引き出しの中の誘拐

月らくだ

引き出しの中の誘拐

 美術館に絵を観に行こうと彼女を誘った時、彼女はそれとはまるで関係のない話をコーヒーとケーキを食べながら話した。
「それでね、わからない程度に机の上を荒らしておくの。すぐには気づかないくらい」
「でも、わからなかったら、報復にはならないだろ」
「でも、わかっちゃったら倍にして仕返しされるんだよね。だからわからないくらいに」
「でも、復讐だろ?」
「一度ね、目の前で思いっきり机を、机の上の物を、こうやって、ばーっと全部やったことがあるの。がーって。全部。床に払い落として」
「どうなった?」
「すぐに私の部屋に駆け込んでいって、机のね、上の物はめちゃくちゃにされて、でね、しかも中身まで全部、もう全部出されて床にめちゃくちゃ」
「引き出しの」
「そう、引き出しの」
「すごい姉弟(きょうだい)喧嘩だな」
 彼女は何かを思い出すように僕の左耳の上の辺りを視線でかすめて、遠くを見た。手にコーヒーを持ったまま。
「あっ」
「おいおい、なに、やってるんだよ」
「ああ、もう、なにこれ。染みになるよ」
「よそ見してるからだろ」
 僕は店員を呼んで、タオルを持ってきてもらう。
「ほら」
「信じられない」と彼女は言って、スカートにこぼれたコーヒーを拭く。
「君の人生は信じられることがあまりに少ないんだよ」
「なによ、全く」
「なにが、なによ、なんだよ」
「で、美術館って、なにやってるの?」
「美術館ってところはね、絵を飾ってあるところなんだよ。有名な絵とか、有名じゃない絵とか」
「知ってるよ、そんなこと」
「じゃあ、なにが知りたいんだよ」
「どんな絵を飾ってるかに決まってるでしょ」
「どんな絵か。例えば大きい絵がある。両手じゃ届かないくらい大きい絵。それから小さい絵もあるな。小さいやつは、このくらい。もちろん、中くらいの絵もある、中くらいの絵が一番多いと思うよ」
「なんで大きさなのよ」
「じゃあ、なんだよ、何なんだよ」
「絵の種類でしょ。絵の、種類」
「ああ、そうか。人物画が多いと思うな。でも、肖像画みたいのじゃなくて、こう、風景があって、人物がいる、みたいな。それから幻想的なやつが多いね。きっと。とにかく、素敵な絵なんだよ、とても」
「ふうん」
「そう」
「で、いつ?」
「明後日かな。土曜日」
「土曜日はだめ。友達と会うから」
「じゃあ、日曜日」
「うん、まあ、いいよ。でも、雨だよ」
「え?」
「週末は雨だよ」
「本当?まあ、でも、車だし」
「遠いの?」
「いや、そんなに遠くない、おい、またこぼすぞ、お前」
「ちょっと、お前って呼ばないでよ」
「君」
「んんん」
「お前、きーってなって、ここで、がーっとテーブルの上の物全部払い落としちゃだめだよ。コーヒーがあるし、人に迷惑だから」
「やる」
「おいおい」
 外に出たら、雨だった。
「今日って、週末だっけ」と僕は言う。
「私、傘、持ってる」
「僕は傘、持ってない」
「あーあ」
「あーあ」
「しょうがないなあ、全く」
「ありがとう」
「この傘、高いんだから、入るのも高いよ」
「やれやれ」
「傘、持ってよ」
 駅までの道はいつもよりも静かだった。


 日曜日、彼女は茶色のスカートにジーンのジャケットを羽織ってきた。雨は昨夜の内にあがっていた。僕は車の助手席のドアを開けた。
「そのスカートは可愛い」
「昨日、買ったの」
「へえ、別に良かったのに、そんなに僕を喜ばせようとしなくても」
「今日のために買ったわけじゃないです」
「じゃあ、なんのため?」
「どうしてあなたにそんなこと教えなくちゃいけないの?」
 道は混んでもなく、空いてもなかった。
「友達は元気だった?」
「え?」
「会ったんだろ、昨日」
「ああ、その子、風邪引いちゃってね、結局会えなかった」
「そうか、残念だね」
「でも、電話で二時間話した」
「二時間」
「そう、そうしたらね、話し終わって電話切ったら、すごく耳が痒くなったら、耳掻きでかいたら血が出た」
「馬鹿じゃないの」
「耳掻きが真っ赤になって、びっくりした」
「馬鹿じゃないの」
 良い天気だった。今まで誰も気づかなかったくらい良い天気だ。
「ええと、僕らはどこに行くんだっけ?」
「美術館でしょ」
「ああ、そうそう。美術館」
 ハンドルを握って、太陽の方角を目指す。
「ねえ、今までに誰かを誘拐したこと、ある?」と僕は言った。
「は?誘拐?なにそれ」
「誘拐したことない?」
「ない」
「そうか、ないんだ」
「え、あるの?」
「ううん、ないよ、これが初めて」
「初めて?」
「君は誘拐されたこと、ある?」
「ない」
「じゃあ、これが初めてだね」
「は?」
「僕は君を誘拐したんだ」
 彼女は窓から外を見た。
「ねえ、これ、道あってるの?」
「道なんかないよ」
「ふうん」
「だって、誘拐なんだから」
 誰も気づかなかったのは、良い天気だけじゃなかったかもしれない。

引き出しの中の誘拐

引き出しの中の誘拐

男と女の日常を描いた掌物語です。 (過去作品はこちらから → https://slib.net/a/24408/)

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更新日
登録日 2019-10-14

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