Einmal im Jahr (前)

周たまき

  1. Febuary
  2. March
  3. April
  4. May

Febuary

今日はバレンタインデーですから。
花束を渡されて、少し照れる。
「私は女です」
「欧州やアメリカでは、男性が女性に感謝を伝える日になっているそうですから、性別は重要じゃないと思います」
「日本だけのイベントじゃないのね…アフリカやアジアでもバレンタインは特別な日かしら」
「さぁ、わかりません。調べたことがないから」
首を傾けてそう言う彼は、大塚ノボルという。仮名だそうだ。役所や職場、病院なら仕方ないけど、赤の他人に本名を言うのは怖いから。昔、友人の友人に名乗ったところ、親のことだの性格だのを勝手にあれこれ推測されて不快な思いをした。
「全部外れているとか全部当たっているならまだしも、親のことだけ当たっていたから変に怖くなって」
適当に名乗るようになった。変に詮索されても平気だから。
「本名が好きでもないし。それが一番の理由かも」
「仲が良くなったら教えてくれるかしら?」
初めて会った日にそう聞いたら、笑みを浮かべながら緩く首を振った。
「まさか」
今日は二月十四日。バレンタインデー。彼は確か独身だ。三十歳で、独身。切れ長の目で聡明な顔立ち。いつも細めのスーツを着こなしている。独身でも彼女ぐらいいそうなもの。でもここにいる。
「こんな日に、そしてこんな時間に、ようこそいらっしゃいました」
「嫌味ですかね」
「少し」
営業時間は朝十時からから夕方六時まで。でもノボルさんは、もちろん最初こそ営業時間内にやってきたけど、二回目以降はいつも仕事終わりにやってくる。
「ミナトさんは、彼氏がいらっしゃるんですか?もしかして今日は予定があった?」
「いいえ」
「じゃあ、いいじゃないですか。こんな時間に来るのは、いつものことです。仕事が終わってからしか来れないんだもの」
「そんなわがまま言うのはあなたぐらい。それにもう二十二時。通常寝ようかなと思っている時間です」
「寝るのが早いんですね。年齢のせい?」
 少し頬を膨らませてみせて、無言でいただいた花を挿す花瓶を探す。窓際にある棚を開けると、数種類の花瓶がある。いただいた花束は豪勢なことに、全てバラ。ピンク色の美しいバラが八本。
「バラの花ことばって、どんなだろう。ノボルさん知っていて?」
「少し。本数や色で変わってくるんですよね。赤は愛情、白は純潔、とか」
「ピンクで、八本は?」
「調べてください」
ぶっきらぼうな口調でそう言い、大塚ノボルさんは椅子に腰かけた。手足がスラリと長いものだから、椅子に座って足を組んだほうが、より細さと高さが際立つ。
適当な花瓶に花を挿し終え、珈琲を入れてやる。大塚ノボルさんは私と同じで、濃いめに入れた珈琲にミルクを入れるのが好きだそうだ。
「どうぞ」
「いただきます」
二人で珈琲をすする。私が淹れたものだが、特段においしいわけではないと思う。挽いた豆と水をセットしてボタンを押せば勝手に淹れてくれる優れものに任せているから。でも、大塚ノボルさんはいつも最高においしいと言うし、どんな時間に来ても絶対に珈琲を飲みたがる。いつぞや、お酒もありますよ、と言ったら、いいえと断られた。酒を飲むのは仕事の付き合いか、嫌なことがあった一人の日だけなのだそうだ。
「今日ね、思ったことがあって」
「はい」
一口飲むと、カップをテーブルに置き、ふう、とため息をついて彼が口を開いた。
「仕事を、やめようかなって」
「まぁ。突然?」
「突然だろうか…わからない。…大学を卒業してから、ずっとこの会社しか知らないから…外の世界はどんな感じかなと思いました。ずっと。八年間この会社。八年間も。二十二歳のときから今までずっと同じ部署の営業」
「すごいですね。八年間も同じ場所にいるのは」
 だって、小学校だって六年間なのに。嗚呼、でもあなたのとこと同じようにクラスが替わるわね。だから六年間、我慢できたのかも。そういうと、大塚ノボルさんはふふふと笑った。
「あなたは同じところに留まるのが苦手ですか?」
「得意ではない」
「そうですか。…去年、主任になったんですよ。主任って、何やるのかなと思ったら、大して変わりません。役職が上がるだけなんです。少し手当がついて、その分責任が重くなって、でもやることは変わらない」
「ほう」
「期待されているのは嬉しいけど、なんとなく仕事の楽しみ方がわからなくなってきていました。それでここに来たんですよね」
「ええ、ここに最初に来たとき、ノボルさんは仕事が楽しくないって言ってましたね。主任になったなんて言ってなかったけど」
「言ってなかったろうか」
私の顔をじっとみる。目を合わせているのがいいのか、逸らしたほうがいいのか、わからないのだけど、目が合っていたのでそのまま。無表情でいればいいのか、微笑んでいればいいのか内心ヒヤヒヤする。たぶん、無表情でいるのだと思う。
「そう、仕事。朝出勤して、ラジオ体操をして、朝礼でタスクの確認をして業務にうつるんです。飽き飽きするほど同じ毎日」
「でも毎日違うでしょう」
「そう。同じなのに違う。言いましたっけ?部署は同じだけど担当地域は最初がアジア、次がヨーロッパ。不思議ですね。同じアジア人より、欧州の人たちとの方が仕事のやり方が合うんです。すごい淡白」
「アジアは?」
「情熱的な方が多い」
「なるほど、あなたとは合わなさそう」
「どちらも楽しいけど」
楽しい、と言いながらため息をついて、珈琲を飲む。
「楽しい、けど少し楽しくない?」
「うん。楽しくない。何が楽しくないんだろう?わからない」
そういえば、仕事の帰りにまっすぐここへ来たのだろうか。だとしたら、きっとお腹がすいている。でもこんな時間。二十二時。食べてから来たのだとしたら?このまま話を聞き続けたほうがいい。
「突然思ったんです。今日の朝。すごく寒くて。外、寒かったでしょう」
「ええ、空気のにおいは少しずつ春めいてきてるけど、風はまだまだ冬ですね」
「空気のにおい?違うんですか?」
「いいえ、忘れてください」
「いえ、聞かせてください」
聞かせろと言われると戸惑う。だって、においを説明するのはとても難しいから。
「ええと、にぎやかになるんです。におい。においが・・・表現するのが難しいんだけど、草や土の香りがしてくるんです。冬はしないの」
「都会でも?」
「ここが都会なら、そう。都会よね?でも、違いがわかりません。田舎にいたことがないから」
「そうか」
「そうだ、お腹すいていませんか?パンがある」
説明下手という現実から逃げるためにパンの話題を振ると、ノボルさんは顔を輝かせた。
「いただきます。お腹すいてるんです」
「食べていないのね」
「ええ、仕事が終わってすぐここへきたから」
ならば、パンの話をしてよかったと安堵する。日中に立ち寄った百貨店のパン屋でおいしそうなパンをいくつか買っていた。アップルパイと、四種のチーズパンと、カボチャクリームパンと、それからフレンチトースト。
彼は四種のチーズパンとフレンチーストで散々悩んで、フレンチトーストを選んだ。皿とフォークを用意しながら、どちらも食べていいのよと言ったら、じゃあもう一つはアップルパイを食べますと言った。
「あなたと半分にして」
「私がアップルパイを好きだと、知っているものね」
私はパンを食べずに珈琲を飲む。夕食はすでにとっているからお腹はすいていない。
「今日、出勤するのに電車に乗って、窓の外をみたんです。いつものように。で、思ったんです。僕はなんでここにいるんだろうって」
それはきっと、誰でも思うものではないだろうか。一度や二度。いや、幾度となく。
「はじめて?」
「いえ、何度目かの、今日です」
そう、と頷く。
「何度目か、だからかわからないけど、今日一日中仕事をしていて、ずっと離れなかった。『なぜここにいるのか』っていう、思いが」
「そう」
「うん…そう。それだけ」
そう言って、珈琲を飲む。私も倣うようにさらに飲む。もう冷めかけている。冷めかけの珈琲はあまり好きじゃない。おいしくないような気がする。
少し二人でぼんやりとして、そのあとは仕事の話はせず、今の気温は何度とか、バレンタインデーの百貨店はさぞかし混んでいるのだろうとか、いいえ、当日は大したことはないのよとか、爪が伸びていることに気づいたりだとか、たわいない話を、どれも短くした。
フレンチトーストを食べ終えたノボルさんが、アップルパイを半分に切ってくれた。
「本当は一個まるまる食べたいところだけど、きっと恨まれるから」
「あら、私に?」
「そう」
「よくわかってらっしゃるのね」
くすくす笑って、二人でアップルパイを頬張る。美味しい。いつも家の近所にあるパン屋で買っているけれど、百貨店のアップルパイも美味しいと思う。生地のサクサク感は近所のパン屋が勝っているけど、リンゴのごろごろ具合は百貨店が上かもしれない。いや、やはり同程度かも。近所のだってゴロゴロしてる。百貨店のは高いから、より美味しいはずだと思っているのかも。
そんなことを考えながらゆっくり食べていると、先に食べ終えたノボルさんが、またぼんやりとして。私を眺めていた。視線に気づいて恥ずかしい気持ちになる。食べている姿を見られるのは少しだけ、恥ずかしい。
「ああ、ごめんなさい。見つめていたわけではないんです」
「わかっています」
本当はわかっていなかったんだけど、恥ずかしいから。うん、うんと頷いてみせる。
時計を見て、もう二十三時前だったので、今日はこれで、とお開きになった。
コートを羽織るノボルさんは、やはり手足が長くて、動作が大きければ大きいほど、そして緩慢なほどにその美しさが際立つ。
「ごちそうさまでした」
「いいえ、またいらしてね」
「ええ、もちろん。何を話したいのかわからなくなってしまって。でも、聞いてくれてありがとう」
「次はもう少し早い時間にきてくれると嬉しい。ゆっくり話せるから」
「業務内容を見直します。最近残業が増えてきた」
打ち合わせと会議で事務仕事が終わらないんですよね、と文句を言う。ノボルさんはあまり表情を作らないから、文句に聞こえないのが少し不思議。
「さよなら」
最後は微笑んで別れる。いつものパターン。背を向けて姿が遠ざかるのをぼんやり見ながら、これから帰るのか、と思うと気が重くなった。
片付けをして、電気を消して、鍵を閉めて、あとは帰るだけなのだけど、ひどく億劫。
「ひとりだから、かな?」
独り言をするのは好きではない。なんだかボケてしまうような気がするから。
頬を膨らませてみたりしかめっ面をしてみたりしながら、片付けをして電気を消し、鍵を閉める。外へ出たらしっかり顔を引き締めて歩く必要がある。気を緩めるとどんな顔をしてしまうかわからない。

March

木本さんは最近、元気がないのだと云う。春のせいで
「気温の変化にすごく敏感なの」
「体調を崩しやすい?」
「そう。花粉症ではないのよ。一日中体が重たくなったり落ち込みやすくなったり」
「私も。春は好きなんだけど」
三月はひな祭りの月だからと、折り紙で作ったお雛様とお内裏様をもってきてくれた。
「もう過ぎちゃったけど、ひと月は飾って置いていいんだから。これ、あなたのために折ったのよ。もちろん飾るわね」
「今だけ飾らせていただきます」
と、テーブルの端にちょんと置いた。私は部屋にインテリアというものを置くのは好きじゃない。もちろん店にも何も飾っていない。木本さんはそれを知っていて、わざとというか、あえてというか、いつも何か持ってくる。手のひらよりさらに小さい、可愛らしい紙人形を、さすがに置きたくないと断るのは躊躇われたのでとりあえずテーブルに。
「今だけ」と言ったのに、木本さんはとても満足そうにうなずいて、気温の変化の話に戻った。
「あなたはまだ若いのに。私が気温の変化に嫌気がさしだしたのは、最近よ」
「木本さんは、今年おいくつになるんですか?」
「いよいよ五十六になる」
「ええと…見えませんね」
「嘘ね」
「ごめんなさい」
すごく年相応に見える。ウェーブがかった髪に白髪が混ざっているせいか、眉間に深く刻まれたしわのせいか。木本さんは三年前にここを訪れてくれて、以来常連となってくれている。初めて来たとき、ても疲れていたようだったから「何かありましたか?」と尋ねたら、3時間かけて自身のことを深く語って聞かせてくれた。
「三年前よりは若くみえる」
「あら、それは離婚したおかげよ。あの時は鬱屈としていたから。正直息子の結婚なんてどうでもいいと思うぐらいに精神をやられていたわ」
「初めてきたときはまだ離婚していなかったんですっけ」
「そうよ、ギリギリ主婦だった。肩書きだけの主婦」
 ギリギリ主婦、という言葉に笑う。木本さんはわざとらしく頬を膨らませながら私をジト目で見る。
「いいわよねぇ、今の子たちは。結婚したいと思ったら結婚して、ダメだと思ったらすぐに離婚できる。私なんて、離婚したいと思ってからそれを実現させるのに三十年かかったわ」
「三十年間耐えるって、私には想像できないぐらいつらいことの連続なんでしょうね。でも、離婚は今だって大変だし、そう簡単にできるものではありません」
「そうかしら」
「そうですよ」
 木本さんがジンジャーエールを口に含みながら私をまたジト目で見る。
「あなたは結婚していないのよね?」
「ええ」
「結婚していたことは?」
 そういわれて、どうしようかと少し悩んでから「あります」と答えた。
「そう」
 木本さんは目を見開いて頷き、ジンジャーエールを飲んだ。気まずい空気が漂う。
「へえ、そう…」
 木本さんの顔が、ぱぁっと明るくなった。
「そうなの。じゃあ、私と同盟を組めるわね。離婚同盟」
「離婚同盟?」
「離婚したものだけが入ることのできる。たった今作ったんだけど。この同盟はね、離婚した理由を語らないと入れないのよ。あなた、語ってちょうだい」
「ええ?」
語らなければいけないのなら入りません、と笑って断ると、木本さんが顔の前でびしっと大きくバツを作り
「受け付けません」
と拒否した。
「そんなことを言われても」
「じゃあ、私から語らせてもらうわ。離婚の経緯」
「それは構わないけど、私は嫌よ。それに前にも聞きました」
「同盟を組むのに必要なことよ。たった今同盟が発足したんだから、条件の適用時期もたった今から。過去に話した内容は適用外。我慢しなさい」
組みたくない同盟を組むために、私は我慢しなければならないようだ。面白いような、呆れるような、複雑な気持ちを抱きながら、とりあえず木本さんの話を聞くとする。どうぞ、というと、コホン、とわざとらしく咳をして「私はね」と語りだした。
「二十三の時に結婚しました。私は高卒なの。今の子は皆大学へ行くけど、当時は大して珍しくもない。高校を卒業して、働いた先で旦那に出会って、結婚して、私は専業主婦になりました。二十四で息子を身ごもったの。うれしかったわ。愛する人の子供がお腹にいるのよ。お赤飯をたいて、仕事から帰ってきた旦那に報告して。もちろん旦那も喜んで、二人で字画やら季節やら、いろんな方面で悩みながら名前を考えてね。旦那のお父さんに決めてもらうかとか、季節から取ろうかとか、散々考えた。考えて考えて、考えすぎて、結局なんでもいいじゃないって言って、私と旦那の名前から一文字ずつ取って紀之。紀子の紀と、正之の之。単純でしょ。もっとカッコいい名前も考えたのよ。なんだっけ?太郎だか國松だか…ううん、離婚の経緯よね。子供の話は今はどうでもよかった。ええと、そう、子供が生まれて。そうよ、旦那が変わったの」
「変わった」
「ええ、家に帰らなくなった。残業だって言って。本当に残業だったのよ。仕事が忙しくなっただけ。でもそれであの人、イライラしだして」
 イライラする元旦那さんを思い出してだろう、木本さんが顔をゆがめる。一日中家にいる奥さん。世話をしなければいけない子供。やっと帰ってくる旦那はイライラしている。
「気を遣ったでしょうね」
「とても。こっちは専業主婦だもの、今と違って昔の女はそう働き場所があるわけでもない。旦那には忙しかろうが辛かろうが働いてもらわないと困る。だから子供が夜泣きすれば部屋を変えて、なるべく旦那が眠れるよう苦心したり、眠い頭を頑張って働かせてバランスの取れた食事を作ったり、まぁ、主婦としては当たり前のことを頑張った。でも、向こうはイライラを我慢できない。そしてぶつけるの。私に当たるだけならいいのよ。嫌だけど我慢するわ。でも子供に当たるのは間違いよ」
「当たる、とは?」
 おっかなびっくり聞くと、木本さんはますます顔を歪めて首を横に振った。
「虐待するわけじゃないけど、大声を出すの。うるさい、黙れ、静かにしろって。一日中おとなしい子供なんているわけない、もしもそうだったら、病気を疑うわよ。子供なんだもの、うるさいに決まってるじゃないって言ったわ。でも、自分は休みなんだから、休ませろって怒るの。大変だったわよ。旦那が休みのたびに、私は子供を連れて外に出て、長い散歩をして。旦那が車をだしてくれて三人で出かけることもあったけど、旦那は『疲れているところをわざわざ連れてきてやった』って気持ちだったんでしょうね。私たちが楽しくなさそうだと怒るの。せっかく連れてきてやったのにって。そうそう、一度大ゲンカをしたことがあったわ。休みに旦那が昼寝してたんだけど、突然すごい勢いで起き上がって、怒鳴りながら紀之にげんこつを食らわせたの」
「まぁ」
「紀之は声もあげずにびっくりして固まった。何やってるのよって怒鳴ったら、俺は寝てるんだ、うるさいっていうの。紀之は大人しくアンデルセン童話を読んでいたのよ?あの人、外で遊んでいた子供の声を寝ぼけて勘違いして、確認もせずに殴ったのよ。もう私は大激怒。旦那は勘違いならいいなんて言って寝室へ逃げた、私はその晩の旦那のご飯を作ってやらなかったわ。向こうもさすがに何も言えなかったみたいで、一人で卵かけご飯作って食べてた。一週間口を利かなかったんじゃないかしら。五歳の紀之に「お母ちゃん、父ちゃん許してあげて」ってなだめられて、仕方なく仕事から帰ってきたあの人に「おかえり」って言ってやった。子供に気を遣われる親ってどうかしているわよね」
苦笑いをしながらジンジャーエールを飲む。
「三十年。離婚したいって、何度も思った。でも子供がいるし、私は当時専業主婦だからと諦めて。子供が中学に入るのと同時に、ママ友に誘われてパートを始めた。近くのスーパーで品だしの仕事よ。旦那はどこにでもいる、普通のお父さん。仕事ばかりしてご近所にはにこにこして、家でワガママ言いたい放題。友達の親とか近所のおじさんとか。その一人よ、私の旦那も。でもね」
 私の目をきりっと見つめて、木本さんは語り続ける。
「皆と同じようにそういうものよねって一生を済ませる必要なんかない。私の人生を、一人の男の機嫌を伺うことに費やすなんて、どうしても嫌だって思い始めた。息子が大学を卒業して、仕事のために北海道へ一人旅立って、旦那と二人きりになった時に。まぁ、気づかせてくれたのは紀之なんだけど」
「息子さんが、何かおっしゃったの?」
「別れたほうがいいよって、一言だけ」
ふふふと笑いながら木本さんが肩をすくめた。
「社会人になって二年目だったかしら。正月に帰省したときに言ってくれたの。自分では全く気付いていなかったけど、どうやらその時の私は全然笑わなかったみたい。無表情だったんですって。旦那が口を開くと表情が無くなっていたらしいの。怖いよって言われた」
「それからすぐに、元旦那さんにその話を?」
「いいえ、少し考えたわ。本当にしていいのかしら?その時住んでいた家は十五年住むマイホーム、近所の目が気になったし、何より高齢の両親が悲しませたくないと思った。私が離婚したなんて打ち明けたら、驚いて寿命を縮めるかもしれないじゃない。卒倒するかも。それに経済的なことも不安だった。息子が一人立ちしてからは、パート代の半分を両親の介護費、半分を貯金してて、でもそんなのたかが知れてるでしょう?本当に1人でやっていけるかしらって悩んだわ。でも、息子に良いと言われたら我慢できなくなっちゃった。だからそれからさらに二年間、週三日のパートを週五に増やして働いた。旦那は日中家にいないから私が仕事を増やしたなんてわからないの。もちろん、家事だっていつも通りにやってやったわ。気づいてくれないほうが好都合だったし」
 熱弁をふるう木本さんの額に、うっすら汗が見えた。私はうん、うんと頷きながら暖房をそっと切った。さらに木本さんの空になったコップにジンジャーエールをつぎ足す。辛い話をしているはずなのに、木本さんはとても楽しそう。顔は怖いけれど。ジンジャーエールをごっくり飲んで、ありがとうと言った。
「五十歳のときに心を決めてね。一人暮らしの家も契約して、いざとなったら紀之に助けを求められるよう携帯握りしめて、もちろん紀之にも予め伝えておいて。万全の体制で離婚しましょうって言ったの。私、きっと全身が震えていたわ。声も。旦那は最初私が本気だと思わなくて、何を言ってるんだ?って阿呆面して答えた。あなたと暮らしていくのはもう無理ですってね。疲れたから離婚しましょう、二年前から決めていたのよって伝えたら、旦那の顔が土色になって、そしてふざけるなって怒鳴られた。急になんてことを言うんだ。お前はバカなのかって」
「急に、ね」
ニヤニヤしながら木本さんは続けた。
「とんでもなく緊張してたし怖かったけど、実は私、前日に何度もシミュレーションしていたのよ」
「離婚を切り出すシミュレーション」
「そう、それでね、これだけは言ってやるっていうのをいくつも考えてたの。よく「お前のせいでイライラする」って言われていたから、あなたの機嫌取りは私には勤まりません。私のせいでイライラするんでしょう?だから気を遣って私はここを出て行きます。って。それ言ったらすごくせいせいした」
「カッコいい!元旦那さんはどんな顔していたのかしら?」
「顔は忘れたけど、ずっと喚いてたわ。無視して家を出てやった。でも結局、離婚成立するまでに三年かかったの。何度も帰ってこいって言われたんだけど、その理由が可笑しいのよ。家事ができないから家の中がぐちゃぐちゃだとか、会社に顔が立たないとか、近所が白い目で見てくるとか。別居のままでいいから離婚は嫌だって言われたこともあるけど、気持ちは全く動かず。正直、別居して顔を見なくて済むだけで、私も満足できるんじゃないかと思っていたの。だって、顔色を伺うのが嫌なだけだったんだもの。でも不思議ね。離れれば離れるほど、相手の嫌なところが次々と思い起こされて、迎えにくる時の言葉を聞いて、私のゼロだった愛情が、よりマイナスに変わっていったのよ。最終的には紀之が間に入って、赤の他人に取り持ってもらって、やっとこさ離婚成立」
 ジンジャーエールをごくごくと飲み。一目をはばからずげっぷをした。
「私しかいないから許しますけどね、人前でげっぷはいけません」
「あなたの前以外ではしない」
「それもどうかと思う」
「ごめんなさい」
カラカラと笑って謝る。
「やっと旦那が応じてくれて、そして息子が結婚した次の日にここなら来たのよねぇ」
「息子さんも、両親が離婚協議中に結婚をするなんて結構勇気が必要だったでしょうね」
「式は挙げていないのよ。私たちのせいかもしれないけど、紀之は違うって言ってくれた。彼女も俺も興味がないからしないだけって。入籍したという報告を貰ったとき、私は正直不安だったわ。紀之が旦那のようになったらどうしようって。だって、子供は親の背中を見て育つでしょう。当たり前だけれど、紀之の父親はあの旦那だけ。だから、そういうものだと思っていたらどうしようって。今のところ大丈夫みたい。でも、この先わからないでしょう」
木本さんは困ったような笑みを浮かべながら、そっと私の手を取った。
「もし紀之がおかしくなっちゃったら、きっと私は泣きながらここへ来るから、またあの時みたいに話を聞いてちょうだいね」
手をそっと握り返し、微笑む。
「もちろん。話を聞くだけでよかったらいつでも」
「ありがとう」
穏やかな空気が二人の間にながれる。でも、私は内心ドキドキしていた。「さあ、次はあなたの番よ」といつ言われるのかと。でも、木本さんは結局言わなかった。
折り紙のお雛様とお内裏さまをみやり、彼らは最後まで幸せに暮らしたのかしらね、と小さく呟いたきり、ぼうっとしてしまったのだ。私も木本さんと一緒になって、お雛様とお内裏さまのその後に思いを巡らせてみる。
三人官女だの五人囃子だの、牛だの箪笥だのを揃えて仰々しく祝って、それでもし不仲にでもなってしまったら。きっと周囲に隠して幸せなフリをしてしまうだろう。子宝に恵まれ幸せに暮らしたと願おう。
「彼らが幸せだったか不幸せだったかなんてどうでもいいけど、私が作ったこの子たちは幸せよ。だって、こんな素敵なお店に飾ってもらってるんだもの」
「そうだといいけど」
「周りに何もないから、自分たちがとんでもなく目立てるじゃない」
木本さんは初めてこの店に来た時から、絵の一つでも飾ったら、何か置いたら、と助言を欠かさずしてくれる。そして色々持ってきてくれて、それは手作りの人形のこともあれば沖縄土産のシーサーの置物のこともあれば百円ショップで購入した造花のときもある。私は毎回「今だけ飾らせていただきます」と丁寧に棚に置き、そして木本さんが帰ったあとに片付ける。同じことの繰り返しになるのに、今日も木本さんは折り紙で折った人形をもってきてくれた。
「この二人は、明日も飾っておいてくれない?」
「ええ、いいですよ」
 そういうと、木本さんが目を丸くして私をみた。
「本当に?いつもすぐ片付けるのに」
「あなた来た時言ってたじゃない。ひな人形はひと月飾っていていいって。だから、三月いっぱい飾って置く」
「三月最後の日にすぐさま片づけるのよ。結婚できなくなっちゃうから」
「一度したから、もういい」
「本当ね。…よし、帰ろうかな。あなたの離婚話は次来たときに聞くとします。聞きたいけど自分のことしゃべりすぎて疲れちゃった。もう歳ね…そして春のせい」
「次までに適当な離婚話を作っておきますわ」
ぶうぶう文句を言いながら、木本さんは帰っていった。
台所でコップを洗いながら、本当にどうしようかしらと悩む。次に木本さんが来たら、私は自分の話をしなければいけないのだろうか?今まで家族以外に話したことがないから恥ずかしい。そしてシミュレーションをしておこうと考えた。
堂々と自分の離婚話をするために。

April

「おじゃましまぁす」
松葉杖をついて、坂本ミツカさんが現れた。右足を膝まで太いギプスで覆いながら。
「まぁ、どうしたの?」
「骨折したの」
「見たらわかる。どうして骨折なんか」
中に入るのを手伝ってやりながら聞く。
椅子に座らせて、松葉杖を壁にたてた。
「駅の階段から落ちた」
「まぁ、いつ」
「出勤するときにね…ああ、喉が渇いた。松葉杖で歩くのって随分大変、脇が痛い。足より今は脇が痛くて痛くて。何か飲み物ちょうだい」
「何がいい?」
「お酒」
「朝から飲むの?ここは居酒屋じゃないわよ」
「飲みたいのよねぇ。前にビールを置いてるっていってなかった?」
「言ったけど」
確かに置いている。夜にしか来れないたった一人の客のために。珈琲しか飲まないけれど。
ふむ、とギプスを見た。骨折している人間にアルコールを飲ませても問題ないものなのかしら?
「ああ、大丈夫。退院してから毎日飲んでる」
「それも心配。休肝日を作ったほうがいいわ」
「きちんと金は払うから!お願い!そして聞いてちょうだい、私を取り巻く世間の冷たさについて」 
「おお…わかった」
缶ビールを冷蔵庫から取り出そうとして、友人からペルー旅行の土産にくれたくれたクスコなんちゃらというビールが奥にあるのを見つけた。それと缶ビールを持っていく。ミツカさんは「カッコいい!」とクスコなんちゃらを手にとった。
「あなたも一緒に飲んでちょうだい」
「ええ?私は今仕事中よ。飲まないわ」
「まぁまぁ。午後から客来ないかもしれないじゃない」
「不吉なことを言うわね」
笑いながら首を横に振った。ミツカさんはふくれっ面をしながら一人でビールを開ける。
私はコップに水を注いで、無事にここまでこれたことに乾杯。彼女はビールを半分ほど一気飲みをして、威勢よく「ぷっはー!」と息を吐いた。
「とても二十代後半の、うら若き乙女とは思えない」 
下品ね、笑うと、ミツカさんは、だってだって、と首を振った。
「ひどいのよ。ひどいのよ、都会の人たちは!冷たいの!」
「ええ、聞かせてちょうだい。とても気になっているの。骨折と世間の冷たさの関係が」
「先月の終わり、眠たい目をこすりながら出勤したの。いつも通りに。私、朝弱いから、いつもギリギリに起きて、五分でメイクを完成させて、常に買い置きしているバナナとクルミパンを口に詰めて、牛乳を一気飲みして家を出るのね。そしていつも乗っている七時五十八分の区間行乗った。五分後、目的の駅に到着して勢いよく降りたわ。ビジネス街だから、あの駅で一斉に皆降りるの。運よく階段の目の前だったから私が一番乗りで階段を下りたのよ。いえ、正確には、降りようとした」
ビールをぐびりと飲んで「ここまではオーケー?」という。
「ええ、続けて」
「一段目を思い切り踏み損ねたの。雨で濡れていたわけでもないのに。盛大に足を滑らせて、そして下まで勢いよく落ちたのよ」
「なんて恐ろしい…」
想像してぞっとする。
「頭から落ちそうになったんだけど、私、高校の頃一週間だけ柔道部にいてね。この話は今は詳しくしないけど、そのとき受け身ってのを散々練習したのよ。そのおかげかしら、無意識に肩から落ちてね。だから大けがはしなかった」
「大けがの定義が私とミツカさんで大分違うようだけど、頭をケガしなかったという意味でとらえるわ」
「本当に軽いけがで済んだの。足は骨折したけど、足の甲と指を一本ずつ折っただけ。ただね、頭は打たなかったけど、なんでか私、意識を失ったのよ」
「まぁ。大勢いる中で?周りにいた人たち皆びっくりしたでしょう。」
「驚いたかもしれないけど」
「すぐに助けてくれたんでしょう?」
「そこよ!誰も!誰も助けてくれなかったのよ!」
拳をダンダンと机にたたきつけ、悔しそうにミツカさんが叫んだ。
「まさか。駅員さんを呼ぶぐらいのことはしてくれたでしょう?」
「それもなかった!私、たぶん数十秒か、一分か、二分か、短い間だけど意識を失った。目を開いて、ここはどこだろうって思ったわ。すでに他の乗客の姿はなかったから、絶対に私は気を失っていた。起き上がろうとしたら、右足に激痛が走って。四つん這いになって辺りを見渡したら、駅の階段の下にいたの。とりあえず立ち上がるわよね。だって駅なんだから。私はパニックになっていて、とにかく会社に行かなくちゃと痛い足を引きずって、改札を出て会社へ向かった」
「足を骨折しているのに。歩けるものなの?」
「それが、歩けたのよ。不思議ね。パニックだったからかしら。それとも一事務員としての使命感のせい?痛いんだけど、歩けるの。会社について、制服に着替えるために足をみたら、もうパンパン。異変に気付いた先輩が車で病院へ連れていってくれて、骨折が判明したんだけど、駅では誰も声をかけてくれなかったの」
ごしごしと目をこする。が、涙は出ていない。悲しさと口惜しさを全身で表現しながらミツカさんの話は続く。
「何十人という人間が私の落ちていく様を見たはずでしょう?そして動かなくなって。私なら声をかけるわ。少なくとも叫ぶわよね。でも、出勤中のサラリーマン及び事務員、その他大勢の人間たちは誰一人として私に声をかけることも、手を貸すこともせず…驚きを心の内に秘めて避けて改札を出ていったんだわ」
「恐ろしい話だわ。私だって声をかける。声をかける勇気がなくったって、駅員さんに連絡する」
「それだけじゃないの。まだまだ無慈悲な話の続きがあるのよ」
「待って、次の話へ行く前に、つまみを用意する。ナッツとガリがあるから」
「ガリ食べたい!」
 食べ物の趣味が合うお客に以前レシピを教えてもらって、昨日作ってみたのだ。大雨で全然お客が来なくて、暇を持て余して作っておいた甲斐があった。ミツカさんは一口たべ、旨い!と叫んだ。そしてビールをごくごく。もう一度ガリを食べて、今度はゆっくり、うまぁいとつぶやく。未婚の若い女性とは思えない言動の数々だけど、今は仕方がない。
「そう、それでね、私は入院したの。指の骨折ひとつでって思ったんだけど、骨と骨をボルトでつなぐとか、小さな骨一つ繋ぐのに随分大げさなことになって。十日間入院よ。でも、その時はラッキーだと思ったわ。プラス思考に考えたら仕事を休めるわけだもの。しかも出勤中に起きたことだから労災が降りる。今のうちに思い切りはねを伸ばしてしまえと割り切ったのよ。私、えらいでしょう」
「素晴らしいわ。ミツカさんはいつも前向きよね。私、あなたの話を聞くたびに元気になれる」
少し照れたあと、でもね、と頬を膨らませて怒りだした。
「会社の人間がお見舞いに来てくれたのよ。入院して三日目に。私、地方から来ているから友達はいないし、正直すごく嬉しくて。家族に伝えたら入院して次の日にはお母さんが駆けつけてくれたんだけど、他人がお見舞いにきてくるのは別の嬉しさがあって。笑顔で迎えいれたわ。そしてごめんなさいって謝ったの」
「うん」
「仕事に穴をあけてしまってごめんなさい。まさかこんなことになるなんてって、頭を下げたら、上司がニコニコしながら鞄を開けて私に渡してきたもの、なんだと思う?」
「お見舞いなら、お菓子とか、DVDかしら」
花束は定番のようで、確か生花は持ってきちゃいけない病院が増えたと聞く。花瓶の水か、花本体かは忘れたけど、感染症を防ぐために。
「そう思うでしょう。私も正直ニコニコしながら鞄をごそごそするから、素敵なお見舞いの品を想像した。そして上司が出してきたもの。会社のノートパソコンよ」
ミツカさんの言葉を理解しかねて、ん?と聞く。
「変わったお見舞いの品ね。ミツカさんの会社ってパソコン作ってるの?運送業だったと記憶しているんだけれど」
「お見舞いじゃないわ。私が会社で使用している、ノートパソコンよ。仕事で使っているノートパソコン。上司がニコニコしていった言葉をそのままあなたと共有しましょう」
そう言うと、大げさなアヒル口で
「大丈夫大丈夫。気にしないで。腕じゃなくて本当によかったよね」
とだみ声で言った。おかしくて思わず笑ってしまった。でも、笑える状況ではないのだ。私はすぐに表情を本当の気持ちに戻す。
「信じられない。入院しているのに仕事をしろだなんて」
「ひどいでしょう。ひどいでしょう!百歩譲って、仕事をしろって言ってくるのはいいわよ。ある意味仕方がない部分もある。社畜根性だけど、やらねばならぬ仕事があって、私は上半身を自由に動かせる以上、働けってんなら働いてやるわよ。でもね、何がつらいって、上司と、もう一人先輩も一緒に来ていたんだけど、パソコンを渡したら、さっさと帰っていったことよ!じゃあって言って。わずか数分!ノートパソコンと書類を渡す為だけにやってきた!」
私はもう、同情の気持ちをこれ以上上書きできずに、無言で缶ビールを二本、冷蔵庫へ取りに行った。そして一本をミツカさんに、もう一本を自分で開けて「よし、飲みましょう」と乾杯。午後は店を閉めてしまおう。
一口飲んだら涙が一粒こぼれてしまった。私の涙を見て、ミツカさんは本格的に泣き出した。
「心配してくれたのはお母さん一人きり!お父さんだってきっと心配してくれたけど、仕事でこっちには来られなかったから。私の隣で辛かったわね、早く良くなるといいわねって足をさすって泣いてくれたのは、お母さんだけだったの!私、本当にいろんなことが嫌になったわ。退院してリハビリして、今は会社に行っているけど、なんて腹立つのかしら。上司の顔をみるとね、時々この松葉杖で頭をこう…思い切りフルスイングしてやりたくなる!」
「わかる、わかるわ、その気持ち」
二人でガリを親の仇と言わんばかりに噛み、そして泣いた。
「そうだ。カット野菜を食べてしまわないと」
ランチにピザでも頼もうかと話していたが、ミツカさんには昨日スーパーで買ったカット野菜があるようだ。
「結構量があるのよね。夜だけじゃ食べきれないから昼と分けようって思ってたの。帰るわ」
「じゃあ、タクシー呼ぶわね」
さすがに酔っぱらっている彼女を松葉杖に預けるのは不安。
タクシーに乗り込んだミツカさんに声をかける。
「もう骨折なんかしてほしくないけど、次に何か入院しなくちゃいけないような事態になったら、私を呼んでほしい。すぐに駆け付けるから」
ミツカさんは大きな目をぱちくりさせて、本当?とつぶやいた。
「実は、今回入院して、報告しようか悩んだの。でも、私はただの客だから悪いと思ったし、来るわけないと思って」
「行くわ。約束する」
ミツカさんは大げさに泣きながらぺこぺこ頭を下げた。
「ありがとう嬉しい。なんだかまた骨折してもいいような気がしてきた」
「どうかお大事に」
タクシーが見えなくなるまで手を振って、ほうっとため息を吐いた。
今日はこれで店じまい。『CLOSED』の札をかけて残ったガリをカバンに入れる。本当に美味しかったから新たなメニューにしたい。ケーキの代わりにガリを頼んでくれる客。ランチのサイドメニューにガリを選ぶ客。いないだろうなと考えてさっさと諦めた。

May

「こんにちは」
 マユさんがやってきた。ケーキをもって。
「駅前に新しくできたケーキ屋さんがあるでしょう。どんなものか気になって、買ってみたの。一緒に食べましょう」
「新しいケーキ屋さん?知らなかった。気づいていなかったわ。北口?南口?いつ頃できたのでしょう?」
「今月初めに北口改札の斜め前に。普段電車使わないの?」
「ええ、近所で全てそろってしまうから」
「散歩が好きって言ってたけど、駅前には行かない?」
「行くんだけれど。昨日も行ったけど、気づかなかった」
 周りをあまり見ずにただ歩いてしまう。
 彼女はストレートティーを無糖で。私は珈琲をブラックで。甘くておいしいケーキを堪能するために他の甘味なんて邪魔だというのが二人の持論。私が飲み物の用意をしている間に、マユさんはケーキを皿に乗せてくれた。一つは綺麗に乗せれたけれど、もう一つが無様に倒れる。マユさんはちらりと私を一瞥して、「見た目は味覚に大きな影響を与えるというのに」と文句を言った。
 私に綺麗なケーキをくれる。
 マユさんは、私と同じで甘いものがとても好き。最初に彼女がここへ来たときは、帰るまでずっとお菓子の話をした。クッキーはサクサク派だとか、チョコはビターなものも好きとか、こしあんと粒あんはどちらも好きだけど、饅頭はこしあんのほうがいいとか。最近求肥がブームなのか、コンビニのスイーツをみると和菓子という和菓子に求肥が使われているが、もちもち感より本当においしい甘さというものを追求してほしいとか。
 今日買ってきてくれたのはショートケーキを二つ。
「ショートケーキが、一番その店の腕を味わえると思うの」
「そう?」
「なんとなく」
「なんとなく」
 彼女は肩をすくめてフォークを手に取った。
「まぁ正直、チーズケーキだってフルーツタルトだっていいんだけれど。今日はショートケーキが食べたかった」
 二人手を合わせてから、いただきますと一口食べる。生クリームはあっさりした甘さ。スポンジはしっとり。上に乗っているイチゴを口へ。とても酸っぱい。顔を見合わせ、頷き、笑う。
「ちょっと…ハズレね」
「甘くないね」
 ケーキは甘くないといけないのだ、というのが二人の持論。次々とケーキを口に入れながら、彼女がしかめっ面で文句を言う。
「贅沢に甘いものを食べたいと思ってケーキを買いにいくのに、それが甘くないだなんて、そんな酷いことってある?甘いものが苦手でも食べられるって、苦手なら食べなければいいじゃない。苦手な人用に開くケーキ屋の意味って何なの?好きで、得意で、甘さを愛して求めてきた人に対してすごく失礼。甘いものを扱う責任をきちんと負ってほしいわ。詐欺されたようなものよね。ケーキを買いにいくのは甘いものが好きな人がほとんどだと思うんだけど」
 それは本当に同意。
「甘くないのがウリなら、看板に書いておいてくれたらいいのに。大して甘くないですよって。イチゴはすごく酸っぱいし、生クリームはそんなに味がしませんって。そしたら無駄に数百円を使わなくて済む。ねぇ、このスポンジケーキ、味がしないと思わない?しっとりしとけばいいってものじゃないのよ。パサパサでも甘くしてくれたほうがいい。これはケーキかしら?本当にケーキ?見た目はケーキに見えるけれど。どう思う?素直に言ってちょうだい。買ってくれたなんて気遣いは無用よ」
「そうね、ケーキを名乗るには数年早いわね」
 私はブラックで飲むつもりだった珈琲にミルクを。彼女はストレートで飲むつもりだった紅茶にミルクと、砂糖を三杯いれた。ケーキではないという結論に至ったため、今の二人には別の甘味が必要。
「この紅茶が一番おいしい」
「喜んでおきます。ケーキ、ありがとう」
「いいえ、あなたももっと文句を言っていいのよ。これはおいしくない」
「私の感想を全て代弁してくれたから」
「ブラウニーとガトーショコラも売っていたから、帰りに買って食べてみようっと。甘くなかったら二度と行かない」
 さっさとケーキを食べ終え、皿を片付ける。私が席に戻るのと同時に、マユさんが口を開いた。「ねぇ、バレンタイン、誰かにチョコをあげた?」
「いいえ、誰にも」
「そう。私はあげたの。お菓子メーカーの企みに乗って、好きな人に。聞いてくれる?」
 マユさんは自分の話をするとき、必ず最初に「聞いてくれる?」と言う。
「もちろん」
「ずっと誰にも言えなくて。でもどうしても吐きだしたくて。同じ部署のサエキさんっていう先輩にあげたの。席は近いけど仕事の内容は違うから接点はほとんどなし。挨拶をするだけ。飲み会で隣に座って少し話したことがある程度。何より彼には彼女がいるから、私は最初から負けフラグが立っているの。でも好きで」
「カッコいいの?」
「とても。ええと、Fっていう俳優知ってる?最近ドラマに引っ張りだこの俳優なんだけど」
「ドラマは観ないから、俳優の顔はあまりわからない。そのドラマは推理もの?コメディ?」
 サスペンスよ、と言いながら机に置いていたスマホを手に取り、一枚の写メを見せてきた。
「ああ、CMで見たことがある。そういえばこないだバラエティに出ていた。ドラマの番宣だったのね」 なるほど、この人に似てるのだとしたら、カッコいいのだろう。パッチリした二重まぶたの大きな目、男らしいきりっとした眉、少しアヒル口でおしゃべりが好きそう。
「彼、去年の夏にうちに転勤してきたの。前は名古屋四年間営業をやって、今はシステムの管理をやっているの。パソコンやスマホにとても詳しいのよ。このご時世、それってすごく大事よね。機械が苦手な人は頼りないもの。私が苦手だから。呆れないでほしいんだけど、一目ぼれをしたの…お近づきになりたくて色々考えたけど、どれも思うばかりでうまくいかなくて。歓迎会だの新年会だのでなんとか同じ席に座って会話するんだけど、電話番号やラインの交換すらできていない。今年の新年会で、勇気を出してプライベートについて聞いたのよ。休みの日は何をしているんですか?読書が好きだと答えたわ。好きな作者は誰か聞いたわ。コナン・ドイル。推理小説が好きなんだそう。あなたは読書が好きだったかしら?」
「ええ、好きなほう。ホームズシリーズは全部読んだ」
「いいわね。今はとても羨ましい。だって、彼と話しが合うもの。私は読書なんて全然しないからそこから全く話は盛り上がらず。ネットでシャーロックホームズの本を一冊買って開いてみたけど、やっぱり何が楽しいのかわからない。推理ドラマなら好きなんだけど」
「シャーロックホームズのドラマや映画も、やっていたことがあると思うわ」
「そうなの?じゃあ、今度DVDがあるか調べてみよう。そう、で、初めてそこで、私の話もできたのよ。向こうから聞いてくれたの。いえ、オウム返しをしてくれただけね。マユさんは休みに何しているの?私は買い物やヨガ教室に行くのが好き、ドラマを観るのも好きって答えたら、女性らしいねって言われた。普通ですね、を当たりさわりのないように言ってくれたようなものよね。他にもいくつか会話をして気づいたのは、共通点がほとんどないってことよ」
 マユさんは軽くため息を吐きながらゆるゆると首を振った。
「彼はインドアなんですって。休日は家で過ごすことが多い。甘いものはあまり好きじゃなくて、お菓子を食べるならせんべいやポテトチップス派。肉より魚が好きで、フルーツはあまり食べない。ごはんよりパン派で、でもポタージュやスープよりも味噌汁が好きなの」
「随分色々聞けたのね」
 マユさんのことだから、きっと必死になって次々質問をしたのだろう。
「好きな色も聞いたわ。彼は黒や青が好きなの。男の人らしいわよね。私はピンクやオレンジが好きって言ったら、彼も同じことを言った。女性らしいですねって。あら?彼、全部女性らしいですねって言ってる。甘いものが好きでビュッフェにも行くって言ったときも女性らしいですねって」
 どんより曇り顔になって、うつむきながら「会話が楽しかったのは私だけだったのかも」とつぶやいた。
「会話が苦手な人なのかも。普段おしゃべりな人なの?」
 彼の気持ちがどんなだったかは想像するに留まらせて、私も当たりさわりのないことを言ってみる。マユさんは少し考えて
「仕事中に雑談をしている姿はあまり見たことがない。…そうね、そういうことにしておきましょう。そのほうが傷つかないもの」
と答えた。
「ところで、チョコはいかが?実は私も用意していたのよ。マユさんが来るから、とっておきを用意しようって」
 昨日、近所のスーパーに行ったら、輸入品の特設コーナーを発見した。そこでドイツのチョコを見つけたから買っておいたのだ。甘党にうれしい、がっつり甘いだけ甘いチョコレート。
「いただきます。とてもうれしい。紅茶をもう一杯くださる?砂糖なしで」
 私も自分にブラックコーヒー。なんとなく乾杯して、それぞれチョコレートを一口放り込んだ。甘さが口中に広がる。
「甘いお菓子っていうのはこうでなくちゃ。これはハニーナッツ。それは?」
「キャラメル」
「こっちは何味かしら?ミルクだわ。美味しい。これ、いくらしたの?」
「十五個入りで六百円」
「まぁ、これだけ甘い欲を満たしてくれるのに十五個も入ってたったの六百円。甘くないケーキは一個四百二十円。ぼったくり決定ね。インチキでぼったくりで詐欺」
 三個ずつチョコを堪能して、お互いがお勧めのチョコレートの話をして、バレンタインの話に戻る。
「サエキさん、カッコいいから他の女も放っておかないみたいで、転勤してすぐに色んな情報が入ってきたわ。だから、彼女がいることもインドアだということも、私が飲み会で必死こいてきいたことは、実はほとんど知っていたのよ。でも、自分で聞き出すって大事だと思うの。彼女がいることは自分からは聞き出せなかったけど。そう、それでバレンタインの話。うちの会社ね、バレンタインに女性がチョコを配って回るのが慣習になってるの。フロア中の男性によ。人数が多いから、皆安いバラマキ用チョコレートを準備して、適当に配って回る。私も一口チョコを配ったんだけど、サエキさんだけ、違うものも用意したのよ。それでタイミングを見計らって…全然見つからないものね、タイミングって。結局定時を過ぎて、彼がお疲れ様でしたって席を立つのを追いかけて渡した」
 そこまで言うと、勢いのいい元気な口調から一転、恥ずかしそうに声のトーンを落としてひそひそと「すごく恥ずかしかったわ。本格的なチョコを用意してこの歳をしてバレンタインに告白みたいな真似をして。とんでもない馬鹿野郎。高校生みたいな発想よね」
「そんなことない。自分の気持ちを伝えるのって、とても勇気がいると思うの。行動に移したあなたは馬鹿どころかカッコいいわ」
「そうかしら…部署の男性だけ追加でこれも用意したのよって言って渡そうとしたんだけど、最初断られた」
 ちなみに、とチョコのブランド名を聞いて驚いた。友チョコや義理チョコでは絶対にあげない、ハイブランドな名前。下世話にも「いくらしたの?」と聞いたら、「ボンボンが四個入りで二千円」と気まずそうに答えてくれた。一粒五百円のチョコレート。食べてみたい。
「さすがにこれは貰えないって。でも私は普通を装って、気にしないでください。せっかく同じ部署で働いているんだからこれからも親しくしましょうよなんて言って。聞いてよ、私の部署、男性はサエキさんだけなのよ。結局押し付けたわ。それですぐにお疲れさまでしたって言って席に戻った。恥ずかしいやら情けないやら、その時の私は、断られたことがすごくショックで、泣きそうだったわ」
「すごく勇気を出したんだものね」
「ええ、出した。次の日どんな顔をしていいやらわからなくて、マスクをして出勤したわ。そしたら彼もマスクをしていた。向こうもどういう顔をしたらいいかわからなくて、マスクを着けていたの」
「彼も?」
「そうよ。ああ、でもあなたが想像しているのとは違って。彼はチョコを返そうとしていたの。家に帰って改めてみて、申し訳なくなったんですって。私と彼女の両方に。真面目よね。彼女出されたら何も言えないじゃない。チョコ受け取って、それで終わり」
 と、彼女のスマホが鳴った。目でごめん、と合図をして、電話に出る。ドイツのチョコーレートをゆっくり口の中で溶かしながら待っていると、一分もしないうちに電話を切り、「急用ができた」と言ってスマホを鞄に仕舞った。
「チョコは結局どうしたの?」
「捨てた。やけ食いしてしまおうかと思ったけど、どうしても食べたくなくて。気づけば賞味期限がすっかり切れていて、捨てちゃった」
 支払いを済ませて財布を閉じながら、
「この話、まだ続きがあるのよ。次来たときに聞いてくれる?」
 と言ってきた。
「もちろん」
「さらに惨めな内容になってるから、覚悟しておいてね。じゃあ、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。またね」
「ええ、また」

Einmal im Jahr (前)

Einmal im Jahr (前)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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