オペレーションG

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 我が家にはゴキブリが出ない。
 
 屋根裏をネズミやカラス、コウモリが闊歩し、床下に近所の猫は侵入しても。
 台所や便所を、ゲジゲジやカマドウマが這ったり跳ねたり(リフォーム後はとんと姿を見せない)、
部屋の中でやぶ蚊や小さな蜘蛛、時にはアシナガバチを目にしても。

 一度だけ、小学校へ入学したての頃、台所近くの廊下で遭遇したことがある。
 黒光りした謎の物体が素早い動きで壁を上り、あっという間に消えてしまった。
 黒い虫と言えばコオロギやクワガタ、カブトムシしか見たことがなかったため、その一瞬は記憶の奥深くに刻み込まれている。
 後に家の外、お隣さん家の外壁で見かけたが、それを入れても目撃例はたった二回。
 北国では見かけにくい、そう聞いたことはあるがそれにしても縁がない、幸いなことではあるが。

 初めて真正面から対峙したのは、上京後9年間住み続けたアパートだった。
 
 実家から持ち込んだ、使い込まれなじみ深い私物で構成された引っ越し直後のワンルーム。四角い空間に空きスペースが目立つ。
 そんな物寂しい状況が、家電や家具を買いそろえていくうちに、徐々に部屋らしくなっていく。
 住居版インフラが整っていくと、キッチンやユニットバス、洗濯機などの水回りや、玄関付近に生活感が漂いだす。
 二階奥の角部屋ゆえ、四方を隣室、並びのアパート(玄関側)、民家のベランダにリビングルームの窓と、
市井の人々の営みに囲まれた住環境。
 
 不安が多かった初めての一人暮らしに様々な楽しさを見出し、緊張感は緩和していく。
 すると生じた隙をつき、いつの間にかやつらは忍び込んでいた。
 油断していた。撃退グッズを常備する必要性が、頭の中からすっぽり抜けていた。

 部屋の壁紙はすべて白。
 だから、すぐに分かった。
 天井から電子レンジのラックに向かい、白のフィールドを黒いスプリンターが上から下へ駆け抜けていった。

 ―しまった、しくじった。
 後れを取った事実に今頃気づいている自分に軽く失望する。

 翌日すぐに殺虫剤を購入した、これでいつ現れても大丈夫。隙間に入り込んだやつは、人の手の届かぬ裏街道を使い、
僕が定期的に行う検問を潜り抜け、いまだこの部屋で息をひそめているに違いない。
我慢比べ、上等だ。いつ何時でも俺は勝負してやる。

 そして時はきた。チャンスとともに。
 次に見かけたのは、洗濯機のそばだった。この付近はキッチンとユニットバスが隣り合い水回りの集中している、
ゴキブリにとってのゴールデントライアングル。
 エンカウント率の極めて高い地帯。

 奴は瞬く間に、洗濯機と壁の間に滑り込んでしまった。再び出没するのを待つしかない。  
 我慢比べ。じれる気持ちを抑え、決定的瞬間を押さえるべく、構えと集中力をキープし続ける。
……
 出た!
 初動命。即攻撃に移る。トリガーを引く、スプレー発射! 
 結果は見事命中。動きが止まるまで手を緩めず、標的に向かい攻勢をかける。
 滅多に見せない腹を無防備にさらし、空中に向けた脚をバタつかせ、もがき苦しんでいる。
 ノズルを向け目をそらさず、その姿を一心に見つめる。

 不思議と達成感はない。
 むしろ良心の呵責にさいなまれるような、そんな複雑な気持ちが胸をよぎる。

 ガスが噴射し続けるこの一角が、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所内のガス施設のように思えてきた。
 ガスに苦しむゴキブリが、ナチス・ドイツに捕らえられたソ連兵、ポーランド人やユダヤ人と重なって見える。
 
 すぐ横のユニットバス、そのシャワーから出るのはお湯と水。
 方やアウシュヴィッツのガス室、死のシャワールームで噴出していたのはチクロンB。
 くしくもこのガスは、ノミやシラミを退治する殺虫剤でもあった。

 翌日から僕は、置くタイプのベイト剤に切り替えた。

オペレーションG

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  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-10-14

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