梅干し

上司 幾太

梅干し

人の気持ちを汲み取るのは本当に難しい

 「う~すっぱい」梅干しを口に入れた私はそう一言呟いた。「ふふ、すっぱかった?」と妻が笑いながら言い、塩焼きにした、良い匂いのする鯖を私の前に置いてくれた。「朝の梅干しはやっぱり目が覚めるな~」「あなた、梅干しが大好きだものね」「ああ、梅干しだけでもご飯三杯は食べれるからな!」と言いながら、私は妻が焼いてくれた鯖に大根おろしを乗せて、醤油をかけた。私はいつもの朝の食卓の時間が大好きだった。大好きな梅干し、大好きな妻、大好きな朝の澄んだ空気そのどれもが好きだった。
 朝食を終え、スーツに着替える私に妻は言った。「今日ね、ご近所の奥さんに夕食に誘われてね、一緒に行くことになったの、だから、今日の夕食なんだけど・・・」と妻が少し申し訳なさそうに言うのを私は察して、妻の話に被せるように「ああ、構わないよ。俺は適当に外で食べてくるから、楽しんでおいでよ」とネクタイを締めながらさらっと言った。「ありがとう。ごめんね」と妻は小さく呟いた。「気にするなよ、君だってずっと家に居たら気が滅入っちゃうだろ、たまには羽を伸ばしておいでよ」と仕事用の手提げ鞄を持ちながら言った。「じゃあ、仕事行ってくるよ」と右手を軽く挙げて、左手でドアを開けながら私は玄関に向かった。「あなた」と妻が私を呼んだので「ん?」と振り返ると「お仕事頑張ってね」と笑いながら言った。その笑顔に私は少しだけ妻の中に寂しさを感じたような気がしたが、特に気に留めることもなく「ああ、行ってくるよ」とハニカムように笑って家を出た。
 出社して、いつもの部下、同僚、先輩、上司に挨拶をし、自分の机に着き、私は今日もいつものように仕事を始めた。お昼休みになり、同僚がお昼を一緒に食べようというので、近くのラーメン屋さんに入り、一緒に昼食をとることにした。「最近、専業主婦の奥さんが突然居なくなるってことが多いらしいですね」と同僚がスマートフォンの記事を見ながら私に話題を振ってきた。「へー、なんで?」「さぁ、ネットには夫婦関係の倦怠感によるものか?とか書いてますけど」奥さん大事にしてます?気をつけてくださいね」「うちは大丈夫だよ。うまくやってる」「今朝だって、急にご近所の奥さんと夕食を食べに行くって言われたけど、快く大丈夫だよって許したところだよ」「そういうのは、奥さんに愚痴を言ったり、束縛したり、嫌がらせしたりする旦那に多いんじゃないのか」「いや~、大丈夫って言うなら大丈夫なんですけどね」と同僚は顎を擦りながら言うと残りのラーメンのスープを飲み干した。「ごちそうさまでした。そろそろ行きますか!」と同僚と私は昼食を済ませるとそのまま会社へと戻って仕事の続きを始めた。このとき、同僚のこの話がずっと頭に残って離れなかったのは何故なのだろう。
 仕事は少し遅くなり、夜の九時ごろまでかかってしまった。「さすがに妻は家に帰ってる頃合いかな?」と思いながら家の玄関を開けると電気も点いてなく真っ暗だった。「まだ帰ってないのか」と呟きながら私は家の電気をつけて、着替えて、風呂に入った。疲れていたので、食事もろくに取らず、冷蔵庫の缶ビールだけ1本飲み、そのまま、ソファーで寝入ってしまった。
 朝になり、目を覚ますとテーブルの上にいつもの温かい朝食が置かれていた。テーブルの上にはいつもの梅干しが入った器があるよく見ると下に紙が挟まっていた。「何だろう?」と思って、二つ折りにされた紙を広げると妻の署名と印鑑が押されていた離婚届だった。私は状況が呑み込めなかった。私はテーブルに座り右手で口を覆いながら困惑していた。「一体なぜ?」「何がいけなかった?」ぶつぶつとひとりで呟きながら、脳裏に浮かぶのは最後の妻の寂しそうな笑顔だった。困惑しながら私は器の梅干しを一つ取り出し口に運んだ「しょっぱいな」と呟きそっと薬指の結婚指輪を外した。

梅干し

梅干し

  • 小説
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  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-11

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