霧
茸不思議小説です。縦書きでお読みくさい。
このところ無性にウイーンに行きたくなる。
仕事柄、ヨーロッパには年に何度も訪れていたが、退職してからは、むしろ日本国内の旅にのめりこんでいた。退職してもう二十年経った今、歳は八十を過ぎているが、ウイーンに行きたくて、なぜかむずむずするのである。
パリやロンドン、マドリッドなどのヨーロッパの主要な都市には、何度もいっているが、なぜかウイーンには縁がなく、大学の卒業旅行で一度行ったきりである。あのときは友人五人で、学生用のユーレイルパスを使って、パリから、ストラスブルグ、ウルム、ミュンヘン、ザルツブルグ、ウイーンとまわった。
山歩きサークルの仲間で、五人とも学部が異なった。私が理工学部、崎山泉が文学部、八杉悟が政治学部、浜田麻紀が教育学部、小田春樹が経済学部である。私だけが理系で後は文系ということになる。とても明るく健康的なサークルで、なかでも我々五人はいつも一緒に行動をしている仲のよいグループだった。就職も全員すんなりと決まったこともあり、気分よく卒業旅行はヨーロッパと張り込んだのである。みんな、初めての海外旅行であった。
私は車、飛行機やロケットの工学屋で、大きな会社に就職した。エンジン開発にたずさわることになり、ある年齢になると、技術の相互乗り入れや、技術の売り込み、また逆に向こうの面白い技術をとりいれるために、ヨーロッパによく派遣されることになったのである。
サークルの彼らは、幸いのことに一人として欠けることなく、元気に老後を楽しんでいるようだ。しかし、彼らとは時々メイルや手紙でのやりとりはあるが、大学をでてから何度か集まりをもっただけで、それ以来、この五十年近く会う機会がない。不思議なことだが、みんな違う職業に就き、しかも今住んでいる国もすべて違う。
崎山泉は出版社につとめていたが、結婚して退職し、今は自分の娘の嫁ぎ先であるハワイに住んでいる。八杉悟は外務省に入り、ロシアの大使館に勤めていたが、退職後もロシアで生活をしている。浜田麻紀は地元の兵庫の高校で英語の先生をしていたが、同僚のイギリス人と結婚し、結婚間もなく主人についてロンドンに行ってしまった。小田春樹は新聞社に入り、アメリカのボストンへ特派員として行ったまま、そこで家庭をもち暮らしている。私は二浪して大学へ入っているので、彼らの中では一番年上である、それでも皆もうすぐ八十になろうとする年であるが、元気に暮らしている。
そういえば、五人でウイーンに行ったとき、森の中を散策していた際に、奇妙な出来事に遭遇した。もう六十年ほど前になるのだと感慨深い思いがある。
「あの森、きれいだな、少し歩こうよ」
小田がシェーンブルグ宮殿の脇にある森を指さした。
木々の中に日が射し込んで、緑の下草がきれいに浮き出ている。
「さすがに黒い森ね、きれいだわ」
浜田が乗り気になった。あの旅行では英語のできる浜田に頼っていたところがある。彼女のおかげで、我々の語学苦手組はたいそう助かった。しかし、変われば変わるものである。経験を積めば誰でも外の国の言葉が話せるようになるものだ。今では、私をのぞいて、皆外国暮らしだ。
みんなはぞろぞろと、森の中に入っていった。
森の中には小道があり、薄日が差し込んでいて、日本ではみられないすがすがしさだ。鳥の声も絶え間なく聞こえてくる。
少し歩いていくと、栗鼠が木の上からかけ降りてきて我々の前を横切った。
「栗鼠よ」
崎山は動物好きである。立ち止まって、栗鼠を目で追いかけた。栗鼠は一本の木によじ登り、あっという間に上の方に消えていった。
「ヨーロッパは栗鼠の天国ね」
「こっちの人は、野生の動物を大事にしているよ、変にかまわないし、いじめもしない、見て楽しんでいる」
八杉も立ち止まって見ていた。
しばらく歩いていくと、木の下にいろいろな茸が生えているのが目に入ってきた。
「きれいな茸がたくさんあるな」
小田は長野の出身で茸に親しみを持っている。
「食べられるかどうか見分けることができて」
崎山がたずねた。
「わかんないよ、茸狩りはよくいったんだけど、食べられるかどうかは近くのおじいさんにみてもらっていたんだ」
「でもみているだけできれいだし、面白い形のものがあるな」
「ヨーロッパの人たちって、茸が好きよ、ずいぶん茸のグッズを売ってる」
「あ、針鼠」
歩いている先を針鼠が横切った。
「ヨーロッパは針鼠天国だな」
「そうよ、イギリスの自然保護団体のマークは針鼠よ、鳥の次に庭にやってくる動物として大事にしているの」
崎山はロンドンに憧れている。
「あいつ等、ネズミじゃなくて、モグラに近いんだよ」
博識の小田が補足した。
「あ、あの針鼠みて、茸を背中にしょっている」
浜田が指さしたところをみんながみると、背中に赤い茸の破片をつけた針鼠が別の茸の根本を鼻でかぎ回っている。
「あ、食べた」
茸の下の方から顔を出した黒い虫を、あっという間にくわえると食べてしまった。
「針鼠って肉食なの」
浜田の質問に小田が答えた。
「雑食さ、でも虫が好きのようだよ、ミルクも好きだし、果物も食べる、茸だって食べるさ」
「でも、なんで茸を背中につけているの、運ぶのかしら」
「そんな知恵はないようだよ、でも偶然に落ちてきたリンゴが刺さって背中にしょっていたりするらしい、みやげ屋にリンゴをしょった針鼠のクラフトがあったろう」
「うんたしかに、すると、茸の生えているところで転がったかして、背中についたのかしら」
「そんなところだろう」
そんな話をしながら森の奥に入っていくと、小さな泉のほとりにでた。そこには先ほどにまして、茸がたくさん生えていた。
「きれいね」
「ああ」
そのとき、森の中がもやってきた。
「なんなのこれ」
崎山が周りを見た。
周りがぼんやりとして、木々の形がぼやけてきた。
「霧がでてきたんだ、方向がわからなくなる」
「そうだな、でも、一本道だったし、心配いらないだろう」
「ちょっとまって、これ霧なのかしら、ほら冷たくない、水じゃなくてなにか粉のようなものね」
崎山が、不思議そうな顔をした。
そういえば、のどの奥が粉っぽくなっている。
「これは花粉かな」
「いやちがうよ、ほら、みてごらんよ」
私は泉の、周りにぼんやりと見える色とりどりの茸を指さした。
茸から煙のように粉がでている。
「胞子だよ、茸の胞子が森の中に立ち込めているのだよ」
「あー、なんだか体が熱くなってきた、気持ちがいいわ」
浜田がぼーっとした顔で、小田をみた。小田も上気した顔で浜田をみた。
「ふわふわしているわ」
崎山が八杉のそばによって行った。
「あー気持がいい」
四人は服を脱ぎ捨てると泉の中に入っていった。
私は、それをぼーっとみていた。
すると、胞子の煙の中から、女性が現れた、しかも日本人だ。手招きをしている。
顔が霞んでいて、どのような人かよくわからない。
手招きに誘われて近寄っていくと、彼女は遠くに歩いていってしまう。からだが、じーんと気持ちよくしびれてきた。精を放出した後の気持ちの良さが、しびれのように続く。あまりにも気持ちの良さにこれではからだが壊れてしまわないか不安になる。やがて、女性の姿は見えなくなった。
霧が晴れてきた。
ふっと気がつくと、私は泉の中に洋服を着たままたたずんでいた。
「おい、なにしてんだ」
小田が泉のほとりから声をかけてきた。四人とも泉の中にはいったはずなのに、水から上がっている。崎山も、浜田も、八杉も私をみた
「おまえたち、洋服はどうした」
逆に声をかけた。彼らは素っ裸だった。
「きゃあ」
崎山と浜田は裸なのに気がつくと、あわててまわりを見回した。
あたりに散らかっていた自分たちの服をとり上げると、茂みに入った。小田と八杉も着物をつけた。
私は泉からあがると、ズボンの裾をしぼった。ところが濡れていない。泉の中に手を入れてみた。水がない。蜃気楼のようなものだろう。泉など存在しなかった。
私は服をつけた彼らと顔を見合わせた。
「なにがあった」
私は彼らに聞いた。
「体が熱くなって、いつか洋服をとっちゃったみたい、渋澤君が教えてくれなきゃ、裸になったの知らなかった」
浜田が恥ずかしそうに言った。
「その間はどうだった、頭の中に快感がうずまいていなかったかい」
「そう、そうなの」
崎山が答えた。
「おれもそうだ」
小田が言い、八杉がうなずいた。
「渋澤はどうだったんだ」
「女性に手招きされて、いつのまにか、泉の中にいた」
「やっぱり快感があったのか」
私はうなずいた。
「きっと、胞子を吸ったせいだ」
「そうだな、ということはまだ胞子の影響がある、早く戻らなくては」
「なぜなの」
浜田が不思議そうに聞いた。私は答えた。
「ここに泉はない、まぼろしだ、でも今見えている。胞子の影響なのだ」
「そうなの、早く戻りましょう」
崎山が先頭になって道を戻り始めた。
「でも、なぜ、澁澤だけが女の人にさそわれたのだろう」
小田が独り言のように言った。
そんなことがあった。なにが起こったのか、私の頭の中では、本当にあったことなのか、幻想かよくわからない。ただ若かったのだろう、浜田の張った少し黒ずんだ大きな乳房と、崎山の色の白いぴんく色のかわいい乳首が頭の中に残っている。泉の中で彼らがなにをしたのか、そんなことは全くわからない。
その後、無事にウイーンの宿に戻り、互いにその時のことを話さないでいた。別に隠そうとしていたわけでもないが、あのときにからだに生じた強い快感は、結婚して子供を作っても、この年になるまでに感じたことはなかった。あまりにも強烈だった。まだ、純朴だった我々はそのことを話すことがじたいが恥ずかしかったのだろう。
しかし、楽しく卒業旅行を終えた。
こうして、我々は大学を離れ、それぞれ異なった国に住み家を得て、静かに暮らしている。会いたいと思わないでもないが、もうこの年になると面倒でもある。
だが、今、あの黒の森にもう一度行きたいと思い始めている。思い切って旅行業者に手配をかけた。外国に行くときには必ず使っていた会社だ。当時気に入って頼んでいた社員も、今は社長になり、大きな会社に発展させている。
「はい、インタースカイでございます」
「日野の渋澤と言います、昔お宅によく頼みました。ウイーンにいきたいのだが飛行機と宿をお願いします」
「渋澤様ですか、ちょっとお待ちください」
応対にでたのは若そうな社員である。私のことを知っているわけがないが。
かわったのは社長だった。
「佐村でございます。ご無沙汰しています。渋澤様、お元気でいらっしゃいましたか、会社を覚えていただいていて光栄です、ウイーンですか」
「ええ、久しぶり、ウイーンに行きたくなって、中二日ほどウイーンに滞在したいのだがお願いできますか」
「ビジネスでお取りしますか」
「うん、宿は任せます」
「はい」
「ところで、今電話にでた社員の人、僕を知っていたのかな」
「ええ、私の息子です、あの有名な車を設計した人がうちの会社を使っているって話をしていたのです。いまでも渋澤様が開発した車を愛用しています」
「それは嬉しいですね」
「切符はお二人分ですか、昔はよく奥様と出かけられましたが」
「家内は三年前に死んだよ」
「それは、失礼いたしました、お元気なきれいな奥様だったので」
「いや、気にしないでください。不慮の死ですよ、車にはねられた。まさかの出来事でした。しかもライバルの会社の車でね、酔っぱらいの運転手が悪いのに、あの会社に八つ当たりしていましたが、もう、落ち着きました。運命ですね、酔っぱらっていた運転手も奥さんを亡くしたばかりの人でしたよ、それはちょっとやり切れなかったですがね」
「そうですね」
「あ、つまらんことを言いました。でかけるのは一月ほど後で、九月の半ばに適当にとってください。
「わかりました。宿もいつものクラスで手配しておきます」
こうして、九月十一日金曜日の航空券とホテルのバウチャーが送られてきた。
私は久しぶりにうきうきした気持ちになって、早くから旅行の支度をした。
その日になった。家まで車が迎えにきてくれるちょっと贅沢な旅である。空港ではビップのラウンジに入り、楽に飛行機に乗り込んだ。十二時間至れり尽くせりのサービスを受け、あっと言う間にウイーンに到着した。しかし、あの切り詰めた学生時代の旅行も、楽しさはこのフライト以上であったことは確かである。初めてのヨーロッパであったこともあるが、パリから乗った特急列車のコンパートメントの中から見る回りの景色は日本とは全く違う匂いがして、胸を躍らせていた。若いときの経験はよい思い出となる。
もう夕暮れである、この時期になると雲が垂れ込めて、暗い日が続くことが多い。ホテルまでの車が空港で待っていた。
贅沢な部屋が用意されており、支配人の挨拶まで受けた。その夜はゆったりと、ルームサービスをとり、早くにベッドにはいった。
明くる朝。到着した昨日とは打って変わって、青空の広がった気持ちのよい日になった。
シャワーを浴び、朝食を済ませ、シェーンブルク宮殿までゆっくりと歩いた。きれいな宮殿である。宮殿を横切ると裏の森の中に入っていった。若い頃より深く繁って、いかにも黒の森らしく感じるようになっている。
記憶をたどりながら森の中に入っていったが、もう六十年近く前のことである。森の中の木の印象もごつくなり、柔らかな日が射し込む林の思い出とはだいぶ異なるものである。それでも森の奥に向かって道が延びており、日が射し込んでいた。あのときは夕方であったが、今回は朝である。日の方向も違うのであろう。それでもやはり黒の森のすばらしい散歩道である。
少し奥に進むと、もちろん寒いほどのひんやりした空気に包まれるが、昔と変わりなく鳥の声が絶え間なく聞こえ、栗鼠は至る所で飛び跳ねていた。
道の脇には茸が生えていたが、学生の時に感じた色とりどりの茸の印象はない。とても地味な落ち着いた茸が目に付く。
道は間違っていなかったようだ。しばらく歩くとちょっと開けた場所に出た。幻の泉があったところではないだろうか。おそらく、茸の胞子が立ちこめ、それを吸った我々が不思議な体験をしたところである。
少しばかり感慨に耽ってあたりを眺めていると、後ろから声がした。
「日本の方ですか」
私は振り向いて声の主を見て驚いた。真っ白な髪を短く切った品のいい女性であった。浜田麻紀によくにている。
「はい、日本からきました」
「私、ロンドンからきましたの、懐かしい場所で」
「人違いだったらすみません、もしや、浜田麻紀さんではないですか」
「え、はい、どなたかしら」
「渋澤です」
「え、渋澤君、どうしてここへ」
「不思議なことがありますね、急にきたくなったものですから、本当に久しぶりで、お元気そうで」
私はちょっと恐怖感すら覚えた。
「ええ、孫は日本にいますのよ、時々日本に帰ります、渋澤君は」
「ええ、孫もいますし、元気にしています。ちょっと前に家内を亡くしましてね」
「それは、お気の毒、私も夫はなくなりましたの」
と、後ろから声がした。
「まさか」
振り返ると、老人が二人、私たちを見ていた。
「渋澤君と浜田さん」
八杉と小田だった。
「八杉はロシアからきたのだそうだ、わたしはボストンからきた、奇妙すぎるね、どうしてもきたくなって、きてしまったんだ」
小田も八杉も不思議そうに顔を見合わせた。
「何かの力が働いているようだ、あり得ないことだ」
何人かの頭の中はXファイルを思い出していただろう。少なくとも私はそうだ。
皆いい老人になった。小田がはげてしまったが、八杉は白い髪を長くのばし、髭をたくわえている。
「泉ちゃんも来るのかしら」
浜田が言った。
「必ずくる、なにかある」
八杉が言ったとき、道を歩いてくる老女が見えた。
「やはり来た」
八杉が私をみた。その目は怖いといっている。
「彼女がここにきたらなにが起こるのだろう」
小田が言った。
「わからない」
八杉は小刻みに震えていた。
私はなぜか人生の終末の匂いをかいだ。
道を歩く老女はだんだん私たちの目にも崎山泉であることがわかった。和服をまといゆっくりと進んでくる。
私たちは無言で彼女の到着を待った。
彼女は我々を認めると、一時歩みを止めた。
「泉ちゃん」
浜田が声をかけた。
崎山は歩みを早め我々の前に現れた。
「みんないるの、どうして、どうしているの」
崎山は我々を見て、さらに続けた。
「私の頭はおかしくなったの、あの時のように、幻影を見ているの、どうしたらいいのかしら」
「幻影なんかじゃない。我々もここにきたんだ、こんなことはあり得ないが、でも皆ここにいる」
私はそう言った。
崎山泉は我々の前にきて、
「会いたかったわ」
と一人一人と手を握った。
最後に私のところにきて、私の手をとったとたんである。我々のからだから茶色の煙が吹き出して森の中を覆いつくした。みなのからだからも茶色の胞子が噴出した。
目の前に泉が出現した。
我々は、茶色の胞子を撒き散らながら、大きな茶色の茸となって泉のほとりで輪になった。こうして、われわれは人としての生を終えた。
「あれ、ここに五つの茸が輪になっている」
若い日本人の女の子の声がした。
「地味だけど食べられるかどうかわからないな」
「霧がかかったと思ったら、茸の胞子だったんだ、ほらこの茸から茶色の煙がでている」
男二人と女一人の学生らしき旅行者だった。
いきなり、女の子が裸になって泉の中に入り泳ぎだした。男の子も同じように真っ裸になって泳ぎ始めた。
しばらくすると、岸に上がり草地で横になり眠りについた。起きたとき彼らがどうなるか、我々にはわかっていた。
我々の役目はここで終わったのである。
霧