五つの地区の話

土井留ポウ

  1. 経済地区――
  2. 居住地区――
  3. 娯楽地区――
  4. 行政地区――
  5. 学術地区――

経済地区――


 『貫太郎』は法理により擬された人格を持つ主体である。『貫太郎』の内部は厳密に分解される器官がたった二つのみある。一方を鱈尾と呼び、他方を烏賊間と呼ぶ。二人は厳密に人間であり『貫太郎』に入れ子のように存在する無限責任社員である。二人は『貫太郎』を大きくするために五人の天才を雇い入れた。彼らに売り上げの0・002パーセントを分け与える契約を交わしその文書を行政地区の水車式保管庫の番人に五人のうち二人とその子供たち立合いのもと預けた。



 ところで経済地区の球根式会社の権利義務を一手に引き受ける社長と称される男が非常に小回りの利く一人乗り四輪駆動に乗り、オフィスの中を駆け回っている。電話が引っ切りなしに鳴っているのも四輪駆動を駆る彼の多重回線の仕業だ。勿論社長とは名ばかりの個人事業主なのだ。未だ彼の球根式会社は家内手工業の域を出ず、そればかりか彼自身は女性の社会進出に苦言を呈する封建主義者でもある。彼の駆る四輪駆動はいよいよ窓を破り公道に飛び出した。歩道はゴリラの群れでごったがえしている。贈答用ゴリラ専用ヘルメットの受付に並んでいるのだろう。あまりにもウスノロな亀が前方で制限速度以下の歩みをしているのに社長はいらいらとしてクラクションを鳴らして、威嚇する。四輪駆動より大きい亀のせいで前方が塞がれてしまっている。すると亀は右折レーンに入り、ゆっくりとした歩みで交差点を右折しようというところ、直進車との兼ね合いから、全く動くことが出来なくなり、そのうちに諦めて手足を甲羅の中に引っ込めた。

「それでは、『海抜四千メートル下交差点』は十四時二十三分からの十分間、完全に麻痺してしまったということですか?」

「そういうことだ。これによりカスタマーロイドの消費活動が波及的に減少された。われわれの生産活動(イカサマ)も大きな損失を被った」

「おや? 今、イカサマと言いませんでした?」

「おっと口が滑ってしまった。今のは聞かなかったことにしてくれ」

「そのうち、行政地区のデリバリー検事が直々にお見えになられることでしょうね」

「この経済地区では経済的な悪影響を与える諸々の一切は処罰されるべきだ」

「目星は付いているんですか?」

「亀だ」

「亀ですって?」



「亀なんだ……」



「亀だなんて……」



 亀なんだ……



 亀だなんて……





 おい。君。名前は何というのだ。何処の学校を出たのだ。今、何歳だ。星座は? どういう性癖があるのだ。靴下の臭いは嗅ぐかね? ペニスを扱く頻度を教えてくれ。口の臭い女をどう思う? 私は嫌いだね。アイスコーヒーを飲みたまえ。面接官からの矢継ぎ早の質問攻めに一つ一つ丁寧に的確に答える。西日の差す大広間に設けられた――たった一つの机――向かい合う二脚の椅子――奇遇なことにどちらも禿頭だ。よくある経済地区の光景である。



 ベルトコンベヤは入り口から壁に沿ってあらゆる空間に効率的に設置され、階段を人間とともに製品類が登り降りする。食堂の廊下も専用レーンが存在し、厨房の奥深くまで続いている。飛び散った食用油も工業用のオイルに紛れてしまう。その為に食堂の廊下は油まみれになり、その乱雑な足並みにより、テーブルや観葉植物があちこちへと滑って散らばり、誰も元に設置された場所を知る者はいない。壁と壁を突き抜けてコンベヤは宙空に伸びる。製品類は、その度に隙間にわだかまった土鳩たちに糞を落とされる。その工程では必ず土鳩の糞をまぶされることになり、それにより鳩の糞の濃度が著しく高まるものの、あの物言わぬカスタマーロイドからは不問に付されている。人員配置の一環で木々森は鳩の糞を心持ち取り除く作業に従事させられている。その作業によりカスタマーロイドからの売り上げの0・0008パーセントほどの心付けをもっぱらの収入源としている。



「『貫太郎』になりてえ……」



 タクシー運転手(独眼竜)がビルディングの隙間を見上げてこう漏らした。『貫太郎』とは何であるか。『貫太郎』とは法理により擬された人格を持つ主体である。『貫太郎』の内部は厳密に分解される器官がたった二つのみある。一方を鱈尾と呼び、他方を烏賊間と呼ぶ。二人は厳密に人間であり『貫太郎』に入れ子のように存在する無限責任社員である。二人は『貫太郎』を大きくするために五人の天才を雇い入れた。彼らに売り上げの0・002パーセントを分け与える契約を交わしその文書を行政地区の水車式保管庫の番人に五人のうち二人とその子供たち立合いのもと預けた。

 ペガサスのように……



 ペガサスのように……?



「おい、お前。ペガサスのように、とは一体どういうことだ?」

「ペガサスのように羽ばたく、ということです」

「ペガサスは羽ばたくのか?」

「はい。そう言うことです。もっとも僕は見たことがありませんが……」

「見たことがない?」

「はい。見たことはありません」

「聞いたか?こいつ見たことがないだってよ」オフィサーが居並ぶ幹部連に向かって首を巡らす――お追従の笑い声があとに続く――

「見たいものです」円卓の前に立たされた、痩せぎすの男は、眼を閉じ深く息を吸い込んだ

「ところで……」オフィサーの顔が俄に曇る。

「あの物言わぬカスタマーロイドたちの潜在する需要を呼び起こす術について講釈でもたれろ。連中――カスタマーロイド――の購買特性は無秩序に過ぎ、統計的な一貫性もない、まるで各々その場の思いつきだけで商品を手に取っているかのようだ」オフィサーがこう言うと――周囲から困惑とともにどよめきが起こる――おい、何か言えよ――俺たちがこまっているんだぞ――

「……それに関しては……」痩せぎすの男の重たい口が開く。

「発想の転換をすれば宜しいかと」

「んにゃ?どういうことだにゃ?」この時オフィサーの黒目が白く濁かったかと思うと、口を開けて椅子の背に、へたっ、と頭を仰け反らせた。オフィサーの膝の上で丸まっていたペルシャ猫が痩せぎすの男に鋭い眼差しを走らせる――そうだ、どういうことだ――早く言えよ――勿体ぶんなよこの糞野郎――

「逆に人間をカスタマーロイドの中に混ぜておけばいいんですよ。バレないぐらいのね」

「にゃあああんだって!」



 にゃあああんだって!



 マーケットではその並べ方が一番重要である。前後に隙間もなく並べ、この連続した連なりが消失点の彼方に消えるのがもっとも良いとされる。カスタマーロイドたちが何処から手に取っても残像のように空間に何処までも連なっていなければならない。しかし、無限とさえ言えるこの連なりも購買されることにより、歯抜けの、片手落ちの、理屈に合わない、不完全な連なりとなってしまうことは逆説的だ。その時こそ彼ら商品補充係の出番となる。喫煙室にもくもくと垂れ込む煙草の煙。車座になり、腕を組みながらその指先に持った煙草を見詰め眼を細める商品補充係。喫煙室は絶えず張り詰めた緊張で沈黙している。その時、入り口の台に据え置かれたパトライト――円錐型B回転灯――が忙しなく回転しながら点灯する。ピクッと商品補充係の眉間が動く。そして商品補充係はおもむろに『わかば』の箱からまた一本取りだし、火を付け、腕を組みその指先に持った煙草を見詰め目を細めるのであった。

 商品補充係――彼らの取り分は0・0012パーセントである。具体物として付言すれば、それは非常に水に溶けやすい紙で出来たもの――そう誰もが思い当たるものだ――



 五つの羽根がくるくると回っている――



 太陽風による風圧が、歯車を軋ませて、羽根を回転させている。経済地区では抜け目ない、中間色の、マイナス金利による、ミンチ肉を丸めたものを床に落としたほどの酷く扁平形な人々の活動が浮き彫りにされたが、スプーンに掬った山盛りの砂金とは言い難かった。あらゆる活動は0と1との間の微少な動きを示しただけでどれもが『1』という確たる、一人前の、無限の実数へと至る、古の大地へ降り立った生物の革命的な『1』には満たなかった。彼らはただに長いだけの紐状の存在に過ぎなかった。そして居住地区はというと……

居住地区――

 貸与され、あるいは又貸しされ、あるはまた交換されたりなどして回り回る、部屋、建具、寝具、家具、電子機器、諸々――全ては居住地区の備品である。

 娯楽地区からは絶えず音楽が奏でられ、スピーカーから流れている。学術地区から発行された本が本棚を埋め尽くしている。そして、その本たちは貸与され、あるいは又貸しされ、あるいはまた交換を繰り返して回り回るが、全ては居住地区の備品である。

 居住地区で問題となるのは性犯罪、いわゆる、夜這い、だ。男女比の統計では男88パーセント女12パーセント、又貸しされる機会にその家具に忍び込み、夜な夜なその家具から抜け出し、部屋を物色し目当てのベッドに向かうのが、夜這い、の特徴である。同じ性犯罪の問題で言うと、娯楽地区にもっとも多いのが、盗撮、であり、それは行政地区、学術地区と次いで多い。ただ、この盗撮の問題は、何処にいようとも、という全般的、横断的な被害がある――ところで夜這いは、また彼らの、彼女たちの、スリリングな性遊戯であるという指摘もなされている――



「誰だ!貴様は!」

「違う……僕は……」

「さては、夜這い、だな?」

「うわあああ……放せ……」

「こっちへ来い!おい!みんな、夜這い、だぞ!」



「やめて!彼は違うの!」



「何も、違う、ことはない。こいつは、夜這い、だ。さあ来い」



「放してくれ!」



 やめて!彼は違うの!



 何も、違う、ことはない。こいつは、夜這い、だ。さあ来い。



 放してくれ!



 かような、通い婚、は一見して形だけに拘る管理人連中には見分けがつかない。

 あるいは恋敵を追い払う、熾烈な感情の交錯が居住地区に伏在しているのも事実である。

 また、盗撮、にしても――見られる側――見ている側――という激烈な交感による内部的関係もまた指摘されているが、それもまた意識的なものか無意識的なものかという問題があり、いずれにしろ意識的なものまた無意識的なものであろうと、行為者のみが処断される傾向にある。他人には推し量ること出来ないものは処断される傾向があるのである。それにまた、夜鷹、という私的な売春行為がこれも、何処にいようとも、という全般的横断的に問題になっているが、夜鷹に対して、金銭を与えない、性行為は果たして合意のもとに行われたと見るか、あるいは不合意のもとに行われた被害とするか、あるいはまた金品の強奪行為と同質と見て、性犯罪ではない、一般の犯罪と見るべきか、結論が分かれるところでもある。しかしながら経済地区以外でなされたものは不法であるという結論は変わりはない。



 ジェルが……ジェルが……



 西日の差す奥まった部屋の一室では今し方、経済地区では電気工事士、行政地区の戸籍には毛呂ケンタロウと記され、学術地区では蠅仙人、娯楽地区では(削岩蝮)の異名を持つ、206号が、密輸した愛用の電動ドリルで頭をくり貫いていた――



 門口に立つ――笛を吹く男――重たそうな行李を背負うている――



「奥さん。塩鯖なんて如何すか」

「塩鯖なんて要らないわ」

「じゃあ、干物なんてお安くしときますよ」

「塩鯖の方がいいわ」

「じゃあ塩鯖なんて如何すか」

「塩鯖なんて要らないわ」

「じゃあ、干物なんてお安くしときますよ」

「塩鯖の方がいいかもしれないわね」  

「じゃあ塩鯖なんて如何すか」

「塩鯖なんて要らないわ」



 塩鯖なんて如何すか……



 行商人――法網の大きな荒目を行ったり来たりする――プリミティブな存在である――



 通路には紅鮭が落ちている――やつが歩くとその後に紅鮭が残る――



「ミハル?どうしたの?」

「ええ……何でもないの……」



「言いなさいよ。水くさいぞ」



「何か、ここ……魚臭いわよね? 気のせいかしら」



 え?



 何か魚臭いのよ。気のせいかしら……



 何もかもが裡に引き籠もっている――誰も彼もが閉鎖的だ――ここでは――そう――ここは東京――ここは東京――何もかも――



「ここは東京なのか?」

「何だそれは?」

「ここに書いてあるぞ」本――それは勿論学術地区で発行され居住地区に贈与された居住地区の備品である――を手に持ったルームメイトが言う。

「字が汚くて読めねえな」その本――それは勿論学術地区で発行され居住地区に贈与された居住地区の備品である――を受け取ったルームメイトが顔をしかめる。



「字が汚ねえ……」本――それは勿論学術地区で発行され居住地区に贈与された居住地区の備品である――を手に持ってルームメイトは固まってしまった。五つの羽根が回る。太陽風を直に浴びて、そのプラズマ気流が歯車を軋ませ、羽根を回転させているのである。カラカラと……



 205号、経済地区では鳩の糞取り業、行政地区の戸籍には木々森ナオヤと記され、学術地区では鳩の糞取り学士、娯楽地区では(秘之木男――ピノキオ――)と称される――人間――が今し方隣室から――



 ジェルが……ジェルが……



 という声を聞いた。

「ジェル? 今ジェルって言ったぞ」205号は椅子から立ち上がった。そして壁に耳を当てて向こうに向かって呼び掛けた。

「ジェルがどうこう言ってるね? 一体ジェルがどうしたんだい?」

「ジェルが……ジェルが……溢れてくるんだ……」

「ジェルが……溢れてくる? 分からないな。ところでジェルと言えば娯楽地区に緑色のぬるぬるする浴槽があるそうな。君はそれを知っているのかい?」それから隣室から、あふう、という息を漏らす声が聞こえ、それっきり隣室は物音一つなく静まりかえってしまった。相手の応答がないところを見ると、知らないのだろう、と解し木々森は再び椅子に戻った。



 居住地区は経済地区、娯楽地区、行政地区、学術地区などに比して、開放的で、純粋プライベートが指向され、よって非常にプリミティブな空間である。誰もかもオナニーの欲望は抑えがたい。彼らは、宇宙空間に投げ出されたように、液体を放出する。盗撮の90パーセントは、後日の快楽のために行うのであることも見逃せない事実だ。その目に焼き付けておく場合と、機器を使用して映像として保存する方法があるが、いずれにせよその場においてオナニーを行う者は稀である。居住地区に伏在するこの重苦しく濁った陰の気は彼らの閉塞的な、拘泥する、絶えず頭の中にある抑えがたい欲望の流路を求めているが為であろう――早くオナニーがしてえ――もし人の心を読めるならそんな言葉が暴風雨のように吹き荒れているのだ――セックスをするためにオナニーをするのか――オナニーをするためにもセックスをするのか――そのような混沌とした疑念が尻尾を咥えようとする蛇のように回り続けている――



 それにしても……

 プライベートロイドと行う性交渉はセックスなのかオナニーなのか……



 美しいプライベートロイドは大家族の間を行き交っている。年齢層も様々な大所帯428号から568号までの間の隣人関係は一見すると良好ではある。カルタをするプライベートロイドたち。車座になり屈み込んだその姿勢。美麗な曲線が尻から首筋にかけて走っている。そのスナップ写真が色褪せて、冷蔵庫にマグネットで固定されていた。学術地区発刊『小学二年生』が板張りの廊下にページが捲れたまま放置されている。一頃話題に上った娯楽地区のイケメンディオ『コモンブラザーズ』や『レジェンドボーイズ』などの電磁的記録{注}がケースの割れた状態で散見される。512号は長らく空室である。土間式の台所は箕が掛けられ、竈には黒く変色し凝り固まった飯粒が残されたままだ。



 きっとここで誰か発狂したのだろう……



 プライベートロイドたちはゼラチン質を見逃さない。プライベートロイドたちは微少な電気交感に振り返る。プライベートロイドたちは尖ったものを受け入れ、奥まったものは突き刺してくれる。プライベートロイドたちはエントランスで、大広間で、談話室で、一般大衆を演じてくれる。プライベートロイドたちは哀れなモッブであり、プライベートロイドたちは怒れる主張者でもある。プライベートロイドたちは呼べばいつでも気軽に応対してくれる。プライベートロイドたちは茶菓子を持参する。それに、プライベートロイドたちはゼラチン質を見逃さない。



 そのゼラチン質は、

『MOU、終わりだヨ、EXTINCTIONなんて言うよね、チミぃ』などと言語を操り通路を行ったり来たりをするのが報告されている。プライベートロイドはその微少な電気交感に振り返り、凝視する。集まり、カルタをするように、屈み込んでそれを凝視するのである。その美しい首筋から尻にかけての曲線。彼らは、絶対にゼラチン質を見逃さない。ゼラチン質が現れるところにプライベートロイドは集まり、翻って言うなれば、プライベートロイドが集まるところにゼラチン質がいる――人間はいつもその点では一足遅れるのが常だ――



 居住地区はスプーンに盛られた砂糖の山であると言っても過言ではない、またその中に微少な蟻たちが顔を出している姿が観念されてくる。彼らはそこで寝起きし、食べ、飲み、セックスをしオナニーをし、本を読み、談話し、娯楽地区での様々な表現活動を甘受している。「貴方、明日の休日は何するの?」経済地区でのかような会話に含まれるのはほとんどが娯楽地区での事であろう。学術地区での堅苦しいインテリジェンスのことではあるまい……







{注}経済地区で生産された所謂無限に連なる同一同品質を旨とする残像の一つ。厳密に著作権により著作権者と生産会社は持ち分を折半している。100個作れば50づつ折半し合う。したがって作るときは半分づつに出来る個数、つまり偶数個のみ生産することが法定されている。経済地区の生産会社はそれを商品として売り、娯楽地区の著作権者はそれを作品として配布する。

娯楽地区――

 娯楽地区それは名も無き一個の詩であると言えるのではあるまいか……



 そうなんですか?



 経済地区との密接な繋がりを持つ――娯楽地区――であるが、経済とは完全に切り離された、私的でありつつ公衆的なものであるという人間の為すもっとも原初的な活動であると言えよう。彼らは脳内にこびり付く、抽象空間からの発火! 仕事をしながらも、睡眠中に夢を見ながらも、大便時に腸に祈りながらも、あらゆる場所で、見境も無く起こる発火! 閉塞しつつある世界認識に出口を求めるのである。



「よし! やってみよう!」



 かような決意を裡に秘め人々は娯楽地区に集まるのである。また学術地区とも密接な繋がりを持つ――娯楽地区――は、学術と近親的に見詰め合いながら、車の両輪になっている。とは言え、人々は学術地区には籍を置いているだけで、実際に通う者は少なく、逆に娯楽地区はごった返している点では、「貴方、明日の休日は何するの?」という会話に見られるように人口に膾炙しているのは娯楽地区となるであろう。音楽、ダンス、美術、映像芸術、詩、小説、漫画、演劇、演芸、ゲーム、そしてスポーツ……



 娯楽地区それは落城した城に残された古の剣のようなものだな……



 どういう意味ですか?



 サンドバッグをひたすら殴り続ける男の汗が何度も乾いた蒼白い顔、朦朧とした眼。それを被写体にしてファインダーを覗く険しい眼。その構図から導き出された人間存在の何かを散文にしてメモ帳に記述する内部的に後頭を見詰める眼。その後頭を見詰める眼は別の反射として絵筆を取る画家のキャンパスを見詰める眼差しとなる。その一幅の絵を見た漫画家はそれにストーリーを色付けする。そのストーリーは抽出され演劇に取り入れられる。演劇表現をドラマチックに再現したコンピューターゲーム。コンピューターゲームのようにシミュレートされる団体競技。無数のチャンネルを介して競技の実技が居住地区に放映される――エキサイティングな音楽とともに――



「おお、俺は金属皮膚アイアンズに二千マイナスを賭けたぜ」

「強気だな。俺なんて食人野獣ビースツに五千マイナスだ」



「ねえミハル! 今度の『極彩色の点滴液』のライブ観に行くの?」

「ええ? 『極彩色の点滴液』? ダサいわあんなの。やっぱ『南極の古城』よ」



「ここは娯楽地区だ」

「知ってますよ」

「ここはまるでぐつぐつ滾る薬缶の水を冷まして再び火に掛けたみたいだな」

「何故二度同じことをしたのです?」

「知らぬわ!」

「逆ギレかよ!」



 娯楽地区それは大海原に落としてしまった婚約指輪のようなものだ……



 意味が分かりません……



 自転車に乗った鳩――土鳩――が勢いよく犯行現場に滑り込んできた。居並ぶ制服の蛙たち――茶掛かった――は一斉に敬礼する。「は、警部殿」鳩――土鳩――は数瞬だけ羽ばたいて自転車から飛び降りた。「被害者は三十七歳の独身の男。名前は楠々田花男。娯楽地区では(サイドギャザー)と呼ばれ両サイドバックを兼務しているのだそうです。経済地区ではその吸収性の高さを買われ廃棄処理される液体などの媒体として活躍しているそうです。ちなみに役職は課長であるらしいとのこと。学術地区でも勿論、その吸収率の変化を様々な環境下で自らで研究している、曰くゲッティングウェット博士と呼ばれているようですね」部下の報告を聞いて、ふむふむと鳩――土鳩――警部は左右に振れながらちょこちょこと死体の傍を行ったり来たりして考え込んでいる。死体はゲッティングウェット博士なだけあって白濁した液体に塗れている。もうちょっと濡れてきたという状態ではなく、完全に濡れている――濡れ濡れ――なのである。自らの体液なのかはたまた他人のなのか、あるいは体液ではないのか、そんな穿った推理を働かせていた鳩――土鳩――警部であったが被害者の耳にだけ黒い液体が付着しているのを見つけるのは彼より一階級下のもっとも信頼できる部下、ペンギン――まだ毛の生えた――警部補なのである。そう、それは紛れもなく毒殺であったのである……



  小説 土鳩とペンギン――



 批評――この作品の主人公の一人である鳩――土鳩――をあからさまに愚物として描いており現実にそのような役職について頑張っておられる鳩――土鳩――を揶揄しているという批判が起こりうると始めは危惧したが、ペンギン――真竹の生えていない(原文ママ)――警部補との掛け合いが現実にありそうでそこの方により引き込まれてしまった。公衆の作品としても世相を端的に表している。大変楽しく読ませてもらった。この作品の映像化は期待しても良いだろう……



 かくして土鳩とペンギンの作者はお墨付きを得た。彼は人気者の称号を手にするであろう。



 誰も彼も人気者になりたいものだ。大なり小なり、このような野望を抱いて娯楽地区の門を叩くのである。将棋の駒を進めながら、オセロの隅を狙いながら、腕立て伏せをしながら、経済地区の商品を換骨奪胎しながら、他人の作品を模写しながら、壁に向かって話術を磨きながら、ギターを奏でドラムを叩きながら……



 俺が!



 私だ!



 いやアタシよ!



 僕だ!



 娯楽地区それは自ら罰するために鞭打った己が肉体のミミズ腫れのようなものだな……



 何を言ってるのです?



 木々森また娯楽地区では(秘之木男)の愛称で知られる男は、経済地区では自らの上司となる厚井係長また娯楽地区では(チーズインバーグ)と名指しされる男とともに、詩の朗読会に参加する。娯楽地区では経済地区での関係は一切が否定され、経済地区での社会的地位と比して逆に秘之木男の方が多少チーズインバーグより人気者、つまるところ社会的地位がより高いのである。



 今日は洗濯をし、掃除をした後に、入浴をするぞ!



  秘之木男作 決意――



 批評――この作品は作者の好感の持てる人柄が如実に表されている。恐らく抽象世界での問題を具体的な生活の問題に換言し、その固い決意表明が伝わってくる。それは現代で蟻ながら(原文ママ)根本的で非常にプリミティブな決意における叫びだ……



 花が揺れていて綺麗だな。僕はそんな男になりたい。月が蒼白いのは病気かな。病気にはアロエだ。僕はアロエのような男になるぞ。



  チーズインバーグ作 アロエになる――

 

 批評――チーズインバーグがアロエになるとは? 発想には好感が持てるが月なども安易に使って月並みだ。病気にはなんでもアロエを使うという部分も気になる。ところでチーズインバーグがアロエになるとは? そこが黄になって(原文ママ)ならない。それにしてもチーズインバーグがアロエになるとは? チーズインバーグがアロエになるとは……



 娯楽地区それは拉麺の汁を頑張って飲み干した時に現れる細かい麺くずに等しい……



 だから何だというのです?





 太陽風の嵐が吹き荒れりゃ五つのゴンドラを回すんだぜ

 そんなピエロになんてなりたかねえ

 悲しきルーレットの歴史

 昨日までそこにこんなものはなかったはずさ

 聞いて驚くサマーナイト

 俺はお前を知っているんだ

  メイビー…… メイビー……

 凍てつく雲に覆われ闇に閉ざされた牢獄なのかここは

 何も見えねえ何も聞こえねえ

 そこにあるべきものはないのにありもしないものがある

 なんて――ウィンターモーニング

 お前は何を知っているんだ

  オーバー…… オーバー……



  南極の古城 ポール――



 批評――彼らは何かを知っている。そんな予感がこのグループを一躍スターダムに押し上げたのだ。彼らはきっと知っている。そして同時代に枯れら(原文ママ)を知っているということは何と誇らしいことか。



 批評――井守と家守の爬虫類コンビ『ツインズ』は今もっとも熱いコンビだろう。呆けの井守と突っ込みの家守と役割がとても明確である。井守が呆け始めると家守がそこに突っ込んでいくとは、家守は井守の呆けという異常状態に果敢にも突っ込んでいき呆けという異常状態を打破し正常な秩序を取り戻すことを言う。この行為は彼ら自身が見つけ出したあまりにも危険な芸と言え、人知の背後にある何かを追求する行為であるとすら思えるのは決して言い過ぎではないだろう。この度、大放送の彼らの番組が怪死された(原文ママ)ことを大いに喜びたい。宇宙の深淵にまで電波信号に封入されたお笑いが到達し、そしてその電波信号を音声や映像に変換して視聴することまで可能な――その方法は問わない――とにかく――異星人のお茶の間まで届かんことを切に願う……



 批評――深夜に上映された『油揚げ』という映画はよかった。真昼にも上映されることをここに水洗しておこう(原文ママ)……



 批評――すでに著名なプログラマーであるノンマイケルの開発した『蛸足 八つの秘密』は子供心が前面に押し出されている。大人が作った子供の冒険ではなく子供それ磁針が(原文ママ)作ったちょっと大人びた冒険といった風情だ。これなら「ゲームなんてやめちまえよ。外で遊ぼうぜ」という子供すら熱中するだろう優れた作品だ。勿論、大人も熱中するだろう……



 娯楽地区の指標は批評だ。決して姿を現さないクリティックロイドたち。クリティックロイドの批評は的確で、何者も反論の余地はない。その点で絶対的である。



 クリティックロイドの批評は絶対的である――



 そう――クリティックロイドの批評は絶対的なのである――



「お前この前の批評を見たぜ。散々だったな。お悔やみするぜ」

「ふん。そんなお前の方はどうなんだ?」

「生憎だが、月刊いなり寿司の不定期連載が決まったぜ。批評のおかげでな」

「お前にゃ負けたぜ」



 娯楽地区それはどちらかというとドアカバーに似てるよな……



 で?





 これが娯楽地区だ。娯楽地区は例えるならスプーンで掬ったヨーグルトの塊であるといえよう。この酸味の利いたどろどろした発酵食品の塊の中に人々が詰まっているのだ。白く滑らかで汚れのない一塊、それが娯楽地区なのである。さて次は行政地区だ。行政地区とは名前の指し示す通り行政地区をも含めた五つの地区を統括するところである。そこには法があり、この法によって紛れもなく運営されている……

行政地区――


 行政官は古い文献――原本――を読みあさっていた。書庫には古い文献――原本――がほとんど無限にあり、一つの法には関連する法が多岐に渡るばかりか、今も尚指数関数的に膨張しているのだった。行政官は真夜中にそっと一つの原本を始末した。これにより一つの法――船積みの積載量に関しての監督官の位置関係を記したもの――が永遠に失われ、監督官は船積み時の積載量に加えられるばかりか位置関係も不明確になってしまった。その為にまたそれを前提にした法――積載された貨物の監督官による検査――は機能せず監督官は積載された貨物となり監督官は行政地区の持ち物と見なされ、これにより行政地区として毎度、船積み輸送には監督官という決して安くはない運賃を支払わなければならないという状態になってしまった。
 しかし監督官はそれを逆手に取った。食料品なら食べ尽くし、貴金属なら持てるだけポケットに詰め込み、それが布製であれば切り裂き、ゴム製なら焼き尽くし、鉄鋼なら出来る限りで海水を掛け続けた。監督官はあくまでも貨物であり、貨物同士の間で偶発的に起こる事故は第一義的には持ち主がそのツケを払わねばならないのだ。今日も監督官は報告書を読み、部下に指示を出した後、船に乗り込む。しかし、彼はその時点で監督官という肩書きのみの実質を持たない貨物に過ぎなくなる。彼は船荷となり、それにより監督官一人――平均すると六十七キログラム――分の運賃が発生し、その請求書は行政地区に届く。
 出港すると彼は船荷から顔を出し、貨物を調べ回り、出来る限りの損害を与えようと努めるのである。監督官に罪はない。二百年前の法――船積みの積載時における監督官の行動指針としての尊厳に関する――から演繹的に導かれた行動であるからだ。とは言え経済地区から船荷の偶発的事故が相次ぎ苦情が出ている。

 ゴッドロイドがすぐに法案を指示した。

 これにより法――船積みの積載量に関しての監督官の位置関係を記したもの――が新たに出され加えてまた別の新たな法――船積みの積載量として監督官まで含まれてしまった場合の監督官の行動指針――が示されたことでこの問題は永遠に解決されたかに見えた。ところが行政官はその夜も古い文献――原本――を読みあさっていた。行政官は真夜中に一人になった時そっと一つの原本を始末したのである。それは――船積みの積載量に関しての監督官の位置関係を記したもの――の次の章である――位置関係――を事細かに記した法であった。これにより監督官は船積みの積載量に加えられはしないが位置関係は不明確になってしまった。その為に監督官は船荷とはならないものの監督官の――積載された貨物の監督官による検査――は実際には行うことが出来なくなるばかりか、監督官は船荷とはならない密航者となってしまう懸念が出てしまった。懸念とは発見されればの話である。そうなると言い逃れは出来まい。貨物輸送に関する別の人身に関する法律とも抵触する。更に加えて二百年前の法――船積みの積載時における監督官の行動指針としての尊厳に関する――から彼は演繹的に導かれた合理的な行動を行い、 食料品なら食べ尽くし、貴金属なら持てるだけポケットに詰め込み、それが布製であれば切り裂き、ゴム製なら焼き尽くし、鉄鋼なら出来る限りで海水を掛け続けたから、すぐにも発見される監督官であった。それは密航者が行った犯罪の上塗りでありかなり悪質な判断を下さざるを得ないのである。そもそも船荷の際は必ず監督官が乗船するのであって、そのことはまた必ず上記の加害と被害が起こるということであった。そしてこれにより行政訴訟が相次ぐ始末となった。行政地区に籍は置くがあらゆる地区に散在している弁護士が経済地区からの訴訟を指揮した。この裁判は人々の耳目を集め、傍聴席には木々森ナオヤという――人間――の姿も見られた。

「……以上により、行政の怠慢と不手際を鋭く糾弾します!」
「裁判長! 異議あり!」
「被告人! 異議を認めます!」
「この男の言い分は全部が手前勝手なもので到底承服は出来ませんな!」
「それについて原告は何かありますか?」
「何がありますかだって? ここに被害が出ているんですよ! ここですよ全部書いているでしょ!」
「本当だ! 被告人ここに書いてますよ! どうするんですか?」
「デタラメだ!」
「デタラメ? え? そうなの? 原告?」
「何を言ってるんですか! ここに書いてあるしさっき被害者の一団がそれぞれ証言をしたじゃないですか!」
「そうだ。さっき聞いたよ。被害者が語ってくれたよ。被告人?」
「だまれ! 全部デタラメだ!」
「証拠を出しなさい。被告人。僕の心象は原告により傾いているね。99パーセント僕の心の声が被告人有罪と言っているんだぜ」
「貴様! 何様だ! そんな高いところで坐ってないで俺の靴を舐めさらせ!」



 貴様! 何様だ! そんな高いところで坐ってないで俺の靴を舐めさらせ!



 行政訴訟は一審は被告人の敗訴が確定したが、上級審では一転して原告の敗訴となった。ゴッドロイドの行動は素早かったのだ。裁判所の人員はすぐにも差し替えられ、そして一審では被告人として出廷した行政長官が上級審での裁判長となった。



 貴様! 何様だ! そんな高いところで坐ってないで俺の靴を舐めさらせ!



 経済地区と行政地区はかようにして絶えず争いが絶えない。物言わぬカスタマーロイドはゴッドロイドに対して物言わぬ主張を行っているのは周知の事実である。またクリティックロイドはそれについての批評を行う。クリティックロイドの批評は絶対である。これによりカスタマーロイド、ゴッドロイドの双方を牽制している。それにアカデミックロイドは想像を超える発見をし予想だにしない技術を開発することで経済地区、行政地区に少なくない影響を及ぼしている。そしてプライベートロイドはそれを視るのである。ただただそれを視ている。カスタマーロイドとプライベートロイドは奇妙にも似ているがそれは買い物をしている時がカスタマーロイドで家に居るときがプライベートロイドなのかは誰も知る者はいない……
 もしかするとカスタマーロイドはゴッドロイドかもしれずまたクリティックロイドでもあり、またプライベートロイドもまたアカデミックロイドであるという可能性は誰も否定できない……



 貴様! 何様だ! そんな高いところで坐ってないで俺の靴を舐めさらせ!



 さてここまで駆け足で四つの地区について語ったが、そろそろ最後に残った学術地区に行くとしよう。行政地区がまるでスプーンに盛られた原形質でありその中で原始の細胞が増殖を繰り返しながら筋肉組織へと変化し、血流を伸ばし、器官を形作り静かに鼓動を始めているのだとすれば、学術地区は見ようによっては進化しまた見ようによっては退化したゼラチン質の一つの乳白色の物体と言えるだろう……勿論それはスプーンに盛られたものだ……

学術地区――


 第487教室で木々森ナオヤこと鳩の糞取り学士は同じく鳩の糞取り学士である藻々森ショウと共に鳩の糞取り博士である葉々森タクオの講義を受けていた。



「……しかるに鳩の糞取りを志す者は概ね注意力に欠け集中力が持続しない者が多いということは誠に嘆かわしいことです。鳩の糞取りとは一朝一夕に身に付くものではあるまい。私もこうして鳩の糞取り博士などと名乗らせてもらってはいるが十代や二十代の頃の積み重ねがあってこそのものだ。まず第一に肉体の健康があってこそ鳩の糞取りが出来るというものだから皆さんにはまずその辺についてのことを考えてもらいたい。私は十代の頃に今は亡き盛々森博士に弟子入りしてからというものこの鳩の糞取りに精を出して早五十年、様々なことがありました」



 私は十代の頃に今は亡き盛々森博士に弟子入りしてからというものこの鳩の糞取りに精を出して早五十年、様々なことがありました……



 私は十代の頃に今は亡き盛々森博士に弟子入りしてからというものこの鳩の糞取りに精を出して早五十年、様々なことがありました……



 私は十代の頃に今は亡き盛々森博士に弟子入りしてからというものこの鳩の糞取りに精を出して早五十年、様々なことがありました……の言葉は木々森ナオヤの耳にエコーを起こしていた。



 私は十代の頃に今は亡き盛々森博士に弟子入りしてからというものこの鳩の糞取りに精を出して早五十年、様々なことがありました……と葉々森タクオが言ってから五秒の後に第487教室の廊下を走る無数の足音が聞こえる。

「一体何事ですか!?」

 葉々森タクヤはこの日のために三日掛けて拵えた手作りの教科書を片手に持ったまま顔を上げた。

「一体何事だ!」

 藻々森ショウが椅子から立ち上がり叫んだ。

「俺を気になるぞ!」

 天に向かって自らの思いをぶちまけた。そして天を指差し、

「俺は今からそれ見てやるのだ!」

 そう叫ぶと教室を出て行った。そして二秒の後に悲鳴が聞こえた。



「MOU、終わりだヨ、EXTINCTIONなんて言うよね、チミぃ」



 無数のアカデミックロイドに囲まれたゼラチン質。その半透明のゼリー状の内部にほんのりと輝く器官――明らかに脳だ――がありその上に――通常(本来は額にあるべきもの)とは逆に――顔――二つの楕円の目と逆三角形の口のみの――がある。顔――は半透明のゼリー状の内部にあって照明の当たるところでは見えやすいが、少し陰になるとぼやけてゼリーの奥に深く沈んでしまう。顔――二つの楕円の目と逆三角形の口のうち二つの楕円の目は楕円の中に一回り小さな楕円があってこれが瞳であることは推察され色は黒い、逆三角形の口はほとんど動くことはなく色は赤かった。そんなゼラチン質が廊下を行ったり来たりしているのである。そのゼラチン質を無数のアカデミックロイドが、陸上選手がスタンディングスタートをするような格好で見詰めている。凝視している――



「MOU、終わりだヨ、EXTINCTIONなんて言うよね、チミぃ」



 藻々森ショウが廊下に倒れ泡を吹いている。このゼラチン質のあまりの気持ち悪さに卒倒したのだ。後に彼の語るところによれば、

「全く何が起きたのか分からないが、脳味噌がグラグラするような吐き気を覚えて、急に脂汗が滝のように流れてきて、内部から遠くに連れて行かれた」……のだそうである。ゼラチン質を運悪く見た人間の四分一がこのような発作に罹る。

 木々森ナオヤは丁度スタンディングスタートのままピストルの音を待ち受けているようなアカデミックロイドの入り乱れた足の下から藻々森ショウを引っ張り出して壁に寝かせた。

「ルルラぁ~、DOUSE嘘だってんだろ? YES! WE、CAN! YES! YOU、CAN! これあげましょうか? YOU、CAN、GET、THE KEY!」

 このゼラチン質はこう言うと木々森ナオヤにカードキーを手渡した。その時のアカデミックロイドの微妙な動きを見逃してはならない。彼らは一度そのカードキーに振り向いたもののやはりゼラチン質の凝視も怠れないところからの板挟みになり、しばらく小刻みに震えていたのである。そしてゼラチン質の凝視の方がより勝って、再びアカデミックロイドはゼラチン質の凝視に戻った……



「痩せぎすの男め。お前は痩せすぎだ」

「あまり食べませんから……」

「食べないのか? あまり?」

「ええ。ちょっとしか食べないんです」

「聞いたか? ちょっとしか食べないんだってよ」プロフェッサーが居並ぶ助教連中に向かって首を巡らす――お追従の笑い声があとに続く――

「本当はもっと食べたいんですがね」円卓の前に立たされた、痩せぎすの男は、眼を閉じ深く息を吸い込んだ。

「ところで……」プロフェッサーの顔が俄に曇る。

「結構饒舌で、挨拶もしっかりしていて、われわれの研究にも積極的に参加しては新しい発見をしてくれるアカデミックロイドたちの姿が急に見えなくなった。何で急にいなくなるんだ? こんなことが時々ある。これでは研究が滞ってしまうじゃないか」プロフェッサーがこう言うと――周囲から困惑とともにどよめきが起こる――おい、何か言えよ――俺たちがこまっているんだぞ――

「ああ……そのことですね?」

「ああ……そのことですねなんて言っていやがる!」プロフェッサーはそう言うと嬉しそうに電動車椅子――四輪駆動だ――を操ってその場で回転している。遠心力でプロフェッサーの首が仰け反っていた。その時、この格式高い第6789教室をノックもせずにいきなり開ける者がいた。



「違うな。ここも開くようだ……」



 木々森ナオヤは居並ぶプロフェッサー以下助教連中を見渡して、ほっと息を吐いた。プロフェッサーは口を半開きにしてこの闖入者を舐め回すように睨み付ける。血気盛んな助教連中はプロフェッサーの意を汲み取って、肩を怒らせながらゆっくりとこの闖入者のもとに歩み寄っていく。

「『違うな。ここも開くようだ……』と今は君は言っていたよね? 何故開いたら駄目なんだろう。僕は今そこが気になったよ」

 痩せぎすの男の視線が木々森ナオヤ鳩の糞取り学士に飛び、そしてその手に持ったカードキーを捉えた。

「おや? それは?」

「今さっき明らかなゼラチン物質で出来た顔のかわいいやつから貰ったんです。これはカードキーですよね? カードキーに違いないと思ったんです。だから、僕は、この貰ったものを使おうと思って開かない扉を開けようと……ですね……」

「開かない扉はあったかい?」

「それがありません」



「おい!誰だこいつは!」



 木々森ナオヤ鳩の糞取り学士の胸ぐらを掴む助教連中。

「説明しろ」プロフェッサーは円卓の前に佇む痩せぎすの男に向かってこう言う。

「彼は例のゼラチン質からカードキーを托されたのです」痩せぎすの男は深い物思いに沈みながらこう答えた。

「ゼラチン質? 何だそれは?」

「お知りになりたいですか?」

「お知りになりたいですかなんて言いやがったぜ!」

 プロフェッサーは天井に向かって顔を上げ、ふは、と息を吐いて遠い目をした。助教連中も同じように顔を天井に向けて白けたように遠い目をした――また有り難いお言葉かよ――たまには面白い話でもしろよ――あ~あ俺あもう眠たくなってきたぜ――

 痩せぎすの男がゼラチン質についての起源やその正体、何故にアカデミックロイドなどロイドのつく機械人間がゼラチン質に群がるのか、などを説明していると、もはや誰も聞いている人間がいないことに痩せぎすの男は気付いた。プロフェッサー以下助教連中の立てる寝息の音しか聞こえなくなったからだ。いや、ただ一人を除いてと言うべきか。痩せぎすの男が振り向くと扉の前に立ったままの木々森ナオヤ鳩の糞取り学士と目が合ったのである。



「ふむふむ、なるほどなるほど。あのゼラチン質は――人間――のなれの果てという訳なんですね? そしてあのアカデミックロイドなどロイドのつく機械人間は――人間――を利用している点で、彼らに取って不利益な結果をもたらす可能性のある――人間――の進化とは言えずまた退化とも言えそうにない――変化――は見過ごすことの出来ない事態という訳なんですね?」

「君は飲み込みが早いね。君のようなやつばかりに囲まれたら僕の食も進むんだろうにね。そういうことさ。未だに人間なくしてはロイドの存在の意味が見出せないわけさ。笑っちゃうだろ」

「確かに色々真似をしようとしていますものね。ところでこのカードキーは一体何なんですか? 僕はそれが気になって今日は眠れそうにないんですよ」

「次元の狭間さ。向こうのカードキーだから使えないね」

「一体どういうことです? 次元の狭間?」

「未来には――文明――が滅びるんだ。と言っても後百八十二年と二ヶ月二十九日掛かるだろうけど。その時に時空の穴が出来るんだよ。そこからゼラチン質は来るんだ」

「え? 後百八十二年と二ヶ月二十九日で――文明――は滅びるんですか?」

「そうさ。僕もそこから来たからね。知っているんだよ」

「ゼラチンにはならなかったんですか?」

「見ての通りさ。ちょっとだけゼラチンにならなかった人間がいた訳さ。そしてほんのちょっとしかない確率で次元の穴を通ってここに来たんだ。百八十二年と四ヶ月前の過去にね」

「ということはあなたは百八十二年と四ヶ月前の過去に来て、それから一ヶ月ぐらいを経たわけですね」

「全く、君ってやつは飲み込みが早いね」



 ということである。百八十二年と四ヶ月後の未来から来た男は百八十二年と四ヶ月後の知識を持って、一ヶ月ほどで上流階級に溶け込み、特権階級に助言まで行うまでになっていた。しかし、百八十六年十二ヶ月前に飛ばされたあるゼラチンにならなかった女は何もせず、むしろ素性を隠し、何かを見咎められることばかり恐れ――怪しいやつだ――何者だそこの女――過労にして死んだのとは対称的である。





                   *





 その日の午後、木々森ナオヤ鳩の糞取り学士にして(秘之木男)は娯楽地区で緑色のぬるぬるする浴槽――憩いの浴場――にて詩を一筆したためた。



 今日は部屋の隅々まで掃除をしよう、それに黒ずみや黄ばみを綺麗になるまで徹底的に洗濯をするぞ、そうしたら絶対に焼売を食べるんだ!



 批評――大変よろしいと思いました。固い決意が具体的に書かれている。家事労働の後のとっておきの焼売が燦然と輝いているのが、伝わってまいります。現代に桶る(原文ママ)魂の叫びだ……



 経済地区――居住地区――娯楽地区――行政地区――学術地区――



 五つのゴンドラが今日も回っている――



 カラカラと――





 カラカラと……





 カラカラと……





 カラカラと……

























  ……終ワりィ!!!

 

五つの地区の話

五つの地区の話

この世には五つの地区がある。一つ、経済地区。二つ、居住地区。三つ、娯楽地区。四つ、行政地区。五つ、学術地区。 それ以上でもそれ以下でもない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-18

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