片生(かたなり)

原口光陽

  1. 第一話
  2. 第二話

第一話

 幼いころから女を美しいと思ったことはなかった。親しみを持てるという意味では、母にしろ、小学校の女教師にしろ、その優しさに一種の安堵や甘美さ、包容力を認めていた。けれど、同級生の女はおしなべて村口に冷淡で、なにかことあるごとに角の生えた鬼のように手を腰に当て、村口をなじるのだった。村口が忘れ物をすると怒り、遅刻すると眉をひそめた。授業中にノートをとり、消しゴムで間違えたところを消したときなどは、消しゴムの滓が隣の机にかかっただけできつい目を向けて舌打ちするのだった。
 生来、村口という男は不注意であり、しかたのないことではあった。周囲からどのように思われているかを考えて行動するようなひとではなかった。家や幼稚園で細かい躾をとやかく言われなかったか、言われても物事をするのに没頭して注意をきちんと理解できていないありさまだったのかもしれなかった。
 村口にとって美の対象になりうるのは、現実の女ではなく、絵画や写真の中で見る女の姿だったり、整然と駐車場に停めてある車だったりした。
 もちろん、思春期には女の滑らかな曲線美に心を動かされて美の対象に含めた。けれど、学生時代から、村口の周囲にいる女たちと話を合わせるだけで苦労してばかりだった。女らしい体つきの美と、女という存在そのものとは別個だとか、ひとつの実在の中に、感覚上の美的なものと、女という狡猾で残酷で美的でないものとが混在する霊長類だと考えるに至った。
 大人に成長した村口は、女を好きになり、男女の関係を結んだことはあっても、心の奥底から美しいと思える機会が少なかった。町中ですれ違う女を刹那に美しいと感じても、そういう女と付き合う縁はいままで天から与えられることはなかった。

 総持寺の駅で降りた。大阪府の茨木市にある駅だ。
 アスファルトで固められた道路の上に、ゆらめく車が浮いていた。視界が蜃気楼を捉えた。厳しい陽射しの照り返りは、銀フレームのメガネをかけた男の足取りを重くし、日陰へと追い立てた。
 スマートフォンを片手に歩いていた痩身のその男は、ときおり足を止めては額からこめかみにかけての汗をぬぐった。ハンカチが汗染みでまだら模様になっていた。
「ずいぶん駅から歩いた気がするが。道順は間違いないやろな」
 自問してみてもスマートフォンは無機的に黙っている。拡大したスマートフォンの地図には、目的地である寺の名前はなく、ただ広い敷地が示されているだけだった。電車で総持寺を訪れるのは初めてだった。
 寺があるはずの町並みは、駅からさほど離れていない場所のせいか、学生や若者向けのこぢんまりしたワンルームマンションがたくさん建っていた。その割に、コンビニは駅前にぽつんと一軒しかなかった。
 しばらく進むと、やっと門前町らしく落ち着いた家並みが軒をつらね出した。
 インターネットで寺を検索した。自宅からなるべく遠くて電車で通える寺を調べ、寺の住所と電話番号をメモし、話を聞いてほしいと電話を掛けて頼み込んだのは、二週間前の水曜日だった。
「何の話でしょうか。セールスなら断っておりますが」
「いえ、私は三三才の者ですが、今から仏門に入っても大丈夫ですか」
「ほう。それは珍しい。僧侶になる覚悟さえあるなら、年齢は問いませんよ」
 総持寺の和尚の口調は穏やかに変わった。
「では、来週空いている時間にそちらへお邪魔して、僧になる心構えなどを教えていただけないでしょうか」
「ちょっと待ってくださいな」
 和尚の声が遠くなり、男は電話の声がするまでしばらく待たされた。
「えーと、今月なら二八日の午後三時に一時間ほど空いております。それでよろしいか」
「承知しました。ぜひお願いします」
「ところであんたの名前と電話番号を聞いておらんのじゃが」
「失礼しました。私、村口と申します。電話は、072―54××―××××です」
「072の54××の××××。ムラグチさんね。分かりました。では気をつけてお越しを」
 七月というのに関西は毎晩熱帯夜がつづいていた。朝から晩まで一日中、肌にまとわりつくべっとりした熱気で、村口は食事も睡眠も充分に取れているとはいいがたかった。それが今日の訪問日までたまりにたまっていたのか、炎天下の中、足取りがふらついていた。駅から寺までわずか五分の道のりが、果てしなく長く間遠に感じられた。点と点を結ぶはずの線は、途中で折れ曲がり、どうかすると暑さでぐにゃぐにゃと変形しているのではと勘繰りたくなった。
 手押し車ですれ違った麦藁帽子の老婆に、思わず、
「総持寺はこの先ですよね」
 と同意を求めたくなった。藁にもすがりたい思いをやせ我慢して、初めて降り立った町をくねくねと歩いた。
 やがて角を曲がると、白い石段が見えた。やっと着いた。
 山門は遥か先にあり、何十段もある石段を登らなければ和尚には会えない。当たり前のことが俗世を拒絶している崇高さに思えた。ちょっと前まで、ここを歩く姿なんてとても想像できなかった。身に着けているワイシャツが背中にへばりつき、気持ちが悪かった。
 会社を辞めたのが五月末だった。それから失業保険の手続きをして、給付金で生活を送っていた。住まいは両親と同居していた。失業したのを近所に知られたくなくて、日中どこへ行くにもワイシャツにスラックス姿でご丁寧にビジネス用のかばんを持って移動していた。
 その恰好をいま呪っていた。こんなことならティーシャツ姿でも、という安直な思いと、初めて住職と顔を合わせるのだから、社会人として外見だけでもおかしくないようにしようという几帳面さが、とろけたスムージーのように絡み合った。村口はそんな己を情けなく思った。
 今日の暑さは特に体にこたえ、ふだんから日中歩いていないのが裏目に出た。心どころか体まで溶けてしまうくらいに暑かった。
 山門が微動だにせず、ずしりと構えて村口を見下ろしている。
 一段、また一段と石段を踏みしめ、ようやく登り切った。
 白い砂利道を進み、みしみしとリズムを刻んだ。その音に反応した動物がいた。境内の地面で羽を休めていた十数羽の鳩が、村口の足音でいっせいに舞い上がった。
 本堂の一部は昨秋の台風でひどい被害を受けたらしく、勧進帳の札が立ててあった。寄進を受け付けていたので、村口は当たり前のように財布を出した。箱に一口分の千円札を入れ、寄進帳に住所と名前を記した。
 その途中で、キャッと小さな叫び声がした。向こうの方でした。顔を上げると、かわいい子どもが石燈籠から顔だけ覗かせていた。目のくりくりした女児だった。近くに保護者の姿は見えず、寺の子だろうかと思った。
「こっちだよ」
 女児に手招きされて庫裏に辿り着いた。寺の事務所にもなっている庫裏で人影が見えた。
「ぼさっとしてんと、早よ上がりなさい」
 子どもを叱るような口ぶりで、住職みずからが黒の僧衣で出迎えた。靴を脱いで下駄箱に入れ、住職の後を追った。
 本堂まで、焦げ茶色の廊下をそろりそろりと歩いた。つやつやして黒光りする廊下だった。町中も静かだったが、寺の中はさらに輪をかけて静かそのものだった。おくびすら周囲にまで響きそうだった。
 本堂に入った。住職は本尊を背にして、浮いている物体が着陸するように、すーっと座った。何も言わず、右手を差し出す。村口も本尊と面と向かって板の間に座った。
 座ってから、互いに顔を見合った。どちらからも口を開こうとしなかった。和尚はやや太っていて、四角い頭で武闘家のようながっしりした体格の持ち主だった。肌は薄桃色をしていたが、顔にシミが二つ三つ浮いていた。村口は無口な男だが、彼から話を聞いてほしいと願い出たのに、何と言ってよいのか話のきっかけを掴めないでいた。
 和尚は口を堅く閉じ、口や目をぴくりとも動かさずに村口を見つめていた。いや、起居を観察していたのかもしれないし、心の動きを読もうとしていたのかもしれない。どちらにせよ、どんな男なのか見抜けるくらいに眼光が鋭そうで、背後の仏像の力も合わさってか、魂の強靭さを覚えた。
 村口は覚悟した。とても生半可なことは訊ねられない、と。こうなるとヘビに睨まれたカエル状態。身動きひとつ取れず、さっきまでの汗とはまた別の嫌な汗が脇や顎から滲みだした。
 もう限界と思った瞬間、口を突いて出たのが、「和尚様のお名前は?」だった。
「言うてなんだか。ワシは上山道昭」
「上山和尚」
「ドウショウ和尚と呼びなさい」
「はい、ドウショウ和尚」
 やっと重い車輪の転がるように、口が利けた、と村口は思い、「ドウショウ和尚。僧になろうとする際の心構えを聞かせていただきとう存じます」
「ムラグチくん。仏の教えは経を学べばよい。僧になる心構えとは」
 そこでタメを作りたいのか、道昭和尚は間を空けてなかなか言葉を発しない。村口は固唾をのんで、どんな話を語られるのかと緊張し、背筋を正した。
 一分はたったと思った。しびれが切れて、村口の方からつづきを促した。
「なんでしょうか」
「それは簡単なこと。煩悩を捨て、信仰に人々を導こうと強く思うことじゃ」
「さすが」
 そう言ってはみたが、ほんの少し前まで会社勤めを何年もしてきた男にとって、生やさしいことではないと直感した。煩悩を捨てるとは、よく耳にする。村口は頭の中で胸に手を当てた。これから本当にできるだろうかという疑念が、頭めがけて飛んできた一本の鋭い矢となって突き刺さる気がした。
「煩悩を捨てるとは……」
 村口は具体的なことを訊ねようとしたが、道昭和尚はその問いを無視して、
「この近くに木の茂った丘がある。そこに古びた寺、古刹が建っておる。まずそこをきれいにしてくるんじゃ」
 道昭和尚はさっそく弟子と認めたのか、村口に命じた。村口は受け入れてもらえたと緊張の糸がほぐれ、喜び勇んで古刹に向かった。
 道昭和尚に描いてもらった紙の地図を手にして、古い民家の建ち並ぶ狭い通りを進んだ。昭和初期かと思しき黒の板塀の家々に、一瞬時代を間違えて別次元に迷い込んだようだった。平日の夕方ではあったが、行き交う人は少なく、買い物帰りの主婦か業者のおじさんか配送のドライバーがたまにいるぐらいだった。地図は目印こそ少なかったが、道の数は実際と合っていた。強い西日に晒されながら、丘らしき場所に辿り着いた。
 丘の一部は削られていて宅地に造成されていた。半分以上は原形をとどめていた。目の前には生い茂った松林が密集して視界を遮っていた。木立に隠れているだろう古刹も、元は由緒ある寺で、総持寺ともなにかしらの縁か交流があったのかもしれなかった。
 土のむきだしになった段差を登り、すぐに寺を発見した。周囲には小木が至るところに生えていた。間引いてないから生え放題だった。
「まさか、この周囲の木までオレ一人で伐採しろ、なんてこととちゃうやろな」
 ひとり呟いた。
 古刹は荒れ果てていた。門はなくなり、参道は枯れ葉が積もって砂利も見えず、柱や梁は色あせてくすんでいた。周囲に松林がなければ、昨秋の台風で屋根瓦は吹き飛んでいたかもしれないし、柱は傾いてもおかしくないほどの年代物だった。きちんと管理する僧がいないとこうなる、という悪い見本のようだった。
 ということは、掃除して管理を任される僧になれるのかも――。
 安易な期待を抱いて顔がにやけた。
 向こうの方でカシャリと断続的に鳴る小さな機械音が耳に入ってきた。裏手に回ってみた。カメラマンの後ろからモデルの女を見た。木漏れ日の中ですべすべした素肌に射し込む光を受け、ポーズを取っていた。裸の若い女は枯れた草木で股間を隠し、古刹の縁側に座ってシャッターを切る男に対峙していた。
 その日、杏子という女を見初めたのだと後になって振り返った。
「キョウちゃん、いい表情してるよ」
 その女はすらりとした体つきに細面で、目は切れ長だった。遠目に見ても透き通るように白い体を持ち、その体は優美な円みを帯びていた。長い髪を胸まで垂らし、顔立ちは清楚だった。村口は体がわななくほど、美しい裸身の杏子に激しく魅了され、その光景を瞼に焼き付けた。
 カメラマンは仕事に没頭しているのか、村口の存在を無視してシャッターを切りつづけた。やがて手を止め、村口に気を遣ったのか、「ここの関係者かい?」と標準語で訊ねてきた。
「この寺を清めろと和尚様に言われてここへ来たんやけど」
「どうだい、あのモデル。きれいだろ?」
「とても」村口は短く答え、うつむいた。
「初めまして。モデルのキョウコです」こちらもまた標準語だった。
 若い女はいつの間にか、ピンクのティーシャツに白のスカートを身にまとっていた。もちろん、下着もつけていた。女ははにかみもせずにまじまじと村口を見つめて座っていた。
「村口と申します。ふだんは総持寺におりますので」
 まだ初日なのに、なぜか寺に出入りする関係者のようなことを口走っていた。体中の血液は鼓動を刻み、熱く迸るのを覚えた。外気の暑さとは無関係に、顔はみるみる熱を持った。村口はいつもの癖で、銀フレームのメガネのズレを中指で押し上げた。
 表に引き返し、本堂へ上がった。廊下を歩いただけで白い粉が雪の粒か羽虫の大群のように舞い上がった。埃まみれだった。ほとぼりが冷めたように装いたくて、掃除に取り掛かった。
 さっき道昭和尚に言われたとおり、廊下から裏手へ回ってみた。そこに水場があった。ハンドルを除いた水道蛇口に、もらってきた金属をあてがって回し、水がだーっと迸るのを確認した。寺の物置小屋まで行き、汚れたバケツを拝借して水場に戻った。バケツを水で洗い流し、きれいな水をためた。道昭和尚に手渡された真新しい雑巾を水につけ、ぎゅっと固く絞った。
 裏手に戻ると、さきほどのカメラマンとモデルはどこかへ消えていた。
 腕時計を見た。日暮れまで二、三時間はあった。暑さに加え、シャツの汚れるのが嫌で、全部脱いでトランクス一丁になった。時計も外した。シャツとスラックスは畳んで雑巾を入れてきたポリ袋の上に置いた。
 床を拭く前に、はたきで桟や柱などに積もっている埃を床に落とした。
 裸同然で雑巾がけをした。小学生以来かもしれなかった。中学のときはモップでやったはずだった。白の雑巾はみるみるうちに真っ黒に変わった。何度もバケツで汚れを落とし、水場まで往復したのはいくつだったか数えるのも忘れるくらいだった。
 色はあせているが、床はようやく木目がくっきりと見えてきた。
 疲れて腹もすいた。別に誰かに監視されているわけでも、金がもらえるわけでもない。このへんでやめておこう。二時間もたたないうちに勝手に今日の作業を切り上げた。
 床にトランクスのまま腰掛け、足をぶらぶらさせて揺すってみた。誰もいないのをいいことに靴下を丸め、鞠のように蹴ったり、破れかけの障子めがけてボール投げの要領でさらに破いてみたりした。
 あたりが暗くなってきた。ワイシャツに袖を通し、スラックスを穿いて丘を降りた。総持寺に寄り、掃除用具を返した。道昭和尚は外出していた。
 最寄りの駅まで歩いて帰った。
 夕食はいつも駅前のスーパーで弁当を買い、同居の親とは別に済ませていたが、今日は珍しく外食して帰宅した。
 家に着くと、真っ先に居室の窓を開けた。もわっとした熱気は部屋中を温室にしていた。形状記憶のワイシャツをそのまま洗濯機に放り込んでおいた。
 少しのあいだだけ身に着けたティーシャツに着替え、扇風機を回して冷房をつけ、涼んでいた。
 ものの四、五分たったころに、スマートフォンの電話が鳴った。
「村口ですが」
「元気にしとるか。松下や」
 大学時代の友人からだった。
「コウタか。元気やで、オレは」
「ムラグチ、仕事辞めたんやてな」
「そうやで。それが、どないした」
「転職か」
「いろいろ思うところがあって」
「何年ぐらい働いた?」
「二三からやから、九年と少しかな」
「これから仕事が面白うなる時期なんとちゃうんか」
「そうやろうけど、なんかオレには、目の前に敷かれた一本道どおりに車を走らせることが嫌でな」
「結婚はせえへんのか」
「結婚か。分からん。したいとは思う。次の仕事が決まったら相手を探して」
「ほんまにそんな調子でええのかよ」
「心配してくれてありがとうな。なんとかなるわ」
「楽天的やな」
「転べば起き上がり、次の夢へ向かうもんや」
「そうか」
「ところでコウタの方はどないやねん」
「オレは女房の尻にしかれて頭上がらんし、ずーっと同じ会社勤めやで。上司と部下の板挟み」
「部下ができたんか。それだけでもすごいやんけ」
「べつに普通や。ムラグチのような極楽とんぼを、たまに羨ましく思うわ」
「そろそろええかな」
「ああ、すまんな。突然電話かけて。また、いずれどこかで飲もう」
「ああ分かった。ありがとうな」
 電話を切った。
 会社を辞めた本当の理由はもっと他にあった。村口は辞めたときの状況を振り返った。
 退職した理由は、東京にあった会社が倒産したからだった。倒産した理由が変わっていて滑稽だった。ワンマン経営の小さな出版社に勤めていた。あるとき、強引な取引で客から訴訟を起こされた。追及された社長は会社の金を持って夜逃げし、会社は潰れた。経営コンサルタントが入り、「首のすげ替え」をして、社長は自己破産した。会社名は変わり、新しい社長の下で新しい社名で再出発した。村口は出版社の体質に疑問を感じ、フリーライターとして独立の道を模索した。九年間の編集者経験を活かそうとした。が、どこも、あの会社の元社員だから、と噂され、契約に冷淡だった。
 最初は社長を恨んだ。が、村口も強引な取引をしていた事実を知っていて社長を諫めなかったのだから、同罪の自分にも嫌気がさしてきて、まったく未知の世界を目指そうと思った。
 未知の世界とは仏門のことだった。会社を辞めて関西に戻っていたときだった。たまたまテレビで僧侶の特番をやっていて番組を最後まで観た。同級生だった藤見くんの影がちらついた。
 退職した理由を父に具体的に説明しなかった。父の善治は仏門に入ることに猛反対した。
「人生経験の少ないお前が、僧になんかなれるもんか」
 厳しい口調で善治は言った。
「そんなん関係ないやろ」
「なんで、お前は酒屋を継がへんのや」
「自営業なんて嫌や」
 そう言った瞬間の父の顔が忘れられない。苦虫を噛みつぶしたような表情だった。
 善治は伊丹に家を持っていた。木造二階建ての店舗と住居を兼ねた家屋を酒屋にしていた。一階は酒店で、奥に居間と台所があり、二階は両親の部屋と村口の部屋になっていた。働き者の善治は六〇半ばでもまだまだ衰えしらずで、体は健康。朝から晩まで仕事一筋に見えた。重いビールの樽やケースも一生懸命に軽トラックに積み込み、取引先の市内にある飲食店を毎日忙しそうに回っていた。
 村口は兵庫県生まれの伊丹育ちだった。伊丹の家にはひんぱんに学友の藤見くんが出入りしていた。小学三年生から六年生まで同じクラスになり、勉強もスポーツも彼の方が勝って、その上に学級委員長まで務める人気者の優等生だった。藤見くんは優等生でありながら、いたずらもしでかす腕白少年だった。髪は坊主頭で村口と同じ野球帽をかぶり、いつも意気揚々としていた。元気がよく、「村口くん、あそぼ」と大声を張り上げて伊丹の村口家にやってきた。いつしか村口も藤見くんと同じ塾に通うようになり、ほどなくして村口の成績は上がっていった。
 小さい頃から父の背中を見て育ったが、村口は父の家業を継ぎたいとは言い出さなかった。母に似たのか、幼い頃の村口はおっとりしていて、なにか自分の興味の対象を見つけ出してきては、何時間もかけてそれを征服するまで飽きもせずにやりつづけ、極めようとするのだった。それはメンコの強化方法を練ることだったり、虫取りだったり、プラスチックのカラフルなクリップをハサミで切ってバッタや鈴虫のような形にして、クリップのお尻を指で押さえてはじき、高さを競わせたりすることだった。メンコには大相撲の力士のような、「なんとか山」、「なんとか王」などと強そうな名前をつけ、相撲放送を見ながらまだ学校で習ったことのない漢字を覚えたのを流用し、辞書と首っ引きで独自の名前を考案してメンコにマジックで書き記し遊んでいた。
 決まった動きしかできないオモチャにはすぐ飽きて、自分で周りに有るものに徹底した工夫をほどこし、オモチャにして遊び呆ける天才で、型破りな少年だった。そんな少年だったから物事を考えて突き詰めるのが好きで、中学ではサッカー部と将棋同好会、高校ではサッカー部を途中で辞めて出版委員会に入り、成績こそたいしたことはなかったが浪人して大阪の大学に入った。親父の苦労や商売のやりくりとは無縁の道を歩みつづけた。善治は一人息子を自由に育て、行きたい道を目指せばいいと思っていたようだった。いわば放任主義をとり、世の中のなんたるかを自分で経験して切り開いていけばいいと考えていた。それは、村口が大人になって実家に帰省したとき、元日に一度だけその考えを口にした機会があった。
 中学、高校と藤見くんに引っ張られるように同じ学校に入り、同じサッカー部の門を叩いた。藤見くんは二年生のときレギュラーになり、MF選手としておおいに活躍したが、村口は控え選手に甘んじた。サッカー部時代、藤見くんは、公式試合に出場しては何度も激しく相手の選手とぶつかり合い、けがも絶えなかった。そのたびに応急処置をしてすぐに試合に復帰し、ゴールを決めたり、アシストに貢献したりした。周囲の仲間は、
「藤見はやっぱり〝不死身〟やな」
 と彼を持ち上げた。
 高校になると、村口は読書と音楽に傾倒した。サッカー部を途中で辞めてしまい、出版委員会だけに籍を置いた。一方の藤見くんは文武両道を貫き、現役で京都の大学に合格した。村口は浪人して大阪の大学に合格した。お互い関西にいたので、ときどき会って遊びはしたが、藤見くんは大学二年生のとき留学中の海外で夭逝してしまった。
 あれほど元気だった〝不死身〟の藤見くんが、あっけなくあの世へ旅立ってしまった。
 それからというもの、村口は一度だけ藤見くんの墓参りにいき、両親に生前の彼の様子を懐かしく語った。藤見くんが生きていれば一緒に行っただろう高校のサッカーグラウンドにも何度か足を運んだ。藤見くんの魂が盆に伊丹へ帰ってくるならば、彼の両親にとっても藤見くんにとっても、さぞかし心嬉しかったことだろう。
 藤見くんと過ごした中でいちばん心に残っているのは、高校受験のときだった。受験した高校は藤見くんと同じで、西宮市内にある某高校だった。入学試験は冬の二月、寒さの厳しい頃だった。
 試験を受けた帰り道、藤見くんと駅へ向かいながら答合わせをした。村口より成績のよかった藤見くんといくつか食い違いのあることがわかった。村口は気落ちして下を向いた。それを不憫に思ってか、藤見くんは、
「がっかりすんな。まだ落ちたと決まったわけやないねんから」
 発した言葉に強い響きがあり、村口はそのひと言で救われた。
「そうやな」
「きっとオレら二人は合格するって。なにせ、小三のときからずっと同じ道を歩んできた仲やろ。一心同体、〝ニコイチ〟や」
「そう言われると、なんや運命共同体のようでもあるな」
「テストの結果より、二人の結びつきの方が強いねん。安心せえ」
「ありがとう。励ましてくれて」
 二人は電車で西宮北口まで来た。
「ムラグチ。西北にええ店あんねん。降りて昼飯食おうぜ」
「よっしゃ」
 二人は西宮北口で下車し、南の改札口を出て数分ほど歩いた。村口の心の中はすっかり元に戻り、温もりさえ感じた。
 店の前まで来た。黄色の看板に、インド料理『サンボア』と小さく出ているだけの小汚い店だった。
「ここ来たことあるか」
「いや、初めてや」
「カレーがめっちゃ旨いねん。先輩に教えてもろた」
「へええ、カレーか」
 村口が店でカレーライスを外食したのは、阪急百貨店のレストラン以来だった。
 二人で店の扉を開け、カウンターの席に着いた。メニューはなく、壁に、「カレーライス七〇〇円」、「カツカレー九五〇円」と白い紙に書いて貼ってあるだけだった。店内は昼間なのに薄暗く、職人小屋のような、オレンジの電灯が二つ吊るしてあった。
「いらっしゃい」
 奥から店主のおばさんが無愛想に言い、二人は、
「カレーライス」
 と息があったように叫んだ。思わず顔を見合わせ、二人は笑い合った。サンボアの女主人は、ほんの一、二分して厨房から大きな皿にご飯を盛り、汁気の多いカレーのルーをかけ、一人分ずつカウンターに並べた。
 腹を空かせていた村口は、出されたスプーンを手にすると夢中になってカレーを口に運んだ。カレーの香辛料が鼻からツンと抜け、当時の中三生にとってはおいしいと感じた。
「旨いなあ」
 村口が半分ほど平らげて感嘆の声を上げた。横の藤見くんも、
「旨いやろ? 言うたとおりや」
 と鼻を高くしていた。
 カレーを食べ終わり、二人が会計を済ませて店を出るとき、入口の隅にあったビリケンさんの足を藤見くんは撫でた。
「ビリケンさんの足を撫でると願いが叶うんやで。合格祈願しとけや」
 言われて、村口もビリケンさんの足を撫で、合格しますように、と祈った。
 店を出てから藤見くんが言うには、『サンボア』で意中の女の子とカレーライスを食べると恋が実るご利益があるらしい。それは二人の通っていた中学で、「都市伝説」とまではいかないが、ちょっとしたブームになっていた。
 藤見くんは高いところが大好きだった。西宮の山腹にあった某高校に二人は揃って合格した。彼はよく屋上に上がっては、眼下に広がる阪神間の町並みや神戸の海などを見渡していた。
 しばらくぶりに会ったとき、京都の大学では登山同好会に入っていると聞かされ驚いたが、なんでも一番か、てっぺん好きの彼ならば、とすぐ納得した。
 彼は酒も強く、村口が浪人時代に誘われて京都で飲んだとき、村口はビールを注がれてコップ一杯で酔ったのに対し、藤見くんはビールをジョッキで何杯も飲み干し、ちっとも酔わずにいつもの早口で大学生活の面白さを語ってくれたものだった。
 当時、藤見くんには恋人がいて、
「ムラグチ。早う大学生になって、ええ女、見つけろや。人生がバラ色になるで」
 と人なつっこい笑顔を見せ、村口の肩をポンと叩いた。
「どなしいて知り合うたんや、その彼女と」
「登山同好会のマネージャーや。三、四人、おんねん。毎年、五月になると新入生も含めて山に登る。信州の槍ヶ岳に合宿で行ってな。先に頂上に着いたもんから好きな子を指名できるわけや」
 彼が一年生のとき、一番先に頂上に着き、彼女を射止めたらしかった。
 藤見くんは、先輩たちを追い抜かし、持ち前の運動神経であっという間に頂上に立ったときの様子を、身ぶりを交えて語ってくれた。五月だと標高の高いアルプスの山々には雪が残り、最後の急勾配の難所を登るのに足が雪にとられ四苦八苦した、「ほんまにしんどかったわ。でも行ってみてよかった。山はいつ来ても最高や」と白い歯をのぞかせた。
 その後、くだんのマネージャーの彼女とどうなったのかは聞いてなかった。きっと藤見くんなら、彼女と楽しい大学生活を送っていたに違いない。
 藤見くんは、村口が大学一年生のときの七月、留学先のイギリス帰りの欧州旅行中に立ち寄ったドイツの湖で溺死したとのことだった。彼のご家族から後で聞かされた。運動神経の抜群によかった彼が遊泳中に溺死した、と聞いたときにはにわかに信じられなかった。よほど湖の水温が低くて心臓麻痺を起こしたか、足でもつってしまったのかと思った。不幸な死に方だった分、彼の両親は明るく振る舞い、お会いしたときには懐かしいサッカー部時代のエピソードを話しては村口を笑わせてくれたのが幸いだった。
 遺体は現地で検視が行われ、しばらくたってから航空便で日本に戻ってきた。地元の兵庫で行われた葬式は、藤見くんの人柄を象徴するかのように大勢の先輩や後輩、知人らの弔問客が訪れ、賑やかだった。もちろん、将来を有望視されていた若者だったので、お父様は沈痛な面持ちで臨まれ、お母様はハンカチを片手に握りしめ、ときどき目元を拭いながら、なんとか気丈に振る舞ってはいた。ちょうど日本では夏休みの季節で、東京の私大に進学した仲間も駆けつけて親族を慰め、当時高校生だった妹さんが八月の乾いた風に髪をなびかせながら、柩を前にして泣きくずれていたのを村口は目に焼き付けた。
 その藤見くんには、村口の記憶の中で不思議な思い出があった。
 ここ数年、高校の同窓会が大阪や神戸で毎年新年会として開かれるのが定着してきた。参加者は二〇人前後できちんと会計をしていた。昨年の会計だけ、一名分余計に余った。会計係は幹事と相談し、それを次の年の会計分に回したらしかった。
 その年、村口はたしかに、藤見がスーツを着て会場の金屏風の壇上に立ち、社会人になってからいまどうしているのかをスピーチで話しているのを目撃したのだった。
 はじめは、だれかの見間違えかと思った。だれかのスピーチと藤見の姿が重なり、酔っぱらった村口の妄想の中で偶然入れ替わったのかと考えた。
「藤見がおるやん」
 そばにいた同級生をつかまえて言ってみたが、
「なにいうとるねん。誰もおらんがな。おまえ、酔うとるで」
 と掛け合ってくれなかった。
 目をこすって再び壇上を見ると、来賓の先生のひとりが会の最後の挨拶をしていて、見間違えかと思い直し、同級生らと歓談をつづけた。
 最後に、会場で給仕係に頼んで、金屏風を背景に出席者一同で写真を撮ってもらった。あとでもらった写真には、最前列の一番左にサッカーシューズが一足置いてあった。
 心霊写真ではないがいたずらにしては気持ちの悪いものだと村口は思った。なにしろ、そのサッカーシューズは、藤見くんの選手時代に愛用していた青いストライプの入ったものだったからだ。
 そのことを翌年の同窓会で、同級生に報告したら気持ち悪がられた。
「オレたちの持ってる集合写真にはサッカーシューズなんて写ってへんで。なにかの間違いやろ」
 村口の受け取った写真だけに藤見くんの愛用のサッカーシューズが映り込んでいて、藤見くん本人の顔も胴体も、影すら写ってはなかった。
 その年の同窓会が、藤見くんの一三回忌にあたる年だとあとで知った。
 村口は藤見くんの魂に導かれるように、同窓会の終わった午後四時前、一人で夕陽の差す母校へ来ていた。鍵のかかった正門の塀をよじ登って乗り越え、気づくとサッカーグラウンドに立っていた。あたりにはだれもいなかった。寒風の吹きすさぶ無人のグラウンドで、どこからともなく声援が幻聴のように聞こえ、藤見くんがユニホーム姿でサッカーボールをドリブルしていく後ろ姿が見えた。背番号10。たしかに藤見くんの現役時の番号と一致していた。
 藤見くんがしばらくしてガッツポーズを決め、こちらを振り向いた。村口は寒さではなく、熱っぽさを覚え、体が硬直した。だれもいないグラウンドにサッカーボールだけがコロコロと転がっていた。
 どれくらいそこに立ちすくんでいたのか、覚えてなかった。どうにかこうにか、家に辿り着いたときは、ひどく体が震え、食欲もなくなっていた。
 善治は、「隆寛の様子が変やで」と言い、
「どないした?」
 と訊ねてきた。
「なんか、夢でも見たんか悪寒がして……」
 母の文子は、熱を測り、と言い、体温計を持ってきた。
 三八度六分。熱がある。風邪を引いたようだった。
「どこへ行ってたんや」
「大阪で同窓会して、そのあと母校のグラウンドへ」
「なんで? だれと行った、母校へ」
「オレ一人で行った。閉まっとった」
「当たり前やろ。正月やで。なんかおかしいわ。早よ布団にくるまって寝とき」
 善治はすべてを風邪のせいで片づけた。
 その年の同窓会の不思議な話を、村口は誰にも語るまいと思った。
 その年の八月、村口は東京から兵庫に帰省し、再び高校のサッカーグラウンドへ行ってみた。なにかを確かめるわけでもなかったが、自然と足が向いた。
 村口は正月の経験が風邪による幻覚だとはどうしても思えなかった。
 グラウンドでは夏休みのサッカー部が練習中だった。そこに藤見くんの影も形もなかった。高校生の後輩が、ポーンとボールを大きく蹴り上げ、運悪くゴール裏にある池に放り込んでしまった。だれに言われるわけでもなく、池にぷかぷかと浮いたサッカーボールを拾ってやろうとして、村口は葉叢に囲まれた青い藻の浮かぶ池に近づいた。
 あっ、と声が漏れた。村口が叫んだ途端、池から体のない足が一本現れ、池の上を漂っているボールをグラウンドに蹴り返したのを目の当たりにした。
 村口は思わず目をつぶり、ナムアミダブツ、と唱えていた。目を開けると、幻の足もサッカーボールもなく、村口はただ池のほとりに佇んでいるだけだった。
 その日はなにごとも見なかったことにし、翌日、藤見くんの一三回忌の法要に友人として参加した。二度も奇妙な体験をして死後の世界に惹かれた。同時に僧侶の世界にも興味を抱いた。
 仏門入りを意識し出したのは、その年が終わり、翌年の会社を辞めた頃だった。不如帰の鳴く初夏だった。単純な動機で仏門に足を踏み入れようとしていたわけではなかった。
 気分を変えようと、冷蔵庫を開けた。缶ビールを取り出し、口を湿らせた。夏は飲んだあとでも冷たいシャワーを浴びられるから気持ちよかった。少し酔いを醒ましてからシャワーを浴びて床に就いた。
 寝ながら、こんな生活をつづけて、頭の中だけ気高くなってもしょうがないかと少し反省した。煩悩を捨てるとは、どこまでの欲望を捨てるのかと想像してみた。金、女、酒……。どれも捨てがたいと思った。
 現に、一休和尚などのように、欲におぼれた僧侶は歴史上いくらでもいるではないか。煩悩を捨てろとは逆説で、煩悩を知り尽くしてから世間と交わりを持ちつつ人の煩悩に寄り添えということか。勝手な解釈をあてはめてねじ曲げた。
 そのうち眠りについた。
 夢の半分は、高校時代にどこかへバス旅行に出掛けたり、試験時間内に問題が解けなくてうんうんと唸っていたりするのが多かった。が、その日の晩は違って、昼間の細面の女が夢に出てきた。女は次第にメタモルフォーゼして神々しいお顔の仏様になった。仏は目を細めて笑い、総持寺で修行を積みなさい、とおっしゃった。
 朝、起きて、台所でテレビを観ていた善治に向かって言った。
「親父。仏が夢に出てきたで」
「なんやて?」
「仏が夢の中で、寺で修行を積め、と言うたんや」
「ほんまか」
「うそなんて言わん。はっきり覚えとる」
「隆寛はよっぽど僧侶になりたいのね」
 朝食のトーストを焼いている文子が口を挟んだ。
「そんなになりたいのか。じゃあ、オレもその寺に行ったるわ。なんちゅう寺や?」
「総持寺」
「和尚様の名は?」
「ドウショウ和尚や」
 善治は酒屋を臨時休業にして、道昭和尚に会いに出かけると言い出した。今回はほんの十分程度でいいので、と村口が和尚に交渉し、八月四日の水曜日午後二時前後なら調整できると言われた。
 二度目の総持寺行きは道をすたすたと進めた。善治と道昭和尚の形だけの顔合わせだと村口は考えていた。
 その日は曇りで道に陰がなく、よけいに蒸し暑かったが、あっという間に寺に着いた。
 善治は寺の外観をしげしげと眺め回していた。最初のときと同じく、黒の僧衣で道昭和尚が出迎え、本堂に通した。
 善治は本堂に入っても落ち着き払っていた。「今年の夏も暑いですな。朝は蝉が大合唱しますやろ」とか、「夜はええ風が入ってきまっか」などと、本題と関係のない話から始めた。
 三分ほどして、ようやく本題に入り、
「息子の隆寛が、『僧になりたい、仏が夢に出てきて、寺で修行を積め、とお告げがあった』言うてまんねんけど、どないでっしゃろな」
 と水を向けた。道昭和尚は、
「御仏が息子さんを試そうとなさっているのでしょう。ここはひとつ、お告げどおりに総持寺で修行僧として仕えさせてみてはどないですかな」
「どうや、隆寛」
 二人の大人に真顔で言われ、「してみたいです」としか答えられない状況だった。
「ご子息はうちの寺の方で預からしてもらいますよってに、ご安心ください」
「そうですか。ほな、よろしゅうに」
「来週から毎日休まず通ってくるんやで。ええな?」
「わかりました」
 それで話は終わり、二人は寺をあとにした。
「ええ和尚様やったな」
 帰りの電車内で、善治は隣の村口に耳打ちした。あれほど反対していた善治の顔を見た。横顔は平然としていて、怒っているわけでも嬉しそうなわけでもなかった。
 道昭和尚の計らいで必要な衣服はそろえてもらえることになった。
 翌週の月曜、早朝に総持寺を訪ねると、和尚の娘の雅美さんが出てきて、道昭和尚から預かっている夏用の常衣と下着、襦袢、霜降に草鞋などを受け取った。別室でワイシャツを脱いで常衣姿に着替え、さっそく涼しいうちに竹箒で境内を掃き清めた。開門は朝の六時だった。
 しばらく掃き清めるのをつづけていると、珍しいのか、外国人観光客が入ってきて、写真を撮りたいと申し出た。「寺をバックに写真を撮ってくれ」と頼まれ、二つ返事で写真を撮ってあげた。ついでだから、いや本当はそれが目的なのだが、「日本に来て不便や悩みはありますか」と拙い中学英語で語りかけたら、「トイレが和式のところは困る」と返事が返ってきた。大阪万博や東京五輪で来日し、地方を訪れる観光客にとって、由々しきことだと思った。洋式に変える必要はないから、せめて絵か漫画で使用方法を添えてあればええのに、と私見ながら思った。思いつきで、
「YouTubeに和式便所の使い方がアップロードされ、みんなが観たらよいですね」
 と答えておいた。観光客は陽気に笑い親指を立てた。俗世の煩悩とは関係のないことかもしれないが、ひとの役に立てることは気持ちがいいし、仏様も喜ばれるだろうと思った。
 昼過ぎ、道昭和尚から本堂に呼ばれ、なぜ僧侶になりたいのか、と根本的な質問を投げかけられた。
「友人の死をきっかけに、死後の世界、僧侶の世界に興味を持ったからです」
 村口は素直に心のままの気持ちを吐露した。
「興味を持つのはええことじゃが、僧侶の道を志すのは、信徒や檀家さんも含めた一般の方に真言宗を広めるという覚悟がないとあかんのやで」道昭和尚は仏教の教えを伝える大切さを説いた。さらに、「ムラグチくんは在家出身者や。ワシの一族とちゃう。ワシが師僧になるのはよいが、けして檀家の数も多い方ではないし、収入は保証できへんで」
「はい、それは肝に銘じております」
「修行中は、すべて自腹や。修行を達成しても、すぐに僧として活動できるかは保証せえへんで」
「あの古刹は」
「あれは由緒ある寺ゆえに、いずれ寄進がたまったら修繕しようと思っとる。まさか、あの寺を活動の場として与えてもらえると思たんとちゃうやろうな」
「いいえ、滅相もない」
 図星だったが、すぐに全否定した。
「まだ発心できるかすぐには見極めがつけへん」和尚様はなにか考えた末に、「仏は誰の心にも備わっておるんや。煩悩を捨てれば現れる。とりあえず自腹で半年間、ここへ通ってみ。仏が見えてきて本当に道を志す覚悟が揺らがなければ得度してよろしい」
「承知しました」
 村口は、けして転職の一選択肢として仏門を選んだわけではなかった。コウタに極楽とんぼと称されたのには正直いって機嫌をそこねた。人から見れば、村口に対する評価はまだまだ低いのだろうが、これからどんどん上がっていくんや、と開き直った。
 昼の休み時間に、総持寺の駅前にある食堂に入り、親子丼を食べた。
 寺に戻って寄進帳に記入された方の名前と住所をパソコンソフトに入力し、お礼のハガキを作成して郵送した。そのあいだに檀家さんの来客があり、接客して留守の和尚に代わって用件を訊ね、あとでメモ用紙にまとめておいた。
 夕方の五時に門を閉めた。七時過ぎに寺を出て、僧衣姿で電車に揺られた。
 途中、スーパーで弁当を買い、自宅で食べた。居室で窓を開け、ぼーっとしていたが、特にすることもなく、僧衣のままで河原まで散歩がてらに涼みに出かけた。
 堤防の階段を降りて、芝の生えた土手に寝ころんだ。
 しばらく寝そべったまま、郊外の夜空を眺めていた。雲の切れ間から、ちらほらと数は少ないけれど星が瞬いていた。星が誰かの命と引き換えに輝いているのなら、どんな運命的な流転があったのだろうかと思いを馳せてしばらく目を閉じているうちに、うたた寝をしてしまった。かなり長い時間が流れたなと思ったら、女の甲高い笑い声が近づいてきた。連れと思しき男の声もした。寝たふりをしてやり過ごそうとすると、二人連れに見つかってしまった。二人連れは階段の途中で止まり、村口のところまでやってきた。
「あら。こんなところにお坊さんかしら?」
 女がハイトーンの声を上げた。
「何か用でしょうか」村口はむくりと起き上がった。
「私たちね。ひと言では説明できない関係なのよ」
 酔っている女の方から村口に喋りかけてきた。ちょっと息が酒臭かった。
「お互い夫婦でないのは、見たら分かります」
「そうよ。私は旦那に死なれて未亡人。で、この人が不倫しているの」
 肩に手を回している男の顔を指さした。女は見るからに水商売風の派手な出で立ちだった。
「いろいろと苦労されておるのでしょう」
 村口は相手がまだ喋りそうなので適当な言葉を選んだ。
「大変なのよ、スナックのホステスも。お客さんと同伴することも、アフターやデートもあるし」
「なるほど。幸せになられることを祈ります」
「あんた、ええお坊さんね。あら、よく見ると毛がふさふさ生えてるわ」
 女は酔った勢いか、褒めた言葉の裏返しか、村口の頭を撫で回した。
「お前、そのぐらいでやめとけや」
 連れの男はホステスに自重するよう促した。
「別に構いませぬ。修行の身ですから」
「あんたも、修行が終わったら私の店にお酒を飲みにくるといいわ。楽しいわよ」
 返事代わりにこくりと頷くと、ホステスの女は高笑いして、男にすがりつきながら川沿いの遊歩道を歩き去っていった。もしかしたら河原でもっといちゃつきたかったのかもしれない。
 異性に対する欲は、たとえ煩悩を捨てられてもつきまとうだろうな、と村口は思った。仏は誰の心にも備わっている。そう語った道昭和尚の言葉を思い出した。欲を飼いならしながら、己も含めて煩悩を払わねばとあらためて強く思った。
 次の日から、寺に行くときと帰るときはティーシャツ姿に変えた。下手に僧侶と思われ、誤解されては困ると判断したのだ。
 水曜の晩、総持寺の社務を終え、二週間ぶりにあの古刹に行ってみようと思った。別に杏子がそこにいるのを期待したわけではない。彼女はその日、仕事で夜まで働いているはずだった。
 丘に建つ古刹について、道昭和尚は由緒ある寺としか触れなかった。それがかえって興味を引いた。
 真夏の晩、風もなく、一番星と薄黄色の月が濃紺の空に輝いていた。すれ違う人もおらず、すっかり暗くなった夜道を、最初に辿り着いた記憶だけで歩を進めた。
 暗い道でためらうことなく、自然と足が前へ前へと出たのは、古刹の周囲を囲んでいた松林のにおいだった。前に来たときは夕方で、目を頼りにしたから意識していなかった。今回は目で判断するより、松のにおい、いやもっと正確に言うなら、松脂のにおいのする方向を頼りに、記憶と照らし合わせて歩いた。
 松脂特有の癖のあるにおいは、大学時代にオーケストラで楽器をやっていたコウタのヴァイオリンの記憶と繋がっていた。彼の話では、ヴァイオリンの弓に松脂を塗り、弦に引っ掛かりを作って音を奏でるらしい。その話を聞き、せがんでコウタのヴァイオリンの弓を見せてもらったことがあった。弓から放たれるかすかな松脂のにおいは、少量でも刺激が強くて鼻にツンときた。あのときの記憶をたぐっていた。
 しばらく松脂のにおいが漂っていたはずの経路で、ぷつんとにおいが断たれた。無臭と化したのだ。なんだろう、この変化は……。
 コウタがオーケストラの中にいて、これから聴衆の前で演奏を披露するときのような静寂が闇を支配した。ただでさえ森閑とした一帯は、猫の声ひとつ聞こえない。そのとき、正体不明の大きなものをそばに感じた。近くにあり、村口の感覚を無力化している。そんな気にさせた。目も、耳も、鼻さえも、麻痺したようになった。
 生ぬるい風が四つ角から吹いてきて肌を舐めた。その皮膚の薄気味悪い感触だけは伝わった。
 月や星が急に雲に隠れ、雷鳴が轟いて我に返った。その途端、古刹の丘から白いオーロラのような巨大な浮遊物がすーっと上昇し、雲に吸い取られるようにして消え去るのをしかと見た。あれはなんだったのだろう。ますます薄気味悪くなり、来た道を引き返すと、松脂のにおいが追いかけてきて夢中で経を唱えながら駅まで走った。
 翌朝、道昭和尚に昨晩の出来事を報告すると、和尚様は声を潜めて、
「あの古刹はな。昔、戦場じゃった。お侍が何人も斬り殺され、夏になると霊が彷徨うんじゃ」
「本当ですか」
「わしはうそはつかん。あの古刹の建材には落武者の霊が憑いとるから、ときどきおかしなことに出くわす。もし用があるなら朝か昼に行きなさい。夕方まではよいが、夜はご法度じゃ」
 道昭和尚は真剣な表情で告げ、くるりと背を向けていつもとは違う経を読んだ。
 それ以来、あの古刹には夜に行かないように注意した。由緒ある寺――。怪談めいた話と正反対のような気もしたが、現実に体験しただけに信憑性があり、師僧を信じることにした。
 お盆の頃、親戚の三回忌が高槻市の葬儀会館で行われた。たまたま親戚の宗派が真言宗であったので、善治は、ええ和尚様がおるさかい、と親戚一同に請け負い、村口に総持寺に電話を掛けさせ、道昭和尚に来てもらった。
 両親は、しめやかに執り行われた三回忌の法要に出席した。善治は、道昭和尚の読経にずいぶんと感銘を受けたらしく、
「ドウショウ和尚の声は朗々としていて、経を読むのが堂に入っていた」
 とえらく持ち上げた。また、
「立ち居振る舞いも含めて、すっかり感服した」
 とやや興奮気味に村口にまくし立てた。
「そんなに感服すんのやったら、親父が仏門に入れば?」
 村口は少しからかい気味に言った。
「酒屋が潰れたら、ほんまに僧侶になったろかいな」
 冗談とも本気とも取れるような発言が飛び出し、村口はメガネがずり落ちそうになった。
 月曜から日曜までほぼ毎日、道昭和尚の読経をいやというほど耳にしてきた村口は、聞く人が変わると和尚様の抑揚のない経の印象がこうも変わるのかと逆に新鮮味を覚えた。
 酒屋店主の善治の方がよっぽど修行に向いていると思った。側頭部を残して髪の毛が抜け落ち、夏の陽射しを反射せんばかりに禿げ上がった頭の親父のことを、つくづく侮れない男だと感心し、驚きもした。
 盆明けのある晩、コウタと梅田で飲んだ。飲んだあと、さらにネオン街の『シンジュク』という看板のスナックへ入った。
「いらっしゃい。あら、いつかの人だわ」
「いま通っている寺で、モデルをしとる杏子いう女を見かけてな。ちょっと気になっとんねん」
 村口はウイスキーのロックを注文し、例のホステスに話し掛けた。ホステスは赤いスパンコールのキャミソールをまとっていた。
「えー。あの杏子を知っているのね。私、東杏子の親友なのよ」
 ナオミと名乗ったいつかのホステスは、目を丸くした。河原で寝そべっていたときに、酔ってちょっかいをかけてきたときより美人に見えた。
「奇縁やな。杏子のことを知っとる友だちが、目の前で酒を作るやなんて」
「世間てほんま、狭いもんやわ」
 心のほぐれたナオミは、杏子のことや東京にいた頃の話などを酒のあて代わりに聞かせてくれた。
「杏子と出会うたんは表参道やった。その頃、私は短大に通とって、表参道のアパレル会社でアルバイトしてたんよ」
「へえ、表参道か。ええとこやん。洒落とるやないか」
「とっても。私はアルバイト店員やから、たいしたことはしてへん。接客や在庫の管理をしたわ。印象に残ったんが、来店するお客さんの誰もがすごくお洒落な人ばかりやったこと。憧れのブランドやったし、舞い上がっとった」
「で、杏子とはどないして?」
「杏子がね。そのアパレルの表参道店に来たんよ、客として。そこで知りおうて。最初は客と店員やったし、ちょっと気が引けたけど」
「それで?」
「帰り際にこっそりライン交換して友だちになったわ。それからよ。ちょくちょく休日や夜遊びに付き合うてもろて」
「今じゃ、すっかり親友か」
「そやね。私が関西に戻る言うたら、『ワタシも行きたい』って言い出したんよ」
「まさか、こちらで暮らすとは思てなんだか」
「そりゃ思てないわよ。ちょっとUSJでも観て、三、四日で東京に戻る思たらさ。『不動産屋に一緒についてきて』言うやん。びっくりしたわ。この子、本気や思て」
「よっぽど関西に興味あったんかな」
「下町育ちやから、気さくな人の多い大阪が気に入ったみたいやで。『ものを値切るのも面白い』言うてたし」
「たしかにな。関西人は他人より、自分の目や舌を信用するからな」
「杏子は長女やけど、お父さんを早うに亡くしはって苦労したから、きっと独立心が強いんやと思うわ」
「ほんまか」
「現に、稼いだお金のいくらかは毎月きちんと実家に入れとる言うとったもん」
「しっかりもんやな」
「私なんて、東京で遊んでエエ男に巡り会えんかったからこっちに戻ってきたのに。杏子の方がめっちゃ偉いわ」
「ナオミかて、ホステスで苦労しとるんやろ? ちゃんと接客もできとると思うで」
「ありがとう。はい、お待たせ。ワイルドターキーのロック」
 村口はウイスキーをカウンター越しに受け取り、喉を潤した。
「東京は昔、会社勤めしとった頃におったけど、なんか気ぜわしい町やったな。町じゅう、広告でいっぱい、人もいっぱい」
「東京で何してはったん?」
「出版社に勤めとった。編集者や」
「すごーい。作家さんの原稿とか見るんでしょ?」
「いや、オレのとこは小さな出版社やったから。自費出版がメインで」
「でも、やることって校正とかでしょ? 誤字とか見つける。細かそう」
「そやで。内容に関して、ここはこうした方がええですよ、ぐらいのことは作者に注文つけとった」
「それがなんでまた、こっちでお坊さんの修行を?」
「いろいろあったんや。三〇過ぎて転職しとうなった」
「もしかしたら、私とあんたは東京時代にどこかですれ違ってたかもね」
「その可能性はあるな。じゃあ、今日はみんなが繋がった縁に乾杯や!」
 隣のコウタは、別のホステス目当てのようで、何やら熱心に話し込んでいた。
 話がはずんで、午後一一時を回った。明日も朝から仕事やからそろそろ帰ろうかとコウタに相談し、村口は割り勘で勘定を払った。
「また来てくださいね」
 ドアを開け、ナオミが愛敬を振りまき、村口らを見送ってくれた。

第二話

 スナックの帰りに、太融寺町を通りがかった。偶然、向こうのラブホテルに杏子と道昭和尚が入るのを目撃してしまった。激しく嫉妬心が芽生えたときには、指はすでに反応し、五メートル先の二人の顔をスマートフォンでズームして、写メを何枚か撮っていた。
 二、三日して、杏子が総持寺に姿を見せた。閉門の三〇分前のことだった。暑さの残る夕方でもきっちりとメイクをし、清楚な印象は前と変わらない。髪を後ろで編み込み、ヘアクリップで留めていた。
 はやる気持ちを抑えて、村口は杏子に手を振って近づいた。
「久しぶりね」
 杏子は、あどけなくて気を持たせるような笑みを浮かべた。
「この前、ナオミの店で飲んだで」
「ナオミと会ったんだ。彼女、ワタシのこと、なんか言ってた?」
「ああ、ちょっとな。おまえも思い切りのええ女やな。東京から関西に移り住むなんて」
「そうかもしれない。ところで、どうかしたの? ワタシに気がありそうな顔をして」
 村口は本心を見抜かれ、少しだけおどおどしたものの、すぐに気を取り直して、
「よう分かっとんな。たしかにオレはおまえのことが好きになった。でもひとつ気になることがある」
「なによ?」
「ドウショウ和尚とおまえはできとるんか」
「……なんで?」
「どっちなんや。できとんのか、できてへんのか」
 問い詰めると、杏子はうなだれた。肩を揺さぶり、嫌がる杏子の頬を打った。杏子はその場から逃げ出した。行く手を追った。杏子はすばしっこく逃げ回ったが、途中で転倒したので村口は追いついた。
 杏子を境内の土塀に追い詰め、「壁ドン」をした。嫌がっている杏子の荒い息遣いが、男の本能をいっそう波立たせた。村口はスマートフォンの写真を見せ、強請った。
「この写真をネットに上げてもええのんか」
「やめてよ、そんな卑怯なこと。秘密にして。お願いだから」
「じゃあ、なんでもオレの言うこと、きくか」
「仕方ないわ」
「オレと付き合え」
「一度だけよ」
 その晩、村口はラブホテルで杏子を抱いた。杏子は、和尚様とも約束しているから、と二時間後にホテルを出ていった。
 杏子は、口では村口を一度しか受け入れないような言い方をしたが、それからというもの、村口の求めに応じて頻繁に愛を確かめるようになった。まるで、年のいった道昭和尚では埋められない若さとエネルギーを貪りつくすかのように。本当のところ、村口はみずから杏子に愛を告白し、交際を認めてもらいたかった。あんな狡猾な手段に訴えたくなかった。けれど、男女の関係になれたのは、いずれにせよ思い描いたとおりだった。
 杏子の髪は胸が隠れる長さで、栗色をしていた。きれいな髪やな、と褒めたら、「いちおうモデルだからね。ケアしてるもん」と髪を自慢げに撫でてみせた。色白なので、着る服は薄い色が似合っていると思った。スタイリストには、ベージュやサーモンピン蜘蛛スグリーン、ターコイズが似合うわね、と言われたらしかった。けしてその色しか身に着けないわけではなく、緋色のロングスカートにストライプのシャツを合わせて黒のかばんを肩から下げることもあれば、白のパンツに黒のノースリーブを着ていることもあった。
 杏子は村口の身に着ける服にも注文をつけてきたが、どうせ寺では毎日常衣に着替えるのだからと、洗い晒しのティーシャツ姿で電車に乗っていた。
 天は二物を与えないもので、杏子は外見こそきれいだが整理ができないのか、彼女の部屋は、下着は脱ぎ散らかしっぱなし、飲み終わったペットボトルや菓子の袋は机の上や床に散乱しているありさまだった。
「部屋はたしかに少し散らかってるけど、アルバイト先ではちゃんとミスなく仕事できてたよ。いまのマッサージのお店もね」
 彼女は全く意に介していなかった。
「オレのいた出版社でも、仕事はそこそこできるのに、やたらと机が汚らしい女がいたなあ」
 村口は内心苦笑いしていた。そういう女は感覚で物事を把握するのにたけていた。山のように積まれた書類が右や左に散らばっているのに、上司からあれを持ってきてくれと頼まれたら、さささっと〝山〟の中から必要な書類を抜きだすのだった。あたかも宝探しを楽しんでいるように。
 アプローチの順番は逆転していたが、杏子と付き合うようになって、彼女の考え方や性格、態度を知り、少しずつ理解を示した。
 杏子は相手の年齢や職業に頓着しない女で、自分を求める男に対して素直に体を開いた。父親を早くに亡くした彼女は、父性への飢えを満たすと同時に、相手からの愛情をいつも確かめていた。その証拠に、接吻してから必ず、「愛しているよね?」とお決まりの誓いを求めた。杏子は東京の神田に生まれた。父を八歳のときに亡くし、高校に上がるとアルバイトをして家計を助けた。そのときの一つが今もつづけているモデルの仕事だ。村口にそう語った。
 ある晩、飲んでいて終電に間に合いそうもなく、杏子にラインで、「寄ってもええか」と連絡を入れ、「いいわよ」と返ってきて、杏子の自宅の最寄り駅で下車した。杏子は嫌な顔ひとつせず、部屋に入れてくれた。マッサージのアルバイトで疲れていたにもかかわらず、
「なにか飲む?」
 と気を遣ってくれた。村口は、
「なんでもええで」
 と応じた。杏子は冷蔵庫からサイダーのペットボトルを取り出してコップを二つ出し、注いで持ってきてくれた。ほろ酔い気分の村口は、杏子が大阪に来た本当の理由を訊ねてみた。彼女自身の口から説明を聞きたかった。
 東京で仲のよかった、関西出身の友人が地元に戻って就職したので、思い切って生まれ育った東京を離れ、大阪に来た。言葉こそ関東弁が抜けないが、関西の、自由で面白くディープな世界が自分の性に合っている。いまは写真のモデルとマッサージの仕事で食べていける。彼女はそう言って、フフと笑った。村口は、仲の良い友人とはこの前のナオミやな、とひとりほくそ笑んだ。
「ほんまは、ドウショウ和尚の小遣いもかなりあてにしてるやろ」
 村口が探りを入れると、
「お坊さんて、とくに女の人に優しくするらしいわ」
 杏子は悟ったように部屋の机に頬杖をついて、小さな溜息をついた。
「ドウショウ和尚が言うとったで。『キョウちゃんは仏よりも慈悲深く、罪深い』って」
「本当に?」
「うそに決まってるやん。和尚様はなんも言いはらへん」
「タカさんはワタシのことどう思ってるの?」
「オレは杏子を仏の使者や思て愛しとるで」
「仏の使者?」
「なんかおかしいか」
「だって、ワタシは使者なんかじゃないよ。ただの女よ」
「そうか。ところで和尚様とはどこで知り合うてん?」
「たまたまなの。ドウショウ和尚がワタシの働いているマッサージのお店に来てから常連になったのよ」
「体のどっかがこってたんか、和尚様は」
「座る時間が長いから、足腰にくるらしいの」
「最近の法要は椅子を用意するところも多いけどな」
「知らないわ。本人がそう言うんだもん」
「オレも腰がこってんねん。ちょっと揉んでくれ」
「いいわよ。その代わり、こんど食事をご馳走してよ」
「わかった。なにがええか考えといてくれ」
 杏子は村口をうつ伏せにして、腰を揉み始めた。村口はマッサージを受けているあいだに、だんだん気持ちよくなってきた。疲れからか瞼が重くなり、寝入った。
 目を覚ますと下着が脱ぎ捨ててあり、シャワーを浴びる音がした。
 杏子がバスルームから出てくるまでテレビをつけて待っていた。しばらくして、バスルームからティーシャツにホットパンツの出で立ちで杏子が顔を見せ、床に落ちている下着を拾い集めて洗濯かごに放り込んだ。
「そろそろ、帰るわ」
「あら、珍しい。きょうは手を出してこないのね」
「そんなふうに人を性欲の塊みたいに決めつけるなや。朝も早いし、帰るときだってあるわい」
「別にワタシの部屋に泊まっていってもいいのよ。なにもないけど」
「ありがとう。でもその好意はこんどにとっておくわ」
 杏子の申し出を断り、起き上がってかばんを取ると、そのまま玄関へ向かった。
「じゃあ、また」
 靴を履いて片手をあげ、杏子の家を去った。暑い空気がねっとりと肌を包んだ。
 駅に着いて電車を待つあいだ、自分は本当に僧になれるのかと胸に手を当てまた考えてみた。僧になるためにすることはすでに調べていた。結婚するのを先のばしすれば、貯金の大半を仏教系の大学や養成講座の学費に回し、科目を履修すればよかった。問題はそうしたステップではなく、僧として布教に励もうとする資質がちゃんと備わっているか、身についたかということだった。最初に道昭和尚に言われたように、悩める人の多いこの世の中、信仰に人を導こうと強く思うこと。その精神的エネルギーがないと、どんなに貧しくとも裕福になろうとも、僧侶としての長い人生において、信仰の道を外れてしまうのではないか。挫折したり、頓挫して歩めなくなったりするのではないのか。
 いや、と思った。逆に、その資質が不充分だから、こうして毎日寺に通って、前段階の「修行のための修行」のようなものを行っているのかもしれない。車内を見回すと、悩みを抱えていそうなくたびれた顔もあれば、そんなもんあらへんでと言わんばかりの、のほほんとした顔もある。時代が変わっても、世の中がどんなに進歩して移ろっても、人の心を救うものは人でしかないのだと強く思った。
 村口は、自分が破戒僧なのか、破戒僧ではないのか、自分でもよくわからなかった。戒律を破っているのには違いなかった。が、戒律を守るだけで己が成長するとはとうてい思えなかった。ただ、一人の女を愛することで自分が救われないと、世の中の人々を救おうとする気概もわいてこないのだとみずからに言い聞かせた。
 村口が総持寺に通い出して、道昭和尚はますます寺を空けるようになった。寺の雑事を任せてもよいと信頼されている証拠だった。掃除やお遣い、檀家さんの応対などをこなしたが、時間はたっぷりあり余った。そんなときは、本堂で胡坐をかいて経を唱え、練習してみるのだった。息をするのも苦しくなりそうな空気は寺の中にまで入り込んだが、庇と屋根が影を作る分、寺の中はまだましな方だった。
 真言宗の会合が総持寺で開かれたとき、村口も見習い僧として参加し、道昭和尚はこう述べた。
「昔のように寺が地域の中心地となり、行政や困ったことの相談所、文字通り駆け込み寺のように使われる。それにより地域の人々と絆を深めることで人々から厚く信頼される。そういう拠点になってほしいと願っております」
 その後も、総持寺の最近の活動報告などを例にとり、道昭和尚の話は途切れることなく長々とつづいた。さながら、道昭和尚の記念講演会のような様相であった。
 あとでわかったのだが、総持寺の寺としての格式は中ぐらいであった。真言宗の団体の役員になるには格式が不足していたが、大勢の重鎮の僧侶の前で説法をするのを免除されるから、と道昭和尚は胸を撫でおろしていた。村口は、どこの世界でも一緒なんやと痛感した。
 会合が終わると、別会場に移動し、酒席が設けられるのが習わしだった。その場には派遣のコンパニオンが同席し、杏子も呼ばれて同じ扱いを受けていた。肩に手を回す僧侶もいれば、なれなれしく手を握る僧侶もいた。
 村口に体を許して以来、杏子は肌艶がますますきれいになったように映った。村口は色欲に溺れ杏子を好きなだけ愛した。彼女のしなやかな体は、ゆらめく蜃気楼のようであり、本堂に幾つも灯されて微風に揺れる蝋燭の炎のようでもあった。なまめかしく胴体をくねらせるその存在は、色欲を持たない限りは幻となり、火の消えた蝋燭であった。しかし、行為に及ぶときは必ず、杏子の見慣れた顔が歪んで目を閉じた仏の顔とすり替わり、煩悩を払え、と唱えるのだった。
 村口は次第に、乱れていく私生活と仏に仕える心のはざまで、悩みを抱えるようになった。たとえ修行の身であれ、恋をしてひとに傷つくのは当たり前だった。だが、総持寺に通い、本尊の前に座って心を落ち着けても、煩悩のたぐいは減るどころかいっこうに捨てられなかった。ふだん杏子と関係を持ち、ときどきコウタらと酒を飲むという破戒を仏に許してもらうために、本堂で正座をして経を読んでいるという逆の解釈も成り立つはずだと思った。
 村口は、タブーを一度も犯さない僧侶などいないと考えた。どんな人間も程度の差はあるけれど煩悩につきまとわれて生きている。御仏の前で私欲にまみれて汚れた心を浄化してもらうために死者を弔い、仏への信仰を深める行事に参加する。そういう仮説を立てた。その仮説をいま実践しているのだと思えば、悩みはなくならないにしても気持ちが軽くなった。
 道昭和尚の方から珍しく声を掛けられたのは、九月初旬の昼過ぎだった。
「ムラグチくん、夜、空いとるか」
「空いてます」
「今晩、ワシについてこい」
「なんの用事でしょうか」
「仲間内の酒宴や。車の運転はできるんやろな」
「はい、ふつうに」
「ワシは飲むよってに、帰りにワシの車の運転をたのんだで」
 その晩、道昭和尚所有のBMWで難波まで出た。
 個室の居酒屋に入り、八時半ごろから飲みだして、一一時を回るまで和尚らは飲みつづけた。そのあいだ、村口は料理にこそ箸をつけたものの、口にした飲み物はウーロン茶やコーラだけだった。帰りに運転を任されている身なので我慢するしかしょうがなかった。
 酔うことを許されずにときどき相槌を打ちながら、半袖のポロシャツを着た赤ら顔の僧侶らの世間話(これはふだん一般のひとがお坊さんに抱いているイメージからかけ離れている俗っぽいことなので詳しく書けないが)に耳を傾けていた。話の内容も、どこそこの檀家はどうのこうのといった、ありきたりの噂話や、その場に居合わせない、偉い僧侶の昔の失態や悪口などの、ふつうのひとでもするものばかりだった。トイレに立った道昭和尚は、用を足して戻ってくると、
「そろそろ店を出るさかい、駐車場に停めたBMWを店の前に回してくれ」
 と額に汗を光らせ、デニムのジーンズから取り出した車のキーを手渡した。
 村口は、まだまだ厳しい残暑の晩にエアコンの切れたBMWに乗り込み、キーを挿して車内の冷房をつけ、BMWを居酒屋の前に停車させた。
 酒臭くて加齢臭もある道昭和尚が隣に座るのはできることならかんべんしてくれと願った。幸いなことに、和尚は知合いの僧をひとり加えて、二人で後部座席に乗り込んだ。
 しばらく二人はごちゃごちゃと雑談をしていたが、酔っていても頭はしゃんとしている様子の道昭和尚は、退屈しのぎか、難しい話を村口にふってきた。
「ムラグチくん。真言宗は悟りの境地に達するとなにになるんじゃったか」
 基本的なことを試してきたと身構え、村口はすかさず、
「即身成仏になります」
「それを最初に説いたんは誰や」道昭和尚は畳みかけた。
「弘法大師こと空海です」間髪入れずに村口も応戦する。
「いろは歌は空海が作ったとされるが、その根拠は?」
「最初が〝イ〟で始まり、最後の句の始まりが〝ヱ〟、終わりが〝ス〟の文字で、続けると『イエス』を意味するのと、七文字ずつ読んだ末尾が、『とがなくてしす(咎無くて死す)』と読める暗号文になっていることから、キリスト教の影響が見られる点です」
「よう勉強したな。衆生救済てな言葉を耳にしたじゃろうが、悟りを得る努力はいかほどに積んだんじゃ?」
 急に本質的な質問を浴びせられ、村口は返答に窮してしばらく黙り込んだ。
「努力はしておりますが、まだまだ足りておりません」
「素直でよろしい。今後も精進をつづけなさい」
 隣でやり取りを聞いていた知合いの僧は、がんばりや、とひと声かけて吹田市内の佐井寺で下車した。
 佐井寺を経由したので、行きは四〇分ほどで難波に着いたのが、帰りの車は一時間ほどかかった。
 午前零時を回り、茨木市の閑静な住宅地にある総持寺は、ひっそりと静まり返っていた。
 駐車場にBMWを置いて、道昭和尚が石段を踏み外さないように足元に注意を向けながら、いっしょに境内へ向かった。道昭和尚はすたすたと歩きなれた石段を軽い足取りで上がり、庫裏に入っていった。村口もそのあとにつづいた。
「終電はあるのか」
 道昭和尚は訊ねた。村口は、
「茨木市内のネットカフェに泊まります」
 と答えた。ときどき使っていた駅前のネットカフェは、総持寺から歩いてもせいぜい二〇分くらいだった。
「小遣いをやろう。取っておきなさい」
 渋ちんの和尚にしては、またも珍しく野口英世を一枚ひらひらさせながら村口に渡した。そこのネットカフェの深夜料金の六時間分には満たない額だったが、腹でも減ったら、うどんかカレーでも食う足しにしようと思った。
「ドウショウ和尚、ありがとうございます」
 拝むようにして金を受け取り、礼を言った。つづけて、今夜は遅いのでこれにて失礼します、と帰る旨を告げ、てくてくと夜の茨木市内をスマートフォン片手に歩いた。液晶パネルの光る画面の明るさが、人気のない心細さを勇気づけてくれた。
 駅前のネットカフェに辿り着き、受付で会員証を提示した。若い女の店員は、
「一名様ですね」
 と愛想よく笑い、
「席の指定はどうなさいますか」
 と訊ねた。
「個室のリクライニングでお願いします」
「了承しました。当店では、前払いか後払いを選べるシステムになっております」
「六時間パックの前払いで」
「では、フード料金等が発生した場合は、受付でご精算ください。個室は一九番となります。ごゆっくり」
 19と書かれた個室の鍵を回し、中へ入った。いちおう深夜だし、インターネットやゲームをして過ごすつもりはなく、寝られさえすればよかった。
 スマートフォンを充電しながら、杏子にラインをした。
「こんばんは」メッセージを送ってみた。しばらくして、
「どうしたの」ときたから、
「ネットカフェで一夜を明かす」
「どんな部屋?」
「個室のリクライニングのある部屋」と打ち込み、写真を撮って送った。
「ペアの席にすればワタシも行けたのに(笑)」
 と返ってきて、気持ちが和んだ。
「いくらぐらいするの?」
「一晩で二千円弱。フードとか含めんと」
「安い。ネットし放題なんでしょ?」
「まあね。ドリンクバー付きで飲み物タダ。コミックや映画は見放題」
「コンビニで買ったものは?」
「それも持ち込み自由」
「使ったことないけど便利そう」
「受付で会員登録さえ済ませたらあとは自由。よう利用する人にはパラダイスかも」
「眠れるの?」
「正直、かなりつらい。人にもよるけど」
「お坊さんの修行中なんだから、煩悩を捨てて寝るのに集中しなきゃ」
「個室いうても隣の音漏れとかあんねん」
「そうなんだ」
「寺に泊まれたらそれに越したことはないねんけどな」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 杏子から寝るのに集中しろと言われたが、せっかく目の前にあるアメニティを使ってみたくなった。パソコンを起動してインターネットにアクセスし、この夏の最近のニュース記事を読んだ。夏の甲子園で大旋風を起こした「金足農業フィーバー」の後日談や、大阪で起きた「脱走容疑者の逃走経路」などをチェックした。ややためらったものの、アダルト画像にも見入った。
 少し汗をかいたので受付に行って店員に声を掛け、シャワールームで服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
 服を着て19番の個室に戻った。リクライニングの椅子で寝ようとして、朝早いのを思い出し、スマートフォンのタイマーを五時二〇分にセットした。
 翌朝、タイマーで目覚めた。トイレでひげを剃り、精算なしで店を出た。夜明けの太陽が空をオレンジ色に染めだしたころ、総持寺に着いた。裏口から入り、山門を開け、いつものように境内の掃き掃除から始めた。
 掃き掃除を終えて庫裏で休憩し、朝飯の菓子パンとミネラルウォーターを飲食した。
 雅美さんは、道昭和尚や旦那の光春さん、娘の陽菜乃ちゃんの朝ごはん作りと陽菜乃ちゃんを幼稚園へ送り届ける準備で忙しそうだった。
 休憩を終え、建物の床を雑巾がけしていると、いつものように道昭和尚の朝の読経の声が聞こえてきた。
 庫裏の壁にかけられたホワイトボードには、道昭和尚の予定が、黒や赤、青のマーカーで色分けして書き込まれてある。今日は、「里倉H」と書かれてあった。〝H〟は法要を略している。通夜は〝T〟、葬儀は〝S〟だ。事務の主な部分は雅美さん担当で、寺の帳簿も彼女がつけていた。これは法人か個人のものかなど、ときどき税理士に電話で訊いていて、素人には面倒そうな作業だった。
 最近になってわかったのだが、たまに「AH」と書いてあり、それは法要でなく東杏子との「H」を意味しているらしい。このへんを見ても、道昭和尚はメモ帳などで個人の用事を管理せず、いっさいがっさいを雅美さんに託してホワイドボードに記してもらい、公私混同しながら、とにかくなるべく予定が重ならないよう気を付けていた。
 季節が進んで少し涼しくなった九月半ば、総持寺の帰りに杏子をマッサージ店に迎えにいった。外で杏子の出てくるのを待った。霧雨が降り、肩口を濃く染め上げた。その晩、寺の中庭に咲いていたコスモスとリンドウ、夾竹桃の花を摘んで花束にして持っていった。花弁や葉は雨粒をはじき、その表面に水玉をいくつも作った。
 閉店時間の九時から一時間後に杏子が表へ出てきた。
「プレゼントや」
「あら、素敵な花ね」
「寺で摘んできた」
 二人は電車に揺られながら花束に目を向けた。
 やがて杏子の自宅に着いた。
 杏子はガラスの大きめのコップを用意して、嬉しそうに花々を活けた。
「どこに飾ったらいいかしら」
「机の上はどないや」
「倒れそうだし、窓際に飾ることにするわ」
「せっかくやから、ついでに部屋を片づけたらどうや」
「手伝ってくれるの? それならやる」
「わかった。さすが、しっかり者やな」
「じゃあ、服以外をお願いするわ」
「はいはい。散らばっとるゴミ捨てたるわ」
 その晩だけ、杏子の部屋は小ざっぱりとした。
「こんなにきれいになったのって、いつ以来かしら。花もあるし」
「せっかくやから、二人で写真でも撮らへんか」
「いい考えね」
 互いのスマートフォンを出して、二人の仲良く並んでいる姿を写真に撮った。これからもなにかの記念日になったらいっぱい写真を撮って思い出に残そう、と約束した。
 互いに立ったまましばらく無言で顔を見つめ合っていたら、自然に距離が近づき、唇と唇が触れ合った。灯りを消して抱き合い、衣擦れの音がそっと室内に響いた。杏子がかつて夢の中で仏に変身したように、いま暗がりで目にしている杏子が、仏の分身のように思えてしょうがなかった。仏の心を理解しようと努めれば努めるほど、杏子が口を開いて、「ありがたい説法」や「難解な公案」を説いてくれそうな気がした。しかし、現実には杏子は仏でなく、仏との繋がりもなかった。ただ、道昭和尚と深い仲になっているのは、証拠の写真を撮る以前からうすうす気づいていた。
 男女の行為が終わってから、さまざまな感情が村口の頭をよぎった。そもそも和尚様が古刹へ行けと命じたのは、杏子という和尚様の愛人を見ておけという意味合いがあったのかとも勘繰った。
 和尚様の愛人と行為を持ったことへの贖罪として、村口は風俗店へ通った。相手は誰でもよかった。適当な女と同等の行為に及んだ。女は名をマミと名乗った。大学時代に見かけたような顔の女だった。
 村口は水彩画を描く趣味があった。彼の頭の中では、杏子はまっさらで画材のような存在だった。真っ白のカンバス、真っ白のパレットを汚したので、さらに上から色を加えて元の色を消す作業だと自分を言いくるめた。純愛を背徳で消し去ろうとした。いや、そもそも他人の女に手を出す純愛なんて、背徳そのものやないかとみずから呆れた。
 ふだんは快活で悩みなどなさそうに見えたが、杏子はなにかを抱えていた。あるとき、彼女の態度に明瞭な変化が現れた。
 寺に休みはないので毎日通うが、杏子の休みの日にたまたま長時間の休憩が取れた。許しを得て総持寺を出て、火曜の昼二時頃にカフェで待ち合わせをしたときだった。
「悪いな。こんな時間に呼び出して」
「いいのよ。お勤めが大事でしょ? 理解してるわ」
「なに頼む?」
「同じのでいいわ」
「じゃあコーラフロートにするで」
「それでいい」
 なにを話そうかと思っていたら杏子の方から、
「どうしてワタシを好きになったの?」
 と訊ねられた。
「好きになるのに理由なんてあらへん」
「でもさ。よりによってドウショウ和尚と恋人同士と知ってて告白したじゃない」
「オレは横取りしようなんて考えてへんで。杏子の好きなように決めればええ」
「相変わらず優しいのね。ある意味、優柔不断かも」
「優柔不断かな」
「そうよ。和尚様もタカさんも優しいのよ。ワタシには優しい人が群がるの」
「男は共通して、特定のマドンナに惹かれることもあるんや」
「ワタシ、ずる賢い女よ。男を手玉にとって、いいように使い分けてるの」
「ずるいことあれへん。好きな人がたまたま複数いるだけや」
「もしワタシがタカさんに冷たくしたら、それでもワタシを追いかけるの?」
「もちろんや。冷淡やからって、オレの情熱は冷めへん。それより、同じ寺で働く師弟と三角関係なんて嫌やあれへんか」
「なにをいまさら。ワタシは気にしてないわよ」
「オレは杏子のことを心から考えとる。杏子の幸せのためならなんでもするで」
「また優しく紳士ぶるのね。そういう人って困るのよ」
「なんでや」
 村口の問いかけに杏子は答えたくないのか、口を閉ざし、横を向いた。
「杏子、どないした?」
「なんでもないわ」
「なんかあるやろ」
「うるさいなあ。ちょっと黙ってて」
 杏子は会話を拒絶して、うつむいた。女性特有の機嫌の悪さか、なにかがしゃくにさわったのか。とにかく、無言のときをじっと待った。コーラフロートを半分ほど飲んだとき、最後に彼女は言った。
「ごめんね。なんでもないから」
 杏子は髪を肩の後ろになびかせ、席をたち、店を出ようとした。村口はあわてて会計を済ませ、あとを追った。杏子は、バイバイと振り向いて明るく笑い、走り去っていった。村口は呆然とその場に立ち尽くし、後ろ姿を見送るしかなかった。
 それ以来、会うたびに黙りこむので回数を数えてみたら、この二週間でほぼ毎回黙り込んでいた。
 その日以来、杏子の沈黙が気になってしょうがなかった。村口は、このままでは埒が明かないので、どうにかしてその正体を突き止めようとした。
 親友のコウタに電話を掛けて相談した。
「好きな女とデートして急に黙りこむときって、なにがあんねやろか」
「好きな女って、例の坊さんと三角関係の女か」
「そやねん。なんぞええ知恵ないか」
「以心伝心で、言えんことを汲み取ってほしいんかもな。彼女の様子をよく観察してみたか」
「いろいろ手は尽くしてんで」
「きっとなにかのサインやねんて。そや。口で言えんことなら、手紙を書くっちゅうのはどや? ちょっと古風やけど」
「それや! ありがとう。ええアイデアや」
 コウタのアドバイスに後押しされ、村口は手紙を書き、杏子が総持寺を訪ねてきたときに手紙を渡した。
「オレのいまの気持ちを率直に書いた。手紙で返事をほしい。頼むわ」
 数日後、杏子は予想を越える長い手紙を寄越した。総持寺の郵便受けに投函してあった。

 タカさんへ。
 お手紙ありがとう。読みました。タカさんのワタシに対する思いがひしひしと伝わってきてとても嬉しかったです。
 ワタシは生まれてこのかた、いまほどしあわせなときはないと思って毎日を過ごしてます。和尚様とのお付き合いを断ちきるつもりはなく、かといってタカさんの献身的な愛を裏切るつもりもありません。どちらが好きか、どちらを大切にしたいかと問われても、それぞれによさがあり、どちらも好きで、大切なひとです。
 ワタシの好きな言葉は一期一会です。どんなひととの出会いにおいても、一度きりの大切な時間と経験を共有し、誠意を尽くして行動する。その積み重ねがワタシの人生の大きな部分をしめていると思ってます。
 世間から見れば、自由気ままな女に見えるかもしれませんが、道昭和尚と作り上げた数々の思い出は、一本の樹の葉が紅葉するように、赤く色づいてます。タカさんと過ごした思い出は、一本の草花が成長し、青くきれいな一輪の花を咲かせてます。ワタシはそのどちらも美しいと思って眺めてます。
 道昭和尚はワタシにたくさんの希望の光をくれ、タカさんはあふれんばかりの生命の水をくれます。光も水も、ワタシにとって生きていく上で欠かせないものなのです。ワタシは空を舞う蝶のように、紅葉と戯れ、青い花の蜜を吸いにいきます。
 どうかこんなワタシを束縛することなく、自由に生きさせてください。いまの三人の距離がいちばん安定するのです。むやみに近づいたり、離れていったりしないでほしいというのがワタシの願いです。
 最後まで読んでくれて本当にありがとう。ワタシはいつも、いつまでも二人に見守られて生きたいです。
                                                            杏子

 村口は寺で受け取った手紙を家に帰るまで見なかった。社務を終えて帰宅してからゆっくり手紙に目を通した。手紙を読み終えて天井を見上げ、ため息を漏らした。
 三角関係を肯定し、いまの三人の距離がいちばんいい、か。そう書かれると、三人それぞれが都合のいいように互いを利用していて、ある種の共生状態のようでもあった。
 村口は、互いの領域を保ったままで三つの部分がそれぞれに影響をおよぼしながら関係を崩さないでいるのが、奇跡のバランスのように思えた。道昭和尚を越えることは不可能だし、杏子を和尚様から引きはがすことも無理だった。
 三角関係になるべくしてなり、そこから進むことも退くこともできない状態を、村口は蜘蛛の巣にかかった獲物のようになぞらえた。言ってみれば、杏子が女郎蜘蛛やろなと思った。手紙では蝶のようにと書いてあったが、それは自分を美化したい願望であり、実態は、和尚様を捕獲し、丈夫な糸で村口までもからめとった蜘蛛かもしれなかった。
 十月に入り、発達した台風が日本列島を強風域に巻き込み、昼から夕方にかけてものすごい嵐が吹き荒れた。総持寺は強風に見舞われ、境内は木がしなり、燈籠が倒れそうなほどだった。
 大きな事件が起きたのは、台風の去った翌日だった。
 道昭和尚と村口との三角関係に終止符をうとうとして、杏子が自殺未遂を起こした。あれほど三人の距離感を保っていたいと願った杏子本人が、周囲を悲しませるような行動に出た。
 朝一一時にナオミから連絡が入った。杏子が部屋で倒れていた、と。村口はすぐに杏子の運ばれた病院に駆けつけた。
 病室のベッドの脇にナオミが泣き崩れていた。ナオミは泣きじゃくりながら、たどたどしい口調で起きたことを話し出した。二人で会う約束をしたのに時間を過ぎても杏子は現れなかった。なんべんもラインで連絡したのに「既読」にならず、嫌な気がして自宅を訪ねたらしい。
「扉が開いてて、酸いいにおいが立ち込めとったん。杏子が服を着たままで仰向けに畳に倒れてて。近くに大量の薬の壜が転がっとった。吐いた汚物が畳を汚して、私、すぐに病院に電話して……。こんなことになるやなんて」
 ナオミはみずからの目で見たことを、目を真っ赤に腫らしながら大声で訴えた。
 別室に呼ばれ、担当の医師から説明を受けた。
「患者さんは薬物を一気に大量に飲む途中で吐いてしまい、気分が悪くなって倒れたようですね。意識はしっかりあります。しばらく安静にしてあげてください」
 村口は青ざめた顔で病室のベッドに戻り、杏子を眺めた。目を閉じて静かに眠っている。折れてしまいそうなほど痩せ細り、ガラス細工でできた別人のように見えた。
 その日は社務を休み、ナオミと交替でベッドに付き添って杏子の回復を待った。
 晩になって目を覚ました杏子は、ベッドに寝ていることですべてを悟った様子だった。
「ごめんなさい。ワタシ、やっぱり意地を張ってたみたい」
 虫の鳴くようなか細い声で言葉を絞り出した。
「もうええねん。あとはドウショウ和尚に任せておけばええって」
 村口は慰めながら、ひとつの決意をもった。
 電話で和尚様に杏子の状態を報告してから、悲嘆にくれた。自殺未遂を起こした杏子は、表情こそ明るく見えたものの、心の中では手紙にも書けないようなアンビバレントな葛藤に見舞われ、光と闇が激しく火花を散らして戦っていたにちがいない。
 爾来、村口は彼女の心のSOSを受け止めてやれなかったと自己を責めつづけた。杏子の気持ちをはっきりさせようと手紙を書き、彼女のこだわりを持たない性分を認知させ、崖っぷちから突き飛ばすように追い込んだ自分を、八つ裂きにして殺してやりたかった。杏子の生きたいようにふわふわと泳がせていたら。一人の男では満たせない複雑で曖昧な底なし沼にもっと浸からせていれば。そうしていたら彼女は死を選ばなくても済んだのだ。村口の鈍感さが、杏子を死の一歩手前に追いやってしまったのかもしれない。仏につかえて修行を積んでいたのに、恋人すら救えなかった。自我を否定し、仏を恨んだ。
 道昭和尚は、社務に戻った村口に、
「辛いじゃろ。ワシも辛い。無念じゃ。こんなときこそ仏に祈るんじゃ」
 と声を掛けた。さすがの和尚様も憔悴していて、読経する声にいつもの張りがなかった。
 雅美さんが、和尚もかなり気を落としているのよ、とポツリと漏らした。それまで道昭和尚は独身を貫いている理由を自分からは明かさなかったが、数年前に妻を病気で亡くしていたのをそのとき雅美さんから知らされた。雅美さんは若い女を囲う和尚様を黙認していたのだと気づいた。
 村口は、道昭和尚の気持ちを考えてみたことはあったのかと自分に問うた。妻に先立たれて以来、再婚する道を選ばず、杏子という若い女に心のやり場のなさを埋めてもらい、生きるよすがとしていたのかもしれない。道昭和尚は何も語らなかったが、黒い僧衣の大きくて広い背中に、男の責任と決断の二文字が透けて見える気がした。
 もし藤見くんがこの場にいたとしたら、なんと声を掛けるだろうか。ムラグチ、自分で悩みを抱え込むな。人に話してから冷静になって考えろ。まずは悩みを吐きだせ、と助言したに違いない。サッカーでもボールを持ち敵に囲まれたら、味方にパスを出していったんフリーになる。そうだ、コウタに相談してみよう。村口は彼の仕事の終わるのを待って、飲みに誘った。
「そうか。相手はそこまで思い詰めとったか」
「そうなんや。オレ、どないしたら……」
「進むべき道は見えとるやろ。決意がぐらついとるなら、滝にでも打たれてこい」
 コウタはびしっと言い放った。
 自殺未遂の事件から三日後、道昭和尚の許しを得て、村口は心の乱れを直そうとして近くの滝で打たれた。滝行を終えて、すぐに総持寺に戻り、道昭和尚に謝った。
「ドウショウ和尚の辛い心を知らず、こんな結果を招いてしまいすみませんでした」
「もうよい」
 短い返答でますます村口の決意は固まった。
 昼になった。冷たい雨の降る中、道昭和尚から呼ばれた。どっしりと構えていた和尚は、
「なにか言いたいことがあるんじゃろ」決意を見抜かれていた。
「もう修行は無理です」
 村口は覚悟を決めて本音を漏らした。道昭和尚は、
「ムラグチくんには家業がある。無理せんでええ」
 と励ました。
 道昭和尚は裏庭に回り、ついてきた村口の横顔をちらりと見て、庭を顎で示して言った。
「おまえは片生じゃ。台風で落ちた裏庭の未熟な青い柿と同じこと。世間で揉まれ、もっと経験を積むのじゃ」
 とうとう村口は仏門入りを断念した。結局、新しい世界は道半ばであきらめた。
 四日後、杏子は体調を取り戻し、退院したと道昭和尚から電話で聞いた。
 退院して以来、村口は、総持寺はもちろんのこと、杏子の勤めるマッサージ店や彼女の自宅にも姿を見せなかった。道昭和尚に、杏子のことをこれからも頼みます、私は杏子を不幸にしたくないのできっぱりと手を引きます、と電話で告げた。
 村口の心にはわだかまりがあった。総持寺で修行する僧の道を断念した以上、杏子とまだ関わりを持つのは潔くないと考えた。だいいち、杏子は自分をとことん追い詰めて死を選んでしまうほどに悩んでいたのだ。それが会話中の沈黙というサインだったのに、最後まで彼女の心の深い部分に触れられなかったのにはたいそう心を痛めた。
 辛い結末となったものの、ひととしてひとを知る以上、傷つけることもあれば、傷つけられることもある。電話口で最後に道昭和尚の口から出たその言葉が、じんと村口の胸に響いた。
 翌日、村口は善治の守ってきた酒屋を継ぎたい、と告げた。善治はゆっくりと首をたてに振り、顔をほころばせた。
 親戚の法要を営んだ道昭和尚に胸を打たれた善治が、息子に代わって仏門に入る、と言い出した。
 村口は唖然とした。
 父のいったん言い出したら聞かない性格を分かっていたから、好きなようにさせた。
 仏門を志してから三か月がたった。
 村口は慣れない手つきで寺の会合に酒を運ぶ機会もあった。酔っぱらう僧侶をたくさん目にした。頭を丸め修行している善治も、きっと道昭和尚や他の僧侶らとともに、楽しく酒を酌み交わしているだろうと想像した。道端に停めた配送用の軽トラックからビールケースを上げ下ろしすると、体中から汗が噴き出した。
 秋風が吹いて汗に濡れた背中を冷やした。村口は、もっと寛容に生きてもよかってんなとしみじみ思い、夕空を見上げた。鳥の群れが大きなカーブを描いて飛んでいった。
                                 〈了〉

片生(かたなり)

片生(かたなり)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-12

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著作権法内での利用のみを許可します。

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