐに王子にも知らせに参りましょう」

 「ネリ、私はどうしたの? アエリッシャの神殿で舞を舞っていたのは覚えているの。でも、その後のことは何もーーーもしかして私、倒れたの?」

 「えぇ、さようでございますよ。姫様は舞い終えると同時にお倒れになったのです。大層ひどいお熱で、王子がすぐにこちらへ運んで手当てなさったのです」

 あのひんやりと冷たい風は、ルーク・パトリウスだったのだ。クリスティアはそう確信した。女神アエリッシャの怒りの炎から、あの人が助け出してくれたのだ。ネリが大急ぎで王子を呼びに行くと、ルーク・パトリウスはすぐさま駆けつけた。そして、クリスティアの顔を一目見るなり、安堵の余りに枕元で膝をついた。



 

 



 

Ⅸ 募る想い

 「三日三晩、高熱にうなされていた。もう助からぬかと思った」

 唸るように呟くルーク・パトリウスを見れば、彼がとれほど案じていてくれていたのかよく分かる。彫りの深い顔はひどくやつれ果て、出会って以来、彼のこんな姿を目にするのは初めてだ。
 
 「儀式はーーー」

 「儀式などどうでもよい」

 クリスティアの弱々しい声をかき消すように、ルーク・パトリウスは荒々しく遮った。

 「あのような真似をさせるのではなかった。父にいかに脅されようとも、拒むべきだったのだ」

 「私が舞っている間」

 クリスティアは目を閉じ、

 「常にあなたの心を感じたわ。業火の海へと突き落とされた私を風となって私を救い出してくれた。あれはあなただったのでしょう? 私を光へと導いたのは」

 「分からない」

 ルーク・パトリウスは困ったように答えた。

 「ただ私はそなたをあの苦しみから解放してやりたかった。そなたの内から怒りと絶望が渦巻き、飛び出していくのが見えた。そして、焔に絡まれ、そなたが焼き尽されようとしているのも」

 「あれはアエリッシャの怒りの炎ーーーいいえ、そうではない。あれは私自身の炎だったのだわ。私は自分の怒りで自分の身を焼き滅ぼそうとしていたのね」

 不思議と激しい怒りは消え失せていた。炎が彼女の中の小昏いものを全て焼き払ったかのようだ。火に浄められて、生まれ変わったかのような清々しさを感じる。クリスティアは目を開き、初めて見るような心地でルーク・パトリウスを見上げた。

 これまでとはまるで違うクリスティアの柔らかな表情に、ルーク・パトリウスは明らかに戸惑っていた。どうしてよいやら分からぬ様子で顔を背けると、養生するようにとだけ言い残して、逃げ去るように部屋を出ていった。

 「まぁまぁ、何とももどかしいお方ですこと!」

 苦笑しつつ、しかしどことなく楽しげにネリが声をかけた。

  「あれだけ、ご自分のお部屋とここの間を何十遍も行ったり来たりなさっていたと言うのに。それをおくびにも出そうとなさらないなんて。姫様、王子はこの三日の間、お屋敷から一歩も出ようとなさらず、ずっと姫様のお側に付き添ってらっしゃったのですよ。ほとんどお休みにもならなくて、ネリが無理矢理追い出さねばならなかったくらいです」

 ネリに言われるまでもない。本当は最初から分かっていた。あの人はずっと私を守ってくれた。彼がナザリアの王子でなければ、エルザールを死なせた人でなかったなら、私ももっと素直になれただろうに。認めるのが怖かったけれど、きっと私もあの人に惹かれていたのだ。彼がマントで私をくるんでくれたあの瞬間からーーー

 快復するまでさほど時間はかからず、数日の内には起き上がれるまでになっていた。その間も、ルーク・パトリウスは時折様子を見にやって来た。ろくに話しもしないで出ていくのが常なのだが、クリスティアが普段の生活に戻ったのを確認すると、珍しく椅子に腰を下ろした。そして、躊躇いがちに、彼女の前にあるものを差し出した。

 「これはそなたのものか?」

 クリスティアははっと息を飲んだ。鎖はちぎれているが、それは紛れもなくエルザールの首飾りだ。王宮へ行く夜、王子がくれた物でなく、こちらを選んだことを思い出す。この数日、なくしたことにすら気付いていなかったのだが。

 どう説明すべきか困惑して黙り込んだクリスティアに、ルーク・パトリウスは声を和らげ、

 「誤解しないで欲しい。そなたを責めているのではない。ただ、これがそなたのものなのか知りたいだけだ。以前、これと同じものを見たことがあるのだ」

 「え?」

 「ゲストイネの戦場だったと思う。私はあるクルービアの戦士と戦っていた。戦う相手として不足ない男であったが、私の方が僅かに力が勝っていた。男を追い詰め、ついにとどめを刺そうとしたその瞬間、目の前に乙女が現れて男の代わりに私の剣を受けたのだ」

 クリスティアは無意識に胸に手を当てた。あぁ、それでは。エルザールが戦っていたあの異国の戦士は、やはりルーク・パトリウスだったのだ!

 「顔は見えなかった。だが、胸元に輝く首飾りだけははっきりと見えた。忘れもしない、まさしくこれだ。私の剣は深々と乙女の胸を貫き、クルービアの戦士は何かを叫んでいた。何と言っているか分からなかったが、突然霧が現れて乙女の姿をかき消してしまった」

 「あなたが戦ったクルービアの戦士は? その後どうなったの? あなたにーーー殺されたの?」

 知りたくない。だが、ここまで来れば聞かずにいられなかった。ところが、ルーク・パトリウスは首を振った。

 「いや。私は殺さなかった。人ならざるものの加護を受けし者を手にかけたなら、禍となって返ってくるだろうから。あの者がその後どうなったか、私は知らない。生き延びたかもしれぬし、または他のナザリア兵に討たれたかもしれない」

 呆然とするクリスティアに、彼は静かに問いかける。

 「それでは、あれはそなただったか。そして、あのクルービアの戦士がそなたの許婚だったのだな?」

 ルーク・パトリウスはクリスティアの手の平に銀の首飾りを置いた。不意に、エルザールと別れた日の光景が甦る。クレスを去る日、馬で追いかけてきたエルザールも、やはりこうやってこの首飾りを手渡した。そして、こう誓ったのだ。クレスで私の帰りを待っていると。

 『ヌガの全ての神々に誓って、僕は永遠にあなただけのものです』

 あぁ、エルザール。あなたは生きているのだろうか? それとも、何の消息も届かなかったのは、既に他のナザリア兵の手にかかり、ゲストイネの荒野に白い骨となって埋もれているからなのだろうか?

 「えぇ、そうよ。あれは私。あの人は私の許婚だった。私が実際にゲストイネにいたのか定かではないわ。だけど、遠いヌガの地にいて、あの人が殺されそうになっているのを知り、気付いたらあそこにいた。きっと〈大眼石〉の力のせいだわ」

 「〈大眼石〉?」

 何かを思い出すかのように首を傾げるルーク・パトリウスにクリスティアは、

 「ヌガに伝わるエマルデ神の右の眼と云われる石のことよ。アサルド王が財宝もろともにナザリアへ持ち去ったでしょう?」

 「あぁ、思い出した。父が大袈裟な名前のわりにつまらん石ころだと言っていたあれのことか」

 ふと、彼はクリスティアの左肩の方に目をやった。

 「私の剣は、間違いなくそなたの体を貫いたと思うのだが。止めようとしたが、間に合わなかったのだ。刺した感触も覚えている。しかし、この通りそなたは生きていたのだな」

 「不思議だけれど、どこにもあの時の傷はないの。まるで何事もなかったように。だから、今でも確信が持てない。本当に私があの場所にいたのか、それとも〈大眼石〉が見せたただの幻影だったのか」

 「幻影などではない。あの時、私は確かにそなたの存在を感じた。顔は分からずとも、クレスの王宮でそなたの姿を目にした瞬間ゲストイネの乙女だと閃いた。私の勘に間違いはなかった。やはり、そなたはあの乙女であったのだ」

 この時ナザリアの王子の内心は、激しい葛藤で大いに揺らいでいた。心秘かに想いを募らせてきた謎の乙女が、目の前にいるクリスティアなのだと判明し、これほど喜ばしいことはないのに。しかし、彼女の許婚が生きているかもしれないと思うと、溢れる想いのたけをどうしても口にすることが出来ないのだった。彼女に対し、どう好きに振る舞っても許される立場であるにもかかわらず、ルーク・パトリウスはクリスティアを傷つけるつもりはなかった。彼女が許婚のことを忘れない限りは、決して彼女には触れまいと固く心に誓っていたのだ。だがーーー

 言葉を飲み込むことは出来ても、内にほとばしる熱い感情を隠し通すことなど不可能だ。黒い瞳が腕が唇が、彼女を見つめ
そして、クリスティアもまた、ナザリアへ向かう天幕の中で味わったあの温もりに、もう一度包まれてみたかった。あの晩と同じことが起きたなら、きっと我を忘れて全てを委ねてしまうに違いない。そう怯えつつも、胃の府が捻れるような切ない思いが全身を駆け巡っていく。堪えかねたようにルーク・パトリウスは手を伸ばし、そっとクリスティアの髪に触れた。

 「今も私が憎いか?」

 彼は、かすれた声でそう問いかける。

 「私はそなたの許婚を殺していない。だが、数多くのクルービア兵を葬り去り、死体の山を築いた。そなたから家族と祖国を奪い、虜囚の身にしたナザリアの王子だ。かつてそなたは私を殺したいと言っていたな。家族とクルービアの民と許婚の仇を討つために」

 「それはーーー」

 もちろん、忘れはしない。今も度々夢に見る。何の憂いもなかった幸福な子ども時代の夢を。そして二度と還らぬ嘆きに身悶えし、涙にくれつつ目覚めるのだ。

 「そなたの許婚が生きているとしたら? 可能性は低くとも、全くあり得ないことではない。もし許婚がそなたを迎えに来たら、どうする? 許婚についていくか?」

 エルザールが生きていたらーーー彼が私を迎えに来たら? クリスティアはふと手元の首飾りに視線を落とした。私が小さな子どもだった頃から憧れ続けたエルザール。あの人が目の前に現れたら。そしたら、私はきっとーーー

 「そうだな、そなたは許婚の方を選ぶだろうな。私の贈ったダイアモンドでなく、その銀細工の首飾りを選んだように」

 ルーク・パトリウスは差し延べた手を下に下ろした。穏やかではあるが、何か苦いものが混じった笑みを微かに口元に浮かべながら。クリスティアには何とも答えようがなかった。恨みが消えた訳ではない、だが、恨む気持ちとは別の感情が生まれているのも確かだ。エルザールに恋していた時の真っ直ぐな気持ちとは違った想いが、心の中に渦巻いている。果たしてこれが恋と呼べるのか、それすら分からないのだが。彼のダイアモンドではなく、エルザールの首飾りを身に着けたのは、ただただ怒りに駆られたせいだった。彼に裏切られた思ったのだ。本当は何もかも、私を守るためにしたことだったのに。

 「そなたを困らせるつもりはない。そなたはこれまで通りに過ごすがいい。私がそなたの庇護者であることに変わりないのだから。ここにいる限り、辛い思いをすることは二度とあるまい」

 ルーク・パトリウスはクリスティアに背を向けた。いいえ、違うのだとクリスティアはその背中に呼びかけたかった。エルザールを選んだのではない、だが、それでもあなたを選ぶとはっきりと言いきる自信もない。


 クリスティアの体調が普段と変わりなくなると、またいつもの日常が戻ってきた。相変わらずルーク・パトリウスは王宮に行ったきり、屋敷に戻るのも稀だ。その間、何もかも忘れるように、クリスティアは機織りに専念するのだった。つい先日、織り上げた布で王子の衣を仕立てたのだが、それを纏った姿を目にする度、くすぐったいような気恥ずかしい心地になる。それでいて誇らしくもあった。初めて袖を通した時、たいそう見事な出来映えだと彼に称賛されたのだ。

 「これほど着心地のよい服は初めてだ」

 ルーク・パトリウスはそう言って、滅多に見せることのない笑顔を向けた。

 「そなたは容貌ばかりでなく、機織りの腕前にも優れているのだな」

 子どものように無邪気に喜ぶ彼を見ていると、何だか可笑しくなり、クリスティアは思わず笑ってしまった。

 「そんなに喜んでもらえるのなら、もう一着すぐに仕立てましょう」

 彼は何も言わないが、再び遠征の話が出ているとケアンの口から聞いている。アサルド王の野望は未だ衰えず、クルービアを落とした後も更に東方へとその征服欲は向けられているらしい。遠征となれば、長期間に渡る覚悟はしておかなければならないだろう。もっともクレス陥落には一年を費やしたそうだが。

 『一年ーーーもしくはそれ以上、王子は帰ってこないのだわ』

 ただでさえ、それほど頻繁に会っている訳でないのに、一年以上と聞くと途方もない長さに思えてくる。今では彼の気配や足音などにすっかり馴染んでいて、先触れを聞く前から彼の帰宅が分かるようになっていた。考え事に没頭すると、よく中庭に出て延々とと歩き続ける姿が見られるのだが、そんな時には、クリスティアは機織りの手を止め、柱の陰から彼を見ていた。彼が考えていることを知りたい、悩みごとなのか或いは別の何か差し迫った交渉事なのか、手伝えることがあれば何だってするのに、と思う。と同時に、自分には彼と悩みを共有する資格など何もないのだと思い知る。私はあの人の妻でもなければ愛妾の類でもない、ただの中ぶらりんの居候に過ぎないのだ。



 ある日のこと、後宮からの使いだと名乗る者がクリスティアを訪ねてきた。何となく警戒しながら、まずはネリに応対させる。戦女神アエリッシャへの儀式の折、アサルド王に脅された言葉をクリスティアは未だ忘れてはいなかった。しかしながら、使者はアサルド王に遣わされたのではなく、しかもルーク・パトリウスも了承の上だと言うので、クリスティアはここでようやく直接会ってみる気になった。

 「私の仕える女主人が、こちらにおいでの王女様にどうしてもお会いしたいと申されまして」

 品のよい身なりであるが、その若い女の顔に見覚えはなく、クリスティアは訝しげに首を傾けた。

 「どなたなのです、ナザリアに私を知る人などおいででしょうか」

 「ご記憶にございませんか? メルサリーナ様です。王女様のお母上の従妹にあたるお方です」

 クリスティアははっとした。ほんの数回程度ではあるが、クレスの王宮で会ったことがある。確かレノルイーズの領主に嫁いだと聞いてはいたが。

 「えぇ、もちろん。覚えていますとも。でも、まさかメルサリーナ様がゲルネルにいらっしゃるなんて。レノルイーズにお暮らしではなかったの?」

 「三年前にご夫君を病で亡くされ、クルービアに戻られたのです。ご実家に身を寄せられていましたが、先のナザリアとの戦でご身内を全て亡くされ、そしてーーー」

 メルサリーナの侍女は、ほんの一瞬ためらってから、

 「色々ございまして、今はアサルド陛下の後宮の一画にお住まいになられています」

 「アサルド王のーーー後宮?」

 クリスティアはおうむ返しに呟いた。若かりし頃のメルサリーナを思い出す。自分の母に似通ったところのある美しい人だった。あれから、十年近く経つとは言え、その美貌は今も変わらぬであろう。だが、あのアサルド王の妾妃だなんて。衝撃があまりに大きくて、しばらく声も出なかった。

 「それで・・・それで、メルサリーナ様は私にお会いになりたいと?」

 「はい。クリスティア様がルーク・パトリウス王子の元でお暮らしなのは、早くからご存じでしたが、なかなか機会がなく。ですが、この度、王子の方からお声かけがございまして。是非、王女様に会ってやって欲しいと」

 「王子が?」

 クリスティアは呆気にとられた。

 「王子がそのようなことを?」
 
 「ゲルネルに来て以来、クリスティア様がずっと屋敷にとじ込もってばかりなのを気にしてらしたのでしょう。旧知の間柄でもあるようなので、時々は話し相手になってあげて欲しいと仰せのようでした」

 『ルーク・パトリウスーーーあの人が私のためにーーー』

 じきに遠征に出て、屋敷を留守にする。長い留守中、私が一人になるのを気にかけて、メルサリーナに私のことを頼もうとしたのだろうか。彼がそこまで私のことを心配してくれたなど思いもよらぬことだった。そんな素振りはほんの少しも見せなかった。知っていれば、もっと彼への対応も違ったものになったかもしれないのに。

 「いかがいたしましょう? メルサリーナ様にお会いになられますか?」

 使者の問いかけにはっと我に返って、クリスティアは慌てて返事をした。

 「参りますとも。支度をしますから、すぐに出かけましょう」

 

Ⅹ 過去

 そういう訳で、クリスティアは使者の女に導かれ、ゲルネルの後宮を訪ねることとなった。人気のない廻廊を敢えて撰んで通り抜け、案内された最も奥まった辺りにメルサリーナの住居があった。

 丁寧に磨かれた石造りの部屋と眩い黄金の装飾品に囲まれたその部屋を一目見ただけでも、メルサリーナがいかにナザリア王の心を捉えているかうかがい知れる。実際、メルサリーナは齢三十半ばながら、瑞々しい若さ衰えぬ美貌の女性であった。

 クリスティアの来訪を心待ちにしていたらしく、メルサリーナはすぐさま駆け寄り、従姉妹の娘の手を取った。

 「クリスティア様! まぁ、何とご立派になられて! 最後にお会いしたい時は、まだ小さな少女でいらしたのに」

 どこか母を思わす面影を目にすると、クリスティアもまた胸が熱くなり、つい涙をこぼしてしまう。

 「メルサリーナ様、こんな形でお会いするなんて」

 何と言葉を続けてよいか分からない。メルサリーナはその意を汲んだかのように、クリスティアの頭を自らの肩に乗せ、我が子にするように優しく言い聞かせた。

 「いいのです。何も言わないで。ともかく、再び会えたことを喜びましょう。さぁ、こちらにいらして。何か飲み物でも運ばせましょうね」

 と、テーブルの方へとクリスティアを連れていき、椅子に腰かけさせた。しばらく涙が止まらないクリスティアだったが、やがて落ち着きを取り戻すと顔を上げ、優しく微笑むメルサリーナから受け取った水で割った果実酒を少しだけすすった。

 「お顔を私によく見せて。本当にお母上によく似ておいでだわ。王妃になられる前には、よく遊んで頂いたものよ」

 クリスティアのよりもっと深い青色の目に、懐かしげな色が浮かび上がる。それを見ると、またしても胸が苦しくなってクリスティアはうつむいてしまった。

 「ラネトーの神殿に行ってらしたのですってね。そう伺っていたのだけれど」

 「えぇ、三年の間、エマルディエの神殿にお仕えしていました。ですけれど、クレスが陥落した折、神殿の財宝と共にナザリア王に差し出されたのです」

 「お辛かったでしょうね」

 メルサリーナは我が身と重ね合わせたのか、深いため息をもらした。

 「ですが、ルーク・パトリウス王子がクリスティア様をお引き受けになられたのは幸いでした。直にお会いしたことはございませんけれど、王子は良きお方のようですもの。お聞きになられたでしょう、クリスティア様に会うよう私にお勧めになったのはあのお方でした」

 「知っています。王子は私に大層良くしてくれます」

 迷いながらも、クリスティアは思いきってメルサリーナにあることを尋ねてみることにした。

 「メルサリーナ様、私はまだ何も聞かされていないのですが、アサルド王はまた新たな遠征を計画しているのでしょうか?」

 「そのようですわ。アサルド陛下は満足するということを知らない方ですからね。クルービアから帰還して、たった一年しか経っていないと言うのに」

 その口振りからすると、メルサリーナはアサルド王に対してかなり冷淡な気持ちを抱いているように思える。

 「次はサルサザーンを目指すのですって。どこまで手に入れれば気が済むのでしょうか。恐らく今回は、数年がかりかの大遠征になるでしょうね」

 クリスティアはたちまち顔を曇らせた。それに目敏く気付いたメルサリーナは、

 「王子と長く離れるのが、そんなにも不安ですか? それとも王子のことを心配なさっていますの?」

 「いいえ、そう言う訳では。第一、私と王子はそのような間柄ではありませんし」

 気まずそうに目を伏せるクリスティアに、メルサリーナは幾分意外そうな顔をしてみせた。

 「そうでしたの? 私はてっきりーーーあぁ、でも、あのお方なら分かる気がしますわ。きっと、クリスティア様の境遇にご自身のお母上を重ていらっしゃるのね」

 「王子のお母上、ですって?」

 「えぇ、お聞きになっていないのですか?」

 クリスティアは素直に首を振った。

 「そうでしたか。私も女たちの噂話で聞いた程度なのですけれどね」

 そうして、メルサリーナはルーク・パトリウスの生い立ちについて知っていることを話し出したのだった。



 ナザリアは元来、ナザール族と呼ばれた騎馬民族が興した国で、七つの部族からなる集合国家である。七部族を束ねる王は、代々決まった部族から正妃を迎える慣例になっており、若きアサルドもまた十五の歳を迎え成人したなら、チアリ族の娘リッキアを娶ることが定められていた。ところが、リッキアの方は幼少より乱暴者で何かと評判の良くないアサルドを嫌い抜き、約束の祝言の日が来ても部屋から出ようとしなかった。困り果てた両親は、仕方なくリッキアのすぐ下の妹ミリアを姉の代わりに差し出したが、実は密かに美貌の許嫁に憧れ続けていたアサルドは、彼女の仕打ちに傷つきひどく落胆した言う。

 アサルドへの遠慮もあってか、年頃を過ぎてもずっと実家に留めおかれていたリッキアだが、熱心な求婚者が現れて、遂にその男の元に輿入れすることになった。夫となった男はロワーレン公国の領主で、アサルドとは正反対の穏やかで慎ましい性格の夫と平和で満ち足りた日々を送ったのだった。一男一女にも恵まれて、何の憂いもない暮らしに突然、暗雲が立ち込める。ナザリア王位を継いだアサルドは、既に幾つもの隣国を攻め落として我が物にしていたが、とうとうロワーレンに牙を向けたのだ。

 奮戦虚しく夫は戦場で命を散らし、リッキアは幼い二人の子の手を引いて城を出た。彼女は自分の命と引き換えに子どもたちの命乞いをしたが、驚いたことにアサルドはそんな彼女に求婚した。姉の代わりにアサルドに嫁いだミリアは、輿入れの翌年に産褥の床で死んでいた。その後、空位となっている王妃の座にリッキアを迎えたいと彼は言うのだった。

 アサルドを嫌悪するリッキアは、当然拒絶する。しかし、子どもたちの命を盾に取られてはどうすることも出来ない。激しい葛藤の末に、泣く泣くアサルドとの再婚を受け入れたリッキア。十年待ってようやく初恋の人を手に入れたアサルドは、既に数多くいた妾妃たちなど全く見向きもしなくなるくらい熱烈に彼女を寵愛した。しかし、王に執着されればされるほど、リッキアの心はますます冷めていく。それでも二人の間に王子が誕生し、辛うじて夫婦の絆が生まれようとした時に事件が起きる。リッキアと前夫との間の二人の子どもたちが、突然謎の死を遂げたのだ。

 リッキアは悲嘆に暮れ、王が殺したのだと人目も憚らずアサルドをなじった。一方のアサルドは単なる事故だったと主張する。愛する子どもたちを失った悲しみは、彼女の心を不安定にし、やがてリッキアは部屋に閉じ籠るようになった。誰にも会わないばかりか、生まれたばかりの王子の顔すら見ようとはしない。そうして、五年の月日が過ぎ、リッキアは病を得て亡くなったのだという。その間、一度もルーク・パトリウス王子と会うこともなく。

 「王子の名は、ナザリア人らしくないお名前でしょう。リッキア様の前の夫ルーク・アレリアレス様から名付けられたそうですわ。それを許されるほどに、リッキア様はアサルド陛下に愛されていたのでしょうね」

 クリスティアは喉の奥に苦いものを感じつつ、ただ座っていた。国を滅ぼされ、夫と死に別れ、その挙げ句にナザリアへ連れてこられた王子の母リッキア。似通った運命の私に王子が同情するのは当然かもしれない。だとしたら、彼にとって私は縁薄かった母親の身代わりなのだろうか? メルサリーナの話では、今住んでいるあの屋敷もかつてはリッキアが住んでいたものだという。彼が求めているは母の面影であり、私自身ではないのでは?

 「どうかなさいまして? お顔の色が優れませんわ」

 すっかりふさぎこんでしまったクリスティアを心配して、メルサリーナが声をかける。

 「いいえ、メルサリーナ様。何でもありません。今日はお会い出来て、本当に嬉しかったわ」

 クリスティアはそろそろ暇を告げるべきだと思い、立ち上がった。

 「私こそ。クリスティア様にこうして再びお目にかかれて、まるで夢のようでした」

 メルサリーナは力強くクリスティアの手を握りしめた。

 「またいらして下さいね。私の方から出ていくことは叶いませんけれど。いつでもお待ちしていますわ」

 思えば、あの時、アサルド王の気まぐれさえなければ、今この後宮にいたのはクリスティアの方だったかもしれない。メルサリーナがどういう経緯で、ここに住まうようになったのかは敢えて尋ねなかったが、珠のように磨かれた部屋に住み、目もくらむような豪華な装飾品に囲まれていても、少しも彼女が幸せそうに見えなかった。ただ穏やかにその運命を受け入れはいるけれども。

 『私はどんな風に見えるのだろう。やはり、メルサリーナ様のような顔をしているのかしら』

 屋敷へと戻る道すがら、クリスティアはそんなことを考えた。ナザリアへ来たのは本意ではなかったけれど、乳母のネリが側にいてくれて、実の姉弟のように自分を慕うケアンが日々訪ねてくる暮らしは、決して不幸なばかりではないと思う。王子は黄金や財宝には無頓着で、メルサリーナの部屋に比べれば、クリスティアの部屋などこの上なく殺風景としか言いようがないが、それで自分が大切にされていないとは思わなかった。役に立たない装飾品ではない別の形で彼女を喜ばそうと努めているのが分かっているから。

 その晩、珍しく屋敷にルーク・パトリウスが帰ってきた。クリスティアは黄金の酒器に酒を注ぎ、寛ぐ王子に杯を手渡した。

 「今日、母の従妹メルサリーナ様にお会いすることが出来ました」

 「そうか」

 とっくに知っていることなので、ルーク・パトリウスは大きく頷いた。

 「クルービアの身分ある女性と聞いたので、もしやそなたの知り合いかと声をかけてみたのだ」

 「メルサリーナ様から聞きました。間もなくサルサザーンへ行くのだとか」

 「そうなのだ、そろそろそなたにも話さねばならないと思っていた。父上はサルサザーンを攻めることを決められた。三月の後にはゲルネルを発つことになるだろう」

 三月ーーー

 やはり、それほど先のことではないのだ。サルサザーンへの遠征ともなれば、今後仕度にかかりきりにもなるだろう。そうなると、王子はますますここへは来なくなる。ただでさえ、滅多に顔を合わせることもないというのに。

 「案ずることはない、私の留守中、信用出来る者を数名ここに置いておく。それに、ケアンが何かとそなたの手足となってくれるだろう。あの子はなかなかに気転の利く、賢い子だから」

 「サルサザーンへ行くとなると、入り用のものがたくさんおありでしょう。何か私に出来ることはありますか?」

 予想外のクリスティアの言葉に、ルーク・パトリウスは驚きを隠せなかった。

 「いや、私の支度ならば、乳母が整えてくれよう。そなたは何も心配せずともよいのだ」

 が、ふと思い出したようにこう付け加える。

 「もし一つだけ頼めるなら、私の衣服を仕立ててもらえぬか。そなたの織った衣はまことに着心地が良いのだ」
 
 そんなルーク・パトリウスのたっての要望に応えるため、クリスティアはせっせと機織りに精を出した。あまりに没頭する様に、ネリも心配を通り越して恐れをなしたほどだ。

 「そんなに根を詰めてなさらなくても」

 ネリが言った。

 「少しはお休みになられませんと。王子の出発までは、まだ日がございますでしょうに」

 「出来るだけ、たくさん持っていった方がいいでしょう。遠征がいつまでかかるか分からないのだから」

 そう言って、クリスティアは一向に手を休めようとしない。そこでネリは諦めて、自ら女主人の手伝いに徹するのだった。クリスティアとネリの努力の甲斐もあって、衣服は順調に仕上がっていく。ひと休みする時は必ず窓辺に寄って、外を眺めた。その方が、こちらへやって来る人の姿を真っ先に見分けることが出来るからだ。

 「このところ、王子はお見えになりませんね。何かとお忙しいのでしょうが、少しはこちらにお寄りになられてもよいでしょうに。こんなにも姫様が待ちかねておいでですのに」

 「別に待ちわびてなんかないわよ」

 クリスティアは頭をつんと振り上げて、言い返す。

 「着丈が合っているか、早く確認したいだけよ。合っていなければやり直さければならないでしょう。王子が立ち寄らないのは、いつものことだもの。気にもならないわ」

 そうは言っても、とネリはこっそり苦笑する。クリスティアがルーク・パトリウスに好意を抱いているのは、誰の目にも明らかなのに。分かっていないのは当の本人ぐらいだ。以前は事あるごとに眺めていたエルザールの銀細工の首飾りも、箱から出そうともせず、櫃の中に仕舞いこんだままである。ただし、そのエルザールの存在がクリスティアの心の枷になっているのは事実ではあるが。

 エルザールが生きているなら、父王の定めた許婚ゆえに婚約は有効だ。だが、ネリは彼が死んだと思っている。仮に生きているとしても、どこかで隸従の身に甘んじているに違いなく、さすがにナザリアの王宮奥深くまで乗り込んで来ることはあるまい。ならばエルザールは死んだものと考えて、ルーク・パトリウスと添い遂げればよいものを、クリスティアは律儀にエルザールへの貞節を貫き、ルーク・パトリウスの方もまた生真面目に最初の誓いをーーー意に添わぬことは絶対にしないとーーー守り続けている。お陰で、二人の距離は縮まないままだ。本当はお互いに惹かれ合っているのにもかかわらず。

 しかし、ネリがいくら言い聞かせても、クリスティアは全く耳を貸そうともせず、ルーク・パトリウスへの想いを真っ向から否定する。それでも熱心に王子の服を仕立てる姿を見ていると、その一針一針に特別な気持ちが込められているのは隠しようもない。待ち焦がれていた王子がようやく現れると、クリスティアは頬を上気させつつ王子の手を引っ張っていき、

 「袖を通してみて。どうかしら」

 と、上衣を広げて彼の肩に掛けた。

 「うん。丁度よい具合に仕上がっている」

 ルーク・パトリウスはにっこりと笑いかけ、それからうず高く積み重なった衣の山に目をやった。

 「あれは? 全てそなたの手によるものか?」

 「えぇ。私の取り柄は、これぐらいしかありませんから」

 心動かされた様子で、王子はクリスティアの顔を見た。すると、クリスティアは気恥ずかしそうにうつむき、

 「約束を覚えていて?」
 
 「約束?」

 「あなたの命を私にくれると言ったことよ」

 ナザリアへ向かう道中で、クリスティアがルーク・パトリウスの命を狙って天幕に忍び込んだあの夜のことだ。

 「今ではないけれど、いつか私が心底望んだ時にあなたの命を私に捧げるって。そう私に言ったわよね?」

 「覚えている。その言葉に嘘偽りはない」

 「だったら、帰ってきて」

 クリスティアはうつむいたまま、言葉を続ける。

 「あなたの命は私のもの。あなたの命を奪えるのは、世界でこの私一人だけ。他の者に討たれたりしたら、承知しない。だから、絶対にーーー絶対にゲルネルに帰ってきて」

 予想もしなかった言葉に、ルーク・パトリウスは目を丸くするばかりだった。まさかクリスティアがこのようなことを言い出すとはーーー

 「何かあったのか? そなたらしくもない」

  「あなたに復讐することだけを心の支えに、私は辛苦に耐えてきたの。その支えを失ったら私はーーー何のために生きればいいの?」

 私は馬鹿だ。クリスティアは唇を噛んだ。何故こんな言い方しか出来ないのだろう。本当はこんなことを言いたいのでない。この人に生きて帰ってきて欲しい。敵将の刃に倒れることなく、命に関わる大怪我を負うことなく、無事な姿をただただ見たい。それなのに、素直に言葉に出来ない自分が腹立たしくて仕方がない。

 「私は死なぬ。必ず生きて帰ってくる。この髪の毛一筋から体に流れる血の一滴まで、全てそなたのものだ。そなたの望みが果たすまで、他の誰にも邪魔だてさせぬ」

 「信じていいの? あなたは私の元にーーー絶対に帰ってくるって」

 クリスティアは泣きそうになった顔を見られたくなくて、

 「いつも約束は果たされないの。許婚はクレスで私を待つと言ったのに、あの人は待っていてくれなかった。お父様もお母様も兄姉たちも、誰も私を迎えてはくれなかった。どんな固い約束も誓いも、虚しい空約束に過ぎなかったわ。あなただって、神々の加護を失えばきっとーーー」

 「私は帰る、そなた元に。これまで私がそなたの前で嘘を語ったことがあったか?」

 クリスティアは首を振った。

 「いいえ」

 「ならば私の言葉を信じ、ここで待て。神々に疑いを抱いてはならない。それこそ、加護を失う元となる」

 ルーク・パトリウスはクリスティアの両肩に手を置いた。

 「われらは戦に勝ち、必ずゲルネルに凱旋する。そうアエリッシャの神託も得たのだ。それ故、そなたは何も心配することはない。それほどまでに不安ならば、再びここで誓ってやろう。私の命はそなただけのものだ。そなた以外の誰にも奪わせない、絶対に」

 

 

ⅩⅠ 別離

 既に沢山の衣類を仕上げていながら、その後もクリスティアは機織りを続けた。何かしていなければ、とても落ち着いてなどいられなかった。あれ以来王子は訪れず、ケアンが話して聞かせる以外には世の中のことを知る術はない。その彼の話では着々と出発の準備が進んでおり、アサルド王が兵を率いてゲルネルを発つのも、もう間近だということだ。

 「何の心配も要りませんよ。王子のご不在の間、僕が姫様をお守りしますから」

 ケアンは胸を張って、自信たっぷりに請け合った。王子や近習たちから可愛がられ、このところ彼の身なりも物腰も見違えるようなったと、クリスティアとネリが話していたところだった。

 「随分と頼もしいこと」

 クリスティアは、水瓶をひっくり返して泣いていたあの小さな少年をここに引き取って本当に良かったと、今更ながら思うのだった。

 「でも、ケアン。あなた、本当は王子と一緒に行きたかったのではなくて?」

 「えぇ、正直に言えば。僕も王子のお供をしたかったです。ですけど、僕はまだまだ王子の足手まといになるし、それに姫様のことは僕以外の誰にも任せられませんから」

 「まぁ」

 クリスティアは可笑しそうに笑った。

 「そうね。頼りにしているわ。私も、あなたがずっとここに居てくれるのは嬉しいわ」

 これまで王宮内の王子の住まい近くで寝泊まりしていたが、彼がゲルネルを離れている間、ケアンはクリスティアと同じ屋敷に住むことになったのだった。
 
 「王子は長く姫様を独りにすることを大層気にしておいでです。姫様はとてもお美しいお方だから、前みたいに危ない目に遭うんではないかって。ほら、僕を助けて下さった時みたいに」

 クリスティアは彼女の唇を奪おうとした嫌な男のことを思い出し、肩をすくめた。

 「あのようなことにはもうならないでしょう。私はずっと王子の屋敷にいるのだし。こっそりメルサリーナ様の所へ伺うことはあっても、それ以外に出かけることはしないから」

 「ともかく、外におでかけの時は必ず僕がお伴します。いいですね?」

 メルサリーナの所へは、あれからもう二度訪ねていた。メルサリーナも機織りをしていたが、クリスティアほどには熱心ではなかった。アサルド王の旅仕度は妾妃アデライデが全て取り仕切っており、メルサリーナの出る幕はないのだそうだ。

 「アサルド陛下はリッキア様亡き後、正妃をお迎えになっていません。アデライデ様とは長く連れ添っておられますが、王妃になさるおつもりはないようですわ。ご実家のご身分が高くないとお聞きしたことがあります。とは言え、数ある妾妃の中では、アデライデ様が最も陛下の信頼を得ていると言えるでしょうね」

 それから、こうも付け加えた。

 「アデライデ様には、二人のお子様がいらっしゃいます。一人はルーク・パトリウス様の異母兄にあたるネヴラバ様と異母妹のミアテ様です。ミアテ様はあどけなく可愛らしい姫君なのですけれど、ネヴラバ様ときたら」

 と、メルサリーナは声をひそめて、

 「あまり良い評判を聞きません。アサルド陛下に似たのかしら。正妃を迎える前から何人もの妾妃を抱え、いつも色恋沙汰で面倒を起こしているのです。アデライデ様もお気の毒なことですわ。いくらネヴラバ様を王位に就けようと画策なさっても、肝心の王子があのように人望のないお方ではね」

 メルサリーナは他のアサルド王の妃たちの話をしてくれたが、あまり興味のないクリスティアは失礼にならない程度に聞き流した。自分には関わりのないことだと思っていた。まさかアデライデの息子ネヴラバが、この後、彼女とルーク・パトリウスとの間に暗い影を落とすとは、夢にも思わぬことであった。



 多忙を極めていたルーク・パトリウスはなかなか思うように屋敷へ足を運べなかったのだが、それでも僅かな時間を割いて、時々はここを訪れた。主人の留守中、家を取り仕切る家令のアンドオラスにあれこれと細かい指示を出し、特にクリスティアの処遇に関しては厳しい言いつけを忘れなかった。決して疎かにしてはならぬ、主人同様に何事にも丁重に扱うようにと。クリスティアに対しては、あれ以来、当たり障りのないことしか口にしない。けれども、彼が自分の不在中の彼女の身を案じ、あれこれと心細やかに気を配っているのは言わずともよく分かる。

 ゲルネルを発つその日ですら、彼は屋敷に立ち寄ってから旅立った。乳母が心を尽くして整えたのだろう、真新しい衣に身を包み、背後には磨き上げられた数々の武具を持った従僕らを従え、彼自身は颯爽と馬に乗って前庭に乗り入れた。クリスティアは逸る気持ちを押さえて、外へと飛び出していく。

 「これから発つの?」

 「あぁ」

 ルーク・パトリウスは馬上から答えた。

 「そなたへの挨拶なしにゲルネルを去る訳にもいかぬから、こちらへ回ってきたのだ」

 よく見ると、王子の衣服はクリスティアの手によるもので、それだけでもクリスティアの胸は一杯になる。王子は彼女の表情が暗く翳ったのに目敏く気付き、

 「何も案ずることはない。全てアンドオラスに指示している。困ったことがあれば、あの男に任せておけばよい」

 と、慰めるように微笑んだ。

 「これで心残りはなくなった。そなたがゲルネルにて達者で暮らしていると思えば、私は何の憂いなく敵に相対することが出来る」

 すると、彼は馬上から手を伸ばし、クリスティアの片方の頬に触れて、

 「さらばだ、クルービアの姫」

 彼の黒曜石のような目には、言葉にならぬ万感の思いが溢れていた。言いたいこと、伝えたいことが山ほどあったはずなのに、如何なる言葉もクリスティアの口から洩れてこない。口をきくことを忘れてしまったかのように、彼女は立ち尽くすばかりだ。だが、いつまでもそうしている訳にもいかず、遂にルーク・パトリウスが手を引っ込めようとした時、クリスティアはその手を掴んで引き留めた。

 「あの約束を忘れないで、お願い」

 やっとの思いでそれだけ言うと、彼の手の甲に熱い唇を押しつけた。そして、王子が身動ぎするより早く、あっという間にクリスティアは踵を返し、そのまま屋敷の中へと駆け込んでしまった。

 去り行く王子の後ろ姿を見送ることもなく、クリスティアはひたすら涙にくれた。後ろ髪引かれる思いで彼が幾度も振り返ようとも、構わず泣き崩れた。ネリが側に駆け寄り、言葉の限りになだめたが、涙が乾くことはなく、心は重く沈んだまま。機織りからもすっかり遠ざかってしまい、ただぼんやりと中庭を眺めながるだけの日々が淡々と過ぎていく。

 今頃、彼はどこにいるのだろう。朝も夕も、そのことばかりが頭に浮かぶ。同じゲルネルの空の下にいる時は、滅多に訪れがなくてもさほど気にもならなかったが、こうして遠く離れてみると彼の不在が身を切られるように辛く思える。毎日欠かさずエマルデ神に祈りを捧げて、王子の無事を祈願した。敵の刃から、或いは空を飛び交う矢からあの人をお守り下さい。そして、一日も早く私の元にお返し下さい、と。その時にこそ、嘘偽りない真実の言葉であの人を迎えよう。そう固く心に誓うクリスティアであった。

 風の頼りによれば、サルサザーンへの道程は順調らしい。途中、幾つかの都城を陥落させ、益々勢いづいているとのことである。一方、主人のいない屋敷は火が消えたよう、それでも家令アンドオラスは忠実に言いつけを守り、主人の目が届かないからと言ってクリスティアに傲慢に接したり、給仕女のような仕事を無理矢理させたりなど絶対にしなかった。

 ケアンと話す時だけは笑顔を見せるものの、それ以外はずっと塞ぎこんでいる。そうやって、何の張り合いもない日々を送る内に季節は巡り、王子を見送ってから一年が過ぎた。



 ゲルネルの主だった男たちがアサルド王に従って遥かサルサザーンで戦いに明け暮れていた頃、王都ゲルネルに残る男たちが少なからずいた。アサルド王と妾妃アデライデの息子ネヴラバもその一人で、彼は決して臆病者でないばかりか、剣や弓、槍の腕前でも異母弟にひけをとらないのだが、この度の遠征には加わることが出来なかった。母アデライデが泣いて行くのを止めたからだ。息子の身を案じる余り、彼女は彼を戦場へ送り出すことをよしとせず、お陰でクルービア遠征の時もゲルネルの居残りを余儀なくされた。自分の武勇を誇示したいネヴラバは、二度もそれが叶わなかったため、すっかり腐りきっていた。

 庶出とはいえ、王子である彼に相応しいとは言えぬ連中と日夜つるんでは大酒を食らい、暴れたり暴力沙汰を起こしたりと怠惰な暮らしに溺れきっていた。そんな彼がふと異母弟の屋敷に行こうと思い立ったのは、仲間の一人がこんなことを言い出したからだ。

「ルーク・パトリウス王子がグルービアから連れ帰った女を見たことがあるか?」

 正直に言えば、戦女神アエリッシャの神殿でその姿を見た。ネヴラバもあの祭りの場にいたのだ。とは言え、遠目だった上にヴェールを被っていたので、まともに顔を見た訳ではない。が、弟が大層気に入り、正式に迎えた妻のように大切に扱っているという噂は耳にしたことがある。

  「どんな女か見たいと思わないか? あのルーク・パトリウスがそこまで入れ上げているとは、余程の美貌なのだろう。何と言っても、クルービアと言えば美男美女で名高いと聞くしな」

  最初の内、ネヴラバは相手にしなかった。

  「止めておけ。弟は日頃は温厚だが、さすがに気に入りの女に手を出されれば黙ってはおるまい。お前らなんぞ、あっという間に体を一刀両断されるのがおちだそ」

  そう言って仲間たちを諌めておきながら、ネヴラバ本人がそのクルービア女のことが気になって仕方がなくなった。弟との関係は特に親密と言えなくとも決して悪いものではなかったし、険悪にする気など更々無いのだが、父親譲りの好色な気質が疼きだし、せめて顔ぐらいは見てみたいという思いに取りつかれた。ただでさえ留守居役でむしゃくしゃしていた上に、暇を持て余していた彼は好奇心を抑えきれなくなり、とうとう弟の屋敷に足を向けたのだった。

 主人が留守と分かっていながら、突然訪れた訪問者に屋敷の者たちは驚きを隠せなかった。だが、ネヴラバは王子の兄であり、王子が常日頃、身内であろうとなかろうと訪れた者には分け隔てなく懇ろに応対せよと言っていたのを思い出し、王子に仕える者らは丁重に彼を迎え入れた。そして、食べ物や飲み物を惜しみなく差し出し、心を尽くしてネヴラバをもてなした。

 存分に飲食を味わうネヴラバだが、しかし、心は別のことで一杯だった。彼に給仕する女たちは、確かに皆器量の良い者たちばかりだが、弟が心を奪われる程ではないと思えたし、何より彼女らは全員クルービア人ではない。恐らく、その娘は私的な住居にあたる二階にいるに違いなのだが、さしものネヴラバも、あからさまにそこに立ち入るのは憚れる。

 どうしたものかと考えあぐね、花咲き乱れる中庭を長いこと彷徨いていた。すると、訪問者に気付いたクリスティアが、どんな人物だろうかと好奇心を覚えて柱の陰から覗いたのだった。階下から見えないようにと気を遣っていたのに、中庭を歩く姿があまりにルーク・パトリウスそっくりだったため、彼が帰ってきたのかと思い込み、大きく身を乗り出してしまった。ところが、気配を感じて振り向いたその青年は王子とは似ても似つかぬ人だったので、彼女は大急ぎで奥へと引っ込んだ。

 ほんの一瞬の出来事であったのに、その気高いまでの美しさにネヴラバは一目で心奪われた。一目見るだけで良いと思っていたはずが、もっと姿を見たい、声を聞いてみたいと気持ちが昂り、自制心も吹き飛んで、彼は二階へと駆け上がった。いきなり踏み込んできた見知らぬ男を前に、クリスティアは悲鳴を上げることも忘れ、ただただ呆然と立ち尽くす。

 「私はネヴラバだ。ルーク・パトリウスの異母兄だ」

 クリスティアを落ち着かせるように、ネヴラバは彼女から少し離れた所で立ち止まる。

 「何もそなたを驚かすつもりはない。ただそなたのことを常々噂で耳にし、一度この目で見てみたかったのだ。階下で私をもてなしてくれるかと期待していたのだが、そなたは遂に現れてくれなかった。それ故、ここまで上がってきたのだ」

 「客人の接客はしなくともよいとルーク・パトリウス王子から言われていますので」

 クリスティアは気丈にも、冷ややかな口調で言った。

 「ですから、階下へは参りませんでした。どうか客間へお戻りを。あなたが礼儀に反して二階に足を踏み入れたと王子が知れば、きっと気分を害されることでしょうから」

 「いいとも、客間へ引き返そう。ただし、そなたも共に参るなら」

 ネヴラバは片手をクリスティアに向けて差し出した。

 「弟はそなたをあたかも正式に迎えた妻のように、扱っていると聞いているぞ。ならば、留守宅を任された女主人として、この私をもてなしてくれ」

 クリスティアは差し出されたネヴラバの手を地らとも見ずに、こう答えた。

 「いいえ、私は参りません。王子がそれを望まぬでしょうから。私でなくても、他の者たちが心を込めてあなたをもてなしますから、どうぞその者たちに何なりとお申し付け下さい」

 ネヴラバと聞いて、クリスティアはメルサリーナの話を思い出していた。妾妃アデライデの息子で、あまり評判の良くない男だと確か言っていなかったか? 普段なら心強いケアンが側にいるのだが、運悪く所用で街へ使いにやっている上、ネリは他の女たちと洗濯へ行ってまだ帰らない。彼女はどうやってこの男を穏便に階下へ追い返そうかと、必死に考えを巡らせた。言われるがままに階下へ行き、この男に酌をした方がいいのだろうか? だが、ルーク・パトリウスが嫌がるに違いないし、王子の嫌がることを敢えてする気には到底なれない。

 「客人としての礼儀をわきまえておいでならば、どうか何もおっしゃらず、このまま階下へお戻り下さい。この件については、王子に一切告げたりなどいたしませんから。それでもどうしても私のもてなしをお望みなら、王子がサルサザーンより戻ってきた後、改めてお越し下さいませ。王子と共にあなたを心より歓待いたしましょう」

 クリスティアの言い分はもっともだとネヴラバも思った。ここは大人しく、引き下がるべきだと。それなのに、何故か足は階段へと向かわず、クリスティアの方へと向けられた。彼は彼女の前に大きく立ち塞がった。


 


 


 

 


 

 

 

ⅩⅡ 帰還

 「何と美しい女だ。女神   にもひけをとらぬ。何ともルーク・パトリウスが羨ましい。これほどまでの美貌の女を賜れたのなら、泣きつく母のことなど構わずに私もクルービアの遠征に加わるのだった」

 そう感嘆の声で呻くと、がっしりとした両腕でクリスティアの華奢な体を抱き締めた。抗う声すらネヴラバの貪るような口づけで、喉の奥に封じ込められる。両手が虚しく空を引っ掻く間に、軽々と持ち上げられて、体を寝台の上に押し付けられていた。

 激しい嵐の海の上で成す術もなく漂う船のように、クリスティアは荒々しい激情の流れに押し流される他なかった。怒りよりも悲しみに心を引き裂かれ、それでも全てが過ぎ去った時、涙一つ流せなかった。何もかもただの悪夢であったなら。けれども、その悲痛な祈りも天には届かず、彼女の傍らにはほんの一刻前まで会ったことすらなかった男が長々と横たわっている。

 「信じられん。これほどの美貌の娘を間近に置きながら、何故にルーク・パトリウスは全く触れようともしなかったのだ?」

 ネヴラバはクリスティアの額から乱れた髪を払いのけ、飽くことなくまじまじとその顔を眺めた。

 「どうだ、私の屋敷に来ぬか? 私ならそなたほどの者をこのような辛気臭い部屋に閉じ込めて、延々と放っておいたりしない。そなたには屋敷の中で最も良い部屋を与え、黄金と宝石で埋め尽くしてやろう。何でも欲しいものを言うがいい、全てそなたの思うままだ。私には既に二人の妾妃がいるが、彼女らとは別格に扱うし、あの二人が妬むほどにそなたを大切にすると約束する」

 「何も要りません。ですから、お帰り下さい」

 口をきくのも煩わしいが、仕方なくクリスティアはこう言った。

 「私はどこにも参りません。ルーク・パトリウス王子にそう命じられぬ限りは。私の行く末を決めることが出来るのは、天に在る神々と王子だけなのですから」

 ネヴラバは一瞬、このクルービアの王女を有無を言わさず拐って行こうかと激しい衝動に駆られたのだが、何とかそれを押し止めた。さすがにそれはまずかろうと、さしものネヴラバも考えたようだ。そこで、彼は諦め、渋々ながらも退散したが、もちろん再びここを訪れる心つもりであった。クリスティアは身を起こす気力もなく、寝台に横たわったまま彼が立ち去る音だけを聞いていた。

 洗濯から戻ったネリは、クリスティアの無惨な姿を目の当たりにするやたちまち言葉を失った。女主人の体を抱き起こして毛皮でくるんでやり、その背中を何度も何度も優しく擦って、

 「何があったのです、姫様。一体、誰がーーーまぁ、何て酷いこと!」

 「ネリ。あぁ、ネリ! 私、どうしたらいいの?」

 と、クリスティアは絶望してネリの肩に顔を埋めた。

 「私はあの人をーーー王子を裏切ってしまったのだわ。たとえそのつもりがなかったとしてもーーーあぁ、あの人は私が傷つくことのないよう、あんなにも心を砕いてくれたと言うのに!」

 「大丈夫です。王子は心の広いお方です。何があろうと、姫様を責めたりなさいませんとも」

 「王子の兄よ。アサルド王の妾妃の息子よ。初めは階下で酌をしろと迫ったの。それを断ったら、まさかこんなーーー」

 「あぁ、姫様!」

 ネリは終いまで言わせずに、

 「何てお可哀想に! さぞかし恐ろしかったでしょう。こんな時に私もケアンも姫様のお側に居なかったとは! 如何なる神がこのような仕打ちを姫様に下されたのでしょう」

 クリスティアに負けず劣らずショックを隠しきれないネリであったが、それでも気力を振り絞り、彼女に湯あみを勧めて身を清めさせ、香油を身体に塗り込んだ。大層芳しい香りではあったが、何の慰めにもならない。その内、ケアンが街から戻ってきて、たった今しがた見聞きしてきたことを面白おかしくクリスティアに話して聞かせようと勢い込んでやって来たのだが、階段を上りきった所でネリに行く手を阻まれてしまった。

 「姫様はどうかしたのですか? どこか具合でも悪いのですか?」

 「えぇ、気分が悪いとおっしゃってね。今はお休みになっているから、そっとしておいて差し上げましょう」

 ケアンはがっしりしたものの、大人しく聞き分けて階下へと降りていった。しかし、その後も連日のように体調が良くないからと言われ、ケアンはクリスティアに会うことを許されなかったのだった。

 ネヴラバが再び来るのではと死ぬほど怯えて、夜もろくに眠れない。実際、彼からの手紙が何通も届いたし、読みもせずに放置していると、気になって仕方がないのか彼本人が訪ねてきた。しかし、今度はネリが片時も女主人から離れず、ネヴラバの訪問を知るやすぐさま蔵にクリスティアを隠してしまったので、事なきを得たのだが、このうなことが何度も続いては気の休まる暇もない。

 一日も早くルーク・パトリウスに帰ってきて欲しいと望みつつも、その一方で彼の帰りを恐れてもいた。何もかも知られたら、王子にどう思われるのだろう? あれほど待ちわびていた戦場から届く便りにも目を向ける勇気がないほど、彼女は追い詰められていた。食事も殆ど喉を通らない。このままでは王子が帰ってくる前にクリスティアの命が尽きてしまうのではと、ネリは気が気でなかった。

 「姫様、お願いですから、ほんの少しだけでも召し上がって下さいまし」

 何とか口に運んでもらおうと、ネリはあの手この手で試みるのだが、なかなか上手くいかなかった。

 「さぁ、汁に浸したパンだけでも。こちらには果物もございますよ。一口だけでよろしいですから、姫様。ネリを喜ばすと思って、お召し上がり下さい」

 「分かっているわ、ネリ。でも、今は食べたくない」

 クリスティアは、ぼんやりとした様子でそっぽを向いた。

 「喉の奥が詰まって、何も飲み込めそうにないの。お願いだから、私のことは放っておいて。一人にして」

 そう言われて部屋から追い出されると、ネリは悲しみのあまりに胸が一杯になる。どうにかしてクリスティアを元気づけたいと思うが、色々試しても効き目はなく、万策尽きたと言ってよかった。残る手段はルーク・パトリウスに帰ってきてもらうことだけだが、現時点での戦況がよく分からず、果たして彼が戦いを放り出して駆けつけて来れるのか定かではない。それでも、ネリは王子に帰って来て欲しいと嘆願しようと心に決めた。仮に部隊から離れられなくとも、彼ならば何らかの方法でクリスティアを勇気づけることが出来るやもしれない。そう思ったからだった。

 ネリはネヴラバのことは一切書かず、ただクリスティアの具合いが悪いことのみを切々と書き記して、サルサザーンにいるルーク・パトリウス宛に書状を託した。ところが、それと入れ違うようにして、ナザリア軍がサルサザーンを降伏させたという報せがゲルネルに届いた。王子の帰還が近いと知り、ネリはほっと胸を撫で下ろしたが、クリスティアの方はと言うと、たちまち青ざめて両手で顔を覆った。

 「無理よ。どんな顔をして、王子に会えばいいの」

 「何も難しく考えることはございません、姫様。これまで通りになさっていればよいのです」

 「これまで通り、ですって?」

 クリスティアは苦しげに呻いた。

 「出来る訳がない。あのようなことがあったのに、何事もなかったふりなんて、私には出来ない」

 「王子をお信じなさいませ。あのお方ならば、分かって下さいます。姫様には何の非もないのですもの」

 だが、クリスティアはネリを部屋から追い出し、一人とじ込もってしまった。ネリはどうにかして元気づけたいと思うのだが、逆効果で、却って女主人を追い詰めてしまう。しかも、頼みの綱のルーク・パトリウスはなかなか帰還しない。勝利をおさめたとは言え、サルサザーンは遥かに遠く、すぐに帰って来れる距離ではないのだ。


 ルーク・パトリウス王子が二年ぶりにゲルネルの地を踏んだのは、それから二月が経ってからのことだった。ネリからの手紙を目に通すや、すぐにも都へ帰りたいと願ったが、彼の肩にのしかかる責務を放棄する訳にもいかず、じりじりとした思いで帰国の日を待った。霞むゲルネルの城壁が見えるやいなや、全てのしがらみを捨て去って、まっしぐらに我が屋敷へと駆けつけた。二年もの間、遠い異国の地から恋い焦がれ、その面影を胸に抱き続けてきたクルービアの王女は、王子の予想に反して病床にはいなかったが、血色が悪いし、しかもひどくやつれ、最後に会った時とはまるで別人のようだった。

 「具合が悪いと聞いた。大丈夫か? どこが悪いのだ? 医師には看せたのか?」

 何の前触れもなく駆け上がってきた上に、矢継ぎ早に質問責めにするルーク・パトリウスに、クリスティアは返す言葉も見つからない。久しぶりに見る王子はよく日に焼け、一回り大きく逞しくなったように思える。ネヴラバとのことさえなければ、どれほどこの時を待ち望み、喜びに胸を震わせただろう。だが、クリスティアはただ素っ気なく顔を背けただけだった。いくら待っても返事はなく、無言の女主人に代わり、ネリが答えて言うには、医者に看せたが気の病であり、様子を見守るしかないと言われたとのこと。痺れを切らした王子は、ネリを部屋の外へ連れ出して、厳しい口調で問いただした。

 「答えてくれ、一体何があった? あの変わりようは何だ。気の病だと? 頼むから、ネリよ、何とか言ってくれ」

 「姫様はルーク・パトリウス様のお帰りをずっと待っておいででした。ですから、お寂しさのあまりにあのようになられたのかとーーー」

 「嘘を申すな」

 日頃、物静かな王子にしては珍しく激昂した様子で、

 「あれは気丈な娘だ。これまでにも辛い目に遭ってきたが、耐えてきたではないか。それに、この度はお前やケアンも側にいた。寂しかったはずなどあるまい」

 こう言われては何とも言いようがなく、ネリも思わず顔を伏せる。しかし、真実を口にすることはどうしても出来ない。ルーク・パトリウスは再びクリスティアの前に立った。

 「私はこの通り戻ってきた。そなたとの約束を守ってな。それが気に入らないのか? やはり、そなたの手を汚さずして、戦場で果てれた方がよかったのか?」

 「そのようなこと」

 クリスティアの声は、消え入るようにか細かった。

 「そのようなことはありません。サルサザーンでの戦の勝利と無事のご帰還、心から嬉しく思っています」

 が、あまりに心のこもらぬその言い方に、ルーク・パトリウスはついかっとなった。

 「いや、そなたは少しも喜んではいない。むしろ、私がこうしてそなたの前に立つことを望んでいなかったようだ。言ってくれ、何がそなたの心を頑なにしている? 私がここを発つ時、そなたはーーー」

 別れの間際、クリスティアはルーク・パトリウスの手を取り、その手の甲に熱い口づけをした。あの時、確かに二人の間にあった壁が消え去ったと感じた。それ故、もう少し自分との再会を喜んでくれると信じていたし、帰ったら真っ先に胸の想いを全て打ち明けようと決意していたのだ。こんな風に顔を見ようともせず、冷たく迎えられるなどと夢にも思わず、ルーク・パトリウスはひどく失望した。体調が優れぬからだと自らに言い聞かせるが、それでも、落胆は隠せなかった。

 王子の心を深く傷つけていることに知りながら、クリスティアはどうすることも出来なかった。ルーク・パトリウスが自分の失望に固く蓋をして、以前と変わらぬ細やかさで彼女の世話を焼いても、彼女の冷たい態度は変わりはない。ネリははらはらしながら、そんな二人の様子を見守るしかなかった。ルーク・パトリウスが戻れば、何もかも良くなると信じていたのに逆効果で、むしろかえって思い煩う時が長くなったと密かに嘆いた。

 勝利を得てゲルネルに凱旋したアサルド王は、相変わらず連日連夜の祝宴を開き、ルーク・パトリウスも否応無しにそれに付き合わされた。その時、大して親しくもないネヴラバが、何故か酒を酌み交わそうと近付いた。こうした宴席では大概大酒を食らい、馬鹿騒ぎするはずのネヴラバが、珍しいことに殆ど素面なので、ルーク・パトリウスは不思議に思ったのだが、

 「弟よ、お前に頼みがある。お前が面倒をみているクルービア女を俺に譲ってくれないか」

 と、思ってもみなかったことを突然言い出されて、思わず我が耳を疑った。

 「今、何と言った?」

 「お前もあの女をもて余しているのではないか。父上から賜わった故に断れなかったのだろう。ならば、この俺が我が屋敷に迎えたい。あの女が不敏ではないか。稀に見る美しい娘を着飾らせもせず、粗末な部屋に閉じ込めて、日々機織りしかさせぬとは。しかも、お前はあの女に指一本触れてもないーーー」

 突如、ルーク・パトリウスは音を立てて立ち上がり、ネヴラバの襟元を掴んだ。既に周囲は乱痴気騒ぎで、二人の王子の行動に注目する者は誰もいない。

 「私の留守中に、我が屋敷に行ったのか?」

 ネヴラバに触れんばかりに顔を寄せ、ルーク・パトリウスは唸るように囁いた。

 「あの娘に会ったのだな?」

 「そうだ。日夜手放さぬほどお前がクルービア王女を気に入っていると噂に聞いたので、どんな女か気になって仕方がなかった。何せ、ナザールのしきたりに反して、未だ許婚を嫁に迎えようともしないのだからな。それほどまでにお前の心を捕らえた王女とやらを、この目で見てみたかったのだ」

 ルーク・パトリウスの目の中に、憤怒の炎が燃え上がる。これでようやく腑に落ちた。クリスティアが何故、自分を避けているのか。顔を見ようともせず、よそよそしくしている理由は、この異母兄にあったのか。

「だが、あの噂は嘘だったのだな。父上への遠慮から、仕方なく娘を屋敷に置いているのだろう? だったら、俺が貰い受けた方が、お前にとっても都合がよかろう。クルービア王女の為にもな。あの娘を慈しむと約束するし、望むものは何でも与えてやる。父上には俺から話をつけてやろう。お前が手を煩わすことは何もない」

「私はあの娘を手放す気などない、ネヴラバ」

ルーク・パトリウスは抑揚のない声で言い返した。

「だが、これは私の決めることではない。あの娘が決めることだ。彼女が兄上の元へ行きたいと望むのならば、私は止めはしない。だが、これだけは言っておく。彼女が行かぬと決めたなら、二度と彼女には会わないと約束してほしい。我が屋敷にも決して近寄らぬと。よいな、ネヴラバ」

 「よかろう、約束するとも。だだし、俺があの女のことをこの世の全てを投げうっても構わぬほどに愛しく思っていると、忘れずに伝えてくれ」


 

 

ⅩⅢ 乗り越えて

 そう強く念をおした後、ネヴラバはルーク・パトリウスの側を離れた。重い気持ちのまま、ルーク・パトリウスは珍しく酒杯を三度空にした。何とも形容し難い思いに駆られ、とても素面ではいられない気がしたのだ。宴の最中ではあるが、こっそりと抜け出し、馬で屋敷へと向かう。誰も王子の不在には気付いておらず、饗宴の嬌声は王宮を離れてもなお、遠く背中に聞こえてきていたが、彼の心は賑やかさとは真逆の重苦しさと緊張で一杯であった。

 二階の辺りにほの暗い明かりが灯っており、クリスティアがまだ起きていることが分かる。彼女もまた寝つけないまま、長い夜を耐えがたい心の苦痛を抱えて迎えようとしていたのだ。馬の気配で王子の帰宅を知ったが、動こうともしなかった。このような夜更けに、彼が部屋を訪れたことなどこれまで一度もなかったからだ。だが、

 「え?」

 大きな足音をたてて、ルーク・パトリウスはまっしぐらにクリスティアの部屋へやって来た。いつもの彼らしからぬ荒々しい振る舞いに、クリスティアは背筋が凍る思いがした。遂に恐れていたことが起きたのだと直感した。王子があの一件をとうとう知ってしまったのだ!

 「王子、どうしてーーー王宮にいらしたのではーーー」

 何とかこの場を取り繕おうとする努力も虚しく、彼女はがたがたと震え出して、最後まで言葉を言い終えることも出来ない。

 「そなたに尋ねたいことがある」

 ルーク・パトリウスはクリスティアの動揺などまるで無視して、冷たく言い放った。

 「私がサルサザーンへ行っている間に、我が異母兄ネヴラバがここへ来たか?」

 「それはーーー」

 こうなることを想定して、どう言おうかと何度も考え抜いてきたにもかかわらず、何の言葉も頭に浮かんでこなかった。

 「あぁ、王子。私はーーー」

 舌がもつれ、言葉が続かない。ルーク・パトリウスはそんな彼女の顎を右手で掴み、ぐいと上向かせた。

 「もう一度聞く。答えよ、ネヴラバはここへ来たのだな?」

 クリスティアは身震いし、観念したように呟いた。

 「えぇ、あなたの兄はここへ来ました。たった一度だけ」

 次の瞬間、ルーク・パトリウスに首を締められると覚悟した。ところが、彼はそっと手を離し、一歩後ろに下がったのだった。クリスティアは彼の目を見た。深い絶望と苦悩の色が、その黒い目の奥に宿っているのを。

 「ネヴラバはそなたを屋敷に迎えたいと言っている」

 一切の感情を押し殺し、ルーク・パトリウスはこう言った。

 「全てを投げうっても構わぬほど、そなたのことを愛しく思っていると伝えてくれとも言われた。そなたの望むものは何でも叶えてやると。あれの母親は妾妃ではあるが、実家は裕福だ。それ故、あれの言う通り、美しい宝石や金銀に囲まれて暮らすことが出来るだろう。どうしたいか? ネヴラバの元へ行きたければ、何も私に遠慮することはない。全てはそなたの気持ち次第だ」

 「ーーーー」

 王子は私を追い出したいのだろうか? 事情を知ったからには、もう私の顔など見たくもないのかもしれない。恐らくは、私に裏切られたと思っているのだろう。もっとも、そう思われて当然なのだが。何しろ、彼を憎んでいるとあれだけ面と向かって何度も繰り返したのだ。私が王子への復讐のために義兄と通じ、彼を苦しめようとしたのだと信じても仕方がない。

 「あなたが行けと言うのなら、私はその命令に従うまでです、ルーク・パトリウス王子」

 「私の意思などどうでもよい。私が知りたいのは、そなたの真の気持ちだ」

 と、そう尋ねながらも、答えを聞くのが恐ろしいと言わんばかりに顔を背けて、

 「正直に言ってくれ。そなたはここを出て、ネヴラバと共に暮らしたいか? それともここに留まり、これまで通り私の側で生きていくか?」

 「私はーーー」

 本当はどこへも行きたくない。だが、王子を酷く傷つけておいて、どうしてそのようなことが言えるだろう。私はここにいるべきではないのだ。もうこの人に守ってもらう資格などないのだから。

 「ーーー私は、ネヴラバ王子の元へ参ります」

 「なーーー」

 覚悟はしていた。しかし、実際に耳にすると、随分と胸にこたえる回答であった。

 「そこまで私のことをお気に召したのなら、断る理由などありません。私を大切にしてくれるという言葉を信じ、あのお方に全てを委ねましょう。その方がーーーあなたのお心にも敵うのでしたら」

 「何故、そなたが出ていくことが私の心に敵うのだ? 私がそれを望んでいるとでも言いたいのか?」

 ルーク・パトリウスは憮然として、

 「いつ私がそなたに出ていけと言った? 私はそのようなことを一度たりとも望んだことはない。そなたをネヴラバに渡したくはない。だが、何よりそなたの意思を優先したい。ただそれだけだ」

 「だって、あなたは何もかも知っているのでしょう。私とネヴラバとの間で何があったのか。だったら、どうしてここにいられて?」

 「私はネヴラバがどんな男だか知っている。あれはこれまでも散々、騒ぎを起こしてきた。何が起こったとしても、それはそなたのせいではない」

 「ーーーえ?」

 「そなたが富を望み、良い暮らしを求めるのならばネヴラバが叶えてくれるだろう。私はこの通り母は既に亡く、大きな後ろ楯もない。しかも不粋な性格故に、そなたの好みそうなものを贈ることすら思い浮かばない。口下手で気の利いた話も出来ぬ私といても、つまらぬと思われて当然だ。そなたがより華やかな暮らしを望んだとて、私に止める権利などない」

 「私は今より良い暮らしなんて、望んでいない。宝石も金銀も美しい衣も。そんなものはどうだっていいの」

 と、クリスティアは激しく首を振った。

 「ネヴラバなんて、これっぽっちも好きではない。これから先も、決して好きになんかなれない。私には他に想う人がいるのだもの。私はあなたが、あなたのことがーーー」

 思わず、胸の中に閉じ込めていたものをぶちまけてしまいそうになり、はっとして口をつぐむ。逃げ出しそうになるクリスティアの腕をルーク・パトリウスがそっと掴んだ。

 「教えてくれぬか、そなたの真の望みは何なのだ?」

 「私はここにいたい」

 クリスティアはぽつりと呟いた。

 「あなたの側にいたい。あなたの姿を見たい。あなたの足音を聞いていたい。あなたがいなかったこの二年間、私がどんな思いで待っていたか、絶対にあなたには分からない。あなたが勇猛な戦士だと知っていても、あれほど誓ってくれていても、戦地で命果てるのではと怯えて何度眠れぬ夜を明かしたかしれない。たまに届く便りをどれほど待ちわびたことかーーーあなたを見送った時、何故もっと優しい言葉をかけられなかったのか、自分を責めない日はなかったわ。だから、あなたの無事な姿をこの目で見た時はとても嬉しかった。今この瞬間、死んでもいいとさえ思ったわ。それなのにーーー」

 「私のせいだ。全て私が悪いのだ。私がそなたを守ってやれなかった」

 と、ルーク・パトリウスは広い腕でクリスティアを包み込んだ。

 「ネヴラバのこれまでの行動を考えれば、こうなる恐れがあると容易に予想出来たはずだった。もっと対処すべきだった。そうしていたなら、そなたがこうまで傷つくことはなかったのだ」

 王子の腕に包まれながら、クリスティアはその胸にもたれかかる。

 「私を赦すというの?」

 「赦すも何も。私に赦しを乞う必要などない。そなたに何の罪がある? 赦しを乞わねばならないのはこの私の方だ」

 ルーク・パトリウスの唇がクリスティアの額に触れ、鼻をかすめ、そして薔薇色の口元へと下りていく。その唇に触れた瞬間、緑の風が彼らの周囲を吹き抜けた気がした。ネヴラバは彼女を荒れ狂う海へと引き込んだが、今、彼女が感じるのは遥かラネトーの森の静けさだ。蒼い月、銀色に輝く木々の葉、鏡のような水盤からこぼれ落ちていく雫の流れーーーその清らかな水が、彼女の傷ついた心と体から一切の苦痛を洗い流していく。クリスティアは思った。あの夜、〈大眼石〉が私を導いたのは、エルザールでなくてこの人の所であったのだと。あの時から私の運命はこの人と結びつけられ、そして、今ようやく一つになれたのだ。

 「私と結婚して欲しい」

 ルーク・パトリウスが耳元で囁いた。

 「私の妻になってくれ。私が生涯を共にしたいのはそなただけだ」

 クリスティアは間近に聞こえるルーク・パトリウスの鼓動を聞きながら、いつまでもこうしていたいと思った。が、

 「それは無理よ」

 クリスティアのきっぱりとした答えに、王子は顔をしかめた。

 「何故だ? そなたの許婚が生きているかもしれないからか? やはり、そなたは今もその許婚のことをーーー」

 「違うわ、そうではないの。あなたには許嫁がいるのでしょう?」

 王子はたちまち眉をひそめた。

 「あれは、父が決めた縁組だ」

 「そうだとしても、それが王家のしきたりなんでしょう。アサルド王は私があなたの妃になることを認めないわ、絶対に」

 クルービアの王女と言えども、今の身分は捕虜でしかない。未来のナザリア王になるべき王太子の正妃としてはあまりに不釣り合いだ。

 「だが、私はそなた以外の女を妻に迎える気はない」

 ルーク・パトリウスは頑固にそう言い張って、クリスティアの背中に回した手に力を込めた。

「ゲストイネの戦場に現れたそなたを見てから、そなたのことを考えぬ日はなかった。はっきりと顔を覚えていた訳でもなかったのに、クレスの王宮で舞う姿を目にした時、ゲストイネの乙女だと確信した。それ以来、私はそなたを想い続けてきた。だが、私はそなたの祖国を滅ぼした国の王子、そなたの許婚と刃を交えた男、父が亡き母に与えた仕打ちと同じことをそなたにはしたくなかった」

「お母様のことは、王の後宮にいるメルサリーナ様から聞いたわ」

嫁ぎ先を失い、夫を殺され、また前夫との間の子どもたちまで奪われた彼の母親のことを思い、クリスティアは胸の痛みを覚えた。

「お気の毒な方。だから、あなたは初めから私に親切にしてくれたのね。他のナザリアの武将たちのような振る舞いをあなただけは絶対にしなかったわ」

「母は私が幼い頃に亡くなった為、あまり記憶にはないのだが、あの悲しげな目だけは今も心に焼きついている。それ故、いくらそなたに心惹かれていようとも、無理強いだけはしたくなかったのだ。それでも、募る恋心は私の中で暴れ出し、手に負えない時もある。私がそなたから距離を置き、屋敷にも滅多に顔を出さなかったのはそのせいだ」

 「私、いつかあなたに復讐すると言ったわね。あなが私を避けるのは、そのせいだとずっと思っていた」

 クリスティアは半身起き上がり、ルーク・パトリウスの顔を見下ろして、

 「あなたを憎んでいたのは真実だけど、それは最初の間だけ。天幕の中であなたの命を狙ったあの夜に、本当は気付いていたんだわ。あなたに惹かれているって。でも、死んだ家族や行方知れずの許婚のことを思えば、認める訳にはいかなかった。だから、その後もあなたを憎んでいるのだと思い込むようにしたの、自分の心を偽って。でもただただ苦しいだけだった。もう自分を騙すのは嫌なの。私はあなたを愛している。あなたがナザリアの王子であろうとなかろうと、そんなことどうだっていいのよ」

 そう言ってクリスティアはルーク・パトリウスの髪を優しく撫でる。しばらく目を閉じていた彼は、ふと片方の腕で彼女を引き寄せて、もう一度熱い口付けを交わした。

 「やはり私と結婚してくれ、クリスティア」

 と、ルーク・パトリウスは再度繰り返したが、クリスティアはそれでも首を振った。

 「そう言ってくれるのは嬉しいけれど、どう考えたってやっぱり無理な話だわ。あなたの妃にならなくても、私の気持ちが変わることはないし、私は何も望んでいないの。これまで通りで少しも構わないのよ」

 「それでは私の気が済まない。そなたには常に私の隣にいて欲しいのだ、それが屋敷の内だろうと外であろうと。それに私の正式な妻ともなれば、さすがにネヴラバも諦めざるを得まい。今のままの立場では、またあれが良からぬことを企まないとは限らぬ」

 「ネヴラバのことは心配しないで。もうあの人に隙を見せるようなことはしないから」

 そうクリスティアはきっぱりと言い張って、

 「ルーク・パトリウス。私が恐れているのは、私のことであなたとアサルド王の間で亀裂が入ることよ。メルサリーナ様が話していたのだけど、お父上はもうずっと以前からあなたと許嫁を結婚させようとしているのよね?」

 渋々、王子は頷いた。

 「そうだ」

 「ナザリアの王位を継ぐ者は、ある部族から妻を迎える決まりなのでしょう? その許嫁を蔑ろにして私を妃に据えようものなら、あなたは彼らの信頼を失ってしまう。そんなことになったら、あなたは次のナザリア王になれなくなるのではなくて?」

 「構わぬ。王位など要らぬし、そうまでして父の跡を継ごうとは思はぬ。父アサルドはどこまでもどん欲に領土を拡げようとしているが、私は全てを手に入れたいとは思っていないのだ。欲しければ王位などネヴラバにでも、或いは他の異母弟たちにでもくれてやる。ともかく、父に何と言われようが、そなたのことだけは譲れない」

思った以上にルーク・パトリウスは頑固だった。同様にクリスティアもまた頑固で、幾度にも渡る王子の求婚にもなかなか首を縦には振らない。とは言え、以前とは打って変わって彼は屋敷に入り浸るようになった。もうほんの僅かな間でもクリスティアと離れてはいられないと言わんばかりに。何もかも承知しているネリは思った通りに事が収まって内心ほくそ笑んだし、何があったのかいまいち飲み込めていないケアンでさえも、姉のように慕うクリスティアと敬愛するルーク・パトリウスが幸せそうに寄り添うのを見て心から嬉しく思った。

 ただ、ルーク・パトリウスからはっきりと拒絶の言葉を聞かされたネヴラバは落胆を隠せず、また父王アサルドもこのところの息子の変わりように目を見張る思いがした。言動は常に的確で礼儀正しくはあるが、面白味がなく、どこか覚めたような感じがしていた王子の表情が柔らかくなり、父親にさえ僅かながら優しさを見せるようになったのだ。王子がクルービアの王女に夢中だと言う話は絶えず王の耳にも入ってきていて、あの王女を王子に譲ったのは正解だったと今更ながら思う。かねてから女嫌いと噂されてきた王子だが、今ならば許嫁との婚姻を受け入れるかもしれない。ナザールの男たちは皆十代の後半で妻を娶るのに、ルーク・パトリウスはとっくに二十歳を過ぎていた。

 「息子よ、そろそろお前も身を固めてはどうだ」

 ある日、アサルドは息子を呼んでこう言ったのだった。

 「クルービアを手に入れ、サルサザーンも陥ちた。しばらくは、ここゲルネルの都で休息するのも悪くない。早速、ミアテを呼び寄せよう。あの娘もお前のせいで婚期が遅れ、大層可哀想なことをしたものだ」

 「父上、そのことで私からもお願いがあるのです」

 ルーク・パトリウスはかねてから心に決めていた通りの言葉を急いで口にした。

 「私が妻に迎えたいのはミアテではない。クルービア王女です。どうかあの者との結婚をお許し下さい」

 アサルドは笑った。

 「それほどまでにあの娘を気に入るとは思わなかったぞ。まぁ、わしも一人後宮に住まわしている故、クルービア女の良さが分からぬでもないが。ミアテを妃に迎えるからとて、何も娘と別れろとは言わんぞ。好いているならばそのまま手元に置いておくがいい」

 「私に妾妃は必要ない。妃は一人で十分です」

 ルーク・パトリウスはきっぱりと言い放った。アサルドの顔から笑みが消えた。

 「何だと?」

 「父上ならばお分かりでしょう。一人の女を想い続ける情熱を。父上はその女を手に入れるが為に女から夫を奪い、そしてゲルネルまで連れてきたのですから。だが、女の心はいつまで経っても死んだ夫のもの。嫉妬にかられて、二人の忘れ形見を手にかけるほどまでにその人を愛した父上ならば、きっと私のこの気持ちもお分かり頂けるでしょう」

 「そなた、まだ母親のことでわしを恨んでいるのか?」

 アサルドは口をへの字に曲げた。

 「お前の母親の夫が死んだのは、戦場だった。あの女をゲルネルに連れてきたのは、他に行く宛がなかったからだ。あれの子どもたちが死んだのも流行り病のせいだ。わしが殺した訳ではない」

 「いいえ、父上。恨んでなどおりません。母上との間には、お二人にしか分からぬ事情がおありなのでしょうから。ただ」

 

 「これだけは譲れません。私の妃になる人はクリスティアだけです。ミアテには心から申し訳なく思うが、どうか良き相手と娶せてやって下さい」

 「王家と言えども、   の支えなしには成り立たぬ。建国以来、   から妃を立てることで協力関係を保ってきた。つまり、   から嫁を貰わぬと言うことは、そなたは大きな後ろ楯を失うことになるのだぞ」

 「王座を放棄せよと仰せならば、そういたししましょう。私は未練などありません」

 「たかが異国の女一人故に王座を諦めると?」

 馬鹿にしたように、アサルドは鼻を鳴らした。

 「すっかり骨抜きにされおって。あの小娘は強欲にも王妃の座を狙っておるのか?」

 「いいえ、あの者は何の地位も望んではいない。いくら説得しても、私の求婚を受け入れようとしない。むしろ私に許嫁と結婚しろと急かすほどです」

 「ならば、問題はあるまい。当の本人がそう言うのならばな。なのに、何故にそなたはそうもこだわるのだ? 婚姻など単なる契約に過ぎぬ」

 「誠意を見せたいのです。彼女は由緒あるクルービア王女だった娘です。世が世ならば、私など到底手の届かぬ人だった」

 「おかしなことを言うのだな。クルービアは我が手によって滅び去ったのだ。過去がどうであれ、今はただの捕虜の一人だ。それが世の慣わしであろう。それとも、そなたも逃げ出すつもりか? そなたの母親のように? 」

と、アサルドは冷ややかに息子に言い放った。

「忘れるな、そなたの母はわしから逃げたが、
結局夫が死んでわしの所へ戻ってきたぞ」

「あの娘に手を出したら、例え父上であっても許しません」

 父と息子は一瞬無言で睨み合った。が、すぐさまアサルドは声を和らげ、

 「息子よ、そなたと言い争う気はない。だが、わしの気持ちも分かってくれぬか。数ある息子の内で、わしが一番目をかけているのはそなただ、ルーク・パトリウス。ナザリアの王冠はそなたの頭上にこそ相応しい。クルービアの王女は妾妃として大切にするがよい。ネヴラバの母アデライデのようにな。王妃には許嫁を迎えよ。それさえわしに従ってくれるならば、他はどのようにでも好きにして構わぬ故」

 「他のことならば何でも父上に従いましょう。ですが、王妃の件だけは受け入れられません。絶対に」

 結局、互いに受け入れ合えぬまま、アサルドは息子の意思を無視して婚礼を進めることにした。まずは近々都で行われる武芸大会を名目に、早速、   から王子の許嫁ミアテが呼び寄せられることになった。ミアテはルーク・パトリウスの二歳年下で、ナザール族の娘たちは皆十代半ばで嫁ぐ中、独り身のまま二十歳を迎えていた。とは言え小柄なせいで、実年齢よりは若く見える。ナザール族らしい豊かな黒髪と慎ましげな黒い目のなかなかに愛らしい娘だ。

 「よくきた、ミアテよ。ようやくそなたをこのゲルネルに迎えられて嬉しく思うぞ」

 アサルドは満足げに両手を広げて、息子の未来の花嫁となるべきナザール族の娘を出迎えた。

 「何と、前に顔を見てから十年も経つのか。時が過ぎるのは早いものだ。両親は息災か?」

 「はい、祭りの日までにはゲルネルへ参ると申しておりました」

 王はルーク・パトリウスを呼びつけ、二人を対面させた。許嫁と言っても、これまで顔を見たことすらないのだ。言いつけに従い仕方なく王宮へはやって来たものの、初めて顔を合わす許嫁に王子は全く関心を示さなかった。

 「息子よ、そなたの花嫁だ。初めての都に戸惑うことも多かろう。都を案内してやってはどうだ?」

 二人の仲を取り持とうとアサルドがそう勧めてみても、ルーク・パトリウスは無愛想にこう答えるばかりだ。

 「生憎と私は口下手ですので。私の案内では、ゲルネルの良さなど全くもってミアテ殿には伝わらぬでしょう。私などよりも、ネヴラバの方がより適任かと」

 ルーク・パトリウス同様、王宮に呼び出されていたネヴラバは突然の名指しに驚いたものの、異母弟と違い人当たりのよいネヴラバは当惑を隠せないミアテの側にさりげなく近寄った。

 「弟は年甲斐もなく照れているのです。私が代わりに案内しましょう。ミアテ殿が嫌でなければ、ですが」
 
 

 

 

 

 

 

ⅩⅣ 消息

 ミアテはどうしたものかと悩みつつも、最後はこの提案を受け入れた。ルーク・パトリウスは父王の叱責もろくに聞かずにさっさと王宮を退出してしまい、ミアテは予想外にも未来の夫の兄に王宮内を案内されることとなった。

 「ルーク・パトリウス様は、いつもあのようなご様子なのでしょうか」

 日頃、両親からは許婚の良い面しか聞かされていなかったミアテには、あまりに信じ難いルーク・パトリウスの態度である。

 「確かに愛想のよい奴ではない。だが、普段はもう少し礼儀正しくはあるんだがね」

 「私のことがお気に召さなかったのでしょうか」

 ミアテが唇を震わせながら、小さく呟いた。

 「長い間、婚礼が成されなかったのも、私がお嫌いだっからなのでは? しかも、私は二十歳をとうに過ぎてしまいましたし」

 「そういうことではない。嫁を貰う暇もないくらい、遠征続きだったせいだ。それにーーーそなたは知っているだろうか。弟がクルービアから連れてきた女のことを」

 「存じていますわ」

 ミアテは意外に落ち着いた様子で頷いた。

 「両親は何も言いませんでしたけれど、そうした噂は嫌でも耳に入ってくるものです。ルーク・パトリウス様はその女の方をことのほか大事になさっているそうですね」

 「あぁ」

 ネヴラバはほんの少しだけ眉をひそめた。

 「ネヴラバ様はお会いになったことがありますか? どんな方です? お綺麗な方?」

 「二度ほど会ったことがある。確かに美しい女だった」
 
 ネヴラバの声にはかすかに苦いものが混じっていた。が、当然のことながら、ミアテにはその意味など分かるはずもないのだったが。

 「そのような方を見慣れていれば、私など見劣りしますわね。王子が私との結婚に乗り気でないのも仕方のないことですわ。ですが、この婚姻は揺るがせないものですし、王子には受け入れて頂く他ありません。クルービアの王女がそれほどまでにお気に召しているのなら、妾妃としてこれからも寵愛なさればよろしいでしょう」

 「そなたはなかなかに健気な嫁だな。夫が他の女の元へ行っても構わぬというのか?」

 「いい気はしません。でも、私には他に行き場がないのですもの。今更、他の殿方には嫁げませんし。ここで生きていくしかないのですわ。だったら、どのようなことでも目を瞑らなければなりませんでしょう」

 ネヴラバはまじまじとミアテを見た。小柄で華奢だが、芯の強そうな娘だ。さすが   の家柄の出だ、少しくらいのことでは動じそうにない。クリスティアのように目を奪われる美貌でないにしろ、自分で卑下するほど見劣りする訳ではない。ナザリア王妃と呼ばれても、何ら遜色ないナザール族の娘ではないか。

 突然、ネヴラバの脳裏にとある考えが浮かんだ。ルーク・パトリウスは何があろうと、この許嫁との婚姻を受け入れることはあるまい。確かに、弟は父の最愛の息子には違いないが、あまりに我を通せば父とて愛想を尽かさぬとは限らない。あの気性の激しい父のことだ、弟から王太子の地位を奪うなどと言い出すのではないか? そうなればーーー

 ミアテ、この娘の一族はナザリア最大の部族であり、大きな軍事力を持っている。それ故、代々のナザリア王はこの一族から妃を娶り、その兵力を背景に国を束ねてきた。ルーク・パトリウスがあくまでミアテを拒絶するなら、   の後ろ楯は得られないし、仮に王座に就いたとしても、それは何の力もない王でしかない。

 『ならば、この俺がミアテの夫となれば?』

 自分を生んだ母は妾妃であるが故に、これまで王座への道は閉ざされていた。たが、王妃リッキアが残した息子はルーク・パトリウスのみで、後は皆妾腹の息子たちばかりだ。王妃亡き後、王が最も信頼を寄せているのは母アデライデであり、ルークを除けばこの俺が最も年長でもあり、後継者として一番有力と言えるだろう。

 母アデライデは決して野心ある女性ではないが、妾妃であるが故の苦労はネヴラバも側で見てきていた。彼自身長く奥に押し殺してきたものもある。王の長子でありながら、弟に負けない力があると自負しながらも、生みの母の地位により定められた運命に納得しがたい思いを飲み下してきたのだ。だが、今、ようやくこの思いを解き放ってよい時が来たのだと思えた。弟がこの手を取ろうとしないのなら、俺が代わりに取ってやろうではないか。

 「ミアテよ」

 と、ネヴラバはミアテの側にさりげなく寄り添った。

 「どうであろう、弟ではなくこの俺と結婚するのは?」

 「え?」

 ミアテは飛び上がらんばかりに驚き、思わず後ずさった。

 「な・・・何ですって?」

 「弟はあの通りの男だ。そなたとの婚姻を断じて拒むだろう。もし仮に婚礼を挙げたとしても、あれの心がクルービア女から離れることはない。そのような屈辱を無理に耐えるより、俺の妻にならないか? 正直に言うが、俺には既に二人の妾妃がいる。だが、正妃は迎えてないし、これまで正妃にしたいと思う女に出会ったことがなかった。今そなたを見て、初めて妻に迎えたい女だと思ったのだ。これは冗談でも何でもなく、真剣に言っている。俺の妻になって欲しい」

 「何てことを仰るの! 私はあなたの弟君の許嫁なのですよ」

 ミアテは呆気にとられて叫んだ。

 「私への憐れみから、そのようなことを仰っているのですか?」

 「同情などではない、ただ強い女性だと思っている。そなたのような女こそ俺の妃に相応しい。なぁ、ミアテ。どのみち、そなたはナザリア王妃になるべく育てられたのだろう? であれば、相手がルーク・パトリウスでなくともよいということではないか。俺がナザリア王になれば筋が通る。そうではないか?」

 「あなたが・・・ナザリア王になられる?」

 ミアテは肩をすくめた。

 「随分と正直なお方ね、ネヴラバ様。初めて会ったばかりだと言うのに、この私に弟君への翻意をほのめかしてよろしいの? 私がルーク・パトリウス様に告げ口したら、どうなさるおつもり?」

 「言っても構わぬさ。言ったところで、あれは少しも心を惑わすことはないだろう。弟はそういう奴だから」

 ネヴラバはにやりと笑った。

 「すぐに返事をくれとは言わない。だが、考えておいてくれ。俺は必ずこの国の王になってみせる。そして、そなたは王に真心を捧げられた唯一の妃となるのだ」

 ミアテはネヴラバに対して怒りをあらわにすべきが大いに迷ったのだが、結局、顔を真っ赤にさせて、こう言い放っただけだった。

 「何て恥知らずな人でしょう」

 怒りよりも動揺の方が激しく、ミアテはほとんど気を失わんばかりだった。

 「もう王宮を案内して下さらなくて結構ですわ。私、これで失礼します」

 ミアテがよろめきながら立ち去るのをネヴラバが追いかけもせず見送っていたその頃ーーー



 クリスティアは後宮のメルサリーナの元を訪ねていた。ルーク・パトリウスの許嫁ミアテがゲルネルに来たことは、クリスティアも知っている。そして、この日に二人が王宮で対面すると言うことも。王子は渋っていたが、クリスティアは無理矢理送り出した。彼女自身、辛い決断ではあったが、色々と考えた末に、やはりそうするのが一番だと思ったのだ。

 「大丈夫ですか? あまりお顔の色が優れませんけれど」

 メルサリーナはクリスティアの心中を慮って、労るように声をかけた。

 「気になりますわよね、当然ですわ。だけど、よくまぁ覚悟をお決めになりましたこと」

 「あの人が王太子でなかったなら、私だって嫌だとはっきり言うわ。でも、将来ナザリアの王となる人ならば、私では駄目なのよ」

 と、深いため息をつく。

 「あの人は父王とは違う。必要ない戦を好まないし、相手が誰であれ絶対に傲慢な態度はとらない。アサルド王よりもずっと良い王となるでしょうし、それは王国にとっても民にとっても大事なことだわ。だったら、私が身を引くべきでしょう。あの人が   の娘と結婚しなければ、大きなものを失ってしまうのよ。私はあの人に立派な王になって欲しいの。人前に出ることを望んでもいないし、時々会えたらそれだけで十分よ」

 「王子はそれでもあなたを正妃にしたいと、王と口論なさっているとか」

 メルサリーナはクリスティアの横に座り、その片手を取った。

 「陛下がそうぼやかれていましたわ。私にもどうにか出来ぬかと相談なさいましたけれど、クリスティア様が望まれていることでなく、ルーク・パトリウス様の固いご意志ですもの。分かりかねますとだけ、お答えしておきました。それはそうと、クリスティア様。どうしても話しておきたいことがございますの」

 と、メルサリーナは素早く辺りに目を配ってから、更にクリスティアの方に膝を寄せた。

 「実は、不思議なことがございまして。私に仕える下働きの女が泉で水汲みをしていたところ、見知らぬ男が近付いてきて私に渡して欲しいとこの書き付けを受け取ったのです」

 クリスティアはメルサリーナから小さく折り畳まれた紙を手渡された。

 「どうぞ、中をご覧になって」

 そう促されて紙を開くと、中には走り書きのようなものが数行に渡って書かれている。炭らしきもので書いたのだろう、たいそう読み難いのだが、何とか読み取ってみると、そこには驚くような内容が書かれていた。

 『え? アドラン? まさかアドラン兄様?』

 アドランとは、クリスティアの三人の兄の内、一番年下の兄の名だ。一人遺骸が確認出来なかったため、生き延びて逃亡したのではと噂されていた。その兄らしき人物から後宮にいるメルサリーナと連絡を取りたいとの手紙であった。クリスティアは泣きたくなるのを懸命に抑えて、何度も何度も繰り返しその文言に目を通した。

 「いかがですか? 筆跡は兄上のものですか?」

 「分かりません。この書き方では、兄のものかなんて判別出来ない」

 それでも、クリスティアは文字の一つ一つを凝視し、

 「アドランは生きていたのかしら。クレスの城壁に晒されていた中に、確かにアドラン兄様のものはなかったとは思うけれど。だけど、まさかこのゲルネルにお兄様がいるなんて、あり得るかしら?」

 「下女が言うには、男は物乞いの姿をしていたそうです。何日も前から様子を伺っていたらしく、実は気味悪く思っていたのだと。下女たちが何かの拍子で私の名を口にしたのでしょう。その翌日にこれを手渡されたのです」

 アドラン兄様! 本当に兄であれば、これほど嬉しいことはない。最後に会ったのは、ラネトーへ旅立つ日。城の前で家族に見送られたあの時であった。アドランとは一つしか年が変わらず、三人の兄たちの中でも一番仲の良かった。本人であろうが別人であろうが、とにかくこの書き付けの主に会いたいとクリスティアは切に願った。

 「その下女とやらは信用できる者でしょうか?さすがに後宮におられるメルサリーナ様に近付くのは難しいと思うの。私の居場所を伝えてはどうかしら。私の住まう屋敷の方が人の出入りも多いし、物乞いであれば中に招き入れるのもそう困難ではないから」

 「えぇ、その方がよろしいかと思います。恐らく、アドラン様も何より妹君とお会いになりたくお思いのはずですもの。クリスティア様の居所が分からず、私に接触しようとなさったのでしょうから。下女のことはご心配なく。あれはナザリア人ではありますが、口の堅さはこの私が保証いたします」

 兄とおぼしき人からの書き付けを譲り受け、それを胸に当てたままクリスティアはメルサリーナに別れを告げた。屋敷へ戻ってからも興奮は収まらず、死んだと思っていた家族が生きていた喜びに浸り続けていた。黙ってはいられず、ネリにはこの事を打ち明けたが、ルーク・パトリウスには何も言わないでおいた。その為、どこか挙動不審なクリスティアの様子は自分がミアテと面会したせいだと思い込み、いつも以上に優しく接しようとした。

 「そなたが心配することは何もない。ミアテとは文字通り顔を会わせただけに過ぎない。後はネヴラバに任せた。私より兄の方が喜んで彼女の相手をしていたが」

 そう言われて、クリスティアはすっかりミアテのことを忘れていたことを思い出した。ルーク・パトリウスに隠し事をしていることもあって、気まず気に顔を赤らめて、

 「私は気にしていないと言ったでしょう。むしろ私の側から勧めたことだもの。私のことなど気にかけてないで、ミアテ様には親切にして差し上げなくては」

 「やはり、決意は変わらないか? 私の正式な妃になる気はないのか?」

 「正式な妃って何? 私はもうとっくにあなたの妻だと思っているわ」

 と、クリスティアは

 「私にはもう婚礼支度を調えてくれる親はいない。あなたの父王や民の祝福されることだってない。私との結婚であなたが得るものは何もないわ。むしろ失うものばかりよ。ルーク・パトリウス、私は形式ばった結婚なんて求めていない。何故、今のままでは駄目なの?」

 「私が嫌だからだ。そなたを日陰の身にしておかなければならないことが、どうしても許し難いのだ」

 「私のせいで余計な波風を立たせたくないの。お願いだから、分かって」

 怒ったように背中を向けたルーク・パトリウスは長い沈黙の後、再びクリスティアの方へ向き直った。

 「よかろう、それではこうしようではないか。クリスティア、私と一緒に    の祭りに出席してくれ」

 いきなり話題が変わったのに驚き、クリスティアは唖然とした。

 「祭りですって? 急に何なの、ルーク・パトリウス」

 「二年に一度、ゲルネルの郊外で武芸大会がある。私は前回優勝したため、出る資格はないのだが、ゲルネルに住まう者はもちろん、遠く遙々からも人が訪れ、皆こぞって観に行く。そなたをそこに連れていきたい」

 「私は行けないわ、だってーーー」

 「いや、そなたとて行けるとも。父上は毎回ネヴラバの母を伴っている。彼女は父の妾妃だ」

 「あぁ、だけどミアテ様がいらっしゃるでしょう。私をご覧になったら、何とお思いになるか」

 「もしミアテがそなたを前にしても何ら動じぬ女であれば、私はーーー」

 と、ルーク・パトリウスは奇妙なくらい間を置いて、

 「彼女を娶ってもよい。私とそなたとの仲を妬んで、そなたに嫌がらせをしたり苦痛を与えたりしない人と分かりさえすれば」

 「本当に?」

 クリスティアはそう言ったが、心のどこかでは針に貫かれたような激しい痛みを感じていた。

 「あぁ、本当だ。だからこそミアテがどんな反応をするか知るためにも、どうしてもそなたには私と一緒に来てもらわねばならない」

 「分かったわ。そういうことならば」

 これこそが一番良い方法なのだと言い聞かせていたにもかかわらず、いざルーク・パトリウスの口から聞くとなると何とも言い知れぬ苦い思いに心が塞がれてしまいそうになる。

 「嫌ならば、そうだと言ってくれ。私はそなたがどうしてもと拒むがために、仕方なく折れたに過ぎないのだ」

 「いいえ、いいのよ」

 無理して、クリスティアはその唇に笑みを浮かべて、

 「私が望んでいた通り。あなたがミアテ様を妃に迎えて、未来のナザリア王の座が安泰になればそれでいいの。他に望むことなどないわ」

 自分から仕向けたことでありながら、ミアテの件で何となくルーク・パトリウスに対して心の壁を作ってしまったクリスティアは、それからは一層兄アドランのことばかり考えるようになった。思いがけないアドランの消息にはネリも大層喜んで、アドランの名を口にする度、枯れることなく涙を流す。

 「アドラン様が生きておいでとは。何と嬉しいことでしょう。よくまぁ、ご無事で生き延びられたことか。言葉にするにも堪えがたいような目にも遭われたことでしょうに」

 「まだ、本物のお兄様かどうか分からないわ。だけど、きっとそうだと思う。わざわざメルサリーナ様に会いに行かれようとしたのだものね、お兄様としか考えられないわ」

 「クレスが陥ちてから、はや四年が経つのですね。ですが、このような善きことが起こるとは。何という神がお守り下さっているのでしょう」

 その後、メルサリーナから特に連絡はない。が、無事下女を通じて兄に自分の居所が知らされたと祈るばかりだ。そして、特に何事もないままに、ナザリアで最大のイベントである   の祭りがやって来た。   の神   に捧げられる武芸大会は、ナザリアで最も栄誉あるもので、ここで優勝をおさめる者は生涯困ることのない賞金が手に入ることもあり、各地から大勢の腕自慢、技自慢の男たちが集ってくる。拳闘、角力、戦車競争、槍、剣ーーーそういった競技が三日がかりで行われるのだ。一人に富が集中しないよう、一度栄誉に輝いた種目には二度出ることは出来ない。過去、剣と槍と拳闘で優勝したことのあるルーク・パトリウスはこの度は出場を見送った。ネヴラバは心配性の母親を何とか説き伏せて、今回は拳闘に名乗りを挙げていたが。

 武家大会が行われる競技場へ向かう日、クリスティアはナザリア風の正装に身を包んだ。ナザリア王子の傍らに立つに相応しい、堂々とした姿だ。ルーク・パトリウスが是非にと勧めたあの銀細工の首飾りを身に付けて。かつての許婚から貰った品なのにとクリスティアは難色を示したのだが、彼はこれがよいのだと言い切った。

 「これは私がそなたを見初めた時に、着けていたものではないか。他の男からの贈り物ではあるが、私たちの思い出の品に違いない」

 「あなたがそこまで言うのなら、着けていきますけれど」

 クリスティアは気乗りしないまま、それでも彼の勧めに従った。それから二頭立て馬車に乗り込んで、ゲルネルの外れにある競技場へと向かう。これほど大勢の人波を見るのも久しぶりだと、クリスティアは思った。クレスにも大きな競技場があって、祭りの折りにはこうやって何度か家族と観に行ったこともあったのだ。

 名のある者たちは皆、麗しい夫人を伴っている。そこへルーク・パトリウスがクリスティアを連れて姿を現すと、彼らは一斉に声を潜めた。噂に名高いクルービアの王女が人前に出るのはこれが初めてのことだったので、誰もが好奇の眼差しで例の噂が真実なのか見極めようと躍起になっていた。ところが、クリスティアの顔はベールに隠され見ることは叶わず、ため息だけが彼らの口から漏れ聞こえただけなのだが、それでも姿形は申し分なく物腰には得も言われぬ気品があると誰一人として思わぬ者はいなかった。

 ルーク・パトリウスは何を憚ることもなく、クリスティアを王家に連なる人々だけが立ち入ることを許されている一角の席へと案内した。アサルド王と妾妃アデライデは全く彼らの方を見向きもせず、他の王族らもそれに従うーーーただネヴラバだけを除いては。クリスティアはあの忌まわしい出来事を思い出して、思わず顔を伏せた。しかし、彼は傍らに小柄な黒髪の女性を連れており、クリスティアに声をかけることはなかった。

 「ルーク・パトリウス、我が弟。何ともはや、お前がここまで礼儀を弁えぬ奴だとは思っていなかったぞ。この許嫁を差し置いて、異国の捕虜の女を身分の貴い娘か何かのように人前で堂々と連れ歩くとは」

 「何も私だけではあるまい。父上もまた同じことをなさっているではないか」

 ルーク・パトリウスが身振りでアデライデを指し示すと、ネヴラバはたちまち鼻白んで、

 「母は確かに皆から王妃と呼ばれる身の上ではないが、父上は常日頃から王妃同様に母を遇しておられる」

 「私もこの人を正当な妻だと思っている」

 と、ルーク・パトリウスは更に声を張り上げて、

 「父上、並びにここにいる方々。是非とも聞いて欲しい。この世で我が妻と私が呼びかけるのは、このクリスティアただ一人。しきたりであれ何であれ、私の心を縛ることは出来ぬ。ミアテ、そなたには娘盛りの時を空しく過ごさせたこと、誠に済まぬと思っている。だが、私より良き相手と縁を結ぶことはまだ出来ようし、   の娘を嫁にと望む若者は数多くいよう。無理に私との婚姻を押し進めて後で辛い思いをするよりは、そなた一人と想い定めて大事にしてくれる人の元に嫁ぐ方が余程いいに違いない。それ故、父上。私とミアテとの縁組みは無かったことにして頂きたい。そして、ミアテに私に代わる花婿を見つけてやって下さいませんか」

 「ルーク・パトリウス! 何てことを言い出すの!」

 クリスティアは慌てて、彼の腕を掴んだ。

 「この前と話が違うじゃない。あなた、ミアテ様と結婚するって言わなかった?」

 「こうでも言わなければ、そなたは来なかったであろう?」

 ルーク・パトリウスは悪びれもせず、

 「皆の前で宣言したかった。ミアテの前で、父上の前で、私の弟妹たちの前で。誰が何と言おうとも、そなた以外の者と婚礼を挙げるつもりはないのだと」

 「何とたることだ、息子よ。この衆目の前で、何たる不始末!」

 アサルドがとうとう怒りを顕にした。

 「さぁ、わしが怒り出す前に、その小娘をここから連れ出してしまえ。ナザリア最大の祭りの席に、賤しき身分の女が座る椅子などない」

 「この人は賤しき女などではない。仮にこの人を追い出せと仰せになるなら、アデライデ様もまたここから出ていくべきでしょう」

 「アデライデは奴隷女ではないぞ。今も   を治める領主の娘、由緒ある家の出だ」

 「この人とて、私が既に自由を与えたクルービアの王女です。アデライデ様など足元にも及ばぬ高貴な生まれの」

 「ルーク・パトリウス!」

 人前で、アサルドが愛息子を叱り飛ばすのはこれが初めてかもしれない。

 「お前にこの小娘を与えるのではなかった。嫁を迎える年頃になっても一向に女に関心を持たぬ故、珍しくも気に入った娘をあてがえば、ミアテとの結婚にも目を向けようかと思い込んだのがわしの過ちであった。もうよい、今日は祭りの日だ。これ以上、我らの見苦しい有り様を民の目に触れさせることはない。祭りが終わった後に、お前への沙汰を言い渡す」

 



 

 

 

ⅩⅤ 武芸大会

 イデにある大きな競技場が、祭りの舞台である。この時ばかりは老いも若いも馬で、或いは遙々遠くから歩いて見に来る貧しい者たちも数多くいた。

 競技場で最も良い席にはアサルドとアデライデが並んで座り、ルーク・パトリウスはじめネヴラバら他の王の子どもたちが列なる。王子の許嫁と愛妾が同席する噂はとっくに広まっており、ここにいる人々の関心は、競技そのものよりも二人の女たちの方に向けられていた。ミアテはルーク・パトリウスとネヴラバの間に席を設けてもらい、一方のクリスティアは王子の背後に控えた。だが、目立たぬ席の方がクリスティアには都合がよかった。世にも稀有なクルービアの美女を一目見ようと身を乗り出す人々に、自分の身を晒すのは本意ではなかった。

 イデの地に祀られているのは、ナザリアの大地神マゴという名の神だ。毎年の豊かな実りを祈念して、こうして男たちの武芸や技が競われる。この競い合いは、日別また種目別に行われ、全ての優勝者が決まるまでには五日を要するのだが、期間中、競技場の周りにはびっしりと天幕が立ち並び、参加者や観客たちがそこで寝泊まりすることになっていた。そこには市場や屋台までもあり、まるで小さな町が突然現れたよう。

ネリとケアンが常に付き添い、女主人が決して一人にならぬよう見張っていた。日没が来て、その日の競技が終了し、早々に天幕へと引き上げたところ、後ろからクリスティアを呼び止める者が現れる。その女はミアテに仕える侍女だと名乗り、ミアテの天幕へ来るようにとクリスティアに告げた。

 「我が主人があなたと話をしたいと申しております。どうぞこちらへ」

 「ミアテ様が?」

 クリスティアは困惑せずにはいられなかった。ルーク・パトリウスは当分ここへ戻ってきそうにない。彼のいない間に許嫁に呼ばれて行くのは、あまり良くない予感を彼女に与えた。

 「行ってはなりません、姫様」

 ネリが背後からクリスティアの袖を引く。

 「何があるか分かりません。王子がお戻りになるまでは、ここでお待ちになった方がよろしいのでは」

 「失礼なことを言うでない」 
 
 ネリの言葉を聞きつけて、ミアテの侍女が厳しく言った。

 「ミアテ様はそのようなお方ではない。ただ、クルービアから来られたお人と言葉を交わしたいと、望んでおられるだけだ」

 「分かりました、参りましょう」

 ナザリアで最も有力な一族の娘からの誘いを拒めようもなく、クリスティアは頷いた。ネリだけを引き連れて、その侍女の後ろをついていく。

 ミアテの天幕にはクリスティア一人が入っていった。奥の腰掛けに、二人の侍女にかしずかれたミアテが座っている。美しい黒髪の小柄なミアテはクリスティアに向かい合わせに座るよう、椅子を勧めた。言われるがままに、クリスティアは同じ目線に座った。

 「頭の被りものを取って、私に顔を見せて」

 落ち着いた声であった。クリスティアはベールを外し、目を伏せたままミアテに顔を向けた。

 「噂通り、美しい人だこと」

 ミアテは言った。そのもの言いに嫌味など一切感じられず、純粋な感嘆の言葉だった。

 「ルーク・パトリウス様がご執心なさるのも無理はない。あぁ、私があなたのようであったなら。こんな惨めな思いに胸を締め付けられることから無縁であっただろうに」

 「ミアテ様、私に話があると聞きましたが」

 どうしても警戒心を解くことが出来ないクリスティアは、いぶかしみながら尋ねた。

 「どういったお話でしょうか? ルーク・パトリウス様とのことでしたら、私はお二人のご婚礼に何ら異議をとなえるつもりはありません」

 「私と王子の結婚を祝福するのか?」

 祝福できるはずはない。しかし、今のこの身の上でもの言える立場でないのも、重々分かっているクリスティアであった。

 「ナザリアのしきたりに、どうして私が口を挟めましょう。それはあなたもよくご存じのはず」

 「そう、私は王子と結婚したい。そなたの前で恥も外聞もなく打ち明けるが、それは愛情の為と言うよりも、今の嘆かわしい立場から逃げだしたいからだ」

 ミアテは言った。

 「父を憚り、誰も口にはせぬが、皆に憐れみの目で見られるのが口惜しくてならない。妹たちが次々と嫁いでいく中、私一人が館に取り残されて、いつになっても迎えに来ぬ許婚を虚しく待つ日々にも我慢がならぬ。この度、私は故郷へ帰らぬ覚悟でサルサザーンへやって来た。そこで、そなたに頼みがある」

 クリスティアは目を上げた。そこにあるのは、

 「私が王子の正式な妃に迎えられても、そなたの立場が変わることはない。これ見よがしにそなたを追い出したり虐げたりしてみても、むしろ王子の心をかえって遠ざけることになるだろうから。そなたはただ外で私の立場を立てていばよいのです。館の内でそなたと王子がどれほど仲睦まじくしていようと、一切見ぬふりをしましょう。ですから、クルービアの姫、私に力を貸してほしい。私との婚姻を受け入れるよう、そなたから口添えしてもらえぬだろうか」

 あまりにあからさまなもの言いに、クリスティアは内心驚いた。と同時に、王子の許嫁が自ら恋敵の助けにすがらねばならぬほど追い込まれていることに同情を禁じ得なかった。

 「ミアテ様、私はこれまで一度もお二人のご結婚の邪魔をしたことはありませんし、むしろ王子にお勧めしてきました。ミアテ様のご一族の助けがなければ、彼の王位が安泰でないと聞いてからそうするのが一番と私も分かっていますから。ですが、王子はどうしてもお聞き入れになりません。恐らく、王子のお気の毒なお母様のことが頭から離れぬのでしょう。一つの愛情を二人の女に分け与えるのは、あの方にはお出来にならぬことなのです」

 「ですから、私は王子の愛情など要らぬと言っているのです。王子の妃という立場さえ手に入れば、それだけで十分なのです。私は何度もあの方にそれを伝えようとしましたが、あの方は私と口をきいてくれようともなさらない。私が話すら出来ぬなら、そなたに頼むしかありません。どうかどこにも身の置き場のない私の立場を察しておくれ、この通りだ」

 「分かりました、ミアテ様。私からもう一度、王子にお願いしてみましょう。ですが、それでも王子が聞いて下さらなかったら、どうなさるおつもりですか?」

 「何があっても、私は父の館には戻らない。王子がどうしても私など要らぬとおっしゃるのなら、私は」

 と、ミアテは

 「死ぬまでです。この年になって、今さら神殿の巫女となるのも恥ずかしい。誰からも必要とされぬこの身の行く先は、もはや黄泉の国しか残されておりますまい」

 「ミアテ様ーーー」

 何と哀しい人だろう。もしや自分に危害を加える気では、と一瞬でも疑った自分が情けないと思えるほどに慎ましい娘だった。クリスティアは来た道を引き返して、王子の天幕へ帰っていった。どうすればあの人の助けになるだろうかと考えながら、ひたすらルーク・パトリウスの帰りを待っていた。

 「何だ、まだ起きていたのか。先に寝ていろと言っていたのに。慣れない土地で寝つけないのか」

 「えぇ、それもあるわ。だけど、それよりもあなたに話たいことがあって」

 ルーク・パトリウスは肩をすくめた。

 「父上のことか。あれについては、そなたの気にすることではない」

 「そうではなくて、ミアテ様のこと。先程、私はミアテ様の天幕へ行っていたの」

 「ミアテに呼ばれたのか? 何の用で?」

 「私と話をするためよ。あぁ、違うの。そんなに怖い顔をしなくていいの。ミアテ様は、私に親切に接して下さったわ。ご自分と同じ腰掛けに私を座らせ、決して私を見下したりなさらなかった。あの方の不幸の原因はあなたにあるのよ、ルーク・パトリウス。許嫁である人をいつまでも放っておくなんて」

 「私はミアテとは結婚しないと何度も父に言ったのだ。ミアテは他の男に縁づけてやって欲しいと。だが、父は一向にお許しにならず、私も仕方なくミアテを迎えにいかなかった」

 「あなたに見向きもされなくて、ご実家では肩身の狭い思いをなさっていたのよ。もう家には帰らないとも仰っているわ。ねぇ、ルーク・パトリウス。あの方はこの先、私を追い出すつもりはないとはっきり仰っているのだし、やはりミアテ様を妃としてお迎えしてはどうかしら?」

 「嫌だ」

 子どものようにきっぱりとルーク・パトリウスは拒否した。

 「これ以上、同じことを言わせないでくれ。私の妻はそなた一人だけだ。そなたの他に妻など要らぬのに、何故、そなたまでもがミアテをめとれと私を責め立てるのだ」

 今の今まで父王に叱責されていたのだろう、いつも穏やかな王子にしては珍しく、意地の悪いことを口にした。

 「それとも、そなたは私の妻でいることがそんなにも嫌なのか? かつての許婚を今も密かに慕い続けているのでは? 祖国を滅ぼした私への恨みが今なお消えず、それで嫌がる私にミアテを押し付けようという魂胆ではないのか?」

  「馬鹿ね、そんな訳がないでしょう!」

 クリスティアは頬を膨らませて文句を言った。

 「エルザールのことは今でも、私にとっては優しい思い出だけど、ただそれだけよ。今の私はあなたを愛しているし、だからこそ私はあなたの妻になったんだわ。復讐からでもなく嫌々でもなく、心からそう願ったからよ。ねぇ、ルーク。私は今とても幸せよ。でも、私たちの幸せが他の女性の人の苦悩の上に成り立っているのだと思うと、堪らない気持ちになるの。私に晴がましい地位は必要ないし、それならばミアテ様にお譲りして、私は部屋にこもり、いつまでも機織り女でいたって構わないのよ。よく考えてみて、それが一番誰にとっても良いことになるのではなくて?」

 「そなたは最も肝心なことを忘れている。この私はどうなるのだ? 皆が丸く収まっても、私が不幸になってもよいのか?」

 ルーク・パトリウスは憮然として、

 「そなたはどうなのだ? 本当に私がミアテを妻に迎えて何ともないのか? そなた一人の問題ではない。もしそなたに子が生まれても、母親が妾妃では庶子なのだぞ。私から王位を受け継ぐことも出来ぬ。それでもいいのか?」

 「それはーーー」

 まだ生まれてもない子どものことなど、考えてもみなかった。王子の言う通り、私の決断一つではその子の将来が変わるかもしれない。だがーーー

 「私たちの間に息子が生まれるとは限らないわ」

 「そうだな。しかし、生まれないとも限らない」

 ルーク・パトリウスは険しい口調で続けた。

 「私はそなたの息子に私の王位を譲りたい。だからこそ、なお一層、そなたを正妃にしたいと思うのだ。この世で最も愛しい女一人を妻にと望むことが、それほど悪いことなのか」

 「ルーク・パトリウスーーー」

 だが、王子は不機嫌な態度を崩さないまま、クリスティアに背を向け、寝台の上に寝転んだ。クリスティアは小さくため息をつき、同様に彼に背を向け横になる。



 何となく気まずいまま、朝を迎えた。武芸大会の二日目が始まった。この日の種目は拳闘だ。昨日の角力ほど集中して観戦することは出来ないのは、夕べの王子との会話のせいかもしれない。

 王子が私一人だけと言ってくれるのは、心から嬉しいと思うし、正直に言えば自分以外の誰にも目を向けて欲しくはない。だが、戦利品として連れて来られた捕虜の分際で王子の妃の位を狙えば、悪し様に言われて、足を引っ張られるのがおちである。仮に息子を得たとしても、王位を巡る醜い争いに巻き込まれ、悪ければ命を落とすかもしれぬのだ。人並みな望みは捨てねばなるまい。私には身分に相応しい婚礼支度を整えてくれる親兄弟すらいないのだから。身一つで嫁ぐ女が、誰からも敬われず、人として全く重きを置かれぬことは、クルービアにいた頃から重々よく知っている。

 ルーク・パトリウスとの溝が縮まらない一方で、武芸大会の方は順調に進んでいった。弓矢の部門で優勝したネヴラバは、まさに得意満面であった。ネヴラバは弟が相手をしないのをよいことに、何かにつけてはミアテに付きまとっているようだ。彼の魂胆を知るミアテは、出来る限り彼を寄せつけまいと必死だが、手練手管に優るネヴラバに敵うはずもない。

 いよいよ最終日には、槍試合が行われる。以前、優勝したことのあるルーク・パトリウスはもちろん出場しないが、得意な分野とあって、かなり熱心に身を乗り出して観ていた。クリスティアはまだもやもやとしたものを内に抱えつつ、早くこの武芸大会が終わって欲しいとそればかり考えていた。覚悟していたとは言え、人々の言われなき誹謗や冷めたい視線は、想像以上に辛いものだ。

 競技者の中で、一際目を引く者がいた。身なりから、ナザリア人ではないのは明らかだが、細身ながら素早い身のこなしで、大柄な対戦相手ですらも次々と打ち破っていった。優勝者を決める最後の試合では、手に汗を握る接戦を制し、遂にこの異国の男が勝利を手にしたのだが、栄誉を讃える花冠を受けとる段になって、彼はそれを受けもせずにまっすぐ貴賓席へと歩み寄り、ルーク・パトリウスに向けて、こう言い放ったのだった。

 「王子ルーク・パトリウス。あなたに挑戦を願い出る。そのために私はカトレから遙々ここまで来たのだ」

 突然の成り行きに、会場中がざわついた。ルーク・パトリウスは立ち上がり、皆を鎮めると静かにこう答えて言った。

 「そなたは他国の者ゆえ、決まりを知らぬのであろうが、一度栄冠に輝いた者は同じ競技には出られぬ慣わしなのだ」

 「そのことは百も承知だが、敢えて勝負を挑みたい。王子、あなたの後ろにおいでになるクルービア人の女性を賭けて」

 たちまちルーク・パトリウスの顔色が変わった。

 「何だと?」

 「私が勝てば、そのご婦人を私に頂きたい」

 「これは私の妻だ。勝負の賭けにするなどもっての外だ」

 「ですが、ここにいる誰もが知っております。ルーク・パトリウス王子、あなたは未だ公には妻帯されておらぬと」

 その言葉が終わらぬ内に、王子は憤怒の色もあらわに席を蹴った。クリスティアは急いでその腕を取り押さえて、

 「駄目よ、ルーク・パトリウス。あの者の挑発に乗っては駄目!」

 「あいつはそなたを侮辱したのだぞ、公衆の面前で!」

 取りすがるクリスティアを振り払い、ルーク・パトリウスはひらりと貴賓席から飛び降りた。借り物の兜と楯、それから槍を手に取り、男の面前に突きつける。

 「名を名乗れ、そなたは何者なのだ?」

 

ⅩⅥ 再会

 「カトレから来たイドゥーク人、とだけ申しておきましょう」

 イドゥーク人を名乗る男は自らの槍を手に取り上げ、たちまち王子の槍を振り払った。それを合図とするように、二人の男たちの槍の乱舞が始まった。

 王を含めた人々は、思わぬ展開で始まったこの槍試合に拍手喝采を送ったが、見守るクリスティアは気が気ではない。ルーク・パトリウスがこの異国の男に負かされるとは全く思わないが、息をつめて彼らの動きを見ている内に、段々と既視感を覚えるようになってきた。

 以前も同じことがあった。禁忌を犯し、聖地ラネトーで水盤を覗き込んでしまったあの夜のことーーー 戦場で戦う男たちの姿を見て、私は水の中に手を伸ばしたのだった。敵の兵士に殺されそうになっているあの人を黙って見ていられなくなって。

 『エルザール!』

 クリスティアは無意識の内に立ち上がっていた。そして、それはまさにルーク・パトリウスの槍が異国の男の体を貫く寸前でもあった。

 「ルーク・パトリウス! やめて、その人を殺さないで!」

 と、クリスティアはそう叫びながら、競技場の中に飛び出していった。

 「神を讃える祭りの場で、その手を罪に汚してはなりません。この者は競技で栄冠を得た者。すなわち神の祝福を受けた者なのですから」

 「しかし、この男はそなたの名誉を汚した」

 「いいえ、私の名誉は汚されてはおりません。たった今、あなたがその槍によって、私の汚名をそそいでくれました。あなたがこの男を負かしたことは、誰の目にも明らかなことなのですから」

 仕方なく、ルーク・パトリウスは槍の先を男の前から引き戻した。と、クリスティアは今度は地面に転がる男に向かっても、こう言った。

 「立ちなさい、カトレから来たイドゥークの民とやら。勝負はついたのです。二度とこのような無謀な要求をしてはなりません。そして、これだけはそなたに言っておきます。仮にお前が王子を負かしていても、私はあなたのものにはなりませんでした」

 ぼうぼうに伸びた黒髪も顎に生えた黒い髭も、金髪だったエルザールを偲ばすものではない。ただその目がーーー青に緑色を混ぜたような目がはっきり彼だと告げていた。そして、その目が食い入るようにクリスティアの首飾りを凝視しているのに、クリスティアははっと胸をつかれた。

 『やっぱり、この人はエルザール? でも、まさかーーー!』

 衛兵らが男を捕らえ、この場から引きずり出そうとする。が、一瞬の隙をとらえて彼らの手をすり抜け、クリスティアの前に舞い戻るや、その足元にひれ伏して衣の裳裾に口づけた。

 腹を立てたルーク・パトリウスが男に飛びかかり、拳で殴り付けた。再び殴ろうとする彼を留めなければ、男が命を落とすまで止めなかっただろう。

 「さっさとそいつを放り出せ。我らの目に触れぬ所まで、追い散らしてやれ」

 衛兵らが、今度こそ逃れられぬようにしっかりと捕まえ男を連れていくのを、クリスティアは蒼白な顔で見送った。衣の裳裾に口をつける行為は、クルービアでは目下の者が目上の者にやる仕草だ。だがーーー

 「案ずることはない。あの不届き者にそなたが心を悩ますことはない」

 クリスティアの肩に手を置いて、ルーク・パトリウスが言った。それに対して、彼女は王子の予想に反することを言い出した。

 「あの人を罰しないで。きっとクルービア人なのよ。ただ純粋に、私を助けたいと思ったんだわ。クルービア王の娘が敵国の王子に辱しめられていると、あの人の目にはそう映ったのでしょう」

 「だからこそ、そなたを正式に娶らねばならぬのだ。私が決してそなたを蔑ろにしていないと、皆に知らしめる為にも」

「誰からも祝福されないのに? ここにいる人達を見て。今の一件を面白可笑しく見ていたのは間違いないけれど、私たちに好意の目を向けている人なんて一人もいないのよ」

 渋い顔のアサルド、無表情のアデライデ、俯き加減のミアテ、ネヴラバだけは興味深げに皆の様子を眺めているが。民はひそひそと声をひそめて、異国の男が何者かを言い当てようとしていた。あれはクルービア女の恋人だよ、きっと。気の毒なこと、王子はあの王女に心底入れ込んでいるらしいが陰では裏切られているんだろうさ。

 『ほら、見なよ。あんなすがるような目つきをして』

 『今にも後を追いかけて、抱きつきたそうな顔じゃないか』

 実際、クリスティアはその男のことで頭が一杯だった。出来ることなら、今ここで彼がエルザールかどうか見極めたかった。エルザールが死んだとはっきり知る人は誰もいない。弟アドランだって生きていたのだから、エルザールが生き延びていても何らおかしくはないのだ。

 ここにいる全ての人々に注目されているとあっては、エルザールとおぼしき男の後を追う訳にもいかぬ。後ろ髪を引かれる思いで、クリスティアは彼の後ろ姿を視界から追い払った。だが、周りの光景も何もかもが、全て遠く色褪せて見える。ただルーク・パトリウスの後に従って競技場を出ていくのに精一杯だ。


 全ての競技が終了し、天幕は取り払われ、サルサザーンへの帰路についてもなお、クリスティアの心を占めるのはエルザールのことだった。折りを見て、あの男はその後どうなったのかとルーク・パトリウスにさりげなく尋ねてみたのだが、とうの昔に追い払ったとしか答えてくれなかった。

 「怪我などしていないでしょうね?」

 そう聞き返すクリスティアに、ナザリアの王子は怪訝そうに言った。

 「何故、あの男のことを気にするのだ? 終わったことではないか。それとも、あれはそなたの知り合いか?」

 「いいえ、知らない。だけど、同郷の民だもの。気になるのは当然でしょう?」

 王子がそれ以上追究することはなかったが、その日を境に何となく二人の間に壁のようなものが出来たのは確かだ。故意ではないにせよ、クリスティアはルーク・パトリウスを避けるようになり、次第に食も進まなくなってきた。一日中、部屋に籠っては、深い物思いにふけるばかりだ。
 
 「エ・・・エルザール様、ですか?」

 ネリはその名を聞くなり、顔を強ばらせた。異常なまでに塞ぎこんでいるクリスティアを案じ、ネリがあれこれと問い詰めた結果、ようやくクリスティアはエルザールかもしれない男のことを口にしたのだった。

 「えぇ、あの人はエルザールだと思う。髪の色は違うけれど、どう考えても彼としか思えないのよ。私の首飾りから目を離さなかったもの。ほら、あれはチュデル家に伝わるもので、彼が私にくれたものだから」

 「生きておいででしたか。あぁ、何と言うことでしょう!」

 喜ぶべきだろうか、それともーーー? ネリもまた、思いがけないこの報せをどう捉えてよいやら分からないようだ。ネリはルーク・パトリウスの誠実な人柄に惚れ込んで、すっかり彼の贔屓になっていた。王子の妃になるかもしれないこの時期に、エルザール様が現れたということは、よもや神は姫様を王子ではなく、エルザール様に娶すおつもりか?

 「ということは、エルザール様は姫様をここから連れ出すおつもりでやって来られたと言う訳なのですか?」

 「分からない」

 力なくクリスティアは首を振り、

 「あれきり何の音沙汰もないのだもの。ルーク・パトリウスは暴力はふるわないと言ったけど、まさかひどく痛めつけらてたり、もしかすると殺されたのではないかってーーー」

 「まさか! ルーク・パトリウス様がそのようなことをなさるはずがありません。いくら腹に据えかねたことであったとしても、姫様にお約束なさったことを違えたりなさる方ではございません」

 「えぇ、そうね。王子はーーールーク・パトリウスは、絶対にそんなことはしない」

 と、クリスティアは両手の中に顔を埋め、

 「だけど、不安なの。せっかくあの戦乱を生き延びたのに、私のせいで酷い目に遭っていたらどうしょうって。何故、あの人はわざわざ観衆の前で、王子を挑発したりしたの? 自ら首を締めるようなものだわ。ここはナザリアで、ルーク・パトリウスはこの国の王子なのよ」

 ネリはクリスティアを腕に抱いて慰めた。それからためらいがちに、

 「姫様。仮にそのお方がエルザールご本人で、姫様を迎えにいらしたのなら、どうなささいます? ルーク・パトリウス様とはご縁を切られますか?」

 「え?」

 クリスティアははっとして顔を上げた。

 「王子をお見捨てになれますの? いえ、エルザール様に不満がある訳ではありませんよ。忌まわしい戦などなければ、姫様とエルザール様は人も羨む夫婦とおなりだったのですから。けれども、ルーク・パトリウス様のようなお方は他にありますまい。敗国の女にあれほど尽くされる殿方を、たとえクルービアでも見たことはございませんでしたもの」

 「それは、もちろんーーールーク・パトリウスには感謝しているわ。彼がこれまで示してくれた誠意の一つ一つのお陰で、どれだけ私が救われたかしれない。王子がいなければ、私は今頃不遇な身をかこっていたに違いないのよ。お気の毒なメルサリーナ様と同様にね。あぁ、でも! エルザールは私が子どもの頃からの憧れの人で、しかもお父様の決められた許婚。あの人が生きていたのなら、私が真心を捧げねばならない相手はーーー」

 「そうですね。既に亡きお方とはいえ、お父上のお言いつけに逆らう訳には参りません。王子のお嘆きが目に浮かぶようではありますが」

 あの祭りの夜のことを思い出す。エルザールと交わした口づけを、エマルディエへ向かう馬車を追いかけ誓った言葉を、幼い頃からの彼との思い出の一つ一つを。だが同時に、ルーク・パトリウスの悲しげな黒い瞳がずっとこちらを見ているような気がして、彼女を落ち着かない心地にさせるのだった。

 『私、エルザールについていくの? 周りを敵に回してまで、私を守ろうとしてくれているルーク・パトリウスを裏切って?』

 はじめ祖国と家族の仇だとあれほど憎んでいながら惹かれるようになったのは、彼の誠実さと優しさにほだされたせいであって、愛などではなかったのだろうか? 身を守るため、本能的に彼に取り入り、それが愛だと錯覚していただけ? だとしたら、火の女神との闘いの最中に感じたあれは何だったのだ。遠征中の彼の身を案じ、ひたすら無事を願い続けたあの想いは? エルザールが死んだものと思い込んでなかったなら、王子に身を委ねたりなどしなかっただろうか?


 考えれば考えるほど、本当の自分の気持ちが分からない。ますます悩みは深まるばかり、日によっては床から起き上がれない時もあるほどだ。さすがにルーク・パトリウスも心配になり、何度も医師に看せようとしたのたが、病でないと確信のあるクリスティアは必要ないと断った。王子は連日、アサルド王に呼び出され、ミアテとの婚姻を説得されていたが、なおも拒絶し続けて、二人の言い争いが絶えることはない。クリスティアは自分の悩みにかまけていて、もはや王子とミアテの結婚のことなど意識にも上らなかったのだが。


 そんなある日のこと、屋敷に巡礼者が現れた。

 サルサザーンにはナザリアの神々の社が数多くあり、各地から巡礼者が訪れるのが常である。巡礼者たちに宿や食事を求められれば、喜んでもてなすのが礼儀であり、断れば常識のない奴だと罵られて面目を失うことになる。王子の館にも時折そうした者たちが訪れては、ご馳走の相伴に預かっていた。クリスティアがその座に加わることはまずなく、特にネヴラバとの一件があってからはなおのこと、見知らぬ客の来訪には気を付けていた。それでも、その日巡礼者のいる部屋まで下りて行ったのは、声に聞き覚えがあったからだ。

 例によって王子は不在だ。ネリを伴い、巡礼者たちが座る食卓へとクリスティアは近付いた。彼らは二人組の男らで、よほど腹が空いているのかクリスティアを見るまで、飲み食いに夢中であった。が、奥から現れたクリスティアを見ると、手を止めて、その場にすっくと立ち上がった。

 「姉上?」

 ぼろを纏い、汚れた顔をしていても、一目で弟だと分かる。クレスで別れた時はまだ幼い少年であったのに、こうして見ると既に背丈は彼女を追い越していた。

 「アドランね? あぁ、本当に私の弟なのね。あの燃え落ちたクレスから、よく無事に逃げ出せたこと!」

 「クリスティア姉様、あなたこそ。ご無事な姿を拝見できて、こんなに嬉しいことはありません」

 六年ぶりに会う姉にどう話しかけてよいやら分からす、アドランは口をもごもごさせてこう言った。

 「姉上のお首にすがりたい気持ちで一杯なのですが、ここでは他人の目もありましょう。行動は慎みますが、姉上に会えてどれほど嬉しく思っているか、どうか僕の気持ちだけはお察し下さい」

 「もちろんですとも。私だって、あなたを抱きしめたいところだけど我慢するわ。巡礼者が語る世の中の出来事に耳を傾けるふりをして、ここにこうやって座っていましょう。ネリ、お前もそう心得ていてね」

 ネリは死んだとばかり思っていたアドランを目の前に見て、気を失わんばかりに驚いていたが、分をわきまえた乳母は女主人の命令に忠実に従うだけだった。

 「メルサリーナ様から、話は聞いていたわ。ほら、あなたが書いた書き付けも、この通りここにある。いつかきっと私に会いに来てくれるって、待っていたのよ」

 「姉上がサルサザーンへ行かれたことは知っていましたが。何しろ僕は囚われの身で、長い間、   の領主に仕えていたのです。それはもう、姉上の前で口にするのも憚りたくなるほど惨めな毎日でした。何とかそこを逃げ出し、父上の友人でもあったカトレ王を頼りました。王は私を快く庇護して下さり、また娘婿として迎えても下さったのです。こちら、僕の隣りにいるこの人は義兄です。僕はこの人の妹を娶りました」

 クリスティアはびっくりして、アドランの横に座る細面の青年の方を見た。青年はクリスティアに向かって、かるく頭を下げた。

 「そうだったの。良き方々に廻り合えたのは幸運だったわね、アドラン」

 「えぇ、本当に。おっしゃる通りです。今は義理の父上でもあるカトレ王は、更にこうも約束して下さいました。僕がクルービアの王位を取り戻す支援をして下さると」

 「クルービアの王ですって? まあ、アドラン! あなたが?」

 二度驚いて、クリスティアはまじまじとまだ幼さを残した弟の顔を見つめた。自分とよく似た輝くような金髪に濃いブルーの目をしたこのアドランが、由緒あるクルービアの王冠を被る姿などとても想像も出来ない。

 「僕が父上の最後の息子なのです。僕がクルービアを再興せずして、誰がやると言うのでしょう。カトレ軍を率いて、クレスを奪還します。そして、姉上。あなたのお力が必要なのです」

 「私も共にカトレへ行けと?」

 「そうです。しかし、その前に姉上にお願いがあります。ナザリアに奪われた〈大眼石〉を取り戻して頂きたいのです」

 〈大眼石〉ーーー

 たちまち、クリスティアの脳裏に甦る神官マデリオスの険しい顔。ナザリア王の元へ行き、〈大眼石〉を取り戻せと命じられた。その後、石に近付く機会はなく行方すら定かでない。恐らくは王宮の奥深くにある宝物庫のどこかで眠っていると思われるがーーー

 「創造神エマルデの右の眼がなければ、僕はクルービアの正統な王と認められません。どうにかして、取り戻せないでしょうか? かつてエマルディエで巫女としてエマルデ神に支えられた姉上ならば、一目であの石を見分けられるのではありませんか」

 「アドラン、実のところ、神殿でのことはあまり覚えていないのよ。特に儀式のことは。外部に秘儀を洩らさぬため、神官たちに薬を盛られていたのだもの。それに〈大眼石〉は今ではすっかり力を喪っているわ。クルービアに持ち帰ったとしても、何の力もないただの石でしかないのよ」

 「力を喪っていようとも、目に見える形は必要です。僕こそがエマルデ神によって承認された王なのだと、人々に訴えるためにも。エマルディエにいた神官たちは皆殺され、他の巫女たちの行方も知れず、頼れるのは姉上しかおられぬのです。どうか我らの祖国のため、力をお貸し下さい。〈大眼石〉を見つけ出し、僕と共に戦って下さい、姉上」

 「〈大眼石〉については、メルサリーナ様にご相談して、何とかしてみましょう」

 クリスティアは長いこと思案した後、こう言った。

 「だけど、あなたと共にクルービアへ帰ることについては、もう少し時間をもらえないかしら?」

 「何故です?」

 アドランは心外そうに首を傾け、クリスティアをまじまじと見つめた。

 「クルービアへ帰りたくはないのですか? 懐かしい祖国の土を踏みたいと思わないのですか? 誇り高きクルービア王の娘であるあなたが、卑しき身分に貶められている今の境遇から逃れる気はないと仰るのですか?」

 「他の人の目にどう映っていようとも、私は決して王子から不当な扱いを受けてはいないし、むしろあの人にはこれ以上ないほどに親切にされたわ。いかなる時も私の意思を尊重し、私が心を許すまでは決して近寄ろうともしなかった。今だって、私を蔑ろにすまいと必死に孤軍奮闘しているのよ。そのせいで父王と対立するのも厭わずに。そこまで私に尽くしてくれる人を、どうして簡単に捨てることが出来て?」

 「では、エルザールはどうなるのです? 姉上もご覧になったのではありませんか? 武芸大会での彼の姿を」

 と、アドランはクリスティアにとって最も痛いところを突いてきた。

 「目立つことはするなと釘を刺しておいたのに、僕の言うことなど聞き入れもせず、エルザールは武芸大会に出ました。それもただひたすら、姉上の目に留まる為だけにです。エルザールは偶然にも、僕と同じ主人の元で労役についておりました。クレスの大貴族の子息が、僕よりも更に過酷な状況下でーーーあぁ、それはまるで家畜同様の悲惨な有り様でした。エルザールと僕は示し合わせて、監視の目を潜り抜け、何とか残忍な主人の手から逃れることが出来ました。そして、カトレへと逃げる道すがら、何度も繰り返し彼は僕に話してくれたのです。長い歳月、苦しい日々を耐え抜くことが出来たのは、常に姉上を心の支えにしていたからだと。そこで、僕は彼に誓いました。共にクルービアを再興し、そして仇の手の内から姉上を奪い返そうと。きっと姉上も彼への想いを胸に秘め、苦境に耐えておられるとばかり思っていたのです。あぁ、それなのにーーーあなたは不幸な許婚のことなどすっかり忘れ果て、敵国の王子の方を気にかけておいでとは!」

 「そうではないわ。エルザールのことを忘れたことなどなかった。だけど、エルザールは死んだと聞かされて、あの人への想いも過去の思い出も封じ込めるしかなかった。そうでもしなければ、このナザリアでは生きていけなかったのよ」

 「エルザールは生きていたのです。ですから、あなたは彼のものですよ、姉上。父上がそうお決めになったのですから」

 と、弟アドランはどこか冷めたような口ぶりで続けた。

 「ナザリアの王子といかなる縁を結ばれていようと、断ち切ってもらわねばなりません。父上亡き今、僕が王としてあなたに命じます。あなたはエルザールの妻となり、クルービアへ帰るのです。そして、まだ若い僕が国を治めるのを姉として見守って頂きたい」

 「アドラン!」

 あの小さかった弟が、後をついて回っていた弟がこうして姉に命令する日が来ようとは、夢にも思わなかった。きつい眼差し、険しい口元。優しかった子がこんな変貌を遂げるまで、一体どんな目に遭ったと言うのだろう? クリスティアは重苦しい思いを噛み締めつつ、しかしこう答えるしかなかった。

 「お願いだから、時間をちょうだい。急なことで、私も混乱しているのよ。〈大眼石〉のことで何か分かれば、すぐに知らせるわ。でも、私自身のことはーーーしばらく、考えさせて」

 「いいでしょう」

 と、アドランは渋々ながらそう答えて、肩をすくめた。

 「今日、この場にエルザールを連れて来なくて、正解だった。彼が姉上の今の言葉を聞いたなら、さぞかし絶望しただろうから。屈辱にまみれてなお耐え忍び、やっとの思いで愛する女の元にたどり着いたのに。その女はとうに神聖な誓いなど踏みにじり、よりにもよって祖国を滅ぼした国の王子と情を交わしていたとは、エルザールがあまりに憐れではありませんか」

 アドランの言葉はクリスティアの胸を貫いた。彼の言うことはいちいち最もで、反論する余地もない。巡礼姿のアドランと彼の義兄は、間もなく屋敷から立ち去っていったが、クリスティアは長いことその場から立ち上がることすら出来なかった。

 「姫様、大丈夫ですか?」

 心配したネリが、クリスティアの背中を擦りながら尋ねた。

 「アドラン様のあの言い様! あんまりです、姫様だって苦労なさったのです。何も好き好んでサルサザーンまでやって来た訳ではございませんのに」

 「仕方ないわ。実際、私はエルザールを裏切ったのだもの」

 「そうするより他、なかったからですよ。いくらエルザール様への想いがあっても、王子の好意にすがるしか姫様が惨めな境遇に陥らずに済む道はなかったのです」

 「いっそ、惨めな境遇に陥っていた方がよかったのだわ。こうして、エルザールが無事に生きていて、私を迎えに来てくれることが分かっていたなら!」

 と、クリスティアは両手で顔を覆い、泣き出した。

 「だったら、何の迷いも憂いもなく、エルザールの手を取ってここから出ていくのに。過ぎた過去は捨て去って、新たな気持ちで前へ進むことが出来るかもしれない。だけど、やっぱり王私は子を忘れることが出来ないわ。エルザールへの気持ちは今も確かに私の中には残っているけれど、それ以上に私はルーク・パトリウスのことが好きなのよ。ネリ、私はどうしたらいいの? アドランと一緒にクルービアへ行くのが正しい道だと分かっているし、エルザールと夫婦になるのも当然のことなのだけれど、それでも私は王子から離れたくはないのよ」
 

 



 

ⅩⅦ 宝物庫

 「宝物庫は王宮の北側、奥深くにございます」

 メルサリーナは後宮に暮らすだけあって、王宮の内部についてはそれなりに詳しい。彼女の住まいを訪れたクリスティアは、アドランに会ったことを話し、また〈大眼石〉を探して欲しいと頼まれたことも合わせて伝えた。

 「許可なしに宝物庫に近付くのは無理です。やはり、陛下のお許しを貰うのが一番よい方法だと思いますわ」

 メルサリーナはクリスティアとあれこれと話し合った挙げ句、アサルド王に直接訴えるのがよいと言い出した。

 「王がすんなりと引き渡すでしょうか?」

 クリスティアはメルサリーナの案に半信半疑であった。

 「曲がりなりにも、クルービアの秘宝と呼ばれたあの石を? 確かに今は何の力もない石ですが、クルービアを征服した証しでもある貴重な石に変わりありません」

 「陛下はあれよりも、もっと見事な宝石や財宝をお持ちです。〈大眼石〉も、陛下にとっては数多くの財宝の一つでしかありません」

 メルサリーナは言った。

 「私にお任せ下さいませ、クリスティア様。必ず、陛下から宝物庫の鍵を預かって参りますから」

 「どうやってそんなことが出来るのです、メルサリーナ様」

 クリスティアが唖然として聞き返す。それに対して、メルサリーナは歪んだ笑みを見せ、

 「クリスティア様が心配なさることは何もございませんわ。ただ私を信じて、お待ち下さればよいだけです」

 「あなたもサルサザーンを離れるつもりなの?」

 と、クリスティアがおずおずと訊いた。

 「アサルド王をそれほど慕っている訳ではないのでしょう?」

 「えぇ、あんな王になんぞ、ほんの一欠片の好意もございませんわ。ですが、私はクルービアへ帰るつもりもありませんの。アドラン様からもそうしたお申し出はあったのですけれど」

 「何故?」

 「私には迎えてくれる身内がおりません」

 「あなたは母の従姉妹ではありませんか。私たち姉弟にとってあなたは間違いなく身内であり、家族同然でもあるわ」

 「悪名高いアサルド王の寵愛を受けているのですよ。誰が私の帰りなど喜ぶでしょうか」 

 メルサリーナは、どこかしら哀しげに呟いた。

 「よいのです。故国を離れる時に、私はこの運命を甘んじて受け入れたのですから。それに、王の後宮から私を盗み出すのは至難の業ですよ。必ずやあなた方の足でまといとなりましょう」

 「メルサリーナ様ーーー」

 「あなたも何だか浮かない顔をなさっておいでだわ、クリスティア様。何を思い悩んでいらっしゃるの?」

 不意に自分に話題を振られて、クリスティアは顔を赤らめた。

 「いいえ、私は何もーーー」

 「ルーク・パトリウス様のことね。王子とお別れするのが、そんなにもお辛いの?」

 じっと自分を見つめるメルサリーナの視線を避けるように、クリスティアは顔を背けて、

 「私もメルサリーナ様と同様、ナザリア王子の寵愛を受けているのです。果たして、民が私を受け入れてくれるかどうか。しかも、私はエマルデの巫女であったとは言え、神殿のことなど何も分からないのです。こんな私がアドランの役になど立てるのでしょうか」

 「あなたは私とは違います、クリスティア様。ルーク・パトリウス様は、敵国の王子でありながら、そのお人柄はクルービアでも名高いものでした。父王の悪行をいつも諌めておいでだったのは、あの王子だったと知らぬ者はおりません。敗者の女が勝者の男にいいようにされるのは世の常ですもの。誰もあなたを責めたりいたしませんわ」

 「それはメルサリーナ様だって同じこと。自ら望んでアサルド王の後宮に入られたのではないのに」

 「それでも人は私を見る度、アサルド王の顔を思い浮かべることでしょう。私はそれが辛いのですわ」

 メルサリーナは静かにそう言った。

 「大丈夫。あなたはアドラン様のただ一人の姉上です。お若い弟君の心の支えとなられますわ。ただしルーク・パトリウス様はーーーさぞかし悲しまれるでしょうけれどね。あれほどご執心なさっているのですもの。道理の分からぬお方ではないから、無理に引き留めはなさらないと思うけれど」

 「私がいなくなれば、ルーク・パトリウスはミアテ様を妻に迎えるわ。そうなったら、アサルド王との確執も無くなるわね」

 「それはどうかしら。私は王子はミアテ様とご結婚なさらないと思いますよ」

 思わせぶりな言い方だった。クリスティアは眉をひそめた。

 「あなたを失ったからと言って、他のお方を妻にお迎えになるかしら。それなら、とうの昔にミアテ様と婚姻なさっていたはず。噂に聞いたままの王子ならば、王位の為に自らの愛を汚すようなことはなさらないはずですわ」

 弟の望むようにクルービアへ行くことが正しい道と分かっていても、未だ心を決められぬクリスティアだった。そのアドランは義兄であるカトレの王子やエルザール他数人と共に、巡礼者に扮したままとある屋敷に宿をとっており、〈大眼石〉が手に入り次第、知らせを送ることになっている。そのため、クリスティアは一旦、館に引き返し、再びメルサリーナからの連絡を待った。

 メルサリーナから使いが来たのは、それから五日後のこと。その手の内に大きな鍵を握りしめ、クリスティアの到着を今か今かと待っていた。

 「首尾よく事が運びました、クリスティア様。失礼ながら私の侍女の姿にお着替えを。これから、すぐに宝物庫へ参りましよう」

 準備よく侍女の装束が並べられている。クリスティアは早速それに着替えた。

 「陛下より許しを得ましたの。庫の中からどれでも好きなものを取ってよいと。ですから〈大眼石〉見つけ、それをアドラン様の元へ届けて下さい」

 頭にベールを被り、顔を隠した二人は早速廻廊へと出ていった。ぐるりと建物を巡り、王宮の奥深くにある大きな庫へとたどり着く。入り口には見張りの兵が立っており、メルサリーナはそのうちの一人に鍵を手渡した。

 「陛下から鍵を預かっています。今すぐここを開けなさい」

 見張りの兵は鍵が本物か確認するや否や、すぐさま扉を開けてくれた。

 クリスティアとメルサリーナは松明を手に中へ足を踏み入れる。内部はたいそう広々としていて、武器もあれば目にも眩しい黄金や宝石の類い、はたまた巨大な像などあらゆるものが雑然と積み上がっている。この中から〈大眼石〉を探し出すのかと思うと、気が遠くなってくる。しかし、ここで見つけなければ意味がない。

 「クリスティア様、ところで、〈大眼石〉とは一体どのような見た目をしていますの? 私たち、別々に探した方がよろしいのでは?」

 「えぇ。でも、私も〈大眼石〉を直に見たことはないのです。確か、大いなる眼という名に反して、両手に乗るほどの小ささと聞いたことがあるわ」

 エマルディエの聖なる森を思い浮かべる。もし私が〈大眼石〉の力に触れたのだとしたら、あの日の夜の他にない。鏡のような水盤に手を伸ばした瞬間、巨大な力がこの身に宿ったのだった。遥か時空をさえ跳び越える力が。ただ思い出すだけでよい、あの感覚を。石はただの器であり、またこの身もただの器に過ぎぬのだから。

 うず高く積み上がる大小様々な品々の中に、一つだけひどく気を引き付けられる箱があった。黒檀で出来たその箱は、ちょうどクリスティアの両腕で抱えられる大きさで、刻まれている文様はエマルディエの神殿のレリーフでも目にした覚えがある。

 すぐさまメルサリーナに呼びかけ、松明を持ってもらっている間に、箱の蓋を開けてみた。中には確かに両手に入るほどの何の変哲もない石が入っていた。

 「これで間違いありませんか?」

 不思議そうな様子で、メルサリーナが確認する。

 「何だか、気が抜けるくらいごく普通の石なのですね」

 「多分ーーー間違いないと思うけれど」

 そう答えるクリスティアも、実のところ自信はない。しかし、本当にただの石ならば、王宮の宝物庫などに置かれているはずもないのだ。

 「これだと思うわ」

 本物だと信じるしかない。クリスティアは蓋を閉めて、しっかりと箱を胸に抱きしめた。メルサリーナが松明を二つ持ったまま、外へ出た。が、用心のため、見事なサファイヤの首飾りと真珠の耳飾りを持ち出すのを忘れなかった。

 「陛下に宝物庫で何を選んだのかと問われたら、これらを見せなければなりませんからね」

 と、メルサリーナが言った。松明を見張りの兵士に渡した後、もと来た道をたどり、部屋へ帰るばかりであった。のだが、

 「おや、これはこれは」

 最初の曲がり角のところで、危うく人にぶつかりそうになった。先を歩いていたメルサリーナは、思わずあっと叫んだ。

 「珍しいこともあるものだ。後宮にお住まいの方がこのような所を出歩いておられるとは」

 メルサリーナの装いを一目見るなり、男は笑いを含んだ声でそう語りかける。メルサリーナはもちろん、クリスティアも身を強ばらせた。この声には聞き覚えがあったーーーそうだ、ネヴラバだ!

 「宝物庫に何かご用でも?」

 ベールに隠れて顔が見れないが、滅多にない父王の妾妃との遭遇にネヴラバも好奇心を隠せない様子だ。困ったことになったと、二人の女たちは顔を見合わせたが、何とかして切り抜けるしかなかった。 

 「陛下のお許しを得て、装飾品を幾つか頂いて参りました。これから部屋へ戻るところです」

 メルサリーナが直接答える訳にもいかぬので、代わりにクリスティアが答えるしかなかった。

 「俺は王の息子のネヴラバだ。さて、そなたは父上の数ある妃方の内のどなたであろう?」

 「どうぞお控えなさいませ。これ以上、お父上のお妃に近付いてはなりません」

 「名前を聞くことも許されぬか?」

 「陛下のお怒りを恐れるならば、聞かれぬことです」

 すると、ネヴラバは諦めたのか、一歩後ろに引き下がった。メルサリーナとクリスティアは内心ほっとしながら彼の横を歩き出したのだったが、さすがに妃に手は出せなくとも侍女ならばよかろうと、背中を見せた隙にネヴラバはクリスティアの肩に手をかけ、ベールを引き上げてしまった。

 顔を見られまいとしたが、遅かった。見覚えある侍女の顔に、ネヴラバも驚きの声を上げた。

 「待て。お前は、ルーク・パトリウスのーーー」

 ネヴラバの手が触れた瞬間、たちまち忌まわしい過去の出来事が蘇り、全身総毛立つ。腕に抱えた黒檀の箱をきつく抱きしめることで、どうにか平静を保てたが、そうでもしなければとてもこの場に立っていることなど出来なかっただろう。

 「お前が何故ここにいる? それに侍女とは、どういうことだ?」

 「あ・・・あなたには関わりのないことです。手をお離し下さい」

 気付けば、ネヴラバの手は両肩に置かれていた。決して顔を上げようともせず、身をよじってその手から逃れようとする。今なお彼女を手元に置きたいと、望みを捨てきれずにいたネヴラバは、思いもよらぬ形でのこの出会いに我を忘れて、上から覆いかぶさろうとした。

 しかし、メルサリーナがクリスティアの苦境を察し、素早く二人のあいだに割って入る。

 「お止めなさい。この方に無礼を働くことは、私に対する無礼でもあるのですよ、ネヴラバ様」

 と、メルサリーナが鋭く言い放った。

 「あぁ、そうか。なるほど、そなたはメルサリーナだな。父上の今一番の気に入りだというクルービア女か」

 ネヴラバは苦笑いして、クルービアから手を離した。

 「侍女でもない女に侍女のふりをさせて、何故宝物庫へ?」

 「あなたに答えるいわれはありません。このお方を時折、お呼びしていることは陛下もご存じです。私の話し相手にと、最初に勧められたのは陛下なのですから」

 「装飾品を幾つかと言われたが、それにしては多くはないか?」

 「好きなだけ貰ってよいと言われたのです」

 平然と、メルサリーナは言い返した。

 「それほど私の選んだものが気になりますか? でしたら、ここで全て拡げてみせましょうか?」

 「俺が気になるのは、そなたではなくこの女が選んだものだ。何せ、金銀宝石を山と積むと言っても、俺になびかなかった女なのだからな」

 たが、ネヴラバは父王の最愛の妾妃にはこれ以上関わらぬ方が得策と考えたのだろう。結局は立ち去っていった。彼の姿が完全に見えなくなって、ようやくクリスティアは顔を上げた。

 「大丈夫ですか?」

 紙のように白くなっているクリスティアの顔を覗き込み、メルサリーナは心配げに支えた。

 「えぇ、大丈夫よ。お気になさらないで、メルサリーナ様」

 気丈にそう言ったものの、声がかすかに震えている。

 「ネヴラバ様とは以前にもお会いしたことがあるのですか? 何だかとても馴れ馴れしい様子でしたが」

 「以前ーーーこの前の武芸大会でお会いしたのよ」

 実際に起きたことを口にする気にはなれない。曖昧にそれだけ答えて、先を急ごうとメルサリーナに促した。メルサリーナもそれ以上追求するつもりはなく、大人しくクリスティアに従い、自らの住まいへと足を向ける。

 〈大眼石〉を入れた黒檀の箱をネリと共に持ち帰り、早速、アドランの元へ知らせることにした。しかし、この件についてネリ以外ーーーケアンも含めてーーー知る者がいないため、どうやって使いを送るか考えなければならなかった。

 「アドランのことは、ルーク・パトリウスにも言わない方がいいかと思って」

 クリスティアはネリに言った。

 「アドランはナザリアから見れば、敵方の王子な訳でしょう? 見つかったら殺されるわ。もちろん、ルーク・パトリウスが私の弟をそんな目に遇わせるとは思わない。だけど、もしあの人がアドランを庇っているのが王に知られたら、ただでさえ険悪な状況なのに、更に火に油を注ぐ結果になりかねないわ」

 「姫様が行く訳には参りませんよ。王宮へいくのとは話が違うのですからね」

 アドランは巡礼者のふりをしたまま、サルサザーンのとある商人の家で厄介になっているのだった。

 「私が行って参ります、クリスティア様。そして、アドラン様をお連れしてくればよろしいのでしょう?」

 「そうね、こちらから持っていってもいいのだけれど、万が一のこともあるし、アドランに来てもらった方がいいでしょうね」

 乳母に大切なクルービアの秘宝を持たすには、盗人などに遭遇するリスクも考慮すると、乗り気になれないクリスティアであった。

 「心配ございませんよ。私は街に慣れておりますから。さすがに一人で〈大眼石〉を持っていくのは気が引けますが、アドラン様へのお言伝てぐらいなら朝飯前です」

 そこで、次の日にも早速、アドランの所へネリを遣わすことにして、クリスティアは弟に宛てた手紙をしたためた。書き終えた彼女に、

 「それで、決心はつかれましたか、姫様?」

 と、ネリが訊ねたのは、つまりアドランと共にカトレへ向かうのかどうか知りたいがためだ。

 アドランに時間が欲しいと言ったものの、こうして〈大眼石〉を手に入れてしまった以上、もはや返事を引き伸ばすことなど出来ないのは分かりきっている。

 「この世でたった一人の弟が頼んでいるのだもの。一緒に行ってあげなくては」

 「ルーク・パトリウス様にお話しになられますか?」

 「そうね、今夜にも。何も言わずにいなくなったら、あの人、ひどく悲しむでしょうから」

 ルーク・パトリウスとは、あの武芸大会の後、何となく気まずいままである。お互い言い争いを避けようと、ミアテのことも父王との争いについても一切話題にしないが、実際は一向に進まない愛娘と王子の婚礼に業を煮やしたミアテの父親が、王宮に乗り込んでくる事態を招いていたのだった。ミアテと結婚しないなら、王太子とは認められぬとアサルドが言い出し、ルーク・パトリウスは苦しい立場に追いやられていたのだが、それでも頑として意思を曲げず、王の怒りはもはや抜き差しならぬところまで達しようとしていた。

 しかしながら、屋敷で見せるルーク・パトリウスの表情は、そんな事情を全く窺わせることなく、いつも通りに穏やかであった。クリスティアの前でくつろいだ様子を見せる王子を、いつになくクリスティアは胸のつまる思いで眺めていた。

 「どうした? さっきから何故、そのような目でこちらを見ている?」

 あまりにしげしげと見つめるので、ルーク・パトリウスは不思議がった。

 「何だか疲れているみたいだからよ。また、お父上と喧嘩したんでしょう?」
 
 「最近では、もう挨拶のようなものさ」

 そう言って、彼は笑った。

 「そなたの心配することではない。それよりも、そなたこそ具合はどうだ? 相変わらず、食が進まないか?」

 「いいえ、今日はいつもよりいいわ」

 このところの心労も、この夜はさほど彼女を苦しめず、久しぶりに二人はそろって食卓についた。蝋燭の灯りに照らされた王子の黒髪の何と艶やかであろうと、クリスティアは思う。ゆったりと束ねた髪の下からのぞく浅黒い肌は引き締まり、切れ長の黒い目はこの人が戦士であることを忘れてしまうほど、静かな色を湛えている。初めて会った時からこの人は、どこかエマルディエの静けさを思わす人だった。聖なる泉に身を浸した時、感じた清らかさそのままに、この人に包まれていると全ての嘆きも苦しみも洗い流される気がしてならなかった。

「やはり、具合が悪いのではないか?」

 いつしか涙ぐんでいるクリスティアを見るや、ルーク・パトリウスは席を立った。

 「違うの。思い出していたのよ。私たちが初めて会った時のこと」

 「宴の席のことか?」

 「いいえ。それよりも前」

 「私がそなたをーーー剣で刺した時か」

 ルーク・パトリウスは苦しげに呻いた。

 「たとえあれが幻であったとしても、そなたを斬りたくはなかった。今もあの感触を忘れることはない」

 「私、思うのよ、ルーク・パトリウス」

 クリスティアは彼の大きな右手を取り、口づけると自分の左の頬に押し当てた。

 「あなたに私の許婚を殺して欲しくなかったから、私、あなたの前に現れたんじゃないかって。あの頃の私はあなたのことなんか知らなかったし、エルザールを愛していたのは確かよ。だけど、あのまま彼があなたの手で殺されていたら、今もあなたを憎み続けていたと思う。どれ程あなたに惹かれていたとしてもね。〈大眼石〉はそのために力を貸してくれたのだわ。将来、私たちが出会うために」

 「どうしたのだ、今宵のそなたはどうも変だ。何故、涙など流している? 何かあったのか。まさか、またしてもネヴラバに何かされたか?」

 「いいえ、何も。ただあなたがいとおしいだけ。どうしようもなくあなたのことが好きなのよ、ルーク・パトリウス」

 今、言うべきだと思った。弟がこのサルサザーンに来ていること。一緒にカトレへ行ってくれと頼まれていること。死んだと思っていた許婚が生きていたこと。ルーク・パトリウスにはどんな些細な嘘もつきたくなかった。本当はどこにも行きたくはない。だが、行かざるを得ないことをこの人なら分かってくれるだろう。自分の苦しみよりも、この人が苦しむのを見る方が何倍も辛いが、それでも、何も言わないで立ち去ることだけはしたくなかった。

 「あなたに話があるの」

 クリスティアは口を開いた。ルーク・パトリウスの天鵞絨のような黒い目を見ていると、言おうとした言葉がもつれそうになってくる。

 「言わなければならないことがあるの。実はね、ルーク・パトリウス。私のーーー」

 喉の奥の方から苦いものが込み上げてきて、それ以上話すことが出来なくなった。顔を伏せるクリスティアを抱きとめて、ルーク・パトリウスは心配そうに言った。

 「体調が良くないのだな。私の前で無理などするな。横になっていた方がいい。話はまた後にしよう」

 そのまま抱き上げて寝室へと運んだ。寝台にそっと降ろし、そのままネリを呼びに行こうとするのをクリスティアは衣を掴んで引き留めた。

 「お願い、行かないで。ここにいて」

 まだ話はしていない、何一つ。今は胸がむかむかして気分が悪いが、少し横になっていれば治まるだろうとクリスティアは考えた。

 「ネリを呼ばなくていいのか?」

 「えぇ、ネリよりもあなたにいて欲しいの」

 珍しいこともあるとルーク・パトリウスは思った。普段、クリスティアはこうしたことを口にしないのだが。しかし、彼女の願いを聞き入れて、王子はネリを呼びにいくのをやめにした。代わりに寝台に腰を下ろし、その背中をさすってやる。

 「こうもしょっちゅう具合が悪くなるようなら、医者に看てもらった方がいい。明日にも連れてこよう」

 「医者なんて大袈裟よ。しばらくすれば治るわ」

 ルーク・パトリウスはクリスティアの吐き気が治まるまで、ずっと付き添い背中をさすり続けた。その手の温もりを感じつつ、いつしか眠りに落ちてしまったクリスティアがふと目を覚ますと、彼女のすぐ横に伏した王子もまた同様に眠っていた。そして、クリスティアを包み込むようにして眠るその顔を、彼女は飽くことなく眺め続けた。顔にふりかかる黒髪を払いのけ、秀でた額、すっきりとした鼻筋、唇へと指で辿っていく。そして、彼女は今はっきりと悟った。私はこの人から離れることなど出来ないと。その唇で軽く王子の口元に触れると、王子はたちまち浅い眠りから覚めた。

 
 

 
 

 

 

ⅩⅧ 変転

 「クリスティア?」
 
 ルーク・パトリウスは眠たげに目を開いた。

 「気分はどうだ? 少しは良くなったか?」

 「えぇ、だいぶんね」

 と、クリスティアは小さく頷き、

 「ごめんなさい、心配かけて」

 「気にするな。具合が悪いときに我慢することはない」

 ルーク・パトリウスは労るように彼女の額に口元を寄せた。

 「すまない、そなたを悩ましているのは私なのだな。私がいつまでも意地を張り続けて、周りと対立しているせいで、そなたの心労も絶えないのだろう? 言ってくれ、私にどうして欲しいのだ? 私の意思などどうでもよい。何でもそなたの言う通りにしよう」

 「ルーク・パトリウス、私はーーー」

 もうミアテと結婚して欲しいなど言えないと思った。彼の立場を考えて、それが一番だと必死に自分にも言い聞かせてきたが、本心ではそんなことを望んでいなかった。誰にも渡したくない。そのせいでこの人が苦境に立たされることになっても、私だけのものでいて欲しい。王子でなくなっても、国を追われてさすらうことになろうとも、ずっとこの人と一緒にいたい。弟とは縁を切り、カトレになど行くまい。どんなに非難されようとも、私はこの人と共に生きていく。

 「私だけをあなたの妻にして。ミアテ様とは結婚しないで。あなたが他の誰かのところへ行ってしまうのは堪えられない」

 よもやこれまでとはまるで正反対のことを言い出すとも思っておらず、ルーク・パトリウスは耳を疑ってしまった。

 「今何と言った? ミアテと結婚するなと? 本当にそう言ったのか?」

 「そうよ。もう自分を偽るのはやめにする。あなたのためを思えば、私さえ我慢すればいいと思ったの。でもやっぱりそんなのは嫌」 

 と、クリスティアはルーク・パトリウスの首に腕を巻きつけ、

 「私以外の誰も見ないで。他の誰にも触れないで。私だけを好きだと言って。お願いよ」

 「何度でも言おう、クリスティア。これまでそなたに誓った通り、私はミアテだろうと誰であろうと、そなた以外の女を妻には迎えない」

 「父王の怒りを買っても? あなたに世継ぎの資格がないと言われても?」

 「父がどう思おうと構うものか。それに、元からナザリアの王位に興味などない。欲しい奴らにくれてやる」

 「後悔しない? 絶対に?」

 「しないとも。どれほどの莫大な富と名誉を与えようと言われても、私はそなた一人を選ぶだろう」

 「愛しているわ、ルーク・パトリウス」

 「私もだ、クリスティア。そなたを愛している。生涯かけて、私の妻はそなただけだ」


 こんなにも激しくこの王子のことを愛するようになると、あの時どうして思えただろう。恐怖に震えるこの身をマントで包み込んでくれた時、この人にはただただ憎しみしか覚えなかったのに。今はこの人から少しでも離れたくないと思う。体全体でこの人の存在をいつまでも感じていたい。クリスティアは心の底からそう欲している自分に驚きつつ、やがてその驚きも甘やかな陶酔の中に溶け込んでいく。


 夜は駆けるように過ぎていき、やがて朝が訪れた。ルーク・パトリウスはなおもクリスティアから離れがたい思いで一杯だったが、父アサルドに決意を伝えに行くため王宮へ向かうことにした。昼近くまで寝台の中でぐずぐすとした後、ようやくそこから抜け出した。それでも最後の最後まで、彼女の川のように流れる黄金色の髪からなかなか手を放したがらなかったが。

 「父上に会ってくるよ。今日で決着をつけてくる」

 「やめてよ、決着をつけるなんて言い方。穏便に話し合ってね。王をあまり怒らせないで」

 クリスティアは体を起こして、王子が身支度を済ますのを見守った。ずっと心の奥に押し込んできた鬱屈した思いから解き放たれて、こんなにも晴れやかな思いで彼を見ていられるのも初めてのような気がした。

 「そなたはまだ寝ていよ。あまり無理はするな」

 「私、病人じゃないわ。私を苦しめていたものは全部、どこかへ行ってしまったようよ」

 そう軽やかに笑って、クリスティアは名残惜しげに

 「出来るだけ早く帰ってきてね、ルーク・パトリウス」

 この上もない幸福感に包まれて、二人は自然に微笑み合った。ルーク・パトリウスが部屋を後にした後も、クリスティアは寝台の上に留まり続け、しばらくは気だるい余韻浸り続けていた。しかし、ふと思い出したように自分の部屋へ行き、小ぶりの机の中から隠していた手紙を取り上げると、それを破り捨て、また新たな手紙を書き始めた。

 遅い朝食の後、ネリを呼んでこっそり手紙を託す。

 「言っていた通り、これをアドランに手渡してきてちょうだい」

 既に何もかも心得ているネリは、女主人の手紙をなくすことのないようにとしっかりと懐に収めた。

 「かしこまりました、姫様」

 ネリが出かけてしまった後は、久しぶりに織り機の前に座ってみた。もうかなり長いこと触れていないが、以前自分が仕立てた衣をルーク・パトリウスがひどく嬉しそうにしていたのを思い出して、またとりかかろうとしたのだ。そうして時が経つのも忘れて没頭していると、屋敷の外の辺りで何やら人声がする。ネリが出かけていってからだいぶん経つが、まだ戻ってきていなかった。とは言え、よもやアドランがこんなにも早くここへ来るとも思えず、別の訪問者であろうと気にも留めなかった。

だが、何となく引っかかるものを感じて、クリスティアは機を織る手を止めた。いくら何でもネリの帰りが遅いのではないか? 彼女は立ち上がり、すぐさまケアンを呼ぶと、外を見てくるよう彼に言いつけた。しばらくして戻ってきたケアンの言葉によれば、門番と巡礼者と思われる男との間で何やら揉め事が起きているらしかった。

 アドランだと思い込んだクリスティアは、急いで〈大眼石〉の入った箱を手に取り、ベールを被って外へと飛び出していった。ケアンの言った通り、玄関の前では門番と一人の男が押し問答を繰り広げている。ところが、その顔はアドランのものではない。それどころかアドラン同様によく見知った顔であり、淡い金色の髪を目にした途端、クリスティアは心臓を鷲掴みにされたような心地がした。何てことだろう。あぁ、あの人はーーー

『エルザール!』

 武芸大会でルーク・パトリウスに勝負を挑んできた彼であった。巡礼者らしい格好をしていても、少しも巡礼者には見えない。その厳つい表情、乱暴な物言いは、かつての優美な少年の姿からはとても想像出来ない。クリスティアはよろめき、柱でようやく体を支えた。何故、よりによってエルザールがここに? 出来うることなら彼にだけは、会いたくはなかったのに!

 このまま館の中に引き返そうかとも思った。しかし、〈大眼石〉はアドランに託さなければならない。覚悟を決めて、クリスティアは男たちに近付いた。するとエルザールが彼女に気付き、門番を押し退けて歩み寄った。

 かつて恋人同士であった二人は、こうして改めて向き直ったのだが、どちらの方からもすぐには言葉が出なかった。七年という歳月は、あまりに大きな変化を二人に与えていた。愛くるしかった少女はいまや大人の女性となり、娘たちの憧れを一身に浴びていた貴公子の方はもはや優雅さの欠片もない。砂埃にまみれた薄汚い衣を纏った木偶の坊かなにかのようにしか見えず、クリスティアは思わず後ずさりそうになるのを必死に堪えなければならなかった。

 「エルザールーーーやっぱり、あなただったのね」

 思い出の中の彼とはあまりにもかけ離れているが、それでも彼に違いない。無事でいてくれたことについては、素直によかったと思えるが、それ以上の感慨は何も浮かばなかった。

 「そうだ、僕だよ、クリスティア。やっと君に会えた」

 そう言って、彼は腕を差し出そうとしたのだが、彼女に抱擁しようとする素振りを見せる前に、クリスティアは急いで箱を差し出した。

 「これをアドランに渡して。約束通りに〈大眼石〉を手に入れたわ。無事、クルービアの王冠を取り戻せるよう祈っていると、そう伝えて」

 「君は一緒に来ないのか?」

 箱には目もくれようとせず、エルザールは嗄れた声で言った。

 「何故だ? 君の弟が力を貸してくれと頼んでいるのに、何故それに応えない? 君の弟、君の家族だぞ。それなのに、弟を見捨てる気か?」

 「見捨てるつもりはないわ。だけど、私では何の役にも立たないの。アドランが考えているように、私は〈大眼石〉のことは何も知らないのよ。もし〈大眼石〉を使ってクルービアを取り戻すつもりなら、私ではなく神官を捜し出すべきよ」

 「〈大眼石〉の力が欲しいのではない、大事なのは君の存在だ、クリスティア」

 と、エルザールはこちらが気後れするほどまっすぐな目でクリスティアを見下ろした。

 「アドラン一人では無理だ。君が支え、助けてやってくれ。姉弟二人力を合わせれば、何もかも上手くいく」

 「そうしたいのはやまやまよ。だけど、無理なの」

 クリスティアは悲痛な面持ちで首を振った。

 「あの子にはあなたたちがいるでしょう。それに、あの子が結婚したというカトレの姫やそのご家族が。離れていても、私は弟のことを思わない日はないし、あの子が望みを果たせるようエマルデに祈りを捧げるわ。だから、許してと伝えて。お願い、エルザール」

 「ナザリアの王子せいか。あいつが君の帰国を阻むのか。ならばあいつを殺し、君を連れていく」
 
 エルザールが箱ごとクリスティアの手を掴む。クリスティアは恐怖の声を上げた。

 「エルザール! 勘違いしないで、王子からは何も命令されていないし、何かを禁じられてる訳でもないの。全ては私の意思なの。私がここにいたいと望んでいるのよ」

 「君が望んでいる? 何故?」

 「何故ってーーー」

 どうしてエルザールに言えるだろう。あれほど誓ったのに。心変わりしてナザリアの王子を愛してしまったと、どの口で言えるのだ。

 「アドランから何も聞いていないの?」

 「何も。アドランからは、君は来ないとしか聞かなかった」

 と、クリスティアの肩に手を置き、大きく揺すって、

 「教えてくれ。何があったんだ? 君も僕を想っていてくれたのではなかったのか? 僕が   で虐げられる日々を送っていた時、君もまた苦悩の日々を耐え抜いて、僕が迎えに来るのを待っていてくれたんじゃなかったのか?」

 「待っていたわ。最初の内は。あなたが生きていると信じていた。あぁ、だけどーーー」

 「だけど?」

 「待つのをやめたの。他の人を愛するようになったからよ。エルザール、私はあの人をーーールーク・パトリウスをーーー」

 エルザールが有らん限りの力を両手に込めた為に、クリスティアはそれ以上言葉を続けられなくなった。ほとんど触れんばかりの距離まで顔を近付け、苦しげに息を吐いた。

 「分かっているのか? ナザリアの王子だぞ。クレスを灰にしたアサルドの息子だ。君の家族がどんな最期を遂げたか知らない訳じゃあるまい。それなのにか、クリスティア。君がそれほど愚かだとは思わなかったよ」

 「エルザール!」

 箱を片手に持ち代えて、もう一方の手はクリスティアから放さずに、館とは逆方向へと歩き出す。このエルザールの予想外の行動に、クリスティアは不意打ちを喰らってしまう。

 「待って。どこへ行くつもり?」

 「アドランの所へ」

 エルザールは振り返りもせず、答えた。

 「嫌よ、離して。私は行けないと言ったでしょう!」

 クリスティアはもがくようにして、門番に助けを求めた。異変に気付いた門番が駆けつけてきたが、エルザールが振り向き様に殴り飛ばすと、呆気なく地面に伸びてしまった。更にケアンの姿を探したのだが、皮肉にも彼を館内に留め置いたのは他でもないクリスティアであった。その間にも、エルザールは彼女を馬の背に乗せ、自らもひらりとそれにまたがり、あっという間に駆け出したのだった。

 馬の揺れかあまりに激しく、クリスティアは気分が悪くてならない。ベールはどこかへと飛んでいき、髪が風を受けてばらばらと後方へと靡く。一体どこへ向かっているのかも分からないまま、必死に吐き気に耐えていた。ようやくエルザールが馬を止めた時、馬の鬣にしがみついたまま動こうとしないクリスティアの青白い顔がそこにあった。

 「姉上?」

 エルザールが馬を止めた場所は、街の外れの大木の下である。そこには、アドランと他三名のカトレ人の男たちが馬を連れてエルザールを待ちかねている様子であった。少し離れた所では、ネリが不安そうな顔つきで呆然とつっ立っている。アドランへの伝言を届けたらすぐに帰るつもりだった彼女は、そのまま引き留められて、アドランたちと行動を共にさせられていたのだ。

 「どういうことだ、エルザール。何故、姉上がここにいる?」

 クリスティアが寄越した手紙を読み、てっきり姉はナザリアに残るものだと思っていたアドランは、唖然として馬上のエルザールを見上げた。

 「置いては行けません、僕の許嫁なのですから」

 と、エルザールは馬から下りると、〈大眼石〉の箱をアドランに手渡して、

 「これはあなたのものです、アドラン。そして、どうぞ僕との約束をお忘れなきよう。無事、〈大眼石〉と姉上を取り戻した暁には、姉上との結婚をお許し下さるというあの約束を」

 「あ・・・うん、分かっている。だけど、姉上はそれを承知の上でここに来たのか?」

 クリスティアはエルザールの手を借りて、どうにか地面に下ろされたが、あまりの気分の悪さにものも言えない有り様だ。ネリが飛んできて、彼女を木陰に座らせ、顔を撫でたり、体を擦ったり、また何とかして冷たい風を送ってやろうと涙ぐましい努力を重ねるのだった。

 「姫様! あぁ、姫様! しっかりなさいませ」

 ネリの苦労の甲斐があり、しばらく横になっていただけで吐き気も治まり、体を起こすことが出来た。

 「ネリ、一体どういうことなの? 何故、館に帰ってこなかったの?」

 やっと話せる状態を取り戻すや否や、クリスティアはネリに詰め寄った。

 「アドラン様への伝言を手渡してすぐ、私は姫様のところへ帰ろうとしたのです。ところが、エルザール様が私を部屋に閉じ込めておしまいになり、お一人で飛び出していかれたのです。アドラン様やお仲間たちどなたも、エルザール様を留めることは出来ませんでした。アドラン様たちが部屋の鍵を壊して私を出して下さり、その後はただただエルザール様のお戻りを待っていた所でした」

 「エルザールは最初から、私を連れ出すつもりだったのね。だから、お前をここに引き止めていたのだわ」

 クリスティアはすぐに立ち上がろうとした。こうしてはいられない、王子の館に帰らなければ。だが、

 「姫様、まだお顔の色が優れません。もう少し、お休みになられた方が」

 「休んでなんかいられない。一刻も早く動かないと。私たち、このまま連れていかれてしまうわ」
 
 アドランとエルザールたちは気を遣って、やや離れた所にいる。逃げるなら今しかない。

 「いいえ、姫様。横になっていなければ。唇の色だって、まだ戻っておりませんのに」

 「そんなことどうだっていい。逃げる方が先よ」

 だが、ネリはしっかりとクリスティアを捕らえて、放そうとしなかった。

 「ただでさえ、無理をなさったばかりなのです。ネリの言うことをお聞き下さい」

 「ネリったら!」

 そうやって、クリスティアとネリが言い争っているのを聞きつけて、アドランが控えめに近寄ってきた。

 「姉上はどこかお悪いのですか?」

 「アドラン、私からの手紙は見たのよね?」

 クリスティアはアドランの質問には少しも答えようもせずに、

 「あなたには本当にすまないと思うけれど、私はここから離れるつもりはないの。あの通り、〈大眼石〉は取り戻したわ。だから、後は私の好きなようにさせて」

 「実のところ、姉上は来ないと思っていたんだ」

 アドランは言った。

 「手紙を受け取って、そう思った。だけど、エルザールはーーー姉さんのことを諦めきれなかったんだな。エルザールの言うことにも一理あるんだ。彼は僕の恩人だもの。横暴な主人から共に逃げてきた。僕は姉上との結婚を認めると彼に約束したんだ」

 「アドランーーー!」

 「クリスティア姉様、僕が姉上かエルザールのどちらかを選べと言われたら、僕はエルザールを取る。エルザールが今なお姉上との結婚を望んでいるのなら、それを叶えてやらねばならない。姉上、僕たちと一緒にカトレへ行って下さい。そして、かの地でエルザールと婚礼を挙げるんです」

 その時、突然ネリが二人の間に割って入った。

 「アドラン様、私のような者が口を挟むのをどうかお許し下さい。ですが、これだけは申し上げておかねばなりません。クリスティア様には長旅は無理でございます。何故なら、姫様は今身籠っておいでなのですから」

 クリスティアとアドランは、たちまち黙り込んだ。ネリは今、何と言ったのだ?

 「わ・・・私、身籠ってるの? ルーク・パトリウスの子を? 嘘でしょう、ネリ。まさかそんなーーー」

 「いいえ、間違いございませんとも。このところずっと具合がよろしくなかったのは、そのせいなのです。ですから、アドラン様。クリスティア様はこのままナザリアに留まらせて下さいまし。お腹のお子は、お父上の元でお産みになるべきです」

 アドランはすぐには答えることが出来なかった。彼にとって、この話は全くの予想外のことだったのだ。

 「許婚とは言え、他の殿方のお子を身籠った姫様をエルザール様に嫁がす訳にも参りますまい。しかも、ナザリア王子のお子なのです。クルービアの再興が成った後、人々から謗りを受けるやもしれません」

 「僕なら一向に構わないが」

 何の前触れもなく背後から現れたのは、当のエルザールだった。

 「クリスティアのお腹の子は、僕の子だ。そういうことにしてしまえばいい」

 皆はぎょっとしたように、一様に彼の顔を見た。

 「エルザール、待って。あなた、自分で何を言っているのか分かって言ってるの?」

 「分かっているとも」

 エルザールは落ち着き払った仕草で動揺を隠せないクリスティアの前に膝を着き、その手を取った。

 「父親が誰であれ、君の子は僕の子だ。それでいい」

 「そんなーーー」

 「一緒に行こう、クリスティア。やっとこうして巡り会えたんだ。決して無理はさせない。君の負担にならないように、十分に気を付ける。次の町に着いたらすぐにも馬車を見つけよう。だから、頼む。僕と来てくれ」

 そのすがるような眼差しは、別れの日の彼を思い起こさせた。馬車を追いかけてきたエルザール。どうしてあのまま何事もなく、時が過ぎていかなかったのだろう? クレスが落城しなければ、ルーク・パトリウスと出会わなかったなら。だが、もう遅い。ナザリア王アサルドがクレスを目指したその時に、私たち二人の運命の糸は断ち切られてしまったのだ。
 
 「無理よ、私はあなたと行けない。私の夫はルーク・パトリウスよ。正式な形の婚姻でないけれど、それでも私たちは夫婦なのよ」

 「強いられた結婚など無効だ。そんなものに縛られる必要などない」

 「いいえ」

 語気を強めて、クリスティアは言った。

 「強いられたものではないわ。お互いに望んでそうなったの。お願いだから分かって。私はあの人の側にいたいの」

 「駄目だ。ナザリアの王子などに君は渡さない。君と引き離されて七年だ。もうこれ以上は待てない」

 「アドラン、エルザールに言って。他の男の妻になった姉は渡せないって、そう言って!」

 クリスティアが弟の方を振り向いてそう訴えると、間髪置かずにエルザールもまたアドランを見て、

 「僕との約束を守って下さいますね、アドラン。命賭げであなたを救った僕のたった一つの願いを、よもや無下にはなさりますまい」

 困惑の表情で、アドランは姉とエルザールの顔を交互に見やる。彼にとっては苦渋の決断だが、長く躊躇った挙げ句、ついにクリスティアに視線を止めてこう告げた。

 「姉上、僕はあなたに命じます。ナザリアでの暮らしは全部忘れて下さい。あなたの夫はエルザールです。父上がそう決められたように、僕もまたこの婚姻こそが姉上に幸福をもたらすと信じます」
 


 

ⅩⅨ 乱心の王子

 「何と言った? クリスティアがいない?」

 館に戻ったルーク・パトリウスは、普段とは違う館内の慌ただしさにただただ唖然とするばかりだった。王宮では父王アサルドとまたもや激しい言い合いが繰り広げられ、ほとほと疲れ果ていた。だが、父子の不仲の元ともなっている最愛の人は、館のどこにも姿がないという。彼女の部屋には機織りがやりかけたまま残されており、ケアンが泣きながら打ち明けるには、昼過ぎに巡礼の格好をした男が一人やって来て、門番と揉めていると聞くと血相を変えて外へ飛び出していったとのことだ。

 「中にいなさいと言われたので、おっしゃった通りにしたんです」

 ルーク・パトリウスの前にしょんぼりと立つケアンの目は真っ赤だった。

 「何かお布施でもなさるのかと。手に箱のようなものをお持ちでしたので。まさかいなくなるとは思ってもみませんでした。あまりにお戻りが遅いので外へ出てみたところ、門番が気を失って倒れていて、姫様のお姿はもうどこにも見当たりませんでした」

 「どう見てもただの巡礼には見えませんでした」

 続いて、エルザールに殴られた門番がこう証言した。

 「素行が怪しかったので問い詰めていたところに、クルービアの姫がお見えになりました。しばらく言葉を交わしておられましたが、何やら深刻そうなご様子でした。不審に思い近づいた瞬間、一発やられてしまったのです」

 「見知った顔ではないのだな?」

 「フードで顔を隠していたのではっきりと見ていません。ですが、あの様子では二人はまるで知り合いのように思えましたが」

 父王の差し金か、それともミアテの実家の手によるものか。しかし、それではクリスティアがわざわざ応対に出る理由が分からない。ケアンが言う箱とは何のことだ? 何故、彼女はケアンについてくるなと命じたのだろう。

 『まさか、ネヴラバか?』

 今になって、ネヴラバが彼女を強奪したとも思えないが。確かに武芸大会の折、彼女に向けた視線には未練がましいものがあったが、彼を嫌うクリスティアが自ら出向く筈はないし、そうだったとしても迷わずケアンを引き連れていったことだろう。このナザリアに他に知り合った男でもいたということか? だが、ここへ来て以来、彼女は滅多に外出などしていないーーーただ時折メルサリーナに会いに行く時を除いては。

 『メルサリーナーーーか』

 父王の妾妃ならば、クリスティアについて何か知っているかもしれない。しかしながら、父の後宮へ赴く訳にもいかぬので、書簡を送ることにしたのだが、それをネリに託そうとした時、乳母の姿もないことにルーク・パトリウスは気付いた。

 「ケアン、ネリはどこだ?」

 ネリもまたクリスティア同様、どこにいるのか誰にも答えることが出来なかった。ある者は朝は見かけたがその後は知らないと言い、またある者は人目を避けるようにしつつ外へ出かけるのを見かけたと言う。結局、行き先は分からず、彼女もまた女主人と同じく忽然と姿を消したのだった。ルーク・パトリウスはますます焦りを募らせた。

 『計画的に乳母共々連れ去ったと言うことか。誰が何のために? もしクリスティアの存在を疎ましく思う者の仕業ならば、ネリまで連れていく必要があるだろうか?』

 手近にいた別の召し使いに言いつけて、後宮のメルサリーナへ宛の書簡を託す。勝手が分からず手間取ったのだろう、メルサリーナからの返信が王子の元にもたらされたのは翌日のことであった。その間も手分けをしてクリスティアを探させたが、手掛かりらしきものは何もない。

 メルサリーナの書簡にはクリスティアの失踪に対する驚きと共に、行方については全く心当たりがないと書いてある。これは嘘であり、実際はクリスティアがアドランと共にナザリアを出る決意をしたのだと確信していた。しかし、事情を知らない彼女はクリスティアが気を変えて弟と行動を共にするつもりになったのだと思い込んでいたのだった。無事、彼らが国境を出るまでは、ルーク・パトリウスに真実を告げまいと心に決めていた。なので、彼女の書簡はルーク・パトリウスを更に失望させただけであった。

 「一体どこへ行ってしまったのだ、クリスティア」

 ほんの先日のことだったのに。ようやく彼女の本心を知ることが出来た。本当の意味でお互いの心が通じ合ったと思った。それなのに居なくなってしまうとは。まるであの時と同じではないか? 許婚だった若者を救うため、突如戦場に現れたクリスティアが霧のように消えてなくなったことを思い出す。今回も何か不思議な力が働いたのだろうか? それとも、やはり館を訪ねてきた不審な男が関わっているのか?

 『いや、待て。あの武芸大会の時の男ーーー』

 観衆の面前で、クリスティアを賭けて勝負を挑んできた異国の男。あの後、彼がどうなったかとクリスティアはひどく気に掛けてなかったか? しかも、しばらくの間、彼女は妙によそよそしくしていた。あんな男は知らないと言い張ったが、もしや知り合いだったのでは?

『許婚、か?』

確かエルザールとか言ったか。クリスティアがかつて何度もその名を口にしていたから、はっきりと覚えている。彼女の許婚は生き延びて、敵国の王子の捕虜となった許嫁を取り戻しに来たのかもしれない。ならば、彼女が乳母と共に姿を消したのも頷ける。クリスティアは断じてネリを置いては行かないであろうから。

「いいえ、王子。姫様は自ら望んで出ていったんじゃありません」

 ケアンは強く頭を振り、王子の疑念を否定した。

「無理に連れ去られたんです。それくらい、僕にだって分かります。許婚が生きていたからって、そんなの全然関係ありません。姫様は、間違いなく王子ただお一人を大切に思っていました。そうですとも、王子の為に衣を織り始めたばかりなのに、突然居なくなったりするものですか」
 
 「だが、クリスティアはずっと私との正式な婚姻を避けてきた」

 ルーク・パトリウスは、力なく言った。

 「許婚のことを諦めきれていなかったのではないか。そして、やっと吹っ切れたと思った矢先に許婚が現れたのだ。当然、ついていくだろう。以前、私が許婚を殺したと思い込み、私の命を奪おうとしたくらいなのだ。それほどまでに、彼女はその男を愛していた」

 「違いますって、クリスティア様はそんなお方ではありません。仮に王子の元を去るにしたって、一言も別れも言わずに出ていったりはなさいませんよ。僕を拾って下さったお優しい姫様が、そんな薄情なことをする訳がありません」

 と、ケアンは王子に詰め寄り、必死な形相で訴えかけた。

 「捜しましょう、まだそう遠くへは行っていないはずです。どこに連れて行かれたにせよ、あれほどお美しいお方なら、人目についているやもしれませんし。王子、一体どうなさったのです? 何故、動こうとなさらないのですか?」

 「クリスティアは箱のようなものを持っていたと言っていたな?」

 ふとルーク・パトリウスがケアンに問いかける。

 「中身は何だったのだ?」

 「中身のことまでは知りません。ただ、大層大事そうに抱えていらっしゃいましたが」

 突然、踵を返し、ルーク・パトリウスはクリスティアの部屋へと向かった。機織りの部屋を通り過ぎ、もう一つ小綺麗な部屋へ踏み込むと、ケアンの驚きをよそにあらゆるものをひっくり返し始める。

 「お・・・王子!」

 そんなケアンの叫びなど意にも介さず、ルーク・パトリウスはあるものを探し続けた。もし許婚と逃げるつもりがあったなら、当然持ち出したものがあるはずだ。銀製の首飾りーーーかつて許婚から貰ったのだと話していた。よもやあれを置いたまま、出ていくことはあるまい。

 狂ったように何もかもぶちまけて、とうとうルーク・パトリウスはあるものを見つけた。彼が贈った真珠の首飾りと共に並ぶ銀細工の首飾りを。

 「ケアン、お前の言う通りかもしれない」

 その首飾りを握りしめて、ルーク・パトリウスは呟いた。

 「少なくとも、計画的に逃げたのではない。突発的だった可能性も勿論あるがーーー無理矢理、連れ出された可能性だって無くはないのだ」

 それから再び手分けして、クリスティアの行方をくまなく探させた。ルーク・パトリウスとケアンも街に出て、あちこち聞いて回ったのだが、丁度巡礼の季節でもあり、人の往き来があまりに多くて、クリスティアらしき女を見かけたと答えた者は遂に現れなかった。

 失望と焦燥感に苛まれて、疲れた体を引きずりながらルーク・パトリウスは館に帰ってくる他なかった。ここまで何の痕跡も残っていないとは思わなかった。クリスティアのいない館内が何と寒々しく感じることか。帰れば必ず出迎えてくれた彼女のすらりとした姿はどこにも見えず、笑いを含んだ優しい労いの声もどこからも聞こえてこない。

 『箱ーーー箱ーーー』

 クリスティアは何を持って外へと出て行ったのだ? 

 落胆のあまりに眠りにつくことも出来ず、ルーク・パトリウスは一晩中、館の中を歩き回った。箱の秘密が分かったなら、クリスティアの居所も突き止められるかもしれぬのに。だが、彼にはさっぱり検討もつかない。その日も同様にクリスティアの消息を求めて探し回ったが、大した収穫はなかった。

 何事かを知っているとすれば、やはり父王の愛妾メルサリーナの他にはあるまい。ルーク・パトリウスはそう思い至る。何度使いを送ってみても、返事は何の心当たりもないとの一点張りであったが、このところ頻繁に彼女の住まいを訪ねていたのは確かであるし、ネリを除いてこのナザリアでクリスティアが頼れるメルサリーナくらいのものだ。

 業を煮やしたルーク・パトリウスは、大それた決意を胸に秘めて王宮へと立ち戻った。行き先はもちろん、メルサリーナの住居だ。父王の気に入りの妃の部屋に押し入るなどもっての他だが、クリスティアのことが気がかりでならない彼はそれすら気が回らぬほどに切羽詰まっていたのだった。メルサリーナに仕えていそうな侍女を一人捕らえると、滅多にない苛立った声でこう言った。

 「メルサリーナの部屋はどこだ?」

 侍女はすっかりすくみ上がり、すぐに答えることも出来ない。

 「そなたの女主人に伝えよ、王子ルーク・パトリウスが用があって部屋の前まで来ていると」

 「あの・・・ですが、メルサリーナ様はこれから・・・そのうーーー」

 「早くしろ、今回ばかりは私も穏やかにはしておられぬ」

 かつてないほどにルーク・パトリウスの声は厳しかった。よもや乱暴な態度すら見せようとしたので、恐怖にかられた侍女はがたがたと震えながら扉のある方向を指差した。

 「クルービアのお方は、あちらにいらっしゃいます」

 それを聞くなり、ルーク・パトリウスは大股で扉へと向かう。そして、何の躊躇いもなく扉を大きく開け放った。

ⅩⅩ 悲嘆の果てに

 メルサリーナは、前触れなく開いたとびらの向こうに見知らぬ若い男の顔を見て、心臓が止まりそうになった。周りにいた召し使いたちもた、悲鳴を上げて後ずさる。肩をいからせつつ踏み込んできたルーク・パトリウスは、他の者には目もくれずにメルサリーナの前へとまっすぐやって来た。

 「ど、どなたです?」

 と、メルサリーナが懸命に冷静さを取り戻そうと努めながら、喘ぐように尋ねると、

 「私は王の息子ルーク・パトリウスだ。クリスティアはどこへ行った?」

 噂に聞いていたルーク・パトリウス王子からは想像もつかぬ剣幕で、男は矢継ぎ早に、

 「そなたが何も知らなかったとは思えぬ。私の前で嘘つくな、クリスティアを連れ去ったのは何者だ?」

 「ーーールーク・パトリウス王子?」

 このお方がクリスティア様の? メルサリーナはまじまじと若きナザリアの王子の顔を見た。アサルド王に似ぬ涼やかな顔立ちの青年で、確かにあのクリスティアに似つかわしい相手ではあると妙に納得してしまった。

 「クリスティアの親類であり、何度も訪ねていってたそなたにならば、何か話していただろう? 頼むから教えてくれ。どんな些細なことでもいい、彼女の行方に繋がるかもしれぬ故」

 クリスティアが姿を消したという日から、はや二日は経っている。アドラン王子の一行は今頃どこまでたどり着いたか。だが、血走った目、なりふり構わず来たのだろう、かなり乱れた様子のルーク・パトリウスが憐れに思えて、メルサリーナもつい真実を明かしてしまいたくなる。

 「私は何も知らないのです」

 それでも、メルサリーナは心を鬼にして、しらを切り通す。アドランとクリスティアがカトレへ無事到着するまでは、ルーク・パトリウスに何も知らせまいと心に固く誓っていたのだ。

 「おっしゃる通り、クリスティア様と私は幾度となくここでお会いしていました。けれど、昔の思い出話など、たわいのないことしか話しておりません」

 「許婚のことは? 武芸大会に現れた男について何か言っていなかったか?」

 「いいえ。生憎ですが、そのような人のことは話題になりませんでした」

 「クリスティアが持っていた箱のことで何か知らぬか? どうやら、その箱と共に居なくなったらしいのだが」

 「ご容赦下さいませ、王子。何度尋ねられましても、お答えすることがないのです」

 「嘘を申すな。そなたは知っているのだ!」

 険しい声でそう言うや、メルサリーナの二の腕辺りをぐいと掴む。

 「行方知れずとなったその朝に、彼女は私にこう言ったのだ。ミアテを妻に迎えて欲しくはないと。そう訴えたすぐ後に、館を出ていくと思うか? 意に反して何者かに拐われたのだ、そうであろう!」

 「私は存じません。心からそう申しておりますのに」

 噂話は本当だった。王子はこんなにもクリスティア様のことを愛していたのだ。物静かな王子だと聞いていたが、体から紅蓮の炎が燃え立ちでもするかのように、これほど強くまた激しく。

 「メルサリーナ様!」

 召し使いの女が、悲鳴混じりの声を張り上げた。

 「大変です、陛下がこちらにお見えになられたようです!」

 「何ですって? 陛下が?」

 はっと我に返ったルーク・パトリウスは、メルサリーナの体から身を引いた。だが、隠れるには時が足りなかった。アサルド王は王子同様、何の前触れなく部屋に入ってきた。ところが、メルサリーナの部屋に召し使いでもない男の姿を見つけ、王は凍りついたように立ち止まる。しかも、それが我が子である王子だったので、彼はなおのこと混乱した様子であった。

 「息子よ、お前が何故この女の部屋にいるのだ?」

 ルーク・パトリウスは逃れようもなく振り返り、こう弁解するしかなかった。

 「父上、どうか誤解しないで頂きたい。私がここにいる理由は、ただこの人に尋ねたいことがあった為なのです」

 「尋ねたきこととは何だ?」

 王が短く聞き返す。

 「我が妻のことです。妻は二日前から行方が知れぬのです。父上もご存じのように、あれは度々ここを訪れてましたから、何か事情を聞いておらぬかと尋ねていたところなのです」

 アサルドは今度はじろりとメルサリーナを見た。メルサリーナは青ざめたが、これでいよいよクリスティアについて何も言えなくなったと思った。

 「メルサリーナ、王子の言ったことはまことか?」

 「はい、陛下。私はクリスティア様の件について何も存じておりませんので、そう王子に説明しておりました」

 息子が父も呆れるほどの堅物なのは百も承知であったし、よもや父親の愛妾に手を出すなど絶対にあり得ないとは思う。しかし、気に入りの美女と年若い王子がこうして並んでいるのを見ると、無性に腹立たしくてならない。このところ、自分の老いに気付き始めていたアサルドは、王子の若さに嫉妬すら覚えた。息子の嫁取りのことで何かと厳しい態度をとっていたのも、実のところこの嫉妬心がそうさせていたのであった。

 「そなたの女が消えたのを言い訳に、父親の女に近付くとはそなたも随分と狡猾になったものだな」

 父王の冷たい言葉に、ルーク・パトリウスは息を飲んだ。

 「父上?」

 「クルービア女にのめり込む余り、別のクルービア女にも興味を持ったか。何と厚かましいことだ。我が寵愛の女と知りながら、人目を盗んで忍び込むとは」

 「私がここに押し掛けたのは、全て我が妻への想いの為。妻の行方がどうしても知りたく、やむにやまれずこの人にすがりに来たのです。父上の想い人に邪な思いを抱くはずもありません」 

 「陛下、王子のおっしゃる通りです」

 メルサリーナも脇から王子を弁護した。

 「王子がクリスティア様ただお一人を想っておいでなのは、陛下も知っての通りです」

 「ならばルーク・パトリウス、誓えるか? この女に指一本触れておらぬと?」

 「誓います。ナザリア全ての神々の名にかけて」

 「それではここで衣を脱ぐのだ、メルサリーナ」

 メルサリーナは目を見開いた。

 「陛下、今何とーーー」

 「衣を下ろせ。我が目の前で、王子の言葉が偽りでないことを証すがよい」

 「父上!」

 ルーク・パトリウスもまた叫んでいた。

 「今のお言葉はお取り消し下さい。ご寵愛の人に、何という命令をなさるのです!」

 「そなたの出る幕ではない」

 アサルドは王子の方を見もせずに、

 「メルサリーナよ。我が命に従うのか、それとも従わぬのか。わしはそなたの主人であり、ナザリアの王たる人間ぞ」

 こう言われてしまっては、メルサリーナも二の句の告げようがない。気を遣ったルーク・パトリウスが視線を逸らせた隙に、覚悟を決めたメルサリーナはするりと身にまとった衣を滑り落とした。目の前に惜しげなく曝された豊満な肢体に、王は舐めるような視線を這わす。そして、くっきりとした紅い痕が残る二の腕まで来た瞬間、王は唸り声をたてた。

 「何だ、その痕は?」

 「あ・・・これはーーー」

 メルサリーナはぎくりとして、身をすくめる。アサルドは目敏く見つけたその痕を凝視したまま、王子に向けてこう言った。

 「ルーク・パトリウス。そなた、先程わしにこう申したな。この女には指一本触れてはおらぬと」

 「父上、違います。私は決してこの人に下心あって触れてなどおりません。妻を案じて問い詰めるあまり、ついこの人の腕を掴んでしまっただけなのです」

 ルーク・パトリウスは青ざめ、なおも視線を床に落としたまま続けた。

 「私を信じて下さい。私が父上に対してそのような不埒な真似をするとお思いですか? 私はこれまでいついかなる時も、他の何より父上だけを敬って生きて参りました」

 王子に一点の曇りもないことを十分に承知していながら、アサルドの内に芽生えた嫉妬心はどうしょうもなく荒れ狂っていた。しかも、メルサリーナの腕に残る痕が、ありもしない妄想を胸に掻き立て、火のような怒りを体中に焚き付ける。アサルドはメルサリーナに背を向け、蒼白の王子の側近くに立ちはだかった。

 「我が息子に、これほどの恥辱を与えられようとはな」

 と、アサルドは吐き捨てた。

 「確かに以前は、孝行息子であった。だが、このところのお前ときたら、何かにつけてわしの言うことに異を唱え、逆らってきたな。その結果がこの様だ。わしを馬鹿にして、笑い者ににする気であったのだろう」

 「いいえ、決して! 父上を馬鹿にするなど。たとえ天地が裂けようとも、そのようなことはあり得ません!」

 「黙れ! お前のその小賢しい口から、言い訳なんぞ聞きたくもない」

 アサルドは一喝し、そして最愛の息子であったルーク・パトリウスにこう命じたのだった。

 「これより、お前は部屋で謹慎せよ。わしがよしと言うまでは、決して部屋から出てはならぬ。お前の処分は追って沙汰を出す」

 「父上!」

 「それから、お前の館から逃げ出したとか言うクルービアの小娘は、このわしが何としても見つけ出してみせよう。直ちに引きずり戻して、お前の見ている目の前で、嫌と言うほど打ちつけてやる。捕虜の分際で逃げ出したらどうなるか、身をもって教えてやらねばな」

 「クリスティアに手を出すな」

 くぐもった声で、ルーク・パトリウスは野生の犬のようにアサルドを威嚇する。

 「捕虜ではない、私の妻です。彼女を少しでも傷つけたなら、いかに父上であろうと許さない」

 「それ見よ。何より父を敬っていると語ったそばで、もうわしを脅しておる!」

 親子はそのまま睨み合う。長いこと、無言の戦いは続けられた。既に衣を纏い終えたメルサリーナは、不安にかられながらもただ見守ることしか出来ない。一言でも王の疑いを晴らそうとすれば、余計火に油をさしてしまうのは明白であったから。  

 「出よ、王子」

 ついにアサルドが口を開く。

 「大人しくわしの命に従うがいい。わしに逆らい、衛兵どもに引き出されるような無様な姿は見せるでない」

 「私は無実です。ですが、ご命令には従いましょう」



 ルーク・パトリウスは自らの足でメルサリーナの部屋から出て行き、王宮内の自室に閉じこもった。王子とメルサリーナの醜聞は瞬く間に広まって、王宮の内外には奇妙な緊張が漂う。今回の件を積極的に広めたのは、実はネヴラバの母アデライデだ。アデライデはアサルドの正式な妃でこそないが、ほとんど王妃に準じた扱いを受けており、それ故、ナザリア中の誰もが彼女に対してそれなりの敬意を払っている。慎ましやかで、目立たない女性として知られるが、心の奥底では王を虜にしているメルサリーナへの妬みがない訳ではなく、また、死んでもなお王の最愛の妃であるリッキアとその王子ルーク・パトリウスへの燻る憎しみも、彼女を反撃へと駆り立てた。特に武芸大会でルーク・パトリウスから受けた屈辱は、時が経っても忘れることは出来なかった。大勢の人々の面前で、この私をクルービアの奴隷娘と同等に扱ったのだ。長年、王と連れ添い、しかも王妃を輩出する   の次に大きな部族の出身であるこの私アデライデを!

 夜毎、メルサリーナに溺れる王には目をつぶり、そのかわり王子ルーク・パトリウスとの関係が悪化するようなことを、アデライデはそれとなく吹き込むようになった。近頃、やたらと老いを気にする王にわざと王子の若さや美貌を誉めそやしてみたり、その清廉な人柄や公正な物の見方が民に慕われ、他国での評判も高い王子のことを持ち上げてみる。すると、あれほど目をかけていた
息子なのに、次第に疎ましく思うようになってきたのだろう。このところの結婚問題も相まって、父子の間は常に喧嘩が絶えない。仲立ちするふりをしながらも、アデライデはなおも彼らの仲を引き裂こうとする。次に彼女が狙うのは、ルーク・パトリウスの失脚だ。彼を王太子の座から引きずり下ろし、代わってネヴラバを王座に就かせるべく画策し始めた。

 王妃ではない彼女の子ネヴラバは庶子の扱いである。王座など望むべくもなかったが、運命は彼に大きく味方した。メルサリーナとの一件で、すっかり猜疑心にとりつかれたアサルドは、突然、アデライデと婚姻を交わし、王妃に迎えると宣言した。更に、ネヴラバとミアテを娶合わせて、ネヴラバを王太子にするという。王に不敬を働いたルーク・パトリウスに、は王子の地位を剥奪し、国外追放との沙汰が出された。誰もがこの処置には驚き呆れ、何とか考え直すようにと訴えたが、アサルドは頑なにそれらの訴えをはね除けた。


 ナザリアの誉れ高き王子ルーク・パトリウスがあらぬ疑いをかけられて全てを失い、名もなき流浪の民となって懐かしい故国を後にした頃ーーー

 そんなこととは露とも知らぬクリスティアは、弟アドランらと共にカトレの王宮に身を寄せていた。遠いナザリアにいるルーク・パトリウスに想いを残しながらも、つわりのせいでほとんど床に臥したまま日々を送っている。むしろその方が都合がよかった。それというのも、エルザールとの結婚を急かすアドランに悩まされずに済むからだ。

 「こんな時にお式だなんて!」

 クリスティアの世話の傍ら、ネリはぶつくさと文句を言った。

 「何も召し上がれず、お水を飲むだけが精一杯の今の姫様に、何とまぁ酷なことを!」

 「仕方ないわ。皆、私が出産する前にエルザールに嫁がせたいと思っているんだわ。どのみち子どもの顔を見れば、誰の子か分かるでしょうにね」

 クリスティアはことの他つわりが酷く、旅の間中もとにかく具合が悪くて仕方がなかった。とうに逃げ出す気も失せて、エルザールの腕の中でひたすら馬上の揺れに耐えるばかりであった。行き交う巡礼に混じり、難なくナザリアを出てひと月後には、アドランの年若い新妻の待つカトレの都ラネトーへとたどり着いていた。亡き父カーゴ・レントとも親しかったというカトレ王ナイジェルとその妃エリノア、そして王女セアラは、婿の姉を快く迎え入れ、身重の彼女が無事出産を迎えられるよう何くれとなく気遣ってくれたのだった。

 「心配なさることは何もありませんよ、クリスティア姫」

 心優しいカトレの王妃は、最初からこう請け合ってくれた。

 「私をお母様の代りと思い、何でも頼って下さってよいのですよ。ここには産婆も薬師もおりますし、私だって子どもを産んだ経験はありますからね」

 「何てお綺麗な方なのかしら」

 アドランの妻セアラはうっとりとクリスティアを見上げると、親しげに義理の姉に腕を回す。

 「アドランから、常々お噂は聞いていました。だけど、まぁ、こんな美しいお姉様が出来て、私、本当に嬉しく思います」

 特に広くて快適な部屋を与えられ、そこで暮らし始めたクリスティアはまるで自分がクレスにいた戻った心地になった。だが、つわりに襲われ、これまでの自分とは違う体なのだと思い知る時、どうしてもルーク・パトリウスのことを考えずにはいられなかった。密かに彼が奪い返しに来てくれることを願っていたのだったがーーーしかし、待てど暮らせど彼は現れない。消えた異国の女のことなどあっさりと忘れて、ミアテと結婚したのだろうか? そうした疑念が日々膨らんでいき、あまりの苦しさに胸を掻きむしりたくなるほどだ。カトレの王宮深くまでは、ナザリアの噂など届くはずもなく、かと言って、アドランやエルザールに尋ねてみる気にもなれない。当然、ルーク・パトリウスの身に起きた不幸のことなど知る由もないクリスティアなのであった。

 そのエルザールは、あたかも空白の八年間などなかったかのように振る舞っている。時間のとれる限りクリスティアの部屋を訪れたし、一時たりとも彼女から離れようとしない。クリスティアは彼を拒絶することはしない代わりに、彼の訪れを喜びもしなかった。ただ旧知の友を迎えるような態度でしか彼に接しようとせず、それがエルザールの不満を募らせる結果となってはいた。しかし、クリスティアは素知らぬ振りを貫いた。エルザールもまた、心の中ではどれ程憤っていようとも、決して面には見せなかったのだけれども。

 「気分はどう?」

 この日、クリスティアは床についてはおらず、窓辺からぼんやりと外を眺めていた。窓からは果実の樹が整然と植えられた中庭が見える。何羽かの小鳥が飛び交っては、愛らしい鳴き声で互いを呼び合う様を見て、クリスティアは深いため息をついた。心底、小鳥が羨ましい。私にも羽があれば、今すぐにもあの人の元へと飛んでいけるのに。

 「何を見ているの?」

 足音もたてずに、エルザールはクリスティアの背後に立った。クリスティアは彼との距離を保とうとするが、エルザールが窓枠に両腕を置いた為、その場から動けなくなってしまう。

 「別に、何か見ていた訳じゃないわ。考え事をしていただけ」

 仕方なく、クリスティアは窓の方へと体を向けた。エルザールは背中ごと彼女を包み込み、その頭に頬を押しつける。

 「よかった、今日は具合が良さそうだ」

 彼の熱い息遣いを首筋に感じ、クリスティアは慌てて身を捩ろうとした。が、

 「駄目だ、クリスティア。動かないで」

 と、かえってきつく抱きしめられて、ますます身動きがとれなくなってしまう。

 「エルザール、やめて。私、気分が悪いの」

 しかし、エルザールは彼女を放そうとはしなかった。

 「嘘だ。顔色だって悪くない。そうやって、僕から逃げようとするのはやめてくれ」

 エルザールは言った。

 「ナザリアからカトレへ向かう間中、僕はずっとこうして抱いていた。君が馬から落ちてしまわないように。お腹の子が無事生まれるまでは、君に触れるつもりはないよ。だが、君が夢や幻なんかではないと、時々、思い出させて欲しいんだ。こんな風にして」

 「エルザールーーー」

 困ったように、クリスティアはエルザールの腕を掴んだ。何とかして彼の抱擁から逃れようともがくが、もがけばもがくほど絡みつく藻のように尚更その腕に力がこもる。

 「お願い、私を放して。本当に具合が悪いのよ」

 そう必死に訴える声には、差し迫ったものがこもっていた。はっと我に返って、エルザールは腕を解いた。

 「大丈夫?」

 クリスティアはエルザールの胸を押しやり、椅子に崩れ落ちた。芝居のつもりが、本気で気分が悪くなってきた。

 「少し休ませて」

 こう言えば、エルザールが出ていってくれるかもとかすかな望みを抱いたが、彼はクリスティアを一人にする代わりにむしろ付き添う決意をしたようだ。

 「ごめん、悪かった」

 と、心配そうに彼女の側にかがみこんだ。

 「ネリはどこなの?」

 「ネリなら、アドランに呼ばれてるからここにはいない。そのうーーー僕らの婚礼の準備のことで」

 婚礼という言葉を耳にするなり、クリスティアはぎょっとした表情を見せた。

 「私たちのーーー婚礼ですって?」

 アドランったら。私の体調が良くならない間は、婚礼は行わないと約束したのに。そのために虚しい努力とは分かっていても、つわりで具合が悪い様子を見せつけて、何とか引き延ばしていたのだ。

 「君のお腹が目立つ前に、やはり婚礼は挙げておくべきだよ。どうせカトレの王家の人々が立ち合うだけの簡単なものだ。だから、君の体への負担もそれほどないと思う」

 「無理よ、だってまだ心の準備が出来ていないもの」

 クリスティアは何とか理由をつけようと必死だった。

 「じゃあ、いつになれば心の準備が出来るんだ? ひと月後? ふた月後?」

 と、エルザールも負けじと、

 「王家の姫が夫を迎えもしないで、子どもを産むつもりか?」

 「それはーーー」

 「知ってるよ。君が何故そうまでして、婚礼の日どりを引き延ばそうとしているのか。ナザリア王子が連れ戻してくれるのを期待しているんだろう? だがね、クリスティア。君の望みをぶち壊して申し訳ないが、彼は来ないよ」

 


 
 

ⅩⅩⅠ 別々の道

 「それ、どういうこと?」

 あまりにきっぱりと言い切るエルザールに不安を覚えて、クリスティアはすぐさま聞き返す。対するエルザールは、どこか彼女の反応を試すような目付きでじっと見守りながら、

「君が待ち焦がれてやまないルーク・パトリウスは、他の人を妃に迎えたからだ。どうやら、ナザリアでは二つの婚礼が行われたらしいよ。王と王太子のが同時にね」

  全くもって訳が分からなかった。王アサルドと王太子ルーク・パトリウスの? 二つの婚礼とは、一体?

 「君が思っているようには、彼は君のことを考えていなかったという訳だ。だから、いつまで待ってたって無駄なんだよ。彼は来ない。いい加減に目を覚ましたらどうた、クリスティア」

 「あなた、何を言っているの? ルーク・パトリウスはそんな人じゃないわ!」

 あの人は私以外の誰も妻にしないと誓ってくれた。出会った時からそうだった。あの人はいつだって私に対して誠実でいてくれた。何があろうとも約束を破る人ではない、決して。

 「あの人のことを何も知らないのに! そんな馬鹿げた嘘をついてまで、私が欲しいの?」

 「あぁ、そうだよ。君が欲しい。君に恋焦がれるあまり、気が変になってしまいそうなくらいだ。だが」

 と、エルザールは、奇妙なくらい冷静な声で続けた。

 「だからといって、君が苦しむのを見たい訳じゃない。下らない嘘をついたって、きっと君には見破られるだろうから。話は正真正銘本当だ、クリスティア。信じられないなら、今、王宮に着いたばかりの楽人たちに尋ねてみるといい。彼らはナザリアからやって来たそうだから」

 クリスティアは具合の悪さも吹き飛んだ勢いで、部屋から走り出た。それから、誰彼構わずナザリアから来たという楽人はどこにいるかと聞いて回った。その切羽つまった様子には誰もが目を丸くしたが、クリスティアは全く意に介さずにひたすら楽人の一行を目指して、駆け回った。

 ついに見つけた楽人の一人に、クリスティアはとりすがってこう尋ねた。

 「お願い、教えて。ナザリアで婚礼が行われたって、本当なの?」

 中年らしき楽人の男は、突然、目にも眩い美貌の女に腕を掴まれて、目を白黒させた。

 「は・・・はい、奥方様。つい十日前のことですが。何ともめでたいことに、王と世継ぎの王子様がいっぺんにお妃をお迎えになられたのです」

 「本当なの? 本当に王子が?」

 どうしても信じられず、クリスティアは質問を繰り返す。

 「王子のお相手はどなた? ミアテ様? 教えて、あの人はどんな顔をしてお妃と並んでいたの?」

 「奥方様、あの・・・私は直接見てはいないのです。ただサルサザーンへ行っていた知人から聞いた話でして。ですが、二組の婚礼が行われたのは本当です。こんなことはナザリア始まって以来のことだと、それはもう大変な騒ぎでしたから」

 楽人が言い終えぬうちに、もうクリスティアの足はふらついていた。ルーク・パトリウスがミアテとーーーあれほどミアテと結婚しろと言っていたくせに。実際にそうなってしまうと、こんなにも打ちのめされてしまうなんて!

 いや、どこかで過信していたのかもしれない。彼が私以外の人を絶対に娶らぬと。だからこそ、あんな風に気安く口に出来たのだ。けれど、どうだ? 私がサルサザーンを離れて、まだひと月しか経たないというのに。私を捜しに来てくれるどころか、この機を待っていたかのように、あっさりとミアテと婚礼を挙げてしまったとは!

 「クリスティア!」

 崩れ落ちる瞬間、エルザールの腕がかろうじてクリスティアの体を抱きとめる。彼女がひどくショックを受けるだろうと見越して、エルザールもまた後から追いかけてきたのだった。

 「信じないわ、信じない。私、知ってるもの、あの人はそう簡単に心変わりする人じゃない!」

 ちぎれそうなくらいエルザールの腕を掴んで、クリスティアは叫んだ。

 「何かあったのよ。どうすることも出来ない訳がーーーあの人の父親に脅されたんだわ。だから、仕方なくーーーえぇ、きっとそうよ!」

 「そうかもしれない。だとしても、王子が他の女を妻に迎えたのなら、もはや君の帰る場所はない」

 エルザールは両頬を挟み込み、子どものようにクリスティアに言い聞かせた。

 「それとも、王子恋しさに館へ帰るつもり? 君が元いた場所に、他の女が居座っている中、共に暮らせるか? 新しい女主人は君を使用人部屋に追いやり、朝晩働かせるだろう。王子の心を捉えた捕虜に憐れみなどかけるものか。こきつかわれ、虐げられ、君はぼろぼろにされる。王子に救いを求めても無駄だ。結局のところ、家を取り仕切るのは王子の妻の役割だからだ」

 クリスティアの目から、とめどなく涙が溢れる。エルザールは更に言葉を続けて、
 
 「クリスティア、生まれてくる子どものことを考えてみるがいい。王子の子だとは言え、その子は庶子だ。しかも、捕虜の生んだ子ならば、生まれながらにして人に仕える身分になる。同じ父親の血を引いていながら、将来生まれるだろう妃の子に命令されて生きなければならない運命を、その子に与えるつもり?」

 「あーーー」

 はっとしてクリスティアは腹に手を当てる。考えてもみなかった。子どもの将来のことーーー私だけならどんな屈辱でも耐えてみせる。だけど、この子はーーー 

 「前に言ったよね、その子は僕の子どもにすればいいと。僕は本気だよ。その子を実の子として育てる。もし男の子なら、家名と財産をその子に渡すつもりだ」

 まさかと言わんばかりに、クリスティアは目を見開いた。

 「エルザールーーー?」

 「だから、僕と結婚しよう。僕の妻になってくれ。僕はナザリアの王子のように、君を裏切らない。これまでそうだったように、君以外の誰にも心を移さない。お願いだ、僕のものになって欲しい」

 エルザールの言葉は冷酷ではあるが、事実だ。いくら王子の側にいたいと望んでも、もうこれまでとは違うのだ。王子の妃が入ってきたあの館に、私の居場所などどこにもない。武芸大会の時、ミアテは私の存在を認めてやると請け合ったが、正式な妃となった今、あの言葉をそのまま信じてよいものか。エルザールの言う通り、当然、私のことをよく思わないだろうし、かつて王子の命令ゆえに嫌々私に仕えていた召し使いたちも、手のひらを返すように私に冷たくするだろう。そんな中で出産し、赤子を育てるのは、どれほどの困難であろうか。酷ければ子どもを取り上げられ、売り飛ばされるかもしれない。そして、仮にそうされたとしても、文句の言える立場ではないなのだ。



 その晩、クリスティアはまんじりともせず、夜を明かした。自分がどうすべきか悩んだ末、ついに心を決めた。胸が張り裂けそうな思いを無理矢理飲み下し、彼女は部屋を出た。向かったのはエルザールの部屋だ。苦悶と涙の跡の残るクリスティアの顔を、エルザールは痛ましげに見下ろした。

 「信じていいのね?」

 クリスティアの声は、かすかに震えていた。
 
 「この子の父親になってくれるって。あなたの子として慈しみ育ててくれるって。約束して。もしそうしてくれるなら、私はーーー私はあなたの妻になる」

 「うん」

 エルザールは微動だにせず、答えた。

 「約束する。君も君のお腹の子も、どちらも大事にする」

 「私、今もルーク・パトリウスのことを忘れていない。それでもいいの?」

 「うん、それでもいい。君が誰を愛していようと、僕にはどうだっていいことだ」

 「どうして? あなたは私を怒っていないの?」

 抑えようと思っても、抑えきれない思いに身悶えしつつ、

 「私はあなたとの約束を守らなかった。私の帰りを待っていると誓ったあなたを忘れて、私はルーク・パトリウスを愛したんだわ。なのに、どうして? 私を憎らしいと思わないの?」

 「怒っていない。憎んでもいない。だって、僕は君を愛しているから」

 エルザールはクリスティアをひしと抱き寄せた。

 「焦らなくていい。少しづつでいいんだ。過去を取り戻そう。クレスの王宮で過ごした日々をもう一度、やり直そうよ、クリスティア」

 過去を取り戻せるだろうか。ただ一途にエルザールに想いを寄せていたあの頃の私に? 彼の肩に頬を押しつけられながら、祭りの夜に橋の上から眺めた花火を必死に思い出そうとする。だが、目を閉じて浮かぶのは、他ならぬルーク・パトリウスの顔だった。

 『ルーク・パトリウス!』

 あの人はもう他の人のもの。そして、私もまた別の人の妻になる。私たちは各々違う道を選びとり、もう決して交わることはない。それでも、固く決意したはずなのに、今なおルーク・パトリウスへの恋しさに心乱れる自分の弱さを、嫌が上にも思い知らされる。



 とは言え、一歩踏み出した以上、もう後へは戻れない。エルザールから話を聞いたアドランは大いに喜び、カトレ王との相談の上、早急に婚礼の日取りを決めるよう取り計らった。そして、アドランの妃セアラが大張り切りで、クリスティアの婚礼仕度に取りかかる。衣裳は自分の時のものを手直しし、髪飾りやら装飾品やらを持ち出してきては、どれが一番似合うかととっかえひっかえしてクリスティア飾り立てて、

 「お義姉様はお綺麗だから、何を身に着けてもお似合いね」

 と、セアラは満足そうに笑った。

 「運命によって引き裂かれた許婚とようやく結ばれるなんて。何てロマンチックな話なんでしょう!」

 内心は複雑な思いだが、義妹の誤解を解くでもなく、彼女の気が済むまでクリスティアはされるがままになっていた。

 「七年ぶりにエルザールと再会した時、どんなお気持ちでしたの?」

 何の疑いもなく、セアラは二人が離れている間も愛し合っていたのだと信じている様子だ。

 「アドランから聞きました。エルザールがナザリア王子の館から、お義姉様を救い出したのですってね。王子の館では、さぞかし酷い待遇を受けてらしたのでしょうね。ナザリアへと連れていかれたクルービアの女の方たちの話は、カトレでも度々耳にいたしましたもの」

 「いいえ、そのようなことはありませんでした」

 無意識に強い口調になる。

 「ナザリアの王子は父王とは違い、優しい人柄でしたもの」

 「あら、そうなの? でも、エルザールと比べたら、やっぱりエルザールの方が何倍も素敵でしょう?」

 と、セアラはうっとりと両手を組み合わせて、

 「もちろん、一番はアドランですけど、その次はエルザールだと思うわ。お聞きになったでしょう、エルザールは    の元でそれはそれは残酷な扱いを受けていたのだそうね。殆ど食べるもの与えられず、牛馬の真似事をさせられていたって。本当にお気の毒なこと。今も体にその時打たれた傷跡が残っているって、アドランが話していたわ」

 「ーーーー」

 そういえば、エルザールは消息を絶っていた間のことは一切口にしない。けれども、彼が時折、妙に不自然な体の動きをしているのにクリスティアは気付いていた。

 「あら、エルザールから聞いていたのではなくて?」

 クリスティアの顔が強ばったのに気付き、セアラは気まずそうに口許を押さえた。

 「私、余計なことを言ってしまったかしら? 私はただこう言いたかっただけなの。エルザールはそれほどお義姉様を愛しているんだって。彼がそんな過酷な状況でも正気を保っていられたのは、お義姉様の為だったんだわ。ナザリアに囚われの身のお義姉様を助け出すことが、エルザールの生きる支えだったのですもの」

 と、すぐさま気まずそうな様子をあっさり投げ捨て、

 「そんな風に熱烈に誰かに想われるって、どんな気持ちかしら。もちろん、アドランも私のことを、それはとっても愛してくれていますけれど」

 それからは、アドランののろけ話が延々と続いたので、クリスティアは心底ほっとした。そして、乳母のネリはと言えば、婚礼の日取りがついに決まったと聞いても妙に淡々としている。相変わらず現実的な彼女は、こうなってしまった以上はなるべく早くエルザールに嫁いだ方がよいと思っているようだった。安定期に入ったのか、クリスティアのつわりも最近ではあまり見られなくなり、挙式するには丁度よい頃合いでもあった。

 王宮の横にある   の神殿で祈りを捧げ、カトレの王と王妃、二人の王子と王女セアラの立ち会いの元、ごく簡単な式が行われた。式を執り仕切ったのはアドランだ。そのアドランは苦楽を共にしたエルザールが義兄弟となり、大層満足そうだ。王妃がクリスティアの母親代わりとなって花嫁のための松明を掲げ、セアラと若い乙女たちが厳かに祝婚歌を唄い上げる中、式は滞りなく済んだ。その後はごく内輪だけのささやかな宴が催され、そしてとうとう床入りの時を迎える。クリスティアの体調を気遣い、床入りの儀式はさすがに見送られたが、新婦の夜着を着せられて夫婦の寝室へ通されたクリスティアは、樫の木で出来た大きな寝台を目にした途端、自分が取り返しのつかぬ過ちをしでかしたことに気付かされたのだった。

 『違う。違うわ、こんなのってーーー』

 ルーク・パトリウスとミアテが結ばれたと聞き、動揺のあまりエルザールとの結婚を受け入れてしまった。だけど、それは全く望んでいたことでなかった。私の夫はルーク・パトリウス一人だけーーーこれまでも、これから先もずっと。あの人が私以外の誰を選ぼうとも、彼の仕打ちにどれほど打ちのめされようと、私の魂はあの人に結びつけられていて、決して離れることなどあり得ない。それなのに、私ときたら絶望にかられる余りに、ただあの人への当てつけのような形でエルザールとの結婚を受け入れてしまった。

 同じく新郎の夜着を着たエルザールが、クリスティアの後から寝室へと入ってきた。クリスティアは哀れなほど飛び上がり、思わず後ずさる。

 「エルザール、私は間違ってた。私、やっぱりあなたとは結婚出来ない」

 エルザールは唖然としながらも、苦笑する。

 「何を言っているんだい? 僕たちは、ついさっき夫婦の誓いを立てたばかりだよ」

 「それが間違っていたのよ。私の夫はルーク・パトリウスなの。たとえ裏切られても、私はあの人のものなんだわ」

 どうしてよいやら分からずに、クリスティアはその場に膝まづいた。

 「お願い、エルザール。私はあなたの妻にはなれない。アドランに言って、この婚姻はなかったことにして!」

 たちまち、エルザールの顔に憤怒の表情が過る。懸命に押し隠そうとするも、全てを覆うのはとても無理な話のようで、

 「無理だよ、クリスティア。もう遅い」

 と、クリスティアの両手を取り、立ち上がらせるエルザールの声はひどく冷たかった。

 「神の御前で、カトレの王の立ち会いの下、クルービアの王の手によって結ばれた夫婦の縁だ。反故になど出来るものか」

 「分かってるわ。だけど、私はーーー」

 「君は僕の妻だよ。そして、この僕が君の夫だ。ナザリア王子ではなく」

 エルザールはそのままクリスティアの手を引いて寝台の上に座らせ、自分もそのすぐ隣に腰を下ろした。

 「どうしたんだ、クリスティア。急に不安になった?」

 こちらを見ようともしない彼女の顔をエルザールは上向かせて、

 「こっちを向いて。僕を見て。そんなに僕は変わった?」

 痩せて引き締まった顔に、かつての優雅な貴公子の面影はない。翠色の目だけは、少しも変わりないけれども。嘘をつく気にもならず、クリスティアは無言のまま頷いた。

 「君も変わってしまった。最後にクレスで別れた時、君はまだ十三の女の子だった」

 と、エルザールはクリスティアの顔に手を当てたまま、ほんの少し顔を傾げて、

 「いや、そうじゃない。あの後もう一度、君を見たんだ。あれは戦場だったよ。突然君が目の前に現れたんだ。僕に向けて振り下ろされた剣を君が受けた。すぐに消えてしまったのだけれど、僕が見たあの幻は間違いなく君だった」

 「そう、あれは私よ。エマルディエの聖なる森の泉で、あなたが戦っているのを見たの。あなたが殺されそうになっているのを見て、どうしてもあなたを助けたかった」

 「あの時、僕を殺そうとしていたのはルーク・パトリウスだった。君はあの男の剣から僕の命を救ってくれた」

 エルザールはまっすぐクリスティアの目を覗き込んだ。

 「何故だ?」

 「何故ってーーーそれは、あなたに生きていて欲しかったからよ」

 あまりにまっすぐに見つめられて、クリスティアは急に居心地の悪さを覚えてしまう。

 「僕を愛してた?」

 「あなたを?」

 クリスティアはかすかに声を震わせ、

 「えぇ、愛していたわ」

 「そして、今はルーク・パトリウスを愛してるんだね? 僕の命を奪おうとしていたあの男。君はあの男の刃から僕を救っておきながら、この僕を捨て、彼に心を移した。君もルーク・パトリウスと同じだ。幾重もの誓いの言葉を口にしながら、君を捨てて他の女を選んだナザリアの王子と!」

 エルザールの口づけは、まるで燃え立つ炎のように荒々しかった。君もルーク・パトリウスと同じだと彼に指摘された言葉は、クリスティアの心に深く突き刺さる。エルザールの言う通りだ。あれほど誓いの言葉を連ねていたのに、ようやく再会した許嫁は敵国の王子のものになっていたと知った時、感じた落胆は如何ばかりであったか。アドランとセアラの話が真実ならば、私と再び会うことだけを一縷の望みに、ひたすら悲惨な環境にも耐え抜いたと言うのに。エルザールの体から立ち上る怒りと絶望の感情にすっかり圧倒され、クリスティアは体を動かすことも出来ない。しかし、仰向けに倒れた上にエルザールが乗りかかろうとするのを察するや、体をよじって悲鳴に似た声を上げた。

 「エルザール、やめて!」

 その声に、エルザールははっと我に返る。ほんの一瞬だが、残酷な衝動が彼の脳裏をかすめたようだ。が、恐怖にひきつるクリスティアの顔を見た瞬間、彼は大きく息を吐いた。頭をよぎった恐るべき企みを後悔するかのように首を振って、

 「ごめん」

 彼はクリスティアの横にごろりと転がり、天井を仰いだ。

 「約束は守る。君の出産が無事に終るまで」

 そのまま沈黙が続く。もちろん、二人は眠りに落ちるでもなく、ただ漠然と天井を見つめたままだ。お互い、どうしたらよいか分からぬまま時だけが過ぎていく。と、突然、エルザールが口を開いた。

 「昔のことを話そうよ、クリスティア」

 「え?」

 クリスティアはゆっくりとエルザールの方に顔を向けた。

 「クレスで僕たちが出逢った最初の日から、一つ一つたどっていこう。僕がエドアルドの剣の稽古相手に呼ばれた日だ。覚えているよね?」

 それから、ぽつぽつと二人は懐かしい思い出を語り合った。今は亡き家族のこと、賑やかな王都クレスのこと、きらびやかな王宮のことーーーナザリアにいた間はなるべく考えないようにしてきた過去の出来事が、色鮮やかに甦る。それらがあまりに強く胸に迫ってくるので、クリスティアは思わず泣き出しそうになった。それに気付いたエルザールがそっと手を延ばし、

 「昔のことを思い出すのは、そんなに辛い?」

 と、黄金色の髪に触れた。

 「いいえ、違うの。ただ思っただけ。たくさんのことが変わってしまったんだなってーーーあの頃私を囲んでいたものは皆、もうどこにもないんだわ」

 「全てを無くした訳じゃない。僕もいるし、アドランだっている。クルービアが滅び、クレスの都が燃え尽きても、また新しく一から築けばいい」

 「もう一度、一からーーー」

 「そう、何度でもやり直せばいい。生きている限り、やれないないことなど何もない」

 「やり直せるかしら、私たち?」

 「やり直せるよ、必ず」

 エルザールはクリスティアの額に唇を押し当て、

 「僕は彼とは違う。君を裏切ったりしない。これまでもこれからも。もし君を裏切ることがあれば、僕の命を捧げてもいい」

 『それほど私の命が欲しいのならば、そなたにくれてやろう』

 いつかルーク・パトリウスが語った言葉が、ふと重なる。あぁ、今もあの人への想いがこんなにも胸から溢れている。あの黒く艶やかな瞳の呪縛から、私は逃れることなど出来るのだろうか?

 「時間が欲しいの、エルザール。今はまだ心の奥が苦しくて、誰のことも考えられそうにないの」

 「七年だ」

 エルザールは小さく呟いた。

「七年かかったんだ、君の元にたどり着くまでに。あの途方もない時間に比べたら、少しの間待つくらい苦ではない。だって君はこうして僕の目の前に、手を延ばせば届く所にいるのだから」

 激しい怒りの渦は跡形もなくすっかり消え失せ、エルザールはクリスティアもよく知る穏やかな彼に戻っていた。毛皮の掛布に包まれて、彼らは眠りに落ちた。翌朝、先に目覚めたクリスティアは、そこに金色の髪と白い肌の男が横たわるのを見て、どうしても違和感を拭えなかった。とは言え、世界中のどこよりも温かで安心だった巣から突然外へと放り出された雛鳥のように、心寂しさと頼りさを痛いほど噛みしめながらも、否応なく新たな一歩を踏み出さざるを得ないクリスティアであったのだったが。



 

 

 


 

ⅩⅩⅡ 〈大眼石〉

 ともあれ、複雑な事情をはらみながらも婚礼は済んだ。クリスティアがいかにも新妻らしい初々しさでエルザールに対し甲斐甲斐しく振る舞うので、二人はこの上なく似合いの夫婦だと周囲からは信じ込まれているようだ。

 アドランは懸案の姉の結婚が問題なく片付いたので、心底ほっとした様子であった。お陰で、もう一つの懸案クルービアの再興に集中することができる。カトレ王はもうとっくにアドランに加勢することを宣言しており、カトレ兵らを娘婿に惜しみなく貸し与える準備も万端整っている。後は出立の時期が決まるのを待つのみで、アドランはその決行の時期を   に決めようとしていた。

 クリスティアはつわりの苦しみから解放されて、日々、セアラとカトレ王妃と共に王宮の奥深くで過ごした。人の好い母娘はクリスティアをよく気遣い、何かと面倒を見てくれるので、初めてのお産への不安も少しは和らいだ。ネリは婚礼支度の次は、生まれてくる赤子の準備にかかりきりで目が回るほど忙しくしており、見ているクリスティアの方が心配になってくるほどだ。

 「ネリ。産み月はまだ先なんだから、そんなに根をつめてやらなくていいのよ」

 そうたしなめても、ネリは首を振り振り、

 「いいえ、私がやりませんと。カトレの王妃様はよいお方ではありますけれど、あまり気の利くお方ではなさそうですからね。何事も早めに取りかかった方が間違いありません」

 エルザールは、時が経つにつれて変化していくクリスティアの体つきに時折困惑しながらも、約束を破ることなく、寝室での距離を保ち続けた。クリスティアはエルザールの存在に馴れてはきたものの、目を覚ました時に感じる違和感はなかなか消えない。今でも、ふとした折りにはルーク・パトリウスのことを考える。子どものことを知っていたら、ミアテとの結婚は考え直してくれただろうかと。ほんの少しだけでも喜んでくれたかしら? それとも、跡継ぎにもなれぬ子どもになど気にもかけなかったかしら?

 ある日のこと、アドランがやって来て、クリスティアに向かってこんなことを質問した。

 「姉上、〈大眼石〉について詳しい話をお聞きしたいのですが」

 かつてエマルディエの神殿に仕える巫女だったクリスティアではあるが、〈大眼石〉のことは殆ど知らないと言ってよかった。

 「エマルディエにいた頃のことは、覚えていないのよ。秘密を守るために、記憶を曖昧にさせる薬草を飲まされていたから。あの石のことを知るには、神官たちに聞く以外ないわ」

 「そうですね。ですが、神官らは皆、いなくなりましたから。今、その話を聞けるのは姉上だけなのです」

 「でもね、アドラン。本当に何も答えられないのよ」

 クリスティアは困ったように、

 「知っていれば、何だって教えてあげられるんだけれど。辛うじて覚えていることと言えば、月夜に神殿の裏にある森で、神官たちが儀式のようなものをしていたことぐらいよ。大きな岩で出来た水盤を囲んで、『調和』がどうだとか話していたわ。でも、実際何をやっていたのかは、私にも分からないの」

 「エルザールから聞いた話では、戦場に突然姉上が現れて、彼の命を救ったとのことですが。そのことは、〈大眼石〉と何か関係があるのですか?」

 「あれはーーー」

 ふとルーク・パトリウスのことを思い出し、胸の痛みを覚えつつ、

 「えぇ、多分。その時、私は水盤の側にいたの。神官たちの儀式をこっそり見ようとしていたみたい。だけど、眠ってしまったようなの。それで、そこから離れようとした時、水盤の奥から大きな音が聞こえてきたんだわ。びっくりして覗き込んでみたら、今にもエルザールが殺されそうになっていて、それでーーー」

 「それで?」

 と、アドランが先を促す。

 「それで、私、水の中に手を入れたの。あっという間に中に引っ張られて、気が付いたら戦場にいたわ」

 「ほんの一瞬で、エマルディエから遠く離れた戦場まで飛んでいったのですか?」

 アドランは目を丸くして、

 「体が実際に飛んでいったのではないのかもしれなくてよ。何と言えばいいのかしら、心だけが飛んでいったというか」

 「心だけがーーー何だか、不思議な話ですね」

 と、首を傾げた。

 「姉上は水晶月に生まれ、そして巫女になるよう告げられた方ですから、〈大眼石〉の力を使うことだって出来るのでしょう」

 「力を使うって。どんな力があるっていうの? あなた何か知ってるの、アドラン?」

 「僕だってよくは知りません。建国神話による伝承では、クルービアの創造神エマルデが天界に帰る時、右眼を地上に残していかれた。この右眼が地上にある限り、クルービアが滅ぶことはないと言い残されて。それが〈大眼石〉となり、エマルディエの地で何代にも渡って守られ続けた。一時アサルドに奪われてしまったが、今は僕の手に戻ってきました。新しいクルービア王の手の中に」

 「そうよ。だから、きっとクルービアは甦るわ。あなたの元で。エマルデ神がそう告げられたのだもの」

 「エマルデ神が告げられたから。だけど、僕はそれだけでは心許ないのです」

と、アドランは辺りを気にするかのように、周りに目を配ってから、

「確かにカトレの王は兵を出して下さると約束してくれましたが、 を奪還するには少な過ぎるのではと思うのです。もし、姉上に何か特別な力がおありならば、是非その力を僕らに貸して頂きたい」

「特別な力なんか、私にはないわよ」

「エルザールの命を救ったではありませんか」

「あれはーーー私がやろうとして出来たことではないの」

と、クリスティアは困ったように、

「神官のマデリオスは、それで私が『調和』を乱したと酷く怒っていた。禁忌を犯したとなじられて、一年近くも下女として働かされたわ。下手に手を出していいことではないのよ。それよりも神官たちを探し出した方がいいわ」

「神官たちはいないのです、どこにも。ですから、姉上にこうしてお願いしているのです」

そう言って、アドランはクリスティアの前に恭しく膝まづいた。

「どうか僕に力をお貸しください、クリスティア姉上」

「アドラン、やめてよ。立って」

クリスティアは弟の元に駆け寄り、その手を取って、

「あなたのためなら、何だってする。だけど、〈大眼石〉を使って何かをするのは無理よ」

「では、見ることくらい出来ませんか? エマルディエから遥か遠くの戦場を見渡したように。敵の見張りがどこにどのくらいいて、どこの守りが手薄いのかが分かれば、少ない兵力でも を落とすことが出来ます」

「ここはエマルディエではないし、聖なる森も泉の水盤もないわ」

「〈大眼石〉があります。他のものはなくとも、あの石だけはここにあります。ねぇ、姉上。失敗したからといってあなたを責めたりしません。どうか一度だけ、試してみてはくれませんか?」

「アドランーーー」

「僕はどうしても、クルービアを取り戻したいのです。このまま治める国も民も持たない、名のみの王で終わりたくない。いつまでも妻の実家に居候して、肩身の狭い思いをするのは懲り懲りなのです」

アドランの顔に浮かんだ悔しそうな表情に、クリスティアははっとさせられた。セアラやカトレ王夫妻から大層愛され、てっきり満足していると思っていたのだが、内面にこんな苦悩を抱えていたとは知らなかった。

「お願いです。このようなことを頼めるのは姉上しかいません。子どもの頃から可愛がって下さったあなただからこそ、僕は胸の内を晒ことが出来るのです。他の誰にも言えませんよ、たとえセアラにだって」

十八の歳にしては、まだ幼い面立ちをした弟をクリスティアは何とも言えない思いで見つめた。国が滅んだせいで、この弟もまた苦難を舐めて生きてきたのだ。クレスで別れた時、アドランはまだ十歳だった。にこにこしながら見送っていたあどけない顔が蘇り、クリスティアはつい昔の癖でアドランの頭を撫でた。

「いいわ、アドラン。やってみましょう」

たちまち、アドランの顔がぱっと明るくなった。

「でも、期待しないで。私には何の知識もないということを忘れては駄目よ」



 アドランは天鵞絨の箱に入った〈大眼石〉をクリスティアの前に置いた。掌に入るほどの赤い石は見た目はごく普通の石で、言われるような不思議な力が宿っているようにはとても見えない。

 「〈大眼石〉はマトルデーズの泉の中にあったはず。ここカトレに代わりになる泉があるかしら」

 「都の北側にエマルデ神を祀る社がございますわ。そこに涌き出る泉をお使いになってはいかがでしょう」

 カトレの王妃が言った。

 「水盤も必要となりましょう」

 「それでしたら、城の宝物庫に銀製の大きな水盤があったはずです」

 森と泉と水盤。それに満月が揃えば、あの夜のことが再現が出来るだろうか。神官たちの儀式までは再現のしようがないが。自分でも覚えていない記憶の奥底に、何かあの時の出来事に繋がるものがあればよいのだが。朝晩に唱えた聖句と神に捧げる舞踊は身に染みついているので難なく出来ても、それ以外のことは当時でもぼんやりしていたのだから、あれから四年も経つ今となればなおさらだ。

それでも、弟の頼みを叶えるためにと、クリスティアはアドランと共にカトレの王妃に勧められたエマルデの社へと向かうことにした。王妃に付き添われ、たどり着いた社はエマルディエの神殿に比べればささやかではあるが、王妃の顔見知りらしい神官は、あのマデリオスとはまるで正反対の温和な老人であった。

「それでは、このお方が名高きエマルディエの水晶月の巫女であられた姫ですか?」

にこやかに一行を出迎え、神官は中へと案内してくれた。

「よくご無事でいられたものだ。エマルディエは例のナザリアとの戦の折に、焼かれて灰になったと聞いておりましたが」

「えぇ、色々とありましたが、どうにかこうして生き延びることが出来ました」

エマルデの社に仕える神官ならば、〈大眼石〉のことで何か知っているかと尋ねてみたのたが、老人はあっさりも首を振り、

「あいにくですが、私のような者にエマルディエの秘宝にまつわる秘密など知るよしもございません」

と答えたので、クリスティアとアドランは少なからずがっかりした。

「しかしながら、水晶月に生まれる女子はエマルデの妻ミルヴェ女神の姫神子と申しますから。〈大眼石〉に秘められた力に触れられるのも当然有り得ますでしょうな」

創造神エマルデは太陽神でもある。その妻ミルヴェは月神だ。エマルデが地上に残した右眼が邪悪なものに奪われぬようにと、ミルヴェは水晶月夜に自らの娘を人間界へと遣わした。その伝説が元となり、ミルヴェ暦の水晶月に生まれた女子は十三歳になるとエマルディエの神殿で巫女として仕える習慣が出来たのだった。水晶月が巡ってくるのは三年に一度。それ故、十六歳になれば新たな巫女たちと交代し、任を解かれることになる。

「〈大眼石〉はその名の通り、大いなる眼の石です。遥か遠くの出来事であっても、神の目ならば見渡すことができる」

「もはや巫女でもない私が、その力に触れることは出来るのでしょうか」

決められた十六の歳はとうに過ぎ、既に夫を迎え子まで身ごもっていることを思い出し、クリスティアは急に不安になる。

「それを決めるのは〈大眼石〉であり、エマルデ神です。我ら人間ではない」

老人は穏やかな顔でクリスティアを振り仰いだ。

「どうなさいますか?」

「もちろん、やりますとも。私の大切な弟と祖国の為ならば」

老神官は予め伝えられていた通り、社の裏にある泉へ一行を案内した。カトレの王妃が大きな銀の水盤を運ばせて、泉の中にそれを沈めさせる。アドランが差し出す箱から〈大眼石〉を受け取ったクリスティアは、水盤の真ん中にそっと据えた。やがて現れた満月が空高く登るまで、人々は無言でひたすら待った。

 やがて月が最も高き位置までくると、神官が聖句を朗唱し出し、それに合わせてクリスティアが浄めの舞を舞う。記憶の彼方から、あの夜のことをひとつひとつ手繰り寄せていく。一列に並んだ八人の神官たち、激しく言い争う彼らの声、鏡のように澄みきった岩の水盤、そしてマデリオスが語っていた『調和』とは? 

 クリスティアはふと舞を止め、水盤の方を振り向いた。かつて体を突き抜けていった力の名残が、彼女を石へと引き寄せようとしている。彼女はそれに抗わなかった。裸足で軽やかに歩み寄り、そっと水の奥を覗き込む。彼女の心臓の動きと呼応して、石は赤い光を輝かせているのが見えた。

 最初は何も見えなかった。しかし、じっとそのまま目を凝らしていると、やがてぼうっとした靄が泉の奥から沸き起こり、像を結び始めた。見えてきたのは、ナザリア王アサルドとその横で微笑むアデライデ。それから、ネヴラバと彼にぴったりと寄り添うミアテの姿だ。

 ぎょっとしてクリスティアは後ろに飛び退いた。それを見て、アドランが叫んだ。

 「姉上、どうしました? 何か見えましたか?」

 我に返ったクリスティアは、気が動転したままに頷く。

 「えぇ、見えるわ」

 「   の様子はどうです? ナザリア兵の姿は見えますか?」

 意識を   に集中し、もう一度水盤を覗き見た。ナザリア王らの姿はすっかり消え失せ、続いて靄の中からとある街の形が浮かび上がってくる。クリスティアはアドランの矢継ぎ早にする質問に対して、ひとつひとつ丁寧に答えていたのだが、突然糸がプツリと切れたようにその場に崩れ落ちた。

 辛うじて、カトレの王妃が支えてくれたお陰で地面に叩きつけられるのを免れることが出来た。意識を取り戻した時には泉から離れた草地の上で、王妃の膝に頭を乗せて横たわっていた。

 「アドラン様には、姉上のお産が済むまでは無理をさせぬようにと、きつく申し上げておきました」

 憤慨やるかたなしと言わんばかりの口調で、王妃は言った。それから、ふっと声を和らげて、

 「ご気分はいかがです? どこか具合が悪いところはございませんか?」

 「いいえ、大丈夫です」

 と、クリスティアは辺りを見回して、

 「アドランはどこですか?」

 「アドラン様なら先にお帰りになりましたわ。お聞きになったばかりのことを、すぐにでも皆と話し合いたいと思っておいでなのでしょう」

 しかし、クリスティアが気になってならないのは   の光景よりも、その前に見たナザリア王一家の方だ。私が見たあの中に、何故ルーク・パトリウスがいないのだ? ミアテの隣にいたのはネヴラバで、しかも彼らの様子はどう見ても夫婦のようであった。見ようとした意図はなかったが、どうやら無意識の内に心はサルサザーンへと向かったらしい。だが、一番目にしたい人の姿がないのはどういうことだ? エルザールも旅の楽人も、確かにナザリアでは二組の婚礼があったと言っていたではなかったか?

 カトレの王妃に支えられながら、クリスティアは王宮へ帰っていった。彼女の頭にある疑念が過り、離れようとしない。帰りつくや否や直ちにエルザールを探したが、彼は先に帰ったアドランに呼ばれて、出兵に関しての話し合いをしている最中だった。

 『王と王太子の婚礼だと言っていたわ。ナザリアの王太子はルーク・パトリウスよ。あの人がミアテを妃に迎えたのではないの?』

 ならば、何故ネヴラバが? あれは私の見間違いだったのか? そうであって欲しいと願う私の心が見せたただの幻なのだろうか?

 アドランらの話し合いはなかなか終わらない。夜通し続き、明け方になってようやくエルザールが部屋に戻ってきた。寝ずに起きているクリスティアを見て、彼は大変驚いた。

 「どうしたんだ、クリスティア! こんな時間まで起きていることはないのに」

 「あなたを待っていたのよ、エルザール。あなたにどうしても訊ねたいことがあるの」



 

 
 

ⅩⅩⅢ クルービア再興

 「話?」

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted