小生意気なモンロー

原口光陽

  1. 第一話
  2. 第二話

第一話

 温泉旅館のフロントで、僕は因幡奈美を目にした。当時と変わらぬ美しさを保ち、髪形は変わっていたが、甘い思い出が蘇った。昔、短いあいだではあったが、付き合った彼女だった。別れてから一〇年だろうか。今回は一人旅だという。
 渋茶の半纏に袖を通し、僕はカウンターの中で仕事をしていた。こんな形で対面するなんてすこし照れくさいなと思ったが、旅館の仕事、しかもフロントをしているのだからあたりまえかと胸を張った。
 一年三六五日、日々いろいろなお客様が鬼怒川温泉の当旅館を訪れ、カウンターで宿泊者名簿のなにも書かれていない空欄を埋めていく。
 因幡奈美。
 彼女は、細長くて黒く塗られたデスクボールペンを右手に持ち、たしかにそう書いた。あの奈美ちゃんだ。姓も当時と変わっていなかった。
「お客様。本日より、一名で一泊の禁煙室のご宿泊。朝夕食付きでございますね」
 あらためて奈美に確認し、相手の顔を見る。
「はい、間違いないです」
 奈美は落ち着きのある、はきはきした声で、僕の問いかけにうなずいた。
「夕食のメニューは写真のようになっております。電話で予約された際に訊ねたとは思いますが、好き嫌いやアレルギーなど食べられないものはございませんか」
「いいえ、特には」
「承知しました」
 再び、彼女を見て、容姿をチェックする。上品な感じのする、パーマのかかった髪形をし、大人の女になっていた、服装も派手さはなく、シンプルな半袖ワンピースで、黒地に白の水玉模様だった。
 僕は部屋のカードキーを、手を添えて渡した。夕食と朝食の時間を説明し、大浴場は一階廊下の突き当りにある、と身振りを交えて案内した。
 奈美は敬語を使い、
「わかりました。食堂は二階ですね。お風呂は、夜が二三時まで、朝は六時からですね」
「そのとおりでございます。男女それぞれの露天風呂もお楽しみくださいませ。ではごゆっくりおくつろぎください」
 真っ赤なスーツケースを引いていき、エレベーターの開いた空間に吸い込まれていった。
 僕は、あくまで従業員として、失礼のないように丁寧な言葉遣いと態度を貫くつもりでいた。
 暦の上で秋になったとはいえ、残暑の厳しい九月上旬のことだった。
 旅館から車で四〇分のところに華厳の滝があり、五〇分で戦場ヶ原に行くことができる。まだこの時期は紅葉になっていないから、その分、観光客も少ないが、広々とした湿原の広がる戦場ヶ原は緑がきれいで都会の喧騒を忘れるにはもってこいの場だろう。
 奈美には詳しい説明こそしなかったが、周辺の観光情報を訊かれたら、即座に滝や湿原のことを耳に入れてあげようと考えていた。
 僕には、フロントの業務以外に、予約受付や旅行代理店との折衝、シフトの管理、仕入れや飲み物の管理、経理、経営企画等の会議と幅広く中核的で多岐にわたる仕事が待っている。
 受付業務が一段落すると、それらを部分的に消化し、他部門のバックアップにも回らなければならないから、多忙なときは夜遅くまで働き詰めになる。
 なにしろ温泉旅館の跡取り息子で次男坊だ。もう結婚し、二児の父になっていた。嫁さんは地元の高校の同級生で、当館の女将になってくれた。
 夜の一〇時過ぎに客室から連絡を受け、フロントの電話が鳴った。その電話で奈美に呼び出され、客のいないロビーですこし話をした。まだ独身の奈美は、当時のことはいい思い出に過ぎないわ、と笑い飛ばした。
 ほんの小一時間喋っただけだが、彼女は当時のことをよく覚えていて、僕の記憶も鮮明になった。僕は一〇年前の夏を回想した。
 当時は東京住まいで、バイトをしていた。会社を辞めた僕は、脱サラ後になにをしようかとつらつら考えながら、生活費を稼ぐため、バイトに明け暮れる日々を送っていた。

 アパートの暗くて狭い部屋の中でモゾモゾと動く音が耳に入る。鼠でもゴキブリでもない。カーテン越しにすでに明るくなっているのを認識した。薄手のカーテンは太陽の光を受け、明るく変色していた。僕はタオル地の薄い布団を撥ねのけてベッドから起き上がり寝床を離れる。部屋の音の主だ。
 自宅の前で大きなエンジン音がして止んだ。眩しさをこらえてカーテンを引くと、窓の下の向こうに大型のトラックが駐車していた。
 よく観察してみると、若いお兄さんが動物のマークの描かれた制服を着て、忙しそうに台車を使ってアパートの中にせっせと段ボールの荷物を運び入れている。この暑いさなか、だれかが入居してくるのか。そういえば、どこかの階に、一部屋分の空室があったような気がした。そこに引っ越してきたのだろう。
 すこしざわついた気持ちと、いい人が来たらいいのになあ、と心躍らす期待がないまぜになり、平凡で起伏の少ない日常に小さな突起物ができて腫れているみたいな気がした。
 三、四日前、欲しい本があったのでアマゾンで検索し、振り込みをしたのを、トラックの配達で連想した。そろそろ郵便受けに本が届くはずだ。中古の本で値段は安い。友人にいいよと勧められ、すこし前に刊行された文庫本を買ったのだ。
 一階にある郵便受けに本を取りに行こうと玄関に向かいかけたそのときだった。ピンポーンと間延びした呼び出し音が鳴った。
 だれだろう。郵便局の配達夫か。
 玄関の扉を開けると、女にしては大柄の、知らない女がそこに立っていた。若い女だ。
「すみません。はじめまして」明るい笑顔が印象的だった。
「はい」僕は返事するあいだに、相手の顔から足までを眺めた。「なんの用でしょう?」
「私、二〇四号室にきょう越してきたナリスギです。これがうちのポストに入っていて」
「あっ」
 思わず声を漏らした。注文した本のことではないのか。ピンときた。ナリスギさんが差し出した小包には僕宛の住所に加え、田之倉譲二様と印刷された紙片が貼り付けてあった。
「間違って入っていたみたいですね。これを届けたついでに挨拶もしようと思って」
「わざわざ上の階までありがとうございます。三〇二号の田之倉です。よろしく」
 そのときは、顔合わせ程度で終わった。
 特に引き止める理由も思い浮かばなかったし、暑いさなか、いま引っ越し中である。荷物の整理などの作業に忙しいだろう人間をどうするわけでもない。
 扉を閉め、眠い目をこすり、髪を掻きむしりながら洗面所へ向かった。
 洗面所の蛇口をひねり、ジャーッと勢いよく水を出し、洗面器に水を張る。たまった水を両手ですくい、下に向けた顔に乱暴に擦りつける。
「眠いなあ。朝はいつもだるい。そうだろ?」
 鏡の中の自分に向かって、ひとり言を言ってみる。タオルで顔を無造作にふいた。頭髪から水が滴っていた。
 まもなく二六を迎える僕にとって、これだけが起床の「儀式」となっていた。
 会社を辞めた僕には髭剃りだのワイシャツのアイロンがけだのは必要ない。いや、正しく言うならば、そういうことをしていた時期もすこしだけあった。転職しようと考えていた頃だ。
 いまはバイトの身分だからやらなくてもいい。いや、これも正確に言うならば、起きてしばらくしてからやるときもあるし、あえてしないときも含まれている。だから、「儀式」には含まれない。
 日が昇り、カーテンが光に包まれながらオレンジ色に染まっている。部屋の温度はもうかなり上がっていた。気のせいか、体の温度も上がっているように思えてくる。
 こうなるとエアコンの冷房か除湿を点けないとやってられない。ついこのあいだまで花見をしていたのに、もう季節は先へ先へと進んでいる。
 今日は週明けの月曜日であり、バイトに行かなくていい。非番だから遅くまで寝ていられた。
 朝食を摂らず、朝昼兼用の食事をこれからコンビニに買いに行く。卓袱台に伏せていたスマホをいじっていると、ラインで仲間からのメッセージが届いていた。既読にして返事はスルーすることにする。
《田之倉さん、夕べは楽しかったっす。また飲み会やりましょう》
 やっても構わないが、参加できるかどうかはぎりぎりになってみないとわからない。結果、あえて返事はしない。そういうところだけは生真面目というか責任逃れなのか、ずるい僕だった。
 さて、店のマドンナ、奈美ちゃんにお誘いでもしてみるか。
 スマホを手にして、またラインの画面を見つめる。
《奈美ちゃん、元気? もう夏ですね。夏と言えば海と花火。海へ泳ぎに行くか、花火大会に行きませんか》
 しばらくして返事が来た。
《タノッチはいやらしいこと考えるからだめ。みんなに声かけてみて。みんなとなら行く。私は花火大会には絶対に行きたい。バイトのシフトを確認してみる。ちゃんと花火の見やすい場所を押さえとくのよ》
 はいはい、女王様。仰せのままに。こちらが年上なのにお構いなしだ。
 僕はあだ名で呼ばれる割には、子分か、しもべのような扱いを受ける。いや、違うな。奈美ちゃんは群がる男たちをおしなべて、しもべのように見下すのが好きなんだ。反抗する人間はグループからはじかれてしまう。
 店で働く男たちに人気の奈美ちゃんは目が大きくて男好きのする容貌だが、そういう女に限って同性からは距離を置かれる。はっきり言えば嫌われるのだろう。
 家から近いコンビニに行く。雑誌コーナーで立ち読みをしようと決め、漫画雑誌を読んでいるお兄さんを押し分け、町歩き雑誌に辿り着く。夏の特集号だ。これは去年も一昨年も一読した。花火大会の特集記事に目を落とす。隅田川花火大会。これは毎年人出が多い。河川敷がないので見る場所が限られて混雑する。次を探そう。横浜スパークリングトワイライト。これは二日間あるし、音楽演奏やパレードがある。山下公園を散策する手もありだ。他には――葛飾納涼花火大会。観客席と打ち上げ場所が近いのか。臨場感があると書いてある。要チェックだ。
 ああ、でも面倒くせえ。奈美ちゃんならどうせ同じことを他のしもべたちにも言ってるんだろう。なら、わざわざ現地まで下見に行くこともないか。行きゃあわかるよ。馬鹿馬鹿しい。やめだ、やめだ。
 勝手に奈美ちゃんの頼みを無視した僕は、朝を抜いていたので、昼と兼用のナポリタンをアイスコーヒーと一緒にかごに入れ、レジに並んだ。自分の腹ごなしの方がなにより大事なのはだれしも共通だ。レジ待ちしていると、入口によく見た顔の男が姿を現した。同じバイト仲間の上元だった。
「よう、上元」
「田之倉さん。朝飯っすか」
「まあな」
 答えて彼を観察してみる。僕と同じように、雑誌コーナーでさっき見た雑誌を手に取っている。すこし前の僕の一挙手一投足を再現しているかのようだ。上元も奈美ちゃんに同じことを言われたのだろうか。そう思うと、クククッと笑いがこみ上げてくる。彼は律儀にもその雑誌をかごに入れ、他に買うものを物色していた。えれえやつだな。
 レジで会計を済ませ、店を出ようとしたとき、すれ違いざまに、またバイト仲間に会い、よう、と声を掛けた。いったい奈美ちゃんという鵜匠は何匹の鵜を一度に操っているのだろうか。怠け者の僕は、いいかげん、鵜の立場を卒業したくなった。じゃあ逆に、鵜でありつづける彼らは、鵜匠の愛の鞭をいつまで受けつづけているつもりなのだろう。その絵柄はSM的なおかしさを醸し出しさえした。
 奈美ちゃんは今日のシフトに入っているはずで、夕方から店長と鶏肉の仕込みをやることになるはずだった。
 僕らは焼き鳥店で働いていた。
 不意に、串に刺されて店長に炙られる、もも、ねぎま、つくね、ささみ、手羽先、レバー、砂肝などを思い浮かべるうちに、その先っちょが上元らの顔と重なってきた。いや、その一つは完全に僕の顔に変化し始めている。そして店長の顔が歪み、洗い場の水に映っているその顔が水紋で輪郭をなくした途端、奈美ちゃんに変わっている。
 紺色の法被姿の彼女は、僕や上元らの肉塊を慎重に炙っていく。僕らはジュワジュワと音を立て、肉汁のほとばしる飛沫を上げて焼かれていく。すると奈美ちゃんは口の端を上げてニヤリと笑い、嬉しそうに串を回していく。ああ、やめてくれー。熱い。死にそうだ。
 真夏の昼下がり、奇妙な妄想が僕の頭の中で起きているとはだれも知らないだろう。なぜだかいつも、虐げられる側にいるのは気のせいか。
 そんなことばかり考えるから会社に残れなかったんだぞ。自分で自分を戒めた。ふと、如来仏の天然パーマのようなチリチリの頭髪をした母が頭に浮かび、大きく開けた口の中から手がヌウッと伸びてきてゴツンとげんこつを一発僕の頭に食らわせたような気がした。それでようやく、おかしな映像は終了した。
 家に戻りテレビを点けると、昼前のニュースをやっていた。もうすぐ選挙が始まるんだったな。どの候補ももっともな御託を並べて真面目そうな公約を口にするけれど、いざ議会内でちゃんと責務を果たしているんだろうかなどと思いつつ、ナポリタンをレンジで温める。チンと鳴って温め直しが終わった容器のふたを取ると、麺からいいにおいとともに白い湯気が立ちのぼった。アイスコーヒーをボトルからコップに注ぎ、飯を食い始めた。
 しばらくして、ナポリタンを食い終わった。バイトは休みだ。昼寝でもしようと、カーテンを引いて照りつける七月の陽射しを遮った。なんだかベランダが騒がしいので見てみると、小雀たちがピチャピチャと啼き声を立ててはしゃいでいる。飯争いか恋の争奪戦なのか。どっちにしろ、耳障りだった。クリーム色のカーテンを閉め、エアコンをタイマーでセットして昼寝する。
 きづくと僕は雲の上にいて、茶色い羽をばたつかせてスイスイと空の上を飛んでいる。今度は正真正銘の夢の中だと思った。仲間が僕の先を飛ぶので追いつこうとしたそのときだった。黒い網に体が引っ掛かった。背後で店長の哄笑が聞こえてくる。
 今日は仕入れが少ないから、この雀たちを焼いてかしわの代わりに出すことにしようか――。
 なんてこった。殺されるー、食べられるー、止めてくれー。絶叫した途端、背中に玉のような脂汗をびっしりかいて、ベッドから飛び起きた。今日は朝から変だなあと思い、昼寝は中止にした。とうぶん、鳥の類は見ないように努めたのはいうまでもない。どうも夕べ飲んだ「笹の露」が悪かったんだろうかと考えたが、そうではないらしい。
 ちょっと散歩でもしてくるか。草履を引っ掛け、近くの神社まで町内を一周しに行く。神社へ向かう途中、小さな公園に立ち寄ってみた。
 パンジーや向日葵が咲いている。年配の、紳士風で頭の禿げた老人が、高級そうな一眼レフカメラを構えて花の写真を撮っていた。花を見て思った。人に見られても見られなくても、いつも綺麗に花を咲かせている姿は誇らしげで端正だ。僕も見習わなければならない、と。そのときだけはそう思ったが、家に戻るとすっかり忘れていた。
 公園を通り過ぎ、神社の鳥居が遠くに見えてきた。初詣に毎年お参りする神社だ。僕にとって、特に霊験あらたかなわけでもないが、気軽に立ち寄って賽銭を入れ、願い事を念じてみた。参道の石畳に打ち水がしてある。神社に来て気づいたのは、木の葉がたくさん茂って陽光を遮る仄暗さと、都会の賑やかさとはうって変わって風やものの動きの止まったような静けさだった。
 僕は静けさを求めるとき、一人きりになりたいとき、よくここを訪れている。七月の暑さの中、神社の境内にいるのは僕一人きりだ。土を踏みしめ、本殿に辿り着く。二度礼をしてから手を二回打ち、しめ縄を揺らして鐘を鳴らす。今日は、健康でいられますように、と祈願した。入れた賽銭は五円玉の持ち合わせがなく、一〇円玉一枚きりだった。
 祈り終えると雲の切れ間から神様が降臨するような錯覚がした。きづくと、足許に猫がいた。真っ白な仔猫だ。神の使いだろうか。かわいらしかった。だれも見てないので、僕は猫を抱き上げ、家に連れ帰ることにした。
 真っ白でフサフサの毛をしていたので、「絹代」と名付けた。絹豆腐を連想して、そう命名した。体を裏返すとたまたま雌猫だった。怒るときは「キヌヨ」と呼び捨てにし、ふだんんは「キヌちゃん」と呼んでいる。
 キヌちゃんはひととおりの躾をクリアし、僕によくなついた。お腹が空いたときは足に寄り添い、足の指をペロペロと舐め上げてくる。僕が帰宅すると、ニャアと鳴いて玄関に出迎える。そんなときはこちらも嬉しくなり、絹代の喉元をくすぐったり、足裏の肉球を指で軽く押してやったりする。絹代が目を細め、ニャアニャアと鳴くと、僕もそれにつられ、真似た声を出す。近頃の楽しみは、もっぱらキヌちゃんと触れ合うことだ。
 日が暮れた頃、すこし離れたスーパーに野菜と肉を買いに行った。朝飯のことも思い出し、食パンと小さな牛乳パックも買うことにした。
 すると、スマホ片手に店内を歩くナリスギさんがこちらに向かってきた。引っ越し初日にして、早くも地元に慣れてきている様子に僕は感心した。
 けれど、食材を買い込んでいることにすこし恥ずかしさと抵抗感を覚え、あえて声を掛けずにそそくさとレジの列に並んだ。
 ナリスギさんは、買い物かごにバナナと冷凍食品を入れ、スマホ画面と売り場の商品を交互にためつすがめつしている。きっと、なにか決まったメーカーの商品を気に入っていて、それを買おうと考えているのだろう、と思った。そうでなければ、「なにか」のアレルギーがあり、冷凍食品のパッケージに書かれた成分表示に、その「なにか」が含まれていないかをチェックしているのかもしれない。年令は訊かなかったけれど、きちんとした女だな、と前にも増して感心した。
 スーパーの精算を済ませ、買い物バッグに食材を詰めていると、レジに並んでいたナリスギさんがこちらを見つめていた。僕がすこし頭を下げると、向こうも首から上を前に突き出すようにしてゆっくり会釈した。
 この何十平米もある空間に知り合いがいることが、真っ暗闇に光を放ち、お互いの居場所を知らせ合う蛍に似た気持ちにさせた。
 その感覚の余韻に浸って店を出たら、闇に光る車のテールランプまでもが、なんだか都会の仲間内のサインに見え、孤独から解放されたような安心感と連帯感を覚えた。
 なんとなくナリスギさんについてきてほしいような、やっぱり恥ずかしくて照れ臭いから一人でいたいような、相反する気持ちに駆られ、歩くスピードを速めて近道を行く。
 喉が渇いて、自動販売機を探し、すぐに見つけた。財布から硬貨を出して入れ、アイスコーヒーのボタンを押した。買い物バッグを地べたに下ろし、片手で缶を握り、もう片方の手でタブの爪を立てて中に押し込む。カチャという聞き慣れた音がして、それと同時に缶に口をつけた。
 最初の一口を飲み、甘さと苦さにすこしホッとした。慣れ親しんだ味覚が、今までの平凡な日常に僕を連れ戻してくれる。グビグビ飲んだ。よく冷えていて、うまかった。飲み干した缶を販売機の横に設置されたゴミ箱の上にのっけて、家路を急いだ。
 家に着くと、絹代がトントンと床に足音を立てて四本足で歩み寄り、僕を玄関で出迎えた。それまで消えていた玄関の照明がパッと自動で明るく点灯し、絹代の瞳孔は小さくなってニャアと鳴いた。
 その「ニャア」がいつもの「お帰り」ではなく、「よかったね」に聞こえた。ほんのちょっとした鳴き方の変化や違いであり、猫を飼ったことのない人にはわからないだろうけれど。
 翌日、朝のゴミ出しをするとき、ゴミ捨て場にナリスギさんの姿を見かけた。白地に青のボーダーシャツを着て、生成り色のスカートを履いている。僕は、「お早うございます」と声を掛け、透明のゴミ袋を後ろに隠した。別に恥ずかしいものが入っているわけでもないのに、若い女に見られるのは恥ずかしいと感じたせいだろうか。
 意識している。そう、僕はナリスギさんを恋愛対象として意識しだしたのだ。
 恋愛対象に入るのと入らないのとの境界線はどこで引かれるのだろう。例えば、よく目にするとか、家や勤め先が同じという範疇だけでは第一段階に入らないと考えた。手近で済ませるのさ。だれかがそう言っていたのを思い出した。同じ顔をなんども拝むうちに親近感がわく。それが第一段階。親近感がいつしか男女の仕切りを越えて愛情になるのはさらに先の段階、か。
 ゴミを出しながら、そこまでを瞬時に思考した。振り返ると、そこにはだれもいなかった。
 恋愛へと発展するには、段階を一つずつ進まねばならない。それを叶えてくれるきっかけが、その夜、偶然にも起きた。
 バイト先の焼き鳥店、『吉太郎』に女同士のお客さんが四人で赤い暖簾をくぐり、入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 威勢よく声かけし入口を見て、僕は何秒間か固まってしまった。手が止まっている。
 夕闇のまだ薄白い光の中にナリスギさんの輪郭が切り取られた。友人たちとはしゃぎながら店に入ってきた彼女に見とれる僕に、マネージャーは、
「田之倉、どうした? 早く五番テーブルのオーダーを通せよ」
 とたしなめられた。
 慌てて五番テーブルに向かい、盆に載せたお通しを四つ机に並べる。
「ご注文は?」
 男のグループにオーダーを取った。
「もも二本、つくね、手羽先、レバーを一本ずつ。あと、ビールを二本。コップは四つね」
 客の注文を機械に打ち込み、注文した料理と飲み物を復唱してから席を離れた。
 まだ客の少ない時間帯であり、客席を見回して、三、四名ぐらいの客ならあっちへ誘導し、六名以上の団体客は畳の座敷の方へ回そうなどと考えを巡らせていた。なるべく入口から客が入っていそうに見える方が、活気があっていい。マネージャーは、最初にそう教えてくれた。
 次の客が来るまで一〇分以上はあった。
 そのあいだに、ナリスギさんのグループからオーダーの呼び出し音が鳴り、僕とは違う女の店員が座敷の方へ上がり、オーダーを取りに行った。
 僕は、冷えたビールの中瓶二本と焼き鳥五本を並べた皿を盆に載せて、先ほどの五番テーブルに運んだ。
「お待たせしました。こちらがビールになります。コップ四つです。つくね、手羽先、レバーがそれぞれ一本、もも二本になります。ご注文は以上でよろしかったでしょうか」
「とりあえず、いいです」
 テーブルを仕切っていた声のデカい体育会系の男は、早く乾杯がしたいのか、早口で答えて、グループのみんなにコップを回し、ビールを注ぎだした。
 すぐさま空いているテーブル席がどんどん客で埋まり出し、ホール係の僕はテーブルを梯子しながらオーダーを訊いて回った。
 気づけば忙しさのピークの時間帯に入り、ナリスギさんらのグループのことなど考える余裕など全くなくなった。
 一〇時を過ぎて、テーブルに料理や飲み物を届けるより、客の会計をしたり、飲食を終えていなくなったテーブルの後片付けに追われたりする仕事の方が多くなっていた。
「そろそろですかね」
 盆に皿とグラスを重ねて洗い場に運びながら、近くにいたマネージャーに確認を取った。
「ああ、ラストだな」
 一〇時半が近づき、ラストの時間を残っている客に案内して回った。
「お客様、ラストオーダーの時間となりました。他にご注文は?」
 僕らホール担当は、手分けしてそれぞれのテーブルに訊いて回った。
 ナリスギさんの座敷に行き、つっかけを脱いで同じ文句を言った。
「それが、困ったことに……」
 語尾のつづきは視線の先にあった。ナリスギさんの友人らは眉を寄せ、畳を指さしていた。
 視界から消えていたナリスギさんの姿が目に入った。彼女は体を海老のように丸めて、畳に寝そべっていた。
 思考回路は狂った。意識した対象物がすぐ近くにいて、畳に寝そべり動かなかった。店に入り、サワーなどを飲んで楽しそうに友人らと喋っていると思っていたら、ナリスギさんは泥酔していた。
 厨房のカウンターと客席やレジを往復しながら、ちらちらと客席の状況を見回してはいたが、座敷の細かな様子までは目を配りきれなかった。こういう失敗はときどきあり、忙しいときには見落としてもやむを得なかった。
「お客さん、だいじょうぶですか」
 僕は、肩を揺すっていた友人の背後から、ナリスギさんの耳に届くだろうくらいの声量で、安否を気づかった。
 彼女は固く目を閉じ、ぐったりしたままで反応がなかった。
「ラストオーダーは無しで、もうすこし様子見ててもいいですか」
 哀願されて、「閉店時刻までなら別に構いませんよ」と安請け合いしてしまった。
 マネージャーのところに戻り、そこで起きていることを報告した。
「しかたないな。女のグループだろ? なんとかなるさ」
 簡単に片づけられ、店を汚されるのだけは勘弁してほしいと願った。
 彼女らの座敷はそのままにして、グラスや食器類を片っ端から下げていき、洗い場で使ったタオルを店内の隅に干し始めているうちに閉店時刻となった。
 残っている客は、ナリスギさんのグループだけになった。
「このお客さん、どうする?」
 閉店時刻になっても、畳に突っ伏したままで起き上がれないナリスギさんを、店員たちはどうにかして店の外へ出そうとしていた。
 彼女の友だちはみんな女だったので、担ごうとして担げなかった。女の力では無理だった。
「おれが介抱します。家が近所で、店の近くですから」
 マネージャーに申し出た。
「田之倉、頼んだぞ」
 マネージャーは僕を信用し、店の片付けのつづきを始めた。
 ぐったりしたナリスギさんを肩から背負い、それでも重かったので、無理やり太腿を持ち上げ、おんぶの恰好になり、ゆっくりと店の外に連れ出した。
「本当にすみません。レイ子がこんなにお酒に弱かったなんて知らなくて」
 横で付き添っていた友人の一人は謝った。
「若いときはよくあることです。同じアパートなので僕が彼女の部屋に届けますから」
「お願いします。私たち、もう終電の時間なので帰らなくちゃ。頼みますね」
「ありがとうございます、助かります」
「お願いしますね。よかったね、レイ子」
 友人らは口々に言うと、その三人は手を振って小走りに駅へ向かった。
 酔った男を介抱したときはあったが、女の場合は初めてだった。酔いつぶれた人の体はかくも重たいものか、と思い知らされた。
 入り口のシャッターを下ろし、店を出て、アパートまでのわずか三、四百メートルの道のりが、障害物競走のように、長く、惨めに感じられた。とりあえず、女の部屋に勝手に入るのは気が引けて、僕の自宅まで運んだ。
 水でも飲ませ、話せるまで回復してから二〇四号室へ帰ってもらおう。
 なんとかアパートまで辿り着いた。
 階段を上る足取りは重かった。働いた体にふだんの倍ほどの重みがかかり、きつかった。
 見慣れた扉の前に立ち、三〇二号室の玄関の鍵を開けた。絹代が居室へつづく廊下の隅に座り、じっとこちらを見ていた。
「どうした、キヌちゃん。お客様だぞ」
 ニャア、ニャア。どうやら気味悪がっているようだ。いつもならこちらへ来るのに、今日にかぎって警戒している。
 片手でナリスギさんの足を抱えたまま、もう片方の手で廊下の灯りと居室の灯りを点けて、パイプベッドに彼女を仰向けに降ろした。いや、降ろしたというより、ナリスギさんの足をベッドにつけると、まとわりついている体を強引に引っぺがした。
 見やると、まだ目を閉じ、口元でなにかをブツブツと唱え、苦しそうに呻いている。エアコンのスイッチをオンにして、冷房をつけた。
 台所へ行き、洗ってあるコップを出して水道水を入れた。それをベッドに持っていき、彼女の背中を手で支えながら上半身を起こし、口にすこしずつ流し入れた。
 それでもまだ意識が朦朧としている様子なので、ちょっと胸を触ってみた。ぷにぷにして指がスーッと陥没する感じだった。へー、若い女の胸ってこうなんだ。
 感心している場合じゃない。いかんぞ、これじゃ犯罪だ。ナリスギさんは全くきづいていない。すこしぐらいなら、別にいいだろう。役得だと勝手に決めこんだ。
 こんどは失礼してベージュのズボンのポケットをまさぐり、鍵を見つけ出した。
 三〇分ほどたってから、スヤスヤと寝息を立て始めたので鍵をポケットに戻し、灯りを消してそのまま薄手の布団をかけた。僕は床に寝て、朝刊を布団代わりにして、朝まで眠った。
 朝早く、紙のガサガサと擦れ合う音で眠りから覚めた。
 体を起こして眠い目をこすった。視界にナリスギさんの姿が目に入った。彼女は、ベッドに腰掛け、布団代わりにした新聞紙を丸めて見下ろしていた。
「これはどういうこと? 説明して」
 語気が強かった。僕は臆せず、
「覚えてないのか」
 夕べ、『吉太郎』で飲んで酔いつぶれたナリスギさんを介抱した様子を、身ぶりを交えて再現した。
「まあ、そうだったの。私、途中から記憶をなくしたの。ごめんなさい、疑って」
 急に口調が穏やかになった。
「疑う?」
「いいえ、こっちのこと」
 どうやら、見知らぬベッドに着衣のまま寝ていたので、不信感を抱いていたらしかった。
「おれ、なにもしてないから。本当だ」
「とにかく、お世話になったようだから、なにかでお礼をしたいけど――」
 そこで言葉を切り、足元にいる猫の存在にきづき、視線を絹代の方へ移した。
「かわいい猫ね。なんていう名?」
「絹代。キヌちゃんて呼んでるけど」
「私も猫好きなの。私、キヌちゃんを気に入ったわ」
「うれしいな。キヌちゃんも喜ぶよ」
 ニャーゴ、と絹代は甘えた声で啼いた。
 ナリスギさんは着衣に乱れがないのを確かめ、そそくさと玄関に行った。靴を履いて、またね、と言って出ていった。
 僕はいつものように「儀式」を行ってから、コンビニへ出掛け、サンドイッチを買って帰った。居室でサンドイッチの包装を外して咀嚼し、昨日買っておいた牛乳をコップに注いで飲みながら、窓の外を見遣った。
 眺めていたら、洗濯物を干していないのに気づいた。洗濯機の中でヨレヨレになり濡れたままの下着や上着を取り出し、ベランダに出て竿に干した。
 夕方のバイトまでやることがないので、池袋に繰り出してみた。電車を使っていった。
 駅で電車を降りると、夏休み前なのに、やたらと学生が目立っている。試験が終わった頃なのかなと思った。
 化粧を施している高校生などは、大人顔負けの子もちらほらいて、若いんだなあ、とつくづく感じた。一〇年以上前の自分の高校時代と比較して、地味でモテなかった当時を振り返り、いまあの若さが僕にもあったなら、町中で若い女に声を掛けているだろうか、などと空想してみる。
 僕の好みは、一見おとなしそうでいて、少人数になると弾けて明るく振る舞うような、ポップコーンのような女だった。でも、そういう子はなかなか町を歩いてないんだよな。ぼやきながら、すれ違う女の品定めをして歩いた。
 カンカン照りの暑さにまだ体が慣れてなくて、適当なビルに涼みに入った。ビルは外も中も白を基調にして清潔感に溢れ、上から下まで全階がファッションの商品をきれいに陳列していた。
 しばらく服も買ってないな。こんどは、服のウインドウショッピングになった。夏の服は、基本、白か黒の安めのティーシャツで間に合ってるから、なかなか新しいものを買おうという気にならない。ぶらぶら歩いて回っているうちに昼時になった。
 近くのマクドナルドでハンバーガーを食べた。
 そのあと、映画を観てから電車に揺られ、最寄り駅で降りて神社まで歩いてみた。都会の喧騒を打ち消したかったのと、恋愛成就を叶えたいという二つの理由からだった。先日訪ねたときに、僕だけが気づいたのかもしれないが、神社の裏手にある小さな祠の石段にハート型の小石が落ちているのを発見した。だれかが細工したのかと思うほど自然に角が取れ、上の中間点あたりが窪んでいた。だれかに知られると殺到されるのを恐れて、だれにも言ってない。今日もあるかな、と期待してお参りすると、祠の大小の石の中にあった。形はいびつで小さく、色はベージュだから目立たない。なんとなくニヤニヤ顔になった。
 神社にお参りしたあと、自宅に戻った。
 玄関を開け部屋に入ると、むっとする暑さに耐えきれず、すぐにリモコンを探し、冷房をつけた。ベッドに寝そべり、漫画雑誌を読みふけった。古い漫画雑誌の見てない作品を見返し、バイトまでの時間を潰した。
 夕方、『吉太郎』へ行き、タイムカードを押して、いつものように仕込みを担当した。
 夜になり、七時過ぎぐらいから客が入り出し、ホールも忙しくなった。その日は、とくに事件も仕事のミスもなく、平穏無事に仕事を終えた。
 帰宅して、絹代に餌をやり、深夜のテレビを観て寝た。
 次の日の昼前、アパートの入口で、向こうから来たナリスギさんとばったり出くわした。
「こんにちは。これどうぞ」
「なんのこと?」
「この前のお礼よ。で、猫のフードにしたの。これでいい?」
 ナリスギさんは、マグロの缶詰やサーモンのドライフードなどを入れたポリ袋を見せてくれた。
「わざわざありがとう。助かるよ」僕は礼を言い、「ところで、ナリスギさんて、ふだんなにしてるの?」
「ここに越してくるまでは福祉関係の仕事をしていたわ。だから、落ち着いたら、この町でも同じ仕事を探そうと、今朝も求人を検索していたのよ」
「一昨日の仲間も、福祉関係の同僚?」
「一昨日のみんなは違うわ。高校からの同級生。ねえ、田之倉さん、彼女いる?」
「いないよ。どうして?」
「なんとなく」
「おれは真面目だからモテないよ」
「たしかに遊び人には見えないわね。性格も悪くないし」
 そんなふうに見えるんだ。僕はちょっと驚き、肩を揺らした。ナリスギさんは唐突に、
「私、田之倉さんみたいな人となら付き合ってもいいって思うわ」
「つ、付き合う?」
「介抱してくれたし、猫も飼ってるし」
「猫は、ただ拾ってきただけだよ」
「とにかく、いないのならチャンスね。バイトのないときにちょっと話できる?」
「じゃあ、来週の土曜日の昼にでも。それでいい?」
「いいわ。わかった。約束ね」
 ナリスギさんは腕から袋を外し、こちらに手渡した。
 意外な申し出だった。
 積極的にアプローチするタイプかと思い、顔が火照った。その場でメルアドを交換した。
 彼女は先に階段を急ぎ足で上がった。僕も遅れて階段を上がり、自宅に戻った。心臓の鼓動が聞こえてくるほどドキドキしていた。ポリ袋を玄関に置いてから、昼飯を買いにアパートを出た。
 角を曲がると、道路に猫がいた。野良猫で、黒かった。まるまると太っていたが、きょう初めて見た。黒い猫は、しばらくこちらをじっと見たかと思うと、悠々と歩いて溝のふたの下にもぐり込んだ。そこが涼しいのか、安全なのを知っているのだろうか、と思った。
 次の日も、黒い猫を見かけた。こんどは近くで見たが、昨日の猫かどうかはよくわからなかった。いずれにせよ、昨日も今日も、黒い猫がこの近くにいる。その事実だけは確かだった。黒い猫は、隣の一戸建ての住居のカーポートに入り、停めてある銀色のセダンの床下に身をかがめて入っていった。なるほど、ここも安全で涼しいのかもしれない。
 僕の部屋の壁にはピンク色をしたポスターが貼ってある。マリリンモンローのアートポスターだ。顔が四つある代物で、睫毛のとても長くセクシーな流し目を送るモンローたちがこちらを見ている。その派手さが小汚い部屋を明るくしていた。
 とくにモンローのファンでもないし、映画をレンタルして観たとか、写真集を持っているわけでもない。
 ただ、白い壁に掛け時計しかなく殺風景だったので、けばけばしいポスターを店で見つけたとき、これが居室にふさわしい、これしかないと心踊らせ、衝動買いをした。
 部屋に上げた友人は、男だと、決まってニヤニヤ笑いながら、
「これでしてるのか」
 と小突いてくる。違う、違う。そんなんじゃねえよ。きっぱり否定するけれど、確かに妖艶ではある。
 はるか昔に世の男らを虜にしたハリウッド女優は、猥雑な部屋にうってつけで、オードリーヘップバーンでは上品すぎる。
 たとえはあてはまらないが、奈美ちゃんがモンローに近いとするなら、ナリスギさんはヘップバーンの方だろう。奈美ちゃんがスカートをはだけるわけでも、とりたててセクシーなわけでもないが、うちの焼き鳥店ではマドンナであり、セックスシンボルになっていた。
 この三日間ほど、絹代を通して親しくしてくれるナリスギさんは、僕の機嫌を上向きにしていた。会って話す約束も交わした。
 それをだれかが察知したのか、焼き鳥店で、僕に彼女ができたと噂が立った。
「いや、違うんだ。飼い猫の面倒をみてくれるんだ」
 とりあえず交際を否定して、うその言い訳もしてみた。それで収まると思っていたら、
「私も猫が好き。こんど見せてよ」
 と奈美ちゃんから頼まれ、
「機会があればね」
 曖昧な答えをしておいた。
 その翌日、奈美ちゃんとコンビニでばったり鉢合わせした。タノッチの家に行きたい、猫見たい、触りたい、とねだられた。
 猫目当てか。絹代に嫉妬したが、奈美ちゃんを連れて自宅に戻った。
 靴脱ぎで白のサンダルを脱いで、彼女は僕の居室に上がった。
 ワンルームの部屋に大人二人が入るとあらためて狭いなと思った。居室はあいかわらず、雑然としていて散らかったままだった。
「汚いけど、適当に座りなよ」
 僕は言うと、冷蔵庫に向かった。冷蔵庫からよく冷えた茶のペットボトルを出した。きれいなコップを二つ棚から出して、茶の入ったペットボトルと一緒にトレイに載せて居室に戻った。
 奈美ちゃんは黄色のシャツに白のスカート姿でベッドに腰かけていた。
「猫はどこ?」
「絹代は……。あれ? どっかに隠れたかな? とりあえずお茶でも飲みな」
 ほうじ茶を奈美ちゃんに勧めた。
 ここで、いやらしい漫画ならばわざとスカートにこぼして脱がせて、となるんだろうな。いやらしい妄想をして生唾を飲み込んだ。現実は甘くなく、からのコップを卓袱台に置いてペットボトルの中身をなにごとも起きないようにつつがなく注いだ。
 奈美ちゃんはその辺の食べ終わって汚れのついたカップ麺の容器やメモ、雑誌、漫画のたぐいをどかしてカーペットに座り、コップのほうじ茶を二口ほど飲んだ。
 その日は金曜日の朝で、テレビも若者の観るようなものはなにもないのに、奈美ちゃんは、
「テレビは? つけてよ」
「なにもやってないよ」
「いいから、早く。一緒に観よう」
 女の考えていることはときどき理解不能になると思いつつ、リモコンを探して部屋の隅のテレビをつけた。
 案の定、つまらないテレビ通販番組を奈美ちゃんは選び、無言で見つめている。画面では中年の男が調理器具を操作しながら女のアシスタント相手に、のべつまくなしにべらべらと喋りつづけている。僕も付き合わされた。なんだろうか、この展開は読めないな、と思っていた。画面が変わり、後片付けも簡単で、出し入れ自由なんです。感想を述べる中年夫婦の会話が部分的に耳に残り、妙に卑猥に聞こえる。
 いつの間にか画面がCMに変わり、奈美ちゃんは急に僕の方を向き直った。声を上げる間も与えず、顔を覆うようにして近づき、口づけをしてきた。
 あっけなく、しかし、大胆な手口に驚かされ、どこかにいた絹代もニャアニャアと囃し立てるように啼いた。テレビは、この番号にお電話下さい、と番号を連呼していた。
 このとき、もしも昼間でなければ、いや、もっと気持ちが恋愛をしようという衝動に傾いていたら、さらに先へと進んだだろう。
 しばらく頭が真っ白になり、あたふたしていたら、奈美ちゃんは立ち上がって玄関へ行き、サンダルを履いて帰ってしまった。
 なにが悪かったのか、いや、どこかがよかったからキスまで漕ぎ着けたんだ、などと心は乱れ、絹代のお陰も忘れてしまった。あとで冷静になると、家へ上がるための単なる口実に過ぎなかったのだろうと推測した。
 絹代もニャアニャアと冷やかすように啼いていた。
 その日の夕方、仕事に行き、仕込みをしていたときだった。マネージャーから、「田之倉、ちょっと来い」と裏口に呼び出された。
「これは俺と関係ないことだけど」
 マネージャーは奥歯にものが挟まったようにもったいぶった。
「なんすか。仕事すか。だれか辞めるんすか」
「奈美ちゃんがな。田之倉と付き合いたいらしい。本人から俺にことづてを頼んできた」
「え?」
 僕は思わずのけ反り、訊き返した。さも、なにもしてないような素知らぬ顔を装って。
「奈美ちゃんと付き合ってやれ。女を泣かすような真似はするなよ」
 マネージャーはそう言うと、踵を返して店内に消えた。
 その場にひとり残され、僕は首をひねらざるを得なかった。
 あれほどこちらからの誘いを拒んでいたくせに、今日になって僕の部屋に上がり、有無をいわせずにキスをした。しかも、周囲に知られても平気なのか、マネージャーに伝言を残し僕と付き合いたいとは、どういう意味だろう。
 理由を訊こうと思わなかったが、僕はすこし弱った。弱りながら、目尻が下がった。モテているのだ、この僕が。ナリスギさんといい、奈美ちゃんといい、一度に二人の異性から愛されている。夢のようだが、夢ではない。体が二つあれば、二人同時に付き合いたかった。どちらも魅力的だから。
 けれど迷ってしまった。マネージャーからは、女を泣かせるな、と釘をさされている。奈美ちゃんとはもうキスをしてしまった。しかし、彼女は、僕がナリスギさんとも親しいのを知らない。知らないかもしれない。知っていて、外堀を埋める作戦に――。
 それは考え過ぎだと思った。しかし、これはどうしたものか。二股をかけるわけにもいかない。となれば、どちらかを断り、ひとりの女に絞るしかなかった。
 二六年も生きていれば、特別なことも起きるもんだ。妙に感慨深かった。
 しかし、この職場には男がたくさんいるのに、またどうして僕のような冴えない男を選んだのだろう。どこがよかったんだろうか。
 エイプリルフールでも、ドッキリでもないよな。とりあえず、あえて返事はせずに、しばらく様子を見てみるか。
 ナリスギさんから交際してもいいと言い渡されたが、あれこれと理由をつけて先延ばしすることにした。奈美ちゃんの方も、どう出てくるのかもうすこし相手の言動を待ってみよう。なんだか、じらして餌を与えないペットの主人になったようで、鵜と鵜匠の立場が逆転し、痛快だった。
 なんとなく、僕の頭の中に、意地の悪い悪魔が棲みついた気がした。
 マネージャーから言づてを聞かされたその晩、バイト中に素知らぬ顔をして、いつものようにホールの接客をこなしながら、チラチラと奈美ちゃんの顔を盗み見た。
 彼女は恥ずかしそうに視線を避け、客にオーダーを取りに行ったり、レジを打ったりしていた。
 その状況は、僕を、奈美ちゃんの心を弄ぶ堕天使のような気分にさせた。ある意味、気まぐれな天使、残酷な天使気取りになった。
 しかし、正直なところ、困っていた。本当に困っていた。どちらと付き合うかということ以上に、いままで付き合ったことのないタイプの女とどう付き合っていいのかわからなかった。そのときははっきり意識してなかったが、いったん好き同士になったら、とことんのめり込んで、終わりまで飲み込んでしまう、ブラックホールのような自分の純粋さに気づいていたのかもしれなかった。
 スマホでいろいろ検索しているうちに、偶然、AIと出会った。『モンロー』という名の人工知能アプリだった。
 モンローにこれまでの恋愛事情を話して説明すると、
「あなたは恋愛に関して奥手です。相手のよいところを見つけて、そこだけを見ればもっと好きになれるはず。いったん恋に発展すれば、相手しか見えなくなり、どんなことでも許せるようになりますよ。頑張ってください」
 と恋の進め方を、ハートマーク三つの評価をつけて指南した。
 最近のAIというのは、奥手だの、相手しか見えなくなるだのといった分析ができるのかとすこし驚いた。
 奈美ちゃんは、キスをしたから僕を落としたと思っている節があった。
 それなのに、その日の夜も翌日も、ツンデレで暖簾に腕押し状態の僕に、やはりじれ出した。
 それが証拠に、奈美ちゃんはラインで誘ってきた。
《花火だけど、やっぱり二人きりで行きたい。お願い。一緒に行こう》
 切ない乙女心に訴えて、距離を縮めたがっているのが手に取るようにわかった。肉食系女子という言葉が脳裏をかすめた。
 じらそうと考えたけれど、僕の悪魔は、好きなようにしろ、とそっぽを向いた。
《とくに手を出さないけど、花火、行ってあげるよ。どれがいいか、調べてみてくれ》
 こちらから命令するのは気分がいい。
 一時間後、返事が来た。
《横浜の花火大会にしましょ。それでいい?》
《ああいいよ。楽しみだね》すぐに返事を返しておいた。
 こうなったら、奈美ちゃんの方を先行させるしかなかった。ナリスギさんとは、バイトの非番の日、翌週の水曜の昼にカフェで会って話をするだけで済まそう。その週末の日曜の夜に奈美ちゃんと花火を観に行く。実に忙しい。
 さっそくナリスギさんのメルアドに、《会うのは来週の水曜にしよう》とメールを入れた。
 ナリスギさんとは奈美ちゃんのキス以来、不思議と顔を合わせなかった。
 水曜日が来た。絹代に餌を充分与えた。お腹をすかせないように、と。
 朝の一〇時過ぎに、玄関で呼び出し音が鳴った。
 ドアを開けると、真っ赤な口紅を引いたナリスギさんが、薄いブルーのロングカーディガンに白のワンピース姿で立っていた。
「おはよう。迎えに来ちゃった」
「じゃあ、行こうか」
 僕は玄関を出て鍵を閉め、二人で階段を降りた。
 電車で新宿まで出た。平日の午前中でも、社内は人で混んでいた。新宿駅はさらに輪をかけていっぱいの人で溢れていた。
 駅南口のカフェに入った。
 店に入り、壁際の席に向かい合って座り、二人ともアイスコーヒーを注文した。
 ナリスギさんがさっそく口火を切った。
「田之倉さんのこと、なんて呼べばいいかしら?」
「どう呼んでくれても」
「タノッチじゃ軽そうだし、名前からとって、ジョーでいい?」
「ジョーか。悪くないな。ナリスギさんのことは?」
「下の名前で呼んで」
「じゃあ、レイちゃん」
「ジョー、私ね。前の勤め先でいじめにあってね」
 そこで、ウェイターがアイスコーヒーをトレイに載せて運んできて、コースターを二つテーブルに置き、その上にアイスコーヒーのグラスを並べた。
 いったん話が途切れ、ウェイターが去ってから、つづきが始まった。
「いじめられたのよ」
「だれにいじめられた? 先輩か? それとも上司?」
「あとから入ってきた年上の職員なの。どちらでもないわね」
「どんなふうに?」
「私に相談する体を装って、難しい仕事を丸投げしてきた。他にもいろいろと」
「それで、レイちゃんはどうしたの?」
「私は、それはあなたの仕事でしょって割り切りたかった。でも、上手にかわされた。男だったし、力仕事や会議やほかの仕事に駆り出されるからって」
「で、どうなった?」
「私は逃げた。けっきょくね。できません、って上に言ったわ」
「周囲の反応はどうだった?」
「最初は親身に聞くふりしてたけど、だんだん私に問題があるみたいに扱ってね。距離を置かれて孤立しちゃった」
「それはつらかったろう。でもさ、同じ仕事に就くなら、またどっかで顔を合わすかわからないじゃないか」
「そうなの。そのときは無視しようと思うんだけど、ジョーならどうする?」
 だんだん、話が真面目で深刻そうになってきた。僕はひと口、アイスコーヒーをストローで飲み、腕組みをして、
「かわすしかないんじゃないか。相手の男と目を合わせず、知らんぷりして」
「かわす、か」
「状況にもよるけど、あまりいじめられたって深く考えないことが大事だと思うよ。だれだって、仕事で嫌な経験ぐらいするし、苦手な相手がいたりするものだ。そう考える方が楽だよ」
「さすが、ジョー。いい助言をありがとう」
 レイちゃんは、初めて会ったときのような明るい笑顔に戻って、僕の瞳をじっと見つめてきたので、どぎまぎした。
 あとから聞いた話では、同じ愚痴を『吉太郎』でも友人に打ち明け、解決しないまま、悪酔いしたらしい。悪酔いというのは、レイちゃんは、愚痴をこぼしたのは覚えているが、友人からなんと言われたかは覚えておらず、友人らがあとでそう述懐したのだった。
 レイちゃんがトイレに立ったので、待っているあいだを利用して、その隙にモンローを起動して、
「このあと、なにを喋ればいいんだ?」
 と訊ねた。モンローは、
「どういう状況ですか」
 と訊いてくる。空気を読めよ、と思いながら、僕は、
「レイちゃんがいじめられて、その相談を終えたところだ」
 と小声の早口で説明した。さいわい、レイちゃんはまだ来ない。
「つまり、会話が途切れて、次になにを話したらいいか、教えろよ」
 僕は少し乱暴な口調で訊いた。
「会話が終わったのなら、あなた方の過去や家族について話したらどうですか? 相手との距離も縮まるはずですよ」
 モンローは、とうぜんとばかりに答えた。
 レイちゃんがトイレから戻ってきた。僕はスマホを机に伏せ、なにごともなかったかのように、モンローの助言を信じて、互いの高校時代や家族の話をした。
 レイちゃんには二つ違いの妹がいて、仲がいいらしかった。姉妹そろって東京へ進学し、妹はいま大学四年生らしい。両方とも大学生の頃は、同じマンションの部屋で同居していたが、レイちゃんが仕事に就いてからはそれぞれ別々に暮らしているという。
 僕は、建築士の兄がいて結婚して地元にいること、三〇を過ぎたら地元に帰って、父の経営する温泉旅館の仕事を手伝うことなどを喋った。
 気づくと昼を過ぎていて、店を変え、すこし遅めのイタリアンのランチを食べた。
 レイちゃんは仕事の話をしないときは、笑顔の素敵な女だった。もう一度、酔っぱらってくれないかなと、下心をのぞかせたら、顔に出たのか、
「ちょっと、もお。いま変なこと考えたでしょ?」
 と女の勘で、胸の内を見透かされた。僕は真面目くさった顔つきをして、
「ちがうよ。レイちゃんの将来を真剣に考えていたんだ」
 と心にもないことを言い張った。
「本当に? うそだとしても、半分うれしいけど」
「うそじゃないって。誓ってもいい」
「まあいいわ。このあと、寄りたいところがあるの。付き合ってくれるわよね?」
「もちろん」
 僕はレイちゃんのしもべになるのか、と妻に頭の上がらない夫の役回りを覚悟した。
 新宿高島屋に行き、まずは靴選びに付き合った。体の大きいレイちゃんは、とうぜん靴のサイズも大きめであり、かわいいデザインの靴がなくて嘆いていた。さんざん見て回ったあげく、けっきょく靴は買わなかった。
 靴の置いてある二階から六階にエスカレーターで移動し、次は服選びに移った。ここは大きめの服を置いてあるから、とレイちゃんは秋物の服をいくつか品定めして選び、「これ似合うかな」と言うので、「似合うよ」と無難に返答しておいた。それで、ベージュと黒の二色カーディガンを買った。最後に一〇階に行き、バス用品で、ローズの香りのボディーソープを買い求めた。ついでに、と言って、寝具のコーナーにも足を運び、いろいろな枕の寝心地を試してみて、浅田真央ちゃんのエアウィーヴの枕いいわね、と言いつつも、それとテンピュールの枕のどちらにしようか迷って、テンピュールの方を買った。僕はどっちだってよかったし、個人としては、北欧メーカー、キタニのソファーの座り心地を試したかったのだが、レイちゃんから離れられなかった。見えないリードをつけられた小型犬のような絵が頭に浮かんだ。
 新宿高島屋を出て通りを歩いていると、街路樹が目にとまった。歩道の街路樹は、樹皮が迷彩柄のように剥げ落ちている。
「脱皮しているみたいな木だね」
「これ、プラタナスの木よ」
「プラタナス。聞いたことはある名前だな」
「葉に特徴があるの。三つにとんがってギザギザしているのよ」
「たしかに三つにとんがってる。詳しいね」
 僕は街路樹の葉っぱを見つめて言った。
「私の前の職場で植物に詳しいおじさんがいてね。いろいろ教わった」
「やっぱり、街路樹に多いのか」
「そうね。あと、新宿御苑にもプラタナスの並木がずーっとつづいてる場所があるわ」
「新宿御苑か。ちょっと行ってみない?」
「いいわよ」
 高島屋を出てから一五分ほど歩いて、新宿御苑までやってきた。スマホの画面では、もう三時半を回っていた。チケットを二枚買い、ゲートでかざして中に入った。
 新宿御苑は新宿の東にある広大な憩いの公園だ。
 僕は都会のオアシス的なところは好きだ。
 ベンチはすでに人で塞がっていた。けっこう外国から来た観光客で賑わいをみせていた。
 僕らは園内の広大な芝生の上に座った。けれど、夏の西日が強くて、すぐに木陰の芝生に移動せざるを得なくなった。
 夏場だけ六時半閉園だから、二時間ほどいられた。
「気持ちのいい芝だね」
 僕はレイちゃんの隣で喋り掛けた。
「とてもいいわね。空気が爽やかだわ。ときどき吹く風も涼しくて気持ちいい」
「ここ、何度か来たことあるの?」
「きょうで二回目かしら」
「そうなんだ。東京にいても意外と来ないよね」
「ジョーは、東京に住んで何年?」
「おれは、もう七年になるかな」
「長いわね。ずっと同じ町に住んでるの?」
「いやさすがに、それはない。三回は引っ越したよ。最初は高島平に住んで。それから赤羽だろ。社会人になって、会社員時代は北千住に移った」
「どこがよかった?」
「どこだろう。赤羽かな」
「赤羽ね。いいわよね。住んだことないけど、友だちに訊くと、交通の便がいいって」
「それが一番かな。あと、買い物にも困らないし。レトロ感っていうか、昔の風情が残ってて安心するよ」
「私も引っ越すときに、いろいろ条件を考えて絞ったんだけど、時期が夏でしょ? 空き物件がこっちにしかなくて。それで、西武池袋線の石神井公園に決めたの」
「そうだったのか。のんびりした、いい町でしょ?」
「のんびりしてるわよね。急行が停まる駅なのに、大きな公園があって緑も多いし、スーパーも豊富だし」
 僕はなんだか自分が褒められている気になって、こそばゆいような感じがした。石神井公園駅を選んでよかったかなと思った。
 涼し気な一陣の風が顔を撫でていき、あんまりにも気持ちよくて僕らの会話は途切れた。
 なにか気を利かせたことを喋ろうかと考えていたら、レイちゃんの方から、
「さっき言ってた温泉旅館ってどこにあるの?」
「旅館は、日光の近く。鬼怒川ってわかる?」
「聞いたことはある」
「栃木県に鬼怒川温泉という場所があって、その川沿いの温泉旅館なんだ」
「老舗?」
「まあその部類に入るかな」
「じゃあ、学生の頃からゆくゆくはそこに勤めるつもりだったの?」
「まあね。会社勤めは経験しておいた方がいいと自分で判断したんだ。本当に短いあいだの期間だったけれど、営業を経験して学んだことは旅館にも活かせそうだし」
「いまのバイトは?」
「焼き鳥店のバイトは、まあ接客の練習にもなるし、生活費を稼ぐ意味で」
「私、お酒には弱いけど、また飲みに行ってもいい? こんどは酔いつぶれないから」
「いつでも歓迎するよ」
 そう答えると、レイちゃんはフフフと笑ったので、僕もつられてフフフと笑い合った。
 気づくと閉園の時間で、出口に向かった。
 帰りの車内で、疲れていたレイちゃんは、立ったままで僕の肩に首を凭れて眠り込んだ。
 最寄り駅に着いて、アパートまでの道のりが遠く感じられた。なにも喋らないレイちゃんはよほど疲れていたのかと思ったが、ピタリと体を寄せてきたので手をつないで帰宅した。
 その夜は新宿で話したことを振り返り、気分がハイになって寝つきが悪かった。
 絹代に、
「キヌちゃん、おれモテているのかな。奈美ちゃんとレイちゃん。どっちがおれに似合いだと思う?」
 ニャーゴ、ニャーゴ。猫の言葉はわからないが、ふだんとは啼き声が違った。それくらい自分で決めなさいよ、とでも言ったのか。絹代は呆れて咎めるように、大股ですたすたと廊下を歩いてベッドの下にもぐり込んだ。
 平凡でなにごともなく、四日が過ぎた。

第二話

 当日の朝が来た。今日は日曜日で、ふだんなら夕方からバイトの日だったが、マネージャーに頼み込んで休みをもらっていた。
 朝早く目覚め、いつもの「儀式」を済ませてトーストを牛乳とともに胃に流しこんだ。
 東京都練馬区議会議員、区長選挙が第二日曜日の一四日にあった。横浜花火大会の日と重なり、僕としては珍しく、朝から選挙投票所へ出掛け、一票を投じてきた。
 昼過ぎにJR桜木町駅で奈美ちゃんと待ち合わせた。彼女は、白の長袖の上着にデニムの短パンの出で立ちで麦わらのバックを手に持ち姿を見せた。
 花火は夜の七時半から三〇分だけだったので、夜までたっぷりある時間を奈美ちゃんと二人きりで過ごせた。
 山下公園を散策し、休憩をはさみながら中華街を歩いて、港の見える丘公園まで足を伸ばして、最後にまた山下公園に戻ってきた。
 青い空は澄み渡っていた。もし空がキャンバスだったら、白い足跡をつけて汚してみたくなるほどだった。
「天気いいね。町もいいし。横浜にしてよかったな」
 無言でうなずく奈美ちゃんの顔に、揺らめく水面に反射する乱れた光が、薄い縞模様を作っていた。
 中華街に入り、タピオカ入りミルクティーとパンダまんを買って歩きながら食べた。僕はチョコカスタードのパンダまんを選び、奈美ちゃんの買ったイチゴ味のピンク色のとちぎって交換し、食べ合った。初めて口にしたタピオカはプルプルして、グミをやわらかくしたような食感が口に残った。
「私もチョコカスタードにすればよかった」彼女はすこし拗ね気味だった。
 港の見える丘公園まで来ると緑が生い茂り、草から出るにおいが青くさいけれど、清々しさを醸していた。緑のにおいを嗅ぐとなんだか安心できるのは、自分が田舎育ちだからだろうか。
 ともあれ、日向にずっといても暑いので、二人で木陰のベンチに座った。
 夏の陽射しが届かず、すこしだけひんやりして、海風が涼しさを増幅していた。丘から望む景色は最高によかった。広々としていて爽やかで、港を包み込む一幅の絵を見ているようだった。
「横浜の景色って、本当にいいよね、きれいで。海から吹く風も気持ちいいし」
「都会に住んでると、たまに海を見に来たくなるわね」
 奈美ちゃんは長い睫毛を上下させ、屈託なく笑った。白い歯が口からのぞき、大きな目で僕と海を交互に見つめた。
 港に接岸している大きな客船が見えた。停泊しているその客船から、ボーっという汽笛が、とても大きな音量で鳴り響いた。びっくりするくらいの音の大きさだった。
 音に心が動いたのか、奈美ちゃんは過去の恋愛について喋り出した。
 初恋は一〇才のときで、自分から告白したのに相手にされなかった。他に好きな男がいて、片思いのときにかぎって別の男が交際を申し込んでくることもあった。友人の元彼を紹介され、付き合ったらいい男だったのに、友人に未練があり、けっきょく元のさやに収まった。
 奈美ちゃんのような愛くるしい女でも、けして恋愛が思い描いたとおりにうまくいくとはかぎらない。彼女のどこかが悪いのではなく、たまたま恋愛につきがないのかもしれないと思った。
 僕はなんとかして、奈美ちゃんの本心を聞き出そうと試みた。
「ちょっとトイレ行ってくる。待っててくれよな」
 僕は立ち上がり、公園のトイレへ入った。
 個室に入り、鍵を閉めて、スマホのモンローを起ち上げた。
「また、頼むよ。きょうは奈美ちゃんだ。彼女がおれのことを好きなのかどうか、本音を訊き出したい。どうすりゃいい?」
 モンローは、
「男らしく、本当に自分が好きなのか、と直球勝負で訊ねなさい。そのひと言を女は待っているもんです」
 自信満々な言い方がちょっと癪にさわった。
 横浜ベイブリッジが公園からどーんと目に入った。モンローのお告げを信じて、ベイブリッジのように大きな心を持ってぶち当たろうと思った。
「奈美ちゃん、この前キスしたけど、本当におれのことが好きなのか」
「あたりまえじゃない。そうじゃなかったらあんなことしないし、ここまで来ないわよ」
「好きならうれしいよ」
 本音が聞けて、ひとまず安心した。そのあとの言葉がつづかなかった。
 ちょっと掌が汗ばんできた。
「私のことは好き?」
「ああ、好きだよ」
 照れて声が裏返った。お互いわかっていることを、わざわざ声に出して確かめ合うことほど恥ずかしいことはなかった。
 熱を感じた。夏の暑さだけではなく、隣に好きな女がいるというだけで体が熱を帯び、座っているプラスチック製のベンチまで溶け出してきそうなくらいだった。
 どうやって夜まで持たせようかと考えていたら、彼女の方から、
「花火のあとどうするの?」
 と訊いてきた。明日はどうだろうかと予定を思い出し、月曜だから僕は非番だけど、奈美ちゃんはシフトが入っているはずなので、
「明日はバイトだろ?」
 と言ってしまい、しまったと思った。
「そうそう、仕事だった。明日は月曜だよね。私とシフト違ってたっけ。残念だけど、帰らなきゃ」
 と現実を突きつけられた。どこかに泊まっても構わないつもりでいただけに、男としての楽しみが半減した。押しの弱さが出た。ここは、勢いのままに泊まっていこうよと強く誘うべきだったとあとで後悔した。
 がっかりした気分を切り替え、バイトの話が出たのでちょっと心を落ち着けようと、仲間の悪口を言ってみた。
「上元ってさ。すっげえ、いい加減なの。がさつって言うレベル。ネギを切るときさ、まとめて切るんだけど、五、六本並べて、ガンガンて、まな板に叩きつけてぶつ切りするの。ほんと雑だよな」
「でしょ? 私もそれ見て、同じことを思った。三本ぐらいずつでいいのにね。ああいう男の人って、絶対コスパを重視していて、能率の悪いことを嫌がるのよ、きっと」
「接客見てても、めったに客席にオーダー取りに行かないし。チーンて呼び出し音が鳴っているのに忙しいふりして、他のホールがオーダー訊きに行くまで待ってるんだよな。傍から見たら性格悪いって思われてもしかたないぜ」
「まあ、ある意味、若いっていうか、いまどきかもね。その点、タノッチはまめね。常に客の動きを見回していて」
「そうかな。普通にマネージャーに教わったとおりにしてるだけだけど」
「その真面目さがいいのよ」
 真面目だと持ち上げられ、気分がよかった。ただ、上元のいないところで陰口を叩いたのは、話をつづけたいためとはいえ、本当のところ少し心が痛んだ。でも、それでこそ人間らしいのだ、と不完全でだめな僕の一部にかえって高い評価をつけた。
 どうやら同じ職場のことを話題にすると、二人きりの気まずさがなくなる様子だった。
 会話が噛み合い出し、いま放映しているテレビドラマの話や、最近観た映画や漫画などについて話し合った。
 調子づいて、彼女の秘密を訊き出そうとした。
「ひとに言えない秘密って、この場で言える?」
「えー。私……」奈美ちゃんはそう言って、すこしもじもじして、「まずはタノッチから言ってよ」
「おれか。実は、肩のほくろに毛が生えてきて」
「それはほくろ毛っていうのよ」
「めっちゃ恥ずかしくてさ。抜きたいんだけど」
「だめだめ。それは抜いちゃだめなの」
「どうしてさ?」
「皮膚を傷つけるとかっていう話よ」
「本当なのか」
「うそ言わないわ。はさみでカットすれば?」
「わかった。そうするよ」
 僕はいいことを聞けたと思った。ラッキーだった。
「次は奈美ちゃんの番だよ」
 奈美ちゃんは、まだ言おうか言うまいか、躊躇していた。
「だれにも言わないでよ」
「言わないから、おれだけに言ってみな」
「おとなになってからだけど、最近までビジュアル系バンドの追っかけをしていたの」
「意外性がある。ぶっ飛びだな」
「嫌いにならないでね」
「ならないよ、それぐらいでは。なんていうバンド?」
「『まみれた』っていうバンド」
「知らない。何人組?」
「四人」
「どんなふうなの? 服装とか髪形が強烈とか?」
「うまく言えないわ。見た目は化粧して、ライブは――」
「なに?」
「なにが起きるかわかんないってよく言われる。私も同感」
「具体的には?」
「ライブ中、プロレス技をしたり、観客席に入ってきて、椅子の上を跳ねてみたりするの。それ以上は言えない。ネタバレになる」
「そうなんだ。昔から、そっち系の追っかけが好きだった?」
「そうね。高校時代、クラスの友だちに誘われて観に行ったら、衝撃が走ったわ」
「ひとにおススメできる?」
「むりむり。嫌われる」
「ビジュアル系の追っかけか」
 かわいさの裏に意外な穴がある――。
 心の中で呟いた。
「でも、若いんだし、なにごとにも興味を持った方がいいよね」
「ありがとう。優しいね」
 僕はふんふんとうなずいて、スマホを見たら、いつの間にか夜になっていた。
 写真撮ろうよ、と言って、スマホをこちらに向けて、二人で顔を寄せ合い、自撮り写真を数枚撮った。夜景モードにして撮った。
 さっきの秘密のばらし合いで、互いの心理的な距離はさらに縮まった気がした。
 そのとき、まだ薄青い夜空に、パーンとピストルを一発撃ったような軽い音が響いた。つづけてパンパンパンと軽めの音が連続して聞こえ、赤や青、緑、黄色などのさまざまな色の打ち上げ花火が夜空を独占するように彩った。
「すごーい。きれい」
 奈美ちゃんは歓声を上げた。僕も、すげえ、すげえ、と囃し立てた。
 花火をつづけて見ていると首が痛くなり、横を向くと、奈美ちゃんは熱心に夜空を見つめていた。
 花火は暑さを忘れさせるほどきれいで、ロマンチックでもあった。人気もそれほど多くはなく、家族連れよりカップルが多かったせいもあり、雰囲気に飲まれたカップルが周りのあちこちで口づけをし始めた。
 それに感化された部分もあり、この前のお返しをしたかったせいも手伝って、僕も無言で顔を近づけ、彼女の肩を片手で引き寄せた。奈美ちゃんは素直にキスに応じ、口と口を合わせた。唇は思っていたよりもしっとり潤っていた。彼女は目を閉じ口の中からニュッと濡れた舌を突き出し、僕も舌を突っ込む。待ち構えていたぬめりのある唇が、夢中でからめとるようにして僕の舌をしゃぶりまくる。まるで本能の命じるように、理性のかけらもなく、何秒間かは人の雌雄という特異な生き物にのみ許された崇高なしきたりが僕の心を虜にした。二つの別物が合わさることで、いつもなら感じられない陶酔に頭は痺れ、体は震えていた。
 そのあとは、互いになにをするでもなく、駅まで歩いて奈美ちゃんを最寄り駅まで送って帰った。
 それを上回る下心がなかったか、というとそうでもなかった。ただ、レイちゃんを放っておいて、これから無視しつづけていいものか、と心が揺れた。その引っ掛かりがあり、どうしてもそれ以上前進することはできなかった。
 最寄り駅からアパートまで歩き、一階の階段を上がるとき、レイちゃんとすれ違った。彼女は、
「あら……」
 と言ったまま降りていった。
 なにが、あら、なのかと思ったが、帰宅して鏡を見ると、口づけの紅が唇に付いたままだった。僕の口元を見て、感づいたのだろう。階段に青白い蛍光灯がついているのが恨めしかった。
 しまった、迂闊だった――。
 レイちゃんと親しくはなったけれど、完全に付き合っているわけでもないと思い込んでいた。浮気していると思われてもしかたなかった。
 レイちゃんは、田之倉さんとなら付き合ってもいい、と向こうから持ち掛けてきたのだ。相手の真剣な気持ちを無下にするのはよくない。そういう律儀なところが僕のいけないところなのかもしれなかった。
 僕を巡って繰り広げられる三角関係は、意外に長いあいだ均衡を保ったままで、夏の暑さがだらだらとけじめなくつづくのと似て、大きな変化や事件もないまま日にちだけが進んでいった。
 ふわふわした気持ちは、手を離れて空を飛ぶ風船のように、どこに着地するのかしれない状況で、無計画に風に揺られていた。
 奈美ちゃんとレイちゃんがお互いのことを知っているのか知らないのか、牽制しているのかどうなのかも知らなかったが、問い詰められないのをいいことに、僕は予定をやり繰りして惰性のままに二人同時に付き合っていた。
 レイちゃんとは、それから一度だけ、映画を観に行った。土曜日にバイトを休んで、映画を観て食事をしてアパートで別れるだけだった。どちらかの家に上がり込むことはなかった。レイちゃんは福祉の仕事を見つけ、七月の下旬から働き出したらしく、平日に会う機会は、朝のゴミ出しでたまたま顔を見るぐらいで、めっきりなくなった。
 一方の奈美ちゃんとは、焼き鳥店で金曜と土曜のシフトが同じときに職場で雑談するぐらいだったので、向こうからデートを申し込まれた。僕は日曜のシフトをまた休んで、二人で銀座に行った。買い物に付き合い、食事をして話をした。夜まで遊びたかったが、次の日は奈美ちゃんのバイトのシフトがあり、長くはいられなかった。
 母が癌に冒されていることを知らされたのは、八月九日の金曜の夜だった。
 晩の八時過ぎ、一度、スマホに着信があった。その時間はバイト中で一度目は出られなかった。バイトが終わり、着信に気づいて、夜の一時過ぎにかけ直すと、母が元気のない声で病気の説明をしてくれた。
「もしもし」
「ああ、おれ、譲二。母さんか」
「あのね、母さんね。大変なことになったんだよ」
「なにがあった?」
「驚かないでおくれ。癌が見つかったの。ステージ4よ」
「なんだって? それって……」
「末期の子宮癌なの。子宮を取ればいいけれど、他に転移するかもしれない、ってお医者様に言われたわ」
「そんな」
「でさ。治療するために入院するから、母さん、仕事つづけられなくなる」
「癌って……そんな」
「ごめんね。本当にごめん」
「なにも謝らなくたっていいよ」
「それで、女将がいなくなるだろ?」
 母さんは、温泉旅館の女将をしていた。
「譲二。おまえ、だれか女将になれるような子はいないのかい? 恋人とか」
「いないことはないけど。急に言われても引き受けるかどうかわかんないよ」
「そうだよね、困ったことになったわ」
「すまんな。母さんの思うようにはいかないかも」
「もし、母さんが死ぬようなことになったら、こっちへ帰ってきて、父さんと一緒に旅館の仕事を手伝っとくれ。女将はしばらく代わりの人でも立てるから。母さんの言いたいことはそれだけだよ」
「すぐ地元に帰るよ。闘病して、少しでも長生きしてくれ、母さん」
 ショックで電話が切れてしまった。
 突然の知らせは、家族を巻き込んで不幸のどん底に叩き落とした。
 絹代は寂しげにゴロゴロと喉を鳴らし、甘えてきたので、毛を撫でてやった。
 その晩はとても寝付けず、真夜中のコンビニに行き、缶ビールを二本買って帰った。
 ビールはよく冷えていた。ふだんは旨いと思って味わうビールも、その晩だけは苦味しか感じなかった。ビール二本を一気に飲み干し、酔った状態で無理に眠った。
 来週から盆休みで、店も三日間閉店になることがわかっていた。
 僕は意を決し、翌日、まず奈美ちゃんと会って説明した。
 バイトの終わったあと、従業員専用の通用口で奈美ちゃんが出てくるのを待ち受け、手招きして近くの公園に誘った。大事な話があるから、と言って。
 僕の顔を覗き込むようにしてきた彼女に、重い口を開いた。
「母さんが癌になってさ。来週、実家に戻るんだ」
「癌? それって、だいじょうぶなの?」
「だいじょうぶじゃないんだ。すごく重い。ステージ4だって。末期だから、死ぬかもしれない」
「それで?」
「おれはバイトを辞めて、地元の親の仕事を手伝おうと思う」
「なにをやってるの?」
「言ってなかったっけ? 温泉旅館なんだ。父さんが社長で、母さんが女将」
「じゃあ、女将のお母さんがご病気になると――」
「女将がいなくなるんだ。そこで、急な話だけど、女将になってくれる気はないか」
「そんなの無理よ」
「そこをなんとか。父さんや他の従業員も接客を教え込むはずだから」
「私は嫌よ。東京に憧れてるし、今もこれからもずっと東京で暮らしたい。たとえ、タノッチのお嫁さんになったとしても、田舎へ、知らない土地へ行って、女将をするなんて私には考えられない。できっこないわ」
 奈美ちゃんはきっぱりと否定した。
「わかったよ」
 僕は拳を握りしめ、うつむいた。奈美ちゃんの意思を汲んで、彼女との恋をあきらめることにした。はっきり別れようと告げなかったが、今回のことがきっかけになり、お互いに連絡を取らなくなった。
 レイちゃんなら福祉の仕事をしているのだし、デートの最中に家族のことも話したし、わかってもらえるかも、と淡い期待を抱いた。
 日曜日の朝、こんどはレイちゃんに同じことを喋った。
「ステージ4だと、かなり重いわよ。ジョーの妻になる準備もなにもしていないうちから、勝手に妻の座と仕事を決めるなんて横暴よ。少し考えさせて」
 と言葉を濁した。
 それから二日たって、
「やっぱり、私にはできないわ。重荷すぎる。ごめんなさいね」
「いいんだ、しょうがない」
「それと、だれかさんとの浮気の件もあるから、ジョーのこともはっきり言えば信用できなくなったわ。短い恋だったけど、さようなら」
 それがレイちゃんの口から出た最後の言葉となった。
 僕は失恋をした。同時に二人いっぺんにふられた。
 かなりショックだった。ぱっと燃えてぱっと散った。二連発の打ち上げ花火のようだった。
 奈美ちゃんとレイちゃんにふられた三日後、しばらく姿を見ていなかった例の黒猫が現れた。あのときよりほっそりしていた。小さな黒の仔猫を二匹連れていた。太っていたのは妊娠していたからだ、と今になって気づいた。
 雌猫は、安全な産み場所を知っていたのだ。人間に限らず動物でも、子孫を増やせるいい雄を選ぼうとするらしい。降ってわいた出来事とはいえ、僕は「いい雄」ではなかったようだ。彼女らを説得できる心意気が不足していた、とあとで振り返って思った。
 僕は母の病気の心配をしながら、片方で自暴自棄になる気持ちを抱え、地元の田舎に戻ることを決めた。
 バイト先には母の闘病で実家に帰ります、と伝えて了承された。
 マネージャーは、
「家族が癌になったのなら、しかたない。気を落としているだろうけど、家族に付き添ってやれよ」
 と温かい励ましの言葉をもらった。
 アパートの大家にも、住んでいる部屋の解約の旨を通知し、一月後に部屋を明け渡すことになった。
 絹代は神社に捨ててきた。
 あれほどかわいがっていた絹代を、造作なく手放した。もともと野良猫だからしかたない、と割り切った。達者で暮らせ、と祈った。
 もうどうでもよくなったが、モンローに恋の破局と今度どうしたらいいかを訊こうと思った。
「母が癌になって、地元に帰ることにした。女将になってくれる人も探さないといけない。二人の恋人はどちらもおれについてきれくれず、恋は終わった。この先、どうしたらいい?」
 モンローはしばらく黙っていたが、
「人生、いろいろ起きるもんです。女なんて星の数。そのうちいい出会いがあり、女将になってくれる人も出てきます。ケセラセラです。母の病気も含めて、なるようにしかなりません」
 なんだか、励まされているようであり、見放されているようでもあって、だんだん向かっ腹が立ち、アプリを終了させた。
 簡単な身支度をととのえ、自宅の鍵を閉め、駅へと向かった。
 駅の売店でお菓子と茶を買った。
 普通列車で東京を出発し、二時間もたつと、風景は田舎に変わっていた。
 列車は点在する家々や田圃の単調な景色の中を走り、ゴトゴトと枕木の音を立てて、僕を揺らしていた。
 お菓子を食べながらこれまでのことを振り返り、気づくと食べ終わっていた。とくにすることもなく、退屈しのぎにスマホを取り出し、ゲームなどをして時間をつぶした。
 弄んでいたスマホに、もう一度、このまま東京を去ることの是非を問うた。
「母の病気で東京を去ってよかったのかな。家族の病気と今回の二つの失恋って、関係あるのかな」
 と訊ねてみた。例によって、モンローは告げた。
「あなたは、いずれ地元に帰り、旅館を継ぐ身であるのは承知していたはず。それが母の病気で早まったと考えてください。失恋のひとつふたつ、たいしたことじゃありません。
 失恋をしてよかったのです。人に傷つくことで、やっと人として深く関われたから。人と関わることはいつも幸福をもたらすものではありません。相手やこちらの嫌な面をみせるときもある。でも、相手の気持ちを考え、ときには思いやり、うそをつくこともあれば、本心をぶつけてみることも、感情を押し殺すことも、感情を剥き出しにすることだってあります。
 今回の一件で、相手の本心がはっきりしたじゃありませんか。どんな状況でも相手を見捨てないのが、真の愛の姿です。
 異性を通して自分の気づかぬ姿を発見できたのは、きっと自分の生き方にプラスになるはずです。どうか失恋したことを前向きにとらえてください。あなたは、一月で成長したのです」
 よどみなく、堂々とした音声だった。
 人工知能のくせに小生意気なやつ、と思った。反発心が体の細胞を温めて沸き上がってきた。
「なにくそぉ」
 呟いた瞬間、大きな川が見えた。
 反射的に窓を開け、スマホを川に投げ落としてやった。
 モンローは視界から消えた。見えなくなった。川に落ち、濡れてしまえ。もう使いたくない。
「せいせいしたぜ」
 僕は薄ら笑いを浮かべ、窓を閉めた。
 ひと皮むけた気になった。
 冷たい機械より、人の温もりの方がよほど心が通い合う、と思った。機械の筋書きに憎悪と吐き気を催した。
 僕は、僕の感じたままに生きていく。恋や仕事に対して人工知能の助言などいるはずがない。そう思った。
 僕の中で、異質ななにかが回り始めた気がした。
 東京で過ごした七年を振り返ってみた。
 高島平に住み始め、大学生活がスタートした。仕送りだけでは生活がままならず、すぐに短期のバイトを入れた。授業の出席は厳しくチェックされ、講義は難しかった。
 夏になると、学友を誘って、荒川の土手に座って花火を見たのがいい思い出として残っていた。
 大学一、二年は長い休みのたびに帰省して、旅館の手伝いをしたが、三年になると就活で忙しくなり、それどころではなくなった。しかし、就活に失敗しても実家に働き口があるという甘えが、仕事を辞めてフリーターをする日々につながったのは否めなかった。
 それでも、レイちゃんに打ち明けたように、経験した営業の仕事から焼き鳥店のホール係に至るまで、働いたすべてが自分の血肉となり、未熟な部分をすこしずつ耕してきたんだと解釈した。
 車窓から見える景色は、陽光を受けて青々とした山肌になり、お盆にもかかわらず、普通列車はさほど混んでいない。
 この線路は、故郷の鬼怒川温泉までずっとつづいている。
 線路の向こうに見える景色は、どんなものだろうか。地元で暮らす高校時代の友人はいるだろうか。久しく連絡を取っていないし、電話は実家の番号しかわからない。でも、家族に会えるように、僕が地元にいつづければ、きっとだれかには会えそうな気がしてきて、それが楽しみでもあった。
 東京で過ごした最後の年に、すこしいい思いもしたが、これからがたいへんだった。
 母の病気を思うと、いたたまれなくなる。兄も父も仕事で忙しいだろうから、次男の僕が母のそばについて、介抱をせねばならない。
 まだ二五の僕にできることといったら限られているが、温泉旅館の手伝いの合間を縫って、母の病院へ見舞いに行く日々が待っているはずだった。
 さまざまな気持ちが去来して、列車がひと駅ずつ停車していくにつれて、故郷も近づき、本当に日光に足を踏み入れてもいいものなのかという不安が頭の中でぐるぐると渦を巻いた。なんだかひどく硬くて重い荷を背負わされるような圧迫感、それを包み込んで溶かしてしまいそうなほどの虚無感が心に刺さった。
 答えを求めて、モンローなどのアプリを起動した頃より、もっと自身が強い男にならなければならない。現実の世の中に、決まった答えなど存在しないし、自ら問題を探してきてそれに見合った答えを出さないといけない。完璧でなくていい。それが人の働く価値だ。そう思った。
 モンローか。あのアプリは、今ごろどうしているだろうか、川に水没して濡れ、知能も停止しただろうな。でも、もしかすると、モンローはだれかの掌の中で囁いていたのかもしれない。私を捨てる人間がいるなんて、どうかしてます。人類に、人工知能は必要なんです。人手が足りず困っているものたちに手を差し伸べ、社会に迷惑をかけるものたちを人工知能で安全に守れるのに、と。
 実際、田舎の川に落ちたはずの僕のスマホは、どこかの子どもが拾って、村の交番に届けられたという。
 もちろん、濡れたスマホは使えなかった。
 そのような状態のスマホを復元できるなんて、思ってもいなかった。
 交番の警察官は、ネットでスマホの復元法を調べて、中身を見られるようにまでしてしまった。実に、優秀な警官だとあとで思った。
 中を調べた上で、遺失物として処理したのは、警察官として正しいことだった。が、落とし主がだれかを特定できるのに、スマホの持ち主に電話をかけるようなことを警察はやらないとは知らなかった。
 あくまで、どこそこで落とした、とこちらから働きかけなければ警察は動いてくれないのだ。被害届を出さないものは、交番で保管されるだけだった。
 僕はなくしたスマホをほったらかしにしたまま、しばらくたってから、新しい他社のスマホを買った。
 そのとき、前のスマホに残した写真をだれかに見られたらまずいと思った。ナリスギさんとではなく、奈美ちゃんと写した写真が数枚残っているはずだった。
 子どもに見られても、どこかの警察官に見られても恥ずかしいことではない。ただ、故郷に帰ってきてから気になった。これから女将になるかもしれないだれかに、昔の彼女の写真が見つかると、なにを言われるかしれたもんじゃない。
 己の弱さに負けて、僕は日光の警察署に届けてみた。
 届けを出してから、二週間後のことだった。
 薄いブルーのスマホなら、川沿いに遊びに来た子どもが拾って、どこそこの交番にありますよ。
 新スマホの番号に日光の警察署から電話がかかってきた。
 ふ。まじかよ。驚きと謗りが胸の内から湧き上がった。
 不死身のスマホ、不死身の人工知能――。
 ただ、奈美ちゃんなどの見られたくない写真のデータを取り出してもらおうと、携帯ショップまで車で出掛けた。データの中身は、それらの写真以外、全部消去してもらった。ゲームも音楽も映像も、どれもあとで必要なら金を払ってでも手に入れられる。残した思い出の写真だけ、無理だ。
 もちろん、もうモンローのような人工知能だのアプリだのは必要なかった。女に迷うほどやわでなくなった。
 それが一〇年前のひと夏の出来事だった。
 晩夏に入院した母の手術は無事に終わった。
 秋になり、いったん東京に戻って部屋を片付けて荷造りし、違約金を払ってアパートを引き払い、栃木県の実家に引っ越した。
 その二年後、治療中の母は、医者が心配したとおり、手術して取り除いた癌が他に転移して、静かに病棟で息を引き取った。

 翌日、奈美は九時過ぎに赤いスーツケースを引きながら旅館をチェックアウトした。車を運転し、帰京の途に就いた。
 僕は彼女のことが気にかかっていた。話をした奈美の印象は、全体的に元気がなく、疲れている様子だった。哀れな表情に映り、世の中から消え入りそうに思えた。
 フロント業務が一段落した午前一一時過ぎ、一〇分間の休憩を取り、奈美のスマホに電話を掛けてみた。しばらくコール音が鳴り、三〇秒ぐらいして、電話が通じた。
「奈美。いま電話だいじょうぶか」
「ええ、都内に入ったところ。話せるわ」
「元気か? 昨晩は元気ないように見えたけど」
「だいじょうぶよ、ありがとう。私……」
「どうした?」
「婚約者がいるの。自分の気持ちに整理をつけるため、田之倉さんの旅館を訪ねた」
「そうだったのか。それで?」
「一〇年前、好きだった田之倉さんはあいかわらずいい人で。ちょっと安心した」
「それだけか。安心てなんだ? おれが妙な女と結婚してるとでも思ったのか」
「うん、まあそれに近いわね」
 奈美はおかしかったのか、笑いながら明るい声で答えた。
「お互い決まった相手がいるんだし、次に来るときは、旦那を連れて泊まりに来いよ」
 僕はいい人と言われて、ちょっと照れた。
「ありがとう。じゃあ切るね」
 奈美は電話を切った。短いやりとりだったが、そういう事情ならと納得した。
「譲二さん。きょうの予約は何名でしたっけ」
 従業員が声を掛けた。
「八名だったはずだけど。ちょっと確認してみる」
 慌ただしく仕事に戻り、パソコンで宿泊者の予約人数を確認する。
 もう、いつものフロント担当に戻っていた。
 僕は、奈美やナリスギさんのいた季節といまを比べた。若さゆえの自堕落な生活と一八〇度違ったいまの暮らしぶりには満足していた。
 よっし。大きな声を出して気合いを入れ、きょうも一日お客様を心からもてなそうと誓った。
                                      〈了〉

小生意気なモンロー

小生意気なモンロー

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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