花心・水心
人魚から人間の女の子に転生した由美絵衣(ゆみえ)を追っかけてきたちゃった人魚男子のお話。
彼女にはすでに婚約者がいるというのに、諦めずこっちに来ちゃった(あるしゅヤバイ奴)の彼と、それを心配して
むこうからお便りをよこす忠義な桜の木の精のお話です。
――拝啓、時の果てにおられる遙様――
この森はあなた様が時の旅に出かけられた、あの日のままでございます。
私の花弁にのせたこの伝言(ことづて)が、いつの日かあなた様にとどきますように、今日も幾輪もの八重の花を枝に咲かせております。
風に乗って 八重桜の花弁は
ひらひらと 想いをのせて
いつの日か時を越えて
はらはらと舞い降りた
☆
(今日は本当に、どうしたのだろう。)
四月に入ったというのに、あたり一面桜の花びらが舞っているのだ。
この地方は暖かくて、たいてい桜の身頃は二月~三月中旬までだと誰かに聞いていた。
花を咲かせているのはどの木だろうと、あたりを見渡すのだが、それらしい木はどこにも見当たらない。
この公園の木はほとんどが、柳や水楢のような花をつけない種のものなのだ。桜の木があればすぐに気がつくだろう。
けれど、相変わらず花弁だけが多量に空を舞っている。
上昇気流に乗っているのだろうか、なかなか地面へ落ちてこない。薄水色の空の中、花弁は自由気ままに泳いでいるようだ。
この光景は初めて見るものではないような気がする。僕はベンチに座ったまま、空を見上げていた目をとじてみた。
今日は平日でしかも午前中のこの時間、自然公園には人通りなど無に等しい。この光景を見たのは、僕一人だけかもしれない。
さぁっと一陣の風が吹いて、髪に、額に、肩に、手の上に、なにかが落ちてきた感じがした。
きっとさっきの桜の花弁だ、と思い、急いで目を開けようとしたが、何故か瞼がいうことをきかないらしかった。全身の力が抜けていく気がした。
僕は意識だけで闇の中を浮かんでいるみたいだった。どこからかさしてくるほのかな明るさで、不思議とあたりがみえる。
僕は確か公園のベンチの上にいたはずだ。
けれどその前、もっと前にはどこにいたのだろう……。
☆
はらはらと真上から花弁が突然に、大量に降ってきた。うっすらと色づいた、白に近いこの色は、空に舞っていたあの桜だろうか。
無意識に手の上にのせた花弁の一つが、ほの白い光を放ち、ぼうっと燃えだした。あたりの闇が揺らいで、そこにある懐かしい場所の風景が浮かび上がってきた。
――そうか、空に舞っていたあの花弁は、僕の故郷であるこのほとりにあった、あの桜の木のものだったのか――
僕はずっとある人を探して旅をしていた。旅に出る前は水の神の息子として、故郷であるあの湖一帯を治めていた。
その時は僕の探すあの娘も僕の住む湖にいて、それは幸せな日々が続いていた。そう、あの憎らしい人の子がやってくるまでは、本当に幸せだったのだ。
奴は僕の大事なあの娘を奪っていった。
あの娘が人に憧れているのをだしにして、清らかなあの娘を連れ去ったのだ。僕はすぐさま後を追おうとしたが、それをとめたのはあの岸辺の桜の精だった。
いつも大人しかった彼女だったがその時はとても必死に、切なげな瞳をして、幹から抜け出してきてこう言った。
――今は行かせておきなさい。外見の熱が冷めたらきっとここへ帰ってくるでしょう。あなたはここで、おまちなさい―― と。
その言葉で僕は十年待った。後を追いたいとも思ったが,桜のいうことも、もっともだと思ったからだ。
あの娘は水から生まれた娘。水の神の子である僕と、この水面下の世界のことを、忘れるはずがない。
あんな奴より僕の愛に気づいて、きっと戻ってくる、と確信していたのだ。
そしてその十年の間、ずっと桜は側で励まし、慰めてくれていた。季節が過ぎてもその枝に満開の花をたたえて、毎日花弁を水面へと降り注がせてくれていた。
僕のつらさや悲しみも、その根から吸いとってくれているようだった。
いつしか僕は愛するあの娘も大事だが、この桜もこの世界も放っておけない、と思うようになっていた。
しかし、あの娘がいつまで経っても戻ってこないので不安はつのる一方で、にごる水を濾過することすらできなくなった僕を見て。
たえきれないというように、ある日桜がつぶやいた。
――私達のことは心配ないから、どうかお行きなさい。私はずっと待っておりましょう。あなた様の帰る日までここを守って、待ち続けましょう――― と。
☆☆
気がつくとベンチの上にいた。いや、ずっとここにいたのかもしれないのだが。けれど、僕の意識はとてもはっきりとしていた。
今までのことが、記憶が、全てがとても鮮明になっていた。あたりにはまだ花弁が舞い散っている。
その花陰に一瞬、あの桜の精の瞳が映ったような気がした。優しげで、切なげで、それでいてとても強い意志の力を持った、あの懐かしい瞳が。
――親愛なる僕の桜へ
あなたの伝言は届きました
僕はもう少し旅を続けます
もしだめだったら潔く諦めて
あなたのもとへ帰るので
それまでどうか待っていて下さい。
君の想う泉の主より――
☆☆☆
風にのって花弁はまた
伝言のせてひらひらと
空高くへと舞い上がっていく
遠くはなれた故郷の
岸辺の桜のそのもとへ。
終わり
花心・水心