或る男の独白

蛙鳴蝉噪

幸い鼻を覆うほどの臭いは放っていなかった。
臭いの元である友人の遺体はベッドの上にある。
一見すると寝ているように見えるが、わずかに纏っている臭いは彼の死を告げていた。
彼がどのようにして自殺したのかは定かではない。
首には縄で締め上げた跡が残っているが、これは幾度か首吊りを実行した際、
恐怖に耐えられずに途中で止めてしまったときについた跡だった。
薬品棚を調べてみるが、自殺に使用すると思われた薬品の多量消費は見受けられなかった。
唯一遺されていたのは床に落ちている一枚の紙のみ。
そこには知ることのできなかった彼の告白が書かれていた。

八月三日。午前十二時頃。
私はこのところ数日、彼の部屋へと通っている。
張り詰めた精神が限界を迎えたらしかった彼はただならぬ様子でうなだれており、たまたま顔を見に伺った私がそれを発見した。
十数年来の友人である彼Yは一日のほとんど何かしらを考えているらしく、私が訪れるとその日に考えたことを聞かせてくれた。
机の方から椅子を引き寄せてベッドに腰かけているYの近くに座る。
「君は無意識のうちに何らかの感情を抱いたり、声を発していたことはあるかい」
Yは話している最中、相手の目を見ることはなくずっと虚空を見つめていた。
私にはYがまるでそこに何かしらを見出しているように見えた。
「いいや、そんなことは一度もないが」
Yは私の返答を聞くと溜息を吐く。
「誰かを恨んでいる訳でもないのに、唐突に頭の中で繰り返し呟かれるんだ。殺せ、殺せと」
「それが頭に浮かぶまえに何か嫌なことがあったりとかは」
「総合的に考えればすべてが嫌なことであった。だがその時は別に何も感じてはいなかった」
話している時でさえ変わらないYの表情は酷く哀愁を感じさせるものであった。
おそらくYは思考することで自身を押し殺すほどの悩みを消化している。
しかしその思考によって生み出されるものは反ってYを打ちのめしていたようだった。

八月四日。深夜二時頃。
Yは胸のあたりで発生している内側から溶かされるような痛みを感じていた。
「苦痛を持ち、かつそれを捨てるすべを持たない人間は未来を想像する力を失う」
痛みに加え暑さもYを苦しめ汗が噴き出している。のたうち回るように寝返りを繰り返す。
「壊された心は再生することはなく、また二度と壊れることもない。
そのせいで倒れることも狂うこともできずいずれ死を望み始める。
その点において、心を壊すということは命を奪うのと同等の残酷さを秘めている」
逃れられない苦痛と苦悩、暑さに悶えながらYは夜を明かした。

八月八日。午後十四時頃。
その日もYの部屋を訪れていた。
私はYがこの状態になってから初めて自分から質問をしてみた。
「お前はもしかすると過剰な責任感の上で生きているのか」
こういった質問をYに投げかけるのはいささか危険な気もしたが、こうでもしなければ私にはYになにもすることができなかった。
Yの顔がゆっくりとこちらを向く。もぬけの殻だった体に魂が戻ったかのように目には若干の生気が宿っていた。
「私はそれが正常なのだと思って生きてきた。皆そうだと思っていた。だがそうではなかった。
不真面目な者が責任をするりと抜け出し許され、そのしわ寄せは必ず私の方へ寄ってきてしまう。
私はその分まで責任を負いながらも必死にそれを守り、全てを愛して生きてきた。その結果がこれだよ」
言い終えるとYは再び視線を逸らしたが、その目にはもう先ほどの生気は微塵も残ってはいなかった。

八月十日。正午。
Yがベッドに横になり窓越しに空を見つめ陽を浴びていると、ふといつもとは違う死を感じた。
それはすべてを許すかのように優しく包んだと思いきや、何一つ現状を解決させてはくれないことをYに突きつける、
死を急かす優しくも無慈悲な死であった。
安堵が一瞬にして絶望へと変わるその死を前に、Yはこの世は悉く地獄であると知った。
Yはただただその死が通り過ぎていくのを目を閉じてじっと待つしかなかった。

八月十二日。午後。
会う度にYから感じられる生気は少なくなっており、かわりに物事への無関心さは大きくなっているようだった。
「いっそのこと神様とかを信じてみたらどうだ」
人の希望は意欲を生み、意欲は活力を生む。
たとえそれが気休めであったとしても、Yにはそれが必要だと私は判断した。
「精神的にやつれた人間は神に縋るという話を聞くが、私はもう神に縋ることはできない。
こうなってしまう前に散々縋ったんだ。でも救われることはなかった」
その声には諦めが含まれていた。
「人間は必ず何かに縋って生きている、それに救いを求めるために。そのことを私は知らなかった。
だがある日ふと気づいたんだ。無意識のうちに縋っているものが私にもあったことに」
「それはいったい」
Yの声に含まれていた諦めは嘲笑に変わり、孤独な表情へと移り変わる。
「救われるはずなんてなかったんだ。自分に縋って生きているなんて」

八月十三日。
Yは椅子に深く腰を下ろしてぐったりとしていた。
何気なくYが部屋の隅に目を向けると、何かが頭の中を通過し強い観念に殺されると感じる。
「黙っていることすら許されないのか」
Yの頭は常に何かしらを考えているため休まることはなかった。
そのせいか、後頭部のあたりではもやがかかっているようでとても気持ちが悪かった。
耐えきれずに視線を逸らすと机の上の菓子の箱が目につく。
箱には小さな文字でチョコレート菓子と書かれている。
チョコレエト。なぜだかその文字はYに幾ばくかの慰めを与えた。

八月十五日。午前四時頃。
強い衝撃を受けて目が覚める。
辺りは薄暗く、ぼんやりと家具の輪郭が見える。
状況を理解するまで数秒かかったが、どうやらベッドから落ちたらしかった。
奈落の底に突き落とされたような感覚に脂汗がにじみ出る。
ベッドから落ちたという出来事すら私にとっては自身の人生の転落を表しているようにしか感じられず、
しばらくの間私は絶望感から動くことができなくなっていた。

八月十五日。午前十時頃。
私が部屋を訪れるとYはベッドに腰かけたままふさぎ込んでいた。
「おい、どうした」
「ベッドから落ちたんだ」
弱弱しく声で答える。
「どこか打ったのか」
Yはいやと返答すると黙り込んでしまった。
Yの様子はこれまでで一番暗いものであった。
何か彼の周りにただならぬ気配がまとわりついているようで、Yが見ていたであろうものの片鱗を私も感じてしまう。
それは酷く重くのしかかり纏わりついてくる。
おそらくこれが彼の言う死なのだと私は思った。
しばらくするとYが口を開いた。
「おおよそ自殺した人間が死の間際に思うことは”死にたくない”なんだ。
どうしたって死の絶対的な恐怖からは逃げられない。直前に止めればよかったと後悔する」
「まさか自殺する気じゃないだろうな」
Yの傍らまで近づいて聞く。
「医者に行く気はないのか。なんなら俺も付き添うぞ」
Yは淡々と続ける。
「薬漬けにされて一時的に治った気にさせられて、薬が切れたらまた苦痛。それならは死んだほうが楽ではないか」
その言葉はあまりにも重く、それ以降口を開くことができなくなる。
「私が私自身を必要としていないのだ」
もはやどうにもならないところまで来てしまったことをその発言が示していた。
帰り際に聞いた最後の言葉は今でも私の脳裡にこびりついている。
「自殺は理性の寿命である」

八月十六日。
自分でも驚くほど落ち着いている。
誰に宛てるわけでもないが遺書めいたものも書き終えた。
気が付くと後ろに彼が立っていたが私は驚かない。
振り向いて彼に笑顔を向ける。
「やっと気づいたよ。そうか、これまでが走馬灯か」
「死の恐怖はお前に二度の苦痛を与えた。
もう取返しはつかないが、お前が望むならまだそれを先延ばしにできた。もういいのか」
「あぁ、十分だ。二度も陰鬱な私に付き合わせて悪かった」
立ち上がり彼に手を差し出す。
「何年お前とつるんでいると思っているんだ。これくらいなんともない。それに言うなら本人に言うべきだ」
彼の発言に思わず笑ってしまう。
「だがもう無理なようだ」
Yは幸福に包まれるかのように目を閉じた。

蒸し暑い部屋のベッドの上。男は横たわったまま動かない。
床には一枚の紙が落ちていた。

遺書
ただ愚直な私は毎日を真っ当に生きたかっただけなのです。
いずれ自分の元に訪れるであろう幸福を夢見ながら。
しかしいくら待とうが幸福が私の元に訪れることはありませんでした。
いつしか未来を夢見ることすらできなくなってしまって。
そこから自死を望む気狂いを演じて生きるようになりました。
そうでもしなければ生きられないほど、精神的に参っていたのです。
日を経る度に思い知らされるのは、自分がどれだけ真面目に生きようと自堕落な人間の怠惰がそれを貪り、
自分の幸福へと変えてのうのうと生きているということだけでした。
自分だって他人から見たら自堕落で、誰かの幸福を消費して怠惰に生きている愚か者であることと同時に、
それを理解しながらも変わろうとしない恥まみれの人間でした。
それでもそれを不条理だと思わなければならないほど、精神はすり減り心は醜く歪んでしまっていたのです。
そしてその度に死を渇望する一方で、死の直前に現れるであろう絶対的恐怖に耐えられずに逃げてしまう自分自身が失望するほど嫌でした。
不条理だの何だのと喚き散らすだけで、解決させようとも終わらせようともしない幼稚で臆病な私を。
ただ嘲笑って、興味を失った後に忘れ去ってください。

或る男の独白

或る男の独白

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-14

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