ひび
とある老夫婦がいた。結婚した時より、声はしゃがれ、皮膚も乾燥してひび割れ、容姿もだいぶくたびれてしまった。しかし互いの愛は変わっていない、そう夫の方は思っていた。妻の方はというと、傲慢で非常識な夫にうんざりして、当初の愛はとうの昔に消え去っていた。
口を開けば、隣の家の悪口やご飯への愚痴を言う夫に対して、さっさと離婚するか、どちらかが病に伏して今生の別れでも告げたい、という感情しか抱いていなかった。
「おい、飯は」
「そこにあるでしょ、自分でとってちょうだい」
「たく、なんで俺が」
そう言いながら夫は緩慢な動きで歩き出し、食事にありついた。食事をしている彼を見て、改めてなぜ結婚したのかと考えた。昔からそこまで、容姿がよかったわけでも、ユーモラスだったわけでもない。それなのに一瞬の感情の揺らぎで、不正解を選択してしまったようだ。夫を嫌いになり始めた頃は、自分は薄情になってしまったのか、そう考えていたが今ではそんなこと少しも思わないし、閉鎖された空間で長い間過ごしてきて、相談をしたことはないけれど隣の家だって同じような現状にある風に感じられる。醜い彼を見つめていると、目があった。
「いつもいつも、同じ飯で、お前は飽きないのか?」
「なら、自分で用意したらどう?」
こう、一つ一つの発言が癪だ。何も自分でしないくせに、発言は全て偉そうで、まるでこの世の全てを知り尽くしたように話してくる。出産の時だって、子育ての時だって、何一つ知りもしないくせに周りから聞いたような、使えない知識を披露するだけだった。今思い出しても腹が立つ。子供が大きくなる前に、別れておけばよかった。
旦那への不満が頭の中を支配し、長年の憎悪や憤怒が今にも溢れ出しそうだった。
「おい、聞いているのか」
「お前はいつも俺のことを馬鹿にして、今だって全く話を聞いていない、何がそんなに気にくわないんだ」
夫の声は、怒りで震えていた。こいつへの不満を思い出している間に下らない話でもしていたのだろう。
「それに、最近は身だしなみも気にしなければ、夫を立てることようともしない。お前は嫁失格だな」
そう吐き捨てると夫は、場を離れようとまたゆっくりと歩き出した。
何かが切れた。自分でも、何故今になって怒りを行動に表そうと思ったのか不思議でならなかった。けれど、身体は思考よりも先に動いていた。立ち去る夫の後をおい、思いっきり殴った。
「おい、見てみろあの亀の夫婦、喧嘩してるぞ」
「わ、本当だ」
「亀にも夫婦喧嘩とか、熟年離婚とかってあるのかな?」
「あるんじゃねぇ?」
灰色の雲には似合わない、呑気な会話が動物園から聞こえてきた。
ひび