月の浜辺で

みなみ☆たえと

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第一話

 冷たい風の吹く夜に、砂浜沿いを歩いていた。月が照らす夜の海には、人影がない。足元に寄せる波は静かだが、沖のほうは荒々しい音だ。自分のことがどうしようもなく汚いように思え、嫌でたまらなくなっていた。ここへ来て、冷たい風に吹かれていると、身も心も清められていくような気がする。潮の香りは、あまり好きではない。

なんとなく煙草はやめ、代りの物を探して近くの店先で買った派手なオレンジ色のガムを買った。ピンクグレープフルーツ味、と書いてある。口に含むと、濃いカクテルを飲んだ時のような味がして、アルコールもないのに少し酔ったような、いい気分になった。そういえば今夜の月は半月で、グレープフルーツを真半分に切って、横から眺めたような月だ。

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 見上げていた月の前を、何かが横切った。よく見ると、鮮やかな濃い緑色の、大きな鸚鵡(オウム)だ。どこからか逃げてきたのだろうか。無意識に目で追うと、思いがけずほんの数メートル前で、下降した。その先には人影があって、女のようだ。先程まで、この浜には、自分一人だったはずなのに。

緑色の鸚鵡(オウム)は、静かにその女の差し出す手の中に収まった。とても風変わりな服装をしている。頭には白い布キレを巻き、奇妙な大きいイヤリングをつけ、たくさんのポケットがついた、やはり白いズボンを履いている。髪はとても長く、漆黒で、辺りの闇に溶けている。こちらを向いている厳しい瞳は、月のような淡黄色だ。こんなに薄い色の瞳は、今まで見たことがない。しかも、強い輝きを帯びている。

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 女は、突然話し始めた。

「この夜この浜辺にいた、お前の運が悪いのだ。私はお前に一つ頼みたいことがある。これは巡り回っているものだから、仕方がないのだ」

緑色の鸚鵡(オウム)が、女の細い指から後ろの何かに飛び移った。なんとこの女は、背中に剣を負っているらしい。その柄についた丸く黄色い宝石は、月光を受けて、キラキラと反射している。

「私の名前を当ててほしい。もし答えられなければ、私はお前の命をもらうことになる。私はそれでまた、無意味な時を生きねばならぬ」

こんなことを近所のコンビニ前あたりで言われたら、聞こえなかったふりをして通りすぎるのだが、こんな夜の、こんな浜辺だ。どうやら話は本当らしい。

女はさっきからずっと、その厳しく不思議な瞳で、こちらをじっと見ている。
ゴクリと唾を飲んだ。

緑色の鸚鵡(オウム)は、その間もせわしなく動いている。時折、こちらを見る。丸い小さなその目は、青い。なんだか人間のような表情をしている。

「この鳥はな、本当は人間なのだ。もう千と百日も前になるが、病で死にかけていた幼い私を助けるために、ある人魚の術師に人の体を預けたのだ。それで私は助かった。だが人魚のくれた寿命は、私には長すぎた。普通の人間なら、もうとっくに死んでいてもおかしくないのだ。誰かが私の名前を当ててくれない限り、私は天へも逝けぬ。この人も、元の姿には戻れぬ。……さぁ、もう考えてくれたか?私の名は、何だ?」

「もう少し待ってくれ」

何だ、と言われても困る。人の名前など、考えたこともない。他をあたってください、もおよそ通用しそうにない。鸚鵡(オウム)と女を交互に見ながら、できるだけ何か、ヒントはないかと探す。女の不思議な淡黄色の瞳と、剣の柄についている宝石の黄色が、後ろの月と全く重なる。これだけ明らさまなのだ。やはり名前は「月」なのか。しかし、こちらも命が掛かっているのだ。もう少し慎重に考えてもいいだろう。名前を外して、命を吸い取られた人間が、もしかしたら何人もいるかもしれないのだから。「月」といっても、この女に日本語のそれは似合わないし、「ムーン」もなんだかありきたりに思える。かと言って、他の言語は知らない。「ルナ」というのもあったが、この活動的な女の感じには、どこかあわない。何だろう。そもそも「月」とは関係していない名前なのか。

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「あと少しだけ、待ってくれ」

時間稼ぎをするように、ポケットから新しいガムを出して、噛む。グレープフルーツの味が口一杯に広がる。女の瞳と、黄色い宝石、グレープフルーツ……。そういえば、グレープフルーツは”シトラス”ともいうし、彼女が欲しがっていたネックレスの石は、”シトリン”だった。これだ。もう他には思いつかない。彼女の笑顔が浮かぶ。これに賭けるしかない。

「お前の名前は、黄輝石(シトリン)だな」

 ざわ……と潮風が吹きぬけた。女はカッと瞳を見開いた。波音が、一際大きく聞こえたような気がした。女は訳のわからない言語で何事か言っていた。すると女を中心にあたりがほうっと明るくなった。厳しかった瞳が柔らかくなった。そして、「アリガトウ。」と一言呟くと、女の体がふわっと浮いた。光が増し、唐突に、ものすごい早さで後ろの月に吸い込まれるようにして消えていった。

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 緑色鸚鵡(オウム)のは、いつの間にかどこかへ飛び去ってしまった。

 俺は、死ななかったらしい。



(「月の浜辺で」第二話へ続く)

第二話

 小雨の降って寒い日だった。こういう日は誰だって、1秒も早く家へ帰るために重い足を急がせるのだろう。
そう思うと反対に”誰もいない雨の日の海”が見たくなり、また家を出た。予想通りの景色だった。どこまでも空を埋め尽くしている灰色の雲と、動物のように猛々しく吼える、灰色の暗い海。ものすごい強風で、冷たい小雨は斜めに細く降っている。本当は、今日は朝からずっと、なにか胸騒ぎがしていたのだ。小さい頃、台風が来て警報が出ている日にわざと外に出てみた時のような。

 前にもこの浜辺で不思議な体験をした。確かあの時も、誰もいなくて、暗くて、冷たくて、何かがいつもと違う日だった。早々同じようなことが何度もおきるはずはないと思ったが、それでもここには、眼には見えないけれども、なにか人を引き寄せるような力というのか、そういう一種独特な空気がある。雨風は冷たいが、防寒のきく黒いレインコートに白い厚めのマフラーで、体の中は温かい。高揚した気持ちを抑えて、しばらく海岸線に沿って歩くことにした。海は、相変わらず沖のほうだけ激しく荒れ狂っていたが、波際は案外おとなしかった。嵐は徐々におさまりつつあるらしい。

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 ふと見上げると、分厚い雲の隙間から月が顔を出した。ほとんど完璧な満月だった。下界を見下ろしているような堂々としたその女神は、今夜に限って自分を通り越し、何かべつなものに向かってしきりに光を送っている、というような感じがした。やはり来たか、と思った。誘われるままに、その方向へと目をやると。

 岩場の影に、人影が見えた。地面に直に体を投げ出して、岩に体をもたせかけている風だった。長い髪の毛と腰から下が、完全に海水に浸かってしまっている。気を失っているのか既に死んでいるのかわからないが、動かない。あのまま放って置けば、確実に凍死してしまう。反射的に体はそちらへ向かって駆け出した。ゆっくりと抱き起こす。まだ息はあるらしく、少し瞼が動いたような気がした。やはり女だった。しかもこの極寒の浜辺で、上半身は裸だった。長い髪で恥部は隠れていたが、白く艶かしい肌は月に反射している。慌ててマフラーをとり女の体に巻いてやり、打ち寄せる波間から引き上げた。

 なんと、引き上げた女の下半身は、魚の形をしていた。髪を払うようにしてそっと触れてみると、冷たくびっしりと並ぶ青い鱗と、透けるような尾ヒレは、確かな質感を持ってそこに存在した。後で気がついたが、長く緩やかに波打つ髪も青く、テグスのように透明がかっている。ではこの女は、やはり本物の人魚だというのか。腰下の両脇にある小さなヒレを少し持ち上げてみると、女の体がビクッと震え、口から水と少量の海藻を吐き、はぁはぁと小さく呼吸をし始めた。気がついたらしい。どう声をかけてよいのかわからず、しばらく抱きかかえたまま体温をわけてやるより成す術がなかった。人を呼んで病院になぞ駆け込めるはずもない。体は小刻みに震え続けており、見たところ彼女はもう、話し掛ける体力すら残ってはいないようだった。

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 しばらくすると、その瀕死の状態で、人魚はかすれる声をしぼり出し呟いた。

「あなたに、お願いしたいことがあります。これは私の髪を切り、最後の力を使って編んだ腕輪です。あなたに、さしあげます。これを持っていれば、海から愛され、渇きに苦しむことはないでしょう。またその力は、どんな神々のお怒りをかう事もいたしません。これと同じものを持つ子供が、数日後にあなたのもとへやって来るはずです。どうか、その子をあなたに引き取って欲しいのです。決して、あなたの不利になるようには、なりませんから。どうか、お願いします。私の息子を……、この海で最後の人魚の子供なのです。名前は、コウリンといいます。私はもう、あと少しで寿命がつきるでしょう。この体は、全て海の塩に変わってしまいます。どうかあの子をお願い致し、ま……、す……」

そう言い残すと、一瞬で煙が散るように体はなくなり、辺りに薄青い粉が舞った。服についたその粉を舐めてみると、なるほど塩辛かった。手元には、ミサンガ状の青い腕輪と、自分の濡れた白いマフラーだけが残った。俺は体についたわずかの粉と、地面に残るそれとを、静かに海に戻してやった。なぜか涙が止まらなかった。こんなにも悲しく奇妙な死別は、生まれて初めてだったのだから。頭の奥で、女の弱々しくも美しい声が、いつまでも鳴り響いていた。

 嵐はいつのまにか全く鎮まり、恐ろしいほど音のない凪の海へと変貌していた。



(「月の浜辺で」第三話 へつづく)

第三話

 数日後、本当にその少年はやって来た。突然の訪問だった。

 バイトから帰って来る途中に雨が降ってきて、走って戻ったが少し濡れてしまった。部屋に入って電気をつけるなり、服を脱ぎシャツ一枚になって、ドライヤーで髪を乾かしていた。そこへ唐突に、ドンドンドンとドアをたたく音がした。きっと雨音の聞き間違いだと思ったが、バスタオルで髪を拭きつつ耳を澄ましていると、ダン、ダンダンダンダ、ダ、ドサっと鈍い音がして止まった。

何事かとドアをゆっくり開けると、小さな子供がドサッと胸に落ちてきた。外雨に降られて全くびしょ濡れだった。気を失っているのかと思ったが、その細っこい両腕は、しっかと首を締め付けてきた。苦しくなり掴むと、両手首には見覚えのある青いミサンガが見えた。それとほぼ同時に、ぐったりとしていた体が持ち上がり、顔がこちらを向いた。あの人魚と同じ、少し群青色の瞳がそこにあり、大人のような表情でにやっと微笑んだ。

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 「ヨロシクヲ願イシマス」

急に体を離すと、少年は礼儀正しくお辞儀をした。なにか日本語がたどたどしいのが耳についた。まぁ入りな、と言ってやり奥につれて行くと、背負っていたリュックを降ろし、床にペタンと座った。

「そこのソファに座っても良いんだよ」
「そ、ふぁ?」
「そこの、ほら、ここに座りな。床より温かいよ」

 ソファの意味がわからなかったらしいので、座ってみせてやると、隣にどすっと腰掛けた。クッションの柔らかさに驚いたのか、しばらく何回も無邪気にその感触を楽しんでいた。なんと話しかけてよいかわからず、とりあえず髪やら服やらが濡れているらしかったので、タオルを差し出してやった。

これも、受け取りはしたが首をかしげていたので、そのまま頭に被せて、がしがしがし、と髪や顔を拭いてやった。
 
ドライヤーをかけている間に、彼はリュックにごそごそと手を突っ込み、両手でなにかを取り出した。なにか箱のようなものだった。彼は髪に掛ける手にもういい、というように手を振りながら、すっとその箱を前に突き出した。

よく見ると、漆塗りの美しい小箱だった。蓋には、月と尾の長い緑色の鸚鵡(オウム)、びっしりとしきつめた杜若(かきつばた)の模様が、きらきらと虹色を帯びた真珠色をして、少し浮き出ている。これは、確か美術の教科書に出てきた「螺鈿細工(らでんざいく)」だと、唐突に思い出した。箱の横面から上部にかけて、包み込むように橋のようなものが彫り込まれている。少年は、その小箱の一面を指して、また自分を指す。見るとそこには漢字とおぼしき文字があり、かろうじて「光琳(コウリン)」と読めた。

……コウリン。たしか、あの人魚は自分の息子の名前をそう呼んでいた。それにあの両手首のミサンガ状の青い腕輪。質感といい色合いといい、あれは間違いなく、この腕につけているものと同じ物だ。自分の名前を言いたいのだろう。だから、彼の目を見て頷いてやった。

「おまえ、光琳(コウリン)、って言うんだな。よろしくな」
「ウン、ウン、ヨロシクヲ願いシマス!!」

とりあえずこちらも名乗ると嬉しそうに呟いていた。彼女や親が来た時にどう言い訳しようか、日本語もあまり上手くないようで、それもどうしたものかと思ったが、この素直な態度が気に入ったので、ひとまずはここに置いてやろう、と思った。

              ☆☆☆  

 光琳(コウリン)は次に、自分の髪の毛を一本、ここに入れろという仕草をしたので、その通りにしてやった。彼は箱を開け、中に髪の毛を入れた。すると、とても不思議なことがおこった。

  箱の底から、水がこんこんと湧き出したのだ。
そこへ髪の毛がふわっと浮かびあがり、ひとりでにクルクルと回りながら、ぽちゃり、とまた沈んでいった。光琳はそれを確かめると蓋を閉め、床にそっと置き、頬杖を着きながらじっとその箱を見つめ続けていた。

一時おいて次に蓋を開けた時には、水も、髪の毛も、すべてが無くなっていた。箱の内側には、金色の美しい波線模様が、まるで何かあったの?というように澄ました顔で、ひっそりと並んでいるだけだった。

              ☆☆☆

 彼は突然すっと立ちあがって、さっきとは打って変わって流暢な日本語で、話し出した。

「あなたが、僕の育ててくださるんですね?母の頼みを聞いて下さって、本当にありがとう御座います。お役に立てるように、努力します。これから、よろしくお願いします」
「なんだ日本語、話せるじゃないか」
「この箱の力のおかげなんです。これはあなたにだけ言っておく秘密ですが、この中に生き物の毛を入れると、その言葉が話せるようになります。その他、僕にとってなにか入り用なものがある時には、それと同じ物を入れれば、必要な分だけ出てくるようになっています」
「え、それじゃお金なんかでも出せるのか?」
「あくまでも必要な分だけ、ですけれどね」

これはいい、と思った。生活費の事で、実は少し危惧していたのだ。あとは、この少年を置いておく理由を考えて、示し合わせるくらいだ。彼の場合は特に将来どうこうというのでもないし、学校も本人が嫌と言えば無理に行かせることはないだろう。行かないならここで留守番をさせておけばいい。

「あのな、お前をここに置くのはもう決定だけど、一応世間体があるからな、人に色々と聞かれたら親戚の子どもです、と答えておいてくれよ?」
「はい、わかりました。そうします」

 その夜はお互いのことを色々と話し合った。光琳が持ってきたリュックの中身は、箱のほかに、ジャムパンの食べさしやら、お菓子の袋、ドロップスの缶やら、色々のビー玉、靴下や萎れた花なんかが入っていた。それらは海から上がってきた時に始めて見た、珍しいものばかりだという。服やコートなども見よう見まねで購入したそうだ。必要な支払いには、やはり例の箱を使ったらしい。

              ☆☆☆   

 翌日に、彼女が家に来た。入ってきたなり、光琳に目をやり、彼女は驚いてこちらを向いた。        

「かわいいお客様ね、どなたなの」
「あぁ、彼はその……」
「僕は、子どもです!あ、親戚の子ども、なんです。名前は光琳といいます」
「え、子ども……あぁ、親戚のね。なんだかしっかりしてるわね、よろしく。私の名前はサヤカというのよ」
「僕はしばらくここでお世話になるんです。こちらこそよろしくお願いします」

少々説明に困っていたのだが、光琳の方が先に挨拶をしたので助かった。彼女も光琳の礼儀正しい態度が気に入ったようだ。これで変な誤解をされることもなく暮らせそうだ。こうして彼女と光琳と、そして自分がこのひとつの空間にいると、結婚をしたような気分がして面白い。彼女はどこか恥ずかしそうだったが、光琳が"サヤカお姉さん"と呼ぶので、まんざらでもないらしい。この様子だと、これから先が楽しみだ。

              ☆☆☆

 その夜、彼女が帰った後、光琳はずっと暗い顔をしていた。二人一緒に晩飯を食い、風呂に入った。新しいベッドがくるまで、一緒に寝てやることにした。電気を消して真っ暗になると、光琳がなにか呟いていた。

「ウ、お母さ……ん」
「なんだ、眠れないのか」
「お母さんに会いたい。もう無理だけれど」
「泣いているのか?しかしどうにも仕方が無いぞ。なにかお母さんのことでも話してみろ、聞いてやるから」
「うん。僕のお母さんはね……、そうだ思い出した!どうにも我慢できなくなったら僕、会えるんだった。箱の中に入って」
「箱の中に入る?お前がか、そんなことができるのか」
「できるよ。思い出の中の、お母さんに会えるんだ。一緒に行ってくれる?」
「いいけど……どうするんだよ」
「あのね、こうするんだよ……」

 彼は蒲団を這い出して、机の上からあの不思議な箱を取って来て、またベッドに戻り、枕の上の隙間に置いた。蓋は開けて、下に重ねている。中には彼の青いミサンガが片方入っていた。こちらのも入れろというので、そうする。すると水が、またどこからかふつふつと湧いてきた。二つの腕輪が沈むくらいの量になると止まり、動かしてもいないのに表面がずっと波打っていた。顔を見合わせ、うふふ、と不思議な笑みを浮かべている光琳と二人、また枕に頭を埋めた。蒲団のなかで、手をギュッとつないできた。

「このまま眠ればいいんだよ。あのね、手を離しちゃだめ。僕の思い出って、ほとんど海の中だからね。息ができなくなっちゃうよ」
「わ、わかった」

☆☆☆

 真っ暗でなにもないところから、ふいに視界が青くなった。こぽこぽこぽ、と細かい気泡が顔を伝い、体を包むものが空気でなく水だとわかった。ギュッ、と手を握る感触がして横を見ると光琳がいた。その姿は、まさしく海の住人だった。足であったところが深緑色の魚の尾ヒレになり、上半身は生々しく白い裸体。髪の毛と瞳の色はいつかの母親人魚のように、群青よりも少し薄い、透明な青色に変わっていた。こちらを見て、またあの不思議な笑みを浮かべている。指であっち、と示すなりグイグイとその方向へ引っ張っていく。

 そこは煌く海底の園だった。光の柱が上から幾筋も差してきて、岩場の影やそれぞれに違う海藻の色合いまで、すべてがよく見えた。あたり一面、いたるところに揺れるネオン色の小魚の群れや、大きく広がる朱鷺色のさんご礁、岩にびっしりと張り付くたくさんの真珠貝たち、触るとキュ、と身を引っ込める花のようなイソギンチャク、長いひげの大きな赤いエビやその他、よくわからない生き物でいっぱいだった。一見するとここには、外敵はなにもないようだ。

 光琳は、あちこちを指でさしては、こちらに微笑みかけた。岩の上で、顔よりも大きく開く貝の口先に、尾ヒレを何度も差し込んでは閉じる寸前にすばやく身をかわして、カラカラと笑う。気泡が弾ける瞬間に、小さく笑い声が聞こえた。海藻の根元に実っている、薄紫色の細長い果実をもいで手渡してくれた。浮遊しているような感覚のなかで、口に含んだそれは奇妙な甘味がした。

 その時、周囲の波が一時強く流れた。そちらの方向の岩場の側に、優しく微笑むあの母親人魚が現われた。光琳は一度こちらを見て、それからまっすぐに彼女のほうへ向かった。その時、気持ちは彼と同化していた。美しい母親人魚が愛しくてたまらないと思った。あの柔らかい胸元へ、無邪気に飛び込んでいきたかった。しかし、あと少しの所でその肌に触れそうなところまで来ると、母親は誘うように先へ泳ぎだしていく。しばらくそれを数回繰り返した。それでもう、触れることは許されないのだということがわかった。かろうじて母親の髪の先が、指にそっと絡むまでに近づいたり、また離れたりしながら、だんだんと光の満ちた海面のほうへ、上へ上へと昇っていった。

              ☆☆☆
 
 水面が近づくにつれ、周りの景色は海のそれではなく深い池か、河のような淵に変化していった。波間から顔を出すと、懐かしい陸地の涼やかな微風を感じた。水中にはない、ある種の花の香りが花をついた。見渡すと、岸辺にはびっしりと杜若(かきつばた)が咲き群れていた。その花の群青、鮮やかな葉の緑青が、水を反射する月光に照らされてキラキラと輝いていた。その近くには木の桟橋があり、優しい微笑を浮かべた母親人魚がそこに上がり、頬杖をついてこちらを見ていた。

 橋の上では母親に触れることが出来た。光琳は再度こちらを見てにっこりとし、握っていた手をぱっと離すと、美しい母親のもとへ一目散に寄った。そうしてひし、と抱擁した。その瞬間から彼との同化は溶け、二人の抱き合う姿を見つめている自分に気付いて、なにかホッとした気分がした。体についていた水分はもう、すっかりなくなり、冷たい夜風が肌に心地よかった。静かな月光の下で、光琳は橋のへりに座り、その綺麗な深緑色の尾ヒレで水面をつついたり、母親にもたれ幸せそうに顔を見交わしていた。母親が生きていた頃はきっとこうして、ここに月光浴に来ていたのだろう。頭上では、清浄に輝き渡る満月の下を、いつかの緑色の鸚鵡が長い尾を靡(なび)かせて、ゆったりと舞っていた。

ずっとこうしていたい、と思ったが、次第に霧のようなものが視界を包み込み、あたりはだんだんと白く染まっていった。

             ☆☆☆

 なにかふっとした瞬間が来て、目が開いた。いつもの見慣れた部屋の天井が目に付いた。

 横を向くと光琳が、同じく満足げな微笑みで、そこにいた。 

                              ~☆終☆~

月の浜辺で

大学時代の卒業制作です。未完成が好きで、わがまま言って、未完成仕上げです。

月の浜辺で

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-10-19

CC BY-NC-ND
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