桜幻想
(一)
時間の膜が、いくつもいくつも層を織りなす不思議な場所がありました。
人間の中にはそこを仙界とよぶものや、生きものが生まれ出でる場所だと言うものもある、つまりそういう地域です。
そこには美しい緑と、神水の涌き出る泉と、生きてもいない、死んでもいないもの達が住んでおり、そうして泉の淵に、一本の桜の木が立っているのです。
今この高い高い木の枝に、軽やかに天女がひとり、降り立ちました。
「ひどく憂鬱そうなのね、私の桜の木。」
「これはこれは、空からやってきた姫君。ええ、私はひどく悲しいのです。」
「どうしてそんなに悲しいの、私の桜の木?おまえはこんなに美しいのに。」
「あなた様にくらべたら、この身は朝露ほども美しくはございません。けれども、どうか聞いてくださいますか?この桜の木の悩みごとを。」
「ええ、聞きましょう、桜の木さん。あなたは私の友達だから」
「あなた様も知っているとおり、この桜の木が身を寄せる泉の主はいま、恋焦がれる娘を追って、人間界にいるのです。あの方は必ずここへ戻ってくるとおっしゃいました。
しかし、私はあの方の帰りを待って、もうすぐ千年にもなるのです。私はもう待つことがつらくてつらくて、たまらなくなったのです。」
「まぁそうでしたか、桜の木さん。よし可哀想なおまえのために、私は力を貸しましょう。けれど、生きているもの達がいる場所へ、私たちは直接行くことはできません。
それはおまえも同じこと。しかしそうする手段はあるのです、とても大変だけれども。」
「あぁ、この桜の木は、あの方のもとへ行けるなら、魂を売る以外に、なんでも致しましょう。」
☆
そして、天空はるかな姫君は私に、こんなことを言ったのです。
「それなら、今日から千歳となるまでに、枝葉に積る花房をすべて色薄い早咲きにさせ、その全ての花弁を振り落とし、私がこれから連れてくる人間の巫女に毎日すべて拾わせて、代わりにお社へ運んでもらい、御百度を踏みなさい。それを百回、続ければよろしいのです。それらの花弁は願かけが一回すむたびに、私が蜘蛛の糸で縫いつないで、あなたのために衣をひとつ仕上げましょう。それを着れば、あなたは三日と三晩だけ、実体を持って生きているもの達のいる場所へ行くことが出来るでしょう。」
☆☆
それからというもの、私は休むことなく毎日花房を枝にたわわに咲き誇らせ、そのことごとくの花弁を、無理矢理にでも身をよじって、時期早々に揺り落としてゆきました。自分の足元には薄白い花弁が、毎日雪のように降り積もっていきました。
それを朝と夕に、人間の巫女が静かな手つきで背中の籠にすべて拾い集めて、山裾のお社へと運んで行ってくれたのです。
そうして私の花弁は天空に捧げられた後、天女様の手に渡り、一番細くて滑らかな蜘蛛の糸で織られた衣に一枚ずつ縫い付けられていったのです。
そうして、今日やっと人の時間でいう千歳を迎えたのです。
☆☆☆
天空はるかな姫君は、私の幹にそっと美しい真白の衣をかけて下さいました。
するとどうでしょう、一瞬自分がその不思議な衣に吸い込まれたように感じ、その後長い間しっかりと幹にすがりついていた私の魂は、みるみる人間のすがたを形作っていったのです。
気がつくと真白い衣にすっぽりと身を包む、人の姿をした私が足もとの泉にはっきりと映し出されておりました。
「まぁこれはなんて素晴らしいことでしょう!」
天女様は驚く私にくすくすと微笑みかけると、優しくこう言われました。
「さぁこれを着て、生きているもの達のところへお行きなさい。そしてどこなとある主をお探しなさい。この衣を着ていれば必ず出会えることでしょう。」
(二)
もうだいぶん、疲れてしまった。
時の壁を超えることに、なんとたくさんの力を使ってきたことだろう。
あの娘はいっこうに、見つからない。
わたしに見つかるのを、やはり拒んでいるに違いない。
残してきたあの場所の桜が、早ぅ戻れと泣いている。
自分のために、泣いてくれている。
あぁ桜よ、お前のもとへ帰る力さへもう
残っているとは限らないこの僕は
一体どうすればいいのだ?
いつもの公園のベンチで、はまたまどろんでいた。もうそろそろ黄昏時だ。少し冷たいが心地良い風が、彼の頬を撫でて通り過ぎて行った。
いつか前にここで、遠い昔に残してきた場所からの便りを受け取ったのだ。最近ここへ来る回数が日増しに多くなってきた。
なにかが遙をこの場所へ呼んでいるような、またなにかが、ここで起こりそうな気がして。そして今日、彼の予感は見事に的中したのだった。
☆☆☆☆
また風が吹いた。しかし今度の風はあきらかにいつものとは違っていた。
彼が残してきたあの場所の香りを含んでいたので、すぐにわかった。
その風は彼を見つけるとあっという間にそのまわりを取り巻いた。
「やっとお逢い出来ました。私の遙様……。」
目の前に、信じられないほど軽やかな真白い衣をまとった、美しくもか細い一人の女の姿があった。遙は一瞬我が目を疑った。
しかし、すぐに悟った。そのように自分に語りかけるのは、あの桜しかいなかったのだから。彼は自分でかの桜につけた、懐かしい名前を口にした。
「亜由那……お前なのか……?」
「あなたが待ち遠しくて、とうとう私の方から来てしまいました……。」
「お前のような身で、人間の世界へ来るには、相当な苦労をしただろうに。そこまでしてこんなに長い間、この僕を慕ってくれていたというのか。」
彼女は少し恥ずかしそうに、けれど思いきり嬉しそうに頷いた。身を包む衣にもまして清らかな、美しい微笑みを浮かべながら同時に涙が頬を伝っていた。
「私と一緒に帰ってくださいますか、懐かしいあの場所へ。」
彼はもう迷う理由がなくなっていた。ここまで想っていてくれたものがいた。
このむなしい旅に終止符を打つ時がやって来たのだ。彼自身、もしかしたらこの時を心のどこかで待っていたのかもしれない。
「共に帰ろう、僕の亜由那。もうどこへも行ったりはしないから。」
「うれしい。私の愛しいあなた!」
ふわっと、彼女は彼に飛びついた。懐かしい岸辺の桜の香りが、彼の体中に染み渡っていった。そしてふたりを包む大気が、一瞬のもとに時の狭間を超えていった。
生きても死んでもいないもの達の住むという
風も懐かしいあの場所へ。
☆終わり☆
桜幻想
いつのまにか作者はライバル役の不遇な彼と、さらにそれを追っかけて来ちゃった桜の木の精が気にいってしまいまして。本編より先に彼らを幸せにしてしまいました(笑い)