故郷に忘れたバイオリン

日南田ウヲ

息を切らせながら狭い路地裏の小路を急ぎ足で歩く娘がいる。
彼女は薄い水色のブラウスに自分が通う学校のスカートの裾を靡かせながら細い手に小さなバイオリンケースを持って、それが路地の壁に当たらないように時折気にしている。
小路はゆっくりとではあるけれどもなだらかな下り坂になっており、時折、その下り坂を上がって潮風が彼女に向かって吹いてくる。
今も少し大きな風が吹いてそれが前髪を巻き上げた。
娘は歩みを止めると、瞼を閉じて手を胸元に置いて大きく鼻孔に潮風を吸い込む。そして息を吸い込むと、呼吸を止めた。
それはほんのわずかな数秒だった。
しかしその数秒、脳裏に波が弾けて空中に泡を飛ばす瞬間が鮮明に浮かんだ。弾け飛ぶ白い泡を吸い込む様にゆっくりと息を吐くと鼻孔から耳に何か熱いものが突き抜けてゆく。
(今日はいつもより潮の香りがする)
 閉じた瞼をゆっくり開くと風で揺れる前髪を手で押さえた。
輝く海が小路の先に見える。そして海の波間を行く白い漁船が見えた。
 潮の香りが濃い日は必ず隣に住む漁師の五郎爺が魚を自宅に持ってきてくれる。
そしてその日は必ず母親が持って来てくれた魚を捌いて夜の食卓に並べてくれる。それを食べるのは彼女の小さな楽しみだ。
(今晩は鯵かな・・・それとも鰹かなぁ)
海を見ながら心の中で笑うと、後は真面目な顔になり足を一歩踏み出して坂を一気に下り始めた。小さな革靴の底が石畳に触れる度、高い音が塀に響く。それがまたリズムになり心地よく耳に響いた。
坂の下にあるバス停まで急がなければならない。今日は隣街にあるバイオリンスクールに通う日だ。便数の少ないバスを逃すと遅刻することになる。
目の前にL型の角が見えると急いでその角を折れ、続いて見えた赤いポストまで大きなステップで飛ぶように大きく踏み出す。そのポストを右に曲がれば海の側のバス停に出る。
石畳の道を踏む彼女の革靴の音がより高くなり青い空へと響いた。美しい故郷の海がポストの向こうにあると思うと彼女の心はいつも躍動する。
(あっ・・!!)
ポストを越えようと足を踏み出した時、若い郵便局員とすれ違った。危うくぶつかりそうになったが上手くかわした。
 すれ違いざまに郵便局員が娘に声をかけた。
「よっ!律ちゃん、今日もご機嫌だね」
「うん、卓ちゃん、元気よ。今日もお仕事頑張ってね」
おう、サンキューね、そう言う郵便局員の返事が聞こえる。
その言葉を背に聞きながら娘は手を振って、ポストを右に曲がった。
ちらりとピンク色のバンドをした腕時計を見る
(余裕でバスに間に合った)
彼女はゆっくりと綺麗に寸断された路地の影から陽光の中に自分の革靴を滑り込ませると顔を上げた。
海が見えた。
(いつみても美しい)
目を細めると綺麗に空と海を寸断する地平線が向こうに見える。その場で暫く打ち寄せる波の音に耳を傾けた。
砂浜に打ち寄せる波音が優しく響く。
(今日はいつもより海が青い)
律子は夢想気味になって通りを渡って海側のバス停に歩きだそうとした。
その時一台の律子の視界の外からトラックがクラクションを鳴らして入って来て勢いよく目の前を過ぎていった。
 運転手の「気をつけろ!」という怒号が響くとあっという間に声と共に彼方へと消えて行った。
少し呆然としてその場に立ち止まりながら律子は過ぎ去ったトラックに向かって小さく頭を下げた。
(運転手さん、ごめんなさい)
 舌をちょっと出して、恥ずかしそうに顔を赤らめながら慎重に通りを渡ってバス停に向かう。
そしてバス停の時刻表を見て、自分の時計と時間を確認する。
おやと言う表情をした。
(そうか、今日日曜日だから時間がいつもと違うんだっけ)
 思いの外、自宅を早く出たことに気付いた律子は、うーんと言いながらバイオリンケースを置くと腕を組んで防波堤下に広がる砂浜を見た。
 潮風が思案する律子の長い髪を撫でてゆく。
(そうだ・・)
 律子は置いたバイオリンケースを手に取ると勢いよく砂浜へ下りる階段へと向かった。
階段から泳ぎ終えたサーファがボードを持って上がってくるのが見えた。
海を見れば数人のサーファが波の中を動いている。
 彼女はサーファが階段を上がり終えるのを逸る気持ちを押さえながら待った。
(そうそう、一度、やってみたことがあったのよね)
 上がり終えたサーファが軽く手を上げて挨拶をしながら娘とすれ違った。
 それに笑顔で会釈をすると階段を勢いよく下りた。
 最後の階段は飛んで下りた。
着地するとあとは勢いよく波打ち際に向かって走った。
砂浜を踏む靴の音が流れる黒髪の音と交じりって耳に聞こえる。
(気持ち良いぃ!!)
彼女は走りながら勢いよくバイオリンケースを青い空へ投出した。
放り出したバイオリンケースに朝陽が当たって反射する。
そして落ちてくるケースを両手で掴み取ると、バランスを崩して白い砂浜に倒れこんだ。
黒く肩まで流れる髪に砂粒が絡んだ。
仰向けになりながら瞼を薄く閉じて空を見上げた。
(美しい空・・、フランスのコートダジュールの空もこんな感じなのかな)
テレビで見たフランスの青い空の街を思い浮かべながら彼女はゆっくりと息を整えていった。
(もし全国のバイオリンコンクールで優勝できたら行けるかも)
青い空の下で自分を照らすレモネードのような甘い陽光を自分の若い肢体に吸い込ませながら、そんなことを思った。
(まぁ、まだまだそんなレベルじゃないけどね)
瞼を閉じて、にこりと笑うと真顔になった。
(一度、この砂浜で作曲してみたかったの)
耳を澄ませて打ち寄せる波の音を聞いた。
波の音が自分の感性と交じり、それが反射して音律の円を描くのが彼女には分かった。不規則なかさかさと言う可愛いい音が音律の円の上を滑る。
(蟹さんね、可愛い足で歩いている)
微笑して大きく息を一度吸うと、小さく吐いた。吐きながら、自分の心が落ちゆく世界を認識してゆく。
突然、暗闇の世界の中に螺旋状につながる銀色の階段が見えた。
その階段を自分の裸身が滑るように落ちてゆく。
やがて落ちて行く暗闇の世界の底に光芒が見えた。それは子供の頃、課外授業のプラネタリウムのハッブル宇宙望遠鏡で見たへび座の銀河のようだった。
無数の輝く星達の中を自分の白い裸体が遊泳し、その流れてゆく後が音符になって音が響く。
乾いた唇から規則正しい息が漏れ始めた。すると彼女は鼻歌をリズムに乗せながらメロディを紡ぎだした。
やがて自分の頭の中でそれらをまとめると起き上がり、ケースをあけてバイオリンを取り出した。
そしてゆっくりと弓を引く。
先ほどのメロディと寸分違うことなく音が砂浜を流れるように海へと響いてゆく。
朝の波の穏やかな音と空へと上る音が、音楽となって世界を作っていく。
彼女は身体に付く砂も気にせず、ひたすら目を薄く閉じ自分の音楽を昇華させていく。
美しい音楽家の心は誰にも分からない、孤独な作業だけが彼女の芸術を完成させた。
やがてメロディが最後を迎えると波の音に消えた。薄く閉じた睫毛の中にきらりと輝く涙が見えた。
涙は彼女の去っていった自分の音楽への別れの挨拶。
彼女は力を抜いてまた身体を白い砂浜へ倒した。先ほどより少し暖かい光が彼女の頬を照らした。
遠くでサーファ達のはしゃぐ声が聞こえた。
気持の良い朝だった。
(これからの人生が今日のような日であるといいのだけど・・)
そう思うと、顔に翳りができた。
彼女は昨晩両親が話していたことを思い出した。
父が母に言ったのは、故郷を出て東京に行くということだった。それも単身ではなく家族を連れていくと言った。
父は建築関係の仕事をしていた。正確には左官職人だ。
ここ数年、大工や左官等の職人が故郷を出て行くのが増えた。
バブル経済で浮き立つ都会へと人々は仕事を求めて故郷を出て行った。その為、人が少なくなってゆき家が建たなくなり、職人の仕事が減った。
都会に人が集中し、仕事も必然的にそこに集中し始めた。
「東京に行けば今至る所でマンションが建っている。向こうは仕事が沢山あるらしい」
と父は母に言った。
「それに・・」
律子の学費もそれでまかなえると・・父は低い声で母に言った。
それで東京へ出て行きたいということだった。
彼女は部屋の向こうから聞こえる父と母の会話を静かに聞いていたが、そっとドアを閉めてベッドに入った。
大人の事情だが理解はできた。
実際自分の友人たちも学期が終わる度、一人ずつ転校していった。殆どが都会に仕事を求める両親に手を引かれて故郷を離れた。
この前も仲良くしていた葉子が大阪の中学校へ転向した。
(東京へ行くことになるのかな・・)
「できれば家族全員でいければと考えている」
 そう父親は母親に言っていた。
父親はまだ自分には言っていない。今朝も普通に挨拶して家を出て来た。
現実感は湧かなかった。
律子は砂浜に横たわりながらバイオリンに触れた。
(そうなるとシスターともお別れか・・・)
 彼女は遠い目になった。
 初めてシスターに会ったのは葉子と教会に行った時だった。
 別に洗礼を受けたいとかそんな気持ちはこれっぽっちも無かった。ただ葉子の一言につられた。
「シスターが作るモンブランがおいしいのよ!!ねぇ、律ちゃん、食べたくない??」
 ムフと笑いながら葉子の甘い誘いに乗って軽い気持ちで教会へ行った。
 そこで葉子が教会の黒塗りの木扉を開けた時、天井からパッヘルベルの“カノン”が響いて自分の耳に勢いよく飛び込んできた。
(えっ、何・・これは!!)
 天井から降り注ぐ音律が律子の身体を取り巻いて空へと浮かせた。
(何、この圧倒的な心に降り注ぐような感覚・・)
 その感覚はカノンの演奏が終わるまで続いた。
 最後の音符が自分の耳から静かに消えた時、律子は演奏している人物を見た。
 短い栗毛の髪の下でバイオリンを肩に抱えて目を伏せた女性が見えた。
細身の体にピタリとしたジーンズを履いて、白いシャツを着ていた。胸元に輝く銀色のロザリオが見えた。
葉子が女性に声をかけた。
「サラ・・・シスター・サラ。遊びに来たよ!!」
 葉子が手を上げながら言う元気な声に女性は反応して律子のほうを見た。
「おはよう、葉子。そちらのかたは?」
 その声に葉子が律子のほうを見た。
 何かいいなさい、と目で言っていた。
(え・・・、うーん)
 心で困ったなと思って、下を見たが直ぐに顔を上げてシスターに言った。
「はじめまして、シスター。私は律子です。バイオリンを・・・」
 ん?とシスターが律子を見た。
「バイオリンを教えてくれませんか?」
 その言葉に葉子が驚いた。
「あなたバイオリンに興味あるの?どちらかと言えばケーキでしょう??」
「今ね、今まさに興味持っちゃたのよ、わ・た・し!!」
 えーという葉子の声が聞こえた。
 律子はそう言うとふふと笑った。
「何よ、呆れた」そう言って二人はシスターのもとに言った。
寄り添うようにやって来た二人を見てシスターは言った。
「ようこそ、律子。じゃ一緒にバイオリンを練習しましょう。ではそのあとにモンブランでも一緒に食べましょう。どう?」
「勿論。ラッキー。やった!!」
律子は葉子と手を叩いて、シスターの伸ばした手をきらりとした瞳をしながら掴んだ。
(あれからもう2年か・・)
 バイオリンをシスターに習うと直ぐにのめりこんだ。バイオリンは最初シスターが使っていた古いものを借りた。その内、朝から晩まで練習している娘を見て父親がクリスマスに買ってくれた。
新品とはいかなかったが木目が美しいバイオリンだった。
 その後、県内にある音楽科の私立中学校へ進んだ。学費は高いのは何となく知っていたが娘の為に両親が希望を汲んでくれた。それだけでなく隣町にあるバイオリンスクールにも通わせてくれている。だから父親が東京へ稼ぎに出て行くのは良く理解できた。
 律子の側を潮風が吹いた。髪が流れていく。
(もし、東京に行こうと父親が言ったら、私は一緒に行こうと思う)
薄く瞼を閉じて打ち寄せる波の音を聞いた。
(だって、家族だもん)
 律子はそう言って砂浜を手に掴んだ。そしてそれを空に放り投げた。
 その時、陽に反射して落ちてくる砂の中に、何か小さな影が見えた。それが腹部に落ちたのが分かった。
(ん・・?何これ?)
急いで身体を半身起こすと、落ちたものを見た。自分のブラウスの上に魚が乗っていた。
今度は頭に軽い衝撃があり、また魚が落ちてきた。白い健康的な魚の目がはっきりと分かった。
(魚?空から降って来たの?)
 律子は空を見上げた。
 白い雲しか見えない。
(あれ?そうだよね)
 律子は落ちて来た魚を手に掴んだ。
(鯵じゃない、これ)
 そう思った時だった。
「よう、音楽家。朝から海でそんな音額を響かせたら海で泳いでいる魚が逃げちまって、釣人が困るだろう」
彼女は声のほうを向いた。
陽に焼けた身体と半袖シャツ、頭に視線を移すと痛んだ帽子とその下で笑う少年の顔が見えた。
「あんた誰?」
彼女は立ち上がるとスカートに付く砂を払いながら彼を見た。
よく見ると年もあまり変わらないように見えた。
「釣人だよ。ほれその鯵、さっき釣り上げたものさ」
(馬鹿じゃない、こちらが聞いているのは名前よ)
彼女は落ちた二匹の鯵を見てそれを掴むと海へ放り込んだ。
少年はあっと声を漏らして鯵が落ちた海へ進んだ。急いで膝まで海につかると海面に浮かび上がる二匹を手にとって戻ってきたが、彼女はもう居なかった。
少年は鯵を握りながら彼女が去った時に残った足跡を見ていた。


今年のイタリアの夏は例年になく暑かった。
そんな猛暑の中でもミラノで開かれたバイオリニスト黒田律子の演奏会には沢山の人々が来て拍手喝采の中フィナーレを迎えた。
しかし日本へ向かう飛行機の中で眼下に見える地中海を見ながら律子は、今回の選曲について満足を感じていなかった。
すべて自分の故郷にいた少女時代に書上げたものだ。
その頃自分を突き動かした様々な原動力を曲の中に残しながら東京青山のスタジオで何度も編曲を繰り返した。
完成した曲はスタッフ関係者からは絶賛されたが、律子は心の中では何かが足りていないと感じていた。
故郷を思って編曲した曲だが、その中に何か失われている半身がある様に感じていた。
(この感じは自分が故郷を出てしまった喪失感から来るのだろうか・・・)
そしてそれは日を追うごとに大きくなっていった。
横を見ると女性のスタッフが寝息をたてていた。
機内灯は既に消えていた。
室内は暗かったが徐々に明りが差し込んできた。
(あれは・・・?)
 律子は窓の外を見た。
深い青と黒が混ざった暗闇の中に月光に反射した雲がはっきりと見えた。
少し上を見た。
雲を照らす月が見えた。
月の縁をおぼろげな光が包んでいる。明るいのはそこだけだった。あとは深い暗闇が広がっていた。
(美しい月光の世界・・、月がまるで冷たい氷の世界に輝く太陽のよう・・)
 飛行機の翼が雲にぶつかった。
雲の塊が流れていく。
 律子は腕時計を見た。
 まだ空港を離陸して数分しかたっていない。まだ長いフライトが始まったばかりだった。
(私も少し眠ろう。起きる頃には東京に着くだろう)
 そう思って月を背に瞼を閉じた。 
(だから私は、故郷に向かう・・そして失くした半身を探す・・)



 
ポンと言う音が鳴って機内にアナウンスが流れた。
(着いた)
 律子は瞼を開けた。
隣のスタッフは既に起きていたのか雑誌を見ていた。
小さなあくびをすると窓を見た。
飛行機が降下しているのが分かる。雲が切れ、密集した街が見えた。
暫くすると大きなビルの群れが見えた。街並みが段々と近づいてくる。
雑誌を閉じる音がした。
「着いたわね」
 スタッフが窓を覗き込む。
「律ちゃん、長旅、お疲れさま。東京に着いたらオフでしょう。これからどうするの?噂の彼氏とデート?」
 女性スタッフが小声でふふふと笑った。
「やだ、やめてよ。それ。例の噂はでっち上げよ」が手を振って言う。
「でも青山のスタジオでの録音のとき、ほら例のバンドのギタリストの彼が熱心に来ていたって皆が言っていたわよ」
 スタッフは最近律子にロックバンド“LOOP STARS”のギタリストと噂があるのを知ってからかった。
「ちょっと。違いますよ。彼は唯のお友達。オ、ト、モ、ダ、チ!」
最後は強く強調して言った。
「ふーん」と言う。
「それに、今回の休みは故郷で過ごす予定なの」
「故郷?」
以外と言うような顔をして律子に言った。
「どこ、故郷って?」
 それに律子は少し遠い目をして言った。
「うん、九州の南。宮崎の小さな町」
「へー・・・知らなかった」
 スタッフが言う。
「そこで何するの?一人旅?」
「うん、まぁそんなところかな」
「そう?」
 スタッフが顔を覗き込む。
「まぁ、ちょっとね。なんというか、失くした自分の半身をさがしたいというか?」
「は?」
 律子の言葉にスタッフが目をしかめる。
「ちょっと、ちょっと、自殺とかそんなことしないでよね?」
 律子が慌てて手を振る。
「そんなんじゃないよ!」
「あったりまえ!これから新しいアルバムも出すのだからね」
「勿論!」
 律子が笑って言う。
「で、どんなとこなの、そこは?」
 スタッフの言葉に顎に手を持って来て律子が言う。
「良いところよ。海も山も川も美しくて。お城もあってね」
「へーいいところね」
「そうよ。今度さ、サーファの彼と遊びに来てよ」
 律子が今度はくくと笑う。
「ちょっと、律ちゃん、やめてくれるその話。彼は唯のお友達、オ、ト、モ、ダ、チ」
 そういうと二人で顔を合わせて笑った。
 丁度そのときドスンと言う音がして飛行機が滑走路に着陸した。

 
飛行機が東京に到着すると彼女はスタッフに別れを告げ故郷向けの飛行機に乗りこみ休暇の人になった。
飛行機は九州へ向かった。
夕暮れ時に飛び立つ機内から、東京の夜のライトが見えたがやがてそれも次第に遠くになって行った。
故郷にはもう父も母もいなかった。
少女時代に父も母も一緒に東京へ出てきた。だから故郷の友人も無く、故郷は心の中にあるだけのものになっていた。
今回のミラノでの演奏会のコンセプトに故郷を主題に置いた。
故郷を出てもう十年が経っていた。
二十五歳になっていた。音楽を愛して技術と研鑽を重ね技術を磨く大学の日々。そんな日々の中で自分の演奏が海外の音楽家の目に留まりウィーンへ留学。そこで多くのことを学んだ。
ウィーンでは音楽を愛するように人を愛することを挫折の中に学んだ。
窓の外を見た。
飛行機の翼に雲がぶつかり流れ、遠くの空がオレンジから紫に変わろうとしている。
(到着する頃は夜ね・・)
そんなことを考えていたが、やがて睡魔が襲ってきた。
飛行機の窓を閉めると律子は眠りについた。夢の中でいつものへび座の銀河が見えた。


 律子はルームキーをホテルのスタッフに渡すとチェックアウトした。
 スタッフが律子の車を通りに出してくれていてキーを受け取ると車に乗り込んだ。
乗り込むと空を見上げた。
窓からのぞく空は青く澄み渡っていた。
 その空を飛行機が横切ってゆく。
(朝一番に都会へ向かう飛行機、これはどこへ行くのかしら。東京、それとも大阪・・?)
 目を細めて飛行機の行く先を追いながら律子はエンジンをかけた。
「良い旅行を」
 スタッフのさよならの挨拶に律子は小さく頷いて答えた。
 車が進みだすと車内に眩しい朝陽が差し込んでくる。まだ朝が早いため通りを行く車は少ない。
流れていく風景の中に標識が見えた。
ちらりと視線を送る。
(故郷まで40キロ先か・・・、一時間ぐらいかな) 
 そう思った時、携帯が鳴った。小さなターコイズ石のストラップが着信音に合わせる様に震え、車内に響く。
 律子はその着信音で誰が電話をかけてきたのか分かった。
(ケイスケだわ)
 ロックバンド“LOOP STARS”のギタリストからだった。
 一瞬、車を停めて電話にでようかと思ったが止めた。
 ケイスケには今回のオフをどのように過ごすかについては何も言っていない。おそらく東京の自宅に居ると思って電話をかけてきたのだろう。
ミラノから戻ってきたら是非話がしたいことがあると律子は聞いていた。
 何となくだがその意味が律子には分かった。
(電話には出られないわ。だってまだ何も答えを用意してないのだから)
 数回着信音が響くとやがて音が止まった。
(嫌いではないのよ、ケイスケ。だけど今はごめんね)
 律子は窓を開けると風を入れた。
 潮を含んだ風が律子の長い髪を靡かせた。


「どうしたケイスケ?」
 携帯を見つめた若者をスキンヘッドの男が声をかけた。
 ちらりと横目で若者は男を見るとなんでもない、と言ってソファから立ち上がった。
「なにか不機嫌そうだな?」
 その声に振り返ってケイスケは言った。
「D、何でもないよ。ちょっと知り合いと連絡が取れなくてさ」
 そう言うと赤いギターを手に取ってチューニングを合わせた。
「ほぉ、知り合いね」
 Dと言われた若者がドラムステックを回しながら笑う。
 それをケイスケがちらりと見て手を上げた。
「なんだよ、その笑い。なんか嫌だな」
「隠すなって。あの子だろう。バイオリニストの黒田律子、律ちゃんだろ」
 ちっと舌打ちすると、ふんと言った。
「ロックとクラシック、まるで正反対のカップルだな」Dが言う。
 おいおい、とケイスケが言った。
「まだ付き合っている訳じゃないよ、D。誤解しないでくれよ」
「でも付き合いたいのだろう。顔に書いてあるぜ」
 ケイスケは惚けることなく真顔でDに言った。
「そうさ、D。俺は真剣に大真面目さ」
 そう言ってケイスケは携帯を手に取った。
「本当は会って伝えたいのだが・・」
 そう言ってメールを打ち込み始めた。


なだらかな海岸線に沿うように車が動いている。
目の前にはフェニックスの木々が見え、美しい水平線が見えた。
朝陽を浴びて海面が反射している波の中で泳ぐサーファ達の楽しそうな姿を横目に、道を進んで行った。
ラジオから流れるDJの声と音楽を聴きながら休暇を楽しんでいる自分にすこし酔いしれていた。
海沿いの道が無くなりやがて空に白い教会の十字架が見えた。
(あれは・・)
それは自分が初めてバイオリンを学んだシスターがいた基督教会だった。
律子は車を留め、教会へ向かった。
(シスターはまだいるに違いない) 
律子は駆け足で教会の前まで行った。
しかし目の前の教会は無人の建物になっており、表札は朽ち果て、緑の蔦が屋根の突堤の先にある十字架まで伸びていた。扉を押して開こうとしたが鍵がかかっていて開かなかった。
この扉の前で少女の頃、歌を歌ったりお菓子を食べたり、そしてバイオリンを弾いていた思い出が律子の心の中を駆け巡ってゆく。
しかし思い出の扉は開くことなく、ただ無言で律子の前に立っていた。
扉を押す手を戻すと後は暫く無言で扉を見て、静かにその場を去った。
車に乗り込むと時間の経過を全身に感じた。
教えてくれたシスターは当時二十歳そこらだった。もしここにいれば再会できたかもしれないという淡い期待は一瞬にして消えた。
(まだ十年しか過ぎていないというのに・・)
律子の心を重い何かが突きぬけて大きな空洞を作った。
(私と故郷との間にこれほどの大きな時間の隔たりがあったのだろうか)
 窓越しに空を見たが、雲一つなく美しい青空が広がっている。
東京の様に壁の隙間から見えるわけではなく、故郷の空はどこまでも果てしなく広がっている。しかし律子にはどこか東京に居る時のように狭い隙間から見えるように感じた。
(悲しくなるわね)
 そう思った時、携帯が鳴った。
手に取るとメールが届いていた。それはケイスケからだった。
“律子
 いまどこにいる?
 俺、君に会って話したいことがあるんだ。
 もし、東京に帰ってきたら
 連絡をくれ
 いつまでも待っているから“
 律子はそれを見ると静かに携帯を座席に置いた。
(ケイスケ‥ごめんね。まだ時間が必要なのよ)


車は小さな運河にかかる煉瓦造りの橋を渡りはじめた。
(この橋・・)
律子は渡りながら記憶を探った。
この煉瓦造りの橋を幼少の頃よく両親と手をつないで歩いた。
運河を山から切り出された杉の丸太を幾つもつなぎ船頭たちが声を出して民謡を歌いながら、海へと下っていった。
小さな海へと下る川に映るその姿が美しい光景として当時の自分の瞳には映った。
前方に神輿を担ぐ地元の少年少女たちの姿が見えた。速度を落としながらゆっくりすれ違っていく彼らの姿を見ると、道の端には赤い幟が立ち、今日祭りが行われることがわかった。
彼らの楽しそうにはしゃぐ声が神輿と一緒に木々に囲まれた鳥居を潜り階段を登っていった。
律子は彼らの姿が消えると、ゆっくり速度を上げ信号で止まった。
そこで暫く信号機を見ていたがやがて手を鼻と口に当て、顔を伏せた。
故郷の時間は自分の期待したように止まってなく、自分が去ったときから動いているのだ、自分は一人ぼっちなのだという思いが自分を襲った。
どうしようもなく悲しくて堪らなかった。あの白い砂浜の日々は、もう消えていた。
(国破れて山河あり・・という気分なのかな・・今の私・・)
そう思った時ドアを激しく叩く音に律子は顔を上げた。
ドン、ドン!
ドア向こうで陽に焼けた若者が律子を密ながらドアを叩いている。
律子は急いで窓を開けた。
「おい、大丈夫か?こんなところでとまってどうする?」 
若い声が律子の耳に響いた。
「すいません、ちょっと考え事をしていたもので」
律子はそういうと目を拭いて男のほうを見た。男の手にした釣り竿が揺れている。
目が合うと男が驚く顔が見えた。
男はすぐに運転席のほうに回るとドア越しに「窓を開けてくれないか」と、言った。
「もうだいじょうぶですから」
律子はそう言って車を出そうとした。
「君、月が丘の団地に住んでいた黒田だろ?違うか?」
(えっ)と心の中で叫ぶ律子に衝撃が走った。律子は男の顔を見つめながら車から出た。南国の空の下で、輝く黒い瞳が自分を見ている。
「そうです、昔、月が丘の団地に住んでいました。黒田律子です。失礼ですが、あなたは?」
律子は男を見た。
「僕?忘れたかい、実はウィーンの美術館でもチラッと会ったのだけどね。まぁその時は僕が遠くで見ていただけだから分からなかったとおもうけどね」
「ウィーンで・・?」
 まじまじと目の前の陽に焼けた若者の腕や顔を見る。芸術の都で会うような感じではなかった。
 照れる様に若者が笑う。
「青山です。青山聖児です」
(青山・・??)
 記憶の海を探る様に律子はその記憶の水面へ手を伸ばした。
(誰だろう・・でもこの感じすごく懐かしい・・)
 その時、釣り竿が揺れて律子の記憶の水面にポトリと落ち、二匹の鯵が跳ねる音が響いた。
「あ!・・あ・・!」
 何かを記憶の水面から掴んできた律子の指が、目の前の若者を指さす。
「そう、思い出してくれた?黒田さん」



律子は車に青山聖児を乗せ、自分が今夜泊まるホテルまで一緒に走った。
窓を少し開け夏の故郷の風を受けながら田園に広がる緑の中を走った。
話を聞けば彼は数年前に欧州へ留学に行きその時立ち寄ったウィーンの美術館で律子の姿を見たといった。
それも美術館で行われた演奏会ではなく美術館から離れた並木通りで外国人の男性と居て、泣いている自分の姿を見たといった。
声をかけようとしたが自分も急いでおりその場を離れたと律子に言った。
律子は一瞬ドキリとした。
その日美術館の広場で律子は他のバイオリニスト達とヨハン・パッヘルベルを演奏した。
美術館では世界から公募で集められた沢山の彫刻があった。
その演奏後、律子は帰国する予定だった。
律子は初めて異国に渡りそこで恋をした。相手の男性はドイツ人で年上の同じバイオリニストを目指す若者だった。
帰国が迫る中、律子は最後の演奏日に美術館で自分の思いを告白した。側には一つのバイオリンを弾く小さな少女の彫刻があった。律子はドイツ人の男性と多くの彫刻を見て回りながら、やがてこの場所で立ち止まると男性に告白をした。
しかし自分の恋は実ることは無かった。相手の男性にはもうすでに心に決めた人がおり、とても律子が彼の心の中に座る席は無かった。
悲嘆にくれて落ち込む律子がその若者に慰められていた瞬間に彼はすれ違ったのだと思った。
思えば偶然とはいえ、奇遇でありこれほど珍妙なことも無かった。
それよりも横に座る芸術とは無縁に見える青山聖児が、なぜその演奏会が開かれるあの美術館に居たのかとも思った。
(観光であれば良くあることだ)そう思い、律子は納得をした。
 律子はちらりと横を見る。
 黒い瞳に流れゆく風景が映っては、消えているようだった。時折目を細めて、眩しそうにしている。
(しかし・・)
と、律子は思った。
(これがあの彼だったなんて・・)
何とも言えない微笑を浮かべて、再びちらりと青山聖児の顔を見る。
青山聖児と律子が交流することになったのは律子が転向することになった最後の学年の時だった。
夏祭りで盆踊りをすることになり、同じ地区の子供たちが集まった。
当時、律子は別の地区から星が丘地区へ越してきたばかりだった。海が見える丘の上に家が並ぶこの地区を両親が気に入り引っ越してきた。
青山聖児も同じ頃、父親の仕事の関係で両親が福岡に引っ越した為、彼は父方の祖父母と共に星が丘地区に住んでいた。
彼は休みの日になると朝早くから釣竿をもって海へ行き一日中魚を追う少年で、地区内では有名な釣好きとして知られていた。
そんな彼と律子は同じ地区内の盆踊りで顔を合わせてお互いを知ったが、通う学校も違うことからこうした集まり以外で会うことは無かった。
唯一、律子が朝早くに砂浜でバイオリンの練習をする時に彼と遭遇するときがあったが、釣った魚を投げられるなど律子にとってはあまり気持の良い相手では無かった。
(だけど・・)
 そう思ってミラー越しに流れる風景を見た。
(良い思い出が一つだけ、あった・・)
 流れる風景の先に、澄み渡る様な広い青空が見えた。



東京へ向かう最後の日に律子は、バイオリンを持たずに白い砂浜に立った。
夏休みに朝だった。
砂浜に立っていると遠くからこちらに向かう影があった。
目を凝らすと彼だった。
釣竿を肩にしてこちらに歩いてきて、律子の数歩手前でとまった。
彼は黒い目で律子を暫く見ていた。律子もまた潮風に吹かれ、黒い髪が流れるままに立っていた。
二人は暫く無言で向き合ったが、やがて律子が言った。
「何?青山君、また魚とか投げるつもり?」
 彼は首を振った。すると律子の前で手を開いた。開くとそこに小さく磨かれた青い石があった。
「何・・これ」
 律子が言うのと同時に彼はそれを律子の手に握らせた。
「爺ちゃんの工房で作った。ターコイズって言う石らしい」
 律子は、思いもよらない言葉に首を傾げた。
「爺ちゃんがさ、これを渡して来いって言うものだからさ」
「へー・・」
 律子はそれを空に透かした。
彼は律子に向かって言った。
「黒田、あのさ・・・元気でいれば、また会える。だから元気で」
そう言うや、彼は後ろを振り返り走っていった。
「青山君・・ちょっと!ねぇ!」
そう言って律子は流れる髪を手で押さえて、その姿を見ていた。
(そう、あのターコイズ・・)
 律子は携帯を見た。
 二人の間で律子の携帯電話のストラップが揺れていた。
 


「返信、無しかい?」
 Dがケイスケに言った。
 ギターを弾いている指を止めて、携帯を見る。
「無いね」
 首を振った。
「脈無し、かな?」
 Dの言葉に、ふぅと重いため息をケイスケはついた。
「どうかな?俺はそうは思わないけどね」
「じゃ、どういう目算かい?」
 ケイスケが携帯を置いてギターを手にして弾き始めた。ゆっくりとリフを刻みながら、ぽつりと言った。
「彼女、自分の半身を取り戻したい・・って俺に言ってたのさ、それが出来なければ先に進めないって」
「半身?」
「そう、半身。自分の千切れた半身」
 Dが肩を揺らしてドラムステックで空を叩くようにしてからピタリとケイスケの前で止めた。
「どういう意味だい?」
 ケイスケが目を細める。
「自分の音楽の原点ともいうべき半身を取り戻したいってことさ」
「難しいこと言うなぁ、分かり易く言えよ」
 Dが頭を掻く。
「まぁつまり故郷に残してきた記憶と言うのか、そうした音楽の作曲のイマジネーションの原点を取り戻したいってことさ。そうすれば自分は次に行けるだろうって俺に言ってたよ」
 弦を鳴らす音が高く響いた。
「じゃ、子供の頃の初恋とかってやつかい、そんな甘い思い出とかなんとやらを見つめたいってことか」
 Dが揶揄するように笑う。
「そんなことしたら、昔の初恋の人に出会って、ケイスケ、お前の恋なんて消えちまうぜ」
 ふん、とケイスケが鼻で笑った。
「D、子供じゃないんだぜ。俺達は大人だ。大人には現実に沿うような恋が必要なのさ。変なこと言うんじゃないよ」
 ケイスケが目でDを見る。
「そうしなけりゃ、先に進めないのさ。恋も音楽も」
 ヒューとDが口笛を鳴らした。
「そうかい、じゃさ、恋焦がれるケイスケの為に一曲一緒に演奏しようじゃないか」
「何をするんだい」
ケイスケがギターを抱えて言う。
「そうだな。ガンズ&ローゼス、何かどうだい?『SWEET CHⅠLD OF MIND』なんかどうだい?子供の頃の甘い思い出ってやつさ」
 Dの言葉にケイスケは頷くと、ゆっくりと曲を弾き始めた。


その時以来十年が過ぎていた。
少年は少年時代とは違っていま律子の横でとても笑顔が良い若者になっていた。
「君は変わらなね」
 聖児が、ふと律子に言った。
 目だけを律子は聖児に向ける。
「いや、変わらないよ。どこか目元に漂う、天性的な知性と言うか、子供の頃、よく浜辺でバイオリンを練習しているのを見ていたけど、その頃見ていた横顔と今も寸分も変わらない」
 少し目を伏せて、律子が言う。
「ありがとう」
 うんと笑って聖児が律子を見る。
「青山君も変わらないね。黒い大きな目が全然、子供の頃と一緒」
「そうかい?」
「うん、そう」
 可笑しくなったのか律子も笑った。二人の間に過ぎ去った時間が笑い声と共に流れて行く。
「あのさ・・」
 聖児が言う。
「どうしてこちらに来たの?」
 律子は少し黙って、小さく息を吐いた。
「実はね、この前、イタリアのミラノで演奏会があったの」
「ミラノか?凄いね」
 聖児が驚いて言う。
「さすが世界的、バイオリニストってとこかな」
 律子は首を横に振る。
「とんでもない。私なんて全然。それでね、そのときの演奏曲は故郷で過ごした頃を思い出して、それをインスピレーヨンさせながら作曲したのだけど・・」
 律子が沈黙する。
「それで?」
 聖児の言葉に頷いて律子が言う。
「その時感じた足りなさがあってね。それが自分が失くした半身のような部分て気づいたの。そしてそれを見つめ直したくてここに来たの」
「そう」
「うん、そう」
 聖児が、大きく息を吸った。
「それで見つかりそう?」
 律子は、軽く首を傾げた。
「どうかな・・わかんない。見つからないかも。私の大事な半身」
 車は田園風景を抜け、海へ出たそして律子の泊まる海辺のホテルに着いた。
車を降りた後、彼が律子に言った。
「いつまでこちらにいるの?」
律子は少し返事を考えていた。実は故郷を色々回りながら色んなインスピレーションを受けて作曲をする予定だったが、正直ここにいても自分にとって得るものが無いと思っている。
それならば東京へ明日にでも向かおうと思っていた。
「明日、東京へ」
律子は手短に彼に言った。
「そうか」
彼が頷く。
「それならどうだろう。今晩先ほどの運河のところの神社で祭りがあるから、一緒に行かないか。神楽を地元の子供たちが舞うのだよ。良ければ後で迎えに行くよ」
律子はそれを聞くと特別予定も無い ため、わかったと返事をした。
彼はそれを聞くと「じゃ六時にここにくるよ。」と、言って手を振って去っていった。
 律子はホテルでシャワーを浴びると、鏡の前で自分の顔を見つめた。
何故か自分が彼にどのように映ったか、気になった。
少女の頃とは違い初心でもなく顔は化粧もしており、また都会の生活で身に着けたなんともいえない合理的で冷たいものを大人となったいま、自分は持っている。
それに比べ青山聖児は、昔の頃と変わらず今でも釣竿を持って現れてもおかしくない少年らしさを持っていた。
濡れた髪を頬に撫でつけ、律子はベッドの上に転がった。そして少し目をつぶった。ホテルの窓から波が寄せる音が聞こえてきた。
少しずつその音に合わせるように自分の息を整えていった。閉じた瞼の黒い睫毛からゆっくりと涙が流れてくる。
自分は甘い期待を故郷に持っていた。もしかしたら素敵な再会があり、自分はそうした中で新しい日々を過ごすための必要な情熱を得ることが出来るだろうと思った。
しかし今は誰も居なくなった気朽ち果てた教会、運河で聞こえた少年少女たちの声、そして再会した青山聖児と自分とのギャップがそれを粉々にした。
律子はいつものように暗闇の世界へ落ちてゆきあのへび座の光芒の宇宙を遊泳していった。律子の裸体は銀河の光に当たるたび激しく痙攣した。痙攣しては叫び、光の届かないところへ行こうとした。そして四肢を固めやがて意志を持たない塊になろうとした。
その時、青山聖児の声が聞こえた。
それは激しいリュートで宇宙を揺るがし、そして宇宙を律子の四肢を裂いた。四肢を裂かれた律子は裂かれた自分の断面から、暖かい光が溢れてくるのを感じた。
それはやがて子宮で眠る胎児のように優しく包んでいった。そこで律子は目を覚ました。身体を起こすとバイオリンを探し、奏でた。裸体のままバイオリンを弾いた。一瞬ですべてを終えた。
曲を得た。律子はベッドに腰をかけ、バイオリンを抱きながら涙を流した。
 


時間通りに青山聖児は現れ、律子は彼の車に乗り祭りの場所へ向かった。
そこではもう既に人が集まっており、神社へと上る石段は人で溢れていた。律子は石段を登りつつ、故郷の夏祭りを肌で感じていた。
「黒田、東京のほうが祭りは派手だけど、故郷の祭りもなかなかいいと思わないか」
「そうね。東京もいいいけど、故郷のほうも情緒があっていいね」
律子はそういいながら前を行く青山聖児を見た。
そうか、といって笑うと彼は指をさした。
「ほら夕暮れに染まる町が見える。コートダジュールの夕陽も良かったけど、やっぱりここから見るこの町の夕陽が良いよ」
律子も振り返った。夕暮れのオレンジ色と夕闇の薄い紫が重なりなんともいえない光景になっていた。律子は振り返り階段を上りながら先を歩く彼に声をかけた。
「コートダジュールにも行ったの?旅行で?」
「いや留学だよ。」
「留学?何の留学?語学?」
律子は聖児に向かって言った。そういえばウィーンも留学と言っていた。(何なのだろう)不思議に思った。
「芸術さ、僕は彫刻家だからね」
律子は思わずえっと言った。それを聞いて聖児は、律子の顔を見て笑った。
「ほらその携帯のストラップにあるターコイズ、覚えてるだろう?」
 律子がストラップを見る。
「僕の爺ちゃんさ、石細工師だったんだよ。だから僕もその血を引いているのか、彫刻をしていてね」
 驚いて律子がターコイズを聖児の前に見せた。
「この階段を登った神社に僕の作品が展示されているよ」
律子は戸惑いを感じながら聖児のあとについて階段を登った。最後の階段を登ると目の前の世界が開け、鳥居と神社が見えた。
既に浴衣姿の子供たちが集まり神楽を舞う舞台の前に集まっていた。陽が暮れようとしている神社では灯篭に灯がつき始め、また積まれた薪に火がつきはじめた。
夕闇の世界に明かりがぽつぽつと灯り始めた。そんな光景をみながら律子は自分が帰ってきた故郷の夜を感じていた。
「これさ」と彼の声が聞こえてそちらのほうを見るとそこには一体の裸婦像があった。
それは木彫りで片足を立てたまま両手を天に向けていた。表情がどこか儚いものを掴もうとして掴めない表情をしていた。神社に西洋のものはどこか異なるギャップを感じるような表情をしているとそれを見ていた彼は律子に向かって言った。
「神社にこんなものがあるのに何か違和感があるって感じだね。でも地元の歴史を調べる会があってね。郷土史家の人たちの話を聞くとどうも隠れキリシタンが居たらしいよ。だから僕達の故郷は西洋とは無縁ではないし、なんせ戦国時代には使節団として遠くローマ法王にも謁見をしたらしいよ。それに君は忘れたかもしれないけど、海岸から入ったところにあった教会のシスターはここの神社の禰宜さんと結婚したのだからね」
(えっ)と、律子は思った。では自分がバイオリンを学んだシスターはここの方と結婚したのだ、そう思うと律子は宗教も異なる二人を受け入れる故郷の懐の深さを思わないではいられなかった。
東京で見るテレビでは世界が宗教の戦争で多くの人が亡くなるのをいつも見ていた。それに比べればこの故郷の南国の世界はなんとおおらかで暖かいものだろうと思った。
舞台では小太鼓の音が聞こえた。日本神話の一節が舞われ始めた。
国を生んだ神様たちが私たちと同じように泣き笑い神楽は舞われる。子孫の繫栄と土地に住む人々への祈りが夜の空へと昇っていく。
律子はそうした光景を見て、暗闇の中の中に輝く舞台を自分がいつも見ている、あのへび座の光芒に見えた。そして少しずつ自分がその世界を遊泳していくのが分かった。舞台は違え宇宙を旅していた。
するとその宇宙を切り裂くように突然バイオリンの音がした。それは全く間に夜の空気を切り裂き、バイオリンのあの長くも儚い絃の音が響いた。
突然、現実の世界に戻った律子は音のするほうを見た。
そこにはバイオリンを弾く女性がいた。
(そう・・私は知っている)
律子は心が揺さぶられるのがわかった。
歩き出す自分が居た。聖児はそれを横で静かに見ていた。
流れゆくバイオリニストの髪が明りで見え隠れしている。
(シスター、私はここに居ます)
律子は張り裂けそうな声でそう叫びたかった。
バイオリンの音が夜の世界を包み、そして消えていった。
子供たちが拍手をするのが聞こえた。舞台に立つシスターが挨拶をすると、彼女の視線が律子と合った。
そして微笑んだ。律子はすこし下を見て暫く自分のつま先を見ていた。
その時肩を叩く手があった。聖児だった。彼は律子の横にいて、舞台の上に居るシスターに言った。
「シスター、黒田律子さんを覚えている?いまここに居るのが彼女だよ。あなたに教えてもらった教え子がここにいる。いまでは世界的な音楽家だよ。どうだろう、一曲演奏させていただいてもいいかな?」
驚く律子の表情が聖児の黒い瞳を捕らえた。
律子は自分を見つめる複数の視線を感じた。
舞台からシスターがこちらを見ていた。
シスターも記憶の底から何かを探している表情をしていたが、思い出したらしく律子のほうを見て微笑んだ。
「こんばんは、律子。再びお会いするまで長い時間がかかりましたね。お帰りなさい、ここはあなたの故郷です」
律子はその声を聞いて、下を向いた。肩が振るえ、髪が夜風に流れていく。
聖児は律子を促し、舞台へ上がった。多くの人々の視線が自分を見ていた。
シスターからバイオリンを受けると、律子は一度弓を弾き高い音を奏でた。境内の中の杉林の中に音が響き、やがて心の中に木霊のように返ってきた。
それを受け止めると律子は心を解き放ち、木霊の響きに包まれるように体を動かし、バイオリンを弾いた。
音楽が螺旋となって夜空へ登っていく。夏の夜空に輝く深紅のアンタレスがそれを受け、宇宙の果てまで響かせていく。
遥か彼方の星に住まう冥王の耳に、故郷に生きるすべての生命に音楽が響いていく。
律子の白い裸足の足がまるで神話に出てくる天照の人々たちの踊りのようにステップを踏んでいく。
多くの聴衆が、響く律子のバイオリンの音に心を奪われ音符の一つ一つに乗っていく。老人は低いドの音に、乙女たちは美しいソの音に、子供は高いラの音に乗って夜空を飛び回る。誰もがこの体験に微笑み、手を繋ぎやがて大きな円になった。それは律子がいつも見ていたあのへび座の光芒だった。
律子は自分の帰る場所を見つけ、そして既にそこから自立した自分を認識した。
そしてそれを故郷は優しく包んでくれた。自分が故郷に忘れてきたものは何も無かった。
(私は無くした半身を取り戻した)
時間は過ぎて行く。
そしてこれからは自分が人生の中で芸術を創り出していかなければならない。
そしてそれは今日これからなのだと感じた。



東京の表参道で律子は自分の新しい曲のための撮影をしていた。
黒い髪は後ろにまとめられ朱に染まる口紅をした自分の姿に多くのスタッフが驚きと、なんともいえないため息をついて言葉をかけてくれた。
「ちょっと、律ちゃん。今日、すっごい大人ね?どうしたの?」
 気心の知れた女性スタッフが耳打ちで小さく言う。
「何でも、お付き合い始めたそうで」
 律子はそれに小さく首を傾げた。
「さぁ、それはどうかな」
 そして小さく笑う。
「えぇ、だってさ。休暇から戻ったら赤坂のカフェで話し込むケイスケと律ちゃんを見たって噂よ」
 ふふ、と律子が笑う。
「それはさ・・内緒ってことで」
「えー!!、意地悪しないでさ。教えてよ!」
 そう言うスタッフを律子は引き離すと音楽雑誌のインタビューを受けた。
「今回のアルバムは故郷で得た貴重な体験を表現したとか?」
「ええ」
 にこりと微笑むと律子は「美しいところでまた行きたい。」と短く言った。
(きっと故郷ではもうすぐ稲を刈る時期が来るだろう)と律子は思い、シャネルのショウウインドウのガラスに映る自分の姿を見た。
今の自分は都会で生きる仮面をつけているようだった。
小麦色に焼けた肌は化粧できえ、都会の摩天楼に生きる音楽家として自分いる。
都会でも木霊は聞こえる。ビルの壁に反射して、それは響く。
聖児はきっと今頃美しい彫像を自分の森の中のアトリエで今日も作っているだろう。
蚤を持ち、自分の求める美しい美のミューズを、今日も探しているだろう。
(そういえば・・)
律子は自宅に送られた聖児の作品のレゾネを開いた。
一つの作品があった。バイオリンを弾く少女の像だった。
聖児はこれで欧州への留学する機会を得た。
自分は忘れていた。この写真が自分自身であること、そして何よりも自分があの日ウィーンで見たものはこれだったのだ。
(あの日、私はその美術館でこれを見た)
やはり奇妙だった。
彼とのこれからはどうなるかは分からない。
律子は、微笑むとスタッフのほうへ歩いていった。
今日は忙しい日になるだろう。そう思うと頑張らなければと思った。

故郷に忘れたバイオリン

故郷に忘れたバイオリン

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-19

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