僕がどんどん増えていく

プロローグ

 もし、自分が普通の人間ではないと知ったら、どう思う?
 突然、こんな事を訊かれても質問の意味が分からないと思った人がいるかもしれない。僕もそんな質問をされたら戸惑うだろう。
 具体的には、ファンタジーや異能バトルの世界にしか存在しない特殊能力を持っている。人間離れした身体能力がある。致命傷の怪我を負ってもすぐに回復・再生する。人知を超えた知能を持っているなど、人類の脅威となる可能性を持つ存在だった事を仮定している。
 特殊な才能の内容を聴いて羨ましさを抱いた人はいるかもしれないが、そんな事が実際に起きたらマスコミから不必要に注目を集めたり人体実験にされたりして世間から迫害されるのがオチだ。
 そうなったら、真っ当な人生は二度と歩めない。
 僕は一般家庭に生まれ育ち、大学に進学して就職、普通の人は聞いた事もないだろうが、業界内ではそこそこ知名度のある商社に勤めていた。
 きっと、その後も平凡な生活を送り続け、結婚して子供を作って孫が出来て、小さないざこざは起きつつも特に大きな事件や災難に巻き込まれる事は無く、静かに生涯を終えるものだと思っていた。
 あの事件で、一度命を落とすまでは……。

語り部 小柳和仁

 気が付くと、そこは海だった。
 これが正確には海岸にいたとか船の上にいるという意味ならまだ分かるが、僕の場合、意識を取り戻したのは海の中だった。
 海で溺れて意識を失った話はあるけど、海で意識を取り戻した話なんて、ほとんど無いだろう。
 でも、僕が目を開けた瞬間、薄暗い海の中を目の前で小さな魚の群れが泳ぎ、海の底には海藻が揺らいでいるのが見えた。
 スキューバダイビングや海水浴をしに来た覚えはないのに、どうして僕はこんな場所にいるのだろうか。
 そんな事を考えていると、急に息が苦しくなり吐き出した息が大きな泡となって吐き出され、海水が肺の中に雪崩れ込んでいく。
 このままだとマズイ。
 我を忘れて、僕は海面までもがきながら進み、どうにか顔を出すと、大きく息を吸い込んだ。
 大きく息を吸って酸素を取り込んだ事で、ようやく生き返った気がした。
 何回か荒い呼吸をした後、辺りを見渡したが外は陽が沈みかけていた。
 このままだとヤバイと思った僕は、必死にバタバタと身体を動かしながら叫んだ。
「おーい! 誰か、助けてくれー!」
 船が気付いてこちらにやって来ないか、せめて流木が流れて来てくれたらと願ったが、そんな都合の良い展開は起きなかった。
 そんな時、一瞬だが暗い景色が眩しく光った。それは秒間隔で何度も繰り返す。
 何が起きたんだ。辺りを見渡すと、向こうに街が見えた。街の近くには灯台があった。さっきの光はあの灯台からか。あちらに向かえば、陸地に辿り着ける。そう思った僕は暗闇の中を懸命に泳いだ。

 思っていたより距離があったので、泳いでいる途中で力尽きそうになったが、それでも必死で泳いでようやく海岸に辿り着いた。既に空は真っ暗になっていた。
 浅瀬に入ると、僕は息も絶え絶えになりその場にうつ伏せになって倒れ、しばらくそこで休んでいた。
 フルマラソンを走り終えた気分である。いや、ずぶ濡れで全身を動かした分、こちらの方がハードかもしれない。
 しかし、ここはどこなんだ? 場所を知る必要がある。まずは道に出て近くに人がいないか、看板や民家が無いかを探そう。
 でも、その前に少し休まないと。そう思いながら砂浜に寝そべって一休みしようとした、その時だった。再び目の前が眩しい光に包まれた。顔を上げると、その眩しい光が目に入り僕は両手で視界を遮った。
「大丈夫ですか? 声が聞こえますか?」
 相手は僕に話しかけた。
 こんな時に話しかけて来るのは一体誰なんだと思い、僕は腕を少しだけ下ろして相手の顔を見た。
 見えたのは夜間パトロール中のお巡りさんだった。お巡りさんは懐中電灯を持って、心配そうに僕を見つめている。
「あっ、大丈夫です……」
 僕の返事にお巡りさんは目を丸くしながら言った。
「そうですか。こんな夜遅くに素っ裸で海岸に倒れていたので、心配しましたよ」
「えっ?」
 警察官からの質問に僕の目は点になった。まさかと思いつつも身体を起こして首から下を見た。
 陸地へ上がる事に精一杯で衣服の事など全く考えていなかった。
「いや、これは別にそういう性癖があるという訳ではなくて……」
 一気に込み上げる羞恥心のあまり、僕は必死で弁明したが、お巡りさんは苦笑しながら声を掛けた。
「まあ、君には何か事情がある様だから、ちょっと署で話を聴かせてもらおうか」

 お巡りさんから夜中に不審者扱いされてしまった僕は、コートを着せられた後パトカーに乗せられて警察署に連れて行かれてしまった。
 外で全裸の男がこんなところにいたら、そう思われるのも無理は無いが、不審者と間違われるのは非常に不本意である。好きでこんな所にいた訳では無い。
 変な誤解をされて、公然わいせつ罪で逮捕されなければ良いのだが。
 乗車中、お巡りさんが警察署に連絡をしているのを見て、何だか不安になって来たが、運転中のパトカーから飛び降りて逃げる勇気は無かった。
 子供の頃はパトカーに乗ってみたいと憧れたが、こんな形で実現してしまうと素直に喜べない。こんな事が家族に知られたらと思うと、気が重い。どうにか適当に答えて、この場から逃れよう。

 警察署に着くと、別のお巡りさんがやって来て取調室に入った。
 早速、お巡りさんは僕に質問した。
「あなたの名前は?」
「小柳和仁(おやなぎ かずひと)です」
「年齢は?」
「三十三歳です」
「職業は?」
「会社員です」
「今の住所は?」
「東京都八王子市です」
「勤務先は?」
「戸田商社です」
 職業や住所、年齢など個人情報を根ほり葉ほり聴かれた。
「ところで、君はどうして夜に海で倒れていたのかね?」
 お巡りさんは僕が先程海で倒れていた理由について尋ねてきた。
「えっと……気付いた時には海にいたので、辺りを見渡していたら街が見えたので、砂浜まで泳いできました」
 僕の答えに、お巡りさんは軽く驚いたが、すぐに次の質問を出した。
「じゃあ、どうしてあなたは海にいたのですか?」
 その問いが出た途端、僕は返答に窮したが変に黙っていたら誤解されそうなので、ぎこちないながらも言葉を絞り出した。
「すみません。実は僕もどうして自分が海にいたのか分からないのです」
 僕の口から出た答えに、お巡りさんは意外そうな顔をした。
「えっ、分からない? それはどういう事なのですか?」
 お巡りさんに訊かれて僕は理由を説明した。
「はい。確か会社から帰る途中で、突然何者かに襲われたところまでは覚えているのですけど、それ以降の記憶はぷっつりと途切れているんです。それで、気付いた時には海にいました」
 僕の説明にお巡りさんの目と口が少し丸く開くと、すぐ難しい顔で少し考え込んだ。
「どうしましたか?」
 僕がお巡りさんに尋ねると、お巡りさんは僕に告げた。
「小柳さん。悪いですけど、ちょっと相談室まで来てもらえませんか?」
 お巡りさんからの誘いに、僕は尋ねた。
「どういう事なんですか?」
「あなたを見つけたら、すぐさま重要参考人として必ず連れて来て欲しいという命令が出ているのです。理由は、分かりませんが」
 この時、お巡りさんの言葉に疑問を抱いた。
 こちらも理由が分からないとは、どういう事なんだ。何故、その時に深く突っ込もうとしなかったのかと思った。
 それを察したのか、お巡りさんは続けて言った。
「恐らくですけど、署はあなたが事件の重要な鍵を握っていると考えているのだと思います。ただ、被疑者とみなされている訳ではない様です。せめて、話だけでも聞いたらどうですか? あなたが自分の記憶を思い出す手掛かりになるかもしれませんし」
 僕が事件の重要な鍵を握っているだと? どうして、僕の様な平凡な人間がそんな重要参考人に指名されたのだろうか。
 まさか僕が真っ裸で海にいた理由も、その事件に関係しているからだろうか。
 だが、失われた記憶を思い出す手掛かりがそこにあるならと思い、僕は「分かりました」と答えた。

 お巡りさんに案内されて連れて来られたのは、相談室だった。
 中に入ると、応接室の様な広々とした空間があった。照明も明るくソファもある。さっきの取調室で感じた無機質さは無かった。
 お巡りさん曰く、「被疑者と同じ部屋で取り調べを受けると、犯人扱いされた気分になるという苦情あるので、被害者が安心して聴衆出来る様にしている」との事だ。
 ドラマの中では、被害者も取調室で事情聴衆を受けている場面があったが、こちらもそれなりに工夫をしているのだなと感心した。
 お巡りさんは「しばらくしたら刑事が入って来られますので、しばらくお待ちください」と告げると、部屋を去った。
 待つ事数分。相談室のドアが開いた。
 入って来たのは肩より長めの黒髪に黒のパンツスタイルのスーツとパンプスを履いた女性だった。
 年齢は恐らく二十代後半で弟と同年代。顔は凛とした雰囲気で端正な容貌ではあるが、いかにも気が強そうな印象があった。
 女子からは「かっこいい」と人気を集めそうだが、自分を含めた男性社員には敬遠・畏怖されそうな気がする。
「あなたが小柳和仁さんですね」
 女性は初対面かつ年上の僕に対して男勝りな口調で話し掛けてきたが、不思議と憎たらしい印象はなかった。
「はい、そうです」
 緊張した面持ちで僕は答えた。
「私は警視庁南坂警察・刑事部捜査第一課警部補・佐渡真理(さわたり まり)です。よろしくお願いします」
 佐渡さんは自己紹介と共に、僕に警察手帳を見せた。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
 僕もとりあえず挨拶をした。
「ところで、僕が事件の重要参考人になっていますが、どうして僕が選ばれたのですか?」
 すると、佐渡さんは答えた。
「実は昨晩起きたバラバラ殺人事件の件について、私が君を重要参考人にしたからよ」
「えぇっ?!」
 女刑事から明かされた発言に僕は驚愕した。そんな事件現場に居合わせた記憶は僕には全く無いのだが。
 どうにか記憶を思い出してみる。
 確か、僕が会社から帰る途中に突然何者かに襲われて意識を失ったところまでしか覚えていない。まさか、あの時か。
 あの後、荷物を奪われ服を剥ぎ取られ、海に放り込まれたと思っていたけど、違うのか。そもそも殺人事件に関わった覚えは一切無いのだが。
「あ、あの……申し訳ございませんが、そのバラバラ殺人事件と僕に一体何の関係があるのでしょうか?」
「その点について、君に見せたいものがあるからだ。実際に見た方が君もこの先話す内容を信じてもらいやすいですから」
 と、佐渡さんが扉に向かって「出て来い」と話し掛けると。扉が開いた。相手はワイシャツと青のズボンを着た男性だった。
 容姿は仕事疲れした冴えない顔で体格も中肉中背、一際人目を惹きつける美貌はなく、だからと言って周囲から阿鼻叫喚を浴びせられて生理的嫌悪感を持たれる程に不潔で醜い風貌でもなかった。
 だが、それでも僕にはこの男に驚愕せざるを得ない理由があった。
 何と、容姿が僕と瓜二つだったからである。彼の顔を見た時は、目の前に姿見が現れたと一瞬見誤った位である。
「あ、あなたは?」
 僕は思わず、指を差しながら男性に名前を尋ねると、彼は落ち着いた表情で答えた。
「小柳和仁です」
 しかも、同姓同名と来た。
 名前と顔、どちらか一方だけが一致していれば、まだ受け入れられたが、ここまで来ると、もはや違和感しかない。
「そういうあなたは誰なんですか?」
 男性が僕に質問してきた。
「小柳和仁です。あなたと同姓同名です」
「やっぱり、そうですか」
 向こうは、それ程大きなリアクションは無かった。それに「やっぱり」と漏らした辺り、こちらは僕がここに来る事をあらかじめ予測していた様だ。
「あの……佐渡さん、この人は見た目も名前も全く同じですけど、彼は一体何者なのですか?」
 すると、佐渡さんは躊躇する事無く答えた。
「彼はあなたの分身です」
「分身?」
 あっけらかんと出された回答に、僕は思わず聞き返したが、佐渡さんは続けて答えた。
「正確には、増殖したとか再生したと言えば良いのでしょうか?」
 それを聴いて、僕は佐渡さんに尋ねた。
「それって、どういう意味なんですか? 増殖とか再生って。それに、さっき僕の分身とも言っていましたよね。僕と彼がどういう関係なのか教えてくださいよ」
 混乱しながら質問する僕に対し、佐渡さんはもう一人の僕が警察署に来た経緯を説明した。
「今朝、住民から通報がありまして、草むらで人体の断片が発見されました。調べたところ、大腿部の一部である事が分かりました」
「大腿部……太ももですか」
「そうです。最初は、DNA鑑定をして被害者を特定する予定だったのですが、その時に奇妙な事が起きたのですよ」
「奇妙な事?」
「その大腿部が再生したのです」
「再生?!」
 佐渡さんの口から出た言葉に、僕は耳を疑った。
「さ、再生って、それはどういう事なのですか?!」
 奇想天外の事態に慌てながらも尋ねる僕に対して、佐渡さんは淡々とした口調のまま説明を続ける。
「具体的に言うと、細胞が増えて肉の厚みが増していったと言った方が良いでしょうか? その肉片が目の前でどんどん再生していって、身体が出来上がっていきました」
「身体が、出来上がっていった?」
「まぁ、こうして実物を見ない限り、こんな話を信じろと言われても無理な話ですよね。それが一定の大きさまで成長すると、胸板が出来たり手足が生えて来たりして、顔も出来上がっていきました」
「顔まで?!」
 顔が出来上がるとは、どういう事なのかが非常に気になった。目や口が出来たのか。
「あまりの不気味さに失神して倒れた者もいましたが、私が試しに『あなたの名前は、何ですか?』と尋ねたら、あなたと同じ名前を名乗ったのです」
「僕の名前をですか?」
 あんな状況で、よく冷静に尋ねられたものだ。普通は現場が騒然となってもおかしくないのだが。
「そうです。最初は、私も人の身体が急速に再生していく様子にとても驚きましたが、彼が再生を終えた後にすぐさま事情聴取を行いました。その時、彼が『僕以外にも同じ人間がいるかもしれないからマスコミには一切知らせず、見つけたらすぐさま警察署まで連れて来る様、全国の警察官に伝えてほしい』と頼んできたのです」
 なるほど、そんな背景があったのか。正しい判断だな。こんな奇怪な現象が起きた事が世間に知られたら、僕自身も無事では済まないだろう。そうなると、彼には感謝しないとな。
 それにしても、外見が非常によく出来ているな。本当に、僕と同じ人間なのか。
「あの、彼は僕の分身だと言っていましたよね。そうであれば、その証拠に鎖骨のホクロを見せてもらえませんか?」
「ホクロ?」
 佐渡さんが首を傾げた。
「はい。僕には鎖骨に大きなホクロがあるのですよ」
 証拠を見せる為に、僕はコートのジッパーを少し下ろして鎖骨のホクロを見せた。黒のマジックで点を打った様な大きなホクロである。
「彼が本当に僕の分身なら、彼にも同じホクロが付いているはずです」
 僕が話すと、佐渡さんは
「それなら確か彼にもありましたね。あなたも見せてください」
 佐渡さんに言われて、もう一人の僕もワイシャツの一番上のボタンを一つ外して、鎖骨を見せた。そこには、やはりマジックで点を打った様な大きなホクロがあった。位置も全く同じである。
 ここまで一致しているとなると、偶然にしても恐ろしい。
「外見だけが一致しているだけでは、まだ受け入れられないですか?」
 僕の内面を察した佐渡さんがニヒルな笑みで尋ねてきた。
「それじゃあ、次は互いに質問をしましょう。まずは、自分のプロフィールについて尋ね、もう一人がそれに答える。次に答えた側が質問する形にしましょう。まずは、あなたから」
 佐渡さんがもう一人の僕の肩に手を置いた。
「あなたの誕生日は?」
「九月十三日です。血液型は?」
「A型です。あなたの出身地は?」
「神奈川県横浜市です。最終学歴は?」
「横浜国立大学経済学部卒業です。身長は?」
「173cmです。体重は?」
「62kgです。何人家族ですか?」
「五人家族です。家族構成は?」
「祖父と両親、あと弟が一人います。勤務先は?」
「戸田商社です。部署は?」
「営業部です。部長の名前は?」
「佐々木部長です」
 プロフィールも、全て同じだった。しかも、部長の名前まで当てるとは。ここまで来ると、彼は本当に僕の分身だと受け入れるしかなかった。
「それにしても、同じ人間が二人もいるのは、区別に混乱がありますね。何か分かるものがあれば良いのですけど」
 佐渡さんは、腕組みをしながら僕達を見て考え込んだ。しかし、すぐさまポンと掌を叩いた。何か閃いた様だ。
「ならば、こうしましょう。最初に見つかった方が小柳1、次に来た方が小柳2だ。呼び名は1番、2番で良いですね」
 佐渡さんは、僕と彼を指差しながら命じた。本人は名案と言わんばかりに満足気である。
 先程の彼が1番、僕が2番か。
 それを聴いて、1番が恐る恐る手を上げた。
「あ、あの……非常に申し訳ないのですが、番号で呼ばれるのはちょっと……」
「僕もそう思います。せめて、アルファベットはどうですか?」
 僕も小柳1と共に異議を申し立てた。
「ダメです」
「「えぇっ?! どうしてですか?」」
 佐渡さんからの拒否に僕と彼の反応がシンクロした。
「仕方ないでしょう。アルファベットだと、二十六人までしか数えられませんから。その点、番号なら幾らでも数えられるでしょう」
 ダメ元で抗議したが、敢え無く却下された。理由は分からなくも無いが、囚人みたいな呼び方で素直に受け入れる事は出来なかった。
「では、今度は私からの質問に答えてください」
「し、質問?」
 突然のフリに僕と1番は戸惑った。
「別に、深いところは訊きませんよ。例えば、どこで意識を取り戻したかとか、どうやって警察まで来たかを説明してもらうのです。互いの情報交換は必要ですからね。じゃあ、今度は2番から話してもらいましょうか」
 佐渡さんの独断な進行で、僕達は質問に答える事になった。
「2番はどこで意識を取り戻しましたか?」
「僕が意識を取り戻した時は、海にいました」
「それは、船に乗っていたという意味ですか? それとも海岸にいたとか?」
「文字通り、海の中です。あの時は、溺れていましたから」
「陸までは、どうやって辿り着きましたか?」
「向こうに陸地が見えたので、自力で泳いできました」
 それを聞いて、佐渡さんと1番はやや驚いた様子だった。
 僕自身、学生時代はともかく今の運動神経は抜群とは言えないけど、あの時は生命の危機にあった事もあり、ただ必死だった。
「警察署までは、どうやって連れて来られましたか?」
 それを訊かれて、僕は回答を躊躇った。
 海を泳ぎ切って砂浜で丸腰の状態で倒れていたところをパトロールしていたお巡りさんから変質者扱いされて、突然ここまで連れて来られたと答えるのは、たとえ自分の分身と刑事さんが相手であっても抵抗があった。
 そこへ、1番が追い打ちを掛けて来た。
「何か、答えられない様な事でも、やらかしたのですか?」
 鋭いところを突くな。さすがは、僕の分身。きっと、佐渡さんも僕が警察に連れて来られた経緯を知った上での質問に違いない。
 とはいえ、やっぱり本当の事を話すのは抵抗があるので、1番に「どうしても気になるのでしたら、後でお巡りさんに詳細を聴いてください」と煙に撒いた。
「それでは、次は1番が答える番です」
「あなたはどこで意識を取り戻したんだ?」
「僕は、手術台の上でした」
「そうでしたね。では、手術台の上で意識を取り戻す前の記憶はありますか?」
「途中で何者かに襲われて、意識を失ったところで終わっています。事件に遭遇した時の記憶はあまりありません」
 やっぱり、彼も同じか。とはいえ、あの時はまだ増殖していなかったのだから当然か。
「自分の身体が、みるみると再生されていく感覚はどうでしたか?」
「正直、ゾッとしました。再生が終わった後も、あれは夢だったのではないかと思っています」
 確かに、そう思うだろう。怪我で出来た傷が日数を掛けてゆっくりと治癒されていくならまだしも、身体がみるみると急速に再生されていく様子を間近で見たら、多分僕でも恐ろしいと思う。
 僕は1番に質問した。
「その後、何か人体実験や解剖を受けましたか?」
「今のところは何も」
 それを聴いて安心した。まだ、再生を終えてから時間が経っていないからだろうけど、現時点では無事の様だ。
「それで、今後の生活はどうするのですか? 同じ人間が何人もいる事が世間に知られたら大きな騒ぎになるのではないでしょうか?」
 僕の質問に、佐渡さんが答えた。
「それもそうですね。では、1番は私と一緒に捜査に協力してくれませんか」
「えっ、僕がですか?」
「そうです。元は1番が自分達の分身を回収する様に求めてきたのですからね。それに捜査をしていくうちに、お前の分身が他に見つかるかもしれないでしょう」
「そ、そうですよね。でも、住まいはどうするのですか? まさか、拘置所に入れるとか」
 小柳1は、不安を感じつつ佐渡さんに質問した。
「心配はいりません。容疑者ならともかく、それ以外の人間を牢屋に入れる程、私も非情ではありませんよ。警察署に道場があるので、あそこを使うと良いです。ただ、他の警官はあなた達の体質を知っていますからね。あなたが容疑者でないと頭では分かっていても、怪しまれたり好奇の目で見られたりする事は避けられないでしょう。その辺は覚悟してください」
 佐渡さんから釘を刺されたが、小柳1は「分かりました」と返事した。
「それで、僕はどうすれば良いのですか?」
 僕は佐渡さんに尋ねた。
「2番は自宅に帰れば良いです」
「えっ?」
 まさかの帰宅である。
「帰宅って、本当に自宅に帰って良いのですか?」
「当然です。それに突然、人が失踪したら自分の家族や会社に迷惑が掛かりますし変に怪しまれるのも困るでしょう。それとも、今の生活に何か不満でもあるのですか?」
「いえ、全くありません!」
 いくら事件に巻き込まれた事で特異体質を知ったとはいえ、今までの平穏な日常生活を捨てる訳にはいかなかった。
「じゃあ、僕は警察に住み込みで捜査に協力する。2番は自宅に戻って普通の生活を送るという事になるのですか?」
「はい。もし、新たな情報が手に入ったらあなたにも連絡します。時々、あなたも来ると良いでしょう。それと、もし2番も何か情報があったら、こちらに連絡してください」
 と佐渡さんは胸ポケットから名刺を取り出して、それを僕に渡した。
「分かりました」
 僕は名刺を受け取った後、小柳1に「頑張ってください」と声援を送って別れを告げた後、警察署を後にした。

 自宅に帰るついでに新しいスマートフォンを買おうとしたが、生憎殺された時に荷物ごと財布を奪われていたので、後日改めて行く事に決めて自宅に戻った。
 時間は夜十時を回っていた上に明日も仕事があるので、味噌汁とお茶漬けを食べて風呂に入ったら寝間着に着替えて、さっさと寝ようと思いながら台所に向かった。
 早速準備をしようと、冷蔵庫からちくわを取り出し、包丁で食べやすい大きさに切る。
「痛っ!」
 ちくわを切る最中に、痛みが走った。すぐさまちくわを抑えていた左手を見ると、指に切り傷が入っていた。誤って指を切ってしまった。
 そんな時、佐渡さんと小柳1の話を思い出した。
 まさか、こんなところからでも僕の分身が現れるとでも言うのか。
 自身の特性は、僕の分身である小柳1の存在や佐渡さんの発言からして本当だと思われるが、僕自身は小柳1とは違って実際に自分の身体が再生していくところは、まだ目の当たりにしていない。
 果たして、自分にもそんな特性が本当にあるのだろうか。
 そう思いながら僕はその傷をジッと見つめた。すると、驚くべき事が起きた。
 先程まであった指の傷が目の前でみるみると薄れていき、あっという間に治癒されていったのである。時間も十秒と掛からなかった。
 傷が入った指を手で触っても、痛みは全く感じなかった。まるで、さっきの怪我など最初から無かったかの様に。
 あれは単なる錯覚だったのか。
 恐怖に震えつつ、試しに包丁で自分の手を切る事にした。さすがに切断となると、僕の分身が新たに生まれる可能性があるので、傷を入れる程度に留めた。
 包丁の刃で左の掌に恐る恐る赤い線を引く。痛みは伴ったが、これくらいは大した事ではない。問題はそれ以降だ。
 傷を入れ終わった後、僕はその傷をジッと見つめた。
 すると、先程まで引かれていた傷が目の前でみるみると薄れていき、あっという間に修復されていったのである。時間も十秒と掛からなかった。
 手を閉じたり開いたりしても、全く痛みは感じなかった。
 今度は左腕に無数の傷を入れた。先程とは違い、乱暴に何本も深く傷を切り込む。
 もし、こんな光景を他の人に見られたら僕が狂ってしまったと思われるだろう。
 もう十分と言える程に傷だらけになって出血した左腕をしばらく見つめた。
 すると、それらも瞬く間に修復されて傷口が薄くなって、一分も経たないうちに腕の傷は治ってしまった。
 治癒されて元通りになった腕を手で触って確かめたが、こちらも傷の痛みは全く無かった。
 僕は、その様子に唖然とした。
 まさか、自分にこんな特性があったなんて。
 三十三年間、今まで平穏に生きてきたと思っていたのに、何故自分はこんな異質な特性を持っていた事に気付かなかったのだろうか。
 僕はこの異常事態に、ただ茫然とするしかなかった。
 でも、こんな特異体質が周囲に知られたら、大変な騒ぎになるに違いない。何としてでも、この秘密は守り通さなければならない。
 一体、自分の身に何が起きたのか、どんな事件に巻き込まれたのか、僕を殺した犯人が誰なのかを知る必要がある。
 一刻も早く、この事件を解決しなくては。

語り部 小柳和仁1

 小柳2と別れ、警察署に残る事になった僕は、事件解決の間、警察署にある道場で暮らす事になった。
 正直、自宅に戻りたい気持ちもあったが同じ人間が二人もいたら、周りが混乱するという理由で拒否されるだろう。
 双子の兄弟と言って誤魔化す事も考えたが、バレたら意味が無い。
 僕の役目は、事件の捜査に協力する事だ。素人の僕がどこまで出来るかは分からないが、出来る限り力になりたいと思う。
 小柳2と別れた翌日、僕は佐渡さんから相談室まで呼び出された。
 佐渡さんは僕に質問した。
「確か、小柳さんは仕事から帰る途中で何者かに襲われたそうですが、どの辺りで襲われたのかは覚えていますか?」
「えっと、確か駅から降りた後だと思います。会社までは電車通勤ですが、駅までは徒歩でしたから」
「では、駅からどの辺りで襲われたのかは覚えていますか?」
「確か、アパートが見えた辺りだったと思います」
「だったら、そこから実際に歩いてみますか」
「えっ?」
 まさかの提案である。でも、もう一人の僕が会社に行っているのに僕が外に出て良いのだろうか。
「実際に現場付近を歩けば、記憶を思い出す事が出来るかもしれないでしょう」
「でも、どうやって外に出るのですか? アパートの近くを歩いていたら、近所の人から怪しまれるでしょう」
 実際、アパートの住人や近所の人達は僕の事を知っている。会社を出た筈の人が真昼間に近くを歩いていたら、間違いなく「会社はどうしたの?」と訊かれるだろう。
「そうでしたね。だったら、これを貸してあげます」
 佐渡さんから渡されたのは、焦げ茶髪のウィッグとサングラス、白い帽子が入った紙袋だった。
「これって……」
「いわゆる変装セットです。これを着ければ近所の人からは怪しまれずに済みます」
 なるほど。簡素ではあるけど、すっぴんで出歩くよりかはマシだろう。
「でも、大丈夫なのですか? 周りから怪しまれる心配とか無いのですか?」
 休日ならともかく、午前中に人が歩いていたら怪しまれる可能性があるに違いない。
 不安げな僕に佐渡さんはドンと胸を叩いた。
「心配なら私が付いて行ってあげましょう」
「えっ? 良いんですか?」
「何の為に警察がいるのですか? それに現場検証も捜査の一つですから」

 という訳で、普段乗る駅からアパートまで佐渡さんと共に歩きながら、当時の記憶を探っていく事になった。
 現場では、既に警察官が現場検証をしていた。
 ちなみに、駅からアパートまで到着する時間は徒歩で十五分。時間としては、大したものではない。
「事件当日、電車が駅に到着した時間は予定通り十八時五十分で、電車の遅れは無かったな」
「はい。帰る途中に店に寄る事無く真っすぐアパートまで歩いていました。その間に襲われましたね」
「という事は、殺害された推定時刻は十八時五十五分から十九時五分頃か」
 佐渡さんは僕の証言をメモに記録していく。
「で、肝心なのは殺害された場所が……」
 空き地が目に入った瞬間、突如ある光景が浮かび上がってきた。
「……っ!」
 それは一昨日僕が何者かに襲われた瞬間だった。
 僕は突如道路で膝をついてしまった。
「1番、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……」
 僕は、眩暈を起こしつつもどうにか返事をした。
「この辺りですか。小柳さんが襲われた場所は」
「……多分、そうだと思います」
 僕は頭を押さえながら答えた。
「では、襲われたのは空き地で良いな」
 佐渡さんは再びペンでメモを取った。
 そこへ、ある人物が近付いて来た。
「誰だ、アンタは?」
 振り向くと、そこにいたのは目つきの悪い長い金髪の男性がいた。
 同じアパートに住む青年・三鷹圭介である。
 三鷹は目つきと柄が悪く、同じアパートの人間だけではなく、アパート近くの住人からも恐れられていた。
 僕自身も彼との交流は出来る限り控えており、万一出くわした時は無言で会釈する程度に留めている。
 今のところ住民とのトラブルは起こしていないが、暴力団との付き合いがある、学生時代に総勢百人を病院送りにしたという噂がある。
 さすがに、これらの噂は尾ひれが付いたものだと思われるが、学生時代は不良だった事は間違いないと思っているので、僕も含め周りは敬遠している。
 そんな男が僕に何の用だ?
「アンタ、105号室の小柳か?」
 鋭い。早速、僕の正体を見抜いた。
「い、いえ、違います! 僕は田中と言います」
 正解したとはいえ、あっさり認める訳にはいかないので、慌てて嘘を吐いたが、三鷹さんは「ふーん」と言いつつ僕を訝しんだ。相当怪しまれている。
「で、警察がこんな所で何をやってるんだ?」
 三鷹さんが僕に顔を近付けながら尋ねる。強烈な圧を感じる。
 僕が躊躇していると、佐渡さんが間に入ってきた。
「申し訳ございませんが、その辺については詳しくは言えないのですよ」
 佐渡さんが言葉を濁した回答をした。
「まさか、一昨日起きた傷害事件の事か?」
 もう既に知られているのか。いや、近所で事件が起きたなら知らない方がおかしいか。
「ところで、この近くで何か不審な人物は見かけましたか?」
 佐渡さんからの質問に、三鷹さんは「それならあるな」と答えた。
「最近、この辺で不審な人物がうろついているらしいんだ」
「不審な人物?」
「目撃した人の話だと、全身黒づくめの服でをキャップ帽を深く被っているそうだ」
 そう言えば、そんな話が出た事があった。
 事件に遭う数日前に不審人物の情報があり、近隣の人達は十分に気を付ける様に注意を呼び掛けていた。
 大事な事なのに、すっかり忘れていた。
 思わず、「そうでしたね」と返しそうになったけど、それを口にしたら怪しまれるので「そうなのですか」だけに留めた。
「分かりました。貴重な情報、ありがとうございました」
 佐渡さんは頭を下げながらお礼を告げた。
 三鷹さんと別れた後、僕は佐渡さんに尋ねた。
「ふぅ、危うくバレるところでした」
「まぁ、確かに。私も一時はどうなるかと思いました」
 佐渡さんも、突然のピンチが過ぎ去って安堵していた。
「もしかして、あの人が僕を殺したんじゃ……」
「いや、それは無いですね」
 佐渡さんは断言した。
「どうしてですか? あの人はすぐに僕の正体を一発で見抜いたじゃないですか!」
「あれは元々観察眼が鋭いだけでしょう。もし、彼が犯人だったら、小柳さんと見抜いた時に動揺しているはずですが、彼にはそれが一切ありませんでした。殺した筈の人間が生きている事を知ったら、多少の動揺は見せますからね」
 そういう事か。一発で正体を見破られたので焦ったが、こちらの勘違いだったか。僕が一度殺されている事は公になっていない。現在、この事を知っているのは僕と警察と犯人だけだ。
「じゃあ、さっき三鷹さんが近所で不審人物がいたと言っていましたけど、その辺はどうなのですか? そういった情報は警察も既に把握しているのではないでしょうか?」
「いや、そうでもありません。情報は届いてはいるかもしれませんが、掲載となると話は別ですね。ああいうのは、具体的な状況が無いと掲載しない事になっています。最近では、子供に挨拶したり学校を眺めたりしていただけで不審者扱いされた事例が増えていますからね」
 言われてみれば、確かそんな話を聴いた事があるな。挨拶したり学校を眺めたりしているだけで通報されたりしたら、やられた方はたまったものではない。
 いくら犯罪が増えているからとはいえ、ほんの些細な言動で怪しまれて通報されてしまうなんて、何とも世知辛い世の中になったものだ。
「じゃあ、その不審人物が僕を襲った犯人である可能性も低いという事なのでしょうか?」
「いえ、その可能性はまだありますね。犯人が事前に現場を下調べしていた可能性もあります。でも、もし彼が犯人なら小柳さんが生きている事を知った時に再び君を殺しに現れるに違いありません」
 それを聴いて、僕の背筋は凍り付いた。
 殺した筈の人間が生きていたら、相手が確実に死ぬまで何度も現れるのは間違いない。でも、恐らく彼は僕の体質をまだ知らない。もし、犯人がその事を知ったら、どう動くのか。
「安心してください。そうならない為に我々警察がいるのですよ。これ以上、被害を出す訳にはいきませんからね」
 佐渡さんが僕の内面を察して、励ましの言葉を投げられて、僕は少しだけ安堵した。

語り部 小柳和仁2

 佐渡さんの指示で、会社員として元の日常生活を送る事になった僕。
 もう一人の僕、小柳1には申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、家族や会社に迷惑を掛ける訳にもいかないので、いつも通り出勤する事にした。
 当初は、周囲から怪しまれるのではないかと思っていたが、カレンダー機能付きの時計で日付を確認したところ、日付は三月十三日となっていた。つまり僕は一昨日の三月十一日の夜に殺されて、翌日に再生して警察署に連れて行かれたのか。
 つまり、会社には一日だけ無断欠勤をしていたという事になっている。
 周囲から怪しまれない様に出来る限り自然に振る舞った。でも、満員電車の中でも他の乗客と目が合うと、緊張が走った。
 事件後の出勤では、佐々木部長から「昨日は何をしていたんだ?」と心配されたが、「一昨日の夜、会社から帰る途中、不審者に襲われて意識を失いましたが、警察に助けられたので無事です」と理由を告げた上で、無断欠勤で心配させてしまった事を部長含め社員に謝罪した。
 かなり内容をぼかしているが、被害届は出しているし嘘は吐いていないので大丈夫だろう。
 席に着いて、僕が朝の準備をしていると、若い男性社員が話しかけて来た。
 僕の後輩・峰倉一幸(みねくら かずゆき)である。
「小柳さん、大丈夫ですか? 昨日、会社に来なかったし連絡も無かったので心配しましたよ」
「あぁ、心配させて済まなかった」
「部長からも聴きましたよ。一昨日の晩、誰かに襲われたそうでしたけど、大丈夫でしたか?」
「あの時は大変な思いをしたけど、警察に被害届は出しているから大丈夫だよ」
 僕の返答に峰倉は安堵の息を漏らした。
「そうですか。てっきり、城崎さんから恨みを買って事件に巻き込まれたと思いましたよ」
 城崎――その名前を聞いて、僕はふと彼の顔を思い出した。
 城崎勤(しろさき つとむ)。僕と同期入社で先月退職した男性社員である。
 彼は、俳優と見紛う程の端正な容姿と歯切れの良い営業トークで、かつては営業成績トップを誇っており、上司からは次期部長候補と目され、女性社員や後輩にも人気があった。
 ところが、二年前。今までの営業成績は中間くらいで時にノルマギリギリだった僕が大手企業の部長から気に入られた事がきっかけで、営業成績が飛躍的に向上した。
 その部長はとても社交的な人で、僕の事を周りに広めてくれたからである。トップを取った時は部長にお礼を告げ、今でも友好な関係を築いている。あの人には今でも本当に感謝している。
 だが、中には僕の躍進を快く思わない人もいた。
 それが城崎勤である。今まで営業成績トップを誇っていた彼は、その座を僕に奪われた事に悔しさを露にして、以来何かと僕を目の敵にして、親しい女性社員に小言を言ったり僕に嫌味をぶつけたりしてきた。
 さすがに雑用を押し付ける、僕のデマを周囲に流すなどの嫌がらせはしてこなかったが、それでもたまに僕を睨みつける事があった。
 もちろん、彼自身も業績を上げてトップに返り咲こうと頑張ってはいたけど、それ以降もなかなかトップ奪還を果たせず、焦るあまり次第に営業成績は下がり、ノルマを達成出来なくなる月も増えていき、二ケ月前に会社を去って行った。いわゆるリストラである。
 現在、彼がどうしているかは知らないが、まさか彼が僕を襲った犯人なのか。
「城崎が? 確かに、何かと僕を目の敵にして迷惑はしたけど、そこまで強い恨みを持っていたのか?」
「小柳さんが謙虚すぎるからですよ。ああいうタイプの人が自分より良い結果を出すと、自分のプライドが傷付くものなのですよ!」
「そ、そう……なのか?」
「そうですよ。あの人は今まで営業成績がトップである事を誇りに思っていましたから二年前まで大した成績を出していなかった小柳さんに負けた事が、未だ納得がいってなかったのですよ!」
「そんな事言われてもな」
「そういう鈍感なところが余計にダメなんですよー! 自分の実績を鼻に掛けて調子に乗るのも良くないですけど、城崎さんの様なプライドが高い人には、小柳さんの謙虚さがかえって癪に障るのですよ。小柳さんが会社に来なかった時は、『城崎さんが小柳さんを襲ったのではないか』と職場で噂になっていたくらいなんですから!」
 後輩に鈍感と言われたが、別にそこまで人の機微に鈍くは無いと思っている。
 今まで当たり前だと思っていたポジションが、他の人に奪われてしまって悔しいと感じる彼の気持ちも分からなくは無いが、だからと言って僕に一方的な敵対心を抱くのはお門違いである。
 実際、あれ以降もトップ奪還どころか後輩にも追い抜かれていたじゃないか。
 なのに、何故僕ばかりに噛みつくのか理由が全く分からなかった。何か恨みでも買う様な事でもしたのか?
 僕には城崎の考えている事が全く分からなかった。

「そんな事があったのですか」
 昼休み。会社用の携帯電話から佐渡さんの電話番号に掛けて、今朝の出来事を話した。
「恐らく城崎さんには奢りがあったのでしょう。今までトップを走り続けて周囲からも称賛されていたのであれば尚更です」
「それで、城崎さんが僕への恨みから犯行に至った可能性があるという事なのでしょうか?」
「確かに、仕事をクビになった恨みで犯行を企てた話はよくあります。中には職場に直接殴り込んで事件を起こした話もあります」
 企業に殴り込むなんて、何だかヤクザやテロリストみたいな話だな。
 でも、それが実際にニュースになった事があるのだから余計に怖い。集団で乗り込んだり銃や爆弾を持ち込んだりしないだけ、まだマシなのかもしれないけど。
「では、城崎さんの事を警察の方で調査してもらえませんか?」
「分かりました。もし、分かったら報告します」
「ところで、そちらの方はどうですか? 何か進展はありましたか?」
「アパートの住人から数日前にあなたのアパートの近くで不審な人物がいた話を聴きました」
「不審人物?」
「何でも黒づくめの服を着た男だそうです」
「そういえば、そんな話がありましたね。警察の方はどうなのですか?」
「こちらでも調べましたが、特に具体的な被害報告はありませんでした。単にアパートの周辺をうろついていただけでしょう」
「そうですか……」
「だが、もしその不審者を見かけたら気を付けてください。また、あなたを襲って来る可能性がありますから」
「はい」
「あと、現場の記憶を探る為に駅からアパートまで歩いていたら、1番がフラッシュバックに襲われました。2番もそうなる可能性が高いので、帰り道には気を付けてください」
「分かりました」
 そう返事をすると、電話を切った。

 仕事を終えて会社を出た後、携帯ショップで新しいスマートフォンを買った。
 なお、身分証明書は社員証で、支払いは別の財布にあったクレジットカードで一括払いした。ようやくスマートフォンが手に入り、安堵しながら駅に向かった。
 何だか周りで色々と不気味な事が起きているなと思いつつ、それでも誰もが平然としている。どんなに物騒な事があっても世の中は勝手に回っているんだなと思った。
 そんな中、黒い服を着た男性の姿が見えた。
 隣には派手な服に身を包んだ若い女性がおり、彼女から何かを手渡されると、それを鞄に仕舞って、女性に手を振ってその場を去って行った。
 その時に微かに見えた顔には見覚えがあった。
 僕はその男性に近付き、彼に声を掛けた。
「城崎さん?」
 僕の呼び掛けに対し、男性は振り向いた。
 かつての端正な容姿は以前と比べてやつれており、髭も伸びていた。だが、顔つきは当時のままだったので、すぐに分かった。
 男性は僕を見た瞬間、すぐさま目を背けてどこかへ走り出した。
「待ってください!」
 僕は男性の後を追った。だが、意外と向こうは足が速く、なかなか追いつかない。それでも、何とか彼を追いかける。
 男性は人込みの中をかき分けて、追う途中で女性の小さな悲鳴が聴こえたが、会釈だけして標的を追いかけていった。

 追いかけて辿り着いた先は、雑居ビルにある事務所だった。窓に張られたシールには、『ファイナルファイナンス』という文字が書かれてあった。
 まさか、城崎は……。
 嫌な予感をしつつ不安になった僕はこっそりと二階の階段を上って行った。
 向こうに気付かれない様に、ドアをこっそりと少しだけ開けた。そこから微かに見えたのは、城崎が黒いスーツを着た男を中心に派手な服を着た男達が城崎を一斉に囲んで威圧している様子だった。
「これで、良いでしょうか?」
 机の上に置いてある札束を見て、直感した。恐らくあれは先程女性からもらった金だ。
「ダメだ、まだまだ足りねぇな」
 男性は冷たく突き放した。
「どうしてですか? もうこれで全部じゃないですか」
 城崎は男性に反発した。
「利息があるだろ、り・そ・く・が」
 男性は厳しく利息を強調する。
「利息だって、もうたくさん払ったでしょう。これ以上、払ったらもう自己破産するしか……」
 それを聴いた男性が机を強く叩いた。それを見た城崎だけではなく、覗いている僕も一瞬身が震えた。
「おい。てめぇ、今の自分の立場を分かって言っているのか?」
 男性は城崎に顔を近付けて睨みつけた。
「もし、これ以上返せないと言うなら、多額の保険金を掛けて、東京湾に沈めてやるぞ」
「ひいいいいいいいっ! それだけは!」
 それを見て、僕はいてもたってもいられずドアを完全に開けた。
「城崎さん!」
 ドアを思い切り開くと、まさかの来訪者に事務所内にいた人達は一斉にこちらへに視線を向けた。
 突然の事態に室内の空気が一変した気がするが、すぐさま城崎が咄嗟に僕を指差した。
「そうだ。彼を連帯保証人にするのはどうでしょうか?」
「えぇっ?!」
 突然の事態に、僕は混乱した。
「城崎さん、幾ら借金が支払えないからって、いきなり店に来た人を勝手に連帯保証人にするんスか? 幾ら何でも、相手が可哀想でしょ」
 闇金の社員らしきチンピラ風の派手な服を着た男性が、至極真っ当な返しをしながら睨みつける。
 当然だ。気になって追いかけて来たとはいえ、入ったところでいきなり連帯保証人にされるのは溜まったものではない。
「ちょっと、何ですか。急に?」
 僕は城崎に問い詰めるが、城崎が手で僕の口を封じた。
「この人は小柳和仁と言いまして、かつて僕と同じ会社に勤めていた営業マンで、僕なんかよりも優秀な成績を取っているんです! だから、僕に万一の事があっても返済してくれます」
 城崎はこちらの都合を完全に無視して一方的に話を進める。
「無理ですよ。そんな!」
 当然、僕は断固として反対したが、再び手を強く抑えられた。
「まぁ、それくらいにしておけ」
 と、黒い立派なスーツを着た社長らしき人が従業員を宥めた後、社長は僕に向かって話し掛けた。
「お前、さっきウチの店に入って来た時、コイツの名前を呼んだだろ。という事は、少なくともお前達は顔見知りなのだろ」
 しまった、そこまで聞かれていたのか。
 いっそ、「すみません、人違いでした」と誤魔化して逃げた方が良かったのだろうけど、半グレを相手に威圧されてしまい嘘を吐く余裕は無かった。というか、下手に嘘を吐いて逃げたところで後から何をされるか分からなかった。
「……は、はい」
 怖気づいた僕が正直に答えると、社長らしき男性はニヤリと笑みを浮かべた。
「だったら、ちょうど良い機会だ。お前、コイツの連帯保証人になれ」
 突然の社長から発せられた言葉の意味が全く分からなかった。
「何でですか?!」
 僕は理不尽な展開に反論した。
「俺達は闇金だ。借金を返済させる為なら手段は一切選ばない。さすがに見知らぬ他人から返済は催促しないが、そうでないなら話は別だ。城崎(コイツ)の言う通り、お前がトップ営業マンならそれなりに金はあるんだろ?」
 理屈は通っているが、道理が破綻していた。無茶苦茶な理由だ。
「……もし、断ったら?」
 僕の質問に社長は城崎の首にナイフを突きつけた。
「その場合は、コイツの命は無い」
 相手の良心に付け込んだ脅迫か。別に親しい友人では無いので(そもそも、人を勝手に連帯保証人にしようとする奴を僕は友人とは呼ばない)、いっそ見捨てようかと思ったが、やはり目の前で人の命が奪われるのは気分が悪い。
「そんな事をしたら、もう城崎さんからお金を返してもらう事は出来ないのでしょ。そうなったら、あなた達も困るのではないですか?」
 本気で顧客の命を奪おうとしているのではないと思い、追究した。
「安心しろ。そしたら、後からお前にも保険金を掛けて、一緒に沈めてやるから」
 やはり、見捨てたところでこちらの身の安全の保障は無いのか。別に、沈められたところでどうって事は無いのだが。
「やめてください」
 僕はチンピラの脅迫を止めさせようとしたが、彼はすぐさま僕の顔にナイフを突きつけた。刃が僕の頬をかすめた。僕は反射的に傷口に手を当てた。
「ほぅ、やはり放っておけないか」
 チンピラはにやりと笑った。
 頬には傷があり、血が出ているかもしれない。でも、これくらいの傷は痛くも痒くもない。
 頬の痛みが引くと、僕は患部に当てていた手を下ろした。
「何だ、コイツ? どうやって治したんだ?」
 突然の治癒にチンピラはぎょっとした。さっき掠めた筈の傷が治癒された事に動揺している。
 だが、ここで引き下がらず、今度は僕の腹部に屈強な拳をお見舞いしてきた。
「ぐはあっ!」
 顔面を殴られて、唾を吐き出してしまった。一歩間違えれば吐血ものだった。その時、体の内部で何かが粉々に破損する音がして、その場に倒れた。
 だが、すぐに立ち上がった。
「何?! さっきの一撃でアバラ骨が粉々に折れた筈なのに。コイツ、バケモンか?!」
 やられっ放しでいる訳にはいかないので、こちらも腹部に蹴りを入れた。
「ぐっ!」
 相手は痛がったが所詮素人なので、相手は一歩後ずさんだだけだった。だが、すぐさまチンピラから思い切り蹴り飛ばされて、僕は壁に激突して、床に倒れた。
 その隙に従業員は集団で攻撃を始めた。集団から一斉に殴られたらもはや抵抗は出来ない。もはや両腕で必死に頭を守るしかなかった。
 しかも、中には事務所の椅子で攻撃してくる人もいた。すっかり反撃するだけの気力は無くなっていた。
「フン、手を煩わせやがって」
 店長は僕が動かなくなった事を確認した。
「店長、コイツどうしますか?」
「決まっているだろう。アイツが先に襲ってきたんだ。こんな男にメンツを穢された事が知られたらたまったもんじゃねぇ。今からコイツを始末する」
 抵抗出来なくなって憔悴しきった僕にとどめを刺そうと、店長はポケットから銃を取り出して三発くらい発砲した。銃口から放たれた鉛弾は僕の心臓や頭部に入った。
「後始末は任せた」
 店長の言葉を読み取った社員は、僕を始末しようとした時である。
 僕はゆっくりと立ち上がった。
「何、コイツまだ生きていたのか」
 先程まで、余裕を見せていた店長の表情から焦りが露になった。
 当然だ。退治した筈の相手が突然立ち上がって来たのだから。
 まだ意識が朦朧とするが、突如喉の奥から異物が込み上がってきた。それを手に吐き出すと、そこには体液に塗れた弾丸があった。
 おかげで、喉はすっきりした。僕はそれらを敵に見せつける形で床に捨てた。
 そして、恐怖のあまり息を飲むチンピラを相手に、僕は集団暴行の仕返しとばかりに、机に置かれていた重量のある灰皿でチンピラの頭を思い切り殴りつけた。
 敵は「ぐあっ!」と鈍い声を頭部から血を出して、その場で白目を向いて伸びた。
「ヤバイ。お前ら、ここは一先ず退散だ」
 予想外の事態を眼前に、半グレ達は恐れをなして気絶した仲間を背負い、店から逃げていった。
 従業員がいなくなり、もぬけの殻同然となった事務所の中に残ったのは僕と城崎だけとなった。
 僕は城崎に目を向けた。
「く、来るな! こっちに近付いて来るな!」
 城崎は先程の事態に腰が抜けてしまって逃げる事が出来なくなり、その場でズボンから尿を床に漏らしてしまっていたが、それでもなお、抵抗を続けていた。
 良い歳をした男が失禁するという醜態に溜息を吐きたくなったが、事態が事態なので彼の肩にそっと手を置いた。
「安心してください。仕返しはしませんから。その代わり、何で僕にあんな事をしようとしたのか教えてくださいよ」
 それを聴いて、城崎は観念して理由を語り始めた。
「……借金をしていたんだよ」
「それはもう分かってます。でも、何で借金をしていたのですか? それに突然僕がやって来たからと言って勝手に連帯保証人にする事はないでしょう」
「何だよ! お前だって僕が退職した時に、後輩に僕の小言を言っていた癖に!」
「小言?」
「そうだよ! 僕がお前からトップの座を奪われたあの日! 峰倉に言っていただろ!」
「言っていただろって、何をですか?」
「別にトップに拘る必要なんてないとか、そんなに焦らなくても良いって言ってたんだよ! それが出来たら苦労しないし、今まで築き上げて来た僕の実績を完全にぶっ潰してさ! 部長になる日も近いと言われて、マンションまで購入したのに!」
 何となく発した言葉が彼の心を傷つけていたなんて。でも、それを言い出したらキリが無い気がするけど。
 あと、借金はマンション購入が原因か。目標間近と思い込み調子に乗って購入したのだろう。
 元々彼は見栄を張る傾向があったから、理由を訊いても「やっぱりか」と思っただけで、さほど驚きはなかった。
「でも、お前がトップになってから全てが狂ってしまったよ。どうにかトップの座を奪還しようとしたけど、空回りするばかりでちっとも上手くいかなくて、客も離れていくし、いつしか後輩にまで先を越されて、給料も下がって、上司からも愛想を尽かされて、会社をクビになってから支払いが出来なくなって他の金融機関からも断られて、しまいには闇金に頼らざるを得なくなったんだよ」
「それで、女性を口説いてお金を貰っていたのですか?」
 僕が尋ねると、
「あぁ、そうだよ! そうしないと、こっちの命が危ないんだよ! 悪いか!」
 トップ陥落から退職の話を悲壮たっぷりに語り終えた後、完全に開き直った。
「十分に悪いですよ。いくら命が危ないからって、犯罪に手を染めたら本末転倒でしょう」
「うるさい! 元はと言えば、お前がトップを奪わなかったら、こんな事にはならなかったんだ!」
「じゃあ、もし僕が連帯保証人の件を断って見捨てていたらどうするつもりだったのですか?」
 僕が強く問いただすと、城崎は何も答えずただそっぽを向けるだけだった。
 全く、呆れてものが言えない。
 彼のピンチに駆けつけた自分が馬鹿に思えてきた。こんな事ならさっさと見捨てて家に帰った方が良かったのかもしれない。
 だからと言って、このまま放っておくのも後味が悪いので、僕は深い溜め息を吐きながら、スマートフォンを操作した。
「分かりましたよ。でしたら、あとはこちらで相談してください」
 僕はネットで検索して見つけた借金専門の弁護士のページの画面を城崎に見せた。
「ここで弁護士に相談すれば、借金の事もどうにかしてくれると思います。それと警察にはちゃんと自首してください」
 城崎は不貞腐れた顔はしていたけど、今回の件で懲りた様で「分かったよ」と素直に従ってくれた。
 別に親しい仲でも無いしロクでもない男ではあるが、このまま落ちぶれられて終わるのは僕の心証が良くない。
 それに、かつては同期の僕も常に自信に満ち溢れていた彼を少しだけ羨んでいたんだ。これを機に、立ち直って欲しかったからである。
 彼が、また以前の様に前を向けたらと思う。

 城崎さんの一件が解決して、電車に乗って帰路に向かった。おかげで、時間は夜七時半を回っていた。
 先程、佐渡さんから別ルートで帰った方が良いと言われたので、少し遠回りにはなるが、普段とは違うルートで帰る事にした。
 何だか新鮮な気分になる。
 そう思っていた時だった。突如、目の前に黒い人影が現れた。
 佐渡さんから聴いた黒い服の男は城崎じゃなかったのか。まさか、僕が生きている事を知って、襲い掛かって来たのか?!
 どうにかその場から逃げようとしたが、恐怖に慄くあまり足が竦んでしまって逃げる事が出来なかった。
 それでも、黒い影はゆっくりと僕に近付いて来る。
 このまま殺されるのか? 恐怖が僕に迫って来た時だった。
「キャーッ! お化けーっ! 誰かー助けてー!」
 突如影の方から女性らしき悲鳴が響き渡った。僕は突然の事態に慌てふためいた。
「お、落ち着いて下さい。僕ですよ、僕。お化けではありません」
 僕がどうにか女性に駆け寄って、彼女を落ち着かせた。
「あっ、あなたは……」
 その女性の顔を見て驚いた。目が暗闇に慣れて徐々に姿が見えてきて、現れたのが顔見知りの人物だったからである。
 その正体は、短い髪の若い女性――一年前から僕と同じアパートに住んでいる吉澤美和子(よしざわ みわこ)さんだった。
 吉澤さんは僕の顔を見るなり、すぐに気付いた。
「あっ、すみません。驚かせてしまって」
「いえいえ。こちらこそ、驚かせてしまってすいませんでした」
 驚いたのはお互い様なので、お互いとりあえず詫びた。
「ところで、吉澤さんはどうしてこんな時間にいるのですか? もう仕事はとっくに終わっているでしょう」
「テレビを見ていたら、小腹が空いちゃってコンビニに行こうとしていたのです」
 吉澤さんは少し苦笑いを浮かべながら理由を説明した。それは彼女が手に持っていたビニール袋を見て分かった。
「そうですか」
 そこへ吉澤さんが続けて言った。
「それにしても、ちょっと顔が青ざめていますけど大丈夫ですか?」

 顔色が悪い事を指摘された事を受けて、僕は吉澤さんに勧められて、僕達は近くの公園のベンチで一休みする事にした。
 僕が吉澤さんを不審者と見間違えた件について話すと、吉澤さんは「驚かせてしまってすみません」と苦笑しながら再び謝った。
 僕はそこで一昨日遭った被害について打ち明けた。
 吉澤さんは、愚痴交じりの僕の話に、時折驚きつつもきちんと聴いてくれた。
「そうなのですか。襲われた上に服や貴重品を奪われて海に放り込まれてしまったなんて、それは大変でしたね」
「はい、あの時は本当に大変でしたよ。気付いた時は海で溺れていて、死ぬかと思いました。しかも、陸に辿り着いたかと思ったら、警察から不審者扱いされたのですから」
「でも、無事に生きて帰って来られたのだから良かったじゃないですか。警察も書類送検で済んだのでしょう」
「えぇ、まぁ」
 本当は事情が異なるのだが、それを打ち明けたらややこしい事になるので伏せておいた。
「ところで吉澤さんは最近、近所に現れた不審者について何か知っていますか?」
「えっ?」
 吉澤さんは、きょとんとした。もしかして、忘れているのかもしれない。
「実は数日前に、不審者が現れていたという話があったでしょう。確か、黒い服を着た男性だったと聴いていますけど、吉澤さんは何かご存知ですか?」
 すると、吉澤さんは少し考えた後、
「ごめんなさい。私はまだ見ていなくて」
 と申し訳なさそうに答えた。
「いえ、謝る事ではないですよ。見ていないのであれば別に良いです」
「でも、お互い見ていないのであれば、もう現れる事は無いですよ」
「そうなのですか?」
「はい。不審者が現れたと言われても、実際に他の人が見掛ける事ってあまり無いじゃないですか。でも、もしまた不審者を見たらすぐに連絡しますから」
「分かりました」
 重大な手掛かりは得られなかったが、吉澤さんに励ましてもらえたおかげで少しだけ気持ちが楽になった。

 僕は吉澤さんとアパートの前で別れて自宅に戻ると、佐渡さんに再び城崎の事を話した。
「なるほど。そんな事があったですか。こちらでも城崎について調べましたが、さっき小柳さんが話した通り、彼には多額の借金がありました。何でも、ブランドの品やマンションの家賃の支払いがかさんでいた様です」
「それはもう本人から直接聴きました。あの後、彼はどうなりましたか?」
「彼なら、今晩署に出頭しました」
「それなら良かったです」
 城崎も僕からの言いつけを守ってくれた。彼もけじめを付けたのだろう。
「ところで、帰り道はどうでした?」
「一応、別ルートで帰ったのですけど、不審者らしき人が現れましたが、実際はアパートの住人でした」
「それなら良かったです。でも、その後も誰かに付きまとわれる様ならまた帰宅ルートを変えた方が良いでしょう」
「分かりました」
 そう言うと、電話を切った。

語り部 小柳和仁1

「ねぇ、あれが噂の増殖男?」
「本当だ。生で見るとは思わなかった」
「でも、身体がすぐに再生したり増殖したりするなんて、何だかホラー映画みたいな話だよね」
「これ、間違いなく大森さんから狙われるんじゃないの?」
「分かるー! あの人だったら、絶対に喰いつくよね!」

 刑事やお巡りさん達がひそひそと僕の話をしているのが聴こえた。
 本人には聴こえない様にしているつもりなのだろうが、明らかに声が漏れていた。
 警察署での生活を始めて二日目。
 既に佐渡さんから忠告されていたとはいえ、僕の存在は既にお巡りさんや刑事さん達の間で噂になっていた。
 周囲は僕を見る度に、じろじろとこちらを見てくる。
 食堂で昼食を取る時もトイレに入った時も、周囲の視線は一斉にこちらを見つめて来る。突き刺さった視線に耐えかねた僕が、不満げな顔で向けると、皆罰が悪そうな顔で目を逸らすが、これでは全く気が休まらない。
 いつもマスコミに追われている有名人も、きっとこんな気持ちだったのではないかと想像する。
 そんな気が抜けない日々を送っている中、更なる追い打ちを掛ける様に厄介な人物と関わる事になるのであった。

 それは僕が佐渡さんから呼び出しを受けて会議室までの廊下を歩いていた時だった。
 突如、顔に液体を浴びせられた。それにしてもこれは一体何なんだ? 色も無いし臭いもしないが水か? と思っていたら、突如濡れた箇所が溶け始めて発熱し始めた。
「うああああっ!!」
 僕は痛みのあまり、顔を手で抑えながら床の上をのたうち回った。それでもどうにか液体を落とそうと、よろよろと立ち上がって近くに手洗い場が無いか探そうとした。
「安心したまえ。君の再生能力なら、たとえ濃硫酸を吹っ掛けられてもすぐに治るよ」
 突如怪しげな声が聞こえたと思ったら、先程まで熱が籠っていた痛みは次第に引いていった。
 その後、手を下ろしてもう一度自分の顔を触ると、どこにも痛みを感じなくなった。
 顔を見上げると、目の前には白衣を着た男性が立っていた。
 黒縁の眼鏡が特徴的で、ボサボサとした艶の無い黒髪で頬も若干痩せこけている。年齢は三十代半ばくらい。漫画や映画に出て来るマッドサイエンティストを絵に描いた様な風貌で、いかにも胡散臭い雰囲気が漂っている。
「フフフ、やっぱり噂は本当だったんだねぇ。まさか、フィクションにしかない様な異能を持った人に巡り合えるなんて、まさに生まれた時代が良かったねぇ~」
 男性は不気味な笑い声を上げながら先程まで僕がのたうち回った様子を見て楽しんでいた様だ。立派な嫌がらせだ。
「誰なんですか、いきなり硫酸を吹っ掛けて来たのは!? 一体何の嫌がらせなんですか! 僕じゃなかったら、大火傷になっていましたよ!」
 僕は謎の科学者に向かって、怒鳴る様に文句をぶつけた。
「ごめんごめん。君の噂を聞いたら、居ても立ってもいられなくなってね、是非君にお会いしたいと思ったのだよ。ちなみに、硫酸は再生の噂が本当かどうかを調べる為に用意しただけだよ」
 科学者は悪びれる事も無く、理由を告げた。
 それにしたって、いきなり硫酸を吹っ掛けられたらたまったものではない。
「私はこういう者だ」
 男性は僕に名刺を差し出した。
『科学警察研究所・研究員 生物室 大森賢一(おおもり けんいち)』
「科学警察研究所……科警研の人だったのですか」
「そう。科警研を舞台にしたドラマがシリーズ化されているから名前くらいは聴いた事があるだろう。私の職場・科警研とは、科学捜査についての研究・実験、これらを応用する鑑定・検査、犯罪防止や交通事故防止等の研究・実験を行っている施設だ」
 科警研を舞台としたドラマは僕も見た事はあるけど、犯罪防止活動もしていたのか。意外である。
「ところで、君は署内に拾われてからすっかり注目を集めているね。もはや警察署の有名人だよ。どこに行っても注目されるなんて、全く羨ましいねぇ。フフフフフフ」
 不気味な笑いを浮かべる大森さん。
「有名人って……別にあなたが思っている程、羨まれてはいませんよ」
 実際は、悪目立ちに近い存在だ。スターが浴びる黄色い声援は全く無い。
「それで大森さん、何の用事なんですか? これから捜査会議に出席するので、手短に済ませてもらいたいのですけど」
 すると、大森さんは本来の目的を僕に告げた。
「君には、私の実験に協力して欲しいのだよ」
「実験?」
「そう。君の体質は人類に希望をもたらす可能性がある。こんな特異体質を活かさないのは非常に惜しい」
 大森さんは、もっともらしい事を告げて僕を誘いかけるが、答えは決まっている。
「無理ですよ。僕はあくまで捜査に協力するのが目的でここにいるのですから。それに僕の身体を研究したところで、特に捜査や事件解決には繋がらないでしょう」
 幾ら自分が特殊な体質とはいえ、人体実験をされるのは真っ平御免だ。
 それに、こういう人は何か、いかがわしい非人道的な実験をしてきそうな気がする。そうなったら、幾ら不死身とはいえ、身体が幾つあっても足りない。その前にメンタルがやられてしまいそうである。
「そうか。それなら、しょうがないなぁ」
 僕の答えに大森さんは、がっくりと肩を落とした。
 意外とあっさり折れてくれた。もっと、しつこく迫って来るかと思ったけど、案外話が通じるのかもしれない。
 と思った瞬間、突如不気味な笑いを浮かべたかと思いきや、突如腹部に何かを押しあてられると同時に全身に電撃が流れる様な強烈な痛みが駆け巡り、意識が途切れて目の前が真っ暗になった。

「ん、ここはどこだ?」
 意識を取り戻し、どうにか身体を起こそうとしたが、動けなかった。
「大森さん、これは何の嫌がらせですか? というか、さっき諦めたんじゃなかったのですか?」
 僕は大森さんに問い詰めた。
「しょうがないとは言ったけど、諦めるとまでは言ってないよ。それに、これは嫌がらせじゃない。君の身体は人類に希望をもたらすかもしれないから、是非私の研究に協力してもらいたいだけなんだよ」
 大森さんは白衣のポケットからスタンガンを取り出して、電流を流した。さっき喰らった衝撃は、あれだったのか。
「それに、もし君が抵抗したら、またスタンガンで気絶させれば良いだけの話だからね、フフフフフ……」
 だったら、せめてこんな強硬手段を取らずに丁寧にお願いをしてもらいたいのだが、こんな男に礼儀や常識を求めても無駄な気がした。
 寧ろ、彼は常識に従う事を嫌い、目的の為なら他人の都合など考慮しない気がする。
「さーて、まずは定番のメスから始めようか。中身はどうなってるのかなー?」
 大森さんは興奮冷めやらない表情で、拘束されて身動きが出来ない僕の胸にメスを入れようとした。
 その瞬間、突如ドアが力強く開いた。
「1番!」
 声の主は、佐渡さんだった。良かった、助かった。
「全く、あなたが時間通りに来ないと思ったら、こんな所に拉致されていたのですか」
「こんな所って、どうしてここが分かったのですか?」
「先程、大森が1番を背負って運ぶところを他の署員が目撃していました。その後、車に乗って走り去って行ったので、慌てて後を追いましたよ」
 すると、先程の声が聴こえたのか、大森さんが戻って来た。
「あっ、真理ちゃんか。君も研究室に遊びに来たのかね?」
「遊びに来たのではない。私は1番に用があるのだ」
 普段はキツくも一応丁寧な言葉遣いで話す佐渡さんだが、乱暴な口調に変わっている。
「おや? 君は小柳くんを番号で呼んでいるのか。囚人みたいな呼び方をするんだね。仕事熱心で正義感が強いのは良いけど、事件の重要参考人を囚人扱いするなんて、惨い事をするねぇ。これだから職場で腫物扱いされ……って痛いよ、真理ちゃん!」
 嫌味を言った事が彼女の癪に障ってしまった様で、大森さんは佐渡さんから思い切り足を踏まれた。それなのに、踏まれた本人は何故か悦んでいる様に見える。
「全く、人をからかうのも大概にしろ。このイカレ科学者! それに小柳さんを番号で呼ぶのは同じ人間が複数もいると厄介だからナンバリングをしているだけだ。囚人扱いしている訳ではない」
「相変わらずキツイ態度だなぁ、真理ちゃんは。これだから、彼氏が出来ない……って、待って! 胸倉を掴んで拳を構えるのは止めて!」
 こればかりは、さすがの大森さんも慌てた。表情だけだと笑って誤魔化している様に見えるけど、下手したら佐渡さんに殴られてもおかしくない勢いだと思う。
「あんまり人をからかうんじゃない。それと、私の事はちゃん付けではなく佐渡警部補と呼べ。それと、どうして1番を拉致した?」
 佐渡さんの鋭い尋問に、大森さんは答えた。
「あっ、それはね。彼の体質は人類に希望をもたらす可能性を秘めているからだよ。彼の身体を研究すれば、素晴らしい期待が寄せられるに違いない」
 大森さんは尤もらしい事を言って釈明した。
「確かに彼の特異体質には私も驚いたな。あれを利用すれば再生医療などにも活用出来るかもしれない。上手くいけばノーベル医学賞受賞だって夢ではないかもしれないな」
 言葉だけだと大森さんに賛同している様に聞こえるが、表情と口調はまだ険しいままだった。その証拠に拳を下ろしていない。
「だが、それは建前であって、本当の目的はお前の知的好奇心を満たす為の実験道具にしたいからではないか?」
 佐渡さんは容赦なく大森さんを問い詰める。
「ピンポーン♪ やっぱり勘が鋭いなぁ、佐渡警部補は……ぐふぅっ!」
 直後、佐渡さんから顔面に思い切り拳を喰らってそのまま吹っ飛ばされた。眼鏡が割れていないか、顔に痣が残らないか心配だ。
「捜査以外の目的で実験に使うんじゃない。しかも、相手は人間だ。私用で人体を弄ぶお前に、とやかく言われる筋合いは無い」
 佐渡さんは大森さんを叱ったが、それでも相手が引き下がる様子は無かった。
「でも、彼の身体を研究すれば、特殊警察や公安警察、マル暴の駒として使えるかもしれない。それにもしかしたら彼の体質を悪用する連中だって現れるかもしれない。その時に私の研究が大いに生かせるかもしれないだろう。それは君達刑事部にとっても十分メリットになるんじゃないかい?」
 殴られたにも関わらず、未だに気味の悪い笑みを崩さない大森さんの物騒な言葉に、佐渡さんは手を下ろして深い溜め息を吐いた。
「分かった。そこまで言うなら仕方ないな」
 あの佐渡さんが遂に観念してしまった。
 もはや、手に負えないと判断したのだろう。
「その代わり、実験で出来た分身達の世話は全て自分でやれ。あんまり増殖されたら我々も手に負えないからな!」
 佐渡さんに釘を刺され、大森さんは
「やっぱり話が分かるねぇ。佐渡警部補は」
 とにやついた。
「だが、今は捜査会議があるのでな。人体実験をするなら、せめて捜査会議が終わってからにしてくれ」
 と断って、僕の腕を引っ張って研究室を出た。

 科警研を出て警察署に連れ戻された僕は、捜査会議に出席した。
 会議室には、刑事さんの他に椅子に座っている人物が四人いた。
 そこに座っていたのは、刑事ではなく僕の分身だった。しかも、左の胸元にはそれぞれ3、4、5、6とマジックで書かれた名札がある。
「あの……佐渡さん。あの人達は一体誰ですか?」
「彼らはあなたの分身です」
「それは分かっています。でも、どこで拾ったのですか?」
「それは、後で話します」
 僕は空いていた椅子に座ると、佐渡さんは『会社員バラバラ殺人事件』と書かれたホワイトボードの隣に立った。
「さぁ、予定より少し遅れてしまったが捜査会議を始めよう。まずは三月十二日午前六時四十分1番の大腿部のみの状態で発見された。その後の同日午後八時五分に2番が海岸で倒れていたところを警官に拾われた。そして三月十三日3番が下水溝で、4番が川岸で、5番が池で、翌十四日に6番が路地裏で見つかり、それぞれ保護した」
 自分が頼んだ事とはいえ、もうこんなに分身が集まっているのか。近場だから見つかるのも早いか。
 特に、下水溝や路地裏で意識を取り戻した当初は相当な鼻を摘まみたくなる程の臭いを放っていたのではないか? 後で風呂に入ったのか、もう臭いはしていないけど。
「これらは今のところ全て都内で発見されている」
「バラバラ殺人で遺体が各所に遺棄されているとはいえ、他の遺体がどこにあるかは分からない」
「あともう一つ、別のバラバラ遺体が発見されました」
「もう一つ?」
「実は今朝、右手が発見されたのです。手や指の太さから二十代女性の遺体と思われますが、被害者の詳細は明らかにされていません」
「この件について、佐渡さんはどう思っているのですか?」
「私の推理では、犯行の手口が同じだったから恐らく同一人物による犯行と考えています。もしかしたら、小柳さんや被害女性の他にも被害者がいるかもしれませんね」
 つまり犯人は連続殺人犯である可能性があるのか。だとしたら、何の目的でそんな事をしたのかが気になる。
「それと、これらの遺体はどれも異なる場所で発見されています。この事から複数犯の可能性があります」
「どうして、そんな事が分かるのですか?」
「単独犯の場合、証拠隠滅を狙うなら遺体を細かく切断してトイレに流すとかゴミ袋に入れて捨てて遺棄する事が多いです」
「なるほど」
 考えてみれば、解体した遺体をわざわざ一人で各所に遺棄するのは手間が掛かる。だったら、まだ佐渡さんが話したやり方の方が合理的である。
 だとしたら、複数犯の可能性が高い。
 でも、そうなった場合、一体何人いるんだ? あと、僕はそんなに大勢の人間を敵に回す様な真似をしたのか? もし、裏で半グレが関わっていたとしたらどうする? 色々な可能性が頭の中を駆け巡った。

 捜査会議を終えて会議室を出ると、分身達に声を掛けた。
「お疲れ様でした」
 僕の挨拶に彼も「お疲れ様でした」と返した。微笑しているところも僕と同じだ。
 2番と会った時もそうだったけど、やっぱりこうして自分の分身と顔を合わせるのは少し緊張する。
「すみません。こんなおかしな事件に巻き込んでしまって」
「いえいえ、それはあなたも同じでしょう。それに佐渡さんから聴きましたよ。あなたが自分の分身を見つけたら必ず署まで集めてもらう様に指示したのですよね」
「随分と大きく買ってもらっていますね。あの時は、自分達の身の危険を感じたので」
 僕は思わず照れ笑いした。分身が相手とはいえ、褒められるのは照れ臭い。
「ところで、皆さんはこれからどうするのですか?」
 僕の質問に、3番が答えた。
「僕達は佐渡さんから、1番と一緒に事件の捜査に協力して欲しいと言われています」
「そうなんですか」
「1番さんはどうなのですか?」
「僕は、捜査協力の他に、科警研にも呼ばれていまして、これからそちらに行かないといけないのですよ。ハハハハハハ……」
 僕が苦笑しながら、説明した。
「科警研? そんなところに呼ばれているのですか?」
 僕が苦笑しながら答えると、他の分身達が興味を持ち始めた。
「いや、科警研と言っても実験材料にされるだけで、別に君達が羨む程では……」
 僕はしどろもどろになりながら説明するが、彼らはますます興味を示して、僕に質問をしてきた。
「具体的に、どんな事をされるのですか?」
 それを言われて、回答に詰まった。「人体実験」が答えだけど、それを口に出したらドン引きされるのではないか?
 そんな時、僕の中で悪心がよぎった。
 もし、彼らを身代わりにすれば、あの恐ろしい人体実験から回避できるのではないか?
「なぁ、せっかくだから君達も科警研に行ってみないか?」
 そこへ、先程の会議の片付けを終えた佐渡さんが会議室から出て来た。佐渡さんは、先程、科警研の話題で盛り上がっていた僕達を見た。
「何を盛り上がっているのですか?」
「ちょっと科警研について話をしていたのですけど、皆から興味を持たれまして」
 僕の話に、佐渡さんは僕を訝しんだ。
「あのですね。科警研の話で盛り上がるのは良いですが、大森さんの実験材料として扱われているのは、あなただけです。人体実験にされるのが嫌だからと言って、他の連中を巻き込まないでください」

 いっそ他の分身を代理にしようかと考えたが、佐渡さんに一蹴されてしまい、渋々科警研に足を運んだ。
 大森さんの実験室に戻ると、早速手術台に寝かせられ、手足を拘束された状態で実験が始まった。大森さんは僕の腕に麻酔を打った後、腹部にメスを入れた。
 麻酔を打たれたおかげで痛みは無いが、目の前で身体をいじくり回される感覚は酷く違和感があった。
 治療の為に手術を受けるのであればまだしも、目の前でただ内臓を掻きまわされるのは不快だ。
 この後も、血液を採取されたり薬物を投与されたり色々な事をやらされると思うと、憂鬱になってくる。
 それらも実験が終わった後には、見事に再生・治癒されてしまうのだろうけど。
 ちなみに、実験で出来た分身の処遇は全て大森さんが責任を持つ様にと佐渡さんから言われている。彼らが何とも憐れに思えてきた。
 僕以上に惨い人体実験を受ける事にならなければ良いのだけど。
 そんな事を思っていると、大森さんは僕の腹部を開いて覗き込んだ。
「ほぅ、内臓自体は普通だねぇ。心臓も正常に動いているし、特に具合の悪い箇所も無い。さすが、無限の再生能力を持っているだけの事はあるねぇ」
 どうやら、僕の内臓は健康な様だ。これが健康診断で医者から言われた言葉だったら安堵しているが、今の状況からして素直に喜べる気分にはなれなかった。
「内臓の再生能力は、どんなものかな?」
 大森さんは僕の内臓を掻き回した。
「うああああっ!」
 内臓に刃物を入れられて、僕は大きな悲鳴を上げた。
「おや、もう麻酔が切れてしまったのかな? じゃあ、もう一本打つか」
 大森さんは僕の腕にもう一本、麻酔を打った。すると、先程まで感じた痛みがだんだん引いていった。
 どうやら、僕の治癒能力は麻酔の効果も無効にしてしまう様だ。
「おぉっ!」
「どうしたんですか?」
「心臓に傷を入れてみたけど、みるみると再生されていく。あらら……今度はさっきの傷口まで塞がれていっちゃって」
 内臓にも再生能力がある他、腹部の傷も治癒されている様だ。
「ほぅ、私が先程入れた傷が見事に修復されてしまった。これは凄い」
 大森さんは僕の治癒能力に感心していた。
「それじゃあ、次は血液検査をしようか」
 大森さんは注射器を取り出して、僕の左腕に注射器を刺した。そこから血液を吸い取ると、試験管に入れた。
「もし、これで再生したら以前の血液検査ではどうしていたのかね」
「そんな事、僕は知りませんよ」
 ちなみに血液検査の結果は常に異常なしだった。
「もしかしたら謎の研究施設で君の代わりに、実験台にさせられていたりして」
「可愛い子ぶりながら、物騒な事を言わないでください!」
 良い歳をした男性が人差し指を盾ながら裏声で話すので、とても気味が悪かった。
 大森さんは血液が入った試験管を眺めながら尋ねてきた。
「それにしても、君の身体は本当に不思議だねぇ。どこで、そんな体質を手に入れたのかな?」
「別に……僕の再生能力は後天的なものではありませんよ」
「およ? そうなのかい? てっきり、治験で怪しい薬を飲んだのかと思ったよ」
 僕の答えに、大森さんは意外そうな顔をした。いつも不気味に笑っている彼も、そんな表情をするとは珍しい。
「怪しい薬を飲む度胸はありませんよ」
 ちなみに、本来治験とは新薬の効果と安全性を調べる為のものであって、決して怪しいものではないそうだ。とはいえ、効果や安全性が明確でない薬を飲むのは、やっぱり抵抗がある。
「じゃあ、自分は他の人達と違うと思った事は無いのかい?」
「違うと思った事?」
「そう。例えば、病気に全く掛からなかったとか怪我の治りが他の人よりも早かったとか。特に、子供の頃は上手く身体を動かせなくて怪我をする事がよくあっただろう? それに君は学生時代にスポーツをしていたそうじゃないか。その辺から考えれば何か心当たりもあるんじゃないのかい?」
 それを言われると、返す言葉が無かった。心当たりはあったからだ。
 自分で言うのもなんだが、僕の記憶で大きな病気や怪我をした事は無かった。
 元々、運動神経も良かったし、手先も非常に器用だったので、怪我とはほぼ無縁だった。
 高校時代もサッカー部に入っていた、と言っても、先輩からの強引な勧誘に根負けして入部する形だった。
 でも、いざボールを蹴ってみたら自分でも驚く程意外と早く上達してしまい、1年の冬には全国大会にまで出場してしまい、以後はエースと称される様になった。
 とはいえ、やはり練習はハードだった。ボールを追いかけているうちに身体がぶつかり合い、時に転倒する光景も見られた。
 僕自身も練習試合で相手の身体がぶつかって転び、膝を思い切り擦りむいた事があった。
 すぐさま保健室に運ばれて手当てを受け、保健室の先生からは「怪我が治るまでの間、絆創膏に触れない様に」と注意された。
 だが、家に帰って風呂に入ると絆創膏がお湯でふやけてしまって剥がれ落ちてしまった。
 後で新しいものに貼り変えようと思ったら、怪我をしていたのが幻だったかの様に膝のすり傷は綺麗に消えていた。
 当初は怪我の治癒に違和感を持ったが、時間が経つうちに忘れてしまった。
 思えば、あの時に自分の異常性に気付くべきだったのかもしれない。
「どうやら、その辺の心当たりはある様だね」
 反論出来なかった僕の表情を見て、大森さんはにやりと笑った。
「最初は、プラナリアが人型に進化したものかと思っていたけど、君には家族がいる。もしかしたら、君の先祖には人外がいるのではないかと思って、君の家系も調べたけど、それらしきものもいなかった。後天的なものではないとしたら、恐らく君は何らかの突然変異で特異体質を得たのかもしれないねぇ。既に世間で噂になっているならともかく、それすらされていないとなると、必然的に人類から脅威の対象となるかもしれないね」
 ――脅威
 それを聴いて、背筋が凍り付いた。
 確かに、こんな体質が世間に知れ渡ったら、僕は人類にとって大きな脅威となり世界の大きな騒ぎに包まれて、畏れられるのは火を見るより明らかだ。
 そうなったら、自分の身も危ういだろう。
「まぁ、事件が解決したら、ここでの寮生活も終わるけど、その間に出来た分身はどうなるのだろうね。ククク……」
「自分で分身を作る可能性があるにも関わらず、そんな事を言うのは無責任な言い方じゃないですか?」
 僕は無責任なマッドサイエンティストに文句をぶつけた。
「安心したまえ、幸い私には十分な蓄えがある。君に住居を提供しても良い。何なら私の助手や使用人として、働く道もある」
「実験台になる気はありませんよ」
「そんな事を言って、せっかくの不死身の身体を活かさないのはもったいないよ。いっそ、絶食生活を送って何日間食事をせずに生きていけるかを試すのも良いねぇ。食費も浮くし」
「腹が減ったら、動けませんよ」
 いくら不死身とはいえ、食べる事が出来なくなったら常に空腹に悩まされそうである。それはそれで地獄になりそうだ。
「でも、死にたくても死ねない苦しみを味わい続けるのって、どんな気分なんだろうね」
「えっ?」
 僕の質問に、大森さんはある数字を出した。
「二万八四〇人」
 突如出された数字に僕は首を傾げた。
「何ですか、その数字は?」
「去年(2018年) 、自殺した人の人数だよ」
「そんなにいるんですか?」
 意外と多い人数に僕は声を上げたが、大森さんは軽く笑いながら返した。
「別にそこまで驚く程のものでも無いよ。統計開始時から現在までの記録と比べたら寧ろ少ない方だね。十年位前は三万人を超えていて社会問題になっていたんだから。自殺防止活動の成果が出ている証だね。その時の話は、君も聴いた事があるだろう」
「あぁ……そう言えば、そんなニュースがありましたね」
 確か、入社したばかりの時にそんな話を聴いた事があったな。
「原因は、借金で首が回らなくなったとか、仕事をクビになったとか、いじめに苦しんだとか、色々とあるけど、やはり彼らは切羽詰まってどうすれば良いのかも分からなくなって最終的に自ら命を絶っている。確かに自殺してしまえばこの先二度と苦しむ事は無いからね」
 シリアスな問題を飄々としながら語る大森さんだが、ふざけている様子は全く無かった。寧ろ彼に真面目な表情を求める方が無理な気がする。
「君は不死身とはいえ、痛覚はある。もし君が自分の持つ特異体質に耐えられなくなって自殺しても痛みこそ伴うが死ぬ事は出来ない。それは死ぬ以上にとても過酷な事だろうね」
 その皮肉に返す事は出来なかった。飄々とした口調で話すので、人を小馬鹿にしている様に聞こえるかもしれないが、本人は割と真面目に話しているのだろう。
「もちろん、簡単に自殺に逃げちゃうのは良くないけど、深い苦しみを長く味わい続けて、今際の際に『あの時、自殺していれば良かった』と思いながら息を引き取る位なら、いっそ早めに自らの命を絶った方が気持ち的には楽なのかもしれないね。自殺した方が良かったと後悔するという事は、必死で困難を乗り越えようと、がむしゃらに頑張ったり耐え忍んだりしてきた事が全部無駄になった証だからね」
「それを言われたら、おしまいですよ」
「そうならない様にする為に奮闘する事が生きるってもんじゃないかな?」
 話が終わる頃には、試験管の血液は増え始めた。

 ようやく実験から解放されると、僕は警察署内に戻った。外は既に真っ暗になっていた。どうやら相当な時間、あのマッドサイエンティストから身体をいじくり回されていた様だ。実際、拘束されていただけなのに、どっぷりと疲れた。寧ろ、身体よりも精神に疲労が来た。
 大森さんから意外と真面目な話を聴かされたけど、死にたくても死ねない辛さはあるだろう。
 まるで、今まで平凡な人生を送れた事が奇跡であるかの様だ。
 そんな事を考えていた時だった。
「あっ、小柳サン。実験、お疲れ様でした」
 男性が声を掛けて来た。
 話しかけて来たのは二十代前半くらいの若い男性だった。警察署に入ったばかりの新米と見受けられる。髪は焦茶色に染めており、やや軽薄な印象がある。
「ちょっと良いですか?」
「誰ですか、あなたは?」
 すると、軽くお辞儀した。
「あっ。俺、池谷(いけや)浩(ひろし)と言います。階級は巡査です」
 軽そうな青年だと思っていたが、一応受け答えは丁寧だ。
「どうしたのですか?」
 また、増殖体質の事について聴かれるかと思ったが、
「あの、小柳サンでしたっけ。今晩動画でも見ませんか?」

 彼からも、僕の体質について訊かれるのかと思ったけど、意外にも動画鑑賞のお誘いを受けた。
 意外なお誘いに思わず、「はい」と答えてしまい、そのまま彼の寮に行く事になってしまった。
 迎えた夜、僕は池谷くんの部屋でホラー映画を観る事になった。
 ちなみに、視聴した動画はホラー系だった。題名は、『ギニーピッグ 悪魔の実験』。執行史三人が一人の女性に、五感を侵食する苦痛の限界点を求めるという実験の名目で、執拗な虐待を与えるという内容だった。
「どう、面白かったでしょ」
 動画を観終わって、池谷くんはニコニコと笑顔で感想を求めて来た。
「……まあまあだったかな?」
 本当の事を言うと、ストーリー性が無く、ただ女性が執行史から虐待を受ける様子に生理的嫌悪感が沸いて、途中で気分が悪くなった。
 フィクションだと分かっていても、非常に後味が悪かった。
 とはいえ、本当の事を言って傷つけるのは良くないと思ったので敢えて言葉を濁す事にした。
「そっかー。あれ、最初はスナップフィルムとしてマニアの間で評判だったんですけど、幼女連続誘拐殺人事件の犯人の部屋からこのシリーズのビデオが押収されてから、残酷な描写は情緒的に悪いって言われちゃって、有害図書指定にされちゃったんだよ」
「そ、そうなのか……」
 確かに犯罪者の部屋からそんな物騒なものが出てきたら、そう疑われるのも無理は無いだろう。
 人の趣味にとやかく言うつもりは無いが、映像でやっていた事を実際に真似されたらたまったものではない。
「でも、ヤバイ作品だからと言って、それらを全て無くせば犯罪がなくなるものでもないっすよ。チンギス・ハンだって、読み書きは出来なかったけど、世界で最も人を殺したと言われているからな。別に映像とか本に触れなくても、殺す奴は殺すし暴力を振るう奴は暴力を振るうよ」
 池谷くんは持論を展開した。
 チンギス・ハンの場合は、世界最凶の大量殺人犯ではなくモンゴルの英雄として讃えられているので、殺人犯と同一に扱うのは疑問があるが、彼が言いたいのは読み書きが出来なくても、やる奴はやるという事か。
「まぁ、実際に逮捕された人の中には、作品を見て性的興奮を覚えたとか好奇心でやろうと思ったって供述した人がいたけど、じゃあその作品を見た人が全員同じ行動を取るのか、犯罪に手を染めるかと聴かれたら、違うでしょ」
「まぁ、確かにそうですね」
 僕もミステリー作品に触れた事があるけど、実際に犯行を真似しようと思った事は一度も無い。
 僕以外でもミステリー作品で、犯行の内容が分かっても実際にそれを真似しようとする人は、ほとんどいないだろう。
 でも、その「ほとんど」から漏れた少数の人が実行に移してしまうのだから性質が悪い。あれらは謎解きやスリルの楽しさを目的としたものであって、犯罪の手引きではないのだから。
「これらは、あくまでフィクションである事を理解して楽しむものなんだよ。それが理解出来ないなら、初めから見ない方が良いよ」
 意外と聡明な考えを語れる青年だ。
 それにしても、彼は僕の体質について全く聴いてこない。もしかして、まだ知らされていないのかな? いや、周囲の反応からして彼だけが知らない訳がないか。
 一か八か、試しに訊いてみるか。
 僕は思い切って質問をぶつけてみる事にした。
「と、ところで、池谷くんだっけ? ちょっと質問したい事があるのだけど」
「何?」
「君は僕の体質について、どう思っているんだね?」
 それを尋ねられて、池谷くんはきょとんとした後、顎に人差し指を当てて少し考えて答えた。
「別に。何とも思わないかな」
 意外な返答だった。自分も、こんな異常体質に悩んでいるのに。まさか、何とも思わないという返事が来るとは思わなかった。
「そ、それはどうしてなんだ? 驚かないのか?」
「まぁ、最初に聴いた時は凄く興奮しましたけど、だからと言って悪い人ではないですし」
 そうか。彼とはまだそんなに会話もしていないのに、そんな風に思ってくれていた事を知って、少し嬉しくなった。
 僕を研究対象とみなしている大森さんとは違って、こちらは良い意味で僕を受け入れてくれている。
「皆は、小柳さんの事を変な目で見ていますけど、別に恐れているとか嫌っている訳ではないでしょう。佐渡警部補だって小柳さんを全く怖がってないですし。だから、そんなに気にする必要はないんじゃないですかね?」
 佐渡さんの場合は、僕を事件の重要参考人とみなしているからだと思われるが、恐れている様子は無かった。
 こんな体質の僕にも、偏見を持たずに接してくれる人がいたとは思わなかった。何だか救われた気分である。
「あと、そうだ。これはどうですか? 小柳さんと同じ増殖体質の人が出て来るホラー映画なんですけど、こっちも何度も実写映画化されているんですよ。見てみますか?」
 池谷くんはDVDを僕の眼前で見せつけた。そこには、美しくも妖しげな少女の写真が写っていた。
「まぁ、僕と同じ体質なのはちょっと興味があるけど、大丈夫なのですか? こんな夜遅くまで映画を観ていて。翌日の仕事に支障が出たらどうするのですか?」
 すると、池谷くんはあっけらかんと答えた。
「あっ、大丈夫です。俺、ショートスリーパーなんで」
 そんな理由で、翌日の仕事が務まるものなのかと疑問に思った。
 でもその後、僕達は夜が更けるまで動画を鑑賞した。

語り部 小柳和仁2

 昨晩は城崎勤と再会を果たしたものの、半グレ絡みのトラブルに巻き込まれてしまった。どうにか解決したものの散々な目に遭った。もうあの様な連中と関わるのは止めよう。
 おかげで風呂に入る気力も夕食を食べる気力も無くなり、帰ってすぐコートとスーツを脱ぎ、下着姿でベッドに倒れ込んでそのまま寝てしまった。
 それなのに未だに疲れが取れず、身体がだるくてつい駅のホームで欠伸をしてしまった。
 現在駅のホームは、通勤ラッシュで大混雑とまではいかないけど、それなりに人が多かった。
 ただ、混雑に紛れて痴漢やスリが近付いて来たら、一発で気付かれるレベルである。
 間もなく電車が到着する時間が迫ってきた時である。
 突如、背後から耳の鼓膜を突き破りそうな爆発音が響き渡り、辺りは騒然となった。それに反応した僕は咄嗟に振り向こうとした。
 その瞬間、背後から誰かが僕の背中を強く押した。
 その反動で、僕はホームから線路へと身を投げ出された。
 直後、ホームに入った電車が迫って来た。
「大変だ! 男性が電車に轢かれたぞ!」
 ホームは悲鳴が上がり大変な騒ぎが起きた。
「おーい……」
 僕はホームの下から声を掛けた。
「何だ、下から声が聴こえるぞ」
 駅員らしき男性の声が聴こえた。
 電車がバックしていくと、目の前の視界が開けた。
「ふーっ」
 光が入り込んで、僕は一安心した。
「良かった、無事だったのですね」
 駅員さんは僕の無事を見て安堵した。
 実はホームの下にある退避箇所があるのだ。僕はそこに潜り込んだ事で、間一髪助かったのである。
 電車が通りかかった際に車体が擦れて足の骨を折ってしまったが、そこはすぐに回復した。
 再生能力があるのだから、わざわざそこに隠れなくても大丈夫なのではないかと思った人がいるかもしれないが、そんな事をしたら、周りに秘密がバレるだろ。
 だが、僕を突き落としたと思われる犯人はそこにはいなかった。

「あっ、小柳さん。今朝駅で突き落とし事件が起きたと聴きましたけど、大丈夫でしたか?」
 電車が何らかの理由で遅延になった場合、多少遅刻しても会社も事情を聴き入れてくれるが、それでも遅刻するのは個人的に避けたかった。
「あぁ、大丈夫だ……」
 怪我人が出なかったとはいえ、あの突き落とし事件のせいで予定の発車時刻が若干遅れてしまい、おかげで発着駅に到着してからダッシュで走って始業時間ギリギリでの到着となった。
 この事を峰倉に話したら、「大変でしたね」と同情された。
「ところで、小柳さん。昨晩はどこにいたのですか?」
「昨晩? えーっと……城崎に会った後は自宅に戻ったけど」
 自分の口から出た言葉に間違いや偽りは無かった。だが、峰倉は
「えっ、そうなんですか?」
 と驚いた表情を見せた。
「そうなんですか? って、どこかおかしいところがあるのか?」
 すると、峰倉は答えた。
「実は、昨晩小柳さんを目撃したという声があったのですよ」
「えぇっ?」
 まさかの情報である。僕を目撃した人がいただって?
 でも、冷静に考えてみれば、僕のバラバラ遺体が再生したとなると、誰かがそこで僕の分身を目撃した可能性がある。
「そんな噂、どこで聴いたんだ?」
「今朝、女性社員達が職場で話していたんですよ。かなり盛り上がっていましたよ」
 通りで今朝、女性社員が僕とすれ違った時に視線が妙に突き刺さると思ったら、それが理由か。
「それで、その人は何をしていたのかは聴こえたのか?」
「えーっと……その辺はよく聴き取れなかったんですけど、確か男性が夜、街を歩いている時に警察がやって来て事情聴取を受けていたらしいです」
「事情聴取か……それで、どうなった?」
「それで、パトカーに乗せられて行ってしまったそうです」
「でも、目撃した場所が小柳さんのいる自宅とは反対の方角だったので、あれは小柳さんのドッペルゲンガーではないかと噂されています」
「ドッペルゲンガーなら他人が見ても何の害も無いんじゃないかな?」
 自分のドッペルゲンガーを見ると、近いうちに死ぬという話は聴いた事はあるが、他人が見るとどうなるかはまだ知らない。
 でも、話の内容からして心当たりはあった。多分、あれはドッペルゲンガーではなくて僕の分身だ。
 先程、女性社員が見たのは小柳1の命令に従って、お巡りさんが僕の分身を回収していたところなのだろう。実際、僕自身も砂浜で倒れていたところをお巡りさんに拾われて警察署まで連れて行かれたのだから、間違いない。
 とはいえ、本当の事を話す訳にはいかないので、
「間違いなく、その人は別人だな」
「やっぱり、そうですか」
「そもそも、僕は警察のお世話になる様な失態は犯さない」
 若干嘘は混じっているが、自身の無実を証明する為にも僕は力強く断言した。
「そうですよね。考えてみれば、小柳さんが警察のお世話になる様な事をする様な人では無いですよね」
 峰倉は少し安堵した表情になった。
 その時、就業開始を告げるチャイムが鳴った。

「今度はそんな事があったのですか。やはり何者かが小柳さんを狙った様ですね」
 昼休み。また佐渡さんに今朝駅で起きた出来事と後輩から聴いた噂話を告げた。
「しかし、突然後ろから爆発音が聴こえたという事は、小柳さんを陥れる為の罠だったかもしれないですね。後で駅員が調べましたけど、爆発物らしきものは置いていなかったそうです。恐らくスマートフォンを操作して爆発音が鳴って周りが混乱させる事で隙を作ったのでしょうう」
「で、犯人は見つかったのですか?」
「防犯カメラに犯人が小柳さんの背中を押しているところはバッチリ映っていましたが、あなたを線路に突き落とした後、すぐさま駅を出て行ってしまいまして、途中で行方が分からなくなりました」
 それを聴いて、がっくりと肩を落とした。何をやっているんだ、警察。
「……今、凄く不愉快な事を思いませんでしたか?」
「いえ、何も」
 電話の向こうからでも僕の考えはお見通しだった。
「とりあえず、防犯カメラにはその様子が映っていたので、そこからじっくりと解析します」
 それなら良かった。これなら、犯人も逮捕出来るだろう。

 仕事中も特に何事も起こらず、無事に仕事を終えて定時に会社を出た。
 佐々木部長が僕に声を掛けて来た。
「お仕事、お疲れ様」
「お疲れ様です、部長」
「峰倉から聴いたよ。あれ、お前じゃなかったんだってな」
「そりゃ、そうですよ。そもそも僕は警察のお世話になる様な事はしませんよ」
「そりゃ、そうだな。お前はウチのエースなんだから、会社の為に頑張ってもらわないとな」
 佐々木部長は、僕の肩を力強く叩いた。少しだけ痛みがあった。
 駅まで帰る途中、僕はこれまでの流れを思い返した。
 僕の分身がどれだけ存在しているかは分からないけど、社員からも目撃されている。もしかしたら、僕と僕の分身が偶然鉢合わせするなんて可能性もあるかもしれない。そうなったら、どうしよう。
 僕がそんな事を考えながら歩き始めた時だった。
 突如、けたたましい急ブレーキの音が耳に突き刺さった。思わず音がした右側を振り向いた瞬間、いきなり全身に強い衝撃が走ったかと思いきや、僕は宙を舞っていた。
 僕の視界には、その光景がスローモーションになって動いていた。
 目の前で起きた惨事に、唖然なり呆然なり驚愕なり一斉に口を開ける人々。その中でほんの少数だが、スマートフォンを片手に僕を撮影する若者の姿が見えた。
 そんな光景を見ながら、僕はそのまま地面に激突した。その様子に騒然とする人々、僕の意識はだんだん遠のいていき、次第に前の前が真っ暗になっていった。

 死んだかと思ったら、また意識を取り戻した。当初は病院に駆け込まれたのかと思ったが、視界はまだ夜空のままだった。思った程、致命傷ではなかったのか。
 体を起こすと、スーツが赤い血で派手に汚れていた。掌を見ると、そこにも大量の血が付いていた。
 周りの人達は起き上がった僕を見て、唖然としていたが直後、一気に震え上がった。
「何だ、この人。トラックに撥ねられたと思ったら急に生き返って身体が再生したぞ」
「コイツは化物だ!」
「何これ?」
 突如、僕に向かって罵詈雑言を浴びせる大衆。
「違います! 僕は……僕は人間です!」
「小柳。お前、まさか……」
 僕を見て恐れる人達を前に必死で弁明したが、周囲は誰も僕も話に耳を傾けず、騒ぎ立てるばかりだった。
 僕は恐怖のあまり、その場から逃げた。

 逃亡している時に血に濡れた箇所が盛り上がっていくのが分かった。それらはぼこぼこと膨れ上がり、人面が出来上がっていく。
 まさか、血液からでも再生出来るというのか。
「やめろ! 何なんだ、お前は!」
 僕は目の前で出来上がっていく赤い化物に怒鳴った。それでも、赤い化物の身体はどんどんと目の前に迫り、僕の顔に手を伸ばす。
 恐怖を覚えた僕は赤い化物を手で振り払った後、引きちぎった。
 赤い化物は道端に倒れたが、その後も再生は続き、身体が大きくなっていった。それが人間の大きさにまで成長すると、僕を追いかけて来る。
「うわあああああああっ!!」
 自分を追いかけて来る赤い怪物を眼前に顔面蒼白となった僕はひたすら逃げた。
 その時タイミング良く、パトカーが颯爽と現れて、後部座席の扉が開いた。
「乗れ!」
 僕は佐渡さんに手を伸ばして、彼女の手を握りしめると、すぐさまパトカーに入った事で、赤い怪物の手から逃れた。

「た、助かったー……」
 どうにかピンチを脱して、僕は大きな安堵の溜息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
「そいつは災難でしたね。交通事故に遭ったせいで、自身の特異性が周囲に知られてしまうなんて」
「すみません。それに血塗れになった服から突然出て来て、怖くなったので自分で引きちぎってやりました。奴らがその後どうなったかは分かりません。あれは一体何なのでしょうか?」
 僕の質問に、佐渡さんが少し考えて答えた。
「恐らく、その赤い化物とやらもあなたの分身でしょう」
「分身……? あんな化物がですか?」
 まさかの答えに僕の顔は青ざめた。
「実は科学警察研究所の研究員が1番の身体で人体実験をしていまして、血液からの再生も調べているのです」
「そんな事までやっていたのですか?」
「はい。あなたが言う赤い化物も、きっとそれに違いないでしょう」
「という事は……」
 顔を真っ青にしながら話す僕の問いに、佐渡さんは容赦ない現実を突きつけた。
「別に化物でもなんでもない。しばらくすれば、あなたと全く同じ風貌になるでしょう」
 佐渡さんから突きつけられた残酷な現実に、僕は深い恐怖に襲われた。あんな得体のしれないものも、僕の分身だなんて。自分の身体からあんな怪物が出て来るなんて。あんなものを見たら、生み出した僕自身すらも身体が震えてくる。アレを僕の分身だと認めろというのか。
 僕はそれを現実と受け入れる事が出来なかった。
 あんな化物が僕と同じ風貌になって世間を騒がせて、また僕が非難を浴びせられる。そして、僕は世界から脅威として恐れられて徹底的に排除されていく。
 そんな恐怖と絶望が僕の頭の中を駆け巡った。
「そんな。それじゃあ、もう僕は……」
 その事実を知った時、平凡な生活は完全に壊れたと悟った。二度と元には戻れない。
「どうしてこんな事になっちゃったんだよ。今まで普通に暮らしていたのに、どうして」
 深い悲しみに暮れた僕は、ただ涙を流すしかなかった。
「泣かないでください。あの人達も私達が全て捕獲します。だから、心配する事は……」
「変に励まさないでください!」
 僕は、宥めようとする佐渡さんを突き放す形で怒鳴った。
 まさかの反応だったのか、佐渡さんが内心傷ついた悲痛な表情に変わった。
 だが、すぐに元の表情に戻り、
「そうか。申し訳ございませんでした」
 と謝った。
「だが、決してあなたが独りになった訳ではありません。少なくとも私はいつまでもお前の味方ですから」
 深い悲しみで涙を流す僕に、佐渡さんは黙って僕の肩を優しく撫でた。

 警察署に到着すると、僕の分身が駆け寄って来た。人数は五人。最初に会った1番の他に四人確保していた様だ。
 僕は恐るべきものが映っていた。
 テレビに映っていたのは、僕が遭った交通事故だが、その後僕の身体がみるみると再生されていく姿が映っていたのである。
「マスコミによる独自取材ですね」
 佐渡さんがテレビを見ながら呟いた。
「独自取材? そもそも報道って、向こうからの許可が無いとダメではないのですか?」
「スキャンダルならともかく、刑事事件を報道する上では、わざわざ許可を取る必要はありません。マスコミの独自取材で真犯人を暴いた事例もありますが、嫌疑があるという理由だけで、容疑者でない人の顔写真を新聞に掲載した事例もあります。たとえ、我々が一般の交通事故として報道しても、現場にいた人がSNSに掲載したものが拡散されて、それをマスコミが拾ったらもうお手上げです。もし、小柳さんの関係者にマスコミが取材に来たら、君の事が報じられる可能性があるかもしれません」
 それを聴いて、僕は深い絶望のどん底に叩き落とされた。
 恐ろしい現実に、僕は閉口せざるを得なかった。
「とはいえ、小柳さんは被害者ですからね。顔や氏名は明かさない様に各マスコミに頼んでみます。それと、2番も当分は外には出ない方が良いでしょう」
「分かりました」
 こうして僕は当分の間、警察署に匿われる事になった。

語り部 小柳和仁(ナンバリング不明)

 数日前の夜、何者かに襲われて気付いた時には森の中に全裸のまま放置されていた。
 自分が何故こんな目に遭ったのか全く心当たりが無かった。誰かが僕を恨んでいるのか。
 だが、自分は今までの人生で誰かに明確な恨みを買う様な事は一切していない。
 しかし、何故犯人は僕を襲った後、生きたままこんな山奥に置いたのだろう。単なる悪戯だったのだろうか。
 だが、肝心の貴重品やスーツが無かったので、当初は単なる強盗かと思ったが、そうだとしたら、わざわざ山奥に放置していく真似はしないだろう。
 それにしても、生き埋めと言われるとアウトロー漫画やVシネマに出て来そうなシチュエーションである。
 あの後、何とかそこから地面をかき分けて這い上がった。そこを偶然通りかかった猟師に拾われたので良かった。
 当初は死体と間違えたそうで、僕が目を開けた瞬間は非常に驚いたそうだ。
 それにしても、まさか自分がこんな目に遭うとは思わなかった。
 しかも、昨日会社員がトラックに撥ねられる事故が発生したという。一見すればよくある悲しい交通事故だが、何と被害者の身体が突如再生するという怪奇現象が起きたらしい。中には、全身真っ赤な人間の目撃情報も僅かにあったらしいが、肝心の画像は一切閲覧されていないそうだ。何でも、警察がSNSの運営会社に削除依頼を出したらしいので、肝心のシーンは見ていない。
 全く物騒な世の中になったものだ。
 とりあえず体力が回復した後、猟師にお礼を言って山を後にした。しかし、こんな嫌がらせをしたのは一体誰なのだろうか。警察に被害届を出そうと思いつつ山を下りた。
 その時である。
「ねぇねぇ、すいません。ちょっとお話良いですか?」
 突然、若い男性が僕に話しかけて来た。
 男性は渋谷系のファッション(最近の流行のファッションには詳しくないが、テレビでそんな格好の男性をよく見ている)に身を包んでおり、髪は金髪に染めており、耳にはピアスを付けている。一言で言うと、軽薄な男である。
「どうしたのですか?」
 僕は警戒しながら尋ねると、金髪の男性は答えた。
「実は僕達、動画配信をしているのですけど、今回僕達はある調査をしているのですよ」
「ある調査?」
「はい。実は最近、増殖男の都市伝説が話題になっているんです」
「増殖男? 何ですか、それは?」
 僕が尋ねると、男性は「実際に見た方が早いですよ」とスマートフォンに映し出された動画を見せてくれた。
 再生されたのは、例の交通事故の様子。大型トラックに衝突されたサラリーマンの遺体が映し出されていて、道路には血も大量に流れている。
 現場には救急車を呼ぶ人や悲鳴を上げている人、携帯電話で事故の様子を撮影している人がいた。大勢の前でこんな現場を目撃したら衝撃を受けるのも分かる。
 一見すると、不謹慎な動画に見えるが、肝心の場面はそこからだった。
 救急車が駆けつける前に男性の身体がみるみると再生していったのである。それを見て、顔を真っ青にする人々、呆然とする女性、唖然とする男性。これが単なるCGとか映画の撮影なら良いのだが、周囲の反応からして、とても演出とは思えなかった。
 肉体の再生を終えた男性はゆっくりと身体を起こすと、周囲は更なる悲鳴を上げた。その次に、男性を「化物」「お化け」と罵り、騒ぎ立てた。
 男性は必死で自分は人間だと主張するが、僕は被害者の男の顔に疑問を持った。
「あれ? 何でこんなところに僕がいるんだ?」
 僕がそう呟いた瞬間、背後から「ビンゴ♪」と声が聴こえ、次の瞬間には鈍器の様な物で力強く殴られた。
 僕の意識はそこで途切れた。

語り部 小柳和仁1

「佐渡警部補、大変です!」
 午後五時。池谷くんが大慌てで駆け込んで来た。
「どうしたんだ、池谷。そんなに慌てて」
 佐渡さんが池谷くんに尋ねる。
「これ、見てくださいよ!」
 池谷くんがスマートフォンの画面を見せた。そこには、動画サイトにとんでもない映像が映っていた。
 僕達は、その動画を見た。

「どうもー! 俺達怖いもの知らず! 罰当たりデンジャーズでーす!」
 画面に出て来たのは、テンポ良く流暢な口調で動画を進行する若い男性3人だった。場所は分からないが、恐らくどこかのビルの様だ。部屋の電灯の代わりに照明を使っている辺り、今は使われていないところを撮影場所として使っているのだろうか。
「今回は、最近都市伝説で話題になっている増殖男の回復力を徹底的に調べたいと思いまーす!」
 画面に映っていたのは、身体を椅子とロープで拘束された男性の姿だった。目隠しをされている為に素顔が分からず、口もロープを咥えられているせいで呻き声を上げるばかりだった。だが、こんな所に閉じ込めている時点で完全に誘拐・監禁でしかない。
「まずは、手をナイフで斬ってみたいと思いまーす」
 と言って、金髪の男性がナイフで右手の甲を貫いた。
「――っ!」
 男性から言葉にならない悲鳴が漏れた。
 男性の胸に刺さったナイフが引っこ抜かれると、若者達は男性の傷口を嬉々しながら観察した。
 すると、傷がみるみると治癒されていった。
 それを見た男性は歓声を上げた。
「スゲー! マジで傷があっという間に治った!」
「うおーっ! 皆さん、見ましたか? 今、傷が綺麗に再生されましたよ!」
「再生男の噂は本当だったんだー!」
 若者達は画面に向かって、指を差した。
「じゃあ、お次はライターでほっぺたを炙ってみたいと思います」
 ピンク色の神の男性がライターで火をつけて、彼の頬を焼いた。
「――っ!」
 火が男性の頬を焼いていく。頬が火傷して爛れ落ちると、男性はライターに蓋をした。カメラが傷口の方に近付くと、ケロイド状になった怪我はみるみると修復されていき、火傷の跡が全く無い状態に戻った。
「おぉーっ! マジでつるつるじゃーん」
 ピンク髪の男性は指で男性の頬を撫でた。
 その後も、膝に釘を刺したりナイフで心臓を刺したり人体実験を楽しむかの如く、男性の身体を傷つけていった。
 大森さんから人体実験を受けた時もヤバかったけど、向こうはライブ配信している辺り、更に狂気を感じる。コメント欄にも「これ、ヤバすぎ」「犯罪じゃないの?」と不安の声が出て来ているが、「これ、やらせじゃないの?」「いいぞ、もっとやれ!」と煽るものもあった。
「じゃあ、最後はチェーンソーでぶった斬ってみたいと思いまーす!」
 チェーンソーという言葉を聴いて、僕は耳を疑った。
 茶髪の男性は画面にチェーンソーを見せつけた。紐を引っ張ってエンジンを掛けると、チェーンソーの刃が高速で回転し始める。
「おい、そんなことして大丈夫なの?」
「どうせ、人体切断してもすぐ再生するから大丈夫じゃない?」
 と余裕を口にして、茶髪の男性はいきなり男性の首を斬り飛ばした。
 いきなりの断頭に興奮の声を上げる若者二人組。首は勢い良く飛ばされた後、壁にぶつかりそのまま床に転がっていった。
 すると、会場内はしばらく静寂に包まれた。三人は男性の人体再生を待つが、なかなかその様子は見られなかった。
「どうしよう。オレ、人殺しちゃったかもしんない……」
 先程、チェーンソーで男性の首を刎ねた男性は引き笑いをしながら、他の男性二人に視線を向けた。
「そ、そんな事言われても、俺達何もやってないし」
「そうだよ。カッツンが一人でやったんじゃん!」
「おおおお前らだって、さっきまで楽しんでやってただろ?!」
 予想外の展開に、先程まで一緒にはしゃいでいた他二人も反論した。
 今までノリの良い流れで進行した三人組が突如、仲間割れを起こし始めた。何だか気まずい空気である。
 その時だった。先程首を失った男性の首からむくむくと何かが生えて来た。
 傷口が塞がれていくと同時に先端部分が丸く膨らんで大きくなっていく。
 その後、髪が生えて目や口、耳、鼻が出来上がって行った。その顔は紛れも無く僕と同じ顔の男性だった。
「うおおおおおっ! スゲー! 首をぶった切られたのに再生したー!」
 とんでもない光景を目の前に興奮する若者三人組。普通だったら、気味悪がられてもおかしくないが、かなり興奮していた。
「良かった! これで警察に捕まらずに済む!」
 どうやら、彼らは人の身体が再生していく不気味さよりもお縄につかずに済んだと安堵する気持ちが大きかった様だ。
 それ以前も、人体が急速に再生されていく様子を面白おかしく実験して興奮していたのだから、その様な反応をしてもおかしくないが。
 だが、生えて来た方の小柳は、安堵の喜びを浮かべる三人を問い詰める。
「なぁ。さっきから君達、随分と無邪気に喜んでいる様だけど、人をこんな所に閉じ込めて、一体何が目的なんだ?」
 椅子に縛られた方の僕の質問に、デンジャーズの三人は視線を向けた。
「あっ、おじさん。気が付いた?」
「てか、目隠しと口封じのロープ、どうやって外したの?」
「さっき、君達が首を斬った時に取れた」
 正しくは、目隠しと口封じのロープをされていた方の首が斬られただけである。再生するのは人体だけであり、衣服や身に着けているものまでは再生されない。
 ロープに縛られた新たな小柳は若者に問いつめた。
「ところで、君達は僕をこんな所に閉じ込めて何のつもりだ? まさか君達が僕を殺した犯人なのか?」
 小柳7の質問に配信者は悪びれる事無く答えた。
「殺した? 何を言ってるんですかー? 殺しましたけど、生き返ったんだから良いじゃないッスかー」
「生き返った? 生き返れば、それで許されると思っているのか?」
 恐らく、小柳7と若者との間には大きな思い違いが起きている。
 小柳7が訊いていたのは、今自分を殺した犯人ではなく最初に自分を殺した犯人についてである。
「実は俺達、ネット上で噂になっている増殖男に実験をしていたんだ」
「実験?」
「おじさん、知らないの? 俺達は罰当たりデンジャーズと言って、毎回近場のオカルトに体当たり取材をしているんスよ」
「ほら、今画面の向こうで大勢の人が見てくれているよー」
 ピンク髪の男性が画面に指を差し、カメラの向こう側にいる視聴者に手を振った。
「こんな事をして許されると思っているのか? もし、警察が来たらどうするんだ!?」
 小柳7は険しい表情で問い詰めた。僕自身、本来は人を叱れるタイプではないので、内心恐怖に怯えている事は察した。
 それでも、彼らはヘラヘラと笑うばかりだった。
「大丈夫だって! だって、おじさん、人間じゃないじゃん」
「そうだよねー。普通、あんな事されたら絶対に再生しないし。それに車に撥ねられても生き返っちゃうし、その後の血痕からも再生したっていうからさー」
「もし、人違いだったらどうしようかと思って話し掛けたけど、これなら幾らでも殺せるよね」
 被害者の意志を無視して、三人は一方的に話を進める。
「でも、首を斬られたり心臓を刺されたりしても再生するって事は他のところを斬っても平気って事じゃね?」
「だよなー」
「それに増殖していくところも生で見てみたいよな」
「じゃあ、他の部分もやる?」
「さんせー!」
 被害者の主張もむなしく、三人は被害者の身体をバラバラにし始めた。
「よーし、それじゃあ俺も首を斬ってみるかー!」
「ちょっと、何をす――うあっ!」
 首が生えてから十分も経っていない上に、小柳7は再び首を斬られたにも関わらず、すぐさま手足や胴体を椅子ごと斬っていった。それと同時に大量の血が流れ出す。
 切断をし終えて、血まみれになった床の上に完全にバラバラになった肢体が置かれた。だが、しばらくすると、バラバラになった肉片がうねる様に動き出した。
 待ち望んだ展開に息を飲む三人組。
 それから数分後、肉片がそれぞれ再生を始めた。
「おーっ! 再生キターッ!」
「やっぱり、増殖男の噂は本当だったんだ!」
「スゲー! じゃあ、今度はどこまで再生出来るか確かめようぜ!」
 まだ、完全に再生を終える前に、男性達は興奮しながら次々と斬り刻んでいった。それはまるで快楽殺人犯だった。
 そんな殺人犯に斬り刻まれながら悲鳴を上げる男性。中には、再生している途中であるにも関わらず、この場から逃げようとする者もいた。だが、ドアノブに手を掛ける前に、彼らはそいつらに容赦なく手を掛ける。
「助けてー! 助けてー! 助けてー! 助けてー! 助けてー! 助けてー!」
 画面の向こうで、チェーンソーや斧、ナイフで斬りつけられて、増殖しながらも悲鳴を上げながら助けを求める無数の小柳7。
 コメント欄もかなり荒れているが、そんな事もお構いなしに彼らは小柳7の殺害を楽しんでいた。
 その表情はあまりにも狂気的で明らかに小柳7を殺す事を楽しんでいた。まさに殺人に興奮と快感を見出すサイコパスと同じだ。
「これは大変です! 今すぐ助けに行かないと」
 僕は斬り刻まれる7番を見て声を上げた。
「彼らは、どこにいるんですか?!」
 僕は池谷くんに慌てて尋ねた。
「この動画は、場所からして恐らく警察署から約二十キロ離れた廃墟ビルだと思われます。あと、これはライブ配信ですけど、今は追っかけ再生にしていまして、実際の時間は、二十分程、進んでいます。恐らく彼らは今も切断を続けていると思われます」
「分かった。至急、配信先を特定してください」
「了解しました」
 佐渡さんの指示で警察は一斉に動き出した。
「2番は今精神が不安定な状態ですからね。1番と3番から6番も、一緒に同行してください」
「えっ? 僕達も良いのですか?」
「あんな状況だから警察だけで彼らを保護するのは難しいですからね。あなた達も協力してください」
「分かりました」
 という訳で、僕とその分身もパトカーで同行する事になった。

 辿り着いたのは、都内の古いビル。建物の周りに隣接するものは無かった。どうやら、あそこで撮影が行われている様だ。
「あそこで、撮影が行われているのですか?」
「恐らくは」
「でも、どの階にいるのでしょうか?」
「それは、向こうから聞こえてくる騒がしい音を頼りに行くしかないでしょう」
 他に人がいないから、遠くからでも悲鳴が聴こえて来るのが分かった。
 その時だった。
「助けてー! 助けてー! 助けてー! 助けてー! 助けてー! 助けてー!」
 既に建物内から大勢の男性の悲鳴が聴こえて来る。その声は紛れもなく、あの動画で聞こえたものと同じだった。
 恐らく、増殖と再生を繰り返しているうちに大量に溢れ返った小柳達が部屋の中だけでは収まりきらなくなってしまって、遂にドアが破られてしまったのだろう。
 小柳7達は瞬く間にこちらまで迫って来る。
 まさかの非常事態に佐渡さんはお巡りさんを連れて一斉に突撃する。
 その様子を見た佐渡さんは大きく息を吸い込むと、拡声器で叫んだ。
「全員止まれ!!」
 体育会系の鬼教師並みに力強い佐渡さんの大声が響き渡り、小柳7達は一斉に動きが止まった。
 理由は佐渡さんの怒声にビビったからではないかと思った。実際、近くにいた僕もガチで怯んだ。
 だが、どうすれば良いのか分からない小柳7はしどろもどろになってしまい、ただ怯えるだけだった。
 佐渡さんは続けて告げた。
「安心しろ! 私達はお前達を保護しに来ただけだ。ここから逃げたところで、また恐ろしい目に遭うだけだぞ! 一般市民から化物として退治されたくなかったら、大人しく警察の言う事に従え!」
 普段とは違う乱暴な言葉遣いだが、今はそれがカッコ良く聴こえる。
 それを聴いて、小柳7達は一斉に佐渡さんの言う事に従った。
 警察という言葉が効いたのかもしれない。
 彼らは、佐渡さんの言う事に大人しく従い、全員パトカーに乗せられて行った。
 その間に、佐渡さんは僕と警官を引き連れて犯人のいる部屋に出向いた。
「警察だ! 午後八時七分。殺人未遂及び監禁の容疑でお前達を全員、現行犯逮捕する!」
 佐渡さんは部屋に入るなり、すぐさま逮捕を宣告した。
「ちょっと、何で警察がこんな所に来るんだよ!」
「誰が通報したんだ!?」
「何でだよ! そもそもアイツは人間じゃなくて化物なんだぞ!」
 若者達は必死に抵抗したが、駆けつけた大勢のお巡りさんには全く敵わず、配信者三人とカメラ撮影者に手錠に掛けた。
「離せ! せっかく良いところなのに!」
「そうだぞ! 今スゲー盛り上がっているところなんだぞ! 邪魔するんじゃねぇ!」
 逮捕されたにも関わらず、未だに喚く四人だったが、お巡りさんによって強引に部屋から連れ出されていった。
 
 犯人がいなくなった後、誰もいない室内に入った。そこには、部屋の隅でうずくまりながら震える小柳7だった。
 多分、最初に首を刎ねられた方だと思う。
「大丈夫ですか?」
 僕は刺激しない様に、彼に話しかけて手を差し伸べた。だが、
「怖いよおおおおおっ! 触らないでくれえええええええ!」
 肝心の7番は暗闇を怖がる子供の様に酷く怯えていた。先程、身体を斬り刻まれたのが相当なトラウマになっているのだろう。
「安心して、僕は君の分身だ。さっき君を襲った連中は全員警察に逮捕されたから、もう大丈夫だ」
 当の分身が助けに来たにも関わらず、彼は身体を丸めて両手で頭を押さえ未だに震えるばかりだった。
「1番、7番達は無事でしたか」
「はい。斬られた後の身体は見事に再生されていましたが、やっぱり先程の惨殺が相当応えた様で、僕が話しかけても怯えるばかりでした」
 その言葉に、佐渡さんは目を伏せながら「そうか」と漏らした。
「しばらくの間、確保した小柳7達は精神病院の閉鎖病棟に収容します。これでは、事情聴取も出来そうにないですからね」
「でも、これだけ大勢の人を入れてくれるところはあるのですか?」
「もちろん、一つだけでは収まりませんから、複数の病院に入院させます。回復までには時間が掛かるでしょうけどね」
 佐渡さんは寂しそうに告げた。
 こうして、動画の投稿者四人は殺人未遂及び監禁の容疑で全員、現行犯逮捕されて問題の動画もアカウントと共に削除された。
 だが、保護された小柳7達は全員未だに精神がかなり不安定な状態だったので、そのまま精神病院の閉鎖病棟に収容されたのであった。

「……とりあえず、犯人が逮捕されたのは良かったですけど、彼らは事件の犯人ではありませんでしたね」
 事件が終わった後、僕の言葉に佐渡さんは「そうだな」と答えた。
「彼らの目的は、人体が再生する7番の様子を動画配信で世間に見せつけて、自分達の注目を集める事でしたからね。もし彼らが小柳さんを最初に殺した犯人だとしたら、わざわざネット配信を使って世間から注目を集める様な事はしませんから」
 冷静に考えてみれば、そうだ。僕自身、この異常な特性に気付いたのは最初に殺された事件の時である。もし、あの現場に彼らがいたら、わざわざ小柳7を見世物にする事はしない。
 寧ろ、殺したはずの人間が生きていると知ったら、口封じの為に必ず再び動くし、それ以前にただ注目欲しさから殺人の様子をネットで公開するサイコパスはいない。
「しかし短い時間とはいえ、この動画が公になった以上、噂になる事はもはや避けられないですね。人の噂も七十五日と言いますけど、今回の噂はまず七十五日では静まらないでしょう。マスコミには報じない様に頼むし、出来る限り火消しに努めますが、当分は外に出ないでください。これ以上、厄介ごとを増やされても困りますから」
「分かりました……」
 とはいえ、この動画を見ていた人はかなり大勢いた様に思えた。後で彼らの事をネットで調べたら、彼らは以前から動画サイトで過激な企画を行っており、それで高い人気を集めていた。
 きっと、今回の事件でもかなりの人数が小柳7の再生を見ていたに違いない。
 もしかしたら、遠い将来にこの動画で流れた事が都市伝説になっているかもしれない。そう思うと、身の毛がよだった。
 もし、僕の家族が何らかの事件に巻き込まれたらと思うと不安で仕方なかった。
「佐渡さん、お願いがあるのですが……」
 僕は男勝りな女刑事にある事を頼んだ。

視点 小柳和宏

 ――小柳家は化物一家である。
 そんな噂が小柳家の近所で流れていた。原因は、あの交通事故。
 都内の人通りの多い交差点で、一人の男性会社員がトラックに撥ねられたのである。
 話だけを聴くと、よくある悲しい交通事故だが肝心なのはそれ以降。
 男性が撥ねられた後、何と撥ねられた男性の身体がみるみると再生されていったのだ。更に、血痕から赤い人型の怪物が現れたという目撃情報もあった。
 そんなホラーじみた内容が注目を集め、その男性は“増殖男”としてネット上のターゲットになり、まとめサイトやSNSなどで世間から注目を集めていた。
 あの事故が起きた日の夕方、突然和宏の家に警察がやって来て、「マスコミが押し寄せるかもしれないから、当分の間ホテルに避難した方が良い」と告げられ、理由も分からないまま和宏と両親は実家から遠く離れたビジネスホテルに宿泊させられた。
 和宏が「どうしてここに連れて来たのですか?」と尋ねると、警察は答えた。
「実は、警察からの頼みで、あなた達を避難させてほしいという命令が届いたのです」
「命令? それはどういう理由ですか?」
「実際にテレビを見た方が早いです」
 警察がテレビの電源を入れると、そこに映っていたのは、トラックに撥ねられて仰向けに倒れている一人の会社員の姿だった。突然の事故に、周囲は騒然としていた。
 だが、数秒後。突如男がムクッと起き上がった。次に男は両掌を見つめて、周囲を見渡した。
 その男の顔は、和宏がよく知る人物だった。
 小柳和仁――自分の兄だ。
 その後テレビ画面には、男について司会のアナウンサーの質問に、オカルトに詳しい専門家が答えている場面が流れていた。
 具体的には、プラナリアが人型に進化したもの、人類の進化、最後の審判の予兆、悪魔の化身など、ありとあらゆる憶測を語っていた。
 彼らが確証の無いデタラメな憶測を語る中、例の動画が再び流れ、アナウンサーが例の増殖男への恐怖を煽るコメントをしていた。
 ちなみに、別のチャンネルを回してみても、どのチャンネルでも増殖男の話題で持ちきりだった。
 なお、動画に映っていた男はその後動画サイトで惨殺される様子を流されていたそうで彼も増殖男と同一人物、もしくは分身ではないかと言われている。

 あの事故のニュースが報道されてから、和宏の家族の生活は一変した。
 しかも、その後増殖男をネット配信者が切断しまくったライブ動画が配信されていたという話まであった。
 和宏もその惨殺動画の存在をネットで調べたが、噂話の存在こそあったが、肝心の動画はどこにも存在しなかった。
 内容に問題があるとして、既に運営から削除されたのかもしれない。
 だが、近所の人で実際に動画を視聴していた人がいたらしい。
 おかげで、まだ確定していないのに、小柳家は近所から陰口や非難を浴びる様になった。
 それだけではない。どこの誰かも知らない相手から携帯電話が掛かって来る様になった。
 どうやって調べたのかは分からないが、電話が掛かって来る様になった。一度出ると、いきなり「化物一家め!」などと罵声を浴びせられた
 携帯電話ショップに行って番号を変えても、一体どうやって調べたのか、未だに素性も知らない相手から嫌がらせの電話が次々と掛かってきたので、和宏は恐怖のあまり携帯電話の電源をしばらく切っていた。
 しかも、職場でも兄の噂で持ちきりになっていた。
 おかげで、すっかり職場から孤立してしまい、仕事場に行く事すら憂鬱になりとうとう休職届を出した。
 まるで、重大な事件の加害者家族になった気分である。
 その間、和宏はこれまでに起きた騒動について一人で考察する事にした。
 考えてみれば、マスコミに報じられた事故や事件は、あくまで兄は被害者の立場にいる。なので、兄は決して犯罪に手を染める様な事はしていない。それなのに、何故皆は兄や自分達を悪者扱いするのか。
 普段大人しい人が突然事件を起こしたという話があるが、まさか内向的な兄も何かやらかしたのか? 彼の身に何かあったのか? そう思った和宏はスマートフォンで、増殖男について検索した。
 調べたところ、アングラサイトやSNSで男性の身体が増殖・再生する話題を見つけた。試しに、それを覗いた。
 でも、それに書かれていた内容は、さっき俺がニュースで見たコメンテーターの発言とほとんど変わりは無かった。
 おまけに、増殖男の分身は全て警察によって捕獲されたという情報もある。
 とはいえ、兄さんがそんな事件を起こすはずは無いと思っていたかった。まさか、兄が増殖した理由も、あの事故や事件と関係があるのか。
 一体、兄は何をやらかしたというんだ。それとも、何か事件に巻き込まれたのか。
 不安になった俺は、久々に携帯電話の電源を入れて兄さんの携帯電話に掛けた。
 最近、スマートフォンを失くしたという事で和宏の携帯電話に新しい電話番号とメールアドレスが届いたが、何か起きたのか分からなくて、アドレス・電話番号の変更メールが届くまで連絡を取る事が出来なかった。
 だが、ここまで来たら自分で確かめるしかないと思い、和宏は兄さんの電話に掛ける事にした。
 コール音が何度も鳴ったが、兄は電話に出なかった。
 やはり、兄は家族に言えない何かをやらかしたのか。もし、そうだとしたら何故そんな事をしたのか。
 和宏は、未だに会えぬ兄を不安に思った。

 数日後、和宏は再び小柳に電話をした。発信音が二回鳴った後、すぐに出た。
「もしもし、兄さん」
「和宏。どうしたんだ?」
「警察の人から連絡があったんだ」
「連絡?」
「うん。警察の人が家にやって来て、兄さんについて聴きたい事があると言われたんだ」
「そうか、それは済まない事をしたな」
 声からして申し訳なさそうな事を言っているが、何か焦りというか切羽詰まったものを和宏は感じた。
「大丈夫だ。俺は何も悪い事はしていない。それだけは信じてくれ」
 と答えて、電源を切った。
「どうしたんだ? 和宏」
 和宏の父が尋ねて来た。
「兄さんと連絡が取れた」
「和仁と連絡が取れたのか?」
「うん」
「それで、どうだった?」
「命に別状はなかったそうだけど、そこからがちょっと怖くて」
「怖いって、どういう事なんだ?」
「身体が再生したらしいのよ」
「再生?」
 振るえた声で話す母の言葉の意味が俺には全く分からなかった。
「母さん、それってどういう事なんだ?」
「分からない。でも、目撃した人達も結構いるみたいで、現場はかなり大変な事になっていたみたい」
 恐怖に震える母の呟きを和宏は聞き逃さなかった。
「……もしかして、あれは気のせいじゃなかったのかしら?」

 警察から許可をもらい、病院で祖父のお見舞いに行った。
 祖父は、膵臓癌を患っており半年前から入院している。
「おぉ、和宏か」
 祖父は元気そうに挨拶した。
「一ヶ月ぶりだなぁ」
 祖父は孫に会えた事を喜んでいた。
「ところで、和仁はどうしている?」
 祖父は笑顔を見せながら尋ねた。祖父は孫の件についてまだ知らない様だ。
「うん、元気にしているよ」
 さすがに本当の事を打ち明ける訳にはいかなかった。自分でも、まだこんな奇怪じみた現状を受け入れられていないのだから。正直に告げたところで、余計不安にさせて混乱させるのは目に見えている。
 せめて祖父だけは世間からのバッシングに苛まれる事なく、安らかな最期を迎えて欲しいと思っている。

 お見舞いが終わり、診療室に行くと医者が告げた。
「そう言えば、あなたのお兄さんの噂、聴きましたよ」
 祖父を担当する医者・金島(かねしま)から出たまさかの言葉に、俺は返す言葉が無かった。医者にまで届いていたのか。
「事故に遭ったかと思いきや、身体が突然再生されたそうじゃないですか。でも、警察は事故こそ処理しましたけど、肝心の男についてはどこも報じませんでしたね」
「そ、そうですね」
 だったら、どこで兄の情報を知ったのだろうか?
「その件について、お兄さんから何か連絡はありましたか?」
「いえ、一度電話で連絡は取りましたが、大丈夫と返って来ただけです。でも、何か隠している様にも聞こえました。兄さんは嘘を吐く事があまり得意な方では無いので」
「そうですか……」
 医者にしては最近の時事を語って来るな。何か知っているのかな?
「ところで、あれは突然変異によるものではないかと噂されていますね」
「何か知っているのですか?」
「はい。たまにドキュメンタリー番組で出ているでしょう。例えば、ヘンリエッタ・ラックスってご存知ですか?」
「いえ、知りません。医者の名前ですか?」
「違います。彼女は一九五一年に三十一歳で、子宮頸癌で亡くなった際に、ジョン・ホプキンス大学のジョージ・ゲイ博士が彼女の腫瘍から細胞を培養して。不死の細胞株とし、HeLa(ヒーラ)細胞と名付けて癌などの治療の研究に利用したのです。現在も難病の治療、放射線や毒物の影響に関する実験、遺伝子解読など様々な研究に使われています」
「そうなのですか。でも、それがどうしたのですか?」
「もしかしたら、彼の細胞もそのHeLa細胞……いや、それ以上に強烈な可能性を秘めている可能性があるのですよ。上手くいけば、人類の希望になる可能性だってある」
 金島の目からは、何やら暗い野望が見えた気がした。今まで普通に雑談をしていた金島から、次第に狂気が見え始めた。
「でも、その細胞を手に入れる事が出来ない。噂によると、政府がその男を捕獲しているという。あの神の細胞が手に入れば、人類の夢である不老不死や若返り、死者の蘇生だって現実となるのに。そこで私は考えた。その代わりを使えば良いと!」
「神の細胞の代わり?」
 和宏は金島の言葉の意味が分からなかった。意味を考えようとしたその瞬間、金島は白衣のポケットから注射器を取り出して和宏の左腕に刺した。すると、目の前が歪んでいき、真っ暗になった。

語り部 小柳和仁1

 2番の交通事故と7番の動画事件を受けて、僕は実家にいる家族を避難させてほしいと佐渡さんに頼んだ。
 本来は加害者家族に使われるのだが、事態が事態なので佐渡さんも快く承諾してくれた。
 これで安全とまでは言えないけど、近所から孤立・非難されるよりかは幾分マシだ。
 そう思っていたその時、警察署に佐渡さんが駆けつけて来た。
「緊急事態です!」
「何があったのですか?」
「小柳さんの両親から弟の捜索願いが出されました」
「弟? 和宏がですか?」
「今日和宏さんが病院へ祖父のお見舞いに行ったきり、夜になっても帰って来ないそうだ。電話を掛けても出て来ないそうです。今は県警が捜査に出ています」
 それを聴いて、僕は和宏の身を案じた。
 和宏は僕より五歳年下の弟で、勉強も運動も僕には及ばなかったが(本人の名誉の為に言っておくが、地元の大学を現役で卒業した後は、地元の外食チェーン店で正社員として働いており、決して出来が悪い訳ではない)、要領が良くて社交的な性格だった。
 それに住居の都合でお見舞いに行けない僕に代わって、仕事が終わったら時折祖父のお見舞いにも来ていた。
 でも、僕のせいで最近は精神的に参っているのではないかと思っている。
 僕が罪を犯した訳では無いけど、近所では既に僕の存在は知られているし、その人が増殖という異様な体質を持っているとなれば、驚きと戸惑いを隠せないだろう。
 周囲から偏見を持たれていなければ良いのだが。
「GPSから連絡を取りますね?」
「どうぞ」
 そう言われて、僕はGPS機能で弟の居場所を探した。。
 調べたところ、画面のピンは病院を示していた。あそこは祖父のいる病院だった。
「あれ? という事は、まだ病院を出ていないのでしょうか?」
 それを見て、僕は佐渡さんに告げた。
「佐渡さん。あくまで俺の勘なんですけど、恐らく弟は……」

視点 小柳和宏

 ハッと目を開くと、そこは薄暗い部屋だった。
 具体的な場所を探るべく霞んだ目を手で擦ろうとしたが、手は拘束されていた。
「ようやく気が付いた様ですね」
 金島はニッコリと微笑んだ。
「先生、これはどういう事なのですか?」
 和宏は金島に怯えながら尋ねた。
「さっき私が言った通りです。あの男の弟なら、きっとあなたも神の細胞を持っているはずです」
 と、金島は和宏の左手の甲をメスで刺した。
「うわあああああっ!」
 手を刃で貫かれた痛みに、和宏は悲鳴を上げた。刃が抜かれて、赤い血液が流れて手擦りが汚れていく。
「さぁ、さっそくその神の細胞の力をこの目で見せてください!」
 金島は強烈な眼差しで流血した和宏の左手を見つめた。
 だが、肝心の傷は再生される様子は一向に見られなかった。
「おかしいですねぇ、本来ならこれくらいの怪我も、すぐに再生するはずなのですが」
 金島は首を傾げた。
「もしかしたら、細胞の活性が出来ていないのかもしれません。もっと、刺激を与えればあなたも出来る筈なのです」
 先生は根拠の無い事を口にして、再びメスで俺を傷つけた。
 その後、数時間に渡って拷問を受け続けた。精神が消耗してしまって、舌を噛む気力すら残っていなかった。
「では、これならどうでしょうか?」
 そんな時、部屋の空気が大きく動いた。
 扉の向こうに立っていたのは、兄さん。その隣には女刑事さんがいた。
「和宏、大丈夫か?」
 小柳は、弟に声を掛けた。
「おっ、遂に本命のおでましか!」
 突如現れたターゲットに、金島は興奮した。まるで、目の前に神が降臨したと言わんばかりの表情だった。
 小柳は金島に告げた。
「弟の身体は再生しません。彼は僕と違って普通の人間です」
 兄の言葉を聴いて、金島は即座に視線を和宏に向けた。
「チッ、当てが外れたか」
 金島は和宏を睨みながら舌打ちした。
「それに、あなたの狙いは僕ですよね。弟は関係ありません。早く弟を解放してください」
 小柳は金島を説得したが、金島はこう返事した。
「それは出来ないな」
「何だって?!」
「君の身体は、解明すればきっと偉大な世紀の発見となるに違いないっ! 同じ血が流れているなら、きっと弟の細胞も未知なる力に目覚めるだろう!」
 金島はナイフを持って襲い掛かり、小柳を刺そうとしたが小柳は即座に腕でガードした事からナイフは心臓では無く右腕に刺さった。
「うっ……!」
 小柳はその場で膝が崩れたが、すぐさま刺さったナイフを引っこ抜き、刺された患部を手で抑えると、すぐに怪我が治った。
「ほぅ、コイツは驚いた。これが神の細胞の力か! まさしくこれが私の求めていたものだ!」
 だが、即座に佐渡が金島を取り押さえて、彼の両手首に手錠を掛けた。
「午後六時二十八分。容疑者を現行犯で逮捕」
 その後、金島は警官に背負われて、連れ出されて行った。
 無事に解放されたが、和宏はまだ安堵出来なかった。
「兄さん、これはどういう事なんですか?」
 和宏は兄に迫った。
「ごめん。本当の事を話したら拒絶するんじゃないかと思って……」
 小柳は申し訳なさそうに謝った。
 そこへ佐渡が割って入ってきた。
「和宏さん。信じられないかもしれませんが、実はあなたのお兄さんは人体を再生・増殖する特異な体質なのです。さっきあなたも目の前でお兄さんの身体が再生されていく様子を見ましたよね。あれが証拠です」
「そんな……証拠と言われたって、あれを現実と受け入れるなんて……そもそも何で兄さんにそんな体質が……」
 佐渡から明かされた事実に、和宏は当初理解が追いつかず、混乱した。
「それは、僕も最近になって知った事実だからな。初めて自分の身体が再生されていくところを見た時は、気味が悪くなったから」
 と前置きをした小柳は、自分の身に起きた出来事を話した。
 会社から帰る途中で何者かに襲われた事、その時に身体をバラバラに解体された事、でもそれが再生して身体が増殖してしまった事、今は自分を殺した犯人を捜す為に警察と共に捜査している事――全てを弟に打ち明けた。
「……そんな」
 小柳から全てを聴かされて、和宏はこれ以上言葉が出なかった、
 普通だったら、こんな話を聴いても、まず信用は出来ないが、先程兄の身体が目の前で再生されていく様子を見た後となると、兄の話を信用せざるを得なかった。全てを理解するしかなかった。
 でも、理解したからと言って、素直に受け入れられるものでもなかった。
 まさか、そんな化物じみた身体の持ち主と血を分けていたなんて……。
 今目の前にいる男が、自分の兄だとは思えなくなってきた。

 金島が逮捕されて自身も無事に解放され、家に戻ると両親が神妙な表情で待っていた。
 でも、決して自分達を拒絶しようとしている訳ではなかった。
「ただいま」
「和宏、無事だったのね」
 母は俺の顔を見るなり、和宏を強く抱きしめた。父も安堵の涙を流している。
「お帰り」
「和宏が無事で本当に良かったわ」
「弟さんが助かったところで申し訳ないのですが、ご両親にちょっと尋ねたい事があるのですけど、よろしいでしょうか?」
「尋ねたい事?」
「はい。ご両親は、長男の和仁さんの体質について、ご存じだったのですか? お母様が『あれは気のせいではなかったのかしら?』と呟いていたのを弟さんが聴いたそうですが」
 それを聴いて母は動揺のあまり身体が震えた。
「そ、それは……」
 佐渡の鋭い質問に、母は戸惑いを見せたが、父がそれを制止した。
「私は、子供はおろか結婚もしていませんが、ご両親が子供の事を心配する気持ちは想像とはいえ理解出来ます。しかし、こんな状況になってしまった以上、お子さんにもきちんと全てを話す必要があるのではないでしょうか?」
 佐渡に説得されて、両親は困惑したが共に腹を括った様だ。
「……そうね。ここまで言われてしまったら仕方ないわね」
「本当は墓場まで持っていきたかったのだが、こうなってしまった以上は正直に打ち明けるしかないな」
 覚悟を決めた両親の真剣な表情に、三人は当初疑問を抱いた。
 もしや、両親は兄の体質について何か知っているのか?
「やはり、ご両親はお兄さんの体質について何か知っている様ですね」
 佐渡が鋭く問い詰めた。
「ちょっと、佐渡さん。そんなに詰め寄らなくても」
 両親に容赦なく迫る佐渡を兄は止めようとしたが、母は
「はい。知っているというより心当たりがあると言った方が良いでしょうか……」
 と前置きした。
「心当たり? それはどういう事なのですか?」
 母の口から意外な事実が告げられた。
「実は、和仁は赤ん坊の頃に小児性急性リンパ性白血病を患っていたのです」
「小児性急性リンパ性白血病?」
 兄も、今まで知らなかった事実を知らされて動揺した。小児性急性リンパ性白血病は、当時は不治の病と言われており、一度かかると完治出来ないとされていた。
 では、今ここにいる男性は誰なのか。
「か、母さん。それは、どういう事なんだ?」
 小柳は、自分を産んだ母に尋ねた。
「そのままの意味よ。あなたは生まれて一年も満たない頃に病気を患っていたの。あの頃は初めての子供を授かると喜んでいたけど、途中で具合が悪くなったから医者に相談したのだけど、不治の病だと告げられた時はとてもショックだったわ……」
 母は途中で言葉を詰まらせてしまった。当時の事が今でも辛い出来事だと感じているのだろう。
「初めて授かった我が子が死んでしまうという現実を知って私達は悲しみに暮れました。どうしてこんな事になってしまったのだろう。そんな事ばかり考えていました。そんな時、医者が私達に告げたのです」

「成功する可能性は低いですが、手術をすれば治ります。それに掛けますか?」

「それで、同意してしまったと……」
 佐渡が言葉を告げると、母は無言で頷いた。
「はい。あの時は藁にも縋る思いで、同意書にサインしました」
「その後、和仁さんは手術を受けたと」
「はい。手術が奇跡的に成功したと聴いた時は、とても喜びました。それ以降は何の病気や障害も無かったし、それで十分幸せだと思っていました」
「和仁さんの様子がおかしいと気付いた事はありませんでしたか?」
 佐渡からの質問に、母は俯いて口を閉ざしてしまった。
 そんな母親の内面を察したのか、父親が代わりに答えた。
「和仁が一歳になった時です。和仁が歩き始めた頃でした。近所の公園で遊んでいた時に、和仁が歩いてきたのですけど、その時に転んで怪我をしてしまったのです」
「怪我?」
「はい。最初はすぐに家に帰って治そうとしましたが、家に帰ると、先程の怪我が綺麗に消えていたのです」
「最初は気のせいだと思っていました。その後も特に事件や事故に巻き込まれる事は無かったので、その時の記憶も次第に薄れていったのですけど、まさかこんな事になるなんて」
 それを聴いた佐渡は神妙な面持ちで頷いた。
「……ちなみに、手術をした執刀医は、その後どうなったのですか? あと、出来ればその人の連絡先も教えていただけると良いのですが」
 佐渡からの頼みに、母は申し訳なさそうに答えた。
「いえ……もう三十年以上も前の事ですから、名前など覚えていません。仮に覚えていたとしても、今も生きているかどうか……」
「そうですか……」
 佐渡は目を伏せた。
「最初は、我が子が無事に生きてさえいてくれれば、それだけで良かった。でも、あんな事件に巻き込まれていなかったら、こんな事にはならずに済んだ。私達のせいで、和宏にまで迷惑を掛けてしまった……」
 母から打ち明けられた衝撃の事実に息子達は返す言葉が無かった。
「和仁、和宏、刑事さん、ごめんね……ごめんね……私達のせいでこんな事に……」
 それでも母は涙を流しながら、長男に何度も何度も謝った。父親も無言でただ頭を下げるだけだった。

 真相を知って、和宏は小柳と今後について話す事にした。
「兄さんの身体が増殖する理由が分かったのは良いけど、これからはどうするの?」
「増殖する様になった理由をマスコミに公表するかは警察と相談してから決めるよ。もしかしたら、それで父さんと母さんと和宏をまた追い詰めるかもしれないけど、これ以上、謂れの無い噂が広がったら困るからね」
「ところで、兄さんは今どうしているの?」
「この前、交通事故に遭ったせいで僕の体質がバレたから会社に戻れなくなったし、アパートにも住めなくなったから、今は警察署に住まわせてもらっている」
「警察署?」
「他に行く宛が無いし、今は重要参考人として捜査に協力しているから」
「そっか……」
「でも、いつかきっと必ず犯人を捕まえるから安心して」
「うん、分かった。それじゃあ、兄さんも気を付けて」
 和宏は兄と警察に別れを告げると、パトカーに乗る彼らを見送った。
 外はまだ寒さが残っており、吐いた息はうっすらと白かった。

語り部 小柳和仁1

 実家を離れて、パトカーの中で俺は佐渡さんと今後について話した。
「それで、これからどうするのですか?」
「マスコミに自分の事を全て話します。正直、これで正解なのかは分かりませんけど、ここまで混乱した以上やるしかないですから」
「遂にあなたも腹を括ったのですね。でも、覚悟を決めた行為が良い方向に向かうとは限りませんよ。場合によっては、ますます自分を苦しめる事になるかもしれませんし、周りを巻き込む事になるかもしれません」
 佐渡さんは眉を顰めながら答えた。僕の行動を心配しているのだろう。
「それでも、何も知らない人達をこれ以上巻き込む訳にはいきませんから」

 翌日、僕は警察を通じてマスコミに全てを打ち明ける事にした。
 ただ、僕はあくまで被害者かつ私人なので本名や素顔は一切公表せず、声明文を出すだけに留めた。

 この度は、数々の騒動で世間をお騒がせさせてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
 ご存知の方もいるかと思われますが、交通事故の映像に被害者として映っていたのは、紛れも無い僕の分身です。
 しかし、僕は元々皆さんと同じ普通の人間で、つい最近までごく平凡な生活を送っていました。
 ところが、三月十一日の夜、俺は何者かに襲われて、身体をバラバラにされてしまい、各地に遺棄されてしまいました。犯人は未だに捕まっていません。
 その時に、僕の身体が再生して増殖したのです。今は六人の僕が警察署に、保護されている他、バラバラ動画事件で解体された僕の分身が精神病院で入院しています。
 恐らく、僕の他にもまだ分身はどこかにいると思います。
 この度は、皆様に不安にさせ、世間をお騒がせした事については、深くお詫び申し上げます。
 しかし、僕自身は共にあくまで被害者であって、誰にも加害は加えていません。
 それなのに、増殖しただけで、周囲から気味悪がられ世間から迫害されました。
 皆さんが得体のしれない存在に対して、生理的に不快と感じる気持ちは理解出来ます。だからと言って僕を犯罪者同然に叩くのは、お門違いだと思います。
 この報道のおかげで、僕は会社に戻れなくなり近所のアパートにも帰れなくなり、弟が殺されかける事態にもなりました。
 僕だけではなく、家族にも被害が及びましたし、会社の人間、近所の人達にも迷惑を掛けました。
 これ以上周りに被害が及ばない様にする為に、今回声明文を出しました。
 僕はあくまで一般人なので、俺のプライベートに踏み込まないでください。

 それと同時に、犯人逮捕の協力も申し出た。
 ここまでバラしたのだから、ここはマスコミの力を借りても良いだろう。
 これを受けて、これまでの騒動は一旦静まると良いのだが、やはり話題が話題なので、また新たに世間を騒がせる事になるのであった。

視点 井沢公則

 先日、アパートを追い出された。
 原因は、家賃滞納。アルバイトをクビになって、新しい仕事を探したが、なかなか拾ってもらえず、三ヶ月分の家賃が溜まったある日、大家から簡易裁判を起こされた。
 これが決定打となり、井沢公則(いざわ きみのり)はアパートから追い出されてしまった。
 住居を失って以降、井沢はネットカフェに寝泊まりしながら暮らしていた。もちろん、職探しは続けた。
 だが、でも、大した職歴や資格も無い人間を雇い入れてくれるところはどこにも無く、単発アルバイトで喰い繋ごうと、そちらに連絡を入れようとしても、すぐに定員でいっぱいになるばかりでなかなか仕事にありつけず、財布の金もあっという間に底を尽きてしまい、ネットカフェに泊まる事すら出来なくなってしまった。
 携帯電話も料金が滞納していた為に強制解約されてしまっている。
 このままだと野垂れ死んでしまう。

 路頭に迷った末に、浮浪者仲間に勧められて、ゴミ捨て場を漁っていた時だった。
 井沢はペンキ缶を見つけたのである。しかも、中身はずっしりと重かった。ペンキよりも重い物が入っているのは間違いない。
 ペンキ缶の蓋を開けた。すると、コンクリートが詰まっていた。
「何だ、これ?
 これを見た瞬間、思わず呟いた。でも、そのコンクリートにはヒビが入っていた。何らかの理由で落ちた衝撃でヒビが入ったのかもしれない。
 かつて、土方の短期バイトをした事があったけど、コンクリートが固まるまでの時間は種類や天候・気候によって異なるが、主に二十四時間で固まる。だが、強度を完全なレベルにまで高めるとなると約四週間を要するという。
 多分、コンクリートを入れてからそこまでの日数は経っていない様だ。
 中身が気になった俺は、道路に叩きつけてコンクリートを割った。
 人間という生き物は退屈を嫌うもので、常に何か面白いものを求めている。
 かと言って、危険なものに身をツッコもうとするだけの度胸は無かった。それが元でこっちが命を落としたり酷い目に遭ったりしたら元も子も無い。
 本来なら警察に通報すべきところなのだが、この生首に違和感があった。
 遺体が全く腐敗していないのである。
 殺害された直後ならともかく、コンクリートの中で生首がこんなに綺麗な形で保存されているのは、いかにも不自然である。
 でも、この首の顔は見覚えがあった。今ネットで噂になっている増殖男だ。

 このニュースを初めて知った時は、井沢も食い入る様にして画面に見入った。最初に見た時は誰かが悪戯で書いたフェイクニュースかと思ったけど、SNSやネットでの熱狂ぶりと複数の目撃情報から本物だと分かった。
 ネットカフェで良い儲け話を探していた時も『現代の怪異 増殖男の情報、求む!』の見出しを見た瞬間、井沢は画面に喰らいついた。
 普段のオカルト話なら、信憑性が疑われる眉唾モノだが、こちらは目撃情報やSNSが話題になっており、彼が増殖・再生されていく様子を映した動画や写真もネット上に上がっている。
 これだけ現実味のある都市伝説は見た事が無い。
 ネット上では、既に憶測が広まっているが、どれも真実味が無いものばかりだった。
 でも、井沢はこれを見てある事を思い付いた。
 まだ、誰も知らない増殖男の情報を売れば、大金が手に入るのではないか。
 そう考えた井沢は、増殖男を利用して一儲けする事にしたのである。これなら、人生一発逆転が出来るのではないかと思ったが、そう簡単に上手い情報は手に入らなかった。
 何でも、増殖男はすぐさま政府によって捕獲されてしまうらしく、動画で流されたもの以外では、なかなか目撃されていない。あと、捕獲された増殖男は人体実験にされているらしい。いかにも漫画に出て来そうな噂である。
 しかし、あれだけ増殖するなら、実際に街で一人や二人見掛けてもおかしくないと思うのだが……。
 いっそ、国が独り占めをせず、何人かはこちらに寄こしてもらいたいものだ。どうせ、減るものではないのだからと、愚痴をこぼしても例の増殖男はこっちからは歩いてこない。
 その結果、財布の金が尽きてしまった。

 しかし、何でこんな立派なものが捨てられていたのだろう。死体隠しなのか。
 本来なら警察に通報しようかと思ったが、携帯電話を持たない井沢は通報する手段が無かった。だが、ある事を思い付いた。
 もし、これが本当に増殖男の首なら利用出来るのではないか。そう考えた井沢は試しに近くにあったガラスの破片で男の首に傷を入れた。すると、男性の首の傷は急速に消えていった。
 本物だったら、胴体が再生されてもおかしくないけど、首だけとはいえ、再生されるなら使えるのではないか。そう思った井沢は、ある事を思い付いた。
 これさえあれば、元の生活が手に入る。あわよくば、一発逆転出来る。
 そう思った井沢は、早速闇金からお金を借りて、ネットショップのパソコンから広告文を打ちこんだ。

『噂の増殖男の細胞 一平方cm十万円で売ります!

 増殖男の細胞を手に入れました。
 死んだ人を生き返らせたい。再生能力を手に入れたい。不老不死になりたい。永遠に美しくありたい。そんな人はぜひこの細胞を使って下さい!』

 これならバッチリだ。
 パソコンで打った宣伝文を見て満足した井沢は送信ボタンを押した。

 数日後。
 期待したが、やはりそう上手くはいかなかった。せっかく闇金からお金を借りて、ネットカフェのパソコンからショッピングサイトで宣伝文句を書いたのに、購入してくれる人は誰もいなかった。
 井沢は焦った。
 このままだと支払いが滞って海に沈められる。
 そんな不安に駆られた時だった。
『一件の申し込みがありました』
 それを見て、井沢は目を大きく見開いた。こんな怪しい宣伝文句に喰いついて来る奴が本当にいるのか。
 こんなところに応募してくる奴は、余程のバカか冷やかし目当てだろう。
 でも、これはチャンスだ。
 上手くいくかどうかは分からないし、もし苦情が来たらドンズラすれば良い。商売を始めた時点で地獄に堕ちる覚悟はとっくに出来ている。
 送り主は都内に住んでいる。今送れば、翌日には届くだろう。
 井沢は、皮膚を小さなケースに入れて、いかにももっともらしい文章を書いたデタラメの説明書を封筒に付け加えて、送った。

 二日後。
 お問い合わせのメールが来た。早速内容を読んだ。
『販売者様へ

 この前は増殖男の細胞を送ってくださって、ありがとうございました。

実を言いますと、これを申し込んだ二日前に婚約者が交通事故で亡くなったのです。
 今月入籍をする予定だったのに突然の死を迎えた事を知った当初は、絶望に打ちひしがれていました。
 どうして、彼女がこんな目に遭わなくてはいけないのか。どうして彼女は死んでしまったのか。僕は神様を酷く恨みました。
 今すぐ彼女を返して欲しい。それが出来るなら、他は何もいらない。
 そう思っていた矢先、増殖男の細胞の噂を知りました。
 彼女を生き返らせる為なら何でもしたい。そう思った僕は藁にも縋る思いで、申し込みました。
 そして説明書に書かれた通り、細胞を彼女の口の中に入れたところ、彼女は生き返りました。
 まさか、こんな事が起きるなんて。まるで夢の様でした。
 それを見て、これは本物だと思いました。
 今思えば、かなり切羽詰まった行為だったと思いますが、あの時増殖男の細胞と出会えて本当に良かったと思っています。来月、僕達は挙式を上げます。
 僕の大切な婚約者を生き返らせてくださって、本当に感謝しています。ありがとうございました』

 文章を読み終えて、井沢は驚いた。単なるデタラメで書いたものだけど、あの細胞は本物だったのか。だとしたら、まさに嘘から出た真である。
 でも、あれが本物だったと分かると井沢は力強い確信を得た。
 これなら、いける。

語り部 小柳和仁2

 声明文発表から数日が過ぎた。
 この事は大きく報じられてしばらくの間世間を騒がせた。
 しかしながら、バッシングの数は少なく応援のコメントを読んだ時は自分の行動が決して間違いでは無かったと安堵した。
 時にメディア出演のオファーも殺到したけど、全て断った。別に有名になりたくて出た訳ではないから。
 声明文を出したとはいえ、安全に外に出るにはまだ早いので、以後も大人しく警察署で過ごす事になった。
 匿われている身とはいえ、いつも警察署の中で過ごすのは窮屈だ。
 とはいえ、少なくとも騒動が納まるまでは気軽に外に出る訳にもいかないので、ジッとしているしかなかった。
 僕はいつもの様に警察署の食堂で昼食を終えて、食堂を出ようとした時である。
「あの……すみません」
 警察署に二十代前半の女性が入って来て、僕に声を掛けた。
 艶のある長い黒髪に美しく整った顔立ちで、いかにも清楚な雰囲気である。
 正直、振り向いて顔を見た瞬間に惚れてしまいそうになった。
 でも、この女性は初対面である筈なのに初めて会った気がしない。何というか、とても懐かしい感じがする。
 でも、僕はこの女性の事を未だに思い出せずにいた。近所や職場にもこんな人はいなかった。彼女は一体何者なのだ?
 女性は僕を見て尋ねた。
「あの……あなたは、小柳和仁さんですか?」
「はい。そうですけど」
 しまった。声を掛けられて思わず返事をしてしまった。しかし、僕の名前を呼んだという事はやはり彼女は僕を知っているのか。
 冷静に考えてみれば、動画で顔出ししてしまった以上、知っていてもおかしくないか。
 
「実は、あなたに相談したい事がありまして」
「相談ですか。言っておきますけど、僕は警察官ではないですよ。事件について相談したい事があるなら、窓口を通してもらえませんか? 場所まで案内してあげますから」
「いえ、これはあなたにも関係しているのですよ」
「それはどういう意味なのですか?」
 僕の質問に、女性は「えーっと……」と口をどもらせた後、答えた。
「ここで話すのもアレなので、別の所で話をしませんか? よろしければ、他に女性の方連れて来てください」

「それで、選ばれたのが私なのですか? 中村由香里(なかむら ゆかり)さん」
 警察署にやって来た女性――中村由香里さんを相談窓口に通した上で、佐渡さんは事情を把握した。
「はい。それとこれは小柳さんにも深く関係している事なのです」
「もしかして、小柳さんが襲われた事件について知っているのですか?」
「いえ、そっちの手掛かりではないです。ただ、ちょっと見てもらいたいものがあるのですよ」
「見てもらいたい事? それは何ですか?」
 僕が尋ねると中村さんは
「こういうのは説明するより実際に見てもらった方が早いと思いますので、ちょっと待っててください」
 と言って、席から立ち上がった。
 何をするのかと思いきや、ワンピースの背中のチャックを下ろして、服を脱ぎ始めた。
「えぇっ?!」
 まさかの展開に僕は口をあんぐりと開けてしまった。ワンピースが床に落ちた後、今度はブラジャーのホックを外した。
 僕は罪悪感と羞恥のあまり、両手で目を覆い隠した。
 恋人とのセックスやストリップショーならともかく、こんなところで女性の生まれたばかりの姿を見てしまうのは、かなりマズイのではないか?
「大丈夫ですよ。裸を見られたからと言って、叫ぶ事はしませんから。寧ろ、あなたに見てほしいのですよ」
 中村さんは平然とした口調で返すが、やはり抵抗がある。
「そう言われましても、さすがに女性の裸を見るのは……」
「いえ、見て欲しいのはそっちではないのですよ」
 それを言われて、僕ば「えっ?」と声を漏らした。
「手を下ろしてください」
 僕は恐る恐る手を下ろしてそっと目を開けた。
 そこに見えたのは一糸まとわぬ裸体を恥じらいも無く晒した女性の姿だった。華奢ながらも艶めかしいボディラインであり、男としての本能が勝ってしまいそうだった。もちろん、実際に手を出す事は絶対にしないけど。
「あ、あの……自分の身体を見て欲しいと言っていましたけど、一体何が目的なのですか? まさか身体を売る事が目的ではないでしょう?」
 僕は女性の裸体を眼前に狼狽しながらも、どうにか理性で制御しながら女性に訊いた。
「あっ、別にそっちが目的ではないので安心してください。今から見せますので」
 女性がそう告げた途端、彼女の顔が変化した。
「なっ!」
 まさかの変化に、僕は閉口せざるを得なかった。
 女性の顔が更けて、先程までの清楚な美貌と艶のある肌も急速に色褪せていき、背中まであった長く真っすぐな黒髪も急速に短くなっていった。
 更に、僕よりも若干低めだった身長も一気に僕と同じくらいの背丈まで伸びた。
 程良く丸みを帯びた柔らかみのある乳房も筋肉が発達した胸板へと変わり、か細いウエストや手足も一回り太くなった。しかも、性器も変形していった。
 肉体の急激な変化が終わった後、僕は女性の顔を再び見た。すると、先程までいた清楚な女性の姿は消えてなくなり、代わりに現れた人物に、僕は口を開いた。
 そこに立っていたのは、紛れも無い小柳和仁――僕の分身だった。
「これって……」
 突然の変身に、僕は唖然とした。
 すると、先程まで女性だった彼は答えた。
「男の姿で女性の下着や服を身に着ける訳にはいきませんから」
 なるほど。先程、女性が見て欲しいと言って服を脱いだ理由は、これだったのか。
 そりゃそうだな。そもそも僕に女装趣味は無い。もし、女物の服を着た自分の姿を目の当たりにしたら、当分の間は間違いなく悪夢にうなされる。
 一方、女性の佐渡さんは目の前で起きた異変に対しても冷静な態度を崩さなかった。
「ハニートラップには使えるかもしれませんが、こんなものを小柳さんと私以外の人に見せたら失神モノでしょうね」
 と返した。放っておいてくれ。
「それにしても、どうしてこんな事が起きたのですか?」
 佐渡さんは分身に理由を尋ねた。
「僕も分かりません。ただ、気付いた時には先程の女性の姿になっていました」
「えぇっ?! 女性の姿になっていたのですか?!」
 驚く僕に対して中村さんは「はい」と答えた。
 女性の姿になる事が有り得るのか? そんな話は、僕ですら聞いた事が無い。
 佐渡さんは事情を聴く為、中村さんの分身にいきさつを尋ねた。
 さすがに全裸のままでいさせる訳にはいかないので、女性の姿に戻ってもらってから彼女(?)に事情を説明してもらう事にした。
「僕が変身した女性の名前は、中村由香里さんと言います。年齢は二十四歳です。かつては花屋でアルバイトをしていたのですが、そこで偶然花屋を訪れた筑地義和(つきじ よしかず)さんと知り合いました。中村さんに一目惚れした筑地さんが中村さんにアプローチをした末に交際を始めて、先月婚約もかわして結婚を控えていました。ところが、二週間前に中村さんが交通事故で亡くなったのです」
「そうだったのですか」
 確かに、大切な人が死んだショックはあまりにも大きいだろう。それこそ筆舌しがたいものである事くらい、想像はつく。
「でも、筑地さんは中村さんの死を受け入れられなくて、どうにか中村さんを生き返らせたいと思って、ネットで探したそうです」
 まさかの展開に、僕は口を挟んだ。
「おいおい。大事な人を失って辛い気持ちは分かるけど、死んだ人を生き返らせようとするなんて、そんな事をネットで調べてもまず見つからないに決まっているだろう。仮にそんな情報があったとしても、間違いなくデタラメだと分かるだろ」
 フィクションの世界ならともかく、そんな事を実行するのは興味本位でもない限りやらない。もしかしたら、いつかそれが実現する日が来るかもしれないけど、現代の医療技術ではまず不可能だろう。
「そうですよね。でも、筑地さんは死んだ人を復活させる事が出来ると書かれたページに辿り着いてしまったんです」
「それって……もしかして黒魔術の類ですか?」
「そんなオカルトじみたものではありませんよ。もっと信憑性と確実性のあるものがあるじゃないですか。あなたもすぐに分かるものです」
 その言葉を聴いて、僕は少し考えた。まさか!
「僕の細胞を使ったとでも言うのか?」
 僕の回答に、中村さん(に変身した僕の分身)はこくりと頷いた。
「その通りです。筑地さんは増殖男の細胞を販売しているページを見つけてしまったのですよ」
 まさか、そんな如何わしい事をしている連中がいたのか。しかも、そんな馬鹿馬鹿しい通販に手を出すなんて。
「あの時の筑地さんは、藁にも縋る思いだったのかもしれません。彼は中村さんを生き返らせる為なら、悪魔に魂を売っても良いと思っていたのでしょう」
「それで、購入してしまった訳か」
「はい。購入した増殖男の細胞を中村さんの口に入れたら、何と中村さんは生き返ったのです。と言っても人格は僕、小柳和仁なのですけどね」
「それで、筑地さんという人から自分が生き返った経緯を聴いたのですか?」
「はい。筑地さんからその話を聴いて納得しました」
「……ちなみに、元の姿に戻れると分かったのは、いつですか?」
「お風呂に入っていた時ですね。突然、女性になってしまってこれからどうしようかと悩んでいたので、鏡を見ながら元に戻りたいと思っていたら、突然身体が変化して気付いた時には元の姿に戻っていました。その瞬間、筑地さんの声が聴こえて来たので、この姿を見られたらいけないと思った瞬間、また中村さんの姿に戻っていました」
「つまり、変身は自分の意志で自由に出来るという事なのか?」
「そうですね。なので、あなたと会う以外はこの姿でいようと思うのですけど……」
「でも、いつまでも中村さんのフリをし続ける訳にはいかないでしょう。万一バレたらどうするのですか?」
「その辺は、心配ないと思います。中村さんの記憶は全て僕が引き継いでいるので、一応中村さんのフリをする事は出来ます」
 つまり、移植された人の記憶や知識は引き継げても人格は僕のままという訳か。しかし、もしこの事を彼らが知ったら、大問題となるに違いない。
「でも、中身は中村さん本人ではないでしょう。それに、趣味とか趣向とかはどうなるのですか? たとえ覚えていても、本人に合わせる事は出来ないでしょう」
 僕は中村さんを説得した。でも、中村さんは自虐的な笑みを浮かべながら
「それでも、筑地さんがせっかく苦労して手に入れた幸せを僕が壊してしまう訳にはいきませんから……」
 と答えた。その表情には、僕は返す言葉が無かった。
 もし、僕が彼女と同じ立場だったら、全く同じ行動を取っていただろう。せっかく生き返ったのに、それが他人の振りをした僕だと知ったら、どんなに辛い事か。いくら記憶を引き継いでいるとはいえ、それもどこまで通じるか……。
「ところで、そのサイトはまだあるのですか?」
「はい。先程調べましたが、まだあります。細胞の効果が本物だと証明された以上、世間からかなり注目を集めると思います。注文数もきっと爆発的に増えるでしょう」
 その言葉に僕は絶句した。
「つまり、もしこのまま注文が殺到して購入する人が現れたら。僕の人格を持った他人が増えるかもしれないという事ですか?」
「そういう事になりますね」
「でも、本当にそれで良いのですか? 僕達は他人とは違う能力を持っているけど、だからと言って万能ではないのですよ」
「分かっています。でも、筑地さんや中村さんのご両親が喜ぶ顔を見ていたら、本当の事を話すなんて、とても……」
 中村さんは、目を涙で潤ませた。
「と、とにかく、会議室に行って事情を話されてはどうですか? あと、その細胞を購入したというページのアドレスも教えてください」

「それで、どうしたいのですか?」
「決まっていますよ。これ以上、被害者を増やさない為にも、犯人を捕まえるのですよ」
 僕達が購入先を突き止めて、今すぐ販売先に中止を求めようと説得したのだが、
「それは出来ませんね」
 まさかのNOだった。
「どうしてなんですか?!」
 今までほぼ最強超人ぶりを見せつけていた佐渡さんだったのに、彼女にも出来ない事があるのか。
「小柳さんの人格になったとはいえ蘇生している以上、効果は本物なのですよね。つまり消費者センターからの相談も今のところ無いという事になります。つまり現時点では被害も無いからですよ。被害届が出ないと、警察も動けませんからね。確かに胡散臭い商品ですが、詐欺と証明する事は難しいでしょう。それに、詐欺は私の管轄外ですから」
 聴いた話によると、詐欺などの知能犯罪は刑事部第二課が担当するのである。殺人や傷害など凶悪事件を担当する第一課の佐渡さんには手が出せないのである。
「とはいえ、その蘇生の仕組みは私も気になりますね。そもそも本物の細胞だったら郵送している途中で再生するのではないですか?」
 そう言えば、そうだった。自分の事なのに、すっかり忘れていた。怪我や損傷の度合いにもよるけど、数日掛けて再生はしなかった。
 謎の現象に頭を抱える僕達に、佐渡さんは口を開いた。
「腑に落ちないが、こうなったらあの男の手を借りるしかないな」

「やっほー、来たよ来たよ来たよ来たよ、遂にこの日が! いやぁ、私の研究がこうして捜査の役に立つなんてねぇ。やっぱり、研究する材料に無駄なものはないねぇ。フフフフフフ……」
 佐渡さんが呼んだのは、人体実験と称して散々小柳1の身体をいじくり回してきたマッドサイエンティスト・大森賢一である。
 今回、自分の研究結果の発表を踏まえて、捜査会議に参加出来る事が出来ると聴いて、大森さんは物凄く張り切っている。
 大森さんはホワイトボードに、今までの研究成果が書かれた写真を貼り付けて説明した。
「さてと、今回は増殖男・小柳和仁の細胞について私の研究成果を踏まえた上で報告しよう。まず、彼の細胞は損傷の度合いによって事なるが、軽い怪我なら怪我から数分経ってから数秒から数分で治癒する。事件当初バラバラ遺体で発見された状態だと、約十二時間経ってから三十分掛けて再生された。ただ、何度も負傷・殺害されると再生・治癒するスピードも次第に早くなっていく事が分かった。殺害動画を公開された時もかなり急速に再生されていたからね。しかし、どの細胞からでも再生されるとは限らない事が分かった」
 大森さんから明かされた、まさかの事実に席にいた人達は騒然とした。
「それって、どこなのですか?」
 小柳4の質問に大森さんは人差し指を立てた。
「それは皮膚と髪だ。君達も、よく皮膚が剥けたり髪が抜け落ちたりする事があるだろう。あれはそのまま放置するだけなら何の変化も起きなかった」
 それを聴いて、僕は手を上げて質問した。
「すみません。放置するだけなら、という事は何らかの条件で変化が起きるという事ですか?」
 すると、大森さんは僕を指差した。
「良いところに気付いたね。そうだね。試しに実験用のマウスに君の皮膚を食べさせた。すると、面白い事が起きたよ」
 と、大森さんは机の下から小さな檻を取り出した。中には白いネズミが入っていた。大森さんは、鍵を開けて中のネズミを外に出すと、ネズミに声を掛けた。
「さぁ、皆の前でアレを見せて」
 すると大森さんの呼び声に反応するかの様に、ネズミの身体は急激に大きくなり、前足は床から離れて尻尾は短くなって消え、髪も生えた。
「最初見た時は、人類の進化を急速に早送りした映像を見ている様で物凄く興奮したよ!」
 大森さんは目を輝かせながら語った。つまり、ネズミに僕の皮膚を食べさせたら僕に変身したのか。
「そう。だから中村さんの様な事例が起きても別におかしくはないと私は考えている」
 なるほど。中村さんが蘇生した理由は分かった。
「じゃあ、犯人が僕の細胞をどうやって手に入れたのか、大森さんはどう推理しているのですか? 僕だったら、自分の細胞を売買目的で他人に渡す事はしません」
「そうだね。君の性格からして、自分の細胞を使って怪しい商売に手を出すとは、とても思えない。でも、増殖・再生能力を除けば身体能力こそ普通だから、力尽くで君を監禁・拘束すれば何ら造作も無いだろう?」
 物騒な事を言うが、その通りだった。実際、僕も大森さんからスタンガンで気絶されて気付いた時には拘束されていた。
「つまり、もしかすると材料としている僕の分身は犯人に監禁されているかもしれないという事ですか?」
「そうだね。だとしたら、詐欺罪だけではなく監禁罪も適用される」
 大森さんは、にやりと笑みを浮かべた。
「分かった。ならば、犯人に接触しますか」
 佐渡さんは素早い判断をした。
「中村さんはどうするのですか?」
「中村さんは今の姿のままで生活してください。絶対に小柳さんの姿を人前で晒さないでください。バレたら大変な事になりますから」
「分かりました」
 中村さんは佐渡さんにお辞儀をした後、警察署を去って行った。
 自分達では、手に負えない事態に僕達は唇を噛むしかなかった。

「で、今後どうすれば良いのでしょうか?」
「どうする事も出来ませんよ。購入者からの苦情が殺到してからじゃないと、警察も動けませんから。せいぜい、購入者が飲ませた人の異変に気付かない限り無理でしょうね」
 確かに事件が起きてからじゃないと動く事は出来ない。
 だったら、僕の人格になった被害者本人が警察に行けば良いのではないかと思うかもしれない。
 でも、中村さんは言っていた。
「それでも、筑地さんがせっかく苦労して手に入れた幸せを僕が壊してしまう訳にはいきませんから……」

 細胞を飲んでもその人は完全に生き返らない事を伝えたところで、相手は信じてくれないだろう。仮に証明したところで、再び絶望に突き落とすだけだ
 一体どうすれば良いのだ。
 そんな時、僕のスマートフォンが鳴った。
「誰からですか?」
 佐渡さんが尋ねた。
 画面には、中村さんの名前が表示されていた。
 中村さんが警察署を出る前に、彼女と連絡先を交換している。こんなにも早く連絡が来るなんて。
「もしもし、中村さんどうしたのですか?」
 僕の問いに、中村さんは震える様な声で告げた。
「御免なさい……家に帰れなくなってしまいました」
「どういう事なのですか?」
「実は、僕が筑地さんと買い物から家に帰る途中、通り魔に襲われたのです」
「通り魔?」
「はい。先に僕を庇ってくれた筑地さんが刺されて、僕を襲ってきたのです。僕も必死で抵抗したのですけど、女性の姿では敵わなくて、通り魔がナイフで僕を刺そうとした瞬間に急に力が湧いてきて通り魔を取り抑えた事で、後から駆けつけた警察官に現行犯逮捕されたのですけど……」
 会話を途中で止めてしまった中村さんの言葉に、僕は彼女が言おうとした事を答えた。
「その時に、元の姿に戻ってしまったのか」
 僕の問いに、中村さんは弱々しく「はい」と答えた。
「それを見た筑地さんから突然『由香里を返せ! 由香里をどこへやった!』と言って、僕を殴りながら問い詰めてきたのです。周りの人から取り押さえられたのですが、最後は『由香里の姿をした化物め!』と罵って、その場を立ち去ってしまいました。だから、家に帰る事は出来なくなりました」
 何という災難だ。
 自分が生き返らせたにも関わらず、正体を知った途端に見捨ててしまうなんてあまりにも身勝手すぎる。
 幾ら、生き返らせた相手の正体が偽物だった事がショックだったからとはいえ、元はと言えば君が生き返らせる事を望んだからじゃないか!
 僕は中村さんの話に、憤りを隠せなかった。
「それで、これからどうするのですか?」
「小柳さんが今住んでいるところに泊めてもらっても良いですか?」
「良いですけど、今は警察署の道場に住んでいます。あそこは僕の分身が住んでいますから事情を説明すれば何とか……」
「それでも構いません。雨風を十分に凌げる場所なら大丈夫ですから」
 こうして、中村さんも警察署で過ごす事になった。

視点 井沢公則

「スゲェ、まだ一ケ月も経ってないのに、これだけの金が手に入るなんて……」
 増殖男の細胞の販売を始めて、あっという間に大金が手に入り、闇金に借りた金は全額返済した。
 偶然拾った首の細胞がこんなに人々を幸せにするなんて、何て幸運なのだろう。
 お問い合わせにも、感謝のメールや電話が続々届いた。
 今すぐ増殖男を神様として祀り上げたい気分だった。
 細胞もすぐに戻るから、売り切れる心配は一切無いし、嘘ではないのだから、詐欺と訴えられる心配も無い。これ程まで旨い商売があるだろうか。
 井沢は脳内であらゆる事を妄想した。
 会社を興して増殖男の細胞の素晴らしさを世に広め、ゆくゆくはマスコミに若手起業家、時代の籠児として取り上げられて、世界に名を馳せるだろう。
 そんな思いを抱きながら更に数日が経ったある日の事だった。

 携帯電話に電話が鳴った。
「はい、イザワオフィスです」
「あの……すみません。この前、お宅の細胞を購入した者ですけど、ちょっとお尋ねしたい事がありますので、ちょっとよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
 受話器の向こうから聞こえたのは女性の声だった。それなりに年齢がいった人だと思われる。
「実は交通事故で亡くなった主人の口に細胞を飲ませて生き返らせたのですけど、それ以降主人の様子がおかしいのですよ」
「様子がおかしい? それは具体的にどういう事なのですか?」
「主人は、かつてはアウトドアやドライブが趣味だったのですが、生き返ってからその様な事は一切しなくなったのです。性格も大人しくなってしまって、人付き合いは悪くないのですけど、以前と比べると大分性格が変わりましたね」
「そうですか……それは恐らく交通事故で一度亡くなった事がトラウマになって、性格が変わってしまったからかもしれませんね」
「最初は私もそう思ったのですけど、仕事でも今までは身体に染みつく程、手際が良かったのですけど、生き返ってからは仕事こそこなせるのですけど、今までより時間が掛かってしまって……」
「そうですか。恐らくまだ細胞が完全に定着出来ていないのかもしれませんね。あと、一ケ月すれば定着すると思いますので、その後も改善されなければまたお電話ください」
「分かりました」
 とりあえず、適当に誤魔化しで逃れた。

 しかし、その後も似た様なお問い合わせのメールや電話が続々届いた。
「この間、病死から生き返った小学生の息子がいじめっ子を返り討ちにした時に身体が急激に大きくなった等の報告があり、PTAで問題になりました。あれは一体どういう事なのでしょうか? 至急返事をお願いします」
「ウチの可愛いペットが生き返ったのは良いのですが、今まで好物だったペットフードをほとんど食べなくなりました。動物病院でも診てもらいましたが、特に体調は問題ないと言われました。でも、今まで好物だったものを食べないなんておかしいです。何が原因なのでしょうか?」
「自殺した美術学校の生徒を蘇らせたのですが、死亡前と比べると格段に画の腕が落ちました。彼は元々将来有望と目された貴重な宝なので、こんなところで腐らせる訳にはいきません。どうにかしてください」
「この前、通り魔で被害に遭った女性が突如男に変身して犯人を取り押さえる事件がありました。あの人も、増殖男の細胞を使ったという噂を聴きました。何か裏があるのではないでしょうか?」
 こんな苦情が集まって、井沢は次第に嫌気が差して、携帯電話の電源を切ってメールも見なくなった。
 性格が変わった? 趣味まで変わった? 腕が落ちた? 変身した?
 そんな現象が起きたと言われても、そんな怪奇現象を信じる訳が無かった。
 今の自分は人類の希望、もはや神になる男だと妄信していた。
 それでも、未だに申し込みが来るのだから今は安泰だ。きっかけはともかく、別に詐欺をしている訳じゃないのだから。
 その後も苦情メールや電話は全てスルーしていた。そんな時である。
『国民生活センター』
 その送り主を見て井沢は固唾を飲んだ。
 だが、こんなのただの悪戯に決まっている。皆自分に感謝してくれたじゃないか。きっと俺の成功に嫉妬してこんな嫌がらせのメールを送ったに違いない。
 そう思った井沢は、メールを一切見ない事にした。

 その時突如、扉のノック音が鳴った。
「すみません。警察の者ですが、井沢公則さんはいらっしゃいますか?」
 まさかの警察に、井沢は額から静かに汗を流した。
 こんな所に警察が来るなんて。
「例の細胞の件についてお伺いしたい事があるのですけど」
 せっかく、神細胞を手に入れたと思ったのに。自分が世間から天才実業家と崇められる時が来ると思ったのに。
「このままでは、マズイ」
 そう思った井沢は、考えた末にある事を思い付いた。
「あれを使えば、まだイケる」

語り部 小柳和仁1

「すみません。井沢公則さんですか?」
 小太りな中年刑事――刑事課第二課の竹内(たけうち)さんが扉をノックして声を掛けたが、返事が来なかった。中に人がいないのだろうか。
 その時、部屋の向こうから何かを力強く叩きつける音が聞こえた。
 それに気付いた竹内さんがすぐさま管理人から貰ったマスターキーを使って、扉を開けた。
 窓は開けっぱなしになった状態で、カーテンが風に靡いていた。もしかして、単なる騙しかと思って風呂場やトイレも調べたけど、井沢の姿はおろか、僕の分身すらどこにも見当たらなかった。
 竹内さんは答えた。
「犯人は逃げた様だな」
「そうみたいですね。それに分身の姿はどこにも見当たらなかった」
「でも、どこに?」
 竹内さんは窓から顔を出して下を見た。
 ここは、八階の部屋である。下には道路があるだけで下には血痕が残っていた。ここから落ちたら即死、たとえ奇跡的に助かっても身体が不随になるのは避けられない。いずれにしろここから逃げるのは不可能だ。
 だが、井沢の遺体はどこにも見当たらなかった。
 その時である。竹内さんの携帯電話から着信音が鳴った。
「どうした、今捜査中だぞ」
 竹内さんは不満げな声を漏らすが、すぐさま緊迫した表情へと一変した。
「分かった。今すぐ犯人を捕まえる」
 そう言うと、竹内さんは電話を切った。
「竹内さん、何があったのですか?」
「井沢の居場所が分かった。アイツ、やっぱり部屋の窓から飛び降りていた。現場の近くにいた人から通報があったから間違いない」
「でも、あの部屋は八階にありましたよね。あそこから飛び降りたら、普通は死ぬんじゃ……」
 その時、僕はハッとした。竹内さんもそれに頷いた。
 まさか、彼は?!

視点 井沢公則

 窓から飛び降りた後、井沢は街の中を疾走した。
 やはり、この細胞の威力は本物だと確信した。
 テンパって自ら細胞を飲み込むと、すぐに効果を発揮した。
 転落死する可能性もあったが、警察に捕まるくらいなら死んだ方がマシと思って、井沢は窓から飛び降りた。
 あの時は死んだと思ったけど、この通りあっという間に元通りだ。
 服は血塗れのままだが、着替えは無い。でも、こんな所で人生大逆転のチャンスを手放す訳にはいかなかった。
 そんな時、血で濡れた箇所が盛り上がって来た。
「えっ? な、何なんだよ?」
 予想外の事態に井沢は焦った。そう言えば、SNSで血痕から赤い化物が現れたという目撃情報があった事を思い出した。
 その盛り上がりは、どんどん大きくなり井沢の顔に腕を伸ばしてきた。
「ひいいいいいいっ!」
 恐怖を感じた井沢はすぐさま上着を脱ぎ捨てて、上半身裸で街の中を走った。
 しかし、彼の後を追い掛けてパトカーが何台もやって来た。
 それを見て身の危険を感じた井沢は、すぐさま地下通路に逃げた。
 地下通路を通った先は地下鉄だった。周囲には大勢の人がいる。それでも周囲の視線などお構いなく井沢は駅内を走り抜けて、切符売り場を探していた時である。
「見つけたぞ!」
 大勢の警察が駆けつけて来た。後ろには警察官がいる、応援まで呼んでいた。
 刑事が井沢に向かって告げた。
「井沢公則、詐欺容疑で逮捕する!」
 刑事が井沢に近付き、手錠を掛けようとする。
「い、嫌だ……俺が何をしたって言うんだよ。これは本物なんだぞ! あの細胞のおかげで、どれだけの人が生き返ったと思っているんだよ!」
 井沢は必死で反論した。
 だが、刑事の隣にいた男性が俺に告げた。
「確かに、それは紛れも無い本物です。人が生き返ったのも事実です。でも、君が思っている様なものではないんですよ」
「思っている様なって、どういう事なんだよ!?」
 井沢は隣にいた男性に叫びながら問うた時である。

――逃げるな。

 頭の中に強い声が響いてきた。男の声だ。
 だが、声の主が誰なのか分からず、井沢は辺りを見渡した。だが、それらしき人物はどこにもいなかった。
 しかし、謎の声はどんどん大きくなっていく。
「お前は誰だ?!」
 井沢は頭の痛みを抑えながら謎の声に怒鳴った。

――僕を飲み込んだ以上、君にはもうどこにも逃げ場所は無い。

 そう呼び掛けるが、井沢は必死で叫び続ける。
「うるさい! 俺はまだこんなところで終わりたくないんだよ! そもそも、飲み込んだって何なんだよ! 俺は、こんなどん底の人生から抜け出してやるんだ!」
 脳に響く謎の声は井沢に訴え続ける。

――君はもうどん底から抜け出す事は出来ない。この先、君を待っているのは無だ。

「黙れ!」
 井沢は謎の声に向かって、再び怒鳴った。
「なぁ、頼むよ。誰か、俺を助けてくれよ!」
 それでも、男性の声は何度も何度も木霊して井沢の頭の中を支配していく。

――君は、もう終わりだ。

 この言葉を最期に、井沢公則の意識は途切れた。

語り部 小柳和仁1

 突如、井沢が周囲に怒鳴り散らし誰に話しかけているのか分からなかったが、最後は発狂して目の前で倒れてしまった。
 その隙に、竹内さんが彼の両手首に手錠を掛けた。
「井沢公則、詐欺容疑で逮捕」
 警察官が犯人の両肩を抱きかかえながら、パトカーに運んで行った。

 ようやく事件を終えた後、僕は竹内さんに尋ねた。
「犯人の様子はどうでしたか?」
「警察に着いた頃には意識を取り戻したので、すぐに取り調べを受けました。でも、おかしな事がありまして……」
「おかしな事?」
「まるで、他人事の様に話すんです」
「他人事?」
「はい。『彼はあの時、仕事をクビになって家賃が払えなくなって家を追い出されたので、ゴミ捨て場でゴミを漁っていたら僕の生首を見つけた』と言っていたのですよ」
「それ、何だか僕の分身の視点で語った様な内容ですね」
 それを聴いて、中山さんが割り込んだ。
「それ、もしかして井沢さんも小柳さんの人格に変わってしまったからではないでしょうか?」
「えっ?」
 ぶっ飛んだ推理だったからか、竹内さんが目を大きく見開いた。
 まさか、死人でなくても乗っ取りが可能なのか。
 そう言えば、実際に大森さんが研究成果の発表でこんな事を言っていた。
「実験用のネズミに皮膚を食べさせてみた」
 実際に、そのネズミが僕に変身していく様子を僕達は目の当たりにしている。あれを思い出していれば、すぐに分かったのに。
「そうなった場合、容疑者の意識はどこへ行ったんだ?」
 竹内さんの質問に、中山さんは一時沈黙して答えた。
「僕の人格になった以上、蘇生した人の人格は消滅しています。死んだも同然でしょう」
 それを聴いた竹内さんは悲痛な表情に変わった。だが、すぐさま中山さんがフォローした。
「でも、容疑者の記憶は全て受け継いでいるので、取り調べを受ける事は可能です。少なくとも、犯行の動機や首を拾った場所は聴けると思います」
 それを聴いた竹内さんは、
「そうか。なら出来る限り調査を進めるよ。実質、容疑者死亡にはなるかもしれないけどね」
 少し複雑な表情を見せながらその場を去った。色々と思うところはあるが、受け入れる事にしたのだろう。

 竹内さんと別れた後、僕は中山さんと共に警察署を出て筑地さんの家を訪問した。
 玄関のチャイムを鳴らすと、「はい」と返事が聴こえてすぐにドアが開いた。
 出て来たのは筑地さんだった。筑地さんは、かなりやつれた様子だった。
 彼は僕の分身が奥さんの身体を乗っ取った事実が未だに受け入れられずにいたのだろう。
「由香里……?」
 突如現れた中村さんを見て、筑地さんは先程まで虚ろだった目に生気が戻り始めた。
 だが、すかさず僕が筑地さんと中村さんの間に割り込んだ。
「あの……中村さんの件について、お話ししたい事があるんです」

「これはあなたが奥さんに飲ませた増殖男の皮膚ですね」
 僕は筑地さんにお邪魔して、増殖男――つまり僕の皮膚が入ったケースを筑地さんに見せた。
「はい。あの時は由香里を生き返らせたい思いでいっぱいでした。妻が生き返った時は、奇跡が起きたと思いました」
「確かに、それを見た時は驚いたでしょうね。ですが、実はこの細胞を飲み込んだ人は、身体を乗っ取られてしまうのです」
「乗っ取られる……?」
 筑地さんは言葉の意味が分からず、きょとんとしていた。
「以前あなたが通り魔に襲われた際、奥さんが突然男性に変身して通り魔を取り押さえましたよね」
「はい。あれを見た時は、ゾッとしましたよ……由香里が犯人を取り押さえたかと思ったら、突然男に化けたのですから、あの時の事を思い出すと……」
 筑地さんは当時の事について怒りを交えながら語った。
「確かにこれを飲み込んだ人は蘇生しますが、実は人格の方は別人に変わるのです」
「別人……?」
「はい。人格は本人から僕の人格に変わります。記憶は受け継いでいますが、飲み込んだ人の人格は消滅しています」
 それを聴いて、筑地さんは絶望的な顔を浮かべた。
「という事は、由香里は……」
 それを聴いた筑地さんは悲痛な表情を浮かべるが、僕達は容赦ない現実を告げる。
「はい。中山さんは身体だけは蘇生していますが、中身は僕の人格になっています」
「そんな……」
 筑地さんは、悔しさとも悲しみとも取れる涙を流して机の上に伏せた。そこへ中村さんが筑地さんに声を掛けた。
「筑地さん。僕は中山さんの記憶を引き継いでいるんです」
「それがどうしたっていうんだ! もう由香里は戻って来ないんだ!」
 涙を流しながら怒鳴りつける筑地さんに、中山さんはすかさず返した。
「最初にデートをした場所は、公園でしたよね」
「えっ……?」
 それを聴いて、先程まで泣きじゃくっていた筑地さんはピタリと泣き止んだ。
 中村さんは更に話を続けた。
「あそこは綺麗な花が咲き乱れている事で有名で、お花が好きな中村さんが喜ぶと思って誘ったのですよね。デートに来た時はマリーゴールドがたくさん咲いていて、二人とも見惚れていましたよね。途中で急な夕立に遭って、一緒にずぶ濡れになっちゃいましたけど、最後は一緒に笑いあっていましたよね」
 中山さんが当時の思い出を語る事で、筑地さんが次第に落ち着きを取り戻して行った。
「遊園地にも行きましたよね。オープンしたばかりのスポットに目を輝かせた中山さんに振り回されてジェットコースターやバイキングに乗って筑地さんは最後フラフラになっていましたけど、夜の花火を見た時は幸せそうに眺めていましたよね。あと、二人でキャンプに行った時は中山さんが釣りに挑戦しましたよね。プロポーズは予約したレストランで婚約指輪を渡しましたよね。その時の言葉はシンプルでしたよね。『二人で家族になろう』その時の中山さんはどうでしたか? とても喜んでくれましたよね」
「それと、中山さんが交通事故に遭って亡くなりましたけど、理由は知っていますか?」
「えっ……?」
 筑地さんは再び尋ねた。
「子供が車に轢かれそうになったのを見て、中山さんが身代わりになったからなんです。お子さんは無事で中山さんは安心しながら逝きました。だから、もう悲しまないでください」
 それを聴いて、筑地さんは静かに涙を流した。
 それは決して悲しみに暮れたものではなかった。

 その後、僕達は中山さんの両親のお宅にも訪問した。
 彼らも、僕達が明かした事実に悲痛な表情こそ浮かべたが、筑地さんの時と比べて落ち着いた様子で最後まで聴き入れてくれた。
 こちらもようやく気持ちに踏ん切りが着いたのだろう。
 被害者家族のお宅訪問を終えて、僕は中山さんに話しかけた。
「ようやく訪問が終わりましたね」
「うん。筑地さんも中山さんの両親も、ちゃんと最後まで話を聴いてくれて良かったです」
 両者とも当初は動揺していたが、最後は話を聴いてくれて、中山さんの死を受け入れてくれた。
 僕達がやった事ではないけど、間接的な要因になってしまっている事は間違いない。被害に遭われた人達には本当に申し訳なく思った。大切な人の死を受け入れるのは酷な事だろうが、無理に生き返らせたところで、結局は形だけでしかないのだから。
「ところで、君はこれからどうするの?」
 訪問を終えて、僕は中山さんに尋ねた。
「うん。筑地さんと中山さんの両親が中山さんの死を受け入れてくれたから、僕の役目はもう終わり。これからは小柳和仁として生きていくよ」
 中山さんの言葉に、僕は「そうか。その方が良いよ」と受け入れた。
 死後も他の誰かが成りすますより、いっそ人生を終わらせた方が本物の中山さんにとっても幸せだろう。
 その後、井沢公則の件を含め、僕の細胞の効果がマスコミによって報道され、僕の細胞を使ったと謳ったものは全て販売中止となった。
 他の被害者の人達がこれを知って、どうするかは分からない。
 もしかしたら、今まで大切にしていたものを拒絶して手放してしまう人がいるかもしれない。真実を知ってもなお死者の姿をした僕の分身と一緒にいる事を選ぶかもしれない。現実を受け入れられずに壊れてしまうかもしれない。
 いっそ、何も知らないままでいた方が幸せだったのかもしれないけど、これ以上の被害者を出す事だけは避けたかった。
 僕達は死んだ人の代わりにはなれないのだから。

語り部 小柳和仁1

「とりあえず、頭部を取り戻したまでは良いのですけど、一体どうすれば再生するのですかね?」
 僕達と佐渡さんが頭部を前に、考え込んだ。
 大事な頭部を取り戻したまでは良かったが、全く再生する気配は無かった。
 警察署に戻った後、井沢公則が持ち出していた僕の頭部をどうにか再生させようと、色々な事を試してみた。
 こちらから声を掛けたり手で触れたり頭を叩いたりして刺激を与えてみたが、再生どころか全く反応しなかった。
 もしかして、これは真っ赤な偽物ではないかと思われたが、DNA鑑定で調べたところ、小柳和仁のものと診断された。
 だとしたら、本物と判断するしかないのだが……。
 顔の皮膚こそ再生するが、意識を取り戻さない上に胴体が一向に再生されない様子に僕達は考え込んでしまった。
 こんな事例は、当事者の僕ですら見た事が無い。
「一体どうすれば良いのだろう?」
 僕が困惑を呟くと、その場にいない人物の声が割り込んできた。
「それなら、こうすれば良いじゃないか!」
 突如現れた大森さんが斧を持って来て2番の首を刎ねた。
 ホラーサスペンス映画に出て来る殺人犯さながらの猟奇的な刎ね方である。
 残された2番の胴体がその場で崩れ、仰向けになって倒れる。
「ちょっと、何をするのですか!?」
 僕は大森さんを咎めたが、
「大丈夫。この頭部をこうすれば……」
 と小柳8の頭部を2番の胴体にくっつけた。
 すると、頭部と首がピタッ……と結合されて、切断された跡は完全に消えてしまった。
 他の分身と身体をくっつける事も出来たのか。
 予想外の事態に息を飲む僕達。まさか、これで生き返るとでもいうのか?
「う、うん……」
 緊張に包まれる中、小柳8が重い瞼を開けて、ゆっくりと身体を起こした。意識を取り戻した様だ。
 まさかの成功に、周囲は「おぉーっ」と歓声を漏らした。
 目を覚ました小柳8は辺りを見渡した。
「ここは……」
 突然の事態に戸惑う小柳8に佐渡さんが経緯を説明する。
「ここは警察署だ。お前は、頭部のみで発見されたところを警察に拾われたんだ。ここに至る前に、多少のアクシデントはあったがな」
「頭部……のみ?」
「そうだ。ちなみに、お前の胴体は元々そこで再生している2番の身体のものだ。だが、お前は他の分身と違って何をしても再生しないから、あのイカレ科学者が2番の首を切断してお前の頭部とくっつけたのだ」
 佐渡さんの説明を聴いて、小柳8は自分の首を手で触って首と胴体が結合している事を確認した後、
「そうですか……ありがとうございました」
 と、お礼を言った。
「とりあえず、無事に再生されたところで訊きたい事があるんだ。君も事情聴取を受けてくれないか」
「分かりました」
 小柳8は、落ち着いた口調で答えた。

視点 佐渡真理

 真理は相談室に復活したばかりの小柳8を連れて行き、事情聴衆を始めた。
「さて、生き返ったばかりで申し訳ないが、こちらも今捜査が大事な局面に入っているのでな。何としてでも犯人逮捕に近付けたいので是非君も捜査に協力してほしい」
「分かりました」
 まず、真理は小柳和仁バラバラ殺人事件について教えた。
 彼も被害者の分身ではあるが、目覚めたばかりなので知らない事もあると思ったので、丁寧に話した。
 小柳8は他の分身と比べて、とても落ち着いた様子で真理の説明を聴いた。
「……それで、あなたは事件について何か知っている事はありますか? 頭部のみの状態で発見されたあなたなら、他の分身よりも事件の詳細を事細かく記憶していると読んでいますけど」
「きっと、彼らは脳以外の部分から再生されているので、肝心の記憶が抜け落ちているのでしょう。なので、少なくとも他の分身よりも事件について鮮明に記憶していると思います」
「じゃあ、その日小柳さんには何があったのか、詳しく話してください」
「はい」
 小柳8は事件のあらましについて語り始めた。
「実を言いますと、あの日の夜、僕が帰る途中で犯行現場を目撃したのですよ」
「目撃? どこでですか」
「アパートの向かい合わせにある空き地でした」
「そうか。そこであなたは何を見たのですか?」
 真理は小柳8を尋問した。
「女性が座っていました」
「座っていた?」
「女性? 顔は覚えていますか?」
「はい。彼女が跨いだ下には女性が倒れていたのです」
「その女性の顔は覚えていますか?」
「はい。というより知り合いでした」
「知り合い?」
「はい。被害に遭った女性は吉澤美和子さんでした」
「吉澤さんと小柳さんとは知り合いなのですか」
「はい。彼女は一年前からアパートに住んでいます。明るくていつも笑顔で挨拶していました。犯人が僕を襲ったのは、吉澤さんが殺された時に、犯人は自分の顔を見られたと思ったからだと思います」
「だから、あなたを殺そうと犯行に及んだのですか」
「そうだと思います」
「じゃあ、お前は首を斬られた時はどうでした?」
「首を斬られた時は、さすがに死んだと思いました。でも、意識は途切れませんでした」
「どうしてですか?」
「分かりません。でも、もし僕が生きている事が向こうにバレて頭部を盾に真っ二つにされたら、終わると思ったので必死で強く目を閉じていました」
「つまり、無意識とはいえ本来再生に使うべきだったのエネルギーを記憶の保持に使ったという訳ですか」
「恐らく、そうだと思います」
 それを聴いて真理は感心した。
 原理は分からないが(小柳和仁の体質自体、未だに分からないところがあるが)、咄嗟の機転を利かせた様だ。
 それにしても、小柳が吉澤美和子と知り合いだった事に真理は驚いた。
 だが、それを聴いて真理は遂に犯人の目星が付いた。
「分かった。君のおかげで大分、良い情報が聴けた。ご協力ありがとう」
 真理は小柳8に深く頭を下げた。

 小柳8の事情聴衆を終えると、真理達は再び捜査会議を開いた。
「……以上が、会社員バラバラ殺人未遂事件で集まった情報です」
「そんな事があったのですか……考えましたね」
 そう語るのは小柳1。彼は小柳8の行動に感心していた。彼は、自分の体質について分身達より少し早く気付いていたからなのだが。
 そこへ小柳2が割り込んだ。
「ちょっと待ってください」
「どうしたのですか、2番?」
「僕は回収された翌日に吉澤さんと会っているのですよ」
「何ですって?!」
 まさかの告白に真理は驚いた。
「それは、2番の人違いではなくてですか?」
「いえ、人違いではありません。僕が会社から帰る途中に一度だけ吉澤さんと会っています。あの時は近くの公園のベンチでしばらく休みましたけど、彼女は僕の話をきちんと聴いてくれました。今でも、吉澤さんは僕のアパートで暮らしています」
 それを聴いて、小柳8は驚いた。
「だったら、2番が見た吉澤さんは……?」
 それを聴かれて、小柳2は真理に告げた。
「あの……佐渡さん。一度吉澤さんの事を調べてくれませんか?」
 小柳2が尋ねると、真理は
「その必要はありません」
 と返した。
「どうしてですか?」
 小柳2に尋ねられた。
「実は、私も彼女とは一度面識があります。だから、犯人が誰かも予測は付いています」
「本当ですか?」
 意外そうな顔をする小柳2だが、真理はにやりと笑った。
「だから、私も一度吉澤美和子にお会いしたいです。彼女に会って、話を聴かないと」

語り部 小柳和仁2

 捜査会議を終えた翌日の夕方、僕は真っ先に吉澤さんがアルバイトをしているファミレスに行った。
 事件の真相を知る為にも彼女に会う必要がある。
 店に入ると、周囲は少しだけだがざわついた。都市伝説として噂されている男が現れたから驚いているに違いない。
 でも、今は周りの反応などどうでも良かった。ターゲットは、ただ一人。
「あら、小柳さん。お久しぶりですね」
 吉澤さんは、顔見知りの来店に明るい笑顔を向けた。
「ご注文はお決まりですか?」
「ホットコーヒーを一杯」
「分かりました。それではしばらくお待ちください」
 と告げると、吉澤さんは席から立ち去ろうとしたが、僕は彼女に声を掛けた。
「あの、ところで吉澤さん。バイトの終わりにちょっと話したい事があるのですけど、良いですか?」
 僕からの誘いに、吉澤さんは首を傾げたが、
「良いですよ」
 と、すんなり応じてくれた。
「それなら良かったです。で、いつ頃、終わるのですか?」
「午後六時です。もうそろそろ終わる頃なので、お会計が済んだら駐車場で待っていてください」

 午後六時過ぎ。時間通り、吉澤さんがファミレスから出て来た。もちろん、制服から私服に着替えている。
「すみません。お待たせさせてしまって」
「いえいえ、大丈夫ですよ。あと、コーヒーも美味しかったです」
「気に入っていただけで嬉しいです。ところで、肝心のお話って何ですか?」
「はい。実はあなたとお話ししたいという人がいまして」
「私とお話ししたい人?」
「はい。あなたも一度お世話になった事がある方だそうです」
 僕が手招きをすると、佐渡真理がやって来た。
「お久しぶりですね、吉澤さん」
 それを見て、一瞬だが吉澤さんの眉がピクッと動いた。だが、すぐにいつもの調子に戻り「お久しぶりです」と挨拶した。
「ところで、刑事さんがどうしてこんなところに?」
 吉澤さんは、首を傾げた。
「実は、今回あなたにお尋ねしたい事があるのです。少々お時間よろしいですか?」
「あなたは誰ですか?」
 すると、吉澤さんはきょとんとしつつも、
「私は吉澤美和子ですよ」
 と笑顔で返事した。
 だが、佐渡さんは更に質問をする。
「本当に吉澤さんなのですか?」
 それを聴いて、吉澤さんの表情から余裕が消えた。
「ちょっと、どういう意味なのですか?」
 佐渡さんからの質問に、吉澤さんは動揺した。
「そもそも、あなたは吉澤さんではないでしょう」
「吉澤さんじゃないって……どうしたんですか? 刑事さん。急におかしな事を言い出して」
 そこへ僕がその理由を告げた。
「あの晩、僕は見ていたのですよ。あなたが本物の吉澤さんを殺害しているところを」
 本当は8番の証言によるものだが、あの時はまだ増殖する前だったので、間違ってはいない。
「あれって、確か小柳さんが何者かに襲われたと言ってましたよね」
「あの時は世間に知られた時の影響を考えて、伏せていたのです」
 僕の言葉に吉澤さんは戸惑いを見せた。
「それは、ただの見間違いじゃないですか? 一体何の根拠があるのですか?」
「公園で話した時、僕が不審者の話を出した際、あなたは『知らない』と言っていました。でも、この話はアパートの住人や近所の間では既に知れ渡っている話であって、あなただけが知らないなんて事は有り得ないのですよ」
「それは単に忘れていただけであって……」
「最初は僕もそう思いました。それなのに、その話をした後で『もう不審者は現れないですよ』とはっきり言いましたよね。それは単なる直感ではなくて明確な根拠があったからではないですか?」
「明確な根拠?」
「その不審者が本物の吉澤さんを殺すという本来の目的を達成していたから……だったら、どうでしょう」
 それを聴いて、今まで温和だった吉澤さんはしばらく沈黙した。
「そんな、それはあくまで小柳さんの憶測でしょう。思い込みで語らないでくださいよ」
 今まで温和だった吉澤さんの感情に乱れが出て来た。
「それだけではありません。あなたは三月十三日に僕と帰り道で偶然会った時、お化けと間違えて悲鳴を上げていた。それってもしかして殺した筈の人間が現れたからではないですか? それに僕と公園で話している間も、あなたは僕を名前で呼んだ事は一度も無かったのですよ。元々口封じで殺したのですから、相手の事は一切調べていなかったでしょう。ましてや、その人が吉澤さんと顔見知りとは思わなかった。しかし、殺した筈の人間が実は生きていた。その事に驚いたからではないですか?」
「そんな! どこにそんな証拠があるのですか?!」
「証拠はあります。さっき僕が店に入った時、あなたは『いつも来てくれたのに』と僕に言いましたよね」
「はい。そうですけど……」
「実を言いますと、僕はこの店に来たのは初めてなのです」
 僕自身も彼女の職場を聴いた時は僕の住むアパートと近かったので非常に驚いた。徒歩だと少々時間は掛かる距離だが、帰宅時に駅から降りた時に行こうと思えば毎日通う事も出来る距離だった。
 それでも、僕自身はファミレスの込み入ったざわつきが苦手だったので、今まで来店しなかったが、真相を暴く為にわざわざ出向いたのである。
「あと、駅で爆発音が鳴って周りが騒ぎ出した時に、僕は背後から何者かに線路に突き落とされました。すぐに退避場所に身を隠して助かりましたけどね。後で警察が駅の防犯カメラを警察が解析したところ、僕の背後でヘッドホンの人がスマートフォンを操作している姿が映っていました。あのヘッドホンは周囲から自分が音楽を聴いていると見せかける為のもので、本当は耳栓だったのでしょう」
「その人が私だと言いたいのですか?」
「少なくとも我々はあなたの仲間だと睨んでいます。実際、彼は小柳さんを線路に突き落とした後、混乱に乗じて電車に乗らずにその場から去って行く姿も確認しています」
 佐渡さんの推理に、吉澤さんの表情から余裕が消えた。
「それと、昨日あなたの事を色々と調べさせていただきました。ここ最近、彼女の様子におかしなところはないかとね。すると学生時代、吉澤さんと交流があった人から吉澤さんの画像を見させてもらいました。彼女は学生時代テニスをやっており、身体が細い割に筋肉で引き締まっていて特に右腕が太いのですよ。あなたも体格からしてそれなりに運動はしている様ですが、左腕が太い。利き腕が違うのですよ。あと吉澤さんの目頭は元々蒙古ひだが目立たないのですが、あなたはアイライナーで上手く隠しています。あと、顔の骨格も微妙に違っています。メイクで入念に顔を似せたのでしょう」
 佐渡さんの指摘に吉澤さんは歯を食いしばった。僕自身メイクには無知だったので、彼女の話には感心した。
「それと、実を言いますと吉澤さんは一年半前に同じバイトの後輩からストーカー被害に遭っているのですよ。その時に事件を担当したのが佐渡さんだったのです。犯人が逮捕された後、出所した後に逆恨みした犯人の報復から逃れる為に一年前に僕が住むアパートに引っ越して来ています」
 報道時は、被害者の名前は公表されていなかったので、まさか彼女がその被害者だったとは思わなかったし、本人も事件の事は一切語らなかった。
 下手に打ち明けて噂になられるといけないと思ったからだろう。
「でも、犯人は出所した後も吉澤さんに復讐する為に執念深く彼女を探して見つけ出した。そして、犯行仲間と共に吉澤さんを殺害して、彼女に成りすました。彼女に成りすませば、怪しまれる事は無いし、もし気付かれたら口封じに殺害するか逃亡すれば良いだけの話ですから」
 固唾を飲む吉澤さんに、佐渡さんは吉澤さんの本当の名前を告げた。
「そろそろ犯行を認めたらどうですか? 宮崎美幸(みやざき みゆき)さん」
 それを聴いた瞬間、吉澤さんは普段の柔らかいものとは違った自虐的な笑みを浮かべた。
「何だ、バレちゃったんですね」
 観念したかとも思いきや、彼女の表情から不穏な空気を感じた。その瞬間、吉澤さんはポケットから何かを取り出した。
「危ない!」
 だが、そこから白い煙が一気に噴き出して視界を奪った。
 煙をどうにかしようと思った瞬間、首筋に強い電撃が走り、僕はその場で気を失った。

視点 佐渡真理

「警部補、大丈夫ですか?」
 煙が晴れた後、池谷が心配そうに真理を見ていた。
「あぁ、私は大丈夫です。だが、2番が攫われた」
「攫われたって……まさか吉澤、じゃなくて宮崎にですか? さっきの煙の中でどさくさに紛れて連れ去った様ですね」
 吉澤美和子になりすました宮崎美幸を逮捕出来たかと思いきや、彼女は思わぬ代物を持っていた。
 彼女がそれを使うと、たちまち目の前が煙に包まれてしまい、視界が開けた時は小柳2も宮崎美幸も消えていた。
 犯人が抵抗した時に備えて、相棒・池谷を隠し玉にしたが、まさかあんなブツを持っていたとは予想外だった。
「あれは間違いなく発煙弾ですね」
「発煙弾って、アレって民間の人でも手に入る物なのですか?」
「はい。実際に持っている民間人を見たのは私も初めてですけど、アレはネット通販でも手頃な値段で買えるから問題は無いですね」
「で、でもどうするんですか? このままだと、犯人逮捕どころか小柳さんを助ける事が出来ませんよ」
「まだ、犯人はそこまで遠くへは入っていないはずです。至急、応援を頼みます!」

語り部 小柳和仁2

 暗闇の中で僕はようやく目を覚ました。こんな展開は二回目だが、今度は海の中ではなかった事が幸いだった。
 しかし、ここはどこなんだ?
 僕は辺りを見渡した。古びたコンクリートの壁に広々とした暗い部屋、大きな機械――どうやら、ここは廃墟となった工場の様だ。
 どうにか身体を起こそうとしたが、手足はベルトで縛られていた。声がした方を振り向くと、そこには吉澤さんに変装した宮崎さんがいた。しかも、彼女の他に強面な男性が二人いる。
「やっと目を覚ましましたわね」
 宮崎さんは、僕が意識を失う前と同じ黒い笑みを浮かべていた。
 でも、彼女の声に違和感があった。今まで聴いていた声と比べるとやや声が低い。
 そんな僕の考えを読んだのか、吉澤さんは答えた。
「あなたの言う通り、私は吉澤美和子ではありません」
 鞄からウェットティッシュを取り出して顔を吹くと素顔が露になった。
 化粧をしていたせいか本物の吉澤さんと比べると、若干地味な印象がある。彼女が宮崎美幸本人だ。
 僕は宮崎さんに尋ねた。
「どうして、こんな事を?」
 僕の質問に、宮崎さんは答えた。
「決まっているじゃないの。あなたは私達の計画を邪魔したからよ」
「計画? 警察に捕まった逆恨みの犯行がか?」
「何よ、私の気持ちも知らない癖に、嫌味なんか言わないで!」
 別に嫌味を言った訳では無いのだが、宮崎さんは激高した。
 知ったところで、同情する気も許す気も無いが。
「そもそも、どうして女性の君が吉澤さんを狙ったんだ?」
 僕の問いに、先程まで怒りを露にした宮崎さんがよくぞ聴いてくれたと言わんばかりににこりと笑った。その表情は、極めて狂気じみて不気味だった。
「実を言うとね、私は同性愛者なんだ……あっ、同性愛者と言っても別に男嫌いという訳ではないから」
 突然のカミングアウトだった。でも、彼女は実際に女性をストーキングして捕まっているのだから、落ち着いて考えれば、すぐに気付く事は出来たか。
 宮崎さんは僕が口を挟む間もなく、吉澤さんとの出会いについて、目を輝かせながら語り始めた。
「私と吉澤さんの出会いは、ファミレスだった。以前から何気に通っていた店だったけど、そこにいた店員さんに私は一目惚れしたの。彼女を見た瞬間、閉塞で退屈だと感じていた世界がぱあっと明るくなったの。私はどうにか彼女に近付きたい、彼女の傍にいたい、彼女と一つになりたいと思った」
 まるで、運命の恋だと疑わないばかりの口ぶりだった。
「その日以来、私は吉澤さんのいる店に働き始めた。吉澤さんは私が思った通りの人で、明るくて面倒見が良くていつも私に優しくしてくれた。そうしているうちに、仲良くなりたいと思って、彼女の家にも遊びに行く様になった。そして、思い切って告白したのだけど、フラれちゃったんだ」
 当時の失恋は未だにショックだった事が窺える。
 宮崎さんは薄ら笑いを浮かべた。
「その時は凄くショックでさ。フラれた後も必死で吉澤さんの後を追いかけたよ。電話も何回もかけたし、家にも遊びに来た。彼女に悪い虫が近付かない様にした。でも、ある日突然警察がやって来て、私の両手首に手錠を掛けられてパトカーに乗せられて拘置所に入れられて裁判を受けさせられて、刑務所で仕事をさせられたわ。刑務所を出た後も、仕事をクビになるだけじゃなくて店にも入れなくなって、あの人に近付く事すら出来なくなった。あの間は何が何だか分からなかったわ」
 何が何だか分からなかったと言っているが、結局ストーカーの疑いで逮捕された事に納得がいっていないだけだった。
「でも、どうしても諦めきれなくてさ。出所した後も、こっそりと吉澤さんを探して、彼女が働いていると言われている店に待ち伏せしていたの。そしたら、予想通り吉澤さんが来たけど、シカトされちゃった。あの人はもう私が知っている吉澤さんでは無かった。だから、私が吉澤さんの代わりになる事にしたの」
 絶縁された想い人との思い出を時に笑顔で時に切なく、長々と語る犯人だが、所詮はただのストーカーでしかなかった。
 要は、宮崎さんが吉澤さんに成り代わる事で、彼女が理想とする吉澤さんになったのか。
 別人だった事は正解だったが、少なくとも僕の知る範囲で本物の吉澤さんの口から、宮崎さんの話は一切出てこなかった。
「まぁ、知らないのも無理は無いよね。吉澤さんは誰にも私の事を話していなかったみたいだったし。でも、吉澤さんの住む自宅を探していたら、近所の人に見つかっちゃって怪しまれたから、予定よりも早く実行に移したんだけど、思わぬ邪魔が入ったわ。しかも、それがまさか再生や増殖する身体の持ち主だったとはね。私って、とことん運が無いんだな。ここまで来ると、もう笑うしかないわ」
 口では自虐的な事を言っているけど、哀愁を漂わせる印象は無かった。軽薄に笑っている分、寧ろ無礼だった。
 あんな事をされたら、吉澤さんが怒って逃げるのも無理は無い。それでも、当事者には自覚すらないのだから、余計に厄介なのだけど。
「これで、完全に吉澤さんになる事が出来たと思ったらまた邪魔が現れたのよ。それがあなたよ。顔を見られたら自分の計画が水の泡になると思って、口封じに遺体をバラバラにしたんだけど、それからは周囲に怪しまれない様に吉澤さんのフリをして過ごしていたわ。吉澤さんが持っていたメイクをして、吉澤さんと同じ髪のウィッグを被って、変装したら皆簡単に騙されていたわ。とはいえ、もし周りからも怪しまれそうになったら引越の準備をしてそのままアパートから立ち去ろうと思っていたのだけど、あなたは想像以上にしぶとかったわ。最初は殺した相手を見間違えたのかと思ったけど、あなたが交通事故に遭ったりチェーンソーで身体を斬り刻まれたりしても再生する特異体質だと知って凄く驚いた。ねぇ、あなたの身体って一体どうなっているの?」
 宮崎さんは僕を睨みつけながら詰ったが、僕からすれば君の方が厄介で危険としか思えなかった。
 僕が特異体質の化物なら、彼女達の精神は完全に狂っている。人でありながら、まともな精神を持たず私欲の為なら平気でボーダーラインを超えて法やモラルを犯してしまう狂人だ。彼女達の方が余程恐ろしく化物じみている。
 宮崎さんは僕に詰め寄った。
「ねぇ、あなたは世間で噂になっている増殖男なのよねぇ。バラバラにしてもナイフで刺しても銃を撃ってもどうせすぐ再生するから無駄なんでしょ? だったら、これならどう?」
 宮崎さんはにやりと笑いながら、あるものを僕に向かって投げつけた。

視点 佐渡真理

 パトカーを走らせる事、数十分。ようやく廃工場に辿りつけた。
「2番!」
 駆け込んだ先は、廃工場。そこに犯人達と2番がいる。
「見つけたぞ!」
 だが、そこで真理が見たのは炎に包まれた人間だった。
「ハハハ、燃える! 燃えるわ!」
 2番の身体が瞬時に爆炎を上げていた。
「2番!」
 真理は2番の名前を叫んだ。だが、それでもなお炎は2番の身体は炎で燃え盛っていく。
 2番も火に包まれた状態で、助けを求めるかの如くこちらに向かって手を伸ばしてきた。彼を助けようと、水や消火器が無いか探すが、近くに無かった。
 2番は助けを求めるが遂にその場に倒れ、二度と動く事は無かった。それでも炎は小柳の身体を燃やし尽くしていた。
「この野郎!」
 真理は怒りのあまり、犯人に殴り掛かった。
 だが、美幸の共犯者である体格の良い男が真理の拳を捕えて、そのまま真理を床にねじ伏せた。
「警部!」
 池谷が真理を助けようとするが、もう一人の共犯者の男が爆弾を投げつけた。爆弾は池谷の顔に当たった途端に爆破した。
「うわあっ!」
 当たった箇所が悪く、池谷は顔を負傷して、その場に倒れた。
 その間に小柳も燃え切って、あっという間に灰になった。はらはらと灰色の粉になってしまっていた。
 灰になったら、もはや再生は不可能だろう。仮に再生出来たところで、元に戻るまでにどれだけ時間が掛かるか……。
「ハハハッ、これで増殖男も終わりよ」
 主犯である宮崎美幸は、小さな灰の山を目の前に勝ち誇った笑みを浮かべた。
「さーてと、後は警察どもをコレで皆まとめてぶっ飛ばしてあげる!」
 宮崎美幸は爆弾を取り出して見せつけた。
「コレは、さっきのヤツより破壊力が高いの。これが爆発したら全部オシマイよ!」
 自分諸共、この一帯を爆発させるつもりだ。
 もう駄目なのか。
 そう思った時だった。
 突如、灰の一粒一粒が大きくなっていった。それはちょうど原子を巨大化していくかの様だった。
 それがバランスボールくらいの大きさになると、今度はみるみると縦長に伸びて、人の形に変化していった。
 そして、灰色の人間達は一斉に犯人に向かって、ゆっくりと歩み近付いて行く。
「何よ、コイツ! さっきの爆撃をくらったのに、まだ再生するの!?」
 犯人はまさかの出来事に衝撃を受けているが、それでも彼らはただ犯人を目掛けて、一歩ずつ歩んでゆっくりと近づいていく。
「来ないで! それ以上、近付いたら……爆発させるわよ!」
 主犯は脅しをかけるが、犯人は灰色の男達が迫る様子に驚愕して震え上がりながらも脅迫した。だが、彼らに威嚇は通じなかった。
 犯人は、近付いて来る灰色の男を前に、ただ後ずさんで壁に張り付いた。
 それでも灰色の人間は犯人を追い詰めていき、遂に先頭にいた灰の一人が犯人の爆弾を手で掴んで、呪いの様な言葉を犯人に告げた。
「僕は死ねないんですよ。あなたを捕まえるまでは」
 その言葉を聴いた宮崎美幸は、恐怖とも絶望とも取れる発狂じみた悲鳴を上げた。

エピローグ 語り部 小柳和仁

 四月。
 ようやく犯人・吉澤美和子――正確には吉澤さんに成りすました元アルバイト店員・宮崎美幸さんとその共犯者が逮捕され、捜査も無事に終わった。
 ちなみに、宮崎さんと共犯者達は、アングラ系の掲示板を通じて知り合ったそうだ。
 以前、三鷹さんから不審人物と言われた人は宮崎さんの事だと思われる。憧れだったバイトの先輩を探していたところを近所の人に目撃されて怪しまれた事から、予定より早く犯行に移した。
 だが、その犯行現場を偶然通りかかった僕に見られ、彼女の仲間が僕の頭をハンマーで殴打して撲殺した。
 その後、吉澤さんの自宅の鍵を使って自宅に侵入し、風呂場で僕と吉澤さんの遺体を解体した。
 その途中で、頭部を切断された小柳8は意識を取り戻したが、犯人に気付かれるとマズイと思い、再生のエネルギーを使わず遺体のフリをして眠り続けていた。
 つまり、僕自身は自分の体質について既に気付いていたのか。
 当然、宮崎さんはいつまでも吉澤さんに成りすましているつもりは無く、一定の日数が過ぎたらバイトを辞めて逃亡する予定だったそうだ。そうなる前に逮捕出来て本当に良かった。
 ちなみに、宮崎さんが持っていた爆弾に使われた爆薬は、市販の材料で買える上に作り方も簡単で、やろうと思えば素人の僕でも作れるものらしい。
 そんなコストパフォーマンスの圧倒的な高さから、実際にテロで使われた事もある反面、粉末の状態だとほんの僅かな摩擦でも爆発する上に殺傷能力も高く、事故も数多く発生しているそうだ。
 下手をしたら、僕だけではなく犯人や周りの人達まで巻き込んでいた可能性もあったという。
 宮崎さんは、そんな危険な爆弾の情報をネットで見つけ、そこに書かれてあった作り方を元に爆弾を作ったそうだ。
 こんな物騒なものがある事を佐渡さんと大森さんから聴いた時は、身近なものであんな恐ろしい爆弾が作れるのかと思い、身が震えた。
 しかし、こんな爆発を受けて灰になっても、再生してしまう自分はやっぱり化物なのかもしれない。
 それでも、発狂した犯人が爆発させる寸前に灰の僕が爆弾を奪い取って、その隙に警察が逮捕したのだから、これで良しとしよう。
 案外、この身体も不便ではない。

 時期が時期なので事件解決の祝いに、お花見をしようと佐渡さんが提案してきた。
 とはいえ、法律順守を職務とする警察が粗相を起こしたら問題になるので飲み物は甘酒とノンアルコール飲料のみとなった。
 だが、その分弁当は極めて豪華な幕の内だった。何でも、高級デパートで売られていたものらしい。
 実際、メニューも食欲をそそるものばかりだった。
「あなたのおかげで、事件が無事に解決しましたよ」
「それにしても、犯人を逮捕した後、あなた達が無言で抱き合い始めたから何をするのかと思ったら、見事に合体しましたね。それはあなたが一人に戻るまで続いた」
 そうなのである。佐渡さんから聴いた話によると、犯人が逮捕された後、灰の僕達が無言で抱き合って合体していったそうだ。
 その時の記憶は、ほとんど無いけど。
「まぁ、あれだけの灰が全て再生したら、地球はあっという間に僕でいっぱいになってしまいますからね」
「そうなったら、もはや手に負えませんね」
 佐渡さんは、笑いながら甘酒を飲んだ。
「ところで大森は、この事には気付いていたのか?」
「さぁ、何のことやら?」
 大森さんはしらばっくれた。
「惚けるんじゃない。散々、人体実験を繰り返していたお前がそれに気付かない訳がないだろう。それに1番の様子が心配になってお前の研究室を何度か覗いてみたが、肝心の分身はいつも数人しかいなかったし人数が減っている時もあった。他はどうした?」
 佐渡さんは、大森さんに問い詰めた。
「そうだね。さすがに職場でやったら火事だと騒がれるから、試しに自宅の近くにある更地でやってみたら、さっき真理ちゃんが話した通りの展開になったよ。あそこまで人数が増えると、僕の屋敷にも入りきらないからね。でも、あの時は大変だったよ。あまりに大勢の人数を一気に焼いちゃったから大変な事になっちゃって……って痛いよ、真理ちゃん!」
 笑いながら話す大森さんの頬を佐渡さんは思い切りつねった。
 ちなみに、事件の後で僕達は身体を焼かれて灰になり、その後一つに合体した。ちなみに、合体した僕達の記憶は全て保有している。
 だから、小柳1達が大森さんから受けた人体実験や合体した他の小柳達が遭遇した出来事も全て知っている。具体的にどんな内容かと言うと……まぁ、言わぬが花だろう。
 でも、未だに合体していない分身がいる。
 動画配信で何度も惨殺された小柳7達は殺害された事による外的トラウマがかなり酷かったので、合体した時に僕の精神に悪影響が出ると医者と警察が判断したからである。
 せめて大勢増えた7番達だけでも合体させようと思ったが、彼らは恐怖に怯えて拒むばかりだった。
 この前、そのうちの一人へお見舞いに行った時は少し落ち着いていたけど、まだ不安定なところがあるそうなので、今後も定期的にお見舞いをしようと思う。
 回復までの道のりは長いかもしれないが、いつか彼らも立ち直って欲しい。そう願う。
 それにもしかしたら、捕獲した分身の他にも僕の分身が存在しているに違いない。でも、彼らもどこかで上手くやっているだろう。根拠は無いが、そんな気がした。
「ところで知っていますか? 桜は挿し木で子孫を残しているのですよ」
「はい、中学の時に理科の授業で聴いた事があります」
 確か、桜――ソメイヨシノは交配によって作る事が出来ないので、挿し木で子孫を増やしている。とはいえ、ソメイヨシノ自体、元々観賞用に雑種の交配によって人工的に作られたものなのだが。
「小柳さんもあの桜と同じ、挿し木の様に増えていく存在です。あなたの場合きっかけは不幸な事件でしたが、それでも今はあなたを受け入れ、必要としてくれる人がいるのですから、良いじゃないですか」
 佐渡さんの言う通りだ。
 僕自身も元々は一人の平凡な人間だった。
 でも、あの事件に巻き込まれて、自分の分身が次々と現れて、日常が壊されて、世間から脅威の対象として恐れられ、拒絶され、狙われ、巻き込まれていった。
 でも、今では異常な存在の僕を必要とし、受け入れてくれる仲間がいる。
 不条理な目に遭っても、案外どうにかなるものなのかもしれない。
「ところで、まだ再生と増殖はまだ続いているのですか?」
「はい。試しに血液を採取してみたら、やっぱり再生しました」
「なら、その身体を活かして派遣サービスでもやったらどうですか? 危険な仕事にも対応できるし、色々と使えるでしょう?」
「それは、難しいなぁ。サラリーマンならともかく、専門職やあんまり過酷な仕事や難しい仕事は出来そうにないからな」
「ハハッ、確かにそうですね」
 佐渡さんは軽く苦笑したが、どこか微笑ましい表情だった。
 桜の花びらがそよ風に煽られて舞い落ちていった。それは異質な存在である僕にも優しく降り注いだ。

僕がどんどん増えていく

僕がどんどん増えていく

海で意識を取り戻した小柳和仁。彼は事件に遭ってからの記憶が無かった。警察署で待っていたのは女刑事・佐渡真理ともう一人の自分だった。2人の話によると、どうやら自分は遺体をバラバラにされたが、そこから再生と増殖をしたという。小柳は警察と自分の分身と共に、犯人を追う。

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-10-18

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