丘の上のマドモアゼル

日南田ウヲ

「丘の上のマドモアゼル」



「五年か・・」
 その言葉を吐いた時、心の中で何かが音を立てて肩にのしかかるのを百合子は聞いた。
降りたバス停から伸びる坂道を肩にかけたキャンバスケースが膝にあたるのも気にせず黙々と上ってゆく。
自分が住むマンションはこの長いなだらかな坂道の奥にある。
(せめてもう少しバス停が坂道の奥にあれば良いのに)
 百合子は息を指に吐いた。
 十一月の夕暮れはやがて来る冬の寒さを百合子の爪先に伝えているのか、冷たくなった自分の指先をこうして時折息を吐いて温めなければならなかった。
その度指先に残る小麦粉とバターの匂いを嗅いで、何とも言えない悔しさを噛みしめなければならかった。
(もしあのまま南仏ニースに居たら・・どうだっただろう)
それが今では「たられば」であることは百合子には分かっている。
日本に帰ると決めたのは自分だ。
南仏での画家としての生活を捨て、自分は日本へ帰って来た。
別段、彼の地で大きな席を得るような画家であったとは胸を張って言える訳ではなかったが、南仏での絵を描く日々は今思えば失われた輝きのようで、今の日本での生活を考えればまさに雲泥の差だった。
降り注ぐ柔らかい檸檬色の陽も若く同じ世代の芸術家たちのさざめく情熱も、ここでは今眺めている灰色の鉛のような雲に遮られ、自分を照らして感じさせることは無かった。
日本では芸術家、画家を生涯の職業として生活をすることは厳しい。
それは同じ東京の芸術大学を出た先輩、後輩、友人達の今を見ればわかる。
あれほど学生の頃は芸術に情熱を傾けていた皆も卒業後は普通の一般企業へ就職し、やがて結婚して家庭を持ち、そして子供を育て芸術とは無縁の生活をしている。それは日本では芸術の前に生活があり、それができないことは大きな経済的、社会的脱落に繋がるという厳しい現実があるからだ。
だから皆自分の果たすべき義務を優先してそれが終えた老後の余暇の楽しみとしてほとんどの人が人生における芸術の位置をそう考えている。
学生の頃は芸術家、しかし社会人になればそれは常識の分かる大人。そうそれは誰も言わないが、それが必然の暗黙のルール。
百合子はそれに首を振った。自分の絵を描くということがそんな大前提の現実に潰されるのは嫌だった。
芸術は、いや自分が描く絵は人生が輝きそして情熱が沸騰するうちに描かれなければならないものだ。
(だから・・)
 百合子は東京の芸術大学を卒業後、アルバイトをして貯金が出来ると直ぐに日本を飛び出しフランスへと渡った。
それは画家として情熱を失うことが無い絵を描く生活を手に入れる為・・・
そして敬愛するシャガールが過ごした南仏へ向かうとそこに居を構えて日々絵を描いて過ごした。
坂道を振り返る百合子の瞳に低い雲が須磨の海の上を流れているのが映った。
溜息が漏れる。
(もはやあの美しいコートダジュールの海の色をキャンバスに描くことはないかもしれない)
海から自分の方へ向かって放物線を描くように須磨の街の外灯が見え始めた。夜が始まろうとしていた。
日本へ帰った自分を待っていたのは働かなければならないという現実だった。
その現実は南仏から帰った五年で自分の指を絵筆から離し、神戸三宮の小さなベーカリーショップで小麦粉とバターを日々大きなボウルでこねる生活へと変えた。
そのベーカリーショップも今日突然解雇された。
自分が或る公募展に出す絵を描く為、ほんの一週間ほど休みを願い出たところ店長が百合子に解雇を言い渡した。
「絵を描くだって?そんな暇がどこにあるのさ。皆働いているのだよ、汗水流してさ、里見さん。そんなに遊びたいならさ、辞めてくれよ。そして好きなだけ絵を描いてくれればいい」
 あきれ顔で言われた百合子は言葉も出なかった。
(絵を描くことは・・・遊び)
 南仏では聞かなかった言葉だ。芸術がここではもはや子供の夢ままごとのようになっているのだと痛感した。
 百合子はキャンバスの入ったケースをそっと撫でた。
 それを甘受しないといけない、百合子はそう思った。
こうした現実に向きあうことになることは南仏を出た時に既に心に決めていたがやはり目の前に突きつけられるとなんとも言えないもどかしさで心が溢れて思わず目頭が熱くなった。
百合子は思った。
(ひょっとしたら絵の事で心が傷つくより失恋で心が傷ついたあの時のほうが今思えば楽だったかもしれない・・)
 百合子は靴の爪先で道に転がっている小石を蹴った。
(ジャン・・あなたが私に与えた失恋の傷より、今の現実の方が数段厳しいかもね)
 百合子はそう心の中で呟くと蹴って転がった小石に目もくれず坂道を歩き始めた。  
まだ自分の住んでいるマンションまでは坂道を上らなければならない。
(今日は早く部屋に戻って絵を描きたい。そしてすこしでもこの憐れで惨めな気持ちを忘れたい)
百合子は少し急ぎ足になりながら小さなイタリアンレストランの壁沿いの坂道を一歩一歩足に力を入れながら上って行く。 
レストランのドアが開いて客が出てくるのを見ると伏し目になりながら足早に客の間を抜けた。
そして勢いよく角を右に折れた、と思ったのと同時だった。
「あ・・」
百合子は思わず声を出した。
 目の前で手に赤灯を手にした警備員が立って自分を見ていた。
「すいませんね、今日から一週間ここで工事しているのでここ通れないのですよ」
 思わずえっと言った。
 警備員が頭を掻いた。
「ですので、申し訳ないのですが向こうに行くのでしたらこの先の角まで行ってもらってそこに白い壁の建物があるのですけど、そこ迂回・・してもらってもいいですかね」
 それを聞いて百合子は唯黙って頷いて、背を向けた。
「すいません!!」
 警備員の軽妙な声を背に聞きながら百合子は警備員の言われた通り歩き出した。
 歩きながら洩れた溜息が少し白くなった。
 
 翌日、朝遅くに起きた。
もうベーカリーショップに行く必要は無い。そう思うと不安が少し過ったが百合子は首を振ってカーテンを開けた。
目がくらむような日差しが目に入り込んだ。手をかざして陽を避けるように数秒下を向く。そしてゆっくりと陽になれてきた瞳を遠くへとやった。
須磨の海が見え、朝の陽ざしに反射して揺らめく島影と岸の間の波間を進む船が見えた。
(朝か・・)
 百合子は部屋を振り返りイーゼルに掛けてあるキャンバスを見た。
キャンバスには木炭で引かれた無数の線と一段大きく左上から振り下ろされた鋭い線の痕があった。
昨晩、結局絵は描けなかった。キャンバスに向かうことは向かったが、線を引く度様々な感情が心の中に湧き出てきて、それが自分を深い底に落として行った。
悔しさ、憐れさ、焦り、そして失恋と後悔・・・様々な感情が幾度となく自分の小さな身体を駆け巡ってゆき、結局それらの複雑な思いと自問自答する為にキャンバスに向かったのではないかと思うような時間だけが過ぎて、百合子は最後にやりきれない気持ちをキャンバスに投げつけるように大きく斜めに線を引いて布団を頭から被り眠りについた。
見つめるキャンバスに昨日の気持ちが残っている。
現在の自分を受け入れない葛藤がキャンバスの中でこちらを見ていた。
暫くじっとキャンバスを見ていたが、軽く首を振った。
(昨日の自分は捨てて、明日の為に絵を描こう。前向きに進まないと・・)
そう思ってイーゼルにかけていたぼろ布を手に取った瞬間、突然アスファルトを削るようなけたたましい工事機械の音が窓を震わせ部屋中に響きだした。
(え!!ちょっと何よ)
 眉を寄せて百合子は窓から眼下に見える通りに目を遣った。
音の出ている場所を探そうと目を動かすと、昨晩警備員が立っていた場所に重機が見え、その側で作業員が道路のアスファルトを削っている。
低く唸る様な重機の音と工事現場の作業員の仲間を呼ぶ大きな怒声を聞いて、百合子は手にしたぼろ布を床に投げ捨てた。
(そういえば今日から工事だった・・日中こんな騒音がしていたら、集中して絵なんて描けっこない・・)
深いため息をしながらベッドに腰かける。
 工事の騒音は百合子の心の隙間にまで大きく響いてくるようだった。
 少し諦め顔になった百合子は鏡に向かうと自分の顔を見た。
(ついてない・・)
 そう呟く自分の表情はなんとも情けない顔をしている。
溜息をつくとベッドの上にごろんと横になり天井を見た。
(部屋に居ても仕方ないわね・・どうしようか)
 考えを巡らしている間も、工事のけたたましい騒音はない止むことは無かった。
(そうだ・・)
 百合子は何かを思い出すと髪を軽く束ねて、外出する身支度を始めた。
唇に薄いピンクのルージュを引くと青いコートを着て手に小さなスケッチブックを取った。
 百合子は身支度をしながら昨晩出会ったある人物を思い出していた。
それは迂回した坂道の途中で出会った。
壁伝いに歩いていると小さな燭台に照らされた門が見えた。
(燭台?)
 そう思って細く目凝らすとそこに小さな影が立っているのが見えた。
(人かな?)
百合子はその影の顔がわかるぐらいの距離で下を向くと、その影を避けようと動いた。
その時だった。
“ボンソワール、マドモアゼル”
突然フランス語で挨拶を受けたのだ。
百合子は思わず立ちどまった。
そして顔をその人物に向けた。
挨拶をして来た人物は屈むと何かを拾い上げて、やがて百合子ににこりと微笑むと扉の中に猫の鳴き声と共に消えて行った。
数秒、百合子はその人物が消えて行くのを呆気にとられながら動かず見ていた。そして十分心の中で驚きが消えるのを待って静かにその人物が消えた門の前に立った。
夜の帳の始まりの中で見たその人物が消えた建物はどこか画家モーリス・ユトリロが良く描いたエコールドパリ時代の建物のようだった。
百合子は鉛筆を数本手に取るとそれをコートのポケットに押し込んだ。
(あの場所へ行ってみよう)
 そう思うと工事の騒音が聞こえなくなり、百合子は勢いよく部屋の扉を開けた。

スニーカーで駆け出した坂道の途中で一匹の黒猫が自分を追い越して行く。
「あれ、猫ちゃんどこ行くの?」
 そう言って猫を追うと猫は門が見える場所にピタリと止まって自分を見るや否や、その建物に飛び込んだ。
(あの子、ここの飼い猫かしら?)
 百合子は猫の飛び込んだ場所の前に立ち建物を見た。少し錆びついたアールデコ調の黒い門柵の向こうで猫がこちらを見ている。
(昨日は夜だったから暗くて良く分からなかったけど・・どこか神戸の北野にある様な良い感じの建物ね・・)
 百合子は目を凝らしながら建物を見る。
 コートダジュールの街で見られる煉瓦色の瓦が屋根にあってそれがどこか建物がニット帽子を被っているように可愛らしく見える。
 百合子は思い切って少し背を伸ばした。
 門柵の向こうに小さな庭が見え、庭を覆う短く切りそろえられた草が降り注ぐ陽の光を掴んで離さないで遊んでいるように見えた。
(わぁ・・美しい可愛らしい庭)
百合子は伸ばした背を戻すとスケッチブックを開きながら建物全体が見えるようにゆっくりと下がってゆく。
そして手早くクロッキーのように指を動かし建物をスケッチしてゆく。描き終わると今度は角度を少し変えてまた建物をスケッチブックに描いてゆく。
それを数枚描きあげてゆくと建物の壁に置かれた文字があることに気付いた。
スケッチブックを閉じて目を凝らしてそれを小さく声に出した。
「垂井眼科・・」
 それでもう一度建物を見た。
 建物は白い壁だったが良く見ればそれらは古く、そして風雪の為か所々少し傷んでいる。
(でも・・)
 百合子は心の中で反芻した。
(だからと言って建物が持つ魅力と言うのが落ちるわけじゃなくて・・むしろそうした年月の趣がより一層建物を魅力立てている)
 そして疑問を口にした。
「開業しているのかしら・・」
 少し首をかしげてみるが、こちらを見ている黒猫が欠伸をするのを見てそんな雰囲気がしなかった。
(じゃ・・昨日、私に声をかけたあのご婦人はここのドクター・・それとも)
 そう心の中で呟いた時、黒い木目の扉が開いて老婦人が出て来た。
ゆったりとしたガウンを肩から掛けて、杖を引きながら庭へ出ると黒猫を呼んだ。
「マリー、ほら欠伸などしてないで、あの素敵な絵描きさんをお呼びに言って頂戴」
(え?)
 老婦人の声は百合子にもはっきり聞こえた。
(絵描きさん?それって私のこと?)
辺りを見るが家の前には自分しかいない。少しどぎまぎしながら百合子は老婦人を見た。
ほぼそれと同時に黒猫が走り出し、百合子の側にやって来てピンと背を伸ばして立った。
 そして柔らかい声で鳴いた。
 老婦人の言葉が聞こえた。
“ボンジュール、マドモアゼル”
 そしてにこりと笑う。
“部屋に入って、お茶でものみませんか?”
 流暢なフランス語だった。
 思わず百合子は
“はい” 
と頷いて答えた。
 それに老婦人は再び笑顔で答えて、百合子を手招きした。
 ご主人への返事に機嫌を良くしたのかマリーが百合子の靴を舐めて、そして小さく鳴いた。
  
黒い木製の扉を開けると広い玄関と受付があった。そして小さな上がり段があってそこが広間になっている。
一目でここが病院の受付と待合室だと分かった。
この待合室には天井の方に小さな小窓があり、陽の光が筒状になって降り注いでいる。
百合子は上がり段にそろえられたスリッパを履くと老婦人の後に続いた。
そして小さなアーチ形の欄間を潜ると思わず百合子は声を出した。
診察室であったと思われる大きな部屋の中心にイーゼルと椅子があって壁の所々に額縁に入った絵が整然と並んでいた。
それはさながら小さな美術館のような光景だった。
百合子はゆっくりと絵に目を遣った。
そして思わず声を出した。
「セザンヌ??」
百合子は驚きながら隣に掛けられた絵を見た。
驚きの声を上げながら百合子が立て続けに言う。
「これは・・モネ!!」
振りかえると別の絵を見て言う。
「これは・・フェルメール」
そう言った時奥から老婦人がトレイの上にポットとティカープを両手に持って現れ、小さなテーブルを引き寄せて、その上に置いた。
驚いて絵を眺めている百合子に老婦人が言った。
「今朝は娘が朝早く孫を連れて元町の百貨店に出かけてしまってね。こうした粗末なお茶しかないのだけど、どうぞ召し上がって」
 そして小さな椅子に腰を掛けて驚く百合子を見て「どうぞ」と言った。
 百合子は老婦人の言葉に頷くと部屋中に飾られた絵を見ながら、静かに椅子に腰かけた。
 そして驚きで震えながら、そっとカップを手に取った。
 カップの中で立ち上がる湯気の中にヴァニラの香りがした。
(いい香り・・)
瞼を薄く閉じて香りを嗅ぐと自然に震えが止まるのが分かった。
百合子はゆっくりとお茶を口に含んだ。そして静かにカップをソーサに戻すと深く息を吐いて老婦人を見た。
 老婦人は微笑をしているようだった。
 百合子は首を振った。
「ここにあるのは・・・すいません。おそらく本物ではありませんよね。偽物ですね。だって私、フランスのルーブルやオルセーをはじめいろんなところで本物を見ているものですから・・」
 最後の方で下を見たのは、老婦人の何とも言えないこのコレクションを偽物と指摘した罪悪感からだった。
「ええ、勿論。その通りです」相好を崩さず老婦人が言う。
「ですよね。すいません。でも誤解しないでください。決して偽物を飾っているのを悪く言うつもりはないのです」
そう言って百合子は頭を下げた。
「良いのよ、だってこれは全て私の作品なのだから」
 その答えに百合子は驚いて声を出した。
「この飾られた作品が、おばあちゃんの作品?」
 そこで、あっと言って口を押えた。
 老婦人は肩を揺らしながら笑った。
「そうそう、たしかにあなたのように若くて美しい人から見たら私なんておばあちゃんね」
 百合子は顔を紅潮させながらすいません、と深く頭を下げた。
「いえいえ、気になさらずに。おばあちゃんには間違いないのですから。そうお名前を伺ってなかったわね。私は垂井百合子。ここの病院は無くなった主人の病院なの。失礼だけどあなたのお名前は?」
 恥ずかし気に下げた頭を上げて百合子は言った。
「私は里見百合子といいます」
「あらあなたは百合子さんというの?もしかして漢字は花の百合と同じ?」
「はい、同じです」
 百合子は言った。
「じゃお互い同じ名前なのね、私達奇妙なところで符号が合うのね、“名前”と“絵描き”同志というところで」
老婦人は百合子が手にしているスケッチブックを指さした。
「そうでしょ?あなた昨日大きなキャンバスを抱えていたものね。スケッチブックとキャンバスの二つヒントで絵描きじゃないなんて、そんな解答は無い筈よ」
 百合子ははにかむ様に笑った。そして先程老婦人が壁に掛けられた作品が“自分の作品”と言ったことを思い出して言った。
「百合子・・おばあちゃんも?」
 そう言って再び口に手を遣った。
老婦人が目で軽く百合子の言葉を押さえた。
「それでいいのよ、おばあちゃんと言って」
 そして老婦人がゆっくりと頷く。
「そう、決して小磯先生みたいな大家ではありませんが、主人が汗水働く側でひっそりと息を長くやっている絵描き・・いえ今はそうね、そうだったと過去形で言うべきね」 
 最後は少し寂しげな表情になって百合子に言った。
「やはり歳でね。視力があまり良くなくなってきたの。娘たちも絵を描くのは目に悪いからって賛成しなくなって。だから絵を描くのはたまに孫の美術の宿題がある時だけ」
 百合子は老婦人の深い黒い瞳をそっと見つめた。そこに百合子とそして多くの壁に掛けられた絵が見えた。
「ではこれらの絵は百合子おばあちゃんが描かれたのですか?」
 静かに老婦人が頷く。
「ええ、これらは全て私の模写なのよ」
 百合子は背を伸ばして再び部屋中の絵を見渡した。
 そして溜息を洩らして首を振る。
「素晴らしいですね」
百合子は立ち上がり一枚の絵の近くに言って老婦人を見た。
「決してお世辞ではありません。見て下さい、このセザンヌの作品は『カード遊びをする男たち』です」
百合子はそこでじっと一度作品に目を遣ると静かに力強く話し出した。
「今からお話しするのは私の個人的な考えです。私はこの作品をオルセー美術館で見て深い感銘を受けました。それはセザンヌの画家としての物事を見つめる視線の良さとキャンバスに描かれた題材に対する構図、そして色彩の完璧な構成に驚かされたからです。机の上に置かれたボトルを挟んで帽子を被った農夫二人が互いにカードを見られないように遊んでいる日常の束の間の休日。セザンヌの視線はそこに在って、労働者のやるせない気持ちを青や赤と言う原色ではなく茶褐色で見事に表現しているように思います。貧しく厳しい労働者のこれ以上変わる事の無い生活への諦めと、過酷な労働から開放される束の間の休日の気持ちはそれ以外の何色でもなかったと私は思います」
 百合子は一息入れて続けた。
「そしておばあちゃんの描いた模写はそのセザンヌと同じように男の肌の色使い、その男たちの気持ちもこの作品でも同様に伝え、唯の模写と言うレベルではなく、見事に茶褐色と言う世界で生きる労働者をセザンヌと見事に同じ色調で観る者に伝えています」
 百合子は話をしながら湧き上がる情熱が抑えられなくなった。この名もなき老婦人の絵を見た感動はルーベンスの絵を見て天へ召されたネロ少年が受けた感動と寸分も変わらないと百合子は思った。
 そう思うと自然と目の奥が熱くなった。
「そして・・」
 百合子は声を少し詰まらせるように言った。
「付け加えるなら・・これらの模写はまるで愛する誰かに永遠に見てもらいたいという気持ちが溢れているように思います。それほどの強い気持ちが無ければこれ程の素晴らしい模写は描けないと私は思います」
最後の言葉を百合子はフェルメールの絵を指さしながら言った。
「それは『真珠の耳飾りをした少女』を見ればわかります。あの少女がこちらを振り返る眼差しは勿論フェルメールの眼差しであって・・」
百合子は老婦人を見た。
「そして百合子おばあちゃんの眼差しでもあります。これは愛する者をこれからも永遠に見つめていこうとする眼差しですから・・」
 百合子はもうそれで話すのを止めた。そして椅子に腰を掛けると顔を両手で覆った。
何故にこれほど自分が初めてあった見ず知らずの老婦人の絵を語れるのか、不思議に感じた。
その理由を直ぐに知りたいと思わず、唯ひたすら心の感じるまま無心で百合子は言った。
やがて小さな拍手が聞こえた。
それで百合子は顔を上げた。
「百合子さん、とても見事な作品評を頂いて嬉しいわ。そしてここに掛けられた作品の生まれた理由をそっと指で押さえられたのにも驚きました」
 百合子が不思議そうに老婦人を見た。
「よかったらお茶のお代わりをいかが?あなたにこの作品たちが生まれた理由をお話ししたくなったので」
 そう言うと老婦人は笑いながら席を立ち、奥へ入って行った。

 
 老婦人が奥へ入っている間、百合子は壁に掛かる絵を見て、戻ってくるのを待っていた。
 壁にかかる絵の奥に一枚、ひっそりと隠れるように置かれた一枚に目が行った。隠れるようにと言ったのはその絵だけが壁から少し離れて別室の影の中に隠れるように掛けられていたからだった。
(あれは・・)
 百合子は椅子を立つとその絵の側に行った。
 額に入っているその絵は80センチ、45センチほどの大きさで赤い服を着た女性が中心に立ち、まるで浮つく様な心持でこちらを見ていた。
 そしてその彼女の左頬に画面から入り込んできた人物がキスをしている絵だった。
(これはシャガール・・タイトルは確か『アクロバット』)
 百合子はこの絵をパリ国立近代美術館で見た記憶があった。
 百合子はこの巨匠が結婚や出産、愛といった人間の大事な出来事を原色で表現するその作風とどこかスラブ系の詩的な表現絵画に魅力を感じて、いつか自分もこの偉大な巨匠のように色彩を自由に表現できるようになうことを願っている。
色彩を自在に扱うこと、それは百合子の中でとても大事なテーマであった。
だからシャガールの作品はとても憧れを持って自分の教本として眺めるのだが、今目の前に掛けられた作品はシャガールの中でも色彩の落ち着いた作品であり、当初パリで見た時はシャガールの作品だとは百合子は思わず、そのまま絵の前を通り過ぎてしまった。
それがここに在って、今自分の前にあった。
それを見ていると老婦人が奥から新しい紅茶を運んで再びテーブルの上に置いた。
湯気の中に先程と同じようにヴァニラの甘い香りがした。
百合子は瞼を閉じて香りを嗅ぐと先程までの興奮が自分の中で自然と落ち着いてゆくのを感じた。
瞼を開けるとその様子を見ている老婦人と目を合わせた。
「この絵、シャガールですよね?」
 老婦人は頷いた。
「シャガールはお好きなのですか?」
 老婦人は首を振った。
「お嫌いで?」
 それに小さく頷く。
「ええ、私は印象派のような作品が好きで、ピカソやマティス・・・そしてそのシャガールなんかはどちらかというと苦手で・・」
 そう言いながら老婦人が百合子の側に並んで絵を一緒に眺めた。
 そして言った。
「私は・・嫌いなのだけど。亡くなった主人はとても好きでね。視力が無くなる最後までこの診察室でシャガールを良く眺めていたの・・」
 百合子は影の中に目を凝らした。
 奥に本棚があり、そこに医学書があるのが見えた。
「御主人はお亡くなりに・・?」
ええ、と老婦人は言った。
「十年ほど前、持病の糖尿病が酷くなって、最後は視力を無くしてしまった。眼医者が視力を無くすなんて、情けない話だけど」
「それは、大変なご苦労でしたね」
 百合子の言葉に頷くと老婦人はそっとシャガールの絵に触れた。
「シャガールは視力の落ちた主人の中でいつまでも輝きを放っていたみたいね。印象派の作品などより人物が来ている服の赤色一点の強さの方が、視力が薄れゆく霧のような世界でいつまでも主人に語りかけていたのでしょう」
 老婦人はそういうと再び椅子に腰かけた。
百合子も後を追って椅子に腰を掛けた。
そしてカップを口に寄せた。
暫く老婦人は何かを思い出すように瞼を閉じていた。
百合子はその間ヴァニラの香りを嗅ぎながら老婦人が言葉を紡ぎだすのを待った。
何処かで時計の時刻を刻む音が鳴った、と百合子は思った。
すると老婦人は閉じていた瞼を開くと百合子を見て微笑した。
「老人の悪い癖ね。直ぐ、先程話していたことを忘れてしまう」
 さて、と小さく老婦人は呟いた。
「先程の話・・、そう私がなぜこのように模写ばかり描くようになったのか・・」
 百合子は老婦人の目を真っ直ぐ見た。
「百合子さん、あなたはとてもいい目をしていますね。そう若い頃の私もあなたのように真っ直ぐな目をしていて・・そしてとても純粋に芸術を・・絵画を愛していました」
 百合子は無言で頷く。
「私はあなたと同じ年頃の頃、そう、パリに居たのよ。当時の私は絵画に夢と情熱を持っていた一人でした」
 老婦人はそこで居住まいを正して、百合子に微笑した。
「私は東京の芸術大学を卒業後、父の勧めもあって縁談を一度受けたの。その頃女性が芸術で身を立てるなんてとんでも無い時代でした。だけどね、大阪へ戻りいざ縁談、そうお見合いね、それを受けようとした時、何か急に嫌になったの。だってそうじゃない?才能を試すことなく女性がそのまま家庭に入るなんて。そう、それで私はそれが嫌になって、急慮、両親に何も言わず、パリへと向かったの」
 百合子はそれを黙って聞いて、そして頷いた。
「そう、そして私はモンマルトルへ向かいそこでアパートを借りて街の通りや小さな市場の側でイーゼルを立てて絵を描いて一人生活を始めたのよ。でもね、絵は全然売れなかった。それもそのはず、私の絵はその頃の流行に在っていなかった。私が描く印象派のような人物も風景も、アメリカで生まれた新しい芸術風潮から見れば古典的で、新しい刺激を与えるものでは無かったから・・、そして一年もすれば挫折が自然と訪れた・・・」
 静かに百合子はソーサにカップを置いた。
「そして挫折が訪れた時、私のアパートを訪ねて来た人がいたの」
 そう言った老婦人の瞳を百合子は見た。その瞳にシャガールが映っていた。
「そう・・・それが亡くなった主人。実は後で知ったのだけど私の両親が縁談を進めた相手は実は主人で、主人は私がパリへ向かったのを聞いて、その当時大阪の大学病院に研修医として勤めていたのだけど旅費を貯めて私をパリまで探しに来たのよ」
「そうだったのですか」
 百合子はバラ色のような心持のようになって老婦人を見た。
「百合子さん、あんまり見ないでね。こんなおばあちゃんの青春なんてあなたのような美しい若い人の青春に比べれば霞んでいる様なものだから」
「そんな・・いつの時代も女性の青春は輝いているもだと思います。そうラウル・デュフィの描いた『ラヴィアンローズ(バラ色 の人生)』のように」
 それを聞くと老婦人はにこりと微笑んだ。
「そうね、そうかもね」
「ええ、百合子おばあちゃん、きっとそうです」
 老婦人は頬を少し赤らめながら再び話し始めた。
「そして私はフランスでの挫折で自分の思いに見切りをつけて日本へ戻り、主人と結婚したの。そして翌年に子供を授かり、その後は妻として主人を支えながら日々を過ごし、その後数年が過ぎた頃、主人が大学病院から独立することになってこの場所へ開業することになった」
「そうでしたか」
「それでね。主人にこの病院を建てる時にお願いをしたのよ。それはこの建物を私が好きなモーリス・ユトリロの絵画に出てくるような建物にしてとね。そしたら主人は了承してくれて、ユトリロの絵に出てくるような建物の病院ができた」
 百合子は納得するように首を振った。
「それで分かりました。私もこの建物がユトリロの絵画に出てくるような建物だと思ったのです」
「それは良かった。謎が解けて」
 老婦人が微笑する。
「それから長い間。ここで開業を?」
「そう」
 老婦人が頷く。
「そして二人でこの病院を地域の人に愛されるように日々努力しながら育てて行き、やがて子供達が成長して手がはなれると私も暫く置いていた絵筆を取って少しずつ絵を描きはじめたの。描いた絵は玄関や応接間に飾って病院に来てくれた患者さんに見てもらったのよ。それは結構評判になったのだけど、主人は『下手な絵を飾るなんて恥ずかしい』みたいな気持ちでそれを見ていたみたい」
百合子を見て、老婦人が笑う。
「ではそのころから巨匠たちの模写を?」
老婦人は首を横に振った。
「いえ、そのころは庭の風景や主人の姿を印象派の・・・そうね、ベルト・モリゾのような感じで描いていたの」
「では、いつ頃模写を?」
 百合子は老婦人を見た。
 老婦人は小さく息を吐くと寂しそうな表情をして言った。
「主人の糖尿病が悪くなったころ、そう少しずつ視力が落ちて視野がかけ始めたころ・・」
 百合子は老婦人がそう言って深いため息をつくのを見た。
「糖尿病で視力と視野を?」
「ええ、医者の不養生とはこのことね。患者に一生懸命尽くすうちに自分の事を忘れてしまい、気が付いた時は既にその悪さは大きく進行していたのよ。やがて主人は開業医を止めて、私と二人この広い廃業した病院の建物で暮らすことになった」
 百合子は老婦人の寂しい横顔を見た。
「娘たちも結婚して出て行ったこの広い病院跡で私達夫婦は唯、静かに暮らしていたのだけど病気は主人の身体を蝕んでゆき、やがて・・」
「やがて・・」
「片足を奪ったのよ」
 百合子は医療の知識がある訳ではないが、重度の糖尿病患者でまれに片足を切除しなければならないことがあるのを知っていた。
「・・そうでしたか・・」
 百合子の言葉に老婦人が頷く。
「自由を奪われた主人は車椅子と言う不自由な生活になり、外に出ることもない日々をこの場所で過ごすことになった。でもね、主人は素晴らしい人だった。そんな境遇になっても誰かに当たり散らすことも無く、とても寛大で、そして人間としての誇りを忘れず、立派に生きていた」
 老婦人が立ち上がり、歩き出してシャガールの絵の前に立った。
「いつもこの絵の場所で言ったのよ『シャガールの絵は派手なのも好きだけど、僕はこの絵が一番好きだ。君と日本に帰る最後に美術館で見たこの原色の派手さがないこのバランスの取れた作品が特にね。それに・・』」
「それに?」百合子が反芻する。
 老婦人が少しはにかんで言った。
「『それに僕は警備員が居なくなったこの絵のまで君にキスをしてプロポーズしたのだから、忘れたのかい?』」
 そういうと老婦人は微笑してその絵を見た。
 百合子は何も言わず、そう言った老婦人が絵を指で撫でるのを黙って見ていた。
「それでね、百合子さん、私は決めたのよ。この部屋を私達夫婦が出会った頃の輝いていた青春に満たされた美しい回廊にしようと。若かった私達二人が最後にパリで見た偉大な芸術の作品で満たそうと。それが自由を失った主人の心の慰めになり、私達の生活のこれからの輝きになるだろうと。だから私は巨匠たちの模写を描こうと決めたの」
 百合子は自分の事を思った。
 自分は学校を卒業後、卒業した先輩、友人、後輩達が絵を描くことを生活の中心に置く生活よりリスクの少ない将来設計を選ぶのを見て、それが嫌で単身南仏ニースへ向かった。
 それは今老婦人が渡仏した理由と似ていないことも無い。
老婦人は自分を試すことなく家庭に入る将来を嫌がり、その時代の女性としてはとても冒険的で勇気のある挑戦で渡仏したのだ。
自分もそれになぞらえれば、冒険と挑戦で南仏へ向かったと言える。
そしてその後、老婦人には挫折が訪れた。
老婦人はその挫折を新しい未来からの訪問客と共にそれを乗り越えた。それが、亡くなられたご主人だと言った。
自分はと考えると、百合子は上唇を噛んだ。
(私はジャンとの失恋から逃れたいために日本へ戻ることにした。そう考えれば、私は失恋という芸術とは無縁の事で、何とも女性らしい理由で自分を芸術から遠ざけたことになる)
 南仏で過ごすうちに百合子は一人の男性と出会った。
 パリの大学で美術史を教鞭していたその男性はギャラリーで見た百合子の作品に深い感銘を受け、百合子のアトリエを訪れた。
 アトリエを訪れる男性の数が増えるほど二人の距離は近づいてゆき、やがてコートダジュールの渚を歩きながら二人はキスを重ね合い、そして二人の愛とその未来について語らうようになった。
 終わりは男性がパリへ戻ってからだった。彼はパリへ戻ると百合子の所に来ることは無かった。電話も繋がらなくなった。
 不思議に思った百合子はクリスマスの日、パリの彼のアパートを訪ねた。
 雪が降り始めた夕暮れ時のパリはとても美しかった。
 百合子は彼を驚かそうとアパート前の道を挟んだ木立に隠れてアパートのドアが開くのを心待ちにしていた。
 やがてドアが開いた。長身で髪を短く綺麗に揃えた男性が出て来た。
(ジャン)
 思わず口に出そうな自分を押さえて百合子は木の影から半身身体を動かした。
 しかし百合子はそこで動きを止めた。そのドアの後に続いて若い婦人と子供達が出て来たからだった。
 百合子は再び木に隠れた。
 隠れながら百合子は小さな子供が確かに男性に向かって『パパ』というのを聞いた。
 そしてその三人は通りを連れ立って百合子の側から離れていった。
 百合子は高まる心臓の音がこの恋の真実へと迫っているのを感じた。
そして高まる心臓の音に耳を塞ぐと下を向いて泣き出した。
「百合子さん?」
 その声で物思いから我に返ると老婦人を見た。
「何かお考えに耽っているようね」
 百合子は微笑して答えた。
「いえ、百合子おばあちゃんのお話が自分と似通っているところがあって、少し考えていました」
 にこりと老婦人は笑った。
「百合子さんもフランスにいらしたのね?」
「はい、私はパリではなく南仏ニースに居ました」
「ニース・・とても良いところね」
 老婦人がポットを手に取り百合子のコップに注いだ。白い湯気が湧き上がるとそれが二人のフランスへの思いを現わしているようにゆっくりと昇りながらやがて消えた。
「それで私は主人の為にここで沢山の巨匠達の模写を描いて主人と初めて出会ったあの青春の輝きで満たした美しい回廊にした。そしてそれは主人が無くなるまでずっと続いたの」
「御主人はお幸せでしたでしょうね。百合子おばあちゃんの素晴らしい芸術に囲まれて生活できたのですから」
 老婦人は笑った。
「そう思っているといいですけどね。でもね、百合子さん。いざ絵を描き始めて飾り始めるとこの絵は似ていないとかものすごく口やかましく言うのよ。その度、私も口答えするものだからもう喧嘩も多くて」
 老婦人は笑い終えると、うんと頷いた。
「ええ、幸せだった。私はとても幸せでしたよ。愛する人、この人に自分の絵を、芸術を見せることができて。絵描きって、きっと愛する人が認めてくれて初めて絵描きになるのね。別に絵の大家にならなくても唯一大事な人の為に絵が描ければ、それで絵描きって幸せではなくって?」
 百合子は最後の言葉に心を打たれた。
(唯一大事な人の為に絵が描ければ、それで絵描きって幸せではなくって?)
 昨晩自分は湧き上がる様々な感情と向き合いすぎて絵が描けなかった。それは自分が色んなことを考えすぎて扉があまりにも多くなりすぎてそれを一斉に開けたからだった。
 まるでパリのアパートの外から見える多くの部屋の窓を覗き見てその中で本当の幸せを探すような、そんな作業を昨日してしまったのだろう。
 自分の幸せは、自分の部屋だけ。そして扉は一つだけ。それを探せば良いと、老婦人は自分に言っているように聞こえた。
 振れた気持ちが一つになった気がした。
「百合子さん、お茶が冷めたようね、もしよければもう一杯いかがですか?」
 百合子は笑顔で頷いた。
「もしよければ、今度はあなたの絵の事をお話ししていただけない?あなたがこれからどんな絵を描きたいのか、この年寄りに教えて頂戴な」
 百合子は思った。どうしてこの見ず知らずの老婦人の絵をあれ程熱心に話したのかを。
(それは人生の大きな挫折を乗り越えた人間が放つ星の輝きを作品の中に見たからかもしれない。そして私もいつか挫折を乗り越えて再び星のように輝きたいと願っている。そう、私はこの方の作品を見た時、その輝きの理由を直感的に理解して、そしてそれを感じ取って感動したのだ。だってそれこそ自分が今まさに望む姿だから・・・)
 百合子は心の中でうんと頷いた。
そして老婦人の目を見ると、やがてゆっくりと話し始めた。

春の桜が散り、やがて全ての新緑が生命の息吹を噴き出して風が優しくなった。
神戸の街を見下ろす美術館に百合子の絵はあった。
入賞された作品の中で特に優秀な人に与えられる賞を受けたその作品は訪れる人々の足を止め、止むことない称賛の声で溢れていた。
(私の再スタートは南仏から五年を過ぎてやっと始まった)
そんなことを噛みしめながら百合子は老婦人を思い出した。
彼女は百合子と話をした翌月、静かにこの世を去った。
雪の降る中、運び出される棺を見ながら百合子は手を合わせた。
話をしたあの後、百合子は再びこの老婦人と話をする機会が終ぞ無かった。それは公募展の作品作りに一所懸命だったせいもあったが、後で遺族に聞いたのだが、百合子と話をした翌日から急に体調を壊し、神戸の総合病院へ入院したからだった。
末期癌だった。
死期を悟っていたのだろう、遺族へ残した遺言として『自分の葬儀は絵に囲まれた部屋で』とも聞いた。
百合子は自分の絵からはなれたバルコニーで窓から吹き込む風に頬を寄せて運ばれる潮風の匂いを嗅いだ。
(コートダジュールはここにもある。南仏に降り注ぐ優しい陽ざしを探すようなことはもうしない。それは私が作り出せばよいことなのだから)
 そして自分の展示された絵の側に歩き出した。
 午後の昼時の為か会場の人影はまばらになっていた。
 その中を百合子は歩いてゆく。
(おや?)
 百合子は自分の絵に背を丸めて顔を寄せるように見ている男性がいるのが見えた。
 熱心に見ているのか自分が近づいているのが分からない様だった。
 眼鏡越しに真剣に見ている男性は顎に手を寄せて時折頷いたり渋面にしたり変化を繰り返している。
 その様子が少し可笑しく見えた百合子はその男性の肩を叩いた。
 その男性は肩を叩かれたことに驚く風も無く、じっと百合子を見て背を伸ばした。
「私の作品ですが、とても熱心に見られていましたね」
 それで男性は少し驚いて声を上げた。
「ああ、この作品はあなたでしたか」
 そういうと男性は百合子の作品に目を遣った。
「この作品はこの会場のどの作品と比べてもとても個性的ですね」
 そこで小さく咳をした。
「縁故や何かで賞を取ったような作品で無くて、絵そのものの実力で賞を取られた作品だ」
 男性は振り返り百合子をじっと見た。
(強い瞳だ、そして底から深い情熱の炎を感じる)
 百合子はそう感じた。
「それに何だろう、この独自の色彩は。そうだな・・どこか柔らかくて優しく包むようで・・・そう例えるなら南仏のコートダジュールの海岸に降り注ぐような美しい朝陽を見ているようです」
 それで男性は頭を掻いて、笑った。はにかんだとても良い笑顔だった。
(何と言う良い目をしているのだろう)
 百合子は感動を覚えないではいられなかった。
 そう、自分は決めたのだ。キャンバスの中であの南仏の陽を作り出そうと。
それが自分の絵画だと。
あの老婦人との語らいの時には欠片のようなことしか口に出せなかったが、自分はやがて日を追うごとに自分の絵を発見できたのだ。
それをこの男性は見事にその眼差しでその答えを突き止めた。
「もし、良ければそこのカフェでお話でも?」
 百合子は自然にその言葉が出たことに驚きを隠せなかった。
 男性はそれに笑顔で答えて頷いた。
「ええ、僕の方こそ。お話を伺いたい。そう、僕は滝といいます。滝鱗太郎、あなたは?」
「里見百合子といいます」
「『百合』はどう漢字を?」
 思わず百合子は心の中でえっと叫んだ。しかし直ぐに驚いた表情を隠すように首を軽く振って笑顔で答えた。
「百合の花の言葉と同じです」
「そうですか。いえ、近頃亡くなった叔母の名前も同じ百合子だったのですよ。偶然だ」
 それで百合子は少し真面目に聞いた。
「もしかして滝さんは、ドクターですか?」
 それには笑いながら男性は言った。
「いえ、僕は新聞記者です、それも美術専門のね。ドクターなんてとんでもない」
 そして不思議そうに男性は百合子を見た。
「それにしても、まるで僕の事を知っているようだ。実は亡くなった叔母夫婦は眼科医と画家だったのです」
 そういうと男性は肩にかけたバッグからペンとメモ帳を取り出した。
「じゃそこのカフェで取材なんていかがです?」
「ええ、お受けいたします」
 百合子はそう言って男性と並びながら歩き出した。
男性は百合子の方を見て言う。
「いや、本当に不思議だ。画家と言うのは深い観察ですべてをお見通しになるのですかね」
「それはどうでしょうね」
 百合子はそれにははぐらかすように言った。
「ただ・・」
 男性が百合子を見た。
「ただ?」
男性が聞いた。
百合子は首を振った。
「何となくなんですよ。もしその叔母さまが丘の上に住んでいらして愛する人の為に絵を描いていらしたご婦人でしたら、私はその『丘の上のマドモアゼル』に敬意を表したいです。だって今の私がいるのはその方のおかげですから」
 男性はゆっくりと視線を動かし百合子を振り返った。それは百合子が自分の叔母の事を知っているのだと確信した瞳だった。
その瞳が笑顔で言った。
「その言葉頂きましょう『丘の上のマドモアゼル』、亡くなった叔母へのあなたからの贈り物です」
 そしてカフェの扉を開けて、男性が言った。
『ではもう一人の丘の上のマドモアゼル、どうぞお入り下さい』
 それは流暢なフランス語だった。
百合子は微笑して小さく『ええ』と答えた。
 ゆっくりと閉められた一つの扉の向こう側で自分達が何を育むのか、それに期待を馳せながら百合子は静かに扉を閉めると、男性の待つ席へと向かった。

丘の上のマドモアゼル

丘の上のマドモアゼル

南仏ニースから戻ってきた百合子は絵画と向きうことができない日々を過ごしていた。そんなある日、自分の部屋へ帰る途中で白い大きな屋敷を見つけ、そこで突然、暗闇の中から老婦人からフランス語で声をかけられる。翌日、百合子はその老婦人のもとへ向かい、そこで老婦人が語る人生を聞きながら自分の向き合うべき芸術とは何かを見つける。この小説は年齢の離れた二人の女性が向き合った芸術とは何かを、見つめる物語です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-15

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