化膿

第一話

 白亜の四階建ての大きな施設は、町の中心部に瀟洒なたたずまいを見せていた。周囲の風景にも溶け込み、付近の道はきれいに掃除が行き届いていた。大きな淡い水色をしたガラス窓はよく磨かれ、開放的な雰囲気を作り出し、外から館内の様子がいつでもうかがえ
た。
 側面がガラスの水槽のような建物は、きょうも子どもからお年寄りまで幅広い年齢層を飲み込み、絵や活字の世界へと誘う。まるで地面に落ちた大きな砂糖の塊に群がる蟻んこのように、次々と老若男女が手狭な入口を通って中に吸い込まれていく。もちろん無料で開放された公共施設だからであろう。蟻の本能で吸い寄せられるのと違うことぐらい認識している。
 I市立図書館には多くの本が並べてある。すべての蔵書が書架には並ばず、よく借りられるもの、最近入れたもの以外は、地下にある書庫に眠っているという。リクエストがあれば、コンピューターで探し出して書庫から抜き取り、機械が自動的に二階か三階まで運んでくるシステムになっている。有名作家でも、一昔前の作品の場合、書庫に眠ることも多いようだった。
 書架で利用者の目に触れ、手に取られる本がある一方で、書庫で眠りにつき、コンピューターでリクエストされない限りは本としての役割を果たさず、日の目を見ないものもある。人々と接点を持たなくなった本は、なんのためにお金をかけて苦労の末に出版されたのだろう。一冊の本に込められた魂に変わりはないのに――。北村は、カウンターの裏でときどき動く機械に目をやりながら、思うのだった。

 やっと地獄のような暑さの夏が過ぎ、秋の柔らかな光が壁代わりのガラス窓から差していた。ひんやりした心地よい風に吹かれて雲はたなびき、トンボの群れが低空をたゆたう。
 特に予定のないとき、北村は数年前に新築したというふれこみの図書館に足繁く通うようになっていた。
「どうもこんにちは。きょうもお願いします」
 ラフなセーター姿の彼が軽く会釈すると、北村より二回りぐらい上の畑上という男は、
「こちらこそ、よろしくどうぞ」
 と言って壁際の席に着く。畑上は少し小柄の痩せた猫背で、黒縁の眼鏡をかけ、長袖のシャツに黒のベストを着けていた。きょうは第二回目の読書会だ。参加者はまだ全員そろっておらず、男二人だけが先に来ていた。
 第一回目が開かれたのは、一か月前の一〇月半ばのことだった。よく磨かれたリノリウムの床に置かれた机と数脚の椅子は整然と並び、机と椅子を囲むようにして図書館一階の隅がパーティションで仕切られていた。
 読書会は北村にとって、ふだん目にしない本との出会いであり、会うことのなかった市民と交流する場でもあった。読書の秋であり、人恋しくなるのも手伝ってか、この町の人たちと関わりを持ちたくなった。どうして市民なのか、深い部分では自分でもよくわからなかった。ただ、I市に転勤して三年以上がたっていた。
 北村の読書する機会は、学生時代よりすいぶん減っていた。小中学校のときはよく読書をしていたが、体が成長して高校からラグビーの部活を始めると一変した。高校以来、音楽を聴くことより、多くの本を読むことより、ラグビー漬けの生活に明け暮れてひたすら体を鍛えることにずいぶんと時間を費やしていた。
 社会人になってから仕事と通勤に一日の半分以上を追われる身になると、新聞やスマホのニュースを読む以外に活字を追いかける習慣が薄れ、休みの日は観光地や繁華街に家族で出かけるような生活になりがちだった。
 たまに映画やドラマを観るのをきっかけに原作を読んでみようかという気持ちになったり、芥川賞の発表に刺激されて話題となっている本を手に取ってみたい衝動にかられたりすることで本を読むことが多かった。考えてみたら、能動的な読書から受動的な読書になってしまっていたのかもしれない。通勤帰りに見かける書店も、どういうタイトルの本が売れているのか眺めるだけで、じっくりと本を手に取ることをしない方が多かった。
 たまたま市の広報の誌面に読書会と書かれたイベントを目にしたとき、バリバリの本好き人間が集い、鋭い意見をまくしたて、自分のようなあまりふだんから積極的に読書をする人間ではない者が入り込む余地があるのかと半分気乗りしない心持ちもあったのは事実である。
 けれど、最近買ったばかりの秋物のセーターを着ていきたくて、手っ取り早く自転車で気軽に通える図書館ならば、たとえ途中で会から抜けるようなことになったとしてもあと腐れないかもしれないと考えるに至った。
 いずれにせよ、あれこれ考えるよりもまず行動しようと思い立ち、電話した。
「読書会の申し込みなんですけど、まだいけますか」
「はい。まだ定員に達していないので」
「そうですか。なにか入会条件はありましたっけ」
「I市在住か在勤の方ですか」
「ええ。西台に住んでます」
「それでしたら入会できます。失礼ですがお名前は?」
「北村保といいます」
「わかりました。では今月の第二日曜日、午後一時までに図書館一階へお越しください」
 図書館に電話をかけ参加が認められた。運良く順番の早かったこともあり、まだ定員に到達しておらず、読書会への参加が可能になった。市の広報誌によると、毎月一回、日曜日の午後一時より、市立図書館一階で行われると書いてあった。図書館で行う催しの一つであり、入会金や会費などは無料というのも参加したい気持ちを後押ししたに違いなかった。

 申し込みから一〇日後の日曜日、I市立図書館で予定通りに読書会は開かれた。
 初めて参加するので当日はやや緊張していた。が、とくに面倒そうな人もおらず、集まった人間同士、自己紹介と各自の好きな本のジャンルや作者などを述べあい、第二回の開かれる一一月の半ばまでに読んでくる課題本の選定が行われた。とくに自分の好みや読書遍歴を過去の出来事に絡めて捲し立てる輩もおらず、会は淡々と進行した。
 会員は、北村を除いて、二〇の学生のユミ、五〇代の畑上という自営業の男、六〇代の大場と寺崎というご婦人、妙齢だと名乗った四〇がらみの溝多という女がいた。全部合わせても六名というこぢんまりした集まりとなった。多くも少なくもない、適当な人数だと北村は思った。
 次回の課題図書は、男性が少ないこともあり、ジャンルは純文学で面白そうなものという流れになった。話しあいの結果、最近芥川賞に輝いた村田沙耶香の『コンビニ人間』に決まった。
「わたしの読書って、偏ってるんですよ。特定の女性作家しか読まなくて。気の合いそうな人を選り好みしてるっていうか」ユミという若い女が口を開き、楽しそうに喋った。
「私は外国の名作を何度も読んで、家にあるものでは飽きてきたので、最近の作品、それも日本のものを読んでみたくて。でも誰の作品から読めばいいのか」
 二人連れの老婦人のうち、痩せている方の大場は言った。呼応するようにぽっちゃりした寺崎も、
「私も外国や国内のちょっと古めの名作は読んできたけれど、家庭に入ってから図書館も本屋も足が遠のいていて。ちょうど季節も秋だし、教養を深めようかなと思って大場さんを誘ったんですよ」
 と薄い唇を軽く曲げて手で覆い隠すようにして顔をほころばせた。
「私はふだんから読書する時間がなく、受動的な読書になっていたので、読書会をきっかけに能動的な読書をしたいなと思いました。同じ趣味を持つ人の繋がりを大切にして、気軽に参加できたらいいなと思います」
 北村は語った。畑上という男は、軽く咳き込んでから、
「私もこの年になって、ようやく趣味というか、定年を見据えて傾倒できるものを探しておこうと思い、その昔にしていた読書を通じて仲間の輪が広がればいいなと考えて参加してみたしだいです」
 溝多という眼鏡をかけた心根の優しそうな女は、最後に締めくくった。
「本を読めば読解力をつけることも、想像力をつけることもできます。文字を目で追うという単純なことでそれぞれの方々がなにかを感じ、感じたことを口に出してみる読書会。ぜひ楽しみましょう」
 会がお開きになり席を立ってトイレに行き、廊下に出た北村に、畑上が声をかけてきた。ほかの参加者は散り散りに帰っていた。
「自己紹介のときは会社員といっておられたと記憶しているんですが、もう少し詳しく訊いてもいいですか」
「別にかまいませんよ」
「なに関係のお仕事ですか」
「土木系です。こちらに赴任してもう三年たちました」
「そうなんですね」
「ええ。中堅の会社でいまは橋のメンテナンスが主な仕事です。畑上さんは?」
「私は土木でも電力の会社に五〇過ぎまで勤めていました。親の介護もあって退職し、いまは地元の園芸店で店主をしております」
「なるほど。どちらも同じ土木畑ですか」
「そのようですね。色が浅黒いのでそうじゃないかなと思って」
「ああ。おっしゃるとおり、肌が焼けてますからね」
 北村は言われて、よく日に焼けた顔をぴしゃりと叩いた。畑上の顔も確かに日焼けしている。電線の取り替えで顔に直射日光をずっと浴びていたのだろうと気づいた。もっとも北村は子どもの時分からよく日焼けして、クロちゃんとあだ名で呼ばれていた。その上に、ラグビーでグラウンドを走り回り、顔はさらによく日焼けしていた。
「土木の人間がたまたま読書会で顔を合わせるなんて乙な縁ですね」
「まったくです。結婚は?」
「しましたが、いまは独身です」北村は頭を掻いた。
「離婚ですか。お気の毒に」
「いや、自分に原因がありまして」力なく笑った。
「そういえば、おひとり、いわくありげな方が参加されていましたね」
「ああ、溝多さんですか」
「そう、その溝多さんです。知的で優しい感じがして私は好印象でした。いかがです、婚活の対象には?」
「まあ、なりゆきですから」
 そのときはまだ深く彼女のことを意識していなかった。正直、四〇半ばでバツイチの北村は自ら行動を起こすべきなのか、相手が北村のようなさえない異性に色めき立つのか、よくわからなかった。自他の見立ての頼りなさが影響していることも気づいていないありさまだった。
 あれは小三の夏だった。
「クロちゃん。本当にここを出ていくの?」
「ああ。隣のI市に引っ越しする。夏休みのあいだに」
 呼びかけたクラスのマドンナ(と思っていた)三上は悲しそうな顔をしたが、すぐになにか閃いたようで顔がぱっと明るくなった。
「新しい住所からわたしの家に手紙ちょうだい」
 手紙なんて出したことはなかった。書き方もよく知らなかった。
「おれが手紙かくのか」
「そうよ。住所はいまから書くわ。A市M町八―九―×××」
「三上、下の名前なんていうんだ?」
「知らないのね。ありさ」
「ありさ様か」
「三上ありさ様、よ」
「せっかく夏休みに入ったばかりなんだし、もっと川で遊ぼうぜ」
 真っ黒に日焼けした北村は、ありさの手を引っ張って土手を上がり、つぶしたダンボールに尻をつけて先に勢いよく滑り降りた。ありさはスカートがめくれて下着が見えないように、慎重に両手でダンボールの前を反らして隠しながらそろりそろりと滑り落ちた。
 その日の光景だけは、赤い夕陽とともにはっきり脳裏に焼き付いていた。ふだんなら、女子は女子同士で遊ぶのに、引っ越しの話を前もって聞いていたからか、三上は一人で男子の仲間に加わった。
 いま思い返せば、最後に一緒に遊びたかったのと、北村の引っ越し先の住所を知りたかったのかもしれない。その後、手紙を出したのかどうか定かではないが、引っ越し当日にM町の団地に三上は顔を見せ、「寂しくなるわね」と書いたメモをなにかのプレゼントと一緒に手渡してくれた。子ども心に、あれが初恋だったのかなと思った。まだ九つのときの話である。
 その頃から、女にはもてるが、なぜか女運がない。毎回、意中の人と別れてしまう運命が影法師のようにつきまとい、お決まりになったのかもしれなかった。元女房とは長く連れ添ったつもりでも、ちょうど息子が成人したのを契機に別れた。家のことを全部まかせっきりにしてきたツケは重く、離婚されたのも自分の身勝手さの表れだったと別れてから反省した。

 一一月を迎えた。秋の訪れは日増しに深まり、駅まで向かう途中にある街路樹の銀杏の葉は色づき、道の端に落ちては折り重なるようにして積もっていた。冷気を帯びた風が手や首筋、顔に吹きつけ、ぽかりと空いた心の隙間にも否応なく染みていく。秋の気配が忍び寄って昼間の時間を侵食し、夜も長くなってきた。
 北村は課題図書以外の本も図書館で借り、部屋でじっくり目を通した。本を閉じて目を瞑ると、自分はこの一年で何をなしたのだろうと感慨深げにしんみりした。
 読書会の前日、北村は妹夫婦とともに外食した。妹は結婚して隣県に住んでいた。北村はサラリーマンの定年を過ぎたらどうしようかと考え始めていたところだった。転職した友人の話もちらほらと耳に入ってきた。妹のさくらに、
「兄ちゃん、年をとったらどうするの?」
 と訊ねられ、北村は、
「定年過ぎても働ける職があれば、五〇を前に転職してみるのも悪くないと思っている」
 と本音を漏らした。
「へぇ。兄ちゃんの口からそんな言葉を聞くなんて意外だわ」
 さくらは感心したように北村の顔をまじまじと見た。
 そのあと、親の介護をどうするのかという話をして、所帯を持つさくらになんとか頼み込んだ。
 読書会の日の朝を迎えた。きょうは秋晴れとはいかず、どんよりとした雲がぶあつく空を埋め尽くしていた。近くの立ち食い蕎麦屋で蕎麦を食い、一時まで間があったので公園へ行った。時間潰しの公園では、小さな犬を連れたご婦人がいた。その隣で、男女の恋人同士が仲良く並んでベンチに座っている姿が目に入った。
 自分にもあんな時代が短いけれどあったのにと回顧すると、一人身の侘しさが北村の心をかき乱し、いたたまれなくなって地面の砂を足で蹴った。所在無げな視線を紅葉の枝に這わせた。コンクリートの縁に腰を下ろし、意味もなく腕時計を見た。
 几帳面な彼は、二回目から感想をノートに取ろうと、ノートと筆記用具をブリーフケースに入れていた。中身を手で探っているうちに、消しゴムを部屋に忘れてきたのに気付いたが、いま自宅に歩いて戻ると読書会の定刻に遅れそうだった。親しくなった畑上の隣に座り、貸してもらえるかなと勝手に期待を寄せた。
 そろそろ時間が迫ってきた。公園から灰色がかった秋空の下をゆっくり歩き、北村は一〇分前後で図書館に着いた。
 最初こそすこしぎこちなさがあったものの、二回目になると、見慣れたもの同士の縁からか、和やかな安心感が読書会の場を包んでいた。
 一時に近づくにつれて女性陣が姿を見せ、やがて会が始まった。
 一回目のときから、なんとなく司会進行が溝多になっていたので、彼女が音頭取りをして、課題図書の『コンビニ人間』に関する感想を座席の時計回りに発表していった。
 白のパーカーの下に黄色のカーディガンを羽織っていたユミは、
「コンビニって私が生まれる前からあって、身近な題材だし、私も店員の経験あるけど、主人公みたいな変人はまずいなかった。男に罵倒されて怒らないところも面白い」
 と評した。その隣に座っていた北村は、
「コンビニでだめな人間を正常化するという発想や、コンビニでしか生きられないという極端な価値観の持ち主の生きづらさを最初から最後まで書きとおしたのは見事だと思いました」と述べた。後半、主人公が同棲相手や義姉に感化されてどうなるのか展開が読めず、引き込まれた。最後に読者の期待を裏切っていてそこも面白かったと笑った。隣の畑上は北村の言葉に大きくうなずきながら、
「主人公はコンビニの中で世界の部品になれたというけれど、コンビニを離れると欠落した人間に戻る点にギャップがあり、作者のユニークさに感心した」と評した。さらに、社会や組織は人を育てながらふるい落としていく。最終的に細胞が新陳代謝するように、社会自体も再生し存在し続ける生き物のようだ。昔から変わらず、ある意味残酷だと思った。自分も定年退職の前に会社からふるい落とされた実感はある。そう語った。
「個性を消すマニュアルがあるから、主人公のような変わった人が外での言動はおかしくてもコンビニで立派な店員として働けるという着眼点には驚きました」
 と大場は照れたような笑みを浮かべた。寺崎はその笑いにつられ、大場の肩に手を置いて、同感ねと言わんばかりに表情を崩しながら、
「だめな人がコンビニでまともに働けるのが、なんとなく機械の再生工場のようで読んでいて面白かったです」
 と言い、就職か結婚をしない少数派がまともに見てもらえないのはちょっと古い価値観のような気がすると朗らかな笑みを浮かべた。最後になって、溝多が、
「わたしも皆さんが発表した感想と重なる部分も多いのですが」と前置きしたうえで、「この主人公の恵子はいわゆる社会不適合者で、自分でも治そうとしてコンビニという場を選び、そこでリハビリする。多様性を認め始めた最近の時流と逆らっている感じがします」
 と述べた。続けて、リハビリしてみんなに合わせようとするのがいかにも日本的で、ある意味よくも悪くも村社会のルールは底辺にずっとあると締めくくった。一同は溝多の感想に相槌を打ち、身を乗り出していた。
「それぞれの感想について、質問なり賛成意見、反対意見などありますか」
 溝多が訊ねると、おしゃべり好きのユミが、
「やっぱり、世間て、適齢期にきても結婚しないとだめな女と見なすっていうのはありますかね。男もそうだけど」
 発言を受けて、北村はすかさず、
「あると思いますよ。やはり本の中で書かれていた内容は多かれ少なかれ。変に見られること自体、日本の社会は世界に比べて遅れているんだけど」
 とバツイチなのに真面目くさった顔で言った。大場は、
「社会に馴染めない独特な考えの持ち主で一八年もアルバイトを続けると本当にそうなってしまうのかなとつい心配したくなります」
 と付け加えた。
 腕を組んで、じっと耳を澄まして聞いていた畑上は、「『コンビニ人間』の登場人物の見方には」と前置きして、「若い人の感性を感じます。マニュアル人間といいますか、感心しながら読みました」と言った。LGBTとかAI、終活など、社会のあり方や価値観が広がり大きく変化する中で客のニーズに対応したサービスが生まれ、それに馴染める人たちは、若さとか柔軟性、順応力を持っていると指摘した。論点が本題からずれ、大げさなことを言ったせいか、女たちからは苦笑が漏れた。
 どうにか会も円滑に進行し、三〇分たったので、次の第三回の課題図書を選ぶ運びになった。次回は大衆小説を課題図書にしたいという意見も出たので、いろいろな候補が挙がった中で、多数決を何回かとって、重松清の『とんび』に決定した。
 やることがきまって一段落したとき、図書館の職員が現れて、読書会の感想を簡単にまとめて課題図書を推薦図書として紹介したいという申し出があった。皆は、名前が実名で載らないのならいいですよ、と賛成した。
「それともうひとつ」
 若い図書館職員は、人差し指を得意気に上に向け、にこやかな顔つきで付け加えた。
「会の名称を皆さんで決めていただけたらと思っております」
 これには意外な反応が出た。ただのI市立図書館の読書会じゃだめなのか、会の名称をどういうところで使用するのか、正式名称をSNSで使ってもいいのかなどの意見もあった。が、親しみやすい名称にした方が今後も自由に追加で申し込める、まだ定員の一〇名には余裕があるので、という職員の意見に押される形で、
「じゃあ決めちゃいますか」
 とユミが引き継いだ。しばらく時間を使い、各自が考えた中で、〝みんなの読書会〟、〝本の虫の会〟、〝読書好きの集い〟の三つに絞られた。あえて多数決を採らず、誰かが言い出した阿弥陀くじを引いて、〝みんなの読書会〟に決まった。
 帰りに、溝多から声を掛けられた。
「北村さん。図書館で映画上映会が開かれているのをご存知?」
「知ってますけど、出たことはないですね」
「ちょうど来週末にある映画、一緒に観ませんか」
「私と、ですか? いいですよ。喜んで」
「よかった。嬉しいわ」
 北村も目尻が下がった。女から誘いが来るのは学生時代以来だった。

一週間後の日曜日、ツイードのジャケットを着て図書館の前で待ち合せた。彼女は先にきていた。ピンク色のタートルネックにグレーのアンゴラのスカートを履いて白のトートバッグを下げ、図書館前で手を振ってくれた。
 映画は地味なドキュメンタリーで、北村は正直なところ半ばから退屈気味だったが、溝多は食い入るように画面を見つめていた。
 上映が終わり、二人はエレベーターで三階に移動して、壁際の椅子に並んで座った。溝多は饒舌だった。
「わたし、映画ってすごい力を持つと思うんですよ。本は一冊に一人の機会しか感動させられないけれど、映画はいっぺんで何十もの人を感動させることができる」
 彼女は熱をこめて、さらに、映画を撮る人は大きな使命感を持って、下手すると世の中に革命を起こすつもりで、カメラを回すんだと思っていると語った。そうですか、とうなずくしかなかった。
 映画は社会的弱者を救える力を持っているとまで言い切り、熱弁が伝わってきて北村も大いに心を揺り動かされた。弱者は世間ではかわいそうな視点で捉えられ、不幸でもないのに不幸と決めつけられ、世に出ても虐げられる。標準的な人間でなければ受け付けないのは、規格外をはねてしまう社会そのものが不寛容なんだ、と訴えた。彼女の指摘したことは『コンビニ人間』にも通底している気がした。彼女はまるで社会が化膿しているようだとなぞらえた。
「また、いずれ話をしてもいいですか」
 はい、と答えると、彼女は少女のように恥ずかしそうに俯き、小走りで階段を降りていった。残された北村はただぽかんと口を開けたままで彼女を見送った。

 小雪のちらつく中、一二月の〝みんなの読書会〟のために五名が集まった。大場は欠席した。寺崎いわく、「大場さんはクリスマスのイベントの手伝いでね。残念ながらきょうは来られないのです。皆さまによろしくとのことでした」
 と不参加の理由を、さも本人が語るかのような落ち着いた丁寧な口調で淀みなく説明してくれた。顔にはいくらかの不本意な気持ちと、半強制的な束縛から解放されることへの羨ましさが滲み出ていた。
 薄茶色のコートを脱いだ溝多は、赤いセーターの出で立ちだった。北村はセーターを押し上げる女性的なカーブを見て、けしてよこしまな意思の表れでなく純粋に美しいと思う気持ちから胸の豊かな証左だと思った。先月の映画以来、ずっと彼女のことを意識していたのだからしょうがない。視線に気づいたのか、溝多はまじまじと北村を見つめてきた。
 彼は照れて俯き、ノートに目を落とした。北村の恰好は、ユニクロで買った安いジャケットにありきたりのデニムを履いて、彼女とは不釣り合いだと強く思った。そのときの気まずさがかえって好結果に結びつくのを後で知ることになった。
 他のメンバーは前回同様の顔ぶれだった。さっそく課題図書の感想の発表に入った。きょうは北村から始めた。
「『とんび』という作品は、主人公の男にひとり息子ができるところから始まり、男手一つで子育てする半生の喜怒哀楽を描いた人情ものの作品ですよね」
 確認するようにとうとうと語り、それから少し間を開けて、自分は一人者だけれど家族に対する愛が文章の随所に色濃く出ていて、泣かせる場面が多かったと感想を述べた。
 溝多の間髪入れずの、「特に印象に残った場面はどこですか」の問いには、ためらわずに、
「息子のアキラが保育園でケンカして、テープでくっつけた母の写真を破って泣くところです」と答えた。溝多は一瞬哀しそうな表情を浮かべたが、すぐに、「いい泣かせどころですよね。重松清の真骨頂でしょう」と鼻を詰まらせながら応じた。畑上や寺崎らの感想ももちろんあったが、北村は溝多のことしか頭になく、のぼせていた。
 一月に開かれる、第四回〝みんなの読書会〟の課題図書は、あれこれと候補が上がり、畑上の意見が通って、学生時代に読み耽ったというSFの中から、ロバート・ハインラインの名作『夏への扉』に決定した。
 〝みんなの読書会〟が終わり、図書館を去ろうとしたそのとき、北村の肩越しに軽やかな女の声が聞こえてきた。ちょっと話の続きをしませんか、と声を掛けてきたのはまた溝多の方からだった。同じ年代の女性が参加していなかったのに、三度続けて読書会に参加する目的を訊ねてみたい欲求に駆られた。
「溝多さんは、なぜ読書会に毎回おひとりで参加されているのですか」
「それは、この町につい最近越してきたのと、わたしも独身で友人に本好きのひとがあまりいてないからなの」
 彼女の答はもっともで的をえていた。が、その年まで独身で過ごしてきた理由を面と向かってずばり訊ねるのは憚られた。男好きする風貌や出で立ちには見えなかったが、どこか秘密の匂いのするような謎めいた雰囲気がした。
「失礼だとは存じますが、どういう目的で?」
「単に本が好きだったからです」
 はっきりした単純明快な答だったものの、じゃあこの前の「話」とは何だろうと訝った。
「この前言っていた話とはなんでしょうか」
「カフェでゆっくりコーヒーでも飲みながら、時間をかけて互いのことを話し合いましょうよ」
 これには北村も面食らった。さりげなく接近しようとする行動の表れではないのか。女の方から誘ってくるので嬉しくてしょうがない。はい、と何の疑念も挟まずに答え、二人で師走の繁華街の人混みへ紛れていった。出で立ちのまずさは頭の中からすっかり消えていた。
 クリスマスムードの漂う中、顔見知りとはいえ知り合って間もない男女が連れ立って歩くのは、ちょっぴり照れくさかった。二時を回っていたが、カフェで一〇分ほど行列に並び、中へ入った、
 北村は溝多の顔をまともに見られず、さりとてコートを脱いだ赤いセーターの胸元を見るわけにもいかず、彼女の首あたりを凝視していた。
 二人の頼んだホットコーヒーとカフェオレがテーブルに運ばれてきてから、彼女が口を開いた。
「いまおいくつですか」
「私は四六です」
「そうですか。わたしはアラフォーです」
 ふふふと彼女は口に手をやり、艶めかしく笑った。
「職業は?」
「ありふれた会社員です」
「具体的にどんな仕事をされているの?」
「傷んだ橋がないか点検し、損傷の激しい箇所を補修して回るんです。橋のメンテナンスです」
「そうですか。じゃあ車を運転されるんですか」
「はい、会社の車を」
「ご自身の車はお持ちに?」
「持ってますよ。シルバーのヴィッツを」
 次々と質問を浴びせられ、自分のことが丸裸にされていると感じた。
「ご家族は?」
「妹が一人と両親が実家に。実はバツイチで、九州に別れた女房と息子がおります」はっきり言った。
「北村さんは実家にいるんじゃないんですか」
「私は一人でマンション暮らしです。たまに実家にも寄りますが」
 質問が終わりそうにないので、北村は顔を上げて溝多の銀のフレームに視線を合わせながら訊ねた。
「溝多さんは一人暮らしですか? それとも家族と住んでいるんですか」
「わたしも北村さんと同じなんですよ」
 急ににこやかな微笑を浮かべたので、彼は心が落ち着いた。それも束の間で、独身同士がこんな話をするということは、と思いもよらぬ展開に有頂天になり、鼓動が速くなった。
 友人から再婚を祝福する声が耳の奥から響いてきて、夢じゃないのかと耳たぶを引っ張ってみた。夢ではない。どうしてもてているのかが不思議だった。友人に女を紹介してくれと頼んでみたものの、誰も気にかけてくれる奴なんていなかった。
「溝多さん、私に興味があるとはっきり認めますか」ぐっと核心をついてみた。
「もちろん。だからこうして誘ったんです。北村さんさえよければ、わたしに付き合ってもらっていいですか」
 きたよ、きたきた。その場で叫びたくなった。思わず心臓が跳ね上がり口から出そうなくらいだった。素敵な恋人が現れた。こんなチャンスを逃したら大損だ。同じ中年同士、惹かれるものがあるのか。単純に考えた。二人は学生時代から現在に至るまでの思い出や昔話などをしみじみと語り合った。
 まだ夜まで充分な時間はあったのに、彼女の方から、夜は用事があるのできょうはこれぐらいにして、と切り上げられた。やむなく連絡先を交換し合い、手を振ってカフェの外で別れた。
 駅からの帰り道の道路が歳末で工事中だった。彼に近い職種の人間にお疲れさんと心の中で声を掛けた。自宅までの道のりがふわふわしていつもより何倍も美しく感じられた。花が咲き乱れているわけはないが、夕暮れ時に点灯し出したクリスマスのイルミネーションが赤や青、緑とランダムに点滅し、独身という暗い夜道を華やかに照らしている絵が頭に浮かんできた。その日はスーパーで弁当を買わずに一人でインド料理店に入り、ナンと野菜カレーのセットを食べた。
 さっきまで一緒だった溝多の図書館での表情と、カフェで見せた屈託のない笑顔ときらきらして生気に満ちた表情を頭の中で比べて、何度も再生してみた。彼女が北村に恋をしたのは明らかだった。
 彼は読書会という場の存在に大いに感謝した。会がなければ二人は出会わなかったかもしれない。図書館で出会っていても、すれ違うだけで赤の他人の単なる利用者だったかもしれない。下手に金を積んで婚活に奔走した頃より、いまの方がはるかに気持ちは満たされていた。
 月曜日になり、会社でも頭の中は陽気でふわふわした夢見心地に支配されていた。いつもなら部下の過ちに不平を言う彼も、きょうばかりは妙ににやついて、「今度から気を付けるように」とたしなめる程度だったので、周囲はきっと彼を変に思っただろう。
 水曜日の夜、会社から帰り、連絡先のメールアドレスにデートの申し込みを入力して送信した。
《こんばんは。今週末、よければ二人で食事でもしませんか》
 その返事を待つあいだ、そわそわして部屋を歩き回り、食卓の脚につま先をぶつけて痛い思いをした。ちょうどそのとき、バイブレーションがぶるると振動し、着信がきた。
《週末なら空いてます。よろしくお願いします》
 オーケーの返事がもらえ、天にも昇るような心地がした。なにか気の利いた返事をしようと思ったが、なんのいい考えも浮かばず、そのままにしておいた。ロバート・ハインラインの『夏への扉』を読んでも内容が頭に入らず、頁を閉じて物思いに耽った。
 窓の外を見やると、暗闇の中、ぼーっと青白く光りの笠をまとわせた街灯が道路を照らしている。ときおり、道路の前方を二つの目で照らし出すように車が走り去っていく。
 高校時代の国語科の教師に、本を読むのは、「夜」、「冬」、「雨降りの日」の三つが適していると教わったのを思い出した。雨こそ降ってないが、今宵はそんな夜かもしれないと思い直し、再び『夏への扉』を読み進めた。
 ふと、溝多は何の仕事をしているのだろうと疑問が生じた。それを聞きそびれていた。こんど会ったとき、上手に聞き出してみようと思った。四〇近くで働いているのだから、会社員なら相当なキャリアを積んでバリバリ仕事のできる管理職かもしれない。それとも、まったく思いもよらぬ職業なのだろうか。上映会の一件を思い出した。映画に対して並々ならぬ熱意を持つのを感じたから、かつて映画関係の仕事に携わっていたのかと考えた。とにかく、彼女に訊ねることが一つ増えたのは楽しみが一つ増えることでもあった。
 冷たい木枯らしが吹いた土曜日、三度目のデートの日を迎えた。彼女が待ち合わせ場所の梅田の目印に姿を見せたのは、午後一二時だった。きょうの溝多の出で立ちは、黒のファーのついた毛皮のコートに、コーディネートした黒いブーツだった。一方の北村はというと、黒い革のコートの下に鼠色のスーツ姿だった。
 北村は彼女と手をつなぎ、地下街を歩いた。あらためて隣にいると、溝多は女性にしては身長の高いひとだと認識した。体つきはほっそりしていた。しばらく歩き、新しくできたフードコートまで来た。
「ここ、来たことあります?」
「一度だけ。友だちとスイーツを食べに」
「そうですか。このフードコート、広いですよね」
「広々して開放的ですよね。飲めるお店もたくさんあるらしいですよ」
「そうなんですか。これから行く店もその一つです」
 北村はやたらと張り切っていた。プライベートで女と飲食するのは何年振りだろうと考えながら、どうでもいいかと思った。店を彩る派手な看板や料理の写真を見比べながら、目的の店、『Italian Dining PESCA』へ案内した。
「この店でいいですか」
「おまかせします」
「ちょっと場所とりお願いします」
「あ、そういうシステムなんですね。わかりました」
 溝多は適当なテーブルに座って荷物を置いた。
「並ぶ前に頼むものを決めましょうか」
「わたし、このエビのクリームパスタのドリンクセット。ドリンクはアイスコーヒーを」
「私はミートボールのトマトパスタのセットでコーラにします。じゃあいまから行ってきます」
 手を振って彼女をテーブルに待たせ、カウンターから伸びた行列に並んだ。やがて北村の番になり、彼はランチのセットを二つ注文し、代金を支払って番号シールのついたブザーを受け取り、テーブルに戻った。
 席に戻ると溝多は頬杖をつき、しなを作ってみせた。もちろん本人にその気はないのかもしれないが、北村の目には色っぽく映った。ごくりと生唾を飲み込み、妙な欲望を打ち消すように、それとなく彼女の容姿を褒めてみた。
「溝多さんの髪、きれいですね」
「あら、そうかしら。ありがとう」
「それと後ろの髪留めもよくお似合いで」
「ヘアクリップのこと?」
「ヘアクリップっていうんですか。知らなかったな」
「ふふ。別に男の人が知る必要はないのよ」
 溝多が敬語を使わなくなったのに気付き、彼も合わせた。
「周囲の客層と比べて、私たちだけ浮いてないよね」
「別に。気にすることじゃないわ」
「そうだな」
 しばらく口ごもってしまった。なにを話せばよいのか戸惑って、頭の中が真っ白になった。とりあえず観察してみた。彼女は図書館で見るよりもずっと若々しく、化粧も念入りに施していた。本気なんだと思った。本気で私のことを好きになろうとしている。それが嬉しかった。
「……溝多さん」
 言葉を制するかのように、彼女は同時に口を開いた。
「もうじきクリスマスね」
「あ、ええ。クリスマスの季節だね」
「プレゼント、なにがいいかなぁ」
「私への?」
「もちろん!」
「楽しみだなあ。それまでは互いに内緒にしておこうよ」
「わかった。ところで、下の名前はなんていうの?」
「そういえば言ってなかったな。タモツっていうんだ」
「じゃあ、モツって呼ぶね」
「モツ。それでいい」
「モツもプレゼントを用意するのよ。わたしのために」
「張りきって選ぶよ」
「モツっていつも素のままね。羨ましいわ」
「そうかな? そんなこと言われたのって初めてだよ」
 彼女は、北村の、はにかむところや、気まずさが顔に出るところが好きだと告白した。 二人の盛り上がりを邪魔するかのように、ブザーが無情にもビービーと鳴り響いた。
「眠っていた駄々っ子が起き出したみたいだ。料理を取りにいってくる」
「ありがとう。ゆっくりでいいわよ」
 カウンターで二種類のパスタとドリンクの置かれたトレイのうち、彼女の分から先に席まで運び、二往復目に北村のトレイを席まで持ち帰った。
 北村はいただきますと手を合わせ、パスタを食べながら恋人気分を料理の味とともに満喫した。
 その日、食事のあとで、阪急百貨店に寄らなければならないと彼女が言い出した。私も行きますと言うと、一人にしてほしいと切り出された。きっとクリスマスプレゼントを買うのを見られたくないんだろうと想像し、内心ほくそ笑んだ。
 彼女は別れ際に、図書館から借りた本を返しにいけないから、悪いけど駅三階のカウンター横にある返却口に入れといてくれと北村に頼んだ。その場で本を三冊、手渡された。題名は、『映画と俳優』、『映画時評集成』、『ドキュメンタリー映画術』だった。
 映画に関して勉強しているのかと思い、図書館に寄れない事情でも抱えているのだろうと深く考えずに一人で電車に乗り込んだ。暇なのでその本をパラパラとめくって斜め読みした。難しそうで門外漢には敷居が高かった。
「アラフォーの独身女性か。なにをプレゼントしたら喜ぶだろう」
 小声で呟きながら、嬉しい悩みに心を躍らせ、人の荷物や電車の吊り広告に視線を這わせた。きっと、いままでの人生でたくさんのプレゼントをもらってきただろうから、何をあげても彼女なら喜んでくれるはずだ。何の疑いもなく、彼は溝多に魅了されていた。
 一月の読書会のことを思い出し、車内で、近くの書店で購入した『夏への扉』を広げた。続きを読むうちに、溝多の気に入りそうな本をプレゼントしてみようかと思いついた。素敵なアイデアだと思った。カバンからスマホを取り出し、女性作家を検索してみる。
 人気があり、ミステリーではない本をあれこれと品定めするうちに、田辺聖子の『私的生活』に決めた。彼自身は読んだことがなかったけれど、四〇代女性の書評がよさそうだった。『私的生活』の文庫本をネットで購入した。値段よりも中身に共感できる方が適当だろうと彼なりに配慮した。
 やがてクリスマスの週の休日がきた。天皇誕生日は祝日でも出勤日にあたっていたが、彼は有給休暇を取った。北村はゆっくり目覚めて顔を洗い、遅い朝食を摂ろうとして気づいた。牛乳を切らしていた。しかたなく、近所の喫茶店のモーニングで済ませた。
 きょう、クリスマスプレゼントを交換することになっていた。直前になって、文庫本だけではあまりにも安いから、もう一品追加することにした。
 約束した待ち合わせ場所に彼女が現れたのは、晩の七時過ぎのことだった。彼女は肩からハンドバックを下げ、もう片方の手に黒の紙袋を持っていた。お気に入りの薄茶色のコートの前を開け、黒のニットのセーターを身にまとっていた。あらためて溝多の姿を見やると、先日会ったときよりさらに美人に見えた。若いころはさぞ男にもてたんだろうなと羨ましくなった。
「どうかした?」
「いや、別に。なんでもない」
「モツ、プレゼント持ってきた?」
「あっ、しまった。家に忘れてきた。ごめん」
「ううん、いいのよ。また今度で」
「いや、私だけが一方的にもらうのは悪い」北村はばつの悪そうな顔をして、「一時間待ってくれ。すぐ取りに帰るから」と頭を掻いた。
「えー、わたし、一時間も一人で待たされるの? 何すりゃいいのよ」
 赤い口を尖らせた。どうも剣呑な空気になってきた様子だった。
「こうしよう。プレゼント交換は次のときまで延ばす」
「もぉー。クリスマスの意味がなくなるじゃない」
 頬を膨らませてぷいとそっぽを向かれ、北村は困り顔で財布の中を覗いた。しかたないかと腹をくくり、
「別のプレゼントをカードで買うから、機嫌を直してくれ」
「そこまでしてもらわなくてもいいのよ。そんな深い関係じゃないし」
 いちど損ねた女心は溶けたチョコレートのように簡単には元の形に戻らないと思った。彼女の冷ややかな態度に手を焼いた。
「とりあえず、イルミネーションを見にいこう」
 北村は明るく取り繕って歩き出した。彼女は少し離れて彼のあとをついてきた。
「もうそろそろいいかしら」
「なんのことだ?」
 北村は振りむこうと体をひねった。

第二話

「こういうことよ」
 語尾に凄味が利いていた。あっと声を上げる間もなく、バッグから取り出した黒の目隠しで彼の目は覆われ、同時に背後から忍び寄った別の人間に強引に羽交い絞めにされた。相当な力で北村のごつい体の自由を奪い、引きずるようにしてその場から北村を運び去った。
 気づくと雑踏の音が遮断されている。どうやら車の中に押し込められたらしい。
「モツ、悪いわね。ここからはわたしたちのプロジェクトに協力してもらう。それが付き合うという意味」
「そんな……」
「信じたくない気持ちはわかる。モツが純粋で騙されやすいとは思っていたけど簡単すぎたようね」
「いったいどこへ連れていくつもりだ」
「さあ。どこかしら。ひとつ教えてあげる。わたしは映画監督なの」
「なぜ監督がこんな真似を」
 それから先は、呆然としてなんの声も出せなかった。相手がか弱い女でなければ、肩をつかんで揺さぶりたかったが、そばに気配を感じる男らしき奴に手を後ろで縛られ押さえつけられていた。
 それから何時間たったのだろう。時間の概念が曖昧になるほど意識が遠のいた。薬の匂いがかすかに鼻腔に残っていた。どうやら危ない薬品を嗅がされた様子だった。どうやってそれを入手したのか考えると、彼らが空恐ろしくなり、肩が小刻みに震えだした。何が起きるのか想像しただけで、首から背筋にかけて嫌な汗がたらたらと噴き出した。
 迂闊だった。四六にもなって浮かれていた自身を呪った。実に馬鹿馬鹿しく、腹立たしかった。溝多はたまたたまI市在住だったのかもしれないが、振り返れば、北村に接近してきたのはすべて映画に関係した仕事のためで、すべてが計算ずくだったのだ。あまりにうまく運びすぎていると思った。かといって警戒するような相手でないと油断していたのも否めなかった。
 北村は、相変わらず目隠しに手を縛られたままだったが、彼らを乗せた車が海沿いを走っているのはわかった。波が防波堤に砕け散る音がかすかに耳に入ってきたからだ。それと、運転手がタバコを吸い、吸い殻を道に捨てるために窓を開けたとき、タバコの匂いより先に潮の香りが窓の隙間から流れ込んできたからだ。
「どこに向かってる?」
 素直に教えてもらえるわけなどないと思ったが、無理を承知の上で車内の沈黙を破った。二人のどちらかに訊ねたつもりだった。
「そのうちわかるさ。協力するんだぜ」
 薄気味悪い押し殺した男の声が返ってきた。声は右側前方から聞こえたので、どうやらいまは男が溝多の代わりに運転しているらしい。犯罪まがいのことをしてまでなにを企んでいるのか。映画を撮るならどうしてこういう手段に出たのか。いま明らかに分かっている事実は、これから行く場所を北村に知られたくないのと、逃げ出さないように手足を縛っているということだけだった。
 いずれどこかに車が停まるだろう。そのとき一瞬でもドアが開いたら助けてくれと叫ぼうと計画していた。コンビニに寄って食料を買うか、ガソリンスタンドで給油するに違いないと思っていた。が、期待は裏切られた。車が速度を落とすのは信号だけで、どこにも寄らず走りつづけた。まるで自分は刑を犯した犯人であり、護送車で運ばれているような気分だった。
 気の遠くなるほど長いあいだ車は走っていたが、スピードが落ち、停止して動かなくなった。ばたんとドアを閉める音がした。不意打ちだったので計画をしそびれた。閉められた窓越しに、男が別の誰かと喋っている音声が耳に入ってきた。会話は聞き取れなかった。
「私をどうするつもりだ? ずいぶん遠くへ連れてって」
「おとなしくなさい。これも仕事のうちよ」冷たく言い放った。
「これが映画監督のすることか」相手をなじった。
「なんとでも言って。予算がないの」
 妙な理屈だ。低予算で効率よく映画を撮るためにということなのか。人権無視の虐待に近い環境ではないか。憤慨した。
「狂った女め。まともじゃない」
「うるさい! 黙りな」
 溝多の本性を垣間見た。まあいい。脱出する機会を窺うとしよう。開き直った。手荒な扱いの代償は高くつくぞ。心で毒づいた。
 男が車に戻ってきたらしく、ドアを開ける音がした。話し声は小さくて聞き取れなかった。このまま車中で夜を明かすようだった。男は溝多の助手なのか、ずっと彼女に敬語を使い、「溝多さん」と呼んでいた。彼女が本当に映画監督なのかとても疑わしかった。二人きりでは映画など撮れないし、ビデオカメラや照明などの機材があるのかもわからない。
 かといって、北朝鮮の工作員でないとは断言できる。相手の顔が北村以外に、読書会のメンバーにも知られているし、わざわざデートに誘うのは無駄な行為だった。それにしても、男と示し合わせた上での緻密で計画的な行動だと思った。
 次の朝、やっと目隠しを外され、そこが小さな船着き場だとわかった。溝多は手足を縛っていた紐を解き、
「モツ、早くこれに着替えて」
 と言って上下紺色のジャージを渡した。
「着替えてどうする?」
「いいから。おかしな真似したら、その男が一発食わせるよ」
 彼女は北村を脅した。スーツとワイシャツを脱ぐと、全部ここに入れて、と溝多は真っ黒のビニール袋を開けた。
 いったい自分はなんのためにこんなことをさせられているのか。反感を抱き、ジャージに着替えた。
 目が夜明けの陽光に慣れてくると、船着き場で男が手招きしていた。
「早く行きな」
 ドアを開けて車から降りると、彼女は背中を足で蹴ってきた。北村は前につんのめった。昨日までの彼女からは程遠い荒々しさだった。気のせいか、目隠しされたときから溝多は命令口調でサディスティックに変わっていた。
 師走の寒気が、ジャージから露出した顔や首、手を刺すようにして伝わってくる。しぶしぶ歩きながら、係留してある舟までやってきた。岸壁から小舟まで渡し板があり、男は顎でそれを示した。素直に乗り込むと、少し遅れて溝多もやってきて舟に乗り込んだ。彼女はさきほどのビニール袋を手に持っていた。
 男は小型船舶免許を有しているようで、慣れた手つきでエンジンをかけ、板を外して小舟を港から出した。朝焼けに光り輝く波頭を分かつようにして舟は進んだ。
 北村はじっと沖合を見つめ、黙って昨日の会話を振り返った。わたしたちのプロジェクト、映画監督、協力しろ、仕事のうち、予算がない――。どうやら映画にまつわる仕事に北村も携わるというのは真実味を帯びてきたようだ。すると、やはり溝多は映画監督であり、彼女の言うことは正しかったのだ。しかし、こんな冬の海に舟を出して、どういう映画を撮るつもりなのか。まったく見当もつかなかった。
「ほら、見えてきたわ」
 溝多の声のトーンが一段上がった。こぢんまりした緑に覆われた島が朝霞に見え隠れしてきた。
「あそこで映画を撮るのか」
「そうじゃなきゃ来ない」
「なぜ私のような中年男が必要なんだ?」
「役者としてよ」
「役者?」
「なにか不満でも?」
「私は元ラガーマンだ。演劇や芝居なんてした経験などない」
「かまわない。その図体さえあれば」
 潮のはね返りと風をまともに顔に受け、北村は思わずしかめっ面になった。溝多は自信満々の顔をしていた。彼女のやろうとしていることは半分理解できたが、どうして自分のようなものが必要だったのかと考えているうちに、家族と離れて暮らす一人者だからかと思い当たった。映画に拘束されても、一人者なら周囲は気づかない。怪しまれにくい、と。
 だが、会社から自宅に電話がかかってくるはずだ。来週の月曜日には。それを不通でやり過ごすと、実家に電話がかかってくることになっている。映画を三、四日で撮り終えるわけもない。
「私にも仕事がある。会社にはどうするつもりだ?」
「もちろん、わたしが代わりに電話する。私用で一か月休職するとね」
「他にも出演者がいるのか」
「心配ない。周囲に迷惑はかけない」
 毅然とした目つきで、近づく島を凝視している。それまで無言を貫いていた男も、
「もうじき島に着く。無駄口叩くな。映画に出られるんだ」
 とやっと北村の理解を助ける言葉が聞けた。ギャラは安いかもしれないが映画に出るんだ。甘い響きに希望を抱き、いくばくかの誇りを持った。それが過酷な生活の始まりだと気づいたときには、目の前が真っ暗になった。
 彼らの言ったことはけして嘘ではなかった。島の砂浜に着くと、三人がかりで小舟を浜に引き上げた。みすぼらしい四阿に布を張ったようなぼろ小屋から、ジャージ姿の男女がぞろぞろと出てきた。その人たちの目はどこか退廃的であり、無機質で光を宿していない目に見えた。
 後ろにビデオカメラなどを持った撮影班らしき数人とは、明らかに、服以外にも人間の持つ生命力が異なり、ジャージの群れは見劣りがした。北村もそこに加わり、放り込まれて一員になるのは、避けられるのなら避けたかった。
 次の瞬間、何者かが後頭部を思いきり引っ叩き、目の前の暗幕に光の点が数匹の蛍のように舞った。
「こら、でかいの。きょうからおまえもあいつらと同じノラニンゲンだ」
 中折れ帽にサングラスをかけた別の小男に怒鳴られた。
「ノラニンゲン……」
「野良犬の人間ものだ」
「どういうことだ?」
「いちいちうるせぇ。映画は始まっている。早く行け」
 サングラス男に尻を蹴り上げられ、ジャージの群れに入った。そのときは、まさか映画のテーマが人格を否定する歪んだ社会批判であるとまでは知るわけもなかった。ジャージを着ているものは、役者にしろ、そうでないものにしろ、映画のシナリオの中では、社会的弱者、搾取される者、あるいは価値や権利を否定された者として扱われ、振る舞い、ビデオカメラに映り込まなければならない。それが撮影班の主張だった。
 日を追うごとに認識は身に染み付いていった。名もない島にいる限り、彼らに抗えない空気が島全体を支配した。心も不可逆的、盲目的に変化した。演技に入る心の切り替えをしなくても、島で暮らすこと自体が弱者の象徴に思えた。
 カメラが回っているかどうかは別にして、ジャージの集団は朝から晩までずっと野良犬のような扱いを受け、虐待されるのを強いられ、耐えていかねばならなかった。まさに地獄のような日々であった。少しでも反抗すれば(反抗的な態度や発言ですら)、サングラス男が手にしている鞭で背中を激しくぶった。
 食事は一日一回きりで、百円ショップで売られているようなプラスチックの水色の皿にパン一斤を置かれ、みんながわれ先にと争うようにして群がって齧った。ありつけなくてもパン以外はなにも与えられなかった。喉が渇いたら、撮影部隊の小屋の風呂にたまっている白湯を飲ませてもらえるだけで、それも一日一度と決められていた。
 汚い話にはなるが、水道は撮影部隊の小屋の井戸水しかなく、ジャージ集団が大小便をするときは山の中で済ませ、そのつど土に埋めていた。たまっていくゴミに関しては、ジャージ集団は出さず、撮影部隊はビニール袋や弁当のケースなどを砂浜で燃やしている光景を北村は見届けた。
 撮影部隊は民宿のような、鄙びた田舎にいかにもありそうな古民家風の空き家に寝泊まりしていた。食糧を貯え、たまに舟で本土へ調達に向かうときもあった。二一世紀にもなって、完全な形で貧富のヒエラルキー集団が島にだけ形成されていた。
 映画作りのためとはいえ、日がな一日、作り物の鉄格子に入り、その中で蠢くように、とメガホンを持った溝多に指示を飛ばされた。撮影中は白い下着のみをつけ、肌に白い塗料を塗りたくられた。互いに抱きついて絡み合ったり、殴り合ったり、ゾンビのようにカメラを追いかけたりした。撮影班から真っ白なパイを顔にぶつけられもした。
 およそ大人や社会人としての常識や許容範囲、社会通念の禁忌を犯すような演技を強いられた。あまりの酷さに泣き出すものも出て、地獄の罪人のようだった。人格や人としての存在価値など欠片もなかった。人間らしさを否定するドキュメンタリーのような映画だと溝多から説明を受けた。北村は映画の意味が理解不能で、演技のかけらもしていないように思えた。ただただ、自身を惨めで情けなく思った。彼の目も赤黒く濁り、力強さや輝きを失っていた。
 台詞はあるのかというと、期待しても無駄だった。溝多の指示に応じて動きをするだけで、ジャージ集団の台詞のやり取りを聞いたことがなかった。あるいは、北村が島に到着するまえに撮りだめしておいたのかもしれないし、ナレーションか字幕をあとから被せて説明するような構成なのかもしれなかった。
 こんな映画を封切りし、観にくる人がいるのか。映画評論家たちはきちんと溝多の意図を汲み取れるのかと首をひねりたくなった。あまりの空腹と絶望感で、溝多の指示されるままに動くのだけで精一杯だった。
「社会に対して強いメッセージを発信するのよ」
 彼女は興奮気味に檄を飛ばした。ちょっとでも気に食わないと、バケツに海水を汲みにいかせ、サングラス男に頭からバケツごと海水を浴びせた。冬の海水は冷たかった。真冬の寒い中で、体が凍てついてぶるぶる震えの止まらないものもたくさんいた。けが人や病人が出たらどうするつもりかとも思ったが、極限状態の中で誰も脱落しなかったのは奇跡としかいいようのないことだった。
 撮影が終わる夜遅くには、ペンキでべとべとになった体ごとジャージを身にまとい、四阿の片隅で十数人ものジャージ姿の人間たちが身を寄せ合い、体を丸めて暖を取り眠りについた。外の夜風が上空で渦を巻き、ヒューヒューと唸り声を立てていた。
 太陽と月や星が幾度空をめぐったかさえ覚えず、意識も朦朧となりながら、ビデオカメラの回りつづけるあいだも眠っている時間も、北村は屈辱と絶望感に打ちひしがれた。島から脱出できる日はいつになったらやってくるのか。ひたすら神を呪い、神に祈った。希望が現実になるときをただひたすら待ちつづけた。
 警察が島にやってきたのは、一月の半ば過ぎの冷たい雨が降る日だった。身元不明者の捜索で、一か月以上かかったのは、溝多が出演者たちの勤務先や自宅に巧妙な嘘をついていたからだったらしい。
 警察は、十数人もの人間が妙な恰好をして島にいるとは思っていなかったようで、たいそう目を丸くし、戸惑っていた。サングラス男が、映画の撮影のためにみんなに了承を得た上で島に連れてきたこと、白ずくめの恰好は映画の撮影用の演出だと警察官に説明しているのが耳に入った。北村は、誘拐されるようにして連れてこられたのに、と口を尖らせたくなった。とにかく、警察が来て身柄を保護したことにより、撮影班は撮影を打ち切り撤収せざるを得なくなった。
 警察が上陸する寸前に、溝多は皆を集め、映画製作に携わってくれてありがとうございましたと礼を述べた。一方で、警察や家族を含めた人たちに監禁状態で撮影が行われたことを映画の封切りまで話さないでくれと緘口令を敷いた。
 ジャージの集団はぞろぞろと空き家に出入りし、風呂を使わせてもらって、白い塗料と体の垢を落とし、撮影班の預かっていた黒のビニール袋から各自の身に着けていた服に着替えた。着替えが済んだ人から順番に警察の乗ってきた小型ボートに数名ずつ乗り込んで、本土へ帰っていった。
 北村は最初から最後まで誰とも日常会話や挨拶すら交わさなかった。大学生風の若者から六〇がらみの中高年までの男女が無言で島を後にしていく光景が、なんだか異様に映った。北村もスーツに着替え、カバンに入っているスマホの電源を入れ、日付を確認してはじめて、いまが一月の半ば過ぎであり、拘束されてから年をまたいで一か月たったのを知った次第だった。

 翌日から復職し、会社の上司や同僚に、心配をかけました、ちょっと体調が思わしくなくて入院していた、と誤魔化して頭を下げた。
「大丈夫か? 心配したぞ」
 上司は口先では気遣ってくれた。
「申しわけありません。いまは元気です」
 北村は満面の笑みを浮かべ、手足をぴんぴんと素早く動かし、おどけてみせた。
 さっそく、休んでいたあいだの業務の状況を説明してもらい、午後から仕掛かりの現場に出かけた。
 一月の読書会は終わっていた。無断欠席となった。久しぶりに畑上に連絡をとってみようと、電話を入れた。
「久しぶりです。北村です」
「北村さん。どうしました?」
「一月の読書会はどうでした?」
「なにか気になることでも? 実は、大きな声では言えませんがね。北村さんと溝多さんが二人とも欠席なさったでしょ」
「はい……」
「二人の関係が怪しいと、例の女子大生が言い出して。ちょっとしたゴシップになりましたよ」
「そうですか。それは、いまはうまく説明できないんですが、当たらずとも遠からず、でして」
「本当ですか。それで?」
「次回の二月はどうしようかなと思いまして」
「二月の課題図書は『火花』なんですよ」
「『火花』ですか。又吉直樹の」
「ええ、そうです。注目を浴びた芥川賞受賞作」
「もしかしたら出られるかもしれないけれど、どうしようかな」
「ゴシップもあるし、もう少し様子を見た方がいいのではないですか」
 畑上は親身になって心配してくれた。
「じゃあ、二月は私用ということでまた欠席します。皆さんによろしくお伝えください」
「わかりました。ところで、溝多さんはどうなりました?」
「彼女は……。たぶんしばらく出てこないんじゃないかな」
「と言いますと」
「なんというか、仕事が多忙になるというようなことを聞いているので」
 北村は彼女が映画監督で、撮影に巻き込まれたことを隠した。緘口令を守ったといってもいい。
「そうですか。一月、二月と、またお二人そろって休まれると、ますます怪しまれるかもしれませんね」
「しかたのないことです。噂もそのうち消えてなくなるでしょう」
 北村はそれ以上なにも言えず、それではまた、と言って電話を切った。

 二月になった。冬の寒い季節は、気温の低さで流した生コンクリートが速く固まるため、工事にはうってつけの時期である。仕事も途切れず、毎日が忙しかった。北村が少しのあいだ休職していたことなど、社内では誰も歯牙にもかけなかった。
 二月の読書会は行われ、新しい参加者が数人加わったとあとで畑上から聞いた。女性陣の噂は留まるところをしらなかった。溝多が北村に追い回されて困っていると誰かに作り話を漏らしたようで彼女らはすっかり信用しきり、北村は悪い男と決めつけられていた。不思議と、溝多には旦那と子どもがいるという話は、北村もすとんと受け入れた。
 北村は畑上と電話でやり取りし、
「私は溝多さんから言い寄られて、ちょっと外で会っただけです。けして、私の方から声を掛けたわけでも、まして追い回してもいませんよ」
 と弁明した。
「そうだとは思いたいところですが」畑上は前置きし、「すでにゴシップは溝多さんを悲劇の人に仕立てています。まったく女性というのは同性の訴えに甘いですよ」と北村に不利な状況を説明してくれた。

 三月。この頃になると、図書館の近くの梅林は赤や白に色づき、春の近さを色で感じる。吹く風はまだ冷たいが、春の芽吹きの匂いが風に乗せて運ばれ、どことなしに春の気配が空気に清々しさを漲らせていた。
 図書館に入ると、外の冷たさは遮断され、ガラスの水槽にいる居心地の良さは、さすがに国内屈指の素晴らしい建物に選ばれただけのことはあった。日曜日の昼ともなると、幼い子どもらの元気な声と姿が一階から二階にかけて響き、慣れた水槽をゆうゆうと泳ぎ回る小魚のように見えた。パーティションで仕切られた一画には、定刻になるといつものメンバーが集い出した。
 北村は今月も欠席した。銀のフレームの眼鏡をかけた、包み込むような母性の持ち主の裏の顔を知ってショックだった。それ以上にあの島での監禁生活を思い出すと、反吐がでるほど気分が悪くなった。溝多に監禁され、映画撮影が終わって二か月。そのあいだ会員たちは二人が男女の関係になったと勝手にゴシップを流していたようで、畑上から報告を受けて三回つづけて読書会を欠席せざるを得なかった。誰にも言えないけれど、読書会から追放されたような憂鬱な気分だったのは否定しようにも否定できなかった。みんな溝多の作り話を信じて彼女を庇い、北村の言い分には耳を貸さなかった。嫌われたものだと諦めた。
 彼ら二名を除いたメンバーに見かけぬ新人が数名加わり和やかに進行している様子を、パーティションのわずかな隙間越しに、北村は遠目から見守っていた。三月に開催された、第六回〝みんなの読書会〟は、この前の畑上からの電話によると、柴崎友香の『寝ても覚めても』を課題図書にしたらしい。北村は、今回も参加できないと彼づてに図書館の方へ知らせていた。
 北村は二月から復職してばたばたと仕事に追われた。あっという間に三月になり、その時期を待っていたかのように、会社から辞令が出た。四月から東京へ転勤になるのが決定した。失恋に監禁、妙なゴシップ。溝多と出会って散々な目に遭い、踏んだり蹴ったりの騒動がここ何か月かで嵐のように過ぎ去った。心中穏やかでないままI市を去らねばならないのは忸怩たる思いだった。
 転勤のことは畑上にも伝えなかった。せっかく友人のように接してくれたのに申しわけない気持ちでいっぱいだったが、それを上回るほどのやるせなさでどうにも気が滅入った。

 東京にきて、しばらく仕事に没頭する日々が続いた。サラリーマン生活に戻り、仕事に慣れて倦んできたとき、溝多の映画が公開されるのを、スマホの検索中に知った。八月の暑い盛りだった。芸術系の映画であり、都内でも数館の映画館でしか観られない。北村の出演した映画だったので、ぜひとも観たくて休日に一人で映画館へ足を運んだ。
 映画のタイトルは『化膿』だった。社会と接点をなくした、真っ白なノラニンゲンが画面いっぱいに蠢き、われながら気持ち悪かった。台詞のないのをナレーションでカバーして説明を加えていた。ナレーションは落ち着いた中年女性の声だった。しみじみとした声で、
「この世の中自体が、不ぞろいの人間を持て余す〝化膿した社会〟なのでしょうか」
 と問いかけるシーンでは胸にじんと来た。溝多監督の製作意図は、効果的なナレーションの使用で、観客に充分に伝わっていた。映画はメッセージの強い発信になっていた。
 北村ら白く塗られた集団に関しては、悪さをしたので島に連れてこられ、働くのもままならず、見世物のような扱いを受けている、とナレーションは語った。抱きついたり、ケンカしたりする場面では、けして彼らも感情を持たないわけではありません、と観客に訴えた。最後のシーンでは、彼らにも与えられた命を生きる権利はあるのです、人類は異端者への迫害の歴史を積み重ねてきたのです。そう締めくくり、画面が暗転して真っ黒になり、すすり泣く声が数十秒間挿入されて終わった。
 映画を観おわり、席を立てなかった。エンドロールで北村の名前を確認する余裕もなく、社会的弱者でもないのに、北村の頬を銀の線が伝った。溝多の顔をふっと思い浮かべた。映画館をあとにして、得体のしれぬなにかに心を鷲づかみにされた。やるなら今だと次の週に辞表を書いて提出した。彼は東京で役者を目指すことを決心したのだった。
 蝉の声が途切れ、トンボがスイスイと飛び出した晩夏、北村の第二の人生はひっそりと始まった。
                                     〈了〉

化膿

化膿

バツイチの会社員北村は一〇月から図書館の読書会に参加する。女性会員の溝多から誘われ、デートを重ねる。三度目のデートで彼女の罠に嵌ってしまう。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-10-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一話
  2. 第二話